2010.9.15-

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 2011年9月10日(土) 「責める危うさ」

 他人を責めることの危うさは、その人の中に自分の反映を見るからだ。
 他人は自分を写す鏡で、自分が見ている他人は自分の姿だということを知らねばならない。
 他人を責めれば、自分も同じ過ちをする可能性が高くなる。
 人の良い面を見るようにした方が、自分自身も良い方向に向かう。
 自分が良い面を見せれば、他人が自分を見て、良い方向に向かう。
 悪影響を与え合うより、良い影響を与え合ったほうが建設的だ。
 他人を責めてはいけない。それは自分を責めることでもあるから。

 2011年9月9日(金) 「自己救済」

 おためごかしの言葉では、その場しのぎの慰めにしかならない。
 必要なのは、自らを根本的に救うための方法論だ。
 宗教がそれに失敗していることは、歴史が証明している。
 自分の世界観の中で、どうすれば自分の心を救出できるかを、それぞれが考え、見つけ出さなければならない。
 人生の先輩は、そのことに対して、少しだけアドバイスができる。与えられるのは、ヒントまでだけど。

 2011年9月8日(木) 「秘密を解く鍵」

 人生には秘密があって、その箱を開けるには鍵が必要となる。
 ぼんやり生きていたら鍵は見つからない。偶然手に入ることはあっても、探す努力をしなくてはいけない。
 他人が見つけた鍵をもらっても、自分の中の箱は開かない。
 箱の中には秘密の答えが入っている。なるほど、そういうことだったのかと、納得できる答えが。
 生きている間にどれくらいの鍵を見つけることができるか。
 たとえパンドラの箱だったとしても、それを開けないという選択肢はない。
 人生の秘密を、たくさん集めたほうが勝ちとなる。

 2011年9月5日(月) 「せめて幸福に」

 世の中の役に立たないのなら、せめて幸福な人生を送ることだ。
 天才を与えられた人間は、世の中に奉仕する人生を強いられる。
 何も与えられなかった人間は、幸福になる自由を得る。
 無名であることの幸運を。
 幸福になることは権利でもないし、義務でもない。可能性の問題だ。
 幸福になって見返すというのでもいい。
 何の役にも立たず、おまけに不幸というのでは、立つ瀬がない。
 笑って生きれば、世の中も少しは明るくなるだろう。

 2011年9月4日(日) 「肯定のために」

 人生を肯定するのは、ある意味ではたやすい。
 しかしそれは、限定的なものでもある。たとえば、恋愛が上手くいっているときとか。
 人生は肯定すべきだと思う。
 けれど、安易に肯定すべきものではない。
 否定派に対抗できる強い説得力を持った論理でなければならない。
 そのためには絶望も知らなければならないし、何より自ら否定し、その否定を否定して肯定するという過程を経る必要がある。
 人生の問いは決まっている。何故生きるのか、という永遠のテーマだ。
 その問に対する答えを出すことが生きることだ。
 肯定できれば正解だし、できなければ不正解ということになる。

 2011年9月3日(土) 「もっと早くもっと先へ」

 焦りすぎては足がもつれ、手につかないことになるとはいえ、急がなければ進む速度は上がらない。
 のんびりゆったり散歩気分では困る。
 先を目指すなら、ただの勉強では足りない。ときには猛勉強が必要だ。
 無理は禁物というけれど、無理を承知で頑張らなければならない時期もある。
 休むときは休んでもいい。ただ、怠けてはいけない。
 行くときと止まるときの見極めが大切だ。
 さあ、急ごう。もっと足取りを早めて。

 2011年9月2日(金) 「バカになれるかどうか」

 ひとつのことに打ち込めば、その道のバカになれる。
 バカというのは褒め言葉でもある。
 バカになれない人間の方が、本当はかわいそうなのだ。
 何でも人並み以上にできるよりも、何か一つでも誰にも負けないものを持っていた方が格好いい。
 得意なことはひとつでいい。
 それは、自分が一番好きなことでなくてはならない。

 2011年9月1日(木) 「旅は続く」

 旅はいつか終わる。
 それが今日、明日であったとしても不思議ではないし、文句は言えない。
 旅よ終わらないでくれと願うのも無意味だ。
 終わると分かっている旅をすることに意味があるのかと、自問自答する必要はない。
 旅は続く。
 一つの旅が終われば、次の旅がまた始まる。
 だから、終わりを憂うことはない。
 続く限り、旅を続ければいい。そのこと自体が、旅の目的だ。

 2011年8月31日(水) 「正しくないかもしれない」

 自分は正しいと思い込んだ瞬間から、間違いは始まっている。
 常に自分は間違っているかもしれないという疑いを抱いておく必要がある。
 自分の中に間違いは必ずある。
 それは、正していかなければならない。
 間違いを間違いと認めることが第一歩だ。間違いを間違いのまま放置すると、間違いをこじらせることになる。

 2011年8月29日(月) 「日をつなぐ」

 繰り返す毎日に、同じ場所をぐるぐる回っているだけのように思えてしまうけど、そうじゃない。螺旋を描いて回りながら上昇している。ちゃんと進んでもいる。
 毎日をつないでいくということは本当に大事なことで、人生は一回途切れてしまえば、それで終わりになってしまう。続きはない。
 どんな生き様でも、日々をつなげていくことが最も基本的なことであり、一番大事なこともでもある。
 同じ日は一日としてない。新しい一日の中には、何かしら新しいことがあって、それは新しい一日を生きなければ決して得られなかったものだ。
 毎日は未来に向かう上で糧になっている。無駄に思えることも、どこかで活きてくる。
 一日ずつ生きていけば、振り返ったとき、思いがけず遠くまで来たことに気づく。
 何も起こらない日々を無駄とは思うまい。

 2011年8月28日(日) 「学んで短縮」

 人生はすべてを自力で学ぶには短すぎる。
 だから、親や先生や先人たちに教わり、学ぶのだ。それが学びの時間短縮につながるから。
 2時間で読み終えることができる本の中にも、作者の人生のエッセンスがたくさん詰まっている。
 人の言うことはどれだけ聞いても聞きすぎということはない。
 他人の言葉は天の声だと思わなけれはならない。
 学んだことは、次の世代に引き継いでいくことになる。次は私たちよりももっと短い期間で同じ事を学び取ることができる。
 人間の寿命が伸び、早く学ぶことができれば、もっと多くのことを成し遂げられるようになる。
 制御不能なほど加速して、どこかへ吹っ飛んでいってしまうことがあるかもしれないけれど。

 2011年8月27日(土) 「人生の肯定」

 人生は常に肯定し続けないと、否定に傾いてしまう。
 だから、日々、全力で人生を肯定しなくてはならない。
 自分に対しても、誰に対しても。
 否定と戦うことが生きることだ。
 生き続けることで人生には意味があるのだということを証明してみせなくてはならない。
 肯定に説得力を持たせるためには、なすべきことがある。
 まずは自分が幸福になってみせることだ。肯定はそこからしか始まらない。

 2011年8月26日(金) 「目標のその先」

 目的と手段の境界線は、ときに曖昧だ。
 目的だったはずのものがいつの間にか手段になっていたりする。
 その逆もある。
 たとえば、勉強、仕事、結婚。
 人生の目標は、もしかしたら手段かもしれない。
 幸せになることが目的なのではなく、幸福を手段として何がしたいのかを考える。
 お金持ちになっても、上手く使いこなして幸せにならなければ意味がない。
 目的と手段を必ずしも明確に区別する必要はない。
 大切なのは、目標を実現したその先のことだ。
 夢が叶えばめでたしめでたしで終わるお伽話とは違う。夢が現実になった先で、自分は何をすべきなのかを自覚しておく必要がある。
 目標の向こう側が見えていないと、早々に行き詰まる。
 見失わないぎりぎり遠くに、最終目的地を置いておくのがよさそうだ。そこまでいければ、もう終わってもいいと思えるような目標を。

 2011年8月25日(木) 「変換作業」

 自分の中に湧き上がったマイナスの感情を、そのまま肯定しないことだ。
 今日は暑いから嫌だとか、雨降りだから憂鬱だとか、そういう気持ちに共感すると、それが事実になってしまう。
 暑いときは暑さを楽しみ、雨の日には雨の喜びを見出していくことで、マイナスはプラスに転じる。
 疲れて何もしたくないときは、自分を褒めて褒美をあげるという口実で動くこともできる。
 大事なのは、目の前の状況を好転させることだ。そのためには変換が必要となる。
 変換が上手ければ幸福が増えるし、変換ができないと不幸ばかりになる。
 物事は自分にとって都合が良いように解釈すればいい。
 悲観的になって自分を守ろうとするのは、とても下手なやり方だ。
 楽観のノーガード戦法が、一番強いのかもしれない。

 2011年8月24日(水) 「自分との一期一会」

 昔はできたことができなくなると、悲しくもあり、嘆きたくもなるけど、昔の自分ができたのだから、それでいいと思い直す。
 今の自分にしかできないことがたくさんある。今はそれをすればいい。
 未来の自分は、過去にできなかったことができるようになるだろう。
 自分という存在は、時間を移動しながら、すべの時間軸上に存在している。
 過去のどこを切り取っても自分がいて、切り取ったすべての自分は同一ではない。
 大げさに言えば、瞬間の数だけ別の自分が存在することになる。
 少なくとも、昨日の自分と今日の自分は違う。今日の自分と明日の自分も、別の存在だ。
 毎日は今日の自分と一期一会だと思わなければならない。だからこそ、今日しかできないことを優先してするのだ。
 寝るときが、今日の自分との別れとなる。
 起きたときが、新しい自分との出会いだ。

 2011年8月23日(火) 「終わりは突然」

 物事の終わりは、いつどんな形で現れるか、予測ができない。
 日々後悔しない生き方をすることも、覚悟を決めることも、難しいことだから、せめてそういうことがあるという事実だけは知っておくようにしたい。
 他人事としてではなく、自分のこととして。
 今日が終わりの日にならないように、願うしかない。
 明日があることの幸せを思わなければならない。

 2011年8月22日(月) 「進めるだけ」

 たいていの人生は先細りで、そんなことは当たり前だから、嘆くには値しない。
 若い頃はどんな方向へも進めた。
 子供の頃は目の前に180度の世界が広がっていた。
 大人になれば、道は30度になり、10度になり、徐々に狭まっていく。
 つっかえて進めなくなるところまで、この道をいくしかない。今更、右も左もない。
 道が狭くて肩に当たるくらいで文句を言ってはいけない。体を横にしてでも進めるだけましと思わないと。
 この細道を行けばどこへ辿り着くのか。答えは行ってみた先にある。
 まだ進める。

 2011年8月21日(日) 「心の声を聞け」

 心の声を、聞いているようで聞いていない。
 聞こえているけど聞き流している。
 もっと耳を傾け、きちんと聞き届けることが必要だ。
 その声を聞き取ったならば、開放してやらなければならない。表現して形にしたとき、初めて心の声は結実する。
 耳を澄ませば、遠くの方から小さな叫び声が聞こえる。
 心の声に応えたい。
 もう一歩前へ。

 2011年8月20日(土) 「自分との約束事」

 約束は守るためにもあり、破るためにもあるわけだけど、自分との約束事はとりわけ大事にしなくてはいけない。
 約束を果たさなかったからといって誰が困るわけではなくとも、自分との約束は守るべきものだ。
 自分を信じるために。
 あまりにも簡単に約束を破られてしまうと、だんだん自分が信用できなくなる。約束をしても無駄と思ってしまうのが怖い。
 たとえば約束事というのは、寺社でする願い事のようなものだ。あれは神様に丸投げするのではなく、自分が叶えたいことに対して手助けをお願いするというのが本当のところだ。やるのはあくまでも自分であって、神様ではない。
 自分との約束は、きっちりした方がいい。曖昧にせず。
 約束を守ったからといって誰も褒めてくれないけど、自分に対する信頼を高めることはできる。信じられない自分より、信じられる自分の方がいいに決まっている。

 2011年8月19日(金) 「気づきのために」

 人生は、気づきのために与えられた時間のことだ。
 人から教わることも、学ぶこともあるけど、結局のところ、自分自身で気づけなければ本当に分かったことにはならない。
 頭で理解し、心で納得できたものが、気づきということになる。
 それは悟りとか神とか宗教とかのことではない。この世界の存在に対する認識のことだ。
 生きているとときどき、心の底から、ああ、なんて素敵な瞬間なんだと思うことがある。
 つまりはそれが、この世界の本質なのだ。

 2011年8月18日(木) 「真摯であれ」

 真面目であることより、努力をすることより、真摯であることを自分に課したい。
 真摯であるということは、自分がやると決めたことに対して忠実であるということだ。
 姿勢の問題として。
 どうしても弱い心に負けて怠けたいと思う日もある。そんなとき、いかに真摯であれるか。
 ちょっとくらい休んでも、大きくは変わらない。けど、怠けてしまえば、負けになる。
 なんでもかんでも真面目に取り組めというのではない。好きなことくらいは全力でやろうぜという話だ。

 2011年8月17日(水) 「ただ進むことを」

 前へ進むということはどういうことか。
 二本の足を交互に前へ出すことだ。
 難しく考えるから難しく思えるだけで、単純に考えればごく単純なことだ。
 道に迷ったり、自分の居場所が分からなくなったときは、ただ歩くことだけに意識を集中すればいい。
 前へ進みさえすれば、状況は変わる。とどまっていれば変わらない。
 いつまでも暗闇が続くことはない。進み続ければ、やがて視界は開ける。
 とにかく足を前に出し続けていれば、どんなに遠い目的地にも必ず辿り着く。
 左足、右足、左足、右足。

 2011年8月15日(月) 「生と死の世界」

 生者と死者は互いに補完関係にあり、どちらか一方では成り立たない。
 どちらかがどちらかの支配者ではないし、表と裏は流動的に逆転する。
 生は生として存在し、死は死として存在する。死は生の変換ではない。
 生者は死者のために生き、死者は生者を支える。
 その関係は固定的なものではない。現在の生者も死者となり、役割を変える。
 生きている人間は、死んでいる人間の存在を思い、支えを知らねばならない。そうすれば、幸福な関係が築ける。
 世界は目に見える表側の光だけで出来ているわけではない。昼と夜は同時にあることを思えば、生と死が同じように存在していることも理解できるはずだ。

 2011年8月14日(日) 「単純化しない」

 人生は単純なものではないから、単純化するのは間違いだ。
 複雑なことは複雑なまま、分からないことは分からないままにしておく必要がある。
 いつか説明できるようになるかもしれないし、ならないかもしれない。
 考えていたよりも単純だったということになるかもしれない。
 危険なのは、分からないことを分かったつもりになることだ。そうすると、よく見なければいけないことを見なくなり、視点が単純化してしまう。
 この世界の複雑さを理解しなければならない。それは、そう簡単なことではない。簡単ではないから面白いのだ。

 2011年8月13日(土) 「今日の自分がやれること」

 やることがないことほど不幸なことはない。
 やりたいことがたくさんあれば、それだけでもう幸福と言える。
 時は思うよりも早く過ぎる。持ち時間は考えているよりも少ない。
 のんびり構えている場合ではない。
 今日やれることは明日に回さない。
 今日の自分は、昨日力尽きた自分の希望を託されている。そう思えば、簡単には休めない。
 とにかく怠けないように。

 2011年8月12日(金) 「移ろうという本質」

 真実はダイヤモンドのように固いわけではなく、花のように移ろいやすいものだ。
 永久不変などではない。
 しかし、たとえ一瞬でも真実は真実に違いない。それを信じ、身を委ねることは、決して間違いではない。
 愛が儚く消えたとしても、最初からなかったことにはならない。
 万物流転こそがこの世界の法則である以上、あらゆる物事は移ろい続ける。真実もまた、例外ではない。
 絶対的な正義も、それが絶対などではないことを知らねばならない。

 2011年8月11日(木) 「役に立つということ」

 ぼんやり生きていても役割は与えてもらえない。
 役割は自分で見つけて、自分で果たすものだ。
 実力をつけて、役に立つことを証明すれば、役割は与えてもらえる。
 頼まなくても押しつけられる。
 世のため人のために役立ちたいと思うなら、まずは役立つ人間になることが先だ。
 何の役にも立たないことほど虚しいことはない。
 役立つということが自分の幸福にもつながることを理解しなければならない。

 2011年8月10日(水) 「訳は分からないけど」

 私たち人という存在も含めて、この世界は分からないことだらけで、説明できないことばかりなのだけど、それでも人を好きになるとか、美しいものを見て感激するとか、素敵なことがたくさんあって、なんだか無茶苦茶なんだけど、これはこれでいいじゃないかと思ったりもするのだ。
 全部が整理されてなくてもかまわない。
 悪いことがあっても、良いところはもっとあって、好きか嫌いかでいえば断然好きで、楽しくて面白い。
 時間はかかったけど、この世界を愛おしいと思えるようになった。

 2011年8月9日(火) 「頑張るしか」

 前向きな言葉がいつも人を前向きにすると思ったら大間違いだ。
 頑張れという励ましがつらいこともある。
 それでも、言葉が人の心をぎりぎりのところで救うこともある。
 言葉の力を信じていいと思う。
 頑張れの言葉が重荷に感じても、励まされ続けることで、人は自らを奮い立たせることができる。
 今よりも何かを良くしたいと思うなら、それはもう頑張るしかない。
 明日は今日よりも頑張ろう。

 2011年8月8日(月) 「とりあえず生きながら」

 自分の存在証明なんて、そう簡単にできるもんじゃない。
 自分にしかできないことも、そうそうはない。
 みんなと同じように、流されながら生きつつ、自分らしさとは何かを探していくしかない。
 自分の人生は、結果的に見れば自分にしか生きられなかったものだ。
 生きている間は結論を急がず、できることをやっていくだけだ。
 価値や意味などなくても、生きている間に得られることはたくさんある。
 この世界が自分に与えてくれたものに対して恩返しすることを考えていけば、それが自分の存在理由になるのかもしれない。

 2011年8月7日(日) 「生きている方が」

 死んでから惜しまれるよりも、みんなから忘れ去られ、誰にも褒められなくても、生きている方がいい。
 死んで褒めてもらえる自信がないのなら特にそうだ。
 人の死は、生きている間にやれることがあることを、思い出させてくれる。

 2011年8月6日(土) 「気づき」

 気づきというのが大事で、それは自分で見つけるものだ。
 他人にいくら正当なことを言われても、それが正しいことだと自分が気づかなければ納得はできない。腑に落ちないと言った方がいいか。
 一般的な正解はすでに出されている。あとは自分で体得して、それを自分の答えとできるかどうかだ。
 気づいてみれば簡単で当たり前のことも、気づかなければ気づかない。
 気づくまで生きるしかない。

 2011年8月5日(金) 「きらめきの中に」

 人は自分がいるきらめきの世界に気づかない。
 過ぎ去って他人がきらめきの中にいるのを見て、やっとそのことに気づく。
 遅ればせながら。
 それはきっと、仕方がないことなのだ。
 光の中にいるときは、光を見ることができない。
 光から離れて、人は光を知る。
 それでいいのだ。
 私たちはきらめきを通り過ぎてきた今だからこそ、きらめきに気づくことが出来る。
 過ぎ去った過去を思うとき、少なくない悔恨に胸が痛む。
 その痛みを知ることができたのも、ここまで生きてこられたからだ。
 思い出を悔やむまい。
 更に先へ行けば、記憶はもっときらめきを増す。
 そうでなければならない。

 2011年8月4日(木) 「未熟でも」

 自分の未熟さが、仕事の質の低さの言い訳にはならない。
 人は誰でも成長過程にあって、現状が最良の自分というわけではない。
 けど、成熟するのを待っていたのでは遅すぎる。成長しながら、そのときできる最善を尽くして仕事をしなくてはならない。
 振り返ってあの頃の自分は駄目だったと思えれば、それは成長の証だ。
 過去の自分の仕事が恥ずかしくないとしたら、それはそれで問題と言える。
 長足の進歩を求めすぎてはいけない。毎日少しずつ積み上げていくしかない。
 未熟であることを居直らず、謙虚さも忘れないように。

 2011年8月3日(水) 「怠けないこと」

 自分に言って聞かせるべきは、とにかく怠けるなということだ。
 出来る限り真摯であれとも付け加えたい。
 弱気の虫が騒ぎ出す。やめてもいいんだと甘い言葉をささやく。
 楽な方に流れてはいけない。
 理由もなく怠けることは、決して自分のためにはならない。
 つらいことこそ、自分がやるべき正解だ。
 怠けなければ道は拓ける。
 ぎりぎりで踏みとどまって、一歩を踏み出せるかどうかが、大きな分かれ道になる。

 2011年8月2日(火) 「単純と言えなくもない」

 難しく考えるから難しくなる。
 単純に考えれば単純になる。
 というほど人生は単純なものでもない。単純に考えようが考えまいが、非常に複雑な部分もある。
 最終的な死というのもが人生を単純化することは確かで、終わってみれば考えていたほど複雑なものではなかったということにはなるのだろう。
 根幹の部分で、自分は何がしたいのかということを見失わないことだ。現実的な事情はどうであれ、やりたいと思うことをやりきれれば勝ちになる。
 人生には二つの側面がある。
 主観的な満足度と、客観的な評価と。
 どちらを優先させてもいいけど、両方を追い求めないと、片方では納得はできない。自己満足すればいいなどと思わないことだ。
 自分の中のルール作りさえちゃんとやれば、生きることはわりと単純になるのだろう。

 2011年8月1日(月) 「幸福のカタチ」

 何が撮りたいのかと、繰り返しくりかえし自分に問いかけている。
 その答えが、この人生で提出する自分の答えになるはずだ。
 撮りたいものはいろいろあるけれど、言うなれば、幸福のカタチといったようなものなのだと思う。
 自分なりの幸福の定義を指し示すことができたなら、自分が幸福になる必要はない。

 2011年7月31日(日) 「昨日よりも明日」

 今日という日にいろいろ思うところはあっても、明日は待ってはくれない。
 後ろを振り返りたい気持ちを打ち消して、明日へ向かわなければならない。
 思い出は大切。でも、大事なのはこれからだ。
 この先で自分は何ができるのかを、常に考える必要がある。
 時間に運ばれるだけではないけない。運ばれつつ走らなくては。

 2011年7月30日(土) 「チャラにはならない」

 怠けて楽なのはその場限りだ。
 あとから必ず反動が来る。
 結果、自分を苦しめるだけだ。
 誰も自分の代わりにつらいことをやってくれはしない。
 他の人間に自分の荷物を持たせれば、借りを作ることになる。それは借金で欲しいものを手に入れるようなもので、チャラにはならない。
 結局のところ、きついことは薄めてコツコツこなしていくのが一番楽ということになる。
 上手く怠ける方法は、ありそうで意外とないものだ。

 2011年7月29日(金) 「休まないカメに」

 カメは休まず歩き続けるところに価値があって、カメが休んでしまったら、ウサギには勝ち目がまったくなくなってしまう。
 しかも、カメが勝つにはウサギが怠けてくれなければならなず、自力では勝てない。
 あの話の教訓は、カメにもわずかばかりの希望と可能性があるというだけのことで、カメは所詮カメでしかないという現実がある。
 怠けないウサギが勝つに決まっている。
 それでも、いじけてレースを投げてしまえば勝負はそれまでで、わずかでも可能性があるのなら、歩み続けるしかない。
 命尽きるまで進み続ければ、思った以上に遠くまで行けるものだ。
 休むカメに明日はない。

 2011年7月28日(木) 「結果がすべてではないとしても」

 もっと出来るというのなら、それを形にして、結果として残していかなければならない。
 可能性の話をすれば、誰でも多くの可能性を持っている。本人も気づかない可能性も秘めている。
 けど、可能であってもやらなければやれないのと同じで、本当はやれるといっても、それでは通用しない。
 今日の自分を否定されても、明日の自分が否定されなければいい。
 昨日も今日も明日も、何も変わらない自分でいることが一番いけない。
 結果にこだわって日々の努力を積み重ねていくことが大切だ。頑張ればそれでいいということにはならない。

 2011年7月26日(火) 「幸福に寄与する」

 幸福に寄与するものしか認めない、と思い定めるほど頑なではないけれど、うわべだけの格好良さや面白さでは満足できない気持ちが強い。
 幸福至上主義というのではなく、この世界を肯定するためには幸福が是が非でも必要なのだ。
 世界を変えることよりも、世界を肯定することに全力を尽くしたい。
 この世は万物流転で一時も同じ姿をしていない。ある断面だけを切り取って肯定したり否定したりしても意味がない。世界はどんどん流れていく。
 だから、選択肢としては、丸ごと否定するか肯定するしかないはずだ。
 世界は完璧である必要はない。肯定するに足るだけの理由があればいい。
 自分もまた、世界の幸福に寄与したいと思っている。できることは限られているとしても。

 2011年7月25日(月) 「愉快を作る」

 身のまわりに不快なことは溢れている。
 ニュースでも腹立たしいものが多い。
 だから、愉快なことは自分で見つけ、自分で作り出すしかない。
 黙って座っていれば誰かがいいことを運んできてくれるなどという幻想は捨てなければならない。
 受け身でいる以上、嫌なことはどんどん流れ込んでくる。
 それから逃げるには、自ら動かなくてはならない。不快なことが追いかけてくるよりも速いスピードで。
 その気になりさえすれば、楽しいことはこの世にいくらでもある。それに気づけるかどうかだけのことだ。
 この世界は決して不愉快なものではない。

 2011年7月24日(日) 「成果を待たず」

 頑張った成果は遅れてついてくる。
 成果を待たず、先を急いだ方がいい。待っていたら遅くなる。
 成果は過去の自分に対する評価だ。それに満足しているようでは、成長がないということだ。
 成果に驕らず、成果のためではない頑張りが必要となる。

 2011年7月22日(金) 「反省しないように」

 反省しなくてもいいようなことをやるべき。
 深く考えずにやってしまって、間違いだと叱られてから反省するのは間抜けすぎる。
 自分の言動には責任を持つことだ。
 意志を持って選択し、たとえ他人に責められても反省しない覚悟をあらかじめ決めておかなくてはならない。
 自分の言動というのは、必ず周囲に影響を及ぼす。その前提を忘れると、手痛いしっぺ返しを食う。
 とにかく、反省なんてものはなるべくしないに越したことはない。

 2011年7月21日(木) 「たくさんの色を」

 懸案事項を一つずつやっつけていくこと。
 昨日と同じ一日に甘んじないこと。
 新しいことに挑戦することを常に心掛けたい。
 点がつながって線となり、線が並んで面になる。面が縦横につながって立方体になる。
 人生も同じだ。一瞬の連続が一日となり、毎日のつながりが一生になる。
 人生は貼り絵に似ているかもしれない。
 最後にどんな絵が完成するか。
 単調でくすんだものよりも、たくさんの色で描かれた賑やかな絵の方が楽しい。

 2011年7月20日(水) 「正しさの伝え方」

 正しい教えが、いつも人を正しい方向に導くと思ったら、それは大きな勘違いだ。
 立派な両親を持つ子供が必ずしも優等生にならないように、人は正しい教えを与えられることを必要としているわけではない。
 大切なのは自ら学ぶ姿勢であって、教わることではない。
 優れた教師よりも駄目な反面教師から学ぶことの方が多かったりもする。
 正しい教えを語って聞かせるのは自己満足でしかなく、その人のためだなどと思い上がってはいけない。
 もし本当に何かを教えたいのであれば、自らがお手本となって行動で示すことだ。
 誰でも多かれ少なかれ正しくありたいという願いは持っている。身近にお手本があれば、それを真似ることもできる。
 正しさというのは、思っている以上に取り扱いが難しいものだ。

 2011年7月19日(火) 「お日様」

 心の凍り付いた部分を、ゆっくり溶かしてくれる春のお日様のような温かさを持った人がいる。
 それはもう資質としか言いようがないもので、努力とか心掛けとかでどうにかなるものではない。
 そういう人に出会うと、神様というものを信じてもいいような気になる。
 それはきっと、天からの贈り物なのだ。

 2011年7月18日(月) 「幸福の対岸」

 自分の頑張りは、自分と同じ側にいる者に希望を与えるけど、自分の対極にいる人間には絶望を与えることもある。
 自分がなしたことは、相反する二重の結果を生むということを常に思っておかなければならない。
 自分が勝てば相手が負ける。
 オールハッピーというわけにはいかない。

 2011年7月17日(日) 「軽重問題」

 この世には軽い問題と重たい問題がある。
 お笑いとか、流行歌とか、恋愛小説で片付く問題もあれば、宗教でも解決しないこともある。
 笑い飛ばせるものはそうすればいいけど、全力の真剣で取り組まなければはじき飛ばされてしまうこともある。
 二段構えで腰を落としておかないと、一撃でやられてしまったりもする。
 慰めや救いが解決してくれるのは半分だ。あとの半分は深刻な覚悟を持って戦わなければならない。
 だからといって軽い問題が文字通り軽いかといえばそうではなく、日常の悩み事もそれはそれで対策を講じる必要がある。そのためにラブソングやバラエティー番組がある。
 どちらかに偏らないことが大切だ。それぞれの問題に合った方法で取り組んでいかないといけない。
 この世界は重くて軽い。軽いようで重たい。

 2011年7月16日(土) 「次の一歩」

 上手くやろうとしないことだ。
 格好つけようとするから、次の一歩を躊躇してしまう。
 いつでも失敗することを前提にしていれば、ためらうことなく踏み出せる。
 何もしないで立ち止まるのが一番いけない。
 失敗は次につながるけど、一歩目を踏み出さなければ二歩目はない。
 軌道修正、方向転換は進みながらすることであって、行き先を決められずにその場でぐるぐる回っているだけではしょうがない。
 上手くできなくても、格好悪くてもかまわない。
 とにかく、次の一歩ということだけを考えればいい。
 明日ももう一歩前へ。

 2011年7月15日(金) 「人間性について」

 天才なら何をやっても許されるかといえば決してそうではなく、どれだけ立派な成果を上げたとしても、人間として駄目なら、最後は周りにつぶされ、自分でもつぶれていく。
 それでも成果さえ残ればそれでいいというのも一つの考え方ではあるけれど、やっぱり尊敬されないよりもされた方がいいわけで、そのためには人として立派さを示す必要がある。
 美人なら何をしてもかまわないという思い込みが幻想であるように、人間性を軽んじれば結局は本人にとってマイナスになるだけだ。
 真面目な優等生になることが正しいわけではないし、人として正しければ仕事ができなくてもいいというわけでもないけれど、成果至上主義はどこかで破綻するものだ。
 何の成果も上げられないとしても、人間性を高めるための努力はできる。
 成果を後回しにするというやり方もある。

 2011年7月14日(木) 「報いるために」

 過ぎていく日々の中で、何もなかった一日をなるべく作らないようにしたい。
 ほんの他愛のないことでもいいから、何かをしたと言える一日にしなければいけない。
 それが自分という存在を支えてくれている存在に対して報いることになるから。
 毎日の暮らしに抵抗し続けることが大切だ。無抵抗に流されないように。
 最大の恩返しは、自分が幸福になることだということに気づかなければならない。

 2011年7月12日(火) 「面倒なこと」

 何かが面倒くさくなって別の何かに逃げるというやり方は、とてもまずいやり方だ。気持ち的には共感できたとしても。
 正解はたいてい面倒くさいもので、面倒くさくないものは疑ってかかった方がいい。
 逆の言い方をすれば、面倒くさいと感じたら、それはやるべきことだと思わないといけない。
 心をねじ伏せてでもやるきべきだ。そこでやれるかやれないかで、人生は変わっていく。
 面倒なことから逃げたら負けだ。面倒なことと向き合ってねじ伏せたら勝ちになる。

 2011年7月11日(月) 「練習あるのみ」

 練習しても上手くならないから練習しなくても同じことという理屈は正しくない。
 上手くなろうがなるまいが練習は必要で、練習なしには何も積み上げられない。
 上手くなりたいなら、とにかく毎日黙々と練習することだ。
 理屈はあとからついてくる。
 練習しないのは上手くなりたくないからだ。
 向上心がないところに向上はない。

 2011年7月8日(金) 「まずまずこんなもの」

 私は誰のこともうらやましいとは思わない人間なのだけど、だからといって自分が誰かにうらやましがられる人間だとはまったく思わない。
 そんないわれはないことは自分自身が一番よく知っている。
 私は仕方なく自分の人生を請け負っているだけだ。役割だと諦めていると言ってもいい。
 他の人間にはなれないし、自分をやっていくしかない。
 自分を全うすることが一番大切だと信じている。
 特別良いわけではないけど、特別悪いわけでもない。
 まあまあだったという結論はすでに出ている。

 2011年7月7日(木) 「花は咲かずとも」

 種を蒔いてから花を咲かせるまでには長い歳月を必要とする。
 花ではなく、人の場合は。
 ときには10年、20年かかることもあるし、忘れた頃にようやく芽が出ることもある。
 こと自分が好きなことに関しては、たとえ芽が出なくても種を蒔き続けることが大切だ。最後の最後まで花が咲くことを夢見なければならない。
 花は咲くかもしれないし咲かないかもしれない。でも、きっとそれはそんなに重要なことじゃない。

 2011年7月6日(水) 「ネバーギブアップ精神」

 ネバーギブアップ精神が常に正しいとは限らない。
 自分が頑張ることで周りに迷惑をかけてしまうのなら、その頑張りは美徳とはならない。
 諦めないことは確かに必要なことだ。けど、それも時と場合による。

 2011年7月5日(火) 「転がり落ちないために」

 本当に偉い人間は決して威張らない。
 謙虚すぎる人間も怪しんだ方がいい。へりくだった振りをして腹の内を見せていないだけだ。
 偉い人間はもっとひょうひょうとしている。淡々として、背筋が伸びている。
 駄目な奴ほどふんぞり返っている。
 だから、ちょんと指先で押されただけで後ろに転がり落ちていってしまうのだ。
 ある程度の年齢まで生きれば、威張ってもいいことは何もないことくらい分かりそうなものだ。
 私たちは反面教師から学ばねばならない。
 他人の間違いを非難するだけでは意味がない。
 自分の失敗から学ぶのは次善の策であって最善ではない。
 他人に対して批判的な人間ほど、同じ失敗をして落とし穴に落ちる確率が高いから、くれぐれも気をつけなければならない。

 2011年7月4日(月) 「十年一昔」

 10年前のネットの世界を振り返るとき、まだ牧歌的で人の温もりが感じられたあの頃を懐かしく思い出す。
 でも、自分を含めて誰もが未成熟で青臭かったあの時代に戻りたいかといえば、決してそうは思わない。
 過去はいい思い出として心の引きだしにしまって、新しい時代を見てみたい。
 ネットの世界はまだまだ変わる。それは必ずしも良い方向ではないにしても、もう昔には戻れない。
 10年前、メールで話しをした人たちは今でも元気に過ごしているだろうか。あの頃に出会えたことは、とても幸運なことだと感じている。

 2011年7月3日(日) 「勝ったり負けたり」

 勝ちすぎる勝負も、負けてばかりの勝負も面白くないように、上手くいきすぎてもいかなさすぎても人生は楽しくない。
 ほどほどに勝ったり負けたりがいいのだろう。
 思い通りにいかないことが多くても、それを楽しめるようになると、生きることは苦痛ではなくなる。
 勝っても負けても恨みっこなしで、次こそ勝つという意気込みでいられればそれでいい。
 ただ一つ忘れてはいけないのは、私たちは負けるために戦っているわけではないということだ。あくまでも勝つために戦わなくてはならない。
 負けることに決して慣れてしまわぬように。

 2011年7月2日(土) 「意味はある」

 生きることの意味を人に訊ねても無駄だ。
 生きる意味は人それぞれで、生きてみてその問いの答えを出すしかないのだから。
 生きれば分かる。生きなければ分からない。
 たとえ無意味だという結論だったとしても、それが分かっただけでも生きた意味はある。
 生きる意味がないなんていうのは、生きたくない人間のつまらない言い訳でしかない。
 意味は見つけるものではなく育てるものだということを知らねばならない。

 2011年7月1日(金) 「またくる春のために」

 僕たちは春が過ぎたことを悲しみ、もう一度春に戻るために、夏と秋と冬を過ごさねばならない。
 春はまた必ずやってくる。生きてさえいれば。
 春の喜びをもう一度。

 2011年6月29日(水) 「反省は明日の自分のため」

 何か問題を起こした人に対して、反省しろとか、反省が足りないなどと言う人が多いけど、そもそも反省というのは他人に許しを請うためにするものではなく、自らを省みるためにするもので、人に対して強要するものではない。
 私は反省はなるべくしない方がいいと思っている。
 失敗したり間違ったりしたときは、それを糧にさっさと次を目指した方がいい。いつまでも悔いていても仕方がない。
 悪びれたら負けだとも思っている。
 反省したフリをしたら許してもらえると思ったら大間違いだ。そういうことではない。
 大切なのは、失敗をどう取り戻すかで、問題を起こしたときこそその人の真価が問われる。
 反省するしないはそれほど重要ではない。
 失点を得点で上回ればいい。それが反省をいかすということだ。

 2011年6月28日(火) 「自由なんて」

 自由など思うほどいいもんじゃないと、自由を知る人は言うだろう。
 そう言いながら、自由の魔力といったものに捕らわれた人間は、自由から抜け出すことができない。
 もう一度言おう。断言してもいい。自由なんていいもんじゃない。

 2011年6月27日(月) 「勉強しなくちゃ始まらない」

 上に行けば行くほど、更に上があることを思い知る。
 上を知れば知るほど、もっと勉強しないとどうにもならないことを痛感する。
 それも猛勉強が必要だ。
 途方に暮れていても始まらないから、とりあえず毎日勉強するしかない。
 勉強しているということは必要最低条件であって、そのこと自体が目的ではない。
 勉強していなければ、勝負にならない。
 勉強なんてそれほどしなくてもなんとかなるんじゃないかという幻想は捨てなければならない。

 2011年6月26日(日) 「才能の問題じゃない」

 たいていの人は、自分の才能や能力に見切りをつけるのが早すぎる。
 何の努力もしないで人より上手くできることが才能だと思っているとしたら、それは間違いだ。
 花を咲かせるためには、良い土と光と水という条件が揃い、なおかつ人が世話をしなければならないように、才能を花開かせるためには、長い時間をかけた努力が必要だ。
 才能のなさを言い訳にするのはずるい。
 むしろ努力をしないことを恥じなければならない。
 自分がやりたいと思ったことは最後までやりきらないと、何にもならない。
 やって駄目ならあきらめもつくし、言い訳もできる。
 戦わずに負けることは格好悪いことだ。
 才能で負けることは恥じゃない。
 才能がなくても、努力した分は意味がある。
 自分ができる精一杯をすることが大切で、それしかできない。

 2011年6月25日(土) 「自分の定義」

 被害者意識が自分を駄目にする。
 いじけたりひがんだりしたら、もう負けなのだ。
 自分は弱者でもないし、不幸でもないと、自分に言い聞かせなければならない。実際はそうであったとしても。
 不幸の定義が世間にはあるけど、不幸かどうかを決めるのは自分に他ならない。
 他人に幸せかどうかを教えられなくても、自分で気づかなければならない。
 それは単なる自己満足とか独りよがりとかそういうことではなくて、人は誰でも自分を定義する権利や自由があるということだ。
 誰かに決めてもらわなくても、自分の意志で決められる。
 人は自分で決めた自分になれる。何も決めなければ何者にもなれない。
 自分を哀れんで他人の同情を買っても幸せにはなれないし、どんな生き方でも自分が幸せだと思えばそれでいい。
 自分を実際以上の人物だと思い込むことは、実はそれほど不幸なことではない。他人に笑われたとしても、なりたい自分を目指すことが間違いなわけではない。

 2011年6月24日(金) 「振り向くよりも前方を」

 自分より下に見える他人を侮ってはいけない。
 多くの場合、それはただ先をいっているだけだ。上にいるわけではない。
 振り返って後ろとの距離に安心するよりも、前を見て先頭との距離に焦らないといけない。
 世の中には努力を惜しまない天才もいる。
 歩みをゆるめていたら、前との差がますます開いていくばかりだ。
 自分の力を超えて全力疾走しても、そんなものは続かない。無理のないペースよりも少しだけ力を入れて、前を目指す必要がある。
 羽が生えて空を飛べることを夢見ていても仕方がない。地面を走っていくより他に方法はない。
 はっきりしているのは、立ち止まったら置いて行かれるということだ。

 2011年6月23日(木) 「次の一歩のために」

 思い通りいかないときは、考え込んでいても始まらない。
 とにかく動いて、試行錯誤することだ。
 行き詰まっているときは成長のチャンスで、壁を突破すれば、次の一歩は大きな前進になる。
 上手くいっているときほどよく考えて慎重に進んだ方がいい。時には立ち止まりつつ。
 休むことは怠けることだ。怠けていいことは何もない。

 2011年6月22日(水) 「心の中の暗い場所」

 いつも明るく陽気に見える人の中にも、暗い場所はある。
 心の闇を照らしてくれるのは、太陽や蛍光灯のような明るい光ではなく、ロウソクやマッチのような弱い光だ。
 心に暗い部分があるのは当たり前のことで、自分だけが闇を抱えているというのは間違った思い込みだ。
 ときどき逃げ込む暗い部屋が人には必要で、そこを大事に守らなくてはいけない。
 他人が懐中電灯を持って土足で入り込むようなところではない。

 2011年6月21日(火) 「ほどほどに」

 この世の真実は、ほどほどに知っておく程度でいい。
 あらゆる真実を知って正気を保てる人間はたぶんいないから。
 知れば知るほど迷い込み、出口が見えなくなる。
 物事の裏側だけが真実の半分ではない。
 無知と鈍感が私たちの正気を保たせている。
 真実など知らなくても、生きていくのに支障はない。

 2011年6月20日(月) 「時期尚早」

 結論を急いではいけない。
 この世界の答えは、もっとずっと先にあるのだから。
 その途中を生きる私たちができることが何なのかを考えたい。
 今はまだ、ああだこうだと決めつけることはできない。
 正しさなどというものは時代によって大きく違うものだし、目的は結果論として辿り着いた先にあるものだ。
 個人が数十年の時間の中できることはそれほど多くない。
 多くないけどゼロでもない。
 今はただ、前へ進めることだけを考えればいい。

 2011年6月19日(日) 「自己満足が第一」

 人は誰でも、自分で自分を満足させるしかないのだと思う。
 他人からどれだけ多くを与えられたとしても、どこか満たされない思いが残る。
 自分なら必ず自分を満足させられるわけではないけれど、追求の方向性として、自分でなんとかするしかないことは確かだ。
 自分が自分に与えるものが客観的に優れている必要はない。
 自己満足が他人の役に立ち、自己評価と他人の評価が一致するというのが理想としても、そんなことはまずあり得ない。
 自分を幸せにするために全力を尽くすことが必ずしも利己的なわけではない。
 そもそも、誰かに救われたいという思いを捨てなければならない。

 2011年6月18日(土) 「上手くいっているとは思っていない」

 始まる前からすでに終わっているような感覚をずっと抱いてきた。
 まだ何も始まってさえいないのだと自分を励ましたり、もうとっくに本番は始まっているぞと自分を叱責したりしながらここまで来た。
 いまだに上手くいっていないという思いが強い。
 心の変遷を辿ってみると、よくここまで持ってきたと自分を褒めたいような気持ちにもなる。
 生きることの絶望を、死ぬことの希望が支えている。いいことも悪いことも死ぬまでの間の出来事だと。
 生きているのは幸運のたぐいで、まぐれのようなものの気もしている。
 思想的な悟りも、この世界における自分を救うことはできない。かといって、天国至上主義のような気分にもなれない。
 あらゆることは分からないという結論を持ったまま進める世界があるとするならば、とりあえずは自分という存在を先送りにしてもいいとは思う。

 2011年6月17日(金) 「目標、目的、手段」

 願望を突き抜けた先を見通すことができていなければ、願望の実現はおぼつかない。
 目標と、目的と、手段と、それぞれを自分の中で明確にしておく必要がある。
 希望や願望は誰にでも持てるし、目標も立てている。
 しかし、今自分がやりたいことが目的なのか手段なのか目標なのか、ぼんやりしていることが多い。
 最終目的地における自分の姿が見えていれば、そこから逆算して、目的と手段が見えてくる。
 結局自分はどうなりたいのかということが見えていなければならないということだ。
 でなければ、次に踏み出す一歩は無目的な行き当たりばったりのものとなってしまう。

 2011年6月16日(木) 「許し合うこと」

 人は人に許されて生きている。
 天に生きることを許されているから生きていられるとも言える。
 人を許すことは、人を生かすことだ。
 許されざる者となったときは、もう生きられない。
 人を許さないということは、人を生かさないということで、自分もまた許されざる者となり、共倒れとなってしまう。
 結局のところ、許すしかないことになるのなら、早めに許してしまった方がいい。

 2011年6月15日(水) 「夢を見ない」

 一発逆転を夢見ないように。
 夢を持ち、夢に向かって進むことは良いことだ。
 しかし、夢見るだけで終わってはいけない。
 夢は人の心を支えるものだけど、人生を無駄にする危険性も持っている。
 逆転人生を夢見て、実現できた人間は少ない。
 わずかな可能性に賭けてみるというのは、大穴狙いで馬券を買うようなもので、それは努力とは違う。
 日々、夢に向かって積み重ねていくことで、夢を引き寄せることができる。
 大人たちが言っていたことを認めるのが悔しくても、努力こそが大切だということは、人類が数千年、数万年かけて出した結論だ、認めざるを得ない。
 今日努力できない人間は、明日もあさってもずっとできない人間だということを思い知らなければならない。
 努力できなければ、勝負はもう負けなのだ。

 2011年6月14日(火) 「思い出語り」

 長生きすることの良い点は、思い出話ができることだ。
 それには語り合う相手が必要で、思い出は多い方がいい。
 結婚することの意味も、きっとそういうことだ。

 2011年6月13日(月) 「幸福は自分が決めること」

 自分の不幸を過大評価してはいけない。
 自分の幸福を過小評価してもいけない。
 人は自分が思うほど不幸ではない。実際以上に不幸と思うことが不幸だ。
 不幸も幸福も、他人と比較しても意味がないし、基準を他人に決めてもらうものでもない。
 自分が求める幸福を正しく自覚して、自身を幸福にするために全力を尽くさなければならない。幸福になるための努力をしない者は、幸福になる資格がない。

 2011年6月12日(日) 「起きてしまったことは」

 起こってしまったことは起こってしまったこととして、受け入れるしかない。
 それがたとえ、どれほど考えられないような不運であったとしても、ひとたび起きてしまえば、なかったことにはできない。
 悲観的に考えても仕方がない。起こった出来事をどうにかプラス方向にしていくことを考えたい。
 嘆いても、恨み言をつらねても、事態は好転しない。
 次に何をすべきかを決めて、一歩ずつ前進していくしかない。
 不幸を成長の糧にできるかできないかが、大きな分かれ目となる。

 2011年6月11日(土) 「夢の向こう側」

 夢の向こう側を思って夢に向かわないと、夢が叶ってしまったとたんに目標を見失って燃え尽きてしまう。
 結婚がゴールではなくスタートであるように。
 何のために夢を叶えたいのかということを、最初にはっきりさせておく必要がある。
 目標だけで突っ走るのは危険だ。
 一番いいのは、人生を終わりから設計することで、それは難しいことではあるのだけど、最後まで走り続けるには有効な手段となる。
 人生はハッピーエンディングのあとも続く。めでたし、めでたしでは終わらない。

 2011年6月10日(金) 「時間と変化」

 人生の本質は、時間と変化だ。
 限られた時間の中で、刻々と変化してゆく。
 自分も、世界も。
 時間は流れ、変わらないものはない。
 限定された時間と空間の中で、何を考え、何を求め、どう動くか。
 正解のない問いに、自分なりの答えを出していかなければならない。
 人は横と縦につながっている。
 空間の横軸と、時間の縦軸につなぎ止められ、そこから逃れることはできない。
 自分の取った行動が周囲に影響を与え、それは時間軸にも波及していく。
 未来の結果によって過去の意味も変わる。ごく個人的な行為でさえ、無責任であっていいわけではない。
 自分が良い方向に変化すれば、基本的にそれは世界にとっても良いことだ。
 生涯において、この世界に対してどれだけ良い変化を与えられたか、それが個人に対する客観的な評価となり得る。

 2011年6月9日(木) 「幸せでなくても」

 幸福の追求は、人生の目的とはなり得ない。
 幸せを求めることは決して間違いではないけれど、そこを目指してしまうと、生きることの本質を見失う。
 たとえばそれは、美味しいものを食べて満腹になることそのものを目的にしてしまうようなものだ。
 生きるには食べなくてはならないけど、食べることが生きる目的ではない。
 幸せを求めるよりも他にやることはある。幸せを求めないというのも、一つの生き方だ。
 好きなことをやって生きていくことは客観的に見れば幸せということになったとしても、好きなことをやることと幸せとは必ずしも一致しない。
 多くの人が、幸せを求めすぎて、満たされないことで不幸に陥ってしまっているように見える。
 幸せでなくても生きていく方向性というのを見いだしていった方が、人生は単純で、易しくなる。

 2011年6月8日(水) 「幸福の方へ」

 この世界を丸ごと幸福にするなんてことは、誰にもできない。
 ただ、だからといって幸福をあきらめてしまうことはない。
 ひとりひとりがほんの少しだけプラス方向に転じるよう心掛けるだけでも、世界の幸福度は上がる。
 幸福も不幸も連鎖するものだから、できるだけ幸福方向に転がるよう働きかける必要がある。
 ひとりが投じた小石の影響を侮ってはいけない。
 大事なのは世界が幸福の方向へ進むということだ。たとえ今がどれだけ不幸であったとしても、今日より明日はわずかでも良くなるのであれば、希望は持てる。
 不幸は決してなくならないけど、小さな幸福でちょっとずつ打ち消していくことはできる。
 幸福で不幸を上書きできると信じたい。

 2011年6月7日(火) 「馬鹿が見る彼岸」

 無理が通れば道理が引っ込むという理屈がいつも通用するとは思わないけど、虚仮の一念岩をも通すという信念は信じたい。
 自分が本当にやりたいことを最後までやり通せたなら、無理も道理もなぎ倒して、対岸にたどり着けるのかもしれない。
 一つのことに徹する馬鹿になれたら勝ちだ。
 常識的に生きることが負けというわけではないけれど、普通の道を歩いていては彼岸を見ることはできない。

 2011年6月6日(月) 「アガリ方を探す」

 死が解決してくれる悩みは死に任せておけばいい。
 死では終わらない問題を解決すべく、日々取り組む必要がある。
 恐れるべきは死ではなく、死後の世界があるかもしれないということだ。
 あると仮定してなかったらがっかりするだけで済むけど、ないことを前提に死んであった場合が困る。
 だから、あると思っておいた方が無難だし、あるとしたらどう生きて、どう死ぬかをよくよく考えないといけない。
 生まれ変わりはチャンスではあるけど、落第と考えた方が正しい。
 自分なりのアガリの答えを出さなくてはならない。
 どうすればアガリとなるのか、それを探すことが人生だ。

 2011年6月5日(日) 「輪の内側で」

 監督だとかチームリーダといった立場の人間は、チームの輪の内側にいるべきであって、ひとり輪の外側にいてはいけない。
 ときに輪の中心となり、ときに先頭で引っ張り、あるいは、後ろに回って遅れている人間の手を引き、背中を押してやるのが仕事だ。
 輪の外で命令することが仕事じゃない。
 そのあたりを勘違いしている人間が多くて、国民のみなさんのためになどと言っている政治家がその代表例だ。自分も国民のひとりだということを忘れている。
 ミスをした選手を怒鳴り散らしている監督もそうだ。
 チームが勝つためには何をしなくてはいけないのかを第一に考えなくてはいけない。自分の感情などは二の次三の次だ。
 もし、自分が監督といったような立場で、孤独を感じるとしたら、それは完全に立ち位置を間違えている。
 理想と現実が違うとしても、志としてはそうであるべきで、戦う前から現実に屈する必要はない。
 リーダーは王座にふんぞり返る王様気分であってはいけない。チームが進むべき方向を一緒に見なければならない。

 2011年6月4日(土) 「知らなかった今日」

 歳を取れば可能性は少なくなっていくものだけど、長く生きればそれだけ多くの経験ができる。
 今日一日生きた自分は、今日を始める前の自分より多くのことを知った。
 そうやって日々を重ねていくことで、それまで経験したことがなかったことを見聞きすることができる。
 老いることは歳を取ることの一面であって、年齢を重ねるほど衰えていくばかりではない。
 これは若さに対する負け惜しみではない。
 明日はまだ知らない一日だ。いくつになっても未知なものに対する期待感はある。

 2011年6月3日(金) 「大事なのは上積み」

 天才やハイセンスへの憧れは捨てなくてはいけない。
 それは向く方向が間違っている。
 大事なのは、自分を知り、土台を固めて、少しずつ積み上げていくことだ。
 実力を上げるための努力や勉強を惜しんではいけない。
 実力さえ高めてしまえば、天才も凡才も関係ない。むしろ積み上げた分が実績となる凡才の方が有利なくらいだ。
 凡才が天才に勝てないのはその通りだけど、それは出発点の話であって、先へいけば話は違ってくる。
 恐れるべきものは、天才の努力だ。努力で負けてしまえば、それこそ勝負にならない。

 2011年6月2日(木) 「苦しさが生きること」

 苦しみはいつか必ず終わる。
 ただ、苦しみこそが生きることそのもので、苦しみのない世界で私たちは決して幸福にはなれない。
 天上の楽園よりも地上の方がずっと楽しいということに、死ぬ前に気づかなければならない。
 苦しみは悪いものじゃないのだ。

 2011年6月1日(水) 「心を殺して身を守る」

 自分の心を守るためには、心の一部を自ら殺していく必要がある。
 あえて心を動かさないことで自分を守らなければ、最後まで自分を守りきることができない。
 身に降りかかるすべての出来事に対して心を痛めていたら、心が持たない。
 世界中で起きている不幸を我がことのように感じていたら、ご飯も食べられないし夜も眠れなくなってしまう。
 すべてに対して心を閉ざすとかではない。自分が傷を負う必要のないことに対して反応しないということだ。
 いわれのない中傷だとか、不運な不幸とか、将来に対する不安とか、そういったものといちいち戦ってはいられない。心を殺してやり過ごせばいい。
 自分の心は自分で守らなくては誰も守ってくれない。
 戦う必要のないものと戦って負けて自殺なんかしないように。

 2011年5月29日(日) 「感覚を進める」

 感覚を進めることが大事だ。
 成長というのはつまり前進で、感覚を前に進めることに他ならない。
 昨日まで良いと思えたことが今日になるとそれほどでもないというのは、感覚が進んでいるからだ。逆に言えば、昨日まで良かったものが今日も良いと感じたなら、感覚が進んでいないことを意味する。
 流行というのも同じで、古いものより新しいものが常に優れているわけではなく、人の感覚が進んでいるから新しいものを良いと感じることになる。
 感覚が新しくなれば、新しいものも生み出せる。新しいものがまた感覚を進めてくれる。
 繰り返すことよりも新鮮な刺激が必要だ。
 そして、ときどき古いものに立ち返るといい。進んだ距離を確かめるために。
 感覚を進めることを第一義に考えなくてはならない。自然の変化に任せていては前進は緩すぎる。
 勉強、努力することの意味と方向性を間違えないようにしたい。

 2011年5月28日(土) 「見えない悲しみ」

 悲しみは客観的に見れば普遍的なものだけど、主観的に見れば個人的なものだ。
 人それぞれ、悲しみの質は微妙に違っていて、他人がそれを正しく理解することはできない。
 悲しみが表から見えないからといって、内側にないと決めつけるのは危うい。
 誰の中にも必ず悲しみはあるという前提で考えるべきだ。
 悲しみゆえに自分を哀れむように、他人に対しても情けが必要だ。
 悲しみが人生の本質だとは思わないけれど、悲しみは確かに存在している。

 2011年5月27日(金) 「時が過ぎるのを待つ」

 時が過ぎるのを待つしかないことがある。
 どれだけ焦ってみても、時間の速度は一定で、早くなったり遅くなったりはしない。
 時が来るのを待つのはつらかったりもするけど、時が訪れさえすれば解決する問題もある。
 時は無情でもあり、残酷でもあり、優しくもある。
 時は敵でもなく、味方でもない。
 時の奴隷になりたくないといっても、時を手なずけることはできない。
 時の流れに逆らわず、上手につきあっていくしかないのだろう。
 いずれにしても、時は必ず過ぎる。心配することはない。

 2011年5月26日(木) 「ラブソングの必要」

 人生にはラブソングが必要だ。
 けれど、ラブソングだけで生きていけるほど人生は単純じゃない。
 ラブソングの部分を、愛とかお金とか才能とか夢といった言葉に置き換えても同じことが言える。
 生きていくにはいろんなことが必要で、何か一つでいいということにはならない。
 でも、大切なことが一つでも欠けてしまうと物足りない。
 ラブソングなんてなくても生きていけるけど、ラブソングのない人生なんて味気ない。

 2011年5月25日(水) 「分相応であること」

 年齢より若く見えることは決して褒められたことじゃない。
 年を重ねた分だけ成熟していないということだから。
 あまり老けて見えるのも問題がありそうだけど、年相応が一番だ。
 何事も分相応が良いと思えるようになったのは、年のせいだろう。
 至極当たり前で、詰まらない結論ではあるけれど、人に言われて納得したわけではなく、自分で獲得した答えだから、それでいいのだと思う。
 目標を高く掲げることと、高望みすることは違う。
 顔だってそうだ。取り繕うことが正しさではない。ありのままで説得力を持たせる方向でいかないと。
 人生の結論は、これまでの人類の歴史の中で、概ね出ている。あとは実際に生きてみて、自分自身が納得できるかどうかということだけだ。
 一般論に加えて、自分なりの答えが出せれば、それを信じればいい。
 己を知るということも、生きることの意味の一つに違いない。

 2011年5月24日(火) 「何ができるか考える」

 困っている人に手を差し伸べることは大事なことだ。
 人助けは気分もいい。
 ただ、安易な施しは、誰も救わないし、むしろ人を傷つけもするから気をつけないといけない。
 お金に困っている人に恵んであげることが、本当にその人のためになるのかどうか。
 本気で救いたいと思うのなら、ただ何かを与えるというだけではない別の方法がありそうだ。
 何もしないよりましという考えもあるだろうけど、下手なことをするのは何もしないより悪いという場合もある。
 人を助ける場合は、よくよく考えてからした方がいい。その上で、自分にできることをして、結果的に事態を悪化させてしまったとしても、その誠意は悪ではない。
 一番悪いのは、困っている人を見て見ぬふりをして、何も考えないことだ。

 2011年5月23日(月) 「借りはリスク」

 神と親しくすることは良いことだ。
 無駄なリスクを避けるという意味でも。
 とはいえ、本来、人智を超えたものとの関わりは避けられれば避けた方が無難だ。
 助けてもらったはいいけど借りが大きすぎて返せないなんてことにもなりかねない。
 友達に借りを作るのと神に借りを作るのとでは、重さがまるで違う。
 神と深く関わることはリスキーだという認識が必要だ。
 泣きつくのは最後の最後にした方がいい。
 自分の力だけで足りないなら、周りの力も借りて、それでも駄目なら他人からの援助を求めて、どうにもならなくなったとき、初めて神にすがればいい。
 見返りに魂を要求するのは悪魔だけじゃない。

 2011年5月22日(日) 「最後尾だとしても」

 遠回りしたり、寄り道したことで、見えたことや、得られたものがたくさんある。それを大切にしたいと思う。
 大通りの遙か先を行っている彼らを見てうらやましくなったり、自分の至らなさを嘆いたりすることもある。
 駆けっこでは誰よりも速く走りたいと思ったけど、人生のレースは一番最後でもいい。遅れてもいいから、最後まで走りきりたい。
 得たものが多くなくてもいい。
 辿り着いた先で、大切なものを一つでも抱えていられたならば、生きたことは無駄じゃない。

 2011年5月19日(木) 「賞賛なしに」

 他人の評価は心の支えになり得る。
 けど、他人の賞賛なしに真っ直ぐ立てないとしたら、その立ち方はバランスを間違えている。
 他人の批評が追いつかないスピードで先を目指さなくてはいけない。
 評価はたいていあとから遅れてついてくる。
 まずは自分の足で立ち、目的に向かって歩き続けなくてはならない。
 もっと先へ。もっと速く。

 2011年5月18日(水) 「幸福とは何か」

 自分が幸福になりたいからではなくて、自分の心を納得させるために、幸福とは何かということが知りたいと、ずっと考え続けてきた。
 撮りたい写真の方向性も同じだ。
 答えが見つかったと思えた瞬間は何度かあったけど、最終的な結論はまだ出ていない。この先もずっと出ないのかもしれない。
 それでも、幸福とは何かということが、生きていく上で最も大切なテーマであり続けるだろう。
 幸福に価値があるのかどうかは、また別の話だ。

 2011年5月16日(月) 「泣ける写真」

 文章でも映像でも歌でも、泣かせることはそれほど難しいことではない。
 写真で泣かせることは、とても難しい。
 泣ける写真が撮りたいと思っている。幸せで、切なくて、泣きそうになる写真。
 何をどう撮ればそんな写真になるのかを、ずっと考えて、探している。
 目指しているのは、絶景でも、花鳥風月でもない。人がいて泣ける写真だ。
 それはまだ見えていない。

 2011年5月15日(日) 「やるべきことを一つずつ」

 やるべきことをやりたくないなどというのは、死の覚悟がゆるんでいるということだ。
 明日もこれまでと同じように無条件で与えられると思うのは甘えだ。
 生きれば生きるほど、残り時間は少なくなっていく。
 明日命が尽きてもおかしくないのは誰もがそうだ。自分だけが例外的に助かると思うのは楽観的すぎる。
 生きている間にやりたいことをすべてできるわけではないだろう。
 せめて、後悔の根を一つずつ摘んでいくことだけでもやりたい。
 やるべきことを順番にやっていくというのが、基本的な姿勢ということになる。
 今日できることを明日に回して、自ら明日を奪ってはいけない。

 2011年5月14日(土) 「やりたくないことこそ」

 面倒に感じることや、気が重くてやりたくないことの中に、これまでの自分の殻を破るヒントが隠されている。
 昨日までと同じことしかやらなければ、新しい自分は発見できない。
 未体験や未知にこそ、自分の可能性は眠っている。
 心が拒否することを、心を説き伏せてやってみることが、とても大事なことだ。
 やりたくないことは、まず始めてみる。最初のひと転がりが転がれば、その後は案外すんなり進むものだ。

 2011年5月12日(木) 「何のための真摯さか」

 真摯さということについて、ずっと考えている。
 毎日休まず真摯であり続けることの、なんと難しいことか。
 誰のため、何のために、どういう目的をもって真摯であるべきか。そのあたりのところを自分の中で明確にしておかないと、真摯であることの覚悟は常に揺らいでしまう。
 真摯であること自体が目的ではない。

 2011年5月10日(火) 「頑張れと言うけれど」

 頑張っている人間に頑張れと励ますのは的外れで、勝ち目のない戦いを戦っている人間に掛ける言葉はない。
 できることがあるとすれば、戦い終わったあとに、よく頑張ったと褒めてあげることくらいだ。
 頑張れという言葉は、力になることもあるけど、残酷な言葉でもある。
 応援する方は責任がなくて気楽なものだ。
 本気で励ましたいのなら、並んで一緒に走る必要がある。汗をかかない応援は、野次と変わらない。
 それでも私たちは、頑張れという言葉しか持ち得ない。その言葉が、人の気持ちをぎりぎりのところで救うこともある。
 私の心が動くとするならば、おまえならもっと頑張れる、だから頑張れ、という励まし方だ。
 人は誰も、自分で自分を励まして、なんとか歩き続けるしかない。
 頑張りは口で言うよりも背中で語った方が雄弁だ。

 2011年5月9日(月) 「メッキの真摯さ」

 ある写真家は言う。
 写真家にとって大切なのは、写真に対する情熱を持つことと、学ぶ姿勢だ、と。
 これはドラッカーが言うところの真摯さにも通じる。
 ドラッカーは才能よりも真摯さこそが必要不可欠と語る。先天的に持っていなければならず、学ぶことも、後天的に身につけることもできない重要な資質は、真摯さであると。
 努力の大切さは、昔から多くの大人達が口にしてきた。しかし、真摯さということを断定的に言った人間はそれほど多くないのではないか。
 努力と真摯は似ているけど違うものだ。努力は行為で、真摯さは姿勢をいう。物事に対する自分の覚悟と言ってもいい。
 真摯さなどと言っても子供には理解できないだろうけど、真摯であることの本当の意味を理解したとき、人は心打たれ、しんとした気持ちになるはずだ。
 それは口で言うほど簡単なことじゃない。
 自分が目指す道に対して、自分は心底真摯であるか。もう一度、自分に問いかけてみる必要がある。
 真摯さを大人になって獲得するのは確かに難しいかもしれない。けど、それに似たようなものなら身につけることができる。
 たとえメッキでもいいから真摯であることを自らに課さなければならない。
 真摯さを全うしようとすれば、努力は努力でなく、苦労は苦労でなくなる。

 2011年5月7日(土) 「楽ではない方を」

 楽な道を効率よく進むよりも、厳しい道を少ししか前進できない方が、得られるものが大きいんじゃないか。
 楽な道を選択した場合、長い目で見ると、それは失敗だったということが多い。

 2011年5月6日(金) 「努力勝負」

 努力をしない天才はいない。
 だから、努力の人が天才を超えることは難しい。
 ただ、天才というのは出発時点での土台の高さであって、常に絶対的なものではない。努力による積み重ねを、天才の出発点と同じところまで持っていくことができれば、あとは互角の勝負になる。
 凡才は土台作りが大変なだけで、最初から負けと決まった勝負をしているわけではない。
 天才であろうとなかろうと、努力によって結果は決まる。
 それでも、天才は確かにいる。その輝きは本物で、メッキでは勝ち目がない。

 2011年5月5日(木) 「夢の中」

 夢中とは夢の中にいることを言う。
 夢はいつか覚める。
 もし、冷めない夢を見続けることができたなら、それに勝る幸せはない。
 現実を見ろという人間は、夢を見られない人間だ。夢も見ずに現実を彷徨って何の幸せがあるというのか。
 夢中になれるもの、夢中になれる時期を、大切にしなければならない。
 それはやはり、限られた貴重なものだろうから。

 2011年5月4日(水) 「自分で裁く」

 人間が思い描くような神がいるとしても、神の仕事は人間を裁くことではない。
 神のなすべきことは、人間を赦すことだ。
 人は神に赦された上で、自らを裁かなければならない。
 そうして、初めて、人は救われる。
 自分の罪に納得することが必要で、他者から罰を与えられることでは何も解決しないのだ。

 2011年5月1日(日) 「技術優先で」

 いつも自分がやりたいことが分かっているわけではない。
 自分のしたいことが分からないことの方が多いくらいだ。
 だからこそ、やりたいことが見えているときは、そのことに熱中すればいい。
 やがてまた、見えなくなってしまうのだから。
 夢を見続けることは難しい。
 天才として生まれるよりも、夢を見続ける能力にこそ、価値がある。
 やりたいことをやれる幸せを噛みしめなければならない。

 2011年4月29日(木) 「技術優先で」

 表現する技術があれば、思いは伝わる。
 技術もなしに思いだけを押しつけようとするから伝わらないのだ。
 人は常に何かを得たがっている。それは必ずしも与えて欲しいということではない。自分で何かを見いだしたいという願望の方が強い。
 だから、与えられることに対しては反発心を抱く。あくまでも自分の力で獲得したと思いたい。
 結局のところ、高い技術力を提出することが、思いを伝える一番の近道だ。
 思いはあとからついてくる。
 優先順位を間違えないようにしたい。

 2011年4月27日(水) 「練習あるのみ」

 下手なことや、苦手なことは、練習して上達するしかない。
 勉強して、練習して、実戦を重ねて、反省して、また勉強して、という繰り返しだ。
 それ以外に上達する道はない。
 練習というとスポーツのことと思いがちだけど、それだけではなく何でもそうだ。
 芸術も、勉強も、仕事も、趣味も。
 上手くなればもう練習しなくていいかといえばそうではなく、練習というのは一生続くものだ。
 やめてしまえば、そこで上達は止まり、下降線を辿るだけとなる。
 成果が上がらなくても練習、意味が分からなくても練習、無駄に終わっても練習。
 とにかく、練習あるのみ。理屈じゃない。

 2011年4月26日(火) 「目標を追いかけること」

 まずは目標をはっきり定めることが大事。
 目標を決めたら、毎日少しずつでも近づけるように、努力を続けなければならない。
 動いている目標であれば、一日休めば距離はますます広がってしまう。
 目標よりも速いスピードで追いかけなければ追いつけない。そのためには、立ち止まって休むことは許されない。
 目標に追いつくことを目指せば、追いついたところで追い抜ける。追うスピードの方が速いということだから。
 自分の中にある怠け心をねじ伏せ、弱気に負けないようにしなければいけない。
 もっと速く。

 2011年4月25日(月) 「成長のチャンス」

 今日という日は、自分が成長するチャンスを与えられた一日だ。
 昨日もそうだったし、明日もそう。
 成長できるかどうかは、何をするかにかかっている。
 何もしないという選択肢はない。
 チャンスを活かすも殺すも本人次第。社会も、時代も、関係ない。
 自分を成長させて何の意味があるのか。
 それは、成長した自分が知っている。
 まずは成長してみせなければ何も始まらない。話はそこから先だ。

 2011年4月24日(日) 「この先に」

 向かう先が見えているなら、迷わず行くしかない。
 迷っているだけ時間がもったいない。
 思うように足が進まなくても、とにかくその先へ向かいたい。
 そんな気持ちになっているときは、何も考えなくていい。

 2011年4月22日(金) 「正しくなくても」

 偉くて立派な人間が苦手だ。
 彼らが口にすることは常に正論で、そして、少々押しつけがましい。
 他人に対してやましいことがない人は、真っ直ぐ前を見て、ちょっと声が大きすぎる。
 そういう人たちを否定するつもりはもちろんないけれど、あまり関わりたくないと思ってしまう。
 私は正しさというものをいつも疑わずにはいられない。
 絶対の正義など、決して存在しない。
 駄目な人間が、腹の底から発した言葉にこそ、真実が宿っている。
 人はそれを負け惜しみというかもしれないけれど、正しくない人間にも正しさのカケラはある。

 2011年4月21日(木) 「立ち止まらないように」

 日々の意味が分からないときほど、立ち止まってはいけない。
 見失った大切なことは、走りながら思い出せばいい。
 答えは過去になく、あるとしたら先の未来だけだ。
 今日という日に意味を見いだせなかったなら、今日を終わらせて、早く明日を始めた方がいい。
 とにかく、立ち止まっていてもいいことは何もない。
 先を目指すことを最優先に考えたい。

 2011年4月20日(水) 「何かの役に」

 正しくもなく、立派でなくても、自分にできることがある。
 自分では気づいていないところで、何らかの役に立っていると信じていい。
 人助けとかそんな大げさなことではなく。
 いけないのは、自分のことを役立たずだと思い込んでしまうことだ。
 人は自分が思うほど正しくはないけど、悲観するほど役立たずでもない。
 日々を淡々と生きているだけでも、何かの役割は果たしている。
 自分がいなければ世界が回らないわけではない。でも、自分がいても世界は回っている。それは生きることを許されているということだ。
 正しい人間になろうとなどしなくていい。一所懸命であれば、それで許される。

 2011年4月19日(火) 「まずは自分のことを」

 人はまず、自分自身を全力で幸福にすることに務めなくてはならない。
 その上で、余力で他人のために尽くせばいい。
 自分のことそっちのけで他人のために生きることは美談のように語られるけど、それは傲慢なことでもある。
 特別に選ばれた人間はともかくとして、自分のことを何とかできない人間が他人のために生きられるとは思えない。
 自己犠牲も自己満足の一種だ。それで自分が幸せを感じられるならいいけど、自分は世のため人のために働いてやっているなどと思い上がってはいけない。
 自分を幸せにする努力をしない人間ほど、不幸も他人のせいにしたがる。
 幸福も不幸も自分のせいだと思う必要がある。
 他人のために生きる余力がなければ、自分のことに専念すればいい。
 自分を幸せにできた人間なら、必ず他人のために手助けもできる。
 まずは自分を救わなければ、誰も救ってはくれない。

 2011年4月18日(月) 「ここで生きること」

 世界がどれほど広く、多様であったとしても、私たちは自分の小さな世界の中で、必死に生きるしかない。
 それがどんなに下らなく、惨めに思えたとしても。
 私たちの生きている世界はここだ。他のどこでもない。
 そのあたりの覚悟というのは絶対に必要で、つべこべ言わずに生きるしかないのだ。

 2011年4月17日(日) 「諦め」

 人はそう諦めがいいわけではない。粘り強さと辛抱強さを持ち合わせている。
 ただ、ある一線を越えてしまうと、唐突に諦めてしまう。電池が切れたみたいに。
 諦めることは強さでもあり弱さでもある。
 諦めるから目標を達成できないとも言えるし、諦めることで心が壊れてしまうことを防いでもいる。
 諦めはある種の安全装置のようなものだ。
 簡単に諦めるなと、人は勝手なことを言う。かと思えば、何の根拠もなく無理だからもう諦めろともっともらしいことを言ったりもする。
 諦めるべきか、諦めるべきではないのか、ぎりぎりの判断を迫られたとき、人はどちらかを決断するしかない。どちらが後悔が少ないか。
 もし、諦めないというのであれば、口で言うだけでなく態度で示す必要がある。

 2011年4月16日(土) 「少し焦って」

 少し焦って先を急ぐ。
 やや、つんのめる感じで。
 焦っても仕方がないときもあるけど、急いだ方がいいときもある。
 今日が終われば、もう明日は始まっている。
 もたもたせず明日へ向かおう。

 2011年4月15日(金) 「マイペース」

 力を加減してスローペースにするよりも、一定速度のマイペースを保った方が、長く走り続けられる。
 マイペースというのは、のんびりすることでは決してない。
 その中で、タイミングを間違えずにきちんとストップ・アンド・ゴーができるかどうか。
 全速力で走るべきときもあるし、止まって休まなければならないときもある。
 一番良くないのは、行き当たりばったりに走ったり怠けたりすることだ。
 まずは自分のペースを見つけて、それを掴むこと。
 良いことを習慣化して、その上で日々の暮らしの中にプラスアルファを上積みすること。
 気まぐれに頑張って満足していてはいけない。

 2011年4月14日(木) 「走り続け」

 走り続けていれば考え事をしなくて済む。
 それも一種の現実逃避だろうけど、何もしないで考え込むよりずっといい。
 立ち止まらないように。

 2011年4月13日(水) 「生きるための死」

 死ぬことを忘れてはいけない。
 生きることを忘れないために。
 私たちは死ぬために生きているのではない。
 生きるために死ぬのだ。

 2011年4月12日(火) 「素直」

 人間、素直さに勝る美徳はないと、最近つくづく思うようになった。
 賢さなんてものは、そんなに重要じゃないし、救いの鍵になるわけでもない。
 真っ直ぐな心を持っている人間こそが、人に愛され、この世界に必要とされる。
 歪んでいたり、陰っていたりするのは、やっぱりよくないことだ。
 堂々とお天道様に顔向けできる人生は、素晴らしい。
 そんなことを考えるようになるとは、ずいぶん歳を取ったものだと思うけれど。

 2011年4月11日(月) 「夢の中」

 ときどき、ふと我に返って、自分は一体何をしているのかと、目が覚めたような気分になることがある。
 けど、この世は素面で生きて楽しいところではない。ほろ酔いくらいでちょうどいい。
 自分が幸せかどうかを省みる余裕がないくらい無我夢中というのが、最も幸せな状態だ。
 冷静になって虚しくなったときは、とにかく走ることだ。何も考えずに走っていれば、悩むこともない。
 夢から覚めないように。

 2011年4月10日(日) 「海上」

 心の深海を、長く孤独に彷徨いながら、いつか光溢れる海面に出られると信じていた。
 光の差さない海の底で、一人。
 今、べた凪の海面に浮かんで漂いながら、何もないことを嘆いている。
 相変わらず、一人で。
 空を飛ぼうとして飛べずに海に落ち、島への上陸を拒んだ結果だ。
 光のある孤独なら、それも受け入れよう。
 悲しむことは何もない。
 涙は波に洗われ、流された。

 2011年4月9日(土) 「今ここにある思いだけ」

 これまで浮かんでは消えていった無数の思いは、すべて嘘じゃないけど、今自分の中にない思いは、今の自分にとって本当じゃない。
 発した言葉も、言えなかった言葉も。
 最後に辿り着いたときにいる自分が、本当の自分ということになるのだろう。
 残った思いはわずかでも、そこにすべてが集約されている。
 消えていったたくさんの思いも無駄じゃない。

 2011年4月8日(金) 「ピンチ」

 ピンチで株を上げる人もいれば、株を下げる人もいる。
 チャンスもピンチも、どちらにも転ぶ可能性がある。
 上手くいかせれば勝ちだし、いかせなければ負けとなる。
 危機を乗り越えれば、それは自分の力となる。
 チャンスで何もできずに、一気に駄目になってしまうこともある。
 ピンチは敵対するものではなく、味方にするものだ。

 2011年4月7日(木) 「今ここで」

 ここで頑張れない人間が、別の場所なら頑張れると考えるのは根拠がない。
 今日努力しない人間が、明日は努力をするという道理がない。
 今ここでやれるだけのことをやらなければ、どこへいっても同じことだ。
 別の場所、別の場所へと移り、しまいにはどこにもない場所を探し求めるようになる。
 自分にとって都合のいい論理は捨てて、頭の中の王国から出てこなければならない。
 今日という日の中で、やれるだけのことをやったかどうか。
 明日は今日の上積みをするところであって、昨日の尻ぬぐいをするためにあるわけではない。
 頑張りを先送りしないこと。自分の怠惰から目を背けないように。

 2011年4月6日(水) 「ベストを尽くす」

 ベストを尽くすという言葉くらい駄目なものはないと思う。
 そんな言葉を口にする外国人助っ人は、たいてい結果を残せず帰って行く。
 ベストを尽くすというのは最低限必要なことで、そんなことは威張って言うほどのことじゃない。
 求められているのは結果であって、ベストを尽くすことじゃない。
 ベストを尽くそうが尽くすまいが、結果を出すことが重要なことで、何か気の利いたことを言いたいのであれば、結果を出してみせると言えばいいのだ。それか、最初から何も言わないか。
 力がなくて結果を出せなければ、それはもう謝るしかない。ベストを尽くしたなんて言い訳はいらない。
 駄目なやつほど一所懸命をアピールしたがる。
 頑張ったら許されるなら、どんなにいいだろう。そうじゃないから、生きることは難しいのだ。
 結果を出すために何をどう頑張ればいいのか、もう一度逆から考え直す必要がある。
 結果がすべてじゃないと人は言う。それはそうだ。でも、結果を出せば何でも言える。

 2011年4月5日(火) 「気持ちを未来へ」

 一日の中で、今現在のことと、未来のことと、過去のことと、どれくらいの割合で考えているだろう。
 仕事の日と休みの日とでは当然違うのだけど、たとえばこれといって何もすることがない日、人は現在過去未来について、どこへ思考を向かわせがちになるのだろうか。
 時間があるほどロクなことを考えないというのはある。そんな中でも、未来志向でいられるかどうか。つい過去の思い出に流れてしまうのではないか。
 基本的に思い出は甘くて美しい。よかったことだけを思い出すから。
 未来を思うと暗い気持ちになりがちだ。自然と、思いは過去へと飛んでしまう。
 思考を常に未来方向へと引き戻さなくてはならない。勉強を嫌がる子供を机に向かわせるように。
 誰もが分かっている。大切なのは過去ではなく未来だということを。
 一日の思考の大部分を未来に振り分けることができたとしたら、進む足取りはもっと速くなるに違いない。
 急げばいいというわけではないにしても、のんびりしすぎてよいわけでもない。

 2011年4月4日(月) 「不幸は気持ちの問題」

 誰にとっても自分の不幸は、他人の不幸よりも大ごとで、同情されて当然と思い込みがちだ。
 けど、不幸というのは自分で認めて初めて成立するもので、他人がどれだけ不幸な人間だと思ったとしても、自分がそう感じなければ不幸ではないということになる。
 不幸は認めたら負けなのだ。
 不幸を不幸と思わない鈍さも必要だ。
 自分を必要以上に不幸だと思っている人に同情するのも、その人のためにはならない。

 2011年4月3日(日) 「問題解決のために」

 人を責めて事態が好転したり、問題が解決するのなら、責め立てることも間違いじゃない。
 けど、たいていの場合はそうではない。失敗した人間を罵倒したからといって、何一つ良いことはない。
 本当に物事を解決したいのであれば、どうすればよいのか一緒に考え、手助けをすることだ。
 責めるなら問題が片付いたあとでいい。その頃には感情の高まりもおさまっているだろう。
 間違いを何でもかんでも許せばいいというわけではない。責任の所在を明確にするためにも、責めるべきところは責める必要がある。
 他人の問題を他人事にしないことだ。もし、人は人、自分は自分というスタンスでいくなら、それを貫かなければならない。他人のやることに口を出す権利もなくなる。
 問題は常に山積みだ。みんなで力を合わせて各個撃破していくのが一番確実なやり方に違いない。

 2011年4月2日(土) 「心を探す」

 自分の心の有り様は、探すまでもなく知っているつもりでいるけど、それは本当だろうか。
 たとえば、思いを歌にする、絵を描く、言葉にする、写真を撮る。
 いざやろうとすると、すんなりいかないことに気づく。思いを形にすることは難しい。
 人は自分で思っているほど自分の心が分かっていないのかもしれない。
 心を表現することを怠けていると言い換えてもいい。
 自分の心が何を求め、どこを目指し、どうありたいと願っているのかを、もう一度よく考える必要がある。
 はっきりしないのなら、きちんと探さなくてはいけない。

 2011年3月31日(木) 「単純じゃない」

 物事はそう単純じゃない。
 表に出ていることよりも出ていないことの方が多い。
 表面だけで判断するのは危険だ。
 人も同じで、自分が見えている部分だけがその人のすべてじゃないことを知らねばならない。
 判断することは常に必要だとしても、決めつけてはいけない。
 思い込みでうっかり口にしたことが取り返しのつかないことになるというのは、これまで何度も見てきて知っているはずだ。
 絶対に正しいと思っても、本当にそれを言う必要があるのかどうか、もう一度立ち止まってよく考えた方がいい。
 自分に再度、念を押してみる。
 物事はそんなに単純じゃないんじゃないか、と。

 2011年3月30日(水) 「謝ること」

 謝るべきときにきちんと謝れない人を見ると、この人やっぱり駄目なんだと思う。
 追い込まれたときほど人の本性が表れるもので、謝っている姿を見るとその人の人間性がよく出ている。いくら頭を下げていても、心から謝っていなければ分かる。
 誰もが失敗したくてするわけじゃないし、間違いをおかさずに済めばそれに越したことはない。
 ただ、失敗は誰にもある。他人に迷惑をかけることもある。
 大切なのは失敗しないことではなく、問題を起こしたときにどう対処して、トラブルを解決するかということだ。そこに人の真価が表れる。
 謝ることもとても大切なことで、謝罪に失敗すると更に問題を悪化させることにもなる。
 何年か前、ドラマ「西部警察」のロケ中に、石原軍団の若手が運転する車が見物客に突っ込んで5人を怪我させるという事故があった。社長の渡哲也は事故を起こしたタレントを連れて入院している怪我人を見舞い、病室に入るなりいきなり土下座して謝ったという話がある。
 ドラマ「北の国」で、女の子を妊娠させてしまった純の行為を詫びるために、五郎父さんは北海道からボストンバッグ一杯にカボチャを詰めて持っていき、相手の育ての親に対して平謝りに謝った。そのとき菅原文太は「誠意って何かね」と言う。
 この頃また、謝るということはどういうことなのか、少し考える。

 2011年3月29日(火) 「まだ降参じゃないけれど」

 大量失点で負けが決まったゲームの残り時間で、持てる限りの全力を尽くすのは難しい。
 人の気持ちはそんなに上手く誤魔化せない。
 ネバーギブアップ、確かにそれは大事なこと。
 けどそれは、手遅れになる前にすべきことで、取り返しがつかないところまでいってしまうとただの自己満足でしかない。
 現実的な可能性があるなら、もちろんあきらめないことは重要なのだけれど。
 今は少し、途方に暮れている。
 頑張った先にあるものが見えなくなっている。

 2011年3月28日(月) 「1億円」

 人が困っているときに、1億円を寄付できる人生というのは、素敵かもしれないと、思った。
 大金持ちになりたいなんて考えたことはないけど、お金を持てばできることがあることをあらためて知る。
 とはいえ、たとえBIGで6億円が当たったとしても、1億円を寄付できるかといえばできそうにない私は、やはり最後まで大金には縁がなさそうだ。

 2011年3月27日(日) 「こちらの都合」

 全速力で走っている最中に持っていかれたら悔しいだろうけど、行き詰まったときにお迎えが来たなら、それは救いの手だ。
 そんなに都合良くいくものかどうか。
 もっと生きていいというのなら、ありがたく生きさせてもらえばいい。

 2011年3月26日(土) 「意味はなくても」

 意味のないことは何もないと考えるよりも、意味のないこともあると思った方が自由になれる。
 すべてに意味があるとなると、それはとても息苦しい。
 最終的にこの世界が無意味だったとしても、かまわない。
 今日を生きる意味があれば、とりあえず生きてみる。
 私が今日を生きる意味は、明日を見てみたいからだ。だから、今日を生き延びることに意味はある。

 2011年3月25日(金) 「ただ未来だけを」

 どの過去も懐かしいけど、もう戻りたくはない。
 切なさと、悔しさと、愛おしさが入り交じる。
 過去と決別したいとかそういうことではない。
 未来へ進むという選択肢しかない以上、過去への未練は断ち切るしかない。
 過去はときどき開いてみるアルバムのようなものだ。大切な思い出には違いない。
 すべてはこの先の未来のために。過去を無駄にしないためにも、ここから何ができるかを考えたい。

 2011年3月24日(木) 「鈍感」

 人のたくましさは、鈍さにある。
 思っているほど人は繊細じゃないし、考えている以上に忘れっぽい。
 そこに救いがあるとも言える。

 2011年3月23日(水) 「やれるだけのこと」

 自分が無力なのは言うまでもなく当たり前のことだ。
 それでも何かできないかと、もがいてみることが大切なのかもしれない。
 あきらめるのは、やれるだけのことをやったあとでいい。
 自分には力がないと、最初からあきらめて何もしないのはずるい。
 まだやれることはあるはずだ。思いついたことを、一つずつやっていきたい。
 結果、駄目でも、何もしないよりはましと思いたい。

 2011年3月22日(火) 「まだやれる」

 あの世への手土産と、この世への置き土産が揃わないうちは、なかなか死ねないと思う。
 もうこれでいいかなどと思うと、ふっと持っていかれそうなので、気をつけないといけない。
 この世にしがみついて、まだまだやれるというところを見せる必要がある。
 可能性だけが罪を決定づけない。
 自分自身に対する失望と期待は、いつも半々でせめぎ合っている。
 少なくとも、もうちょっとはやれそうな気がしているのだけど。

 2011年3月21日(月) 「後悔は今日」

 あのときの後悔は、今日なんとかするしかない。
 あのときには決して戻れないのだから。
 今日の後悔を、しっかり明日に持ち越さなければならない。一晩寝て忘れてしまってはいけない。
 取り返しがつかないこともたくさんあるけれど、取り返しがつくこともいくつかはある。
 後悔する気持ちがあるのなら、それを今日にぶつけるしかない。
 もし今日何もできなかったとしたら、後悔の念が弱いということだ。手遅れを言い訳にしているだけかもしれない。
 今日の自分は、昨日までの自分の思いを託された自分であるということを忘れてはいけない。

 2011年3月20日(日) 「変わるだけじゃ駄目」

 明日になれば自分はもしかしたら劇的に変わることができるかもしれないと、根拠のない期待を抱いたり、やはり毎日少しずつ積み上げていくより他に道はないと思い直したり。
 去年の自分と比べて成長している自分に安心したり、何も変わっていないことに落ち込んでみたり。
 変わらないものは何もない。世界も、自分も。
 何もしなくても変わってゆく。
 大事なのは、世界をどう変えたいのか、自分をどうしたいのかを、知っていることだ。
 理想に近づけるという意味での変化でなければ、変わること自体に意味はない。闇雲に走り回っているだけで目的に近づかなければ無駄なのと同じだ。
 まずは目標の地点を定めることだ。そのあと、進む方向を決めるというのが順序になる。
 ただ成長するだけでは駄目なのだということを、もう一度よく自覚する必要がある。

 2011年3月19日(土) 「ブライトサイド」

 非常時にも平和時にも、良い面と悪い面がある。
 どちらか片面だけでは判断できない。
 戦争中でさえ悪いことばかりではない。
 満ち足りた幸福の中でも良いことばかりではない。
 私はいつも、物事の明るい面を見たいと思っている。暗い面から目を背けるためではなく、明るい面をより明確に知り、感じ取りたいと願うから。
 幸福感というのは、自分の中で作り出すしかないものだ。
 人が与えてくれる幸福を幸福と感じるためには、この世界の明るい面を知っている必要がある。
 不幸を不幸としか感じられないことほど不幸なことはない。

 2011年3月18日(金) 「10年続けば本物」

 今回の災害で、大勢の人が、本当の意味での人道主義に目覚めたとするならば、それはとても良いことだ。
 世界の半分は常に飢え、内戦があり、子供たちが死んでいるという悲惨な状況がある。
 今抱いているような思いやりや、救済行為を、この先、1年、3年、10年と続けられたなら、本物の人道主義者となれるだろう。
 人が生の大切さを思い知るために他人の死を必要とするように、大事なことを悟るには大きな不幸を必要とする。
 残念ながらそれが現状だ。転ばなくても痛みが分かるほど、人類の意識は高いものではない。
 一番大切なものが愛だとしても、愛だけでは足りない。
 この世界が本当に幸福な世界になるには、まだまだ時間がかかりそうだ。
 全員が幸せな世界は実現しないなどと思いたくはない。ずっと遠い未来でもいいから、いつか必ずと信じていたい。
 そのためには、全員の目覚めというものが最低限必要となる。

 2011年3月17日(木) 「あきらめないまま」

 後悔や未練がこの世とつながる拠り所となるならば、それも悪いことではない。
 何もかもあきらめて手を放してしまえば、あっという間にこの世から滑り落ちてしまう。
 指一本でも引っかかっていなければならない。
 死ぬのはある意味簡単なことで、生きることは難しい。
 だからこそ、生きることに価値があるのだ。
 死ぬときはあきらめないまま死ななくてはならない。

 2011年3月16日(水) 「この世界を愛すこと」

 私は人間がいるこの世界がとても好きだ。
 けど、人間至上主義のヒューマニストではない。
 地球にとって人類は敵だから人間などいなくなってしまえばいいとは思わないまでも、絶滅の危機に瀕している動物がいると聞けば、人間がいなくなるまでの辛抱だからなんとか生き延びろよと言いたい気持ちになったりもする。
 人間の存在が悪かそうではないかを決めるのは難しい。相対的な判断はできても、絶対的な判断はできない。
 人間がいなくなれば、善悪の概念そのものが意味を持たなくなる。
 人がどれだけ地球を汚し、破壊したとしても、そのことだけで悪と決めつけることはできない。
 宇宙から見れば、人類は地球という星に棲む一つの種に過ぎず、地上の動物の上に立っているからといって、地球そのものを支配しているわけではない。
 私はこの世界の多様性を愛すべきだと思っている。大きな動物から魚、鳥、昆虫、草花まで、あらゆる形の生命に溢れている。
 人間だけが特別な存在ではない。あらゆる存在が奇跡と呼んでいいものだ。
 人間は確かに地球の調和を乱しているところがある。その愚かさにようやく気づきつつある今だから、未来に対して希望を持っていい。今後の人たちは、これまでの人間よりもより良い住人であろうとするはずだ。
 そのためには、もっと人間を好きになって、この世界を愛さなければならない。
 それは、これまでのような人道主義を捨てるということでもある。

 2011年3月15日(火) 「強くて弱い」

 人間のしぶとさやたくましさは、人間自身がときどき嫌になるほど自覚していることだ。
 地球上の動植物からすれば、最も良いのは地上から人類が一人残らずいなくなることだろう。
 地球の命脈は永遠ではない。太陽が爆発すれば、地球も実質的に終わりだ。
 人類はいつか地球を超えて宇宙に出ることができるだろうか。
 地球という一つの星さえ手なずけられない人類では、宇宙は遠い夢物語でしかないのかもしれない。
 たまたま生まれ、やがて消えていく種の一つに過ぎないのか。

 2011年3月14日(月) 「不幸を力に」

 この世界に不幸はつきものだと理解はしていても、自分の不幸も他人の不幸も好きじゃない。
 不幸は連鎖するから。
 けれど、不幸の中から生まれるものもある。戦争が生み出してきた数々のものがそうであるように。
 そういう意味では、人間は不幸をエネルギーに代えているという言い方もできる。
 大きな不幸は、大きな前進を生む。
 過去の時代が常にそうであったように、今回も例外ではない。

 2011年3月13日(日) 「この先へ」

 前へ進む以外に道はなく、誰にとってもそうで、今日が終わった瞬間に、もう明日は始まっている。
 私たちの手に届くところにあるのは、今この瞬間と未来だけだ。
 今日、明日、何ができるかを考えたい。
 道のりがどれだけ遠くても、一歩ずつ進んでいくしかない。
 立ち止まっていては、ただ時間を失うだけだ。
 これは自戒の言葉でもある。

 2011年3月12日(土) 「結果だけ」

 自分のできることをやるという、最も基本的で、最も大切なことに徹したい。
 頭の中ではいろいろなことができそうな気がしているけど、実際にできることはごく限られている。
 思い巡らせることは大事なこと。
 でも、思いだけでは足りない。
 結果として何ができたかが一番重要なことだ。
 やったことしか残らない。

 2011年3月11日(金) 「次へ」

 どんなに納得いかなくても、切り替えて次へ向かうしかない。
 後ろに戻ることは決してできないのだから。
 すべての思いを飲み込んで、次へ。

 2011年3月10日(木) 「案外困らない」

 死ぬのは困ると思っている。単純に。
 けど、よくよく考えてみると、いくつかの問題さえクリアできれば、この世を去ることはそれほど大きな問題ではないと思い直す。
 残された方も困るだろうと思いがちだけど、残された方は残された方でなんとかやっていけるものだ。
 死ぬまでにやっておかなくてはいけないことを、明確にしておかなくてはいけない。
 やることさえやってしまえば、あとはオマケの余生のようなものと言えなくもない。
 武士ほど潔くはいかなくても、覚悟だけはいつでもしておく必要がある。

 2011年3月9日(水) 「涙は巡る」

 涙は心の中で循環している。
 涙の雨が降り、心の底に染みて、潤いとなり、流れながれて、蒸発して、雲となり、また涙の雨が降る。
 泣かない月日が長くなると、心が渇いてよくない。たまには涙を流した方がいい。
 涙が涸れることはない。
 生きて心がある限り。

 2011年3月8日(火) 「どこかで誰かが」

 人は人を幸せにできる。
 自分の存在が、きっと誰かを幸せにしているし、誰かの存在が自分を幸せにしてくれている。
 本人にその自覚はなくても。
 だから、生きていていいのだ。生きていなくてはいけないのだ。
 自分は自分のためだけに生きているのではない。

 2011年3月7日(月) 「幸福と不幸の両方」

 幸福だけの世界も、不幸だけの世界も、存在し得ない。
 幸福は必ず不幸の上に成立するものだし、幸福があれば相対としての不幸は必然的に生まれる。
 私たちがもし選べるとするならば、幸福も不幸もない世界か、幸福と不幸がある世界か、そのどちらかだ。
 私たちのいるこの世界が、空想上の天国よりも天国的な世界なのだということに気づけば、幸福を喜び、不幸に甘んじることは、さほど難しいことではなくなる。
 不幸になりたくないから幸福も捨てるというのは、死にたくないから生まれたくないというようなものだ。
 不幸におびえる者に幸福は訪れない。

 2011年3月6日(日) 「諦めたり」

 焦りと諦めとが、奇妙というか絶妙のバランスを取って、自分を支えている。
 少しでも早く前へ行きたい気持ちと、ゆっくり行けばいいという気持ちと、どちらの気持ちも嘘ではない。
 思いが空回りしながらも、つんのめるように前には進んでいる。
 もう駄目だと思ったり、まだ駄目じゃないと思ったり。
 諦めたら終わりというけれど、諦めなければなんとかなるものでもない。
 最後はなんとかなるのか、最後までなんともならないのか、それは行ってみなければ分からない。
 諦めなくてよかったと思えたらいいけど、諦めがつくならそれでもかまわないとも思う。

 2011年3月5日(土) 「運命」

 歳を取れば、若い頃のように運命というものを信じられなくなる。
 願望を現実が少しずつ打ち砕いていく。
 だからといって、運命を信じたかった若き日の自分を否定する気にはなれない。今を生きる若い人に運命を信じるなとも言いたくない。
 人は生きながら少しずつ学んでいくしかない。
 自分の人生は、自分の手足でコツコツ積み上げていくものだ。
 運命に頼らない生き方を見つけるしかないことに気づくのは、ずいぶんあとになってからのことだ。それは仕方がない。
 明日も一歩、前へ進む。
 最後に、来た道を振り返って見たときに見える軌跡が、運命というものの正体なのだろう。

 2011年3月4日(金) 「リストの先頭から順に」

 流れた時を取り戻すことはできないから、せめてそれを無駄としないために、この先で活かすことを考えたい。
 ここまで生きてきたのは何のためだったのか、もう一度自らに問いかける必要がある。
 残された時間の中で、どこを目指すのか。どこまで行ければ、よしとするのか。
 だらだらと、いつまでもこの時間が続くわけではない。
 やりたいことを全部できるわけでもないから、優先順位を間違えず、一番やりたいことから順番にやっていくべきだ。
 あれもこれも先送りにする癖は、いい加減、治さなくてはいけない。

 2011年3月3日(木) 「ちょうどいいこと」

 自分にとって、ちょうどいいことのありがたみを知らなければならない。
 それは考えるよりも貴重なもので、客観的に優れているかどうかは関係がない。
 優れていればいるほど良いというわけではない。
 不足を感じれば常に不満がつきまとうし、過ぎたるは及ばざるがごとしというように、自分の方が足りなくても幸せにはなれない。
 分相応の良さに気づくのは、早いほどいい。若い頃はなかなか分からないものだ。
 上ばかり見ていると、目の前にある大事なものを見逃すことになる。
 自分にとってちょうどいいものを大切にしなければいけない。
 それこそが、自分の守るべきものだ。他に代わりはない。

 2011年3月2日(水) 「絶望を土台に」

 もう絶望はしない。
 絶望で足元をしっかり踏み固めて、再出発したから。
 今は絶望の上に希望を積み上げることだけを考えている。
 積み上げた希望が何度崩れても、土台の絶望は揺るがない。
 だからこそ、また希望を積み重ねていくことができる。これ以上、重ねるべき絶望はない。
 そもそも人は死を前提にして生きている。
 誰に対しても絶望するなとは言えない。
 絶望を絶望した上で、どう生きるかということが大事なことだ。
 絶望していない人間など、信じられるものではない。

 2011年3月1日(火) 「マイナスをプラスに」

 一喜一憂、喜怒哀楽。山あり谷あり。
 マイナス100を知れば、プラス100はプラス200になる。
 マイナスを知らなければ、プラス100はプラス100でしかない。
 苦労が報われれば嬉しいし、不幸を味わった方が幸せのありがたみが分かる。
 冬の寒さを耐え抜いてこそ、春の喜びがある。
 暗いとき、沈んでいるとき、そのつらさをしっかり覚えておきたい。その後に訪れる歓びを更に大きなものにするために。
 自分の不幸から目を背けるのはもったいない。

 2011年2月28日(月) 「目先の戦い」

 自分の小さな戦いを戦い抜いて、最後まで立っていることが必要だ。
 敵が巨大すぎて自分が小さく惨めに思えても、戦うべき戦いはある。
 負けを認めたところで終わりになる。認めなければ戦いは続く。
 今日負けても明日がある。
 明日も小さな戦いは続く。

 2011年2月27日(日) 「応援」

 頑張れと口先だけで応援するのは無責任だ。
 言われなくても、人は頑張っている。
 頑張りを知っていてくれることこそが励みになる。
 叱咤激励されなくても、人は褒められれば頑張れる。
 けど、褒めることもそう簡単なことではない。ただ賛辞を贈ればいいというわけではない。
 言葉はかけられなくても、せめて、頑張っている人にそっと微笑みを送りたい。
 心の中で、両手を握って、小さくつぶやいてみる。
 頑張ろう、と。

 2011年2月26日(土) 「価値基準」

 自分の価値観と世間の価値観がどれほどズレていようと、自分の価値観を信じるよりしょうがないのだ。
 間違っていてもいい。間違いなら、自分で気づかなければならない。
 本人の信念が揺らいだ価値観を誰が信じてくれるというのか。
 最後の最後まで自分を信じ切れた人間だけが、ある種の説得力を持ち得る。
 自分が良いと思ったらそれは正解だし、間違っていると思えば世間の基準に準じる必要はない。
 人は自分の価値基準に殉じるしかないのだ。
 あとは自分自身を説得できるかどうかにかかっている。

 2011年2月25日(金) 「もっと高く遠く」

 自分の実力が上がれば、世界は広がる。
 高い場所に登れば視界が開けるように。
 結果が出ないときほど、力をつけるための努力をしたい。
 必要とされていないときが、実力を上げるチャンスだ。
 誰かを見返すとかそんなことではなくて、自分がより広い世界を見るために自分を高めることが大切だ。
 力をつければ、もっと遠くまでいける。

 2011年2月24日(木) 「自分のまま」

 変わらなくてもいい人間は一人もいない。
 この世で生きている間は、より良い自分になるためにあがかなくてはならない。
 けど、人は自分以外の誰にもなれないということを知っておく必要がある。
 自分という人間はどこまでいっても自分でしかなく、まったく別の人間になることはできない。
 今の自分のまま、成長し、進歩していくしかない。
 それは、あきらめでもあり、覚悟でもある。
 どうやれば駄目な自分から生まれ変われるかを考えなくてもいい。
 駄目なところも悪いところも、全部引きずったまま、先を目指せばいい。
 自分の良い部分で勝負して、認めてもらうしかない。

 2011年2月23日(水) 「地道に」

 どんな悩みがあっても、日常の中でどんな問題が起きていても、日々積み重ねていくことだけは忘れずに重ねていきたい。
 調子のいいときだけやって、悪いときは休むというのでは、ウサギとカメの話のウサギになってしまう。
 地味にコツコツやれば必ず勝てるわけではないけれど、やっぱり積み重ねがないと負けてしまうように思う。
 一番負けてはいけないのは、自分の中にいる弱い自分だ。
 人間誰しも幅があって、一番上の自分を実現させるか、一番下の自分で終わってしまうかを決めるのは、自分自身だ。
 上限が低いところにあって気にくわなくても、とりあえず頭打ちのところまではいっておきたい。限界を超えるにも、限界まで到達しないことには話にならない。
 空を飛ぶ翼を持たなくても、足元を少しずつ固めて高みを目指せばいい。
 気持ちだけ飛ぶつもりで手足をばたつかせていても、空を飛べないし、前にも進めない。

 2011年2月22日(火) 「踏みとどまること」

 続けること、休まないことが大切だ。
 一日でも怠けてしまうと、それが癖になる。
 もう一日くらいいいだろうと、自分を甘やかす。
 そうなってしまうと、崩れるのは早い。習慣は常に保ち続ける努力をしなければならない。
 良いことは自動的にやるようにすればいい。理屈や理由など考える必要はない。
 まあいいかと思ったところで、そのまま明日へいってしまうか、踏みとどまって嫌々ながらもやるかで、最終的には大きな差になる。
 やると決めたことは毎日やること。後回しにするほどやらない可能性が高くなるから、なるべく先頭に持ってくるようにしたい。
 自分のためを思うなら。

 2011年2月20日(日) 「クリアにすべきこと」

 人が悩むのは、本当に自分がしたいことが何か分かっていないからだ。
 したいことが分かっていれば、そのことをするだけで、思い悩むことはなくなる。
 良い結果が出なければどうすればいいか考えるけど、それは悩んでいるのとは違う。
 悩まずに生きていくためには、自分が何をしたいのかを突き詰めていくことだ。まずその部分を明確にしないことには悩みは決して終わることがない。何かで気が紛れて悩みを忘れたとしても、問題は解決しない。
 自分の中で答えが出るまでは、常に自身に問いかけ続ける必要がある。
 おまえは一体、何がしたいのだ、と。

 2011年2月19日(土) 「夢の中」

 眠りながら夢を見て、起きても夢を見る。
 寝ても覚めても夢物語。
 終わってみれば、この世は夢のような世界だったと思うに違いない。
 過ぎゆく日々に、どんな夢を描けるだろう。
 いい夢を見たが勝ちなのだ。

 2011年2月18日(金) 「あるという前提で」

 死んだあとの世界も、来世もないという前提で生きられたら、どんなに楽だろうと思う。
 でも、ない方に賭けるのはとても危険だ。あると思ってなかった場合は損したなで終わるけど、ないと思ってあったら困ってしまう。
 ここはやはり、保険としても、あの世も来世もあるつもりで生きておいた方がよさそうだ。
 来世があるなら、現世で少しでも上積みしておきたい。何も結果が出せなかったとしても、今世の貯金は来世に持ち越せるはずだ。
 年を食ったらあきらめて何もしなくてもいいというわけではない。

 2011年2月17日(木) 「多感情」

 泣いて笑って怒って悲しんで。
 楽しんで、喜んで、不安になって、安堵する。
 懐かしがって、切なくなって、愛おしく思う。
 感情がいろんな方向に大きく揺れた日は、良い一日。
 心もたくさん動かして鍛えなくちゃいけない。

 2011年2月16日(水) 「心の灯火」

 心に灯火を。
 人の心は、ときとしてフッと暗くなってしまうことがあるから、そんなときは誰かが誰かの心に小さな明かりをつけてあげなくてはいけない。
 いくつかの小さな明かりが集まれば、心はまた明るくなる。
 自分も弱くて小さな明かりしか持っていなかったとしても、暗闇の中ではきっと役に立つ。
 心の灯火は分け合うものだ。困ったときはお互い様で、どこかで誰かが明かりを待っている。

 2011年2月15日(火) 「なくはない正しさ」

 正しいことが何なのか、見えた気がしたり、分からなくなったり、その繰り返しだ。
 結論的に言えば、絶対的な正しさは存在しない。
 けれど、ある種の正しさは確かに存在する。
 たとえば、モーツァルトやダ・ヴィンチや長嶋茂雄のように。
 そういう意味での正しさが存在するのなら、最初からないものとあきらめるのは間違いだ。あるという前提で追い求めなければならない。
 個人の問題として、一瞬の出来事だったとしても、正しさを目指すなら、自ら体現してみせる必要がある。

 2011年2月14日(月) 「感謝の循環」

 感謝は関係性から生まれるもので、感謝しなくてはいけない分量が多ければ多いほどいい。感謝は人徳とイコールだから。
 恩を受けるということは、相手から見れば恩を与えるにふさわしいということで、人徳がなければ誰も何もくれはしない。
 人の世話になることも悪いことではない。
 駄目なのは、恩にしろ世話にしろ、受けっぱなしで返さないことだ。
 返すのは直接の相手でなくてもいい。受けた恩の分だけ、誰かに何からの形で報いればいい。
 そうやって人から人へ感謝の気持ちが循環していくことが大切だ。
 感謝すべき相手がいないと思うのは大間違いで、傲慢でもある。探せば感謝する対象はたくさんいる。
 自分という存在を支えてくれているすべての人や物や状況に、いくら感謝してもしきれない。

 2011年2月11日(金) 「思い出から逃げろ」

 過去の楽しかったことばかり思い出すから、前に進む足取りが重くなる。
 昔の悪いことをあれこれ思い出せば、そこから少しでも遠ざかろうと、前を見て走っていける。
 思い出は大切な宝だ。けど、必要以上に美化してはいけない。実際、そんないいことばかりじゃなかったはずだ。
 希望は過去にはなく、未来にしかないものだから、この先で探すしかない。
 思い出に浸るのは、それ以上前に進まなくてよくなったときでいい。

 2011年2月10日(木) 「沈んだときは」

 自分で自分を追い込んで楽しく過ごせない日は、無理にでも笑った方がいいのか、あえて沈んでしまう方がいいのか、それともそんな気分を打ち消すのがいいのか、私には分からない。
 ただ分かっているのは、暗い気分はいつまでも続かないということだ。そのうち自然に上昇する。
 それでいいのかどうかの判断もつかないけれど。

 2011年2月9日(水) 「この外の世界」

 狭い庭で遊ぶ我々が、更に広い世界へ出て行くためには、もっと多くを学ぶ必要がある。
 手ぶらでフラッと出ていってなんとかなるほど宇宙は優しくない。
 私たちは最終的に、どれくらい広い世界に対処しなければならないのだろう。
 今の人類は、やっと幼稚園の年長さんくらいのものだ。狭い園内で駆け回っている程度に過ぎない。
 外の世界に対して、絶望感を希望が上回るだろうか。

 2011年2月8日(火) 「答えは最初から出ている」

 多くのことを考えて、答えらしいものもいくつか出してきたけど、あの世に持っていく結論はただ一つ、この世界は生きるに値する場所というものだ。
 正しいとか間違ってるとか、意味がどうだとか、目的がどうこうではなく、生きることにはそれだけで価値がある。
 必要なことは、この世界を存続させることだ。存在することそのものが答えに違いない。

 2011年2月7日(月) 「喜びの種」

 喜びの中に悲しみは潜んでいる。
 悲しみの中に喜びの種が隠れている。
 悲しみを栄養にして、喜びの種に涙の水をやり、芽を出したら世話をして、花を咲かせよう。
 悲しみが深くて強いほど、可憐な花が咲く。
 悲しみはやっつけるべき敵じゃなく、喜びは種から自分で育てるものだ。
 生きるとはそういうことだと思う。

 2011年2月6日(日) 「ただ待つこと」

 待つのが嫌いだった。
 ただ待つということのみに費やされる時間ほど無駄なものはないと、ずっと思ってきた。
 それがこの頃少し変わってきた。
 写真家・横山宏の言葉も大きかった。
「ひたすら待ち続けると、神がつくる造形に出会える瞬間がある。」
 この言葉に共感してから、待つことが嫌ではなくなった。むしろ、愛おしいとさえ思うようになった。
 ただ待つこと。それは無駄ではないし、目的となり得るものだ。
 横山宏はこうも言っている。
「無心で通い詰めれば、自然は、いつか奇跡の一瞬を与えてくれる。」
 これらの言葉は、写真を撮る姿勢だけに限ったものではない。
 ただぼんやり待っているだけでは意味がない。待つと決めたことをとことん待つことが大切だ。
 訪れるか訪れないか分からない一瞬のために。それが待つことでしか得られないものだとしたら、たとえ無駄に終わったとしても、待つ意味はある。

 2011年2月5日(土) 「許しがあるからここにいる」

 自分が生きているのは、生きることを許されているからだ。
 文句があるなら許してる方に言ってくれというくらい居直ってもいいのかもしれない。
 許しもないのに生きられるはずもない。
 だから、つべこべ言わずにありがたく生きていればいいのだ。
 生き死には上の方で決めてくれる。
 生きているうちは生きたくなくても生きなければならない。

 2011年2月4日(金) 「すべての断片が自分」

 自分のすべてを知ってから自分という人間を判断して欲しいという思いは誰しも抱きがちなのだろうけど、現実問題としてそんなことは不可能だ。家族や夫婦でも全部分かっているわけではない。
 人は互いに互いのことを断片的な情報で判断し合うもので、それは仕方のないことだ。誤解されるのも必然と言える。
 誤解されるのが嫌なら、自分のすべての断面において責任と自信を持たなければならない。どの角度から表面的に判断されても、それが自分だと思えれば強い。
 表から見えなくても、内に秘めたものが優れていれば、誰かは気づいてくれる。
 他人の評価というのは、的外れのようで案外的を射ているものだ。

 2011年2月3日(木) 「去年の尻ぬぐい」

 今年の自分は、去年の自分の弟のようなものだ。
 兄貴の敵は弟が討たねばならない。
 敵というのは、去年の自分ができなかったことだ。
 敵討ちという言葉がふさわしくなければ、尻ぬぐいと言い換えてもいい。
 巡り来る季節の中で、同じ失敗を二度してはいけない。
 不甲斐なかった去年の自分と同じ自分では情けない。
 去年を超えるというのは最低限のことで、どれだけ上積みできるかだ。
 まずは去年やろうとしてやれなかったことをやることから始めたい。

 2011年2月2日(水) 「丸くなる」

 先鋭的なものも、使っていれば丸まってくるように、自分の中の尖っていた部分も歳と共に角が取れていく。
 それは良いことでもあり悪いことでもあるのだけど、どちらにしても仕方がないことだ。両方ひっくるめてよしとするしかない。
 もう昔のようにはなれないと思うと寂しくもあり、穏やかになれたことを喜ばしくも思う。
 若い頃と歳を取ってからと、それぞれの良さがあり、駄目なところがある。これから先もそうだ。
 自分の変化のすべてを受け入れるしかない。飲み込んで消化する力も、年月を経て強くなっていく。

 2011年2月1日(火) 「追いかけるしかできない」

 私たちの答えが、この世界の答えではない。
 時代によって正義が違うように、この世界が存在し続ける限り、答えはどこまでも逃げていく。決して捕まえて手なずけることはできない。
 けど、だからといって人が答えを求めるのをやめることはできない。
 掴めない幻を追いかけることをやめたら、何をしていいのか途方に暮れてしまう。
 私たちは追いかけるものが何であれ、前に向かって進み続けるしかないのだ。
 たとえ、この世界が終わってしまったとしても。

 2011年1月31日(月) 「恐れという正常」

 死を恐れることは正常な感覚だ。
 むしろ、死を恐れない方がおかしい。それはただ鈍感なだけだ。あるいは、生きることを侮りすぎている。
 死に対する恐怖は、いわば神への畏れのようなもので、謙虚さの表れでもある。
 誰に教えられることなく、感覚として持っていなくてはならないものだ。
 人間の本能すべてが原始的なもので、進歩的に生きるために否定しなければならないというわけではない。
 死や神への畏怖というのは、恥ずかしいことでもないし、心の弱さを表すものでもない。
 死を恐れないことは格好良くもないし、強さでもない。
 死を覚悟して生きることと、死を恐れないことは同じことではない。
 死への恐怖は、必死に生きることで誤魔化していくしかない。

 2011年1月30日(日) 「気づき」

 若い頃は気づけなかったことに、少しずつ気づけるようになってきた。
 気づくのが遅すぎたとしても、あの頃に戻ってやり直したいとは思わないし、後悔も感じていない。
 気づけたことを喜びとしたい。生きなければ分からなかったことだから。
 ただ生きているだけでも価値はある。
 もっと先へ行けば、これまで気づけなかったことに気づくことができるだろう。
 楽しみがあるなら、それだけを理由に生きていい。

 2011年1月29日(土) 「頼らず頼みとする」

 人の助けを当てにしてはいけない。
 けど、差し伸べてくれた手は、しっかり握っていい。
 他人に頼らないということの意味を取り違えてはいけない。
 自分一人でできることなどたかが知れている。二人で協力すれば、力は2倍以上になるし、みんなで団結すれば大きな力になる。
 まずは自分ができる最善を尽くすことが先決となる。
 それでも力が及ばないときは人の力を借りればいいし、力が余れば助けを求めている人に手を貸せばいい。
 自分一人で何でもしようとするのが一番よくない。

 2011年1月28日(金) 「反応を素早く」

 この世界に一切の偶然はないとは言い切れないとしても、起こった出来事のすべてに根拠はある。
 何故そうなっているのか理解できなくても、そこには何らかの理由があるのだ。自分が見ている側が物事のすべての面ではない。
 この世界の出来事を疑ってはいけない。起こったことは起こったこととして受け入れるしかない。
 どれだけ納得できなかったとしても。
 できることは、起こったことのその先をどうするかということだ。考えていては立ち後れる。
 反射神経が大切だ。瞬時の状況判断と動き出しが、良い結果をもたらす。
 常に先を予測することが、反応を良くする。

 2011年1月27日(木) 「運命は作るもの」

 時間はどこへも向かっていない。ただ流れているだけだ。
 人も世界も、同じことだろう。
 この世界に目的地はない。あるのは流れだけだ。
 流れ着いた先に何があるかは分からないし、必然的な帰結が結果的に目的地ということになる。
 人にあらかじめ決まった運命などないのだと思う。運命のように見えても、それは積み重ねの結果だ。最初からそこへ向かっていたわけではない。
 結果は変えられる。そして、どんな結果も必然である以上、不正解ということはなく、すべては正解ということになる。
 流されないように、自分の意志で歩いていこう。
 運命は自力で積み重ねて作る物語だ。

 2011年1月26日(水) 「思い出の相手」

 懐かしさや思い出に捕まってやっていいときもあるけど、そうじゃないときは非情に振りほどいて前に進まなくてはいけない。
 幸福の記憶に浸ることは、心を休めることになる。そうだとしても、傷んだ心のまま未来を目指さなければならないときもある。
 昨日より明日を思いたい。
 新しい一日の中に、あらたな可能性を探さなくては。

 2011年1月25日(火) 「時間配分」

 持ち時間は最優先事項に優先的に費やすべきで、あれもこれもと手を出して時間不足に陥るのは、全面的に自分が悪い。時間が足りないことが問題ではない。
 やることをやりきって、それでも時間が余ったときに他のことをやるのが筋だ。
 時間が足りないときは、やるべきことだけに絞ってやった方が、結果として納得もするし、満足もする。

 2011年1月24日(月) 「自分の場所で」

 この世界は、それぞれが小さな部分の役割を分担して成り立っている。
 優れていることが必ずしも存在理由ではない。
 自分の存在を認めてもらいたければ、優れている人間から場所を奪うか、誰もいないところへいくか、どちらかしかない。
 先客がいる場所を奪おうとすれば戦いになる。それが嫌なら隙間を狙っていかないといけない。
 自分より劣っている人間はいくらもいるし、同時に自分より優秀な人間もたくさんいる。下を見て間違ったプライドを持ったり、上を見て正当に評価されないとひがんでみても意味はない。
 自分の居場所と役割を見つけて、それに徹することが大切だ。
 一所懸命というのは、その場所で頑張ることを意味する。
 他人より優秀であろうとする方向性では、自分を見失うことになる。

 2011年1月23日(日) 「もっと早く」

 もっと勉強しなくてはと、ときどき切実に思う。
 時間が足りないというもどかしさよりも、自分自身のスピードの遅さがいかんともしがたい。
 絶対的な勉強量が足りない。
 もっと急がなくてはいけない。

 2011年1月22日(土) 「遠く高く」

 向上心は大切。
 歩き続けるための原動力になる。
 けど、今いる場所でのけぞるほど上を見ていては、足元もおぼつかないし、ひっくり返りやすい。
 遠く斜め上を見るのが正しい向上心だ。
 前へ進むだけでは向上しない。
 高く、遠くへ飛び出すためには、長い助走距離と、駆ける足の速さが必要だ。
 大ジャンプのチャンスは一度あるかないかだろう。そのジャンプで着地に成功するかどうかで人生は大きく左右される。
 日頃から足腰を鍛えておかなくてはいけない。

 2011年1月21日(金) 「入れ替わり」

 終わること、消えること。それは、美味しい食事を終えて店を出るようなものだ。次の人に席を譲らなくてはいけない。いつまでも居座っているのは迷惑だし、わがままだ。
 この世界は、人が絶え間なく入れ替わることで成立している。入れ替わりが止まれば、世界は淀み、すぐに腐ってしまう。自浄作用には限界がある。
 街もまた同じで、古い建物は新しい建物のために消えなくてはならない宿命にある。
 過去を大切にすることは大切だけど、過去に執着するのはよくない。
 昨日の自分をきちんと終わらせて、今日は新しい自分で生きること。
 時期が来たら、立ち去ることを惜しんではいけない。

 2011年1月20日(木) 「冬を耐える」

 元気で過ごしていれば、いつか再会できる機会も巡って来よう。
 冬が終わって、桜咲く春がまた巡り来るように。
 それは未練なんかじゃない。未来における希望だ。

 2011年1月19日(水) 「並んでいる自分」

 今日やれることを明日に回してしまうと、今日やっていれば明日できたことがあさってに押し出されて、あさっての分はしあさってにというように、どんどん横入りされたようになって、後ろの方は収まらなくなる。
 それは単にやれることが少なくなるというだけでなく、会えるはずだった自分に会えないことも意味する。
 今日の自分のまま明日に行ってしまうと、明日の自分があさってに押しやられる。そうなると、列の後方で待っている自分は、生きる日をなくして、生きられない。それは寂しい。
 逆のことを考えてみよう。
 明日のことを今日やってしまえば、あさっての分を明日に引っ張ってくることができる。明日の自分を今日に呼び寄せれば、列からはみ出していた予備の自分が列の後ろにつくことになる。
 今日やれることをやることは、未来の自分を救い出すことにつながる。

 2011年1月18日(火) 「希望を」

 絶望というのはとても主観的なものだから、他人がどうこう言えるたぐいのものではない。
 歯の痛みのようなもので、他人には分からない。
 絶望など知らずに済めばそれに越したことがない。
 絶望する人間は往々にして変な自尊心を持つ。自分の方がより人生を深く知っているのだと。
 けれど、それもまた主観的なものに過ぎない。
 絶望は決して答えではないし、結論でもない。
 常に希望はある。
 どれだけ絶望的に思える状況でも、希望を持って生きていかなくてはならない。それが自分を救う唯一の方法だ。
 絶望しながら死ぬよりも、希望を抱いたまま散り果てる方がずっといい。

 2011年1月17日(月) 「自力で」

 甘さや至らなさは、自分自身で気づくべきもので、人に教えてもらってどうこうというものではない。
 いつか気づくべきものなら、なるべく早く気づいた方がいい。
 いつでも自分に問いかけなければならない。
 それは甘くないのか、と。
 甘くないさと、自信を持って答えるのは、難しい。

 2011年1月16日(日) 「降り積もる雪のように」

 悲しみは雪のように心の中で降り続き、やっとやんで雪かきを終えても、またいつしか静かに降り始め、心の底に積もっている。
 かき出しても、かき出してもキリがない。悲しみに終わりはない。
 やがて心を悲しみが埋め尽くして、動けなくなる。
 そして、ただ雪解けを待つ。
 悲しいことは人生において悪いことじゃないと、自分を慰めはするけれど。

 2011年1月15日(土) 「走るとき」

 走れないときは走れないし、走れるときは走れる。
 それは意志だけではどうにもならないことだ。
 じっと我慢してしゃがんでいることも必要だ。それも大切な時間となる。
 走れるときは、少しくらい苦しくても走り続けなくてはならない。いつかまた走れなくなるときが必ず来るから。
 走るべきときとそうじゃないときを、正しく見極めなくてはいけない。

 2011年1月14日(金) 「後手必敗」

 楽観も悲観も、同じように現実から目を背けているだけだ。
 人は自分に合った方法で現実から逃げる。悲観的であった方が楽な人もいる。期待しないことで心を守るのだ。
 楽観も度を過ぎれば、現実離れしているということになる。世界は楽観していていいほど問題がないわけではない。
 現実と向き合うことは大事なことだ。ただし、向き合うなら戦わざるを得ず、戦わないのなら下手に向き合うと大怪我をすることになる。戦う覚悟も決めないうちに現実の正面に立つのは危険だ。現実はそれほど甘くない。
 楽観と悲観との間を飛び移りながら、現実とぶつからないのが賢いやり方と言えなくはない。
 それでも、いつか訪れる現実との対面に備えて、心の準備だけはしておいた方がいい。
 私たちは必ず現実に敗れる。それが宿命だ。
 格好良くなくても、負け戦を戦って散りたい。

 2011年1月13日(木) 「そのとき」

 時は去り、時は来る。
 そのときはいつか来ると知りながら、いざ来てみなければ何もできないものだ。
 歳月人を待たず。
 だから、今できることをやっておこう、というのはその通りだ。
 けれど、自分の無力を思い知り、何もできずにたたずむしかないときもある。
 人は来て、人は去る。

 2011年1月12日(水) 「好きなことだけ」

 立派な人間の条件はいくつもあるけど、自分が好きなことを頑張れる人であれば、それでいいのだと思う。
 逆に言えば、自分が好きなことも頑張れないようではどうしょうもない。それじゃあ、救いがない。
 好きなことなら一年365日、休みなく全力で取り組むべきだ。

 2011年1月11日(火) 「毎日新しい自分で新しいことを」

 常に新しい秩序を模索して、再構築していかなくてはならない。
 そのためには、古い秩序を壊す必要がある。
 昨日までの秩序に安心して身を委ねていてはいけない。
 今日やるべきことはあらたな可能性の追求だ。昨日と同じ場所に新しい可能性はない。
 毎日少しでも違うことをやるように心掛けたい。
 今日を終えるのは、明日の新しい自分に出会うためだ。
 今日の始まりと終わりで、自分が同じ人間だとしたら、その日は意味がなかったことになる。

 2011年1月10日(月) 「目的地へ向けて」

 毎日、遠くの目標を確認して、そちらに少しでも近づくための今日にしなければならない。
 漠然と前進するのではなく、必ず目的地へ向かって進むことが大切だ。
 目標地点から逆算して考えれば、何をすればいいか分かるはずだ。
 やれるやれないは別にして、今日やるべきことが分からないとしたら、それは目標が見えていないということになる。
 その場合は、目標をもっと明確にする作業からやらないといけない。

 2011年1月9日(日) 「やらないのが最悪」

 弱い意志が後悔を生む。
 強い気持ちで一歩踏み出した失敗は、苦い記憶にはなっても、後悔にはならない。
 やらずに逃げることが最悪の選択だ。
 勇気のない人間が勇ましい行動を取るには、勇気以外の何かが必要だ。
 あるいは、感情を打ち消す訓練が必要かもしれない。
 やらないという選択肢を最初に消さなくてはならない。
 あとは、どうやるかを考えればいい。

 2011年1月8日(土) 「まだ途中ならば」

 力不足でも、結果を出せなくても、精進努力をしている途中なら、仕方がないから許してもう少し待ってやるかということになるけど、夢だけあって何の努力もせずにただ怠けているだけなら、許してやる必然性がどこにもなくなってしまう。
 何もしないということは、時間を失うということだ。
 時間を大切にできない人間は、結局のところ自分を大切にできない人間ということで、最後まで何もなし得ずに終わってしまう。

 2011年1月7日(金) 「可能性のある限り」

 生きれば生きるほど、選択肢は少なくなり、可能性は小さくなる。
 だからといって、悲観することはない。可能性は常に残されているし、当たりくじは最後に残っているかもしれない。
 などという慰めで自分を納得させていいのかどうかは分からないけれど、自分の可能性を信じられなくなったらおしまいなことは確かだ。
 唐突に暗闇から抜け出して、開けた明るい場所に出ることもある。
 自ら可能性を広げるための努力をすることも必要だ。
 これまでの自分が自分のすべてじゃない。
 明日という日は、新しい自分と出会うためにある。昨日までと同じことを繰り返しているだけでは、新しい自分は見つからない。

 2011年1月6日(木) 「失敗しても良いということはない」

 失敗から学ぶのは次善の策であって、成功を目指して努力をするのなら、成功して多くを得ることこそが最善に違いない。
 一所懸命やりさえすれば失敗してもいいと、最初から逃げ道を用意するのは潔くない。
 もし、失敗しても悔しくないとすれば、それは必死さが足りなかったということだ。
 やはり、成功してみせなければ、何も始まらない。
 努力をするのも、結果を出すのも、自分の意志と力だ。
 成功は必然の帰結としてあるべきもので、結果オーライを期待してはいけない。

 2011年1月5日(水) 「意味のない半分」

 この世界の半分は説明できても、半分は説明できない。
 どう考えても理不尽なこともたくさんある。
 誰も知らないところで起こっている過酷な状況も。
 意味や理由を問うても、答のない問いもある。
 抵抗するか、受け入れるか。
 死と時間がすべてを解決してくれるのかどうか。
 私たちは刹那の意味に生きるしかないのだろうか。

 2011年1月4日(火) 「幸福という結論」

 人の世界は不幸か幸福かといえば、それはもう幸福なものに違いない。結論は最初から決まっている。
 なのにどうして不幸だなどと言い張るのか。
 もちろん、不幸なことはたくさんある。けど、それ以上に幸せなこともたくさんある。
 どちからがこの世界の本質で、どちらが結論になるかといえば、不幸のはずがない。
 善と悪に置き換えても同じことが言える。
 昼と夜の関係にたとえたら分かりやすいかもしれない。やっぱり、太陽の出ている昼がこの世界の姿だろう。
 生きることはそれだけで幸せなのだから、不幸にあまり煩わされず、幸せをかみしめなくてはいけない。
 すべての幸福は発見されていない。よく探せば、身の回りの日常にもたくさんの小さな幸せが潜んでいる。

 2011年1月3日(月) 「後天性」

 長い時間をかけて訓練して、積み重ねて、自分のものにしたことしか、本当の意味での自信は持てないものだ。
 持って生まれたものは自慢にはなっても、自分のものであって自分のものでないところがある。
 鍛錬の末に身につけたものは、自分自身のものとなって、揺らがない。
 才能の絶対性というのはあるにしても、努力の偉大さもある。
 これだけはずっと一所懸命取り組んできたというものを一つは持ちたい。
 誰の前でも自信を持って披露できるものを。

 2011年1月2日(日) 「死ななきゃ分からない」

 生きることの意味は、死んでみるまで分からない。
 個人の人生においても、10代、20代、30代、40代、どの年代で死んだかによってずいぶん意味が違ってくる。
 20歳で死ねば20年間が人生の100パーセントだけど、40歳まで生きれば20歳までは人生の50パーセントになり、60まで生きれば20年は3分の1でしかなくなる。
 現在進行形で生きているうちは、生きる意味の結論は出ない。
 幸せの定義も、年齢と共に変わっていく。
 今現在の結論は、結論ではない。たとえ明日死んだとしても、死のこちら側とあちら側では結論は違ってくる。必然的に結論は先送りするしかない。
 生きることの意味は、追いかける先から逃げていく。意味を追いかけていると、道に迷う。
 頭で意味を考えるよりも、体や手足を動かしてもっと一所懸命に生きた方がいい。
 意味を超越して、もっとその先まで走っていけるように。

 2011年1月1日(土) 「あきらめないこと」

 自分に向かって、もうあきらめろとは言えない。
 たとえ過去に戻って、19の自分の前に立ったとしても、あきらめた方がいいとは言えない。
 むしろ、最後まであきらめるなと、声をかけたい。
 その思いが続く限りは、あきらめなくていい。

 2010年12月31日(金) 「歩き歩く」

 来年は飛躍の年にしたいなんて思わない。
 地に足を付けて、歩き歩いていけば、いつか目的地に辿り着く。
 ジャンプしたり、近道したりなどということも考えなくていい。
 とにかく歩き続ければそれでいい。
 人生は片道の旅だ。帰りのことを考えなくていいのだから、気楽なものとさえ言える。
 もうこれ以上歩けないというところまで歩いたら、そこが目的地となる。

 2010年12月28日(火) 「命の重さ」

 命は、客観的に見れば軽く、主観的に見れば重い。
 重たいように見える命も、軽いように見える命も、大局的に見れば、等しく軽い。悠久の宇宙では一瞬の塵のようなものだ。
 個人的なことをいえば、どんな命も取り替えがきかないという意味で重い。周囲の人間にとってもそうだ。
 一個人の命が重いか軽いかは、一概には判断できない。
 いずれにしても、命を軽んじることはやめた方がいい。他人の命も、自分の命も。
 いろんな意味で、命は有り難いものであり、捨て難いものだから。
 一つの命ができることは、思うよりも多い。命は役に立つものだ。

 2010年12月27日(月) 「信じ切れるか」

 信じることは必要なこと。
 けど、本当に大切なのは、信じ切ることだ。
 信じられなくなりそうなとき、ぎりぎりの判断で信じ切った者だけが向こう側で何かを手にできる。
 怖じ気づいて引き返してしまえば、何も手にできない。
 もちろん、信じてはいけないものを盲信することで身を滅ぼすことはある。
 だから、信じることは難しい。
 信ずるに値するかどうかを見極める力も、その人にとって重要な能力で、人生を大きく左右することになる。
 自分の信念に殉じることは、危険な賭であり、だからこそ美しくもある。
 心中する覚悟で本当に心中になってしまえば、それで終わりだ。

 2010年12月26日(日) 「今の幸せは今だけ」

 今の自分の幸せと、10年前の自分の幸せは、違うものだ。
 だから、10年前の幸せをもう一度味わうことはできない。求めても得られない。
 10年後はまた別の幸せを感じ、求めている。
 今の幸せは、今しか味わえないのだということを、よくよく自覚しなければならない。
 今幸せに感じていることが、この先も続くことはない。

 2010年12月25日(土) 「はじめに技術ありき」

 思いを支えるのは技術で、技術がなければ思いは伝えられない。
 スポーツでも、芸術でも、文学でも、写真でも、仕事でもそうだ。恋愛もそうかもしれない。
 技術を習得するためには、長い時間をかけた訓練と勉強が不可欠で、思いの強さだけではどうにもならない。
 才能があっても、大事に育てなければ大きな花は咲かせられない。
 小学校のときに聞かされた、日々の積み重ねと継続の大切さは、悔しいけど認めざるを得ない。
 自分が天才に生まれなかったことを嘆くより、技術を高めるにはどうしたらいいかを考えたい。
 技術さえ身につけば、思いはあとからどうにでもなる。

 2010年12月24日(金) 「生きることは見ること」

 つべこべ言わずに生き延びることが大事。
 死んだら終わり。死なないように、充分気をつけないといけない。
 来年起きることは、来年にならないと分からないし、見ることができない。
 自分の人生を生きることは、半分でしかない。
 残りの半分は、その時代を見ることだ。
 自分自身の幸せなんてものは、半分の半分程度で、全体でいえば20パーセントくらいのものだ。そんなに重要なことでもない。
 生き延びた者だけが新時代を体験することができる。
 10年前、20年前と今を比べたとき、10年先や20年先を見たいと思わないだろうか。
 私はぜひ見てみたい。

 2010年12月23日(木) 「待たずにやる」

 期待していいのは、努力した人間だけだ。
 何の努力もしないで期待だけするなんてことは、どう考えても正当性がない。
 逆に言えば、自力でなんとかしようとする人間は、期待して待つなんてことはしない。
 ただ待っているだけでは、何も起きない。少なくとも自分から動く必要がある。
 期待を、希望や可能性という言葉に置き換えてもいい。
 ささやかなものでも、自分の力で手に入れたものは尊い。
 待っている時間があれば、何かできることがあるはずだ。

 2010年12月22日(水) 「もっと先の未知へ」

 後ろを振り返る余裕がないくらい前だけを見て疾走していれば、過去はいつの間にか遠いものとなっている。
 過去が近いとしたら、しっかり走れていないということだ。
 常に全力疾走では息が切れる。
 慌てなくてもいいから、怠けてはいけない。
 先へ行けば行くほど、新しいことが待っていて、新しい自分と出会うことができる。
 日常から逃れて遠くへ行く必要はない。もっと先へ行けばいいだけだ。
 この延長線上の日常の中に未知はある。
 今日という日が昨日と同じ光景なら、駆け足をする必要がある。

 2010年12月21日(火) 「強さとは」

 誰にも頼らないことが強さじゃない。
 人を頼りにして、受けた恩を倍返しするのが、人としての本当の強さだ。
 人に恩を受けることは徳の証であって、恥ずべきことではない。
 無償の愛なんて、ただの独りよがりの自己満足でしかない。
 幸福は、行って帰って、また行ってという交換があってこそ、真に成立するものだと知らねばならない。
 手を差し伸べて、差し伸べられた手を掴む。そうやって心の強さは育まれていくものだ。

 2010年12月20日(月) 「幸福探しのリレー」

 幸福について考えるのは、自分が幸せになりたいからではない。
 幸福の本質を理解したいからだ。
 自分は幸福の側を見ていたいし、自分も幸福の側に属していたい。
 それは、人が言う幸福とは少し違う。
 幸福になることが目的ではなく、幸福の中にこの世界の本質を見いだしたいということだ。
 世界は光と闇でできているように、幸福と不幸でできている。
 しかしそれは、相反する二つの要素ではなく、同じものの表と裏のような関係だ。昼と夜が入れ替わるように逆転する。
 幸福とは何かという問いに対する明確な答はない。
 ただ、人類が誕生してから今に至るまで、ずっと幸福を求めてきたことだけは間違いない。やはりそれが、人が生きる意味なのだろうと思う。
 私たちも最大限の努力をして幸福を目指す必要がある。それがバトンを引き継ぐということだ。
 人類に与えられた使命といってもいいかもしれない。

 2010年12月19日(日) 「希望はあるけれど」

 どんな悲惨な世界にも救いはある。確かにそれはある。
 ただ、小さな救いに世界全体の希望を見ていいのかどうか。
 希望を慰めに変えて、けなげに生きていくことが正しい方法なのだろうか。
 宗教という大きな慰めも、人間を本質的に救っているとは言えないのではないか。
 この世界を天国と見るか地獄と感じるか、その判断は個人がするしかないわけだけど、この世界がどこへ向かおうとしているのかは誰にも予測ができない。
 希望ということが本当はどういうことなのかも、誰も理解していない。
 世界の終わりが私たちの終わりを意味するのかどうかも、分かっていないのだ。

 2010年12月18日(土) 「今も胸に」

 過去の大切な人たちが自分の中にいて、私の心を孤独にしない。
 過去に戻らなくても、今もここにいる。
 いつか、遠い未来で再会できることを楽しみにしている。
 だから、ひとりきりになっても、先へ進まなくてはいけないのだ。

 2010年12月17日(金) 「選ばなかった自分」

 何かを選ぶことは、それ以外を捨てることだ。
 日々、何気なくいろいろな選択をしているけど、それ以外の選択肢について無自覚すぎる。
 選ばなかったことについて、もう少し思いを巡らせてもいいのではないか。
 捨てた選択肢の先には、それぞれ別の自分がいる。出会うことができなかった自分が。
 選ばなかった自分を思うことで、選んだ自分をもっと大切にできる。
 選んだ自分に責任を持つのはもちろんのこと、選ばなかった自分に対しても責任はある。

 2010年12月16日(木) 「正当化しないやり方」

 誰もが自分を正当化するすべを持っている。
 他人が間違っていると否定するのは簡単だけど、それでは問題は解決しない。
 本人が何かをきっかけにして、正当化の言い訳を捨てられるかだ。
 自分を守りすぎるのはよくないし、卑下して居直るのはもっとたちが悪い。
 真っ直ぐ前を向いて揺るがないためには、どれだけ自分を律しなければならないのだろう。
 いつも正直で、人間らしくあることが正しいのかどうか。
 あまり悟りきっているようなのも、うさん臭い。
 軽い足取りで嬉しそうに駆けていければ、それが一番いい。

 2010年12月15日(水) 「爪痕」

 今日という日に何か爪痕を残せたか?
 残せていないのから、残り5分10分で何かできないか考えてみる。
 満足とはいかないまでも、納得して眠りにつくために。

 2010年12月14日(火) 「もっと先へ」

 前進は常に喪失を伴うものだ。
 失うことを恐れていては先へ進めない。
 けれど、なくすことの傷みに鈍感になってはいけない。
 飲み込み難きを涙と一緒に飲み込んで、受け入れることだ。
 前進と喪失は、損得勘定で測れるものじゃない。そういうことじゃない。

 2010年12月13日(月) 「負けるけど負けない気持ち」

 どんな負け試合でもゲームセットまでは負けと決まったわけではないし、10-0で負けていたら1点や2点返しても仕方がないとあきらめるのは間違いだ。
 10点差をひっくり返すには、まず1点取るところから始めなければ何も始まらない。
 たとえ負けるにしても、10-0と10-1では意味が違う。
 私たちは、死という負けのシナリオを知りながら負け戦を戦っているようなものだ。どうせ死ぬなら何かしてもしなくても同じと思ってしまえば、そこで勝負は終わってしまう。
 いい負け方と悪い負け方がある。部分的な勝利というのもある。
 最後までファイティングポーズをとり続けて、立ち続けることが大事なのだ。
 どんなに無様で格好悪くても、負けを認めてはいけない。

 2010年12月12日(日) 「忘れ物はないですか」

 ふるい落としてきた自分の悪い部分と、置き忘れてきた自分の良い部分。
 どうやっても引き返すことはできないから、このまま進むしかない。
 この先でもっと良い自分になれると信じて。
 でも、ときどきは昔の自分を思い出すことも必要かもしれない。
 置いてきたものは取りに戻れなくても、忘れているだけなら思い出せる。
 なんでもかんでも、自分を新しくすればいいというわけじゃない。

 2010年12月11日(土) 「理解不能」

 神は最終的に、すべて許すか、すべて許さないかの二者択一しかない。
 現状は、態度を保留していて結論が出ていないだけだ。だから、世界は存在している。
 人類は、全宇宙の神という存在を想像できない。存在していないのも同じだ。
 逆から見れば、宇宙の神は地球人を理解できないのかもしれない。
 私たちは狭い宇宙の中での理解にとどまっていて、この世界の価値観の中で生きていくしかない。
 私たちがいう神は、地球の神でしかない。
 時間が人類を宇宙に届かせてくれるのかどうか、想像することさえかなわない。

 2010年12月10日(金) 「制約のせいじゃない」

 自分が本当は何をしたいのかが、分かっているようで分かっていない人が多い。もしかすると、大部分はそうかもしれない。
 ネックになっているのは、本当にお金や時間だけなのか?
 有り余るお金と時間さえあれば、やりたいことができるのか?
 現実問題として、誰もが様々な制約の中にいて、それを言い訳にしたくもなる。
 けど、やれるだけのことをやれている人も少ないんじゃないか。
 だいたいにおいて、自分がやりたいことに対する自覚が足りない。
 限られた条件の中でも、もっとできるはずだ。
 嘆くのは、やれることを全部やって壁に当たったときでいい。
 まずは限界まで到達しなければ、限界は超えられない。

 2010年12月9日(木) 「最後まであきらめない気持ち」

 どれだけ遠回りしても、どれほど時間がかかっても、最後に辿り着けば勝ちなのだ。
 そこにハッピーエンドが待っている。
 逆に言えば、辿り着けなければ負けということになる。
 目指すべき場所があるのなら、簡単にあきらめてはいけない。
 あきらめが悪いのは格好悪いという理由であきらめてしまうのが、一番格好悪い。
 苦労して、時間がかかった方がありがたみがある。
 それに、人生はハッピーエンドの続きの方が難しいものだから、エンディングは最後の方に取っておいた方がいいかもしれない。

 2010年12月8日(水) 「新しい感情を探して」

 過ぎ去っていく感情を拾いに戻ることなどできやしない。
 前に進んで、自分もまだ知らない感情を見つけるだけだ。
 それは心変わりじゃない。心は積み重なっていくものだ。
 アルバムに収められた古い写真が消えないように。
 もうここに好きという気持ちがないとしても、あのときの好きという気持ちがなかったことにはならない。
 人は完成に向かって進むものではない。ただ、積み上げていくだけだ。
 昨日までのすべてが土台になる。
 今日という日は新しい一日で、新しい感情を発見するための旅でもある。

 2010年12月7日(火) 「動かすところ」

 動かさなくてはいけないのは、頭、心、手、足。
 考えること、感動すること、自分でやってみること、その場に行くこと。
 どれが一つで突っ走ってもいけないし、何か一つ欠けても充分じゃない。
 学ぶことと、経験することの両輪が、同じ速さで同時に回転してこそ、真っ直ぐ進むことができる。

 2010年12月6日(月) 「日々勝負」

 毎日は小さな勝負の積み重ねだ。
 相手は最も難敵の自分自身の怠け心だ。
 妥協すれば負けで、怠け心を打ち負かせば勝ちとなる。
 たとえば、そういえばあれをやらなくてはいけなかったと思い出したとき、やれば勝ち、やらなければ負け、といったことだ。
 完勝しなくてもいい。毎日辛勝でかまわない。大切なのは、負けないことだ。もし負けても、連敗してはいけない。

 2010年12月5日(日) 「今は分からなくても」

 テストで、分からない問題は飛ばして、分かる問題からやりなさいという教えがあった。
 あれはそのまま人生にも当てはまるのかもしれない。
 考えても分からないことをいつまでも立ち止まって考えているより、今できることからやっていく方がいい。
 先へ行けば、分からなかったことも分かるようになることがある。
 大事なのは、分からないことを決して投げないことだ。分からないなりに自分の中に抱えて持っていなければならない。
 分からないと思うことは、きっと、分かりたいことだから。
 必ず分かるようになってみせるという気概も必要だ。

 2010年12月4日(土) 「やがて全部消える」

 人生の意味なんてものは、1万年もすればきれいさっぱり消え去ってしまうものだから、あれこれ難しいことで悩まずに、現実的な数十年の間に何をしたいかを考えた方がいい。
 個人が背負う責任など、ごくごく小さなものだ。
 自分を正当化しなくても、すべては歳月が洗い流してくれる。
 永遠なんてことを思う必要もないのだ。
 もっと今日、明日の自分と時間を大事にしなくてはいけない。

 2010年12月3日(金) 「状況次第じゃない」

 希望と失望は、交互に、またはごた混ぜになって、やって来たり、去っていったり。
 希望が持てない状況が一変して希望に溢れる状況になったり、その逆のことが起こったりする。
 可能性の大小によって、人は一喜一憂しているだけともいえる。
 大切なのは状況に負けないこと。状況に流されないこと。
 どんなときもできることはある。その中で、最善の結果を出さなくてはならない。
 状況を言い訳にせず、状況に甘えないこと。
 希望も絶望も引きずりながら、行き着く先へ向かうのだ。

 2010年12月2日(木) 「やらなければ」

 今、やらなければならないことが目の前にあれば、自分が幸福か不幸かなんてことは考えない。そんなことはどうでもいいと思う。
 逆に言えば、そんなことを考えていることがすでに不幸とも言える。
 とにかくやらないと。ただ、それだけ。

 2010年12月1日(水) 「季節の見極め」

 怠けていることが嬉しい時期と、走っていることに喜びを感じる時期がある。
 ずっと走り続けることも、ずっと怠け続けることもできないわけで、自分のリズムを見極めることが必要となる。
 無理をしすぎると、必ずあとから反動が来る。怠けすぎてもツケが回ってくる。
 走るときは走り、休むときは休むことが大切だ。
 必ずしも自分の感情に忠実であることが正しいわけではない。
 春夏秋冬それぞれの季節に合った過ごし方があるように、自分の今の季節を間違えないようにしたい。
 真冬に半袖半ズボンで走り回るようなことをしてはいけない。それは間違った頑張りだ。

 2010年11月30日(火) 「人と同じでも違っても」

 人と違うことを求めるのは、人と同じことを求めるのと違わない。
 どちらも他人任せで、相対的な価値基準で自分を決定している。
 かといって、常に自己本位であることが正しいわけではない。
 信念を持つことは大切だけど、信念を曲げないことはただの意固地だ。他人の意見に耳を傾け、人の良いところを取り入れることも必要だ。
 自分の信じる道が、他人と同じだったとしても、それはそれでかまわない。
 大切なのは、覚悟を決めることだ。自分を貫くにしても、他人の言うことを聞くにしても、最後は自分の意志で決定しなければならない。
 確かな自己を確立して、言い訳してはいけない。
 たとえ負け戦でも、最後まで堂々と立っていればいい。
 勝者は語らず。敗者には語る資格がない。

 2010年11月29日(月) 「不味いものから先に」

 怠けて嬉しいのはその場限りのこと。
 もう少し長い目で見れば、やりたくないことは早めに打ち消してしまう方が、自分を楽にする。先延ばしにしても、苦しいのが続くだけだ。
 やっつけてしまえば、忘れる努力をしなくてもいい。
 嫌なことも大変なのは始めるまでで、始めてしまえば案外そうでもない。
 まずは感情を抜きにして取りかかってみることだ。
 不味いものを食べてしまえば、あとは美味しいものが残っている。

 2010年11月27日(土) 「失いっぱなしでは無意味」

 失ってみて初めて大切なものを知るというけど、知るだけで終わっていては意味がない。大切だと知ったなら、失ったものを取り戻さないと。取り戻して初めて気づいたことが価値を持つ。
 失敗も、失敗しっぱなしでは何にもならない。成功に変えてこそ、失敗がいきてくる。
 過去を肯定できるのはこれから先の未来でしかない。成功すれば、過去は正当化できる。
 気づいただけで満足しているようでは、気づかないこととたいして変わらない。

 2010年11月26日(金) 「意味はある」

 昨日までできなかったことが今日はできるようになっている。
 それが生きることの意味であり、どうして生きなければいけないのかという問いに対する答えでもある。
 新しい一日には、新しい自分がいる。
 長生きすればするほど、違う自分を発見できる。
 それで充分という気がする。

 2010年11月25日(木) 「試練の向こう側」

 困難にぶつかって乗り越えたとき、つらかった記憶として残すよりも、乗り越えたという事実をもって喜びに変える方がいい。
 厳しさを乗り越えた経験は、自分の血肉となり、レベルアップにつながる。
 次に困難にぶつかったとき、乗り越えた先をイメージして、状況に立ち向かうことが大切だ。
 つらい記憶も、今日の自分を思うとき、よかったものとして変換できる。
 試練は自分を成長させてくれるものだから、避けないでぶつかっていきたい。
 たとえ砕けても、それは無駄にはならない。戦わなければ経験値は何も上積みされない。

 2010年11月24日(水) 「侮れない」

 侮っている人間が、ふとしたことで偉い一面を見せることがある。
 そこに、大いなる学びがある。
 愚直さゆえの立派さみたいなものにハッとさせられて、参りましたと頭を下げたい気持ちになる。
 人は誰も、正しい部分を持っている。もし、それを見習おうという意志がないとしたら、その人間こそが侮られるべき存在だ。
 誰に対しても、ある一定以上の敬意を払う必要がある。
 尊敬する気持ちさえ持っていれば、学ぶべきところを学ぶことに躊躇はない。

 2010年11月23日(火) 「走ればいいというものでもない」

 慌ただしく走って、不幸かどうかを省みる余裕もないような状態というのは、ある意味では幸福なことだけど、危うさも秘めている。
 大事なことを置き忘れている可能性がある。
 考えながら走るなんて器用なことができればいいけど、それが無理なら、少しだけ立ち止まって、忘れ物がないか確かめる必要がある。
 自分がどっちに向かって走っているか、再確認もした方がいい。
 頑張っている自分に酔っているだけではないかどうか。

 2010年11月22日(月) 「一人でも多くを抜く」

 生きることは必ずしも競争ではないけれど、横に並んでいるやつに負けたくないと思うのは自然な感情だし、前にいるやつは抜かしたいとも思う。後ろから抜かれたら腹も立つ。
 常にマイペースがいいとは思わない。良きライバルを持つことで自分を高められる部分というのは多分にある。
 競争心は向上心につながる。
 たとえ先頭に立てなくても、前を目指すことは無駄じゃない。
 目の前の一人ひとりを抜いていけば、いつか先頭グループに追いつけるかもしれない。
 勝ち負けなんて関係ないなどと自分を慰めるのは間違いだ。勝つことがすべてじゃないにしても、負けるよりは勝つ方がいいに決まってる。
 全力を尽くして戦った者同士だけが、勝負のあとに勝ち負けを度外視できるのだ。

 2010年11月21日(日) 「とりあえず先を急ぐ」

 急いで解決することはあまり多くないかもしれない。
 だとしても、急がなくていいわけではない。
 やるべきことはたくさんあって、時間は限られている。
 少しでも多くのことをやるには、急ぐしかない。
 休むことは必要だけど、怠けてはいけない。
 やってもやらなくてもいいことは、やるべきた。
 一つ片付けることで、次につながり、可能性は広がっていく。
 停滞しないように。

 2010年11月20日(土) 「2010年はグランパス優勝の年として記憶に残る」

 長い時間をかけて、目的を達成することの喜びというものもある。
 長く時間がかかることは、必ずしも不幸なことじゃない。
 最後に報われればいいのだ。
 ネバーギブアップ、そのことの大事さを、もう一度胸に刻みたいと思う。

 2010年11月19日(金) 「大好物だけでは」

 好きなものを食べられることは幸せだけど、好きなものだけ食べ続けなければならないとすれば苦痛だ。
 一つの道を極めるということはそういうことで、スポーツや芸術などはその例だろう。
 たとえば、子供の頃からピアノを習って、毎日まいにち練習をして、学校へ入ってもずっとピアノを弾いて、一生弾き続けるという人生を思うとき、才能の有無は別にして、自分にはそういう生き方はできないと思う。
 天才というのはそういうもので、一つのことに徹し続けることが可能な人間のことを指す言葉なのだろう。
 天才はどこかネジが飛んでいるもので、普通の神経では天才に耐えられない。
 才能に絡め取られてしまうことは、幸運でもあり、不幸でもある。
 他人が思うほど幸せな天才がどれほどいるだろう。
 だからこそ、天才には最大限の敬意を払わなくてならないと思う。
 あれは人柱みたいなものだ。
 凡人の喜びは、好きなものだけではなくいろんなものを食べられるところにある。
 それはそれで悪くない。

 2010年11月18日(木) 「引きずりながら」

 誰しも、どこかしら病んでいるし、蝕まれてもいるものだけど、だからといって不幸を嘆いていても始まらないわけで、足を引きずってでも進んでいくしかない。
 完全に良くなってから走ればいいなんて考えていたら、いつになっても動き出せない。
 高い志を持つことは大切だけど、まずは当面できることをやって、その上で更に先を目指すようにしなくてはいけない。
 次の一歩を今すぐ踏み出すことから始める必要がある。
 一歩が二歩になり、十歩になりして、加速がついていく。
 走り出したら、息が切れて倒れるまで走り続けるしかない。

 2010年11月17日(水) 「上より前」

 上を目指して高いところばかり見ていると、足元の石ころや穴に気づかずに転んで、思わぬ大けがをすることがある。
 大切なのは、前へ進むことだ。しっかりと、一歩ずつ。
 慌ててもそうそう上手くはいかない。
 焦らず、休まずでいきたい。
 怠けたら負けと、強く自分に言い聞かせなくてはいけない。
 明日も一歩は確実に進まなくては。

 2010年11月16日(火) 「語らずとも」

 能書きを語らず、黙って差し出せるものがあるかどうか。
 それは作品かもしれないし、自分自身かもしれない。
 いずれにしても、良いものに説明はいらない。
 足りないものを説明で補足しなくてはいけないとしたら、それはまだ本物じゃないということだ。

 2010年11月15日(月) 「見えている範囲だけ」

 誰にとっても、世界というのは自分に見えている範囲のことで、それ以上でもそれ以下でもない。
 誰も、世界のすべてを見渡すことはできない。
 気に入る部分もあるし、気に入らない部分もある。
 どうせ一部しか見えてないのだから、気に入る部分だけ見ていればいい。
 見えていない範囲にも、良いところと悪いところがたくさんある。
 自分は世界の大部分が見えているなどという思い込みほど危険なものはない。
 自分が世界の狭い範囲しか見えていないことを自覚すれば、多少は謙虚に生きることができるはずだ。

 2010年11月14日(日) 「感覚は前進する」

 今日の自分の感覚は、今日しか通用しないものだ。明日になると、昨日の感覚は必ずしも今日の感覚と一致しない。
 今日の最高は、明日には最高ではなくなり、ひと月後には並となり、一年後には詰まらないものとなっている。
 感覚は常に進歩、前進している。同じところにとどまることは決してない。
 どの感覚も、その時点においては嘘ではない。ただ、静止しないということだけは常に頭に入れておく必要がある。
 今日の自分が思う最高に満足していはいけない。もっと先の感覚を目指さなくてはいけない。
 今日の感覚と昨日の感覚が同じになったとき、それが自分の成長が止まったときだ。

 2010年11月13日(土) 「やれなくてもやる」

 自分がやれないことを、自分が駄目なところを言い訳に使って正当化しようとしている。
 やれないのはやらないからで、意志と努力が足りないだけだ。
 できないことを悔しいと思わなければ、まったく見込みがない。
 やれなくてもやってみせるという気概が必要だ。
 到達点を決めなければ、目的地には近づかないし、無目的に前へ進んでいるだけでは意味がない。

 2010年11月12日(金) 「やりたくないことデー」

 今日はやりたくないことをやる日、そんな日を作ってみる。
 やるのが嫌で先送りにしている用事とか、気の進まない連絡とか、部屋の整理とか、日頃見てみないふりをしているけど心のどこかで引っかかっていることがいくつかある。
 それを一日でまとめてやっつけてしまえという日だ。今日はそんな日とあきらめて、感情を打ち消して作業に徹する。一つずつ、順番に片付けていくことだけを考える。
 一日が終わったときには、きっと気持ちが軽くなっているはずだ。
 これでまたしばらく気兼ねなく怠けることができる。

 2010年11月11日(木) 「机上の正しさ」

 正しいと分かっていることをそのままやれたら苦労はない。
 やらなくてはいけないことを先送りにするから追い詰められる。
 追い詰められるからやれるとも言えるし、それがクセになると、追い詰められなければできなくなってしまう。
 人は正しくないというは誤りで、正しいのだけど正しいことをできないだけだ。
 正しいことをやれる人が稀にいるとしても、そんな人間ばかりではこの世は息苦しくなってしまう。
 正しいことをやる方が結局は自分を楽にすることになるのだけど、そんなに上手くはいかないというのが実際のところだ。
 正しく生きることは、とても難しいことだ。だからこそ困難に立ち向かいたいという自虐的な人間は、正しいけど正しくないようにも思える。

 2010年11月10日(水) 「義、か」

 義がどこの誰に帰するのか、よく分からない。
 義憤というものが正義なのかどうなのか。
 日本人は新撰組や赤穂浪士が好きだけど、決して世界基準の考え方ではない。
 やむにやまれぬ大和魂というやつか。
 個人的には、日本人特有のおかしなところも否定したくはないと思っている。日本人のユニークさは世界でも希有のもので、そういう意味では価値がある。
 世界の戦争の多くが自らの正義のぶつけ合いということを見ても、義というもののありようは難しいものだ。
 人間を超越した存在が振り下ろす正義が、絶対的な義とも思わない。
 現実問題として、互いに折り合いをつけて、なんとか上手くやっていくしかないということになる。自分の義を引っ込めないといけないこともある。逆に、引いてはいけないときもある。
 正しかろうと間違っていようと、命を賭ける義を見つけた人間は、幸せと言えるかもしれない。

 2010年11月9日(火) 「結果本位」

 自分を大切にすることと、自分を甘やかすことは、違う。
 自己不信は自分を小さくしてしまうけど、自分を過信しすぎるといいことはあまりない。
 自分を信じることは、自分を過大評価することではない。
 自分自身を潜在能力で評価してはいけない。残した結果だけが評価につながる。
 やれることもやっていなければ、やれないのと同じだ。
 評価も自信も、結果を残したあとについてくるもので、何もしてないのに自信だけあるのは、空威張りと同じだ。
 まずは無心に結果を出すことだけを考えればいい。

 2010年11月8日(月) 「自分の仕事」

 労働と仕事は別物だから、分けて考える必要がある。
 仕事は人から与えてもらうものじゃない。
 自分で見つけるものだ。
 これが自分の仕事と思い定めたら、あとはやり続けることだけを考えればいい。
 本当に必死にやっていれば、人が助けてくれる。
 その助ける人がやることも、与えられた仕事じゃない。

 2010年11月6日(土) 「切ない話」

 この世界に存在するどうしようもない切なさに対して、自分はどうすればいいのか、私は一切の答えを持ち得ない。
 そういうこともあると、感情を飲み込むしかない。
 長いながい歳月だけが、切なさをゆっくり溶かしてくれる。

 2010年11月5日(金) 「まずは基礎の勉強」

 よく勉強もしないうちに、自分には才能やセンスがないと決めつけるのは早すぎる。
 まずは先人に学び、真似をして、自分のものにすべく努力して、それでも駄目なら、そのとき初めてあきらめればいい。
 多くの場合、単純に学習が足りないだけだ。才能の有無が問題の本質ではない。
 どんな天才も、基礎を徹底的に学び、反復をして、それから独自性を生み出している。最初から上手くできる人間などいない。
 才能がすべてを決める出来レースなら、こんなに詰まらないことはない。
 実際はそうじゃないから、この世は面白い。
 才能のなさを言い訳にしているようでは、戦う前から負けている。
 自分は何ができるかではなく、何がしたいのかということを、よくよく自覚する必要がある。
 好きなことなら、努力は苦ではない。
 最後まで、それを見失わないことが大切だ。

 2010年11月4日(木) 「追いかける」

 先を走っている人間は、早いから先を行ってるわけで、背中が見えているからといって追いつくのは決して簡単ではない。
 とはいっても、追いかけなければ離される一方だから、全力でついていくしかない。あきらめたら勝負はついてしまう。
 走り続けていると、何かのきっかけでふっと加速することがある。あるいは、ジャンプすることが。
 そうなると、急に前を行く人間の速度が遅く感じられる。あとは、追いつき、追い越すだけだ。
 その先にも、まだまだ人はいる。先頭集団はもっとずっと先にいて、姿は見えない。
 それでも、必ず追いついてみせるという気概が必要だ。

 2010年11月3日(水) 「ネバーギブアップ」

 粘り強く、根気強く、あきらめずに取り組むこと。
 継続と積み重ねによって、一瞬の閃きやチャンスが訪れる。
 遠回りと堂々めぐりの果てに、単純な答えに辿り着く。
 簡単に手に入るものは本物と思わない方がいい。
 求めるものを求め続けること。
 結局のところ、それに尽きる。
 自分は本当は何をしたいのかということを見失わないように。
 一番大切なものを裏切ってしまったら、もうどんな言い訳もできない。

 2010年11月2日(火) 「進んで逃げる」

 毎日進歩。それが合い言葉だ。
 罪から逃れ、自分で自分を許すためには、駄目だった昨日までの自分から逃げ続けるしかない。
 成長進歩さえ続けていれば、罪悪は決定ではない。罰は執行を猶予される。
 目標は遠く高く。
 日々、長足の進歩を続けなければ、辿り着くべきところに届かない。

 2010年11月1日(月) 「幸運の賜物」

 初めから幸運を頼ってはいけないにしても、幸運に助けられなければ助からないということは多々ある。
 たとえば、道を歩いていて車にひかれることは不運なのではない。車にひかれないことが幸運なだけだ。
 人はいつ被害者になってしまうかもしれないし、加害者になるかもしれない。被害者にも加害者にもならずに日々を送れているとしたら、それは幸運が作用しているからだ。
 話を広げれば、人体の遺伝子の幸運だとか、宇宙の中の地球の幸運だとか、あらゆる幸運によって私たちの存在は成立している。
 すべてを神の意志や必然などでは説明しきれない。
 私たちは明日も幸運が続くことを願うしかない。
 終わるときは運が尽きたとあきらめるしかない。

 2010年10月31日(日) 「借りたものは返す」

 神の助けが得られないと嘆くことはない。むしろ喜ぶべきかもしれない。
 神に大きな借りを作ったら、返すのが大変だ。
 神に愛されるということは、とてつもなく大きな代償を払うことになる。
 自力でできるだけのことをやればいい。自分で獲得した小さな幸せに代償はない。丸々自分のものだ。
 あるいは大きく出るなら、発想を転換する必要がある。
 恩返しする自信があるから神よ力を貸してくださいと。
 世界の人々の役に立ちたいと本気で思うなら、それは自分一人の力ではどうしようもない。神でも何でも、借りられるだけの力を借りなければならない。
 いずれにしても、もらうだけでは済まないということだ。借りたものは返さなくてはならない。
 大きく借りて倍返しするか、借りずにコツコツいくか、それは自分で決めればいい。

 2010年10月30日(土) 「良心回路」

 性善説か性悪説かという議論は、あまり意味がない。
 人間は善良な部分と極悪な部分とを併せ持っていて、状況に応じて使い分ける生き物だ。そこが人間の本質的な特徴とも言える。
 人間には良心回路が組み込まれていて、ぎりぎりのところで踏みとどまることができるようになっている。
 国の存亡をかけた戦争にもルールを設ける。
 決して上等で高等な生物ではないにしても、悪が完全に勝ってしまうことはおそらくない。
 人類を滅ぼすものがあるとすれば、それは自然災害などではなく、良心回路の故障だろう。
 人類は良心で成り立っていると言ってもいい。大きな世界も、個人的な世界もそうだ。
 良心のかけらもないような人間がいたとしても、大きく言えば良心は確かにある。
 だからこそ、人は信じられると私は思っている。

 2010年10月29日(金) 「カメの意地」

 走り続けて休まないウサギに、カメが勝つには、ウサギよりも長く生きて、最後まで歩き続けるしかない。
 それでもほとんど勝ち目はないだろうけど、のろまなカメの意地を見せたい。
 持って生まれた能力に差はあっても、どこまで引き出せるかは本人次第だ。
 あきらめるのは、自分の能力の限界まで出し切ったときでいい。

 2010年10月28日(木) 「結果を出してこそ」

 この世界で生かされている以上、何らかの形で世界の役に立ってみせる必要がある。
 与えられた役割があるのなら、それを気に入ろうと入るまいと、全力でやらなければならない。
 誰にも何も求められないときは、自分の一番得意なことをするしかない。
 何にしても、結果が求められる。
 評価されないということは、単純に頑張りが足りないということだ。
 与えられたところで結果を出せない人間が、上のステージでやれるはずもない。
 どこであろうと結果を出せば、評価につながるし、道は開ける。
 一所懸命になることはもちろん大事なことだけど、自己満足で終わってしまったら、何もしないのと同じだ。
 自分はこの世界で何ができるのかということを、もう一度よく考えてみなければならない。
 やれることは限られている。結果を求めて、それをやり続けるしかない。

 2010年10月27日(水) 「そこに自分がいるか」

 写真は、記録であり、記憶であり、告白でもある。
 現実に忠実であるということに縛られる必要はない。
 表現はどこまで自由であってもいい。
 ただし、自分の思いに対して忠実でなければならない。
 言葉を換えれば、思いのない写真を撮ってはいけない。
 写真は自分を写すものだ。自分が不在の写真は意味がない。

 2010年10月26日(火) 「既成事実」

 死は日常的にありふれたものなのに、自分個人にとっては大きな出来事だ。
 けど、死をあまり大げさに捉えることはない。
 人は皆、不治の病を患っていて、余命幾ばくもない存在だ。
 だからこそ、日々を大切に生きなければいけないのは当たり前のこと。
 医者の宣告など待つまでもなく。
 死は最初から受け入れなくてはならないもので、目の前に迫ってから慌てていては遅い。
 死の現実をありのまま受け入れるしかない。
 死後の世界があろうとなかろうと、死はそんなに悪いものじゃない。
 続きがあればそこで存在するだけだし、終わりなら悲しみも何もすべて消えるだけだ。

 2010年10月25日(月) 「発するということ」

 表現する側は、受け手に甘えてはいけない。
 8割の表現で10割を察して欲しいなどという考えは、頭から捨てなければならない。
 受け手に5割しか伝わらないものでも、10割を提供する必要がある。あるいは、それ以上を。
 なんとなくというのでは、相手には伝わらない。伝えるべきと思うものは、10割表現してみせなければならない。
 自分が発したもの以上のことが伝わることはまずなくて、相当量減じることを見越して、必要以上を発して初めて必要量が伝わることになる。
 だからといって受け手を侮ると痛い目に遭う。
 人は自分が期待するほど鋭くもないし、甘くてみていほど鈍くもない。
 だからこそ、表現というものに対して誠実でなければならないのだ。

 2010年10月24日(日) 「運はいい方」

 自分は運がいいか悪いかといったら、間違いなくいい方だと思う。
 不幸なことはいろいろあっても、自分が特別不運だと感じたことはない。いつも、なんとなく運がいいと思ってここまで来た。特にくじ運がいいとか、そういうことではないけれど。
 実際に運がいいか悪いかは、判断するのが難しい。解釈次第でどちらとも言える。
 だから、自分がどう感じるかが問題で、運が悪いと思うよりも運がいいと思った方が絶対にいい。
 運がいいと思い込むことで、物事が上手く回っていく。運が悪いと思うと、いろんなことを他人のせいにしたくなる。
 誰がなんと言おうと、自分は運がいいと信じ込むことが大切だ。

 2010年10月23日(土) 「必要な1パーセント」

 今日、やらなければならないことが目の前に山積みされていたら、生きる意味など考えている時間はない。
 とりあえず目先のことをやっつけるしかない。
 生きる理由なんてものをああだこうだと考えているのは、暇人だけだ。
 人間、暇になると、余計なことを考える。
 でもだからこそ、この世界には暇人が必要でもあるのだ。
 たぶん、全体の1パーセントくらい。
 暇人も楽じゃないことを、多忙な人間はきっと知らないだろう。

 2010年10月22日(金) 「信じることと疑うこと」

 自分を信じるのは大切なこと。
 でも、自分を疑うことも同じくらい必要なことだ。
 誰にも褒められなくても、自分を見捨ててはいけない。
 しかし、これでいいのだと思い込みすぎるのは危険だ。停滞を招くことになる。
 信念を持つことと、信念に固執することは違う。
 これではいけないのではないかと常に疑うことが、進歩、成長へとつながる。
 誰でも今以上の自分になれる。自分の可能性を自ら放棄してしまうのはもったいない。
 向上してどうなるのかは、向上してみなければ分からない。何にもならなかったとしても、低いところにとどまるよりはましだ。

 2010年10月21日(木) 「目指すのは100点の向こう側」

 これくらいでいいだろうという80点の仕事では、人の心を打つことはない。それがどんなに良くできていたとしても。
 常に100点に近づけるように自分を追い込んでいかなくてはいけない。
 その結果、120点になったときだけ、ぼんやりと人に伝わるものが出てくる。熱意だとか、誠意だとか、実力だとかが。
 いつも100パーセントは無理でも、少なくとも、ここぞいう勝負どきに力を出し惜しみしている場合ではない。そのときのために、日頃から全力を出しておく必要がある。
 よく言われるように、練習でできないことが本番にできるはずもない。
 限界を目指し、限界を超えていくことが成長ということだ。昨日までと同じことしかやらなければ、同じ毎日の繰り返しになってしまう。
 まずはもう一歩の上積みから始めることだ。何か新しいことを試みたい。

 2010年10月20日(水) 「時間のかかる近道」

 他人の良い点を参考にすることは悪いことではない。
 ただ、うらやましい余りに真似をしようとすると自分を失う。
 結局のところ、自分を高め、極めていくしかない。時間がかかっても、それが一番の近道に違いない。
 遠回りすることも無駄ではないとは言うものの、最短距離でいけるならそれに越したことはない。
 独りよがりになってはいけないというのは、それが中途半端だからだ。徹底的に自分に徹すれば、それが個性となり、ある種の説得力を持つようになる。
 自分はどうなりたいのかだけは、常に見失わないようにしたい。

 2010年10月19日(火) 「姿勢の問題」

 ただ嘆いて立ち止まっているのは時間の無駄だけど、自分は真剣さが足りないことを痛感して、少し途方に暮れている。
 走りたい気持ちはあるのに足が動かない。どこを目指し、どこへ向かって進めばいいのか見えない。闇雲に走り回っているだけでは頑張っていることにはならない。
 真摯に打ち込まなければ、何も始まらないことは分かっている。
 もっと一心に情熱を傾けなければと思う。
 自省したら、次は実行することだ。

 2010年10月18日(月) 「本物という可能性」

 世の中に本物は少ない。
 本物以外はすべて偽物かといえばそうではないけど、それでもやはり、本物と呼べるものは限られている。
 けれど、嘆くことはない。そこに可能性があるのだから。
 どんなにわずかでも、最良のものが可能性となる。
 それまで誰もできなかったことを、ある日、誰か一人が実現させる。その瞬間、人類全体にとって実現可能なこととなる。
 可能性だけ言えば、この世界の全員が天才になる可能性はある。現実的な可能性としてはなくても、理論上の可能性はある。
 せっかくこうして生きているのだから、ほんのひとかけらでも本物を掴むことを目指したい。自身が本物になってもいい。
  本物とは何か。それは本物に触れてみれば分かる。本物は思うものではなく、分かるものだから。

 2010年10月17日(日) 「確信的イメージ」

 大事なのは、自分の中で確信すること。
 イメージさえ完成すれば、表現はさほど難しいことではない。
 イメージが曖昧だから、表現に迷うのだ。
 自分の中で徹底的に突き詰める必要がある。
 はっきり見えたらこちらのものだ。
 しっかり見えるまでイメージを追求しなければならない。
 中途半端なものはいらない。

 2010年10月16日(土) 「明日こそ」

 自分の力不足を嘆くより、どうすればもっと良いものを生み出せるようになるか、その方法論を考えたい。
 まだやれることはあるはずだ。
 もっと良い自分になれる可能性は必ずある。
 昨日より今日の自分の方が勝っていなければ嘘だ。明日は今日以上の自分にならねばならない。
 それはこの先ずっと続く約束事だ。
 昨日の自分に負けは許されない。

 2010年10月15日(金) 「走るか歩くか」

 限られた時間の中で、遠くまで行きたければ走るしかない。
 けど、走り続けることは難しく、走り疲れたら止まって休まなければならない。
 休まず歩き続けるのと、走ったり休んだりするのと、どちらが遠くまで行けるかは、それは行ってみなければ分からない。
 ただ、言えることは、走れるときには走っておかなくてはいけないということだ。全力疾走できるのは、人生の中で数年間くらいしかない。そこで走らなければ悔いを残す。
 人生は長生きしたら勝ちじゃない。遠くまで行った方が勝ちなのだ。

 2010年10月14日(木) 「好きの隣に嫌い」

 良いの隣には悪いがあり、好きの隣には嫌いがある。
 好きと嫌いは一周回った背中合わせにあって、対極の感情ではない。
 嫌いでも振り返れば好きがある。
 最高のストライクゾーンは、ボールとの境界線で、ボールはどれだけ惜しくてもボールでしかない。
 やられたと思うストライクゾーンこそが、ある種の理想だ。
 ど真ん中のストライクというのは、当たり前すぎて面白くない。だから、あえて手を出さずに見送ってしまうこともある。
 得意と苦手の関係性も同じで、その境界線の理由は分からない。
 好きな理由も嫌いな理由も、何となくとしか説明のしようがないもので、自分ではどうすることもできないものだ。

 2010年10月13日(水) 「良いものに触れる」

 目を肥やしたいと思うなら、一流のものにたくさん触れることだ。
 良いものをたくさん見ることで審美眼は養われるし、自分の成長にもつながる。
 一流のものを見るには、時間とお金がかかるものだけど、それを惜しむのは心が貧しい。
 多くの人が自分への投資を怠っている。
 良いものを見ていくことで、何が良いのか、その本質が見えてくる。
 悪いものをいくら見ても、何が悪いか分かるだけで、良いものの本質は掴めない。
 写真や映像も悪くないけど、生が持つ絶対的な力というのもある。
 一流というのは、なかなか日常に転がっているものではないから、こちから足を運んで見にいくしかない。
 一流というのはこの世界の救いでもあるし、絶望から救ってくれる希望でもある。

 2010年10月12日(火) 「底まで見せてしまう」

 人として深みがあるのはいいことだ。
 けど、影があるのはよくない。
 どれだけ深さがあっても、濁りがあるのはいけない。
 底知れないといっても、底が見えないのは不気味で、人間性の部分で透き通っている必要がある。
 二面性や多面性があるのは悪いことではないにしても、外から見えない影を抱えて、その裏に隠れるようなのはずるい。
 開けっぴろげで、陽気で、しかも底が知れないというのが理想だ。
 だから、坂本龍馬は愛される。西郷隆盛にもそれは言える。
 太宰治のような暗さが受け入れられるのは、暗い底の底まで見せているからだ。
 奥行きがある人間のように見せたくて裏側を隠していると、それは逆効果になる。
 底の浅い人間だと思われたとしても、全部見せてしまった方がいい。
 たいていの人は、他人が思うほど浅くもないし、単純でもないものだ。

 2010年10月11日(月) 「遅れているだけ」

 駄目なのは足りないだけで、優れているのは進んでいるだけだ。
 優劣を時代に置き換えれば分かる。
 歴史上ずば抜けて優れていた偉人も、現代に来れば有能な人間の一人に過ぎず、世界に後れを取っていた国が今はトップの国になっていたりする。
 優劣というのは、必ずしも上下の関係ではない。前後の位置関係に過ぎないことも多い。
 だから、遅れていることを悲観することはないし、進んでいるといっておごっていてはいけない。
 今はまるで駄目でも、先へ進めば良くなることはたくさんある。
 できないとすぐに結論づけて投げ出してしまうのはもったいない。
 急ぎながら長生きすれば、多くのことができるようになる。

 2010年10月10日(日) 「やるかやらないか」

 自分ではどうすることもできない部分と、どうにかできる可能性がある部分がある。
 たとえば顔の作りそのものは変えられないにしても、顔の印象は作れるといったように。二重瞼にプチ整形するより、自分を輝かせる方法はある。
 人事を尽くして天命を待つという言葉の通り、神頼みは努力をし尽くして、それでも力が足りないときにするものだ。今年こそ恋人が出来ますようになどと願い事をする前に、ナンパでもした方がいい。
 持って生まれた才能の質量は変えられないにしても、そこから自力で上積みできる。
 自分のポテンシャルを限界まで引き出している人間はほとんどいないわけで、そこに救いと可能性がある。
 誰でも、もっといい自分になれる。無限の可能性なんてないにしても、わずかな可能性があればそれに賭けてみる価値はある。
 自分はこの程度といじけていても何も始まらない。上下前後左右に手を伸ばすだけでも伸びしろはまだある。歩ける足があるのなら、動いてみれば更に可能性は広がる。
 やればできる。やらなければできない。ごく単純な話だ。
 あとはやるかやらないかだけで、何もしなくても誰も困らないけど、自分のためを思えばやれることをやるしかない。

 2010年10月9日(土) 「愛され体質」

 清廉潔白で正しい行いしかしない人間よりも、人としては駄目でも大勢に愛される人間の方が、人間としては上なのだ。
 どんなに納得できなくても、悔しい思いを抱いたとしても、その現実は動かしがたい。
 そこにこの世界の本質的な部分が表れているように思う。世界は完璧さを目指しているわけではない。欠陥だらけでも愛を求めている。
 愛されなくも自分は間違っていないなどと思ってはいけない。愛されないということは間違っているということなのだ。
 どうすれば愛されるかは、自分で探して見つけるしかない。

 2010年10月8日(金) 「発するだけじゃ駄目」

 表現の欲求は誰にでもある。
 ただ、伝える努力をしている人は少ない。
 話すという行為でも、友達同士のおしゃべりと、愛の告白ではまったく別のものだ。
 伝えることは難しいことだけど、それ以前に本気で伝えようとしているかどうかが問題だ。
 写真でも、音楽でも、文学でも、芸術でも、表現したいという気持ちからもう一歩進めて、受け手の身になってそれが意味のあるものなのかどうかを考える必要がある。
 恋愛関係でもそうで、好きという感情が恋人という関係性を正当化するわけではない。
 自分が何を発したいのかということと、相手に何を伝えたいのかということは、同じことのようであって違うものだ。
 そのあたりのことをきちんと自覚しなければならない。

 2010年10月7日(木) 「好意的であること」

 他人に対して批判的であるよりも、好意的であった方が関係性は良好になるし、自分にとっても得るものが多い。
 積極的に褒めようとすることで人の良い面を見えるようになるし、それが自分にとっても参考になる。
 自分以外の他人を反面教師とするやり方もあるけど、それはやはり心が貧しい。
 他人と違うということをアイデンティティにすることは一見個性的なように見えるけど、実は他人に対して依存している。ただ他人の逆を行ってるにすぎず、自分の信念がない。
 他人本位であっては、本当の意味で自分があるとは言えない。
 他人は他人、自分は自分と、突き放すのではなく、自分と他人の両方を尊重するというのが正しいやり方だ。
 他人は自分の鏡だから、悪い部分が見えたら、それは自分の姿が映っていると思わなければならない。
 自分の良い面を見せれば、それが他人に反映されて、相手もまた良い面を見せてくれる。

 2010年10月6日(水) 「夢の国」

 この街は、人の夢でできている。
 道も、家も、ビルも、店も、車も、すべては人の夢が形になったものだ。
 だから、夜になってきらめくのは、当たり前といえば当たり前の話だ。
 ここは夢の国だということを思い知らなければならない。

 2010年10月5日(火) 「下からは見えないもの」

 下にいる人間は、上にいる人間の足元しか見えない。
 上にいる人間は、下にいる人間の頭のてっぺんまで見える。
 手を伸ばせば足に手が届きそうだとしても、差はわずかでほとんど変わらないなどと思ってはいけない。
 上にいる人間のすごさは、同じ高さの視点から見てみなければ分からないものだ。
 下から文句を言う前に、自分が上に上がるための努力をしなければならない。
 上にいる人間も下にいる人間も、自分が辿ってきた道を忘れてはいけない。
 上ばかり見るのではなく、たまには足元を確認する必要がある。

 2010年10月4日(月) 「やりたくないけど」

 やりたくないことをその日、一つでもやれば、今日はいつもより少し頑張ったような気分になれる。
 そうやって嫌なことを一つずつやっつけいけば、あとに残るのはやりたいことだけだ。
 人生はやりたくないこととの戦いと言える。大部分は、他人からは分からない地味な戦いだ。
 誰も褒めてくれなくても、自分で自分を褒められれば、その生き方は正しい。
 嫌なことから逃げているだけの自分なら、許せない。

 2010年10月3日(日) 「不必要な真実」

 人は真実を追い求めながら、真実は必要ではないという皮肉がある。
 真実など知らなくても、生きていくのに困らない。
 それでも人は真実を求めずにはいられない。それが、人間が人間たるゆえんでもある。
 無駄と知りながら無駄なことをすることが文化、文明であり、真実を追いかけることで、進歩、成長へとつなげている。
 人はありもしない幻のゴールを探している。
 真実は逃げ水のように追いかけても追いつけず、蜃気楼のように触れようとしても触れられない。
 果たして、最後に見る光景はどんなものなのか。
 無という救いなのか、過去のすべてを否定する絶望なのか。
 おそらく、ハッピーエンディングではあり得ない。受け入れざるを得ない悲しい結末が待っている。
 しかし、それもまた真実を追いかけなければ決して見ることができない光景だ。
 どんな結末でも、何も後悔する必要はない。
 最後までいって、自らの目で確かめるしかない。

 2010年10月2日(土) 「一発ホームラン」

 写真のいいところは、素人がまぐれ当たりでホームランを打つ可能性があるところだ。
 絵画とか楽器とかプロスポーツとかで、たまたま一発当てるということはめったにない。ある日唐突にプロを超える絵を描けることはないだろうし、朝目が覚めたらピアノが弾けるようになっているなんてこともない。スポーツの場合は、プロとアマチュアの間には厳然とした壁がある。
 写真は、素人とプロが同じ道具を使って、同じ条件の、同じ舞台に立っていると言える。素人がプロを超える一枚を撮るということは充分に起こり得るし、実際に少なくない。生まれながらの才能を持ち合わせているか、長年の努力を積み重ねなければ絶対にプロを超えられない他の芸術とは違う。
 もちろん、実際は趣味で撮ってるアマチュアカメラマンとプロの写真家には決定的な差があって、超えられたとしても一瞬のことなのだけど、それでもまったく可能性がないわけではないということが大事なところだ。
 もう一つ、写真のいいところは、若さが大きなアドバンテージにならないところだ。他の芸術や音楽、文学などの場合、若くして才能を発揮して、年を取ると駄目になってしまうということが往々にしてあるけど、写真の場合は、経験によって成熟していくもので、若い感性だけが有利に働かない。
 フォトコンの入選者を見ると、驚くほど年齢層が高い。30代でも若い方で、20代などはごく少ない。上は70代を超えている。
 写真は一生の趣味にするにはいいもので、ライフワークにもなる。
 次こそ、これまで撮ったことがないような決定的で絶対的な一枚が撮れるかもしれない。そんなことを夢見ながら、世界中のあちこちでシャッターに指をかけて息を止めて、その瞬間を待っているカメラマンが大勢いる。

 2010年10月1日(金) 「大事な我が家」

 地球は我々が暮らす我が家だ。だから、大事にしなくてはいけないのは当たり前なのだけど、それを地球のためというようなまやかしは下らなくて笑えない。
 堂々と、自分たち人間が都合良く暮らすために地球を守りましょうと言えばいい。
 人類は生存競争に勝って今の繁栄があるのだから、生きやすいように環境を変える権利がある。
 権利には必ず義務がつきもので、人類には地球の生き物を守る責任があるというのは確かだけど、だからといって、地球のためなどという論理のすり替えは間違っている。
 人間は勝者として潔く生き、潔く負ければいい。そして、次の生物にバトンタッチすることになる。
 今のところ住み処は地球一つしかないのだから、これを大事にしながら暮らしていくことになる。
 そのことを、みんなが自覚しなければならない。
 人類の成熟には、まだかなりの時間を要しそうだ。

 2010年9月30日(木) 「スペックでは決まらない」

 すべての天才が花開くわけではない。
 開かない天才の種もあり、大輪の花を咲かせる凡才の種もある。
 凡人は天才を超えられないというのはある種の真実だけど、天才だけがすべてではない。
 もちろん、努力がすべてではないけれど。
 才能というのは、他人に奉仕するために与えられた特別な力で、自分の幸せのためだけに使おうとすると痛い目に遭う。
 天才は人がうらやむほど良いものでもない。
 凡人の幸せというのもある。
 目指すべきなのは、才能ではない。才能は能力であって、手段だ。
 大切なのは、結果として何ができるかということで、この世界は能力が高い方が勝ちというゲームではない。
 少ない能力でも目一杯使って結果を出せば、結果を残せなかった天才に勝ったことになる。
 中途半端に高い才能に溺れて、何もできないことが一番不幸なことだ。
 自分が天才じゃないことを言い訳に使ってはいけない。
 結果が出なくても許されるのは、自分の能力の限界まで努力したときだけだ。

 2010年9月29日(水) 「正しい方へ」

 目の前のことを頑張っていると、とりあえず自分はよくやっているような気になる。
 誰も褒めてくれなくても、自分で自分を慰めてしまう。
 けど、間違った方向の努力は自己満足でしかない。
 進む方向を間違えていたら、どれだけ進んでも目的地に着かないのと同じだ。
 がむしゃらに前に進めばいいというわけではない。
 発想を切り替えて、目的地から現在地に向かって、逆算して考えてみる必要がある。
 すると、次の一歩は、思いがけず困難だということに気づく。それを、今日、明日から始めて、ずっと続けられるかと考えると、とたんに自信がなくなる。
 でも、次の一歩を踏み出せるかどうかにすべてがかかっているとすれば、他のことをすべてなげうってでも踏み出さなければならない。
 覚悟と勇気が試される。
 まずは始めること。始めたら続けること。
 その歩みがどれだけのろくても、目的地に向かっているなら、いつかたどり着く。たどり着かなくても、そちらの方を向いて倒れられる。
 目的地に向かわない努力は、残念ながら正しい努力とは言えない。

 2010年9月28日(火) 「発明品」

 神はいる。
 この世の中に、神は存る。
 人が生み出し、人が育てた。もはや、実在するかしないかという問題ではない。
 神という概念は、絶対的なものであって、誰も否定し得ない。最初からなかったことにはできない。
 もっといえば、あの世も存在する。人の想像力が生み出したものはすべて存在するのだから。
 ならば、天国も地獄もある。
 あの世に人間がいれば、あの世の神もいる。
 神は人間の発明品だというカラクリを理解しなければ、この世界の有り様を捉え間違えることになる。
 神が人間を作ったのではなく、人間が神を生み出したのだ。
 神はいるという前提のもとに、あらゆる論理を成り立たせる必要がある。
 本当の意味での宇宙の神は、人間の想像を遙かに超えすぎていて、認識することはできない。そんな神は人間にとって存在するとは言えない。あまりにも関係がなさすぎるから。
 私たちが問題にしているのは、地球の神という狭い範囲での話だ。
 神の存在を信じないなどというのは、まったくのナンセンスで、神抜きで組み立てた世界観など正しいはずもない。
 神という概念は、世界をややこしくもしているし、抑止力にもなっている。
 いつか人間が神という呪縛から解き放たれるときが来るのかどうか。神を捨て去ることができるのかどうか。
 幼い今の人類には、当分の間、神のおもりが必要なのは間違いない。

 2010年9月27日(月) 「希望とは」

 希望というのは、慰めではなく、安心感でもない。
 それを与えられ、手にした者が、自らの意志で走り出すことができる何かだ。
 生活に困っている人間に当面の生活費を握らせても、それは希望を与えたことにはならない。
 希望というのは、仕事や役割みたいなものだ。使命と言い換えてもいい。
 人は自分がやるべきことさえ与えられれば、頑張れるものだ。
 今の世の中に、希望がないわけでは決してない。
 ただ、使命感を持ちにくい時代であることは確かだ。
 それでも、人は自分の足で歩かなければならない。希望は自分で探して見つけるしかない。

 2010年9月26日(日) 「やりたいことがやるべきこと」

 今、やりたいことやが見えないのなら、もし、高校生か大学生に戻ったとして、何をしたいかと考えてみればいい。
 それが、今からやるべきことだ。
 手遅れなことはたくさんあるけど、まだやれることも残っている。
 専門的なことをしたければ、これから専門学校に通ってもいいし、大学に入り直すことだってできる。
 やれることがやるべきことではない。本当にやりたいことがやるべきことだ。
 それが今できないとしたら、何回人生をやり直しても同じことになる。
 まだ明日が残されている。手遅れじゃない。

 2010年9月25日(土) 「平和という幸福」

 世界の平和は、幻想でもあり、現実でもある。
 週末の行楽地のどこを見ても平和な光景が広がっていて、世界のどこかで問題が起きているとは思いもよらない。
 平和に幸せを感じるか、他の場所の不幸に心を痛めるか、両方思っていればそれが正しいのかどうか、分からない。
 もちろん知ることは大切だし、同情することも必要だろう。
 ただ、世界が不幸なのに自分だけ楽しめないというのでは、全員が共倒れになってしまう。
 最小不幸世界、そんな考えこそ幻想に近い。
 幸福は一方の不幸の上に成り立っている。それもまた現実だ。どちら側にいるかは運次第かもしれない。
 自分さえ幸せならそれでいいとは思わないけど、自分の力で世界の不幸をどうにかできると思ったら、それは思い上がりだ。
 何もしない善より、何かする偽善。それは正しいかもしれない。
 それでもやっぱり、世界の半分は不幸だ。不幸を打ち消したとしても、逆の半分が不幸になる。
 できることといえば、不幸が確かに存在しているということを知っておくことくらいだろうか。

 2010年9月24日(金) 「幸せのリレー」

 楽しいこと、面白いこと、嬉しいこと、美味しいこと、そんな喜びをつないで、幸せをリレーするのだ。
 朝から夜まで、途中で途切れることはあっても、幸せのバトンをつないでいけば、毎日喜びを持って過ごすことができる。
 大切なのは、幸せなことを幸せと感じることだ。幸福と不幸を分けるのはその一点にかかっている。
 小さな喜びを増やしていくことが、幸せのリレーを完走させるコツだ。
 そんなことは自分以外の誰もやってくれない。自分がやるしかない。
 嬉しいことがあったとき、心の中で小さくつぶやく。よし、つながった、と。

 2010年9月23日(木) 「置き忘れに注意」

 心や思いを置き忘れないことが大事。
 表現に心を奪われすぎてはいけない。
 どうしたらもっといい写真が撮れるんだろうと考える中で、そんなことを考える。
 それは、写真に限ったことではなく、仕事でも、人間関係でもそうだ。
 形式を整えたり、体裁を保つことばかりに気を取られすぎていないか。きちんと、思いを込めているか。
 表現も大事、思いも大切。両方が高いところで上手くかみ合ったときにこそ、良いものが生まれる。
 思いだけが強くても、表現が下手では、気持ちは伝わらない。
 だから、日々の努力や勉強が必要になる。
 思いというものもまた、自分自身が育てていくものなのだ。

 2010年9月22日(水) 「ここは旅の途中」

 今はまだの旅の途中にいる。
 結論を出すには早すぎる。
 もし、明日人生が終わるというのなら、今日この場で、結論めいたことも言える。
 人生とはどういうものなのかと。
 けど、明日終わるつもりはないから、今日はまだ答えは出せない。
 この先であらたな発見もあるだろうし、経験によって考えが変わることもある。ここまでの結論がひっくり返ることもあるだろう。
 今語れるのは、ここまでの結果論だけだ。それは答えではないし、焦って答えを出す必要もない。
 逃げる答えを追いかけていけば、自分の辿ってきた道が答えになる。

 2010年9月21日(火) 「遅れは致命的ではない」

 何か新しいことを始めて、その楽しさに目覚めたとき、なんでもっと前から始めなかったんだろうと、後悔に似た気持ちになる。
 けど、遅く始めたものはありがたみを感じるもので、早く始めたものは、いつしか当たり前になって、幸せを忘れてしまうものだから、遅れるということは、必ずしも不幸なことではない。
 年を取ってからの子供がかわいくて仕方がないというのも同じだ。
 後れを取った分を焦って取り戻そうとしても、そう簡単にはいかない。ありがたみを感じつつ、一歩ずつ着実に取り返していけばいい。
 早く始めても遅く始めても、たどり着けるのは同じところまでなのかもしれない。
 失った過去の時間を嘆くより、残された未来の時間があることを喜びたい。

 2010年9月20日(月) 「走るとき」

 人生には走らなければならない時期がある。
 立ち止まるときも、歩き続けるときも、振り返るべきときもある。
 走り出すべきときは、つもり、だけでも全速前進でいきたい。
 息が切れて、もうそれ以上走れなくなるまで。

 2010年9月19日(日) 「未来の自分へ」

 今日撮る写真は、未来の自分への贈り物でもある。
 撮りきったと思えた写真は、一生の宝物になる。
 未来へ向けて投げかけるように、今この瞬間の気持ちを封じ込めて撮らなくてはならない。

 2010年9月18日(土) 「目先の頑張ること」

 頑張れるところを頑張る。それが必要充分条件だ。
 頑張れないところまで頑張ることはない。まずは目先の行動だ。
 何をすべきなのか。頑張るべきことは、たぶん自分で分かっている。やらないのは、見て見ぬふりをして、目をそらしているからだ。
 今日の頑張りが新しい明日につながっていく。
 今日頑張らないと、明日は今日の振替日みたいになってしまう。

 2010年9月17日(金) 「親の幸せ」

 子供を持たない人間は、子供を持っている人よりも、より多くの幸せを求め、味わう権利がある。
 何故なら、子供が親に与えてくれる喜びというのは強烈なもので、それを知らない人間は知っている人間と比べてとても不公平だからだ。
 人の親になるというのはすごく大変なことではあるけれど、大変さに見合うだけの喜びもある。親である人は、そのことを自覚しなければならない。
 幸せを幸せと自覚できないほど不幸なことはいない。
 子供を持たない人間は、どん欲に幸せを求めても、罰は当たらないと思う。独り身ならなおさらで、少し幸せすぎるくらいでちょうどいい。

 2010年9月16日(木) 「立ち位置の問題」

 この世界は、一歩引いて後ろから見れば、馬鹿ばかしく見えるものだ。
 けど、一歩前に踏み込んで人の中に入ってみれば、楽しくなる。
 下らないことを楽しんでいる人を馬鹿にするだけで自分が楽しめないとしたら、それは不幸なことだ。
 自分が楽しめる位置に立つ必要がある。それは必ずしも中ではなく、後ろかもしれないし、俯瞰の位置かもしれない。
 いずれにしても、この世界には楽しめる要素が揃っているのだから、楽しめるかどうかは自分次第だということになる。
 毎日を楽しめないとしたら、それは立つ場所を間違えているということだ。世界のせいじゃない。

 2010年9月15日(水) 「前進の覚悟」

 前へ進むしかない。
 そんな言葉は、ごくありふれていて、これまで何度も耳にしたり、目にしたりしてきただろう。当たり前のことで、今更そんな言葉に心動かされることもないさと思う。
 けれど、心の底から本当にそう思える瞬間がある。
 あきらめるというか、思い定めるというか。
 自分の心が決まりさえすれば、あとは明日に向かって踏み出していくだけだ。振り返ってはいけない。進むことだけを考えればいい。


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