2010.1.2-

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 2010年7月25日(日) 「自己解決」

 誰かの人生をうらやましいと思っても、その人になれるわけでもないし、真似をしてみてもたぶん幸せにはなれない。
 自分の問題は、自分の人生の中で解決するしかない。
 他と取り替えることはできなくても、改善の余地はある。
 満足ではなく、納得する方向で考えていけば、なんとかならないことはない。

 2010年7月24日(土) 「取られたら取り返す」

 反省しても手遅れなときは、追いかけてくる反省よりも早く逃げるしかない。
 反省は失敗のあとすぐにして、次に活かすもので、その場でしなくては意味がない。
 言い訳をする暇があれば、失敗を取り戻すための次の手を考えた方がずっといい。
 悪びれないことも大事なことで、間違っても取り戻してしまえば、プラスマイナスゼロではなくむしろプラスになる。
 失点よりも得点がトータルで上回ればいいのだ。
 一回の失敗が命取りになることもあるけど、たいていの人は失敗よりも成功の方が多いわけで、だからこうして生き延びている。
 反省するよりやれることがあれば、そちらを優先すべきだ。
 反省なんて、物の役には立たないと、私は思っている。

 2010年7月23日(金) 「よくできている」

 人生が楽しいだけなら、面白くない。
 それは皮肉めいているけど皮肉じゃない。
 勝ちっぱなしの勝負では張り合いがない。
 お腹が空くからご飯が美味しく食べられるように、嫌なことがあるからそれを乗り越えたときの喜びがある。
 今のマイナスだけで物事を判断しないことだ。プラスとマイナスと両方に思いを巡らせて、人生に納得する必要がある。
 概ね、この世界はよくできている。こちらを立てればあちらが立たずという状況の中で、奇跡的なバランスを保っていると言っていい。

 2010年7月22日(木) 「急いで急ぎすぎず」

 先を急ぎたい気持ちと、早く進んでしまうことの怖さと、両方ある。
 自分自身も、月日も、関係性も。
 ただ、生き急ぐことと、死に急ぐことは違う。命はコップの水を飲み干すのとは違う。早く生きれば早く死ぬというわけではない。
 ただ、のんびり構えていたら、時間切れになる。
 大事なのは、急ぐべきところとゆっくりいくべきところを、正しく見極めることだ。
 ここは戦場で、私たちは兵士だとするならば、勇敢でなくてはならないし、勇敢でありすぎてもいけない。
 ストップ・アンド・ゴーのタイミングを間違えないように。

 2010年7月21日(水) 「スペアはない」

 恋愛はどれも一点物で、スペアはない。
 代わりを探しても見つかるはずもない。
 たとえ双子のもう一方とだって、同じ恋愛にはならない。
 最高を手に入れて、失ったのなら、次は二番目で我慢するしかない。
 結局、人は、初恋を超えられないのかもしれない。

 2010年7月20日(火) 「その戦いを戦い続けること」

 自分の戦いは、自分で決められるんじゃないだろうか。
 巻き込まれたにしろ、自ら飛び込んだにしろ、戦うかどうかの決定権は自分にある。
 それは、初めから勝ち目のない負け戦かもしれない。でも、勝負はやってみなければ分からない。
 戦ってみなければ勝ちはない。不戦勝は勝ちのうちに入らない。
 勝敗は終わったとき、初めて決まる。
 勝ち戦だと思って戦って負けることもあるし、負け戦とあきらめていたら勝ってしまうこともある。
 結果はどうあれ、自分が決めた戦いを最後まで全うすることが大切だ。
 勝ち戦でも、途中で逃げてしまえば負けとなる。
 表舞台に上がってからが戦いじゃない。戦いは日々の中で、すでに始まっている。
 どうなれば勝ちなのかも、自分が決めることだ。人に決めてもらうことではない。

 2010年7月19日(月) 「ひとつずつやっつける」

 目の前に積まれた問題は、片付けても、片付けても、いっこうに減らない気がするけど、放置してしまえば、山はどんどん大きくなって、やがて崩れしまう。
 やっても無駄に思えても、やらなければどうしようもない。
 時間が解決してくれることもあるけど、他力は当てにできない。
 ひとつずつやっつけていくことが、明日、そして、あさってにつながっていくと信じたい。
 やれば終わる。やらなければ終わらない。単純な話だ。

 2010年7月18日(日) 「空回りでも」

 自分の親しい人や、心の中にいる人が、必要以上に頑張っているのを知っていると、自分の怠け心をいさめるのに役に立つ。
 あの人はあんなに頑張っているのに自分は頑張っていない。嫌なことでも、これくらいはやれるだろう、と。
 自分一人が空回りしているようで、誰の役にも立っていないと感じることもあるだろう。けど、その頑張りはどこかで誰かの役に立っている。
 一所懸命は格好悪いようで格好良いのだ。
 必死に頑張らなければ誰も感動させられないし、自分自身が感動することもできない。
 結果を伴わなくても、頑張りは無駄には終わらない。

 2010年7月17日(土) 「心に届く気休めを」

 本当に価値のある気休めって何だろう、と考える。
 大上段に構えて振り下ろす真実ではなく、口先だけの慰めでもない。
 ほんのいっときでも、ほろりとして心が軽くなるような言葉こそが、大切なんじゃないだろうかと。
 聴き捨てにされる流行歌の中にも、ひとときの真実はある。
 百年残るような言葉じゃなくてもいい。疲れた心が、ちょっとだけ元気になるような言葉を見つけたい。
 明日を生きるために。

 2010年7月16日(金) 「斜め上に」

 悔しさに負けてはいけない。
 そこで自暴自棄になったり、人をうらんだりすると、自滅することになる。
 悔しさをバネにするという言葉の通り、悔しさを反発力として利用できる人間だけが、斜め上に大きく跳ねることができる。
 上に飛んでも、そのまま下に落ちたら意味がない。
 地べたを張って前進するだけではなかなか進まない。
 ときにはジャンプしながら行かないと、辿り着くべき場所に辿り着けない。持ち時間は限られているの。
 言い方を変えれば、悔しくない人間はジャンプできないということだ。
 悔しいです、と大きな声で叫ぶことは間違いじゃない。悔しさを噛みしめているだけでは、負けになる。

 2010年7月15日(木) 「悔しいけれど」

 みんな悔しい思いをしている。悔しくてたまらない。眠れない夜だってある。
 それは私だけではないし、あなただけでもない。
 人前では笑っていたり、なんでもないような顔をしていても、心の中では泣いている。ひとりの部屋では顔を歪めている。
 けど、日々の暮らしの中で笑えることがあるのも確かだ。毎日の密かな楽しみや、喜びもある。
 ままならない人生でも、なんとか頑張っていこうよと、肩をたたき合っていくしかない。
 ときに肩を貸したり借りたりしながら。
 これが人生。悪いことばかりじゃない。

 2010年7月14日(水) 「何もない7月14日」

 今年もまた、7月14日がやって来た。
 この日には何か特別なことがあるような気がしてならないのに、毎年何もないまま過ぎてゆく。
 今年はどうだろうと思いながら過ごしていたら、やっぱり何もなかった。
 勘違いや思い過ごしにしては特別なものを感じすぎる。
 遠い過去に起こってすでに終わってしまったことなのか、この先の未来で何かが待っているのか。
 とりあえず来年の7月14日を目指して、死なないように一年間生き延びるしかない。

 2010年7月13日(火) 「止まらないように」

 今が駄目でも、前進している途中なら、希望はある。
 自分自身に絶望しながらでも、上を目指してやっていくしかない。
 立ち止まったら、足元から崩れ落ちて、闇に飲み込まれると思った方がいい。

 2010年7月12日(月) 「正しく伝えること」

 正しいことをしても、正しく伝わらなければ、正しいとは認められない。
 好きと思っていても言わなければ伝わらないのと同じだ。
 思いとしての正しさがあり、行為としての正しさがある。それに加えて、伝えることの難しさと大切さがある。
 政治家がよく口にする説明責任というのは、確かに必要なことなのだ。
 正しく伝えるということは、優れた小説や音楽のように、ある種特別な才能を必要とする。
 だから、伝わらないことが多い。
 正しいことをしているだけでは、半分の正しさでしかないということを知らなければならない。
 いいものを作っても売れなければ意味がないように。
 自分の正しさは、自分で証明してみせるしかない。

 2010年7月11日(日) 「理解できないもどかしさ」

 自分の人生の謎など解けなくてもいいから、この世界の結末が訪れたときは、そのからくりをすべて教えて欲しいと思う。
 この宇宙というのは、一体どういうものなのか。
 世界を理解できるほど自分が進化していないのがもどかしい。
 わずか数十年の人生で、どこまで世界の核心に迫れるだろう。

 2010年7月10日(土) 「リストの先頭から順に」

 明日もあさっても、来月も来年もあると思うから、やるべきことの優先順位が曖昧になる。怠け心にも負けてしまう。
 明日死ぬつもりで生きるのは難しいにしても、常に優先順位だけは意識しておく必要がある。
 やりたいことを順番にやっていって、あとはやってもやらなくもいいというところまでいけば、その先は余生のようなものだ。
 やりたいことを後回しにして、結局やれずに終わってしまうことくらい馬鹿らしいことはない。
 明日やるべきことは、今一番やりたいことだ。
 もし、それが分からないというのであれば、明日は一日、他のことを全部休んで、やりたいことのリスト作りをした方がいい。
 明日が最後という日は、必ず来る。

 2010年7月9日(金) 「ときめき不足」

 毎日を楽しめないということは、よくないことではあるけど、さほど深刻なことではない。
 問題なのは、なにをどうすれば自分が楽しめるのかが分からないことだ。
 自分を楽しませる方法を見失っている。
 今が耐えて待つ時期なのか、積極的に動いて打破していくべき状況なのか、正しく見極めて判断する必要がある。
 まったく楽しくないわけではないのだけど、気持ちが浮き立たない。
 心がときめくことをしなくてはいけない。

 2010年7月8日(木) 「客観的価値」

 自分のために何をしようと本人の勝手だし、どう生きようと自由なのだけど、その人間の客観的な価値を決めなければならないとしたら、他人をどれだけ幸せにできたかで決めるしかない。
 直接、間接、本人の自覚のあるなしに関わらず、結果としてどうかということになる。
 人に誉められようだなんて考えちゃいけない。人をいくら感心させても、それは他人の幸福にはつながらない。自分が幸せになっても、価値は上がらない。
 それでも、自分が一番得意なことをやるしかないのだ。結果的にそれがこの世界への貢献につながるはずだから。
 苦手なことをやっていても、全体の足を引っ張るだけでたいして役に立たない。
 自分がやるべきだと思うことをやって、気持ちの中の方向性を間違えないことだ。

 2010年7月7日(水) 「便り」

 途切れた音信は、家出して帰ってこない猫のように、いつまでも心に引っかかり続ける。
 10年経ち、20年経っても、細い糸はつながっていると信じたい。
 いつでも、いつまでも、過去からの便りを待っているような気がする。
 お久しぶり、それが途切れた糸をつなぐ呪文の言葉。

 2010年7月6日(火) 「天井も底も信じちゃいけない」

 いろんなことが分かったような気になる時期があり、何もかも分からないと感じてしまうときがある。
 何かきっかけがあったわけでもなく。
 どちらも結論としてしまうのは危うい。
 分からないけど分かるようになりたいと思えるときが健全な時期で、別にどうでもいいやと思ってしまうのはどん底だ。
 すべての時期が自分だけど、投げやりな自分が本来の自分とは思いたくない。
 駄目なときは、待つしかない。辛抱していれば、また気持ちも上昇する。
 分かったり分からなくなったりを重ねていくことが、自分が探す答えに近づくことなのだと思う。

 2010年7月5日(月) 「理由なんていらない」

 自分がどうして生きているのかなどと訊ねてはいけない。
 援助してくれるパトロンに理由を訊くのが無粋なのと同じだ。
 生きることを許されているのだから、ありがたく生きていればいい。
 自分では気づかないところで誰かの役に立っているのかもしれないし、この先に可能性を残しているからかもしれない。
 たとえ理由はなくても、生きていることは幸運なことだ。
 今日を生きていることの幸運に気づかなければならない。
 理由はあろうとなかろうと、いずれ終わる。

 2010年7月4日(日) 「今日より明日」

 今日より明日はもっと自由なはずだから、今日の自分に見切りをつけて、明日の自分に期待をかけてしまうのは、仕方がないことかもしれない。
 いつだって、一日の終わりには、明日こそは、と思う。
 今日の自分は、昨日の自分の期待を背負っていることを忘れて。
 希望を明日へ丸投げしてはいけない。
 明日こそはの前に、今日こそはと、もう一度思い定めなくては。

 2010年7月3日(土) 「心は閉店中」

 心を閉ざせば、安全で、楽になれる。
 他人に心を晒す必要がどこにあるのかと、ときどき思う。
 孤独もまた、身を守る鎧のようなものだ。
 他人がそれを寂しいと評価したとしても、そんな評価に正当性はない。
 心と心が触れ合う温かさを知っていたとしても、それで救われるというわけでもない。
 開かないより開く方がまし、という理屈は理解できるけれど。

 2010年7月2日(金) 「いい役は回ってこない」

 誰だって自分の役割が欲しい。自分のよさが最大限に発揮される役が。
 けど、やりたい役が回ってくるなんてことはめったになくて、意に沿わない役でも回ってきたらやるしかない。
 そこで腐ってしまえば浮き上がれないし、かといって地道に続けていれば必ず見いだされていい役をもらえるとは限らない。
 役自体をもらえないことだってある。
 どんな役どころでも一所懸命やるしかないと分かってはいるけど、割り切るのはそう簡単ではない。未練は残る。
 結局のところ、自分の役は自分で作るしかないとも言える。
 誰も自分を欲しないのなら、誰もが欲する自分になるしかない。あるいは、誰かが求める自分になるかだ。
 折り合いをつけて誤魔化していくことが大人の賢いやり方というわけではないけど、子供のように駄々をこねていても仕方がない。
 誰もやりたがらない隙間を狙っていくのも、一つの方向性かもしれない。

 2010年7月1日(木) 「心の時間旅行」

 今を楽しみ、昔を懐かしみ、未来を心待ちにする。
 気持ちが三方向へ行っていても、それは矛盾するものではない。
 肉体は時間を超えられなくても、心は時間を超えられる。現在、過去、未来、自由に行き来できるのが心の優れた点だ。
 思い出に浸ることは全然悪いことではない。思い出がたくさんあるほど豊かな時間を過ごしてきたということで、過去を懐かしむことができるのは長生きしたことの特権だ。
 自分の将来に大いなる希望はなくても、変わりゆくこの世界を体験する喜びはある。
 頭の中の空間と時間を広げることで、生きることは際限なく楽しいものとなる。
 今日より明日は、もっと楽しくなる。過去が増えて、新たな経験ができて、自分の中の世界が広がるのだから。

 2010年6月30日(水) 「天から自分を見守るように」

 自分という存在が、非常な幸運に支えられているということを実感するのは難しい。
 けど、それは間違いなく事実だ。
 その幸運をどう活かせばいいのか。
 日々感謝することはできなくても、無駄にしないよう心掛けることはできるかもしれない。
 たとえば、自分は死んであの世にいて、地上に生きる子供を見守っているとする。
 一番願うことは何かといえば、子供が幸せに生きることだろう。偉くなって欲しいとか、お金持ちになって欲しいとか、そんなことは願わないはずだ。
 そう思ってもう一度今の自分を見直してみる。自分は幸せに生きているだろうか。
 もし、幸せになることを怠けているとしたら、それは自分を支えてくれている存在に対する裏切り行為だ。自分を幸せにするために全力を尽くさなければならない。
 全力を出して尚、力足りないときは、きっと天から力を貸してくれる。怠けている人間には誰も手を差し伸べてくれない。
 もっと頑張れる。

 2010年6月28日(月) 「今日か明日か」

 今日を粘ることも大事だし、今日を諦めて明日へ向かうことも必要。
 効率がすべてじゃないけど、今日と明日とを天秤にかけて、優先順位を決めるしかない。
 もちろん、必ず来ると決まっているわけではない明日よりも、すでに来ている今日に賭けた方が、より確実性は高いのだけれど。
 一日には昼の部と夜の部があるわけだし、そのあたりも考慮に入れなければならない。
 いずれにしても、限られた時間を無駄にしないように。

 2010年6月27日(日) 「鈍化」

 生きることを深刻に考えられなくなるということは、楽になることでもあるけど、堕落でもあるといえるだろう。
 若い頃はあれほど深刻だった悩みも、歳を取れば何のことだか理解できなくなってしまう。
 それを成長とは呼ばない。やはり退化だ。
 けど、人はそうやって生き延びていくわけで、仕方がないといえば仕方がないし、必然といえば必然だ。
 いくつになっても悩みは尽きないものだけど、もう昔みたいに深刻になれないと思うと、少し寂しいような気もする。
 初恋や夏休みを失ったのに似た切なさだ。
 人は経験を積んで知恵をつけていきながら、一方では衰えていく。死より前に死んでしまう部分もある。
 やがて自分がなくしたものに気づかないときが来る。そこまでいってしまえば、もう寂しさも感じなくなるだろうか。

 2010年6月26日(土) 「奇跡を待たない」

 奇跡というのはとてもドラマチックなものだけど、奇跡を期待しないでいいような生き方の方がいい。
 奇跡に頼らなければどうにもならないほど追い詰められてしまうのは、どう考えてもよくない。
 奇跡が起きた後の反動も怖い。
 奇跡を願うことは、とても危ういことだ。
 期待せずに自分の身に起きたときだけありがたく受け入れればいい。
 奇跡よりも前にやることはたくさんある。
 0.1パーセントずつでも積み上げていけば、いつかは120パーセントになるかもしれない。それが奇跡というのなら、その奇跡は揺らがない。
 0.1パーセントのために努力をしない人間に奇跡は起きないという言い方もできる。

 2010年6月25日(金) 「危険という甘美」

 危険を冒して手に入れたものが必ずしも良いものとは限らないけれど、無難な中で得られるものと、危険の中で得られるものとは、少し違う。
 それは言うなれば希少価値のようなものだ。そこにある種の絶対的な価値を見いだす人がいるのも頷ける。
 一種の信仰心かもしれないし、自分がやらなければ誰がやるという使命感かもしれない。
 自分が燃えるための動機付けということもある。
 危険は甘さを伴う罠だ。病みつきになることもある。
 虎穴に入らずんば虎児を得ずか、君子危うきに近寄らずか、どちらが正しいかなんて分からない。
 ただ、危険を冒す価値があるかどうかの判断だけは誤らないようにしたい。

 2010年6月23日(水) 「普通じゃない」

 少し歳を取って、平凡の正しさや、普通であることの偉大さに気づく。
 若い頃、嫌ってきらって、どうにかして普通から逃げようとしていた。
 けど、あの頃の否定があったからこそ、今そのことに気づくことができた。若い頃から普通を肯定していたら、今の思いはたぶんない。
 だから、あのときはあのときで間違っていなかったのだ。
 普通の偉さを知った今、けれど普通にはなれない自分がいる。
 やっぱり自分には普通は向かない。その思いは昔も今も変わらない。

 2010年6月22日(火) 「鎖を解き放つなかれ」

 自分をこの世に縛り付けているいくつもの鎖から解き放たれて天に昇っていくことを、救いと思うか、別れと感じるか。
 解放されれば楽になれる。けれど、一本の鎖が切れるごとに、この世界とのつながりは弱くなる。
 どれだけしがみついても、いつかは引き離されるものだけど、自分とこの世界とを繋ぐ鎖は、もっと大事にしなければならないのだと思う。そう簡単に自分から切ってしまっていいものではない。
 不自由な中で生きることが当たり前のことなのだ。
 解放されて自由になりたいという考えは危うい。

 2010年6月21日(月) 「少年の影」

 自分の過去を段階的に振り返ったとき、どの時点と今を比べても、自分はあらゆる面で進歩しているように思っているけど、実は本質的な部分では何も成長していないのではないかと感じることもある。
 ふとした瞬間、自分の中に無力だった少年の頃の自分を見つける。
 何もできずに立ち尽くしていた少年は、体が大きくなっただけであの頃のままだ。
 体が大きくなった分、駄目なところもそのまま大きくなっているかもしれない。
 過去の幻影から逃げるために、人は成長したいと願うのだろう。あのときの自分からなるべく遠く離れるために。
 長く伸びた影が過去から追いかけてくる。もっと速く逃げなくてはいけない。

 2010年6月20日(日) 「実利的の正義」

 実利的であることは、とても大事なことだ。
 いくら優れた理屈を持っていても、実際に役に立たなければ意味がない。
 高尚ではなくても、実益を生み出す手段を持っていることは偉大だ。
 芸は身を助けると言うけど、自分を助ける芸を持っているかいないかでは大きく違ってくる。
 多彩な趣味や才能を持つことは悪いことではない。ただ、その中の一つでも二つでも、商売として成り立たせることができるかどうかだ。できれば勝ちだし、できなければ負けだ。
 実利的でない人間が、実利的な人間を批判しても、それは負け惜しみに過ぎない。悔しければ実利的であることだ。
 売れることがすべてではないけど、売れているということの絶対的な正義というのは確かにある。
 能力として有能かどうかなんてことは、まるで関係がないのだ。

 2010年6月19日(土) 「ファンであること」

 自分のすることが世のため人のためになることが第一義ではあるけれど、それが自分を楽しませないのだとしたら、そんなことをして何になると思う。
 自分がすることを一番最初に受け取るのは自分で、自分が楽しめないことをやっても仕方がないではないかと居直りたい。
 自分のことを好きなわけではなくて、自分がやることのファンでありたいと思うのだ。

 2010年6月18日(金) 「心の嫌がることを」

 自分を鍛えて高めようと思うなら、心が嫌がることをやらなければいけない。
 心はいつでも楽をしようとたくらんでいて、隙あれば怠ける。
 そんな心を叩いて走らせなければ、際限なく低い方に流れてしまう。
 一方でサディスティックに攻め立て、もう一方ではマゾヒスティックに歓びを感じる必要がある。
 練習や勉強に執念を燃やすということは、普通のことではない。
 普通以上を目指すのなら、普通以上のことをやることだ。普通のことをやっていたら永遠に普通のままだ。
 何をすればいいかは、心が教えてくれる。
 やりたくないなというものをやれば、それが正解だ。

 2010年6月17日(木) 「適当が一番」

 必要以上に不幸ぶるのは下らないし、かといって単純に幸福でも嘘くさい。
 適度に荒れていて、ある程度は浮き沈みもあった方が、生きている実感が得られるというものだ。
 欲を言えば切りがないし、欲を捨ててしまえば、なんのために生きているのか分からなくなる。
 不満や悔恨を抱えながら、ときどき思い出したように幸せを実感するくらいでちょうどいい。
 生きていることが楽しいと思えなくても、死ぬときに面白かったと思えれば充分だ。

 2010年6月16日(水) 「その方向は合ってるのか?」

 もう一度などといわず、何度でも、自分自身に確認する必要がある。
 本当に大切なものは何なのか、それを見失ってはいないか、と。
 正しいことをしているつもりでも、ときどき間違った方向に進んでいることがある。
 いくら前に進んでも、目的地とは別の方に向かっていたら、それは前進にはならない。むしろ後退に近い。
 最終目的地から逆算して次の一歩を決めることが理想だ。現実はそう上手くはいかないものだけど、姿勢としての正しさは見失わないようにしたい。

 2010年6月15日(火) 「夢は思うよりも足が早い」

 夢には賞味期限があることを知るのは、大事にしまっておいた夢を久々に取り出して囓ってみたとき、湿気て食えたもんじゃないと分かったときかもしれない。
 夢をあきらめて現実を生きることが正しいとは思わないけど、夢を追いかけるなら全力疾走しなければ間に合わないことは確かだ。
 それでも時間がかかるときはかかる。
 走るのをやめてしまえば、夢は遠ざかって手の届かないところへいってしまう。

 2010年6月14日(月) 「毎日」

 やるべきことを毎日続けることは、上達するためでもあり、衰えを食い止めるためでもある。
 ある年齢を超えれば、筋肉も脳も使わないとどんどん衰えていく。使い続けることでやっと現状維持ができる。その現状維持が大事なのだ。そのために毎日続けなければならない。
 一日怠ければ、取り戻すのに2倍の労力がかかると思わないといけない。
 結局、毎日続けた方が自分にとっても楽なのだ。
 つべこべ言わずに毎日やること。やりさえすれば、とりあえずはそれでいい。

 2010年6月13日(日) 「素直になること」

 素直すぎる人を見て格好悪いと感じるのは若気の至りで、素直になれないのは心の貧しさの表れだ。
 心が豊かなら、物事をあるがままに受け入れることができる。
 素直になれないことこそ格好悪いと知らなければならない。
 天然の素直さも、養殖の素直さも、どちらも同じ価値がある。あるいは、養殖の方が価値が高いかもしれない。
 素直になれば、道は開ける。

 2010年6月12日(土) 「生きていればいい」

 目標もなく生きてはいけないなんてことはない。
 人間は生きることそのものが目的なのだから。
 人は他の生き物とは違うのだなんて偉そうなことを言っちゃいけない。
 人間は知能の高さによって自分を見失っている。
 そんなものは相対的なものでしかないのに。
 生きることが目的なのだから、生きることに対してもっと強い意志を持つ必要がある。
 人間にとって都合のいい地球環境を守るということも、そういう意味では正しい方向性だ。
 人類としてどうやって生き延びていくかということを、もっと全員が考えなくてはいけない。

 2010年6月11日(金) 「勝者の裏に敗者あり」

 良い出来事には必ず悪い反動があるし、その逆も同じだ。
 幸運ゆえに失うこともあるし、失った代わりに得るものもある。
 いつでも裏面のことに思いを馳せる必要がある。
 浮かれすぎることなく、悲観しないこと。
 プラスマイナスの損得勘定で考えず、多面的に物事を捉えることが大切だ。
 たとえば、自分が敗者になることで勝者を生み出すことができる。自分の不幸は誰かにとっての幸福だと思えば、嘆くことが自分のことしか考えない身勝手なことだと気づくはずだ。

 2010年6月10日(木) 「10年単位」

 やりたいことがやるべきことになるためには、それをやり続けるしかない。
 徹底できないから、やりたいことができないだけだ。
 やりたいことを10年単位でやり続けていれば、いつかモノになる。
 30年かかるか、50年かかるか分からないけど。
 あとはどれだけ徹することができるかということになる。
 休日の趣味程度では全然足りない。毎日続けることが最低条件となる。

 2010年6月9日(水) 「本番は明日かもしれない」

 いざ本番というとき、根拠のない自信は何の役にも立たない。それどころか、かえって自分を追い詰めることになる。
 大事な場面に臨むとき、心の拠り所になるのは根拠のある自信だ。
 本物の自信は、積み重ねた練習や確かな実績で裏打ちすることでしか手に入らない。だからこそ、日々の鍛錬が欠かせないのだ。
 本番は突然、明日訪れるかもしれない。準備はできているか、日々自問自答しなければならない。
 今日が本番ではなかった幸運に感謝しながら、毎日本番に向けての準備と練習を続ける必要がある。

 2010年6月8日(火) 「騎手がいてこそ」

 どんなに速い名馬も、騎手がいなければ全力を出せないし、レースにも勝てない。
 自分が持つ最高の力を出したいのなら、良い騎手を探さなくてはいけない。
 走らない駄馬なら、なおさら優れた騎手が必要だ。
 追い込みでムチを打ってくれる厳しい騎手が。

 2010年6月7日(月) 「そこに山があるから」

 手をつけなければいけないことが目の前に高く積まれているのに、見てみない振りをしている。
 見てしまうと途方に暮れる。
 一気に片付けるのは無理だから、一つずつ崩していくしかない。
 今日やらずに明日回しにしてしまうと、明日があさってになり、あさってがまた次の日になってしまう。
 ええい、コンチクショーと、悪態をついて、まずは一つやっつけることから始めたい。
 山も崩れ始めたら案外もろいかもしれない。

 2010年6月6日(日) 「とりあえずやってみる」

 やってみなければ分からない。やってみれば分かることは、たくさんある。
 どうなんだろうと考えることは、その多くがやってみるべきことだ。
 人が興味を持つ範囲というのはそれほど広いものではなく、興味を持った時点でその対象は自分にとって意味のあることとなる。
 だとすれば、あとはこちから対象に近づくだけだ。考えて時間を無駄にするより、やってみた方が早い。
 やってみたらやらなければよかったということもあるけど、失敗がすべて無駄に終わるわけじゃない。必ず次につながる。
 迷ったらやってみよう。経験は金では買えない。やればお金以上のものが得られるはずだ。

 2010年6月5日(土) 「毎日にプラスアルファを」

 今日は何もない駄目な一日だったと思わないで済むための一手が、必ずあるはずなのだ。
 それは気持ちの負担の大きなことかもしれない。けれど、その一手を打つか打たないかで、のちのち大きな違いになってくる。
 一日怠けることで、チャンスを一回失っていく。残りのチャンスは何回あるだろうか。
 誰が自分を許す許さないという問題じゃない。自分が自分を許せるかどうかだ。
 漫然と日々を送って、自分を許しすぎていないだろうか。
 大事なのは、最後に自分を許せるかだ。
 打つ一手は次の一手につながる。一歩目を踏み出さなければ二歩目はない。
 打つべき一手は、今日の残り5分でもできるはずだ。

 2010年6月4日(金) 「主観は大事だけれど」

 孤独が問題なのではなく、問題となるのは孤独感だ。
 それは幸福よりも幸福感の方が大事というのに似ている。
 客観的な状態と主観とは必ずしも一致しない。
 主観に対して理屈が通用しないことも多々ある。
 どうやって自分の感覚をコントロールすればいいのか。心頭滅却すれば的なことで本当に解決するのかどうか。他人にどう思われようと自分さえ幸せならそれでいいのかどうか。
 孤独でも幸せなことはあるし、孤独じゃないのに幸せを感じられないこともある。
 人は誰も一人だといえばそうかもしれないけど、二人でなければ得られない幸せもある。
 二人でいるからこそ感じる孤独感というのもある。
 それでも、人は人を求めるべきなのだ。幸せになりたくても、なりたくなくても。
 自分一人で完結する幸福感は、本当の幸福ではないかもしれない。

 2010年6月3日(木) 「教養はあるに越したことはない」

 知識と教養の違いは、奥行きにある。
 雑学知識をいくら持っていても、教養にはならない。
 高学歴のくせに教養がない人間はたくさんいて、あれは本当の意味での勉強不足だ。
 表面に表れるものが知識で、教養は奥に隠れるものだ。
 知識を島にたとえると、教養は海中の大陸のようなもので、知識は底の方でつながっている必要がある。知識がバラバラのままではただの情報と変わらない。
 PCは人間の脳を超える知識量を持っているけど、教養があるとは言えない。
 教養は天才ではなくても身につけることができる。けれどそれには長い時間の積み重ねが不可欠だ。
 だからこそ、教養は価値がある。
 学校の勉強などできなくてもいいというのは一理あっても、教養など必要ないというのはそれこそ教養のない暴論だ。
 教養は人の品格のようなもので、なくても別に生きていくには困らないけれど。

 2010年6月2日(水) 「もっと先に」

 どれだけのものを失い続けたとしても、一方的な被害者とは言えない。
 失うことでしか得られないものもある。
 それが前に進むということかもしれない。
 私たちは終わらせるために始めたわけじゃない。
 終わりは必然だとしても、終わらせることが目的ではなかった。
 その向こうを夢見ながら、休むことなく歩を進めていこう。
 もっと高く飛べるかもしれないし、もっと速く走れるかもしれないと思いながら。

 2010年5月29日(土) 「次の一歩を」

 方法論を伴わない教えは、絵に描いた餅のようなもので、正しくてもものの役には立たない。
 大切なのは、最初の一歩と最後の一歩をどう踏み出すかということで、その間のことは本人がどうするかだ。
 最終的な目標へ辿り着くためには次に何をすればいいのかということを、具体的に示して導かなければ、人に何かを教えることはできない。
 正しいことなど誰でも言えるし、誰でも知っているのだから。

 2010年5月28日(金) 「悩まない馬鹿に」

 生きていれば悩みがあるのは当然で、悩みがないのは馬鹿だ。
 けど、自分のやってることに夢中で、悩むことを忘れている馬鹿は偉大だ。
 私もそんな馬鹿者になってみたい。

 2010年5月27日(木) 「一人が好きなわけじゃない」

 一人でできることもたくさんあるけど、一人ではできないこともけっこうある。
 物理的なことだけじゃなく、気持ち的なことでも。
 逆のことを言えば、二人でいるからこそできないこともあるわけで、結局のところ、どちらを選択するかということになる。
 一人でも、二人でも、それぞれできることがあり、できないことがあって、良い面で選択するか、悪い面を避けるか、どちらかに決めるしかない。
 二人でいた方が得られるものが多いには違いないけど、人の気持ちはそんなに単純な損得勘定で決まるわけじゃない。

 2010年5月26日(水) 「もっと期待していい」

 多くの人は、自分を甘やかせているだけで、自分に対する期待感が小さすぎるんじゃないか。
 許しているけど、求めていない。なあなあの馴れ合いになってしまっている。
 人は決して無限の可能性など持っていない。可能性はごく限られている。
 けれど、自分の可能性を最大限開拓している人がどれくらいいるだろうか。
 本当はもっといろんなことができるのに、最初からできないと思い込んでやろうとしていない。やってもいないのに、できるかどうかなど分かるはずもない。
 人はもっと自分に期待していい。そして、その期待に応えるための努力をしなくてはいけない。
 まずは今日、何か一つでも余分にやってみることだ。
 まだ来ていない明日に期待する前に、もう来ている今日の自分に期待したい。まだ今日が終わっていないのなら、何かできるはず。
 妥協するのはあとにして、もう一度高いところに理想の自分像を掲げてみる。そこから逆算して次の一歩を決めたい。
 理想論も現実の一歩から始まる。

 2010年5月25日(火) 「最終的にやるのは自分」

 誰が自分の何を決めたとしても、やるのは自分なのだから、文句を言わず、責任を持ってやると決めたことをやるしかない。
 思い通りにいかなくても、誰のせいでもない。上手くいかなければ、全面的に自分のせいだ。
 確かに人はいろいろなものから影響を受けながら生きている。引きずられたり、支配されたりするものだけど、それがすべてではない以上、言い訳はきかない。
 罪に対する罰を受ける覚悟と、否定されても負けない気概が必要だ。
 自分が悪いと認めることは大切でも、それだけでは充分じゃない。
 やるからには結果を出さなければならない。
 やれることもやらなければやれないのと同じ。

 2010年5月24日(月) 「悲しみの宿命」

 人は誰も、心の中に深い悲しみや罪悪感を抱えて生きている。
 何もなかったかのような顔をして笑っている。
 けれど、心の底に沈んだ悲しみが消えることはない。何かのきっかけで心をかき回されて、悲しみが胸の中一杯に広がることもある。
 それが人間というものだというのなら、そうだろう。
 人はいつか業から逃れて解放されるときが来るのだろうか。
 来るかもしれないし、来ないかもしれない。
 ただ一つ確かなことは、起こってしまったことはもう、なかったことにはできないということだ。
 真の救いというものはない。あるのは一時の慰めだけだ。
 自らの存在の宿命と戦うことが、人が存在する理由なのだろうか。

 2010年5月23日(日) 「浮かび上がるシーン」

 脈絡もなく浮かんでは消える記憶の中のシーン。意味がありそうでない。
 それは、特に重要ではない場面であることが多い。
 何故そのシーンが印象に残っていて、ときどき表面に浮かび上がってくるのか分からない。
 もちろん、お気に入りの光景の場合もあるのだけど。
 それらのシーンを集めた映像展を開いたとして、誰かが何かを感じることはあるのか。自分はそれを見て、自分そのものを表していると思うだろうか。
 ただ、少なくともそれは、生きてきた証であり、財産でもある。
 もっと歳を取って一日やることもなくなったとき、古いアルバムをめくるようにそれらのシーンを一つずつ思い出せるといい。

 2010年5月22日(土) 「答えはある」

 人生の答えを見つけたっ、と思うことがある。
 目の前がパッと開けて、見上げる空がどこまでも澄んで広がっているような気持ちになる。
 けれど、人生の答えというのは、そんなに簡単に出るものではない。
 やがて空はかき曇り、どしゃ降りになる。
 手に入れた結晶の輝きは失せ、軽く握っただけで粉々に砕けてしまう。
 答えの残骸は、足元に散らばり、あるいは風に乗って消え去る。
 私たちは出口のない迷路を彷徨う迷子だ。迷宮で迷うことが生きることだと居直ってしまえば気持ちは楽になるけど、出口を探せば探すほど迷いは深まる。
 生きていく中で、人はときどき人生の答えを見つける。それは幻想ではない。目には見えず、形はなくても、確かなものに違いない。
 ただ、答えに永続性がないというだけだ。永久不変の答えは存在しない。
 答えを失ったなら、また新たな答えを探す旅に出るしかない。
 出口は見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない。
 最後の答えは、必ずどこかにある。それは分かる。ただ、最後の答えを見つけたあとどうなるかは分からない。
 存在の消滅以外のラストシーンを望む。

 2010年5月21日(金) 「全部ということじゃない」

 全力を尽くすということは、自分が持っているものをすべてさらけ出すということではない。自分が持っている一番いいものを出すということだ。
 自己満足ではいけない。
 とっておきのものを一つだけでいい。

 2010年5月20日(木) 「自分の感覚」

 自分の感覚と、自分以外の大勢の感覚とが違った場合でも、信じるべきなのは自分の感覚で、多数決の論理に引きずられてはいけない。
 自分がいいと思うものは、確かに自分にとっていいものなのだから、それを他人に押しつけなければ、自分はその感覚を信じていい。
 自分が本当にいいと信じるものを最後まで信じ切れたなら、そこには説得力が生まれるはずなのだ。迷ってしまえば負けになる。
 他人との共感は、他人が発したものですればいい。自分のもので他人の共感を欲しがると、自分の感覚を見失うことになる。

 2010年5月19日(水) 「海の味」

 海の味と涙の味が同じなのは、きっと偶然じゃない。
 ときどき無性に海へ行きたくなるのは、流れた分の涙を補充するためかもしれない。

 2010年5月18日(火) 「格好悪くても」

 達観は人生を楽にするけど、あきらめを意味する諦観に逃げてはいけない。
 勝負にこだわったり、嬉しいこと悲しいことに一喜一憂することも大切だ。
 感情的にならないということは、感情を抑えることであって押さえ込むことではない。
 格好つけてクールを気取るより、熱くなって怒った方が楽しめる。
 人生、悟ってしまったら詰まらない。
 自分の感情に翻弄されて、泣いたり笑ったり、転がったりするのが人生だ。
 上手くいかないこともあきらめないで、みっともなくても頑張っていこう。

 2010年5月17日(月) 「好きになるための努力」

 何にでも、誰にでも、一長一短がある。
 悪いところを見ないようにすればいいというものではなくて、積極的に良い面を見ることで幸せになろうとする方向がいいと思う。
 悪いところを見てしまって嫌いになるのは当たり前のことだ。それでもなお、対象を好きであり続けるためには、精神的な部分の努力が必要となる。その努力をしたくないということは、幸せになりたくないということだ。
 この世界の悪い面を見たら絶望してしまう。けど、何も知らない純真であることが正しいのではない。駄目な部分を知った上で、どうすれば好きでいられるかということだ。
 何にでも、誰にでも、良いところはある。好きなものは多いほどいい。

 2010年5月16日(日) 「好奇心で突っ走れ」

 好奇心と情熱さえ失わずに持ち続けていれば、毎日は忙しく、生きることに退屈を感じる暇などなくなる。
 死ぬことも忘れてしまうくらい夢中になれるものあることが、幸せということだ。
 幸福のただ中を突っ走っていれば、幸福を感じる暇さえない。
 持ち時間のすべてを費やしてもいいと思えるものを見つけたい。
 本当に好きなことをやっていれば、一年365日、休みなどいらない。

 2010年5月15日(土) 「まずは正しい欲望を」

 希望、願望、欲望。自分の中の求める気持ちの、何に忠実であればよいのか。
 正しい欲求も、言うことを聞きすぎれば、自分を見失うことになる。
 欲求のしもべになってはいけない。けれど、欲望の主人であることは難しい。自分を幸せにしないと分かっている欲望に身を委ねてしまうこともよくあることだ。
 求めることは大切なこと。それは間違いない。求めなければ得られない。
 正しい欲求と、手に入れるための努力が手を結ぶことができればいいけど、それは生きている間の永遠のテーマになる。
 まず大前提として、自分が欲するものをきちんと自覚することだ。案外それができていない。

 2010年5月14日(金) 「才能という危うさ」

 才能や美人は、成功への約束手形のようなものだけど、同時に他人を幸せにするための手段でもある。
 それは、背中に背負わされた重たい荷物だ。
 才能を与えられた人間は、他人に奉仕することを半ば強制的に義務づけられる。天才は自分のためだけに生きることを許されない。
 そのことを幸せに感じられる人はいいけど、そうじゃない人もいる。
 天才が身を滅ぼす原因にもなることを、私たちはたくさん見て知っている。美人であったがゆえにトラブルに巻き込まれることもよくある話だ。
 何事もほどほどがいいといえばそうなのかもしれない。
 不幸なのは、才能がないことではなく、才能が足りないことだ。足りない才能で間違った夢を見てしまうから、自分の道を見失う。その場合は、努力の後付けでどうにか這い上がるしかない。
 天才に生まれなかった幸運を感謝すべきだろうか。

 2010年5月13日(木) 「機械的に踏み出す次の一歩」

 変わり映えしない毎日でも、見えないところで変わっていくこともあり、時が来ないと起きないこともある。
 そんな中、目標がなければ、足がかりが得られないということがある。
 できれば、短期、中期、長期と、それぞれの目標があるといい。
 目指す場所があれば、とりあえず次の一歩をどちらに踏み出していいか分かる。
 すぐに結果が出ないことを毎日続けることは難しいから、正しく目標を持つことがまず何より大事になる。
 やるべきことは理屈抜きに続けていくしかない。意味など考えると、足も手も止まってしまう。
 勝ち負けは自分の中にある。やると決めたことをやれなければ負けということだ。

 2010年5月12日(水) 「心優しくて凶悪」

 動物園へ行って、檻に閉じ込められた動物たちを見ると、人間の身勝手さに気持ちが淀む。
 けれど、動物園を訪れる邪気のない親子の姿などを見ていると、そこに希望が見えて、少し心が軽くなる。
 残酷であると同時に優しいのが人間の本質だ。どちらか一方では決してない。
 希望も絶望も、常に混在している。
 人間という存在がいかに醜くて凶暴でも、この星の行方は人間の可能性にかかっているのだから、人間に救いを見いだすしかない。
 自己否定と自己肯定を繰り返しながら、人間は真の救世主になり得るのか。

 2010年5月11日(火) 「ぎりぎりでも勝ち続けること」

 この世界は戦いであり、人生もまた戦いだ。
 全体の戦いでもあり、局地戦でもある。
 どの部分で、どんな戦いをしているのかということを、もう少し自覚した方がいい。
 戦いである以上、勝たなければならない。勝つためには全力を尽くさなければいけない。
 楽勝など必要なくて、ぎりぎちの勝利でいい。
 毎日を際どいところで切り抜けて、命を明日につなぐことだ。
 死という一応の結末はあるものの、そこで終わりではないかもしれないし、少なくともそこまでは負けるわけにはいかないのだ。
 どんな小さな戦いもおろそかにしてはいけない。

 2010年5月10日(月) 「役無し」

 守られているけど救われていないというか、許されているけど認められていないような、宙ぶらりんの状況をどう理解していいのか判断がつかない。
 出番がなくてもベンチウォーマーは腐ったら終わりというのは分かるけど、自分が何を求められているのか、よく分からない。
 自分勝手にしていいものなのかどうか。
 みんなも自分の役割が分からず戸惑いながら生きているのだろうか。
 勘違いでもなんでいいから、自分が役に立っているという実感が欲しい。

 2010年5月9日(日) 「努力と結果の釣り合い」

 努力すれば必ず報われるわけではないし、努力しなくても成功することがあるわけだけど、苦労しないで手に入れたものは儚くて危ういものだし、なんだかあとから反動が来そうで怖くもある。
 理想的なのは努力に見合った報酬を得られることだ。
 天にも大きな借りを作るとのちのちやっかいなことになりそうだし、うかつな願い事はしない方がいい。
 一番気楽なのは、努力をしない代わりに何も得られないことにも満足することだけど、普通に考えればそれでいいはずもない。

 2010年5月8日(土) 「やったことがやれること」

 やるべきことをやれないのなら、せめて自分がやれることをやっていくしかない。
 けど、いつでもこう自問自答することを忘れてはいけない。
 おまえができることは所詮その程度なのか、と。
 もっとできると言うのなら、態度で示す必要がある。
 やらないのはやれないのと同じことだ。
 言い訳せずにやってみせればそれでいい。

 2010年5月7日(金) 「ハート・アンド・テクニック」

 思いを育てることと、技術を上げることと、両方が大切で、どちらか一方が先走ってしまうと、真っ直ぐ進めない。両輪の回転速度を合わせながら前進する必要がある。
 芸術、スポーツ、学問など全部そうだし、写真も文章もそうだ。人と人の関係性も同じことが言える。
 気持ちだけあっても駄目だし、テクニックだけではうわべだけの関係になってしまう。

 2010年5月6日(木) 「初夏にやること」

 春は出会いと別れの季節。新しいことを始めるにもいい時期だ。
 では、初夏はどんな季節だろう。
 春の夏の間。晩春と梅雨の間とも言える。
 暑くなる前のいい気候のこの季節だから、活動的になるには適している。
 けど、五月晴れの空とは裏腹に、五月病なんて言葉もある。
 ゴールデンウィーク明けの5月というのは、なんとなくけだるくてあまり動きたくないような気分になりがちだ。
 春に忘れ物があれば、まだ取り返すのに間に合う。夏になってしまう前にやるべきことは何だろう。
 初夏になったら毎年決まってやることを持っているといいなと思う。5月の残りの中で、それを探していこう。

 2010年5月5日(水) 「毎日、心を動かすためにできること」

 今日という日が一生の中で一番大切な日になるかもしれない。
 明日がそうかもしれない。
 可能性はゼロではない。
 たいていはそのための心の準備ができていなくて、あとから振り返ってそうだったと気づく。せっかくなら、もっとちゃんと味わっておけばよかったと後悔するだろう。
 新しい一日を、昨日までと同じ日だと侮ってはいけない。
 いつも特別な一日にするのだという心掛けで生きなければ。
 それは簡単なことではないかもしれないけど、思っているほど難しいことではないかもしれない。
 まずは気持ちを動かすことだ。そして、手を動かす。手が動けば足が動き、体が動く。体が動けば心が動く。それが、感動ということだ。
 日々の暮らしの中に、感動を持ち込みたい。そのための努力を惜しまないようにしなければならない。

 2010年5月4日(火) 「努力しない天才には勝てるかも」

 天才や美人は確かに称えるべき才能ではあるけど、真に称賛すべきなのは、努力によってそれらと肩を並べるまで登り詰めた人間だ。
 持って生まれた才能は本人の手柄じゃない。
 成金と馬鹿にするけど、生まれついての金持ちが偉いわけじゃない。
 凡才に生まれたことを嘆くことはない。上積みできる部分がたくさんあることをむしろ喜ぶべきだ。
 最初からなんでも上手くできるよりも、できなかったことができるようになる方が嬉しい。
 とはいえ、努力する天才にはどうやっても勝てないというのはあるのだけど。

 2010年5月3日(月) 「変化と仲良く」

 生きていればいろんなことが変わっていくわけで、それはもう、どうにも不可抗力で仕方がないものだ。
 たいていは思惑通りにはいかず、思いがけない形で変化を突きつけられる。
 人は変化に対処しながら、折り合いをつけていくしかない。
 変わらないもの幻想を抱き、不変に憧れる。
 過去の思い出に浸るのも、それが変化の少ない定着したものであるという安心感からだ。
 ただ、変化というのは救いでもあり、希望でもあることを忘れてはいけない。
 変化を恐れれば、変化による可能性さえも失うことになる。
 最善を続けるより、未知の次善を求めるべきだ。
 変化と喧嘩するのではなく、味方につけたい。
 自分から一歩を踏み出すことで、変化を呼び込むこともできる。

 2010年5月2日(日) 「願望の自覚」

 取り込むものと、発するものと、両方に自覚的でなければならない。
 それは息を吸って息を吐く呼吸のようなもので、どちらに偏っても苦しくなる。
 自分は何を求めているのかをいつも自問自答して、知っておく必要がある。そうすれば次の行動に迷わないで済む。
 何が欲しくて、何がしたいのか。
 人は自分が本当は何をしたいのか、案外分かっていないものだ。まずはそれを自覚することから始めたい。
 自由に使える時間があるのなら、自分が一番やりたいことをやればいい。少しでも行動に迷いがあれば、普段からの自覚が足りないということになる。
 やりたいけどやれないことなら、どうすればやれるようになるのかという具体的な対策に乗り出すべきだ。
 迷って時間を失うのはもったいない。

 2010年5月1日(土) 「格好悪すぎると格好いい」

 一所懸命が格好悪く映るのは、中途半端だからだ。
 必死さというのは、馬鹿にされたり反発心を起こさせたりするものだけど、ある一線を越えたところで説得力を持ち始める。度を超すと心を打つ。
 他人を感動させるために一所懸命になることはないけど、人の心を動かしたいと思うなら、馬鹿になりきる必要がある。
 格好つけて見せて、本当に格好いいということはないのだ。
 滅茶苦茶努力してますと言い切れるものが一つでもあることは、格好いい。

 2010年4月30日(金) 「ありがたいもの」

 何にありがたみを感じるかは人それぞれで、他人にどう思われるかは関係ない。
 とかく人はよそ見をしがちで、自分にとって本当に大切なことをないがしろにしてしまう。
 もっと他にいいものがあるのではないかと違う可能性を探ってしまい、大事なものを見失う。
 あるいは、次善のもので我慢してしまおうとする。
 たとえ手が届かなくても、自分がありがたいと感じるものを追求すべきだ。
 ある種の居直りがあってもいい。それしか駄目なのだと。
 結局、自分にとって特別なものを手に入れなければ満足はできないわけで、量や数で誤魔化そうとしても誤魔化しきれるものではない。
 ありがたみを感じるものと、そうでないものと、はっきり区別をつけなければならない。そのことに自覚的になってこそ、ありがたいことに触れたときの歓びは大きくなり、幸福も感じられる。
 ありがたくないことももちろん必要だけど、惑わされないようにしたい。

 2010年4月29日(木) 「無難な賭け」

 神もいないし、あの世もないという方に賭けるのは、リスクが高すぎやしないか。
 ないという想定で生きて、死んだあと意識が続いて、目の前にあの世の担当者が立っていたときのことを想像してみる。
 しまったと思っても手遅れだ。
 神はいるかもしれないし、あの世もあるかもしれないと思って生きておいた方が無難だ。
 その方が夢がある。
 いい人はみんな向こうにいるのだから、会えるかもしれない楽しみもある。
 この世はこの世で楽しんで、あの世を楽しみにしておけば、生きることも死ぬことも不安は少なくなる。
 自殺が何故駄目かというのは、自分があの世にいると想像してみれば分かる。
 手ぶらでは行けないから、何かいい手土産を持っていきたいものだ。

 2010年4月28日(水) 「個人的な必然」

 これだけ大勢の人間がいる中で、自分が頑張らなければいけない理由を見いだすのは難しい。あるとすれば、それはとても個人的なことにならざるを得ない。世のため人のためなどといっても、具体性を欠いて、頑張り続けられない。
 結果として誰かの役に立てばそれに越したことはないけど、まずは主観的な問題として、誰のためにどうして頑張らなければならないのかという点についてはっきりさせなければならない。利己的なことであっても仕方がない。
 最初から結果を求めすぎると、かえって自分を見失ってしまう。とりあえず次の一歩を踏み出す理由が必要だ。
 自分ひとりくらい頑張らなくても世の中はちっとも困らない。けど、だからといって、頑張らなくてもいい理由にはならない。
 チームプレーは個人プレーのハーモニーだ。まずは自分がやるべきことをしっかりやらなければならない。
 せめて世の中の足を引っ張らないように。

 2010年4月27日(火) 「ゆく季節くる季節」

 季節は巡れども、同じ季節は二度となく、今年の春は今年限りだということを忘れてはいけない。
 来年の春、自分は別の場所に立っている。
 季節が移り変わることは、痛みにも似た悲しみを伴うものだ。
 時が流れて、自分がまた少し死ぬことだから。
 悲しさに捕まらないためには、季節よりも速く走ることだけど、行く季節を弔うように見送る人間も必要だ。
 そして、やって来る季節を真っ先に出迎える人間も。

 2010年4月26日(月) 「修行であっても苦行じゃない」

 人は本質的な行為だけで生きているわけではなく、余分なことをたくさんしている。
 たぶん、余分なことの方がずっと多い。7対3とか、もしかすると8対2とか、それくらいなのかもしれない。
 一つのことに打ち込んで、余分なことをしない生き方をしている人もいるのだろうけど、だからといってそれが正しいとは限らない。
 怠けることが悪だという発想も、本当かどうか疑わしい。
 原始人の人生は短く、食べ物を確保することに多くの時間を費やしていたのだろう。現代人はお金を稼ぐために人生の半分を労働で消費している。
 どちらも両極端で、それ以外の時代ではもっとのんびり過ごしていた。どの時代が良いのかは一概には言えないけど、どの時代もずっと続くことがないことだけは確かだ。
 今自分たちが生きている時代の価値観だけですべてを判断すると間違える。
 人は何のために生きているのかは永遠の命題で、そう簡単に答えは出ない。
 ただ言えることは、生きることは苦行ではないということだ。享楽的であることがいいとは思わないけど、生きることの歓びを感じることは決して悪いことではない。
 この世界を愛することができれば、行いは正当化されるかもしれない。

 2010年4月25日(日) 「失わずにはいられない」

 続けていくことで分かることがあり、ずっとやっていると分からなくなることがある。
 得ながら失い、失いながら得ていく。どちらか一方ということはない。
 人生を損得勘定で決めず、これまで得てきたことと、これから得ることを喜びとして、失った多くのことに思いを馳せたい。
 見失ってしまったものも、記憶の奥の宝箱にしまわれているはずだ。

 2010年4月24日(土) 「悲しみは悲しいものじゃない」

 人は悲しい生き物なのだから、悲しくない振りなんてしなくていい。
 流す涙は、美しき心の結晶だ。人だけがそれを持っている。
 悲しみをきちんと悲しみながら、生きていこう。

 2010年4月23日(金) 「前後左右に」

 大切なことは過ぎ去ってから分かる。
 でも、きっとそれでいいのだ。
 過去を振り返ったとき、懐かしさと切なさと愛おしさを感じられたなら、自分は前に進んでいるということだから。
 多くを失ったとしても、これから先、新しいことがたくさん待っている。
 前にも後ろにも、楽しいことがあるのは、素敵なことだ。
 何も嘆くことはない。

 2010年4月22日(木) 「現状維持のために」

 世界は現状維持の戦いで、浄化の努力をやめてしまったら、たちまち淀んで腐ってしまう。
 警察と犯罪のいたちごっこがいかに虚しくても、職務を投げ出すわけにはいかないように。
 言い方を変えれば、世界は現状維持の戦いでしかない。
 犯罪も不幸も、戦争も飢餓も、決してなくなることはない。
 世界は救われたら終わりなのだ。マイナスなしにプラスは成り立たない。
 生きていれば腹は空くし、食べなければ生きていけない。それを虚しいと言ってしまえば、生きることを否定することになる。
 自分という存在を高める努力を続けなければ、どんどん自然降下していく。
 虚しくても現状維持のための戦いを戦い続けなければならない。
 退化と成長で、たいていはプラスマイナスゼロくらいだ。

 2010年4月21日(水) 「生きてこそ」

 去る者は日々に疎し。
 なんと的を射た言葉であることか。
 自分が前進しなくても、いなくなった人間は後方へ飛び去るように遠ざかる。
 地球という船の上から海に水葬されたみたいに。
 心の中でつぶやく言葉は、死んだら終わり。
 どんなに意味のあるいい死に方でも、死んでしまったら詰まらない。
 生きることに意味が見いだせなかったとしても、生き続けなければいけない。 生きていれば、何かがある。その何かが大事なのだ。
 死なないよう。死なないように。

 2010年4月20日(火) 「時代を楽しむ」

 時代というのは個人ではいかんともしがたいもので、上手く乗れる人がいれば乗れない人もいる。
 どんな時代もそれはそうで、運不運はいつでもある。不公平なわけではない。
 ただ、不運を不運として嘆いて終わるか、不運を逆転しようとするかは本人次第で、不幸な時代の中にも救いは必ずあって、時代と自分との勝負という一面もある。
 いい時代に生まれ合わせたと思っても、逆境でこそ発揮できる実力を出せずに終わってしまっているかもしれない。
 時代の影響を受けない人間はいないわけで、翻弄されながらも生きている時代の中で、自分ができることをするしかない。別の時代をうらやんでいても、どうなるものでもない。
 20代の頃の私は退屈な時代に生まれてしまったと思ったものだけど、30を過ぎてからは意外と面白い時代を生きてきたと思いを改めるようになった。
 旧時代と新時代と、片足ずつ立っている状況というのは、なかなか楽しい。
 前後に5年ずれていたら、違う自分になっていたんじゃないかとも思う。
 時代の流れはどんどん早くなって、10年かかっていた変化が5年くらいになっているような気もする。
 この先、時代がどういうふうに変化していくかは分からないけど、私には予断みたいなものはない。
 新しい時代を見て、体験して、楽しみたいだけだ。
 長生きするほどいろんな時代が見られて楽しいに違いない。

 2010年4月19日(月) 「次へのつなぎの仕事」

 実情を知らない人間はのんきに構えすぎているし、内情を知っている人間は声高に危機を叫びすぎる。
 その中間で他人事のように見て見ぬ振りをして、自分のことだけを考えている人間が大多数と言えるかもしれない。
 私もその他大勢の中のひとりなのだけど、私は悲観が底を抜けて楽観に至った人間だから、いろんなことをあまり心配はしていない。なるようになるし、ならなければならなかったときのことだと考えている。
 身も蓋もない言い方をしてしまえば、いずれ人類は滅びるし、宇宙も消滅してしまうんだし、という思いがある。
 一つ不満があるとすれば、人類が滅亡した後の世界について、あまりにも語られないことだ。どんなに世界のことを憂えている人間でも、結局人間のことしか考えてなくて、人類抜きの地球をどうすればいいかまでは思いが至っていない。
 人類は中継ぎの存在だということを忘れている。かつては存在していなかったし、いずれ存在しなくなる。
 それでも、中継ぎには中継ぎの仕事があって、世界に対する責任もある。
 大切なのは人類が幸せになることよりも、世界の有り様を少しでも前に進めることだ。
 個人レベルにおいても、人生の試行錯誤がそれに準ずる。

 2010年4月18日(日) 「否定要素はない」

 暇で平和だった江戸時代に、多くの文化や趣味や遊びが生み出されたように、暇人にしか生み出せないものもある。
 必要は発明の母という言葉の通り、必要に迫られて考え出されるものもある。
 世の中というのは、みんながみんな慌ただしく働けばいいというわけでもなくて、遊んでいるばかりでたいして役に立っていないような人間も必要なのだ。
 芸術なんてものも、暇人の退屈しのぎのようなもので、そんなに偉いものでもない。偉いものでもないけれど、主食以外のデザートも欲しい。
 この世界というのはおかしなところで、遊びを真剣にやればプロになれる。スポーツなんてのも、たいていは遊びの延長だ。
 悪い人間が善人の存在を支えていたり、悪人が正義の味方の犠牲者になるという構図もある。
 この世界にあるものや、生きている人間は、何も否定されるべきではない。
 少なくとも、正しさだけが存在価値ではないということを認識しなければならない。
 他者を否定しないことが平和への第一歩だ。
 ごた混ぜのこの世界は、こんがらがりながら転げるように前へ進んでいく。理路整然とした秩序なんてものは金輪際期待できない。
 くだらなさも楽しみながら、最後のオチを見るために、人類は存続していくべきなのだろう。
 終わってしまえばすべてが笑い話で、いい思い出になる。

 2010年4月17日(土) 「決めるのは自分」

 幸せは数値では測れないから、主観で決めるしかない。
 皮肉な言い方をすれば、他人の判断基準を満たしていることで幸福を実感できる人は幸せだ。自分が納得しなければ幸福を感じられない人間の方がやっかいと言える。
 幸せの物差しは人それぞれで、ある人から見ればものすごく不幸に見える人も、別の見方をすればけっこう幸せに感じられたりするものだ。本人にすれば、不幸だと思われるほど不幸でもないし、うらやましがられるほど幸せでもなく、その中間くらいが立ち位置であり、自己判断ということになるのだろうと思う。
 自覚の強い弱いはあるにしても、誰もが幸せを求めて生きている。それは間違いではない。
 ただ、自分が望むほど幸せではないことを不幸だと感じるのは間違っている。幸福と不幸のシーソーで不幸側に傾いたとしても、幸せがないわけではない。
 幸せになる方法は、幸せを自覚することしかない。認識できない幸福は幸福の内に入らない。
 幸せの数だけ数えていられるおめでたい人間になればいい。

 2010年4月16日(金) 「奇跡よ、一度だけ」

 奇跡を当てにしてはいけない。
 けど、人智を越えた力がどうしても必要なときもある。
 傑作を生み出したり、成功を収めたり、結婚もそうかもしれない。
 人事を尽くして天命を待つ、というのが正しい在り方なのだろうけど、それでも奇跡はめったに起きない。
 奇跡の方程式は、努力と比例するといった単純なものではない。
 私たちは奇跡を願いながら、上手くいかないことを奇跡が起きないせいにして、漫然と生きているだけでいいのか。
 奇跡なんてあるはずがないと、最初からあきらめて生きるのも夢がない。

 2010年4月4日(日) 「忘れないで」

 笑ったことは流れていく。
 泣いたことほど、あとになっていい思い出になる。
 忘れて欲しいという思いと、忘れないでという気持ちとの間で揺れる。
 死んだあとの私たちは、思い出でできている。

 2010年4月3日(土) 「意識体として」

 人の意識とは、知覚や感情、記憶や思考からなる。
 魂というものが核になっているとしても、肉体を通さなければ得られるものもある。
 それが生きているということであり、生きることの意味でもある。
 死んだあと魂になるとして、何が残り、何が残らないのかを考える。
 視覚や触覚、感情といったものはどうなるのだろう。
 純粋で単純な意識体になるのだとしたら、経験から得られる感覚的な記憶を蓄積することが大切ということになる。
 経験は魂レベルまでフィードバックさせてこそ価値がある。

 2010年4月2日(金) 「空振りしたあと考える」

 試みて空振りに終わることを恐れないようにしたい。
 無駄なことと無は違う。無意味なこともやれば意味が生まれる。
 道に迷うことも、遠回りすることも、決して無駄じゃない。
 試行錯誤は、必ず次につながる。頭で考えているだけでは、事態は進展しない。
 ただし、その前後で考えを巡らせることも必要となる。
 何も考えず無闇にやるだけでは、成功しても失敗しても根拠が曖昧になる。データの蓄積にならない。
 飛ぶ前に考えて、飛んだあとにもう一度考えてみる。
 思考と行動を交互に繰り返していくことが、学習だ。デスクワークとフィールドワークの二輪が上手く回転してこそ、思った通りに前に進むことができる。

 2010年4月1日(木) 「才能は育てて咲かせるもの」

 才能というのは花の種のようなものだ。水をやり、日の光を当て、大事に育てていって、初めて花が咲く。
 最初からきれいに咲いた鉢植えの花を与えられるようなものじゃない。
 毎日過不足なく水をやり、芽が出たら肥料を与え、弱ったら手当をして、そうやってせっせと毎日世話をしてこそ才能の種は育って、ようやく花を咲かせる。
 種さえよければ、何もせず放っておいても花が咲くと思ったら大間違いだ。よく手入れされた隣の庭で咲いている花をうらやましがっていてもしょうがない。
 自分の種は自分が育てなければ誰も育ててはくれない。
 せっかくさずかりものの種を、生かすも殺すも自分次第だと自覚しなくてはいけない。
 どんな花が咲くかは育ててみなければ分からない。たとえそれが気に入らなかったとしても、育てなくていい理由にはならない。

 2010年3月31日(水) 「基本は自分のため、少しだけ人のため」

 自分のためと、人のためと、その割合が大事なところで、いいバランスを見つけられれば、自分も楽しいし、人の役にも立つ。
 他人のためだけでは疲れるし、押しつけがましくなる。
 自分のためだけでは人を喜ばせることはできない。
 自分寄りに7対3か、8対2でもいいと思う。
 基本は自分が楽しむことだ。それはとても大切なことで、たとえボランティア活動でもそうだ。
 最初から最後まで他人のためと思ってやると、報われないと不満を感じてしまうから、人にも優しくなれない。
 何かをしてやっているという気持ちになったら危険信号だ。その方向性は間違っている。
 ただ、常に誰のために何をするべきかということは意識しておく必要がある。
 人は自分を楽しませるだけでは満足できない。他人に喜ばれ、感謝されてこそ、心が満たされる。
 自分が一番やりたいことを、どうやって他人のために役立てるかということを考えたい。
 自分を楽しませるように人も楽しませるやり方はきっと見つかるはずだ。

 2010年3月30日(火) 「物事の良い面」

 平和な側に身を置いていると、この世界は概ね平穏で、人々の善意に満ちているように思える。
 反対側に争いや暗黒があったとしても、平和な側が幻想なわけではない。これも半分の現実だ。
 この世界を良い部分で判断するか、悪い部分でするか、全体でするかで評価は違ってくる。
 物事の良い面だけを見る態度が必ずしも正しいとは思わないけど、悪いところばかり見て嘆いたり文句をつけてばかりいても仕方がない。
 良いときこそ悪い部分を忘れず、悪いときこそ良い面を思い出すようにしたい。
 結局のところ、前向きになれるかなれないかということだ。
 後ろ向きになっていじけてみせても、世界は良くならないし、誰も助けてはくれない。
 自分で自分を励ましながらやっていくより他にしょうがない。
 良い面を見れば、この世界には大いなる救いがある。慰めもあるし、喜びもある。
 この世界で駄目だというのなら他のどこへ行っても駄目だということだ。これ以上のところはない。

 2010年3月29日(月) 「全力の向こう側」

 全速力で走って、全力を出した人間だけが、理屈や論理から解放されて、逃げ切ることができる。
 限界まで頑張った先では、言い訳は必要ない。
 他人の批判や、絶望感などは、全力で駆けていれば、簡単に弾き飛ばしてしまえる。
 ほとんどの人間はその境地まで達することはできないから、夢物語のように思えるけど、全力の向こう側にはきっと、静かな世界が広がっているのだと思う。
 届かなくても、少しでも近くまでいってみたい。

 2010年3月28日(日) 「つなぐ気持ち」

 一点ずつ刻みながらつなげていく行為そのものを大切にしたい。
 点は線になり、線は面になり、面は立体になる。
 今日を明日につなぎ、命を別の命につなぎ、世代を次の世代につなぐ。
 つながりこそが、この世界の本質であり、時間の本質でもある。
 連続性ということを常に意識して、次につなげていくことが大切だ。
 すべての連鎖性が見えたとき、初めてこの世界の一員であるという自覚が生まれる。
 自分は無限の中の一点に過ぎなくても、世界を形成する大事な一点だ。
 独立しているわけではないし、孤独でもない。だから、自分勝手なことをしてはいけないのだ。
 自分は世界とつながっていて、世界は自分とつながっている。

 2010年3月27日(土) 「気持ちは技術に支えられるもの」

 想いは技術に支えられてこそ表現できるものだ。
 よく歌は心だとかいうけれど、それは半分正しいだけで、半分は間違っている。
 テクニックだけでは伝わらないものも確かにあるにはある。ただ、歌が下手ではそれ以前の問題で、説得力を持ち得ない。
 最近、写真でそのことを強く感じている。
 好きなものを好きなように撮ることは間違いではない。けど、確かな技術がなければ正しく表現できない。
 目の前に絶好のシャッターチャンスが訪れたとき、瞬間的に光と影を読んで、これしかないという構図で切り取ってこそ、その写真は人の気持ちに訴えるものとなる。
 何か伝えたいものがあるのなら、まずは確かな技術を身につける必要がある。
 技術を伴わない想いというのは、誤字脱字だらけの駄目なラブレターのようなもので、心の深いところに届かない。
 スポーツなどはその際たるもので、いくら勝ちたい気持ちが強くても、力がなければ勝てない。
 気持ちとか心とかいうのは、高い次元で争ったときにギリギリで勝負を分ける要素だ。根性だけではどうにもならない。
 一番練習しているのは、一番上手い人間だということも忘れてはいけない。
 底辺にいたとしても、勉強と努力を積み重ねていくしか上昇するすべはない。

 2010年3月26日(金) 「マイ・スペシャル」

 年齢を重ねていくと、だんだんいろんなものに対する新鮮味が薄れてきて、自分は鈍くなったと寂しく感じたり、このまま無感動な人間になってしまうのではないかと不安になったりするけれど、多くのものが淘汰されて、自分にとっての特別が残ればそれでいいのだと思う。
 新しいものを見つけるといっても、現実的にはなかなか難しい。
 スペシャル感とでも呼ぶべきものは必ず残る。それさえ見失わなければたぶん大丈夫なのだ。
 好みが特化していくのは必然的な流れで、すべてのものに対して総花的ではあり得ない。
 自分の中に残ったわずかな特別を、大事にしたい。
 過ぎ去った多くの時間の中に置いてきた忘れ物を取りに行くことはない。

 2010年3月25日(木) 「その自信に根拠はあるか」

 根拠のない大きな自信よりも、経験を踏まえた小さな自信の方がはるかに意味はあるし、自分の役にも立つ。
 根拠のない自信で自分を支えようとするのは無理がある。
 当たってもいない宝くじで大金持ちになった気分になるようなものだ。それを妄想と呼ぶ。
 小銭をコツコツ貯めるように、小さな自信を着実に積み上げて、大きな自信としたい。
 見て、聞いて、やってみて、感じて、考える。そうした一連の過程を経て、経験は身につく。なんでもかんでもただやればいいというものでもない。予習、復習のデスクワークも大切だ。
 自信を持って臨めることはとてもいいことだ。金持ち喧嘩せずというように、自信があれば威張る必要もなくなる。
 胸を張れることを一つでも持ちたい。

 2010年3月24日(水) 「憧れ」

 憧れるというのはとても大切な気持ちで、それがあるのとないのとでは頑張り具合が全然違ってくる。
 現代の日本人が頑張れなくなっているのは、いろんな部分で憧れの気持ちがなくなってしまったからだ。
 海の向こうの外国や、電化製品の揃った暮らし、マイホームなどへの憧れが持てなくなってしまったことが大きい。
 それは個人にも言えることで、憧れがないから夢が持てないことにもつながっていく。
 憧れることが恥ずかしいことだという変な風潮が広がったということもある。
 よくよく思いだしみれば、憧れるものはたくさんあるはずなのだ。その憧れに対して、真っ直ぐな気持ちをもう一度取り戻したい。
 憧れさえはっきり自覚できていれば、そこに向かって頑張ることもできるだろう。
 憧れの対象を追いかけることを恥ずかしがってないで、頑張れていないことを恥ずかしいと思うべきだ。

 2010年3月23日(火) 「その一線」

 たいての人は、自分が思っているよりも誘惑に弱い。
 自分は誘惑に強いと思っていても、誘惑に負けてしまうツボみたいなものがあって、そこを上手く突かれると簡単に転んでしまうことがある。
 たとえば、1万円やるから街中を裸で走れと言われてやる人は少なくても、金額が10万、100万、1000万と上がっていけば、どこかでやってしまう線がある。
 金ではやらなくても人には欲しいものが必ずあるから、一番欲しいものを提示されてしまうと弱い。
 あるいは、自殺や麻薬さえも他人事ではないし、興味本位で裏世界にふと入り込んでしまう可能性さえある。
 お金や犯罪や恋愛沙汰も、明日は我が身で、絶対に大丈夫という保証はどこにもない。
 逆に言えば、誘惑に打ち克つことができるのも人間の優れたところで、悪いことをすれば得すると分かっていてもあえてやらない偉さがある。
 生きることは、誘惑と戦って、勝ったり負けたりの繰り返しだ。全戦全勝とはいかない。
 大切なのは、自分が引いた一線を越えないことだ。
 そこさえ守れば、人間だものということで、なんとか許される。
 越えてしまう人間と、踏みとどまることができる人間の差がどこにあるのか、私には分からない。意志の強さ弱さだけではないような気もする。不運だけで片付けられることでもないだろうけど。

 2010年3月22日(月) 「たぶん正しい」

 自分の感覚がいつも正しいなどということは決してないのだけれど、それでも自分の感覚を信じて、信じた上で気づきを待つしかない。
 生きていく上で、これまでの自分の感覚が間違っていたことを知る機会は何度となくある。それは人に指摘されたからとかではなくて、自分で気づいたからこそ受け入れられる間違いだ。違っていることに納得できれば直すこともできる。納得できなければ、反発して、間違った感覚に固執してしまう。
 自分が正しいと思う感覚に対して柔軟さを持ちつつ、最後まで殉じるしかない。
 結局のところ、誰の感覚も全部間違っているといえば間違っているし、正しいといえば正しいのだ。

 2010年3月21日(日) 「否定不能」

 現実の世界にあるものを否定する者は、必ず否定され返される。
 どれほど正当な理屈をもって否定したとしても、それは絶対に成功しない。
 個人の理屈や論理や感情といったものは、現実の存在の前ではあまりに無力で、意味がない。
 存在の絶対性に対して人の思いは決して勝てない。
 たとえばそれは、目に見えないものでもそうだ。
 神は人間が信じるがゆえに存在し、それを完全に否定することは不可能となった。
 どんなに気にくわない人間でも、その人間の存在を否定することはできない。死によってこの世界からいなくなったとしても、存在そのものを消すことはできない。
 否定し切ることが不可能だとすれば、それはもう受け入れるしかない。肯定しないまでも、存在を認めざるを得ない。
 否定することをあきらめれば、生きることが少し楽になる。何も否定しなくていいのだから、そのことで思い悩むことはなくなる。
 存在とは認識であり、認識されるものは存在し、認識されないものは存在しない。
 すでに存在してしまったものを、私たちはもうどうすることもできない。

 2010年3月20日(土) 「千里の道もあと一歩」

 あと一歩のところまで来ると、もう半分やり遂げた気になるけど、その最後の一歩が大変なのだ。
 その一歩は、これまで歩んできた道すべてを合わせたのと同じかそれ以上に険しく難しいものとなる。そんなに簡単には踏み越えさせてくれない。
 それでも、目標が目の前に見えれば、あらたな力も湧いてくる。
 高い山か、深い谷か、急流の川か、そこを僅かずつでも進んでいくしかない。
 ここまで来たらもう近道はない。怠けず、着実に距離を縮めていくだけだ。
 どんな勝負も、ギリギリ勝てばいい。楽勝なんて必要ない。
 余裕のない際どい勝ちを積み重ねていくことで力もつき、大きな結果に結びつく。
 最後のあと一歩を大切にしたい。

 2010年3月19日(金) 「自分次第」

 他人の言うことを聞きすぎるのもよくないけど、人の意見に耳をふさいでしまうのはもっとよくない。
 人の言うことはよく聞くものだ。聞くだけ聞いて、それを受け入れるかどうかを判断すればいい。
 他人の声は神の声のようなもので、耳が痛い話ほど自分にとって必要な忠告ということだ。
 ただし、それは答えではなくヒントだということを忘れてはいけない。
 神の命令でもいつも従わなければならないというわけではない。自分の責任において、神に従わない生き方もある。
 従うか従わないかはあなた次第。

 2010年3月18日(木) 「水のように」

 幸福と不幸はいつも背中合わせだから、そのただ中にいると背後のことを忘れがちだ。振り返ってみれば、そこにある。
 チャンスはピンチで、ピンチはチャンスになる。
 何か問題が起きると嫌な気分になるけど、問題が解決すれば喜びになる。それも一つの幸福だ。
 危うさと希望はいつも同居していることを忘れてはいけない。
 強いボクサーのように攻防兼備で、いいサッカーチームのように攻守の切り替えを早くすることを心掛けたい。
 攻めだけでは限界があるし、守ってばかりでは得点はできない。バランス感覚が大切だ。
 積極的になるべきところはいって、消極的であるべきところは引くことだ。
 変幻自在、臨機応変であること。
 頑なな心が強さではない。

 2010年3月17日(水) 「同点狙いではなく」

 多くの人は、今の苦しみから脱して、ささやかな幸せを手に入れたいと願っているのだと思う。
 そんなに多くを望んでいないというのが大部分なんじゃないだろうか。
 けどそれは、下がったシーソーを真ん中で止めるくらい難しいことで、いっそのこと下から上にいく方が簡単だ。相手と入れ替わりで。
 マイナス100までいってしまったら、もうゼロには戻せない。ゼロに戻すためには、プラス100を目指すしかない。
 たとえば、どうにも立ちゆかなくなった町工場のようなもので、どれだけコツコツ頑張っても膨らんだ借金は返せない。なんとか起死回生の発明をするか、大口の契約を取るしかない。
 プラス50の幸せを手に入れている人は、ゼロから出発したのではなくて、最初から最後までプラス50なんじゃないだろうか。
 マイナスをマイナスとしないという逆転の発想もあるけど、結局のところ、マイナスで我慢するか、一発逆転を狙って勝負をするかしかないのかもしれない。途中はないような気がする。
 プラス100まで登り詰めればあとは下るだけだし、一気にマイナスまで転落することもある。
 上にいても下にいても、ささやかな幸せというのは案外難しい。
 賭を放棄するか、賭けてみるか、人には選択する自由がある。

 2010年3月16日(火) 「素直になれた」

 歳を取って経験を重ねれば無邪気ではいられなくなるけど、いつも斜に構えていた20代の自分と比べたら、ずいぶん素直に物事を見られるようになったと思う。
 皮肉屋だった頃の自分はもういない。
 成長というのは常に右肩上がりの線を描くわけではない。紆余曲折があり、ときには急降下も経験する。
 それでも、生きていけば変化というのは必ずあるし、変化の積み重ねが成長へとつながっていく。
 だから、私は自分自身も、この世界に対しても、悲観はしていない。すべては成長の一環で、将来は今よりも良くなっていくと信じている。
 今となっては、小賢しいやつらの悲観論など、真っ平御免なのだ。

 2010年3月15日(月) 「翼があれば空も飛べる」

 幻想なくしてこの世界は存在し得ない。
 幻想によって成り立っているのが人間世界で、そこが他の動物と決定的に違うところだ。想像力の有無と言い換えてもいい。
 理想は常に現実によって打ち破られるものだけど、それでも理想は現実に敗北しない。人には幻想力があるからだ。
 理想も掲げないでどこへ行けるというのか。
 現実に屈する人間が正しいわけではない。想像力の欠如を嘆くべきだ。
 理想を追いかけ、現実の果てにこそ、私たちが望む世界がある。
 幻想という翼を持たない者に空は飛べない。

 2010年3月10日(水) 「それは続かない」

 絶望真っ最中の人間に、そんな安っぽい絶望に意味なんてないからさっさと捨ててしまえと言っても耳を貸さない。
 絶望と恋は似ているところがあって、入れ込んでいるときは人の忠告は届かない。熱が冷めたとき、なーんだということになる。
 恋と絶望は、ちまたに溢れているようでいて、本物を見た者は少ない。
 永久不変ではないという点でも、恋と絶望は似ている。

 2010年3月9日(火) 「結果優先」

 自分のやることをいちいち説明したり、自分自身で突き詰めたりする必要はない。
 大切なのは、やってみせて、提出してみせる結果で、結果オーライでもそれでいい。
 失敗したり負けたりしたときに非難されて、それは結果論だという反論は虚しい。
 結果がすべてではないけど、結果がすべてに優先する。
 どんなに優れた理論や理屈も、結果が伴わなければ意味がない。
 結果をきちんと求めることを常に掲げていれば、日々の行動も違ってくる。結果をおざなりにしたり、見て見ぬ振りをすると、どんどん駄目になっていく。
 結果を出せばいい。そうすれば他人の文句も打ち消せる。

 2010年3月7日(日) 「偶然の産物」

 この世界は偶然を楽しみ、愛でるところだ。
 美人や天才はその分かりやすい現象で、偶然が生み出した自然の絶景を鑑賞するように尊べばいい。
 遺伝なんてのも当てになるようでならないものだ。同じ両親から生まれた兄弟でも出来不出来はあるし、環境がすべてを決めるわけでもない。
 人は何かと理屈や意味を求めたがるものだけど、すでに目の前に起こっている現象を素直に楽しむのが先だ。
 全部を神の手柄にする必要もない。
 偶然を偶然として楽しむことができれば、この世界をもっと楽しむことができる。
 逆に言えば、すべてを自分の意志で決定しているなどという思い込みは傲慢すぎる。
 自分という存在もまた、偶然の産物に過ぎない。特別な意味や理由があるわけでもない。

 2010年3月6日(土) 「必要ということ」

 一翼を担っているという実感があれば、人はつらさを我慢できるし、生きることの免罪符にもなる。
 一番悲しいのは、自分が誰の役にも立っていないという感覚だ。そうすると人は、生きることに対して投げやりになる。
 必要としたりされたり、感謝の気持ちが行き来するのが理想だ。親しい人だけでなく、この世界に対しても。
 自分がいなくても世界は回るけど、わずかでも自分が何かの役に立っていると思いたい。

 2010年3月5日(金) 「少し先行」

 人より上に行きたいとは思わない。
 ただ、人より先に行きたいという気持ちはある。
 流行の最先端とかそういうことではなくて、未来の人が普通に思いつくことを思いつき、当たり前のように考えることを考えたい。
 100年後の小学生でも知ってるようなことは今すでに知っておきたい。天動説を信じて疑わないような人になってはいけないと思う。
 常識の針を少し進めたいという言い方でもいいかもしれない。
 自分が生きている間に世界の結論が唐突に出るとも思えないから、多少なりとも前進することを考えたい。
 次の時代は、宇宙への本格的な進出と、人工と自然の融合という二本柱になるだろう。それはもう始まっている。
 今更自然回帰はできないし、宇宙に対していつまでも自分の殻に閉じこもってもいられない。
 そのために個人として何ができるかといえば、それは地球を知ることだ。
 地球をもっと知ればもっと大切にしたいと思うし、愛おしさも増す。宇宙に対しても自慢できる我が故郷だ。
 それは意識の問題で、世界一周旅行をしなければ地球のことが分からないわけではない。情報は溢れている。大切なのは想像力で情報をつなぐこと。
 この世界との共感度をもっと高めなければならない。

 2010年3月4日(木) 「ここは楽しいところ」

 死んだあと、あの世で、下界はどうだったかと訊かれたら、すごく面白いところだったと答える。
 そして、またすぐにでも行きたいと思うだろう。
 生きることは楽しいことばかりじゃないけど、楽しいことだ。
 毎日の楽しみがたくさんあって、今日が終わればすぐにでも明日を始めたくなる。

 2010年3月3日(水) 「問いを高く掲げよ」

 正しい解答よりも、正しい問いかけが必要だ。
 答えはすぐに出ない。答えに向かうことが大切で、問いかけは目的地のようなものだ。目的地を間違えていたら、いつまでたっても辿り着けない。
 それは国の指導者も、教育者も、宗教家も、芸術家も、みんな同じだ。
 人は答えを求めているから答えを与えようとする。けど、それは間違っている。問いかけを投げかけて、一緒に考え、求めることが人としての正しい道だ。
 何故生きるのかという問いに答えようとしていはいけない。問いを掲げて進むことが大事なのだ。

 2010年3月2日(火) 「悪いことをしないことが言い訳になるのか」

 良いことをすると褒めてもらえるし、悪いことをしたら叱られる。悪いことをしないだけでは褒めてもらえない。
 悪いこともするけど良いこともする人間が褒められて、良いこともしないけど悪いこともしない人間は褒められない。ときどきそれが納得いかないことがある。
 むしろ真面目と揶揄され、詰まらない人間だとけなされる。そんな評価にやりきれなさを感じている人もけっこういるんじゃないか。
 悪いことをしないということがどの程度の善行なのか、私にもよく分からない。もう少し褒められてもいいような気もするし、良い行いをしようとしないことは怠惰の罪だと言われればそうかもしれないとも思う。
 悪いことをしてもその分良いことをすれば悪いことは帳消しになるのかどうか。
 自分は悪いことはしていないから正しいのだという自己満足で我慢しておくしかないのだろうか。

 2010年3月1日(月) 「面倒だからやるという選択」

 面倒なことこそ大事なこと。
 やらなければいけないことを思い出して、でも面倒だからやめておこうと、やめてしまうことは多い。
 けど、面倒だと感じることはたいてい自分のためになることで、おそらくそれは、やらないよりやった方がいい。
 筋肉も、脳も、心も、負荷を掛けなければ鍛えられない。楽な方へ流れると、どんどん衰えていく。
 面倒なことは成長のチャンスだ。面倒臭さを乗り越えてやりきっていくことで意志は強くなっていく。
 ストレスというのは必ずしもネガティブなものではない。ストレスから逃げ回っていると、気持ちが弱くなる。
 面倒なことをやっつけた後は気持ちがいい。脳にその回路をインプットしなければならない。
 面倒なことを面倒と感じなくなって、もっと面倒なことを探すようになれば、もう怠け者ではない。

 2010年2月28日(日) 「更に掘り下げてみる」

 ないものねだりで他人が持っているものを欲しがったり、人の真似をして自分を見失ったりしながらも、結局のところは、自分自身を深化させていくしかないのだ。
 自分の一番深いところに鉱脈があると信じて掘り進めるしかない。
 他人に勝てる上手い方法を探すのではなく、自分が一番自信のあることで勝負することだ。それで負けたら仕方がないとあきらめもつく。
 自分を信じ切れなくて後悔するよりも、自分を信じて自分に裏切られる方がましだ。

 2010年2月27日(土) 「最高の恩返しとは」

 恩義を感じている人に恩返しをする、それも生きる目的の一つになる。
 人に借りを作りたくないという発想は間違いで、人の好意は全部受けておいた方がいい。あとから倍返しをすればいいのだ。
 ホワイトデーのお返しが高くつくからバレンタインのチョコはいらないなんて考えは、けちくさい。
 人に支えてもらうというのは素敵なことだ。自分が夢を叶えれば、それは支えてくれた人たちみんなの喜びとなる。
 これまでの人生を振り返れば、恩返しをしなければいけない人はたくさんいるはずだ。いなければむしろ寂しい。
 お金を渡したりプレゼントを贈ったりなんてことが恩返しにはならない。
 自分が夢を実現して幸せになることが、最高の恩返しなのだということを忘れないようにしたい。

 2010年2月26日(金) 「今日を無駄にしないための明日」

 失敗も、間違いも、敗北も、無駄も、次につなげれば意味を持つ。
 つなげなければ、すべてが無意味になってしまうかもしれない。
 未来というのは、希望でもあり、可能性でもある。過去を取り戻すための。
 ただの慰めにしてはいけない。
 明日はある。確かにそうだ。けど、今日までのことを忘れて一から出直せばいいわけじゃない。明日は今日の復讐のためにある。
 明日にいるのは今日の自分じゃない。自分の子供のようなものだ。遺志を継いで敵討ちをしてもらわないといけない。
 今日という一日が始まったら、両端は昨日と明日につながっているのだということをもう一度思い出す必要がある。

 2010年2月25日(木) 「まだずっと先の話」

 結論はまだずっと先にある。今から急いでも答えは出ない。答えに見えるものに慌てて飛びついても、それは決して真実ではない。
 だから、急がず、でも怠けず、確実に一歩ずつ進んでいこう。それ以外に方法がないのだから仕方がない。
 当面の目標は三次元宇宙ということになる。
 世界地図を持たなかった時代の人々のように、私たちは宇宙地図を持っていない。宇宙がどうなっているのかを知らずに神も真実も語れない。
 考えたら気の長い話だ。結論が出るまでにあと何億年かかることか。毎日1円ずつ貯金して1億円を貯めようというくらいの壮大な計画に違いない。
 ボスキャラとの対決はまだまだ先ということで、今はチマチマ経験を積んでレベルアップに励むしかない。これをやらないと、どうしようもないから、理屈抜きになるしかない。

 2010年2月24日(水) 「伝道ということ」

 伝道というと宗教の布教活動に限定された怪しい響きの言葉になってしまうのは惜しい。
 文字通り道を伝えるという意味でも伝道という言葉は使いたい。
 道を極めるという意味の極道も。
 道を伝えるというのは、誰もが多かれ少なかれしていることだ。親から子への教えもそうだし、師匠から弟子、教師から生徒、恋人や友達同士でもそれはある。
 人の歴史というのは、言語による歴史の積み重ねだ。人は言葉によって道を示し合っている。
 もし、人間が他の動物のように言葉を持たなければ、歴史というのは存在しないのも同じになる。
 世代を超えて命をつないでも同じことの繰り返しだし、できることといえば環境の変化に合わせて自らを変化させることくらいだ。必要に迫られた進化はあっても能動的な進歩はない。
 先の世代が後の世代に自分たちの経験を伝えることで、次の世代は前の世代を越えていく。
 それがつまり伝道ということだ。伝統といったあらたまったものではなく、形式的なものでもない。目には見えないところでも人から人へ道はつながっていく。リレーのバトンタッチのように。
 自分は生きて次の世代に何を伝えられるだろうかと考えてみる。たくさんあるようでもあり、自分だけのオリジナルはそんなにないようにも思う。
 自分一人で世界の真実を見つけ出すことはできないし、この世界を完結させることもできない。だとしたら、できることは自分の経験を伝えて後の世代に託すことだけだ。
 どんな道筋を示せるか。自分の道が途切れた場所で、この世界の真実に、伸ばした指先が1センチでも近づければ、生きたことは無駄にならない。

 2010年2月23日(火) 「邪気なく、悪意なく」

 自分の中に心の闇みたいなものはないと思っている。
 20代の頃は深い海底に沈潜していたけど、あれは内側に抱えた闇といった性質のものではなかった。
 いつでも太陽の光が差しているような心持ちでは生きていないし、薄暗い部屋のような部分もあるけど、心が落ち着けるくらいの暗さがちょうどいい。
 外向的な性格ではなくても、自分の心が暗いとは感じていない。だから、陰湿な感情というのも理解できない。
 変に楽観的すぎるところは短所にもなるのだけど、だから深刻になりすぎないで済んでいるとも言える。
 誰に対しても、この世界に対しても、悪意はない。
 死んだあと地獄に堕ちてもそこが地獄だと気づかないくらい無邪気であれれば、それに越したことはない。
 そもそも私の中に地獄といわれるような世界のイメージは存在していない。

 2010年2月22日(月) 「たった一人のために」

 私たちは、天才が切り開いて辿り着いた到達点から出発できるのだ。それがいかに恵まれているかということを、もっとよく自覚しなければならない。
 同じ道を辿り直すにしても、道なき道を行くより、できた道を行く方がずっと早く楽に行ける。
 私たちのなすべきことは、先人たちの足跡を辿りながら、途切れた道の先を少しでも向こう側に伸ばすことだ。
 後にやってくる天才たちの道馴らしために。
 できることなら、まだ誰も歩いたことがない道を進むことだ。たとえそれが行き止まりの道だったとしても、後から来る人たちのための捨て石になれる。
 私たちの究極の目標は、誰か一人をゴール地点に送り込むことだ。みんなで仲良く手をつないでゴールすることが目的ではない。

 2010年2月21日(日) 「理解者なんていないけど」

 人は自分を理解してくれる人を求めてさまよう。
 見つけたと思って、期待して、失望して、見失って、それでも探すことをやめられない。
 認められたいという気持ちが単なる身勝手だとしても。
 その気持ちの原動力はどこから来るのだろう。理解者に自分の存在の正しさを代弁してもらいたいためだろうか。
 我こそは理解者だと自認する人がいても、その人が本当の理解者だとは限らない。
 神というのも、人が作り出した理解者の幻想なのかもしれない。

 2010年1月23日(土) 「別の道は別の自分が」

 選ばなかった選択肢を、別の自分がどこかで生きているような気がする。
 その自分と出会うことはなくても、遠く近くに感じることはできる。
 こちらが向こうを見ているときは、向こうもこちらを見ている。
 あるいはどこかの一点ですれ違うことくらいはあるかもしれない。
 どの選択肢にも良いことと悪いことがあって、どれを選んでも後悔はある。
 選んだ道が結果的には必然であり、正しかったのだと思う。
 だから、迷ったり立ち止まったりせず、この道の果てまでいくことだけを考えればいいのだ。

 2010年1月22日(金) 「過去を否定せずに」

 これまでのことを間違っているとしないで、日々を重ねていくことは、正しくもあり、そうじゃないこともある。
 失敗だったと認めてしまえば負けたようは気にもなる。
 正しさを積み上げても、最終的に誤った場所に辿り着くこともある。
 誤りを認めて反省してみせるより、間違いと気づきながら失敗に殉じることの方が誠実と言えるかもしれない。
 確かなことは、過去へはもう戻れないということだ。この先でどうにかするしかない。
 今日という日の中で、もっとできることがあるはずだ。嘆くのはその後でいい。

 2010年1月18日(月) 「理屈もいるでしょう」

 理屈は必要。
 でも、理屈じゃないことも多い。
 たとえば好きなものの理由なんて分析しても意味はない。
 けれど、やっぱり理屈は必要不可欠だ。方程式があれば簡単に解ける問題でも、指折り数えて計算するのは無理がある。
 理屈は、過去の人たちの試行錯誤の積み重ねでもある。私たちはその分、楽をさせてもらっている。
 何か問題が起きたとき、それは理屈で解決すべきことなのかそうでないのかを見極めることが大切となる。
 最近考えているのは、写真に理屈は必要かということだ。
 理屈抜きにいい写真もあるけど、偶然頼みでは再現性がない。やはり、いい写真は理屈の上に成り立っているのだと思うようになった。

 2010年1月17日(日) 「近く、遠く」

 今目の前にやることがある。
 人生の意味が見えなければ、それをやることは無意味なのかといえばそうでもない。
 じゃあ、目の前のことだけやっていればいいのかというと、そうじゃないだろうと思う。
 遠くの目標があって、近くの日常がある。
 あっちを見て、こっちを見て、またあっちを見て。どちらか決めきれず、動けない。
 次に踏み出す一歩が未来へ向かうという、おためごかしみたいなことで自分を納得させていいのかどうか。
 分かっているのは、人生は続くということ。そして、必ず終わるということ。
 やることを本当に分かっていないのか?

 2010年1月13日(水) 「君がいない」

 思えば人生の目標をいくつも失ってきた。
 憧れの人はこの世からいなくなり、恩返しすべき人もあの世にいってしまった。
 叶わなかった夢や、果たせなかった約束。届かなかった想い。
 残りわずかな希望を胸に抱いて、この先もいけるところまでいくしかないのだと分かっていても、失ったものの大きさを思うと立ち尽くして動けない。
 それでも未来はやって来る。
 その向こうでみんなが待っていると信じて。

 2010年1月12日(火) 「撮りたいものが求める幸福の形」

 もっと上手になりたいという思いと、自分が求めるものを表現することと、二つの思いは矛盾しないはずだ。
 写真を撮りながらそんなことをずっと考えているけど、他のことにも当てはまる。スポーツや芸術一般もそうだし、生き方にも同じことが言える。
 気持ちだけでは空回りするし、テクニックだけでは人の心に届かない。
 何を撮りたいのかは、どう生きたいのかにも通じる。
 いつでも撮りたいシーンと、なりたい自分を頭の中に思い描いていないといけない。

 2010年1月11日(月) 「練習、学習、練習」

 もっと単純な話で、つべこべ言わずに練習あるのみだ。
 苦悩してみせることで許されるのではないかというのは幻想で、思い悩んで何もしなければ何もよくはならない。
 初心者を脱した頃から実践ばかりに気持ちが向かうけど、本当は上級者になっても基礎練習の反復が必要だ。
 野球でいえば素振りみたいなものが。
 上手くなりたければ練習するしかない。
 何も考えることはない。

 2010年1月9日(土) 「滅びたくないといっても」

 あらゆる存在にとって滅びは必然なのに、人間だけが何故滅びを否定するのか。
 自然の絶対性を声高に叫びながら、自ら自然の摂理に背こうとしている。
 人間も他の生物と同じ動物なのだと主張するなら、他の動物同様、人類も潔く滅びるべきだ。
 滅びたくないというのは、身勝手すぎる。自分たちだけが特別だという考えが傲慢だ。
 人類は地球の歴史の中で、確かに一時繁栄した。けれど、それは永遠などではあり得ない。
 地球のダイナミックなリズムに対して人間の浅知恵などはまったくの無力だ。滅びるときはあっけなく滅びる。
 人間が蒔いた種は、人間が滅びた後に芽を出し、育つだろう。
 絶滅を恐れる必要はない。それですべてが終わりではないのだから。

 2010年1月7日(木) 「誰も世界の半面は知らない」

 知らない世界はたくさんあるけど、すべての世界を知らなければいけないとは思っていない。
 世間の厳しさを知らないから駄目だなんていう理屈には共感できない。
 飢餓や内戦や裏社会を自分の目で見て体験しなければ世界を理解したことにはならないとすれば、この世界を生きる大部分の人は世界を知らないということになってしまう。そんなことはない。
 人は誰でも、意外と狭い世界で生きている。どの世界でも得られるものはよく似ていて、自分がいるところで学べばいい。
 大切なのは、学んだことをどう活かすかだ。どんな形であれ、世界に還元できればそれでいい。
 きれいな世界に生きなければ知ることができないこともたくさんある。
 好きこのんで汚れる必要もない。
 この世界の良い面をよしとしたい。

 2010年1月6日(水) 「最後に笑えるように」

 格好悪いことは必ずしも悪いことじゃない。
 ただ、格好悪さには二種類ある。必死すぎる格好悪さと、恰好をつけて結果的に格好悪いのと。
 どちらが悪い格好悪さかは言うまでもない。
 自分の言動に言い訳しないことだ。悪びれたら負けになる。
 たとえ間違った信念に基づく間違った生き方だとしても、上手く立ち回って小狡く生きるよりはいい。
 自分一人の人生が失敗だったからといって世界が困るわけでなし、少ない可能性に賭けて信念に殉じればいい。
 格好悪くても、間違ってしまったとしても、納得できれば、最後は笑ってさよならできる。

 2010年1月5日(火) 「心を動かすこと」

 感動というのは心が動くこと。
 人の世においては、あらゆることで心が動くことが大事なことだ。
 心が動かなければ楽しくないし、生きている喜びもない。
 五感で得られる感動は、自己と他者との対面から生まれる。
 対象こそが大切な存在で、他者に対して自覚的でなければならない。
 日々の暮らしの中で、自分の心を動かすためには何が足りないのかを考え、認識することが第一歩となる。
 遠い世界の絶景を見に行かなくても、音楽を聴いたり、スポーツ中継を見て感動することもできる。そのことを当たり前のことと思わない方がいい。
 心を動かすことが生きていることの意味で、感動は財産になる。
 広い世界を見て、世界の人たちと交流することができれば、それに越したことはない。
 そして、自分も誰かの心を動かすことができる人間にならなくてはいけない。
 恩に報いるというのはそういうことだ。
 明日、心を動かすために何をすればいいのか、もう一度考え直したい。
 自分を感動させることを怠けてはいけない。

 2010年1月4日(月) 「心磨き」

 正直であることと、露悪的であることは違う。
 嘘をつかないことがいつも正しいとは限らない。
 全員が素っ裸で生きるわけにはいかない。隠すべきところは隠すべきだ。
 ただ、素直であることはとても大切なことで、どんなに間抜けに見えたとしても、謙虚で真っ直ぐであることに勝る美徳はない。
 飾り立てることなく、露悪的にもならず、ありのままであるためには、心身共に身綺麗である必要がある。実はそれが一番難しいことかもしれない。
 汚れた心は、よく洗って、しっかり磨くしかない。たとえ削れて中心の小さな部分しか残らなかったとしても、それが自分の本体というものだ。

 2010年1月3日(日) 「幸福は相対的判断だから」

 世の中には自分が思い描くよりも幸せなことがあって、自分には想像ができないくらいの不幸なこともある。
 幸せが足りないから不幸なのか、不幸ではないから幸せなのか、結局のところ、解釈の問題でしかない。
 幸福や不幸に絶対はなくて、いつも相対的なものだから、測る基準で気持ちは揺れる。
 幸福と不幸を超越して悟ってしまえば楽になれるのだろうけど、それはそれで面白くない。
 私たちは、死ぬまで幸福だ不幸だと一喜一憂しながら過ごしていくしかないのだろう。
 あなたは今、幸せですか、という問いかけに、うーんと3秒くらい考えてしまうくらいでちょうどいい。

 2010年1月2日(土) 「ココニイルコト」

 忘れていた大切なこと。
 ココニイルコト精神。
 HPを始めて10年以上が経った。
 たくさんの人との出会いがあり、別れがあった。
 再会を約束したわけではないけど、また言葉を交わしたい人たちがいる。好きだった人や、心に残る言葉をくれた人。
 その人たちが戻る場所があるとすれば、ここしかない。私はここにいなくてはいけない。
 私にとってネットのホームはこの場所だ。ここは私自身が帰る場所でもある。
 PCや環境が変われば昔のアドレスも失われてしまう。なくしたアドレスは検索ではたどれない。HPなら手がかりはある。
 ネット上の同じ場所に居続ければ、いつか再会は叶うかもしれない。
 私は昔も今もココニイル。
 みんな元気にしてるだろうか。


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