SANYO DSC-SX150にて撮影

2003年 4月1日(火)

いつもの場所のいつもの桜。
去年と変わらない桜並木に見えるけど、でも去年と同じ花じゃない。
木も枝も生長して大きくなっている。
それを眺めて去年と同じような感想を抱いている私も、
変わらないようで変わっている。
桜の木のようにまっすぐで一方的な成長ではないけれど。

桜は本当に咲き始めると早い。
つい何日か前までまだ5分咲きだからそのうち見に行けばいいやと思ってたらもう満開だ。
後回しにしてると見頃を過ぎてしまいかねない。
週末なんて言ってないで、ここ数日のうちに見たいところの桜は見に行っておかないと。
また今年も特別なところへは行けそうにないけどそれでいいような気もしている。
なんというか、桜と死は見えない部分でつながっていて、
あそこの桜も見ておこうとかこっちもぜひ見ておかないといけないなどと思い立って見に行ってしまうと、
それが自分の死の予感のようなものに思えてしまうから。
突然古い友達を訪ねていったり、大事な人に手紙を書いたり、懐かしい場所を訪れてしまうのと同じように。
だから、そんなに差し迫っていろんなところの桜を強烈に見たいと思わないなら、あえて見に行かないでいい。
いつか、どうしても行きたいと思って見に行ってしまう年が来るだろうから、その時まで。

花を見て喜び、わざわざ遠くまで出掛け、桜の下でみんなが集まって酒を飲み、大騒ぎをする。
そんな日本人はちょっといいなと思う。
外国人から見たらばかばかしくて理解できないかもしれないけど、
日本人は馬鹿になれるところが偉いと私は思う。
この世の儚さを知るからこそ、生きてる間にこの世界を目一杯楽しもうと思い、そのためには馬鹿にもなれる。
桜があるから花見という習慣が生まれたわけじゃない。
もし日本に桜がなくてどこか外国にあったとしても、
外国ではきっと日本式の花見などはしないだろうし、
日本人は別の花や別の何かでどんちゃん騒ぎをしてるだろう。
日本人は本当に面白い種族だ。

遠い未来、超近代都市になった日本にもきっと桜並木があって、日本人は相変わらず花見をしてるに違いない。
遠い昔、平安時代や江戸時代の日本人が花見をして楽しんだように。
将来、世界中に桜が植樹されて、一緒に花見という習慣も伝わっていくといいなと思う。
ほんの数日間の満開の桜の下で、飲んで歌って大騒ぎすれば、世界も今より少しは平和になるんじゃないかな。

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