2009.1.1-

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 2009年6月30日(火) 「気持ちは時間を超える。
                気持ちがないことはできない」

 気持ちがあることは時間がなくてもできるし、気持ちがないことは時間があってもできない。
 たとえば、今日は帰りが遅くなるという電話や、夏休みの宿題。
 人の行動は、大部分を習慣に支配されるものだけど、習慣から抜け出してプラスアルファの行動をできるかどうかは気持ちにかかっている。
 時間というのは二義的な理由でしかない。
 気持ちがあれば時間の速度を超えられるし、気持ちがなければ時間に遅れを取る。
 問題は、ない気持ちをどうやってあるようにするか、ということだ。
 面倒なことや、後回しにしたいことを、どうやれば先頭に持っていけるか。
 危機意識があればいいのだけど、いつも危機的な状況にあるわけではない。やらないよりもやった方がいいことを、いかにしてやるかが課題となる。
 時間は限られているのに、なかなかそのことを実感できない。
 少なくとも、時間不足を言い訳にしないことだ。できないのは時間がないからじゃなくて気持ちがないからだということを自覚することから再出発する必要がある。
 それでもやりたいことをやる時間がないとしたら、それは生き方を間違えている。
 敵は自分の中の弱気だ。そいつに勝たないことには始まらない。

 2009年6月29日(月) 「前向きになりがたきを
                前向きになること」

 生まれついてのお金持ちじゃなければ、自分で稼ぐしかない。
 生まれ持った才能がなければ努力で補うしかない。
 生粋のお坊ちゃんや天才と、成金や成り上がりとでは価値が違うといえば違うけど、後天的に肩を並べられる部分はある。
 美人と年齢を重ねて得た魅力も同じことが言える。
 人はないものねだりだから、持っていないものを嘆く。いくら嘆いても、持っていないものを持っていたことにはできない。だから、あとから上積みするしかない。
 どれだけ悔しがってもしょうがない。最善が手に入らなければ次善で我慢するしかない。最高じゃなければいらないというような投げやりな態度では、幸せになれない。
 居直るなら、凡人であることに対して自虐的になるよりも、愚直な努力の人となった方がましだ。
 努力を重ねて何か大切なものを得たなら、それは揺るぎのない誇りとなる。
 実力が足りなければ実力を高めるしかない。それが今日やるべきことだ。

 2009年6月28日(日) 「世界の中心。
                時代の先端」

 今更ながら、片山恭一の『世界の中心で、愛をさけぶ』を読んだ。
 ドラマは2004年の7月だったから、もう5年前になる。もう少し最近のような気がしていたけど、あのドラマはよかった。
 10時間くらいかけて描いていたから、丁寧な物語になっていた。あの頃の綾瀬はるかはかわいかったし、山田孝之との組み合わせも似合っていた。
 その後に観た映画はいいと思わなかった。長澤まさみも、森山未來も、私のイメージに合わなかった。行定勲監督は好きだけど、この作品に関しては共感できなかった。2時間ではちょっと描ききれなかったというのもあっただろう。
 あれから5年を経て原作を読んだわけだけど、いいところもあり、そうではないところもありで、感想としてはドラマを最初に観て正解だったなというものだった。
 今あのドラマを観てあのときと同じように感動できるかどうかは分からないけど、ドラマがよかったという印象は今でも強く残っている。演出が堤幸彦だったから当然と言えば当然だ。
 あの作品のいいところは、トリップ感だ。私は前半部分の甘酸っぱい80年代の青春の感じが好きで、病気になる以降の後半は好きじゃない。
 もちろん、ヒロインの悲劇と主人公の強烈な悲しみがなければあの作品は成り立たないのだけど。

 話は飛ぶけど、大学生の頃、車上荒らしにあったことがある。
 車に入れておいたテニスのラケットとか、いろいろ持っていかれた中で、一番痛手だったのは、お気に入りのカセットコレクションだった。
 あんなもの持っていってどうするつもりだったか知らないけど、あの中に大切にしていたカセットが何本かあった。
 当時はレンタルレコードを借りてきて、カセットテープに録音していた時代だ。ちょうどレコードからCDに切り替わる過渡期でもあった。
 あの時期の私にとって大切だった歌手が二人いた。かなりマイナーで知ってる人も少ないと思うけど、日浦孝則と安藤秀樹という二人だ。そのアルバムを録音したカセットを持っていかれたのが痛かった。
 その後ずっと気になりつつも、とうとう今に至るまでそのアルバムをどんな形でも入手していない。マイナーすぎて、今では中古を手に入れるのも難しいくらいになっている。
 にもかかわらず、お気に入りの曲の歌詞を今でも思い出せるのだから、当時いかに繰り返し聴いていたか分かる。
 日浦孝則は「ワン・ウェイ・ドライヴ」の入った『ビリーヴ』、安藤秀樹は『ZOO PICNIC』と『Mario』。「泣いた日、笑った日」なんかが好きだった。
 大学生のとき、車を運転しながら聴いていた曲が今でも一番記憶に残っている。
 浜田省吾の「路地裏の少年」、「19のままさ」、佐野元春「サムデイ」、小比類巻かほるの「I'm Here」などは、今聴いても胸に響く。
 もっと古い曲にも思い出はあるし、新しい曲も好きなものがたくさんある。でも、あの頃の歌は特別だ。

 そんな懐かしい歌の感覚が蘇ったのも、『世界の中心』を読んだせいだろう。
 ただ、それはそれ、これはこれで、懐かしいとばかりも言っていられない。
 今日自分がなすべきは、この時代がちゃんと、「あの頃」になるように生きることだ。今ここで心に刻むものがなければ、将来振り返ったときに何も思い出せないことになる。
 歳を取れば心は固くなり、鈍くもなるから、歌にしても出来事にしても、心に刻むことは難しくなる。
 ほとんど唯一の方法は、新しいことをすることだ。当時のことが印象に残っているのは、そのとき新しいものに触れたからだ。過去を振り返って懐かしがっていたわけじゃない。
 リアルタイムの今という時代を生きることが、将来に対する遺産となる。
 もっと新しいことを呼吸しなければいけないと思う。

 2009年6月27日(土) 「人生は人生へ。
                悲しみは悲しみに」

 人生を人に引き受けてもらって、その代わりに考えることや悩むこと、悲しむことを引き受けているのだと言ったら、それは傲慢に響くだろうか。
 正論に打ち克つ暴論をいつも探している。

 2009年6月26日(金) 「幸せは自力本願で。
                他人は手助けしてくれるだけ」

 何か納得できなかったり、不満がくすぶったりするのは、突き詰めて考えていくと、原因はすべて自分にあることに気づく。
 自分を喜ばせたり、幸せにするために、全力を尽くせていない。
 足りないものを人からもらおうとするから、そこに不満が生まれる。
 すべて自給自足がいいというわけではないけど、自分の不幸を他人のせいにする前に自力でやれることはある。
 人は他人の手助けなしに生きてはいけないとはいえ、自分を幸せにするためには最後は自分でなんとかするしかない。
 やれることから一つずつやっていくしかないのだろう。

 2009年6月25日(木) 「口説き文句は一つで足りる。
                あなたが必要なのだ」

 自分が必要とされていない場所で生きるのはつらい。
 そこは光の差さない闇に思える。
 人はわがままだから、他人を自分勝手に利用しながら、自分が必要とされることを欲する。
 たとえば、この人は自分がいなくちゃ駄目だという勘違いをすることがある。
 男気だったり、母性本能だったりという言葉で説明されるけど、あれは幸福な幻想だ。
 人は自分が必要とされていると思うと、自分の居場所を見つけた気になれる。そこが心のホームとなる。
 結婚詐欺師とか、恋愛上手な人間は、相手にそういう勘違いをさせることができる人種だ。テクニックというだけでなく体質的なものもある。
 人の上に立って人を使う人間のカリスマ性というのも同じようなもので、自分がこの人を支えなくてはいけないと思わせることができるのが良い上司の条件だ。
 恋愛に限らず、人を口説くというのは、あなたが必要なのだということを伝えることに尽きる。三顧の礼でもそうだ。理を説いて言いくるめるというのではなく、策を弄せずどうしても必要なのだと訴え続ければ、人はどこかで落ちる。
 ただ好きだ惚れてるというだけでは充分ではない。
 他人を必要とすることを苦手な私は、そういうことを意識的にやっていかなくてはいけないのだと思う。

 2009年6月24日(水) 「戦うには理由と必然性がいる。
                世の中と無闇に喧嘩したいわけじゃない」

 自分の不遇をいわれのないものだと思えば、私も誰かしらに訴え、戦うこともするかもしれない。
 けど、致し方がない、是非もないと感じるから、多少不条理でも受け入れてしまう。
 どうせ自分なんてといじけてしまうのはよくないことだと知ってるけど、自分は本当に幸せになる価値があるのかと自分に問いかけてみると、少し考えて、首を横に振ることになる。
 自分で自分を買ってる部分はあるけど、だからといって報われる必然性があるかといえば、あるとは言い切れない。
 自分は不幸だとは思わない。ただ、不運だと言えるとすれば、戦うべき戦いと、打ち負かしたいライバルに恵まれなかったことだろうか。
 熱くなって、燃えて、燃え尽きたいという気持ちは今でもある。

 2009年6月23日(火) 「未来の自分のために、
                今日思い出作りを」

 若い頃は、懐メロに浸る年寄りをみっともないと馬鹿にしていたところがあったけど、今ならその心のメカニズムがよく分かる。
 懐メロは思い出の象徴なのだ。歌にまつわる様々な記憶が懐かしい。
 あの頃のような気持ちに戻ることはできないし、あのときの時間を取り戻すこともできないけど、思い出として自分の中に残っている。
 それは人に見せびらかすようなものではなく、ときどきそっと取り出して、ひとり静かに楽しむものだ。
 思い出を作るために生きているんじゃないというのは若者の論理で、歳を取るとそれが間違いだということに気づく。
 人は思い出を作るために生きているのだ。何故なら、記憶こそが自分自身の本質だからだ。
 思い出はたくさんあった方がいい。
 今日作る思い出は、未来の自分に対する贈りものとなる。
 未来の自分を思いやれないと、寂しい晩年になってしまう。

 2009年6月22日(月) 「優れた人物が一人いれば、
                世界は平和になる可能性がある」

 国にたった一人、ずば抜けて優秀な人間がいれば、専制君主制こそが最良の政治になるのではないか。
 権力を分散させるのは次善の策であって、必ずしも最善ではない。そこにはひずみや腐敗も生まれる。
 愛すべき王がいて、愛に溢れた善政を敷けば、国民は喜んで王のために働く。そうすれば健全な国家となる。
 ただ、専制君主制は、最悪になる可能性が高いのも事実だ。暴君が好き放題したら国は駄目になる。
 けど、王さえ優れていれば専制君主に勝るシステムはない。
 たとえば、裁判員制度なんてのを採用しなくても、大岡越前が一人いれば済むことだ。
 もっと小さい規模で言えば、ワンマン社長でも社員思いの優れた人物なら会社は上手くいく。二代目に継がせたりするから上手くいかなくなる。
 民主主義なんてものは消極的な策で、これが人類最高の形などではない。
 共産主義が上手くいかなかったように、民主主義も必ず行き詰まる。
 途中を飛ばして最終形態を考えたとき、地球連邦の大統領制というのが行き着く先なんじゃないだろうか。
 世界で一番優秀な人間を大統領にして、最高の権威と最大の権力を与えることで世界はバランスを保てるかもしれない。日本でいえば江戸幕府のように。
 まあ、どんな政治形態にもよしあしがあって、国民の側としては、その時代、その国、その状況の中でしたたかに生きていくしかないわけだけど。

 2009年6月21日(日) 「小さな身勝手も、
                集まれば大きな身勝手」

 それほど大きな望みを抱いているわけではない。自分の願望などささやかなものなのにとみんな思ってるから、その願いは叶わないのだ。
 やっぱりそれは、純然たる贅沢なのだろう。自分で思うほどささやかなものじゃない。
 人は誰でも、ちょっとくらいの身勝手さは許されるべきだと思っている。
 個人単位の身勝手は小さくても、それが全部あわさると大きな身勝手になる。一人が捨てた空き缶や吸い殻は小さくても、全部集めると大変な量になるのと同じだ。
 身勝手な願望は叶わないものと思い知るべきだ。
 結局、何もしなくては何も得られなくて、何かを得たければそれに見合った努力をしなくてはいけないということだろう。
 自分だけが呪われているわけではないし、自分だけが神から愛されているわけでもない。

 2009年6月20日(土) 「言葉を発すれども、
                言葉に心躍らず」

 言葉に励まされ、自分も言葉を発し、たくさんの言葉に支えられてここまできた。
 今は自分の中で言葉の力が弱くなっている。
 自分の言葉が自分を励ましきれない。
 誰のどんな言葉に気持ちの高揚を求めればいいのだろう。
 自分にとって必要な言葉がどういうものなのか、見失っている。

 2009年6月19日(金) 「恩人太宰治。
                生きていれば100歳」

 2009年6月19日は、太宰治が生まれて100年目に当たる。
 遠い伝説の人のようになっているけど、同級生もまだたくさん生きていることを思えば、太宰治が生きていたとしても不思議ではないのだ。
 おととしのお彼岸に、初めて三鷹へ行った。玉川上水や住んでいた家があったところを見て、禅林寺でお墓参りをした。
 それで少し安心したというか、自分の中で一区切りついたような気持ちになった。
 そのときのことをブログにも書いた。
 太宰治は今も自分の中に生きているというほど濃い存在ではない。
 ただ、懐かしい恩人という思いはずっと残っているし、それは忘れてはいけないことだとも思っている。
 あの世で笑って会うためには、あとは私自身の問題だ。
 恩には報いなくてはならない。

 2009年6月18日(木) 「枯れる前か、
                咲く前か」

 枯れる花はどんな手当をしても無駄だけど、一時的に弱っているだけなら元気がなくなった要因を改善してやればまた元気を取り戻す。
 今の自分はどちらなのだろう。

 2009年6月17日(水) 「面倒だけど大事なこと。
                面倒くさいこと優先で」

 大事なことは往々にして面倒事と隣り合わせで、見て見ぬ振りをしたり、後回しにしたりしているうちに、大事なことを見失いがちになる。
 大切なものは努力して継続させる必要がある。それを怠れば、大事なものをなくしてしまうか、大事なものが大事でなくなってしまう。
 面倒だなと思ったときには、その横に大事なことがあるということを思い出さないといけない。
 面倒くささはサインだ。
 一番いいのは、一番面倒なことを優先順位の先頭に持ってくることなのだけど、なかなかできないのが実情だ。

 2009年6月16日(火) 「エースは幸福行きの約束手形じゃない。
                平凡な札でもそれで戦うだけだ」

 切り札のエースを持っている人間がいつも勝負に勝つとは限らない。
 そこがこの世界の面白いところであり、難しいところでもある。
 才能のある人間や美人や善人は、当たり前のように幸せになってもらいたいと思うけど、なかなかそうもいかない。
 じゃあ、平凡な方が幸せかといえば、それもまた違う。
 最悪の持ち札から浮き上がるのは至難の業で、ほとんどあり得ない。
 上手くできているようでできていなくて、でもなんだかんだいって帳尻が合うのがこの世だ。
 そこに作為はあるのかないのか。
 幸不幸の総体は不変なのか、相対的なものなのか絶対的なものなのか。
 人は不幸の幻影に怯え、幸福の幻想を捨てられない。
 手持ちの札で勝負する前に、札を交換することばかり考えてしまう。
 配られた札で戦うしかないことを納得するにはずいぶん時間がかかる。
 エースのカードは持ち回りなのか。もしくは、世界をぐるぐる回っているのか。
 明日、それがひょっこり自分の手札に入ってくるのではないかと夢見ることをやめられない。

 2009年6月15日(月) 「好き嫌いはあってもいい。
                食わず嫌いはもったいないけど」

 好き嫌いがないことが正しいことのように言われるけど、本当はそうじゃない気がする。
 嫌いなものがあった方が、好きなものをより好きになれるということもある。
 食べ物に限らず、人間も物も価値観も多種多様で、そこに好き嫌いが生まれるのは当然のことだ。むしろ好き嫌いがない方が不自然だろう。
 もちろん、食わず嫌いは確かによくない。それで損することもある。
 ただ、実際に嫌いなものを無理矢理好きになる努力をするよりも、好きなものをより好きになるようにした方が幸せになれる。
 嫌いなものは嫌いなものでいい。別に自分が世界の価値観を決めるわけでもないのだから、個人的な感情くらいは自由でいい。
 好き嫌いが激しい方が、この世界で生きることに対して誠実であるようにも思う。
 そういう意味では、私は嫌いなものや人が少なすぎるのかもしれない。
 現実とより深く関わっていくことで、もっと好きなものや嫌いなものを増やしていくべきなのだろう。

 2009年6月14日(日) 「楽しめないのは、
                燃えてないから」

 よくないのは、燃えるものがないことだ。
 一所懸命に熱くなれるものがあれば、心のモヤモヤも吹き飛ぶはずだ。
 要因ははっきりしている。
 燃え尽きたわけではないけど、今は燃えられない。

 2009年6月13日(土) 「知らないことを知ること。
               知ることは知らないのを自覚することから」

 知ってるつもりは危険な敵だ。成長の妨げとなる。
 知ることの第一歩は、知らないことを自覚することで、自覚できない未知は既知への道ができない。
 知っているかもしれないけど知らないかもしれないという疑いが必要だ。
 自信を持つことと過信は別のことで、驕りは油断となり、安心が危機を呼ぶ。
 知らないことをたくさん自覚することが大切だ。それが自分の可能性でもある。知っていることの質量よりも、どれだけ知らないことを抱えているかでその人間の価値が測れる。
 何よりも知ろうとする気持ちが最も大事なことだ。
 知らないことは恥ではないけど、知ろうという向上心がないのは恥ずかしい。
 知るということは世界と仲良くなるということで、知れば知るほどこの世界の偉大さに気づく。同時に知らないこともどんどん増えていくから謙虚な気持ちにもなれる。
 知ることに終わりはない。もっともっといろんなことを知りたいと思う。

 2009年6月12日(金) 「やるべきことをやる。
                当たり前のなすべきこと」

 今日、この世界の仕組みが解明されたとして、今日と明日とで自分のやるべきことは変わらないんじゃないか。
 この世界の本質を知ることを悲願のように考えてきたけど、それは人生の本質ではないように今は感じている。
 ずっとこのままこの世界の意味が解明されなくてもいいとは思わない。ただ、今はまだその時期ではないということなのだろう。
 自分のなすべき小さな仕事をやり遂げることこそを悲願とすべきだ。

 2009年6月11日(木) 「最高も最悪も自分であって
               自分の本質ではない」

 自分の最良の部分と、最悪の部分にあまり振り回されないようにしたい。
 と同時に、自分の良い部分だけで自分を過大評価したり、悪いところに絶望するのもやめたい。
 最高も最悪もひっくるめて自分なわけだけど、普通の状態がたぶん自分の本質なのだ。
 うぬぼれず、落ち込まず、良くも悪くもない状態をよしとしたい。

 2009年6月9日(火) 「アクセルを踏んでも満たされない。
               ブレーキと再加速が鍵となる」

 欲望というのは、アクセルだけでなくブレーキの要素があわさったとき、初めて加速する。
 おなかが空かなければどんなに美味しい料理を食べても満足しないように、乾きを伴ってこそ満たされたときに満足感が得られる。
 障害のある恋愛が燃えるのも同じ作用だ。
 とはいえ、ブレーキが強すぎても欲望は失速してしまう。そのあたりが難しいところで、欲望は幸福に置き換えることもできる。
 人は幸せだけでは幸福になれない。幸せと不幸のバランスが取れてこそ、幸福感に満たされることになる。
 人の魅力だとか、恋愛だとか、才能だとか、いろんなところにもその法則は当てはまる。
 一番不幸な状態とはどういうものかといえば、皮肉なことにすべてにおいて満たされている状況ということになる。
 満足を求めつつ満足を恐れる必要がある。
 常に少しだけ手の届かないところに目標を置くのが賢いやり方だ。
 そして、アクセルとブレーキを踏むタイミングを間違えないようにしなくてはいけない。

 2009年6月8日(月) 「暗闇に明かりを灯すのは自分。
               何もしなければ暗いまま」

 人生はたくさんの嫌なことと、少しの嬉しいことから成り立っている。
 前提を間違えるとつらくなるだけだ。
 人は自分が生きた経験の中から人生の本質を学んでいくわけだけど、子供の頃に教わった教えたはあまり正しくないような気がする。
 人生は努力と運次第でかなり良いものになる可能性はある。だけど、自分を幸せにする努力を怠る人間は幸せにはなれないのだということを、もっと小さいうちから教え込んでおくべきだ。
 若いきみたちには無限の可能性があるなどとおためごかしを言うから、安心して怠けてしまうのだ。
 人生は決して悪いものではない。人は遠回りをし、痛い目にもあって、そのことを知る。
 何もしなければ引き分けではない。何もしなければ負けるのだ。不戦敗とはそういうことだ。
 弱い自分に勝つための方法を教えることが教育ではないのか。

 2009年6月7日(日) 「時間という不自由と自由。
               時間は克服できるかできないか」

 時間は一瞬の連続だけど、人の意識は連続する時間の中にある。
 空間の認識が多様で多層なように、時間に対する意識も必ずしも直線的なものではない。
 明日の予定を考えつつ今テレビに映っている画面を見て、ふいに昔のことを思い出したと思ったら、そこからの連想で何か食べたくなったり、明日のご飯のことを考えたり、やらなくてはいけなかったことを思い出したりと、意識はとりとめもなく飛んでいる。
 いつも現在から未来へ向かって流れているわけではない。
 意識とは別のところで時間が一定速度で流れ、流れに取り残されたり、同調したりする。
 私たちは意識レベルではすでに時間を超越している。ほとんど無意識のうちに。ただ、肉体レベル、物質レベルでは時間を超えることができていない。
 もし、世界からすべての時計が消えてしまったら、私たちの時間に対する意識はどうなるのだろう。
 気持ちの拠り所を失って、足元がぐらつくような不安感に襲われるのではないか。
 人間は時計や暦を作って時間を目に見える形として時間を制御した気になっているけど、本当にはできていない。
 時間に対する個人差や意識のズレが世の中を複雑にしているということもある。
 今だけに生きている人間と、10年後、20年後を考えている人間とでは意見が合わないのは当然のことだ。
 100年後、1000年後のことを考えている人もいるけど、圧倒的少数で世の中を変えるには至らない。
 問題は私たちに時間に対する共通認識がないということだ。
 国の指導者でさえ10年後のビジョンを持っていない。だから夢を語れないし、未来を約束できない。
 人は良くも悪くも時間というものに縛られている。そこから完全に自由になることはできない。
 いつか時間を自由にコントロールできる日が来るのかどうか。
 何百年後かには、時間の正しい概念を小学生でも理解できる時代が来るかもしれない。
 時間を超えることができるようになれば、時間が解決してくれることを短時間で克服できるようになるだろう。
 遠い未来では、失恋の傷みさえ過去の遺物となってしまうだろうか。遠い日の約束とか、歳月が生み出すものとか、そういうアナクロ的な楽しさや喜びがなくなってしまうとすれば、それは少し寂しい気もする。
 今は不自由な時間の中で何ができるかを考えたい。そこにしかない幸せというのもある・

 2009年6月6日(土) 「思いが先で技術はあと。
               足りないのは思いの方」

 思いが先にあって、方法や技術はそのあとの問題だ。
 写真を勉強していると、そのことを痛感する。
 上手くなりたいという気持ちよりも、自分は何が撮りたいのかが大事なのだ。
 撮りたいものさえ分かっていれば、技術などは二の次、三の次で、あとからついてくる。
 小説と小説家にたとえると分かりやすい。小説家になりたいという発想は正しくない。書きたい小説を書く人間が結果的に小説家になれるのだ。
 芸術でも、音楽でも同じことだ。
 下手だからプロになれないんじゃない。思いが足りないからなれないだけだ。
 スポーツの世界はまた別ではある。いくらプロ野球選手になりたいと心底願っても、人並み外れて野球が上手くないとなれない。
 それはともかくとして、ここのところずっと自問自答しているのは、何が撮りたいのかということだ。
 頭の中で映像が見えそうで見えないのがもどかしい。
 アマがプロに対抗できるとすれば、好きな対象に対する一途な思いだけだ。
 たとえば鉄の人。彼らが決定的に正しいのは、長い期間をかけて電車だけを撮り続けていることだ。そうやって撮っていると、ある部分においてプロを超えることができる。
 富士山ばかり撮っているとか、ノラ猫専門とか、やはり専門は強い。
 私が撮りたいのは人がいる風景なのだけど、まだ本当には見えていない。撮り続けていくことで見てくるものもあるだろう。

 2009年6月5日(金) 「人が他人を必要とするのは、
               孤独の闇に落ちないため」

 他愛もない毎日の会話を思い、ときどきフッと、それがとても大切なものだということに気づく。
 そんな些細なことが、人の心を孤独にしない。
 孤独は心を食い荒らす。潤いを失わせ、小さく固くしてしまう。
 心を潤し、大きくしてくれるのは他人だ。能動的にせよ、受動的にせよ、人の心を育ててくれるのは他人でしかない。
 だから、人間は他人が必要なのだ。経済的なことや社会制度の依存といったようなことは二義的な意味でしかない。
 単純にたとえれば、人は無人島では成長できないし、正気も保てないということだ。
 刑務所で悪いことをすると罰として独居房に入れられる。一人になった方が気楽でいいじゃないかと思うけど、罰なのだから想像以上につらいことなのだろう。他人と会話の不在がいかに心を痛めつけるかということだ。
 人には日常会話が必要不可欠だ。
 それをないがしろにしてはいけないし、今よりもう少しだけ大事にした方がいい。

 2009年6月4日(木) 「自分はもっと広がる。
               可能性は自分の外にある」

 自分の興味がないものこそ、勉強したり、体験したりしてみるといいのだろうと思う。
 やってみれば、自分自身の幅が広がる。
 そこに可能性の芽があるかもしれないし、自分でも気づかなかった才能が眠っているかもしれない。
 すでに開拓された分野に今以上の可能性を見いだすのは難しい。
 大人になると、自分の趣味を広げることができなくなる。
 だから、もし機会が訪れたなら、積極的に興味外のことに関わっていった方がいい。
 人は自分が思っているほど自分のことが分かっていないものだ。
 自分の可能性の限界は、イメージするよりもずっと外側にある。
 世の中には試してみるべきことがたくさんある。
 尺八とか、詩吟とか、フリークライミングとか、セパタクローとか、化石の発掘とか、変わった趣味の人たちに見習うべきところも多々ある。

 2009年6月3日(水) 「世界の広さが分からない。
               分からなくても生きてはいけるけど」

 この世界のスケール感がよく分からない。
 三次元の宇宙全体だけでも上手く想像できない。
 2,000億×1,000億の星の中で、0.1パーセントでも生命体がいたとして、2億星に数百億年の歴史があり、数十、数兆の人類がいて、それぞれに人生があったなら、私たちは個人としてこの宇宙にどう関われるというのだろう。
 あの世とやらの多重構造が宇宙間で複雑に入り組んでいたとしたら、大きさでも、深さでも、多様さでも、すべてにおいて理解不能となる。
 私たちの思考など、虫の意志決定程度の動きに過ぎないのか。
 どれくらいのスケール感なら、納得できるだろう。
 あまりにも何も知らない状況の中で、のんきに生きている。
 それでもいいといえばいいのだけど、これでいいのかなという疑問がずっとある。
 この世界に対する理解は本当に不要なのかどうか。

 2009年6月2日(火) 「ゼロから始まり、
               ゼロには戻らない」

 まったくのゼロから生まれた私たちは、全部なくしたとしても元に戻るだけのことだ。
 マイナスと思うことも本当はマイナスなんかじゃない。
 ある程度歳を取ると、もう取り返しがつかないと思ってしまうけど、失った過去を自分の所有物と思うのも違うのかもしれない。
 時間さえも自力で手に入れたものではない。残り時間が少なくなれば時間の貴重さは増すけど、貴重さを感じながら毎日を過ごすことも大切なことだ。若い頃はそんなことに気づかなかった。
 すべての過去は上積みで、崩壊もまた結果の上塗りだ。
 良くも悪くも元に戻ることはない。
 生まれる前に戻れない以上、この先で何をどうするかを考えるしかない。
 最初から何も持っていなかったと思えば、気も楽になる。
 残された時間をありがたく生きさせてもらうことにしよう。
 人生は全部がおまけみたいなものだ。

 2009年6月1日(月) 「明日の自分はやるやつかもしれない。
               今日の自分は昨日の期待を忘れてる」

 一日の終わりに、明日への希望はある。
 翌日になれば、希望は小さくしぼんでしまっている。
 人は眠りの中で何を得て、何を失うのだろう。
 人は明日の自分を過大評価しすぎるのかもしれない。
 明日の自分も、今日の自分と同じくらい駄目なやつと思っておいた方がいい。
 今日の自分は、せめて昨日の自分には勝てるように頑張りたい。
 昨日の自分に負けているようでは、明日の自分にも期待は持てない。

 2009年5月31日(日) 「今日が駄目でも明日があるさ。
                明日が駄目でももう一日待ちたい」

 自分に対して自分自身が説得力を持たない日というのもある。
 自分の思いが自分の心に響かない。
 そんなときは、自分を裁こうとせず、判断を先送りにした方がいい。
 一時的な判断で自分を駄目だと決めつけてしまうのはもったいない。
 自分を好きな日もあれば、嫌いな日もある。
 なんにしても、最終的には自分を認め、自分を許すしかない。
 長い目で見守りたい。

 2009年5月30日(土) 「悲しくても大丈夫。
                悲しみは生きない理由にはならない」

 大きな悲しみは癒えることがないから、悲しみを打ち消したり忘れたりしようとするのではなく、悲しみを悲しみのまま自分の中で抱えて、その上でどうやって生きていくかを考えるしかない。
 生きていれば無傷というわけにはいかない。
 傷だらけのオンボロになっても、走れるうちは走り続けなくてはならない。
 悲しいからといって喜んだり笑ったりしてはいけないわけではない。
 忘れられるものなら忘れてしまってもいい。
 何にしても、悲しみと上手くつき合っていくことだ。悲しみは必ずしも悪というわけではないから、嫌ったりしないで欲しい。

 2009年5月29日(金) 「ごめんとありがとうを
                言う人は同一人物」

 大切な人のことを思うとき、頭に浮かぶ言葉は、まずごめんで、次にありがとうだ。
 考えてみると、謝らなければいけない人と、お礼を言いたい人が同じだということに気づく。
 どうやら私にとって大事な人というのはそういうことらしい。
 さよならの代わりに言う言葉はもうずっと前から決まっている。
 ごめんね、でも、ありがとう。

 2009年5月28日(木) 「テラ・サーガ。
                物語は続く」

 百年前、千年前、一万年前。
 そういう大きな単位で、この世界とそこに生きた人たちのことを考えるとき、今の私たちは何を言えるだろう。
 たとえば、今不幸を感じながら生きている人は、どの時代に行けば幸せになれるのか。
 生きている実感が希薄だからという理由で、戦国時代や幕末に放り込んでもらって、果たして本当に幸せになれるのかどうか。
 逆に、戦続きで平和な世界に焦がれている戦国時代の女性を現代社会に引っ張ってきたとして、彼女はここで真の幸福感を得ることができるだろうか。
 物事にはつながりがあり、話には前後がある。しっくりきていないものを入れ替えて上手くいくようになることもあるけど、動かしてかえって悪くなることも多い。
 時代もまた同じだ。人は結局のところ、同時代でしか生きられない。タイムマシンで時間旅行ができるようになったとしても、今以上に幸せになれるかどうかは怪しいものだ。
 過去があり、今があり、未来がある。
 受け継いだものを先へ渡すことが私たちのなすべきことだ。
 100万年前の人類について、個人的には一人も知らなくても、確かに今につながっている。
 彼らの夢を私たちは引き継いでいるし、希望を未来へとつながなければならない。
 傲慢になることはないけど、悪びれることもない。
 この世界で起きる幸せなことも不幸なことも、すべては積み重なり、時間という一本の線で結ばれる。
 これは縦糸と横糸が織りなすサーガだ。
 物語に参加できたことを喜びとしたい。

 2009年5月27日(水) 「夢はあってもなくてもいい。
                ないよりあった方がいいけど」

 夢の終わりは人生の終わりか、新たなる旅立ちか。
 夢は叶えるにしてもあきらめるにしても、終わらせないと次へ進めない。
 夢が破れるということは、必ずしも不幸なことじゃない。
 一番よくないのは、夢を言い訳にして自分を誤魔化すことだ。
 夢に片思いしてるだけでは夢に近づけない。砕ける覚悟でぶつからなければ。
 夢への入口は細く、たいていの場合、そこは固く閉ざされている。
 扉を叩き続けることしかできないのなら、それを続けるしかない。叩くのをやめてしまえば、永遠に扉は閉ざされたままだ。

 2009年5月26日(火) 「戦いは理想のために。
                理想なき戦いに潰されないように」

 現実感を伴わない理想主義者は負け犬の遠吠えで、理想を持たない現実主義者は戦いのルールを勘違いしている。
 この世界で生きるのは、理想を実現させることが目的なのであって、厳しい現実と戦うことそのものが人生の目的ではない。
 本物の勝者は敗者を悪く言わない。対岸の敗者同士がののしり合っているだけだ。
 理想を実現させるために戦って敗れた者は称えられていい。
 自分もそうだというなら胸を張ればいい。
 もう一度自分自身に問いかけてみる必要がある。
 毎日のその戦いは理想に近づくためのものかどうかと。近づいていないのなら、戦う相手と戦場を変えるべきかもしれない。

 2009年5月25日(月) 「いい顔はいい魂から?
                顔と魂の関連はあるのかないのか」

 肉体は魂の入れ物にすぎないのか、魂の発露そのものなのか。
 肉体と魂が完全に同体でないことは知っている。
 清らかな魂の持ち主が必ずしも外見的に優れているわけではない。
 きれいな顔をしていても、魂もそうだとは限らない。
 見た目の欠点は、魂の欠陥なのかどうか。けっこう関連づけて考えてしまいがちだ。完全に切り離して考えることは難しい。
 人は見かけによらないと言うけど、性格は顔に出る。人は見かけ通りということも多い。例外的に見かけによらないことがあるだけだ。
 たとえば人相学というものがある。あれは統計学なのか、どうなのか。
 顔を整形すれば、性格は確実に変わる。周囲の反応や対応も違ってくる。それは魂まで変化したと言えるのかどうか。
 人の顔は変わる。歳を取るというだけでなく、いわゆる「いい顔」になることもあるし、「悪い顔」になることもある。
 顔の変化と魂の変化と、どこまで同調するものなのだろう。
 好きな顔と好きな人格とは、ある程度までは共通するし、でも完全に一致することはない。
 美人の基準も時代や地域によって違うから一概には言えないのだけど、きれいな顔で生まれる方が得をすることは多い。
 それは良い魂の持ち主に対する褒美のようなものと考えていいのかどうか。
 神の祝福と、神の呪いといったようなものを思わずにはいられない。
 自分の顔には責任を持たなくてはいけないと言うけれど、顔というのはどこまで自分のためのもので、どこからは他人のためのものなのだろう。

 2009年5月24日(日) 「戦う相手はこの世じゃない。
                負け戦でどう散るか」

 人は誰でも何かしらの取り柄があって、それを活かして人の役に立つことができればそれが一番いい。
 けど、現実はそうじゃない。才能で生きている人間はほんの一部で、自分に最も向かない場所でもがいている人も多い。
 人生を皮肉と取るか、生きることを修行と考えるかは人それぞれだけど、この世は正論では納得できない不条理に満ちている。
 かといって、世界の有り様に戦いを挑んでも勝ち目はない。
 人は不毛とも思える戦いの中で消耗していく。
 わずかながら成功はある。希望もある。
 けど、その数少ない希望に大勢が群がって奪い合う光景というのも、客観的になってしまうと浅ましく思えたりもする。
 白けてしまうのが一番不幸だと知ってはいるけれど。
 結局、踊らされる阿呆に徹することが幸せなのかもしれない。
 物語の登場人物として、自分の役柄を演じきることこそが、私たちに与えられた使命なのか。
 これは悲劇でもあり、喜劇でもある。
 泣いて笑って、最後はハッピーエンドになればいい。

 2009年5月23日(土) 「山は登ったら下りるもの。
                山頂は非日常だから」

 山は下りるために登るもの。
 旅行は帰ってくるためにするものだ。
 登って飛び降りちゃいけない。
 坂道を転がるようにというけど、下りもまた人生だ。
 転落できるのも登った者の特権だから、転げるのを味わうのも悪いことじゃない。
 登れない人間は転げることもできない。
 山は降りるもので、ずっと上にいるところじゃない。
 転がり落ちて止まったら、また次の山もある。

 2009年5月22日(金) 「10年ここにいて、
                これからもここにいる」

 ネットの住人であり続けようとするのは、過去の約束と、未来の出会いを果たすためかもしれない。
 ココニイルコトと、ここにいるよと。
 ここにい続ける限り、かすかでも過去と未来につながっていられる気がする。
 ひどく孤独を感じていた10年前の私はネットに出会い、自分の居場所を見つけ、孤独じゃなくなった。
 出会いの数だけ別れがあったけど、それでもこの10年はとても幸福なものだった。
 みんな元気にしてるだろうかと、ときどき懐かしく思い出す。
 この先の10年がどんなものになるかは分からない。それでもきっと、ネットの住人であることをやめないだろう。
 私はずっとここにいて、これからもできるだけここにいたいと願う。
 再会と出会いのために。

 2009年5月21日(木) 「問題は常に生まれ、打ち消され、
                それでも問題はなくならない」

 大きな問題が小さな問題を駆逐してしまうというのはよくあることで、そうやっていくつもの問題をうやむやになっていっていいのかと考えたりする。
 逆に言えば、それが救いだったりもする。
 大部分の悩みは死によって解決するように。
 今でいえば、新型インフルエンザの問題で、それ以外のいろんなことが飛んでしまっている。その前はどんな問題で騒いでいたのか忘れてしまったくらいだ。
 新しい問題が古い問題を打ち消しながら進んでいくというのがこの世の常なのだとしても、本当にこれでいいのかなと疑問に感じることがある。
 人の忘れっぽさは良い方にも悪い方にも作用する。それが人というものだというならそうかもしれない。
 あまりにもそんなことの繰り返しで、問題に対してだんだん鈍感になっていってしまう。
 子供の頃は小さな出来事が大問題だったのに、大人になると大したことではなくなってしまう。
 それは、往々にして鈍くなったからだ。その分、生きることが簡単にはなるけど、若い頃の問題意識と歳を取ってからの問題感覚と、どちらが正常なのか判断に迷う。
 歳を取っても老いてはいけない。自分のことに関しても、世の中のことに対しても、鈍くなって無関心になるのが一番よくない。
 どんなに虚しく感じても、問題解決に取り組む姿勢が大切だ。誠実さをなくすと、結局自分に跳ね返ってきて損をする気がするから。

 2009年5月20日(水) 「長生きして進歩を見る。
                立体百科事典の完成はいつになるだろう」

 四次元的立体百科事典といったようなものが、この先50年以内には開発されるんじゃないかと思っている。
 Wikipediaは、ネットのとても便利な百科事典だけど、あれはまだ3次元的だ。リンクでどれだけたどっていっても、階層を潜っていっても、平面的なものに過ぎない。
 人の興味というのは、横にも縦にも際限なく広がっていく。
 たとえば坂本竜馬について調べたとき、どういう実績を残したとかそういったことは平面辞書でも分かるし、横のつながりも百科事典である程度調べられる。
 けど、たとえば同じ日のアメリカでは何が起きていたかとか、そのときアフリカでは人々がどんな暮らしをしていたのかとか、当時はみんなどんなものを食べていたのかとか、そういう興味についてとっさに調べることはできない。
 今はまだ、空間軸と時間軸が同面になってしまっている。
 立体辞書というのは、時間軸の年表と出来事の空間軸との間を自由自在に行き来できるものだ。
 そのためには、マルチタスク、マルチモニタで、PC画面も立体表示でなくてはならない。ゲームのポリゴンCGのように。
 あと、ナビがつかなければならないと思う。何を訊ねても答えてくれる先生なり執事なりが必要だ。
 キーボードを打つのもまどろっこしいから、音声入力になるだろう。
 情報は文字だけではなく、画像や動画ももちろんいる。
 そのためには絶対的なCPU能力と、メモリ、回線速度も必要不可欠となる。
 逆に言えば、そういうハードの部分が進歩していくことで立体百科事典は可能になっていくのではないかとも思う。
 情報に関しては一度データベースの基本を作れば、あとは増える一方だし、ユーザー参加型になるのも必然だろう。
 wikiは方向性としてはかなりいい線いっていることは間違いない。10年前にはこれほど充実したネット辞書は存在していなかった。
 50年と言わず、あと10年もすれば近いものができてくるかもしれない。
 そんなことを考えていると、まだまだ長生きはしなくちゃなと思う。

 2009年5月19日(火) 「無価値かどうかを決めるのは他人。
               自分を断罪することはない」

 自分に価値があるかないかは自分が決めることじゃない。
 人に決めてもらうことだ。
 自分で自分のことを無価値だと思ったとしても、誰かにとって価値があるなら、自分よりも人の判断が優先する。
 それは慰めというよりも責任だ。
 誰かにとって自分の存在が必要だというなら、生きる義務が発生する。
 そもそも、自分の価値などあまり考えることはないのだ。
 なすべきことはたくさんある。最初に意味があるわけではなく、意味はあとからついてくる。価値も同じだ。

 2009年5月18日(月) 「キミが好き。
               でもそれはボクが決めたことじゃない」

 考えてみると、好きなことって、自分が決めたことじゃない。最初からそうだったり、いつの間にかそうなっていただけだ。
 好きか嫌いか自問自答して、好きと分かるだけで、自分の意志でこれを好きになろうなどというように取り決めたわけじゃない。
 食べ物にしても、趣味にしても、好みのタイプにしてもそうだ。好きな色に理由なんてない。
 遺伝子の戦略といえばそうなのかもしれないけど、それだけでは説明がつかない。
 同じ環境に育った兄弟姉妹でも好みは違うし、双子でも何もかも一緒というわけではないだろう。
 そういう意味では、私たちは好きという感情のシモベとも言える。人は自分の好き嫌いに翻弄されて生きている。ある種、被害者と言えなくもない。
 好きな物をたくさん増やせば、それだけ人生は楽しくなるけど、そういう部分でも、自分の意志は必ずしも役に立たない。
 好みのタイプはどうやったって好きだけど、嫌いなタイプを好きになるのは難しい。
 好きという感情を自在にコントロールしたり、増やしたりするのも簡単じゃない。
 好きってのは、一体なんだろうと思う。その正体はよく分からない。
 とはいうものの、好き嫌いの上にあぐらをかいて何の努力もしないのは間違っている。好きな物は好き、嫌いなものはどうしようもないというのでは、あまりに無力だ。
 好き嫌いの感情を乗り越えていく部分が必要となる。自分が決めたことじゃないのなら、尚更だ。

 2009年5月17日(日) 「良くも悪くもこれが自分で、
                自分のすべてじゃない」

 楽観と悲観は必ずしも矛盾する感情ではなく、常に自分の中で共存している。
 どちらかが一時的に表に出てくるかだけだ。ころころ入れ替わることもあるし、同時に顔を出すこともある。
 人はいつも前向きでいられるわけではない。ときには投げやりになることもある。
 相反する感情を持ち合わせて尚かつ矛盾しないのが人間の本質だ。
 陽気なだけの人間もいない。
 自分にせよ、他人にせよ、どちらか一方だけで判断しないことだ。
 どうしようもなくいじけてすべてのやる気を失ってしまうこともあるけど、それが本当の自分の姿だと悲観することはない。そういう時期が誰にでもあるというだけだ。
 常に前向きな人間は不気味だ。それはどこか壊れている。
 人は振り幅があった方がいい。善悪においてもそれは例外ではない。
 良くても悪くても、今日の自分を信じすぎてはいけない。
 良いことも悪いことも、ずっとは続かない。

 2009年5月16日(土) 「ささやかな存在が支える
                ささやかな世界と自分との関係」

 自分を支えている大きな世界と、自分が支えている小さな世界。
 どちらにおいても自分の存在はささやかで、そのささやかさが愛おしくもあり、残念でもあり、苦笑いを誘う。
 自分がいなくなってもこの世界は変わらない。自分が支えとなっている小さな世界も、私の不在によって一時的な混乱はあっても、やがてまた新しい秩序を取り戻す。
 だから自分の存在は無意味だというのではなくて、どうしてこんなに小さな存在の自分なのに、自分の人生を過大評価しようとするのだろうかと考えてしまう。
 自分と世界の関係は、飼い猫と飼い主に似ている。
 世界や他者との関係性を失っても、自分は自分でいられるだろうか。
 自分の存在を自分の意志で消せるとなったとき、もったいないという以外のどんな理由で思いとどまることができるだろう。
 いくら考えても分からないことでも、誠実に存在しようと思えば、一定の方向性や自覚的な姿勢が必要だとは思う。

 2009年5月15日(金) 「弱者の論理で負けないこと。
                守るための強さが必要だ」

 世の中に強者の理屈がまかり通っていることは別にかまわない。
 ただ、それをこちらに押しつけられても困る。
 そんな理屈はお呼びじゃないのだ。
 私がしたいのは、揺るぎのない弱者の論理の提出だ。
 弱者が強者に勝つための理屈ではなく、弱者が弱者のまま立って進むための方法論と言ってもいい。
 人間界においては弱肉強食が絶対の法則ではない。どんな人間も並び立つことができる。そのためには、食い物にされないための強い論理が必要となる。
 偉くて立派に生きられる人は勝手に生きればいい。
 でも、正しく生きられない人間を否定する権利はない。
 弱者は攻撃に晒されても負けない強い防御がいる。論理はそのための防具だ。武器じゃない。
 どんなに立場が弱くても、議論にも暴力にも屈してはいけない。
 強さを身につけることができるのは自分だけで、誰も守ってはくれない。
 つまりは、自分を守るための知恵を身につけろということだ。
 弱者に鉄板の固さは必要ない。大切なのは、水や風のようなしなやかさだ。
 弱いからこそ自由になれるということもある。

 2009年5月14日(木) 「人生の余白。
                あってもなくても」

 何も描かれていないキャンバスと、白一色に塗られたキャンバスは、同じに見えて違う。
 人生には余白がある。
 余白は空白とは違う。何もなくても、そこは生きた時間が描いた白色だ。
 たとえ余白ばかりの人生だとしても、描かれるべき場所に、描かれるべき線と形と色があれば、その絵は無駄ではない。生きたことは無意味じゃない。
 余白を丁寧に生きることが大切だ。
 余白の美学というものもある。

 2009年5月13日(水) 「重症か軽症かといえば軽症。
               大丈夫かどうかといえば大丈夫でもない」

 若い頃の絶望という重症は治り、その後にわずらった失望病がこじれて、慢性化している。
 持病とは上手くつき合っていくしかないけど、死に至る病ではないという保証はない。
 完治の希望はいつでもある。一切の失望から開放されるイメージもなくはない。
 それでももう、若くて健全な精神に戻れないという予感はある。
 あとは、病んだままどこまでいけるかしかない。
 大丈夫かと問われたら全然平気と答えるけど、強がり抜きに言えばそんなに大丈夫でもない。
 まあ、なんとかするしかないといえばそういうことだ。

 2009年5月12日(火) 「心寄り添えば、
                そこに縁が生まれる」

 すべての人と同時代を生きられるわけではない。
 けど、違う時代に生きたら無縁かといえば、必ずしもそうではない。
 古人との縁を得たければ、その人について学べばいい。
 生まれた場所や墓所を訪ね、足跡を辿り、生き様を勉強して、共感すれば、その人に近づくことができる。
 それもまた一つの縁だ。一方通行かもしれないけど、縁は縁を呼び、どこか思いがけないところでつながったりもする。
 あの世かもしれないし、来世かもしれない。もしかしたら、守護天使になってくれるかもしれない。
 いずれにしても、好きな人間がたくさんいるのはいいことだ。それは財産でもある。
 良縁は男女の仲だけのものではない。縁は喜びであり、縁が自分を救ってくれることもある。

 2009年5月11日(月) 「ライバルは幻の自分。
                この道は近道なのか」

 勝たなくてはいけない相手がいるとすれば、それは自分が思い描く理想の自分だ。
 そうあるべき自分に、今の自分は常に負けている。まったく太刀打ちできないと言ってもいい。
 それでも、超えるべき存在があるとすれば、理想の自分以外にない。
 そこに挑戦の意味がある。
 いつまでも負けっ放しじゃいられない。
 順風満帆に進んだ自分の幻を、どこかで追い抜きたいとずっと思っている。

 2009年5月10日(日) 「欲しいものは何ですか?
                その問いに即答できるか」

 手の届かない高いところにあるものを掴むためには、降りてくるのを待つか、自分が高いところに上がるか、飛び跳ねて取るか、ということになる。
 どれが正解かというのは一概には言えない。
 熟すのを待つのも一つの方法だし、上昇志向ももちろん間違いではない。知恵を使って取るというのも賢いやり方だ。
 家康、信長、秀吉にたとえてもいいかもしれない。
 あの戦いでは最後に家康が勝利したわけだけど、いつもそうなるとは限らない。時代とか、周りとの関係とか、運とか、様々な要素が絡んでくる。
 ときには奪うという方法もある。勝てば官軍の言葉通り、奪った者勝ちというのは歴史が証明している。
 一つ確かなことは、どんな方法にせよ強い意志が必要だということだ。信念と言ってもいい。
 たまには何もせずに転がり込んでくることもあるけど、それでは喜べない。
 どんなに高くて手が届かないものでも、欲しいものを自覚していることが大切だ。
 欲しいものを手に入れるために生きているのだし、どうしても欲しいものを手にしたときこそ生きていてよかったと思える。
 欲しいものがないまま生きているというのは健全ではない。私もそうかもしれないけど、多くの人はそのあたりが意外と曖昧になってるんじゃないか。
 今一番欲しいものは何ですかと急に訊かれても、すぐに答えられるようじゃないといけない。そうでないと、生き方がうやむやになってしまう。
 背伸びして、手を伸ばして、ジャンプして、それでも届かなければ踏み台を探してきて、人から奪ってでも手に入れたいものは何か。
 まずはそこから再確認する必要がありそうだ。

 2009年5月9日(土) 「言葉はエネルギー。
               波動として伝わるもの」

 言葉は良い方にも悪い方にも影響を与えるもので、自らを縛りもするし、解き放ちもする。自らの言葉に復讐されることもある。
 言霊(コトダマ)思想というのは、日本以外にも存在するのだろうか。
 英語圏にはなさそうだし、言葉を大事にするフランスにもないのではないか。
 漢字発祥の中国にかつてあったのかどうか。たぶんなかったように思う。
 たとえばアフリカの呪術のようなものとも違う。
 日本では不吉なことを口にするのを嫌う。言葉にするとそれが実現しそうな気がして恐れる。
 言霊思想というのは昔の話ではなく、現在でも生きている。
 受験生に落ちると言わないとか、結婚式で別れるとか切れるはタブーといったように。
 その一方で大事なことを口にするのが苦手だ。好きだとか愛してるとかを上手く言えない。
 言霊というのは悪い方だけでなく良い方にも作用するのだから、良くなることはもっと口にしてもいいのになかなかできない。
 どうして日本だけに言霊思想というものが発達したのかはよく分からない。
 中国から漢字が入ってくる前は、どんな言葉を話していたのだろうか。文字はなくてもコミュニケーションのための言葉は発していたはずだし、文字に類するものもあったのではないか。
 入ってきた漢字を変形させて使いやすいようにひらがなを作り、カタカナを発明し、外国の言葉もたくさん取り込んだ。
 その結果、使いこなすことができればこれほど便利なものはない言語を、私たちは獲得することになった。日本人がいくら英語を完璧にマスターできたとしても、日本語以上に上手く表現することはできないはずだ。
 日本人は良くも悪くも言葉に縛られている民族なのかもしれない。
 それは、祝福でもあり、呪いでもある。
 だからこそ、上手く使っていかなければいけないとも言える。
 言葉もまたエネルギー体で、発せられた以上世界に影響を与えないはずがない。
 言霊思想は、現代においても科学なのだ。

 2009年5月8日(金) 「未来は予想通りにはいかない。
               それでもあの頃のラブソング色褪せない」

 店内に流れる古いラブソングに、目の前の風景が少し滲んで、ひとり苦笑いを漏らした。
 あの頃思い描いた未来に私ははいないけど、ここも悪くないと、あの場所で立ち尽くしてる自分に笑いながら手を振って知らせてあげたい。
 思い出のラブソングは、恋の記憶のように大切なものだ。
 そしてそれは、先へ行くほど価値が出る。
 だから私は、歳を取ることはそんなに嫌じゃないのだ。

 2009年5月7日(木) 「タイムマシンは夢の乗り物にあらず。
               人は現在を生きるのみ」

 タイムマシンは夢の乗り物かといえば、たぶんそうじゃない。
 むしろ、夢を壊すものだ。
 もし、自由に過去や未来へ行き来できてしまったら、古代の歴史を研究したり想像したりする楽しみもなくなるし、未来に夢を描くこともできなくなる。
 ただ、タイムマシンは完成しないのだろうから、心配することはないか。
 少なくとも、私たちが進んでいる時間軸の延長線上にタイムマシンという乗り物は存在しないだろう。
 もし遠い未来でも完成したなら、歴史上のどの時代にも未来からやって来たタイムマシンが目撃されたという事実を知識として持っていることになる。
 あるいは、自由にどこへ行くか決められるマシンはなく、人間単体でタイムトリップできるようになるという可能性はあるかもしれない。
 もしくは、タイムマシンを作れるようになる前に人類が滅亡するということもある。
 タイムマシンで過去のどこへでも行けたら、全部見てきたら早い。
 邪馬台国がどこにあって、卑弥呼はどんな人物だったのかとか、壬申の乱の真相はどうだったのかとか、本能寺の変で信長はどうなったのか、竜馬暗殺犯は誰なのかなど、目で見て確認すればあっけないくらい一発だ。
 まったくロマンも何もあったもんじゃないけど。
 人間の頭で考えつくものはすべて実現するという説がある。それでいくと、タイムマシンもいずれ完成するということになるのだけど、果たしてどうなることか。残念ながらそこまで見届けるのは難しそうだ。ここ50年以内にできるとも思えないし、それ以前に、空中のチューブの中を車が走ることさえ実現しそうにない。
 人はどの時代でも、過去にロマンを感じ、未来を夢見ることで現在を生きている。
 タイムマシンなんてものは、実に無粋なものと言えるだろう。そんなものはなくてもかまわない。

 2009年5月6日(水) 「まだ始まったばかり。
               結論を出せるほど長生きしてない」

 文明発祥以降の人類の歴史を考えてみると、まだたった数千年のことで、こんな短期間で結論が出るはずもないと思える。まだまだ始まったばかりではないか。
 新しく発明されたものや開拓されたものも、ここ数十年のものが多い。
 この世界の可能性というのは全体の数パーセントしか実現していないのではないか。
 宇宙に進出したといっても、自分の家の庭を出て数百メートル外へ行ったことがあるというだけだ。太陽系という村さえ探検できていない。
 宇宙では数百億年という時間が流れている。お金にたとえれば、三千円、四千円貯めていい気になってる子供と、資産数百億のお金持ちくらい差がある。
 地球にも数十億という年月があった。その中で人類というのは昨日、今日生まれた新参者だ。ここが到達点ではもちろんない。
 私たちは人類の意味を知ることはできないだろう。当事者ゆえに分からないこともあるし、全部終わってみないと確定できない部分もある。
 人類の意味も分からないまま、人は個人としての人生の意義を求めて生きることになる。
 それを虚しいこととしてしまうと、生きることが難しくなる。
 結論を先送りにして、生き延びることが唯一の正義だと私は思っている。
 この世界の理由を知ることができないのが悲しくもある。
 もし知ってしまったら、悲しみを超えて絶望となってしまうのだろうか。

 2009年5月5日(火) 「言葉は力を持ったり持たなかったり。
               優しかったり残酷だったり」

 頭で考えて口先から出てきた言葉と、生き様が生み出した言葉とでは、意味も重みも違う。
 優れた言葉が偉大なのではなく、偉大な人間が語った言葉が名言となる。
 言葉の説得力は、その人間そのものの説得力に他ならない。
 イチローから出た言葉と同じことを、2割バッターが言っても価値はない。
 そういう意味では、言葉は裏切らないとも言えるし、言葉の残酷さというのもある。
 誰の言葉に喜びを感じ、誰の言葉に傷つくかというのは、発する側と受ける側の関係性による。
 私たちは誰に対してどんな言葉を残せるだろう。
 私の言葉はあなたの心の深いところまで届いているだろうか。

 2009年5月3日(日) 「人は誰かが作っているのか。
               偶然にしてはときどき出来が良すぎる」

 人間は誰が作っているのだろうかという素朴な疑問がある。
 天才、美人、カリスマ、愛すべき人物。
 そんな特殊な人間たちも、本当に偶然の産物にすぎないのだろうか。
 何者かの作為が感じられなくもない。
 若い頃は憧れもしたけど、今はそういう気持ちはなくなった。そんなやっかいな人生はしんどそうで性に合わない。
 自分で望んだというよりも、背負わされてしまっているようにも感じられる。
 人間を作っているのが本人だけということは決してない。人は様々な影響を受けて形作られるものだから。
 作為もあれば偶然もあるというのが実際のところなのかもしれない。
 この話に関係ないようである、大泉洋の結婚はとても喜ばしいものだった。
 洋ちゃんよかったねと、喜んだ。
 ああいう愛すべき男がいなければこの世界は詰まらない。
 この世界を作ったのが誰にせよ、面白ければそれでいいかとも思う。

 2009年5月2日(土) 「やれることをやってきただけ。
               他の選択肢はなかった」

 この10年のことを考え、20年のことを思い返してみる。
 少しの悪いことと、たくさんのいいことがあった。
 感慨深すぎて言葉にできない。
 人生の可能性というのは、一本道しかないのだと思う。
 あのときああしていたらと考えることはあっても、今いる道以外に選択の余地はなかったのだ。
 すべてが運命だとは思わないけど、全部は必然の帰結のように感じている。
 この先で起きることもきっとそうなのだ。
 選択を放棄しているとかではなく、進む道に迷うことはないということだ。
 人がどう思おうと自分はやれることをやってきた。それはこれからも変わらない。
 これで終わりというなら、そうなのかもしれない。

 2009年5月1日(金) 「死からのサインに
               気づかないふりをしているだけか」

 自分の死の予感はきっとあるだろうと思い込んでいるけど、実際そんなものはただの幻想で、そうそう都合よくはいかないのかもしれない。
 準備をする間もなくあっという間にさらわれてしまうものなのだろうか。
 死の淵から生還できることもあるし、できないこともある。
 武士のように常に死を意識しながら生きることは難しいけど、心構えだけはしておく必要がありそうだ。
 死ぬのに適したときはあるようでない。ないようであるのだろうか。
 もうここらへんでいいかなと思ってしまったら、死に取り込まれてしまうようにも思う。
 死ぬ前にやっておくべきことが、生きるということだ。
 死の準備期間はごく短いと思い定めて、日々を過ごさなくてはいけない。
 覚悟しても受け入れるのは難しいだろうけど、死は他人事じゃない。
 さよならを言う時間くらいはあるかな。

 2009年4月30日(木) 「今ここに生きていることの奇跡。
                当たり前の奇跡を大切に」

 奇跡は案外ありふれていて、それが奇跡だということを自覚できない。
 酸素を持つ惑星の存在は大いなる奇跡なのに、私たちは普段何も考えずに空気を吸っているように。
 奇跡は永遠ではないことも私たちは自覚すべきだろう。どちらかというと、一瞬の側に属している。
 今この瞬間も私たちを取り巻いているたくさんの奇跡について分かっていることが大事だ。
 奇跡に気づけば、生きていることは喜びとなる。
 奇跡を侮ってはいけない。

 2009年4月29日(水) 「この戦いを戦うだけ。
                不毛であろうとなかろうと」

 弱肉強食が世の常とはいえ、それが絶対的法則だとしたら面白くない。強い者が必ず勝つと決まっているなら勝負する意味がない。
 たまには弱い者が強い者に勝つこともある。
 その痛快さが、世の中の心の支えとなっている部分もある。
 広い視野で見れば、強者も更に上位の強者にとっての弱者だし、弱者も誰かにとっては強者だったりする。
 皇帝が民衆に倒されることもある。
 自分が弱者の側に置かれたとしても、弱者としての戦い方がある。
 強者には強者の悲哀があり、難しさもある。
 立場は常に逆転の可能性を秘めている。
 結局のところ、勝ち戦であろうと負け戦であろうと、自分の立場で全力で戦うしかないのだろう。
 不毛な戦いにも価値はあるのだと信じて。

 2009年4月28日(火) 「もういいかまだ駄目か。
                最後は分かるはず」

 もうこれくらいでいいかなという思いと、まだ駄目だという気持ちがせめぎ合って、どちらも寄り切れないまま、なし崩し的に明日へ向かってしまう。
 欲を言えばきりがないし、どこかで終わりは来るのだろうけど、具体的にイメージできないというのはある。
 ありがたく生きさせてもらっていいのかどうか。
 実は何かを要求されているのに応えられていないのではないか。
 何のメッセージもないということは、無言の励ましと受け取っていいのだろうか。
 最後のぎりぎりの決断は自分がすればいいのだと思っている。
 いつだって瀬戸際に立っている。

 2009年4月27日(月) 「分からないことを知ること。
                それが理解の第一歩」

 この世界に完全な答えはなくて、だから人にできるのは、分からないことを分かることまでだ。
 分かっていることと分からないことを区別して自覚できたとき、初めて人は世界を理解する入口に立つことができる。
 分からないことを分かったつもりになることが一番危険で、それが成長の妨げとなる。
 分からないこと、できないこと、足りないもの、自分の限界、それらを認識できていなければ、何も理解していないのと同じだ。
 国境が分からなければ自分の国の領土を把握できていないのと同じように。
 とりあえず端から端まで行ってみて、先端に立つことが大切だ。
 それ以上、その先が分からなくても仕方がない。分かる範囲を認知することが必要となる。
 チャレンジとトライアル&エラーという地道な作業を重ねる以外に自分とこの世界を知る方法はない。
 多くの人は自分の限界を知らない。それは夢を見られるということだけど、幸せなこととは言えない。自分の限界を知ることができた人こそ幸せだ。

 2009年4月26日(日) 「筋肉バカと知識バカ。
                対極のようでいてお仲間だ」

 知識と筋肉は似ている。
 必要以上に身につけると、自分が人より強くなったように思う。
 そんなものは錯覚なのに。
 筋肉バカという言葉があり、知識武装という言い方がある。
 言葉を入れ替えてもそのまま通用する。筋肉武装と知識バカ。
 間違った優越感がその人物の品性を下げるという共通点もある。
 賢い人間は、筋肉や知性を見せびらかしたりしない。
 それは自分の身を守るためのもので、他人を攻撃する道具ではないと知っているから。
 自分に自信を持つために筋トレをしたり勉強したりすること自体は間違いではない。それは精神を鍛えることにもつながる。
 努力して手に入れたものほど人に自慢したくなるのが人情だけど、それをしないための克己心を身につける必要もある。
 筋肉も知識も、世のため人のために役立ててこそ価値のあるものだ。
 他人のための先行投資と思えば、それらはどちらも財産となる。
 筋肉ムキムキで雑学をひけらかすようなバカにだけはなってはいけない。

 2009年4月25日(土) 「人と時間。
                時間は止まるか」

 流れていくのは出来事なのか、私たち自身なのか。
 人は時間によって運ばれている。
 それは錯覚なのかどうなのか。
 人の成長と退化は時間の流れに沿っているから、私たちは時間によって流されているように感じている。
 もし時間というものをコントロールすることができるようになれば、変化を止めたり、成長を逆流させることも可能なのだろうか。
 時間の概念というのも分かるようで分からない。
 時計というものが視覚的に理解を助けてくれるけど、まったく時間の分からない空間で暮らせば、精神だけでなく肉体的な部分さえも普通とは違ってくるのではないか。
 言い方を変えれば、主観的な時間感覚が自らの変化に影響を与えていると言えそうだ。
 たとえば、苦労したら老けるのが早いとか、子供を持つと人の親らしい顔つきになるとか、そういうことはある。
 都会暮らしと田舎暮らしでは、自分の中で流れる時間のスピードも違うし、外観にもそれは出る。
 人は必ずしも同じ速度の時間に流されているわけではない。主観時間が自分に与える影響は大きい。
 あるいは、時間よりも速く駆けることも可能なのかもしれない。通常の動作よりも早い動作を行えば、ある意味では時間の速度を超えることになる。
 未来では、人と時間との関係性が今とはまるで違っているのではないか。
 いつの日か、人は時間の主人になれるときが来るだろうか。
 それができなければ、宇宙は広くて遠すぎるから、必要に迫られればするだろう。
 時間をコントロールするようになれば、今より少しは幸せになれるだろうか。

 2009年4月24日(金) 「誰も非難したくないし、
                誰も裁きたくはない」

 裁く資格のない人間が人を裁く資格はない。
 近頃は集団リンチのような個人バッシングが多い。
 一人の人間を大勢の人間がよってたかって攻撃するのは、弱い者イジメといって、一昔前までは恥ずかしい行為だった。
 それぞれが自分は正義だと思っているからタチが悪い。
 そんなものは正義でも何でもなくて、ただの暴力だ。
 歪んだ正義がいかに不幸な結果をもたらすかということは、太平洋戦争で身をもって思い知ったはずではないか。それをもう忘れてしまったのか。
 もし本当に正義感や親切心から非難しているというなら、悪いことをした人間と一緒になってどうすればいいか解決策を探し、励まし、力になって、更生させるところまでつき合うべきだ。教育的指導というのはそういうものだろう。
 悪いことをした子供を叱るのはいいとして、叱りっぱなしでは無責任だ。どうすればいいかを教え、手助けをしてこそ、しつけと言える。
 裁判員制度というのも問題が多い。
 すごく単純にたとえるなら、自分の前に人殺しを連れてこられて、ピストルを持たされて、さあ撃てと言われるようなものだ。
 いつそんなことをしなくてはいけないと決まったのだ。国民投票で可決されたというならともかく、知らない間に知らないところで決められて、これは国民の義務ですなんて言われて納得できるはずもない。
 そもそも、日本と欧米では国の成り立ち方も精神性も違いすぎる。
 日本にも決闘と敵討ちの伝統はあったけど、それをやめようということで明治以降、現在の司法制度が作られたんではないか。
 聖徳太子が言ったように、和をもって尊しとなすという優れた日本的思想があるのに、それを捨てるようなことを国が進めていいのか。
 日本の社会は、臭いものに蓋をするとか、なあなあとか、問わず語りとか、そういうもので上手くバランスを取りながら保ってきたという歴史もある。
 ネット社会が発達して、いろんな部分で変わったきたとはいえ、互いに非難し合うというのは、やはりよくない。どこかで大きな揺り返しが必要だ。
 そのためには、上がもう少し理想論やきれい事を語るべきではないのか。今の日本に足りないのは、夢よりも向かうべき理想だ。共通理解としての理想がないから、個人としての夢が描けない。
 現実は理想通りにいかないなんてのは下の者が負け惜しみで言うセリフで、上の人間がそんなことを言ってたら身も蓋もない。
 何にしても、私は人を裁く資格など欲しくない。それが逃げだというならそうだろうけど、被害者にも加害者にもなりたくないと思いながら暮らしている。無理矢理、裁きの因果応報の輪に取り込まれたくはない。
 人を非難すれば、非難は自分に返ってくる。個人の悪口はなるべく言わないように我慢したい。悪口に責任は持てないから。

 2009年4月23日(木) 「見えない落とし穴はある。
                それでも恐れず進むことが大切」

 人生どこに落とし穴があるか、予測できない。
 油断大敵なのは当然として、どれだけ注意深く進んでも、転ぶときは転ぶし、落とし穴に気づかず落ちることもある。
 それを偶然ととるか、運命とするかは、考え方の分かれるところだ。
 自業自得というのは本当にそうなのだろうか。
 一寸先は闇といえばその通りだし、好事魔多しというのもよくあることだ。
 落とし穴に落ちない生き方が正しいかといえばそうとも言えない。走れば飛び越えられたものをゆっくり歩いたから落ちるなんてこともある。
 人生は何が起こるか分からないという結論とは言えない答えに落ち着くだけだ。
 ただ、落とし穴に落ちることは必ずしも終わりではない。その先も人生は続く。落ちて初めて分かることもある。
 失敗から立ち直れなければそれまでだし、再起を果たすことができれば一回りも二回りも成長できる。
 落とし穴もどん底も、楽しむことができれば、恐れるものはない。
 落ちたら笑い飛ばして、穴から這い出してまた先へ進めばいいだけだ。
 人生において取り返しのつかない失敗というのはそんなに多くはない。
 元に戻れなくても嘆くことはない。その先に新しい自分との出会いが待っている。

 2009年4月22日(水) 「好きで楽しいことをやる。
                後悔の少ない方を選ぶことだ」

 自分のやっていることがときどきフッと虚しくなったり、無意味に思えたりして、迷うことがある。
 そんなときはどうすればいいのか、答えは簡単だ。
 楽しくないならやめればいい。
 でも、ただやめるだけではそれこそ無意味だ。
 次にやることを見つければいい。そうすれば逃げたことにはならない。
 どこまでも追求すべきか、どこかで見切りをつけるべきかの判断は難しいのだけど、好きなことならぎりぎりまで粘った方がいい。
 人生というのは結局のところ、どういう後悔を選ぶかということで、どの道を選んでも後悔はある。
 悔いのない人生などというのは、最後の一瞬でしかなくて、死んだあとも自分が消えずに残るなら、後悔は再びやって来る。
 生まれ変わりがあるとするなら、それは後悔があるからだ。魂の自動システムじゃない。
 どんな人生になろうとも、好きなことを最後までやれたらそれが幸せということになるのだろう。

 2009年4月21日(火) 「日々の一歩。
                その一歩は夢に向かっているか」

 本当に叶えたい夢は遙か遠くて、そこへ向かって毎日全力疾走するのは難しい。いつでも全力投球なんて不可能だ。
 夢を叶えるためには確かに待ちの時間も必要だろう。時が来なければ事は起きないものだ。
 ただ、だからといってぼんやり待っているだけではいつまで経っても夢には辿り着かない。夢が向こうから近づいてくることはないから、こちから向かっていくしかない。
 具体的に毎日一歩を踏み出し続けているかと問われると、自信を持ってやっていると言うことはできない。
 日々の前進は必ずしも夢の方に向かってはいない。
 もう一度、毎日の一歩を確認する必要がある。その一歩は本当に夢の方を向いているのかと。
 小説家や画家を志すなら作品を作り続けることだし、プロスポーツ選手なら練習の積み重ねで、資格を取るなら勉強といったように確実なものであるべきだ。
 就活、婚活という言葉があるけど、それは活動でなければならない。行為というだけでは弱い。
 それほど単純ではなく、分かりやすいことではない場合も多いけど、何をしたらいいのか分からないようなことならそれは夢としては未熟すぎる。夢を描き直すことから始めた方がいい。
 やることを自覚して、やると決めたなら、あとは怠けず続けることだ。
 疑わずに一歩を踏み出し続ければ、少しずつでも夢に近づいていく。
 そうすれば、死ぬときに言い訳せずに済む。
 生きることは夢を見ることであり、夢に向かうことだ。私たちはそのための時間と機会を与えられている。

 2009年4月20日(月) 「時間は優しくもあり、残酷でもある。
                時間は人を良くも悪くも変える」

 芸能人の誰と誰が結婚して、誰が離婚したかなんて、基本的には知ったこっちゃないのだけど、ときどき、ああ、よかったねぇと思ったり、残念だなぁと思ったりすることがある。
 特に子供がいる若い夫婦の離婚というのは、他人事ながらとても残念に思う。
 というよりも、人と人とのつながりの儚さをあらためて思い知らされて、冷や水を浴びせられたような気になる。
 偶然か必然か運命か、二人は出会って、互いに惹かれ合い、愛の告白をして、それが受け入れられて喜びが来て、将来を誓い合って涙して、子供が生まれて感動して、一生大切にすると心の底から約束して、将来の希望や夢を語り合って、それがいつしかすれ違い、ぎくしゃくし出して、モメたり、ケンカしたりが増えて、互いにいがみ合い、憎み合い、愛想も尽きて、ついには離婚という形に逃げる。
 そんなことがあっていいものだろうかと信じがたい気持ちだ。あんなに好きだった気持ちは嘘だったのかと、過去に遡って疑ってしまう。
 愛が永遠に続くなどいうのは幻想だということは誰でも知っているけど、それにしても結婚までいく深い縁を持った二人が、そうも簡単に離婚にまで至るものだろうか。
 残酷なのは人生なのか、時間なのか。
 人のことだからもう少し頑張れよと言いたくなったりもするけど、本人たちにとってはもうこれ以上頑張れないというところまでいっているのだろう。
 離婚がいい悪いではなく、残念という思いがしてしまう。

 2009年4月19日(日) 「宗教は手段でも目的でもない。
                小さな灯火のようなものだ」

 宗教が救えるのはほんの一部分で、決して万能薬などではない。
 昔も今もそうだし、未来でも変わらない。
 たとえば高名な坊さんの説教をありがたがって聞いている人たちがいるけど、あんなものは話半分で聞き流さないといけない。話の巧みさに飲み込まれずに客観的に判断すれば、その内容は世間の感覚からずれた上滑りしたものに思える。
 確かに言っていることは正しいし、正論なのだけど、それだけじゃ生きていけない。
 心構えとしての正しさはあっても、だからといって生きていく上での様々な問題が解決するわけじゃない。
 宗教は、虚しさの中で咲く徒花だという自覚があればいいけど、本気で人を救えると思っているなら、それは狂信だ。
 坊主も、宗教の教えも、役割分担の中で必要なものではある。ただし、一般人より偉かったり高尚なものだったりするわけではない。
 悟りを開いた人間こそ、俗世間で生きるべきではないか。高見から説教しているだけでは自分は汚れない。本陣の中で軍配を振るうだけの大将と同じだ。
 宗教家もまた、求道者あるべきで、人の上に立っているなどと勘違いしてはいけない。ただ人より先に行っているだけだ。
 宗教は暗闇の中の小さな道しるべのようなものだ。希望の光はもっと先にある。歩いていけるのは自分の足だけだということを忘れないようにしたい。

 2009年4月18日(土) 「暴力を否定すれば、
                世界はバランスを保てない」

 暴力では何も解決しないという論理は、裏の裏で表のようでいて、実は裏目のような気がする。
 戦争を始めるのも暴力だけど、戦争を終わらせるのも暴力だ。
 すべての国が武器を全部捨てたら世界は完全な平和になるかといえば決してそうはならない。
 自分の国だけが平気を持たずに外交だけで独立を保てるかといえば、それは無理だろう。
 抑止力としての暴力は必要なのではないか。国家レベルでも、個人レベルでも。
 暴力を悪と決めつけて完全に否定してしまうと、体罰厳禁の今の学校のように歪みが生まれる。
 親や教師が悪いことをした子供を叱るのに頭を叩くくらいは暴力ではない。
 暴力にも良い暴力と悪い暴力があって、上手く使い分けていけばいいんじゃないか。
 刃物は凶器になるからといってまったく使わないようにしたら、不便で仕方がない。
 暴力を積極的に肯定するわけではないし、ましてや礼賛もしないけど、一方的に悪と決めつける風潮には賛同できない。
 大事なものを守るために戦わなくてはならないこともあるし、自分が潜在的に暴力を有しているということを自覚しておかないと、いざというとき抑えが効かなくなって必要以上に他者を傷つけたりもする。
 私たちは暴力の歴史を否定することはできないし、これからも暴力がなくなることはない。なんとか折り合いをつけていくしかない。

 2009年4月17日(金) 「未熟なままで、
                やるべきことを」

 成熟を待っていては何もできないまま終わってしまう。人の寿命はそれほど長くない。
 未熟なまま進んでいって、その中で成長していくしかない。
 これでもずいぶん持ち時間は増えた。人間五十年と言われた時代なら、もう晩年で、下手したら死んでる。
 それでも、まだまだと油断するのは危ない。明日をも知れないという危機感を持って日々を生きる必要がある。
 優先順位を間違えないようにといつも心掛けているつもりだけど、一日二回でも再確認して、やるべきことからやっていくようにしないといけない。
 残念ながら、もはややりたいことだけやっていればよかった時期は過ぎてしまった。

 2009年4月15日(水) 「国境は必要。
                世界が一つなのは嫌だ」

 国境のない世界をイメージすることができないのは、それが実現不可能だからなのか、そこまで人類が成熟していないからなのか。
 一つの集団をまとめるには、共通のルールと強い権力が必要となる。
 集団が大きくなればなるほど必然的に権力も強くならざるを得ない。
 67億人が一つの国の中で上手く暮らしていくのは不可能だ。
 そんなの気味が悪いし、強大すぎる権力は怖い。
 国境などなくなればいいなどという主張はまるで見当はずれにしか思えない。
 何故分裂することが必然かといえば、単純に言ってその方が上手くいくからだ。
 人は他者との比較や競争の中でしか自分の位置を把握できない。
 集団は小さい方が安心する。集団が大きくなればなるほど不安は増す。
 人は内と外という感覚で精神の均衡を保っているという部分もある。
 人類が一つにまとまることがあるとすれば、地球外から強大な敵が攻めてきたときだ。そのときはまとまらないとやれてしまうという危機意識で一つになる。
 現状では、国家や人種、思想、宗教などの違いで分裂しているというのは、とても良くできたシステムと言える。
 争いが起きても大きくならずに済んでいるのは、細かく分裂しているからだ。よその国のことと他人事でいられる。この他人事という感覚も大事なものだ。
 誰もが他者に対して自分たちの優位性を主張してぶつかっているけど、そんなことは他愛もないことだ。世界を根底から揺るがすわけではない。
 それぞれが国の個性を持ち寄って、全体としての多様性につなげればいい。
 国がなくなったら、ワールドカップもオリンピックも盛り上がらないことになってしまう。

 2009年4月14日(火) 「物事の表と裏。
                起こらなかった物語」

 一つの物語も、見る側を変えれば、違った物語となる。
 それはあらゆる場面に言えることで、だから自分の側がいつも正義だと思い込むのは間違いだ。
 勝者にならないと見えないことがあり、敗者にならないと気づかないこともある。
 大切なのは、裏側に思い至ることだ。想像することで補うしかない。
 起こったことがあれば、起こらなかったこともある。起こらなかったことは起こり得たことでもある。
 自分の身に実際起こったことがすべてではない。起こり得たけど起こらなかったことも含めて人生だ。
 あらゆる物語を生きられるわけではなく、選んだ道以外は全部捨てなくてはいけない。その捨てた部分が大事なところだ。
 生きることに迷ったら、別の人生を生きていたであろう自分を思い浮かべて、その場所から今の自分を見てみればいい。
 そうすれば、自分が正しいのか間違っているのかが分かる。
 語られなかった物語を、私たちは知らなければならない。

 2009年4月13日(月) 「壬申の乱で頭がいっぱい。
                まずはこいつを片付けないと」

 ここ数年の散策を振り返ると、それは歴史を遡る旅だということに気づく。
 江戸以降、明治から昭和にかけての東京、戦国時代の愛知近辺、鎌倉、奈良、そして今、大津京まで来た。その間に、ヤマトタケルなど古代の神話巡りも入ってきている。
 京都をあえて避けているつもりはないのだけど、まだそのタイミングじゃないのか、呼ばれない。京都は行くところが多すぎてどこから行けばいいのか分からないというのもある。
 とりあえず今は壬申の乱だ。これを自分なりに理解して整理しないと、先に進めない。
 この3日、けっこう勉強したけど、いまだに着地点が見えない。人生の中で、こんなにも壬申の乱で頭がいっぱいになるときが来るとは思いもしない。
 大友皇子の陵に行って、どこかで共鳴してしまったのだろうか。
 明日も一日、壬申の乱について考えることになる。夢にまで見そうだ。

 2009年4月12日(日) 「苦みを甘みに変えるのは、
                歳月による熟成だけ」

 人は懐かしいという感情が好きだ。ときには懐かしさに浸り、溺れたいとさえ思う。
 思い出というのも、生きていく上で大事なものの一つだ。
 それらは、物事が終わるから得られるものに他ならない。
 失恋するからラブソングが生まれ、季節が終わるから四季を愛でることができる。
 終わらなければ懐かしいという感情は生まれないし、歳月が流れるから記憶は思い出に変わる。
 終わることの寂しさや、別れることの悲しみもまた、大切なことだ。
 心の痛みが歳月を経て甘さへと変化する。
 歳を取れば何もかもが懐かしい。死んでみれば尚更だろう。
 あらゆることは終わってゆく。同時に新しいことが始まる。
 甘い痛みを抱えながら、私たちは今日を生き、明日へ向かおう。
 振り返った今日という日を懐かしいと感じられるくらい遠くまで。

 2009年4月11日(土) 「頑張ってと言われたら、
                うん、頑張ると答えたい」

 頑張ってという言葉は、功罪相半ばだ。
 とても嬉しかったり、逆に邪魔くさかったりする。
 たとえば、運動会の競技前に好きな女の子から頑張ってと言われたら単純に嬉しい。
 頑張ってるのに頑張れと言われたら腹が立つ。
 どういう状況で誰に言われるかによって、この言葉は力にもなるし、やる気を失わせもする。
 病気の人間に使えば、かえって事態を悪化させることもある。
 それでも私はこの言葉が嫌いじゃない。
 頑張ってと声をかけられたら、そうだ、頑張らなくちゃと思う。
 カチンときても、それは自分の頑張りが足りないという証拠だ。
 たとえ嫌味で言われたとしても、それは天の声と思って耳を傾けないといけない。
 いつも頑張ってるね、うん、ありがとう。今日も頑張ってね。うん、頑張る。
 他愛もないやりとりの中にも真実がある。
 頑張るという言葉は簡単に使われすぎるけど、とても深くて重たい言葉でもある。

 2009年4月8日(水) 「100パーセントじゃ足りない。
               限界を超えるために」

 自分がやれることをやるだけでは充分じゃないのかもしれない。
 ベストを尽くす。それは大事なことだけど、それが免罪符になるわけじゃない。
 100パーセントの実力を出すことは第一目標でしかなくて、それでも力が及ばないときは、自分の力以上のものを出さないといけない。
 限界に達することが目標なのではなく、限界を超えることが目的となる。
 才能がないからあきらめるなんてのは言い訳にもならない。
 やりたいことを100パーセントやることはとても難しいことだ。不可能に近い。
 ただ、言い訳せずに済むところくらいまでは自分を追い込んでいい。途中でやめると、言い訳が生まれる。
 最後まで駄目だったとき、笑い飛ばせるくらいの覚悟が必要だ。
 死ぬなら無駄死にではなく、殉死を選びたい。自分の志と心中できれば後悔はない。

 2009年4月7日(火) 「賢さは道具。
               大事なのは結果を出し続けること」

 賢さなんてものは、ゴルフをするときに使うゴルフクラブのようなもので、いいものを持っているからいい結果が出せるというわけではない。
 良い結果を出せて初めて価値のある賢さを持っているということになる。
 結果がすべてじゃないというのは確かにその通りなのだけど、それを言い訳に使ってはいけない。
 そんなものは、負け惜しみだ。東大に入れない人間が東大をバカにするようなもので、文句があるなら入ってから言えという話だ。
 結果というのは、広い意味での作品といったものだ。作品本位であることが常に求められる。
 どんなに気が利いた言い訳ができても、そんなものに意味はない。
 勝てばいいってわけじゃないけど、勝たなくては始まらない。
 高級ゴルフクラブを自慢するゴルファーのように賢さをひけらかして悦に入っている人にはならないように。
 もっと賢くなりたいという気持ちは、結果を出しながら持ち続けるものだ。
 世の中のために自分は何をすべきなのかということを、もう一度よく考えてみる。

 
 2009年4月6日(月) 「忸怩たる思い。
               慚愧に堪えない」

 忸怩たる思い、などという言い回しは他人の借り物で自分の物ではないのだけど、そうとしか表現しようのない思いが自分の中にずっと居座っていて、少しずつ心を蝕んでゆく。
 慚愧に堪えない。恥ずかしくて、悔しくて、情けなくて、身もだえするような感じ。
 もっと頑張れと自分を叱責する声と、精一杯やってるじゃないかという言い訳とがぶつかって、でも結局はなし崩しのうやむやになって、問題は先送りされてしまう。根本的な解決を見ないまま。
 行くこともできず、引き返す術もない。
 突破口などない。地道に進むしかない。そう思いつつも、一発逆転を夢見ずにはいられない。
 愚かといえば愚か、人間的といえばそうかもしれない。
 今となっては、誰かに申し訳ないと思うことなく生きるというのがどういうことなのか、上手く想像できない。
 必要以上に自虐的になっているわけではないけれど。

 2009年4月1日(水) 「逃げる前に立ち止まって考え直す。
               やり残したことはないかと」

 揺れて迷って立ち止まって振り向いて、逃げ出そうとして思いとどまる。
 人生は逃げたい誘惑との戦いの連続だ。
 逃げれば一時的には楽になっても、あとからもっとつらくなる。かえって自分を追い込むことにもなる。
 踏ん張って、頑張れる場所があるならそれは幸せなことだ。喜んで頑張らないといけない。
 ただ逃げ出すのが一番よくない。
 あらたな目標を見つけて、そこに向かって駆け出すなら、それはいい。
 最後まで全うして、やり残したことがないと思えば、そこをあとにすればいい。
 頑張りきれないまま逃げると、消えない苦さが残る。
 背を向けて、しゃがみ込んでも、踏みとどまること。こらえれば、もう一回頑張れる。
 頑張らずに済むことが一番つまらないことだ。

 2009年3月31日(火) 「普通は案外難しい。
                普通は偉大だ」

 毎日普通であることは、思っているよりも難しいものだ。
 普通以上の日もあるし、普通以下の日もある。
 何もかもが嫌になって投げ出したくなったとしても、それは当たり前なのかもしれない。そういう日もある。
 大切なのは、ぎりぎりで踏みとどまることだ。越えてはいけない一線を越えたら、もう引き返せない。
 普通であることを侮ってはいけない。
 普通は偉大なことなのだから。

 2009年3月28日(土) 「脱線人生もまた楽し。
                転がり続けてみる」

 運命というのは選択の余地のないものかもしれない。
 けど、上が何と言おうと実際にやるのは下の私たちだ。
 選択肢を無理矢理作ってしまうというのも有りなんじゃないか。
 宿命に従うだけが正しい生き方じゃない。
 人生は結果オーライなところがあって、どんな紆余曲折を経ようと、最終的に帳尻が合えばそれでいい。合わなければそれはそのときだ。
 一番よくないのは、悟り顔であきらめてしまうことだ。
 運命が気にくわなければ勝手にシナリオを変えてしまえばいい。
 それは演出家と出演者の関係のようなもので、演じる側が自分の思い通りにやって説得力を持てば、それが正解ということになる。
 可能性を模索すること。選択肢は作れる。
 運命を超えてみせることこそが、天の本当の望みなんじゃないかとも思う。

 2009年3月27日(金) 「侮って良いことは何もない。
                尊敬から始まり尊敬に終わること」

 被害者意識は自分を不幸にするだけだ。たとえ誰かが同情してくれたとしても、そんなことで幸せにはなれない。
 自分はこんにも頑張ってるのに、あいつは楽していい思いをしやがってなどというひがみ根性は、自分の心を貧しくするだけだ。人として美しくない。
 他人に敬意を払うことを忘れれば、自分も人から敬意を払われなくなる。
 尊敬心というものがいかに大切なものであるかを、再認識する必要がある。
 悩みがないように見える人間も、心に苦しみは抱えているものだ。
 苦労知らずに思えても、見えないところで頑張っている。
 人を侮らないことだ。
 他人への侮りは自分への侮りと同じだということを知らなければならない。

 2009年3月26日(木) 「永遠はある。
                信じて始めることが大事」

 永遠などないと分かったような顔をして自分を守るより、永遠を信じて裏切られる方がましだ。
 永遠は始めなければ始まらないもので、永遠を信じる勇気のない人間が永遠を手に入れることはない。
 今日という日が永遠へと続く道の途中と信じることは愚かなことじゃない。
 永遠を信じられることは幸せなことだ。
 永遠を誓った二人が別れたとしても、永遠を信じたことは間違いではない。
 永遠もまた、一瞬の連続だ。途中で終わることもある。
 自分の存在も永遠に続くと思いたければ思えばいい。
 現実になるかもしれないしならないかもしれない。
 大切なのは結果じゃない。永遠を信じて始めることだ。
 永遠が途切れたなら、また新たな永遠を見つけて始めればいい。
 どこかに本当の永遠があるかもしれない。

 2009年3月25日(水) 「頑張ればいいわけじゃない。
                結果本位であること」

 頑張ったけど駄目だったで済むことと済まないことがある。
 努力することは大事なこと。でも、結果を出すことはもっと大事で、頑張りさえすれば許されるというものでもない。
 一所懸命になっている自分に酔っているだけでは駄目だということだ。
 良い結果のために今何をすることが最善なのかを考える必要がある。
 その上で、滅茶苦茶頑張って、それでも結果を出せなければ、そのときはもう笑って散るしかない。
 笑えないうちは本当に頑張ったとは言えない。
 結果を出せば、それまでの努力は報われて、称賛が待っている。
 そこは紙一重なのかもしれない。

 2009年3月24日(火) 「このときこの場所でできること。
                この時代のここでしかできないこと」

 どこの国の、どの時代に生まれても、喜びと悲しみはあり、絶望と歓喜を味わうことになる。
 必ずしも自分で選べるわけではないだろうから、生まれ合わせた場所で幸せを求めて生きていくしかない。
 どんなに暗い時代でも、その中に光はある。たとえささやかな幸福でも、それを見つけて育てていくのは自分だ。
 自分が生まれた国が他の国より優れているなどという考えは誤った幻想だ。
 どの国にも良い面と悪い面がある。
 現実的に国境というものを無視して生きることができない現状では、今生きている国の中で、良い部分を喜びとして感じていくという方向性でいけばいいのだと思う。
 自分の国の野球チームが優勝したら、素直にみんなと喜びを分かち合えばいい。それは国粋主義などとは違う。
 平和な時代の日本という国に生まれ合わせた私たちは、今この場所で得られるすべての幸せを求めていっていい。それは罪ではない。
 ここで味わうすべての苦しみもまた、無駄じゃない。
 喜びも悲しみも、感じること全部が生きることだから。
 死んだあとに思うであろう懐かしさを、生きながらにして思い至ることが大切だ。
 そうすれば、日々を生きるすべてが愛おしくなるだろう。
 ココニイルコトを、もっと自覚したい。

 2009年3月23日(月) 「今日の自分が自分の全部じゃない。
                過去から未来へ自分をつなぐこと」

 年齢を重ねるごとに、少しずつ自分をあきらめていく。
 でも、絶望はしない。過去に自分が認めた自分がいるから。
 そして、未来の自分に可能性を感じているから。
 駄目になっていく部分はあっても、もっと良くなっていく部分もある。
 たとえば、100のうちの99が衰えていっても、1だけは歳を取らないと成長しないものだとするならば、そのためだけでも生きる価値はある。
 私には私を喜ばせるという使命がある。
 過去の自分の思いに応えるのは今の自分であり、未来の自分だ。
 今日の自分は昨日までの自分を引き継いで、明日の自分に引き渡す義務がある。
 今日の自分が絶望したといって、自分の過去と未来を捨てる権利はない。
 自分の余地を信じてとにかく生きることだ。生きることに理屈などいらない。

 2009年3月22日(日) 「不満と満足と、
                両手に乗せるバランスが大切」

 無念というのは常につきまとうものだけど、それは未練であり、同時に生きる原動力にもなっている。
 満足が続いてしまうと、どこかでふっと気持ちの糸が切れてしまいそうで怖い。もうこれくらいで充分かなと思ってしまうと、それ以上生きられなくなる。
 まだまだ、もっともっとと思えるから、明日を生きようという気になれる。
 それは欲だけど、必ずしも悪い強欲ではない。
 振り返れば後悔はあるし、現状にも決して満足はしていない。未来に対する願望もたくさんある。
 人間らしい当たり前のことだ。
 足りないものばかり並べ立てて不満ばかり口にしているようでは生き方として貧しいけど、満ち足りて向上心をなくしてしまうよりはましだろう。
 大切なのは、目標と、努力と、達成だ。
 欲望に振り回されず、願望を形にするための試行錯誤が必要となる。
 優等生になることはないけど、偽悪的にならなくてもいい。
 陽気で単純に生きられればそれに越したことはない。

 2009年3月21日(土) 「やる人と、見る人と、
                両方必要」

 常に一つのことだけを考えている専門バカは強い。揺らがない信念というのは、絶対的な強さを持つ。
 私はそういう人間にはなれない。広くいろんなことをたくさん知りたくて、一つのことに集中できないから。
 これは性格の問題だから、今更どうしようもない。
 ただ、飽きっぽいとか、器用貧乏とかも、悪いことばかりではないと思っている。
 いろいろなことを知っていれば非常識な人間にならずに済むし、広い教養もないよりあった方がいい。
 全員が専門家でも困ってしまう。専門家同士をつなげる役割もいる。
 主観的な生き方と、客観的な生き方があって、私は間違いなく客観的な生き方をしている。あるとき、はっきりそう決めた。
 物語を演じる人間と、それを書き留める人間の両方がいて、初めて物語は成立し、伝えることができる。
 何もせずに遊んでいるように見える人間も、この世界には必要なのだ。
 世界を見るという行為も重要なことの一つだから。
 みんながそれぞれの立場を尊重して、互いに補い、支え合っていることを自覚することが大切だ。

 2009年3月20日(金) 「天使と悪魔は持ちつ持たれつ。
                善良な人間だけでは世界は成立しない」

 善良はもう一方の邪悪でしか支えきれないものなのかもしれない。
 100パーセントいい人であろうとすると、人の心は壊れてしまう。
 自分の中にある邪悪さを自覚してこそ、善良な行いもできる。
 その逆のことも言えそうだ。
 悪魔は完全な悪魔ではいられず、天使は完璧な天使ではいられない。
 人間の心の振り幅というのはとても大きなものだ。
 我が子に対して目一杯の愛情を注ぐ人間が、一方では独裁者にも殺戮者にもなり得る。
 それは必ずしも自分の中で矛盾しない。
 社会や世界もそうで、善と悪と両方の要素がなければ成立しないようになっている。
 持てる者と持たざる者がいてバランスが取れる。
 悪を否定する人間は、本当の意味で善にはなれない。
 不幸を打ち消しても幸福にはなれなず、不幸と幸福を両立させて初めて人は精神のバランスを保てる。
 この世界の半分は悪魔が支えているということを忘れてはいけない。

 2009年3月19日(木) 「不幸は好敵手。
                逃げるなんてもったいない」

 自分の不幸も他人の不幸も嫌いだけど、自分がつらい思いをしているときは他人の不幸が慰めになるということはある。
 世の中には自分よりも追い込まれている人がたくさんいて、それに比べたら自分は全然ましだと思える。
 言葉を変えれば、不幸になってみせることは、間接的な人助けにもなるということだ。
 ピンチは戦うべきチャンスだ。好敵手と思って戦って、勝てば経験値になる。
 不幸を乗り越えれば、そのこと自体が幸福になる。嫌なことを終わらせれば嬉しい気持ちになる。
 自分の弱気に負けてはいけない。
 戦いから逃げ出そうとする自分こそが獅子身中の虫だ。
 手ごわいのは強い敵ではなく弱い身内だから。
 不幸に負けることは恥ずかしいことではない。戦わずに逃げれば恥となる。
 ときには負け戦と分かっていても戦わなければならないこともある。
 人生は不幸との戦いだ。最後まで戦いは終わらない。

 2009年3月18日(水) 「失敗してみせること。
                この時点で成功はあり得ないから」

 自分がいなくなっても世界は何の変わりもなく回っていくということを自覚することは、絶望感と気楽さとの両方をもたらす。
 世界と自分との関係性を知ろうとすることは大切なことだ。
 自分という存在の目的を知らないまま漠然と生きていても、時間の無駄に思える。
 始めた以上、最後までやり遂げたいし、そのためには目的地が必要だ。何らかの結末が。
 死が終わりを意味するのなら、それはそれですっきりしていいのかもしれない。
 生命を総体として考えるなら、個人の命は次の命へと引き継がれていく。
 誕生と結合と消滅を繰り返しながら生命体は成長してゆく。そういう観点で個人として命の使い道を模索すればいい。
 死後の世界など必要ないといえばない。
 自分に出来ることは、可能性を潰すことだ。そして、そこから新たな可能性を見いだして、次へつなぐこと。
 成功の人生は最後の一人だけで、それまでに生まれたすべての人間は失敗の人生を送ったということであったとしても、それでいい。
 人と同じ失敗を繰り返しても意味がない。自分独自の失敗をしてみせることが、世界への貢献となる。

 2009年3月17日(火) 「思いが消える前に言葉に。
                言葉は思いを伝えるための道具」

 日々思うところはいろいろあるけど、大部分は流れたり、こぼれたり、置き忘れたりで、自分の中に残らない。
 それが悲しいことに思えたり、それでいいのだと慰めたりしながら、毎日は過ぎてゆく。
 記憶を記録として刻むために言葉を書き連ねているけど、ときどきとても虚しく感じる。
 思いは浮かんだ先から消えていくからいいのかもしれない。
 言いたかった言葉や、言えなかった言葉がある。月日の中で消えてしまった言葉も多い。
 今更何を思っても、何を言っても手遅れで、そしてまた迷う。
 思いをそのままいちいち言葉にすべきなんだろうかと。
 言わずもがな、言わずもがな。
 問わず語りに伝わる思いだけで充分なのか。
 言ってしまえば、危ういバランスを崩すこともある。
 言わぬが花。秘すれば花。阿といえば吽。
 昨日の自分は何を思っていたか、今日の自分はもう知らない。昨日の自分と、今日の自分は、本当に同一人物なのだろうか。
 思いと言葉を今日から明日に受け渡せば、明日の自分は今日の自分を覚えていてくれるだろうか。
 言わない親切と、言わない残酷さ。
 こみ上げてきて飲み込んだ言葉がたくさんある。それらは自分の中で消化されて消えてしまったのだろうか。
 大事な思いはやはり言葉に変換して持ち歩くべきだろう。たとえ自分のためだけでも。

 2009年3月16日(月) 「努力は必然だったりなかったり。
                結局やるしかないのだけど」

 努力していない天才はいなくて、天才は誰もが口を揃えて言う。才能よりも努力が大切だと。
 でも、その理屈を振り回されてしまうと困る。あまりにも正論だから、反論できない。
 確かに努力は必要不可欠なのだけど、才能という筋道がなければ努力は結実しないようなところがある。
 たとえば子供の頃から野球が上手で、将来プロを目指しているのなら、少しでも上手くなるよう努力するというのは分かりやすい。
 けど、ただ野球が好きで、日曜日に仲間と草野球をやっている人間に、もっと死にものぐるいの練習をしろよと言っても、言われた方が戸惑ってしまう。
 才能があれば、努力せざるを得ない状況に追い込まれる。それだけ人から要求されるから。
 努力が必然ではない状況の中で努力するというのは、実はとても難しいことだ。終わらない夏休みの宿題をやるようなもので。
 どうすれば努力を必然とする状況に持っていくかというのが鍵になる。
 天才の理屈は別にしても、努力をすることはもちろん大事なことで、最終的にはやるかやらないかの二者択一となる。
 つべこべ言わずにやるしかないというのが結論だ。

 2009年3月15日(日) 「生きている間中勉強。
                勉強は終わらない」

 生きることは学ぶことで、学ぶことは活かすことだ。
 学びながら生き、生きながら活かす。
 人生の車輪は丸くない。角張っているから、何らかの推進力をもって前転させていかないと前へ進まない。
 時間は死へのベルトコンベアで、進んでいると思うのは錯覚だ。
 学ぶだけでは意味がないし、学ばずに生きていても得られるものは少ない。
 やってみることも大事だけど、考えることも同じくらい大切なことだ。
 勉強も経験も必要で、どちらか一方でいいわけではない。
 一輪では不安定だから、二輪で進む方がいい。
 学ぶのに残された時間は命の持ち時間と同じだ。
 死んだあとの可能性を思うなら、怠けるのは許されない。
 死後がない方に賭けるのは危険な賭けだ。
 この世界がある限り自分もあると信じればそうなる。
 学びに終わりはない。

 2009年3月14日(土) 「エネルギーを感じられるように、
                大脳だけじゃなく小脳も消えたるべき」

 物体は固形物で動いていないように思っているけど、実はそうじゃない。
 一種のエネルギー体であり、長い期間で考えれば劣化という微量な運動もしている。
 物体が発しているエネルギーは、目を閉じて部屋の中を歩き回ってみると分かる。
 馴染んだ部屋の記憶とは別に、物体の存在を確かに感じるはずだ。自分の目の前にある物の輪郭もぼんやり認識できる。
 それがエネルギー体ということなのだろう。
 人の気配という言い方をするのも、そういうことだ。
 生命と物質はまったく違うものではなく、存在という点では同列のものと言っていい。
 現代人は目と耳からの刺激が強すぎて五感が鈍くなっている。
 昔の人はもっといろんな部分で感覚が発達していたに違いない。
 五感も鍛えれば敏感になる。
 一日の中で、目と耳から入ってくる情報を遮断する時間帯が必要かもしれない。眠るという行為以外に。
 座禅を組んだり瞑想したりというのは、そういう効果を狙ってのことでもある。
 五感が研ぎ澄まされれば、自然の息づかいや地球の鼓動も感じられるようになるだろう。五感を超えた第六感さえ目覚める可能性がある。
 その結果、霊が見えるようになったりするとそれはそれでやっかいなのだけど。

 2009年3月13日(金) 「顔は後ろでも足は前へ。
                懐かしさは頑張りのあとに」

 今思えば懐かしいあの頃も、いざ戻ってみれば考えているより楽しい時間じゃないのだろう。
 人の記憶はいい加減なものだ。都合のいいところだけ覚えていて、都合が悪いことはきれいに忘れている。
 嫌な思い出も、自分が耐えやすいように加工されていて、記憶は生のままじゃない。
 私たちは後ろ髪引かれるような懐かしい気分を引きずりながら先へ進むしかない。
 生きているこの時を、あとになって懐かしいと思えるように輝かせなくてはならない。
 振り返ったとききらめいて見えるのは、一所懸命だったときだ。楽をしているときはキラキラしていないから懐かしくない。
 楽しいだけでもいい思い出にはならない。苦しさやつらさや頑張りがあって、それを乗り越えたとき、苦い記憶もいい思い出となる。
 頑張らないと楽しくない。今頑張ることが未来の自分に対する贈りものになる。
 過去を振り返ってもいい。戻ろうとしないことだ。

 2009年3月12日(木) 「死なないための努力。
                死は最後の切り札として取っておく」

 死は敵ではないけど味方でもない。あるいは、味方でもあり敵でもある。
 常に死を意識することは良いことだ。死の影に怯えるのではなく、不用意に死とぶつからないよう意識してかわし続けるために。
 絶対に逃れられないと分かっていても、無邪気に自分から飛び込んでいく必要はない。
 死なないための努力は大切なことだ。
 自分自身のためだけではなく、周囲のためにも。
 死ぬことは少なからず周りの人間に迷惑をかける。自分一人だけの問題じゃない。
 死なないことが思いやりにもなる。
 意味のある死を実現できたとしたら、生まれたことが無駄じゃなかったということになる。
 死は一発逆転のチャンスでもある。切り札として取っておくべきだろう。
 不注意で明日死んだりしないよう、くれぐれも気をつけよう。

 2009年3月11日(水) 「無から生まれ無に帰るのか。
                不在の先に何があるのだろう」

 ゼロが無ではないように、不在もまた無ではない。不在という存在は確かにある。
 たとえば心に空いた穴のように。
 死もまた不在であって無ではない。
 この世界からすべての生命体が消えたとしても、無に帰すことはない。
 存在は意識であり、記憶であるけれど、その消滅さえも存在の事実を無によって打ち消すことはできない。
 世界の最後を目指すことが目的ではないのだろう。私たちは途中にあるハッピーエンドを探してさまよっている。
 いったん始まった物語は結末へ向かうしかない。
 我々が不在の先で物語を引き継ぐのはどんな存在なのだろう。
 最後の最後はもう一度無に戻るのだろうか。あるいは、新たな無を生み出すことになるのか。
 願わくば、地球の記憶を誰でもいいから宇宙最後の日まで受け継いで欲しい。
 私たちの大切な思い出を。

 2009年3月7日(土) 「生まれ変わるに値するなら、
               次へ向かおう」

 世代交代というのは残酷でもあり、優しくもある。
 新陳代謝がなければ濁って汚れてしまい、世界は滅亡へと向かってしまう。
 プロスポーツや組織だけのことではなく、この世界全体がそうだ。
 常に新しい血が入り続けることで世界は成立している。
 自浄作用には限界がある。
 親子の世代交代もそうで、子供が生まれれば年寄りが死に、子供は成長して親は年老いる。
 そうやって人類は前に転がりながら命をつないでいく。
 人類が滅亡することがあるとすれば、このサイクルやシステムが崩れたときだろう。長寿社会というのは、あまり良いことではない。
 順番に老いて死ぬことは仕方がないことだ。あきらめるより他にどうしようもない。
 だから人は生まれ変わりというものを発明した。ただの願望にすぎないのか、実際にシステム化されているのか分からない。
 個人的な予測としては、何割かは生まれ変わって、消滅するものもあり、新たに生み出される魂もあるといった感じではないかと思う。
 同じ魂がぐるぐる回っているだけでは、どうしても先細りになる。
 自分の魂を生まれ変わるに値するものに育てられるかどうかは自分次第だ。価値がなければ次はない。
 次があるなら、死んでも嘆くことはない。また新しく始めればいい。
 世界が成熟するためには、ベテランも必要で、全員がルーキーではおぼつかない。そのあたりのバランス感覚というのは心配いらない。世界は上手くできている。
 私が死んだ人にかける言葉はいつも決まっている。
 さあ、次にいこう。

 2009年3月6日(金) 「長生きのコツは鈍感になること。
               不幸になっても不幸と気づかなければいい」

 何気なく過ごしている毎日の中に、目に見えない様々な要素が紛れ込んでいて、私たちはその気配を感じつつもあえて鈍感であろうとする。
 崩壊へのひび割れだったり、不幸の発芽だったり、足を踏み入れてはいけない袋小路の予感だったり。
 鈍くなるのは自分を守るすべでもある。歳を取ると心の皮が固くなる。若かった頃は心が剥き出しだった。
 人は否応なしに消滅へと向かうしかないのだから、必要以上に不幸の影に怯えることはない。
 鈍感になることは生きる知恵だ。
 早世の詩人になり損ねたら、あとはもう鈍くなって長生きするしかない。
 明日、決定的な崩壊が訪れることになるかもしれない。
 死に神と目が合ってニヤリとされたら、こちらも苦笑いをしてひとつ頷いて、あきらめるより他にしょうがない。
 日々覚悟を決めておくことだけは必要だ。

 2009年3月5日(木) 「3月9日。
               大切な曲の一つ」

 レミオロメンの「3月9日」が今年も卒業ソングのアンケートで1位になった。
 メンバーの友人の結婚記念日のために作った曲だし、歌詞の内容も卒業とは関係ないのに、卒業ソングというイメージになっているのは、やはりドラマ「1リットルの涙」で合唱曲として使われた影響が大きいのだろう(あのときのエリカ様は可愛かった)。
 この曲には私も思い入れがあって、大切な作品の一つとなっている。
 ときどき聴いて思いを新たにするようにしている。
 小品と言うべきささやかな歌だけど、こういう曲も人生において大切なものとなる。
 聴いたことがなければ、YouTubeのPVを見ることをオススメしたい。

 2009年3月4日(水) 「徹底的に徹底して見えるもの。
               不徹底では思いが届かない」

 どちらへどう振ろうと、徹底しなければものにはならない。
 遊びでも本気で徹底すればプロになれる。
 金にならない趣味でも達人にはなれる。
 逆に言えば、どんなに上手にできることでも、片手間でやっているくらいでは人より上という程度でしかない。
 好きなことくらいは徹底してもいい。毎日寝る間も惜しんでやるくらいでようやく形になる。
 私は昔から一つのことに打ち込むのが苦手で、器用貧乏だった。大人になってあらためようとしているけど、なかなか上手くはいかない。
 もっと頑張れることがたくさんあるから、これからの課題と思い定めて、やれるだけのことをやっていきたいと思っている。
 徹底という言葉を座右の銘にしてもいい。

 2009年3月3日(火) 「この世界が実在か幻か、
               誰にも判断できない」

 ふっと世界の輪郭が滲んで、目の前の光景が理解できなくなることがある。
 まるで夢の中にいて判断力を失っているときのように。
 人々の声が遠くなる。
 普段分かっていると思い込んでいることが勘違いで、本当は理解不能なのが覚めた状態なのかもしれない。
 私たちは夢を見ているのだろうか。それとも夢の中にいて演じているのか。
 掴まえたと思ったことが手からこぼれ落ち、立っている足元が揺らぐ。
 この世界は本物なのかさえ分からない。
 触れることができる物体も、実は仮想現実なのかもしれない。
 すべては脳が判断しているだけだ。
 信じられるのは、目を閉じて感じることができる感覚だけだ。それが自分の全部と言ってもいい。
 自我は世界の外側でも存在し得るのか。世界の内側でしか成立しないものなのか。
 誰も本当のことは分からない。本当の世界だと断言する存在そのものがより大きな幻かもしれないのだから。

 2009年3月2日(月) 「終わりなき旅の途中。
               旅人であり続ける限り」

 旅の終着は新たな旅の始まりだ。
 今はまだ終わりなき旅の途中にいる。
 この旅は、行く旅なのか、帰る旅なのか。
 どちらにしても、旅の終わりは存在の終わりを意味するのだろう。
 存在を続けたければ、旅人であり続けるしかない。
 安住の地も、約束の地も、用意されてはいない。
 だから、進むしかない。
 ときどき旅を怠けてしまうことがある。
 立ち止まっても、しゃがみ込んでも、倒れても、すぐに旅立つ心の準備をしておかなければならない。
 さあ、まだ見たことがない明日へ向けて出発しよう。
 そこには、自分の知らない自分との出会いが待っている。

 2009年3月1日(日) 「穏やかな青空。
               曇天の心」

 深刻ぶったところで、正しいわけでも偉いわけでもなく、頑張っているわけでもない。
 自己満足の範囲内でやってる分にはいいけど、はみ出すと人に迷惑をかける。
 不幸は空気感染するものだ。
 とはいうものの、気持ちがどんよりしてしまう日もある。別に深刻ぶってるわけじゃない。
 そんなときは無理に浮上しようとはせず、深く静かに沈潜していよう。

 2009年2月28日(土) 「この海の向こうの君へ。
                言葉は旅立った」

 手紙を入れたメッセージボトルのように、宛先のない旅先からの絵はがきのように、誰かに届きますようにと願って、言葉をネットの海へと流す。
 心がこもっていない言葉は、波にもまれて沈んでしまう。
 だから、気持ちを込めて流そう。
 暗き涙の海峡を渡りきれるように。

 2009年2月27日(金) 「知らない方が幸せなんて言わず、
                知って幸せになりたい」

 高いところからしか見えない風景があり、地べたを這いずり回らないと味わえない感覚がある。
 高見から見下ろせば全体をよく見渡せるけど、細部が見えなくなる。
 地に足を付けて駆け回っているだけではよその世界が見えずに終わる。
 視点の位置と移動と多様性を意識することが大切だ。
 ときには想像で補う必要もある。
 世界一周しなければ体験できない興奮があり、繰り返す日常の中でしか知り得ない小さな幸せもある。
 この世界のすべての風景を見ることはできないけど、それぞれの場所からしか見えない景色があるということは知っておきたい。
 それが世界を知り、他人を知るということだから。
 多くを知れば、賢くもなり、強くもなり、優しくもなれる。
 見聞を広め、教養を深めることも大事だけど、同じところに立っていては本当の意味で視野は広くならない。立つ位置や、見る角度を変えなければならない。
 そうやって人が多くを理解することが、世界平和の一番の近道だ。
 知ることは悲しみを増やすことだけど、その悲しみの向こう側に本当の幸せがあるのだと信じている。
 無邪気な幸せは本物じゃない。

 2009年2月26日(木) 「感謝の気持ちが
                人を支え、世界を支える」

 お互いに感謝して感謝されてという幸福な関係は、目に見えないだけでこの世にはたくさんある。無数にあると言ってもいい。
 口に出して相手に伝えるだけが感謝じゃない。言いたくて言えなくて、でも心の中で思っている感謝も、確かに実在するものだ。
 そのエネルギーは、自分も相手も、支える力となっている。
 感謝の気持ちがなければこの世界は存在できない。
 損得勘定がすべてじゃなくて、誰かがどこかで損をしたり我慢をしたりしていて、感謝の念がそれにわずかに報いている。
 だから、心配や迷惑をかけている人には、ごめんなさいではなく、ありがとうと心の中でつぶやきたい。
 いつか恩に報いると思っているし、たとえ自分ができなくても、自分の代わりに誰かが報いてくれると信じている。
 恩を売ることは、どちらにとっても損はない。
 ありがとうを言える人をたくさん持っているというのは、幸せなことだ。それだけ自分を支えてくれている存在が大勢いるということだから。
 自分自身も、感謝される人間にならなくてはいけないなと思う。

 2009年2月25日(水) 「死なないことが正義。
                死は喜びをなくすこと」

 生きるのに理由が必要というのも、現代ならではの贅沢病ではあるけれど、それだけいい時代になったとも言える。
 生きる理由はそんな大それたものではなく、ごく単純で他愛のないものでいい。
 明日も美味しいものが食べたいとか、今年のプロ野球のペナントレースを観たいとか、まだ行ったことがない行きたい場所へ行くためとか、理由はたくさんあるはずだ。
 死んでしまえばいいことも悪いことも全部なくしてしまう。それはもったいないことだ。
 この世界は人がどんどん死なないと成り立たないようにできているわけだけど、少しくらい長生きしても許される。
 長く生きればそれだけ世界の移り変わりを自分の目で見て体験できる。
 ただ、人はやはりなんだかんだいっても、生きるのに理由が必要な生き物だ。食べられさえすればそれでいいというわけにはいかない。
 理由は自分でひねり出すしかなくて、たとえそれが幻想でもかまわない。
 戦場の正義が死なないことであるように、平和な世界でも人は死んだら負けで、生きたら勝ちなのだと思う。
 死なないことがきっと誰かの役に立っている。

 2009年2月24日(火) 「責任はあるようでない。
                ないようである」

 もしあなたが生きることの意味を探して、本気で答えを見つけられると思っているとしたら、それはとても傲慢なことかもしれない。
 20代の私にもそう言ってやりたい。
 考えてもみて欲しい。地球上に人類が誕生して、のべ300億人とも400億人ともいわれる人間が生きても出せなかった答えが、今になって突然一人の人間によって出される可能性というのが、果たしてどれくらいあるだろうかと。
 天才と呼ばれた人間も100人や200人じゃない。彼らにさえ出せなかった答えをどうして私たちが出せるというのか。
 けれど、だから答えなど探さなくていいということではない。
 出ないからといってあきらめてしまったらそこで終わりで、出ないと分かっている答えを追い続けることは私たちの責務でもある。
 私たちは過去の人たちの遺産を受け継ぎ、願いを託された身なのだから。
 もし答えがあるとするなら、それは一人の人間によってある日突然、もたらされるのではないか。ほとんど何の前触れもなく。
 その人間に私やあなたがなっていけないと決まったわけではない。
 可能性はほとんどゼロでもゼロではない。
 大事なのは、一歩でも半歩でも前へ進めることだ。試行錯誤を繰り返して、失敗してみせることでも役に立つ。
 もしかしたら、答えは、あらゆる可能性を潰していって最後に残ったひとかけらかもしれない。
 誰も辿り着いたことがない場所に、最初に到達した人間が立ったところが辿り着くべき場所とも言える。
 私たちが受けている指令は、生きる意味を見つけろではなく、生きる意味を探せというものだ。
 400億分の1の責任は、軽いようでいて軽くはない。

 2009年2月23日(月) 「バカと言うバカ。
                認めたら終わり」

 自分をバカだという人間が一番バカだ。
 自らバカ呼ばわりするということは、それでいいとあきらめてしまっているということだから。
 何よりよくないのは、向上心の欠如だ。たとえ今はバカでも、賢くなりたいと思えばバカじゃない。バカは嫌だと思わなければ、いつまで経ってもバカのままだ。
 バカに安住してはいけない。
 それはバカに限ったことではなくて、下手でも無能でも不細工でも同じだ。
 自分で認めたら本当にそうなってしまう。
 バカでも下手でも自分で認めなければまだ確定じゃない。向上することは充分可能だし、可能性の限界まで自分を高めている人間はいない。
 自分をおとしめるようなことは決して口にしてはいけない。言葉の力を侮るのは危険だ。言葉は祝福にもなれば呪いにもなる。
 今日のバカは罪じゃない。けれど、明日も同じバカならそれは罪だ。

 2009年2月22日(日) 「一所懸命は格好悪い。
                格好悪いけど格好いい」

 一所懸命努力した人間のすべてが報われるわけではないけれど、努力していない天才はいないのもまた事実だ。
 才能が豊かであればあるほど、その努力は狂気じみている。
 凡人は自分に才能が足りないと嘆く前に、やるべきことがたくさんある。
 天才に少しでも近づくためには、天才以上に努力するしかない。
 それができないなら、天才をうらやむのはやめることだ。
 一流にもなれず、成功も難しい。
 道を究めるためには一心不乱になる必要がある。
 上積みできる余地があるとしたら、打ち込み方が足りないということだ。
 自分を限界まで高めて、それでも駄目なら、そのときあきらめればいい。
 みんな全力で走っている。もうこれくらいでいいやと速度を緩めてしまったら、みんな先へいって置いていかれてしまう。
 最後まで走り続けた人間だけが結果を残せる。
 単純に言えば、好きなことや、やりたいことに対してもっと一所懸命になってもいいということだ。変に照れることはない。一所懸命すぎて格好悪いくらいでちょうどいい。
 言い訳しながらヘラヘラ走ってるのが一番詰まらない。

 2009年2月21日(土) 「終わりなきゲームの途中。
                結末のあとの世界」

 超一流の天才は自分のために生きればいいけど、普通の人間は自分のためだけに生きちゃいけないんじゃないかと思う。
 世のため人のためなんていうと、ひどく胡散臭く感じるけど、他人のために生きることが自分の幸せにつながるという仕組みを理解できれば、自分が犠牲になることは嫌なことではないことに気づく。
 親が子供のために生きることは、子供が思うほど不幸なことでもつらいことでもないように。
 この世界は、個人プレーでもあり、団体戦でもある。個人でベストを尽くすことが結果的に全体のためになるというのはあるにしても、最初から世界の利益を無視して独走するのはまずい。
 人には世界の一員としての義務がある。たとえ自分一人のことにせよ足を引っ張ればそれは全体の不利益につながる。
 誰が世界で、世界は何を求め、どこを目指しているのか?
 宗教も哲学も文学も芸術も、究極の理想は描けても、その先の現実を提出できていない。
 目的もゴールもなく、ただ存続させることそのものが存在意義なのだというのなら、そうかもしれない。
 ハッピーエンドのあとの日常を、私たちはどう生きればいいのか。そこを前提としたとき、私たちは今日何をすべきなのか。
 私やあなたは、この世界が喜ぶことを何か一つでもできているだろうか。

 2009年2月20日(金) 「もう本番始まってます。
                カメラも回ってます」

 本番は物心ついたときから始まっているのに、まだ何も始まっていないという感覚がずっと続いている。
 人は誰も、多かれ少なかれそんなふうに思いながら生きているのかもしれない。
 自分はまだ終わってないし、まだ何も始まっていない、と。
 本番を出番と言い換えてもいいかもしれない。
 今はまだ幕が上がっていない気がしている。出番に備えて準備をしている段階で。
 人に注目されたいとか、拍手喝采を浴びたいとか、そういうことではなくて、自分の本当の仕事を全うしたいのにできないもどかしさを感じている。
 それは甘えや傲慢のたぐいなのだろうか。
 今がリハーサルであろうと本番であろうと、やることは変わりがない。最善を尽くすことと、日々上達を目指すことだ。
 明日突然本番が始まる可能性だってある。そのときになって慌てないように、常日頃から準備を整えておかないといけない。
 結局のところ、自分は何がしたくて、何ができるのか、ということに行き着く。
 それができるかできないかだけだ。

 2009年2月19日(木) 「周りを見れば分かる。
                自分の良し悪しが」

 邪念を抱くと、邪(よこしま)を呼び寄せる。
 類は友を呼ぶというように、想念は似たような想念を引き寄せる。
 良い意味でも、悪い意味でも。
 あの世というものがあったとして、天国と地獄といった単純なものではない。
 人はあの世で、収まるべきところに収まる。この世的なしがらみから開放されて、自分が一番居心地のいいところに落ち着く。
 信玄の人は城ではないないけれど、世界というのはつまり人の集まりのことだ。
 悪い人間が集まるところが地獄と言えるし、良い人間が集まっているところが天国となる。
 人より世界が先にあるわけではない。
 口は災いの元の前に、邪念も災いの元となる。なるべく、きれいな思考でいた方が自分にとってもいい。
 善良な人間がいつも報われるわけじゃないけど、損をすることは不幸なことではない。
 自分がきれいでいれば、きれいな人間の仲間入りができる。
 周りにいる人間が良いか悪いかによって、自分自身の良い悪いを判断できる。周囲の人間は、自分を映す鏡だから。

 2009年2月18日(水) 「高い方? 安い方?
                どっちを買うかが問題だ」

 生活の潤いを優先させるか、実用本位で節約に励むべきか、迷ってどちらとも判断できないことがよくある。
 欲しいものはたいてい割高で、それが本当に必要かと考えると、必要不可欠というほどでもないことが多い。
 そこで高い方を買ってしまうか買わずにおくかが分かれ道となる。
 買えるものなら買ってしまった方が幸せになれるものだけど、買った時点で満足してしまってろくに使わなかったりもする。なんでも欲しいものを欲しいまま買っていたら、いくらお金があっても足りない。
 要するに兼ね合いということになるのだけど、それにしてもこの問題は自分の中で解決を見ない。
 たとえばちょっと高級な2,000円のハサミがある。デザインもいいし、切れ味もきっといいに違いない。一度買ってしまえばずっと長く使える。でも、生活の中でハサミってそれほど使うだろうかと考えると、100円ショップのでもいいかと思ってしまう。
 別に2,000円のものが買えないわけではないけれど、ハサミを買ったら次はカッターが欲しくなり、定規やら万年筆やら、必要のないものまで欲しくなってきりがなくなる。調理道具や食器もそうだ。
 必要度によって迷いの度合いも違ってくる。もちろん、値段によっても。
 100円ショップの存在というのは、良し悪しだとも感じている。多くのものが100円で買えてしまうということで高級志向を鈍らせる原因ともなっている。
 最近は無印良品でさえ高いと感じてしまいがちだ。
 買い物というのは一例で、旅行だったり、つき合いだったりもそうだ。生活や心の潤いのためにどこまでお金を使うかが問題となる。
 人によって何をもったいないと感じるかは個人差がある。私の場合なら、100円、200円がもったいないと感じるくせに、平気で何万もするデジカメやレンズをたくさん買ってしまったりする。デジなら1台、レンズなら2、3本あれば充分なのに。
 旅行にたくさんお金を使う人もいるし、食べるためにはお金を惜しまないという人もいるだろう。何をもって心の潤いとするかも人それぞれだ。
 貧すれば鈍するとはよく言ったもので、単純にお金がないというだけではなくて、心が貧しくなれば人生も鈍色になる。ある程度は必要以外の部分でもお金を使った方がいい。
 でも、その加減とか配分とかが難しいんだよなと、また最初に戻って、堂々巡りが続く。
 たぶんそれは、お金持ちになっても変わらないものなのだろう。
 貧乏くさいと自分で思ってしまったら負けだ。迷うことを楽しまないとみじめな気持ちになってしまう。
 無駄遣いの後悔も人生の醍醐味と達観できれば、それも結論と一つと言えるかもしれない。

 2009年2月17日(火) 「悲しくない寂しさ。
                永久に失った感情」

 悲しくないのがちょっと寂しいというような心持ちを感じている。
 絶望というのも昔ほど甘美ではない。
 長らくずっと寄り添っていた孤独感も、今は遠くに離れてしまった。
 その部分に穴が空いたままふさがらない。
 人の心は思うよりも広く、深くて、楽しさや喜びや幸福感だけでは埋まらない。
 寂しさとか悲しさとか絶望とか、全部揃って初めてしっくり収まるようになっている。
 マイナスの感情も、なければそれは不在となる。
 振り返ってみれば、絶望感と戯れていたあの頃も幸せだったと言える。
 単純に幸福を夢見ることができた。
 今があの頃より不幸だということはもちろんないけれど、もうあんなふうに絶望できないと思うと少し寂しい。
 その寂しさは、10代の恋愛を永遠に失ってしまった寂しさに似ている。
 いろんな感情に慣れすぎたのかもしれない。
 この先、どれだけまだ知らない自分の感情に出会えるのだろう。
 それは私を幸せにしてくれるものなのだろうか。

 2009年2月16日(月) 「子供のときの教えに
                もう一度立ち返るべきとき」

 他人を非難するというのは非常にリスクが伴う行為だ。
 人を殴ったら自分も殴られても文句は言えないのと同じで、人を非難すれば自分も非難される。
 その単純な理屈が分かっていない人が多すぎる。
 この世界はあらゆる部分で二元論によって成り立っている。
 光と影、善と悪、男と女といったものから、権利と義務、幸福と不幸、成功と失敗のようなものまで、正と負は一対となっている場合が多い。
 もう一つ、エネルギー保存の法則というものあり、総体としてのエネルギーは形を変えるだけで増減はしないとするならば、いったん放たれたエネルギーは消えることなく反射しながら進み続ける。それは往々にして自分の方に跳ね返る。
 負のエネルギーは正のエネルギーでしか打ち消せず、負が増えると相対的に正は減る。
 人の善意は誰かの悪意によって消費され、善が世界を満たすことはない。
 この世界から人の悪意が消えることはなく、不幸もまた相対的なものだからなくなることはないとしても、必要以上に負のエネルギーを発するのは控えたい。悪意は世界を汚す。
 地球温暖化で二酸化炭素排出量が問題になっているけど、その前に悪意を減らす方向で考えた方がいい。
 特に今は日本全体がいじめっ子体質になっているところがあって、これは良くない傾向だ。ネット社会が一般化して大衆が発言権を持つようになったことと無縁ではない。
 日本人本来の大らかな体質を取り戻したい。
 人の悪口を言ったら駄目なんてのは、物心ついたばかりの子供に教える基本中の基本だ。
 世界はもう一度、人として基本的なところに立ち返る必要がある。反動で自然にそうなることを期待するしかないのであれば、地震の後にプレートが戻るようなもので、そのときは大きな被害が出るのは免れない。

 2009年2月15日(日) 「今すぐ結論は出ない。
                終わったところが結論だ」

 時代が進むほどに情では解決しない問題が増えていく。
 愛は地球を救うかもしれないけど宇宙は救えないだろうと、昔の私は書いた。
 愛は究極なのか、途中のものなのか、今を生きる私たちはまだ分からない。
 愛以上のものを見つけられていないから、とりあえず愛に解決を委ねているだけだ。
 同情だけでは人を救えない。地球を救うのも愛ではなくて、自己犠牲なのだろう。
 この世界がどこまで続くかによっても方向性は違ってくる。この先何十億年も続くのなら、今すぐ解決を急ぐ必要はない。誤魔化しながらでもなんとかやっていけばいい。
 そうではなくて、ここ数百年が正念場だというなら、私たちは何らかの結論を出すことを迫られる。これまでやってきたことは何だったのか。
 世界は解決など求めていないというなら、そうかもしれない。
 私の願いは、この世界の最後を見届けたいというものだけど、それさえも意味があるのかどうか。
 みんなより結論を求めていないことは確かだ。世界を丸ごと肯定したいし、このままでいいとも思っている。
 存続しさえすれば、最後に答えは出るだろう。終わったところに結論がある。
 今の私たちには、この世界が正しいのか間違っているのかを判断することさえできないのだと私は思う。

 2009年2月14日(土) 「自分と他人は言葉でつながる。
                言葉は形ある確かなものだ」

 感情は言葉を通して流れ出し、流れ込む。
 言葉に乗せないと伝わらない想いもある。
 人は思っているよりも鈍感だ。
 目に見えるものや、言葉しか確信を持てなかったりする。
 言葉はエネルギー体として存在する。
 メールやネットでこれほど言葉が氾濫している世の中でも、本当の言葉は少ない。
 想いを込めた言葉しか、心の深いところに届かない。
 どれだけ時代が進んでも、人と人は言葉でしかつながれない。
 自分という人間は、言葉でできていると言ってもいい。感情も思考も記憶も言葉だから。
 バレンタインデーの今日、どれほどの言葉が行き来したことだろう。想いは伝わっただろうか。
 バレンタインデーは、クリスマスみたいにイブを作るといい。バレンタインデーイブに女の子が想いを伝えて、バレンタインデーに男の子が答えるようにすれば、話は早い。一月後のホワイトデーなんて待っていたら間延びしてしまう。
 クリスマスもバレンタインも安っぽいイベントかもしれないけど、私は好きだ。自分のところではいいことがなくても、今日はどこかでいいことがあったんじゃないかと思えるから。
 そのうちまた、時代が一周巡ってラブレターが流行ることがあればいいなとも思う。
 手書きの文字は、話し言葉より更に強い力を持つ。私ももっと手紙を書こうと思った。

 2009年2月13日(金) 「変わる状況、変わる自分。
                変わり続けることが進むこと」

 いつも順風満帆とはいかないのが世の習いで、強風もあれば大雨もある。雷が落ちることもあるし、べた凪が続くこともある。
 大事なのは、航海を続けることだ。状況と戦うことそのものが目的ではない。沈没しないことが目標となる。
 無事これ名馬なんて考えは、年寄りくさくて保守的で凡人の負け惜しみだと若い頃の私は思っていた。若いときだからそれは間違いじゃなかったけど、今は違う。
 昔と今と考え方が同じだとしたら、その方が変だ。進歩がないことになる。
 考えは変わって当然だし、真逆になったとしても過去の自分を裏切ることにはならない。
 変わることを恐れてはいけない。すべての変化は進歩なのだから。
 自分を取り囲む状況も、日々刻々と変化している。
 流されすぎず、抵抗しすぎず、上手く風を掴みたい。
 悪いときは耐えてやり過ごし、調子のいいときは油断せず、とにかく航海を続けることを第一とする。
 舟がボロボロになっても、浮かんでさえいれば、修復の機会も巡ってくる。
 苦しいときに折れない心が必要だ。

 2009年2月12日(木) 「運命は言い訳にならない。
                自分でできることはたくさんある」

 同じような繰り返しの日々でも、毎日少しずつ違ったことが起きる。
 だから面白いとも言えるし、予測はつかないし、油断もできない。
 日々は必ずしも予定調和ではない。
 運命と偶然は半々くらいのものだと考えれば、納得はいく。
 最初から全部決まっていたら、わざわざ生きてなぞる必要はないし、すべてが行き当たりばったりというのもちょっと考えにくい。
 何もかも運命のせいにしてしまえばいいほど人生は無責任なものじゃない。責任がなければ罪もないことになる。
 才能に努力を上積みしなければ天才になれないというのが分かりやすい例だ。
 美人に生まれたら必ず幸せになれるというわけでもない。
 未知の明日に対して私たちは責任がある。何もしなくても時間が運んでくれるけど、無駄にしていい日は一日もない。
 後悔はのちのち自分を苦しめることになるから、日々の中で出来る限りのことをした方がいい。言い訳をしなくてもいいように。
 明日という日を侮らないようにしたい。どうせいつもと同じ一日だと思ったら、実際にそうなってしまう。
 自分の心掛けと行動次第で、平凡な日も特別な一日にできる。たとえできなくても、そうしようという思いが大切だ。

 2009年2月11日(水) 「知ることと喜びとする。
                今日の自分は昨日の自分より物知りだ」

 知識の量がその人間の価値を決めるわけではないけれど、知るということはとても大切なことに違いない。そこから事態は動き出す。
 知ることは楽しいし、楽しければ心が動く。心が動けば体が動き、行動が事態を動かし、事態が動けば周りも動く。
 そういう波及効果は、知るということから始まる。それを感動という言葉に置き換えてもいい。感動というのは、感覚が動くということだ。
 勉強が大切というのは要するにそういうことで、知識を増やすことで終わりではない。
 一つのことを知れば他のことももっと知りたくなるし、そうやって自分で獲得した知識は自分の心を豊かにしてくれる。
 たくさん知る喜びを味わうというのは、美味しいものをたくさん食べるのと同じで、生きる楽しさの基本的なものの一つだ。
 知っても知っても知らないことはたくさんあって、知ることに終わりはない。だから、安心してどん欲になってもいい。
 今日一日生きて、昨日まで知らなかったことをいくつか知った。そのことを自覚しなければ喜びにはつながらない。
 寝る前に今日新たに知ったことを思い返してみる。今日も一日、生きたかいがあったなと思う。

 2009年2月10日(火) 「休まなければ大丈夫。
                休めば過去の自分に掴まる」

 過去の自分の写真や文章を見て感心したとしたら、それは危うい兆候だ。進歩が止まっているという証拠だから。
 昔の自分が残したものを見て、駄目だと思えれば救いはある。駄目なりに成長しているということだから。
 過去の自分というのはもはやライバルではない。超えて当たり前の存在で、ライバルとすべきは未来のそうあるべき自分だ。理想の自分像を追いかけ追い越すことが正しい道となる。
 人は良くも悪くも変化していく。進歩する部分もあれば、退化するところも出てくる。それでも、総合的には上積みしていかなければならない。それが生きる意味でもある。
 過去の自分は、追い抜かれてはいけない幻影だ。油断して立ち止まっていると、追いかけてきてすぐ背中まで迫ってくる。
 苦しいときこそあと一歩、あと半歩の前進が必要となる。そこで休んでしまうと、時間の速度に成長速度が負けることになる。
 休まずマイペースを保っていれば、過去の自分が追いついてくることはない。休みさえしなければ。
 でも、それが難しい。

 2009年2月9日(月) 「愚かさは自らを滅ぼす。
               加害者にも被害者にもならないように」

 愚かであること自体は罪ではないし、最大の被害者は自分自身なのだから他人が責めてはいけない。ただ、責任のある立場の人間となると話は別だ。
 その愚かさが多くの人に悪影響を与える。無駄に傷つけ、不幸な人間を増やす。
 大将が愚かでは勝てる戦も勝てない。
 人の愚かさは上に立ってみないと分からないところがあって、そこがやっかいな点でもある。下にいたときは有能な部下でも、上に立つと愚かな上司になる例は少なくない。
 人はよく器という言葉を使うけど、それは確かにある。分不相応の立場に身を置くことは間違いだ。
 現在の世界的な不況は、トップの人間の愚かさによるところが大きい。夢もなく、目的も目標も明確に示せないから下は頑張れない。
 ただし、愚かさにもいい面があって、それは自家中毒で自らを滅ぼすということだ。そうやって世界は浄化されて今まで続いてきた。憎まれっ子もいつかは世を去るときが来る。
 私たちもせいぜい自分の愚かさにやられないように気をつけなくてはいけない。人の愚かさばかり責めていると、明日は我が身だ。

 2009年2月8日(日) 「どんな思惑があったにしても、
               今、この世界を愛したい」

 たとえこの世界が何者かの悪意によって生み出されたものだとしても、私はこの世界の素敵を喜び、美しさを愛したい。
 すべてが善意で成り立っているわけではないことは、私も気づいている。
 けれど、世界がどんなに悲惨で醜くても、ここに救いはある。希望があれば、命を次ぎにつなぐ価値はある。
 いつか幸福な世界が訪れるというのが淡い夢物語だとしても、それを信じられる力を我々に与えたのも、この世界を作った存在だ。
 この先でどんな不幸が起きたとしても、私はこの世界を憎むことはできない。
 最後はありがとうとしか言えないだろう。

 2009年2月7日(土) 「地球にはラブソングがある。
               ラブソングのない世界には行きたくない」

 たった一曲のラブソングが、愛しい人への気持ちを新たにさせ、世界が再び輝きを取り戻すことがある。
 歌が世界を救うわけではないし、それは一時の慰めかもしれないけど、歌には決定的な力がある。
 今日の私の主題歌は、Suaraの「舞い落ちる雪のように」だった。
 宇宙を旅している途中に立ち寄った星で、おまえのいた地球というのはどんな星だったのだと訊かれたら、ラブソングのある星だと私は答えるだろう。
 廃墟と化した地球にただ一人生き残ったときも、私はきっとラブソングを口ずさむ。
 それは地球人が発明した最も偉大な文化かもしれない。

 2009年2月6日(金) 「結論を出して安心してはいけない。
                すべては仮定の段階だから」

 結論を出すことは危ういことだと知らねばならない。
 それは思考の打ち切りを意味することだから。
 物事にはいくつもの節目はあるけど、本当の終わりはそれほどたくさんはない。
 小説や映画は結末を迎えても、登場人物たちの人生はその後も続く。
 自分は正しいと思った瞬間から硬直と崩壊は始まり、他人を駄目だと結論づけたところから正しい判断を失うことになる。
 世界は常に動き続けていて、物事の本質もまた流動的なものだ。
 だから私たちは追求し続けるしかない。休まずに考え続けることでしか正しさに辿り着けない。
 人を裁くことの困難さもそこにある。誰も明日の自分さえ分からない。
 若い頃思い込んでいたことの多くは間違いだったと、今では思う。ただ、こうして生き続けていることで間違いは正していける。自分は間違ってると決めつけなかったことが今につながっている。
 あるいは、結論保留というのが相対的に見て一番誠実な態度なのかもしれない。何一つ決めつけることはできない。
 仮定を結論だと思ってはいけない。私たちは仮の答えをつなぎあわせて可能性を未来へつなげている。それでいいのだと、私は思っている。私たちは最後の人類ではないのだから。問いかけを先につなげればいい。

 2009年2月5日(木) 「心掛けに見合った人間であること。
               目標が低ければ自分も低いまま」

 殊勝な心掛けというのは往々にして長続きしないものだ。結婚前の誓いのようなもので、冷静に考えれば無理がある。
 たとえるならそれは、目標を書いた用紙を頭上高くに掲げるようなもので、ほどなくして腕は疲れて下がってきてしまう。ときどき降ろして休めるにしても、ずっと掲げ続けるのは難しい。
 やり方は二つしかない。目標を下げるか、自分を高めるか。
 高い目標の位置まで自分を高めれば、その目標は等身大のものとなる。
 殊勝な心掛けに釣り合うように人格を上げればいい。そのために、目標をあえて高く設定するのは間違いではない。
 正しい行いと人格は必ず釣り合っていなければいけないというわけではない。駄目な人間が行った正しい行為は正しいし、正しい人間がした間違いは間違いだ。
 正しい行いを続けていれば、やがて正しい人になれる。
 人格が行為を決定し、行為が人格を作る。
 あとは、思いと行動との溝をどうやって埋めればいいかという問題だ。そこが一番難しいところではある。

 2009年2月4日(水) 「徳の積立貯金はコツコツと。
               一度にがっぽりとはいかない」

 小さな徳も、塵も積もれば山となる。コツコツ貯めれば、やがて大きな徳となる。一度に大きく貯金しようと思わない方がいい。急がば回れ。
 徳は得にもつながり、巡りめぐって自分の得となる。
 情けは人のためならず。自分への先行投資がいつか大輪の花と咲く。
 目先の利益にとらわれず、長い目で見て何をすればいいのかという判断をしたい。
 人に親切にしたり、喜ばれることをしたり、逆に人が嫌がることを率先してやったり、優等生的なことや、偽善的なことも、やらないよりはやった方がいい。損して得取れという言葉もある。
 欲得尽くの損得勘定ではなくて、三方よしという近江商人の教えもある。売り手よし、買い手よし、世間よし。
 たとえ自分が損をしたと思っても、その分得をした人がいると考えれば腹も立たない。
 徳を積むというのは、日常的な行為だ。特別な日にする特殊な行いではない。
 生きるというのは、徳貯金のチャンスと思えばいい。死んだら徳は積めない。
 あの世で物をいうのは、生きている間に積んだ徳だ。それが向こうではお金の代わりになる。現金や成功は免罪符とはならない。
 単純に言えば、世のため人のために役立つことをやるということだ。道に落ちているゴミを一つ拾うことでもいい。
 徳を積まないと泣きを見る。それは自戒の言葉だ。

 2009年2月2日(月) 「無事なのは実力じゃない。
               見えないものを見ることが大切」

 有形、無形の人や存在の助けなしには、一日たりとも無事に過ごせないのかもしれない。
 何もない平和な一日を自分の力だけで勝ち取ったと思うのは傲慢だ。
 そこには目に見えない大いなる力が働いて、陰で支えている。
 幸せでないことを恨む前に、不幸でないことを感謝する方が先だ。
 たとえば、自分が死んで、誰かの守護霊となったとイメージしてみると分かる。
 その人間がどういう気持ちでいればもっと助けてやろうと思えるか。
 謙虚な態度で感謝の気持ちを忘れなければ手助けしたいと思うし、自分だけで生きていると考えているようなら勝手にすればいいと思うだろう。
 現実の世界でも、親兄弟や友人、家族、ご近所さんや利用する店の人たちがいて、自分の暮らしが成り立っている。
 行為以前に存在がそれぞれを支え合っている部分もある。
 それを広げて考えれば、国であり、星であり、宇宙であり、神でありということになっていく。
 時間軸で言えば、過去の歴史の上に現在が成り立っていて、未来があるから現在があるとも言える。
 この世界は、案外安定しているのかもしれない。多重、多層、多様に支え合う仕組みだから、どこか一ヶ所が崩壊しても、修正して別のバランスで成り立つのだろう。
 大切なのは、想像力をもって、思い至ることだ。目に見えるのは世界のほんの一部だということを知る必要がある。

 2009年2月1日(日) 「前向きになるためには
               根拠が必要だ」

 方向性と根拠のない前向きは、ただの強がりか現実逃避だ。そんなもの偉くも何ともない。
 むしろ悲観や絶望というのは、そんなに悪いものではないと私は思っている。絶望しながらでも前進はできる。
 ただ闇雲に突っ込んでいくのは愚かなことだ。
 前向きになるための根拠をどこに見いだせばいいのか。あまりに遠すぎる夢では途中で力尽きてしまうし、かといってやろうと思えばできてしまうことだと、つい油断して怠けてしまう。
 ほどよい距離感にある現実的な目標が必要だ。
 そこにさえ迎えないというなら、もう何もできない。流されて生きるだけで終わってしまう。自分の幸せのためなら少しくらいの苦労はしないといけない。
 目標に日々近づくための優先順位を定めることだ。すぐに達成できなくても、近づいていさえいれば前向きな気持ちになれる。
 誰に褒められるわけでもなくても、自分が納得するようにすればいい。
 最後の最後には頑張りが認めてもらえるように。

 2009年1月31日(土) 「約束は守ること。
                でもそれが難しい」

 一番の理解者であるはずの自分に愛想を尽かされないようにするにはどうしたらいいか。
 そんなことをは簡単だと思ったり、ひどく難しく思えたりすることがある。
 自分で自分を見捨てたら終わりだと思いつつ、こいつはやっぱり駄目だと見放したくなるようなときもある。
 なんとかぎりぎりで踏みとどまるためには、自分との約束事を守ることだ。毎日やろうと決めたことは、ちゃんと毎日やらないといけない。それが最低限のことだ。
 そんなに大それたことを考えてるわけじゃないし、目くるめく成功を夢見ているわけでもないけど、なかなか自分の期待に応えられないのがもどかしい。
 いつか心の底から自分を褒めてあげられるときが来るだろうか。
 慰めではなく、本物の称賛が欲しい。

 2009年1月30日(金) 「上から下へ、
                横へ斜めへ」

 上には上がいて、下には下がいる。
 前後左右にも、斜めにもいる。
 上だけを見ていればいいというわけではない。ときには足元を確認する必要もあるし、枠にとらわれない型破りな存在も認めなくてはならない。
 世の中にはいろんな人間がいて、誰が正解で誰が不正解というわけではない。
 認識して、判断しないこと。
 自分が安心するために他人を評価して裁いてはいけない。決めつけは価値観を歪ませる。
 一番底辺から最高まで、すべての景色を見られた人が最強だ。それは無理でも、たくさんの階層を見た方が自分のためになる。
 そういう上下動もまた、人生の旅だ。

 2009年1月29日(木) 「知識は教養の素材。
                情報も消化して取り込んでこそ」

 大事なのは知識よりも教養だ。
 その二つは重なる部分は多くても、性質が違う。似て非なるものだ。
 たとえるなら、武装と身だしなみのようなものと言っていい。
 知識は防具であり、ときに武器にもなる。
 教養は他人と争う道具ではない。
 高学歴でも教養のない人間はたくさんいる。
 雑学やうんちくを貴金属のよう見せびらかすのは下品なことだ。
 何故教養は価値があるかといえば、それは長い時間をかけて勉強を積み重ねた結果だからだ。
 知識は一夜漬けでも手に入るけど、教養はそうはいかない。
 本を読み、テレビや映画を観たり、音楽を聴いたり、旅行をしたり、自ら体験をして、人の話を聞き、知識と経験を有機的に関連づけたものが教養だ。
 自分で考えて、感じて、思想の肉付けをする必要もある。
 教養が一番必要となるのが、人との会話で、教養がある人間かどうかは教養があれば分かる。
 人と人との会話というのは最高の娯楽の一つで、中身のない薄っぺらな会話では楽しくない。
 互いに豊富な教養を持ち合わせていれば、小出しにする知識の断片の応酬でも楽しめるし笑える。
 学校の勉強も、役に立てることができるかどうかは本人次第で、ああいうある意味では無駄な勉強も、結局学校の授業でしかやらないわけだから、無駄じゃないといえば無駄じゃない。
 すいへいりーべぼくのふねだって、今では何の役にも立たなくても、思い出話として笑い合える。
 教養はないよりもあった方がずっといい。大学なんか行かなくても身につくものだ。

 2009年1月28日(水) 「幸運は手を伸ばして掴むもの。
                でも本当にそれを掴んでいいの?

 幸運は自分のすぐそばでちらちらと見え隠れしている。
 誘うように、逃げるように。
 幸運は確かにすぐそこにある。ただし、向こうからやって来ることはなくて、掴みたければ一歩、二歩前に出て、手を伸ばす必要がある。
 時には強引でなければならない。
 でも、人は往々にして、幸運に手を伸ばすことをためらう。
 美味しい話には裏があるのではないかと疑ってしまうからだ。あるいは、幸運は別の不運を引き連れてくることを経験的に知っているから。
 何度か痛い目に遭えば、不運じゃなければ幸運もいらないと思うようになる。そうやって歳と共にだんだん臆病になっていく。
 不運も幸運も恐れない人間だけが幸運を掴むことができるという言い方もできる。
 それが最終的にどういう結果につながっていくかは分からない。そこでどう判断するかで、行く末は変わっていく。
 ハイリスク・ハイリターンを選ぶか、ローリスク・ローリターンで満足するか、どちらが正解とも言い切れない。
 確かなことは、幸運は危険を伴うということだ。思うほどいいものじゃない。
 運に頼らない生き方を選ぶのもいい。それで安全かといえば必ずしもそうではないけれど、運任せの生き方よりはよほどいい。
 私は自分は運がいい人間だと思っている。でもだからこそ、どこかでしっぺ返しが来そうで、内心ちょっと恐れている。これが最後まで続くかどうか。

 2009年1月27日(火) 「一人ではできないこと。
                孤独だからできたこと」

 一人ではできないことはたくさんあるけど、一人じゃなければできないこともたくさんある。
 過去を振り返ったとき、そのことに気がついた。
 自分の世界を閉ざしていたからこそできたことは、今ではもうできなくなってしまった。
 一人でいたときは、もっと時間もあった。
 孤独に耐え、孤独を突き抜けることができたとき、孤独もそんなに悪いものじゃないことを知る。
 あの頃に戻りたいとは決して思わないけど、今はあの頃が懐かしい。そして今、そんなふうに思えることがとても嬉しい。

 2009年1月26日(月) 「動きは連鎖する。
                日々は可能性」

 行為にはたいてい失敗がつきもので、100パーセント思惑通りにいくことはめったにない。上手くいったとしても、多少なりとも心残りがあったりして、完全には満足できずに課題が残るものだ。
 ただ、動かなければ事態は止まったままで、失敗がない代わりに成功もない。愛の告白のように。
 可能性というのは、動いた結果広がるもので、失敗は歓迎すべきものだ。
 自分が動くことで事態は動き、事態が動けば心も動く。心が動けば手が動き、人に何かを伝えたくなる。その波動は人から人へと伝わり、また自分に戻ってきて、次の行為へとつながっていく。
 静は自分の中で止まったままで、動は自分の外に連鎖していく。
 まずは動いてみることが大切だ。そこに波風が立つ。
 何もしなくても日々は過ぎていくけど、この日々は何かができる可能性ということを忘れないようにしたい。

 2009年1月25日(日) 「受けた感動を
                違う感動に変えて」

「タッチ」と「マクロス」と「北斗の拳」がなければ、私の人生はずいぶん寂しいものとなっていただろうし、今とは違う人生を送っていたかもしれない。
 あれらの作品が人格や思想の形成に与えた影響は少なくない。
 尾崎豊、太宰治、中原中也、アインシュタイン。
 ヘッセ、チェホフ、村上春樹、フィッツジェラルド。
 たくさんのドラマや映画や音楽たち。
 多くの時間を費やしたゲームも忘れてはいない。
 私はそれらのものに恩を受けたと思っている。だから、いつか違う形で恩返しをすることは、人生のテーマの一つになっている。
 与えてもらうだけでは申し訳ない。
 感動は世代から世代へと引き継がれ、受け継がれていく。自分もまた、その担い手の端っこにでも加わりたいとずっと思ってきた。
 どれだけ時代が進んでも、人間が感動する生き物だということは変わらないと私は信じている。
 人がこの世からいなくなっても、作品は時代を超える。

 2009年1月24日(土) 「教師であるという責任。
                生徒でるという姿勢」

 人は誰でも、教師であり、生徒でもある。反面教師も兼ねている。
 無自覚のまま、誰かに物を教え、人から多くを学ぶ。他人の愚かさを見て、自分への戒めとする。
 人は無意識のうちに様々な役割を割り振られ、演じている。
 本当はそれを自覚する必要がある。自分は誰かにとっての先生なのだと思えば、人の手本になる言動を心がけなければならない。
 生徒であるという自覚があれば、少しでも多くのことを他人から吸収しようと必死になるべきだ。
 才能や資格のあるなしは関係ない。それは役割として与えられていることだから、非力であっても最善を尽くす責任がある。
 他人に対しても、この世界に対しても、自分勝手ではいけない。
 姿勢を正すことだ。背筋を伸ばして、真っ直ぐ前を見つめて、恥ずかしくないように。

 2009年1月23日(金) 「夢見る力は、
                未来へ向かう力」

 夢だけでは生きていけないと人は言う。
 でも、この世界を一番先頭で引っ張っていっている人は皆、夢を追いかけている人たちだ。
 人間は実現不可能なことを夢見ることはできない。できないことは脳がイメージできないから。
 黒人がアメリカ大統領になり、民間と学生たちが作った衛星の打ち上げが成功した。
 彼らも、夢を実現するまではただの夢見がちな人たちにすぎなかった。
 今も最前線で多くの人たちが夢を見ながら戦っている。一生スポットライトが当たらない場所でも。
 私もまた、私の戦いを戦っている。
 自分はちゃんと夢見ることができるかいるかどうか、もう一度自身に問いかけてみる必要がある。
 夢見ることをやめた人間に未来はない。

 2009年1月22日(木) 「生きることは簡単だったり、
                難しかったり」

 人の一生は結果論で語られるしかないものかもしれない。けれど、今を生きる私たちは、過去を元にしてリアルタイムの判断をしていくしかない。それが正解なのか不正解なのかは、終わってみなければ分からない。
 それは不条理なものなどではなく、正当なものに違いない。
 結果が分かっていて生きるわけではないし、人生は運命をなぞる塗り絵でもない。
 客観的な判断は判断として、主観としての正解というのも確かにある。
 居直らなければならないところまで追い込まれたとしたら、それはもう自分の判断を信じるしかない。たとえ他人の意見の方が正しかったとしてもだ。
 独りよがりでいいということではない。基本的な姿勢としては、主観と客観を両立させる道を模索すべきだ。自分が正しいと思ったら、落とし穴に落ちる。
 ただ、迷ったときに立ち返るべき自分の立脚点だけは、はっきりさせておいた方がいい。
 どこを目指すのかという方向を見失ったら、本当の迷子になってしまうから。
 私たちは誰もが確信を持てないまま生きている。それでもいいと自らを慰めたり、近しい者同士で励まし合ったりしながら。
 生きることは簡単じゃない。難しいけどもしかしたら答えは出るんじゃないかと思わせる絶妙の難易度設定に私たちは翻弄され続ける。
 この世界を創造した存在の偉大さを思わずにはいられない。
 これが全部偶然の産物だとしたら、偶然こそが神だ。

 2009年1月21日(水) 「あがいて、あがいて
                もがいて、もがく」

 結果以前に、ちゃんともがくことが必要だ。
 無駄なあがきと分かっていても、やれるだけのことをやって損はない。
 途中であきらめるのと最後まであきらめないのとでは、結果が同じでも意味は違う。
 姿勢の問題だ。
 しかし、それにつけても自分の力をすべて出し切ることの難しさ。
 出せない実力は宝の持ち腐れでしかなく、やれてもやらないのはやれないと同じだ。
 手遅れでも今日から再出発したい。今から小学一年生の勉強をもう一度やって、たとえ小学四年くらいで死んでしまったとしても、三年分の上積みはできる。
 今更と思わないことだ。その気になれば、明日からバイオリンを習い始めることだってできる。
 目標に近づくために当面何をするかを自覚しておきたい。次の5分に何をすることが正解なのか知っておくことが大切だ。
 目標に向かって日々もがけているか? それをもう一度自分自身に問いかけてみる。
 頑張っていても、もっと頑張れと励ますのだ。もっとやれ、もっとできるはずだ、と。

 2009年1月19日(月) 「いい俳優であり、いい演出家であり、
                いい観客でありたい」

 明日自分が何をしたい気分になるのかは自分でも予測がつかないところがある。
 今日の自分が考える明日の自分は、天気予報と同じくらいの確率で当たったり外れたりする。
 一年後、五年後、十年後と考えると、それはもう見当もつかない。
 一年前、五年前、十年前と思い返してみると、思いがけない部分でいろいろ変わっている。
 ただ、私は計画通りに事が運ぶよりも、ある程度行き当たりばったりの方が好きだから、どうなるか分からない自分を楽しめている。
 予想ができないから面白いのはスポーツやドラマでも同じだ。いつも強い方が勝ち、予定調和のハッピーエンドばかりではつまらない。
 人生は自作自演で、物語はどこへ向かうか分からない。脚本通り、演出通りにいくとは限らないし、ハプニングや脱線が思わぬ傑作を生むこともある。
 とにかく、楽しむ心が大切だ。何が起こっても、それはすべて物語の中の出来事で、私たちは主役と観客を兼ねている。
 さて、明日は何があるだろう。シナリオは演じながら出来上がっていくものだけど、自分は演出家でもあるということをいつも自覚しておきたい。
 その気になれば物語をどう書き換えてもいいのだ。
 人生を面白くできるかどうかは、自分にかかっている。

 2009年1月17日(土) 「結論は思うよりも先にある。
                追いかけ続けることが大事」

 結論を先延ばしにするというと、怠惰で優柔不断で悪いことと思われがちだけど、必ずしもそうではない。
 先送りにしないと出ない答えもたくさんある。
 結論を急ぎすぎて自滅してしまうこともある。
 特に若いときの性急さは危うい。生きる意味が分からず、生き急いで死に急いでしまいがちだ。
 けど、年を重ねなければ見えなかったことがたくさんあることを、今の私たちは知っている。
 ただし、分からないことをあきらめてしまっては駄目だ。分からなくても分かろうとすることに意味がある。
 結論を先送りにするということは放り出してしまうということではない。追求し続けるということだ。
 それは、自分自身の生きる道だけではなく、人と人との関係性も同じことが言える。
 好きになって嫌いになったらもうおしまいというのでは、本当の学びはない。
 親子や兄弟、友人関係でもそうだ。
 生きられる限り生きて、続けられるだけ続けていくことで知ることに価値がある。
 何事も結論というのは出るようで出ないものだ。掴まえたと思ったら、するりと逃げていく。
 あまり焦らず、でもちょっと急ぎながら、追いかけることをあきらめないでいたい。

 2009年1月14日(水) 「必死であることは、
                格好悪くて格好いい」

 何かを成し遂げるには、情熱に加えて少しの狂気が必要だ。
 冷めた心で大仕事はできない。表面は冷静を装っても、内心では燃えていなければならない。
 ちょっとくらい異常な入れ込みようくらいでちょうどいい。
 恥ずかしいとか格好悪いと思ってひるんだら負けだ。
 何しろ必死でなくてはどうしようもない。一所懸命程度では足りない。
 めちゃくちゃ頑張って、それでも結果が出なかったときだけ、力不足という言い訳ができる。余力を残していては、どんな言い訳も説得力を持たない。
 限界で倒れるところでやらなければ、それは本当にやりたいこととは言えないだろう。

 2009年1月12日(月) 「心を忙殺することの功罪。
                ストップ・アンド・ゴーの判断が大切」

 忙しいという字は、心を亡くすと書く。
 これは半分悪い意味で、半分いい意味だ。
 ときには心を殺して仕事に没頭することも必要だから。
 下手な考え休むに似たりという言葉があるように、考えすぎてよくないこともある。
 考えなければ行為にスピードが生まれる。まずは手足を動かすことだ。その次に頭を働かせればいい。
 反省心も置き去りにするほど、やるべきことをやっていれば、思い煩う暇もなくなる。
 失恋のあとに忙しくすることで忘れるのが正しい方法論であるように、生きることに悩んだときは心を忙殺するのがいい。
 スピードで振り落とせない問題が本当の問題で、そのときは立ち止まってしっかり解決方法を考えることも必要となる。

 2009年1月11日(日) 「万物流転。
                終わりなき旅の途中」

 生々流転。
 生きとし生けるものはすべて、世界の循環に飲み込まれ、流される。
 物事には順序があり、生と死は流れの入り口と出口だ。どちから一方でも詰まったら、世界は淀んで息絶える。
 生は死の始まりであり、死は新たな生の始まりでもある。
 古い命が死ぬことで、新しい命の生きる場所ができる。
 この世界に永遠はある。ただし、それは変化の連続をいう。不変が永遠なのではない。
 死んでは生まれ、生まれては死に、また生まれる。
 私たちは終わりなき旅の旅人だ。流れ流され、どこに辿り着くだろう。

 2009年1月9日(金) 「永遠ではない星。
               失われるから愛おしいのか」

 半分のあきらめと、半分の満足。
 その中で、この世界にいることを愛おしく思う。
 リアルタイムを生きながら、切なさと懐かしさを感じるのは、この美しい惑星がいずれ消滅してしまうことを予感しているからだろうか。
 すべての変化には正当性があり、存在とは移ろいゆくことだと知っているけど、この世界だけは永遠に変わらないでいて欲しいと願わずにいられない。
 自然の風景や様々な動植物だけでは充分ではない。人の営みがあり、文明があってこその美しさだ。
 人々が地球を真に愛することに目覚めるまで、あとどれくらいの歳月が必要なのだろう。

 2009年1月8日(木) 「正常は正しさではないし、
               目指すべき目標でもない」

 人は多かれ少なかれ正常から外れた部分がある。だから、自分は少しおかしいくらいの自覚を持っていた方がむしろ正しい。
 一番たちが悪いのは、自分は完全に正常だと思い込んでいる人間だ。
 そういう人間は往々にして独りよがりで、他人の言うことを聞かない。
 自分の意見をしっかり持つことは大切だけど、頑固さは成長の妨げとなる。
 少しくらい歪んでいるのも個性だし、それが規格品ではないことの証でもある。
 異常であることが正しいわけではないけど、正常であることもまた正しさではない。
 正しさは固定したものではなく、完成するものでもない。求めるものだ。
 だから人は、永久に正しい存在にはなれない。正しさが完成したときは、世界が終わるときだ。

 2009年1月7日(水) 「慰めは慰め。
               夢は目標の向こう側」

 いくつになっても自分というものがよく分からなかったりするものだけど、年を重ねて自分とのつき合いが長くなれば、自分の慰め方は上手くなる。
 いじけた心の特効薬になる慰め方も見つける。
 けれどそれは、文字通りの慰めでしかなく、救いではない。
 本当に自分を救うためには、何をどうしてどうなればいいのかは分かっているはずだ。実現する筋道が分からないから目を背けているだけで。
 夢と願望と目標は全部別のものだ。はっきり区別しておかないと道に迷うことになる。
 夢と現実の間に目標があって、願望というのは道筋の中にはない。
 現状と夢の間に目標をいくつか置いて、まずは一番手前の目標を実現させるべく、できるだけのことをやってみることだ。それが夢に近づくということだから。
 夢を見続けるだけでは夢には近づけない。
 正しく目標を持つことが大切だ。

 2009年1月6日(火) 「戻っても何もないから、
                遠くを見て進むだけ」

 自分の中で風が吹き、流れを感じるときは、大丈夫だと思える。
 べた凪で、前にも後ろにも進めなかった数年間もあった。
 今は緩やかな風を感じて、櫂で漕ぎながら少しずつ前進している感覚がある。
 新大陸を目指そうだなどとだいそれたことを考えたわけじゃない。とにかく漕ぎ出してみたかっただけだ。遠い向こうに何かがあるような気がして。
 たとえ小島にさえ到達できなかったとしても、とにかく漕ぎ出したという結果は残る。
 全部が無駄に終わってもかまわない。自分がどこまで行けるか知りたかっただけだから。
 翼を持った鳥のように、高く遠くまでは飛べないけれど、遙か彼方の水辺線の果てを見てみたい。
 この世界を感じながら。

 2009年1月5日(月) 「いいものは人にあげよう。
               そしたら、もっといいものが返ってくる」

 正しさも、知識も、能力も、自分一人で抱えていては意味がない。
 広く分け与えて、共有してこそ価値が生まれる。
 持つ者は奉仕者としての義務がある。
 ノブレス・オブリッジという発想は、必ずしも傲慢さから出たものではない。
 人にはそれぞれの能力があり、役割がある。誰もが差し出せる何かを持っている。
 と同時に、誰もが何かが足りない。だから、みんなで出し合って助け合う必要があるのだ。
 何も出せない者は、受け取る権利がない。
 この世界の本質は共同体で、それはあらゆる存在、あらゆる関係性に及んでいる。
 生態系もそうだし、人間の社会もそうだ。観念的、思想的にもそれは当てはまる。
 大切なのは、自分は何を差し出せるかを自覚することだ。それが社会参加ということでもある。
 自分が与えていることに無自覚であるから搾取されているという被害者意識が生まれるわけで、自分の意志で出していると思えば、それが誇りにもなり、心の支えともなる。
 自分の中にあるいいものは積極的に分け与えていくべきだ。感謝されれば嬉しいからもっと何かを差し出したくなる。
 手放したら自分の分が減ってしまうと恐れることはない。空いたところには他人からのお返しが収まるようになっているから。
 いろんな人にいろんなお返しをもらえばもらうほど、自分という人間は豊かになっていく。

 2009年1月4日(日) 「もっと日常的に勝負にこだわりたい。
               小さな勝ち負けは意外と大事」

 勝つとはどういうことなのか。
 負けないというのは何なのか。
 人生における敗北とはどんなことをいうのだろう。
 主観的な部分と客観的な判断は一致しない。
 ズレの大きさには個人差があるにしても、誰もが悩まされるところだろう。
 自分になりに負けを認めなければそれでいいとずっと思ってきたけど、そういうことでもない気がする。
 ただ、他人に勝ちと言われても自分が勝ちと思わなければ納得はできないことは確かだ。
 勝ちも負けもはっきりしないまま私たちは漠然と生きている。ルールや目的が分からないままゲームに参加してるようなものだ。
 究極的には勝ち負けは超越できる。けど、そこに辿り着くまでには日常がある。その中で、日常的な勝ち負けというのは思う以上に大事なことかもしれない。
 結果ではなく、勝負する姿勢が甘いんじゃないか。もっと目先の勝ち負けにこだわってもいい。
 一日の始まりと終わりに、勝負ということを考えてみる。自分の中の勝負で、どうすれば勝ちで、どうすれば負けなのかを自覚していたい。
 単純に言えば、怠けたら負けだし、目標を達成すれば勝ちだ。勝負は他人との比較だけではない。
 勝負すべき最大の敵は、自分の中の弱さだろう。

 2009年1月3日(土) 「視点と尺度。
                いろんなところから見る大切さ」

 地球の大きなうねりと、人類の歴史の小さな起伏と、その他様々な浮き沈みと、この世界は多様な模様を描く。
 どの地点、どの尺度で物事を判断するかは難しいところだ。
 視点を固定せず、複眼で見る必要がある。
 文明が生まれて数千年の歴史を私たちは長いと見るけど、その前には何十万年もの人類の歴史がある。
 一方で、この100年の間に起きて出来事と変化を思うと、そのスピードにめまいを起こしそうになる。
 たとえば、宇宙で起きている出来事と、夕飯のおかずに何を食べるかは、同じように大事なことだ。他人事ではない。
 自分の人生と、地球の未来と、どちらも大事なことだ。
 自分はホモ・サピエンスなのだということを意識すれば、この先でやるべきことも見えてくる。そういう視点も持っていたい。

 2009年1月2日(金) 「世界を支配しているのは意識じゃなく、
               みんなの気分」

 流行とか世相とか、その時代全体の精神性というのがこの世界を見えない部分で支配している。
 たとえば戦争なんてものも、いくら国や軍が起こしたといっても、国民が望まなければ起こらないものだ。その時代、その状況の中で、人々は戦争を欲したのだ。だから、参加しなかったからといってまったく責任がなかったわけではない。
 バブルの時代はみんながお金を使いたがったのだし、世紀末は多くの人が世紀末思想に乗っかろうとした。
 時代は人々の気分によって作られる。
 現在の不況というのも、世界全体がアメリカ主導の資本主義経済に疲れて、ちょっと落ち込みたい気分がもたらしたものという言い方ができるかもしれない。
 私たちは常に元気でいたいわけじゃない。たまには暗い曲を聴いて沈みたい気分のときもある。
 それは、変化を望んでいるということの裏返しでもある。
 近頃気づくのは、全体の総意として古い時代に回帰したがっているようだということだ。
 特に日本では和ブームとでもいうべきものが起きているし、エコというのもそうだ。これらは意志というよりも気分といったものに近いように思う。
 2009年は、去年より更に景気が悪くなるという予想もある。ただ、これは絶望すべきこともでない。むしろ変化の必然を喜ぶべきだ。
 日本も世界も、新しい時代を迎えて変わっていく必要がある。どう変わっていくかは、これからの人々の気分が決める。私はそれを楽しみにしている。

 2009年1月1日(木) 「幸福はガソリン。
               ガソリンは車の主役じゃない」

 幸せであることは前進のための原動力にはなっても、人生の目的そのものじゃない。
 それは、地球や宇宙という視点で考えれば分かる。
 多くの種の中のホモ・サピエンスという生き物が幸福に過ごせることを目的として地球という惑星が誕生したわけではない。
 宇宙は地球中心に回っているわけでもない。
 私たちは果てしなく遠くを目指す中で、地道な一歩ずつを積み重ねていっている。
 どんなに絶望的に遠い道のりでも、次の足を前に出さないことには永久に近づくことはできない。
 私たちはどこを目指しているのか? それは私たち自身にもまだ分かっていない。この先進んでいって見えてくるものだ。
 今はとりあえず前と思う方向に進んでいくしかない。まだ若い地球という星に暮らす未熟な生物として。
 何をもって前進とするか。まずは知ることだろう。学ぶべきことは無限にある。
 それまで知らなかったことを知るということが、人類にとっての最高の幸せという言い方もできるかもしれない。
 知ることはときに絶望を呼ぶものだけど、知ることを恐れてはいけない。
 知らないことの幸せよりも、知ることの不幸の方が価値がある。


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