2008.7.13-

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 2008年12月31日(水) 「良くも悪くも変わること。
                 去年と同じじゃ能がない」

 2008年は、良く言えば安定、悪く言えば停滞の一年だった。
 決して悪い年ではなかったけど、自慢できるものでもなかった。
 2009年は、変化と前進の一年にしたいと思っている。
 去年と同じことをやっていては駄目だ。
 何かを始めるには、何かを終わらせる必要もあるかもしれない。
 ただ、暗闇に向かって手探りで進むことは変わらないから、闇雲に進めばいいというわけでもない。
 遠くの光を目指すことだけは忘れないようにしたい。

 2008年12月30日(火) 「怒り不足。
                 これでいいのかいけないのか」

 私は自分が怒りっぽい人間じゃないから、いつもプリプリしているような人は苦手だ。この世の中にそんなに腹を立てることってあるかなと思う。
 ただ、私の場合は人並み外れて怒らない人間なので、それは人としての欠陥のようにも感じている。喜怒哀楽の感情をバランスよく持っている人が正常だ。
 腹を立てている人の方が生きることに一所懸命で、楽しそうにも見える。怒ることで熱くなれる人を、ちょっとうらやましく思ったりもする。
 漫才でいうところのツッコミ体質の人間の方が、他人のボケを活かせるということもある。
 私も当然腹を立てることはある。表だって怒りをあらわにしないだけで。ただ、それでもまだ怒りが全然足りないように感じる。
 怒ることは必ずしも悪ではない。正当な怒りもある。そういう意味では、私はもう少し怒りの感情を育てていかないといけないのかもしれない。
 怒りの持久力がないから、許せない人間がいないというのは良い点なのだけど。

 2008年12月29日(月) 「虫の知らせか、怠け心か。
                 サインを読み間違えたら致命傷」

 虫の知らせといったようなものは確かにあると私は信じている。
 私の場合は、誰かが死ぬのが分かるとかそういう大げさなことではなくて、嫌な予感がするときはなるべく行動を控えるとかそういうことなのだけど。
 たとえば、世の中には虫の知らせのようなもので助かるというようなことがしばしばあって、そういう話をよく聞いたりする。その日に限って寝過ごして電車に乗り遅れたら電車が事故を起こしたとか、悪い夢がそのまま現実になりそうになって回避できたとか。うちの親戚は、阪神大震災のとき、寝ているとき急に咳き込んで洗面所でうがいをしていたら、直後に地震があって、寝ていた布団の上にピアノが倒れてきたそうだ。
 身の回りでは有形、無形の様々なサインが出ている。何に反応して、どういう解釈をするかによって、行動や結果は違ってくる。
 どこかへ行く予定をしていて、ちょっと風邪気味の場合、それを行かない方がいいというサインと取るのか、そんなものは関係ないと行ってしまうか。結果的にどちらがよかったのかは分からない。選択しなかった方の結果を知りようがないから。
 当たるも八卦当たらぬも八卦の占いもそういうものだ。
 あるいは買い物のとき、買おうか買うまいか迷ったらどうするか。私は迷ったらなるべく買わないようにしている。迷うということは、どこか心に引っかかる部分があるからで、本当に欲しければ買うのを止めようがないと思うから。
 それは虫の知らせといったようなものとは違うのだけど、サインという意味での共通点がある。
 ゴーかストップか、サインを読み取れるかどうか。読み間違えると、ときに致命傷になることもある。
 自分の気分をどこまで尊重するかも難しいところだ。行きたくないという気持ちが行くなのサインなのか、単なる怠け心から来ているのか、判断に迷うことも多い。
 勇気と無謀は似て非なるもので、人生のあらゆる場面で積極的であればいいかといえばそうじゃない。大胆さと慎重さは同じくらい大切なものだ。野球の盗塁に似ている。
 なんでこんなことを書いたかといえば、明日出かける予定をしていたら膝痛が再発したからだ。これは行くなのサインなのかどうなのか、迷っている。無理してでも行けば収穫はあるはずだけど、膝痛を悪化させると今後に影響を及ぼしてくる。
 もしかすると、行った先でもっと悪いことが起こるかもしれない。でも消極的であれば、得られることは少ない。そうやって思考は堂々巡りをする。
 行くか、行かないか、判断は明日の自分にしてもらおう。

 2008年12月28日(日) 「人の心はつっかえ棒で支えられてる。
                 自分の足だけでは立っていられない」

 自分の存在が、誰かの心のつっかえ棒の一つにでもなっているとしたら、頑張って生きていこうと思える。
 人は誰かのつっかえ棒を必要とし、誰かのつっかえ棒になることを必要とする。
 自分の存在が誰の支えにもなっていないと気づいたとき、人は真の絶望に打ちのめされて立っていられなくなる。
 私の心もたくさんのつっかえ棒に支えられている。
 私はあなたの心のつっかえ棒になれていますか?

 2008年12月27日(土) 「明日始めることを今日始める。
                 怠ける誘惑に負けないように」

 手遅れなことも、やらないよりはやった方がいい。
 もっと早く始めておけばよかったと思うことはたくさんある。
 けどそれは、始めたからこそ思えたことで、始めなければ遅くなったことにも気づかない。
 春になったらと思ってることは冬から、来月からと思うことは今月から、明日からと考えてることは今日から始めよう。善は急げともいう。光陰矢のごとし、少年老い易く学成り難し。花の命は短くて、恋せよ乙女。
 あやまろうと思ってることはすぐにあやまって、ありがとうという言葉も先送りにしない方がいい。
 難しいことほど早めにやって終わらせてしまった方がすっきりする。
 明日に希望を持つことは間違いではないけど、明日の自分に過度の期待をするのは間違いだ。今日頑張れない人間は明日も頑張れない。今日頑張れば明日も頑張れる可能性が出てくる。
 最大の敵は自分の中の怠け心だ。その敵に勝てれば、他に恐れる敵はいなくなる。

 2008年12月26日(金) 「終わりは突然じゃない。
                 終わりの始まりはもう始まっている」

 終わりには終わりの始まりと終わりの終わりがある。
 終わりの終わりで人は初めて終わりに気づくけど、本当はもっとずっと前に終わりは始まっている。
 人は生まれた瞬間から死に向かっているとか、会うは別れの始まりとか、そんな極論ではなくて、終わりが始まる瞬間というのはどこかで必ず訪れる。
 人はそれに気づかないふりをする。終わらせたくないことなら尚更。
 でも本当は気づいてしまうものだ。あとから振り返ったとき、それははっきり分かる。
 物事には必ず終わりが来る。死という別離がすべてではない。
 気持ちの糸がぷつりと切れるようなこともある。それもまた、突然のことではない。前触れや過程がある。
 終わりはたいてい悲しかったり寂しかったりするものだけど、終わりは新しい始まりの始まりなのだと自分を慰めて、先へ進むしかない。
 未練を捨てて、前だけを見て。

 2008年12月25日(木) 「美しさがすべてじゃないけれど
                 美しいものは正しい」

 美しさは幸せにつながる大切な一つの要素には違いない。
 私は美しいものを愛し、尊敬している。
 けれど、美しさだけでは人は充分幸せにはなれない。
 美しい風景、美しい音楽、美しい絵、美しい人、美しい生き方。
 人は複雑ゆえに様々なものから幸せを感じることができると同時に、多様ゆえに一つのものでは決して満足することができない。
 それは祝福であり、呪いでもある。
 世界最高のものでさえ、それだけでは満たされない。
 美しさだけで満足できたのなら、人は簡単に幸せになれるのに。この世界は美しいもので満ちあふれているから。
 それでも美しさは絶対的に正しいのだと私は信じている。それで救われるわけじゃないことも知っているけれど。

 2008年12月24日(水) 「キリスト一人くらい受け入れよう。
                 日本人も祝っていい」

 日本におけるキリスト教信者は、国民の1パーセント弱だそうだ。
 そんなに少ないんだと思う人もいるだろうし、そんなに多いのかと驚く人もいるだろう。
 1パーセントといえば100人に一人だから、私は多い方で驚いた。
 これまで生きてきて、身の回りの近しい人でキリスト教信者というのは一人もいなかったから。

 日本は昔から八百万の神というくらいたくさんの神様を信仰してきた。にもかかわらず、無宗教という人が多数派という不思議なメンタリティを持った国民だ。こんな国民は世界中を探してもいない。国から宗教を禁じられているわけでもないのに。
 言い方を変えれば、この世のあらゆるところに神を見いだして、自然に崇拝しているということも言える。
 神も仏も一緒くたに拝んでしまう国民だから、神様めいたものなら何でもいいのだ。
 イエス・キリストも、そういう神々の中の一人として受け入れてきた。
 クリスチャンでもないのにクリスマスだけ祝ったり騒いだりするのはおかしいなどと言う人がいるけど、キリストも八百万の神の一人として日本人は認めたのだから、その批判は的を射ていない。
 日本人は本人が意識せずとも、仏教徒であり、神道の信者であり、クリスチャンでもある。だから当然、クリスマスを祝ってもいいし、初詣をして、仏式の葬式をしてもいい。
 イスラム教であろうと、ヒンドゥー教であろうと、儒教であろうと、神と名のつくものはなんでも受け入れる度量を見せたい。今更神様が何人増えようとたいした違いはない。
 学校でもっと世界の宗教をしっかり教えるべきだとも思う。広い知識を持ち、客観的であることができて、どの宗教も選ばなくていいというのは、日本人の特権の一つだろう。選択の自由というのは、選ばなくてもいい自由があって初めて成立するものだ。

 今年はカレンダーがよくなくてクリスマスイブを祝えなかった人も多かったんじゃないか。私もそうだった。
 来年も24日が木曜で25日は金曜だ。いっそのこと日本も25日を祝日にしてもいい。ハッピーマンデーよりよほど気が利いている。
 クリスマス当日はまだ明日だ。お祝いするなら明日でいい。明日はケーキでも焼いてみるか。

 2008年12月23日(火) 「気分に左右されないこと。
                 時間割で動くこと」

 毎日積極的で前向きな気持ちで過ごせるわけじゃない。
 大事なのは低調なときに何ができるかだ。
 調子がいいときなら頑張れるのが当たり前で、駄目なときにどうにかできるかできないかで差が出てくる。
 不調の中でもやれることを見いだしていかないといけない。
 それには義務の習慣化が一番いい。やるべきことをオートマチックでやるようにするには、時間割を決めることだ。
 気分が乗らないときでも、時間が来たら自動的にやるようにしておけば、感情に左右されることがない。
 気分次第でやったりやらなかったりでは真の継続にはならず、効率も悪い。
 小中学生のように、時間割を書いて机の前に貼っておくというのも手だ。
 私も実際にそうすべきだ。

 2008年12月22日(月) 「他人の注意は天の声。
                 大いなるお世話様」

 期待するから失望するし、裏切られる。
 逆にいえば、失望は期待の裏返しでもある。
 叱られるということは、まだ見放されてないということだ。見限ったら腹も立たない。
 怒られるということはありがたいことだと思わなければいけない。
 それは天の声でもある。神の声が直接聞こえる人は別として、天の意志は他人を口を通じて伝えられるものだ。
 謝って反省して終わりじゃない。次の一歩につなげていかなければ、今度は本当に見放される。
 仏の顔も三度。三度は許されても四度目はない。打ち切りは前触れもなく突然やってくる。
 自分は自分のことを何度でも許してしまうから、自分の恩赦は当てにならない。
 誰かに許されるために生きているわけじゃないけれど、それが一つの目安になることは間違いない。
 怒ってくれた人を喜ばせることができれば、喜びは2倍にも3倍にもなる。
 マイナスから出発することのメリットもある。

 2008年12月21日(日) 「可能性がエネルギー。
                 あらたな試みが必要」

 みんながそれぞれの正しさを模索していくことで、トライアル・アンド・エラーの幅は広がっていく。
 全員で同じ生き方をしても意味がない。むしろ積極的に他人と違う生き方を試みるべきだ。
 失敗してみせることで余白を塗りつぶすという貢献になる。
 私たちは個の集まりの総体なのだということを意識する必要がある。
 個人的なことの追求が結果的に全体の利益につながればいい。
 たとえば歌の歌詞でも、小説でも、絵でも、極めて個人的な思いが普遍へと昇華したものだけが本物になる。最初から世間に迎合したものは、どんなに出来が良くても偽物だ。

 遺伝子は勝手に可能性の模索をする。人の思惑とは別のところで人を突き動かす。
 夫婦の遺伝子を調べると、塩基配列の遠い者同士の方が長く続いて上手くいっているという実験結果がある。それは遺伝子が新たな組み合わせを試しているからだ。
 この世界は様々な多様性が複雑に折り重なっている。横並びの個性があり、縦軸としての時間が別の時代を生み出す。
 過去を繰り返しても無意味だし、時代が巡っているように見えても、DNAのようにらせんを描いている。
 繰り返しながららせん状に上昇し、下降する。その軌道もまたらせんになっているという多重らせん。

 世界の終わりがあるとすれば、最後の可能性を試し終えたときだ。世界は可能性という空気を燃焼しながら存続している。
 人間も同じで、可能性がなくなれば生きていられない。
 あるいは、より多くの可能性を持った存在に取って代わられる。
 次々に新人アイドルがデビューするように。
 だから私たちは、自分の可能性というものをもっと意識しなければいけない。可能性を広げていかないと行き止まりになる。
 後ろからはタイムリミットが追いかけてくる。前へも右へも左へも行けなくなったときは、目の前の壁を乗り越えるしかない。
 生きることはある意味では逃げ続けることだ。追いつかれたら負けとなる。

 2008年12月20日(土) 「飛べるか飛べないかは、
                 飛んでみなくちゃ分からない」

 ハングリー・スパイダーじゃ駄目なのよと彼女は言った。
 フライング・スパイダーにならなくちゃと。
 翼はなくても空を飛べるのか?

 2008年12月19日(金) 「幸せが行ったり来たり。
                 一人じゃ壁当てしかできない」

 人を幸せにするためには全部を与える必要はない。
 ちょっとしたきっかけを与えるだけでいい。
 絵を描きたいという子供に、絵の描き方を教え、描いて見せる必要はない。
 絵の具さえ与えればいいのだ。
 人は自力で獲得した幸せしか満足できないものだ。
 他人からもらうものも嬉しいけど、どこかありがたみに欠ける。
 ただ、すべてにおいて自給自足の自己完結では、これまた物足りない。
 やはり幸せには他人という要素が必要不可欠となる。
 そのあたりのバランスが難しいことなのだけど、与えて、受け取る、受け取ったらお返しをするという行き来の中で、人は真の満足感を得る。
 絵の具を買ってもらったら、お礼に絵を描いてあげればいい。
 幸せはキャッチボールだ。

 2008年12月18日(木) 「頑張る必然性。
                 それは誰のためにという自問自答」

 誰のために頑張らなくてはいけないのかという基本姿勢を忘れていた。
 大切な人を喜ばせることが自分の喜びなのだということを思い出せば、何をすべきかはおのずと分かる。
 自分の楽しみを追求していると、生きることの本質からずれていく。
 今日明日結果は出せなくても、方向性を示すことは必要だ。
 そして、思いを伝えなくてはならない。

 2008年12月17日(水) 「昔みたい。
                 今は楽しくない」

 自分の罪について考えるのは、自虐なのか、向上心の表れなのか。
 私が恐れるのは、いじけて心を閉ざしてしまうことだ。昔みたいに。
 ときどき疲れる。
 自分がしていることがすべて徒労に思えて。
 実際、そうかもしれない。
 褒め言葉よりも理解が欲しかっただけなのに、それさえ値しないのか。
 このままでは駄目だと分かっていても、今はここから動けない。

 2008年12月16日(火) 「季節に合った生き方がある。
                 春には春の、冬には冬の」

 春の中にいたつもりが、実際は小春日和が続いていただけで、今がまだ冬だということに、はたと気づいた。
 季節を勘違いすれば、生き方も間違える。
 春に向かおう。その先に夏への扉があると信じて。

 2008年12月15日(月) 「戦うべき場面で立ち向かうこと。
                 戦える場面はそれほど多くない」

 ピンチはチャンスとはよく言うこと。
 でもなんだか強がりみたいだし、カッコつけすぎとも思う。
 これを日本語に直した方が分かりやすい。
 危機は機会。
 追い込まれたピンチこそ戦えるチャンスだということだ。
 普段の平穏な生活の中では、戦いたくても戦う場面がない。
 戦える場面というのを想像すると、それはたいてい危機的な状況のときだ。
 そんなときは喜んで戦えばいい。
 ピンチでどう戦うかでその人の真価が決まる。
 戦わずに逃げるならそれまでの人間ということになる。
 戦うというのは、勇気を持って立ち向かうということだ。
 勝ち負けはそれほど重要ではない。
 あとになって一番後悔するのは、勝負を避けたときだ。
 告白しないで後悔するよりも告白して振られた方が悔いは残らないのと同じだ。

 2008年12月13日(土) 「甘やかしていいことはない。
               厳しくすればいいというものでもないけど」

 甘えと驕りが自分を駄目にする。
 一所懸命やっているから許されるはずだというのは、自分を慰めるための下手な言い訳だ。
 本当にやるべきことは心が知っている。その声を聞こうとしないだけで。
 もうこれでいいということは決してない。
 いつでも、まだ駄目だと思っていないと、怠け心につけ込まれて落ちていく。
 自分を許すのは死ぬ前でいい。

 2008年12月12日(金) 「鳴かなくてもいいのなら」

 鳴かないカナリアもカナリアだけど、鳴かないカラスなら人に嫌われずに済んだだろうか。

 2008年12月11日(木) 「頑張ればいいというわけじゃないけど、
                 もっと頑張れよ、私」

 結局、私が何を言いたいかというと、みんないろいろ大変だろうけど、なんとか頑張って生きていきましょうという一事に尽きる。
 一番もっと頑張らないといけないのは私自身なのだけど。

 2008年12月10日(水) 「今日は駄目な一日。
                 でも明日は良い自分に戻りたい」

 他人の善意の言葉が心に響かない日もある。
 そんなときは、誰がどんなに正しいことを言っていても共感できない。
 それは人が悪いわけではなく、言葉が悪いわけでもない。ただ日が悪かっただけだ。
 どんな善人も善良な心だけで成り立っているわけではないから、普通の人間なら邪悪な日があっても仕方がない。
 たまになら、ひねくれたり、いじけたりしても、許されていい。
 気持ちが弱くなる一日もあるし、攻撃的になることもある。
 大切なのは、マイナスの感情に押し切られないことだ。次の日には必ず押し戻すという気概が必要だ。
 今日の自分は駄目でも、明日は良い自分に戻りたい。
 善良さの側に引き返そうとする気持ちを基本としなくてはいけない。
 偽悪的になってみても、結局自分が損するだけでいいことはないのだから。

 2008年12月9日(火) 「頑張るだけじゃ足りない。
                将来のための今日を生きなくては」

 毎日やるべきことをやっていればそれが正しさにつながるというのは間違いだ。
 将来の展望があって、そこへ向かうための毎日でなければ、ただ前進しているだけになる。
 目的もなくただ遠くへ行きたいというならともかく、目的地があるならそちらへ向かわなければ進んでも意味がない。
 遠回りでもいいというのは結果論で、無駄に遠回りしてもいいほど持ち時間は豊富じゃない。
 将来のための今日でなくてはならない。
 目標に少しでも近づくために何をすべきかということを見失わないようにしたい。
 一所懸命頑張ってるということは言い訳にはならない。

 2008年12月8日(月) 「難しいからやってみる価値がある。
                半分は失敗するものだけど」

 一緒に生きていくということは、肩を並べて同じ方に向かって歩いていくことだ。
 好き同士で見つめ合っていては前へ進めないし、何か飛んできたり、落ちてきたり、足元の障害物に気づかず怪我をする。
 ときに日陰になり日向となり、互いを助け、見守ること。
 そこに必然はある。
 ただ、人と人とは本質的な上の部分ではなく底辺でつながるものだから、志の高さと歩む速さでズレが生まれる。
 たとえ方向性が同じでも、進む速度が違えば一緒には歩いていけない。
 添い遂げることの難しさと功罪がそこにある。二人でいれば、必ずどちらかがどちらかの犠牲になる。あるいは両方が被害者となり、加害者ともなり得る。
 だからといって一人で生きることが正しいとも思えないけど。
 旅は道連れ世は情け。恐れていては何も始まらない。まずはやってみることだ。馬には乗ってみよ人には添うてみよとも言う。まだ訪れていない未来に怯えても仕方がない。
 同じ行くなら簡単な道よりも難しい道を行った方が得られるものが多いものだ。

 2008年12月7日(日) 「世話になったら感謝して、
                感謝の気持ちを形にして返す」

 感謝する人がいるということは、考えてみればとても幸せなことだ。
 それは、恩返しをしたい相手がいるということであり、恩に報いことができれば自分が喜べるのだから。
 感謝する気持ちになれれば、自分が幸せだということに気づく。
 人には世話になっておくものだ。誰の世話にもならないなんて思うと、恩返しする相手を失ってしまう。
 世話になったら、別の形で返せばいい。そうやって思いやりが行ったり来たりすることで両方が幸せになれる。自己完結は寂しい。
 自分にとって大切な人を大事にすることは、当たり前だけど簡単なことじゃない。
 自分のために頑張ることも必要だけど、頑張る方向性を見失わないためにも、大事な人の方を向いておきたい。
 人を喜ばせることが自分の幸せにつながり、自分の幸せが誰かの幸せにもなるのだ。

 2008年12月6日(土) 「故郷は歳月が作っていくもの。
                戻らなくてもいつか戻りたい場所」

 懐かしくて戻りたい場所はまだ見つかっていない。
 この先で探して見つけることになる。
 どれだけ生きたかで、戻りたい場所も違ってくる。
 子供の頃というのは懐かしいけど戻りたいところではない。
 もっと先にそれはあるような気がしている。
 もしかしたら、今このときかもしれない。
 いつでも明日は今日よりもいい一日になると信じている。
 死んだあとも、昨日より明日と思うんじゃないか。
 それでも、戻りたいと思える場所は必要だ。
 生まれ故郷の故郷を思うように、戻りたい場所は心の拠り所となる。

 2008年12月5日(金) 「記憶を分け合えば、
                それは思い出になる」

 一人ですることは振り返っても記憶でしかないけど、好きな人と行ったところはすべてが思い出の場所になる。
 同じことをするにしても、一人と二人では意味が違う。
 キーワードは共有だ。
 人には独占欲というものがある一方で、誰かと大事なものを分かち合いたいという思いもある。
 思い出というのは財産であり、未来の自分たちに向けた遺産でもある。死後の世界があれば、そこまで持っていける。
 思い出の数を競っているわけではないけれど、思い出は少ないより多い方がいい。
 なんにしても、いろんなところへ行って、いろんなことを見聞きすることが大切だ。行けば必ず何かは得られる。日常の中にはあまりない。
 相手がいなければまずそれを見つけることが先だけど、昔の友達でも知り合いでもかまわない。ポイントは共有ということにあるから。

 2008年12月4日(木) 「泣いても許されない。
                反省せずに突き抜ける」

 泣いて謝らなくてはいけないようなことをしてはいけない。
 泣いてしまうようなら謝らない方がいい。
 泣くという行為は自己完結の自浄行為で、泣いたからといって許されるわけではない。
 結局人は許されるべき存在だとも言えるし、どうやっても許されざる存在だとも言える。
 許されるべきではないのに許されていることに意味はあるのかないのか分からない。
 いずれにしても、死ぬ前に懺悔しても遅いし、死んでから悔いてもどうにもならない。
 少しくらいの罪は引きずって、最後まで押し通してしまった方が勝ちだ。
 反省よりも反撃することを心がけた方がいい。過去は打ち消せないから、取り戻すしかない。
 許してもらうために泣いたら負けだと思う。

 2008年12月3日(水) 「夢が心を一つにする。
                夢を見せられるリーダーが必要だ」

 過去を生きた人たちが夢見たことの多くが今実現している。
 戦国時代は争いのない世の中を夢見ていただろうし、江戸時代なら外国のことを知りたいとか行ってみたいという夢を抱いていただろう。
 明治、大正、昭和と時代が進む中で人々が夢見たことは、便利さと豊かさだった。
 もっと速く移動したいと、車を作り、新幹線を敷き、飛行機を飛ばした。
 食生活は豊かになり、暮らしはますます便利になっていった。
 テレビが登場し、インターネットや携帯が人とのあらたなつながりを生み出した。
 そして今私たちは未来に向けて何を願うだろう?
 夢見るだけで実現不可能な願いというのは、もうあまりないような気もする。充分、豊かで便利になった。
 一つ考えられるのは、宇宙への本格的な進出だ。これだけはまだ遠い未来のこととして現実感がない。
 貧しくても夢があった時代にはもう戻れない。夢見ることができなくなった私たちは、もはや過去を夢見るしかなくなったのだろうか。
 この日本という国を考えたとき、国民の気持ちを一つにまとめて前へ進むことができるキーワードは、夢だ。
 国のリーダーが国民共通の夢を持たせることができたとしたら、どんなに困難な状況でも乗り越えられる。今は夢を見させることができないから、みんなの心がバラバラになってしまっている。
 景気回復や老後の安心なんてのは夢ではない。夢というのなら、たとえば所得倍増くらいのはったりが必要だ。
 安倍首相の美しい国日本というのは、私はとてもいい目標だと思っていた。政治家こそ理想主義であるべきだから。
 この先掲げる夢があるとすれば、アメリカに代わって日本が真のトップ国となる、といったあたりはどうだろう。日本人のユニークな価値観というのは、21世紀にふさわしい。
 国単位で本気で取り組むことになれば、国民の意識も大きく変わってくる。しっかり勉強しなくてはいけないと思うようになるし、日本を説明するために日本のことを知らなくてはいけないとも思うはずだ。
 資本主義至上主義の時代はもう終わったのかもしれない。日本人の精神性は次の時代のお手本になるものだ。経済的に成功しながらも和の心を持つ日本という国が世界のリーダーになったとしてもおかしくはない。
 和をもって尊しとするのは日本だけでなく人としての基本だということを、今一度思い出したい。
 夢がなくなれば世界は崩れ去る。今こそ、夢を見せられる人物が必要なときだ。

 2008年12月2日(火) 「変わりたい? 変わりたくない?
                出会いが人を変える」

 人は人と出会うことによって輝きもするし、悪く染まりもする。
 一緒に高め合うこともあるし、墜落することもある。
 仕事の面でも出会いは大切だ。
 いくら才能があっても、それを見いだす人がいなければ才能は埋もれたまま世に出ない。
 いい仕事をするにはいい部下、いい上司に恵まれなければ難しい。
 恋愛を化学反応にたとえることがあるけど、男女の関係が一番分かりやすくもあり、振り幅の大きさもある。
 同姓の友達関係で自分が大きく変化することは少ないのに、異性同士の出会いで自分が別人のようになってしまうことがある。それは存在として異質だからだ。
 ただし、変化は必ずしも良い方向とは限らない。
 人と人との出会いというのは不思議なものだ。運命、偶然、必然、どれが何なのかは分からないし、自分で選ぶこともできない。
 私たちがこれまで多くの人と出会ってきたように、明日あらたな出会いがあるかもしれない。
 人は常に変わりたいと願う気持ちと、昨日までの自分を守りたいという思いと、両方の間で揺れている。
 いずれにしても、自分を変えてくれるきっかけは他人で、自分が変われるかどうかは自分にかかっている。
 別の言い方をすれば、自分は誰かを変えられる力を持っているのだということも自覚しておかなければならない。

 2008年12月1日(月) 「全力投球すべきかすべきでないか、
                それは覚悟の問題」

 全力投球がいつも良い結果につながるとは限らない。
 むしろ肩の力を抜いて楽しんだ方が好結果を生むことも多い。
 ただ、ピンチのマウンドで力みかえっているピッチャーに向かって、8割の力で投げろといってもそれは無理な話だ。
 人は追い込まれるほどに全力を出さないと怖くなる。力を抜いて悪い結果になると後悔すると思うから。
 けれど、相手があることなら尚更、全力投球はただの独りよがりだったりするものだ。
 人と人の関係もそうで、精一杯相手に尽くすことで自己満足は得られても、相手が喜ぶとは限らない。
 手を抜くことがいいというのではなく、力加減が大事だということだ。美味しい料理を食べさせてあげようと、塩コショウを振りまくっては辛くてまずくなるのと同じだ。
 それでも自分の全力に殉じるというのなら、それも一つの生き方だろう。突き抜けた先に絶対的な説得力が待っているようにも思う。

 2008年11月30日(日) 「あるのは想いだけ。
                 力が足りない」

 届かない想いは、自分がこの世から去ったあとも、消えずに漂うことになるのだろうか。
 風に乗って誰かの足元にふっと舞い降りて、その人が拾ってくれるだろうか。
 それとも、自分と一緒に消えてしまうのか。
 足りないのは想いか、力か。
 無駄に終わる努力も、最後まで続ければ無駄じゃなくなるというけれど、届かない想いを抱えたままどこへも行けないのはつらいことだ。
 報われたいのは自分のためじゃなく、自分を支えてくれた人たちのためで、頑張りが足りないというならもっと頑張らなくてはいけない。
 ごめんなさいの気持ちを、ありがという言葉に変えるためにも。

 2008年11月29日(土) 「リフレーン。
                 ランデブー」

 大切なもの、大切な言葉、大切な人。
 近づいては離れ、離れてはまた近づき、波のように繰り返す。
 手を伸ばしては触れそうになって引っ込め、またおずおずと差し出す。
 追いかけて逃げ、逃げるのを追いかけて、立ち止まる。
 リフレーン、リフレーン、リフレーン。
 大事なものを抱きしめ続けることは難しい。
 いつか、前触れもなく、フッと手からこぼれ落ちる。あっと思ったときにはもう遅い。
 近づきすぎると重力で衝突し、離れすぎると引力の圏外に出てしまう。
 同じ目標に向かって一直線のランデブー走行などは奇跡だ。
 ボロボロでもヨレヨレでも、とにかく二人三脚でゴールできれば勝者となれる。
 大切なものを最後まで守り抜く力が必要だ。

 2008年11月28日(金) 「自分にできる自己犠牲。
                 自己満足でも自虐でもなく」

 自己犠牲がいつも美しいとは思わないけれど、ときどき、自分を犠牲にしている人の姿を見て、絶対的な正しさに打ちのめされたような気持ちになることがある。
 優しさの本質は自己犠牲だ。助けを必要としている人に対して、どれだけ自分を殺して手をさしのべられるか。そこに人としての真価が表れる。
 優しさと親切が別のものだということを知らなくてはいけない。
 親切というのは余っているお金の中から小銭をあげるようなもので、優しさというのは自分が借金してでもお金を貸すようなことを言う。
 奉仕のスタイルは人それぞれだ。決まった形があるわけではない。
 自分のできる奉仕を見つけることだ。もっと優しくなれる。

 2008年11月27日(木) 「自分のためが人のため。
                 人のためが自分のため」

 誰かのためにできることが、自分にできることのすべてなのかもしれない。
 自分を幸せにするなんてことは副産物でよくて、それは人生の目的にはならないことだ。
 間接的でもいいから世のため人のためになる必要がある。
 思いよりも結果が大切。

 2008年11月26日(水) 「夢のための一日5分。
                 優先順位を間違えないこと」

 優先順位を間違えている。
 自分の夢のために毎日5分間でもいいからすべきことをやらずに飛ばしてしまう。
 いくら時間がなくても、5分をねじ込めないほど忙しいわけではあるまい。
 毎日続けるべきことが5つあったとしても、5分で25分だ。その25分間を作り出せないとしたら、その生活は間違っている。
 作れるのにやらないなら、自分が間違っている。
 オートマチックに必ず実行すべきだ。一日怠けたら次の日は10分間の時間を作らないといけなくなる。3日怠け、一週間休みなんてしてると、取り戻せなくなる。
 たかが5分でも一生分となれば大した時間になる。
 自分の夢のための5分を実行できるかできないか、そういうちょっとした積み重ねで人生は違ってくるような気がする。

 2008年11月25日(火) 「毎日勝負できているか。
                 今日の勝利条件とは何か」

 自分にとって、目の前の勝利が何なのか、自覚しておく必要がある。
 目の前の勝ちにこだわるという言い方があるけど、そういう部分が大切なのは勝負の世界に生きる人間に限ったことではない。
 何が勝ちで、何が負けなのか。直近の勝利条件は何なのか、それさえ分からないまま日々を過ごしていたら、生きることに迷うのは当たり前だ。
 大きな目的や願望を思い描くのはたやすくて、今日本当は何をすべきなのかをイメージすることの方が難しい。
 ちゃんと毎日勝負できているか。
 勝利目標に対して妥協してしまえば、その時点で不戦敗となる。
 勝ちたい気持ちが何よりも大切だ。

 2008年11月24日(月) 「真実はみんなで作るもの。
                 独り占めしたら勝ちとかではない」

 大きな真実の住人と、小さな真実の住人がいて、互いに相手を批判しながら自分の正しさを主張し合っている。
 真実の外にも住人がいて、事態をややこしくしている。
 どこの住人になるかは本人の自由だけど、お互いを尊重しながら共存していくのは難しい。みんな、自分の真実を信じすぎる。
 真実というのは常に流動的で、相対的なものだ。絶対不変ということはあり得ない。
 人はどこに所属するかという自覚によって考え方が違ってくる。日本人という視点に立てば日本対外国という図式になるし、家庭人を基本に置けばうちと外ということになる。地球人ということを基準とするなら国境や人種の壁は崩れる。
 真実というのもまた、そういうものだ。宇宙の真実も、日常生活の真実も、同時に存在している。
 この世界には無数の真実がある。全部集めたものが真実の総体だ。私たちはみんなで真実を持ち寄って、一つの大きな真実を作っている。
 相反する真実も敵対関係ではない。人と違う真実を提出することが貢献となる。
 真実はまだ完成していない。

 2008年11月23日(日) 「気づけば大事なものだかけ。
                 少しくらい失ってもしょうがない」

 大事なものは、常に失われ続ける宿命にある。
 それが大事であるがゆえに。
 大事なものでなければ喪失感は小さいから、失っていないのと変わらない。
 失って困るものを数え上げていくと、ずいぶんたくさんになっていることに気づく。
 それが生きた証だ。多くの時間が流れた。
 赤ん坊の頃は、失って困るものは自分の命と両親くらいだった。それがいつの間にか失っては困るものだらけになっていた。
 そのことを私たちはたぶん喜ぶべきなのだろう。
 この先も大事なものを失いながら増やしていく。
 大事なものが何なのかを見失うことがないようにしたい。

 2008年11月22日(土) 「頑張ってない自分には感動できない。
                いい夢と思えるのは後になってからだ」

 振り返ったとき人生はいい夢だったと思いたければ、夢見心地で生きてはいけない。
 一所懸命、夢中になって生きてこそ、終わったとき夢のように思えるものだから。
 過去を振り返って懐かしいのは、平和で穏やかな幸福よりも、無我夢中でがむしゃらだったときだ。
 他人を見て感動するのは、頑張っているからだ。自分を客観的に見たときも同じだろう。
 今は夢の中じゃない。現実の人生だ。物語の主人公として頑張る必要がある。

 2008年11月21日(金) 「悲しみは少々。
                 生きる喜びのスパイス」

 悲しい方が勝ちだと思うなよ。
 弱い心に逃げ込もうとする自分に向かってそう言いたい。
 悲しみというのは、飲み込みがたくても飲み込んで、自分の中で消化して、明日を生きる力にするものだ。自分を慰めたり、言い訳に使うものじゃない。
 悲しみを知る人間は心のどこかに優越感のようなものを持っていて、ある意味ではそれを心の支えとしている。悲しみを知らない人間を侮ったりもする。
 けどそれははっきり間違っている。悲しみを知っているからといって人生を知っていることにはならないし、悲しみは生きることの本質の一部でしかない。
 悲しみは甘い喜びを際立たせる塩のようなものでいい。塩が多すぎれば塩辛いだけだ。
 悲しみなんて売り物になりはしないから、悲しい振りなんてよせ。

 2008年11月20日(木) 「実在しなくても信じられる。
                 存在は頭の中のことだから」

 不幸と幸福は別人なのか、一人二役なのか。
 同一人物の裏と表に過ぎないのかもしれない。
 神と悪魔にも同一体疑惑がある。
 相対と絶対が共存するこの世界は、単体の集まりである複合体であり、複合体という単体でもある。
 あらゆる存在は、認識によって姿を変える。
 この世界に意味を与えるのは主観で、幸不幸の判断も本人次第だ。客観というのも自分以外の人間の主観に過ぎない。
 解釈は認識によってどんなふうにもねじ曲げることができる。その自由度は思っている以上に高い。
 観念の中では誰でも幸せになれるし、神を信じることができる。実在するかどうかというのは、あまり大きな問題ではないのかもしれない。

 2008年11月19日(水) 「明日が初デートのつもりで
                 毎日を過ごせ」

 突然の不幸や幸福は、それこそ突然前触れもなくやって来る。
 心構えとしては、明日が初デートのつもりで毎日を過ごせ、ということだ。
 髪の毛や爪は伸びてないか、車や部屋はきれいに保たれているか、お金の用意はできているか、行きたい場所ややりたいことを自覚できているか、仕事を先延ばしにしてため込んでいないか、いざとなればすべてを放り出す準備はできているか、それらを日々確認しながら過ごしていれば、突発的な出来事にも速やかに対処できるはずだ。
 準備を怠って漫然と暮らしていると、不測の事態に対する対処が遅れる。遅れはときに致命傷にもなりかねない。
 毎日自分に確認してみるといい。明日初デートでも大丈夫か、と。
 大丈夫じゃない部分が今日やらなければいけないことだ。

 2008年11月16日(日) 「今日できることは今日中に。
                 あのときはもうやって来ない」

 明日という日を過信してはいけない。
 悔いのないように今日を生ききることが、明日を生む。
 今日が最後と思い定めて生きることが大切だ。

 2008年11月15日(土) 「夢見ることは終わらない。
                 夢から覚めた現実の中でも」

 夢見るだけのその他大勢になるとは、誰も思わない。それこそ、夢にも思わない。
 夢から覚めた私たちは、現実の中で次にどんな夢を見ればいいのだろう。
 夢など見ず現実を見ろという人もいる。
 私はそうは思わない。どんなに厳しい現実の中でも夢を見るべきだ。
 夢を見ない人間は、夢を現実に変える力のない人間だから。
 私たちは夢を実現するために現実の中で闘わなければならない。
 夢を見ないことは、夢から逃げることだ。

 2008年11月14日(金) 「個人の戦いが集まって
                 世界が成り立っている」

 みんな自分を守ることに一所懸命で、日々の暮らしの中で心の余裕を持つことができない。
 あるいは、怠惰に身を委ねすぎている。
 それでも個人の戦いを必死に戦っている人々を誰が責められよう。
 それぞれがそれぞれなりに頑張っている。その頑張りを否定してしまうと、この世界そのものを否定することになってしまう。
 私にできることは、想像し、思い至り、共感することだ。
 何も否定できない。一切を丸ごと肯定するしかないと思っている。
 受け入れることはあきらめることでもあるのだけど。

 2008年11月13日(木) 「分からないことを
                 分かろうとする姿勢が大事」

 大切なのは、必然性のある正しい問いかけを発し続けることだ。
 疑問を呈し続けること、それが誠実に生きるということだろう。
 分からないことを置き去りにせず、分かってもいないことを分かった振りをしないこと。
 大事なのは、答えを出すことではなく答えを求める姿勢だ。
 みんながやらないからといって自分もやらなくていいわけじゃない。
 生きることがどういうことなのか分かった気になることが一番危険だ。

 2008年11月12日(水) 「個人と世界。
                 正当性は一致せず」

 毎日を楽しくやり過ごすことの正当性とか、死ぬ覚悟と生への執着心のバランスとか、自分でも判断がつかずに曖昧なことをたくさん抱えながら生きている中で、私たちは死以外のどんな答えを出せるのだろう。
 悟りさえも生きる過程であるのなら、生きながらの終着点というのは存在しないのかもしれない。
 迷い、求めることだけが正しさだというのか。
 この世界は愛すべき世界だ。それだけで充分じゃないかと私は思うけど、きっとそれだけでは充分でないのだろう。
 猫という存在の正しさが世界の正しさを証明するわけではないように。
 どんな終わり方だったとしても、世界は正しかったという結論にならざるを得ない。無駄ではなかったという意味において。
 そう考えると、逆に虚しくもある。結果の分かった出来レースをしているようで。
 それとも、神様にもまだ結論は出せていないというのか。
 個人の人生と世界の正当性を上手くシンクロさせることができないところに人生の難しさがある。
 今のところ私たちは個人の正当性を追求しながら生きていくしかない。

 2008年11月11日(火) 「星座のように思い出をつないで、
                 暗い人生を照らす」

 宇宙は暗く、星はまばらで、がらんどうの黒い世界だ。
 そこにポツリ、ポツリと星の光が浮かぶ。
 その星をつないで、昔の人は夜空に空想の絵を描いた。
 人の人生は星空に似ているかもしれない。
 輝いた瞬間をつなぎあわせて星座のように意味を持たせようとする。
 それ以外は暗い闇が広がるばかり。
 一等星はなくても、星座を描けるくらい輝いた瞬間を持つことができたなら、それで充分だという気もする。
 闇が深ければ深いほど、かすかな光にも価値が生まれる。

 2008年11月10日(月) 「中継ぎだから許される。
                 でも本当は許されていない」

 人間という存在に失望するニュースは多い。
 人の負の部分をなるべく見ないようにして先に進んでしまうけど、人がこれまでに犯してきたすべての罪悪を目の前に積まれたとき、私たちはうなだれて言葉を失う。言い訳のしようがない。
 すでに許されざる存在となった私たちが、今こうして曲がりなりにも存在を許されているのは、中継ぎだからだ。
 私たちの使命は、これまでの経験と知識を次の存在に引き継ぐことに他ならない。
 より高度で完全に近い生命体が登場したとき、我々は速やかに退場しなくてはならない。罪を負の遺産として受け渡して。
 それでも、希望の種は芽を出し育っている。だから私は未来に絶望していない。世界は昔も今も、一方的によくなっていると信じている。
 それで私たちの罪が許されるとは思わないけれど。

 2008年11月9日(日) 「生きる甲斐はある。
                ただ歳月の中をいくだけだとしても」

 必ずしも幸せなことばかりではなかった長い歳月を経て、何かのきっかけで心の堤防が決壊して、わっとこみ上げて泣いてしまうようなことがあったとき、それは悲しみなのか喜びなのか感動なのかよく分からない感情なのだけど、ここまで生きてきた甲斐があったと思える涙だ。
 生き甲斐というのはそういうことなのだと私は思う。
 人生には慟哭のときが何度かあって、人はそのために生きていると言ってもいいかもしれない。
 大変でもつらくても面白くなくても、時間の中を過ぎゆくことが大事なのだ。
 年月、思い出、絆、約束。
 まだ約束は果たされていない。
 未来へ。

 2008年11月8日(土) 「幸せは作るもの。
                待つのは準備万端整ってから」

 良いことが一つもなかった日は、すべて自分の責任。
 良いことを作りだそうという努力を怠ったということだ。
 上を見上げて口を開けて待っていても何も落ちてこないし、足元に何か落ちてないかと探してもたいてい何もない。
 良いことは、頭と手足を使って生み出すものだ。

 2008年11月7日(金) 「大切な人の見分け方。
                どう死ぬかがどう生きるか」

 自分が死ぬと決まったとき、近くにいて欲しい人を思い浮かべてみれば、自分が大切に思っているのが誰なのかはっきり分かる。
 その人を大切にしなければ、一人で死ぬことになる。
 好きな人に見送ってもらえれば、死出の旅もいい旅立ちになるだろう。

 2008年11月5日(水) 「転んだら何かを掴んで立ち上がれ。
                大切なのは失敗から学ぶこと」

 人生には怪我がつきものなわけだけど、怪我の功名というものもある。
 七転び八起き。ころんだらタダでは起き上がらないという反骨精神が必要だ。
 失敗から何も学ばない人間は進歩がない。
 怪我をすることで失うことも多いけど、怪我をしなければ得られないこともある。何を拾うかが大切となる。
 そして、同じ失敗を繰り返さないことが大事だ。

 2008年11月1日(土) 「11月の始まりは低空飛行。
                もう着陸するときなのか」

 今日は反省心に掴まってしまった一日。
 自分を見限るか、最後まで信じて殉ずるか、瀬戸際に立っていることはいつも変わらない。それを意識するかしないかだけだ。
 頑張ったからといって許されるわけでもなく、結果を出せなければ頑張っていないのと同じだ。
 頑張ったこと自体が無駄になるわけではないとしても。

 この気持ちが明日以降も継続するのか、今日だけのものなのか、明日になってみないと分からない。
 体調の悪さが弱気を呼んだだけかもしれない。

 2008年10月31日(金) 「沈黙ではなく、
                 言葉で人はつながっている」

 自分の言葉が自分の胸に響かなくなったとしても、沈黙が事態を好転させてくれることはない。
 言葉が感情の上を滑り落ちていっても、潤いを失って触れただけで崩れてしまっても、可能な限り言葉を発する必要がある。シャボン玉のように儚く頼りない言葉であったとしても。
 何故なら、言葉によって自分は存在し、言葉によって関係性は成り立ち、世界は言葉でできているから。
 もし明日、世界から言葉が消えてしまったとしたら、現在の秩序は完全に崩壊する。物体から名称がなくなり、人の名前もなくなれば、世界を認識することさえあやうくなる。コミュニケーションもままらない。
 だから私は私であるために言葉を発し続け、あなたはあなたであるために言葉を発し、そうして私たちはつながっている。

 2008年10月30日(木) 「無駄に終わっても、
                 謝らない」

 自分の人生が無駄だったとしても、世界の損失はないに等しい。
 無責任で投げやりな気持ちになりたいわけじゃないけど、居直っている部分はある。
 求められなければ自分を押しつける気はない。
 せっかく自分をここまで育ててきたから無駄にするのはもったいないとは思うけど、必要じゃなければ仕方がない。
 役に立ちたい気持ちはいつでもある。

 2008年10月29日(水) 「最高と最低限の間にいる。
                 向かうのは最高の願い方面」

 最低限の願いと、最高の願いがある。
 人は最小の願いさえ叶えばそれでいいと約束しておきながら、最高の願いが叶わないと嘆いている。
 我が子が生まれたときには、元気で健康に育ってくれさえしたらそれでいいと言っておきながら、成長すると勉強しろだとかいい大学に入れだとか早く孫の顔を見せろとか老後の面倒を見ろとか、とにかく要求がだんだんエスカレートしていく。
 結婚したばかりの夫婦は、いつもそばにいられるだけで幸せと言いながら、ああでもないこうでもないと互いに相手を責めるようになり、与えるよりも得られないことに不満を漏らす。
 雑用でも何でもやりますと言っていた新入社員も、給料が安いだとか残業が長いとか仕事がきついとか、自分勝手なことを言い出す。
 満足は成長や前進を緩める要因にもなるけど、それ以前に足を知るということはとても大切なことだ。不満ばかりを口にするけど、満足している部分もあるはずだ。
 一番いいのは、最小限の願い事から段階を追って最大の願いまで書き出してみることだ。その中でどこまでが叶っていて、どこから先が叶っていないのかを自覚する必要がある。
 叶っている願いに関しては、素直に感謝しなくてはいけないし、満足すべきだ。
 他人に対する要求も、ほどほどにしておきたい。
 いずれにしても、ある程度から先の願い事は、自力でなんとかするしかない。人任せでは当てにならないし、神頼みだなどとのんきなことは言ってられない。
 自分にとっての最高の願い事を知っていることはとても大事なことだ。叶う叶わないは別にして、向かうべき目的地はそこなのだから。
 あとは順を追って一歩ずつ近づいていくしかない。

 2008年10月28日(火) 「磨けば光る。
                 磨かなければ錆びる」

 長年の努力によってしか手に入れられないものにこそ重きを置きたいという気持ちが強くなっている。
 努力なしに手に入れた才能や美貌の寿命は短い。それらを磨き続けてこそ価値が出る。
 教養といったものもそうで、知識はあるのに教養がない人間は多い。雑学や学歴などは教養とは別のものだ。逆に知識は少なくても教養がある人もいる。
 学校を出てからどれだけ勉強したかで教養の有無は決まってくる。
 教養は総合的な理解や知識の総体だから、10代や20代ではそう簡単に獲得できない。長年の積み重ねが必要となる。日々の勉強を怠れば滞るだけでなく衰えていく。
 魂も磨かなければ錆びていく。自分の存在とは何かということを考えたとき、最後の最後に核として残るのは、意識だ。意識とは何かといえば、それは記憶と感覚ということになる。それは生きる中で自分が育てるものだ。
 一回の命を使い切りと考えるなら、教養など必要ないのかもしれない。ただ、もっと先を考えるなら、積み重ねていくものは絶対に必要となる。
 言葉を変えれば、経験値を積んで自分をレベルアップさせなければ次のステージでは通用しないということだ。
 人は年齢と共に成長していくものだけど、それに伴って人生の難度も上がっていく。子供から若者になり、大人になり、成熟し、老化していく過程で、人生が簡単になることはない。それは先へ行くほどステージが難しくなっていくからだ。
 この世界をクリアすれば、また次の世界が待っている。エンディングは分からないけど、とにかくいってみるしかない。途中で投げ出さないように。

 2008年10月27日(月) 「伝えることは決まっている。
                 あとは表現の仕方だけ」

 喜怒哀楽と愛。
 この世で表現すべきものは決まってる。
 人の喜びと悲しみと、愛と孤独と、生きている一瞬いっしゅんに見せる表情を写し、描くこと。
 この世界の美しさと醜さと。
 残酷さと優しさと。
 光と影。
 表現するためには、まず自分が知る必要がある。
 理解し、想像し、同情すること。
 表現することは、この世界の正しさを証明してみせることだ。
 何をどうやって表現したらいいのか、少しずつ見えてきた。

 2008年10月26日(日) 「今日の絶望がすべてじゃない。
                 希望はなくとも明日がある」

 自分が無能で役立たずに思えるときは、今日を捨てて明日に向かおう。
 明日に希望があると信じて。
 絶望とラブレターは一日寝かせてからでも遅くない。
 明日がもっと悪い状況になるとしても、私たちが向かえるのは明日しかない。
 今日が人生の終わりじゃなければ、まだやれることは残っている。

 2008年10月25日(土) 「思いを馳せることの大切さ。
                 もっと先へ」

 大きなことと小さなこと、大事なことと下らないこと、それらをすべて並列的に考える必要がある。重要度で優劣をつけずに。
 人の頭の中では、無意識のうちにそういう作業が行われているのだけど、もっと意識的にやらないといけない。
 宇宙で日々何億もの星が消えて生まれていることに思いを馳せつつ、応援している野球チームの勝ち負けに一喜一憂したり、数秒ごとに飢えで死んでいるアフリカの子供たちのことを思いながらスーパーの安売りの品を買うといった矛盾したようなことも、行為としての正当性はある。大事なのは、意識をすることだ。
 46億年前の地球誕生から数百億年後の地球の消滅までを、頭の中で旅してみる。
 その上で、自分は自分のため、大事な人のため、この世界のために何ができるかを考えてみる。
 それぞれに役割分担があり、それを超えて何をしたいのかを自覚することが大事だ。
 人は自分ができる最高のことを目指すべきだと思う。力及ばずできなかったとしても、志がその人間の可能性を示す。
 自分が間違っていないことを証明するために正しく生きることも大切だけど、もっと上を目指せるなら自分の限界に挑戦する価値はある。
 私はもっともっと先へ行きたいと願っている。思考の彼方まで。

 2008年10月24日(金) 「現在、過去、未来。
                 全部つながっていて、すべて大事」

 才気煥発、機知縦横、博覧強記。
 そんな言葉に憧れた時代もあった。もっと若かった頃は、才能こそが最も尊いものだと信じていた。この世界には、天才とその他しかいないさえ思っていた。
 多くの勘違いや愚かさを経て、今の自分がいる。
 過去の自分を恥ずかしくも思うけど、あの時代がなければ今はない。
 今日の自分の生き方は、明日の自分のためのヒントになる。
 明日の自分から見た今日の自分は、先生でもあり、反面教師でもある。
 そうやって最後まで生きたとき、自分は次に続く人たちのためのヒントになれるだろうか。
 経験は引き継がれるべき資産だ。この世界は個人単位で独立した世界などではない。命や存在としての総体だ。
 空間的な広がりの横糸と、時間的なつながりの縦糸で一つの壮大な織物が織られているようなものだ。私たちはすべてそこに参加している。
 今が一番大事というけど、本当は過去も未来も全部同じように大事だ。そこにはすべてつながりがある。
 過去の失敗を未来で打ち消すことは出来ない。出来るのは上塗りすることだけだ。
 今日できなかったことは、明日の自分に託すしかない。今日の自分は昨日の自分に希望を託されて生きているということを忘れてはいけない。
 今日、未来の自分のために何ができるかを、もう一度よく考えてみよう。

 2008年10月23日(木) 「多様性は必然。
                 完全統一は不可能」

 人生はたくさん追求すべきことがあって、一つのものに答えを収れんさせていくのは無理がある。
 自分のためだけには生きられないし、かといって他人のためだけに生きるのも不自然だ。
 幸せの追求と自分のなすべきことは往々にして矛盾するし、立派さを追い求めすぎて自分を失ってしまうのは本末転倒だ。
 賢ければ正しいわけでもなく、社会的な成功やお金持ちになることが絶対の幸福というわけではない。
 すべてを手に入れているように見える人にも、足りないものはたくさんある。
 完璧な満足というものは誰にとってもあり得ない。
 だからもう、あっちもこっちも追求できる部分はしてみるより他に方法がない。どの方向へ触手を伸ばしても果てはない。
 昨日の自分と今日の自分がまったく違う考えで動いても、それはしょうがないことだ。
 自己統一なんてことは土台不可能なことだ。人間は多かれ少なかれ自己分裂を起こす。それが進歩であり、高度な生物の必然だ。コントロールを失わないことだけ考えればいい。
 この世界の本質は多様性だということを理解しなければならない。それは個人レベルでも言えることだ。
 他人にも、自分にも、分かりやすい自分である必要はない。自分を規定したり、分類したり、名前をつけたりすることもない。
 自分の名前という記号の元に、集合体であればいい。

 2008年10月22日(水) 「天は与えるだけ。
                 答など求めていない」

 天は地に問いかけてなどいない。
 地上で人間が勝手に自問自答してもだえているだけだ。
 問いがなければ答もない。
 天はただ与えただけだ。何も要求はしていない。
 この世界は、天が用意した答に辿り着けるかどうかのゲームじゃない。
 答えがないことが結論なのだと早く気づいて、人間はどういう形での決着を望むのかを決めるべきだ。
 物語の結末を決めるのは、天ではなく地なのだから。
 個人的な思いとしては、続けることだけを目指せばいいのだと思う。終わらせないためには停滞させないことで、続けることそのものを目的とすれば結論を求めることもしなくなる。
 100億年後の地球はどうなっているだろうか。
 そこに至るまでは、一日いちにちの積み重ねとなる。
 そのときその場所に自分もいたいと願う。

 2008年10月21日(火) 「違う個性がぶつかるとき、
                新しい個性が生まれる」

 人は一人では早々に限界が来る。
 可能性を広げてくれるのは他人だ。
 それは自分の助けになってくれる味方かもしれないし、自分を奮い立たせてくれる敵かもしれない。
 友達、親子、恋人、夫婦、仲間、同僚、先輩後輩、ライバル。
 人は他人と様々な関係性を築き、いくつものの立場を演じる。
 その中からいろいろな自分を発見していく。引き出してくれるのは他人だ。自分一人の力ですべてを掘り起こすのは不可能に違いない。
 自分もまた、無意識のうちに誰かの力になっている。それがこの世界の有り様だ。
 個性と個性がぶつかることで新しい個性が生まれる。他人同士の男と女の遺伝子を掛け合わせることで新しい可能性を持った命が生まれてくるというのは、その象徴だ。
 更に広げて考えれば、人種の違いや国の個性といったこともそうで、多様性がぶつかったり競争したりするから世界は進歩していくのだ。一つの人種で一つの国家しかなければ、可能性は広がらない。
 関係性というのは必ずしも直接的なものでなくてもいい。間接的な関係性というのは、自分以外の他人を知るということだ。理解し、同情し、敬意を払うことで自分の以外の個性と自分の個性を比較することができるようになる。最初から否定して排除してしまえば、他者との関係性を築けない。
 自分に対する他人の言葉はすべて神の言葉と思うべきだ。全部を無条件に受け入れるというのではなく、耳をふさがず聞くことが大切で、そこに自分の可能性を広げるヒントがある。
 もちろん、最終的に自分を成長させることができるのは自分だ。

 2008年10月20日(月) 「絆と気持ち。
                切れるときは切れる」

 絆は気持ちを超えるのか?
 絆をつなぎとめるものは心だけなのだろうか?
 いがみ合いながらも腐れ縁のようにずるずると続くカップルもいるし、あんなに上手くいっていたのにというカップルがあっさり切れたりもする。
 心の底から誓った約束も、歳月の中で簡単に破られる。
 人と人とを結びつけている力というのは一体何なのだろう。
 血縁に勝る関係性はないのか、あるのか。
 気持ちの正体というのも、実際のところよく分からない。もう好きじゃないというだけで絆というのはそう簡単に切ってしまえるものなのだろうか。
 運命、宿命、偶然、必然、努力、妥協、惰性。
 どこまで自分の力でつなぎ止められるものなのか、どこから先は他人任せとなるのか、その境界線も曖昧だ。
 関係性というのは当然相手もあることだし、外部からの干渉もある。
 運命が100パーセントの保証をしてくれるわけでもない。
 確かなことは、切れるときはどうやっても切れるということだ。あ、切れた、と自分でも分かるくらいに。
 結び直してくっつく場合もあるし、くっつかないこともある。

 2008年10月19日(日) 「七並べで8と6が出ない感じ。
                前へ進むためのカードが必要」

 前進を阻んでいる要素を取り除くためには少々無理をする必要もある。損得勘定を超えなければならない場面も出てくる。
 無理が通れば道理が引っ込むというのは決して好きではないけど、無理矢理にでも貫通させないといけないトンネルもある。
 七並べの8や6の札を止められているような要素がいくつかある。それらを放置したまま日延べしていくのはやっぱりよくない。無駄に持ち時間を減らすだけだ。
 休まず前進させていくことが大事。先々にはどんどん新しい障壁が待っていて、目指すものはその先にある。こんなところでのんびりはしていられない。
 停滞を恐れなければいけない。

 2008年10月18日(土) 「どこまでいっても万全じゃない。
                完璧な正しさは具現できるものでもない」

 片手落ち。片手落ち。片手落ち……。
 どこまでいっても片手落ちのジレンマから抜け出すことはできない。誰にも、決して。
 こちらを立てればあちらが立たず、優秀になれば劣等であることがどういうことなのか分からない。仮に完璧を具現化できたとしても、完璧ではない状態を内包していなければ万全ではない。
 最高であり最低でなければ完全無欠とは言えない。
 強者の論理があり、弱者の言い訳がある。強い論理がいつも正しいとは限らない。勝者は世界の半面でしかない。
 結局のところ、着地点をさぐりながらということになるのだけど、妥協点というのもまた難しいものだ。
 世界は曖昧なまま、多くの矛盾を抱えて進んでいく。
 世界もまだ、完璧の姿を見つけていないのかもしれない。
 不完全さの中に答えはあるのか、究極の最後とはどんなものなのか。
 ハッピーエンドの先に物語の続きがあるのかどうか、それさえも誰も分からない。
 自分は正しい人間になりたいわけではないし、この世界は正しさを競う大会でもないと思っているけど、ミステリ小説の犯人を知りたいと思うようにこの世界の正しさに興味がある。
 最後に種明かしはあるのかどうか。世界の終わりに名探偵が登場して、すべての謎を解いてくれれば納得して物語を閉じることができるのだけど。

 2008年10月17日(金) 「個性は言い訳に使うものじゃない。
                 オリジナルは変化ではなく先行をいう」

 自分らしくというのは言い訳なんだよなぁと、最近他人を見たり自分を鑑みて、つくづく思い知る。
 自分らしくて駄目なやつと、没個性的だけど優秀な人間を比べたら、やっぱり優秀なやつの方が偉いのだ。
 個性ってのは、優れていて初めて価値のあるもので、劣っていちゃ意味がない。
 たとえば字なんかが典型的な例だ。お手本通りの上手な字を書けた上で個性的な崩し文字を書ければそれは誉められるべきものだけど、ただ単に下手で個性的な字が正しいわけではない。
 ピカソだって若い頃はきちんとしたデッサンの正統派の絵を描いていた。
 弱い土台の基礎の上に頭でっかちの応用的な家を建てればぐらつくのは当たり前だ。
 基本というのは反復練習や繰り返しの学習で築くしかないもので、それを飛び越えてしまうと、やはり正しいものにはならない気がする。
 基本に立ち返るのに遅すぎるということはない。いつでも基礎に戻ってもいい。
 私もここのところ基本に返ろうということをテーマに、字の練習をしたり、基礎的な本を読んだり、写真の本を見て勉強したりしている。趣味の料理も初心に戻る必要がありそうだ。文章も一から勉強し直した方がいいかもしれない。
 自分らしくある前にやることがたくさんある。人と違っていることが正しいと思ったら大間違いだ。人より先へ行くことが正しいことで、横にずれることはただの脱線だ。
 近道をして横から先頭に躍り出ようなんて夢を見ちゃいけない。前に出たければ力を溜めて直線でごぼう抜きだ。

 2008年10月16日(木) 「無意味を無意味のままとせず、
                 無駄を結論としないこと」

 人生から無意味なものを一つずつ排除していくと、最後には何も残らない。
 突き詰めれば、生きることも、この世界そのものも無意味ということになってしまう。
 ただ、だからといって物事の意味を追求することを途中でやめて引き返してしまうのは間違いだ。無意味というならとことん無意味の実体を究明する必要がある。
 新しいものを築くにはまず破壊しなければならない。それは思考や論理も同じだ。
 人生の意味は、無意味の上に築かれるものに違いない。
 意味のないと思うことをやってみる。すると案外楽しかったりする。そこに新たな意味が生まれる。
 生きることが無駄だと思っても生きてみれば何かしら見つかるものだ。
 無意味なものはたくさんある。全部が無意味というのも本当かもしれない。ただ、無意味が結論だとは思わない。
 無意味の向こう側に意味があるのだと信じていれば、いつまでも前へ進める。
 無駄を喜びに変えてこそ、生きることに意味を見いだせる。

 2008年10月15日(水) 「溺れずに夢中になれること。
                 醒めたまま見る夢」

 楽しいだけじゃ詰まらない。
 そんな矛盾した思いは誰の中にもあるのかもしれない。
 人は楽しさよりももっと深い充足感を求めずにはいられない。
 燃えること、熱中すること、あるいは燃え尽きることを願っている。
 時間を忘れ、寝食を忘れ、自分を見失うほど夢中になれることがあったとしたら、もはやそれは幸福を超えている。
 みんなが子供時代を懐かしく思い出すのは、かつてそういう時間を持っていたからだ。大人になると、そこまで我を失う感覚はなかなか持てない。
 だから人は酒に酔い、恋愛に溺れたがるのだろう。打ち消しても顔をもたげる理性が邪魔になる。
 私は素面で幸福の向こう側へ行きたい。恍惚ではなく覚醒したい。
 達観よりも先にある別の感覚を探している。

 2008年10月14日(火) 「未来しか道はない。
                 他の道を探すことはない」

 向かうべき先は未来しかないわけで、未来方向ではない前進は前進のうちに入らない。
 到達するかしないかは生きてみなければ分からないことで、それは必ずしも重要なことではない。
 大事なのは、自分が向かっている未来が見えていることだ。
 どこへ行きたいのか、何をしたいのか、何者になりたいのか、その自覚がなければ、ただうろついているだけになってしまう。大海原を漂流している遭難者と変わらない。
 小さな舟に乗って折れたオールで漕ぐという絶望的な状況だとしても、新大陸を目指すという気概が必要だ。
 私たちの選択肢は未来しかない。当たり前と思うかもしれないけど、本当にそう思い定めて生きている人はそんなに多くないように見える。人は自分の可能性を探し求めすぎる。ここではないどこかを夢見がちだ。
 今日を必至に生きるのは、未来のためだ。未来と今日を結んだ延長線上に、明日も一年後もなければならない。
 過去へ戻ることもできないし、別の世界に移ることもでない。ここまで生きて生きた延長線上の未来へ行くしかない。
 自分の未来を定めたときからもう道は決まっている。その道が間違っていようと、行く先に何もなかろうと、行ってみるしかない。それが過去の自分との約束を果たすことでもある。
 不安に揺らぐことはあるけど、この道を外れず、行けるところまで行こう。
 未来から逃げ出さないように。

 2008年10月13日(月) 「許せるか許せないか、
                 それが究極の選択」

 人は結局、最後は自分で自分を裁かざるを得ないのかもしれない。
 ここ最近の自殺者や死んだ人間を見て、そう思う。
 人は最終的に、自分を許すか、断罪するか、ぎりぎりの選択を迫られる。そこに誤魔化しはきかない。嘘をつけばそれが罪となり、自分を許すことができなくなる。
 100万人の赦しよりも、自分一人の罪の意識の方が重いこともある。
 また、その逆もある。
 人は自分を許せるようになるために生きているのだろう。

 2008年10月12日(日) 「できないことはある。
                 それはやらなくてもいいことではない」

 できないことは練習すればいいし、分からないことは勉強すればいいだけのことだ。
 苦手なことは克服のための訓練をして、下手なことは繰り返すことで少しずつでも上手くなる。
 ちょちょいのちょいで一流になれなきゃ嫌だなんてのはわがまますぎる。
 一人前になりたければ、地道に積み重ねるしかない。
 この世は才能がすべてなんてのはまったく間違った思い込みで、才能と努力がせめぎ合うから面白くなっているのだ。天才だけに価値があるとするなら、誰も練習などしない。
 努力の凡才が天才に勝つなんてことも、それほど珍しいことではない。

 もっともっと勉強したいという思いが強まっている。知らないことは悔しいし残念だし、知ることは楽しい。できなかったことができるようになると嬉しいし、下手で苦手だったことがちょっとずつ上達していく過程は生きる励みになる。
 自分は努力家とはほど遠いところにいる人間だけど、多少なりとも成長していっている自覚はある。
 過去の自分を否定できるうちは前進しているということだ。
 昨日より今日、今日より明日と、いつも思っている。その思いに自ら応えるためにも、目に見える形の努力や目標が必要だ。
 とにかく休まないことだ。怠け心に負けないことが日々の最大の課題と言ってもいいかもしれない。

 2008年10月11日(土) 「好き嫌いをなくす必要はない。
                 嫌いなものも食べればいいだけだ」

 怠けているわけでもないのに、やるべきことをやれていないのは、一日の中で優先順位を間違えているからだ。
 やりたいことを先にやって、やりたくないことを後回しにしているから、最後は時間切れになる。今日もまたこぼしてしまったかと反省してももう遅い。
 それでは好きなものだけ食べて嫌いなものを残す子供と一緒だ。
 夏休みの宿題を最後までやらない性格はなかなか治らない。精神力で完治できるとも思えない。
 それほど優等生にならなくもいいにしても、必要最低限のことを先にやってしまうというのは、当然といえば当然のことだ。
 もしくは、好きなことの間に挟んで無理矢理に飲み込んでしまうか。
 なんにしても、ここのところ自分に課した課題をちゃんとこなせていないから、明日から時間割を見直して、ちゃんとする。
 怠けていないというのは、言い訳にならない。

 2008年10月10日(金) 「今日の言葉は今日のうちに。
                 言葉は生ものだから」

 昨日の気持ちと今日の気持ちは違うから、昨日の言葉と今日の言葉も違う。
 昨日書こうと思っていたことを、今日はもう書きたくない。
 だから、その日の言葉はその日のうちに書いておかないといけないのだ。そうしないと言葉を取りこぼす。
 昨日の言葉が今日の自分にとって力を持たないとしても、それは嘘ではないし、価値のないものでもない。
 変化は必然で、変化のどの部分も真実だから。
 感情も思考も同じだ。自分自身も。
 言葉を発することや、感情を言葉として定着させることにどんな意味があるのかなどと悩んではいけない。それはとても自然なことで、意味を求めてさまようものではない。絵を描くときにどうしてこの色をここに塗るのかをいちいち考えていては、絵を描けないよのと同じだ。
 今日の好きは今日のうちに言うべきだし、ありがとうの言葉を明日に持ち越してはいけない。
 人も世界も言葉でできているから、言葉を失うことは世界の一部を失うことだ。

 2008年10月9日(木) 「中庸とバランスの感覚。
                駄目でいいわけない」

 生きることは、技術の問題であり、心の問題でもある。
 その両輪が上手くバランスを取って回っていかないと、真っ直ぐ前に進めない。どちらかが勝ちすぎても、どちらかが動かなくても、前進に支障を来す。
 心技体、攻防一体、健康な精神は健康な肉体に宿る。
 二元論においても、総合的なところでも、バランス感覚が大切になる。
 攻めてばかりでも、守ってばかりでも上手くはいかない。それは、あらゆるスポーツや武道を見ていてもそうだし、その法則はそのまま人の生活や人生にも当てはまる。
 生きることは、修行でもあり、喜びでもある。楽しいことと苦しいことと、両方あるからいいのだ。
 何事においても偏りすぎないことを心がけた方がいい。中庸の教えというのは、平均であれというのではない。高い次元で理想的なバランスを取れということだ。
 弱さや愚かさが人間の本質だとしても、それに甘んじてしまえば向上はない。
 この世界はあらゆる意味で克服のためにある。個人レベルでもそれは変わらない。
 長所を伸ばすことも大切だし、弱点を克服することも同じくらい大事なことだ。
 心がけの問題として、生きることが下手なことを言い訳にしてはいけない。

 2008年10月8日(水) 「ここは情熱惑星。
                もう一度心を燃やせ」

 情熱の結晶とでも言うべきものを持っているか。
 それは人に誉められたり、誇るべきものでなくてもいい。
 自分が自分に与える勲章のようなものであれば。
 情熱とは、熱意を傾けることだ。何かに夢中になることと言い換えてもいい。
 本当に好きなことを見つけて熱中すれば、やがては自分の中で何かが結実する。
 頑張るというのはきっとそういうことなのだ。
 自分が好きなことにどれだけ情熱を注げるか。
 好きなことを頑張らずにどうするというのか。
 心の炎が消えていたら、もう一度つけ直さなくてはいけない。
 生きることは燃えることで、熱い炎によって結晶は生み出されるのだから。

 2008年10月7日(火) 「悪意を呑み込み、
                善意を成長させる」

 悪意に打ち克つことができるのは、圧倒的な善意だけだ。
 悪意を悪意で叩いても、問題は解決しない。かえって根深くなるだけだ。
 暴力が物事を解決しないように。
 善意は悪意を呑み込んだものでなければ強くない。悪意を消化した善意だけがこの世界を浄化できる。
 善意はいつでも弾き飛ばされ、打ちのめされ、踏みつけにされるものだけど、それでも自分の中で大きく育てていかなくてはいけない。
 自分の中にも、常に善意と悪意の戦いはある。
 悪意に負けてしまう善意なら、悪いのは力のない善意の方だ。
 善意は悪意を栄養源として取り込むことで大きく成長する。
 善意というのは攻撃的なものだ。誰にも汚されない純粋でひ弱なものなどではない。

 2008年10月6日(月) 「足並みなど揃えなくてもいい。
                優秀なやつは先に行け」

 自分が誰かに負けていることは、全然嫌なことでも何でもなくて、むしろ喜ばしいことだと思っている。負けず嫌いという感覚がよく分からない。
 自分より優れた人間はいくらでもいるのだから、いちいち敵対心を持っていたら疲れてしょうがない。
 むしろ、優秀な人たちは褒め称えて誇るべきではないのか。
 恋愛におけるヤキモチというのはあっても、優れた人間に対する嫉妬心というのはない。
 たいして優秀でもないわりにチヤホヤされている人間を見ると腹が立つこともあるけど、そんな人間を受け入れる人たちがたくさんあるのなら敬意は払わなくてはいけない。
 勝ち負けとは関係ない部分でも、たとえばエビちゃんを私はとても尊敬している。よくぞああいう人がいてくれたものだと誇らしい。日本代表としてどこへ出しても恥ずかしくないし、なんなら地球代表としたいくらいだ。
 各分野で才能のある人間はたくさんいるし、美しい人も尊敬に値する。長生きして元気な人とか、主婦でお母さんをやっている人も偉いと思う。
 この世界にはいろいろな問題がある中で、優秀な人間の足を引っ張ったり、叩いたりするのは、絶対的によくないことだ。先へ行く人はどんどん行かせてあげないといけない。一人が行けば、あとをついていくのは簡単なことだ。たった一人が世界全体を前進させる。
 スターシステムをもっと強化していい。誰もが平等だなんて思想は、かえって世界の進歩を遅らせるだけだ。もっとスターや天才を優遇する必要がある。
 優れた人間が幸せになれるという当たり前の世界が、いつか実現するのかどうか。
 嫉妬と悪意に打ち克つことで優れた人間が更に強くなるということはあるにしても、優秀なのに潰されてしまう人間があまりにも多すぎるように思う。

 2008年10月5日(日) 「恋するために生まれた。
                生きることは恋すること」

 この世界で生きることに恋するように。
 10代には10代の、20代には20代の恋があるように、30代としてこの世界と関わり、40代は40代としてこの世界を愛おしむ。
 楽しいことばかりが恋じゃないように、生きることにつらさがあるのは当然のこと。
 苦しさがあるから喜びも大きくなる。
 気持ちばかりが空回りして無力な恋を繰り返す10代の恋には、もう戻りたくない。
 生きている今が一番いい時期だと、いつでも思ってきた。そして、未来はもっと良くなると。
 50代には50代の、60代には60代の恋があるはずだ。
 百年の恋は、きっと冷めることはない。
 永遠じゃないことを知っているから。

 2008年10月4日(土) 「一部は全体のため、
                全体は一部のため」

 些細な大事なことのために、人はたくさんの時間を費やし、多くのものを犠牲にしている。
 そうしないと大事なものは生み出せないから。
 極端に言えば、99パーセントの無駄と、1パーセントの有益でこの世界はできている。
 99パーセントは1パーセントを生み出すために必要なもので、1パーセントは99パーセントの無駄が真に無駄ではないことを証明する。
 人生において愛がすべてではないけど、ささやかな愛が人の人生を支えるということはある。
 一人は全員のために、全員は一人のためにというラグビー精神は、この世界のあらゆるシーンに適用される。
 全体は一部のためにあり、一部は全体のためにある。
 ある部分で人は一部となり、全体となる。役割は必ずしも一つではない。
 自分が捨て駒になることで人を活かすこともできるし、人の犠牲の上に自分の幸せが成り立つこともある。
 生きることは無駄だと言って生きなければ無駄さえも生み出せない。人生の中にたった一日でもいい日があれば、それは生きるに値した人生だ。生きなければその一日を持つことはできなかった。

 2008年10月3日(金) 「与えるという投資。
                外れても文無しになるだけのこと」

 自分が誰にも求められないことは、必ずしも失意の理由にはならないし、絶望の言い訳に使えるわけでもない。
 自分は誰に何をどれだけ与えられるのかと、まずは自分自身に問いかけてみることが先だ。
 絶望するなら誰にも何も与えられないことを絶望すべきで、何ももらえないからといっていじけてるようでは頭の悪い子供と一緒だ。
 人に与えることに喜びとすることを見つければ、人生は前へと転がり始める。与えることに終わりはない。与える対象は無限だ。
 単純な話で、感謝されたければそれなりのことをしろということだ。生き神様でもあるまいに、ただそこにいるだけで人々が手を合わせて拝んでくれるはずもない。
 人は現金なもので、気前よく与えれば誉めるし、ケチな人間はののしられる。自分だけいい思いをしようとすると、結局自分が一番損をする。
 損して得取れという言葉があるけど、与えることは損を覚悟の投資のようなものだ。いつも等価で帰ってくるとは限らなくても、大きくなって戻ってくることもある。
 たとえ全部与えて一文無しになったとしても、マイナスになるわけではない。ゼロに戻るだけだ。
 もう一度自問自答してみる。おまえは人に与えられる何を持っているのか、と。
 それが財産を築くための元手となる。なければ、まずは元手を作ることから始めなければならない。
 投資で当てれば、あとは何もしなくても向こうから与えてくれるようになる。
 お金持ちのところにお金が集まるように、親切は親切に集まり、徳は徳に集まるものだ。

 2008年10月2日(木) 「写真は未練じゃない。
                未来に向けての贈りものだ」

 写真は未来の自分に向けての贈りもの。
 写真を思い出と言い換えてもいい。
 過去を懐かしむのは、生き延びた者だけの特権だ。早死にした人間には味わえない。
 長く生きれば、いろんなことを経験したり、見聞きすることができる。
 それを写真に撮ったり、記憶として刻むことは、未来に属する行為だ。
 明日死ぬと分かっていたら、今日写真を撮ったりしない。撮るとすれば、あとに残る者のためだ。
 未来で大切な人と出会ったとき、過去は共有財産となる。
 思い出が少ない人生は寂しい。老後に必要なのはお金よりもむしろ、たくさんの良い思い出だ。
 未来の自分のために今日できることがもっとたくさんある気がしている。

 2008年10月1日(水) 「思い出巡りは危険な兆候?
                後ろ向きな気持ちではないのだけど」

 気分的に後ろ向きになっているわけではないけれど、このところ昔行ったところを再訪したり、馴染みのある街の風景をフィルムで撮ったりしていて、少し我が身の危うさのようなものを感じている。
 人は死期が近づいたことを悟ると、思い出巡りみたいなことをするのではないか。
 今年に入ってからその傾向が表れてきて、ここ最近それが強まっているようだ。明日も意識的にか、無意識なのか、子供の頃行って以来のところへ行こうとしている。
 少し前に古い友人たちから誘いがあって、断った。昔の友達巡りなんてことをしてしまうと、ますます危ないような気がして。初恋の人に会ったりなんてするといよいよと思ってしまいそうだから、街で見かけても逃げることにしよう。
 個人的なことだけではなく、たとえば地震なんて可能性もある。
 そんなに深刻に考えているわけではもちろんないけど、気をつけてなるべく死なないようにしたい。

 2008年9月30日(火) 「向上の鍵は抑止力。
                バランスとコントロールが大事」

 抑止力というのは、いろいろな要素があって、様々な場面で効いてくる。
 一般的には悪を力で押さえ込むというふうに使われることが多い。軍事力や核兵器による抑止力だとか、刑罰による犯罪の抑止力といったように。
 人間が生きることを怠けないための最大の抑止力は、死だ。制限時間と言い換えてもいい。人の寿命が千年以上なら、みんな今ほど努力はしないだろう。
 もう一つ、人にとっての大きな抑止力がある。それは恋愛だ。
 これは抑止力とは少しニュアンスが違うかもしれないけど、男と女がいるから、人は体裁を気にするわけで、女子校の話はよく聞くところだし、もし無人島に男だけが生き残ったら、そのうち裸同然で過ごすようになる。
 恋を休んでいるときは、女や男を捨ててたりするもので、逆に好きな人ができたりすると身だしなみを整えたり、体を鍛え直そうという気になったりする。
 そういうことも一種の抑止力だろうと思う。
 水は低いところへ流れるのが自然なように、人も何もしなければ悪くなっていく一方だ。筋肉も脳も使わないと衰えていく。
 何を持って落ちるのをとどめるかといえば、それは恐怖心だ。好きな人に好かれたいという思いは、裏を返せば嫌われたくないという恐怖心に他ならない。
 そこで自ら抑止力を働かせて、向上へとつなげていくのが人間だ。死の恐怖と恋愛感情があわされば、最強の抑止力となる。
 ただし、抑止する力が強くなりすぎて支配されてしまうと逆効果になることを忘れてはいけない。平和を保つための核を発射してしまったら終わりなように。
 何事も、バランスとコントロールが大切ということだ。

 2008年9月29日(月) 「祈りは具体。
                神は必要な幻影」

 人の祈りは、祈りとして存在することに意味がある。
 それを叶える神は、必ずしも必要な存在ではない。
 祈りは形のないものに形を与える行為だ。
 抽象的なものを具体的なものにすることで、人は実現への足がかりを掴むことができる。ぼんやりとした願望では、どうしていいのか分からない。
 この世のことは、今生きている人間でなんとかするしかない。
 祈りは掲げる努力目標と言っていい。誓いや約束と同じものの別の側面だ。
 神の存在が必要なのは、祈る対象を持つことで初めて人は祈ることができるものだから。それが太陽でも山でも自然でもよかったのだけど、より大きな力を持った絶対的な存在を作り出して共有することで、人間は祈ることを簡易化した。太陽と会話することはできなくても、神ならこちらの言葉が通じる。
 祈りは第一段階の形であり、その次に言葉がくる。言霊というものがいかに大きな影響を持つかは、誰もが知っている。
 自分の祈りや言葉に復讐されないように、慎重に扱わなければいけない。

 2008年9月28日(日) 「世界は対立関係ではない。
                協力関係で成立している」

 専門馬鹿と器用貧乏と、どちらかを選ぶとしたら、性格なのか、能力的なものなのか、その両方なのか、私には選択の余地がなかった。何かの専門家になるという発想は昔も今もない。
 たいていのことは人並みにできることで困ることは少なかったけど、専門家には勝てないと思うこともたびたびあった。
 写真にしてもブログにしても、一通り撮れたり書けたりするよりも、何かに特化している方が強みになる。馬鹿の一つ覚えでも、それをやり続けたら勝ちになる。
 専門家の弱みは、危機的な状況に置かれたとき臨機応変に対応できないということだ。たとえば大きな災害に遭って避難所生活をしなければならなくなったとき、学者などはたいてい何の役に立たない。
 それぞれに得手不得手があって、損得があるわけだから、どちらがどちらをうらやましがったりする必要もないのだろうけど。どちらか一方だけが偉いというわけでもない。
 世界を前進させるのは専門家で、世界を支えるのは非専門家といえば間違いではないだろう。どちらが欠けても成り立たないのだから、互いに敬意を払って協力し合うしかない。
 文系と理系という分け方でもそうだし、頭脳労働と肉体労働にも同じことが言える。数学や物理ができる人間も不可欠だし、文章や詩を書ける人間もいなくては困る。
 誰もが自分のできることをやっているだけだ。それで世界は回っているのだからいいじゃないかと私などは思う。非難し合ったり、いがみ合ったりする必要はまったくない。
 人の本質というものは、物心ついてから大人になって年齢を重ねても、案外変わらないものだなと最近つくづく感じる。

 2008年9月27日(土) 「水底を見られたら負け。
                心の風音を聞かれなければ勝ち」

 あいつは気楽でいいよなと思われたら勝ちだ。
 うらやましがられた者勝ちだから。
 たとえ、心の内でどんな嵐が吹いていようと、どんな闇を抱えていようと、外から分かってしまったら負けだ。
 人をうらやましがっても負けになる。

 2008年9月26日(金) 「ゆっくり急いで。
                緩急を織り交ぜていけ」

 人生を駆け抜ける爽快感と、ゆっくりいくことの味わいと、両方体験できればそれに越したことはない。
 どちらにもそれぞれの良さがあり、失うものがある。
 足が進まないのに焦りすぎてはかえって前に進めない。
 のんびり行きすぎると間に合わず時間切れとなる。
 メリハリが大切で、それが難しい。
 緩急をつけるということは、この世界のあらゆるシーンで重要となる。一本調子になると上手くいかないことが多い。人と人の関係性もそうだ。
 自分の中でやるべきことに関しても、急がなければいけないことと、あえてゆっくりやるべきことの区別をつけておく必要がある。
 年を重ねてスローカーブの大切さを知る。

 2008年9月25日(木) 「勝って負けて負けて勝って。
                何者になれるか」

 失敗は成長のための肥料となる。
 成功と失敗と、両方の経験が自分の血肉となる。
 負けることも必要だし、上手くいかずに試行錯誤することも次につながる。
 言い方を変えれば、失敗を貴重な体験としていかせるかどうかでその人間の価値が決まる。挫折していじけてしまうようなら、それまでだ。
 勝ちっぱなしの勝負なんてつまらない。勝つことは人生の半分でしかない。
 失敗は笑い話になるし、間違いは思い出になる。
 勝ったり負けたり、泣き笑いが人生で、生きたことすべてが自分という存在に集約していく。
 最終的に問題となるのは、何をしたかではなく、どんな人間になったかだ。
 人生は人間を作るための手段だということを理解しなければいけない。

 2008年9月24日(水) 「捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。
                まず希望を捨てよ」

 再出発のために、希望を捨てよう。
 そこから始められる何かもある。
 そして、元気に歩いていこう。
 希望とは自分自身だ。
 遠くにある光を求めるのではなく、自らが光となろう。
 暗闇でも進んでいける。
 夢や希望はなくても。
 確かなことは、ここが到達点ではないということだ。

 2008年9月22日(月) 「膨大な無駄から生み出された
                無数のラブソング」
            

 必要だけど、空虚なもの。
 たとえば、使い捨てにされるラブソング。
 求めずにはいられないけど、なくても生きていけるもの。
 たとえば、恋愛感情。
 世の中は素敵な無駄で溢れている。
 美しい景色、美味しい料理、退屈を紛らわすための娯楽。文学、芸術、ファッション、スポーツ。
 この地球という星は、これまでに生み出した膨大な無駄をこそ誇るべきかもしれない。
 地球は美しきがらくたの星だ。ある種の異星人を虜にするだけの魅力があるはずだ。特異な成功例と言ってもいいんじゃないか。
 無駄なことに人生のすべてを賭けている人たちがいる。その人たちの姿は痛々しげで美しい。暗がりで切なげに光る蛍のように。
 地球が生み出した最高傑作は、あるいはラブソングかもしれない。進んだ星で、これほど非生産的なことに多くの情熱を注いでいる星はないのではないか。
 地球が発するすべての音を宇宙から拾ったとき、耳障りな無数の雑音の中から、甘く優しいメロディーが流れてくるのが異星人たちに聞こえるだろうか。

 2008年9月21日(日) 「戻れない感覚。
                前にしかない道」

 昔の感覚に戻ろうとして戻りきれないもどかしさを近頃よく感じていている。
 前は好きだったテレビや映画や小説やゲームを、昔みたいに楽しめない。そういう趣味趣向の部分だけではなく、もっと感覚全般に渡っている。
 夢から覚めて、もう一度夢の続きを見ようとして見られないのに似ている。
 年齢を重ねるということはそういうことなのだろうけど、自分は自覚している以上に変わってしまったのだろうか。
 これは今後ますます進んでいくのか、どこかで停滞するものなのか。これまでの経験からすると、大きな変化の時期があって、そうでもないときがあった。
 自分がどんなふうにどれくらい変わっていくのかは、自分でも予測がつかない。変化は楽しみでもあり、コントロールできない不満にもなる。
 人は昔に戻れないと思い知って、ようやく前進する決心がつくものなのかもしれない。だとすれば、戻れないことをもどかしく思うことは良い兆候ということになる。
 あの頃はあの頃、今は今だ。未来では別の自分が待っている。
 新しいことをやろう。記憶の中に喜びを探してはいけない。古い思い出を捨てることはないけど、もっとたくさんの思い出を集めていこう。
 昔を振り返るのは、もっと先でいい。

 2008年9月20日(土) 「正解を出すことが目的じゃない。
                問いに答え続けることが目的だ」

 人生を結果論で語るなら、ほとんどの場面で、私たちに選択の余地はなかったと言わざるを得ない。
 人の可能性などというのもはごく限られている。
 あらゆる出来事には原因があり、必然的な帰結としての結果がある。過去にそうであったのと別の可能性というのは、実はほとんどなかったと言える。
 ただ、幻想にしろ何にしろ、未来へと向かう私たちには多くの可能性が見えている。次に起こることさえ予測がつかず、どの選択肢が正解なのか確信が持てない。
 未必の故意とでも言うべき心境によって日々を過ごしている。そうなると決まったわけではないけど、そうなるかもしれない明日へと向かっている。
 あとになってあのときは間違っていたなどと言っても遅いし、そんな批判はまるで的外れだ。
 私たちが時間を移動できない旅人である以上、時間に運ばれながら間断なく迫られる選択を積み重ねていくしかない。ベルトコンベアに乗せられて、次々に出題される問いに答えていくクイズの解答者のようなものだ。ときに瞬間的な判断が求められる。
 何をもって人生の正解とするか、生きている間は分からない。答え合わせはあの世があればそこですればいい。
 答えを出すことが生きることの目的ではない。答えを探すことそのものが生きる意味なのだ。だから、人生にゴールはない。生き続けることだけが正解へ続く道だ。
 自信を持って選択することが大切だ。答えは一つじゃない。自分が確信を持って選んだ道が正解になる。

 2008年9月19日(金) 「高度なマシンも部品の集合体。
                ネジやナットの仕事」

 私たちがあまりにも知らないことが多いのに生きていけるのは、全員で知識を分け持っているからだ。
 それぞれの専門家がいて、仕事を分業することでこの世界は成立している。
 たとえば、天才科学者だけ100人がこの世に生き残ったとしても、元通りの世界は再生できない。家の中を見渡してみて、科学者たちが作り出せるものはごく一部にすぎないからだ。
 これが家庭の主婦100人でも、サラリーマン100人でも、文学者100人でも同じことだ。それぞれができることとできないことがある。
 技術、知識、技能、経験、記憶など、一人が併せ持てるものは少ない。人類全部が集まって一つの知識体だ。だからこそ、これだけの個性が必要にもなる。
 人は一人では生きていけないというのは、こういう部分でもある。無人島に一人流されてしまったとして、食べていけることはできても、文明は築けない。
 この世界を支えてくれている自分以外の人たちに感謝するのは当然のことだし、今世界がこうして存在していることは当然のことなどではない。ほとんど奇跡のようなものだ。
 この奇跡を成立させるために自分は何ができるだろうと考えてみるのは無駄ではない。世界の一員として役に立ってみせるという意気込みがあってもいい。
 生きることの意味を突き詰めていけば、最終的には世界のために自分は何ができるかということになる。
 自分一人くらい何もしなくてもいいだなどと考えると、そこから世界はほころびていく。生きることの責任はそんなに軽いものではない。世界は全員で支えるものだ。
 世の中の歯車の一つになるのは嫌だなどというのは、若い一時期だけのたわごとにすぎない。私たちは一つのちゃんとした歯車やネジにならなくてはいけない。ボルトが一つ壊れただけで大事故になることもある。
 自分の存在は、責任とプライドで支えなければならない。

 2008年9月18日(木) 「ネバーエンディングストーリー。
                これは終わりのための旅じゃない」

 人は死ぬために生まれ、世界は終わるために始まったのだと、ずっと思ってきた。
 そうではないことを今は知っている。
 人は生き続けるために生まれ、世界は存在し続けるために始まったのだ。終わることが目的などではない。
 物事には終わりがあるけど、それは一つの節目だ。終わったところから新たな始まりがある。卒業の先に新しい世界が始まるように。
 私たちはまだ、悠久の入り口に足を踏み入れただけだ。これから長いながい旅が始まる。
 今はまだ終わりを夢見るときじゃない。存在を続けることだけを考えればいい。
 私たちは地球というゆりかごにまどろむおさなごのようなものだ。いまだ地球を出ることさえできないでいる。
 全宇宙の星の数は、2,000億×2,000億個。宇宙の広さは、光の速度で進んでも140億年かかる。
 この数字は私たちが存在するこの世界の現実だ。
 それは、絶望的な数などではない、星の数だけ希望があるのだ。
 この世界の物語は、そう簡単には終わらない。

 2008年9月17日(水) 「全か無か、次善で納得するか、
                それが問題だ」

 みんな自分の最善は知っているのに、次善を知らない。
 もしくは、次善での割り切り方に迷って、最善を求める強さを掴みかねていると言った方がいいか。
 誰だって自分の理想通りにいけばそれに越したことはない。けど、そうならないのが現実の人生で、そのとき次善で我慢するかあくまでも最善を求めるべきかの判断ができていない人が多い。どっちつかずで行ったり来たりを繰り返す。次善を全うすることもできず、最善を追いかけて殉じる覚悟も持てない。
 そもそも、自分にとって何が次善なのかが分かっていないのではないか。
 それさえきちんと理解していれば、次善の中で生きながら最善を求める方法も見えてくる。
 自分が本当に好きなことは、仕事にせずに趣味にした方が楽しめるというのはそういうことだ。
 仕事に限らず、恋愛でも、結婚でも、人間関係でも、お金でも、家でも、持ち物でも、そうだ。
 妥協点と満足度のバランスを取るのは難しい。年齢を重ねると、妥協点と折り合っていくのが上手くなっていくものだけど。
 捨て身のオール・オア・ナッシング精神でいくのか、手堅くモアベターでいくのか、いずれにしても中途半端になるのが一番よくない。どちらでいくか決めたら、もうぶれないことだ。

 2008年9月16日(火) 「表からいっても、裏からいっても、
                後悔と満足は半分ずつ」

 自分が人生の表側を生きているか、裏側を生きているか、みんな自覚しながら生きているのだろうか。
 人生には2種類の生き方しかない。人は二者択一でどちらかを選ぶことになる。表側を生きるか、裏側を生きるか。
 それは必ずしも陽の当たる場所と裏街道ということではなく、正統でいくか異端でいくかという選択の問題だ。無難に生きるか、冒険するか、と言い換えてもいい。
 何が表で何が裏かも、人によって違う。成功が表にあるとは限らない。
 どちらにしても、人は一種類の人生しか選べない。あのとき別の選択をしていたらと考えることはできても、やり直すことはできない。
 リスクの少ない方で小さな幸せで我慢するか、リスクを冒して挑戦して自滅するか。結果は最後まで生きてみないと分からない。自分の選んだ方が正解か不正解かは自分で判断することだ。
 どっちをいっても、後悔と満足は半々だろう。
 私は裏道を選んだことを失敗だとは思っていない。たとえこの先に希望がなかったとしても、選択の余地はなかった。表をいっていたら、今頃人並みの幸せに満足していたかもしれないけど、その幸せはあの頃欲していたものではなかった。その気持ちは今もさほど変わっていない。
 あのときの誓いはまだ生きているし、約束も忘れていない。
 自分に賭け、自分の選んだ道に殉じること。殉教者になりたいわけじゃない。ただ、約束を果たしたいだけだ。

 2008年9月15日(月) 「人は誰も理解されたがり屋。
                相互理解が幸せへの道」

 誰もが心のどこかで、本当の自分を理解してくれる人を求めている。それは人として自然で当たり前の願望だ。
 ただ、現実は思い通りにはいかず、ほとんどの場合、自分を理解してくれる人間にはなかなか出会えない。称賛や恋愛と理解は別のものだ。血がつながっていても、お互いに見えない部分はたくさんある。
 その現実を踏まえた上でどうするかということが問題となる。
 居直ってしまうことは簡単だ。誰も自分を理解してくれないとあきらめてしまった方が楽になる。ただ、それで幸せになれるだろうか。
 理解して欲しいのなら、そう意思表示をする必要がある。自分は何を思い、何に迷い、何をどうしたいのかをきちんと伝えるべきだ。何も言わず黙って悩んでいたら周りが察して助けてくれるなんて考えは虫が良すぎる。そんなことはあり得ないと知らなければならない。
 理解してもらうということは、それがほんの一部でも、とても嬉しいことだ。自分は存在してもいいのだと思わせてくれる。自分が立つ拠り所にもなる。
 そのためにはまず、自分が自分自身をよく理解しなければならない。自分が分かってないことを他人に伝えることはできないのだから。
 自分が抱える問題は、他の人や周りを巻き込んで解決した方がいい。そこに相互理解が生まれ、絆ができる。
 人は一人でも生きられるけど、つながりの中で生きた方が楽だし楽しい。
 考えてみればとても単純な話だ。助け合いの精神、それに尽きる。
 助けを求めれば人は助けてくれるし、自分もまた人を助けることができる。誰もが救世主になれる力を持っている。
 あなたは誰かの理解者だと胸を張って言えるだろうか?

 2008年9月14日(日) 「自作自演。
                待ってても配役はもらえない」

 この世界における自分の役割は、自分で見つけて、自分で行うしかない。
 よほどの重要人物なら向こうから役割を持ってきてくれるだろうけど、それ以外は自力でなんとかするしかない。
 大部分の人間は名もなき一兵士にすぎないわけで、大将の命令はあるにしても、実際に戦場で何をするかは自分で決断して実行しなくてはいけない。
 入れ替わりの激しいこの世界、無数の人間がひしめいている中、個人に対して天からいちいち一挙手一投足に至るまで指示が出るはずもない。
 指令があるとすれば、自己裁量でなんとかしろというくらいのものだろう。
 運命や宿命は必然と偶然の帰結で、後ろから見れば決まっていたように見えても、現在進行側から見てあらかじめ決まっているものでもないだろう。あったとしても、いくらでも変更は利く。さして重要なものでもない。
 この世界に生きている間に何をするかは、自分で考えて、自分で見つけて、自分でやることだ。
 待っていても配役など割り振られない。演じるのは自分自身だ。
 生きることは、そんなに大げさなものでもない。肩の力を抜いて、楽しむべきところは楽しめばいい。
 世界と喧嘩しても勝ち目はない。制約がある中で、自分のやりたいことをやるというのが基本となる。

 2008年9月12日(金) 「才能がないことは、
               スピードがないこと」

 才能を欲しがるのは、最悪のないものねだりだ。
 お金持ちの名家に生まれたかったとだだをこねるようなもので、今更どうにもしょうがない。
 あらかじめ持ち合わせていないものは、代用品で補うしかない。それが不可能ではないのがこの世の救いだ。
 人は才能さえあれば成功と幸福が手に入ると思いがちだ。そういう面は半面でしかなく、才能がないことの幸せがもう半面あることに思い至る必要がある。
 名門のお嬢様で容姿端麗、頭脳明晰の女の人の不満と、平凡な家庭で生まれ育った普通の女の人の不満と、どちらがより大きいかということを考えれば分かる。
 才能、それはとても魅力的な響きを持った言葉だ。ただ、それを言い訳にするのは絶対に間違っている。
 超えなければならないハードルの高さは、人に応じて高さが変わる。
 夢が実現しないのは、才能が足りないのではなく、思いが足りないせいだ。溢れる思いは才能を超越する。
 結局、努力できることが才能だと言ってしまえばその通りで、天才はどんな凡人よりも努力している。
 凡才は時間をかけて行くしかない。天才がする同じ努力を2倍、3倍の時間をかけて。
 努力に費やした時間は無駄にならない。ゆっくり進まなければ見えない風景もある。

 2008年9月11日(木) 「始めよう、1ミリ運動。
               明日からでなく今日から」

 毎日の中には、1ミリでもいいから進めておくべきことが10や20、もっと言えば100や200項目くらいあって、これができる人間が目標を達成できて、できない人間は何もできない。
 たかが1ミリといっても、10日で1センチ、ひと月で3センチ、一年なら36.5センチ進む。
 やれるときにまとめて1センチ分やればいいやなんて思いがちだけど、一日1ミリできないことが、どこで1センチ分も割り込ませる余裕があるというのか。
 結局のところ、毎日少しずつやって、積み重ねていくしかないのだ。
 急がば回れとか、継続は力とか、悔しいけどその通りで、反論の余地はない。
 毎日すべての項目をやるのは難しいから、優先順位とローテーション制にするといい。
 優先度の高いものから書き出していって、時間のある限り上からやっていくというのが一番効率的だろう。時間に余裕があれば、下位の方からやってもいい。
 私もずっとやらなくちゃいけないと思いつつやれずに先延ばしにしていることがたくさんある。
 それらを一度全部書き出して、毎日一つずつやっていくようにしなければいけない。
 書けばやるべきことと、やれないことがはっきりするという利点もある。
 明日からと言わず、今日から早速始めよう。
 名づけて、1ミリ運動だ。

 2008年9月10日(水) 「命は使うもの。
               捨てるものじゃない」

 人生は死に場所を探す旅ではないし、どう死ぬかが大切なのでもない。
 自分の命の使いどころを見いだすことが大事なのだ。
 無駄死にほど罪なことはない。
 逆に言えば、意味のある自殺もある。
 命には使い道がある。それを見つけるのは自分だ。
 自分には必要のない命だというなら、世のため人のために使うことを考えればいい。
 私たちは日々命を使いながら生きている。
 その毎日は、命を使うに値する毎日なのか?

 2008年9月9日(火) 「昨日から続く今日。
               明日へと続く今日」

 明日を夢見ることができるのは、今日全力を尽くした人間だけ。
 ぼんやり明日を待つだけの人間に、明日を生きる資格はない。

 これを自戒の言葉としたい。

 2008年9月8日(月) 「惰眠をむさぼるべからず。
               いい夢見ろよ」

 人生はいい夢だ。
 なんていい夢だったんだろう。
 いつこの世を去ることになっても、ごめんなさいと、ありがとうと、この二つの言葉に尽きる。
 命の使い道を間違えないように。
 自分の仕事を全うすること。
 そうすれば、夢から覚めたときも、いい夢の続きが見られるだろう。

 2008年9月7日(日) 「一期一会は季節も同じ。
               同じ季節は二度ない」

 去年の夏と今年の夏は違うものだということを正しく理解し、しっかり噛みしめないといけない。
 来年の夏まで今年の夏のことを覚えていられるように。

 2008年9月5日(金) 「人類としてできることとできないこと。
               すべきこととすべきでないこと」

 正しさが世界を救うのなら、話はとても単純で、世界はとっくの昔に救われている。正しいだけでは解決しないのがこの世界の難しさだ。
 じゃあ、世界を救う要素は何かといえば、それは誰にも分からないし、もしかすると、この世界には存在しない何かかもしれない。
 そもそも、救われることがこの世界の方向性だとも思えない。
 私は、存在し続けることこそがこの世界の目的だと思っている。生命が自らの命をつなぐことだけを目的とするように。
 案外、それ以外には意味がないものなんじゃないか。ゴールなど存在しないし、世界はそんなものを求めてはいない。
 だから私たちは、存在のための存在を模索していけばいい。正義をもって裁こうなどとするのは間違いだ。存在する限りにおいて、何をしても許されるといってもいい。
 地球の温暖化も、人間にとって都合が悪いというだけで、地球にとっては小さな変化にすぎない。
 人間は人間の存続にすべてを賭ければいい。そういう意味で温暖化阻止はすべきだし、戦争で殺し合っている場合ではない。ただそれを、世界のためだなどと論理のすり替えをしてはいけない。
 旧人類が生存に適さなくなれば、新人類が現れて取って代わるだけだ。
 目的など幻想と知り、生き延びることだけを考えるべきだ。

 という一つの視点を持って日常を生きるのと、狭い視野で自分のことだけを考えて暮らすのとでは、同じような生き方をしていても意味が違うということを知らないといけない。
 人は自分の立場を超えて、多くの視点を持たなければならない。

 2008年9月4日(木) 「見えない心模様。
               混乱してるのは皆同じ」

 心の模様は自分でも気がつかないうちに、いつの間にか書き換えられて変わっていく。
 中心にあったものが隅に追いやられ、完璧だったバランスも崩れる。きれいだったものが濁り、暗雲は払われる。
 リアルタイムの変化に自分自身さえもついていけていない。
 コントロールできない部分も多く、継続することは難しい。
 思考、感情、記憶、展望、予定、義務、目標、夢、幻、興味、好奇心、好意、嫌悪、決意。
 頭の中と胸の内で、それらが行きつ戻りつして、いつも混乱状態に陥っている。
 不動であることがいいことだとは思わないけど、あまりにも流動的で落ち着かない。
 人はそれを表現することで整理しようとする。文章だったり、言葉だったり、音楽や絵やスポーツや、それぞれのやり方で。
 誰もが皆、混乱の中で生きている。自分がそうであるように、他人もそうだということに思い至らないといけない。取り繕っている表面は、全体のほんの一部に過ぎない。
 人の心模様までは見えなくとも、それが複雑であることを前提とすれば、他人を思いやることができるようになる。
 みんな自分のすべてが分かって生きてるわけじゃない。

 2008年9月3日(水) 「幸せは行って来い。
               種から育てるもの」

 幸せよりも不幸の方が多いなんてことはない。
 それは数え方が間違っている。
 この世界には正しい数の数え方がある。それは、自分にとって都合のいい数え方だ。
 不幸な人間は、社会から与えられた物差しで物事を測っている人間だ。そんなつまらない物差しなど、自分が幸せになるためには何の役にも立たないのに。
 重要なのは、自己満足をどうやって客観的な幸せに差し替えるかという方法論だ。主観と客観を融合させなければ、人は本当には幸福を感じられない。
 私はそれを、行って来いの法則と名づけた。すごく単純なたとえをするなら、1万円のものを人に買ってあげて、人から1万円のものを買ってもらう満足といったようなことだ。そうすると、自分で自分のために1万円を使うよりも満足度が高くなる。
 あるいは、自分に優しくしてもらうために投資として人に親切にするということと言ってもいい。情けは人のためならずとは、人に情けをかけておけばいつか巡りめぐって自分のところに情けが帰ってくるという教えだ。お金も人のために使えば、また自分のところに戻ってくる。
 結局のところ、自己満足には限界がある。それはもう思い知った。だから、人を巻き込むしかない。1対1の関係を広げたより多くの関係性の中に幸せの種は宿る。
 言葉を変えれば、人は他人に幸せにしてもらう以外に幸せになる方法はない。
 主観的に言えば、誰かを幸せにすることが自分の幸せになることを見いだすことだ。それは、自分の好きな人だったり、自分の子供だったりするだろう。
 自分は不幸でいいだなんて思っちゃいけない。自分が幸せにしたい人を見つけることだ。そうすればたとえわずかでも幸せは帰ってくる。
 幸せは育てるものだと知らなければならない。

 2008年9月2日(火) 「存在感の薄い9月。
               でもぼんやりはしてられない」

 9月は存在感の弱い月だと思う。
 葉月と神無月の間って、なんだっけと思い出せない。長月という言い方もあまり使われない。
 夏が終わって秋になるまでのつなぎみたいで、これといったイベントもない。なんとなく何をしていいのか分からないまま日々が過ぎていって、なんとなく終わってしまうことが多い。
 10月に入って衣替えになると、一つ切り替えの要素が出てきて、また気分一新できる。8月は夏休みの月だし、お盆もある。9月にはそういうものがない。
 9月の思い出というのもこれといってない気がする。去年の9月は何をしたんだったか。
 こんなとき、ブログを書いていると思い出すのに便利だ。
 そうか、吉良へ行って夏の名残を感じて、デンパークへ行って、ヒガンバナを見に巾着田へ行ったんだった。鳩山会館と。
 あと、9月といえば2005年の愛・地球博へ行ったことも忘れてはいけない。
 もちろん、9月に何もないからといって何もしてないわけではなく何かはしてるわけで、心の引っかかりが少ないというだけだ。
 今年の9月もしっかり過ごさないといけない。初日に滋賀・岐阜歴史巡りに行けたのは一つよかったことだ。
 あとはもう一つくらい何か心に残ることをしたいと思っている。もう一回、電車の旅に出ようかななんて、まだダメージも抜けてないのに考え始めている。

 2008年8月31日(日) 「求めなければ道はなし。
                求める先に道ができる」

 冒険者のすべてが発見者になれるわけではなくても、発見者になれるのは冒険者だけ。

 2008年8月30日(土) 「振り返るべきときもある。
                やれるのはこれからの自分」

 人生には後ろを振り返るべき時期と、振り返ってはいけないときがある。
 いつでも前だけを見て走ることが正しいわけではない。ときには過去の自分をかえりみることも必要だ。
 私は基本的に反省は無駄だと思っている。反省して時間を浪費するくらいなら取り戻すことを考えた方がいいと。
 ただ、反省のないところに進歩もないわけで、必要以上に踏みとどまらないことが大切なのだろう。
 後悔は後悔としてあっていいし、そこから目を背けることは過去の自分から逃げることでもある。それは卑怯だ。
 人生は積み重ねで、どんなことも打ち消すことはできない。どんなに上塗りしても、その下には自分の所行のすべてが存在している。
 ただ、重ねられることを幸運とすべきだ。生きている間は取り戻すチャンスがある。
 大事なのはこれからだと人はいう。けど、過去が大事じゃないわけではない。現在、過去、未来のすべてが大切で、だから今この瞬間に悔いのないように生きているのだ。未来で過去をなかったことにできるなら、人は今を適当に生きてしまう。
 若気の至りといえども笑い話にできないことはある。
 人は自分のすべての時間に責任を持たなければならない。言い訳はできる。誰しも言い分はある。しかし、否定することはできない。
 私たちが自分の力でなんとかできるのは、今と未来だ。手遅れだといわず、できることを今日からやっていこう。
 過去の自分の尻ぬぐいをできるのもこれからの自分だけだ。

 2008年8月29日(金) 「安易に許されると思うべからず。
                許しは愛の問題」

 他人が許されているからといって、自分が同じことをしても許されると思ったら大間違いだ。
 人によって許されることの内容は別だから。
 同じことをしても許される人がいて、許されない人がいる。
 人徳の問題で片付けば簡単だけど、そんなに単純なものでもない。
 状況によって、関係性によって、時代によって、いろんな条件で許されることは違ってくる。
 許されざるべきことはしないというのが基本的な姿勢となる。
 これくらいは許されるだろうという甘えもできるだけ排除した方がいい。
 許して欲しいと思う時点ですでに罪の自覚があるということだ。誰かに罰せられるまでもない。
 許されないことを数え上げればきりがない。それでも、ぎりぎりのところで許されることがあるとするならば、最終的には人徳ということになる。
 愛される人間になれば、許される。
 愛されるには愛することだ。愛せば許すこともできる。
 許し許されることは愛の領域だ。

 2008年8月28日(木) 「生きることは遊ぶこと。
                真剣に遊べ」

 人生は真剣な遊びだ。
 プロスポーツの世界がそうであるように。
 遊びを極めれば道となる。
 遊びが上手くなれば楽しめるように、生きることも上手になれば楽しい。
 人より打てれば野球は楽しいし、ゴールを決められればサッカーは面白い。
 下手では楽しくないのは遊びも人生も同じだ。
 上手に生きられるようになるには、遊びと同じようにまず好きであることだ。そして、努力を続けることだ。
 片手間に遊んでいては本当には楽しめない。
 遊びも真剣になればなるほど興奮するし感動もある。

 日常の中にも楽しさの種はたくさんある。
 それを見つけ、育てて花を咲かせることができるかどうかは本人次第。
 楽しみたがり屋であることがとても大切だ。
 毎日の中には楽しいことがたくさんある。
 人生が面白くないとしたら、それは生きるコツが分かっていない。

 人生はままごと遊びの延長だ。
 あれを真面目にやれば人生になるし、下らないと思えば下らない遊びで終わってしまう。
 踊る阿呆の歌のように、踊った者勝ちなのが人生で、恥ずかしがって見てるだけでは楽しめない。
 毎日球遊びをしている大人たちを見て、あれ以上幸せなことはないと思わないだろうか。
 あれこそが真剣に遊ぶということの最良のお手本だ。
 好きなことに熱中すること、生きるコツはその一点に尽きると言ってもいい。
 人生は決して深刻なものじゃない。真剣に楽しむものだ。

 2008年8月27日(水) 「憧れの人はいますか。
                それが頑張りの素だったはず」

 憧れる気持ちを忘れないことはとても大切なことだ。
 人は年を重ね、大人になると誰かに憧れるのをやめてしまう。自分が一人前の人間になったと勘違いしてしまって。
 けど、本当は、憧れというのが自分を突き動かす原動力になっていたはずなのだ。
 プロ野球選手に憧れる少年野球の選手のように。憧れの先輩に振り向いてもらえるようなかわいい女の子になりたいと願ったみたいに。

 あなたの憧れは誰ですかという問いに即答できるだろうか。
 憧れは、夢の具体例でもあり、目標でもなる。
 誰々みたいになりたいという気持ちは、思うより大事なものだ。人はそれを子供っぽいと馬鹿にしがちだけど。
 誰かを目標にすることは恥ずかしいことなんじゃない。
 格好つけて、目標の人はいないなんて言う人間に限ってたいした人間になれない。一流は一流を知るから、素直に目標の人を挙げる。

 私の憧れの人は、昔も今も変わらず、アインシュタイン先生だ。
 先生に会ったとき、恥ずかしくない自分でありたい。

 2008年8月26日(火) 「正解のない二者択一。
                それでも考えることをやめないで」

 人生が安定しているときに訪れる危機や崩壊というものもある。
 不安定さと格闘しているときの方が、かえって充実感があったりする。
 先が見えない不安と、先が見えてしまった恐怖と、どちらがましとも言えない。
 生きることは誰にとっても手探りで、老若男女、頭の出来の良し悪しにかかわらず、誰も確信を持って生きているわけではない。
 考えなしに突撃して砕けることもあれば、慎重すぎてレールを外れてしまうこともある。
 大胆さと繊細さを使い分けることは難しい。

 もうすぐ夏休みが終わる。
 今年もまた、夏休みを超えられなかった命がある。
 罪と罰とは何なのか?
 夏休みの終わりにはよくそんなことを考える。
 真面目に生きている人間が必ず報われるわけでもなく、嫌われ者が長生きしたりもする。
 悪いことをしなければ死ななくて済むというルールはない。
 積極的に人生を謳歌すべきか、消極的に自分を守るべきか。
 正解のない問いかけの前で、私たちは迷う。

 頑張ることは大事なこと。
 でも、頑張ることで全部が許されるわけではない。
 頑張らなくても結果を出せる人間と、頑張っても結果を出せない人間を比べて、頑張った人間がいつも誉められるとは言えない。
 全力を尽くしたけど結果が出ませんでしたというのは、駄目な人間の決まり文句だ。かといって、居直って何もしないのはもっとよくないけど。
 自問自答を繰り返しながら、私たちはときに自分を許し、ときに怠け、ときに一所懸命になる。
 答えはなくても、考えることを放棄しないことが大切なのだと思う。
 私たちは人生における発明者や発見者となろう。そのためには、考え続け、求め続ける必要がある。
 明日、私やあなたが人生の意味を見つけるかもしれない。そうじゃないとは誰にも言えない。

 2008年8月25日(月) 「何事にも時期がある。
                やれるときがやるべきときだ」

 人には時期が来ないとできないことがけっこうあって、たとえば人との出会いの時期も自分では選べない。
 呼ばれない場所には呼ばれるまで行けないし、長年やろうと思っていてできないことはまだ時期が来てないということかもしれない。
 人が人生で選べる時期は、死ぬときだけかもしれない。もし、それまで運命によって最初から決められているとしたら、あまりにも生きる甲斐がないというものだ。
 生まれる時期は決められていたとしても、死ぬときくらいは自分で選びたい。だからこそ、時期を間違えるとそれは罪になるのだ。
 巡り来る季節を待つしかないように、時期を待つということも必要だ。大切なのは、来るべき時に備えて準備を怠らないことだ。ベンチで出番を待つ選手のように。
 時期が来てから準備を始めてるようでは手遅れになる。

 2008年8月24日(日) 「実際に頑張られてしまうと
                返す言葉もない」

 誉められたり励まされたりするよりも、頬を一つパチンと張られるような思いをした方がずっと効果的だ。
 やる気は人に出してもらうものではなく、自分から発動させるものだから。
 頑張っている姿を見せられてしまうと、言い訳ばかりしている自分が恥ずかしくなる。
 たとえば生まれつき体が不自由なのに真っ直ぐ努力をしている人がいて、実際にやられてしまうと、胸を打たれるというか、返す言葉がない。
 態度で示すというのは、言うほど易しいものではない。けど、本当のメッセージというのは、言葉ではなく生き方そのものなのだろう。
 私がスポーツやオリンピックなんかを観るのは、そういう部分が大きい。勝ち負けの結果じゃない。
 人は誰かを励ますつもりがなくても励ましていることがある。無意識のうちにその逆のことをしてしまっている場合もある。
 頑張っていない姿は、誰かの頑張りをも奪い去ってしまうものだ。
 他人のために生きているわけではなくても、結果として誰かの役に立つ生き方ができればそれに越したことはない。
 自分の頬を二つ、三つ叩いてみる。ちゃんと目を覚ませ、と。

 2008年8月23日(土) 「達観すべきかせざるべきか、
                それが問題だ」

 達観というのは、人生の味方にもなるし敵にもなる。
 悟れば生きるのが楽になるけど、みんなのように楽しめなくなる。
 一番後ろの席で窓の席ばかり見ている早熟な女子中学生のように。
 しらけてしまうことと達観は似ていて、ときどき混同する。
 むしろ達観というのは、何を見ても楽しめる状態を言うのだろう。何事にも動じず、無感動になることとは違う。
 ただ、人として未熟なままくだらないことに夢中になったりするというのも人生の喜びの一つであることを思えば、あまり若い頃に悟ったような顔をしない方がいい。
 テレビのバラエティー番組を観て爆笑したり、大人になってもマンガを読んだりして楽しめる人生の方が幸せとも言える。
 何においても、くだらないと言ってしまうことほどくだらないものはなく、くだらないものの中にいかに小さな楽しさを見いだすかが人生の醍醐味だ。
 達観できる状態で達観するべきかしないでおくべきか、判断が難しいところではある。

 2008年8月22日(金) 「どこが好きと訊かれても困る。
                なんとなく、だから」

 なんとなく好きな人とか、なんだか知らないけど好きなモノがあって、このなんとなくというやつは思っている以上に重要なことなのかもしれない。
 自分でも理由が分からず、感覚的な好意や、妙に惹かれるという感情は、正体が不明で謎めいているだけに、長持ちするというのがある。
 好きな理由がはっきり分かると、底が知れてそれ以上深みが感じられなくなって、急に興味をなくしたりする。
 好きであることの理由がなくなってしまえば、感情も消える。金の切れ目が縁の切れ目みたいに。
 なんとなく好きという感情は、なんとなく消えずに続く。モヤモヤした感じとして胸の中に居座り続ける。
 それは、心の深い場所、あるいは魂といったものの共振が引き起こしているものなのだろうか。だとすれば、本質的で、根源的なものなのではないか。
 経験的に獲得する好きという感情があり、生まれながらの趣味嗜好がある。それは猫や犬にもある。物心ついたばかりの子供にもある。
 好きという気持ちの正体は分からない。からくりが分かってしまえば案外つまらないものかもしれない。
 謎は謎のままでいいということもある。
 好きになるのに理由はいらない。そういうことにしておこう。

 2008年8月21日(木) 「調子に乗りながら油断しないこと。
                上手くいってるときほど慎重であること」

 好事魔多し。
 上手くいっているときほど落とし穴にはまりやすい。調子に乗って油断していると痛い目に遭う。
 そんなことは経験的に思い知ってるはずなのに、私たちは何度も落とし穴に落ちる。
 好調なときくらい調子に乗らせてよと思ってしまう気持ちが甘えだと気づきながら。
 幸せなときは短く儚い。だからそのときだけは夢を見ていたいと思うのが人情だ。それを油断するなと言われても、素直に言うことは聞けない。
 難しいところではある。自分に酔うことが本当に悪いことなのかどうなのか。
 新婚のときくらいイチャイチャしてもいいじゃないという心理というか論理まで否定してしまったら息苦しくなる。
 ただ、調子のいい悪いにかかわらず、警戒心というのはある程度必要だ。
 不幸の何割かは自分に要因があるわけで、騙された方が悪いというのもその通りだから。
 上手くいっている恋人や夫婦ほど相手への思いやりが大切となる。駄目になってからでは手遅れだから。
 人生も関係も、努力の継続なしには上手くいかないものだろう。

 2008年8月20日(水) 「大人になることは難しいこと。
                関係性もまた同じ」

 関係性も誕生から終わりまで、人の成長と同じような移り変わりがある。
 幼くて幸福なときから、だんだん物心がついてきて、反抗期を迎える。成長期があって、悩みの時期があり、穏やかなときがある。大人になり、成熟して、老いていく。
 最後は必ず別れがくる。人の命が永遠じゃないように、関係も終わりがある。
 ずっと仲良しの中学の同級生のようでいたいと思ったりもする。
 けれど、その願いは叶わない。良くなる部分もあれば、悪くなる部分もある。
 大人になればつらいことが増えるように、関係が成長すればその分難しさも増す。
 終わるという前提でありながら続けていくことは矛盾しているようだけど、最後まで続けなければ見えないこともある。
 関係性の寿命までまっとうしたい。

 2008年8月19日(火) 「夏は来て、夏は去る。
                手を伸ばして引き留めても」

 暑くてやっかいな夏を繰り返し許してしまうのは、夏の終わりの切ない記憶があるからだ。
 夏は毎年去り際に、切ない印象を私たちの胸に刻んでいく。
 プール、虫取り、キャンプ、お盆の帰省、盆踊り、甲子園、花火大会。
 土用波が来れば海岸の海水浴客はまばらとなり、台風、稲光、朝焼け空と、名残の入道雲。
 ヒグラシの声はツクツクボウシに変わり、夜窓を開けると遠くから虫の音が聞こえてくる。
 夏休み最後の一週間の寂しさ。
 夏の思い出が頭を巡り、別れが近いことを告げる。
 ある日、外に出ると、青空の色と空気が変わっていることに気づく。
 そして、あ、夏が終わった、とはっきり分かる。
 最後の抵抗のように夏は残暑を振りまく。それでも全盛期の勢いはない。
 根はいい暴れん坊が歳を取って酔いつぶれて寝てしまう姿を見るようだ。
 夏は始まったとたんに終わりの予感をはらんでいる。
 私たちはもう、何度も夏と出会い、夏と別れてきた。それでも、別れに慣れることはない。
 8月の終わりに思うことは、もう少し、もう少しだけ、夏よ、まだいかないで。

 2008年8月18日(月) 「いつか帰る場所。
                開拓者もやがてホームに戻る」

 一人の人間が相手から引き出せる能力や可能性には限界がある。
 だから、人は多くの組み合わせを必要とする。
 立場や関係性が変われば、人は違う一面を見せる。
 男がたくさんの女を求めるのは雄の本能だというけど、それだけではない。
 男は可能性を求める開拓者精神のようなものが強くて、自分の可能性を求めたいから、多くの女を追いかける傾向にある。組み合わせが多いほど別の自分を引き出してくれるから。
 美人の彼女や奥さんがいても他の女に目移りするというのは、そういう精神性だ。
 女は居心地のいい場所に安住しようとするように、自分が好きな自分でいようとする傾向が強い。
 女の恋は上書き保存で、男は別ファイル保存と言ったのは誰だったか。これは上手な言い回しだし、的を射ていると思う。
 飽きるというのも、新たな発見がなくなれば気持ちが次へ向かうからだ。
 もちろん、個人差や例外もあるし、すべての男や女がそうだと言いたいわけではない。互いが身勝手な言い訳をしているだけというところもある。
 ただ、それぞれが違った精神性を持つ中で、良好な関係を保とうとすれば、理解できなくても理解しようとする気持ちが必要となる。
 男と女の違いは、どちらが良い悪いではないし、正しさを主張し合っても幸せにはなれない。
 男と女の違いにかかわらず、人は誰でも心のホームを持っている。あるいは、探している。
 定住するか、放浪するかはその人によるけど、帰ってくるのはホームだ。
 それぞれが互いのホームになれれば、いつかそこが終の棲家となる。
 心のホームレスにならないように。

 2008年8月17日(日) 「揺れる気持ちは行ったり来たり。
                形を変えるだけで増減なし」

 人の気持ちは、揺れて揺られて、寄せては返し、波の間にまに漂い浮かび、浮いては沈み、ゆくえも知れず。
 それでも、引き合う力があるのなら、引いた潮もやがてはまた満ちてくる。
 太陽に照らされ蒸発した水が、雲となり、雨を降らせ、川を流れてまた海に帰ってくるように、人の気持ちも形を変える。
 愛情も恋情は、人の心の中にある量は一定で、配分や形が変わるだけかもしれない。
 それを二人で分け合ったときは、どちらか一方がもう一方に注ぐばかりでは、片方は満たされてももう片方は空っぽになってしまう。こちらから流れた気持ちが別の形でもいいから戻ってこなければ。
 親の愛も無尽蔵ではない。恋愛感情なら尚更だ。
 気持ちは近づいては離れ、離れてはまた近づく。
 限られた気持ちを大切に分け合おう。

 2008年8月15日(金) 「自力で知ることが大事。
                幸せになるために」

 知識はみんなで分け与えて共有するものだ。
 一人で学べることには限界がある。それぞれが学んで知ったことを持ち寄れば、全体として大いなる知識となり、それが共有財産になる。
 ただし、幸せという点で考えたとき、人は他人から与えられた知識では満足できないということがある。
 過去の賢人の人生訓に感銘を受けたとしても、自分の体験から得た知識の方に喜びを感じるものだ。
 本を読んで知識を獲得することもとても大事なことだけど、幸せになりたければ苦労してでも経験から学び取ることを優先した方がいい。結局、そちらの方が近道でもある。
 分からないことはなるべく人に教えてもらわず、自分で答えを探すべきだ。
 得た答えが同じだとしても、ありがたみが違う。
 知ることは幸せになるためだ。知ることと幸福がイコールではないけど、私たちは幸せになるために学んでいるのだということを忘れてはいけない。
 知るべきことをすべて知ったときこそ、人類が幸せになるときだと私は信じたい。

 2008年8月14日(木) 「戦争は語り継ぐべきものじゃなく、
                忘れるもの」

 戦争は語り継ぐものだというけれど、忘れた方が幸せになれるということもある。
 いつまでも忘れてもらえないもどかしさと虚しさは、中国の日本に対する態度を見れば分かるだろう。
 戦後、あっという間にアメリカを許してしまった日本人の態度は立派だった。
 世界中の人たちが日本人くらい忘れっぽいお人好しになれれば、この世界はもっと平和になる。
 水に流すという言葉を世界の人たちに教えてあげたい。
 日本は戦争に負けて懲りた。まいった、もうしませんということで許して欲しい。
 日本人の精神性はすごく特殊なもので世界に類を見ないものだけど、これが世界基準になってもいい。
 和をもって尊しとなすという考えは、聖徳太子が十七条憲法の第一条に掲げた基本的な精神だ。
 仲良きことは美しきかなという武者小路実篤の言葉もある。
 平和ということは尊くて美しいものだという気持ちがあれば、そのために努力することができるはずだ。世界にはそういう精神が欠けているように思う。
 そのためには、忘れることで許すということも必要になる。
 20世紀、日本は世界に追いつくために世界に合わせすぎた。21世紀に入って、その反省から和の心を少しずつ取り戻そうとしているように見える。
 私は21世紀の後半に希望を見る。日本人の誰一人として戦争を経験したことがない時代が来たときが、本当に平和を喜ぶときだ。

 2008年8月13日(水) 「存在と価値は等しくない。
                骨董品とがらくたは人それぞれ」

 実際に価値があるかどうかが大切なのではなく、価値があると思えるかどうかが大事なことなのだ。
 たとえば美人の基準は人それぞれで、誰もが美人だという人に魅力を感じなければ、その人にとって客観的な美人という評価は価値を持たない。
 その逆のことも言える。
 霊が見える見えないもそうで、見えるという人にとってはそれは意味を持つことで、見えない人にとっては存在しないのと同じだ。
 キリストが存在しなかったとしても、神の子などではなかったと証明されたとしても、キリスト教がなくなってしまうわけではない。信者の中に信仰心があれば、それがキリストの価値だ。
 恋心だって人からは見えないし、他人の恋など大部分は価値がないものだけど、本人の中には確かに存在していて大きな価値を持つ。
 彼から送られた指輪が夜店の安物でも、価値を持つことがある。
 骨董品とがらくたは同じものであったり、違ったものであったりする。それも、人それぞれだ。

 何に価値があって、何に価値がないかは自分で判断して決めればいい。
 世の中が決めた価値に従うなら、それもまた間違いではない。
 他人にとっての価値を否定することはできない。
 自分の価値観を否定する必要もない。

 2008年8月12日(火) 「ニューヒーロー、ヒロインが見たい。
                オリンピックは最高のドラマ」

 北京オリンピックも4分の1が終わった。
 毎日楽しみながら観ているのだけど、ニューヒーロー、ニューヒロインが今のところまだ出てない。
 毎回、一番の楽しみはそれだから、まだ物足りない。メダルの数なんかすぐに忘れてしまうけど、オリンピックの人間ドラマは忘れない。
 オリンピックくらいドラマチックにできているものは他にない。
 一流の脚本家が本を書いてもあれほどうまい話は書けない。
 ここまで、日本だけでなく全体としてドラマという点では低調だ。豪州のブラッドリーのようなことがあると嬉しいのだけど。
 個人的には法華津寛選手に頑張ってもらいたい。
 野口みずきの欠場は残念だ。こんなことなら補欠に高橋尚子を選んでおけばよかったのに。スピードレースにならないだろうから、中村友梨香にもちょっと期待。
 明日からは野球も始まる。まだしばらく楽しませてもらえそうだ。

 2008年8月11日(月) 「厳しい言葉に耳を傾け、
                甘いささやきに耳を貸さない」

 今日何もしないで明日を夢見るのは愚かなことだ。
 それは逃げているのと変わりない。
 夢を言い訳に使ってはいけないし、希望にぶら下がるのもずるい。
 自分が日々をちゃんと過ごせているかどうかは、自分の中の一番厳しい声に耳を傾ければ分かる。
 そいつが駄目だと言えば、誰がいくら誉めてくれても駄目なのだ。
 耳元で甘いささやきをするのは悪魔ばかりじゃない。天使のささやきにも充分気をつける必要がある。
 自分の弱さに甘えてしまっては、結局自分が悪い方へ向かうだけだ。
 厳しいばかりでも心が折れてしまうから、厳しさと優しさを上手く使い分けることだろう。
 誰もが毎日を頑張っている。それは誰にも否定できないことだ。
 けど、その人が本気で頑張れるほど頑張っている人は少ない。本当はもっとやれるのに手加減をしている人がほとんどだ。
 最終的には、自分自身をどうやって納得させられるかということに行き着く。
 もうこれでよしと思えれば、それに勝ることはない。

 2008年8月10日(日) 「後半生の難しさ。
                優秀さはなくならないものじゃない」

 どんなに立派で優秀な人間も、途中で腐ったり駄目になったりすることがある。
 若い頃優れていた人物が後半生で狂ってしまうのをみると、人生の難しさを思い知る。
 人は歳と共に成長するものだけど、そんなに単純なものでもない。

 たとえば、今日のNHK大河に出てきた井伊直弼などは、若い頃は辛酸をなめてのちに出世したとても立派な人間だったのに、大老になってからは安政の大獄などという大愚をやらかした。吉田松陰を強引に死罪にしただけでも万死に値する。
 秀吉も若い頃は魅力的で才気溢れた武将だったのに、天下を統一してからの後半生は暗い。無理な朝鮮出兵や、千利休を切腹させたり、非情なこともしている。
 権力は人を変えるものだけど、それだけでもない。権力の座から転がり落ちたことで人としても駄目になってしまうこともある。
 龍馬亡き後のおりょうなども惨憺たるものだ。

 そんなことを考えながら、今日が終わろうとしている。
 明日、突然自分が駄目になってしまう可能性はゼロじゃない。
 なるべく気をつけて生きよう。

 2008年8月9日(土) 「また明日と言えるよう、
               今日という日を生き延びる」

 一日が終わることは嬉しいことだ。寝て起きたら新しい一日を始められるから。
 一日の中で一回しかできない楽しみがいくつかある。日付が変わればそれができる。
 それに、未知の一日の中では何があるか分からない。まだ決まってないことは嬉しいことだ。
 たいていは何もないけど、たまに特別なこともある。
 本のページをめくるように、明日という日をたぐりよせたい。
 そこにはまだ体験したことがない物語がある。
 自分は主人公であり、作者でもある。本当はなんだって好きなことができる。
 今日という日を生き延びた者だけが、明日を迎える権利を獲得する。
 日常は死と隣り合わせの非情な世界だということを忘れてはいけない。
 また明日。
 その言葉が私は一番好きだ。それは希望に満ちた約束の言葉だから。

 2008年8月8日(金) 「自慢となれるよう。
               誉めてもらえるように」

 両親や子供、夫婦や恋人、自分が大切に思う人にとって自慢できる人になりたい、そう願う方向性は正しい。
 誉めてもらいたい人がいれば、それが成功への原動力になる。
 成功することは、自分のためというだけでなく、周りの人も幸せにする。
 自分を好きでいてくれる人が、人を見る目があるという間接的な証明にもなる。
 今の幸せを誰に伝えたいですかとインタビュアーが紋切り型の質問をする。
 その問いを考えたとき、頭に浮かんだ人のために頑張らなければいけない。

 2008年8月7日(木) 「不幸に負けない呪文。
               まだまし」

 私たちは魔法使いではないけれど、誰もが皆、呪文を無意識のうちに使っている。
 つらいとき、落ち込んでいるとき、悲しいとき、腹立たしいとき、人は自分に言い聞かせるようにつぶやくことがある。
「まだまし」と。
 自分よりももっと不幸な人のことを思って、自分はまだましな方だと慰める。
 これも一つの呪文だ。
 上を見ればキリがないけど、下には下がいる。
 まだましだと思えることを一つひとつ数え上げていけば、自分がいかに幸運で恵まれているか分かる。
 おまえなんてまだましな方だなんて他人から言われると腹が立つけど、自分に言い聞かせるのには効果がある。
 実際そうなのだから。

 2008年8月6日(水) 「必要なのはスポットライトでも、
               観客でもなく、大きな舞台でもない」

 小さな舞台で力が発揮できない人間が、大きな舞台で力を出せるはずがない。
 環境が人を育てるということはあるにしても、その環境に選ばれるためには小さな世界で頭角を現す必要がある。
 求められないから一所懸命やらないとか、金にならないことは手を抜くとかでは、本当にやるべきときにやるべきことをできるとは思えない。
 日常の中で全力を尽くすことだ。そこで出せる力が自分の実力のすべてと思っていい。潜在能力は実力のうちに入らない。やれることもやらなければやれないのと同じだ。
 誰も見てないところでどれだけ頑張れるか。努力は必ずしも報われないけど、いざというとき努力は裏切らない。頑張ったことが自分の支えになる。
 いつも自分の限界を感じることも大切なことだ。限界までやらなければ限界が見えないし、限界を超えることはできない。
 スポットライトが当たらなければ力を出せないなんてのは言い訳にならない。

 2008年8月5日(火) 「目に見えることを信じすぎないこと。
               見えるものがすべて真実とは限らない」

 暗闇に入り込んで周囲が見えなくなったときは、目を閉じればいい。
 闇の中で見ようとするから焦って恐怖を感じるのだ。
 どうせ見えないなら、目をつぶって感覚をとぎすませて、想像した方がいい。その方が周りの状況を把握しやすくなる。
 そうやってしばらく心を静めてからゆっくり目を開けてみれば、薄暗がりの中でもぼんやり見えてくる。
 見えないものを無理に目で見ようとしてはいけない。
 人は目に見えるものを信じようとしすぎる。もう少し感覚や想像を信じてもいい。
 現代は視覚による情報流入が過多になりすぎているから余計にそうだ。
 見えるものをすべて見る必要はない。ときに片目を閉じ、ときには両目をつぶることも必要だろう。
 2008年8月4日(月) 「やるやらないは覚悟の問題。
               善悪は他人が決めること」

 やるからないか迷って、ぎりぎりの判断となったとき、最終的な決め手となるのは、その行いが罪に問われても受け入れる覚悟があるかどうかだ。
 人を深く傷つけることになっても、その行いが間違いだと判断されても、あとで後悔することになってもいいと思えば、最終的には自分の判断ですべきだ。あるいは、しないでおくべきだ。
 つまりは覚悟の問題で、善悪などは存在しないも同然なのだ。
 逆に言えば、覚悟ができていないことは、良いことも悪いこともすべきではないということになる。
 人助けや善行も覚悟を持ってすべきことで、格好をつけるためや、安易にしてはいけない。他人の好意に甘えることも。
 何を求めて、何を手にして、何を捨てるべきか。
 私には覚悟が足りず、決められないでいる。

 2008年8月2日(土) 「グッドニュース。
               バッドニュース」

 毎日悲しいニュースと嬉しいニュースがごた混ぜになって流れて消える。
 誕生の知らせがあれば、訃報もあり、個人的にいいニュースがあれば悪いニュースもある。
 大量に流れていくニュースを横目に見ながら、私たちはますます鈍感に、無自覚になっていく。
 ニュースを求めるのは、情報が欲しいからか、刺激が欲しいからか。たぶん、両方だ。
 うらやましいと思ったり、ああはなりたくないと思ったり。
 ニュースはこの先どこまで軽くなっていくのだろう。
 それは、私たちにとって不幸なことなのだろうか。

 2008年8月1日(金) 「偉くあること。
               自分のためにも他人のためにも」

 偉さにはいろいろな種類があって、横並びで比較できるものじゃない。
 自分がどんなに偉くても、他にも偉い人はたくさんいる。
 この世界はピラミッド型ではない。
 偉くなろうとすることは大切なことだ。けど、生きることは偉さを他人と競うことじゃない。
 偉さはむしろ共有するものだ。一人の偉さが周囲に伝染していくというのが理想となる。
 人は他人の駄目な部分を見て安心し、偉いところを見て背筋を伸ばす。
 だから、偉くあろうとする姿勢は、自分のためだけではなく、人のためにも役立つ。
 偉さとは何か? その問いの答えは、それぞれの胸の内にあるはずだ。他人に教えてもらうまでもなく。

 2008年7月31日(木) 「過信と謙虚。
                負け方の美学」

 自信を持つことはいいことだ。自分の実力以上の力を発揮できる場合がある。
 でも、過信は禁物というのも本当だ。自分の力を見誤ると、それが身の破滅を呼ぶこともある。
 ケンカもしたことがないのにボクサーに殴りかかっていくのは、勇気とかではない。
 必要以上に謙虚になって身を守るのは潔い人間のすることじゃない。
 ただ、謙虚さは絶対に必要なものだ。謙虚な気持ちを持たなければ、他人に対して敬意を抱くこともできない。
 何事も加減と言ってしまえばそれまでで、自信と謙虚さを過不足なく持ち合わせることができればそれが理想だ。
 ただ、自分を取り巻く環境も変化するし、なかなか難しいことではある。
 もっと自信を持てと言い、いい気になるなと、人は勝手なことを言う。批判には耳を貸して、耳を傾けないようにしたい。耳をふさぐのはよくないし、聞きすぎるのはもっとよくない。
 最後はどちらかに決めることだ。過信で破滅する道を選ぶか、卑怯でも謙虚さで自分を守るか。
 散っても負け、戦わなくても負け。結局、最後は負けるようにできているのかもしれない。

 2008年7月30日(水) 「赦しと救い。
                憎らしい演出」

 もう駄目だと思うぎりぎりのところで、ふっと救われることがある。
 これ以上は耐えられないから逃げ出したり投げ出したりしそうになるとき、赦しのようなものが降りてくる。
 ここしかないという、それはもう、絶妙なタイミングで。
 それで救われて、またもう少し頑張れると思う。
 生きることはその繰り返しだ。
 人生はそう捨てたもんじゃない。
 投げ出さなければいいこともあるというのは、投げ出さなかった人間だけが言える言葉だ。

 2008年7月28日(月) 「人生が選べても選べなくても、
                演じるのは自分」

 目の前に戦うべき敵がいる人生を選ぶか、戦わない平和で退屈な人生を選ぶか。
 自分の意志で選べる場合もあり、選べない場合もある。
 でも、望むことは望める。
 巻き込まれ型の人生があり、放置される人生がある。放置は言葉を変えれば非干渉の自由な人生、巻き込まれ型は他者に望まれる人生だ。
 教室の片隅で目立たない生徒をやるか、担ぎ上げられて委員長をするか。
 才能や結果がすべての世界に身を投じるか、地道に暮らす日常を選択するか。
 いずれにしても、人はないものねだりだから、どういう人生になっても別の可能性の人生を思い描かずにはいられない。
 人気者になって地位も名誉も手に入れたら、平凡で静かな人生を夢見たりする。
 人生は選べるとも言えるし、選べないとも言える。自分の思惑とは別のところで何らかの力が働いているものだから。
 結果と原因を細かく分析していっても、本当のところは分からない。
 運命、宿命、偶然、必然。何がそうだとも言い切れない。
 大事なことは、自分の可能性を捨てないことと、どんな人生でもそれを好きになる努力をすることだ。
 人生は夢のようだけど夢じゃない。何一つ幻でもなく、自分の身に起こることだ。だから、無責任になってはいけない。
 あきらめず、侮らず、他に当たったり、当てにしないこと。
 舞台と配役があてがわれたとしても、物語が面白かろうと詰まらなかろうと、監督が何を言おうと、演じるのは私であり、あなたなのだ。

 2008年7月27日(日) 「いつも優等生じゃいられない。
                ときどき問題児で息抜きしないと」

 普通の一日なんて本当はないのに、毎日を特別な一日として生きるのは難しい。
 前向きになれない日もあるし、投げやりな気分になることもある。
 ときどき、正しくあろうとすることにうんざりもする。
 健全であることは必要なことだし、偽悪的になることは子供っぽいことだと分かっている。
 それでも、たまには良い人を休まないとやってられない。
 毎日はだいたい変わり映えのしない日で、それじゃいけない自分から変えようとしなければ何も変わらないという正論を頭では理解できても、何を言ってやがると思う。
 体にいいものばかりを食べていたら気が滅入る。たまにはジャンクフードも食べたくなる。心も同じことだ。
 健全な精神を保つためには清浄な水と空気だけじゃ充分じゃない。薬だけでは体は健康にならなくて、毒をもって毒を制すといったことも必要となる。
 優等生と問題児を使い分けることは嫌らしいことかもしれないけど、そうやって自分を守るしかない。
 正しくあることを自分に課してつぶれても、悲劇のヒーローにはなれない。

 2008年7月26日(土) 「人は変わりたいと思い、
                変わらないでと願う」

 ずっと変わらないことは、ときに偉大だったり、逆に格好悪かったりするものだ。
 たとえば頑なに伝統を守るという姿勢は愚直であっても正しさはある。
 けど、若い頃からずっと同じ髪型、同じようなスタイルの歳を食ったタレントをテレビで久々に見ると、変わらないことって格好悪いんだとあらためて思い知る。
 人は年齢相応に変わっていくべきものなのだ。いつまでも若々しくあるというのは不自然なことだし、見苦しくもある。
 良い方に変わっていくことはとても難しいことだけど、新たな試みや挑戦の姿勢はいつでも必要なことだ。
 他人が望むよりも速い速度で変わっていくことは、悪い意味でも良い意味でも裏切りとなる。
 人は変化を求める一方で変わらないことの安住を求めもする。
 若くてかわいいアイドルはずっとそのままでいて欲しいと思うし、恋人にはいつも変わらず自分を好きでいて欲しいと願う。
 それと同時に、もっと刺激を求めたりもする。
 子供の成長を願いながら、いつまでも自分の子供のままでいて欲しいと思ったりもする。
 変わることと変わらないこと。時と場合によるけど、難しいテーマではある。
 この世界は変わり続けることで存続している。背後から崩壊が始まっているから、動き続けて逃げないと壊滅してしまう。
 人はもっと変わってもいいのだと思う。まだ見ぬ新しい自分と出会うことも、人生における喜びの一つだから。

 2008年7月25日(金) 「良すぎるときも悪すぎるときも、
                全部ひっくるめて人生」

 物事が上手くいくときは何もしなくても上手くいくし、悪くなると何をしても駄目になる。
 どこまであがくかというのは難しいところだ。
 好不調の波に身を任せてしまうのは努力が足りないようにも思うし、無駄な努力をせず流れに抵抗しないのが生きる知恵とも思う。
 大切なのは、良いときに調子に乗りすぎないことと、悪いときに悲観しすぎないことだ。
 そして何より大事なのは、駄目になったときにいじけたり投げやりになったりしないこと。必ず流れは変わるから。
 誰だってどん底があれば天井知らずもある。その振幅のすべてが自分であり、人生だ。
 良いことばかりではないし、悪いことばかりでもない。
 両端で判断してはいけない。
 良すぎるときも、悪すぎるときも、半分他人事のように楽しめるようになれば、生きることが楽になる。
 人生はプラスマイナスでバランスを取るようなものではない。すべてが足し算だ。プラスもマイナスも重なっていく。

 2008年7月24日(木) 「公の汚れ仕事をするために、
                まずは地位と立場を手に入れること」

 自分だけ安全な場所にいて人助けはできない。
 世の中の役に立ちたければ、世の中の中心近くにいる必要がある。
 観客席からいくら正論を叫んでみたところで、そんなものは所詮野次のたぐいだ。
 本気で世のため人のためになりたいと思うなら、端的に言って、有名になるか、公人になるかだ。立場や地位のない人間の意見には誰も耳を傾けない。
 そういうものだ。
 真実を語れば世の中が動くと思ったら大間違いで、無名な人間では世の中は変えられない。
 本気だと言うなら、まず何をするかではなく、何者になるかを考える方が先だ。
 何の立場もなく正義を語るのは、お金も持ってないのにお金の使い道を考えるようなもので意味がない。
 誰もが自由に自分の考えを発信できる時代になっても、地位のある人間が世の中を動かすという基本は変わらない。
 世の中に望まれたら応えてみせるという姿勢では何もできない。ある種の押売のように自分を売りつける必要がある。面の皮の厚い政治家のように。恥を捨てたタレントのように。
 汚れたくないというのは、世の中のための仕事をしたくないということだ。そんな半端な覚悟では、何一つできっこない。

 2008年7月23日(水) 「今死ぬことは
                未来の自分も死なせること」

 今日の自分が間違っていることは、10年後の自分が知っている。
 今日の自分が10年前の自分の間違いを知っているように。
 だから、生き延びなくてはいけないのだ。自らを正すために。
 間違えることは悪ではないし、必ずしも恥じることでもない。遅れても気づけばいいのだ。
 あの頃自分は間抜けだったな笑い飛ばせるようになることが成長というものだ。
 言い方を変えれば、自分を正してくれるのは未来の自分しかいないということでもある。
 だからもう一度言おう、生き延びろと。
 つべこべ言わずにただ生きていればいいんだ。未来の自分を侮っちゃいけない。
 と同時に、今の自分を過信してはいけない。未来の自分からしたら間違いは明らかなのだから。
 間抜けな人間に間抜けだと教えてあげる必要はない。その人の未来の自分が教えてくれるのだから。

 2008年7月22日(火) 「考えるよりも描くこと。
                自分らしい絵を世界のために」

 頭がよくていろんなことが分かってる人間よりも、何も分からなくても一所懸命やってる人間の方がよほど偉い。
 分かってるだけで何もしないのは、分からずに間違ったことをするよりもなお悪い。
 偉さが必ずしも正しさではないけれど、行為という決定的な正義が人の世界を支えていることは間違いない。
 みんなが立ち止まって生きる意味なんて考え出したら、この世は回っていかなくなる。
 この世界について考える人間なんてのは、100人の中で一人もいれば充分だ。
 ただし、考える人間には考える人間なりの責任がある。代表として考えるという責任が。けど、別に偉いわけじゃない。
 この世界に生きる誰もが皆、誰かの代行であり、代表であるということを忘れてはいけない。
 その人の人生はその人にしか生きられず、それは誰かにとっての憧れであり、夢の代行者でもある。
 この世界はピラミッドではなく、横並びのモザイク画だ。役割分担をして、全体としての絵を描いている。
 大切なのは自分らしい絵を描くことだ。人まねではなく、気取ったものでもなく、自分らしさをまっとうすること。
 自分は全体の一部なのだという自覚を持たなければ、この世界が描く絵を認識することはできない。

 2008年7月21日(月) 「命がこの世界にできることは、
                この世界を存続させること」

 一個の命ができることは、ときに偉大で、ときにあまりにも無力で。
 国を守るために散らせた命と、ささやかな家族の平和を守るための命と。
 ただなすすべもなく過ぎてゆく日々を過ごすための命。
 命には確かに軽い重いがある。
 重い命でないとできないことがあり、軽い命だからできることがある。
 命はこの世界のエネルギーのようなものだ。
 限られた資源を有効に使って、この世界は何をなそうとしているのか。
 世界の主役はあくまでも世界であって、命ではない。
 けれど、命なしに世界は成立しない。
 人間は、世界を成立させるために必要不可欠な存在だ。
 集約すれば、記録するという一点において。
 命が刻む記憶は誰のためにあるのだろう?

 2008年7月18日(金) 「人は海。
                海は人」

 人の心は海に似ている。
 感情は寄せては返す波のよう。
 満ちては引いていく潮のよう。
 風が吹けば心は波立つ。
 嵐があれば、凪がある。
 二つの潮流がぶつかるところでは、流れが淀んだり、早くなったりする。
 別々の海と海とがせめぎ合う。
 人と人との関係のように。
 そこは最高の漁場でもある。
 地球には一つの海しかない。
 けれどそれは、無数の波でできている。
 私たちの心は海のよう。
 寄せては返し、返してはまた寄せる。
 波の音がやむことはない。

 2008年7月17日(木) 「過去の事実も変わる。
                信じるべきは今の自分の感情」

 過去を既定事実として捉えると間違える。
 昔言われた言葉が今もそのまま有効だとは限らない。
 過去の栄光も落ちぶれればもうそこに栄光はない。
 言葉にも感情にも賞味期限はあって、事実でさえ古びて意味をなくす。
 過去の自分も、過去の他人も、当てにはならない。
 あるのは今この場にいる自分と、感情だけだ。
 それがノーと言えばノーなのだ。過去のすべてのイエスは否定される。
 過去も時間と共に変容していくということを忘れてはいけない。決して普遍などではない。
 絶対の誓いさえも、それが今日まで有効だと思ったら大間違いだ。
 約束も破られる。
 すべては日々更新されていく。信じるべきは過去ではなく現在だ。
 過去の幻影に惑わされず、今現在の自分としっかり向き合ってみれば、何がしたいのかが見えてくる。何が欲しいのか、何が必要なのか。
 過去が前へ進むための邪魔となるなら、非情でも捨てなければいけない。
 昔の自分に対して誠実であるよりも、現在の自分を信じればいい。

 2008年7月16日(水) 「言い得て何かある。
                けれど語り尽くせない思いがある」

 誰のどんな言葉にも一理はある。
 逆に言えば、まったく理のない理屈はないということだ。盗人にも三分の理とも言う。
 ただし、誰のどんな的を射た言葉も、完全なる真実ではない。
 誰一人完全無欠な真実を語ることなどできやしない。
 立っている場所と向いている方向が違う人間同士は、たとえ真実を介しても理解し合うことはできない。
 この世界はいつも正義と悪、天使と悪魔の戦いと決まっているわけではない。悪魔同士が争うこともあれば、互いの正義がぶつかることもある。

 松尾芭蕉は言った。「いひおほせて何かある」と。
 すべてを言い切ってしまったら何が残るというのか、そんなことをしてしまったら詰まらないというような意味で語った言葉だ。
 でもそれは俳句の話。真実の話ではない。
 私は思う、言いおおせたときに何かがあるはずだと。
 誰でも自分の本当の気持ちや考えていることをそのまま完璧に言葉にすることは難しい。でも、難しさの中であえて語ろうとして語り得たとき、そこには何かが生まれるはずなのだ。人の心の深いところに届く確かなものが。
 芭蕉も語りきらないことの美学ということを言っているのであって、沈黙が正しいと言ってるわけではない。自分のすべてを言葉に託そうとした。それはやはり、言い得ることを求めたに違いない。

 上手に語ることも大切。真実だと信じることを主張することもときには必要だろう。
 けど、自分が信じることを強く言い切ることが正しいわけではないということだけは知っておくべきだ。
 テクニックではなく、誠実さだけでも足りない。
 理屈を超えたところで説得力を持たせるには、人としての力が必要だ。
 言葉は相手を打ち負かすための武器ではないし、自分が優越感に浸るための道具でもない。
 内容があって、表現があり、発する人間がいる。
 みんな言葉を使って生きているのに、ほとんど誰も言葉を上手に使えていない。
 この地球は、共通の一つの言語を持たない限り、相互理解による平和な世界が築かれることはないだろう。

 2008年7月15日(火) 「風の声を聞け。
               心の中を吹き抜ける風の音を」

 人の心の中でどんな風が吹いているか、それは他人には聞こえない。
 風の声を聞け。
 耳を澄ませて。
 低く高く、うねりながら吹く風の音が聞こえたら、それが人間の心模様だ。
 嵐のように、海鳴りのように、風の音がやむことはない。

 2008年7月14日(月) 「7月14日は過ぎた。
               また何も思い出せないまま、何事もなく」

 大人になれば何でも簡単になると思っていた。
 今は難しいことも、勉強して、経験を積んで、賢くなれば楽にできるようになるに違いないと。
 でも、それは違っていた。こちらがレベルアップすれば問題の方もレベルアップして、自分と問題とはいつも同じ高さにある。小学校から中学、高校、大学と進むにつれて教科書の内容が難しくなっていくように。
 確かに簡単にできることも増えたけど、目の前の問題は相変わらず難しいままだ。
 いくらこちらがレベルアップしても、速く駆け抜けようとしても、問題はあとから追いかけてきて、追い越していく。永遠のライバルのように。
 あるいは問題というのは、自分自身の影のようなものなのかもしれない。
 それでも、悲観はしていない。昔のように自分の力が未知数で、まったく見通しが立たないという状態ではない。自分のだいたいの力は分かったし、できることとできないことの区別もつくようになった。
 あとはどれだけ自分の力を超えられるか、難しい問題にどこまで誠実に向き合っていけるかということだ。
 解けない問題も、いつかは解けると信じている。これまで時間をかけて少しずつ解いてきた。
 難しい問題を楽しめるところまでいければ申し分ない。今はまだその手前にいる。

 2008年7月13日(日) 「次の一歩のための力。
                7月14日に思うこと」

 人がどこへ向かっているのかはともかく、人類が次の一歩を踏み出すための力になりたいと思うのは、それほど身の程知らずの考えではないはずだ。
 人にはそれぞれ役割があって、本人も自覚しないままこの世界の役に立っている。正義の味方にやっつけられる悪党だってそうだ。
 けど、もっと自覚的でありたいと思いは、願いを超えて悲願に近い。自分の存在や、自分がしていることが確かに世界の役に立っていると実感したい。それがもっと頑張るための支えにもなる。
 何ができるか、何をしたいか、何を求められているのか。どこかいい部分で折り合いがつくといいのだけど。

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 今年もまた、7月14日がやって来た。
 年に一度の気になって仕方がない日。気になるけどどんな日か思い出せない正体不明の日。
 今日一日、何事もなく普通に過ぎていくのかどうか。
 遠い過去の記憶に関係がありそうな気がするのだけど、今年もやっぱり思い出せないまま過ぎていくのか。
 何か起こって欲しいような、何も起こらないで欲しいような。
 いつでも旅立つ心の準備はできているのかと、もう一度自分自身に問いかけてみる。


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