2011.9.11-

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 2013年3月7日(木) 「懐メロではなく」

 懐メロに未来はない。
 それがどんなに心地よく響いたとしても。
 僕たちはあそこから来て、今ここにいる。
 今の曲を聴いて今を生き、先へ向かわなくてはいけない。
 過去に答えはなかったのだから。

 2013年3月3日(日) 「引いたり落ちたり」

 風邪の引き始めと恋の始まりは似ている。
 あ、来たなと分かる。
 油断していると、ある日、唐突に捕まってしまう。

 2012年5月25日(金) 「センチメンタル」

 幸福になる鍵は、センチメンタルかもしれない。
 感傷は悲しみの反動としての愛おしさを心に呼び込む。
 この世界に在ることを愛することこそ幸せの本質だ。
 心が強すぎては、生きることを愛せない。

 2012年3月2日(金) 「説得」

 楽をしても良いことは何もない。
 そう自分に言い聞かせる。
 説得にいつも成功するとは限らないけれど。

 2012年2月16日(日) 「自由」

 縛り付けるものが多ければ不自由を感じ、自由になりたいと願う。
 けど、手枷足枷が取れて解放されてみれば、憧れていたほど自由はいいものじゃない。
 案外、寂しくて虚しいものだ。
 不自由な中で、喜びを見いだして、ありがたみを感じていた方が、心は健全でいられる。

 2012年2月19日(日) 「未来へ」

 過去に救いはない。
 未来へ行って、過去を救うしかないのだ。

 2011年9月27日(火) 「分からなくてもいいのかも」

 いったんは分かったようなつもりになっていたことが、また分からなくなってきている。
 分かるという感覚は永続性のあるものではないらしい。
 そんなことを、この年齢で実感することになった。
 これからも分かるようになったり、分からなくなったりを繰り返していくのだろう。
 最終的には、結局何も分からないという結論であってもかまわないような気がしている。
 すべて分かったと思ってしまえば、そこで終わりになってしまうだろうから。
 分からないことに絶望せず、分からないまま先を目指していけばいい。
 分かるということは、それほど大切なことではないのかもしれない。
 すべてが分かるようになりたいと強く願っていた20代の自分に、そんなことを言っても貸す耳は持たないだろうけど。

 2011年9月26日(月) 「人類の幸福」

 人間の社会において、幸福というものが重要なキーになっていることは間違いない。
 しかし、地球や宇宙まで規模を広げた場合、当然のことながら、人間の幸福がすべてにおいて優先するわけではない。
 人間の幸福と、世界の在り様を、どうやって両立させていくかを考えるのも、人類にとってはとても大切なことだ。
 譲るべきところは譲る必要もある。
 人類がもっと成熟すれば、幸福というものがそれほど重要なことではないことに気づくはずだ。
 しかし、それまでにはまだ長い時間がかかるだろう。
 地球が人間の成長を待ってくれるかどうかは、分からない。
 タイムマシンというのは、人類の失敗が産み出す産物に他ならない。
 成長が間に合わずに取り返しがつかなくなったとき、人間は過去に戻ってやり直すしかないと考える。その時初めて、必要に迫られてタイムマシンは完成することになる。
 今現在、タイムマシンが存在していないということは、実はとても良いことだ。まだ待ったなしのところまで来ていないということだから。
 時間があるうちに、人類は自らと世界の両方を救わなければならない。

 2011年9月23日(金) 「経験の範囲内で」

 誰でもすべての経験ができるわけではない。それぞれの経験の中で、生み出せるものを生み出していけばいい。
 十全である必要はない。
 個が集まって全体を形作っているのだから、自分は一つの個でいい。
 しっかりと光を放ってさえいれば、必要十分だ。
 自分のところだけドット欠けにならないように。

 2011年9月20日(火) 「もっと先へ」

 結果に惑わされることなく、いつも変わらず先を目指して進んでいくことが大切だ。
 悪い結果に沈んだり、良い結果に浮かれたりすることなく。
 結果は遅れて出てくる。
 けど、その場所に自分はもういない。
 もっと遠く、更に上を目指そう。
 立ち止まっている時間はない。

 2011年9月19日(月) 「証拠探し」

 探しものを見つめるために、うろつき回るより他に方法がない。
 探しているのは、この世界を肯定するための決定的な証拠のようなものだ。
 現場百回精神で、諦めずに、粘り強く。
 状況証拠ではなく、物的証拠が必要だ。
 そのための手段や道具として写真があると考えている。
 とにかくうろつき回ることだ。今日が駄目ならまた明日も。

 2011年9月18日(日) 「生きていることの絶対性」

 死は相対的なもので、生こそが絶対的なものだ。
 生きていなければいけない理由はたくさんある。生きていなければ味わえないあれやこれやが。
 生きることは自由を得ることだ。それは、ある意味では、何をしてもいいということでもある。
 現実的に言えば、可能性であり、選択肢であるだろう。
 死にはそれがない。
 生きていることの圧倒的な幸運を活かすべきだ。
 もっと自由を感じ、自分の可能性を求めてなければならない。
 明日からと言わず、今すぐに。

 2011年9月16日(金) 「正しさを超えて」

 正しさに辿り着くことが目的ではない。
 正しさを超えていかなくてはならない。
 正しさの向こう側にあるものが何なのか、それを自分の目で確かめる必要がある。
 正しさに安住するのではなく、正しさを捨てるべき時期がやがて来る。
 正しさは重要なキーではあるけれど、最後の扉を開く鍵ではない。

 2011年9月15日(木) 「誠意は態度で」

 誠実であることはもちろん良いことではある。
 ただ、誰にも彼にもいい顔をすることは、かえって不誠実なのかもしれない。
 逆に説得力を失う。
 できないことはできない、やりたくないことはやりたくないと、正直に認めることも大切だ。嫌いなものは嫌いで仕方がない。
 ただの優等生を超えたスーパーマンになれるというのなら、話は別なのだけど。
 誠意を見せるという言葉だけでは安っぽい。
 本当に誠実であるというなら行動で示し、きっちり結果を出してみせる必要がある。
 守れない約束をしてはいけない。

 2011年9月14日(水) 「もらうよりあげたい」

 多くをもらって喜ぶよりも、多くをあげられる人を目指したほうがいい。
 自分は何をどれだけあげられているだろうか。
 足りないと思えば、もっとあげあられるようになるにはどうしたらいいかを考えなくてはならない。
 もらうことは悪いことじゃない。
 ただ、もらいっぱなしで全部自分で抱えてしまうことは恥ずかしいことだ。
 あげることに喜びを見出す人でありたい。

 2011年9月13日(火) 「過去でも未来でもなく」

 日々が早く過ぎないで欲しいと思いながら、一方では早く待っている未来が来て欲しいと願いもする。
 人は過去にしがみつきながら、遠くを眺めて夢を見る。
 地に足をつけて歩くことを怠け、時間に運ばれるままに任せてしまう。
 過去を切り捨てることも、未来に向かって焦ることもない。ただ、しっかりと今日という日を生きなければならない。過去にも未来にもとらわれることなく。
 過去はどうやっても遠ざかっていくし、未来はいつかやって来る。
 時間の速度は一定でも、自分次第で日々の速度は変わる。
 少し早足くらいがちょうどいい。

 2011年9月12日(月) 「個別の戦い」

 みんなが幸せになればいいなどというのは、あまりにもセンチメンタルで、無責任な言い草だ。
 全員が幸福になるなんてことは、現実的にも、理論的にもあり得ない。
 天国なら実現するといっても、天国に入るための選別をした時点で、全員ではなくなる。
 みんなを天国に入れてしまえば、そこは地上と変わらない。
 この世界に不幸がなくなることは決してない。けど、だからといって最初から諦めてしまうのは、諦めがよすぎる。
 どうせ死ぬんだから病気など放っておけというわけにはいかないのと同じように、たとえ撲滅できないと分かっていても不幸はなくす方向でいかなければならない。
 個人としては、半径5メートルとか10メートルの範囲で、不幸と戦って、幸福を実現することを考えたい。
 自分さえよければいいというのではなく、まずは小さな半径から始めて、その輪を大きくしていくというのが方向性だろう。
 幸福と幸福で挟み込めば、間にいる人も幸福にひっくり返せるかもしれない。

 2011年9月11日(日) 「心を高めるために」

 心を高めていくには、何をどうしたらいいのか。
 これさえやればいいということはなく、できるだけたくさんものを取り込むより他に方法はない。
 よく学び、よく経験すること。
 多くを飲み込み、消化することで、心は豊かになる。
 更に高みを目指すなら、それはもう、修行のたぐいしかないのだろう。
 普通に生きているだけで何者かになれるとは思わない方がいい。


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