2001.8.2-

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 8月25日(土) 「永遠の中の全一瞬」

 私の感覚が間違っているとするならば、それは私にとって本当の悲劇であり絶望を意味する。
 絶対的な感覚だけが心の拠り所なのだから。
 誰かを良いと思う感覚、何かを駄目だと感じる感覚、才能の有無に対する物差し、美意識……。
 もし、私の中のそれらが決定的に狂っているとしたら、私はこの世界ではまったくの役立たずだ。
 そして同時に、そんな世界なら私にとって生きる価値はない。

 最後まで人や世界や自分を信じることはやめないだろうけど、それにしてももう少しだけ確かな根拠が欲しい。私の感覚は間違っていないんだと思える確信が。
 
                   *
 
 大切なのは、きちんと自分の気持ちが見えていること。
 何がやりたくて、何をやりたくないかさえ見失わなければ、たぶん大丈夫。
 あとは、やれることとやりたいことは別のものだということを忘れないようにすること。
 伝えたいことと伝えるべきことも別のものだ。
 たとえば歌が上手いから歌手になる、という発想は正しくない。伝えるべきものが自分の中にあって、それを歌で伝えたい人間が歌手になるべきだろう。
 才能よりも情熱の方が大事だし、優先する。
 
                   *
 
 根拠のない前向きさなんてちっとも偉くも正しくもないと私は思う。それは自分を欺いているだけだから。
 私自身、たぶんそうだ。だからよく分かる。
 前向きであろうとすることで自分を正当化して、誰にともなく言い訳している。
 みっともない。
 夢や目標を言い訳にして今を怠けて生きている人間も多い。
 前向きなのは後ろ向きよりはましだけど、でもそれが免罪符になるわけではない。毎日やるべきことをやってきちんと前進しなければ、前向きな考えは空虚なものになってしまう。
 プラス思考といったって、根拠がなければただの空元気や空威張りと同じようなものだ。
 ただの脳天気では、世界も自分も救えない。
 前向きであるためには理論と根拠が必要だ。
 
                   *
 
 個人的なすべての不幸を蹴散らしてしまう幸福というのが誰の中にもあるんじゃないだろうか。
 祈りにも似た願いがあって、それさえ叶えば、すべての不幸は吹き飛んで完全に幸福になれるに違いない願いが。
 その正体が分かっているのなら、全力を尽くすべきだろう。意地を張らず、てらいや迷いを振り切って。
 それは時に、ものすごく難しいことだけれど。
 
                   *
 
 人が救われる道はそう何種類もない。もしかしたら一種類だけかもしれない。
 だから、他のことで誤魔化さないようにしなければ。
 おなかが空いたら一番好きな一番食べたいご飯を食べないと。お菓子でおなかをいっぱいにしても本当の満腹感は得られない。
 
                   *
 
 なくしたものや終わったことを思い出すのはなるべくやめよう。いや、やめたい。
 不幸の多くは過去と今を比較して今の方が劣っていると感じるところから来ている。あるいは自分と他人との比較から。
 だから、過去を振り返らず、他人と自分と比べなければ不幸を感じることはない。
 とにかく未来を見ること。そして他人を気にしないこと。
 過去を振り返るのは幸福な時だけでいい。
 
                   *

 今、ちょっと自分に対してもその他に対しても静かに怒っている。気持ちがささくれ立って、いろんなことが許せない。心が凶暴になっている。満月でも近いのか?
 思い通りにいかないなんてことは別に今始まったことではないし、普段は当たり前に受け入れられるのだけど、でも時折、発作のように上手くいかない現実が心をぎゅっと締め付ける。
 そういう時は誰かに頼ったり他人を求めればいい。そうすれば楽になるし、求められた人間にとってもそれは悪いことではないはずだから。
 でも、私にはそれができない。苦しくなればなるほどひとりになろうとしてしまう。他人から離れて、心の扉を閉ざす。
 それは元々の私の性格なのか、それとも一人っ子であることがそうさせたのか、成長過程の環境に原因があるのか、私には分からない。もっと他の要素も色々入り交じっているのかもしれない。
 いずれにしても、他人を求めることが下手だということは、間違いなく不幸なことだし、直せるものなら直した方がいいのだろう。
 孤独も孤独感も、どこまでいってもそんなものは絶対に正しいものではないのだから。

 人は他人と一緒に生きなければいけない、そのことが最近になってようやく分かった。まだ先は長い。
 それでも、ネットの住人になった今の私はもう、孤独じゃない。
 
                   *
 
 すべての瞬間は永遠の中の一瞬。
 あらゆる感情と思考と感覚を捉え、差別しないこと。
 どの一瞬も全部愛すべき瞬間なのだということを忘れないで。
 
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 今日のための言葉
 
「孤独ということがなかったら恋愛など、絶対にありえない」
 
 森有正『生きることと考えること』より

 8月21日(火) 「有形不幸と無形不幸」

 形のある不幸と、形のない不幸と、どちらかを選べるとしたら、どっちを選ぶ?
 私は形がある方がいい。その方が闘えるから。
 見えない不幸との闘いは、どうにも虚しくて疲れる。
 悲しきシャドーボクサーにはなりたくない。
 
                   *
 
 日々ますます行く手を見失う。
 深い森に迷い込んで、だんだん光が差さなくなっていくように。
 出口が用意されていないなら、無理矢理にでも出口を作るしかない。
 でも、どこから出ればいんだろう?
 
                   *
 
 どうやって過ごせばいいのか分からない長い夜もある。
 ひとりっきりの通夜のように。
 いくつもの長い夜を通り過ぎて、私たちは目指す場所に辿り着けるのだろうか?
 でも、やがてその夜さえも持てなくなる時が来る。
 だから、夜も愛そう。すべての夜を。
 
                   *
 
 悩むことは自己満足だ。
 悩むことで解決する問題なんて、たぶん何もない。
 趣味で悩む分にはかまわないけど。
 
                   *
 
 私はただ、ひとりに強いだけだ、決してひとりが好きなわけじゃない。
 望んでひとりっ子になったわけではないように。
 ひとりでいても退屈はしないけれど、いい加減ひとりに飽きてきたことは確かだ。
 今度は飽きるほど誰かと過ごすのもいいかもしれない。
                   *
 
 退屈な平和に甘んじればこれ以上不幸にならずにすむ。
 その誘惑に負けそうになる。思い切って踏み出さなければ幸せにはなれないと頭では理解しながらも。
 でも、平和は毒だ。平和は甘い顔をして人間を駄目にする。
 平和を恐れなければならない。
 人は幸福にならなくてもいいけど、幸福を求める義務みたいなものがあるのだから。
 
                   *
 
 今日の気分は今日のうちに捉えておかないといけない。明日になったらもう捉えることは不可能になるから。
 今日の気分ーーあきらめと悲しみの中間。
 理想と夢を握る手の握力がだんだんなくなっていくようだ。
 この気分を、今日の眠りの中でどれだけ溶かすことができるだろう。
 明日はどんな気分で目覚めるのか。

 今日は完全に予想外の一日だった。
 明日はこの先を決める上でけっこう大事な日になるかもしれない。
 
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 今日のための言葉
 
「逃げるのはごめんだ。私は人生の導くところに自ら出向いて行って、そして、そこで闘わねばならない」
 
 映画『オスカー・ワイルド』より

 8月20日(月) 「見えない心の行方」

 心の行方が定まらない。見えていたはずの方向を見失った。
 それは、足を運ぶ方向が決まらないことよりも深刻な問題だ。
 大切なのは、どちらに顔を向けるかなのだから。
 
                   *
 
 結論もまた生き物だということを知っておく必要がある。
 結論は動かないtと見せかけて、実は一ヶ所にじっとしてることはなく、絶えず動き回っている。
 人はそのことになかなか気づかないけど、気づいた時には大きく動いているものだ。
 だから結論は信じすぎない方がいい。
 
                   *
 
 もし今私にカミさんと子供がいて幸せな暮らしを送っていたら、こんなふうに毎日言葉を追いかけ回したりはしてない。言葉を追いかけるなんてことは幸福な人間のすることじゃないから。
 私は幸せになりたいから言葉を探しているのだ。
 
                   *
 
 多くの作品からたくさんの感動をもらって、それらをたくさん自分の中に取り込んできた。
 だから私は、今度は自分の作品でそれらの作品に報いたいと思う。感動をエネルギーにして新しいオリジナルな感動を生み出すことが、最大の恩返しになるはずだから。
 そして、作品本位でなければ絶対にいけない。
 
                   *
 
 街には新しい店があり、古びた店があり、つぶれた店がある。
 それは、生まれたての夢と、夢のなれの果てと、夢の残骸の名残りの象徴だ。
 永遠に輝く夢なんてものはたぶんどこにもない。人が歳を取るように夢も歳を取る。
 でも、悲しむことはない。たとえ破れた夢だったとしても、夢は一度実現したのだから。確かに生まれたのだから、それをたたえよう。
 
                   *
 
 この頃、一日が良い意味で長くなっている。心にゆとりがあるというのか。
 少し前まではあまりにも時間に追われすぎていた。
 スピード感のある一日は高揚感は得られるけど、意外に幸福感は得られないものだ。車を走らせていると街の中の小さな幸せを見過ごしてしまうように。
 でもゆっくりならいいというわけではない。のんびりしすぎるのは罪だし。
 大切なのは、ストップ・アンド・ゴーだ。走るべき時に走り、止まる時にきちんと止まること。それと、速く走る時とゆっくり走る時を見極めること。
 
                   *
 
 私は誰も幸福にはできない。
 でもその人の中にある幸福に気づかせてあげることはできるかもしれない。
 人は誰も自分で自分を幸福にするしかない。でも、手助けはできる。お互いに。
 誰でも幸せになれる。自分の中にある幸せの塊を発掘することさえできたら。
 
                   *
                   *
                   *
 
 今日でこの夏の宿題は終わった。一つ難しい課題があったのだけど、なんとか今日それをクリアーすることができた。生まれて初めてすることはなんでも難しく感じられるものだ。
 これで少しほっとした。一度やれれば二度目からはぐっと簡単になる。
 去年の夏は浮かれていた。今年の夏は沈んでいた。でもどっちの夏も好きだ。どんな夏でも、それは私の夏だから。
 課題も片づいたし、残りの夏を楽しもう。
 
                   *
 
 今日は新しいことと未来と過去が交錯する不思議な一日だった。
 新しいことをして、未来が少し見えて、昔の知り合いに会った。
 何かが動き出しているのだろうか? それとも今日だけが特別だったのか?
 いずれにしても、動きのある一日というのはいいものだ。
 
                   *
 
 何かを撮ろうといつもデジカメを持ち歩いていると気づく、毎日がほとんど同じことの繰り返しだということに。
 同じ時間に出掛け、同じ道を通り、同じことをする。そこにはいつも見慣れた光景しかなく、写真に撮るべきものはなかなか見つからない。
 ドラマもなく、撮るべき必然性のある被写体にも出会えない。
 でもだからこそ、デジカメを持ち歩くということはいいことだ。何故なら、写真を撮るためにいろんなところを注意して見るようになったり、行動を少し変えてみたりするようになるから。
 デジカメはHP作りのためのものじゃない。毎日のお供になり、少しだけ毎日を変えてくれたりもする。安くない買い物だけど、自分への投資としては高くないと私は思う。
 毎日のお供としてのデジカメの絶対条件は、小さくて動作が速いこと。この2つの条件を満たさないデジカメ(実はほとんどのデジカメがこの条件を満たさない)は、すぐに部屋の隅で眠りにつくことになるから注意が必要だ。
 
                   *
 
 そうそう、例の偽物ボディーブレードの実験報告をするのを忘れていた。
 なんと、体重が減りましたぁ。200グラムも。
 ……。
 いやいや、200グラムを馬鹿にしていけません。200グラムのステーキなんか食べた日にはお腹いっぱいになってしまいますからね。あれだけの肉が3日で減ったというのは大したものです。うん、ホントに。
 でも実際は気のせいなんだろうなぁ。あの偽ボディーブレードの成果ではないだろうと思う。人間、200グラムくらいは毎日のように変動してるだろうし。
 まあでもこれで60キロを切ったら信用してもいいかもしれない。
 果たして本当に効くのか、偽ボディーブレードはぁ?
 
                   *
 
 今日の「あいのり」も良かった。これは今の私のかなり重要なエネルギー源になっている。毎週のお楽しみという域を超えて。
 直也がいなくなったのは寂しいけど、陽生にスポットライトが当たったのは嬉しいところだ。やつを最初見た時は、なんだこいつ、ちゃらちゃらしやがって、と反射的に反感を持ったのだけど、実際は非常にいいキャラクターをした爆笑野郎ということが分かり、今ではすっかりファンになってしまったのだった。いやー、やつはいい、笑わせる。
 けど、そんな陽生が恋に落ちた。そして本来の実力を発揮できなくなった。
 先週の直也もそうだったけど、何故人はその人を好きになるとその人の前では実力の半分も出せなくなってしまうのだろう? 他のなんでもない人の前ではすごく魅力的な人間も、好きな人の前ではまるで駄目な少年や少女になってしまう。
 このへんが恋の難しいところであり、もどかしいところ。
 まあそれでも上手くいく時はどやっても上手くいくものなんだけど。
 あと、「あいのり」を観ていて、もうひとつはっきり分かったことは、恋におけるタイミングの重要性だ。
 自分が恋をしてる時は余裕がなくなって、好きならそれでどうやったって上手くいくはずと思いがちなんだけど、でも客観的に見ていると、タイミングによって上手くいく恋やタイミングによって上手くいかない恋というのが確かにあることが分かる。
 それを運と呼ぶべきなのか、ただの偶然か、それとも運命というやつなのか、それは分からないけれど。
 いや、でも本物の恋は、タイミングに左右されることもなく、自分が最高の自分でいられるものなのだろう。
 人は今日も、本物の恋を探して、偽物の恋の合間をさまよっている。
 
                   *
 
 明日の名古屋地方の天気予報は笑った。
 
「暴風雨 100パーセント」

 こんな天気予報があったとは。たぶん初めて見る予報だ。なんかすごいことになりそうだ。ちょっと楽しみでもあるけれど。
 
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 今日のための言葉
 
「見たこともない風景
 そこが帰る場所
 たったひとつの命に
 たどりつく場所」

 菅野よう子「VOICES」より

 8月19日(日) 「夏の終わりの涙」

 いつも自分の存在理由の希薄さに悩んできたけれど、意味はもっと先にあるんだと今は思えるようになった。
 日々をきちんと生きて、命を未来につながなくことを考えよう。今はまだくたばる時じゃないし、場所でもない。
 
                   *
 
 誰かに幸せにしてもらおうとは思わない。自分で幸せにならないと納得できないから。
 遺産で優雅な暮らしをしても心満たされることはないし、エサと安全を与えられた動物園の動物ようにもなりたくない。そこには感動がない。
 不幸と闘いながら生きることが人間にとって一番の幸せに違いない。
 
                   *
 
 人生を追求していけば、生きることは面白くて楽しいものだということに必ず気づく。
 悲しみさえも、悲しい映画を観るように楽しめばいい。
 感じること、それが楽しみに近づく方法。
 
                   *
 
 感覚を宇宙へと解放して目一杯広げて、今度は電子顕微鏡を覗くように世界に目を凝らしてみる。
 すべてはあまりにもささやかで、同時にあまりにも精巧に出来ている。宇宙の仕組みや、人間の体や脳は。

 私たちは分かる。確かにいろんなことが分かる。でも無から何かを作り出すことはできない。
 この世界は決して偶然ではないけれど、でもすべてが何者かの意志だけで作られているとも思えない。
 無限と完璧なディテールを両立させている力の正体は一体何なんだろう?
 一番分からないのは一番根っこの部分だ。どうにも説明が付かない。
 
                   *

 時を重ね、記憶は進化する。
 地球の記憶も人類の記憶も。
 人間が共有しているのは知識だけはない、記憶もまた共有しているのだ。
 記憶は消えることなく積み重なる。
 記憶こそが地球にとっても人間にとって一番の財産なのかもしれない。
 
                   *
 
 夏の始まりにはいつも佐野元春の「Rock & Roll Night」を思い出す。
 そして、夏の終わりはいつも井上陽水の「少年時代」だ。
 今晩観たドラマ「少年時代」のラストにこの曲が流れてきた時、ふいに胸が詰まった。突然、夏の終わりの予感に襲われて。
 夏の終わりはいつもとても切ない。なんだか理由もなく泣きそうになる。悲しみとか寂しさとかそういうことではなく、ただ夏が終わることに対して泣きたくなるのだ。
 もうすぐ今年の夏も終わる。もう少しで。
 
                   *
 
 恋は人間の架空の翼だ。
 恋をなくした人間は、空想の中でさえ飛ぶことができない。
 飛べない人間は遠くへは行けない。海も渡れない。
 
                   *
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                   *
 
 この週末はそこはかとなく低調だった。相変わらず心の淀みがすっきりしない。いいかげん流れを変えたいのだけど。
 
 今日はオークション関連に多くの時間を使った。今回ゲームやCDなどをまとめて出品して、それが10くらい売れたので、そのメール連絡と梱包作業に。
 これがけっこうしんどい。気も遣うし。
 でもまあ、なんだかんだで2万近くになったので、これでまた何か買える。
 まずはモニタだ。色々調べにしらべ、探しにさがして、NANAOの17インチがいいだろうということになった。SONYや三菱以上の画質とBNC接続に惹かれて。
 ただ、さすがに評判のいいメーカーのモニタだけあって、落札価格もけっこう高くなってしまう。なんとかBNCコード付きで、送料とあわせて1万ちょっとで済むといいのだけど。
 うーん、ちょっと難しいか。
 あとは、VAIOのテレビチューナー付き、という選択肢もある。これはこれでゲーム機との接続などができるようになると色々可能性も広がってくるから面白いところではある。
 でもとりあえず今すぐどうこうということではないから気長に探そう。モニタは毎日眺めるものだから、なるべくいい条件のものを納得して買いたい。
 
 ゲームは、ようやくPS2の「ファイナルファンタジー10」を落札できた。送料込み4,500円即決は今まで見た中で最安値だったので迷うことなく落札した。
 来週の中頃には届くだろうから、それまでに今やってるゲームを整理しておかないと。
「ドラクエ7」はもうやめにした。半分まで来て詰まらなければもうそれは自分のためのゲームではないということだろう。どうにもこうにも楽しくない。
 未練を残さないように売り払ってしまおう。
「UFO」も期待したほど面白くなかった。これも適当なところで見切りをつけることになりそうだ。
 
                   *
 
 行動がかなり停滞してるから、もうそろそろ本当に動かないといけないだろう。
 お盆も終わったし、夏も終わりかけている。8月中にどこかへ出掛けよう。富士山か、海か。
 何かして駄目なのと何もしないで駄目なのでは、何かした方がましなことは確か。動かないより動いた方がいいに決まってる。
 
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 今日のための言葉
 
「本当に好きなことだけをやるっていうのは実はとても難しいことなんだね……」
 
 ゲーム「ファイナルファンタジー9」より

 8月18日(土) 「女神希望」

 人は本当には幸せになろうとしてないと私は思う。それどころか、自ら望んで不幸へとすり寄っていっている。
 たとえば不幸の予感がする恋に自分から足を取られたり、叶わぬ夢だと分かっていてあえて挑戦したり。
 たぶん、人は不幸が好きなのだ。不幸の方が幸福より落ち着くからかもしれない。
 でも、人間が完璧主義でないということはいいことだし、そこに救いというか未来がある。誰もが幸福ばかり貪欲に求めたら、世界はたえず争っていなければならないだろう。不幸が好きな人間や、不幸に耐えられる人間も必要だ。それも半数くらい。
 不幸もあっていい。不幸があってこそ人生を楽しめる。
 
                   *
 
 時間は追いかけてこない。それは錯覚だ。
 時間は実は動いていないのだから。ただ存在しているだけだ。動いているのは人間の方だけ。
 走る列車と、窓から見える光景の関係のようなものだ。風景が時間で、列車が人間。風景は動いていない。動いてるのは列車だけ。
 時間というものを捉え間違えないようにしなくては。そして時間に怯えないこと。
 
                   *
 
 難しい顔をして、ややこしいことを考えて、高度な真実を書いても、自分も人も誰も幸福になりはしない。
 何かを書くならまず自分を幸福にしなくては。そうでなければ誰も幸福にすることはできない。
 難しいことを考えることは間違いじゃない。でも考えながら書くから駄目なのだ。考え終わってから書かなくてはいけない。きちんと突き抜けてから。
 とにかく、どんなことも陽気に書くこと。悲しみさえも。
 
                   *
 
 テクニックがすべてじゃないことは誰でも知っている。でもテクニックが必要不可欠なものだということを知る人間は案外少ない。人はテクニックを軽く見すぎる。テクニックはすべてにおいて必要だ。書くことも、生きることも、恋愛も、仕事も、生活も。
 テクニックもなしに高度なことをしようなんて無理な話だ。自転車も乗れない人間が大型バイクには乗れない。
 テクニックというのはスポーツでいえば基本だ。野球ならキャッチボール、サッカーならパスやヘディング、水泳やゴルフならフォーム、といった。
 基本をないがしろにして上手くいくはずもないし、決して一流にはなれない。
 それは生活や人生にも当てはまる。基本を学び、訓練して身につけなければいい人生にはならない。
 では人生の基本とは何か?
 楽しみと幸福と感動を味わうために、目標と理想を持ち、毎日努力して達成すること。
 人生におけるテクニックとは?
 本を読み、映画を観て、色々な体験をし、人と関わり、多くを学ぶこと。
 大切なのは基本姿勢を失わないことだ。いい加減な気持ちで過ごしていては人生もいい加減なものになってしまう。
 自分が大事なら自分のために努力するしかない。誰も自分の代わりに生きてはくれないのだから。
 
                   *
 
 この世には誰にも教わることができないものが確かにある。
 そして、そんな特別な能力を持って生まれてくる人間がいる。才能というやつを。
 この不思議で説明のつかない才能というものがこの世に存在する以上、私は神と呼ばれるものの実在を否定することができない。偶然では片づけられないから。
 それにしても、才能というのもは、一体どこから来てどこへ行ってしまうのだろう?
 
                   *
 
 地球がどれほど愛すべきものなのかを本当に感じて知っている人はどれくらいいるのだろう。
 地球を思い、感じて泣けるだろうか?
 もし泣けないなら、まだ地球への愛が足りない。
 
                   *
 
 人生には謙虚になるべき時と、謙虚になってはいけない時がある。
 私の謙虚さへの旅はまだ始まらない。
 
                   *
 
 人間は、地球が生んだ最も美しい生き物だ。
 涙を流し、言葉を話し、歌を歌う。
 
                   *
                   *
                   *
 
 話題は急転直下。地球の話から私の体重と体脂肪率の話になる。
 ……そういうこともある。
 ふいに思い立ってボディブレードを買ってみた。通販でおなじみの、あのブルブル震わせて体を鍛える平べったくて長い板っきれだ。
 といっても通販の本物は1万円以上するから偽物を。どうせすぐ飽きるだろうし、まずは安いやつで試してみることに。
 ホームセンターに行ったら、短いタイプのものが1,180円で売ってたのでこれにした。長いタイプだと狭い私の部屋では危険すぎるというのもあって。
 調子に乗ってブルブルしててPCや電化製品や本棚をなぎ倒してしまったら洒落にならん。
 で、早速今日からブルブルしてみた。
 うーん、どうなんだろう。本当に効くんだろうか?
 まあもちろん1日や2日で効果が表れるはずもないけど、ものすごく効きそうな気はしないことは確かだ。むむ、やはり所詮偽物は偽物か?
 
 スタート時点での体重が60.8キロ。体脂肪率が16パーセント。
 さて、ダイエット効果はあるのかないのか。当面の目標は58キロ、15パーセント、ということにしよう。
 何か変化があったらまた報告します。
 でもひと月後くらいにオークションで売り飛ばしてしまいそうな予感がぁ……。
 
                   *
 
「ファイナルファンタジー9」の中でビビというキャラクターが出てきて、これが「銀河鉄道999」に出てくる車掌さんそっくりで、久しぶりに「銀河鉄道999」が観たくなった。というか、メーテルを……。
 ネットで検索したら、3年前の1998年に劇場作品が作られてたので早速ビデオ屋でレンタルしてきた。
『銀河鉄道999〜エターナル・ファンタジー〜』
「999」関連のものを観るのは20年ぶりくらいかもしれない。でも、観ていてまったく印象が変わらないのはちょっと驚いた。当時感じたのとほとんど同じ感覚で観られるのだ。メーテルも相変わらず文句なしの美人に思えるし。
 なんかちょっと不思議な感じだ。長いこと会わなかった昔の友達に何年かぶりに会ったのに昨日会って分かれたような感じがすることがあるけど、あの感じに近かった。なつかしくなくてリアルタイムのものみたいだった。
 3年前の作品ということもあるだろうけど、基本はもう20年以上前のものだから相当古くさく感じても当然なのにそんな感じはまったくなかったのだ。

 何はともあれ、なかなか良かった。色々感じるものもあったし。
 それと今回観て思ったけど、私の宇宙観は「銀河鉄道999」にかなり影響を受けているようだ。宇宙には無数の星があって、たくさんの生命体が存在して、やがて人間は宇宙を旅するようになる、という発想を自然に理解させてくれたのは「999」のような気がする。その後読み漁った海外SF小説よりもむしろ。
 
 誰の中にも少年少女の時観たり読んだりしたアニメやコミックの中で、自分に決定的な影響を与えたものがあると思う。大人になってもずっと心の中のどこかに残っている作品が。
 私の場合、それは「タッチ」であり「マクロス」であるんだけど、「銀河鉄道999」もその一つだ。しばらく忘れてたけど、やっぱり特別な存在に違いない。
 メーテルか……。
 でもなんでメーテルはなつかしい感じがするんだろう?
 宇宙を司る神がもしいるなら、それはメーテルのような女神であって欲しい。
 そう、神は男ではなく女であるべきではないだろうか? すべての人間は女から生まれるのだから。
 
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 今日のための言葉
 
「若者は未来を信じて旅を続ける。時間は決して夢を裏切らないと信じて……」
 
 映画『銀河鉄道999〜エターナル・ファンタジー〜』より

 8月16日(木) 「映画も人生も演出次第」

 毎日、前進感が足りないと感じるのは、スピードが決定的に遅すぎるのだ。生活のスピードも、生きるスピードも。前へ進んでる感じがしない。
 半年くらい前まであった疾走感が今はまるでない。気が付いたらいつの間にかスピードが極端に落ちていた。スクーターが自転車になってしまったくらい。
 たぶんそれは、喜びや楽しみが足りなくなってしまったからだろう。幸福の不足がスピードの不足を生んでいるのだ。
 なくした喜びにまだ戸惑っている。それを上手く受け入れられないでいる。もう戻れないと分かっているのに。
 新しい喜び、新しい幸福、それらを見つけなければいけないのに、本気で探せないでいる。まだしばらく見つかりそうにない。
 
 スピード感の不足に嘆きながらも日々は過ぎていく。目覚めている間中、途切れることなく意識的な行為を続けても、飢えと乾きが癒されることはない。
 すべての人に謝りたいような、絶叫したいような、全速力で走り回りたいような、どこか遠くの場所まで行きたいような、何もしたくないような、そんなバラバラの感情に心が声もなく悲鳴をあげる。
 楽しいだけじゃ充分じゃないのだ……。
 罪悪感のない充実感、それが私の求めているもの。
 それはとても単純な話だ。つまり、私にしかできない仕事を目一杯して、それで稼いだ金で好きなことをする、ただそれだけのこと。
 でもそれが難しい。たぶん、ほとんどの人はできていない。私と同じようにいつも何かが足りないと感じているに違いない。
 
 不幸の原因は、不在ではなく不足。足りないから求めずにいられなくて、求めるから渇く。渇きこそが不幸の本質だ。
 何もかもが少しずつ足りない……。
 
 最初から持っていないものを手に入れることはそれほど難しくはない。でも、足りないものに足して満たすのはとても難しい。
 ボーリングをやったことがない人でも実際にやってみればボーリングはできる。でも、そこからパーフェクトを出すのはとても難しい。そういうことだ。
 
 いずれにせよ、やるべきことは一つしかない。
 もっと自分を幸せにすること。それが人として大切な仕事であり、義務でもある。
 もっと努力して、自分を幸せにしなくては。
 
                   *
 
 重ならない日々と重ねる毎日。
 なんでも重ねればいいってもんじゃないけど、重ねないと意味がないものや、重ねないと守れないものや、重ねないと育たないものもある。
 重ねるべきものをきちんと重ねないと。
 
                   *
 
 誰の人生も特別なシーンがあってもいい。
 平凡で大きな事件のない人生でも、その中の一日、あるいは一瞬、ドラマチックに輝くことがあってもそれは全然おかしなことでも不思議なことでもない。
 それに気づけば、自分がその演出者になってもいいということにも同時に気づくはずだ。
 人は誰でも、他人の人生をほんの少しだけ輝かせることができる。愛と思いやりと閃きと勇気さえあれば。
 給料をはたいてバラの花束を買ってもいいし、スクランブル交差点の真ん中で愛を叫んでもいい。
 人生は必ずしもドラマチックなものではないけれど、必ずドラマチックを秘めている。それを引き出してやればいい。
 みんな、本当はもっと人生が好きになれるはずなのに、もったいない。人生も映画と同じように演出が命なのだ。脚本がいいに越したことはないけど、駄目な脚本はいい演出でカバーできる。
 演出の大切さを理解しなくては人生を面白いものにはできない。
 
                   *
 
 明日を持てることがどれだけ幸運なことかを想像しながら、今日はもう寝よう。
 眠りの中に大事なものを置き忘れないようにしないと。
 
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 今日のための言葉
 
「ロザーナ 二人は特別変わってた訳じゃないから
 いつか同じ過ちから解き放たれよう
 ロザーナ 新しい暮らし見つけることできたなら
 互いは互いのままでいれるだろうか……」

 尾崎豊「ロザーナ」より


 8月15日(水) 「果てなき言葉探しの旅の途中」

 またゆるゆると走り出そう。
 行く先も定まらず、あてもない旅だけど。
 探している言葉はどこかにあるだろう。
 旅を続けてさえいれば、やがて見つかる。
 どんなに遠くても、いつか必ず。
 それでもまだ旅は続く。
 たとえ最高の言葉を見つけても。
 永遠の果ては、まだ見えていない。
 
                   *
 
 探している言葉を見つけることはとても大事なこと。
 でももしかしたら、言葉を探すという行為そのものの方が大切なことなのかもしれない。
 少年時代の夏休み、獲れたカブトムシやクワガタのことはよく思い出せないけど、獲りに行った時の早朝の空気や、あのワクワクする感覚はよく覚えていて、そのことが思い出として大切なように。
 
                   *
 
 まだ誰も見たことがない光景をまだ誰も使ったことがない言葉で表現すること、いつしかそれがこの人生の目標になった。今でもそれは変わっていない。
 その他の幸福や楽しみは全部付録だ。金も仕事も結婚も家庭も地位も。
 だから、付録集めに夢中になりすぎて本質を見失わないようにしないといけない。ビックリマンチョコのシール集めに夢中になりすぎてチョコを捨ててもいけない。
 でも、やっぱり付録はたくさん付いてきた方が嬉しいよなぁ……。
 
                   *
 
 分かっていたり知っているだけは充分ではない。お金を持っているだけでは意味がないように。
 金も知識も使わなければ意味がない。しかも、有効に活用して初めて意味を持つものだ。
 分かることで安心してはいけない。
 私たちは19世紀の人間でもなければ20世紀に生きる人間でさえもない。私たちが今生きているのは21世紀だ。宗教や哲学の教えに従って生きている場合じゃない。知識は自分で獲得して、自分でそれを活かして、世界のために生きなくては。
 崩壊は目の前に迫っているように見える。でも崩壊は飛躍のチャンスでもある。
 人間がだんだんおかしくなってきているようにも見えるけど、その反動としてより良くなるチャンスでもある。
 崩壊の後には新しいものが生まれ、腐った果実の後には新しい芽が出る。
 20世紀末、世界は崩れなかった。それは喜ばしいことでもあるけど難しくなったことも確かだ。人間が自分で古いものを壊さなくてならなくなったから。
 ただこれは、人間が自力で大人になるチャンスでもある。今こそ大きく飛躍しなくては。
 気づきさえすれば簡単なこと。大切なのは、知ることと、それを活かすこと、その二つだ。
 難しいことじゃない。
 
                   *
 
 田舎行きで流れが変わって淀んでいた心の空が晴れることを期待したのだけど、どうも今回は何も変わらなかったらしい。残念ながら。
 まあそりゃあ、野良猫に持っていった猫缶をやって、自分もごちそう食べて、テレビで世界陸上と高校野球観てるだけじゃ変わらないのも当たり前だ。それじゃあ家にいる時とやってることはほとんど一緒だから。唯一の違いは、ネットから離れていたことだけど、それも以前ほど重大なことではなくなった。前はネットから2日離れると、みんなから取り残されたような妙な不安に襲われたものだけど。
 
 それでも田舎の変わらない景色を見て、蝉の鳴き声を聞いて、田舎の星空を見て、汚れていない空気を吸ったことがマイナスに作用したということはないだろうから、多少は浄化されたに違いない。それを今後に活かしたい。
 言葉はどうだろう? これは意外に溜まらなかったか。田舎も一人で行けば孤独感の中で言葉は溜まっていくのだけど、親戚が集まるとそういう感じではなくなる。
 ただ、日頃まったく違う場所で違う生き方をしている親戚と話をしたり、半年でびっくりするほど成長した子供たちを見ることでそれなりに感じるものはある。
 そういう日常では取り込めないエッセンスを吸収することで、いつかそれらが新しい言葉へと結実するはずだ。
 
 すべての旅は正しい。大きな旅も小さな旅も。正しくない旅はひとつもない。
 旅に出よう。そこには必ず新しい何かがある。
 
                   *
 
「ファイナルファンタジー9」が終わった。
 一言で言うと、良くも悪くも優等生的な作品だった。大きくへこんでいる部分もないけど尖った部分もない。すべてが高いレベルでまとまっているんだけど、だからこそ時間の経過と共に印象が薄くなっていってしまうような気がしている。魅力的な問題児は覚えてても優等生のクラスメイトのことをよく覚えていないように。
「ファイナルファンタジー8」はゲームの完成度としては低かったけど、尖った魅力があった。好き嫌いがはっきり分かれるだろうけど、私はあっちの方が好きだ。
 それにしても「ファイナルファンタジー9」はよくできた作品だった。個人的な好き嫌いを別にすればあそこまで完成度の高い作品はそうはない。私としては文句のつけどころが見あたらなかった。最初から最後までまったく飽きることなく楽しめたゲームなんて久しぶりだ。
 ただ、ちょっと簡単すぎたか。やり込みすぎて最後の敵もあっけなく倒せてしまったのでラストの感動が薄かった。それが不満と言えば不満。でも難しすぎるよりはずっといい。
 充分楽しめた。スクエア、ありがとう。ちょっと見直したよ。
 
 続けてPS2の「ファイナルファンタジー10」へ行きたいところだけど、ちょっと待った。ふと気づくとやりかけのゲームや、買ってまったく手をつけてないソフトがたくさんある。これはまずい。ここはぐっとこらえて、それらのゲームをまず整理しなくては。遊ぶものは遊んで、やらないものは売ってしまってすっきりしよう。
「ドラゴンクエスト7」はどうしよう……。
 久々に続きをやったのだけど、「ファイナルファンタジー9」をやった後ではあまりの不親切さや前時代的なゲームシステムに少し嫌気がさしてきた。まだ半分もいってないけど、これはここまでか。大物だけに最後までやってから判断したい思いはあるのだけれど。
 とりあえず明日から「UFO」を始めよう。
 
                   *
 
 世界陸上が終わってしまった。寂しい。ようやくユージ織田にも馴染んできたのに。
 でも最後の女子マラソンはなかなか楽しませてくれた。個人的には渋井を応援してたから彼女に勝って欲しかったんだけど、土佐みたいに地味な選手が活躍することはそれはそれでドラマチックで良い。けっこう励みになったりするから。
 
 私は、作品でもスポーツでも映画や小説でも人間でも、ドラマチックなものが好きだ。ドラマが見たくてそういうものを求めている。
 ドラマチックとは一体何なのか?
 それは私にもよく分からない。ただ分かっているのはドラマチックが好きだということだけ。
 今日も明日も明後日も、ドラマチックを求めて私は映画やスポーツの間をさまようだろう。
 
                   *
 
 お盆も終わって夏休みも後半に入った。小さい頃は、これくらいになるとだんだん物悲しくなっていったものだ。今でもその気分はなんとなく残っている。
 やがて甲子園が終わり、ヒグラシの鳴き声が聞こえてくると、その悲しみはますます大きくなり、ほとんど手をつけていない宿題を見て半泣きになる、毎年そのパターンは繰り返されたのだった。
 それでも私は夏休みが何よりも好きだった。いくつもの夏休みを持ち、こうして大人になった今、それらをなつかしく思い出せるということは本当に幸せなことだ。素直にそう思える。
 
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 今日のための言葉 
 
「誰かを助けるのに理由がいるかい?」
 
 ゲーム「ファイナルファンタジー9」より

 8月10日(金) 「努力ということ」

 毎日少しでもいいから、努力に類することをやっていかないと、少しずつ駄目になっていく気がする。
 人生は、下りのエスカレーターを上るようなものだから、歩くのをやめて止まってしまったらどんどん下がっていく。一番下まで運ばれたくなかったら歩き続けるしかない。上まで上りたければ走るしかない。
 努力……。プロスポーツ選手くらい努力するのが理想だけど、それは現実問題として無理がある。だから、もっとささやかなものでいい。
 英会話の勉強を毎日欠かさず10分やるとか、腕立て伏せを20回やるとか、そんなことでいい。とにかく多少なりとも苦痛を伴うことを毎日続けることが大切だ。そうやって自分に負荷を掛けていかないと、際限なく弱っていく。使わない筋肉が落ちてしまうように。
 
 ということで、明日からの私のメニューはこうだ。
 まず筋トレその他で、体脂肪率を18パーセントから15パーセントまで落とすこと。
 最近あまり字を書かなくなって字が下手になってきているから、ペン字練習を復活させること。
 またNHK教育の語学講座を観ること。
 この断想日記を毎日書くこと。
 とりあえずこれだけはやろう。
 
 っと思ったら、明後日の日曜から一泊で田舎の松阪に帰郷するんだった。
 となると予定は全部飛んでしまう。いやぁー、残念だなぁ。せっかくその気になったのに。
 月曜日帰ってきてからまた考えよっと。
 
                   *
 
 世界陸上はちょっと低調。前半ほど面白くない。
 ユージ織田にはすっかり馴染んだけど。
 
 ルーマニアの「走る冷血美人」サボーの1500メートルだけど、期待してたのに結局何もなかった。なんだ。
 でも、冷血美人が1着で、その相手が2着だったのはちょっとドラマチックだった。レース後は見せかけの手をつないでのウィニングランなんかもあって。
 ただ、この冷血サボー、またまた問題発言をしてくれた。
 今度は5000メートルに出るのだが、前に3000メートルの時負けた相手にドーピング疑惑があって、「あんな選手が一緒に走るなら私はレースを辞退する」と言い出したのだ。まったくもって問題児なんだから。
 でも結局予選には出て、その疑惑のロシア人ランナーにちゃっかり負けてたんだけど。
 決勝はどうなることか。
 
 決勝といえば、400メートルハードルの為末大の決勝進出は見事。
 世界最小ハードラーと言われ、168センチしかないのにあの速さ。メダルはちょっと苦しいだろうけど、いいレースを観たい。
 
 あとの楽しみは女子マラソンだ。渋井がどこまでやるか。かなりやると思うけど、どうせなら優勝して欲しい。
 他の4人もけっこう期待できる。
 
                   *
 
 ゲーム「ファイナルファンタジー9」はそろそろ佳境にさしかかってきた。今は最後の戦いに備えてレベルアップしたり、最強の武器を集めたり、イベントをこなしたりしてるところだ。そして、この作業が最近の「FF」は一番面白い。本編のストーリーよりも。
 あと1日か2日で終わるだろう。感想は終わってからまとめて書こう。
 
                   *
 
 この夏はどうも低調だ。8月も3分の1が終わったのにまだ調子が上がってこない。帰郷で少しは流れが変わるだろうか。
 田舎の空気をよく吸って、田舎の気分をしっかり味わってこよう。あの星空を見れば、何かを思い出せそうな気がする。
 
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 今日のための言葉
 
「自分が何をしたいか、何が出来るのか、今その答えを出せというのか……」
 
 ゲーム「ファイナルファンタジー9」より

 8月9日(木) 「本当の旅の始まり」

 記憶の中にある感覚をいくらさぐってみても、今リアルタイムの私が求めている感覚は見つからないはずだ。
 だから思い出そうとしても意味がない。
 探しているのは、失われた感覚ではなくて、まだ感じたことのない感覚であるはずだから。
 過去の幸福感や至福感に答えはない。
 見つかるとしらこの先でだ。
 記憶を巡る旅は、もっと年老いてからでいい。
 
                   *
 
 誰もがみんな、幸福を求めて生きているなどという勘違いをしてはいけない。幸福を求めてない人間もいる。
 それは自由だ。人は幸福を求めない生き方をする権利がある。それは認めなくてはいけない。幸福を求めてないからといって責めるのは違う。
 幸福を求めないことが必ずしも消極的だったり投げやりだとは限らない。
 幸福は大事なものではあるけれど、絶対的なものではない。
 
                   *
 
 すべてを肯定したいし、肯定するのは目標ではあるけど、肯定がゴールではないのだ。その先に何かがなければいけない。正しさが行き止まりであるはずがない。
 この世界や人間を肯定した後に、何があるのだろう?
 究極の幸福の先には何が待っているのか?
 私はいつも、完璧の向こう側を知りたい。
 
                   *
 
 人間は都合が悪くなると神の概念を持ち出してきて言い逃れしようとする。いいことも悪いことも神に押しつける。
 でももうそろそろ神の肩を借りなくても自分の足で歩けるだろう。やがては自分の足で走らなくてはいけないのだし。
 人間はいつになったら全力疾走できるんだろう?
 
                   *
 
 過去のすべての偉人が辿り着いた地点は、ただの折り返し地点にすぎない。
 幸福になることが上がりではないし、悲劇や不幸や悲しみが最後に来ることもない。賢さも究極ではない。
 最後は、幸福も不幸も超えた遙か先だ。
 まだまだ道は遠い。地上に生きる人間にとって。
 悟りさえも道の途中の休憩所のようなもの。
 一切を超えてからが本当の物語なのだ。

                   *
 
 正しさに辿り着くだけでは充分じゃない。
 正しさから美しさや幸福を導き出さなくては。
 過去の哲学者や思想家たちが正しくないのは、彼等は認識を導き出し、指摘し、それを提出するところで満足してしまっているからだ。そこからもう一歩先へ進めなくては何の意味もないのに。
 哲学も芸術も、すべては日常生活を送る人間が幸福になる手助けをするためのものだ。知識人たちが自分の賢さを示すための道具ではない。
 この地上における究極の正しさは、日常生活の幸福だ。しかも幸福を求めることもなく、幸福を感じることもない幸福だ。
 最高の知識は生活にフィードバックされて初めて意味を持つ。正しさも。

                   *
 
 鈍感は罪だ。
 人の痛みや悲しみが感じられないとしたら、それは人間として劣っているということであり、重大な欠点でもある。
 夜空の星々を見て何も感じないとしたら、それもまた人として何かが決定的に足りない。匂いを感じられないのと同じくらい。
 でも本当に大切なのは感じる能力の大小ではなく、感じようと思う気持ちや感じたいと願う心だ。
 考えて分かることよりも感じて分かることの方が正解に近いということがこの頃だんだん分かってきた。
 感じること。極限まで感じること。その先に向こう側へとつながる扉があるはずだ。
 
                   *
 
 私たちはやっと宇宙の入り口に辿り着いたところだ。果てしなく広がる宇宙のことをまだ何も知らない。
 だから、まだ生き延びる価値も意味もある。こんなところで滅んでる場合じゃない。
 気の遠くなるような旅はまだ始まったばかりだ。
 そして、それは絶望を意味しない。間違いなく希望を意味する。
 この先まだまだいろんなことがあって、楽しいことがたくさん待っている。
 こんなところで悩んでいる必要はまったくない。先へ進めばいい。
 地球は出発の地だ。骨を埋める場所なんかじゃない。
 
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 今日のための言葉
 
「この星は宇宙で一番悲しいところだから……」
 
 メーテル(『銀河鉄道999』)より

 8月7日(火) 「捕らえ損ねた一日」

 とてもぼんやりした一日。スルスルっと竹を伝って流れてきた流しそうめんを箸で取ろうとして取れなかった感じとでも言おうか。なんとなく、最初から最後まで引っかかる部分がなくてとらえ所のない一日だった。
 美人とも不美人とも言えない顔のような。高くもなく安くもない家具のような。テストで言うと65点。喜んでいいのか悲しむべきなのか判断がつかない感じ。
 
 やり忘れた宿題のようにずっと気になっていることがある。やらなくちゃいけないと思いながらやれないことが。
 でもできないでいる。この2ヶ月。
 勇気が足りないとかそういうことではない。まあ要するにやりたくないということだろう。
 
 何か一つ、毎日の中で決定的に楽しいことがあると、その他すべてが楽しく思えてくるということがある。たとえば、クラスに好きな子がいたらそれだけで学校が楽しいものになったように。
 最近、どうも毎日を楽しめないのは、そういう決定的な楽しみが消えてしまったからだ。一日の中に核がない。中年の主婦の毎日のように。
 一日も早く核を見つけなくては。
 
 威張らず、卑下せず、陽気に、自分のやるべきことを毎日やって、疲れて眠るーーそれが私の理想。
 当たり前の幸福では満足できないのだけど、でもそれほど大それたことを考えているわけでもない。
 自分自身納得したいだけ。
 
 確かなことは、もう今更引き返せないということだ。
 たとえこの道が間違った道だったとしても、もう先へ進むしかない。
 この道がどこにつながっているのか、それとも行き止まりなのか、それはまったく見当もつかないけれど、それでも最後の地点から通ってきた道を眺めたら、きっとそれなりに納得して笑えると思う。それが微笑みになるか、苦笑になるか分からないけど、笑えることだけはたぶん間違いない。
 でもどうせなら気持ちよく笑いたいな。
 
                   *
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                   *
 
 世界陸上は観ているうちに選手のことや選手同士の人間関係や背景が分かってきてますます面白くなってきた。
 TBSの面白おかしく伝えようという姿勢も私は気に入っている。オリンピックほど神聖じゃないからリラックスして楽しんでいるところがある。
 そうじゃなきゃユージ織田をあれほど野放しにはしておかないだろう。やつ、一人で盛り上がってるからなぁ。
 
 面白いのはユージ織田だけではなく、アナウンサーや解説もけっこうおちゃらけていて笑わせてくれる。
 選手紹介もただ単に人物紹介や記録を伝えるだけではなく、キャッチフレーズを多様したり、その選手が持つエピソードから勝手にニックネームを付けて遊んでいる。古館一朗のように。
 三段跳びで18メートル跳ぶ選手は「スクランブル交差点を三歩で渡る男」だし、走り高跳びの場合は「電話ボックスを飛び越える男」だったり、コーチとの間に不倫で子供ができてそれを一人で育ててる砲丸投げの選手は「世界最強のシングルマザー」と呼ばれたりしている。
 他にも「空飛ぶスーパーモデル」、「世界一の美尻の持ち主」(棒高跳びでモデルもしている女子選手)、「ロシアの翼」(棒高跳びのロシア女子選手)などなど。
 砲丸投げの室伏は「叫ぶ最強DNA」だった。
 あと、私が個人的に好きだったのは、ロシアの砲丸投げの女子選手。なんか占星術のマークのようなものが書かれた奇妙なハチマキみたいなものをしていて、あれはなんだろうと思っていたら、その選手は砲丸投げのかたわら、占星術で生計を立てているというのだ。占星術師兼砲丸投げ選手って……。笑えるわぁ。
 エピソードとして面白いのは、ブルガリアの5000メートル世界一の美人選手がいて、その女が同じブルガリアの1500メートル世界一の女に対して、「あの女は醜いから一緒に走ったり練習したりするのはイヤよ」と公然と言ったもんだから、それから大モメにモメてしまって、今裁判をやっているというのだ(確かにその女子選手はお世辞にも美人とは言えない)。
 しかも、話はここで終わらず続きがある。よせばいいのに、その美人選手もますます腹を立ててしまって、今回の世界陸上では5000メートルではなく相手の1500メートルに合わせてエントリーしてきたのだ。やってくれる。これでますます面白くなってしまって目が離せなくなった。
 で、予選はそれぞれ別の組で走って、なんと二人とも1位で決勝進出を決めたのだ。おおおー、盛り上がるー。
 1500メートルはただでさえ陸上の格闘技と言われるほど激しい競技なのに、本当に大丈夫だろうか? 普段でさえ顔を合わせると冗談じゃなく髪の毛のつかみ合い寸前らしいのに。
 前代未聞のレース中のつかみ合い、もしくはどつき合いが観られるかもしれない。それこそ歴史的瞬間の目撃者だ。
 いやー、楽しみだなぁ。陸上に興味がなくてもこのレースだけは観ておいて損はない。レースは明日だ。
 
                   *
 
 いつだって、明日の自分は信じるに値する。
 
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 今日のための言葉
 
「ただ一切は過ぎてゆきます」
 
 太宰治『人間失格』より

 8月6日(月) 「同じ時、同じ場所で」

 単純な話なのに、単純ゆえに理解できないだけなのかもしれない。難しく考えようとしすぎて。
 この世界が私に投げかける問いが、私にはどうにも引っかけ問題のような気がして仕方がない。
 実はものすごく単純な答えが正解なのかもしれないという予感を一方で感じながらも。
 
 答えがあるから問いがあるのか、それとも問いがあるから答えが生まれるのか、どっちなんだ?
 
                   *
 
 たとえ、非凡が平凡より優れていたとしても、平凡もなくてはならない。
 世の中には平凡なものしか愛せない人もたくさんいるのだから。
 
 4番打者ばかりの野球チームが強くないように、世の中天才ばかりでは成り立たない。
 いろんな種類の人間が必要だ。縦にも横にも。
 
                   *
 
 一人旅に終着点はない。
 旅は出会うためのものだから。
 人は一人でいる間はずっと旅を続けなくてはならない。
 世界の終わりが来るまで。
 
                   *
 
 大切なのは、同じ場所で同じ時を共有すること。
 たとえ何もなくても、言葉が見つからなくても、一緒にいることが何よりも大事。
 どんなに好きでも離れていちゃ駄目なんだ。絶対に駄目なんだ……。
 
                   *
 
 終わってしまったことばかり思い出してしまう一日がある。今日がそんな日だった。
 たまにはそんなこともあるけれど、明日はもう過去は忘れよう。悪いこともいいことも。
 風化させていけない記憶なんて、たぶん何もない。
 悲劇も、不幸も、怒りも、すべて忘れてしまえばいい。
 幸福になりたければ、過去は忘れることだ。
 
                   *
                   *
                   *
 
 月曜は「あいのり」の日だ。
 たかがバラエティ番組。でもだんだんこの番組の重要度が私の中で増してきて、とても大きなものになっている。
 好きとか面白いとかを超えて、今では欠かせないものになった。感じるものがすごく多くて、いくつもの想いが生まれる。
 今日も良かった。来週はちょっとつらいことになりそう。
 
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 今日のための言葉
 
「分からない……。分かっているのは、彼女のことが好きだということだけ」
 
「あいのり」より

 8月5日(日) 「海を夢見る川」

 叶わずに消えた夢や、届かなかった好きはどこに消えてしまうんだろう?
 目には見えないけど、確かに実体だったはずのそれらの想念が本当に跡形もなく消えてしまうなんてことがあるんだろうか?
 宇宙のどこかに、そういう想いを葬る墓地があるのかもしれない。詩人が管理する、想いの墓地が。
 
                   *
 
 私の人生は流れる川で、命は水だ。
 山奥から細いほそい流れで始まった命の川は、いつか流れ着く海を夢見て、今日も流れる。時に速く、時に淀み、時折途絶えそうになりながら。
 今は人気のない深い森の中で流れが淀んでいる。止まってしまいそうなほど。
 こっちで正しかったのか? 海はまだまだ遠いのか?
 誰とも交われず、海へもたどり着けずに流れが途絶えてしまうことももちろんあり得る。
 でも、もし私の通った場所に川の流れができたとしたら、それは価値があるものになるはずだ。こっちからでも海にたどり着けるんだということを知らせることになるから。
 それにしても海はどこだ?
 
                   *
 
 人の魅力というのはその人の欠点に他ならない。欠けていたり、崩れていたりする部分が魅力の正体だ。
 だから、欠点の少ない人は魅力も少ない。
 その欠点を魅力的だと感じれば好きになるし、不快に思えば嫌いになる。それは人それぞれ。正解はない。
 欠点を隠すことはない。欠点を自覚した上で、自分の良い面を育てていけばいい。
 完璧になって誰にでも好かれようとすると、誰にも嫌われないかもしれないけど、誰も本当には好きになってくれないものだ。

 それにしても人間の価値観や美意識というのは、どこか壊れている。
 
                   *
 
 才能の正体は背中からしか見えない。正面からは見えないようになっている。
 月の向こう側が地球からは見えないように。
 
                   *
 
 本物の愛の冒険者は、人から人へ渡り歩く放浪者ではない。たった一人の理想の相手を求めてさまよう人間がそうだ。
 それはとても危険な旅だから、あまりしたがる人はいない。
 誰にも巡り会えず、旅先でのたれ死にする可能性が高いから。
 
                   *
 
 馬鹿な夢を見る者は馬鹿者だ。
 でも馬鹿者だけが夢を実現できる。
 夢を見なければ、永遠に夢は実現しない。
 
                   *
 
 人間が少しずつ灰になっていく時、最後の最後に残るのは自己満足なのかもしれない。
 もし、神が存在しないなら、人を救えるのは他人の評価でも金でもなく、自己満足だけだろう。
 最後の瞬間、「これでよし」と心の底から思えればそれ以上の人生はない。
 
                   *
 
 学校教育の一番間違っている点は、正解は必ずある、という教えだ。テストでも授業でも、正解があるという前提して、答えを見つけろという。
 それに慣れた生徒は、物事には必ず正解があるものだと思い込む。
 でも、実際、世の中で生きていく中で、正解のあるものなんてほとんどない。にもかかわらず正解を探さずにはいられない。
 で、正解でもないものを正解と思い込み、それで安心する。
 この構造はかなり問題がある。
 教育というのは、正解を教えることではない。正解を導き出すための方法を教えることが本当の教育だ。勉強を教えるんじゃなく、勉強方法を教えればいい。
 正解はない。もしかしたら数学さえも。
 
                   *
                   *
                   *
 
 観るつもりなど全然なかった「世界陸上」、気が付けばダラダラとほとんど観てしまってる。
 うっ、まずい。
 でも面白いからしょうがない。オリンピックほどではないけど、やっぱり私はスポーツを観るのが好きなのだ。人間のドラマが。
 明日、というか、今日このあと朝っぱらの6時から100メートルやハンマー投げがある。ううっ、楽しみだ。観なくては。
 
 それにしてもユージ織田だ。前回もさんざんあれこれ言われただろうに、まったく反省の色が見られない。
 やるな、ユージ。だから好きだ。
 今回も最初違和感があったものの、観ていくうちにだんだんヤツのペースに引き込まれて、3日目ともなるとすっかり馴染んでしまっている自分を発見する。
 これでいいのだろうか、私?
 でもどうせなら、応援解説はユージ織田とシューゾー松岡のコンビにして欲しかった。さぞかし面白いことになったろうに。
 いや、それはいくらなんでも邪魔くさいか? しかも、今は夏だけに暑苦しいこと間違いなし。
 やっぱりこのカップリングは夢で終わらせておいた方がよさそうだ。
 でも同級生二人、元気だなぁ。見習おう。
 
                   *
 
 この週末はすごく週末らしい週末だった。ルーズで前進感がなくて。どうも週末は動きが止まってしまっていけない。
 来週はお盆前ということで、それなりに準備もあって、やや変則的になりそうだ。
 ロングドライブはなし。オークションも控え気味にしなくては。
 なんにしてもここで流れを変えたい。今は流れがすごく悪くて、淀んでいるから。
 
 明日の予想最高気温は32度。
 寒いかもしれない……。
 
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 今日のための言葉
 
「かくなる上は是非もなし」
 
 織田信長(本能寺の変にて)

 8月4日(土) 「オレンジと藍色の出会う場所」

 私がしているのは、思い出せない夢を思い出そうとしているようなものなのかもしれない。
 見つけても仕方がないものを探し続けているという意味で。
 あるいは、自分では誰もいない未来を見ているつもりが、実はみんながすでに走り去った方向を見ながら後ろ向きに走っているのか。
 近くに人がいないから正確な判断ができない。
 私がしていることは競技ではないから仕方がないのだけど。
 
                   *
 
 冷蔵庫の中に物がいっぱい詰まっていることが豊かさの証ではない。
 必要最低限の物が整理されて入れてあって、それらをいつでもすぐに取り出せるのが冷蔵庫の理想だ。
 脳にも同じことが言える。知識をなんでもかんでも詰め込めばいいってものではない。
 冷蔵庫の中に入れていても物は腐るように、知識もまた入れっぱなしでは腐ってしまう。
 
                   *
 
 中途半端な正しさに自己満足してしまう人間が一番たちが悪い。
 こういう人間ほど進歩しようとする意志がないから成長しないし、周りの人間に正しさを押しつけようとする。
 正しさというのは、徹底的に追求して、追求し終わったら捨てるべきものなのだということを知っておかないといけない。
 正しさは安住の地でもないし、安全地帯でもない。
 
                   *
 
 若さは利用できるだけ利用すればいい。若いことはある意味では絶対的に正しいことなのだから。
 でも若さを失った時のことを少しは考えておいた方がいい。若いからという理由だけで許されたことは、若くないからという理由だけで許されなくなるから。
 若さを失ったと同時に死ぬなんて上手い具合にはなかなかいくものじゃない。
 
                   *
 
 長い目で見ると、物事を上手にこなす才能よりも、努力を続ける才能の方がずっと役に立つものだ。
 そう、努力というのは意志の力だけでどうにかなるものじゃなく、才能に分類されるものに違いない。
 
                   *
 
 何も否定しないで生きていくこと。それが目標。ちゃんとこの地上に足を着けて。
 
                   *
 
 誰の中にもたくさんの種類の好きがあって、それは全部正しくて優先順位なんてないものなんだと思う。
 好きはたくさんあった方がいい。それは悪いことじゃない。

                   *
 
 秋の夕焼け空のオレンジ色と、夏の早朝の藍色。私の探しているのはそういう色をした言葉だ。このふたつの出会うことのない色を同時に並べたい。そして、そこに風を吹かすのだ。
  
                   *
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 小松未歩以降、決定的な歌に出会えず、ここ1年くらい新しいアーティストの発掘を続けているのだけど、どうも当たりに巡り会わない。
 鬼束ちひろももうひとつだし、川村結花はいけるかもと思ったけど、どうも私の中で弾けない。いいゲーム曲を歌っている岩男潤子もオリジナルアルバムとなると何故か冴えが見られない。
 その前好んで聴いていた宇多多ヒカル、倉木麻衣、Misiaにももう興味がなくなってしまったし、男性ボーカルは今何故かまったく聴く気がしない。
 every little thing、中谷美紀、the brilliant greenあたりは残っているものの、決定的とは言えない。
 この先、私の中で小松未歩を超えるアーティストは現れないのだろうか?
 
 そんな中、今回新しく選んだのは、GARNET CROWだ。
 あまりメジャーじゃないかもしれないけど、「名探偵コナン」を観てる人なら覚えてるかもしれない。オープニングとエンディングで2曲かかっていたから。
 新しく出たファーストアルバムが新作明けになったので借りてきて聴いている。
『first soundscope〜水のない晴れた海へ〜』
 うん、なかなかいい。「Mysterious Eyes」と「夏の幻」はコナンの時によく聴いていたからいい曲だということは分かっていたけど、他の曲も悪くない。
 アルバムとしてはややメリハリが足りなくて地味な印象も受けるけど、ちょっと聴き込んでみよう。何か感じるものがありそうだ。
 
 思えば私は昔からマイナーとメジャーの中間くらいのアーティストにけっこう惹かれることが多かった。
 たとえば安藤秀樹や日浦孝則などがそうだ。彼等の曲は今でも私の中にしっかり残っていて、今聴いてもいい曲だと素直に思える。たぶん、この2人を今でも覚えてる人はあまりいないだろうけど。
 あと、もっとメジャーなんだけどもうほとんど忘れ去られてるアーティストも何人か残っている。小比類巻かほるだとか、渡辺美里だとか。
 どうやら、あまり一般受けはしないけれど才能や実力のあるアーティストと一番合うらしい。トーンの問題だろう。
 あ、でも逆に言えば、私に好かれるアーティストはメジャーになりきれないということかもしれない。
 GARNET CROWの未来もあまり明るくないか?
 
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 今日もまた、なんとも半端な一日になった。良くもなく、悪くもなく。
 やくざのランクで言えば、チンピラクラスの一日だ。
 あ、このランク付けは面白いかもしれない。今日はけっこう頑張ったから「若頭ランクの一日」だったとか、今日は例外的で特殊な一日だったから「客分クラスの一日」だったとか、今日は文句なしにいい一日だったから「親分クラスの一日」だったとか。
 明日はせめて舎弟クラスを目指そう!
 ……。
 って、たぶんこのランク付けは今日一日で終わりだな……。
 
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 今日のための言葉
 
「もう二度と 迷わないように
 その腕を 離さないで……」
 
 GARNET CROW(AZUKI 七)「Mysterious Eyes」

 8月3日(金) 「下手な考え休むに似たり、という一日」

 最近、毎日にきしみ感みたいなものがない。
 少し前まで、毎日時間が足りなくて、ぎしぎしときしむ感じがあったのに、今はそれが消えた。時間が私の中でゆっくりと流れている。
 一日は長くはないけど、短いという感じもない。ちょうどいい。
 毎日やっていることはさほど変わってないつもりなのに、一体何が変わってしまったのだろう。一日の内容が前より薄くなっているのだろうか?
 あまりにも時間に追われるのはけっこう苦痛だったから、今の方が好きなんだけど、でもやっぱりこれはあまりいい傾向ではない気がする。
 楽だと感じるのは正しくない証拠だろう。
 もう少しすべてにおいてスピードを上げていかないといけない。
 それと、なるべくルーズにならないようにして、もっとメリハリをつけなくては。
 とにかくこのままじゃいけない。ただ、前みたいに戻すんではなく新しいスタイルを探そう。過去の自分の物真似をしても過去の自分以上にはなれないのだから。
 
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 一日の中心は「FF9」になっている。気持ちの面でも、時間的にも。
 まあ今はこれがあるから、他事がある程度飛んでしまうことは仕方がない。これは特別なもので、今は例外的な時間なのだから。
 来週にはたぶん終わるだろう。そうしたらまた正常に戻るだろう。
「FF10」を始めるまでは、だけど。
 
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 PCモニタ買い換え計画は本格化してきた。
 またオークションやネットで調べまくって、モニタ博士になりつつある。17インチのCRTなら私にお任せを、と言いたいくらいだ。
 道は2つ。ある程度の満足を得られるという最低条件の中でなるべく安いモニタにするか、それとも高い金を出して満足を取るか、だ。
 これはすべての買い物の基本なんだけど、モニタの場合、でかくて送料がかかって置き場所に困る、ということがあるからなるべく失敗したくない。だからよけい迷ってしまう。
 一番欲しいのはVAIOカラーの17インチで、1万5,000円くらい。
 でも同じくらいの性能で普通の白いモニタなら三菱あたりが7,000円くらいで買える。
 うーん、倍違うと考えてしまう。しかも、今回は切羽詰まってなくて、どうしても必要な買い物ではないだけに。
 あと、モニタは故障とまではいかなくても色々不具合が出やすいものだし、壊れるともう修復不能だけにあまり冒険もしたくないというのもある。
 1万5,000円ならVAIOのを買っておけばいいかなとも思うのだけど、7,000円で買えるなら残りの8,000円で何かもっと他に必要なものを買いたいとも思ってしまう。
 こうして思考は同じところをぐるぐるぐるぐる巡るのだった……。
 それに加えて、VAIO本体とセットで買って、モニタだけ手元に残して本体だけ売ってしまった方が安くあがるんじゃないかとか、そういえばS-VHSビデオデッキも欲しいんだった、などと余計なことを思い出したりして、思考はますます混乱していくのである。
 アホや……。
 はてさて、どうしたものか。
 
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 今日はこんな感じで非常にしょぼい一日だった。特に何もない。
 でも、少しは感じることもあり、思い出したことなどもあって、それらはまだ今は形になってはいないけれど、もう少し時間が経てばもっとはっきりとした思いや言葉になるはず。
 未来につながってない日はない。
 
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 今日のための言葉
 
「生きてるってこと証明できなければ、死んでしまっているのと同じなのかなぁ……。」
 
「ファイナルファンタジー9」より

 8月2日(木) 「見ているけど見えていないこと」

 見ていても見えてないことは多い。
 人間は、目から入ってくる情報のほとんどを捨てている。とても大胆に。
 たとえば、道を歩きながら、車を運転しながら私たちが見ているものは思っている以上に少ない。
 一日の終わりに今日実際に自分が目にした風景を最初から思い出してみようとしても細かい部分はほとんど覚えていないだろう。思い出せるのは風景の中のごく一部だけだ。それと、長年蓄積された固定記憶と。
 私たちは、一番近くにいる人のこともあまりよく見てないのではないか。見ているようで見えていない。
 一番近くにいる人の似顔絵を描けるだろうか?

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 徹底的な被害者になるか、徹底的な加害者になるか、後悔しない道はこの二つしかない。
 つまり戦うか戦わないかだ。
 その場に応じて戦ったり逃げたり、などという半端なことをしていたら、結局は詰まらない敗者で終わってしまう。
 勝ち負けは関係ない、戦うか戦わないかだ。それをきちんと自覚して選択しなくては。
 
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 正しいことを言える人間は多い。けど、正しいことを正しく言える人間は少ない。
 勉強しなさい、一所懸命働きなさい、毎日を大事に生きなさい、自分を大切にしなさい、人生は短いんだから悔いのないように……。
 そんなことは誰でも知ってることだ。そんな当たり前のことを上から言われて、なるほどそうですか、と素直に納得する人間なんているはずもない。
 ということも本当は当たり前なのに、こんな当たり前のことにさえ気づかない無神経な人間がとても多い。
 正しいことを言うのはすごく難しい。その方向と角度と強弱を、相手と内容によってきちんと調節しなければいけないのだから。
 正しいことは誰でも言える。でも正しく言えないのなら口を閉ざすべきだ。自分の仕事ではないということを自覚して。
 
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 世界を上から眺めてみると、この世界は恐ろしいくらいにきれいだ。色や形や模様や光が。
 でもその場所は立つ位置としては正しくない気がする。生きることはそんなにきれいなものじゃないから。
 私たちの生活や人生は、高台から見たきれいな夜景のその中にある。光を眺めるより光を作る側でなくては。
 
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 運命は弱者の幻想であり、強者の言い訳だ。
 運命がもしあったとしてもそれは障害物であって利用すべきものではない。
 自分の意志以外にどんな思惑があったとしても、自分のやることを決めるのは自分であり、その全責任は自分にある。言い訳なんてできるはずもない。
 運命や奇跡なんかの杖に頼っているうちはいつまでたっても自分の足で歩くことはできない。
 
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 たとえばこういうことがある。
 自分が愛されている時には相手をあまり愛せないのに、相手の愛が冷めかけていることに気づいたとたん急に本気で愛するようになる、ということが。
 この現象や状況を逆の立場から見るとこうなる。
 自分が望むほど相手は自分を愛してくれてないからもっと愛されたいと思って愛す。でも相手の愛が充分足りてしまったらもう愛せない。
 そういうことだ。
 人は足りない愛を自分の愛で埋め合わせているだけなのかもしれない。
 愛はすれ違う。誰のせいでもなく。
 
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 世の中には、気が強くていつも怒っている女と気が弱くて調子がいい男のカップルというのがけっこういて、他人からするとなんでこの2人はくっついてるんだろうと不思議に思うのだけど、実は不思議なことではないのだ。
 つまり、女は怒ることが好きで、男は怒られることが好きなだけなのだから。女は怒ることで精神のバランスを保ち、男は怒られることで安心感を得ているのだろう。
 似ている人間同士だけがカップルになるのではなく、こういうふうに互いに補完し合うカップルも多い。
 でも私はこういうのは嫌だ。私は自分に似ている人が好きだから。
 
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 人生の成功者は、人生が実は無数の奇跡の上にかろうじて成立しているということになかなか気が付かない。
 当たり前のように結婚した人間が結婚というのは奇跡だということを知らないように。
 
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 自分がどんなに変わった人間であろうと、変わった生き方をしていようと、自分が確かにそういうことをしている以上他の誰かも同じことをしている可能性は充分にある。
 なのに、人は自分と似た人間はいないはずだと思い込む。何の根拠もなく。
 同じ人間はいないけど、自分と同じことをしている人間はけっこう多いものだということを自覚しておいた方がいい。自分だけが特別なんだという意識は自分にあまりいい影響を与えない気がするから。
 
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 知らないから書けることが確かにある。人は知っていることだけを書けるわけではない。
 書かれた文章はすべて、誰かに宛てたラブレターのようなものだということを知っているだろうか。
 書くという行為は一種の祈りでもある。
 世の中には祈る人と祈らない人がいる。そして、書く人と書かない人がいる。
 祈らないで済む方が幸せなように、書かなくて済む人は幸せだ。
 
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 明日予定していた富士山見学ドライブはまたまた延期になった。どうも気力が足りない。
 暑さもあるけどそれだけでもない。今は、なんというか、頑張る必然性が弱いのだ。少し前まであった頑張る必然性が消えた今、どうにも積極的に動けない。
 今年の中盤以降確かにいろんな部分で流れが変わったのに、まだその変化についていけてない。できることなら流れを元に戻したいと思ってしまっている。そんなことは無理だし意味がないということだと分かっているのに。
 変えるためには何か新しい要素が必要だ。人か、物か、行動か、とにかく新しい何かがないと変われない気がする。
 
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「ファイナルファンタジー9」はそろそろ中盤に入った。ここまでまったく中だるみはない。楽しさも最初と変わっていない。大したものだ。
 パーフェクトなゲームなど存在しないけど、ここまではほぼ満点に近い。ケチのつけどころが見あたらない。
 ここまで隙がないゲームは「FFタクティクス」以来だろう。
 後半は、ストーリー以外でやり込める部分も増えてくるだろうからますます楽しみだ。
 
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 映画『パトリオット』を観た。
 面白いとか楽しいとかいうのとはほど遠いけど、観て感じるものはたくさんあった。だからいい作品だと思う。
 この作品を観て、人間は本来、残虐的で凶暴な生き物なんだということを思い出した。作品の中のメル・ギブソンの怒りは私の怒りでもあり、それは人間が本来持っている本能だ。私がもしその場にいたら、私もおそらく殺戮者になっていただろう。
 それと、これを観て、アメリカのプライドの拠り所が初めて感覚的に分かったのだ。
 アメリカ人が独立を勝ち取るまでに流した血と汗と涙は私が想像するよりもずっと多かったに違いない。そのことがふいに分かった気がした。それが分かったら、現代アメリカ人のスピリットや傲慢さも自然に理解できた。
 要するにアメリカ人の心の拠り所は、自分たちだけの力でほとんどゼロから始めてここまでに成り上がったんだという誇りなのだろう。そのプライドが他の国から見ると傲慢に思えたり、時には田舎臭かったり泥臭かったり滑稽だったりするんだけど、でも彼等にしてみたらこのプライドが絶対的なものなのだ。
 それは、一代で会社を興し、大企業にまで成長させた企業家の誇りや強さと同じ種類のものだろう。
 アメリカ人のプライドが正しいかどうかはともかく、なんとなく釈然としなかったアメリカ人の強気な態度の根拠が理解できたのは大収穫だった。
 この作品の出来自体はそれほどのものではないし、他の人が観て私と同じような感想を持つことはあまりないかもしれないからおすすめはしない。でも、ありふれた娯楽作品を観るよりこっちの方がいくらかはためになる。
 いい映画ってのは、出来の良し悪しでも、面白さの量や質でもない。観る前と観た後では違う人間になっている、それがいい作品だと私は思っている。
 
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 毎日誰にも謝らず、言い訳もせず、少しは人から感謝されて……。
 そんな生活は幻か……。
 でも、負い目を感じずに済む生活が恋しい。
 それは、少年時代の夏休みですでに終わってしまったのだろうか?
 
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 今日のための言葉
 
「VISSE(生きた)
 SCRISSE(書いた)
 AMO(愛した)」
 
 スタンダール墓碑銘


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