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 2009年12月23日(水) 「イメージできれば勝ち」

 まず初めにイメージする力が大事となる。
 それを裏付け、証明するのは後追いでやることだ。
 想像力がないと、現実で起こることしか理解できず、現実の向こう側にいけない。
 正しいイメージさえ持つことができれば、それを実現することは難しくない。少なくとも筋道はできる。
 あとは時間をかけて現実化していく作業となる。
 イメージを育てるのが実践と経験で、その積み重ねで人は成長する。
 イメージを持たなければ現実に対して受け身となり、偶然頼みになる。
 イメージすることで必然を呼び込むことができる。

 2009年12月22日(火) 「幸福ではないこと」

 生き物の中で、人間だけが幸福を求める。
 人はそれを自分たちの脳が発達しているからだと思っているけど、本当にそうだろうか。
 自らが作り出した幻想に踊らされているだけではないのか。
 幸福が必要だなどと誰も言っていないし、決まり事でもない。
 幸せを求めすぎることで不幸を生み出してしまっている。争いごとは利害関係によって起こる。
 では、幸福以外に人は何をもって向上心へとつなげられるだろう。
 みんながみんな研究者や求道者になれるわけではない。
 幸福というのはそもそも、虐げられた庶民が苦し紛れに発明したものと言えそうだ。
 不幸があったからそれを打ち消すための幸福が必要になったわけで、幸福の概念が生まれたのは思ってるより遅いのかもしれない。
 幸福などいくら追求しても満足できるわけはないのだから、追いかけているうちはいつまで経っても真の平安は訪れない。
 究極は不幸でも幸福でもない状態だ。
 でもそれは幸不幸の概念を捨てろというのではなく、不幸も幸福も超えて、向こう側へいくということだ。それが悟りというもののはずだ。
 考えようによっては、動物たちはみんなとっくに悟りを開いていて、人間だけが煩悩に苦しむ後進生物だという見方もできる。
 幸福でも不幸でもない状態は安定した良い状態だ。無理に幸せを追いかけることはない。

 2009年12月21日(月) 「まだ始まったばかり」

 この先人類が100年生き残るために何をすればいいのか。
 千年、一万年、百万年と考えたとき、何を想像できるのか。
 生存というだけなら惰性で生きて、駄目になったらあきらめるというのでもいいとして、もっとはっきりとした目的意識があるのなら、全員の共通認識が必要となる。
 一つ、絶対的に重要なキーワードは宇宙だ。
 地球人にとってほぼ未知に近い広大な宇宙との関わりなしに未来は語れない。鎖国をしていた幕末の日本のようなものだ。
 地球が本当の意味で宇宙の一員となって、新たな歴史が始まったあとのことを思うと、まだまだ先は長いと茫洋とした気分になる。
 これまでの人類の歴史は、小さな子供が公園で遊んでいる中で起こる出来事程度のものかもしれない。
 何しろ宇宙は広いのだ。

 2009年12月20日(日) 「善は今から」

 やる気になりさえすればできることと、時期が来ないとできないことと、どんなに頑張ってもできないことと、できないことにも段階というものがある。
 誰もできないことをやれとは言ってない。やれることをやれと言っているだけだ。
 やれるのにやらないのは単なる怠惰で、言い訳はきかない。
 やれることから一つずつやっていくことで道がひらけることもある。
 時間不足は理由にならない。優先順位を変えればいい。
 まずは、やれないことは自分のせいだと認めることから始めなくてはならない。
 明日からと言わず、今日の今からやるべし。
 自分を自分の弱さの被害者にしてはいけない。

 2009年12月19日(土) 「贈りもの」

 この世界が自分に与えてくれているものに対して、自分が何も返せていないのが、もどかしくて、心苦しい。
 ペイフォワード精神を発揮するとして、私は誰に何の贈りものをすればいいのだろう。
 恩返ししているという実感がなければ、自分の存在に確信が持てない。
 贈りものは自己満足じゃいけないし、相手が欲しているものをあげるだけでは能がない。
 まずは自分が与えてもらっているものをしっかり認識する必要はある。

 2009年12月18日(金) 「神への共感」

 この世界に対する神の気持ちに共感することができたら、世界の愛し方も、自分の生き方も見えてくるはずだ。
 神の視点になることは傲慢なことではない。
 許し難きことを許さなければならないとしたら、自分はこの世界に対して何ができるだろう。

 2009年12月17日(木) 「別の人生」

 今とは別の人生が用意されているとして、今の人生をすべて捨てられるかといえば、判断は難しい。
 それがどんなに恵まれた人生だとしても。
 今の人生を捨てきれないというのは、自分が思っている以上に恵まれているのかもしれない。

 2009年12月16日(水) 「焦点の自覚」

 日記を書くことと、写真を撮ることで、自分は何に興味があるのかが分かってくる。
 同時に、何に興味がないかも。
 人は見ているものしか見えないし、感じていることしか認識できない。
 視覚と意識がフォーカスしているところにしか気づいていない。
 他人の日記や写真を見ることでそれはよりはっきりする。何に興味があって、何に興味がないか。
 興味の対象を自覚することで、広げることも深めることもできる。
 自覚的に日々を過ごすことが大切だ。
 見ること、感じること、考えること、行うこと。どこかが欠けてもサイクルは不完全なものとなる。
 感動するために生き、共感することで他人や世界とつながることができる。

 2009年12月15日(火) 「前進感さえあれば」

 毎日が同じことの繰り返しのように思えてもそうじゃない。
 同じところをループしているわけではなく、らせんを描きながら前進しているのだから。
 毎日起きることは微妙に違っている。世間話の内容も少しずつ違うし、観ているテレビ番組も同じようでいて違う。
 日々新たに知ることもたくさんある。
 毎日を虚しく感じるとすれば、それは前進感の不足だ。視界に何もない大海原を手こぎボートを漕いでいても、前に進んでいるような気はしない。
 虚しさから逃れるためには目標が必要だ。それは、かりそめでも、幻影でもかまわない。進む方向さえ分かっていて、距離が縮んでいる実感さえあれば、虚しさもなんとか耐えられる。
 目標なんて誰も与えてくれないのだから、自分で探して見つけるしかない。
 毎日すべきことは、目標との距離を縮めることだ。それさえ怠けてしまうと、もはやどんな言い訳もきかなくなる。

 2009年12月14日(月) 「臆病者の勇気」

 臆病な人間が勇気を出して恐怖に立ち向かうことに価値があるのであって、無鉄砲な人間が無謀な戦いを挑むことが偉いわけじゃない。
 レーサーでもボクサーでも、元来臆病な人間がチャンピオンになるとされている。
 自分の中の恐怖心に打ち克つことで、大胆さと繊細さを併せ持つことができるようになる。
 恐怖を知らない勇敢なだけの人間は、危険を察知することができずに自滅する。
 臆病であることを恥じる必要はない。
 ただ、戦うべきときに逃げ出すのは恥ずかしい。
 自信を持つことと過信。謙虚であることと小心。
 何事も加減が難しく、いい加減であることが大切だ。
 負け戦で散るか、逃げるか、その正解も結果論でしかない。
 勝った者が強い、ということになるだろうか。

 2009年12月13日(日) 「完全なる正気は壊れるだけ」

 完全な覚醒状態で生きながら正気を保つことは難しい。ほとんど不可能に近いかもしれない。
 人は誰もが多かれ少なかれ正気をなくしている。自分は完全に正気だと言い張る人間が一番危うい。
 自分の中にある狂気は必ずしも敵ではなくて、上手くつき合って、利用していけば通常以上の力を発揮する役に立つ。
 正気を保つために、人は逃げる。酒だったり、仕事の忙しさだったり、恋愛だったり、趣味だったり。
 それは仕方がないことで、必要なことでもある。
 自分の精神は自分でなんとかするしかなくて、宗教でも薬でも治してはくれない。
 精神的逃避は生きていく知恵のようなものだ。真面目に生きればいいというものでもない。
 正気と狂気の間で揺れながら、自分なりのバランスを見つけていくしかない。どちらにも偏りすぎないように。

 2009年12月12日(土) 「追いかける背中があるのなら」

 人は他人と自分とを上下で比較するけど、実際は前後の差があるだけの場合が多い。
 階層が違っているのではない、成長度が違うだけだ。
 たとえば、百年、千年、一万年と、遡れば遡るほど相対的に我々は優れているということになる。
 100円ライターを持って邪馬台国にタイムトリップすれば、卑弥呼に代わって王になれるくらいだ。
 江戸時代に行ったら、私たちは天才としてもてはやされる。
 けど、過去を生きた人々と自分を比べて、人間として上かといえばそうではない。現在を生きる人々との相対関係も同じことだ。
 目指すべきは上ではなく前だ。上ばかり見上げていると、足元もおぼつかず、スピードも上がらない。真っ直ぐ前にある目標を見据えて、ただ進めばいい。
 マイペースでは駄目だ。それでは先行している人に追いつけない。急がなくてはいけない。
 目標とする背中があるなら、追いつけなくても近づくことはできる。
 挫けずに追いかけ続ければ、気づいたら自分が先頭に立っているということもあるだろう。

 2009年12月11日(金) 「非難より意見を」

 正論は読んだことがある名作のようにもう知っている。だから、人から教えてもらわなくてもいい。
 分かっていることをもう一度説明されても、得られることはほとんどない。
 建設的な意見なら歓迎したい。耳が痛くても、耳を傾けなくてはならない。
 批判は相手を思いやってするべきことで、自分の気に入らないという怒りの感情をぶつけるものではない。
 愛のない批評はただの非難で、そんなものはありがたくもなんともない。
 怒ることと叱ることの区別がついていない人が多い。怒ることは自分本位なことで、叱るのは他人本位のものだ。まったく違うものだという認識が必要だ。
 誰だって一人で頑張るのは難しくて、他人の批評や意見がなければ軌道修正もなかなかできない。
 互いに責め合うのではなく、励まし合って、どうにかやっていくしかない。

 2009年12月10日(木) 「翼があれば」

 翼を手に入れたら、人は飛ばずにはいられない。
 怪我をして保護された野生動物は、怪我が治れば野生に戻っていく。
 人は、ふとしたきっかけで、空を飛んだり、駆け出したりすることがある。
 自分はゆく側になるか、見送る側になるか。
 いずれにしても、最後は宿命に逆らいきれないらしい。

 2009年12月9日(水) 「自分が最後の砦」

 自分や、自分のやっていることが誰にとっても価値のないことだったとしても、自分のすることを自分が楽しめているのなら、生きる意味はある。
 それはぎりぎり最低のラインかもしれないけど、ぎりぎりセーフだ。アウトじゃない。
 最後の最後まで、自分だけは自分を見放してはいけないのだ。自分を見限ってしまったら、自ら死刑宣告をすることになるのだから。

 2009年12月8日(火) 「夭折できなければ」

 見ること、感じること、考えること、実践すること。
 そういったサイクルでぐるぐる回していって、積み重ねた先に、見えるものがある。
 実行するだけでは学習不足になるし、考えるだけでは身につかない。
 学力を上げるために、予習をして授業を受けて復習をしてテストをするというサイクルは、理にかなっている。
 ある程度の時間をかけないと本物は生まれてこないということを、最近実感している。
 片手間じゃ駄目だし、上手く反応できてもその場限りになりがちだ。
 偶然や幸運に見えることも、その裏には積み重ねたものがある。
 すべてを必然だとは思わないけど、必然的帰結に持ち込むことは意義がある。
 単純に言えば、努力して結果が出た方が嬉しいということだ。楽をしてたまたま幸せになれたとしても、それはもろくて危うい。
 最初から上手くできることよりも、練習して上手くなった方が喜びは大きい。
 若き天才として生まれついたのでなければ、長生きして成長する道をいくしかない。
 自分は大器晩成型なのだと言い聞かせながら。

 2009年12月7日(月) 「好きなこと」

 自分の好きなことを夢中でやっていたら、絶望している暇などあるはずがない。
 寝たり食べたりする時間ももったいないくらい何かに打ち込むことができたら、それはとても幸せなことだ。
 逆に言えば、人生の中で自分が本当にのめり込めるものを見つけられないことは不幸だということになる。
 足りないのは、力でも、思いでもなく、好きという気持ちだ。
 もっと好きになれば、もっと全力を出せる。好きなことは努力が苦労ではなくなる。好きという気持ちが本物なら、たいていの苦難は乗り越えられるはずだ。
 生きていく上で幸せの素となるのは、好きという気持ちに他ならない。

 2009年12月6日(日) 「毎日が特別な日になるように」

 どの日も毎日、あれから一年という日なわけだけど、すべての日が特別というわけではもちろんなくて、年に数日、感慨深い日がある。あれからもう一年か、と思う日が。
 記録は変わらなくても記憶は変わる。
 幸福な記憶が歳月を経てかえってつらくなることもあるし、つらい記憶が年々やわらいでいくということもある。
 10年前の今日、何をしていたのかは、もう思い出せない。
 来年の今日、自分がどこで何をしているのかも分からない。
 生きていれば思い出深い日も増えていく。
 刻んだ記憶が薄れていくこともある。
 過去の記憶は大切な宝物だ。でも、毎日眺めて楽しむようなものでもない。
 明日のために今日という日に何を刻み込めるかが大事で、特別な日がたくさんある人生が良い人生なのだろう。
 未来の自分に対して、今の自分は何ができるのかを、もう一度よく考えたい。

 2009年12月5日(土) 「正義vs.正義」

 この世界は、正義と悪との戦いではなく、正義と正義との戦いなのだ。
 宗教戦争がその典型的な例で、どちらも正義といえば正義だし、両方間違っているといえば間違っている。
 正義と悪の勧善懲悪が成り立つ世界なら、事態はこんなにも複雑なことになっていない。
 誰もが自分こそが正しいと言い張るからもめることになる。
 じゃあ、両方が譲り合えば上手くいくかといえば、それほど単純なことでもない。
 結局のところ、正義の戦いで負けた方が悪ということになる。
 正義を主張するなら強くなくてはならない。勝負に負けたら終わりだ。後世の人に同情されても慰めにはならない。
 自分の正義を主張しない生き方もあるけど、自分の正しさを最初から放棄していいものか。

 2009年12月4日(金) 「楽しいだけじゃ駄目だけど」

 自己肯定と自己否定の振り子が大きく揺れて、その振り幅に自分自身が翻弄されている。
 このままではいけないと自己嫌悪したり、命があるだけで充分と自分を慰めたり。
 何にしても、自分のせいで毎日を本当に楽しめていないのがよくない。
 居直るのはよくないけど、考えるところは真剣に考えて、楽しむところは心底楽しまないと。
 切り替えとメリハリが大事だ。
 自分を肯定することも否定することも、間違ってはいない。どちらも明日につなげていければ。

 2009年12月3日(木) 「泣き笑い」

 涙がじわっと溢れそうになる奇跡のような出来事がときどきあって、人はそのときこの世界の本質に触れた気がして、泣き笑いの中で人生を許そうという気になるのだろう。
 絶望は決して到達点ではないから、絶望を結論としてはいけない。
 最後に笑うためには、力尽きて倒れる必要がある。力を出し惜しみしたら未練が残る。
 明日という希望に触れるために今日を生き延びる価値がある。

 2009年12月2日(水) 「無駄であって無駄じゃないこと」

 無駄を省くというのは確かに必要なことなのだけど、あれもこれも無駄と言い出したら、この世界のすべてが無駄ということになってしまう。
 人は死ぬために生きていて、地球も宇宙もいつかは終わって消えてしまうのだとしたら、最初から何をしても無駄という理屈になる。
 でも、実際はそうじゃない。無駄は無駄でも無意味ではないことも多い。
 学校の勉強の多くが社会では役に立たないから無駄というけど、そんなことはない。理科や物理や古典だって、生きていく上でどこかで役立つものだ。
 人生は必要なことだけやっていればいいというわけではなくて、遊びもしないといけないし、嗜好品だって不可欠だ。趣味やつき合いだって無駄じゃない。
 じゃあ、あらゆることが無駄じゃないかといえばそうとも言えない。時間もお金も無尽蔵にあるわけではない。
 第一は優先順位を間違えないことで、あとは自分のため、世の中のためになるかどうかの見極めということになる。
 自分にとっての投資になるなら、それは無駄であって無駄ではない。
 欲望に流されず、立ち止まって考えてみることもしなくてはいけない。
 無駄を無駄と意識してあえてやるか、無自覚に無駄遣いをするかの違いでもある。
 時間の無駄遣いだけはなるべくしないようにしたい。

 2009年12月1日(火) 「暗闇ノムコウ」

 暗いトンネルを抜けた先にあるのは、光だけじゃない。
 人がいて、歓喜の歌がある。
 だから、闇に負けてうずくまらず、心を奮い立たせて、暗い中を進まなくてはならない。
 ひとりぼっちで暗闇に飲み込まれないように。

 2009年11月30日(月) 「静かな夜」

 今夜は特別静かに感じる。
 こんな夜に、悲しみを悲しめるのは、幸せではないにしても、贅沢なことだとは思う。
 夜の静けさは、孤独が発する音にならない音なのかもしれない。

 2009年11月29日(日) 「昨日と今日の間に」

 昨日と今日との連続性を人は信じすぎる。
 昨日と今日の間には断絶があることを知らなくてはいけない。
 昨日まで楽しかったことが今日も楽しいとは限らないし、昨日まで上手くいっていた関係が今日も変わらず続くと思い込むのは危険だ。
 毎日は新しい一日だから、毎日新たに世界や自分を捉え直す作業をする必要がある。
 今日の自分は本当に昨日と同じ自分かどうか。
 眠っている間も世界は動き続け、眠っている間に自分の中で何かが動いている。
 何も変わらずにはいられない。
 昨日までの自分を信じすぎてはいけない。

 2009年11月28日(土) 「人為的実感」

 生きていく上での苦痛を喜びに変換するキーワードは、成長と達成だ。
 人生は案外ぼんやりしたものだから、状況に流されているとあまり手応えがないまま時間だけが過ぎる。
 成長の実感や達成感は、生き甲斐につながる。何かを達成すれば、苦労した甲斐があったと自分を慰めることができる。
 だから、毎日の生活の中で、成長できることをやることが大事になる。
 仕事に限らず、趣味でも遊びでもかまわない。
 生きている実感は、自分で作り出すしかない。誰かが与えてくれるものではないから。
 たとえそれが幻想であったとしても。

 2009年11月27日(金) 「2012年」

 1999年のときは、個人的にも世界の大きな変革を求める気持ちが強かった。そこに救いを求めてさえいた。
 2012年は変化を欲しない気分だ。
 自分自身の状況が変わったというよりも、感情的な部分での変化が大きい。
 あの頃、自分と世界は遠い感じがしていたけど、今はもっと近しく思っている。この世界に愛着が湧いているから、壊れて欲しくないと思う。
 人も世界もずっと変わらずにはいられないけど、長い歳月をかけて築いたものが崩れてしまうのはもったいない。
 まあしかし、地球がそう簡単に滅亡することはない。予言は常に大きな変化を警告しているだけで、滅亡すると言ってるわけではないから。
 あと50億年もしたら太陽が爆発して地球には住めなくなってしまうけど、その頃には人類もなんとかするだろう。
 終末論というのはいつの時代にもあって、日本ではそれこそ卑弥呼の時代からあった。世界中に同様のものがいくつもある。
 それらはこの世界を生きる人々の行き詰まり感が生む気分だ。想念と言ってもいい。予言があって人がいるのではなく、人がいて予言が生まれる。予言というのは金にもなるから、それで一儲けしようという人間も出てくる。
 終末思想は、ヒーロー待望論の裏返しのようなものだ。何もかも一度ひっくり返してもらってやり直したいという気持ちが根底にあって生まれてくる。
 結果的に2012年に地球がひっくり返るような天変地異が起きることはないだろう。悪い予兆はすでに起きているといえば起きている。
 恐竜も一夜にして姿を消したわけではなく、長い時間の中で最終的にいなくなった。
 なんにしても、脅しめいた予言話に踊らされることはない。あと2年しかないから、もう貯金全部使ってしまえなんてなんて考えちゃいけない。地デジだって2011年で完全に切り替わらないだろうから、ブラウン管のテレビを捨てるのはまだ早い。

 2009年11月26日(木) 「ぎりぎり落ちないこと」

 自分の可能性が信じられるうちは、なんとか毎日少しでも前進、向上するようにやるべきことを続けていくしかない。
 それで許されるとは思わないし、救われるわけでもないだろうけど、慰めや言い訳にはなる。
 自分は何をしたいのか、何を認められたいのかだけは、はっきり自覚しておく必要がある。
 結果が出なくても、ぎりぎりのところで踏みとどまれるように。
 足元の道は、踏み出した先から崩れていく。奈落の底に飲み込まれたくなければ、逃げ続けるしかない。

 2009年11月25日(水) 「ラッキー続き」

 いいことがないことがアンラッキーなのではない。
 悪いことが起きないことがラッキーなのだ。
 よくないことがあっても、それはアンラッキーじゃない。当たり前のことだと思わなければいけない。
 感謝というのは、何かがあってからだけではなく、先回りしてすべきことでもある。
 今日も無事に生き延びたなら、それはとてもラッキーだったと思い知らねばならない。
 ここまで生きてこられたのは、ただラッキーが続いただけだ。

 2009年11月24日(火) 「4つのき」

 川沿いの山道、三脚を肩に担いで3時間歩きながら思った。
 いい写真を撮るには4つの「き」が必要だ、と。
 元気。根気。早起き。狂気。
 自分にはすべてが足りない気がした。

 2009年11月23日(月) 「運命以外の道」

 運命というのは魅力的な響きを持った言葉だ。
 けれど、運命が必ずしも人を幸せにしてくれるとは限らない。
 運命の人に出会ったことで無駄に命を落とすことだってあるし、成功がより大きな不幸をもたらすこともある。
 むしろ、運命から自由でいられるなら、その方が幸せなのかもしれない。
 だとすれば、何も起きない毎日を嘆くことはない。

 2009年11月22日(日) 「心が動く写真って」

 もっと心が動く可能性があるのに、イメージの中だけにとどまって、実現に至っていない。
 それは自分のせいでもあり、それだけでもない気がしている。
 自ら体感するよりも、表現したい気持ちの方が強い。
 幸せ家族を演じるよりもそれを撮った方が自分の心は動くと思うのは、間違っているのか。
 今は言葉よりも写真に可能性を求めたい気分になっている。
 心が動く写真とはどういうものだろう。

 2009年11月21日(土) 「心にエネルギー補給」

 悲しみや苦しみ、喜びも、飲み込んで、消化して、明日を生きるためのエネルギーに変換していかなければならない。
 幸福は栄養剤だけど、主食にはならない。幸福だけをエネルギー源としていたら、すぐに空になって止まってしまう。
 不幸もエネルギー源にはなるけど、黒い煙を吐くような生き方になる。
 毎日ごはんを食べなくてはいけないように、心にも常にエネルギー補給が必要だ。そのためには感動したりして、感情を動かさなくてはいけない。
 惰性で走るような日を作らないように。
 燃費効率なんてことを考えながら生きてはいけない。

 2009年11月20日(金) 「いつだってぎりぎり」

 いつもぎりぎりまで追い詰められている。
 昔からずっと変わらない。
 追い詰められていないときは、追い詰められていることを忘れているときだけだ。
 状況は常に悪化している。
 ぎりぎり感に慣れてしまっていることに危険を感じる。

 2009年11月15日(日) 「運命は当てにならない」

 人生は一瞬にして暗転することがあるし、一夜にして脚光を浴びることもある。
 先々に何が起こるか分からないから怖くもあり、面白くもある。
 運命や宿命があったとしても、意識の上ではあまり関係はない。あってもいいし、なくてもいい。
 この世界に意味があろうがなかろうが、大した違いはない。
 確かなのは、自分が認識している世界と、時間の流れだ。
 もちろん、認識の外にも世界は存在しているのだけど、直接的な関わりがなければ存在していないのと同じことだ。
 人の人生は、自力と他力と両方の作用で動いていて、自分でなんとかできることと、できないことがある。
 自分の力だけですべてどうにかなるというのは思い上がりだし、他力本願で何も努力しないというのは正しい姿勢とは言えない。
 やることをやって、あとは身を委ねるということになるのだろうけど、そのあたりの割り切りもなかなか難しいことではある。
 運命を当てにするとろくなことはない。けど、運命を侮ると痛い目に遭う。
 運命を神と言い換えてもいい。
 この世には、人智を越えた力が確かにある。
 上手く折り合いをつけられるとよいのだけど。

 2009年11月14日(土) 「始めるために終わらせる」

 物事の終わりは悲しく、その痛みが記憶となり、恐れへとつながる。
 だから、このままずっと終わらないで欲しいと願う。とっくにもう終わっていたとしても。
 けど、終わりは始まりでもある。古いものが死に、新しいものが生まれる。終わらなければ始まらない。
 終わりを悲しむのが人情だけど、新しい始まりには希望もあることを忘れないようにしたい。
 今日が終われば明日がやって来る。今日はもう終わってしまった楽しいことも、明日になればまた味わうことができる。
 前進することは、終わらせていくことだ。
 捨てられるものは捨てて、勇気を持って新たな一歩を踏み出さなければならない。

 2009年11月13日(金) 「思えば遠くに」

 下校中じゃれあう中学生が小さな子供に見えたとき、流れた時間の多さにたじろぐ思いがした。
 昔、気がついたら甲子園球児が年下になっていたときのようなものではない。
 中学生になったときは、もうほとんど大人に近いと思っていたけど、それがどれだけ大きな錯覚かを中学生に説明するのは難しい。
 昔が懐かしいわけでも、戻りたいわけでもなくて、人生というのはこんなにも遠くへ来るものなのだという感慨を今味わっている。
 これでもまだ半分と思うと、気が遠くなりそうではあるけど、あとの半分でもっと遠くまで行けると考えると楽しみではある。
 あと30年も生きれば、30、40も小僧、若造に思えるのだろう。

 2009年11月12日(木) 「自由は思うほどいいもんじゃない」

 不自由というのは手枷足枷だけど、それはこの世界に自分をつなぎ止めてくれる鎖のようなものでもある。
 もっと自由になりたいと願い、鎖を一つずつ断ち切ってしまうと、それだけこの世界とのつながりが弱くなる。
 天涯孤独になれば縛られることからは解放されるけど、それが求める自由ではないはずだ。
 だから、人は不自由さの中で、心の自由を見つけなければならない。
 孤独の中で自由を手にしても、どこへも行けない。
 真の自由と解放は違うことを知る必要もある。

 2009年11月11日(水) 「自虐的が生きる知恵」

 苦しみを生きている実感に。
 悲しみを人生の愛おしさに。
 死に逃げ込んではいけない。
 生を終わらせることですべての問題が解決するわけではないから。
 自虐の喜びを会得しなければ、生きることを喜びとするのは難しい。

 2009年11月10日(火) 「いいけど駄目」

 別にいいんだけど、本当はよくない。
 今はそんな感じ。
 仕方がないけど、仕方がなくもない。
 やるべきことをやっているような、まったくやっていないような。
 このままではいけないと思いながら、日々の上を滑っていく。
 自分の足で歩いているようで歩いていない。時間に運ばれているだけといえばそうかもしれない。
 とにかく今は勘弁してと頼んで、待ってくれるのかどうか。

 2009年11月9日(月) 「自分の限界まで偉くなること」

 人がどんなに偉く見えても、比較して自分を卑下する必要はない。
 この世界は偉さを競う大会じゃないから。
 ただ、偉くあるべきだ。それはもう、理屈ではない。
 人は自分のできる限り偉くなってみせる必要がある。それが自己実現というものだ。
 人にはそれぞれ能力と限界がある。どこまでその能力を引き出せるかは自分にかかっていて、限界を超えていくことが目的となる。
 偉くなくてもいいと思うことは、自分自身を否定することだ。
 今日よりも明日、明日よりもあさって、もっと偉くなりたいと思わないといけない。
 客観的にも、主観的にも。

 2009年11月7日(土) 「心のクラッシュアンドビルド」

 破壊と再生は、自然界や街だけでなく、人の心の中でも起こる現象だ。
 もう駄目だと思い、また頑張ろうと思い直す。
 それもまた、クラッシュ・アンド・ビルドに違いない。
 そうやって、人の心は生まれ変わり、命脈を保ってゆく。
 筋肉は、一度負荷をかけて組織を壊し、超回復させることで以前より大きくなる。
 心にも同じことが言える。傷をつけないように守るより、傷ついて超回復した方が強くなる。
 死滅や破壊は必然で、死は新たな生へとつながってゆく。
 絶望と希望を折り重ねながら高みを目指す。
 気持ちが折れてもいい。少し休めばまた進める。
 再び生まれ変わることが命をつなぐことだ。死が行き止まりではない。

 2009年11月6日(金) 「状況判断と変化への対応」

 状況は常に変化している。
 目に見える部分でも、見えないところでも。
 人は変化を求めながら変化を厭うものだけど、変化を止めることはできない。
 だから、変化を嘆くよりも、目の前の状況に対応することを考えるしかない。
 状況を変えるために戦うことも大事だけど、頭から否定するのではなく、いったん受け入れる必要がある。
 その上でどう状況に対応し、どの部分を受け入れないかを決めればいい。
 非日常も続けば日常になる。
 一年前を振り返ってみると、現在とは習慣も違っている。
 信念を曲げないことと、臨機応変に対応することは両方必要で、どうにか両立させていくしかない。

 2009年11月5日(木) 「ネクスト」

 失敗をしないことが大事なのではない。
 失敗を糧に成功へとつなげることが大切なのだ。
 間違いを犯さないことばかり考えていると、小さく縮こまってしまう。
 無謀すぎるのはよくないとしても、積極的な失敗を恐れない勇気は必要だ。
 生きている限り、失敗は取り戻せる。
 やってしまったことをなかったことにはできないけど、積み上げられるのが人生だ。
 起こってしまったことは仕方がない。次に何をすべきかを考えることだ。
 ピンチで追い込まれたときこそ、その人間の真価が表れる。

 2009年11月4日(水) 「自分を説得するのも仕事」

 物事が思い通りにいかず投げやりな気持ちになることがあるけど、投げやりになって損をするのは自分で、誰の得にもならない。
 だから、どうでもいいなんて思ってはいけない。どうにか粘って、投げやりになりそうな心を抑え込むことだ。
 謙虚で前向きであることが、自分を守る一番よい方法なのだと、自分に言い聞かせるしかない。

 2009年11月3日(火) 「勝っても負けても勝負」

 この世界は勝ち負けじゃないといえばないし、勝ち負けはあるといえばある。
 勝ちか負けかという単純な色分けではないにしても。
 勝ち負けの世界から逃げてしまえば楽になれる。けど、そうすれば勝つことで得られる歓喜も手放すことになる。
 負ける悔しさを経験するから、もっと頑張りたいと思えるということもある。
 勝った負けたと一喜一憂するのも馬鹿らしいと言ってしまえばそうだけど、勝負にこだわることの大切さもある。
 勝ち負けがすべてじゃないと言えるのは、真剣に勝負をした者だけだ。
 目の前に勝負があるなら、まずは戦ってみなければ始まらない。
 勝つことと負けることの意味は、自分で経験しなければ分からない。

 2009年11月2日(月) 「甘んじるか甘んじないか」

 今自分が置かれている現実が分相応だとしても、それ以上の高みを目指していけないわけではない。
 今以上を求めることは危険を伴うことではあるけど、今に甘んじてしまえば今以上のものが得られることはない。
 人は無限の可能性など持っていない。ただ、自分が持っている可能性のすべてを引き出している人間はほとんどいない。埋もれている部分がたくさんある。
 普通の幸せに満足してもいいけど、それを手に入れたらアガリというわけではない。
 いったん現実と折り合いをつけても、また理想を追いかける自由もある。
 日々の暮らしの中で、人は自由度の高さを忘れている。もしくは、考えないようにしている。
 結局のところ、やれるかやれないかではなく、やるかやらないかで人生は決まるということだろう。
 普通以上のものを求めるなら、普通以上のことをやらないといけないのは当たり前のことだ。

 2009年11月1日(日) 「感動のために」

 これまで心が動いた出来事はすべて、胸の奥の宝箱にしまわれていて、それが生きた証であり、財産でもある。
 ときどき取り出して眺めてみることができるのも、ここまで生きてきたからだ。
 生きる上で一番大切なことは何かといえば、感動ということに集約される。
 遊びも仕事も恋も、人と人との関係も、そこに感動があるから追い求めずにいられない。
 人は感動するために生きていると言っていい。だから、感動を求めなくてはいけない。
 感動は待っていてもやって来ない。こちから迎えにいかなくては。
 感動するためにお金と時間は使うべきで、それが明日自分がなすべきことだ。

 2009年10月30日(金) 「次の一歩が見えているか」

 目標を持つことと、夢を見ることを混同するのは危険だ。
 夢はときに人の心を蝕み、人生を大きく狂わせる。
 目標に向かって努力することはよいことだ。目標が間違っていることもあるけど。
 夢と目標の違いは、次の一歩をどうすればいいか分かるかどうかと言っていい。
 目標から目をそらさず見つめ続けることが大切で、目を閉じて思い描く夢に溺れてはいけない。
 とにかく一日一歩を心掛けること。
 大事なのは、辿り着くことより近づくことだから。

 2009年10月29日(木) 「大事なのは自分の中の感覚」

 幸福と幸福感は違う。
 孤独と孤独感が別物であるように。
 しばしば、状況と感情は一致しない。
 世間的に見たら不幸な状態でも、本人が不幸と感じなければ不幸じゃない。
 誰もがうらやましく思っても、本人が幸福感を感じていなければ幸福とは言えない。
 だから、幸せを求めてはいけないのだ。幸福感を求めなければ。
 まずはその違いをはっきり認識する必要がある。
 幸福の基準は自分が決めるものだから、他人に左右されることはない。
 あとは、どれだけそこに殉じられるかということになる。
 真の幸福は、幸福でも不幸でもなく、そこを超越したところにあるのだろうけど、なかなかそこまではいけない。

 2009年10月28日(水) 「好きなことは苦労も苦労じゃない」

 好きなことだけやって生きていくことは難しいけど、生きていれば好きなことをやれるのだから、できる限りやった方がいい。
 時間やお金の不足を言い訳にしないで。
 好きなことをすることがどうしていいかといえば、好きなことはやること自体が楽しいから、報われなくてもいいところだ。
 人に誉められたいとか結果を出したいなどと思うと、苦しくなって楽しめない。
 多くの人は、好きなことをする努力が足りない。空いた時間の暇つぶし程度にやることは、本当に好きなこととは言えない。それこそ、寝食を忘れて没頭することが好きだと言えることだ。
 好きこそものの上手なれ。好きなことなら頑張れる。
 限られた時間の中でも、もっと好きなことができるはずだ。明日からと言わず、今から始めたい。
 どんとこい、なぜベス精神でいこう。

 2009年10月27日(火) 「可能性を実現させること」

 希望にすがるというと聞こえが悪いけど、言葉を換えれば、可能性に賭けるということだ。
 人は可能性にぶら下がる生き物で、可能性があるから生きていられるところがある。
 可能性がなくなったと感じたとき、人は絶望に負ける。
 自分の中に可能性を見いだせるうちはなんとか耐えていける。
 希望にすがることは間違いではないし、恥ずかしいことでもない。
 今日を生き延びることが明日の可能性につながる。
 可能性を形にすること。
 希望を膨らませること。
 まだ駄目じゃないし、終わってもいない。
 自分が信じない自分を、誰が信じてくれるというのか。

 2009年10月25日(日) 「あちらを立てればこちらが立たず」

 飢餓で子供がたくさん死んでいるアフリカでは自殺者は少ない。
 紛争地区でもそうだ。生きるのに必死なのに、自殺してる場合じゃない。
 豊かな暮らしをしているはずの日本では、年間3万人が自殺している。
 中国はもっと深刻で、200万人を越えるという。

 今、世界の人口が何人くらいで、どういう推移をしているか、知ってるだろうか。
 総人口50億程度だと思ってる人もいるかもしれないけど、いつの間にか増えに増えて、現在68億人を越えている。
 日本では少子高齢化で人口が少なくなっているような気がしているけど、世界でいえばそれは錯覚だ。むしろ人口は爆発的に増え続け、それが問題となっている。
 何しろ一年間の死者が6千万人に対して、生まれてくるのが1億4千万人だから、少々の病気や自殺や戦争があっても減ることはない。

 ここ数年、地球温暖化が盛んに言われるようになって、CO2削減だとかエコだとかうるさい。
 その一方で、地球は氷河期に向かっているということを言う人は少ない。
 通常ならば、地球はこの先10万年以内に氷河期に入り、北半球の大部分は氷に覆われて人が住めなくなるという説がある。現在の南極のようになり、それが10万年ほど続くことになる。
 それが、温室ガス効果によって、氷河期が延期されることになった。皮肉な話だけど、もし仮に地球温暖化が解消されれば、氷河期がやって来るということになる。
 氷河期というのはこれまで何十回、あるいは何百回と起こったことで、地球のサイクルだから逃れることはできない。

 常日頃から感じているのは、報道や世間の論調が一方的、一面的すぎるということだ。
 恣意的にか、無意識的にか知らないけど、悪いことしか言わず、悪いことの一方で起こっていることに言及することが少なすぎる。
 良いことがあれば悪いことがあり、不幸があれば幸福があるのが世の常で、一方的に良いことも悪いこともない。
 世界は絶対ではなく相対的なもので、一つの出来事が反動を生み、周囲に波及していく。
 正義が悪を生むこともあるし、正しい行いが人を傷つけることもある。
 身近な問題を地球規模や宇宙の話にすり替えるのは正しくない論理だとしても、大局的な視点を併せ持つことは必要だし、その上で、現状とどう向き合っていくかを考えることが大切だろう。

 宇宙の星の数を考えれば馬鹿らしくて生きていられないけど、宇宙がどれだけ広かろうとお腹が空いたらご飯を食べないといけない。
 でも、宇宙の広さも知らずに、ただ飯を食らって生きていていいのかとも思う。
 こんなことを考えている間にも、人は死に、人は生まれている。世界のあちこちで不幸な出来事や幸せなことが起きている。
 大切なのは、思いを巡らせることだ。そして共感することが何よりも大事だ。
 たとえ無力で何もできなくても、知っているのと知らないのとでは違うのだということを自覚しなくてはいけない。
 無知は罪ではないけど、無邪気なのは罪深い。

 2009年10月24日(土) 「続けることが次につながっていく」

 サグラダファミリアの主任彫刻家で参加が許されている唯一の日本人でもある外尾悦郎は、あるときこんなことを言った。
 サグラダファミリアは完成させることが目的ではなく、造り続けることそのものが目的なのだと。
 それは、祈りにも似た行為なのかもしれない。
 終わらせることが目的なら、いつまで経っても終わらないことに絶望したり挫折したりするけど、続けることそのものが目的なら、終わらないことは悪いことではなく、むしろよいこととなる。
 人生の目的が死ぬことではなく生き抜くことであるのと同じだ。
 この話は、非常に感銘も受けたし、発想の転換にもなった。
 それ以来、私も続けることを目的としようと思えるようになった。
 これまでやってきたことをこれからも続けること。何かを成し遂げたり、誰かに認められることが目的じゃない。それも大切なことではあるけれど、そこを目指すのはやめにした。
 続けることの意味を問うことはない。やりきったときに意味が分かる。
 サグラダファミリアの完成は2256年頃だと言われている。ガウディが死んでからすでに80年以上の歳月が流れた。
 強い持続の意志は、必ず次につながっていくものだ。

 2009年10月23日(金) 「過去も未来もなくても」

 過去と未来の両方を持っているということは、両親が揃っているように恵まれていることで、決して当たり前のことではない。
 過去があり、未来があって、今があるというのは、とても贅沢なことだ。それだけでもう文句は言えない。
 過去や未来を失うことはたやすい。ほんのささいなきっかけでなくしてしまうことがある。
 未来をなくして生きることは、きっとすごく難しい。人は希望にすがって生きるものだから。
 過去に依存せず、未来を当てにしないで、今を生きるという刹那的な生き方が正しいのかどうかは分からない。
 ただ、前も後ろも暗闇に包まれたとしても、今を生き抜く強さが必要だ。
 私たちは現在でしか生きられないのだから。

 2009年10月21日(水) 「逃げ場所としての好きなこと」

 殊勝な気持ちなんて簡単にポッキリ折れてしまうものだから、自分が本当に好きで頑張れることを持っておくことが大切だ。
 前向きな気持ちが折れたとき、逃げ込めるものがあると助かる。
 好きなことだけでもしっかりやっていれば、やがて気持ちは癒える。
 何もやる気が起きないときこそ頑張れることもある。

 2009年10月20日(火) 「思いついたことは今すぐ」

 今できることは今やっておかないと機会が流れてしまう。
 まあ、いいか、というのはとても危険な思考で、そうやって大事なものを少しずつなくしていく。
 時間は確かに貴重なもの。でも、機会というのはそれ以上に大切なものかもしれない。
 人は怠け心に引きずられがちだから、行動を習慣化するしかない。強い意志を持つなんてことはそう簡単にできることじゃない。
 今思いついたことは今やってしまうクセをつけるのがいい。行動が断片的で支離滅裂になってもかまわない。理路整然と順序立ててやるよりも、常に変化する優先順位に従うべきだ。
 小さなチャンスは無数にあって、多くを逃してしまっている。
 行動の起点は機会だという原理を自覚する必要がある。
 やろうと思ったことはなるべくやっていくようにしたい。
 今日やれることを明日もやれるとは限らない。

 2009年10月19日(月) 「一人じゃないこと」

 人間は結局一人だという考えを結論にはしたくない。
 いったんそこに辿り着いても、そこから再出発したい。
 人が人を求めるのは自然なことだし、それは必ずしも恋愛沙汰に限らない。
 この世界では、人は直接的にも間接的にも支え合いながら生きている。
 誰かに頼ることも間違いじゃない。
 他人とのつながりの中で人は自分を意識する。
 極端に言えば、他人という存在なしに自分は存在しないに等しい。存在は関係性の中にこそある。
 孤独や孤独感は常につきまとうものだとしても、人を求めることをやめたくはない。
 人と人との関わりの中に温もりや喜びや幸福があると信じたい。

 2009年10月18日(日) 「この世界を肯定するための写真」

 写真は記録であり表現でもあるのだけど、写真を撮るという行為は心の深いところから発せられる欲求に基づいてもいる。
 何かを見つけたいと思う。そして、それを眼前に差し出してみたいとも思う。
 表面的な部分で言えば美しさだったり、幸福感だったりだけど、少し大げさに言えば、この世界の真実の断片を掴み取りたいという願いもある。
 この世界とは何なのかという問いに対して、写真によって一つの解答をしてみたい。
 私はこの世界を肯定するために写真を撮りたい。この世界で生きることがもっと好きになれるように。
 日常、非日常を問わず、あらゆる場所は被写体となり得る。真実は細部に宿っているから。
 自分にとってのいい写真というのがどういうものか、ようやく少しずつ分かってきた。

 2009年10月17日(土) 「関係各位への謝意を忘れずに」

 普通に月日が流れていくことの幸せを知らなければならない。
 普通に病死できることさえ幸運なことに違いない。
 人は幸福よりも不幸を特別視するけど、幸せと不幸を比べたら不幸の方が圧倒的に多いのだから、不幸の方がありふれているだ。
 自分の不幸を特別視するのも間違っている。
 だからこそ、不幸じゃないことは貴重なことであり、ありがたいことだと自覚する必要がある。
 不幸ではないことはプラスマイナス・ゼロではなく、すでにプラスなのだ。
 何事もなく一日が無事に過ぎたら、天と地の関係各位に感謝しなくてはいけない。

 2009年10月16日(金) 「やりきった果てにあるものは」

 やるべきことは分かっている。
 それを全部やれたら、偉人になれるんだろうか。
 やりきれないという意味では、半分も8割も同じような気がする。
 やりきれるかどうか、そこに境界線がありそうだ。
 何か一つのことでも、もうこれ以上やることはないというところまでいけたら、向こう側に突き抜けてあらたな景色が見えるんじゃないだろうか。
 一生のうち、一度くらいそんな風景を見てみたい。

 2009年10月15日(木) 「失敗の果てに」

 人生の時間というのは、失敗を重ねるために与えられていると言っていい。
 失敗することで可能性を狭めていって、最終的に成功を浮かび上がらせるのが目的だ。
 いきなり成功に辿り着いてしまうと、それが本当に成功なのかどうなのかの確信が持てない。
 成功というのは、失敗の相対で、失敗を知らなければ成功を知ることができないようになっている。
 だから、失敗することは無駄ではないのだ。むしろ、失敗を恐れて何もしないことが成功を遠ざける。失敗したら、一歩前進したと喜んでいい。
 失敗するためには、新たな試みをすることが必要になる。毎日何かを試みることが大切だ。何もしなければただ持ち時間を失うだけになってしまう。

 2009年10月14日(水) 「不幸は不幸として」

 不幸をより大きな不幸で打ち消そうとするのは間違いだ。
 ときどきそんなことを考えてしまって、あわてて否定する。
 たいていの不幸は死んでしまえば解決するものだけど、死んでしまったら元も子もない。
 生きていく上で生じる問題は、できれば生きているうちに解決してしまいたい。
 あの世があって、死んだあとに宿題が山積みなんてことになるのも嫌だ。
 生きている間は不幸がなくなることはない。だから、上手く不幸とつき合っていくしかない。
 幸せと不幸とのバランスを保っていくことが心の安らぎにつながる。

 2009年10月13日(火) 「納得なんて必要ない」

 あらゆることにおいて自分が納得したいという強い思いがあるけど、世界の側から見れば、おまえの納得など知ったこっちゃないのだということになる。
 納得なしにどうやって決着をつければいいのか、それが今後の課題となる。
 ただ生きて、死んで、自分が消えてしまう現実に対して、何も思う必要さえないというのか。
 この世界の在りようが、まだ腑に落ちない。

 2009年10月12日(月) 「先生の幻影」

 私は先生という存在に飢えていた。
 先生を敬い、慕って甘えて、ときには叱られ、励まされたかった。そういう存在が欲しかった。
 けど、ここまで一人で来てしまった。そのことを悔いてもいるけど、一人でよくここまで来られたという思いもある。
 心の中にアインシュタイン先生がいても、直接的な関係性を欲していた。
 私はずっと、誰かに完敗したいと願っていたのだった。そして、涙を流しながら弟子にしてくださいと頼みたかった。
 まだその段階にも達していないのかもしれない。

 2009年10月11日(日) 「絶望との一騎打ち」

 悲観フィルターを通した楽観だけが、揺るぎのない強い楽天になる。
 絶望も知らないで希望だけ抱いていたら、それは単に夢を見ているだけだ。
 人は自分の限界まで悲しんで絶望する必要がある。
 その先にこそ、明るい未来が少しだけ見えてくる。
 苦悩のない人生に喜びはなく、怒りがなければ感激もない。
 若いやつらに絶望するなという教えは間違っている。もっと絶望して、絶望に打ち克てと教えなければいけない。
 年間3万5千人という自殺者の数は多すぎる。16分に一人という計算になる。
 なんとかぎりぎりのところで踏みとどまることができるとすれば、それは絶望に負けなかったという自負心のようなものだ。
 絶望は人の心を食い荒らすけど、それでも心を強くする。
 ここは戦場で、私たちは兵士だと思えばいい。見えない敵と負け戦を戦っているのだとすれば、自分にできる最善のことは生き延びることだ。それが、この戦いで負けないということだから。

 2009年10月10日(土) 「自然崇拝回帰」

 神や仏などというあやふやな存在に頼らなくても、自然の息吹を感じ、共鳴し、自然界のあらゆるものから少しずつエネルギーをもらえば、人の精神はニュートラルに戻る。森や川や海を歩いていると、そんなことを感じる。
 空や草花や虫や鳥たち。息づかいを合わせ、心を寄せれば、自然は惜しみなくエネルギーを分け与えてくれる。
 昔は暮らしの周囲にそれらがあって、意識しなくてもよかったのだけど、今の都会暮らしではそうもいかない。だから、自然を求めてこちらから出向いていく必要がある。日常から一歩外へ出れば、まだまだ自然は残っている。
 神棚を拝んだり、仏像に手を合わせるよりも、確実な効果を実感できる。

 2009年10月9日(金) 「選択肢はモアベターのみ」

 生きるべきか生きないべきかという問いの答えは決まっている。
 死ぬよりは生きた方がましだから、生きるべきだ。
 人はすべて死ぬし、物語には必ず終わりがある。世界もいつか終わる。
 突き詰めればすべてが無駄ということになるのだけど、それを言ってしまうと身も蓋もない。
 私たちは、どちらかといえばましな方を選びながら進んでいくしかない。
 完璧も絶対も存在しないのだから。
 寄付やボランティアで世界は救えないとしても、やらないよりはやった方がましだ。
 勉強もしないよりした方がいい。
 選択肢はいつも、悪い方と、ましな方しかない。
 昨日より今日、今日より明日をましな日にしようと思えば、まだなしな選択を積み重ねていくより他に道はない。
 消極的で相対的に正しい道はそれしかない。

 2009年10月8日(木) 「たった一つの冴えたもの」

 広げることと深めることと、両方やっていければそれに越したことはない。
 どちらか一方に絞るなら、深める方を優先すべきだ。
 何か一つ深めておけば、そこから広げていくのは難しくない。
 広げすぎて何も深めていないと、遅れて深めることになって結局二度手間だし後れを取ることになる。
 器用貧乏と専門馬鹿とを比べたら、専門がある方に強みがある。
 いろんなことを人並み以上にできるよりも、これだけは誰にも負けないというものを持っている人間は強い。
 なんでもできても、すべてにおいて上に誰かがいて、どこへいっても一番になれない。
 一番になる必要はなくても、得意なことを一つ持っていることは悪いことじゃない。
 その一つを深めていけば、一人前になれる。たった一つのことでいいのだ。

 2009年10月7日(水) 「幻影追跡」

 人は自分の幻影を追いかけ、道を間違える。
 正しい道を行くには、幻影を追い越すことだ。
 自分の中にある、そうあるべき自分の姿が正しいと思い込むのは危険だ。
 行くべき道は、自分の後ろから前に向かって続いている道だということを忘れてはいけない。

 2009年10月6日(火) 「存続するという単純な理由」

 悟りとは、一周回って元に戻ってくることだ。
 初心忘るべからずという言葉が端的に言い表している。
 何故生きるのかという問いの答えは最初から出ているのだ。
 今こうして生きていることこそが答えで、それに気づくかどうかだけのことで。
 悟りを開けばそこがゴールではない。スタートでもない。
 悟りは存在の一段階に過ぎず、その前にもその後にも存在はある。
 単純に言えば、ただ生きているだけでいいのだ。
 昼寝ばかりしている猫のように。
 この世界の答えは、あまりにも壮大すぎて、個人のレベルでは語れない。
 宇宙の一部であることが私たちの存在理由であり、それより小さなことは存在を支えるためという理解でいい。人の体が細胞でできているように。
 あらゆる生命や星や宇宙の唯一絶対の目的は、存続することという一点に収れんする。
 誰も完成や完璧など求めていない。
 あなたも私も、ただ生きているだけで宇宙の存続に寄与している。
 そんなに難しく考えることはない。

 2009年10月5日(月) 「どこかではないここで」

 自分が望む場所で役に立てないのなら、今いる場所が自分の役割なのかもしれない。
 不本意でも、自分の役どころをまっとうするしかない。この世界は役割分担で、誰もが本望を全うできるわけではない。各所に人員は配置される。
 何の役にも立っていないような遊びの部分も必要だ。
 ここではないどこかを夢想するより、今この場所でできることを考えたい。
 そこでの役割を果たし終えたら、次へ移れるだろう。

 2009年10月4日(日) 「望む天国は実在する」

 自分の望む天国を頭に思い浮かべることができたなら、その天国は実在する。
 この世界かもしれないし、あの世かもしれないけど、必ず実現する。
 何故なら、私たちが認識する世界は、私たちの認識の中にあるものだからだ。逆に言えば、認識でない世界は存在していても存在しないのと同じことになる。
 人がイメージできることはすべて実在するし、イメージできなければ実在しない。
 そして人は自分の望むイメージに引きずられる。望むと望まざるとに関わらず。
 自分は地獄へ行くかもしれないと思ったなら、そこは心のどこかで望んでいることだ。だから、その世界が実現してしまう。
 私の望む天国はとても単純ではっきりしている。
 私が好きな人たちがいるところがすなわち天国だ。この世でもあの世でも、どちらでも同じことだ。
 尊敬し、敬愛する人たちと同じところへ行けるように自分を高めるしかない。

 2009年10月3日(土) 「大きな幸せの代償は大きな不幸」

 楽のあとに苦あり。
 苦のあとに歓喜あり。
 幸福は、マイナスがゼロに戻ったとき感じるものだ。
 不幸を知らなければ幸福を実感することはできない。
 苦痛が大きければ大きいほど、元に戻ったときの喜びは大きい。
 幸せを感じられない人間は、ある意味では恵まれている。本当に飢えたことがないのと同じだ。
 幸福になりたければ、プラスを求めてはいけない。自らマイナスに突っ込んでいくことだ。
 その捨て身の勇気がないのなら、ぬるま湯の幸せで我慢するしかない。
 あるいは、人生において必要以上の幸せは大事ではないことを学ぶべきだろう。

 2009年10月2日(金) 「旧人類は新人類に駆逐される宿命」

 人類による地球の環境破壊は、生態系を壊しただけでなく、自らを追い込むことになった。
 人は善良であろうと極悪であろうと、地球に対して傲慢であることからは逃れられない。
 王者として環境を破壊することも驕りだし、ボス気取りで環境を守るというのも傲慢な話だ。
 地球は確かにひどく痛めつけられて、傷ついている。傷口はますます深くなり、致命傷に至るだろう。
 ただ、私は悲観していない。地球というのはそんなにヤワではないから、人類ごときにやられてしまうはずはない。
 本当に危機的な状況に追い込まれたときは、新人類が登場して旧人類を駆逐してくれるだろうとも思っている。
 環境の激変は、必ず進化を伴う。変化した環境に合わせる形で新しい種が誕生する。新しい環境に適応できない種は滅びるだけだ。
 新人類は、旧人類の中から突然変異で現れるのかもしれないし、まったく別のところから来るかもしれない。それは人間だと決まっているわけでもない。
 個人的には、環境を守ろうというキャンペーンには賛成だし、協力できることはしたいと思っているけど、本質的な部分で地球に対して何かできるとは考えていない。
 人類が滅びて困るのは人類だけだ。
 いっそのこと、地球上から人類は一掃された方がまた平和が戻っていいとも言える。
 地球の長い歴史の中で、一瞬咲いた徒花ごときに、何が偉そうなことを言えるものか。

 2009年10月1日(木) 「マイナスはプラスのために」

 ゼロやマイナスというのは、不在でも非在でもなく、負の存在だ。文字通りのゼロではない。
 氷点下0度に対してマイナスの気温があるように、あるいは、財産に対して借金があるように。
 マイナスの存在というのは、ときに重要で、必要不可欠なものでもある。

 たとえば、何かをするという行為の対極として、何もしないという行為がある。
 活動することに対して眠るという行為もそうだ。
 プロスポーツ選手が休むことも仕事のうちというのもそのたぐいのことだ。
 人は何かをしなければいけないという脅迫概念のようなものがあって、何もしないことは怠けていることで罪だという考えがある。
 けど、それは正しくない。何もしないという行為を意識的にすることが必要なのだ。人はそうやって精神のバランスを取る。
 仕事ばかりで遊ばなければ心は枯れていくし、受験生といっても睡眠も取らずに勉強ばかりしていては頭の中は整理されない。
 このマイナスの概念というものに気づかないと、生きることの本質を見失うことになる。

 因果応報や、エネルギー保存の法則、陰陽二元論など、この世界は二つの要素が関係し合って、動いている。
 マイナスがあるからプラスがあり、影があるから光が生まれる。善悪や罪と罰もそうだし、悪人がいるから正義の味方も存在できる。必要悪という言葉もある。
 ネガティブな要素を悪いものとして捉える考え方は間違っている。
 負の要素があるから正の存在が成立するということを忘れてはいけない。
 そういう前提でこの世の中をあらためて見渡してみれば、なんだかんで上手くできていることに気づく。あらゆる部分でバランスが取れている。
 不幸も悲劇もそれだけで存在しているわけではない。一方のバランスを取るためにあるのだと思い知るべきだ。
 世界を批判したり、自分の不遇を嘆く前に、認識すべきことがある。
 自分の不幸は誰かの幸せを支えているし、その逆のことも言える。

 2009年9月30日(水) 「世界が理解できるという人間は嘘つきだ」

 私がどうもこの世界を理解できないのは、私たちの中にある歳月の感覚と、地球規模の年月の概念がかけ離れすぎているというのがあるからだ。
 私たちは、たかが50年とか80年をあくせくして生きているのに、前人類のやつらは数十万年もちっとも変わらず生き続けていたのだ。
 人類誕生をどことするかはいろいろ意見が分かれるところなのだけど、類人猿と人類が分かれたのが500万年前とすると、文明が生まれるまでの499万年以上、人類はこれといったものを生み出さず、ただ生きるために生きていた。
 ここ数千年の間に起きた目まぐるしい出来事を考えてみたとき、500万年と数千年との間に、あまりにもギャップがありすぎる。
 地球の歴史を一年に当てはめるとどうなるかというのはよく言われるたとえで、それによると人類の誕生は大晦日の夜11時半で、文明の発生は11時59分50秒ということになる。
 つまり、地球の歴史の中で人類が文明的に生きているのは一年の中の10秒ということだ。これは、あまりにも不自然すぎないだろうか。個人的にはどうも納得がいかない。前人類たちに、君たちは何百万年間も、一体何をしてたんだと問い詰めたくなる。
 確かに、いろんな種類の人類が誕生しては滅び、別の人類が誕生してはまた滅びという繰り返しはあったにしても、進歩、成長という点では遅すぎる。
 逆に言えば、地球上の生命の歴史というのは、それくらいのんびりしたものだったのに、現人類の急激な変化というのはおかしい。不自然すぎる。
 そこで異星人の遺伝子操作云々という話が出てくるわけだけど、時間だけでなく、空間的にも宇宙というのは我々のスケール感からかけ離れすぎているというのもある。
 個人的な人生を考える場合でも、宇宙の広さや時間の膨大さは同時に考えるべきもので、どちらかを無視していいわけはない。
 そこまで考えたとき、私は個人の人生の意味というのを半分放棄してしまった。考えても分かりっこないのだから、それはもう分からないものとして考えを進めていくしかない。
 人生の意味が分かるなんてことを言う人間は信用できない。
 大風呂敷を広げる宗教家でも、全宇宙における宇宙人と、その歴史とを関連づけて説明できている人間はいない。魂が輪廻転生するというなら、宇宙規模で説明しなければ説明したことにはならない。

 この世界や人類がこの先どうなっていくかはまるで見当がつかない。長いスパンで考えるといっても、この先の数百万年など想像できるはずもない。
 先のことは先の人に任せるとして、自分は自分で個人的な人生を生きるしかない。責任なんて感じていたら何もできない。好きにやらせてもらうだけだ。
 未来において、人類は時間や空間のすべてを認識し、理解できるようになるのだろうか。
 今でも少しずつは進歩して賢くなっていってはいるけど、こんなにちんたらやっていたらいつまで経っても進化はない。
 それこそ、類人猿と人類が分かれたときくらいのジャンプが必要となる。
 その頃は今よりももっと時間のテンポが速くなって、今の一年を一日で生きるくらいになるのかもしれない。
 そのときは私みたいなやつが言うだろう。あいつらは数千年間も大した進歩もせずに何をモタモタしてたんだ、と。

 2009年9月29日(火) 「もがき続けることが答え」

 人の一生は、それ自体は完結したとしても、この世界の問題は解決しない。
 天才が完璧な人生を生き、生きるとはどういうことかの模範解答を提出できたとしても、それがこの世を生きる全員にとっての指標とはなり得ない。
 芸術も文学も音楽も宗教も、生きていく上での慰めにはなっても、本当の意味での救いにはならない。
 病気を根絶させるための薬ではなく、痛みを和らげるための麻薬のようなものだからだ。
 この世界が存続する限り、問題が解決することはない。すべては流動的で、答えも移り変わっていくものだ。
 だからといって、答えを求めることをやめてしまっていいわけでもない。
 この世界の目標は存在し続けることであって、終わらせることではない。
 続けるためには問題と向き合い続けるしかない。
 生きることはもがくことだ。
 誰も私やあなたに気の利いた答えなど求めてなどいない。
 みっともなくもがく姿勢が解答なのだと自覚しながら生きる必要がある。

 2009年9月28日(月) 「相手の能力を限界まで引き出せれば」

 人が自分のために何かをしてくれるのを望むなら、その人が持っている能力を引き出す必要がある。
 能力を発揮するためには気持ちが重要となる。
 その人に自分を幸せにしてくれる能力があっても、その気がなければ人は自分のために何もしてくれない。
 無能だからやれないわけではない。
 夫婦間でも、上司部下の関係でもそうだ。相手が自分を思いやってくれないのなら、それは自分に原因がある。
 気持ちのあるなしによって人間関係は決まってくるもので、それは変化もしていく。
 どうすればその気にさせることができるかは、なかなか難しい問題だ。
 まずは自分自身が努力をすることと、こちらから先に相手に何かをすることなんだろうとは思う。それだけでは充分じゃないのだけれど。
 人は誰でも能力を持っているし、できることならその能力を発揮して、人の役に立ちたいとも思っている。
 そういう意味では、能力を発揮させてあげるというのは優しさに属するものだ。
 相手が自分に尽くしてくれるというのであれば、喜んで受け取ればいい。
 お返しをすれば更に倍になって帰ってくる。
 相手の能力を引き出し合える関係性が一番理想的と言えるだろう。
 それがつまり、ライバルというものの本質でもある。
 そこに恋愛関係を当てはめていけないわけではない。

 2009年9月27日(日) 「好きなら最後まで」

 どんなに好きなことでも、好きという気持ちは常に一定なわけじゃない。
 だから、気持ちの上下動にあまり翻弄されないようにした方がいい。
 好きの底もあるし、好きの天井もある。
 ときには底や天井を抜けることもある。
 好きという感情は必ずしもコントロールできるものではないのだけど、最後まで責任は持ちたいと思っている。
 好きな人とか、好きなものとか、好きなこととかいろいろあって、時間の経過とともに変わっていくとはいえ、できることなら最後まで自分の気持ちに殉じたい。
 感情の問題だけでなく、自分が好きになった対象についの責任も負わなければならない。
 自分が好きであり続けることで、その対象を正当化する必要もあるのだ。

 2009年9月26日(土) 「人の評価がすべてじゃないけれど」

 相対的判断と絶対的判断は、どちらかを選ぶものではなくて、両方の兼ね合いが大事になる。
 主観的に正しくても、客観的に間違っているというなら、そこには何らかの問題点がある。
 自分さえよければそれでいいわけではないし、他人の評価がすべてでもない。
 自分がいいと思えるものが他人からも評価されるのが理想だ。必ずしも理想通りにはいかなくても、目指すべき方向性としてはそこにある。
 独りよがりにならず、他人の批評におもねらないこと。
 けど、他人が認めてくれなければ自分という人間が立つことはできないのだということを認識しておく必要はある。
 たとえば、芸術的価値と商品価値の問題が典型的な例で、いくら優れた作品でも売れなければ価値がないということはある。
 どれだけ人の役に立つよい行いをしたとしても、それを他人が知らなければ自分の行為は伝わらない。
 他人の評価というのは残酷なものでもあり、はっきりしている部分もあって、批評に晒されるのは怖いから逃げてしまいがちだけど、自分の価値を他人に判断してもらうことは大事なことだ。
 駄目なら駄目と言ってもらった方が、修正できることもある。
 なんにしても人の評価を意識することが大切で、自分が本当に自信があるものなら、それは広く世間に知らしめるものだ。
 自分を守りすぎないようにしたい。

 2009年9月25日(金) 「幸運の女神は微笑むか」

 麻雀と写真は似たところがあると、前から思っていた。
 結局のところ、運がいい人間が勝つんじゃないか、と。
 けど、その考えは間違っていることが最近分かった。
 運を引き寄せるのは実力で、実力がなければ運を活かすことができない。
 同じ条件でも、実力のある雀士は高い手で上がるし、上手い写真家はいい写真を撮る。
 それでは、麻雀も写真も実力がすべてかといえばそうとも言えない。やはり運の要素が結果を大きく左右する。
 写真でいえば、運良く印象的な光が差すこともあるし、たまたまいい被写体に出くわすこともある。
 逆に、運に恵まれないこともあって、そうなると実力があっても良い写真を撮るのは難しくなる。
 経験と勘がものをいうというのも、麻雀と写真が似ているところだ。
 結局のところ、勉強をして、実践を重ねて、経験を積むしかないということになるのだけど、幸運の女神に好かれるためにはどうすればいいのかという点については、分からないとしか言いようがない。

 2009年9月24日(木) 「その道50年の説得力」

 無責任な言いぐさだけど、好きなことをやって人生を棒に振るなら、それはそれで悪いことじゃないのではないか。
 人は非難するかもしれないし、客観的に見たら不幸に思えるかもしれないけど、好きなことをやり通すことが出来れば、本人にとっては幸せな一生だろう。
 ただし、そのための絶対的な条件として、好きなものに殉じる覚悟を決めて、最後まで徹することというのがある。途中で投げてしまえば、それまでの負債が一気にのしかかってくる。
 人生はやり逃げが勝ちというところがある。悪びれたら負けだ。
 自分の好きなことに人生のすべてを費やせる人がどれほどいるか。
 万年素人でも、下手くそでも、50年続ければ、それなりの説得力は生まれる。
 好きなことだけやって死ねたら、それは勝者だろうと思う。

 2009年9月23日(水) 「憧れを思い出す」

 憧れという感情は、思っている以上に大事なものかもしれないと、最近思うようになった。
 若い頃憧れた人物も自分が歳を取れば気持ちは薄れるし、馴れ合いの関係からも憧れは欠落してしまいがちだけど、もう一度あの頃の憧れを思い出してみる必要がある。
 そうすることで初心に返って謙虚な気持ちになれるはずだし、自分を高めるための原動力になるのではないか。
 憧れの人を追い越したわけでもあるまい。
 憧れることは負けじゃない。理想を描き、追い求めることだ。
 対象を尊敬することで素直にもなれる。
 歳を取って、ひとかどの人物になったとしても、憧れの存在を照れることなく口にすることができるのは、とても素敵なことだと思う。

 2009年9月22日(火) 「正直、詰まらない」

 いろんなことが昔みたいに楽しめなくなっている。
 それは当たり前のことなのか、そうではないのか。
 当たり前だとしたら、そのことに納得するまでにはもうしばらく時間がかかりそうだ。
 感覚が鈍ったのか、この世界に慣れすぎてしまったのか。
 毎日それなりに楽しいことはあって、決して退屈しているわけではないのだけど。

 2009年9月21日(月) 「立ち止まると罪に捕まる」

 あんまり殊勝に、物分かりがよくなってしまうのも、かえってよくないように思う。
 悟りを開いた気になると、むしろ見えなくなってしまうこともある。
 私たちは現世的であっていい。
 不完全な人間だからこそ、成長もできる。
 半分駄目でも、半分の救いがあれば、そこに進歩の可能性がある。
 自分は充分賢いからもう大丈夫だと思ったら危うい。安心すると成長が止まる。
 今日駄目なことは恥じゃない。ただ、今日の始まりと終わりで同じ人間だったら、それは恥ずかしいことだ。
 向上心を持ち続けることだけが人を罪としない。罪から逃げ切るには、前進のスピードを緩めないことだ。

 2009年9月20日(日) 「機嫌の良くない一日もある」

 そのときどきの自分なりにしか考えられないし、そのときの気持ちに反した言葉は言えない。
 いつもいつも同じ自分ではいられない。
 笑い話に笑えないこともあるし、機嫌の良し悪しを完全にコントロールすることもできない。
 駄目な自分に逃げ込みたいこともある。
 明日の自分は今日の自分よりもましであることを願って、眠りにつく。

 2009年9月19日(土) 「人生に勝敗はある」

 なんだかんだと理屈をこね回すけど、人生はやっぱり勝負なのだ。
 この世界は、あらゆるところで勝敗がつくようになっている。
 勝ちがすべてではないけれど、最初から負けていい勝負などない。
 やるからには勝ちを目指すのが誠意だろう。
 勝ち負けじゃないと初めから逃げるのは卑怯だ。
 勝負だというなら、負けるよりは勝ちたい。
 近頃ようやくそう思えるようになった。

 2009年9月18日(金) 「小さな差が大きな差に」

 どんな世界でも、ほんのわずかの差が決定的な差となるものだ。
 野球にたとえると、3回に1回打つバッターは一流で、4回に1回しか打てないと二流ということになる。
 売れる歌手と売れない歌手の差とか、写真の上手い下手とか、顔の作りのよしあしとか、ささいな差が致命的となることが多い。
 そのわずかの差を埋めるために、人は懸命に努力することになる。
 たいして差はないなんて思っていると、いつまでも上にはいけない。
 自分のすぐ上にいる人が見えたなら、差を埋めるために自分に出来ることをやるべきだ。
 頑張らないと、差というのは思っている以上に大きい。

 2009年9月17日(木) 「価値観は絶対じゃないけれど」

 自分がいいと思うものと、他人がいいと思うものは、必ずしも一致しない。
 それはもう、不思議なほどに価値観の違いがある。
 顔の好みなどは特に甚だしい例だ。
 芸術とか音楽とかという、ある意味では曖昧なものはもちろんのこと、自分の中では絶対ともいえる美しさとか格好良さとかの基準も普遍ではないから、ときどき愕然とすることがある。
 自分が思う自分の最良も、人によってはまったく評価してくれない。
 だから、自分の価値観を信じるべきか、世間の評価に合わせるべきか、人は迷うことになる。いつでも自分を信じればそれが正解かといえばそうでもない。自分の物差しより世間の判断の方が正しいことは多々ある。
 結局のところ、自分と他人との間で折り合いをつけながら、バランス感覚を見失わないようにするしかないということになる。
 ただ、世間がいいというものを自分はどうしても認められないということもたくさんあって、ホントにホントかよと、納得できないことも多いから、ますます混乱してしまうのだ。

 2009年9月16日(水) 「すべては過ぎていくものだから」

 すべては過ぎていくのだということを理解しなければいけないことは分かっているけど、なかなか納得することは難しい。
 良いことだけではなく悪いことも過ぎていくのだからと、自分を納得させるしかないだろうか。
 希望はいつも明日にある。昨日にはない。
 引きずれるものは引きずって、明日に向かうしかない。

 2009年9月15日(火) 「写真のこと」

 写真はある種の告白だから、一方的な押しつけだったり、独りよがりだったりするのは、ある程度仕方がないと思っている。
 この思いが本物であることを願いつつ、シャッターを押すしかない。
 人に感心されたいとか誉められたいとか、そんな思いがあると説得力を欠いてしまいそうな気がする。
 写真については、だいぶ分かってきたところもあるけど、まだまだ分からない部分が多々ある。
 どういう写真がいい写真なのか。
 自分の思いを表現するために、もっと上手くなりたいと今は思っている。
 それと同時に、もっと真剣に取り組まなければならないとも感じている。

 2009年9月14日(月) 「小さなことからコツコツと」

 俺たちみたいな小者を捕まえている暇があったら、もっと悪いことをしている大物を捕まえろよ、という理屈は理解できる。確かにその通りだと思う。
 ただ、悪というものがこの世界から絶対になくならない以上、悪と戦うためには外堀から埋めていくしかないのかもしれない。
 小さな悪いところから直していって、徐々に大物や本体を追い込んでいくというのは、方法論として正しい気がする。
 治安が最悪だったニューヨークの地下鉄を、ジュリアーニ市長が車両の落書きを消させたことで少しずつ犯罪が減っていって、やがては清潔で安全な乗り物になったというのは、象徴的な例だ。
 親玉を一気に叩けば悪が一掃されると思うのは勘違いで、抑えが効かなくなった中者、小者が散らばって、自体は余計に悪化するということもある。
 少し話は逸れるけど、たとえば人の魅力というのもよく似たところがある。
 顔がまずいから何をしても駄目だとあきらめて、髪型も服装も気を遣わなくなってしまうと、ますます悪くなってしまう。
 髪を整えるとか、爪を切るとか、身の回りを整理整頓するとか、枝葉末節と思われるようなことから改善していくことで、人の本質的な部分もよくなっていくものだ。
 小さなことをおろそかにすると、本体まで評価を下げることにもなる。
 世界も一発逆転でよくなることはない。
 地球温暖化防止のためにスーパーのビニールをやめてエコバッグを持つなんてのも、本当に意味があるのかと思ったりもするけど、何もやらないよりは少しでも何かした方がましだ。
 大きなことはできませんが小さなことからコツコツと、という西川きよしの論理は、実はとても正しい。

 2009年9月13日(日) 「正義は必要悪でもある」

 どんな正義もその場限りのもので、正義に普遍性などありはしない。
 誰の正義が正しいかなんて、誰にも判断できない。
 正義感などというのはとてもやっかいなもので、正義の味方も逆の立場から見れば傍若無人で独りよがりの暴力者だ。
 たとえば動植物の食物連鎖を例に取れば分かりやすい。
 草食動物から見れば肉食動物は悪だし、子供を育てる肉食動物にすれば必要最小限しか食べないことは正義となる。草食動物も、植物の側からすれば悪魔のようなものだし、植物も繁茂しすぎると環境破壊を起こすことがある。
 人間の世界でも、歴史の転換期で正義と悪が何度も逆転してきた。体制が変わったり、政争に負けたりすると、昨日までの価値観が通用しなくなる。
 正義は必要なものではあるけど、絶対ではない。正義はある種の必要悪でもある。世界のパワーバランスを保つための重しみたいなものだ。
 自分が正義の側にいるような気で人裁くのは危険だ。
 正義の影で泣いている人間いるということを忘れてはいけない。

 2009年9月12日(土) 「普通は偉大だけど」

 人はある程度の年齢を重ねると、普通であることの偉大さを知ることになる。
 普通というのは、簡単なようで案外簡単じゃない。普通の幸せなんていうけど、それを手に入れることがどれほど難しいか。
 ただ、普通は確かに意味も価値もあることなのは間違いないのだけど、普通で満足してしまっては、それより上にいけないということもまた事実だ。
 普通に敬意を払いながらも、普通では駄目なんだと思わなければいけない。
 普通が非凡より正しいわけじゃないし、普通はやっぱり普通でしかない。
 そもそも、普通と普通以外では、コースが違うのだと思う。
 普通以下の人間が普通になることはなく、普通以下の人間は普通以上を目指すより他に道はない。
 生まれつき普通じゃない人間は、普通であることをあきらめるしかないのだ。

 2009年9月11日(金) 「果てしない籠城戦」

 生きることは、自分の肉体を守ることだ。
 肉体を守るのは、城を守るのに似ている。
 守るべき命とは、本丸であり、殿様だ。
 生命を守ることは、絶えず襲ってくるウィルスなどの外敵に対して、果てしのない籠城戦をするようなものと言える。
 こちから打って出て、野戦を仕掛けるわけにもいかない。
 とにかく守りの戦いで、疲れたからといって休んでしまえば、たちまに敵に攻め落とされてしまう。
 ぎりぎりの勝利でも、とにかく勝ち続けるしかない。
 今は新興勢力の新型インフルエンザという強敵も現れた。
 できれば、堀の外で追い払いたい。
 備えも必要だし、いっそう気を引き締めてかかる必要がある。
 命を死守すべし。
 最後は結局負けることが決まっている戦ではあるけど、こちから降伏することだけはすまい。

 2009年9月10日(木) 「直せるところはたくさんある」

 人はいくつになっても愚かで間抜けだから、毎日少しずつでも駄目なところを直していかないといけない。
 そのためには、恥をかいたり、痛い目にあったり、叱られたりすることは、悪いことじゃない。
 一時的に腹は立っても、それを活かすことができたなら、自分のためになる。
 他人の言葉は天の言葉と思うべきだ。

 2009年9月7日(月) 「成長したいけど怠けたい。
               焦らず休まず成長すること」

 成長曲線は人それぞれで、他人と同じでなければならないわけじゃない。
 仲間がどんどん上に行って置いていかれたら焦るけど、自分は自分のペースで成長すればいい。
 大事なのは成長を止めないことだ。そして死なないこと。死んだら成長は止まってしまう。
 20歳で死んだ天才を、50歳、60歳で追い越したら、それは負けじゃない。
 一流ほどもっと成長したいと心底思っているに違いないのだから、普通の人間はそれ以上に成長を願わないといけない。
 若い頃は何もしなくても成長するけど、歳を取れば自分の意志で努力しなければ成長しなくなる。
 成長を妨げるのは才能の不足ではなく、自分の中の怠け心だ。こいつに屈したら終わりになってしまう。

 2009年9月6日(日) 「人が下にいて安心ではない。
               上を見ればたくさんいる」

 他人を批判して、相対的に自分の地位を高めようとするのは無理がある。
 たとえその非難が的を射たものであったとしても、他人への攻撃はいかなる場合も正当化されることはない。
 とはいえ、他人は他人、自分は自分と、孤高を気取って独りよがりでは、自分の成長もおぼつかない。人は他者との比較の中でしか自分を確認できないものだからだ。
 優等生的な解答になってしまうのだけど、他人のいいところから学び、悪いところを反面教師として自らの成長の糧にするしかないということになる。
 自分は決していいとは思わないのに世間が評価している人がいるとすれば、そこに何らかの秘密やカラクリがあるということになる。
 あんなもの詰まらないと切り捨ててしまったら何も得られない。何がいいのかよく見て、考えてみる必要がある。そうすれば、きっと何かが得られるはずだ。
 世間の評価に自分を合わせることはないけど、認めてもらえるように努力するという方向性は間違いじゃない。
 他人が駄目だからといって自分も駄目でいいわけではないし、独りよがりで空回りしていても意味がない。
 すべては自分を高めるためだ。やるべきことはそこに収れんしていく。

 2009年9月5日(土) 「思いと言葉は一致しない。
               両方正解することは難しい」

 思いが正しければ言葉も正しいとは限らないし、言葉が正しければ思いも正しいということにはならない。
 どちらにもそれぞれの正しさがある。思いと言葉は連動するものだけど、必ずしも一致はしない。
 誰でも考えて言葉を発しているわけだけど、思惑を越えたところに正解や不正解がある。
 いつ、誰に対して、どんな言葉を発することが正しいのか。それは分からない。
 思いが正しければ言葉が間違っていてもいいということはない。
 失言を仕方がないと軽く考えてしまっていいのかどうか。
 心にもない言葉が結果的に正しかったとき、それは本当に正解と言えるのか。
 思いと言葉はくっついたり離れたり、ときに重なったりしながら、私たちを翻弄する。
 こちらが主人であり続けることも難しい。

 2009年9月4日(金) 「自分以下の自分。
               自分以上の自分」

 自分は今よりもっと良くなるという根拠のない確信がある一方で、自分は自分以上の何者にもなれないのではないかという悲しい予感もある。
 時間をかければ上積みはできる。けど、自分を超えることはできないのではないか。
 最後まで自分の期待に応えられない自分で終わるのか、予想以上の自分になれるのか、それはこの先も生きてみなければ分からない。
 楽観が吉と出るか凶と出るか。
 最後のオチで気持ちよく笑えたらそれでいいのだけど。

 2009年9月3日(木) 「ぎりぎり勝つことが大事。
               全力でも負けたら意味がない」

 楽に勝とうとすると、勝ち負けの波が激しくなってよくない。
 勝負はぎりぎりのところで勝てばいい。余裕など必要ない。
 大切なのは、最後の勝負所で勝ちきれるかどうかだ。
 勝負強いか、勝負弱いかの違いはわずかで、その小さな差が積み重なって大きな差となる。
 日々も同じで、毎日ぎりぎりのところで乗り切ればいい。
 負けそうになっても負けずに今日という日を乗り切りさえすれば、明日はまた新鮮な気持ちで臨むことができる。
 人間関係にしても、ぎりぎり感というのが大切だ。あやういところで転んだり、投げ出したり、逃げ出したりしないようにしたい。
 楽勝をこそ恐れなければいけない。楽勝は油断を生み、油断は思いがけない敗北につながる。
 余力を残して負けることくらい馬鹿らしいことはない。
 でも、全力を尽くすだけでは充分じゃない。
 きわどい勝負で勝ちきるための実力をつける必要がある。

 2009年9月2日(水) 「重くても必要なもの」

 前進するために切り捨てるべきこともある。
 前進するのが遅くなっても、引きずっていかなければならないものもある。
 捨ててもいいものと、背負わなければいけないことと、正しく判断しなければならない。
 どちらにしても、楽をしたいと思うと、判断を誤ることになる。

 2009年9月1日(火) 「良いことも悪いこともあるけど、
               良いことを味わうために生きている」

 何もかもに嫌気が差してしまう気の迷いよりも、ときどきフッと感じる生きることの愛おしさの方が本当だと信じたい。
 毎日は変わり映えのしない退屈な繰り返しかもしれないけど、日々を重ねることでしか味わうことができな喜びもある。
 途中で投げ出してしまえば、苦しいことからは逃れられても、嬉しいことも捨てることになる。
 生きている中で起こる悪いことより、生きていなければ得られなかった良いことで人生を判断したい。
 思い出が美しいように、終わってみれば良いことばかりが思い出されるはずだ。

 2009年8月30日(日) 「何者でもなくなること」

 政治家も選挙に落ちれば、ただの人。
 今日を境に、何者でもなくなってしまった人、数百人。
 何者でもなくても、その人はその人だけど、何者でもなければ、人は認めてくれない。
 何者でもない人の声に耳を傾けてもくれない。
 人は自分を何者かだと思って生きている。けど、自分で思っているより、足元は危うい。明日突然何者でもなくなってしまうかもしれない。
 それを恐れるから、何者かであろうとする。
 何をしていても自分は自分以外の何者でもないと言い切れる人は多くない。
 この世界は、必ずしも裸の魂勝負ではない。肉体を持ち、社会の中で生きる人間としてどう在るかが問われる。
 何者でもなくなってしまったときどうすればいいのか。

 2009年8月29日(土) 「不機嫌な猫のように」

 心がささくれ立って、攻撃的になっているときは、怪我をした猫のように物陰にうずくまってじっとしているに限る。
 自分で傷を舐めて、治るまで待っているしかない。

 2009年8月28日(金) 「投げやりで無責任だけど、
                客観的に世界を楽しんでいる」

 いつだって、状況に応じて生きるだけ。
 一度悲観フィルターを通した楽観だから、自分のサバイバル能力を信じている。
 幸せになるために生きているわけじゃないから、気楽なものだ。
 ただ知りたいだけ。

 2009年8月27日(木) 「先天的な自分も、後天的な自分も、
                どちらも自分」

 自分で作り上げた自分と、手を加えていない自分とがあって、所詮、作った自分はメッキだ。
 メッキも重ねれば本物になるのだろうけど、はがれれば地が露出する。
 自分はこうありたい、こうあるべきだというのがあって、自分のなりたい自分に少しでも近づこうと努力を続けるわけだけど、ときどきフッと我に返る。
 もともとの自分は斜に構えた皮肉屋だったじゃないかと。
 前向きに、謙虚に生きたいと願ってはいても、心のどこかではくだらねえと思ってもいる。
 自分を偽っているわけではない。本質の自分も、後天的な自分も、どちらも自分には違いなくて、どちらも嘘じゃない。
 少し疲れたときは、素の自分に戻ってもいいのかもしれない。いい人であろうとすると疲れる。
 今はちょっとだけ、昔の自分に戻りたい気分だ。

 2009年8月26日(水) 「いつも問題はある。
                問題が世界を成立させている」

 この世界は、問題があることで成り立っている。
 間断なく起こる様々な問題に対処する形で労働の需要が生まれる。
 トラブルバスターとしての仕事をしている人々が、全体の何割かを占めている。
 医者、警官、軍人、宗教家などがその代表だ。
 もし、この世界が何の問題もなく平和だったら、今よりもっと多くの人が仕事にあぶれることになる。
 人の不幸が正解を成立させているとも言える。
 娯楽でさえ、問題を慰めるためにあるとするなら、今ほど必要ではなくなる。
 生きていく上でのゴタゴタは少ないに越したことはないけど、多少なくては困るということを知っておくべきだ。
 自分の身に災難が降りかかったとき、問題を解決してくれる人がいる。問題を嘆くよりも、この世界の仕組みに感謝した方がいい。
 この世界が成立しているということは、今のところ問題の質量は崩れていないということだ。多すぎても少なすぎても、バランスは崩れる。
 平和なだけの世界なんてきっと退屈だから、今くらいでちょうどいいんじゃないか。

 2009年8月25日(火) 「やってみなければ始まらない。
                学ばなければ経験は半分だけ」

 百聞は一見にしかず、というのは確かにその通りなのだけど、真実の半面でしかない。
 一見は百聞にしかず、というのもまた真実だからだ。
 百聞し、一見すれば、百戦危うからずと言い換えてもいい。
 やはり勉強をすることはとても大事なことで、経験だけでは系統立てて自分のものにするのは難しい部分も出てくる。
 勉強するだけで経験しなければ物事の本質に迫れないというのも本当だ。
 だから、両方すればいい。どちらもしなければいけない。
 予習して、フィールドワークをして、復習する。そうすれば、知識も経験も身につく。
 人間というのは頭脳と肉体を持った生物なのだから、どちらか一方しか使わないのはもったいない。
 文武両道というのも大切なことだ。
 若い頃の経験は買ってでもしろという言葉の意味が実感できるのは、ある程度歳を取ってからのことだ。でも、歳を取っても経験が無価値になるわけではない。
 行ってみて、やってみて、感じることだ。
 そこに、学びのきっかけがある。

 2009年8月23日(日) 「自分がやりたいことが分かっているか。
                もう一度自分に再確認したい」

 自分がやりたいことは分かっているようで意外と自覚できていないのかもしれない。
 だから、具体的に今日何をどうすればいいのか迷ってしまう。
 決めかねて、習慣に身を委ねる。
 最終目標、中間目標、当面の目標と、この3点に焦点が合ってさえいれば、今何をすればいいのか、はっきり分かるはずだ。
 逆算して計画を立てることもできる。
 やりたくないことから逃れているだけでは、心の底から楽しめないし、充実感も得られない。
 自分は一体何がしたいのかと、もう一度自分の心に訊いてみる必要がある。
 答えが明確なら、とにかくそれをすることだ。自分のできる限り。
 心が決まっていないのなら、自問自答する日々から再出発しなければいけない。
 やりたいことが分かっていて、それができているなら、とても幸せなことだ。
 やりたいことをするために、人生の時間と機会はある。

 2009年8月22日(土) 「終わりは始まり。
                悲しみよりも希望を」

 すべてに終わりはあるのだと、この先何度思い知ることになるのだろう。
 納得できなくても、悲しくても、終わりは来る。
 受け入れて、先へ進むしかない。
 未来に希望はなくても、うずくまったまま絶望しているよりはましだ。
 出口が外への入口であるように、終わりの終わりは始まりの始まりだ。

 2009年8月21日(金) 「いい写真が見え始めたから、
                もっと上手くなりたい」

 どういう写真がいい写真かは、人それぞれ価値基準があるし、美意識にも個人差があるから一概には言えないのだけど、心と頭に響くのがいい写真という言い方はできると思う。
 まず驚きがあって、推理する部分があって、謎解きがある。
 おっ、なんだこれ、と思わせて、何をどうやって撮ったんだろうと考える。推測して謎が解けて、なるほどそういうことかと腑に落ちる。
 切り取られた時間の中に、起承転結があると、これはいい写真だと素直に納得できる。
 きれいで技術的にも優れた写真でも、ファーストインパクトが弱かったり、考えさせられる部分がなかったり、種明かしでなんだそういうことかと失望感を味わったりすると、文句なしにいい写真とは思えない。
 写真は簡単であり、難しくもある。誰でもシャッターボタンを押せば写真が撮れる。絵を描いたり、ピアノを弾いたりといったものとは違う。
 別に上手く撮らなくてもいいし、芸術写真など必要ないといえばそうなのだけど、写真家という種類の人がいて、明らかにいい写真というのが存在する以上、自分も追いつけ追い越せで挑戦してみる価値はある。
 趣味というのはなんでも、上手くならないと面白くない。それは人に自慢するとかそういうことだけではなく、自己満足だけでもなく、上手くできれば単純に楽しいからだ。
 下手の横好きという言葉もあるけど、好きこそものの上手なれという言葉が私は好きだ。
 少し前まで、写真を撮るのが趣味と言うことになんとなく抵抗があった。自信が持てなかったらだ。
 今は写真を撮るのがとても好きだと言えるようになった。
 もっと好きになれるように、もっと上手くなりたい。だから、もっと勉強して、もっとたくさん撮ろう。

 2009年8月20日(木) 「裏切られても最後まで
                自分を信じ切ることができたなら」

 自分を信じるか信じないかとなったとき、そこには選択の余地などない。
 信じるしかないのだから。
 自分を信じて自分に裏切られることくらいは大したことではない。
 それよりも自分を信じられず、他人に拾ってもらったとしたら、それこそ自分への裏切りとなる。
 自分以上に自分を信じてくれる人はめったにいないわけで、たまに信じられなくなったとしても、なんとか最後まで自分を信じ切るしかない。
 疑うよりも他に、できることがたくさんある。
 主観の自分と客観の自分は、信頼関係で結ばれている必要がある。

 2009年8月18日(火) 「戦況は悪化の一途。
                負け戦でも戦うしかない」

 自分は毎日少しずつでも成長していっているつもりでも、自分が置かれている状況というのは日々悪化していっている。
 それを食い止めるのは難しい。
 確実に歳は取るし、死にも近づいている。
 今より賢くなればいいというわけではないし、物事を理解したからといって人生の問題が解決するわけでもない。
 自分を一兵士として捉えるなら、結果が見えている負け戦でも、最後まで戦い抜くしかないということになる。
 勝利は遠ざかる。
 それでも、勝ち負けを超えた戦いがあると信じるしかない。

 2009年8月17日(月) 「旅は終わり、
                旅は続く」

 エンド・オブ・ジャーニー。
 どんな旅も、それが旅である以上、いつか終わりが来る。
 旅の終わりはいつも切なくて、名残惜しいものだけど、未練だけで終わった旅をずるずる続けていても意味はない。
 終わらせる決断と勇気が必要だ。
 一度ホームに帰るか、新しい旅を始めるか。
 いずれにしても、旅は続く。

 2009年8月16日(日) 「孤独を知り、孤独にならないこと。
                人とのつながりが孤独感を打ち消す」

 孤独を知ることはとても大切なことだ。
 孤独を知らなければ、人の心の弱い部分を思いやれない。
 ただ、孤独に毒されてはいけない。
 孤独は心を蝕んでいく。
 だから、孤独を学び、その本質を知ったなら、速やかに孤独から逃げるべきだ。
 他人に救いを求めることは恥ずかしいことではないし、そうしなければいけない。
 互いを慰め合うことが人と人とのつながりだから。
 孤独は状態や状況ではない。孤独感の有無という心の問題だ。
 誰もが心の中に孤独を抱えている。
 孤独そのものが悪ではない。孤独に心を乗っ取られてはいけないということだ。

 2009年8月15日(土) 「今日が終わればまた明日。
                新しい一日に希望はある」

 何も考えたくない日は、何も考えずに明日へ向かうだけ。
 明日が始まれば、また新しい一日を生きることができる。
 日々は連続しているけど、小さく断絶もしている。
 今日の自分と明日の自分は、同じでもあり、別人でもある。
 だから人は、明日に希望を持つことができるのだ。

 2009年8月14日(金) 「力が足りない。
                足りなければ足すしかない」

 いろんな部分で自分の力不足を思い知らされるけど、悔しいと思えたならば救いはある。まだ上積みできる余地があるということだ。
 残念だけど仕方がないと思ってしまったら、そこまでとなる。
 負けず嫌いというのは良し悪しだけど、他人に勝ちたいという気持ちは大事だ。
 人は人、自分は自分と言ってしまうと、負けを認めて自分の中に逃げ込んでしまうことになる。
 この世界が人の集団である以上、他人と比較されることは避けられないし、世間の評価というものも厳然とある。
 同じフィールドに立っているのなら、やっぱり負けては駄目だと思うのだ。
 力がなければ、力をつければいい。力をつけたければ、努力、練習しかない。
 努力しても駄目なのと、努力せずに駄目なのとでは、同じようでいても違いはある。
 自分も頑張ればできるようになるという言い訳と、頑張ったけど駄目だったという言い訳が、違うものであるように。

 2009年8月13日(木) 「出会いが偶然でも必然でも、
                それを生かすも殺すも本人次第」

 出会いは点と点が線で結ばれて生まれるもの。
 運命にしろ、偶然にしろ、そこには意志の存在が不可欠となる。
 更に、線と線を重ね続けるには強い思いの継続が必要だ。
 出会いが偶然であれ運命であれ、その先は本人の側の問題となる。
 幸運や、それ以上の偶然も味方につけなければ、出会いを完結させることは難しいのかもしれない。
 それは、人と人の関係に限ったことではない。人とこの世界のとの関係にも言えることだ。

 2009年8月12日(水) 「生きる意味は、
                生きてみれば分かる」

 思い出に浸れる幸せは、その時間を過ごして、今こうして生き延びているからだ。
 楽しかった出来事も、苦い過去も、ごちゃ混ぜになって今の自分を形作っている。
 泣き笑いで描いた絵が心模様だ。
 誰に対して誇れるわけではないけど、自分を励ます材料にはなる。
 死なないでよかったと思えたら、生きることの意味の半分は分かったということだ。
 何故生きるかという問いの答えは、そこにある。
 若いやつがそんなことを訊いたら、答えてやるがいい。
 自分で生きてみれば分かる、と。生きてみなければ分からない。10年や20年で分かるわけがないし、人に教えてもらうことでもない。
 懐メロを聴いて泣けるくらいになったら、ようやく分かるだろう。

 2009年8月11日(火) 「人は自分の映し鏡。
                映った自分を見て直せ」

 他人はすべて、先生であり、反面教師でもある。
 数々の失敗や間違いを見聞きしているのだから、同じことをしなければまずは問題がないはずだ。
 とは言いながら、自分も同じ過ちを繰り返してしまうのだけど、せめて心の中に戒めだけは持っておきたい。ああなってはいけないぞ、と。
 失敗例を身をもって見せてくれる人をあざけったりするのは間違いだ。ありがたいと思わなければ。
 人の振り見て我が振り直せ。参考になる例は無数にある。
 それに、他人の不幸は笑い事じゃないし、他人事でもない。明日は我が身と心得ておく必要がある。
 もちろん、他人の良い面をたくさん見て、自分も見習わなければいけないというのもある。
 目の前の人は自分の映し鏡でもある。そこに嫌な影を見たなら、それは自分が映り込んでいると思い至るべきだ。
 完璧な人間になどなれなくても、生きているうちは少しでもましな人間になるよう心掛けたい。

 2009年8月10日(月) 「まだ知らない歓喜を求めて。
                更なる喜びは未来にある」

 まだこの先でも、感極まる場面に立ち会えるのではないかという予感が、生き抜くための希望となっている。
 まだ知らない感激がたくさんあるはずだ。
 嬉しいことや、感動や、泣けるようなことが。
 過去の経験を過大評価しないようにしたい。
 やり尽くしたなんてことはないし、この程度かと侮ることもしてはいけない。
 大人ぶって悟る必要もない。
 好奇心を持って、新しい日々に向かっていくことだ。
 未来では、新たな発見があり、まだ見ぬ自分自身とも出会うことができる。
 子供のように、明日を楽しみにする心が何よりも大切なのだ。

 2009年8月9日(日) 「ないと困るものは大事なものだけど、
               大切なものを見極める必要がある」

 自分が今、何を大事に思っているのかを確認する簡単な方法がある。
 今すぐ取り上げられて明日からずっと禁止にされて困るものは何かを考えればいい。
 取り上げられて一番困るものが一番大事なものだ。
 つまりはそれを大切に守らなければいけないということになる。
 物だったり人だったりするわけだけど、本質的にはその状況を確保することが肝心となる。
 一方で、なくなると困るものが、自分を今の場所に縛り付けているということもある。
 思い切って手放すことで自由になって前に進めるかもしれない。
 一番大事なものと、一番必要なものと、一番自分のためになるものは、必ずしも一致しない。
 何が本当に大切なのかを、見極めなければならない。
 今手にしているものの中に、本当に欲しいものがないのなら、持っている大事なものすべてと引き替えにしてでも、一番大事なものを求めなければならない。

 2009年8月8日(土) 「明日があれば、
               今日の失敗を活かせる」

 何度学んでも上手くやれないものだけど、少なくとも前回よりは上手くやれているはずだ。
 次があれば、今回学んだことを活かすことができる。
 次がなければ、経験も持ち腐れとなってしまう。
 失敗を失敗のままにしたら意味がない。成功につなげてこそ、失敗にも価値が生まれる。
 だから、次を目指さなければいけないのだ。
 立ち止まっていてはなんにもならない。

 2009年8月7日(金) 「足りないものを補充するのではなく、
               本当に欲しいものを求めたい」

 楽しいだけでも、幸せなだけでも、充分じゃない。
 不足がないだけでは、心は満たされない。
 人には向上心がある。
 欲を上手くコントロールして、エネルギーに変換するのが理想だ。
 でも、現実はそう思惑通りにはいかない。
 欲望はときに暴走して、ブレーキが効かなくなる。
 更なる刺激を求めてエスカレートする。
 人がうらやむ幸せを何もかも手に入れたとしても、そこでアガリにはならない。日々は続いていく。
 どんな満足も、同じ状態が続けば不満に変わる。
 もっともっとと、求めずにはいられない。
 欲をかきすぎて失敗するのが人の常だ。
 では、無欲で何も求めないのが正しい生き方かといえばそうではない。
 一言で言えばバランス感覚ということなのだろうけど、そんなに単純なことでもない。
 足りないことの不満を並べ立てるのではなく、本当に欲しいものをどん欲に求めるというのが、一応の方向性ということになるだろうか。
 一番欲しいものや、一番やりたいことを、いつも心の先頭に置いておくことが大切だ。

 2009年8月6日(木) 「もっと驚きを。
               だから長生きを」

 今あの世に行ったとして、あっちはどうだったかと訊かれたら、ふーん、という感じと答えるかもしれない。
 決して悪くはない。楽しくもあり、面白くもあり、この世界を愛しているとも言える。
 ただ、すごかったというほど強烈な印象は受けていない。想像の範囲内にあって、想像を絶するというほどでもない。
 もっともっと驚かせて欲しい。だから、長く生きたいというか、生きて先を見るしかないと思っている。
 長生きはしてみるもんだ、と言ってみたい。

 2009年8月5日(水) 「敵は自分の内にあり。
               そいつを倒せば幸せになれる」

 面白くも詰まらなくもない毎日が、本当は一番よくない。
 人生は、楽しむか、戦うかだ。
 楽しむべきときは楽しみ、戦うべきときは戦う、それが人としてまっとうな道だと思う。どちから一方だけだと偏って歪んでしまう。
 集団として戦うべき相手を失った今、私たちは個人の戦いを見つけて、個人戦をするしかなくなった。
 倒すべき敵がいないというのは、不幸なことだ。
 幸せになりたければ、戦い、打ち負かすべき対象を見つけることだ。
 往々にして敵は自分の内にいる。
 日々は駄目な自分との戦いだということを自覚しなければならない。

 2009年8月4日(火) 「ああ、無常。
               歳月は人をふるい落とす」

 自分の不幸も、他人の不幸も、好きじゃない。
 しかし、世の中は無常だ。
 運命を口にしてはしゃいでいた夫婦が別れ、スターが犯罪者に転落し、アイドルも歳を取り墜ちていく。
 歳月の無慈悲さを思わずにはいられない。
 それでも、世の中は何事もなかったかのように回っていく。
 走り続けられなくなった人々を置き去りにしながら。
 明日もまた、新たな幸福や成功が生まれる。
 ひとときの夢を見て、夢から覚める。
 目にした残像は後方に流れ去り、すぐに見えなくなる。
 月日の残酷さに傷つき、歳月の優しさに癒されながら、私たちはよろめきながら進むしかない。
 次に微笑むのが悪魔か天使かなんて、予想もつかない。

 2009年8月3日(月) 「気持ちを行動に移すこと。
               やらないのはやれないのと同じ」

 たらればばかりで、実際には思い描いたことの10分の1もできていないような気がする。
 行動を阻害する要因を、言い訳に使っている。
 今日できないことは、明日もできない。
 そんなものだと居直るわけではないけど、気持ちと行動との差に悩まされるのが常となっている。
 今日できなかったことを明日こそやろうと思うなら、今日の残り時間の間に少しでもやるべきだ。
 分かってはいるんだけどではなくて、分かっているならやらなければどうしようもない。
 やれるのにやらないのは、やれないのと同じ。
 生きられるのに生きないのは、生きていないのと同じだ。

 2009年8月2日(日) 「二進も三進もいかないとき、
               その場で踏ん張るしかない」

 あきらめるか、しがみつくかという選択肢があるとき、どちらが正解かは分からない。
 結果論としての正誤はあるだろう。
 ただ、自分自身の納得ということを考えたとき、駄目でも駄目なりに最後まで踏ん張った方が後悔は少ないように思う。
 どっちの道を行っても後悔はあるし、いいことと悪いことがある。
 選択の余地なく、新天地に送られてしまったというなら、それはもう切り替えてあらたに頑張るしかない。未練を残してもいいことはない。
 あきらめると決めたら、自分の意志で前に進む必要がある。
 崖っぷちにしがみついていて、登ることも落ちることもできないなら、しがみ続けるしかない。
 誰から救ってくれるかもしれない。

 2009年8月1日(土) 「今日は新しい一日。
               可能性と時間と引き替えにしている」

 時間を失わないと、新しいことは起こらない。
 昨日までの中に新しいものはない。
 必ず死ぬと分かっているのに人はどうして生きるのか?
 それは、今日を生きたいからで、明日があると信じるからだ。
 死は避けがたい結果であって、目的ではない。
 死があるから生というものに価値があるとも言える。
 一番良かった過去を思い出して懐かしむけど、過去は過去以上にはならない。
 昨日を超えるために今日がある。
 時間と引き替えに、あらたな可能性を模索することができる。
 可能性は権利であって義務ではない。
 人は何にもしない自由も持っている。
 何をしてもいい自由もある。
 新しいことは今日の中にある。
 なければ、明日にある。
 明日を今日よりもいい一日にできる。

 2009年7月31日(金) 「最高でも最悪でもなく、
                なんでもない一日」

 今日は何もない。

 2009年7月30日(木) 「感動は独り占めしても
                意味がないから」

 すべては感動の共有のために。
 それが人と人とが関わり、共に生きることの意味だから。
 この場所も、私とあなたも。

 2009年7月29日(水) 「やらなくてもできるということ。
                もっと上手になりたい」

 やるやらないの問題と、できるできないの問題は、別であってつながっている。
 やる気になればできることと、いくらやる気があってもできないことがある。
 その中間もある。
 やらないけどやれることは大事だと思う。
 今私がちょっと真面目に取り組んでいることに、字を書くことと写真を撮ることがある。これをやっていると、できるできないの問題は大事だと再認識する。
 たとえばお手本通りの字を書ける書けないという能力の問題と、自分独自の字体を持っていることがそうで、ゆっくり慎重に書けばお手本通りのきれいな字が書ける上で丸文字が好きで書いているならそれは個性だ。けど、基本ができていないで自分なりの字しか書けないとすれば正しいとは言えない。
 ピカソは若い頃、普通に上手な絵を描いていた。
 写真の場合は、個人的な好き嫌いがあって、得意不得意のジャンルがある。
 たとえば抽象的でデザイン的な写真は嫌いだという人がいる。私もどちらかというとそうだ。
 けど、その気になればそういう写真を撮れる技術を持っている上で嫌いというならいいとして、撮れもしないのに批判するのはただの負け惜しみだ。
 だから今の私は、字にしても写真にしても、基本的な部分でもっと上手になりたいと思っている。
 自分が書きたい字や撮りたい写真は、技術を上げていく中で見つけていけばいい。
 昔から我流でやって基礎訓練をしなかったら、テニスにしても何にしても上にいけなかったという反省もある。
 勉強して、練習して、実践して、復習をしてという繰り返しと積み重ねが大事だということに遅ればせながら気づいた。
 初めから上手にできることよりも、下手から出発して上手くなった方が楽しい。

 2009年7月28日(日) 「幸せは行って来い。
                一方通行じゃ駄目だ」

 自分を頼みとして生きていくのは、次善の生き方であって最善ではない。
 持ちつ持たれつこそが理想だ。
 幸福のからくりはそこにあるから。
 それぞれ自分で食べられる食事を、お互いにアーンして食べさせ合って何の意味があるんだと、若い頃の私は思っていた。
 今は若い頃の自分の誤りを知っている。
 幸福というのは、行ったものが返ってくることだ。
 その仕組みを理解しなければ、いくら自分一人で頑張っても幸せにはなれない。
 与えるだけでも、与えられるだけでも、幸せではない。

 2009年7月27日(月) 「多様性こそが本質。
                変わっているということの正義」

 この世界の本質は多様性だということを、まずは最初に理解しないと、世界の有り様を見失うことになる。
 それは生き物を見れば明らかで、人間界も例外ではない。
 全員が詩人では世界は回っていかないし、全員が政治家でも世の中は成立しない。
 みんながそれぞれ役割分担をして、初めて一つの世界が成り立つ。
 それと、遊びや余分というのも必要となる。
 どんな世界のどんな時代でも、まったく役に立っていない人間が1割ほどいる。一見無駄なようでいてそうじゃない。それは遊びの部分として絶対に必要だから存在しているのだ。
 これを排除してしまうと、世界は大きくバランスを崩すことになる。
 無駄というだけでなく、足を引っ張るマイナス要因も必要不可欠だ。マイナスが存在するからプラスが存在し得るというのがバランスだから。
 悪人がいなければ正義の味方は活躍のしようがない。
 人間を画一化、規格化しようとする思想は必ず滅びる。歴史がそれを証明してきた。
 国境だって、人種だって必要なのだ。
 人は多様性の中で他者と比較して自己を確認し、競争の中で成長するものだから。
 生物が多様であればあるほど豊かであるように、人間界もたくさんの種類の人間で成り立っている方が健全だ。
 個人レベルでいっても、人と違うことをする方が世の中の役に立つ。
 個性的であろうとする方向性は間違っていない。たとえ、本当の個性とは何かということが分かっていなかったとしても。

 2009年7月26日(日) 「無意味なことをもっと。
                意味に押しつぶされないように」

 この世に無意味なことなど何もないなんて論理は嫌いだ。
 無意味なことは遊びの部分で、意味のあることばかりでは息苦しくて仕方がない。
 箸の上げ下ろしまで運命で決められているわけじゃない。
 すべてを運命論に閉じ込めてしまおうとするのは、科学で何でも証明できると言い張るくらい愚かなことだ。
 人生は意味のあることと意味のないことで成り立っている。
 無意味なことをどれだけできるかで人生の充実度は違ってくる。
 意味のあることばかりに縛られていると、心が小さく縮こまってしまう。
 無意味なことをすることで自分を解放できる。
 自由度を広げることにもなる。
 無駄なことや、くだらないことも、たまにはした方がいい。
 何もしないことも大切だ。
 人生、効率よく急ぐばかりが能じゃない。
 生きることにどれだけ彩りを添えて、豊かにできるかは、心掛け次第だ。
 もっともっと無意味なことはできる。
 スローカーブを投げる勇気が必要だ。

 2009年7月25日(土) 「格好悪くても、もっと本気に。
                格好悪いくらい必死に」

 本気になることは恥ずかしいことではないし、格好悪いことでもない。
 むしろ、好きなことに本気になれない方が格好悪い。
 ほどほどにそつなくこなして涼しい顔をしていることが格好良いなんて思ったら大間違いだ。
 周りから見て、引いてしまうほど必死な姿で取り組んでこそ、好きなものに対して真剣に向き合うことができる。
 本気度を上げること。
 上げきって、狂気の手前までいければ、本物になれる。
 才能のなさや実力不足を嘆く前に、やれることはたくさんある。

 2009年7月24日(金) 「今の幸せよりも将来の幸福を。
                どんな夢を思い描こうか」

 大切なのは、今現在の幸せよりも、幸せの方に向かっているという実感だ。
 人は幸せのただ中にいると、それを失いそうで不安になる。よいときはいつか終わってしまうという予感で、すでに幸せではなくなりがちだ。
 恋愛がその典型で、恋が成就する前後が一番幸福で、そのあとは終わりへ向かうだけとなる。
 皮肉な話だけど、幸福の約束はしてもいいけど、幸福を叶えてはいけないのだ。
 特に、国の指導者など、人の上に立つ者はそうだ。
 日本は高度経済成長期に一度幸福の絶頂を迎えてしまっていて、その後長い後遺症の時期を過ごしている。バブルは短い夢だった。
 将来に甘い夢を描いて無邪気に信じられる時代は終わった。
 日本人の幸福ということでは、時代がもっと進んで状況が大きく変わったあとにしか訪れないだろう。
 個人レベルでいうと、一昔前にバランスのいいときがあった。
 小中高のあと大学へ行き、卒業して社会人になって、仕事に少し慣れた3、4年後に結婚、1年ほどで子供が生まれて、子育てをしつつ仕事をし、子供が学校を卒業して10年働けば定年で、老後も10年くらいのものだった。
 次々に新たな状況に直面して、忙しさの中に幸福も不幸も紛れてしまったところがあった。
 今は晩婚化と長寿で、バランスが崩れた。ずいぶん間延びもし、いろんな部分で余裕が生まれた分、かえって幸福になるのが難しくなった。ある意味では考える時間がありすぎるとも言える。
 いい学校を出ていい会社に入ったり、いい相手と結婚すれば幸せになれるという神話も、崩壊して久しい。
 誰も将来の幸せを約束できなくなった。明確な方向性させ示せない。
 ハングリー精神を失い、燃えるものがなくなった。
 もしかすると、日本の歴史上、今の時代が幸せになることが最も難しいときなのかもしれない。
 過去と比べて不幸かといえばそうとも言えないところに問題の根深さがある。
 戦って勝利すべき不幸さえないのが現状だ。
 幸福でも不幸でもない私たちは、未来にどんな夢を描こう。
 突破口があるとすれば、求める幸せの形を根本的に変えることだろう。
 豊かで平和な暮らしではもはや満足できなくなった我々は、不幸なのか幸せなのか。

 2009年7月23日(木) 「下品な部分でつながれるか。
                それが男女の関係」

 人は誰でも、高尚な部分と、低俗な部分とを持っている。
 表面に出さなくても、必ず両方の要素で成り立っている。
 人は、ときに高い部分で結びつき、ときに底辺でつながる。
 男女の関係性は、多くの場合、低い部分で共感することで成立する。
 特に夫婦はそうだ。美女と野獣にたとえられるような一見不釣り合いなカップルも、上手くいっているならそれは底辺で許し合えているからだ。
 もっと言えば、下品さのレベルが同等ということだ。
 憧れなどの上品な部分でのつながりは弱い。
 スポーツをやっているときの姿がかっこよくて、つき合ってみたら案外詰まらない男だったり、会社で見せる表の顔に安心して結婚したら家ではだらしなかったりなんてことになると、関係としては上手くいかなくなる。
 いくらその人の最良の部分に惚れたとしても、下品さを許せなければその人そのものを許せなくなる。
 結婚する前に同棲してみろとか、海外旅行へ行ってみろというアドバイスは、そういうことでもある。
 高尚な部分での釣り合いは、必ずしも必要ではない。
 人と人とのつながりは一筋縄ではいかないし、男女間では複雑な事情もあるから一概には言えないのだけど、上品下品つながりの法則というのは確かにあるように思う。
 この人で大丈夫だろうかと疑問に思ったときは、その人の一番駄目なところを許せるかどうか自問自答してみればいい。
 そこで腰が引けてしまうと、長続きしない可能性が高い。

 2009年7月22日(水) 「人を責めても始まらないし終わらない。
                誰も幸せにならないことはしない」

 他人を責めても、いいことは何一つない。
 だから、文句は飲み込む。
 飲み下しがたいものも、無理矢理飲む。
 腹ふくるる思いがしても、やがて消化する。
 人を責めて、その人か自分が幸福になるなら、してもいい。
 誰も幸せにならないことはしないようにしたい。
 喜怒哀楽の表現は必要だし、ときには怒ることも大切だけど、一時の感情で文句をぶつけても問題は解決しない。
 達観してるわけじゃないけど、ある程度生きればそんな知恵も身につく。

 2009年7月21日(火) 「この世は他愛もない。
                夢でも現実でも楽しめば勝ち」

 この世界は、本質的に他愛もないものなのだと思う。
 泣いて笑って、怒って悲しんで。
 バラエティを見て笑い転げたり、行楽地ではしゃいだり、恋愛沙汰や痴話ゲンカ。出世争いやうわさ話。
 どんなに真面目くさった顔を作ってみたところで、他愛のなさがすべてを流し去っていく。
 哲学だ芸術だ科学だといっても、所詮は心の隙間を埋める娯楽でしかなく、仕事も戦争もごっこの延長線上にある。
 主観的に見れば、すべては深刻だ。
 けど、自分が地球を見下ろす神になったと想像したらどうだろう。みんななんだかんだで楽しそうにしてるように見えるんじゃないか。
 遊びだから真剣に取り組まなければ楽しめないというのはある。
 他愛もないというのは馬鹿にしてるわけでも軽んじてるわけでもなくて、深刻ぶって自ら不幸に陥る必要はないということだ。
 笑い飛ばせれば勝ちだし、笑えなければ負けとなる。
 楽しんだ者勝ちというのが、この世界の絶対的なルールの一つだ。
 不幸は世界のせいじゃない。責任は自分にある。
 この世の他愛のなさを愛せるかどうかにかかっている。

 2009年7月20日(月) 「偏りながらバランスを取る。
                人も世界も」

 誰もが傾いていて、偏っている。
 それを矯正することも、自覚することさえ難しい。
 この世の全員は異常といえば異常だ。自分は正常だと言い張る人間ほど危うい。
 正常というのは比較的異常さが少ないというだけのことだ。
 人のバランスの取り方はそれぞれで、他人から見ると不思議でもあり、面白くもある。
 結果として、バランスが大きく崩れなければよしとするしかない。
 完璧な球体のような人間は存在せず、そんなものは必要もない。
 ただし、自分の偏向の可能性だけはそれなりに自覚しておいた方がいいとは言える。
 正常と異常を分けるのは、自分は異常かもしれないと疑えるかどうかだから。
 自分の偏りを自覚できれば、他人に対してもある程度寛容になれる。
 世界も人間も、不完全だから美しい。完全な世界では、人間は存在し得ない。

 2009年7月19日(日) 「無事であればいいわけじゃない。
                やらないとやられる」

 運命は必然の帰結であって、天で誰かが操作しているわけでも、シナリオライターがいるわけでもない。
 人生は何もしなくても過ぎていく。
 何かをする自由と可能性もある。
 運命に屈すれば、驚きも喜びもない。
 必然を超えてこそ、未知の歓喜がある。
 突き詰めれば、人生はやるかやらないかの二者択一だ。
 自ら動くことでしか事態は動かない。
 人の可能性は思っているよりも小さく狭い。
 けど、可能性の半分もやり尽くしている人はごく少数だろう。
 やれることはまだたくさん残っている。
 予定調和こそが敵だと思い知らなければならない。
 平穏無事は、最悪でもないけど最高でもない。

 2009年7月18日(土) 「天秤は傾き、
                バランスが取れない」

 いつだって、全方向で何もかも思い通りにいくことはない。
 あちらを立てればこちらが立たずというジレンマは常にある。
 時間とお金の問題もそうだ。
 時間をかけるか、お金を使うか。経験のためにお金をどこまでかけるべきかなど、天秤にかけて迷う。その迷いが決意を鈍らせもする。
 たとえば、余命3ヶ月と宣告されたら、残された時間の中で最大限やれることをやろうと思う。
 それと同じことを健康体でもやれるかといえば、なかなか難しい。
 人の心は弱いものだと、何度となく思い知らされる。強い気持ちが必要だと、頭では分かっているのに。
 優先順位の問題もある。リストの上から順番にできるわけでもない。
 こういう状況をどうやって打開するかというのがテーマとなる。
 妥協は必然だとしても、やりたいことの何分の一をできているだろう。

 2009年7月17日(金) 「素直になれないのなら
                素直になるように最大限の努力を」

 素直になれないのが普通。
 素直になりがたいところでも素直になれるとしたら、それは異常だ。
 けど、素直になることがどんなに難しくても、無理矢理自分を抑え込んで素直になれば、ものごとは良い方向に流れ出す。
 正直者は馬鹿を見ると言うけれど、正直は巡りめぐって自分のためになるのだと思う。
 素直さというのは、間違いなく人としての美点だ。
 自分を守るために皮肉屋になることは、若い頃ならともかく、程度が高いとは言えない。
 感情を正直に言うことや、間違ったことは謝ること、なるべくかわいげのあるように振る舞って、損得勘定で判断しないこと。
 素直が一番。大人になっても、歳を取っても。

 2009年7月16日(木) 「写真のこと。
                今はそれだけ」

 たとえば、カーブやスライダーをコントロールよく投げられるようになりたいというような感覚で、もっと思い通りに写真を撮りたいという思いがある。
 誰もが度肝を抜くようなストレートを投げたいとかそういうことではない。
 もっと基本的な部分でままならなさを感じていて、なんとかしたい。
 まずは草野球のピッチャーとして通用するようにならなければいけないといったレベルだ。
 草野球といっても甲子園経験者のような選手が混じっているように、写真の世界もプロ並みのアマチュアがいる。
 写真は勝ち負けじゃないけど、勝負になるくらいのところまではいきたい。
 写真を上手く撮れるようになって何をどうしたいかというのは、今のところない。
 ただ、もっといい写真を撮れるようになりたいと、ここ最近ずっと考えている。
 神社も行きたくないし、歴史の勉強もしたくない。
 しばらく写真のことを考えてみる。

 2009年7月15日(水) 「足りないのは、
                力か思いか」

 いつも考えている。
 足りないのは何なのか。
 力が足りないのか、思いが足りないのか。
 両方が足りないといえばそうなのだろうけど。

 2009年7月14日(火) 「当たり前じゃないのに、
                当たり前みたいに思ってる」

 慣れや馴染みや習慣が、当たり前ではないことを当たり前と思わせてしまうことが怖い。
 奇跡さえも、連続すればそれは普通のことになってしまう。
 私たちが今こうして生きていることも。
 当たり前じゃないことを当たり前じゃないと自覚することが、幸せになるための第一条件だ。
 ありがたいことをありがたいと思えなければ、どんな幸せも幸せと感じることはできない。

 2009年7月13日(月) 「何かありそうで何もない、
                7月14日」

 また巡り来る7月14日。
 ずっと以前からこの日が気になっていて、結局毎年何も起きないまま過ぎていく。
 毎年日記にもそのことを書いている。
 どうして7月14日が気になるのか、自分でもまったく心当たりがない。
 悪い予感とかではなくて、何が大事なことを忘れてるような気がして思い出せずにもどかしい。
 何か特別なことが起きるんじゃないかと期待してみるも、何もない。
 すでに0時を回って7月14日に入っている。とりあえずここまでは変わったことはない。
 明日は普通の一日になる予定で、特に変わったことをするつもりもない。
 今年も何もないままなのか。
 とりあえず死なないように気をつけよう。

 2009年7月12日(日) 「忘れることは
                いいことなのか悪いことなのか」

 何もかもを忘れてしまうことの残酷さを思う。
 最上の歓喜も、愛の誓いも、固い約束も、時の中ですり減り、忘れ去られてゆく。
 あるいは、忘れることは救いであり、祝福なのだろうか。
 どんな痛みも、悲しみも、少しずつ薄らいで忘れていく。
 忘れられない記憶もあるけど、忘れてしまった大切なことに比べたら、それは小さくてささやかだ。
 人間は呪われながら祝福されているということなのだろうか。

 2009年7月11日(土) 「負けてもいいなんて逃げだ。
                負けたくない気持ちが大切」

 好きなものがあって、ライバルがいて、自分が負けているという状況は、幸せなことだ。
 努力する必然性があって、目標がはっきりしていて、勝てば歓喜が待っているのだから。
 まずは同じものを志す同好の中に身を置かなければならない。輪の外にいたら勝負にならない。
 たとえば、芸術にしろ、美にしろ、基準や価値観はそれぞれだけど、勝負となればおのずとそこには勝ち負けが生まれてくる。賞レースやコンテストに出場すれば優劣がつく。
 そんなものは下らなくて無意味だといってしまえば、勝負を放棄したことになる。自分は自分の道を行くといっても、独りよがりで虚しい。
 勝ち負けはあっても、切磋琢磨できる仲間のそばにいた方が上達は早いし、自分の位置も確認できる。
 勝負にこだわることは大切なことなのかもしれないと、最近思うようになった。
 負けを認めたところから、あらたな成長が始まるということもある。

 2009年7月10日(金) 「上手くなるのは最低限。
                その先で何が撮りたいか」

 ゆっくり、ゆっくり。慌てず、焦らず、着実に。
 急がなくてもいいから、怠けずに。
 もっと分かるようになりたいし、成長しなくてはいけない。伸びしろはまだあると感じている。
 写真の話。

 2009年7月9日(木) 「知識は募金のようなもの。
               集まった知識はみんなの共有財産」

 自分にしか見えていない世界や、独自の視点なんてものは、ごく限られた狭いもので、大部分は他人の借り物で成り立っている。
 知識が多かったり、視野が広かったりするのも、他人の功績のお裾分けをもらってるだけで、本人が偉いわけじゃない。
 でも、だからこそ、他人を知り、他人を頼る必要がある。
 より世界を知ろうと思えば、他人の研究成果や価値観をいただくのが早道だ。
 自分とは反対意見を持つ人の言葉や論理にも、積極的に耳を傾けた方がいい。
 そうやって人は、わずかなものを提供し、集まったものをみんなで共有している。
 人の歴史というのは、共有財産の積み重ねだ。
 間違いの試行錯誤にも意味はある。
 人類の価値は、総体によって判断される。個人がどれだけ多くの知的財産を抱えていても関係ない。
 自分の無知に絶望することはない。自分には持っていないものを、誰かが持っていればそれでいい。
 自分は何を提供できるかを考えたい。

 2009年7月8日(水) 「命の使いどころ。
               命の捨てどころ」

 自分が有用な人間になれるともなりたいとも思わなかった。
 若さゆえのヒロイズム願望はあったけど、誰かのために犠牲になるということではなかった。
 命の捨て場所が見つかるまでは、自分の命を大切に守り育てなければいけないと、今は思っている。
 大量生産、大量廃棄で、物や命を大事にしなくなったこんな時代だから、人の役に立つということは案外難しい。
 それでも、自分にしかできないことがあるのなら、そのためにこそ命を使いたいと思う。

 2009年7月7日(火) 「叶う必要がなかった願い事が
               風に吹かれて飛ばされた」

 これまでのたくさんの願い事は、どこへいってしまったのだろう。
 投げる力が弱くて、天に届かずに、風に吹かれて散り散りになってしまったのだろうか。
 それとも、過去のどこかに落ちて横たわっているのか。
 道で大勢に踏みつけられてボロボロになった私の願い事が見える気がする。
 あまり願い事はしなかったように思うけど、確かに叶ったという記憶もない。
 私の願いは、いつでも切実さを欠いていたのかもしれない。
 今の願い事は何かと問われれば、二つ三つは答えることができる。
 ただ、それが叶わなければこの先生きていけないというたぐいのものでもない。
 ぼんやりとした願望たち。だから具現化しなかったのか。
 自力で叶えられる願望をはっきりさせるところから始めた方がよさそうだ。

 2009年7月6日(月) 「自分だけでできることと、
               自分だけではできないこと」

 充実感と幸福感は別のものだ。
 充実感は自分の力で獲得するもので、幸福感は他人から与えてもらうものだから。
 この二つを混同すると、人生の本質を見失う。
 充実感は主食で、幸福感は嗜好品みたいなものかもしれない。
 けど、人は最低限の食事だけでは生きていけない。贅沢品も必要だ。
 最も理想的な形は、自分の大切な人を幸せにして、その人から幸せをもらうというものだ。
 人が家族という形にこだわるのは、そういうことだ。
 人と人がつながることで結びつきが生まれ、家族ができることでつないだ手の内側に器ができる。
 人間は他者との関係性の中でしか自己を確立できない。
 孤独感は人の心を蝕み、やがて殺してしまう。
 充実感と幸福感を感じられないのなら、他人を求めるしかない。自分の力だけではどうすることもできないから。

 2009年7月5日(日) 「そういうことじゃないんだけど、
               どういうことかは分からない」

 真実に辿り着いたら勝ちだと思っていた。
 人生はそういうたぐいのゲームではないことを、今は知った。
 若い頃の自分に会いに行ったとしても、かける言葉が見あたらない。
 知らせてあげられることはいくつかあるけど、答えを与えることはできない。
 20歳からやり直すことができても、正解のルートが分からない。
 とりあえずこのまま行けるところまで行くしかない。
 求めるものが何もなくなってしまったとしても。

 2009年7月4日(土) 「過去を振り返り、
               前に進むだけ」

 死者が死者であるように、過去は過去のままだ。
 生き返られることはできない。
 一瞬前もすでに過去になっていて、もう一切変更はきかない。
 人生には下書きも稽古もなく、常にぶっつけ本番が続く。
 次々に訪れる瞬間に対処していくことが最優先となる。
 まったく後ろを振り返らない人間は、バックミラーを見ないドライバーのように危険だけど、Uターンもできず、バックギアもない以上、後ろを見つつも前へ進むしかない。
 人生は何度でもやり直しがきくなんて慰め言葉は嘘だ。
 上書きはできるけど、描き直すことはできない。一度起こったことは、二度となかったことにはできない。
 だから、書道のような慎重さと思い切りが必要となる。
 過去に学び、失敗を反省し、今何をしたらより良くなるのかを考える。
 現在、過去、未来の関係性と距離感を把握して、見失わないことが大切だ。

 2009年7月3日(金) 「嫌いなものも好きに。
               好きなものはもっと好きに」

 今好きなものや人を、今よりももっと好きになりたい。
 できることなら嫌いなものも好きになりたいと思う。
 そうすれば、今よりももっと幸せになれるから。
 好き嫌いは自然な感情としてあるけど、そのまま何もせず放置していいのか。
 努力で上積みしたり変えたりできる部分もあるなら、それはすべきなんじゃないか。
 好きじゃないことを、好きじゃないという理由で切り捨ててしまうのはもったいない。
 好きになる努力をすれば、きっと得られるものはある。
 好きこそものの上手なれとはその通りで、好きなことは得意なこととなり、上手になればもっと好きになる。
 好きなことをしていたら、人生なんてすぐに終わってしまう。

 2009年7月2日(木) 「変わる状況。
               変わる立ち位置」

 良いことも悪いことも、ずっとは続かない。
 これまでの経験で思い知っているはずなのに、渦中にあるとそのことを忘れてしまう。
 状況は日々刻々と変化している。
 昨日と今日は同じ自分ではなく、今日と明日もまた違う一日だ。
 連続しているようでしていない。毎日、小さな断絶がある。
 私たちは同じ場所に立っていることはなく、常に動いている。
 だから人と人の関係性も修正しないと際限なくズレていくし、人と世界についても同じことが言える。
 立ち止まって流されるより、自力で進んでみて、結果は結果として受け入れるしかない。
 とにかく、一歩前へ。
 変化し続ける状況に流されないためには、こちらも動き続けるしかない。

 2009年7月1日(水) 「上手に愛して。
               下手なままじゃ駄目なのだ」

 下手なことは、訓練するなり練習するなりして上達を目指さなくてはいけない。
 下手なまま放置していたら、いつまで経っても苦手なままだ。
 愛することが下手なのは駄目なのだ。
 愛は学び、教わり、実践することでしか上達しない。
 不器用ですからでは済まない。
 たとえ今日下手でも、明日までに少しは上達しないといけない。
 愛することも日々の積み重ねで、たとえ最後まで上手くならなくても、気持ちだけは持ち続ける必要がある。
 生きることは愛することだ。
 人と、この世界を。


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