2008.5.3-

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 2008年7月12日(土) 「終わるのは縁ではなく関係。
                常に変化を受け入れること」

 縁に寿命はない。一度つながった縁は、存在が続く限り途切れることはない。関係性の形が変わるだけだ。
 関係性は常に変化するということを忘れてはいけない。始まった関係は必ず終わるし、終わりがあれば別の始まりもある。
 それを悲しむことはないけど、覚悟は必要だ。
 自分で何とかできることもあるし、できないこともある。
 変化を受け入れて、立ち止まらないこと。
 命の終わりもまた、変化の一つだ。そこでこの世界との縁が終わるわけではない。

 2008年7月11日(金) 「言葉は世界の半分。
                言葉なしに世界とつながれない」

 言葉を重ねれば重ねるほど言い訳じみてくる。
 だけど、黙っていては言いたいことも、大事なことも伝わらない。
 誠実に言い訳をすることは間違いではないと思う。
 理解を求めることは共有するということで、説明に耳を貸さない方が意固地で意地悪だ。
 誰にでも言い分はある。それは身勝手な言いぐさかもしれないけど。
 この世界の半分は言葉でできている。
 もう半分は言葉以外のものでできている。
 言葉を失うことは、世界の半分を失うことだ。
 言葉は人と人とを結びつけ、人と世界をつなぐ。
 私は最後まで言葉の力を信じたい。伝えるべき思いがあるうちは。

 2008年7月10日(木) 「人生は結果論。
                途中の間違いは笑い話になる」

 人生の間違いを謝って済ますわけにはいかないから、最後まで悪びれずに生き抜くしかない。
 やってしまったことは謝っても済まないのだから。
 人は失敗する。一度ならず、二度三度と。
 愚かというか、性というか。
 笑って済むこともあれば、済まないこともある。
 神様にジョークが通じるのかどうか分からないけど、間違った生き様はシャレでは許してもらえそうにない。
 人生は試行錯誤だから、何度でもやり直せばいい。とはいうものの、何事も程度問題だ。仏の顔も三度というし。
 何を持って間違いとするかは、自分が一番よく分かっている。誰に言われるまでもなく。
 なるべく失敗しないに越したことはないし、もし失敗してもそれを糧に成功に結びつけられればそれでいい。終わりよければすべてよし。
 人生もまた、結果論で語られるものだ。

 2008年7月9日(水) 「侮り難し。
               そう思って、謙虚であれ」

 侮りというのはほとんど何も生み出さないものだから、最もしてはいけないことの一つとして自分に禁じるくらいでいい。
 他人を馬鹿にする侮りというだけではなく、動物に対する侮り、生きることに対する侮り、天に対する侮り、宇宙に対する侮り、過去の歴史に対する侮りなど、人は無意識のうちに多くのことを侮っている。
 侮りがいけないのは、そこで判断停止になってしまうことだ。安心感が脳の動きを止めてしまう。
 大切なのは、すべてに対して一定の敬意を払うことだ。そして、判断を停止させないこと。
 こいつはダメな奴と決めつけてしまったところで評価が固まってしまって、それ以上その人間のことを見なくなる。そうではなくて、可能性を探り続けることが必要だ。
 深読みしすぎて落とし穴にはまることもあるけど、読みが浅くて痛い目を見るよりはましだ。
 賢くなり、偉くなるほど、それに見合うだけの謙虚さでバランスを取らなければならない。
 世界が見えるようになればなるほど、見えない部分に思いを至らせなければいけない。
 優越感に浸りたければ、謙虚さの質量で酔えばいい。偉さと謙虚さを併せ持てば最強だ。

 2008年7月8日(火) 「思いと行為の橋渡し。
               もっと遠くへ行くために」

 思いと行動は離れた島で、二つの島に橋を架けて地続きにするのが長年の悲願となっている。
 昔は、思いと言葉も離れていたけど、今はくっついて一つになった。
 悲願はやがて叶うものだと信じている。強い思いが消えない限り。
 思いと行為が一体となれば、もっと早く生きられるようになる。
 早さは距離を生み、遠くまで行ける。
 目指していたのは高みではなく、辺境だったはずだ。
 言動一致こそが前進のキーとなる。
 思いばかりが成長しても、どこへも行けない。

 2008年7月7日(月) 「心の広さと深さ。
               心の可能性」

 心の一部が死んでも、心は広大だから、他の部分で補って生きていける。
 脳細胞が日々死滅しながらも機能するのと同じだ。生きていけば心は死んでいく。だから、生きていけるとも言える。
 私たちは若い頃の繊細さや純粋さを失いながら成長していく。強さは鈍さでもある。
 打たれ強いだけでは駄目だ。ガードを固めるだけのボクサーのようなものだから。もっと攻防兼備でしなやかにならなければ。
 この世界に生きることに対して攻撃的であることが必要だ。攻撃は最大の防御とも言う。
 人間は脳の10パーセントとか30パーセントしか使ってないとされている。心も同じかもしれない。私たちは心の一部しか使ってない。だから、自分の心の可能性も分かっていない。
 心を動かすことはつまり感動するということだ。喜怒哀楽のすべては無駄じゃない。
 心も鍛えれば強くなる。過保護にすれば弱くなる。もっと心を外に晒してもいいのかもしれない。

 2008年7月6日(日) 「願い事は確認作業。
               自力でできることは自分で」

 願い事というのは、自分の力だけではどうすることもでないことを願うものだ。
 受験の合格だとか、恋人ができますようにとか、そんなことは神様の領域ではない。自分でなんとかしろって話だ。
 天は自ら助くる者を助くというのがすべてを言い表していると言ってもいい。天の部分を他人と入れ替えてもいい。
 頑張っている人間は周りが手をさしのべてくれるものだ。頑張っていない人間を見て、誰が助けてやろうと思うものか。
 そうやって考えてみると、神頼みというのはあるようでない。自力ではないないことで、人の力でなんとかしてもらう必要があることはそんなに多くないはずだ。多くの願望には客観的な正当性がない。
 ただ、願い事をすることで自分が欲していることを自覚できるという効果はある。自分の思いというのも、言葉にしないと案外分からないものだ。
 できることは自分でやらなければいけない。幸運や人の力を当てにしてはいけない。
 力がないのは仕方がないことだ。それよりも自分の力を出し切れないことに悔いが残る。
 全力を尽くすことが自分自身への免罪符となる。
 頑張ったけど駄目でしたと大きな声で言えたなら、神も笑って許してくれるだろう。

 2008年7月5日(土) 「幸せの向こう側で待つ自分。
               迷子の大人にならないために」

 大切なのは幸せの向こう側だ。
 夢を叶えることが目的じゃない。夢が実現した先の現実をどう生きるかが重要なのだ。
 目的もなく宝くじを買って、にわか金持ちになって我を失っていてはいけない。
 自分が本当は何をしたいのかが分かっていれば、そこへ至る仮の道ができる。
 目的地も決めずにただ闇雲に歩き回っているだけではどこにも着けない。
 人が目標としていることの多くは目標ではなくその手前だ。
 ビジョンのない夢は実現の可能性が低い。
 人にもらった幸せはお年玉のようなものだ。嬉しいけど当てにしてはいけない。
 結局のところ、人は自分で努力して手に入れたものでしか満足できないようにできている。
 やりたいことをやるのが基本には違いないけど、自分の最終目標が見えていなければ虚しさからは逃れられない。
 日々の時間は、未来にいる最良の自分に出会うために使われるべきものだ。
 なんでもいいからまずは目標を定めなる必要がある。その向こう側を頭に描きながら。
 自分が何をしたいのか分からないのが本当の迷子だ。迷子の大人にならないように。

 2008年7月4日(金) 「幸不幸は基準点の問題。
               マイナスとプラスはそのままじゃない」

 この世界の基本を晴れと思い込んではいけない。
 もしかしたら、雨が基本で、その合間に長く晴れが続いているだけかもしれない。
 人の基本は幸福なのか、不幸なのか。
 幸福感があるから不幸がつらいのか、不幸があるから幸せを感じることができるのか。不幸な状態を克服して幸福があるのか、もともとあった幸福を失ってそれを取り戻そうとしているのか。
 夜と昼はどちらが正常なのか、一人でいることと二人でいることとどちらが本来の姿なのか。
 基準点をどこに置くかで物の見方や感じ方は違ってくる。よくあるたとえで、半分飲んだジュースが入ったコップを見て、もう半分しかないと思うかまだ半分あると思うかで気持ちは変わるというのがある。
 不幸をマイナスと思うのがそもそもの間違いだとも言える。
 生きることが悲しみだとすれば、それがゼロで、嬉しいことや楽しいことはそのままプラスとなる。喜びは悲しみの補てんではない。
 この世界の本質は水だから、雨の日が普通で晴れの日はマイナスかもしれない。
 基準線を変えるだけで私たちは今のままでももっと幸せになれる。

 2008年7月3日(木) 「際立つ一面がすべてじゃない。
               別の面に可能性がある」

 人は一番目立つ面で判断されることが多いけど、普段表には出ない面がたくさんあって、ときには隠れた特技を持っていることもある。
 人は一面だけでは成立しないものだ。どんな人間も多面体であることを前提にして見ないと、判断を誤る。
 特に、尊敬だとか軽蔑といった際立った感情を抱くときは注意が必要だ。その面がすべてではない。

 人には必ず裏表がある。なければおかしいし、もし本当に裏がないとしたら、それは薄っぺらすぎる。
 裏表はあっていい。ただし、裏が表と比べて汚すぎるのは問題だ。
 歴史上の偉人や人気者でも、そういう人間はけっこう多い。それは、みんな騙されやすいということも意味している。
 したたかな人間と気づいていてあえて騙されるならいいけど、裏の汚さに気づかずもてはやすのは馬鹿げている。

 人間社会は本音だけではつき合えないし、心の声が全部聞こえたら社会は成立しない。
 隠し事があったり、誤魔化しや嘘で上手く折り合っている部分もある。
 正直が必ずしも美徳だとは思わない。裏表を使い分けることは人の知恵でもある。
 今よりももっときれいな世界になって欲しいとは思うけど、人間の本質が完全にきれいになることはない。実現可能なことがあるとすれば、みんながきれいさを演じる努力をする社会だ。
 善良であるということは実はそんなに難しいことじゃない。たとえば、店に入って誰もいなくても店の物を取らないことが善良さだ。
 人は悪もなせるけど、なさないという選択肢も持っている。いろんなことができるけど、しない自由もある。

 得意なことをやってみんなに勝つのは気分がいい。けど、不得意なことをしてあえて負けるという人生があってもいい。
 私たちにはたくさんの可能性があって、自分では気づいていない面もある。自分の裏面というものを、もう一度意識し直してもいい。そこにあらたな可能性が眠っている。

 2008年7月2日(水) 「小さき者のささやかな戦い。
               地球を救うヒーローなんかじゃない」

 世界で起きている様々な問題に目をやると、自分はなんてのんきに暮らしているんだろうと思う。
 けど、自分がその場に乗り込んでいって首を突っ込んで何がどうなるわけではない。地域紛争を止められるわけでもなく、飢餓の子供たちに食料を分け与えられるわけでもない。
 ただし、何もできないからといって見て見ぬふりはよくない。
 まず第一になすべきことは、知ることだ。
 第二に同情すること。それは、上から見下ろして憐れむというのではなく、文字通り情けを同じくすること、つまりその人の立場に立って物事を考えてみるということだ。
 その上で、自分の戦いを戦うことが最も大事なこととなる。
 自分勝手で独りよがりなのがいいのではない。まずは自分の責任を全うしなければならない。
 私たちはヒーローでもヒロインでもない。できることといえば、隣同士で助け合って支えることくらいだ。
 自分たちで地球を救えるなどと思い上がっちゃいけない。せいぜい地球に迷惑をかけないようにすることを考えるべきだ。
 人間はこの世界や天を畏れることを忘れてしまった。少し賢くなっただけで、偉くなったわけでも、大きくなったわけでもないのに。
 人は自分が小さき者だということをもう一度思い出す必要がある。
 謙虚さを取り戻して心を入れ直さないと、驕る心が身の破滅を招く。人類の単位としてもそうだし、個人としてもそうだ。
 自分の戦いは、誰かをやっつけるためのものではない。駄目な自分の影と戦って打ち負かすための戦いだ。
 悪魔は自分の中にいる。飲み込まれたら負けだ。

 2008年7月1日(火) 「舞い、歌い、書く。
               生きることは奉納すること」

 書くことは祈りであり、奉納だ。
 今の私に差し出せるものはこれくらいのものだから、誠実に、真剣に、心を込めて精一杯書かないと、罰当たりになる。
 力不足は言い訳にならない。
 人にはそれぞれ、奉納すべきものがある。
 それは、天との約束を果たすこと。

 2008年6月30日(月) 「戻らない旅。
                それでも旅は終わる」

 当てのない旅の終わりは、行き倒れ。
 そこが到達地であり、目的地だったことになる。
 旅を終わらせないためには死なないことだ。漂白の旅人は死なないことだけを考えればいい。
 出会いと別れを重ねて、進む道がある限り、先へ向かうだけ。
 旅はやがて終わる。旅人でなくなるときが来る。
 おみやげは経験と思い出。
 帰るべき家はない。辿り着いた先に新しい家を建てることができたなら……。

 2008年6月29日(日) 「全勝なんてしなくていい。
                99敗しても1勝できることが大事」

 人は他人よりも劣った部分を、別の何かで補わなければならない。
 他人と一緒である必要はまったくないし、人並みなんてものも目指さなくてもいい。それでも、負けっ放しでは悔しいし情けない。
 他人よりも優れた部分や勝てるものを持たなくてはいけない。なければ探して見つけなければならない。
 その一点で勝てさえすれば、卑屈にならずに踏みとどまれる。
 他人に負けるところではなく勝てるところにいればいい。それが自分の居場所だ。

 2008年6月28日(土) 「マイナス要素は幸せの種。
                ゼロこそ幸せの本質」

 人生が簡単ということは選択肢が少ないということだ。それは幸せなことだろうか。
 人生が難しいと感じるのは、選択肢がたくさんあるからだろう。それは不幸なことではなく、むしろ幸運なことだ。
 最高に美味しいラーメンが一種類しかないラーメン屋と、たくさんのメニューがあるファミレスと、どっちが幸せになれるかという話に似ている。
 どんなに好きなことでも、一生一つのことをやり続けるのはつらいものだ。
 その道のプロになれなくてもたくさんの趣味を持つことはいいことに違いない。

 人生の優劣は、主観と客観で決まる。どちらを優先するかによっても、満足と不満は変わってくる。
 人は主観だけでも客観だけでも幸せにはなれないものだから、あまり極端に走らない方がいい。両方を満たす方向性が必要だ。
 不満を一つひとつ打ち消していく行為が喜びなわけだから、不平不満と上手くつき合っていくことも大切だ。
 人生はゼロにプラスを積み上げていくのではなく、マイナスをゼロに戻すことが主体だということを忘れてはいけない。マイナスこそが普通の状態で、ゼロになればすでにプラスなのだ。
 生きていることのマイナスを理解して自覚できる人間だけが幸せになれるといってもいいのかもしれない。

 2008年6月25日(水) 「妥協はあきらめることじゃない。
                努力目標を定めることだ」

 生きることは妥協だ。だから、何をもってよしとするかを、自分できちんと決めなければいけない。
 あちらを立てればこちらが立たずという状況の中で、どっちを立てるか。
 私と仕事とどっちが大事なのと詰め寄られて、どっちも大切だなどというのは答えになっていない。どちらかがより大事なのかを表明する必要がある。曖昧にしておいてもいいことはない。
 物事には必ず優先順位があって、それを自覚できていないから状況に流される。優先順位を分かった上で状況に応じた選択をすれば、それは臨機応変ということになる。優柔不断とは別のものだ。
 自分の中の何を犠牲として差し出せるかということでもある。譲れないものは人それぞれ違う。その中で人はどうにか折り合いをつけながら生きていくより仕方がない。
 何もかも思い通りにいくことはあり得ない。それだけはもう、深く納得するしかないのだ。
 若さは妥協を否定するけど、妥協は必然であって敗北ではない。
 現実の中で最大限の努力をすることは、妥協点を向こうへ押しやるということだ。やるべきことをやっている人間だけが、妥協をよしとできる。

 2008年6月24日(火) 「この世界に対する恩返し。
                たくさんのものを受け取ったから」

 この世界への愛は自分の中で確認できた。
 次はこの世界に対して何ができるかを考えたい。
 こうして言葉を発することも、恩返しの一環のつもりではあるのだけど、他に何かできないものだろうか。この世界が喜ぶようなことを。
 この世界を形作っているのは人間だから、やはり人のために役立つということになるのだろう。
 自分にしかできないことというのにこだわりすぎているかもしれない。
 今すぐできることから始めるべきだ。やれることを続けながら、毎日考えていればそのうち見つかるだろう。
 まずは思いを本物にしなければいけない。

 2008年6月23日(月) 「響かない言葉。
                明日まで待つ」

 自分の言葉が自分の心に響かない。そんなときもある。
 それでも無理矢理言葉を自分にぶつけていくか、沈黙するか。どちらがいいのか、分からない。
 問題なのは言葉の方なのか、心の方なのか。
 自分の言葉を取り戻すまで、少し待ってみる。

 2008年6月22日(日) 「日記もチャンドラー方式。
                書かないより何もなしと書く方がまし」

 レイモンド・チャンドラー方式。
 それは、毎日決めた時間、書くための場所に座ること。書けても書けなくても、そこに座って、他のことをしないこと。

 ルイ16世は、バスチーユ監獄が陥落した日の日記に、Rienと書いた。
 特になし、と。
 これはずっと厭世観から来ている深い絶望の言葉かと思っていたら違った。錠前作りと狩りにしか興味がなかったルイ16世は、この日も狩りに行っていて獲物がとれなかったから、何もなしと記録しただけだったのだ。フランス革命も彼にとっては他人事だった。
 現実の種明かしは、往々にしてアンチドラマチックなものだ。
 けれど、一年の中で一日、私の中で正体不明の日があって、それがフランス革命が始まった7月14日という日付だ。
 毎年感じる胸騒ぎの要因がここにあるのかないのか。
 ずっと恐れていた鎌倉の地に行っても何もなかったから、私の予感など当たらないかもしれない。

 日記は書かれるべきストーリーではない。
 けれど、個人的な日記でさえ、読まれることを前提として成り立っている。
 自分の死後、家族にかもしれないし、あるいは未来の自分に。
 書き捨て御免では済まない部分もある。

 レイモンド・チャンドラー方式は、そろそろ時間切れとなる。
 書けても書けなくても、書こうとして机に座ることが大事。
 それは生活のいろいろなところでも応用できる。
 自分のためにやるべきことは、感情を抜きに習慣化することだ。
 まったく何も書かないよりも、ルイ16世のように何もなしと書く方が意味がある。
 筆の入っていない白いキャンバスと、一面白色を塗ったキャンバスは違うものだ。

 2008年6月21日(土) 「求めるべきは救いではなく慰め。
                救いは幻想迷宮」

 この世界はありとあらゆる慰めに満ちているけど、本当の救いというものは存在しない。宗教も、哲学も、芸術も、恋愛も、仕事も、家族も、救いにはならない。数千年の人類の歴史がそれを証明している。
 救いがあるとすれば、それは死の先だ。完全なる無だけが真の救いとなり得る。あの世があれば、それもまた救いではなく慰めに過ぎない。
 だから、私たちは救われる必要などないのだ。最初からないものを探しても仕方がない。
 慰められながら生きていけばそれでいい。慰めには事欠かない。どんなにつらくて厳しくても、それを上回る慰めがある。
 慰められたいと思うことは、決して間違いではないし、恥じることでもない。逃げでもない。そんなに強がらなくてもいいし、少しくらい享楽的になってもかまわない。自堕落になって自分を守ることも必要だ。
 大事なことは正しく在ることではなく、生き抜くことだ。清らかに生きて、途中でポッキリ折れてしまうのはもったいない。もっとしなやかでなければ。
 わざと偽悪的になることはないけど、人間的であっていい。天も地も許してくれる。
 慰めではなく救いを求めようとすると、必ず行き詰まって生きるのが苦しくなる。生きることは楽しいことだと自分で見つけなければいけない。
 人間を30年も40年もやっていたら、そろそろ生きることのプロになってもいい頃だ。その自覚が必要だろう。
 いつまでも意味だ救いだなんて素人くさいことを言ってだだをこねていてもしょうがない。
 決められたルールが理不尽であろうと、ジャッジが不公平であろうと、障害物サバイバル競争に勝ち残るより他に道はない。いつかこのゲームの主催者が降りてきて、君の勝ちだと宣言してくれるだなんて甘い夢を見ていちゃいけない。

 2008年6月20日(金) 「今日の中の楽しいことは全部終わった。
               もう楽しさは明日にしかない」

 毎日の楽しみというのが人それぞれあるはずで、そのためには今日を終わらせて、明日へ行かないといけない。
 今日の楽しみはもう全部終わってしまった。だから、もう明日へ向かおう。
 書くことも楽しみの一つになればいいのだけど、なかなかそうはならない。楽しいこともあるけど、楽しいだけじゃない。
 また明日だ。今日はここまで。

 2008年6月19日(木) 「ロマンチックフィルターを通して、
                8mmフィルムの中の日常を見るように」

 主観で見る毎日の生活は、ロマンチックでもドラマチックでもないけれど、頭の中でセピア色のフィルターをかけて客観的に見てみれば、何気ない日々の暮らしのワンシーンも、切なくて愛おしく感じることだろう。
 リアルタイムを、思い出を振り返るのと同じ目線で見てみれば、今生きているこの瞬間さえも懐かしい。
 隣にいる人の横顔、部屋の中の生活音、机の上。窓の外に広がる変わらない風景、日だまりに丸まる猫。公園から聞こえる子供の歓声や鳥のさえずり。写真立ての中の笑顔、ホワイトボードの買い物リスト、読まれるのを待つ本の山。
 日常は案外、ドラマチックかもしれない。
 帰りに薔薇の花を一輪買ってこようか。

 2008年6月18日(水) 「生きることは歌うこと。
                歌うように生きるのだ」

 生きることは、下手なラブソングを歌うようなもの。
 照れくさくて、格好悪くて、いつだって最後は泣き笑い。
 人生は、この世界に捧げる愛の賛歌だ。
 鐘が一つでも二つでも、最後まで心を込めて精一杯歌おう。
 笑われたっていい。歌わないよりよっぽどいい。
 届けたい思いがあるのなら、歌うように生きるのだ。

 2008年6月17日(火) 「可能性の試行錯誤。
                白地図を埋める作業」

 古いものは少しだけ残ってるから価値がある。たくさん残っていたらありがたみがないし、進歩していけなくなってしまう。
 過去を打ち消すことは前進のための必然だ。
 たとえば、日本中の城を壊してしまった明治新政府には腹が立つけど、仕方がないことだったと許すしかない。新しい時代のためには、古い伝統や歴史は足枷になる。

 個人レベルで考えても、私たちは過去の自分の大部分を否定したり打ち消したりすることでしか変われない。昨日までの自分を守っていては、新しい自分になれない。
 新しい一日には新しい自分で臨まなくては。新品の一日に古い自分で生きるのは、昨日はいていたパンツをそのままはいているようなものだ。
 止まってしまうことに対して、常に危機意識を持つ必要がある。
 私たちが今日を生きるのは、可能性の余白を塗りつぶすためだ。あらゆる試みをやり尽くしたあとにこそ答えがある。可能性が残っているうちは、答えは100パーセントにならない。
 変わることは必要不可欠なことだ。成長だとか良い方に進歩するとか、そんなことは二の次だ。
 過去のすべてを否定する必要はないけど、もっと否定すべきだと思う。
 どれだけ否定しても否定しきれずに残ったものだけが本物なのだろうし、そうやってできた結晶の集まりが宝になる。
 昨日までの自分を信じすぎてはいけない。新しい一日は、古い自分を疑うことから始めるべきだ。

 2008年6月16日(月) 「限界を超えていけ。
                やがて空も飛べる」

 毎日分かっていることは、もっとできるはずだということ。全力を尽くせていない。
 腕立て伏せ20回が限界なら、21回目をやるということだ。体が重たくなって、腕がプルプル震えて、もう上がらないとなったとき、あと1回やろうとするか、そこでもう無理だとあきらめてしまうかが、やがて大きな差となる。頑張るというのはそういうことだ。
 限界を超えていこうという努力なしに成長はない。能力の範囲内でやれることをやってるだけでは、自分以上にはなれない。
 プラス1回、プラス1歩が大事なのだ。
 また精神論的になってしまうけど、能力の限界を超えていけるのは気持ちしかない。やれるかやれないか以前に、やろうとするかしないかという部分だ。
 自分を誉めることで伸ばすのはいいけど、自分を甘やかすことでよくなることはない。

 まずは限界までいかないと始まらない。そこまでは習慣でいくようにしないと。毎日の決まった生活パターンの中に、あと一つプラスアルファをねじ込むこと。
 難しいのは最初から分かっている。他の誰のためでもない、自分のためだ。
 自分を高めて何がどうなるという悪意のささやきに耳を貸してはいけない。高みに登ろうとするのは本能のようなものだ。
 高いところからこの世界を見れば、違った景色が見られる。低いところからは見上げるだけだ。
 高みを目指す人間は、やがて空も飛べるようになる。心の翼を手に入れて。

 2008年6月15日(日) 「賢さは幸せにつながるか否か。
                賢いと思い込んだら負け」

 愚かであるよりも賢い方が幸せかといえば必ずしもそうではない。ときに小賢しさが、自分も、周りも不幸にする。
 自分は人より物事を理解していると思い込むのは危険だ。特にそれが誰かと比較しての相対的な聡明さである場合、よほど気をつけないと足下を掬われる。

 誰も幸せにしないような賢さは引っ込めるべきだ。
 たとえば、地球温暖化を阻止するために二酸化炭素を減らそうという運動に対して、ちょっと賢い人間は、二酸化炭素が温暖化の原因と決まったわけじゃないなどと水を差すようなことを言う。自分では人よりも物が見えていると思っているから知識をひけらかさずにはいられない。
 けど、そんなことを言って誰が幸せになるというのか。たとえ実際、二酸化炭素が温暖化の原因でなかったとしても、みんなが地球を守ろうとその気になっているのだから、黙って協力すればいい。間違ったことをしてるんじゃないんだから。
 みんなが幸せになるための盲信なら、それを否定すべきじゃない。
 横やりを入れるような小賢しい人間は、学生時代みんなで文化祭を楽しもうといってるときに、そんな下らないことに自分は関わりたくないといって協力しないようなやつだ。私自身がそういう学生だったから、その手の小賢しい人間の駄目なところはよく分かってる。
 みんなで幸せに向かうために愚かになることの大事さを今は知った。
 賢さ自体は決して悪いものではないし、必要不可欠なものだけど、小さな賢さの中に収まってしまってはいけないのだ。真の賢さを目指すなら、大愚を突き抜けた賢明さに至らなければならない。

 それでも、賢さは人を幸せにすると私は信じている。愚かなままでは世界はよくならない。
 ただ、全員が賢くなれば何の問題もなくなってみんなが幸せに暮らせるかといえば、そんな単純な話でもない。
 この世界の全員が教授でも上手くはいかないし、全員が高僧でも世の中は回っていかない。全員が天才でも、全員が善人でも、全員が完璧な人間でも、世界は幸せ一色になることはない。
 人が賢さを目指すのは、現状に満足していないからだ。もっといい世界があるのではないかとみんな感じている。その方向性自体は正しいはずだ。
 どこまで聡明になってもキリはないし、果てもない。私たちは永久に満足することはないだろうけど、それでも進まずにいられない。
 どの程度の賢さが一番幸せなのかも難しい。ほどほどの賢さと、突き抜けた賢さと、どっちがいいのかもよく分からない。
 言えることは、賢さというのは一番上位に来る部分ではないということだ。能力の一つに過ぎなくて、それを使ってどんな結果が出せるかが一番重要なことだろう。
 ゆめゆめ自分を賢いだなどと思わないことだ。そんなことで安心したり優越感に浸ってる場合じゃない。

 2008年6月14日(土) 「報いと感謝のシステム。
                幸せはありがとうという言葉」

 人は誰もが皆、幸せになりたいだけだ。
 独裁者も、善良な市民も、犯罪者も本質的な違いはない。
 ある部分では共存できるし、譲れないところでは争いが起きる。それぞれが別の幸せを求めて進もうとするから、ぶつかるのは当然のことだ。幸せは必ず矛盾する。
 皆が幸せになることなんてあり得ない。けど、逆に言えば全員が不幸になる可能性もない。幸福は誰かの不幸の上に成り立っているようなところがあって、見方を変えれば不幸は誰かの幸せを支えている。
 100パーセント幸せな人間はいないし、100パーセント不幸な人間もいない。誰もが幸せと不幸を分かち合っている。

 幸せは、皆で分け合った方がより多くの人に行き渡る。ただしそれは、平均に均すということではない。多く持つ者が持たない者に少しずつ分けるということだ。
 1億円持っている人は1千万円持っている人に1千万円あげて、1千万円持っている人は100万円あげる。100万を持っている人は10万持ってる人に10万、10万の人は1万の人に1万といったように、痛みを伴わない範囲で分け合うというのはどうだろう。1億円持っている人が1万円しか持たない人全員を助けて自分も10万円の人になってしまったら、不幸の共倒れだ。
 共産主義は敗北することが分かっていた幻想だ。全員が同じなら不満も出ないなんてことはあり得ない。
 現在は格差社会だといって、格差の是正をと盛んに言っている。それは学校の運動会で、手をつないで並んでゴールをさせるくらい下らないことだ。
 競争社会において格差こそが明日への原動力になるのに、それを否定してしまっては現在の自分たちの根本を危うくしてしまう。
 むしろ問題は、成功者に対する報いが少なすぎることのようにも思う。単純に言って、持っている者が感謝されなさすぎる。
 100万円しか税金を納めていない人間と、1億円を納めている人間と、1円も納めていない人間の待遇が同じというのはおかしい。高額納税者に対して国は何もしない。感謝の言葉一つない。それじゃあ、成功してもお金を持っても気持ちよくない。誰にも感謝されないから、頑なになり、自分の金を守ろうとする。
 税金をたくさん納めた人間は特別階級にしてもいいくらいだし、何か厚遇されてもいい。表彰するとか、お礼を言うとか、何かできることがあるだろう。

 分かりやすいように金にたとえたけど、幸せというのも同じことだ。持っている者が持たざる者に分けることで、全体としての幸福値は上がる。分けようと思うのは、メリットがある場合だ。分けて損したと思えば、今ある幸せを守ってしまう。
 この世界をよりよくするためのキーワードは、感謝だ。感謝というシステムを導入することで、多くの問題は緩和するはずだ。
 過去の日本においては、貧乏という状況が感謝というシステムを自然に生み出していた。おなかが空いて食べられることに感謝し、物が不足する中で今あるものに感謝して大切にした。不幸なことがたくさんあったから、神頼みをして、願いが叶えられると神に感謝した。豊かになることで物に対しても他人に対しても感謝することを忘れてしまった。
 今更貧乏には戻れないから、豊かさの中でどうすれば感謝の気持ちを持てるかといえば、それはもう子供の時の教育しかない。そのためには、国として神という概念をもう一度取り戻す必要があるかもしれない。戦争に負けたことで、日本人は自虐的になりすぎて大事なものを否定してしまった。戦前の教えにもよいことはたくさんあったのに、まとめて捨ててしまった。

 人は報われれば頑張れる。
 人の究極の幸せは、感謝されることだ。
 まずはありがとうと言うべき人にありがとうというところから始めよう。それが人に幸せを与えることにもつながる。

 2008年6月13日(金) 「素材と調理。
               よき料理人になること」

 思想や論理や才能や美貌、それらは食材であって料理ではない。
 サラダや刺身も料理といえばそうだけど、食材を生かすも殺すも調理次第で、せっかく最高の食材を持っていても下手に料理してしまえば台無しになる。
 才能があるというだけでは高級食材を持っているというだけだ。
 料理が人の幸せのためにあるように、哲学や芸術や芸能はサービス産業だ。その程度のものというのではなく、そうでなければならない。
 高尚でも低俗でも、素材と供する対象に合わせて最高の調理をすることを心がけるべきだろう。
 才能なんてものはやっかいなシロモノだ。たとえば野球の天才を与えられた人間は、半ば強制的に一生野球だけをすることを義務づけられる。歌手でも、小説家でも、タレントでもそうだ。華やかな成功が必ずしも幸せというわけではない。少なくとも、うらやましいと思うほど実際は甘い生活ではない。

 人は誰しも、自分という素材を持っている。高級だったり、ありふれていたり、人より劣っていたり、事情は人それぞれだけど、共通しているのは今ある素材でなんとかするしかないということだ。ないものねだりをしてみても仕方がない。
 美味しくない食材でも、工夫して調理すれば美味しい料理になる。
 まずは素材としての自分を見極めることだ。ザリガニが伊勢エビを夢見てもそうはなれない。葉っぱだって天ぷらにすればたいていは美味しくなる。
 自分を生かすも殺すも自分次第。良い調理人は、素材と自分の腕を知っている。
 私たちは誰でも、何者かになれる。創意工夫と精進を続ける心意気さえあればという但し書き付きで。

 2008年6月12日(木) 「精神論と狂気の必要性。
               平常心でやれることは当たり前のことだけ」

 正論が解決してくれることは少ない。
 ものごとはたいてい、なるようになって、収まるところに収まるようにできている。
 理屈や理論じゃない。
 成り行き任せにしないで、抵抗するすべとして何を掲げればいいかといえば、それは信念と情熱だろう。
 結局のところ、思いの強さでしか状況は打開できないのだと思う。
 たいてい思惑通りにはいかないし、何もしなければ状況に流される。
 思いを具現化するためには、大変な精神エネルギーが必要だ。気持ちと行動の溝をどうやって埋めていくかということが永遠のテーマとなる。
 みんな、やるべきことは分かっている。分かっているけどやれないだけで。やれないことをどうやってやるかが一番難しいところであり、解決すべき部分に違いない。
 物事を成し遂げるために狂気をもってするしかない。
 馬鹿にならなければ人並み以上のことはできない。
 自分にはできないとあきらめてしまう前に、もう少し抵抗できるはずだ。
 あきらめないと口で言うことは簡単だけど、それを態度で示すことができている人は少ない。
 がむしゃらとか、しゃかりきとか、格好悪いくらいの頑張りなしに何ができるというのか。

 2008年6月11日(水) 「机上の空論を実践で具体化すること。
                想像力と経験値の両方必要だ」

 フィールドワークをデスクワークでサンドイッチすることが、理解を深める一番効率的な方法論だと思う。
 本を読んで勉強するだけでは分かった気になるだけで、本当には理解していない。実際に自分が現場に行って、見て、感じて、経験しなければ分からないこともたくさんある。
 けど、いくら百聞は一見にしかずといっても、見ただけで終わってしまったら理解の半分でしかない。もう一度持ち帰って復習する必要がある。

 昔の私は、経験至上主義を嫌っていた。物事の本質を理解する力があれば、経験など必要ないとさえ思っていた。
 今は違う。自分が経験するのとしないのとでは感覚的な部分でも理解度に決定的な差が出ることを知った。それはたとえば、テレビの映像で見る打ち上げ花火と、現地で体感する打ち上げ花火くらい違う。
 本質を理解する力があるというなら、尚更フィールドに出ることだ。その方が断然手っ取り早い。
 デスクワークをしたらフィールドワークに出て、外から帰ってきたらまたデスクワークをする。そうやって知識と経験を折り重ねていくことで、この世界のありようが分かってくる。
 知識や経験は無駄にはならない。その場で役に立たなくても、いつかどこか思いがけないところで役立ったりする。
 片輪走行ではよろめいてしまって目的地に着けない。知識と経験の両輪が同じ大きさ、同じ速度で回転して、初めて真っ直ぐ進む。
 それは、練習と実践に置き換えてもいい。
 理解が深まれば、フィールドワークもデスクワークも、両方楽しくなる。

 2008年6月10日(火) 「許してもらうためじゃなく、
                先へ進むための謝罪を」

 謝るということは大事なことでもあるし、難しいことでもある。
 最近よくテレビで謝罪の様子を目にする。謝り方が下手なところはつぶれていくし、上手に謝るところは危機を乗り越える。
 以前、石原軍団の若手の徳重聡が、撮影中に車で見学者に怪我をさせてしまったことがあった。そのとき渡哲也は社長として被害者の入院先へ行って、病室に入るなり土下座をしたそうだ。
 芝居がかっていると言われればそうだけど、謝るというのはそれだけ捨て身にならないといけないということを教えられた気がする。
 ピンチの次にチャンスありというのはスポーツの世界に限ったことではない。ピンチはチャンスに変えられる。
 雨降って地固まるという言葉もある。恋人でも夫婦でも友達でも、ケンカしたらそれで終わりじゃなくて、仲直りをすれば絆がもっと深まるということもある。
 人はよく反省をしろと言う。目上の者が下の者に言いがちな言葉だ。でも、反省したら負けだと私は思う。負けというのは言葉が違うかもしれないけど、反省する暇があったら対策を考える方が先だ。
 まずは謝って、次に何をすればいいのかを考えなくてはいけない。どうやっても償えないことは、許してもらおうとせず謝るしかない。それから何かできるはずだ。
 まあしかし、謝るということは難しいことだ。謝らなければいけないような状況に陥らないことがもちろん一番いい。

 2008年6月9日(月) 「人は単独では存在できない。
               関係性の中で人は成立する」

 街を歩いている一人ひとりに家族や関係者がいて、ドラマがあって、人生があるのだと、あらためて思う。
 人は一人では生きられないという意味は、人の助けなしには生きていけないということではなく、他者との関係性抜きには語れないということだ。
 天涯孤独の人間にも、少なくとも母親と父親がいて、それに連なる係累が存在している。無人島や山奥で暮らすのでもない限り、どうやったって他人との関わりは生まれてくる。店で物を買うことだって他者との関わりだ。

 人と関係を結ぶということは、それに伴って相手の関わりともつながるとことを意味する。
 一番分かりやすい例が結婚で、相手の両親だけでなく兄弟や友達、親戚など、関係が一気に広がる。
 仕事をすれば職場での関係が生まれ、何か趣味を見つけて始めればそこからもまた関係ができてくる。
 自分では意識してないところで、人はたくさんのつながりの中にいる。時間軸でいえば、過去におけるつながりもあるし、前世などと言い出したらとりとめがない。
 たとえば父親の関係の人にとってみれば、自分は誰々のせがれということになるし、兄弟姉妹がいれば、誰々ちゃんのお姉ちゃんといったように、自分の存在というのはひとつの独立体というだけではなく、関係性の中で認識されている部分も多々ある。

 東野圭吾の小説『手紙』は、犯罪者の兄を持つ弟がどういう目に遭うかということを描いた作品で、あれは考えさせられるところが多かった。
 犯罪加害者は一人の被害者を生むだけではなく、被害者の関係者も被害者にし、加害者の関係者をも被害者にしてしまう。
 昔なら、一人が何か間違いをやらかすと、お家取りつぶしだったり、一族郎党皆殺しになったりもした。五人組なんていう連帯責任制度も、今でこそ希薄になったけど、その精神は消えていない。
 自殺も自分を殺すというだけではなく、両親や多くの関係者も殺すに等しい行為だ。

 私たちは誰も一人ではない。精神的にいくら孤独だと思っていても、自分一人で責任を取ることなどできない。
 自分という存在は、単独では成立し得ないのだと思い知るべきだ。自分というものをもっと拡大解釈しないといけない。関係性のすべてが自分なのだと。
 関係者すべてに責任があると思えば、そうそう無責任なこともできなくなる。
 あらゆる物体は、有機的なつながりによって存在している。人間も同じだ。他者との友好的なつながりによって自分というものが平和的に成り立っている。
 関係性のバランスが崩れれば、自分もまた危うくなる。
 他者との関係を大切にすることが、自分を大事にすることにもつながる。
 それは、道を歩いているすべての人にも言えることなのだと自覚したい。

 2008年6月8日(日) 「信じることで守りたい。
               でも信じるだけでは守れない」

 懐疑的であることで身を守るよりも、信用することで友好的な関係を築きたいというのはある。
 けど、何でもかんでも信じてしまうことが正しい姿勢だとは思っていない。信じる者は救われることもあるけど、信じることで足下を掬われることもある。
 大事なのは、自分の感覚を研ぎ澄ますことだ。信じるに値しないものに対しては徹底的に拒絶することも必要となる。
 だまされる方が悪いというのは、残念ながらその通りだ。不幸になるのは自分にもその要因がある。
 最終的に自分の身を守れるのは自分しかいないのだという覚悟を持って毎日を過ごさないといけない。
 被害者になってから文句を言っているのでは遅すぎる。
 誰もが何らかの形で守られているものだけど、それも絶対ではない。
 意味なく理不尽な災害や不幸は誰の身にも起き得ることだ。
 お人好しなだけでは生き残れない。
 自分を信じ、人を信じ、世界を信じる。それが基本には違いない。
 その上で自分を守りきることもまた義務の一つだ。
 もし、守れなかったときは、清々しく笑っておしまいにしよう。
 恨みや未練をこちらの世界に残していかないように。

 2008年6月7日(土) 「陽気な馬鹿になろう。
               楽しんだ方が勝ちという勝負だから」

 無意味なこともあるし、無駄なこともある。この世界のすべてに価値があるなんて論理は、こじつけの屁理屈だ。無意味なものもなければ、世界は息苦しくて仕方がない。
 私たちは無駄を積み重ね、意味のない日々を過ごしながら、一粒の結晶を生み出す。アコヤ貝の中の真珠のように。
 一生のうちに何度か、ものすごく嬉しいことや感動することがあって、それを経験するためなら100年の無意味な毎日にだって耐える価値がある。
 生きる意味なんて追求しても疲れるだけだ。
 そんなことをして何の意味があるんだと問われたら、楽しければそれでいいのだと答えればいい。
 生きることは下らなくて面白い。テレビのバラエティー番組のように。
 無意味なものをどれだけ楽しめるかで、生きることが難しくなったり簡単になったりする。人は楽天的な方がいい。
 苦悩の天才と陽気な馬鹿と、勝負となればより楽しんだ方の勝ちだ。
 小賢しい人間ほど無意味さにつぶされてしまう。
 意味なんてやつは蹴飛ばして先へいこう。楽しいことはきっとこの先に待っている。
 すでに知ってしまった昨日より、まだ知らない明日の方にドキドキとワクワクがある。

 2008年6月6日(金) 「間抜けな言い訳。
               でも今日は寝たい」

 時間がないと口にするのは、自分は優先順位も分からない間抜けだと宣言するに等しいことだけど、今日は本当に時間がない。
 断想日記を書くよりも少しでも寝ることを優先させたい。
 だから、また明日。

 2008年6月5日(木) 「負けを認める前に逃げること。
               知らない広い場所が最高の避難所だ」

 自分自身、追い込まれた気持ちになったときは、狭いところに逃げ込むのではなく、広い場所に逃げないといけない。
 籠城戦は身を削るだけで、たいてい最後は負ける。負けはしなくても勝ちはない。
 思い切って野戦に持ち込めば、わずかでも勝てる可能性が出てくるし、逃げ切れるかもしれない。
 どうにもならない状況になってしまったら、部屋に閉じこもるのではなく、広い世界へ出てしまうのだ。単純に言えば、国外逃亡だ。
 言い古されたことだけど、広い世界を見れば自分の悩みなど小さなことに思える。
 戦わなくてもいい。逃げればいいのだ。ただ、逃げる方向と場所を間違えてはいけない。
 進退窮まて、うずくまってしまうのが一番よくない。

 大事なのは、自分の知らない世界を知ろうとすることだ。
 未知のところにこそ自分の可能性もある。
 変わらない日常の毎日の繰り返しの中では、なかなか自分の可能性を見いだすことはできない。
 自分が知っている世界など、ごくごく狭いものだ。
 既知の外に広大な未知の世界が広がっている。
 ノックをすれば扉を開けてくれる。
 一歩踏み出せば新たな世界が迎えてくれる。
 遊びでも趣味でも仕事でも旅行でも、人でも店でも物でも、とっかかりはどこにでもある。
 急にサーフィンを始めてもいいし、お金をかけないなら山登りでもいい。フリークライミングとかダンスとか、日常に近い場所に知らない世界がある。
 面白いものが見つからなければ、見つかるまで探せばいい。
 時間はないと思えばないし、あると思えばある。追い込まれたときこそ、時間はあるものだ。
 未知の世界こそが最良の逃げ場所だ。そこが戦う場所にもなる。

 2008年6月4日(水) 「正しい方向性のエゴを。
               異星人に自慢できる地球であるために」

 最近、地球環境がどんどん悪化していて、このままでは駄目になってしまうという論調で語られることが多い。けど、それは単に人間にとって都合が悪くなっているというだけのことで、地球そのものが駄目になっているわけではない。
 そのへんの論理のすり替えはずるいし、間違っているし、気にくわない。
 地球は人間さえいなくなれば、50年もすれば元に戻る。
 人間がいなくても、環境は破壊されるし、大きく変化していく。これまでの長い歴史を見ても、氷河期があり、干ばつもあった。大規模な地震や火山噴火によって周囲の生物が絶滅したことも一度や二度ではない。無数の生き物が絶滅して消えていった。
 人にとっても動物にとってもすみやすい星にしようという方向性は間違っていない。けど、それが人間のエゴから生まれた発想だということは自覚しておく必要がある。
 人間も他の生き物同様、生き延びることを第一の使命としている。
 他の生き物と違うのは、環境を変化させる力を持っているということだ。悪くすることもできるし、良くすることもできる。
 何事も反動やうねりがあって、悪くなれば良くなろうとするし、良くなればまた悪くなる。汚したからきれいにしようというのは当然の流れだ。別に偉いことをしているわけじゃない。
 誰もが環境破壊の片棒を担いでいる。何も壊さずには生きていけないし、生きるためには生き物を殺した食べなければいけない。
 地球が美しいというのも、人間にとっての感覚でしかない。それを守ろうとするのは当然のことだけど、守る義務があると思い込むのは驕りだ。
 人間は地球を成立させている一つの要素だ。支配者でもなければ責任者でもない。
 環境保護を声高に訴える人は好きになれないけど、私もささやかながらエコ気分というのはある。自己満足でも何か協力したいとも思う。
 でもそれは趣味の範囲内でだ。自分が正しいことをしてるだなんて夢にも思わない。
 地球も人間も滅びることが最初から宿命づけられている中で何ができるか。
 私たちはただ生き延びることだけが正義なのか。
 ただ一つ、私が思っているのは、この星は他のどの星から来た異星人に対しても自慢できる星だということだ。
 誰だって自分の故郷には愛着もあるし、自慢できるものは自慢したい。
 そのために美しく保とうというのなら大いに共感できる。
 いつか異星人がやって来たとき、地球がどれほど美しくて、どれだけ素晴らしいところかを説明できるように、私は日々この星について学びたいと思っている。

 2008年6月3日(火) 「優しく叱って。
               感情の言い分を打ち負かすように」

 大人になると、なかなか叱ってくれる人がいなくなるから、そんなときは自分で自分を叱ってやらないといけない。
 愛情を持って叱れば、反発はしても納得もする。
 なんでも言うことを聞いて甘やかすことが愛情じゃない。

 人生の舵取りを感情に委ねてしまうのは間違いだ。
 自堕落になるのもよくないけど、自分が好きなことだけやって、やりたくないことをしないというのも危うい。自分を駄目にする。
 筋肉でも脳でも技術でも、鍛えなければ現状維持もできない。精神も同じだ。怠け癖がつくと、どんどん軟弱になる。

 自分を叱って言うことを聞かせるのは難しい。
 それでも、脅したりなだめたりしながら、やるべきことをやらせないといけない。
 やりたくないと言っても、とにかく理屈抜きでやらせるのだ。結局、それが自分のためになる。
 感情と理屈とで意見が分かれた場合は、たいてい感情の方が間違っている。
 精神も鍛えれば強くなる。感情に負かされてしまうような精神力では弱すぎる。
 人はいくつになっても叱られる必要があるのだと思う。

 2008年6月2日(月) 「全員で描く貼り絵の地球。
                現実の役割分担」

 人は自分が見たい現実を見てるだけで、見たくない現実からは目を背けているというのは誰にも共通したことだ。誰かが誰かを責められるものではない。
 社会の現実の中にいる人間は夢見がちな人間を非難し、社会の裏側にいる人間は表しか見てない人間を馬鹿にする。それは不幸な構図だから、自分もその中に取り込まれてはいけない。
 宇宙のすべてはリアルタイムの現実であり、顕微鏡でしか見えない細菌や病原菌を研究することも現実だ。歴史や芸術、文化、芸能も現実の一つだし、飢餓で子供が飢え死にしている途上国の毎日も現実の一面だ。
 年間3万人という交通事故死よりも多い自殺者や、地球温暖化や森林伐採、動物の絶滅、自然災害も、本来なら他人事ではないはずなのに、多くの人は見て見ぬふりをして自分の生活を守っている。
 季節の花や虫たちの営みも現実だけど、忙しさの中で見えていない。
 インターネット、ゲーム、アニメ、小説、映画。人間の頭の中にも確かな現実はある。
 誰もすべての現実を見ることはできない。だから、他人の現実を尊重すべきなのだ。少なくとも、否定することはできない。
 この世界について、人はそれぞれが少しずつ知っている。それらをすべて集めた総体が現実の集合体でいい。
 貼り絵は全員で協力しなければ描けない。
 地球というのは、単に惑星の一つというだけではない。この星に存在するすべてが描く絵が地球という現実だ。そこにこそ、この星の美しさの本質がある。
 自然の美しさと人間の醜さと、すべてひっくるめて地球だ。
 この世界の素晴らしさを知った上で、自分の役割を全うすることが、私たちにできることのすべてだろう。
 天才も賢者も英雄も、横並びの現実の一部でしかない。役割だ。
 私たちの日々の暮らしも、この世界にとって大切な現実と自覚しなければいけない。

 2008年6月1日(日) 「戻れない日々は
                今の胸の中」

 若さゆえの美しさと、愚かしさと、残酷さと。
 二度と持ち得ないそれらを目にするとき、眩しくて、微笑ましくて、少し切ない。
 思い出はいつも泣き笑い。目を細めてよく見ようとしても、遠く小さくかすんで、近づこうと踏み出した足がよろめいて転びそうになる。
 記憶の断片は、寄せては返す波のように近づいては離れ、キラキラと乱反射する。
 もっと速く走って未来を見たい気持ちと、いつまでも今のままでいたい気弱さが戦って、そんな思惑とは別に時が私たちをここまで運んできた。
 戻れないあの頃。そこにはもう、私たちはいない。みんな流されて歳を取った。
 昔に戻りたいわけじゃない。ただ、あのときみたいな気持ちになれないことが悲しいのだ。うらやましいのは、若さではない。
 未来は暗闇の中を手探りでいくようなものではなく、絶望もまた旅の道連れだと今は知っている。
 若さをなくした代わりに得たものもある。
 愛しき日々にさよならを言う必要はない。それは今でも私たちの胸の奥にそっとしまわれているものだから。
 心のアルバムには、あの頃の最高の笑顔が、色あせながら今も変わらず貼り付けられている。

 2008年5月31日(土) 「戦場の猫。
                生き延びるという使命」

 生きるのに疲れたときは、ただ生きればいい。
 何も考えず、食事をして、寝て、起きたら何もせず、淡々と過ごせばいい。
 自分が無価値に思えたときは、自分を飼い猫だと思うのだ。
 ただそこにいるだけで誰かの役に立っている。
 死んでしまったら、どれだけ人を悲しませるか。
 ここは戦場だ。
 やるべきことは誰かをやっつけることじゃない、どんな手を使っても生き延びることだ。
 生きることへの執着心が、明日へと命をつなぐ。

 2008年5月30日(金) 「祭りはもう始まっている。
                踊るか踊らないか」

 私たちが生まれるずっと前から、もうすでに祭りは始まってしまっている。
 乗るか乗らないか、私たちの選択肢は二つのうちのどちらかだ。
 ワッショイ、ワッショイと御神輿を担いでいる人に、この祭りはいつ始まっていつ終わるのかとか、どんな意味や目的があるのかなどと訊ねても、答えてくれるはずもない。それどころじゃないし、そもそもその人たちだって祭りが始まった理由など知らないのだから。
 参加するにしろ、見学するにしろ、積極的に関わっていかなければ楽しくない。他人事のように冷ややかに眺めて楽しめるはずもない。
 ばかばかしいと思わず、祭りの中に飛び込んでみることだ。外から見ているときは下らないように見えたことも、内側に入ってしまえば楽しくなる。宴会と同じだ。
 みんなと一緒に神輿を担ぎ、踊ってみれば、連帯感や一体感も生まれてくる。

 他人が楽しそうにやっていて、自分から見て下らないと思えることこそ、積極的にやってみることだ。
 食わず嫌いはもったいないし、本当に下らないことはやってみればよく分かる。
 自分は何もせずに高みの見物をして、見透かしたようなことばかり言う評論家になってはいけない。
 この世界は深く関われば関わるほど面白く感じるようにできている。知れば知るほど奥深いし、興味は尽きない。
 生きることを楽しめない人は、行為の絶対量が足りないのだ。もっと手足を動かしていく必要がある。そうすれば体も動くし頭も動く。それにつれて心も動く。
 生きることに迷ったときこそ、踊ることだ。踊らされたっていい。立ち止まって下を向けばすべての動きが止まってしまう。
 この祭りもいつか終わるときが来るのだろうけど、まだ当分は続きそうだ。夢から覚めるまで踊っていよう。

 2008年5月29日(木) 「一番が偉いわけじゃない。
                この世界には正しい理屈が必要だ」

 世界は一番いいものだけでは成り立たない。
 一人の天才がいれば他の人間は必要ないかといえばそうではなく、美人と結婚すればそれだけで幸せかといえばそんなはずもない。
 真面目一本槍では世間は渡れず、最高級車を買えば一生他の車には乗りたくないかといえばそうではない。
 人は一番や最高だけでは決して満足できない。
 この世界は一握りの優秀な人間だけでは回っていかない。
 いろんな人間がそれぞれの役割をこなして初めて成立する。
 そこには最高だけでなく最悪も必要となる。
 一番の人間がいれば、最下位の人間もいる。
 横並びの平等など、下らない幻想だ。
 優秀な人間ほど優れていることが正義だと思い込むけど、それは間違いだ。
 天才や美人をそうたらしめているのは、それ以外の数百倍、数千人の人間だということを自覚すべきだ。
 一番だけが偉いわけじゃない。みんな偉いといえば偉いし、誰もが一様に偉くないといえば偉くない。
 上も下も中間も役割分担に過ぎない。
 正しい論理をもって、それぞれが互いに敬意を払い合う関係を築いていけば、世界はもう少しましになる。
 そういうまっとうな論理を子供に教える大人がもっとたくさん必要なのに、大人自身が正しい論理を理解していない。
 この世界を支配している理屈が間違っている。格差を是正するということは上と下を否定することだ。
 かけっこでみんな並んでゴールして、何が嬉しいのか。
 現代人の迷いは、戦うべき明確な敵を見失っていることから来ている。
 倒すべき体制はもはやないに等しく、アメリカのように無理矢理仮想的を作るのも限界が来ている。
 私たちが生き残るためには、徹底した肯定しかないのだけど、そこに至るまでには、成熟のための更なる時間が必要となるだろう。

 2008年5月28日(水) 「忘れないことがつなぐこと。
                毎日に鈍感にならないように」

 嵐の後には凪が来て、また波が高くなったり低くなったりで日常が戻って、穏やかな中に突然の大嵐がやって来る。
 私たちは、だんだんやり過ごすのが上手になって、いろんなことが日常の範囲内に収まっていく。
 そして、鈍くなり、忘れっぽくなる。
 大災害も、人の死も、3日経ち、一週間が過ぎ、ひと月もすればもう思い出すこともない。
 過ぎ去る時が早すぎるのか、私たちが進むスピードが速いのか。
 情に流されるよりも早く、時間が私たちを流し去る。
 すべては流され、忘れ去られる宿命にあるのか。
 それでも人は、この世界に生きた証を残そうとすることをやめないだろう。微かなひっかき傷でもつけたいと願う。
 たとえ、悠久の時の果てに何もかもが消え去ってしまうとしても、今このとき、人の命がつながる間は、記憶は次へと受け渡される。
 私たちはすべてを忘れてしまうわけではない。覚えていることが、引き継ぐということだ。
 毎日の出来事は無駄ではない。忘れずにいかすことで無駄にしないようにしなければ。
 日々の暮らしに鈍くならないように。

 2008年5月27日(火) 「一寸先は闇で明日は我が身。
                だから、毎日幸せに生きる必要がある」

 毎日、いろんな思いがけないことが起こる。
 他人事ながら気の毒なことや、間接的に関わりがある悲しいニュース、直接自分に降りかかる不幸などが。
 震源は遠く近く、浅く深く、予知も予測もできない。
 前向きに捉えるなら、退屈しないで済むことを喜ぶべきかもしれない。悲観的になっても、物事が好転することはない。
 何があっても、生きられるだけは生きていこう。それが基本であり、究極だ。
 今ここにこうしていられることの幸運と奇跡を自覚する必要がある。
 生死は自分のあずかり知らないところで決められる部分もあるけど、自分の意志で決められることもある。
 明日どうなるか分からなくても、残された今日がある。
 今日やりたいことは明日に回さず、今年のことは今年の内にやりきってしまうことだ。また来年なんていってたら、来年は来ないかもしれない。
 明日という日が今日までと同じように来ると思わないことだ。
 毎日生きることは義務じゃない。喜びと幸せのためのチャンスだ。漫然と生きるのはもったいない。せっかくの機会なのだから、ありがたく使わせてもらわないと。

 2008年5月26日(月) 「小さな命を守れるのは自分だけ。
                なるべく死なないことが大切」

 死にたくない命があって、死にたい命がある。
 死にたい人間に対して、他人はまったくもって無力なものだ。どんなに近しい関係でも、たとえ家族でも。
 みんなに好かれ、励まされ、称賛される命でも、ときに人はその命を捨ててしまう。
 自殺は悲しいというよりも、疲れるし、腹立たしくもある。
 人の命というのは、自分一人のものではなく、大勢の共有物でもある。それを自ら切り捨ててしまうということは、たくさんの人たちを裏切ることになる。
 自殺の罪というのは、そういう部分なのだ。
 誰でも悩みはあるし、落ち込むこともある。そんなものでいちいち死んでいたらきりがない。
 とりあえず、つべこべ言わずに生きておけということだ。

 命の重さに差はある。その差は決して小さなものではない。命の重さに変わりがないなんてのは慰めでしかない。
 ただ、どんなに小さな命でも、救えるものは救いたい。捨てていい命などないし、どんな命も使いようによっては役に立つ。

 この世界は死を前提に成り立っている。生を前提にして死があるわけではない。
 人間にしても動物にしても、どんどん死んでいくから生まれることが許されるわけで、死ななければ生まれる命というのは極度に制限されることになる。増えすぎたら、それ以上生まれることは許されなくなる。
 死は特別なことではない。生と同じくらいありふれたものだ。
 死は生の外側ではなく、内側に属しているもので、生の終わりの先に死があるわけではない。死の瞬間までが生きることだ。
 死のあとどうなるかは、ある意味では本人次第だと私は思っている。消えたければ消えられるし、続けたければ続けていけばいいし、生まれ変わりたければ生まれ変わればいい。天国と地獄に振り分けられるなんて単純で強制的なものじゃないはずだ。
 人は在るべきところに在る。誰が強要するわけでもない。

 死も生も、宇宙における一つの形態にすぎない。どちらも大差ない。
 地球が丸ごと消滅しても、宇宙にはほとんど何の影響もない。
 ましてや浮遊する小さなチリのような存在である我々が、宇宙の片隅の田舎星地球の上で、生きようが死のうが重大な出来事であるはずがない。
 けれど、だからこそ、私たちはこの小さな命を全力で守らなければならないのだ。宇宙では誰も大事にしてくれないから、せめて自分だけでも大切にしなければいけない。
 神の手は、人間一人ひとりの頭をなでられるほど小さくない。
 私たちは小さな存在が集まって、大きな存在になっている。デジタル画像を成立させている1ドットのように。
 その責任は、自覚しているほどささやかなものではない。
 私たちは、なるべく死なないことも一つの大事な仕事なのだ。
 死は必然だけど、死んだらおしまいだ。
 頑張って最後までできなかったら仕方がない。けど、途中で投げ出してとんずらしたら、そりゃあみんな怒るというものだ。周りにも迷惑をかける。
 駄目でも駄目なりに頑張って最後まで生きようと、私も自分を励ましていこう。
 逃げたらまた最初からやり直しになるだけで、余計苦労するだけだ。
 自殺は退学と一緒。大学に入ってもやめてしまえば高卒だ。落ちこぼれでもなんでも、留年してでもなんとか卒業までこぎつけたい。

 2008年5月25日(日) 「戻れないから輝くあの頃。
                キラキラの記憶は心の中だけに」

 誰もあの頃のままじゃいられない。
 私もあなたも、少年少女のままではいられない。
 あの頃の私たちは、記憶の中であの頃のままで、それは眩しくて、照れくさくて、懐かしい。
 戻りたくも戻れないのは、切なくて悲しいことだけど、今も自分の中にいる。忘れないことが、あの頃の私たちをこの世界につなぎとめる。
 あのとき輝いていたあの子たちも、今はおばちゃん、おじちゃんになって、くたびれた姿をしながら生きている。心の奥に、キラキラの記憶をしまい込んで。
 昔を懐かしんで思い出すことは悪いことじゃない。かつてよく聴いた歌を聴きながら思い出に浸るというのは、長く生きた者の特権だ。
 あの頃は、もう戻れないから輝いて見える。その中にいたときは、自分が輝きの中にいるなんて自覚はなかった。
 昔は楽しかったなんてのも幻想だ。嫌なことも多かった。
 離れてみて分かる良さもある。
 だから、間違っても初恋の人に会おうなんて思っちゃいけない。

 2008年5月24日(土) 「論理をすり替えず、
                視点を入れ替えて物事を見ること」

 自分を励ませない人間が他人を励ますことができるのか。
 自分ができないことを他人にやれと言う人間の身勝手さ。
 家族を愛せない人間が、他人を愛せるというのか。
 自分自身を救えない人間が世界を救えるとは思えない。
 一番身近な存在がないがしろにされて、後回しにされている。
 世界のために何ができるかを考える前に、自分のために何ができるかを考える方が先ではないのか。
 それは自分勝手とかではない。
 解決すべき小さな問題を先送りにして、解決が難しい大きな問題とすり替えることが問題なのだ。
 まずは次の一歩から考えなくては。

 という自戒の言葉。
 この理屈は、そのままひっくり返すこともできる。
 世界があって自分があるのだから、自分のことよりも世界のために何ができるかが個人の人生の目標となる、というように。
 論理のアプローチは一方向だけでは危うい。主観と客観をそれぞれ逆の立場と入れ替えれば、4つの視点になる。
 自分の主張とは逆の位置から考えることも大切だ。

 自分と世界と、両方を救えればそれに越したことはない。

 2008年5月23日(金) 「死と生は折り重なり、
                世界は回る」

 生は死の上に成り立っているということを、ときどき思い知らされて、打ちのめされる。
 それでも人は、死を忘れながら生きていくわけで、それを冷淡と呼ぶべきか、非情というべきか、分からない。
 他者の死を乗り越え、忘れることができるなら、自分の死もまた同じように受け入れなければならない。
 誰の上にも等しく死が訪れることを思えば、死というのは特別ではなく、冷酷な現実でも何でもない。
 今日もまた生と死が交錯して、この世は回っていく。
 喜びと悲しみを置き去りにしたまま。

 2008年5月22日(木) 「時間のスピードと質量。
                急げばいいというわけではないけれど」

 地球が太陽の周りを回り、自転する速度は一定で、時間というのは誰にとっても平等ではあるけれど、体内時計のスピードは人それぞれ違う。
 犬や猫の時間の進み方が人間の4倍であるように、生き急ぐ人とゆっくり成長する人とでは、自分の中の時間の進み方が違っている。
 若い頃は成長が早く、歳を取るとゆっくりにもなる。
 一日24時間という持ち時間は同じでも、生きる速度によって時間の質量が変わってくる。移動を新幹線でするかバスでするかの違いのように。
 急げばそれだけたくさん生きられるというわけでもないけど、必要以上にのんびりすれば無駄に時間を失うことになる。
 急げば見えない景色もたくさんある。
 必要なことは、時間のスピードと上手く折り合いをつけることだ。
 そして、時間は一定ではないということを知ることだ。
 損得勘定がすべてではないにしても、時間の大切さを思いながら生きなければいけない。

 2008年5月21日(水) 「皮肉なんていらない。
                美しく愚かでありたい」

 アイロニカルだったり、シニカルだったりするのが賢さの証しだと思い込むのは、若さ故の勘違いだ。
 でも、若さは格好悪いものだから、変に達観して分かったような顔をするよりはいいかもしれない。
 ある程度歳を取ってもまだ気取っているのは、救いがたい愚かさだ。
 人は素直で謙虚なのが一番だ。歳を食って威張ってるなんて格好悪い。
 誰もが愚かだけど、年齢や立場に応じた愚かさというのがある。
 賢さというのは、自分の愚かさを自覚することだ。そして、常に成長し続けることでしか賢さは保てない。
 正しい愚かさは美しく、間違った愚かさは醜い。
 人として美しくあろうとすることは、必要なことだ。

 2008年5月20日(火) 「健全な精神のために健全な体を。
                心技体のバランスが大切」

 心技体が充実してこそ、やるべきことをやれる。
 どこか一つでもバランスを崩すと、全体に影響が出る。
 健全な精神は健康な肉体に宿るというのは本当だ。
 病は気からというのも真実だろう。
 健康なときは健康のありがたみに気づかないけど、病気じゃないというのはそれだけで幸福なことなのだと思い至らないといけない。
 気力が出ないときもあるけれど、体を動かしてみると気持ちがあとからついていくこともある。
 逆に、無理せず体を休めることが必要なときもある。
 常に体と心のバランスを取ることが大切だ。
 健康に気をつかうということは、長生きするためだけじゃない。日々の生活を健やかに過ごすためにも重要なことだ。
 頭脳労働者も体を鍛えた方がいい。体が強くなれば、精神も強くなるから。それは脳にもいい影響を与える。
 東大出身なのに筋肉ムキムキの草野さんを見習おう。

 2008年5月19日(月) 「もっと自分に優しく。
                甘やかさずに厳しく育てること」

 みんな自分に甘いくせに、自分に対して優しくない。
 人は自分を許しすぎる。それは優しさではなく、単に過保護なだけだ。そうやってだんだん自分を駄目にしていく。
 本当の優しさというのは、愛情を持って厳しく言うことを聞かせることだ。愛弟子に対して厳しく接する師匠のように。

 自分に優しくするということは人生の基本なのに、それができている人は少ない。
 たいていの人は自分に甘すぎるか、厳しすぎる。
 人生は修行であっても苦行ではないのだから、無闇に自虐的であるのは間違いだ。自分を痛めつけることが正しい行いのはずがない。
 過不足なく自分に厳しくあるというのは、本当に難しいことだ。
 自分はかわいいから、娘に甘い父親のように、ついわがままを聞いてしまう。やりたくないことはやらなくてもいいと許し、今のままで充分幸せだからそれ以上は求めないといえばそれはいいと頭をなでる。それじゃあ、自分はよくならない。

 自分に対して優しくあるということは、端的に言えば、自分のためになることをやらせるということだ。
 自分が幸せになるために何をすべきかということを考え、そのためにできることをやらせることが一番大切なことになる。自分を思いやるということだ。
 失敗したり挫けそうになったら、根気強く何度も許して次に向かわせることも必要になる。許さないことが正しさでもない。
 成長を願う母親と父親両方の役割を果たさなければならない。
 自分の思考を行為につなげることと、駄目な自分に良い自分が負けないように手助けすることが仕事となる。

 自分に優しく、他人にも優しく。
 そして、優しさの本質を見失わないように。

 2008年5月18日(日) 「困難に立ち向かう気持ち。
                超えなければいけないいくつもの障害」

 先へ進めるか、そこで終わってしまうかは、困難に立ち向かおうという気持ちがあるかどうかで決まる。
 もう駄目だときらめてしまったら終わりだ。
 投げやりな気持ちになっても、最後の最後で投げない気持ちが必要になる。
 生きていれば、いろんな種類の障害にぶつかる。まるで嫌がらせのように。
 人生はマラソンじゃない、長距離障害物走だ。
 仕事も勉強も恋も、常に困難がつきまとう。自分の人生も、人との関係も、思い通りにいかないことの方が多い。
 困難を避けたり、難しいことに直面したときに逃げてしまってはそこまでだ。それ以上先へはいけなくなる。
 すべての戦いが戦うべき戦いではないけど、大事な戦いと判断したら、それはもうどんなに苦しくても戦い抜くしないのだ。逃げても楽にはなれない。
 戦いに勝てば、先に行けるだけでなく、自分の力になる。苦しみに打ち勝った経験と記憶は、自信にもなるし、自分の中の支えにもなる。

 人生の目的は、もうこれ以上走れないというところまで走ることだ。息が切れて、もう一歩も足を進められないというところまでいけば、それがゴール地点になる。
 余力なんか残しても、死んだら使い道がない。まだ使える気力を残すのはもったいない。
 疲れ果てて力尽きる人生が一番幸せなのだと知らなければならない。

 2008年5月17日(土) 「動かない心。
                動けない自分」

 いつも自分に問いかけていることは、何を見たいのか、何を撮りたいのか、何を書きたいのか、ということ。それによって、どこへ行って何をするかが決まる。
 この頃、返答が鈍くなっている。問いかけに対してすぐに返事を返せない。何かをしたい気持ちが弱まっている。
 一時的なものなのか、衰えを意味するものなのか、今のところ分からない。
 感動と興奮と熱中が足りない。
 もっと心を動かすために、もっと自分自身が動かなくてはいけない。
 何か新しいことを始めるということも考えていこう。

 2008年5月16日(金) 「今はまだ無邪気な幸せの中。
                果てしない旅はこれからだ」

 私たちが永遠を信じる無邪気さはどこから来ているのだろう。
 懲りない遺伝子が、そうじゃないことを教えない。
 もしくは、私たちが自分にとって都合の悪い情報を遮断しているだけなのか。
 どれだけ裏切られても、痛い目にあっても、人は未来に希望を見ようとする。
 それはとても正しくて、とても偉大で、とても痛々しい。
 私たちはきっと、最後の一人が最後の瞬間になるまで、明日を夢見ることをやめないだろう。
 明日こそ、すべての答えが見つかるのではないかと、根拠のない願望を抱き続ける。

 人類が無邪気さを失ったときから本当の絶望が始まる。我々はそれに耐えられるのだろうか。
 今はまだ、過保護に守られている幼児のようなものだ。子供が世間を知らないように、地球人は宇宙を知らない。
 もうしばらくこのまま夢見ていたいと思うけど、いつまでもそうしてはいられない。
 成長とは悲しいものだ。見たくないものまで見えるようになってしまう。
 人類はまだ、家の中で小さな冒険をしている段階だ。やっと庭に出たくらいのもので、旅には出ていない。
 この先に長いながい旅が待っている。
 果てしない旅の終わりに、人は人ではいられない。
 地を這う幼虫の私たちは、空を自由に飛ぶ日を夢見ている。
 それがどんなに厳しくてつらいことかを、まだ知らない。
 地球は宇宙にとって大事な虎の子の星だ。だから、大切にゆっくり育てている。
 人類は期待に応えられるだろうか。

 2008年5月15日(木) 「無名では世界は変えられない。
                正しいことをしたければ公人になれ」

 正しいことをしたければ偉くなれ。
「踊る大捜査線」の中で、いかりや長介が織田裕二に言ったセリフは、あまりにも的を射すぎていて、返す言葉がなくて、心に刺さって痛い。
 普通、人は、正しいことを積み重ねて偉くなろうと考える。でも、それでは間に合わない。
 電車でおばあちゃんに席を譲ったり、道に落ちているゴミを拾ったり、勇気を出してコンビニの前でタバコを吸っている高校生に注意をしたりしても、偉い立場の人間にはなれないし、世界は変えられない。
 アプローチが逆なのかもしれない。正しいことは、偉い立場になってからした方がより大きな効果を上げられる。打算的といわれても、それが現実だ。
 不正に大金を集めて、それを世の中のために役立てることは間違ってないと私は思う。

 上のセリフは、正論を振りかざすヒラ刑事の織田裕二に対しての言葉で、正しいことをしたければ組織の中で上に立つ人間になれという意味だった。
 拡大解釈すれば、正しいことをしたければ国会議員になって、総理大臣になることだ。大企業の社長になるとか、有名人になって大金を稼ぐというのでもいい。100億円あれば困っている人をずいぶん助けることができる。
 少なくとも、発言権を持ちたければ最低でも著名人になる必要がある。私人の立場で語ることがどれほど正しくても、それは他人には届かない。
 プロスポーツ選手がインタビューの中で語る正しさと同じことを一般人が個人の日記に書いても、誰の目にも触れず、人を動かすことはできない。
 タレントがちょちょっと書いた本がベストセラーになると、それはずるいとかうらやましいとか言う。まるで的外れな非難だ。有名だから人は耳を傾ける。そんなことは当たり前のことだ。
 無名では駄目なのだ。正しいことを言ってもしても。
 それを承知で語ることは個人の自由だけど、本気で正しいことをしたいと思うなら、まずは有名になる方法を考えることだ。そこからしか何も始まらない。
 そこまでして正しいことをしたくないというのなら、それは思いが本物じゃないということだ。
 正しい論理というのは一種の凶器であり、暴力でもある。それを振りかざせば必ず自分に跳ね返ってくる。その覚悟がないなら、最初から正しさなど口にしないことだ。

 じゃあ、私はどうなのか。
 正しいことならいくらでも言える。でも、正しさのために戦えるのかといえば、そこまでの覚悟はできていない。世の中はこれ以上正しくなくてもいい気がしているというのもある。
 自分から見えているこの世界が好きで、嫌いになりたくない。この世界がいかに素晴らしいかを知ってるつもりだし、世界の役にも立ちたいけど、私が戦う場があるとも思えない。一体、誰と戦えばいいというのか。
 ついに何者にもなれないまま戦わずに終わるのかどうか、その結論はもう少し先になる。
 自分ではいつ声がかかってもいけるように、ずっと準備はしてるつもりなのだけど。

 2008年5月14日(水) 「積み重ねる上積み。
                目一杯以上の向こう側」

 普通に生きるだけでも難しいのに、それ以上を目指そうとすれば、難易度は一気に高くなる。10倍とか、100倍とかに。
 凡人と天才の差や、成功者と失敗者との差は、ほんのわずかなものでしかないのかもしれない。でもそのわずかな上積みを重ね続けるかどうかが、やがて決定的な差となって表れる。
 毎日1ミリ積み重ねる努力は、一年後には36.5センチになる。それは、1メートル70センチの人間が2メートル6センチになるようなものだ。
 10年後、努力をしなかった凡人は二度と天才に追いつけない。

 毎日忙しく目一杯頑張っているんだと人は言う。
 それは本当だろう。誰も否定はできない。
 でも、誰にも聞こえないところで自問自答してみたらどうか。自分は実際のところ、毎日持っている力を100パーセント出し切っているだろうかと。
 頑張っているけどもっと頑張れる余地があるんじゃないかと思ったなら、目一杯じゃないという何よりの証拠だ。
 どこを目指して何をしたいのかという問題ではある。もっとずっと高みを目指すなら、他人の評価とは別のところで自分の全力を出さなくてはいけない。
 特に目指しているものがなければ、必要以上に頑張ることはないのかもしれない。
 自分の生き様に納得したいかどうかということでもある。
 納得感が足りなければ、もっと上積みしないといけないということだ。
 力及ばずに思いが届かなかったとしても、自分のすべてを出し切ったと思えれば納得はいく。

 頑張ることは誰に強要されることでもない。自分の中の葛藤だ。
 良い自分と、悪い自分と、今の自分がいる。悪い自分との戦いに勝って、良い自分とのライバル対決を制すことができるかどうか。
 人生は怠けようと思えばいくらでも怠けられるし、なんとなく生きられてしまうものだ。
 それ以上を求めるかどうかは本人次第で、神の裁きなど本質的なものではない。
 毎日1ミリの上積みを何に求めるか。腕立て伏せを限界までやって、あと一回余分にやるかやらないかというようなものが目一杯以上の上積みというものだ。
 自分が限界だと思うところの先に光がある。限界の手前には平凡な日常しかない。

 2008年5月13日(火) 「とどまれば淀む。
                変化こそが存在の本質だ」

 どんな確信も、必ず歳月と共に揺らぐ。
 永久に建ち続ける建造物がないように。
 自信にも期限があり、スポットライトの光もやがて寿命が来る。
 終わらない栄光はどこにもない。

 存在はエネルギーの振動であり、変化こそが存在の本質だ。
 不変のものは必ず滅びる。
 人間の場合それを成長と呼び、社会なら進歩という。
 人と人との関係性も、変化することでしか続かない。
 流れない水は腐るだけだ。

 変化は悲しみでもなく、絶望することでもない。
 自分の思い通りにならないことも多いけど、変わらなければ人は生きていけない。
 どんなに完璧な幸福も、それが終わるからいいのだ。
 不変というのは実はとても恐ろしいもので、ビデオの静止画をじっと見つめ続けるように退屈だ。
 人は変わるし、世界も変わる。それが悪い方向だったとしても、変化は常に歓迎すべきものだ。
 どんなにいいときも、どんなに心地いい場所も、そこにとどまろうとしてはいけない。動き続けることが正解なのだから。

 人生は山あり谷ありとよくいう。平地あり、川あり、海あり、盆地ありだ。池もあれば沼もある。湿地や砂漠や荒野や草原も。
 雨あり、日照りあり、雪あり、霧あり。嵐があり、凪がある。ときには雹や霙や落雷も。
 人生にはいろんな状態があり、いろんなことが起きる。個人の好き嫌いなんて問題じゃない。大切なのは、どんな状況にも対処し、生き延びることだ。
 安心や安全なんてどこにもない。未知の一歩を踏み出すことを恐れないでいこう。

 2008年5月12日(月) 「心を亡くすから生きられる。
                私たちは不完全なままでいよう。

 忙しくて心を亡くし、忘れることで心を亡くす。
 考えないようにするということは、逃げているようだけど、一つの正しい方法だ。
 忘れるという脳の機能は、想像するということと共に、人に備わったとても大事な能力だ。
 心を亡くすことによってしか生きられない部分もある。
 それはいわゆる遊びと呼ばれるものとも相通じるもので、人が常に100パーセントで、かっちりした型に収まりきっていたら、いろんなことに耐えられずにつぶれてしまう。
 人は不完全だから、こうして生きていられるのだ。

 人間はこの先の未来で、どんな形の進化を求めていくことになるだろう。今のところそれは分からない。
 ただ、はっきりしていることは、目指すべきは完璧などではないということだ。
 コンピューターはあくまでも道具であって、人にとっての手本ではない。
 脳にコンピューターを埋め込んだり、機械の体になったりということも、遠い未来では現実のものとなるかもしれない。
 人はいつでも、より高みを目指さずにはいられない生き物だから。
 それでも、人をつかさどっているものは感情であり、思考であり、感覚だという基本を見失ってはいけない。それが人を人たらしめている。
 心を亡くすことは自己防衛のためであって、心を亡くさないようにしてしまう方向に進んだなら、人類は自滅するかもしれない。
 私は今のままでいいじゃないかと思ったりもする。愛すべき駄目な生き物でいい。
 私たちは未熟なままじゃ駄目なのか?

 2008年5月11日(日) 「自分の人生を好きになるための
               勉強と努力が必要だ」

 大事に抱えている思い出がたくさんあった方が人生に愛着が湧く。
 生きることに執着することは良い面と悪い面があるのだけど、自分の人生が好きか嫌いかという話になれば、好きであった方がいいに決まっている。
 自分を好きになる必要はないと私は思っているけど、自分の人生は好きでありたい。
 生きることが喜びであるように、人は努力をしなければならない。それが学びの目的であり、本質だ。
 賢くなるために勉強するんじゃない。賢くなって幸せになるために勉強をするのだ。愚かでは幸せにはなれないから。
 この世界は知れば知るほど魅力的なところだ。
 楽しいことをたくさん経験すれば、自然と生きることが好きになる。好きなことはやっていて楽しい。楽しければいつまでも元気に生きていたいと願うし、そのための努力も惜しまなくなる。
 事態は好転し出すとどんどん良い方向に流れていくし、悪くなると悪循環になる。
 空元気でも何でも、陽気にしていることが大事だ。明るい気持ちのときは積極的になれる。
 感情の奴隷になってはいけない。マイナスの感情に溺れないように、感情のハンドルを握るのは自分の意識でなければならない。
 一言で言えば、セルフコントロールということに尽きる。最初から自分の感情を乗りこなすことはできない。訓練あるのみだ。
 賢く陽気であることはとても難しいことだけど、明るくあるということは本当に大事なことなのだ。

 2008年5月10日(土) 「自分で自分を許すことが救い。
               神様のお墨付きでは救われない」

 自分の人生は常にいったん肯定から入らないといけない。
 その上で、直すべきところは直し、変えるべきところは変えていくのがいい。
 否定から始めてしまうと、あちらもこちらもほころんできて、収拾がつかなくなる。
 まずは丸ごと肯定すること。そこから細かい部分の修正に入ればいい。

 人は誰も、自分自身の最大の被害者だ。力が足りずに思いが及ばない。いつだって裏切られる。
 それでもなお、自分の最高の理解者は自分しかいない。
 だから、何度裏切られても自分を最後まで信じるしかないのだ。
 誰かに救われることでは人は本当には救われない。その誰かが神であってもだ。
 自分は自分を理解し、信じ、励まし、ときには叱り、最後には自分を許さなければならない。
 最後の最後に結論として、本当の本当に自分という存在を許せるかと自問自答して、許せると言い切ることができたら、それこそが救いというものだ。
 その先は、永遠にしても無にしても、どちらも違いはない。

 人生は、償いのための行脚のようなものだ。
 自分を許せるようになるために生きている。どうやって償えば許されるのかを探しながら。
 天国も地獄も、この世界の一部であり、一時のものだ。そこが目的地じゃない。
 自分の存在がどんな形態になるかも、さほど重要なことではない。
 ただ、意識体であるよりも肉体を持って生きていた方が、いろいろな可能性がある。
 昨日よりも今日、今日よりも明日、私たちは許されるべき存在に近づけているだろうか。
 許されるべき自分の姿を思い描けなければ、まだまだ救いには遠いということだ。

 2008年5月9日(金) 「つまらないなんて言わないで。
               全力で面白がらないと」

 今の自分の暮らしをつまらないなんて、拷問されても言っちゃいけないことだ。
 それは今の自分も、過去の自分も、自分を支えてくれているすべての存在を裏切ることになるから。
 たとえ心の中で思っていても、自分の外側に言葉として出してしまってはいけない。
 何気なく発した一言が命取りになることがあるけど、つまらないという言葉もそのたぐいのものだ。
 言ってはいけないことをうっかり口にして破滅した人間を、私たちは何人見てきただろう。
 反面教師はたくさんいる。自分の失敗からしか学べないのは愚か者だ。

 何もしなければつまらないのは当たり前の話だ。誰かが何か面白いことを運んできてくれるわけじゃない。
 楽しいことは自分で見つけ、育てるしかない。
 面白がる心も大切だけど、自分から動かないと何も始まらない。
 何かをするということは、手と足を動かすことだ。それによって五感が刺激され、頭の中で面白いという感情が生まれる。
 毎日がつまらないと感じたら、それは全面的に自分に非がある。

 楽しいだけが人生じゃないけど、楽しいのが人生だとも思っている。
 人生を楽しんでるなんていうと無責任みたいだけど、そうじゃない。
 自虐的な苦行や、深刻ぶって悩んでみせるのは、単なる気取りだ。
 もし、この世界を作った何者かがいて、つまらないと言われるのと面白かったと言われるのとどっちが嬉しいかは明白だ。
 生きることは難しくて、だからこそ面白い。悩むのではなく、考えて、模索して、突破口を見いだすのだ。
 楽しいことは毎日の中にたくさんある。その気になって探せば必ず見つかる。
 人生を楽しむことに怠けてはいけない。

 2008年5月8日(木) 「靴と価値観の話。
             履いてる靴が人格のすべてではないけれど」

 靴屋に並ぶ無数の靴を見て、この中の大部分の靴を自分は選ばないと思う。タダでもらっても履きたくないものがほとんどだな、と。
 けど、自分が絶対に選ばない靴を選ぶ人が少なからずいるという事実を前にして、私は価値観の多様性に打ちのめされるような思いがする。洋服も多様だけど、靴の方が自分の感覚とのかけ離れ具合が大きい。

 人にはそれぞれの趣味があり、好みがあり、価値観があり、美意識があり、哲学がある。
 そのどれが正しくてどれが正しくないかの客観的な判断は誰にもできない。誰の選択も尊重するしかない。
 でもやっぱり、とても不思議ではある。どう考えてもこの靴を履くことは間違っていると思う靴を選んで喜んで履いてる人がいる。その人を理解して友達になるのは難しい。
 靴で友達を選んでいるわけではないけれど。

 靴の話がしたいわけではない。価値観の多彩さと幅の話だ。人がどんな靴を履こうが私には関係のないことだ。
 自分はわりと客観的で公平で、他人のどんな基準もある程度受け入れられるような気がしているけど、実際はそうじゃない。私の理解幅などごく狭いものだ。分からないことや、理解できないことはたくさんある。
 おそらく、他人の美意識に理由を見いだそうとするのは無意味なのだろう。きっと、本人も分からないことだから。
 私だって、どうじて自分がスウェードのスリッポンが好きなのか、その理由など分からない。スウェードのスリッポンなんて絶対に履きたくないという人間はいくらでもいるだろうし、大部分がそうかもしれない。その人たちに対して、スウェードのスリッポンがいかに魅力的な靴かという熱弁をふるってもきっと受け入れられることはないだろう。

 この世界を侮ってはいけないし、すべて理解できると思い込むのは間違いの元だ。
 基準は本当に人それぞれで、それを批判するのは正しくない。
 私たちにできることは、自分が好きなものを認めるように、他人の好きなものも尊重することだ。
 たとえ、ダンナが突然ウェスタンブーツを買って来たとしても怒ってはいけない。世の中にはそういうこともあると一定の理解を示さなければ。
 今日の教訓めいた言葉。
 この世界は靴の種類のように多種多様で理解しがたいもので満ちている。

 2008年5月7日(水) 「毎日は新しい一日と新しい自分。
               昨日の自分には負けられない」

 毎日は未経験の新しい一日だということを、つい忘れがちだ。
 昨日までの日々の経験から今日という日を予測して、ものごとは予想の範囲内で起きるものだと思い込む。
 だから、不測の事態に直面すると戸惑い、うろたえる。
 毎日はもっと手探りで生きてもいい。
 踏み出す次の足の一歩も、もう少し慎重に、自覚的であるべきだ。
 今日という日が昨日までと同じ日だと侮るのが間違いの元で、もっと恐れと好奇心を持ち合わせて臨まないといけない。
 まずはそのあたりの意識から変えることだ。

 目が覚めたら新しい一日に、はじめましてと挨拶することから始めよう。
 今日の自分は昨日までの自分とは別人で、今日一日限りの付き合いだ。明日に持ち越せない自分もいる。
 日々生まれ変わっているのだから、本当なら毎日新しいことができるはずなのだ。
 昨日の自分の真似をする必要はまったくない。あえて対抗意識を持って逆のことをしてもいいくらいだ。
 昨日の自分は弟や妹と思え。そうすれば、負けるわけにはいかないと思えるだろう。

 2008年5月6日(火) 「ゴールのあとの世界。
               ハッピーエンドを信じるしかない」

 自分の言葉も含めて、もっともらしい理屈を全部蹴飛ばして、駆け抜けた先で突き抜けたら、そこには何があるというのか。
 いきなり結論を知りたがらない方がいいのか。
 まどろっこしい日々の営みを一気に早送りして、ラストシーンを見たくなる。
 自分の意識が行き着く果てはどんなところなのか。
 結局消えるしかないという結末なら、毎日を生きるのが難しくなる。
 だから、ゴールには何か飛びきりいいことが待っていると信じたい。
 楽しいだけのふぬけた世界だったとしても、それ以上がないというのなら、そこでいい。

 2008年5月5日(月) 「他人の大きな不幸と自分の小さな不幸と
               測る基準が分からない」

 自分とは無関係の場所で起きた事故や災害を知っても、明日は我が身と切実に思うことは難しい。その悲劇がどれだけ大きなものだったとしても、同情はしても他人事でしかない。
 自分の身に降りかかってきた不幸としか戦えない。今日、被害者になった人たちだって、それは同じだ。
 備えあれば憂いなしというけど、明日自分が死ぬ番だと思って今日準備するなんてこともできるものではない。
 ときには自分の人生さえも他人事に思ってしまう。

 個人的な不幸と大きな災害と、人はどちらに備えるべきなのか。
 個人の問題の方が身近で現実的だけど、個人的な不幸などより大きな災害の前では吹き飛んでしまう。
 私たちは何も問題がないように日々を健やかに生きて、起こったことに対処するしかないのか。
 大地震だって他人事では済まされない問題なのに、具体的に何をしてるわけでもない。
 日々の小さな問題に一喜一憂するばかりで、地球の終わりを憂いながら生きるなんてことはしない。
 個人の悩みにどの程度の重きを置けばいいのか、その判断ができない。
 1万人を超える死者と、ゴールデンウィークのUターンラッシュの渋滞ニュースと、自分の人生と、3つを目の前に並べて、私はどれに何を感じて、そこから何を読み解けばいいのか、分からない。

 2008年5月4日(日) 「自分にかける言葉を見失ったまま。
               今日も探したけど見つからない」

 いつでも、毎日、もっと心に響く言葉を探している。
 誰かに対してもだけど、何よりも自分自身に対して。
 それは蜃気楼のように掴んだと思っては逃げ、追いかけるとふっと消え、あるはずの幻のあとをついていっているだけのようだ。
 放つ言葉はどれも、どこか本物感が希薄で、心の深いところまで届かない。水中に向かって放った矢のように、力なく心の底に落下して横たわる。
 今の自分に必要な言葉が何なのか。どんな言葉をかければ心が揺れるのか。
 探してさがして見つからずにさまよって、代わりの言葉を力なく差し出すばかり。
 どうやって自分を励まし、納得させればいいのか、今ちょっと本当に分からなくなっている。
 日々の楽しさは楽しさとしてあるのだけど、それだけでは充分じゃない。
 下位に低迷するチームの選手にかける言葉を見失っている監督のようだ。ただ頑張れ、あきらめるなだけでは気持ちは奮い立たない。
 何か決定的な言葉がないものか。
 それは今日も見つからずに終わった。

 2008年5月3日(土) 「心が穴だらけでもかまわない。
               使い込んだ心が格好いい」

 心の空洞は空洞としてそのままにしておけばいい。無理して何かを詰めてふさごうとしなくても。
 失った恋は失ったままにしておけばいいし、生きていく虚しさも生きている実感の一つだ。
 何も心が丸い完璧な形である必要はない。穴だらけのデコボコでもいいのだ。
 長く生きれば生きるほど、心の形も風化していく。それが味というものでもある。
 ひび割れをふさいだり、表面に何かを塗りたくって取り繕う方がみっともない。
 使い込んで百戦錬磨を思わせる心の方が格好いいじゃないか。
 傷一つついてないようなきれいな心は、ベンチを温めるだけでユニフォームの汚れていない補欠選手みたいなものだ。この世界と戦ってない証拠だから、恥ずかしい。
 いつも風が吹いていて、風穴ができたような心を持てたら、それはそれで貴重だろう。
 ボロボロにくたびれて、前のめりに力尽きる人生に勝るものはない。
 人は自分の心を過保護にしすぎる。もっと乱暴に扱ってもいい。鍛えれば強くなるものだから。
 生きれば心は汚れるものだ。汚れたら磨けばいい。磨けば光るのも心の特徴なのだから。


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