2008.1.5-

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 2008年5月2日(金) 「体温のある魂から発せられた
               温かい言葉と行為を求めて」

 人としての温かさというのは本当に大事なことだなと最近思う。
 若い頃は照れくささもあって、そんなものはたとえ持っていても隠した方がいいくらいに思っていたけど、魂の体温みたいなものはとても大切なものだ。ようやく分かった。
 冷たい方が格好いいなんてのは、完全に若気の至りの勘違いだ。
 人は優しさという言葉をよく口にする。けどたいていの場合それは親切とは違うものだ。プレゼントを買ったり、荷物を持ったりするのは優しさとは違う。
 それを言うなら、温かい人という表現を使った方がいい。その方が分かりやすい。体温の伴わない親切というものもある。
 温もりのある行為、温かい思いやりと言葉、それがどういうものなのかは、私にもよく分からない。
 冷たすぎず、熱すぎず、でもその中間でもない温かさというのが何なのか、私にとってもそれは永遠のテーマと呼ぶべきものなのかもしれない。

 2008年5月1日(木) 「自信と不信。
               どちらを掲げてどちらを隠すか」

 自信過剰で負けるか、自己不信で勝つか、どちらがいいのか悪いのか。
 押しが強い人が私は苦手だけど、ごり押しでまかり通ってしまうことがこの世にはたくさんある。でもそういう人間は生意気だと叩かれることもある。
 謙虚一辺倒では他人からの攻撃を受けづらくても、損をすることが多い。
 差し引きマイナスかプラスか。損得勘定で考えるなという理屈もある。
 恋愛や仕事や日常生活の中でも、押すべきか引くべきかと迷いながらみんなも生きているのだろう。
 当たって砕けろがどこまで正しい姿勢なのかと、いつも疑問に思う。
 野球でいえば、振り回していくか見極めていくかの選択だ。いい球が来るまで待って確実に叩くと決めても打ち損じることもあるし、いい球が来ないこともある。積極的に振っていけばボール球にも手を出してしまう。好球必打は口で言うほど簡単なことじゃない。
 100回声をかけて99回振られても1回成功すれば勝ちという考え方もあれば、運命の出会いをじっと待って訪れないまま終わることもある。
 そのあたり、世の中はなんとなく上手くできているようでもあり、そんなに甘くなかったりもする。
 結果論でしか私たちは正しさを語ることができないのだろうか。
 自信を持てといい、驕るなという。自信を持っても上手くいかないことはたくさんある。自信を持てば成功につながることも確かにある。
 裏切られた自信は損なのか損じゃないのかという問題なのかもしれない。
 無責任な自信がどこまで有効に作用するのかどうかは、結論が出ないまま私の中でいつも先送りになる。

 2008年4月30日(水) 「5月に思うこと。
                流れた歳月の長さと続けるということ」

 ちょっと家を留守にしていて更新を休んだ。ここのところずっと毎日書いていたのにもったいない。でも、また今日から再開していこう。

 今日で4月も終わって、明日からは5月だ。
 5月は悪い月じゃない。いろいろな変わり目や節目の時期でもある。
 5月1日はセナの命日だけど、もう悲しいだけの日ではない。今や中嶋の息子が走ってる時代だ。歳月は流れた。それでもF1は続いていくのですという今宮さんの言葉通り、私たちも命ある限り生き続けていかなくてはいけない。
 それは義務ではなく、単なる喜びのためだけでもなく、大げさに言えば使命のようなものだ。
 役割は与えられるものではない。自分で見つけるものだ。なければ作り出すものだ。
 限りのある命と時間、だからしっかり使わせてもらおう。

 2008年4月27日(日) 「世界はよくなっていっている。
                昔の悪かったところを忘れているだけ」

 この世界が50年前、100年前、300年前に比べて、いかによい世界になっているかということをもう一度自覚しなければいけない。
 昔は懐かしいし、もっとよかったことがたくさんあると思いがちだけど、過去は今の私たちが忘れてしまった駄目な部分が数え切れないくらいある。
 現実の生活が不便だとかそういうことだけではなく、人間としても幼く愚かだった。
 世界は確実によい方向に向かっていると私は確信している。
 悲観することは何もない。まだまだ時間はかかるけど、少しずつよくなっている。
 失われてしまったよいこともたくさんあるけど、止まっているわけにはいかない以上、何かをなくすこともある。
 よりよいと信じる方向に進むしかなくて、それは間違っていない。
 現在は過去に見た夢が実現した形だ。想像と違ったからといって、見た夢を否定することはない。
 世界はどんどん悪くなっているなんてのは、とても一面的で狭い見方だ。
 成熟がやがて滅亡に向かったとしても、それは必然的で正しかったのだ。

 2008年4月26日(土) 「執着のさじ加減。
                多すぎず少なすぎないところ」

 執着心の加減が難しい。
 最後まであきらめないことが大事といい、あきらめが肝心という。矛盾するどちらもが真実だからやっかいだ。
 恋愛の執着心、仕事の執着心、夢への執着心、生きることへの執着心。
 目的のためには手段を選ばずというのはどこまで許されるのか?
 生への執着心を捨てて心安らかに生きることが本当に正しいのかどうか。
 かなわない夢や、届かない恋心をどこまで持ち続ければいいのかと迷うことも多いだろう。
 あきらめることが賢い選択だとしても、可能性の低い目標に執着したからこそ達成できることもある。
 夢や恋にいつまでもぶら下がることは逃避の変形だったりもする。
 あきらめるなといい、あきらめろという。私たちは日和見主義的に状況に応じて執着したりしなかったりするしかないのか。
 語られることはいつも結果論だ。結果的に成功すればその選択は正しかったことになり、失敗すれば間違いだったことになる。
 なるべく後悔しない選択をするしかないという消極的な結論に落ち着くしかないのか。
 結局のところは、加減ということになる。そういう部分も、経験から学んでいくしかないのだろう。

 2008年4月25日(金) 「毎日に甘んじないこと。
                日々を否定せず、肯定しすぎないこと」

 甘辛い毎日の味に慣れすぎて、本当の甘さや苦さを忘れてしまった。
 どこまで我慢できるかという自分の限界を見失いそうだ。
 自分好みの味覚の基準さえ失っている気がする。
 耐えることは美徳だけど、辛抱強すぎると遠くを見ることを忘れてしまう。じっとうつむいて丸まってしまうから。
 現状に甘んじてはいけない。前を見て、先を目指さないと。
 毎日、肯定と否定をバランスよく盛り込むことが大切だ。
 食事に美味しさと栄養の両方が必要なように。

 2008年4月24日(木) 「呼んでないのに戻る自分。
                決別したはずの過去の自分との再会」

 ときどき思い出したように過去の自分が戻ってきて、変わってしまったところと変わらないところを思い知らせる。
 誰の中にも少年と少女がいて、弱い自分が隠れている。それがふいに顔を出すことがあって、幼い弱さに胸がギュッとなる。
 人は変わっていく。知らずしらずのうちに。それは喜ばしいことではあるけど、寂しいことでもある。
 人生は貼り絵細工だ。思い通りの絵を描けない。
 失敗をやり直すこともできず、ただ上から貼り重ねていくしかない。
 変わるのは表面だけで、その下にはこれまでの自分が全部いる。弱い部分が強くなることはない。
 今度こそ上手くやろうと思っているところで、またつまづく。
 過去の自分が寄せては返し、返しては寄せる。
 未来へ向かえないときは、しばらくの間、過去の中に浸っていよう。
 また歩き出せるときが来る。

 2008年4月23日(水) 「一線の手前で踏みとどまること。
                自分を救えるのは自分だけ」

 投げやりな気持ちになるのは自分の心を守るためだ。
 私もそういう時期を通過してきたからよく分かる。
 最大限の同情と共感は必要だ。ただ、一線というのはある。そこを越えてしまったらもう救われないという線が。
 どこかで踏ん切りをつけて、切り返して前向きにならないと、誰も助けてくれないし、自分で自分を救える最終ラインを越えてしまう。
 建設的であることも、善良であることも、下らなくて無意味に思えるだろうけど、そうしなければ自分を幸せにできないのだからしょうがない。
 幸せになんてなりたくないと言わず、なんとか踏みとどまらないといけない。
 ぎりぎりのところで越えてしまうか踏みとどまるかで、天国と地獄とどちらへ行くかが決まる。
 チキンレースのようなもので、ぎりぎりまで行って止まれば勝ちだけど、越えてしまえば負けだ。
 どん底まで行った経験は強みになる。暗闇を見たことがない人間は、闇の本当の深さを知らない。闇を知る人間は小さな光を知る。
 自分を救えるのは自分だけだということを、もう一度よく自分に言い聞かせる必要がある。
 救われる自分と救う自分が協力し合わなければ、救えるものも救えなくなる。

 2008年4月22日(火) 「感謝されることの幸せ。
                感謝が循環する社会に」

 人に感謝されることで得られる幸福感というのはとても強いものだから、偽善ではなく奉仕活動を生き甲斐にしている人の気持ちは理解できる。
 青年海外協力隊なんて嘘っぽいと思うかもしれないけど、あそこで受け取る純粋な感謝の心はきっと圧倒的なものなんだろう。
 感謝されることの喜びを知ってしまったら、それは生き甲斐を越えて生きる目的そのものにさえなる。
 それはときに、お金の価値さえ上回る。

 生き方に迷ったとき、感謝されることというのは一つの重要なヒントになる。
 自分は何をすれば人に感謝されるのだろうと考えてみる。
 自分が幸せになることは後回しにして、自分は人のために何ができるか。
 誰にでもできることではなく、自分にしかできないことだと自負できるものなら、何も迷うことはない。無謀でも何でもやればいい。
 何の取り柄もないと思うなら、なるべく人がやらないことで感謝されることを選べばいい。
 それは遠回りかもしれないけど、結局は自分を幸せにする近道になる。

 この世の中は感謝の伴わないものが多いから、人の心がすさんでいく。
 感謝は感謝を生み、感謝の好循環となる。最初の一歩が大切だ。
 だから子供の教育が大事なのだし、上の立場の大人が手本を見せなければならない。
 特に先生と呼ばれる人間たちだ。偉そうにふんぞり返ってる場合じゃない。一番偉い人間が一番感謝しなければいけないのは当たり前のことだ。
 感謝されることをきちんと喜びと感じて、感謝を返さなければいけない。
 感謝だけでしか報われないことがあり、感謝だけで報われることもある。

 2008年4月21日(月) 「暗闇を駆け抜けろ。
                恐れを蹴飛ばしながら」

 歩みをゆるめて立ち止まれば、過去の亡霊が後ろから追いかけてきて、羽交い締めにしようとする。
 その正体は振り返るまでもなく分かる。過去の自分だ。
 捕まりたくなければ走り続けるしかない。スピードがすべての問題を解決するわけではなくても、多くのものから逃げることができる。
 前方を見れば自分の幻影がいる。過去の自分が思い描いた自分がいつも先を行っている。
 遠くに目標があって、それを見失っていなければ、あとはそちらに向かい続けるだけだ。
 反省も苦悩も振りほどいて、不安も絶望も蹴散らして進むのだ。思考さえも必要ない。
 暗闇は手探りでゆっくり歩いても、全速力で走っても恐いことに変わりはない。だったら、少しでも早く駆け抜けてしまった方がいい。
 明るい方へ。光の差す方へ。
 暗さに目が慣れて、闇を居心地よく感じてしまう前に。

 2008年4月20日(日) 「気弱で投げやりな気分の日。
                明日の自分は別人でありますように」

 もっと強くならなくてはとずっと思ってきて、でも振り返ってみると自分が強かったことなんて一度もない気がする。
 弱いままでも生きられると思ったけど、ときどきはもう駄目かもしれないと気弱になったりもする。
 沈み込むことは悪いことではない。それは力を溜めることだから。
 よくないのは、投げやりな気持ちになることだ。自分の中でつぶやく、「もういいや」は、かなり危険な兆候だ。
 日を改めた方がいい。

 2008年4月19日(土) 「生きることはトレードオフ。
                選ぶ選択と捨てる選択の両方が必要だ」

 ピンチはチャンス。
 何かを失えば、何かを得られる。
 一方的で全面的なマイナスというものはない。
 この世界はすべてトレードオフだ。何かを得るためには何かを犠牲にする必要があるし、逆の言い方をすれば、何かを犠牲にすれば何かが得られる。
 たとえ持っていたものをなくしたとしても、持つ前の状態に戻るだけだ。そんなに悲観することではないし、経験や記憶という貴重なものが残る。
 自由になれば失うものもあるし、不自由の中で保てるバランスというのもある。
 人には何を選ぶかという選択肢と、何を捨てるかという選択肢がある。
 一方だけの選択では片手落ちとなる。
 選ぶことは捨てることだ。その覚悟だけは常に必要となる。
 捨てる勇気がなければ得られないものもある。それは大切なものを手放してでも手に入れる価値があるものなのかどうか、責任を持った選択をしなければならない。
 捨てる選択というのは次に手に入れるためのものでなくてはならず、嫌だからやめるとか、大変だから逃げるとか、そういう半分だけの選択はよくない。
 本当に欲しいものが何なのかを、いつでも自分自身に問いかけて決めなければいけない。
 習慣というぬるま湯に浸からず、状況に流されないように。

 2008年4月18日(金) 「他人を非難したら負けになる。
                自己完結の独善的である方がましだ」

 誰でも自分がやれていることを自慢する権利はあるし、威張る自由もある。
 ただし、自分ができることをできない人間のことを非難する権利はないことは自覚しておく必要がある。
 自分がどれだけ正しいことをしていたとしても、正しくない人間を批判する自由はない。
 自分は賢いと思っても、賢くない人間のことを馬鹿にしてはいけないのだ。

 自分を尊重して欲しければ、まず他人に対して敬意を払わなければならない。
 人は誰も、人を裁く権利を有していないし、罰を与える資格もない。
 私は基本的に、人を批判する自由も有していないと思っている。
 自分が優越感を得たいためだけの非難など、何の価値もない。

 正しい行いをして、それを自慢せず、正しくない人に対して建設的な意見を言うくらいでちょうどいい。
 独善的であったり、偽善者であることはちっともかまわない。それが他者への攻撃につながらないのであれば、何の問題もない。
 最悪なのは、自分だけが正しいと思い込んで、他人を軽蔑することだ。
 自分の対極にいる人間に対しても、最大限の敬意を払いたい。

 本当に偉い人間は偉そうにしない。偉いのだから偉そうに見せかける必要がないから。
 正しい人間は正しさを口にしない。態度で示していればそれで充分だから。
 かわいい子はかわいこぶらないし、賢いやつは賢さを見せつけたりしない。本当の金持ちは札束を見せびらかしたりしない。

 どんなに最悪な相手でも、それを非難したらこちらの負けになる。被害者から加害者になってしまうから。
 この世界のくだらなさに嫌気が差したときは、自分の正しさの中に逃げ込めばいい。
 そして、自分の幸運を感謝すべきだ。

 2008年4月17日(木) 「やらずに後悔するならという論理は、
                やけっぱちの無責任な理屈」

 やってしまってから後悔することのなんと多いことか。
 やっぱりやらなければよかったと思っても、もう遅い。失った時間は取り戻せない。
 まったく無駄のない一日なんて息苦しくてたまらないけど、無駄の多すぎる一日は振り返ると虚しくなる。
 やってしまったら後悔すると分かっていることをやらずに済ませる方法はないものか。
 失った時間の代わりに得たものもあると自分を慰めるしかないのか。

 明日こそ何か劇的にいいことがあって、誰かが自分をすくい上げてくれるのではないかと淡い夢を見る。そんなことはこれまでの人生で一度もなかったのに。
 私たちは夢見ることをやめられないドリームジャンキーだ。
 現実の中で生きていると胸を張る人は、現実とも夢とも戦わずに現実の中に逃げ込んでいるだけかもしれない。
 夢を実現させた人は、現実にすり替わった日常の中で、理想との溝に足を取られてもがいている。

 正しい戦いが何なのか、分かっている人は少ない。正しい戦いを戦っている人は更に少ない。
 正しさという概念の、どの面にも、どの断面にも、どの角度にもいけると思っているけど、どの正しさが正解なのかが分からない。
 宇宙の正しさと、社会の正しさと、個人の正しさは、それぞれが矛盾して相容れない。
 人類として正しいことをしていれば社会人として正しくなくても許されるのか。
 社会に貢献する天才は間違った日常生活を送っていてもかまわないのか。
 正しくない私は、どの正しさを優先させればいいのか。

 見果てぬ夢を見ながら、正しさという幻をよろめきながら追いかける。
 向かっている先は自分の意志なのか、何者かの導きなのか。
 正しく在りたいと願いながら正しくない行いをしてしまうのが人だ。
 それが間違っているというなら、私たちは人間らしさを捨てなければならないのか。
 愛が無限に許すことなら、人は無限に間違ってもいいというのか。

 過ぎゆく日々の中で、らせんを描いて上昇しながら落下していく。
 多重らせんの我々は、始まりに戻るのか、果てまで行き着けるのか。
 この世界の謎が何一つ存在しなくなったとしても、人はおそらく完璧な正しさを見いだすことはできない。
 それでも私は、人はただ自分の幸福を求めるだけの生き物であるとは思いたくない。
 案外、私たちが思い描く都合の良い夢の中に答えがあるんじゃないかという気もしている。
 最後はきれいにオチが決まって、みんなで笑って終われれば最高だ。

 2008年4月16日(水) 「許しどころを決めるのは自分。
                最高に厳しい自分に応えたい」

 最終的な許しどころというか落としどころは、自分の判断として自分を許せるかどうかだろう。
 甘えや願望を抜きにして、本心から自分を許そうと思うことができたなら、もう他の誰の許しも、神の許しも必要なくなる。
 自分以外の全員に許されても、自分が許せなければ本当の意味での心の安らぎはない。
 ただ、そのためにはまず、判断者としての自己を最大限鍛えなければいけないというのがある。審判者としての資格がなければ、許す許さないの判断は意味をなさない。
 自分を許す能力を有する自分になることが先決だ。同時に自分も、許される自分になるための努力をしなければならない。
 誰だって、よく頑張ったねと頭をなでてくれる優しい手を待っている。でもそれはきっと甘えなのだ。
 頑張っても誰にも誉めてもらえなくて、それでもなお頑張れる自分でなければならない。
 報いや救いなんてものがアガリだと思ったら大間違いだ。
 許しどころは必ずあるという予感がある。今はまだ遠すぎて見えないけれど。

 2008年4月15日(火) 「生きることは燃えること。
                今日という日は生きるためにある」

 日々を過ごすことは簡単だけど、毎日生きることは難しい。
 私たちは自分で作った見えないカゴの中に囚われて、時の流れに流される。
 それを心地よいとさえ感じながら。
 自堕落にやり過ごす日々に自虐的な喜びをもって苦笑する。
 悲劇の主人公は気分がいいから。
 生きることは燃えること。
 それは恥ずかしいことではあるけれど、人々の嘲笑が追いつけないほど速く駆け抜ければ称賛に変わる。
 人はうらやましいことを笑いで誤魔化そうとするものだから。
 生きることは命を燃やす行為だ。私たちは自分の命で人生を買っている。
 もう一度、自分自身の深いところから発せられる心のつぶやきに耳を澄まそう。
 何がしたいのか、どこへ行きたいのか。
 それさえあれば他のものは全部捨てられるというものを思い定めることだ。
 私たちは、生きるために今ここにいる。

 2008年4月14日(月) 「休まないこと。
                次の一歩を踏み出し続けること」

 自分が人より上に立っていると思ったときから歩みは緩む。
 ただ遠くを見つめて休まず進んでいたときもあっただろうに。
 目指すのは人より上でも先でもなく、自分の両足の一歩先だ。
 左、右、左、右。休まず歩を進めることでしか前へは行けない。
 自分以外の全員に勝ったからといってそれで終わりではない。
 勝つべきなのは昨日までの自分だけだ。
 この世界は競争原理で成り立っているけど、本当の意味では競争などではない。同じ未来を目指す運命共同体だ。
 旗手が一人いればいい。あとはみんながついていく。
 チームワークは、一番遅い人間にみんなが合わせるのではなく、それぞれが自分の役割を精一杯全うすることだ。力を合わせるというのはそういうことだ。
 先を行く人間は後ろを気にせず突っ走ればいい。後ろから行く人間は遅れまいとするのではなく、自分の歩幅で行けばいい。大切なのは休まないことだ。
 もうここでいいと思えるところまで行こう。まだこんなところじゃ駄目だ。
 駆けて休むより、今日も一歩、明日も一歩だ。

 2008年4月13日(日) 「借りて返して深まる縁。
                二つの徳を生み出すために」

 困っているときに意地を張ることは決して格好いいことではない。
 差し出された手に対しては素直に手を伸ばせばいい。
 人に借りを作らないというと、独立心が旺盛で責任感がある人間と思いがちだけど、そうじゃない。実は借りを返すのが嫌な心の狭い人間だ。
 借りた金や受けた恩は利子を付けて返せばいい。
 それは二重の徳につながる。自分が借りを返すという徳と、相手が貸しを作るという徳に一役買うことになるから。
 たとえ自分一人でできることも、人に手伝って一緒にやるのはいいことだ。
 貸し借りを作るのが上手い人間になれば、困ったときに人が助けてくれる。
 借金も財産の内という言葉は、必ずしも居直った言い訳ではなくて、物事の本質を表している。貸してくれる人がいるということそのものがすでに財産だ。
 一番いけないのは借りっぱなしで返さないことだけど、一切貸し借りしないというのもあまりいいことではない。
 恩を売ったり返ってきたりで縁は深まり、縁は円になる。
 つながりが増えれば自分の可能性も広がる。一人でやれることには限界がある。
 甘えるのが下手なのは欠点だ。自覚できる欠点は直さないといけない。
 私もそうだから、今後は借りを返すために借りを作るということをもっと意識していこうと思う。
 ただし、バブルの時の銀行のように、貸しの押しつけはいけない。

 2008年4月12日(土) 「敵を失い自分の影と戦う。
                勝者も敗者もない戦いを戦っている」

 背負わされている荷物の重みがそのまま幸不幸を決めるわけではない。
 身軽であることは、必ずしも幸せなことではない。試練を与えられる人間は、それだけ天から目をかけてもらっているということでもある。
 嵐と凪と、選べるものなら嵐を避けるのが人情だけど、凪のつらさは耐え難い。
 勝ちたいライバルのいないシャドーボクサーが幸せじゃないように、戦うべき相手がいないのはかえって苦しいものだ。
 平和な時代に勇猛な武将が不要なように、時代に選ばれない不幸というものもある。
 天才にしか分からない苦悩があるというけど、そんなものは凡人の不毛な苦労に比べたらものの数じゃない。
 やりたいことがあって、戦って倒したい敵がいて、はっきりした目標がある人生が一番単純で分かりやすい。それこそ幸せな人生の見本のようなものだ。でも、そこまでお膳立てが揃っている人はなかなかいない。
 現代が生きづらくなったのは、私たちが仮想敵を見失ったからだ。善と悪との境界線が曖昧になって、憎むべき巨悪がいなくなってしまったことが、生きることを難しくしている。
 私たちは平和の中で着実に成長していけるほど成熟していない。
 それでも、この戦いを戦うしかなくて、影にさえ勝たなくてはならない。
 人は天敵をなくした悲しき王者だ。私たちの末路は、次に来るべきもののために見事な敵役を演じるしかないのかもしれない。

 2008年4月11日(金) 「日々の願いと祈り。
                有限の終わりと永遠の始まり」

 ここがあなたと私にとって、広い世界の入り口であり、狭い世界の出口になりますようにと願いを込めて。
 出口は入り口であって、終わりは始まりだ。
 この場所は無限へとつながり、今日は永遠へと続いていく。

 2008年4月10日(木) 「一日一歩の約束。
                未知に終わりはない」

 自分に課した最低限の約束事として、一日一歩というのがある。
 何をもって一歩とするかは人それぞれだろうけど、私の場合は、昨日まで知らなかったことを知ることをもって一歩としている。
 昨日までの自分と今日の自分が同一人物であってはいけない。ほんのわずかでも昨日の自分を上回る必要がある。
 だから、読んだことのない本を読み、観たことがないテレビや映画を観て、行ったことがない場所へ行こうと思う。お気に入りを繰り返し楽しむというようなことはなるべくしないようにしている。その時間があれば、新鮮なことのために使いたい。
 昔はそれが強迫観念みたいなところがあったけど、今はもっと穏やかなものになっている。以前ほど時間を無駄にすることを恐れなくなったのは、成長だとも思っている。

 未知は日々に充ち満ちている。
 特に今は、ネットで広い世界の知識とつながることができる時代だ。
 今まで知らなかったことを知ることは、大いなる喜びだ。ゲームの中のキャラクターが経験値を積んでレベルアップするみたいに嬉しい。
 人生ゲームにレベルの上限はなく、未知に終わりはない。
 知れば知るほど未知なことは増えていく。焦りと感じることなく、淡々と、粛々と日々を積み重ねようという気持ちでいる。
 一日の最後に自分に問いかけてみる。今日の自分は昨日の自分に対してどの部分で勝てるのか、と。


 2008年4月9日(水) 「経験と知識のミルフィーユ。
               実践を具とした予習と復習のサンドイッチ」

 経験を生かすには、土台としての知識が必要だ。
 逆に言えば知識は土台でしかなく、経験を積み上げてこそ形になる。
 学ぶことと経験することを折り重ねていって、それが知識の壁となり塔となる。
 若い頃は天才に重きを置くあまり経験というものを軽視していた。今は完全に認識を改めている。
 天才もまた土台でしかなく、努力による積み上げなしには普通の人に簡単に追い抜かれてしまう。
 知識が増えれば、経験から得られることも多くなり、より効率的になる。知識を伴わない経験はザルで水をすくうようなものだ。
 予習、実践、復習の3つでワンセットと思った方がいい。小学校で教わったことを今更ながら肯定せざるを得ない。
 経験と知識が何層にも折り重なった自分であれば、そう簡単に割れたり折れたりすることはなくなる。
 賢さは身を守る防具だ。防具はしなやかで丈夫なのがいい。

 2008年4月8日(火) 「毎日1円ずつ貯金すること。
               休まず続けること」

 毎日1円貯金することと、まったくしないことでは、意味が全然違う。
 毎日1円ずつ貯金箱に入れても、100円を貯めるのに3ヶ月以上かかる。だから、気が向いたときに100円貯金すればいいやと考えがちだ。でも、やっぱりそれは行為としての意味が違うし、実際問題、気まぐれな貯金というのは難しいものだ。
 本を読む時間がないほど忙しい日々を過ごしていても、毎日2ページでも読んでいけば、200ページの本を3ヶ月ちょっとで読める。休みの日に一気に1冊読めばいいと思っていてもなかなか読めるものじゃない。
 やった方がいいと思っていることは、毎日の習慣にしてしまうことが一番確実だ。英語の勉強でも、エクササイズでも、スポーツでもそうだ。
 一日1円貯金して、本を2ページ読んで、3分間運動をするなんてことは、どんなに忙しくてもできることだ。そんなことをして何の足しになるんだと疑問に思う前にやってしまった方がいい。続けるという行為には何かの意味が出てくる。
 私も今飛び飛びにやっていることを毎日続けることにしよう。字を書く練習や、漢字の勉強や、体を動かすことや、写真を撮ることや、文章を書くことも。
 怠けたい心に打ち克つということが、実は一番必要な鍛錬なのだろう。

 2008年4月7日(月) 「誓いと約束を忘れてはいない。
               病院の窓の外に広がる素晴らしき世界」

 経験することや学ぶことは、自分の中に種を蒔くことだ。その行為自体が目的ではない。
 水をやり、光に当て、芽を出させて、花を咲かせて、結実させる。そこまでやって初めて経験は意味を持つ。学びは自分が賢くなるためではない、世のため人のために活かすためだ。

 小さいときから病気がちで入院ばかりしている小学五年生の女の子に、この世界の多様な美しさや面白さ、楽しさを教えてあげるという基本姿勢がブレてはいけないと思っている。
 それは約束であり、誓いだ。
 苦しいことやつらいことは、私が教えなくても自分が経験して思い知る。
 だから、私は世の中の明るい面を伝えたい。

 2008年4月6日(日) 「覚悟の中の甘さ。
               夢は支えながら裏切る」

 相応の覚悟を持って生きているつもりでも、必ず甘さはある。遊びや緩みもなしにギリギリを軋む音を立てるように生きていくのは難しい。
 このままではいけないという思いと、覚悟を盾にこのまま結果を恐れず突っ込んでいきたいという思いが交錯する。
 自分がどこへ向かっているのか、それが正しい道なのかどうかは、誰も知らない。最終的に信じられるのは、自分の感覚だけだ。
 人はいつか、自分の夢に裏切られる。けどそれは夢が悪いのではなく、自分のせいとも言い切れない。
 夢と無理心中を図って、自分だけ助かってしまうこともある。
 もっと強い覚悟で毎日に臨む必要がある。夢や覚悟を防具にも武具にも使わないように。

 2008年4月5日(土) 「関係性の中で生き、
               関係性の中で学ぶ」

 人と人の関係性は、幸福なだけでなく試練という一面を持つ。だから、難しいのは当たり前で、簡単だったら自分の成長につながらない。
 親子、兄弟、友達、恋人、夫婦。同僚、先輩後輩、仲間。国や世界もまた、関係性だ。
 私たちは、他者との関わりを通してしか向上できない。だから、やっかいでも面倒でも苦痛でも、関係性の中で生きるしかない。それは訓練であり修行だと思うしかない。
 関係を放り投げてしまうことは簡単だ。でも、その関係性の中に自分と相手を成長させる要素があるのなら、安易に投げ出すのはもったいない。難しいからこそ努力するかいがあるというものだ。
 一人でいれば楽だけど、楽な道からは正しい目的地にたどり着けない。
 いろいろな関係性をもっと大切にしなければいけないというのは、自戒の言葉でもある。孤立が生きることを難しくさせる。
 人は人との関わりの中で学び、助け合う。人に救ってもらうことは恥ずかしいことじゃない。受けた恩は返せばいい。
 自分の周囲の関係性をもう一度見直そう。やれるのにやらないでいることがたくさんあるはずだ。できることを一つずつやっていくしかない。
 関係性もまた、毎日の積み重ねに他ならない。

 2008年4月4日(金) 「一度書いて全部消した。
               消えない記憶」

 誰にも読まれず生まれた言葉が誰にも知られず消されて、自分の中の秘密となる。
 それでも、一度はこの世に生み出された言葉だから、生まれる前に戻ることはできない。どこかでさまよい出ることになる。
 そういう言葉や思いが吹きだまりのように集まる場所があるのかもしれない。
 言葉は発信と受信というワンセットで意味を持つ。受け手のない言葉は、形を持たないまま宙をさまよい続ける。
 人の悪口も、愛の言葉も、本心も。
 今日、誰にも届かなかった私の言葉は、私の元を離れてさまよい出た。誰かのところに降りるかもしれないし、また私のところに戻ってくるかもしれない。
 戻ってきたら、育てて出そう。

 2008年4月3日(木) 「許し許され、
               許され許し」

 優しい気持ちになると人を許せるようになる。
 けど、あまり許しすぎると、他人に対して無関心になる。ノーチェックのゲートのように。
 許すというのは覚悟のいることだ。ノータッチで責任を放棄することとは違う。
 許さないことがときには必要になる。ただしそれは、自分も一緒に罪を背負うということだ。

 私は誰に何を許されたいと願っているのだろう。
 天が私を許さないとして、私は許しを請うだろうか。
 許されたことを特別嬉しいとも思えないのは、私の自覚が足りないせいかもしれない。
 許されるから生きているともいえるし、許されないまま無自覚にツケをためてしまっている可能性もある。
 それとも、真の許しとは、こみ上げる涙が止まらないようなものなのだろうか。
 私は六人兄弟の末っ子が許されるように許されているだけなのかもしれない。たいして責任はないから好きにやればいいというように。
 だとすればちょっと寂しい。

 許し許される社会の実現はまだずっと先になりそうだ。今の現実社会はそんな次元の高いものではない。
 それでも、許さないことより許すことが多い方が幸せには違いない。
 不幸な人はいろんなことが許せない人だ。許すことを覚えれば生きるのが少しは楽になる。
 許し難いと思うことでも、あとになったら許せることはたくさんある。だったら最初から許してしまった方が早い。

 2008年4月2日(水) 「楽しみは自給自足。
               発見と変化に楽しみあり」

 楽しいことは人に与えてもらうものではない、自分で見つけ、生み出すものだ。
 なんか楽しいことないかななんて言ってる暇があれば探しに出かけないと。
 楽しいことは家の中にもあるし、外にもあるし、その前に自分の頭の中にある。気づきさえすれば至る所にある。
 毎日を楽しめないとすれば、それは他の誰のせいでもなく、自分自身のせいだ。近しい人を責めても楽しくはならない。

 楽しさとは何かといえば、解釈であり、変化だ。
 現状においていかに楽しみを見いだすかと、今日より明日、明日よりあさってというように変わっていくことの楽しみという二つの側面がある。
 何の変化もない停滞が一番苦しい。それは直接的な苦痛よりもつらいことがある。
 決まった毎日の中で喜びを見つけ、変化、成長していく過程を楽しむことができれば、人生に退屈することはない。
 未知の中に楽しみの種はある。
 現状に満足してしまえばすぐに楽しさの貯蓄は底をつくし、足りないばっかりで満足することを知らなければいつでも飢えと渇きに苦しまなくてはならない。
 満足しつつ向上心を持ち続けるというのはとても難しいことだけど、自分に返ってくることだから、できるだけのことはしたい。

 2008年4月1日(火) 「毎日はフィールドワーク。
               目的のための学びがある」

 毎日は、この世界を知るためのフィールドワークだ。
 一歩外へ出れば、そこは学びの場となる。
 変わり映えのしない日常の中にも、多くのヒントが転がっている。
 大切なのは、好奇心と向上心を持ち続けることだ。意識と意志を持って日々を生きれば、毎日の中で得られるものはたくさんある。学ぶ姿勢がなければ、どれだけ与えられても身につかない。
 外から持ち帰った発見や経験は、部屋の中で整理する必要がある。フィールドワークで得たものはあくまでも素材にすぎない。そのまま家の引き出しにしまい込んでおいてもそのうちがらくたになるだけだ。
 次にそれをどうやて活かすかを考えなければならない。自分のためだけでなく、世のため人のために役立ててこその学びなのだから。
 私たちは学ぶことを目的として生きているわけではない。学び取ったものを自分の血肉とし、役立てるという一連の行為で一つのサイクルができている。
 思い描く結果が目的であり、手段は目的のためにある。学びに終わりはなくても、目的の行き止まりはある。
 どこまでいきたいのかが見えれば、日々の学びも見えてくる。何が足りなくて、どこを伸ばせばいいのかを自覚できれば、あとは毎日積み重ねていくだけだ。
 人生は逆算すると、意外と単純なものかもしれない。

 2008年3月31日(月) 「人は自分の神であり、
                自分にとっての天使にも悪魔にもなる」

 愚かな人間を人は責めるけど、愚かさの最大の被害者は本人なのだ。そんなに責めちゃ気の毒だ。
 賢くならなければいけないというのは、自分が自分の最大の被害者にならないためだ。
 自分が被害者にも加害者にもなってしまうことは、とても不幸なことだ。
 勉強も運動も芸能も教養も才能も、決して無駄じゃない。
 何かあることや、何かできることは、自分を救う最大の武器になる。これだけは人に負けないというものがあれば、それが自分の支えになる。
 何もできないのに何の努力もしないのが最悪だ。自分を救うどころか、自分が自分の敵になる。
 無能であることは恥じることではない。才能がないことも致命的ではない。
 大切なのは向上心を持って目標に向かうことだ。今は何もできなくても、発展途上なら何の恥ずかしいこともない。
 自分を救うのは神でも他人でもなく、自分自身だ。その結果として、他からの助けが得られる。何の努力もせずにぼんやりしてる人間を助けてあげようとは思わないのは、人も神も同じだろう。
 人は自分の天使にも悪魔にもなれる。自分にとっての神でもある。
 意志が行動となり、結果の蓄積によって人格は作られる。
 生きるということは、神が一人の人間を作り上げるということでもある。
 信じるだけでは救われない。行為こそが自らを救うということを忘れてはいけない。

 2008年3月30日(日) 「愛することと愛されることは、
                言葉のキャッチボールだ」

 愛する人には、お互いが生きているうちに愛していると告げなくてはいけない。
 いなくなってから伝わっても、それでは少しだけ手遅れだから。
 関係が近しいほど、言葉にするのは難しい。
 そんなときは手紙でもいい。
 大切なのは思いを形にすることだから。自分の外に出すことで思いは実在となり、波動として相手に伝わる。
 強く思っているだけでは充分じゃない。
 愛しているという言葉は、人が生きていく上でとても大きな力になるから、自分のためだけでなく相手のためにもなるのだ。

 2008年3月29日(土) 「1の喜びと99の苦しみだとしても、
                生きてこそ」

 人生には喜びがあって、それをどう評価するかだ。
 99の苦しみを1の喜びが打ち消すとするか、割に合わないとするか。あるいは、補って余りあるとするか、1の喜びのための99の苦しみをよしとするか。
 いいことばかりの人生なんてあり得ないし、その逆も言える。いいことと悪いことが同じ数ということもない。
 打たれ強さにも個人差があって、幸せを受け入れるキャパシティも人それぞれだ。
 不幸を恐れすぎる人もいれば、不幸に対して鈍感な人もいる。
 求める幸せの量も人によって全然違う。大きな幸福でも満足でなかったり、ささやかな幸せで生きていけたり、それは性格の違いというだけでなく、思想の問題でもある。
 賢い人は足を知る。愚かな人間は満足を知らず、それゆえに結果的に大きなものを手に入れることもある。
 求めることは大切だ。しかし、欲望に飲み込まれずにいることは難しい。
 私もそうだけど、多くの人がどれくらいの必至さで幸せを求めればいいのか分からないのではないだろうか。
 悟りはときに停滞をもたらす。満ちたりしてしまったら、それ以上努力して求めようとしなくなる。しかし、欲張りすぎると深みにはまる。
 清らかな人間が権力を持ったことで腐るというのもよくあることだ。
 清廉潔白であることが正しいことなのかどうか、私は分からない。清濁あわせのむことの方がいいようにも思う。
 気づきと自覚が必要だ。自分を善人だと思ってる人間ほどそうでもない。
 自分自身を過大評価しなくなれば、謙虚になれる。本当の意味で喜びや幸せを知るのはそのあとだ。傲慢は判断を狂わせる。
 一日の終わりに、今日楽しかったことや嬉しかったことを思い出してみる。何もなかったとしても、何もなかったことがよかったことだ。
 苦しみも自分を鍛えてくれる要素と思えれば、すべては楽しみに変わるだろう。

 2008年3月28日(金) 「内容よりも表現力の問題。
                説得力の有無はレトリックで決まる」

 まっとうなことを説得力をもって語り聞かせることは難しい。
 だから、レトリックが必要となる。
 納得しがたい正論をなんとかして飲み込むために。
 哲学者や小説家や詩人などは、感情や思考の代行業のようなものだ。みんなが思っていることをいかに上手に表現して共有のものとするかというだけのことで、特別なオリジナルというわけではない。
 たとえば歌の場合、同じ曲でも一般人がカラオケで歌うのと、プロがテレビで歌うのとはまったく説得力が違う。そういうことだ。
 いい歌詞を書くといっても、それはみんなが思ってることだから共感を呼ぶわけで、誰も使わない言葉を使って書いても理解されない。
 非凡な文章と平凡な文章の差は、レトリックだけといってもいい。上手に書けば説得力が生まれるし、普通に書いただけでは人の心を動かせない。
 私も、レトリッカーとしてもっと上達しなければいけないと思っている。

 2008年3月27日(木) 「歳月の優しさと厳しさ。
                人は時に流されゆく」

 歳月は人を待たず、か。
 歳月が育てるものと、変えてしまうものと。
 時の流れは、優しさでもあり厳しさでもある。
 私たちは歳月に鍛えられ、慰められ、打ちのめされる。
 あの頃はあまりにも遠く、今日という日もいつかあの頃になる。
 悲しいけど、悲しさだけじゃない。
 思えばずいぶん遠くまで来た。
 人は流れ、流され、もがきながら思いがけない場所に流れ着く。
 今いる場所が、自分の望んだ場所という人は多くない。思い通りにいかないのがこの世界であり、人生だ。
 誰もが変わり、これからも変わり続ける。時の流れに翻弄されながら、ときになすすべもなく。
 それでも、人生は夢じゃない。時は誰の上にも等しく流れる。刻んだ時間は一分、一秒とて幻ではない。
 この先に誰も見たことがない地平があると信じて流されよう。
 もっと遠くへ。そして、その向こう側へ。

 2008年3月26日(水) 「つきまとう影を恐れず、
                明るい光を目指す」

 幸福は不幸を引き連れてくるし、賢くなるほどに悲しみも増える。
 けどそれは、副作用の一面に過ぎず、結果の一部だ。それをもって本質とすべきではない。
 幸福はやっぱりいいものだし、賢さには価値がある。
 付随するマイナスを恐れて進めないとしたら、それはとても愚かなことだ。服が汚れるのを嫌がって外で遊ぶのをやめてしまうように。
 光が強ければ強いほど影もまた濃い。
 でも、私たちが欲するのは、ものごとの明るい面であるべきだ。
 正しい者は太陽へと向かって伸びる。
 強い光は影をも飲み込む。影に飲み込まれないように。
 暗闇に慣れすぎてはいけない。明るい光を目指すのだ。
 幸せになることを恐れないで。

 2008年3月25日(火) 「天国の好循環。
                天国には天国人たちがいる」

 天国は作られた世界だけど、自分の頭は自分が作り上げた世界だ。どちらが楽しいかといえば、自分の頭の中だろう。狭いながらも楽しい我が家だ。
 ただ、天国のいいところは、天国人がいることだ。素敵な人たちがたくさん集まっているところというなら、天国も悪くない。

 幸せか不幸かは、自分の中の判断基準でしかない。
 幸福な状態に気づかなければ幸せじゃないし、不幸を不幸と思わなければ不幸じゃない。
 学びの第一段階は、どういう解釈をすれば幸せに感じられるかということだ。
 そこには知識も必要だし、論理や理屈の組み立て方も学ばなければならない。
 おめでたくて何も知らなければ脳天気で幸せかといえば決してそんなことはない。
 自分の意志で脳内麻薬を出せるようになって初めて、幸せを自ら作り出すことができるようになる。

 学びの第二段階は、人を幸せにすることで人から幸せにしてもらう方法論を獲得することだ。
 情けは人のためならず。宇宙でもブーメランは返ってくるように、人に対する良い行いは巡りめぐって自分のところに戻ってくる。
 人は自分のためよりも自分が大切に思う人のための方が頑張れる。それを利用しない手はない。
 恩を売るというと悪いことのように聞こえるけど、言葉を変えれば徳を積むということだ。
 自分で自分を幸せにするには限界があるけど、たくさんの人に幸せにしてもらえば自分でするよりももっと多くの幸福を得ることができる。
 そんなふうにして、人を幸せにした人間だけが天国の住人となれる。そこは、みんながみんなに与え合っているから、幸せな世界なのだ。幸せが余っているから人にあげることができるという好循環になる。

 地上を天国にすることはできる。理論上は。
 でも、現実的には無理だから天界にある。
 入れてもらいたければそれだけのことをすることだ。
 悪いことをしない代わりに良いこともしない清潔なだけの人間は入れてもらえない。

 2008年3月24日(月) 「桜の計画立たず。
              欲張りすぎて考えただけでおなかいっぱい」

 桜の計画が頭の中でぐるぐる回って、思考が散漫になっている。今日は難しいことを考えられそうにない。だから、頭の中の計画を整理するのを兼ねて、予定をここに書いてみよう。そうすれば見えてくるものもあるかもしれない。

 まず桜だ。近所まわりは一日でぐるっと回れるから計画を立てるまでもないとして、本命候補の五条川や山崎川をどうしよう。ポイントを絞る方向でいくのか、回れるだけ全部回るつもりでいるべきなのか。
 名古屋城も行きたいけど、どうしよう。鶴舞公園や落合公園なんかの公園ものもどうするか迷う。飛ばせるっていえば飛ばせるし、行けるものなら行きたい気持ちもある。
 奥山田のしだれ桜も今年は撮りに行きたいと思っている。
 あと、カタクリだ。これも足助に行かないといけない。タイミングとしては今週中になる。

 桜やカタクリだけなら話はそうややこしくないのだけど、3月31日までの明治村の券をどうするかとか、青春18切符で行く中央本線の旅に出るのかやめるのか、東京行きがあるのかないのか、そのあたりが絡んでくるから複雑になる。
 明治村はこの前行ったばっかりだからやめるかとも思うんだけど、桜の季節に行ったことがないから、一度行きたい気もする。
 中央本線は、行くとなると計画もしっかり立てないといけないから、これは大変だ。行き当たりばったりで行けるほど鉄道の知識がない私だし。

 なんてことを考えると、いつどこへ行くべきなのかがまったく分からなくなってくる。桜の満開だって何日になるかもまだ決まってない。
 とりあえず今のところ決まっているのは、今週中にカタクリへ行くということだけだ。あとは桜の満開待ちか。
 今年は今まで見にいったことがないところへ桜を見にいこうとも思っている。それも実現するかどうか。
 結局、今日のところは計画が立たないまま時間切れとなった。続きは明日考えよう。

 2008年3月23日(日) 「一年前の桜の約束。
                またこの季節に立っている」

 あと40年生きても、桜は40回しか見られない。
 去年の春から今年の春にかけての間隔の短さを考えると、40回という回数がいかにあっけないかを思わずにいられない。
 あと40回も見られるじゃないかなんて割り切り方は、そう簡単にできるものではない。

 一年4つの季節、去った季節にそれぞれの記憶があって、繰り返しのようでいて、いつも新しい。
 私たちはいつも真っさらな一日を生きているのに、そのことを思わない。
 この一年も新しい一年なのに、ありがたみに気づかない。
 一日をどういうふうに刻んで、一年をどう過ごせば、思い残すことがないようにできるのか。
 一日の終わりと次の日の始まりの間に立って、後ろを見て前を見る。
 進んできた道をそのまま真っ直ぐいけばいいのかどうかと考える。

 それでも、去年の4月の約束はもうすぐ果たせそうだ。また来年も桜の季節に戻ってくると誓った。
 一年先の約束を守るためには、一日ずつを重ねていくしかない。
 スーラが描いた点画のように、私たちは点を並べながら一枚の絵を描く。一点ずつは無意味に思える点も、集まれば形を成すのだと信じて。
 今年もまた桜を撮ろう。これが最後になるかもしれないという思いを込めて。

 2008年3月22日(土) 「時間の価値は上がって下がって。
                時のリズムに乗っかろう」

 大人になると時間の価値が上がって、お金を出してでも買いたくなる。
 子供の頃はあんなにもたくさん無駄な時間があったのに、あれはどこへいってしまったんだろうと思う。
 人は人生の一番いい時期に時間を売って金に換える。そういうシステムになっているから仕方がないとあきらめて。
 もっと歳を取ると、今度は時間の価値が下がっていく。時間があってもできないことが増えていくから。

 人はお金で時間を買えたらきっと買うだろう。
 擬似的な若返りだとしても、大金を払う人間は多いに違いない。
 人の寿命はどんどん伸びている。生活環境や食事がよくなったり、医療の発達ということもあるのだけど、ある種人類の必然でもある。
 いつの時代も健康で長生きというのは大きなテーマであり続ける。
 生物学的に見た人間の寿命は120歳という話がある。それ以上は生きられないけど、そこまでは誰にでも可能性はあるという。
 少し前まで日本人の平均寿命は50歳や60歳だった。今は当たり前に80年を生きる。その先の40年にどんな意味と価値があるのだろう?
 自分が生きてみると何年生きても足りないと思うけど、生き甲斐と目標を持って毎日必至に生きている100歳というのは少ないように思う。そう考えると、120年というのは長すぎるのかもしれない。健康で体の自由がきけばまた事情も違ってくるのだろうけど。

 人には時間が必要だ。
 それは、やりたいことをやる時間でもあり、やるべきことをやる時間であり、物理的な必要性という面もある。若いというだけで気づけないこともたくさんあるから。
 もし無限の時間を与えられても、人は上手く活用できない。
 限られた時間の中で何をやるかを考えるから、いろんなことができる。
 お金で時間を増やすことはできなくても、与えられた時間がある。その中で何をすることが自分のためになって、世の中や人のためにできることが何なのかを見いだすことが大切だ。
 時間に流されるのではなく、時間を追い越そうとあがくのでもなく、時間のリズムと同調するのだ。
 一日24時間、一年365日、時は刻み続け、休むことはない。

 2008年3月21日(金) 「ポイント制になったときのために、
                一日1ポイントずつためていこう」

 悪いことをしたらその分良いことをすればプラスマイナスゼロになるのかならないのか、ということをふと考える。
 人は、それまでずっと良い行いをしてきても、たった一度悪いことをしただけで他人に裁かれ、非難され、良い行いすべても否定される。それは本当に正当な判断なんだろうか。
 それじゃあ、悪いことの倍良いことをしたらどうだろう。それで足りないなら10倍、100倍なら許されるのか。

 たとえば、親の財布から1万円盗んで、それで買った宝くじが1億円当たったとする。
 親に1万円返して残りを全部自分で使ったらどうだろう。やはり許されないか。
 それでは、親に1億円渡したらどうなんだ。それは良い行いになるのか、それとも1万円を盗った時点で許されないのか。
 1億円を盲導犬協会に寄付したらどうだ。それでもなお、人は許されないものなのか?

 政治家が裏であくどいことをして金を集めても、それを国と国民のために使うならいいんじゃないかと思ったりもする。
 義賊という言葉あるけど、悪いことをして金儲けをしてる人間から金を盗って、それを困っている善人にばらまいたら、それは正しい行いなのか?
 もしホリエモンが、パフォーマンスとしてあちこちに寄付をしたり、貧しい外国に学校を作ったりしていたらどうなっていただろう。彼は善人と呼ばれただろうか。

 善行、悪行は金のことだけではもちろんない。目に見える形も見えない形もいろいろある。心の中だけのこともある。
 何をもって善とし、悪と決めるかも難しい問題だ。社会通念と法律と個人の主観と、すべてを考え合わせても出ない答えもある。
 デスノートで悪人を殺すことは、善なのか悪なのか。

 悪いことをしても神様が救ってくれるというのが宗教で、人はそれを装置としてずっと利用してきた。
 この世界に神が存在しようとしまいと、人は宗教を必要とする。
 判断がつかない問題を、作り上げた絶対的な他者にゆだねてしまうために。
 私たちはいまだに自分たちだけで善悪を決めることができてないでいる。
 そんな未熟な人間が人間を裁くところに無理がある。

 人はどうやって人を許すかという大きなテーマがある。
 机上の空論的なアイディアとしてはある。善悪をポイント制にして目に見えるように数値化することだ。
 それをするのは、この世界の外の絶対他者でなければいけないのだけど、やってくれる人がいるかどうか。
 ただ、現状のような曖昧なままでは、この先もずっと混迷が続くだけだ。
 近い将来で査定制度というのは可能性としてなくはない。せいぜいクビにならないように、今からコツコツと善行を積んでおいて損はない。
 昔、一日一善、と笹川会長がCMで言っていたけど、未来のテレビでは一日1ポイント、と第二の笹川会長が言うことになるかもしれない。

 2008年3月20日(木) 「0から1へ。
                やってもらならなくても自分に返る」

 小さな世界であがいてもがいで必至に生きている人間を馬鹿にするけど、小さな世界で頑張れない人間が大きな世界で頑張れるはずもない。
 村長もできない人間が総理大臣をやれるかという話だ。

 大きな夢を見ることは大切なことだけど、今自分が置かれてる場所で最善を尽くすことはもっと大切なことだ。
 常に100パーセントできる人間だけが、より大きな世界でも自分の力を発揮できる。
 考えたらそんなのは当たり前のことだ。小さな世界の方が易しくて実力も出せるし、世界が大きくなればなるほど難しくなるなんてことは。

 今日頑張れないやつは明日も頑張れない。
 やるなら今日、この場所からだ。
 人生なんて手を抜こうと思えばいくらでも抜けるし、頑張ろうと思えば限界はない。
 やらなくて損するのは自分だという事実の前で、選択するのは自分だ。
 何を頑張ればいいか分からなければ、とりあえず町内一周走ってくればいい。腕立てするか、漢字の勉強をするか、テレビの英語講座を見るか、そんなことでもいい。
 体のためになる不味い野菜を食べるように、嫌なことだけどやれば自分のためになることをやればいいのだ。

 目標を持って続けることが頑張ることで、やり続ければ結果は出る。頑張ってると自覚できることが一番大切なのだと思う。
 夢があるなら、少しでも近づけるように、毎日努力することだ。
 0と1は、100と1000よりも大きい。
 一日5分頑張ることは、決して現実離れした理想論なんかじゃない。

 2008年3月19日(水) 「過去の自分と未来の自分の橋渡し。
                タイムマシンがないから一歩ずつ」」

 私は未来の自分に会うために生きる。
 もしくは、未来の自分に過去の自分を会わせてあげるために生き延びるといってもいいい。

 過去から未来にかけてのすべての自分は、すでに時間軸の上に連続して存在している。なのに私たちは、隣り合わせの自分にさえ会うことができない。
 時間旅行者としての現代人は、乗り物というものを一切持たなかった原始人と変わらない。連続する地面の上を自分の足で歩くしかない。海も渡れず、空も飛べない。
 今は時間を飛び越す方法が分からない。

 時間旅行というのは概念だけのものなのか。
 人間が想像できることはすべて実現可能というけど、過去から今現在に至るまで、時間旅行の乗り物もなく、未来人がいないということは、時間軸上のどこにも存在しないという間接証明になってしまうのかもしれない。
 もし、明日タイムマシンが完成したら、それ以降、過去の現実には未来人の旅行者が溢れかえることになる。そうなっていないということは、ついに人類はタイムマシンを持てないのか。
 マシンではなく、肉体が時間を超えられるとしたらどうだろう。それは、一つの時間の流れの中なのか、無限分岐なのか。
 時間を自由に移動できたとしたら、人の一生も、生活も、この世界も、すべてが変わってしまう。ほとんど世界を最初から作り直さなければいけなくなるくらいに。

 人は時間の囚われ人だ。
 でもそれは不幸なことだろうか。不自由だからこそ良いところもたくさんあるんじゃないか。
 そこに安住してしまうのは、大人になるのを拒む子供だということになるのだろうか。

 私は過去の自分を否定しながら愛すべき人間として認めている。
 駄目だけど駄目なりの良さもある。
 自分でありながら自分ではないような、夭折した弟がいたらこんなふうに思うのかもしれない。
 過去は過ぎ去っても消えることはない。
 過去の自分はあの場所に変わらずいる。
 置き去ってきた自分たちのためにも、私は未来へ向かって多くの自分に出会わなくてはいけない。
 過去の自分をおみやげに。
 未来の自分も楽しみに待っていることだろう。

 2008年3月18日(火) 「無意味でも無駄でも生きられる。
                一瞬の一点で存在したのだから」

 今はもう、意味なんてなくても生きていける。
 意味を探し回って、転んでは壁に突き当たっていたあの頃とは違う。
 生きるのに理屈なんていらない。
 歳を取るということはやはり成長するということだ。衰える部分はあるにしても、あの頃と今の自分を比べたら、比べようがないくらい今の自分の方が人として優れている。
 若造の論理など、こてんぱんにやっつけてられるのだ。
 ただし、老いに潜む危険には充分注意しなければならない。
 強くなるということは鈍くなることだし、長生きするほど過去の自分を忘れがちになる。
 変わることは正しいことだけど、どう変わったのかということを自覚しておかないと、ただの移動になってしまう。成長とは積み上げることだ。
 生きることが結局は無駄に終わったとしてもかまわない。死んだとたんに意識もろとも消滅したとしても、それはそれでありだ。
 私という存在は全体の一部であり、永遠の一瞬だということに納得がいったから。
 私はどこかで誰かにつながっていく。
 だからもう、私が生きたことは無意味ではないのだ。

 2008年3月17日(月) 「正しさは美しいもの。
                新しい時代には新しい正しさを」

 正しいことを言う人ほど、自分の言葉に耳を傾けなければいけない。
 自分は自分の言うことを聞いているか。自分の言葉を裏切ってないか。

 正しい言葉と正しい人間との関係は、逆かもしれない。
 正しいことを言う人が正しいのではなく、正しい人が言うことが正しいのだ。
 説得力は、地位と徳に比例する。
 無名の人間が叫ぶ正しいことよりも、偉いという先入観がある人の間違った言葉の方が人の共感を呼ぶことが多い。
 ドラマ「踊る大捜査線」の中で、いかりや長介が織田裕二に言った言葉を思い出す。
「正しいことをしたけりゃ偉くなれ」
 これはとても的を射た理屈だ。

 どんな人間も、心の中では自分が信じる正しさを実行しようとしているのだと思う。
 あえて間違ったことをする人も、そうすることが自分にとって正しいと思ってるからするのだ。盗人にも一分の理という言葉もある。
 正しさは人の数だけあって、それを一つにまとめることなどできない。
 それでも、方向性としての正しさを掲げることはできるはずだ。
 誰もが、自分の心が発する正しさに耳を貸さないといけない。
 分かっていてもできないことも、分かっていることが大事だ。正しいことが分からなければ正しいことをしようがない。

 人は正しいこともできるし悪いこともできる。
 その中であえて損になる正しいことをするところに価値がある。それが人の美しさだ。
 幸福も損得勘定だけではない。
 美しい国、日本という目標は間違ったものではなかった。ただ、美しい国にするためにはまず国民が人として美しくなければならなくて、そのためには長い時間がかかる。
 一番大切なのは、子供の教育なのだということをもう一度思い出す必要がある。ドラマ「エジソンの母」は示唆に富んだ内容だった。
 正しい人間が正しくあれないような世界では、いくら生活が豊かでお金持ちだとしても、それは美しい国なんかではない。
 かつての日本が曲がりなりにも美しくあれたのは、国も国民も貧しかったからだ。それでも生きていけたから美しく正しくあれた。
 けれど、いまさら貧しかった時代には戻れないし、戻る必要もない。
 今の時代には過去とは別のシステムを見つけなければいけない。残念ながら、それはまだ見つかっていないけど、新しい時代の正しさはこれから作っていくものだ。
 私は悲観していない。未来へと向かうこの世界は、確実に少しずつ正しくなっていっていると、私は信じている。

 2008年3月16日(日) 「悲しみよあらためましてこんにちは。
                悲しみにさよならする必要はないのさ」

 自分が人を悲しませてないなんて、ゆめゆめ思っちゃいけない。
 みんな自分が知らないところで誰かを悲しませている。
 それは仕方がないことではあるけれど、悲しませているであろうことに思いを巡らせ、思い至ることが必要だ。
 自分の存在が多くの悲しみの上に成り立っていることを知れば、日々の過ごし方も違ってくるだろう。
 人を悲しみから救うものは何か。悲しみを取り除くにはどうしたらいいか。喜びで打ち消すか、慰めで救うか、他のもので忘れさせるか。
 どれも間違いじゃないけど、正解でもない気がする。
 人は、悲しみを共有することでしか、悲しみを悲しみとして受け止められない。
 悲しみというのは必ずしもマイナスのものではない。人生において必要不可欠なものだ。
 そこから多くのものが生み出されるし、生きる原動力にもなる。
 私たちはもっと上手く悲しみと共存していけるはずだ。
 心の痛みにそっと手を触れ、目をそらさず、優しく抱きしめることで。
 悲しみを知る人が優しい人で、優しい人が強い人だ。
 だから私たちは、悲しい人であることを否定することはないのだ。

 2008年3月15日(土) 「知らないことを知っている。
                しんがり希望」

 私が知っていることなど、全体の中のわずかでさえなく、微かなものでしかない。
 知ってるつもりでいることも、本当に正しいのかどうかも分からない。
 救いがあるとすれば、自分が知っていることの外側に知らない世界が広大な広がりを持っているということを知っていることくらいだ。
 自覚しない無知と自覚する無知は違う。

 こんな私程度が先の方へいってるようでは先の見通しは暗い。
 私が最低ラインになるくらい全体の底上げをしなければ、この世界は本当には良くならない。
 バスの座席でも部屋でも一番後ろに座りたがる私だから、しんがりをつとめたい。この世界の良心として。
 後ろからみんなを見守るのが好きなのだ。どんどん私を追い越して先へ行って欲しいと思う。人に置いていかれることなんて全然嫌じゃない。むしろ自分が置いていってしまう方が心苦しい。
 背中からみんなを応援したい。自分が先頭を行きたいなんて思ったことはない。
 それなのに、今は自分より先を行く人が見えない。私は一人、コースを外れたまま、先を行く人を探し続けている。

 この世界の光とは、暗闇を引き裂いて行く人の残像だ。
 その微かな光を頼りに、続く人々はあとをついていく。
 先頭を行く人間は苦しい。そういう役割を担った人もいる。
 しんがりもまたとても厳しい位置だ。先頭と同等の力を持っていないとつとまらない。
 21世紀の旗手はどこの誰で、今頃何をしてるのやら。早く出てこい。

 2008年3月14日(金) 「意味はずっと遠く、ずっと先に。
                無意味に耐えてこそ浮かぶ意味もある」

 この世に意味のないことなんてないし、必要ない人間なんていないのだ、なんてのは空々しい慰めの言葉でしかない。けど、実際問題として逆算していくとその論理はまんざらデタラメでもないのかもしれない。
 今こうしてここにある現実を基準点とすると、この現実を成立させるためにはどんな小さな要素も必要不可欠なわけで、何か一つでも欠けてしまえばこの現実は成り立たないことになるから。
 一方で、この世界そのもの存在は一切合切が無意味で無駄という理屈もある。
 世界の外側へ外側へと視点を変えていって、世界と無の境界線を越えることができたとしたら、この世界は存在する必要がなくなる。なくなっても誰も困らないことになるから。
 神が世界が欲したとしても、神自身が消えれば世界も必要はない。
 私たちは絶対的な意味と絶対的な無意味の中間にいて、常に意味の間でさまよい揺れている。世界は人間が認識するから世界たり得るわけで、意味は人間と共にある。
 生き物がいればそこに世界が生まれるわけではない。世界の存在には認識という要素がなければならないからだ。
 たとえるなら、作者がいない物語が存在できないようなものだ。
 世界は決して普遍的なものではない。すごく危ういものだ。けれど、人間と共にある限り揺るぎないものとも言える。突き詰めていけば、世界は人間の脳の中にしかない。
 私たちがいるこの世界は、ある意味では趣味的なものだ。あえて存在させているけど存在しなくてもいいものと言ってもいい。何者かの道楽と言っても言い過ぎではない。
 それでも日々の暮らしがあり、人生があって、それは幻などではなく、確かな手触りがあるものだと人は言う。
 それは否定しないけど、この世界は多重の入れ子構造になっているという現実を踏まえないと、世界と自分との関係性を見失う。
 太陽が地球の周りを回っていると考えていた昔の人を私たちは馬鹿にする。でも、自分たちも事実を忘れている。地球の外に宇宙が広がっているのではなく、宇宙の中に地球があるという当たり前の事実を。
 人が本当の意味での現実を知るまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。千年か、一万年か、それ以上か。
 私は出来る限り存在して、気長に待つことにしよう。

 2008年3月13日(木) 「自分の階層に生きてるけど、
                どの階層にも人生がある」

 人は誰もが自分の階層で生きていて、他の階層をよく知らない。だから、他人を理解するのが難しい。
 同じ階層同士の人間は話しも合うし気も楽だ。でも、似た者同士では未知の刺激が足りない。
 どんなに不愉快で腹が立ったとしても、自分とは別の階層の人間と関わった方が得るものが多いだろう。無理解は無理解として、そういう世界があるのだと思い知ることになる。

 類は友を呼ぶというのは、ある意味絶対的な法則だ。それは天国や地獄でも適用される。人は自分のいる場所を知らず知らずのうちに自分で選んでいる。誰かに決められるわけではない。
 朱に交われば赤くなる、郷に入れば郷に従え、なんて言葉もあるけど、基本的に人は自分にとって居心地のいいところで生きるものだ。常に不平不満を言っていたとしても、本能的に別の階層に移動することを恐れる。
 自由選択なのに、自然と同じくらいの偏差値の人間が集まってくる高校や大学などが象徴している。
 自分がいるべき場所より高いところに身を置くことは苦しいことだ。その逆のことも言える。自分より低いレベルの集団なら楽かといえばそうではない。

 人の気持ちを理解するためには、上から下まで一通り体験するのが手っ取り早い。でも、そんなことは現実的には難しいから、想像で補うしかない。
 自分より上の階層の人間もいるし、下もいる。その構造を理解すれば、必要以上に他人と対立することもなくなるだろうし、共感もできるようになるはずだ。
 どの階級にもいいところと悪いところがある。一番上は、一番いいところでもあり、一番きついところでもある。そんなにうらやましがるところじゃない。低いところは気楽でいいなと思うかもしれないけど、そこにはそこの苦労もある。

 2008年3月12日(水) 「勝ち負けじゃない。
                勝っても負けても前進だ」

 生きる意味を考えている時点で私は負けなのかもしれない。
 本当に優れた人は、意味など置いてけぼりにして自分のしたいことをして突き進んでいく。
 そんな人から見たら、悩んで考え込んで立ち尽くしてる人間は、ひどく愚かに見えるだろう。
 それでも、この世界は優秀ではない人間が圧倒的多数を占める。確信を持って我が道を行くなんてことができるのはほんのわずかだ。
 強者の論理は一種の暴力だから、弱者に対して振り回してはいけない。
 成功者の論理に普遍性はない。
 私たちは誰も、一方的な勝者ではあり得ず、完全なる失敗者にもなれない。
 世の中は常に流動的で、自分もまた変わらずにいることはできない。
 私たちは、迷って転んでときにはうずくまりながら、どうにか進んでいくしかない。
 負けながらでも生きていくことに問題はない。

 2008年3月11日(火) 「過去からの贈りもの。
                30年ものの涙」

 自分がこれまで経験してきたことや学んできたこと、感じたものや得たものに、罪と愚行を混ぜ込んで、何らかの形で作品として結実させることができたら、私はきっと許される。少なくとも、自分で自分を許すことができると思う。

 今日、たまたま耳にした斉藤由貴の「卒業」が心に引っかかって、曲を探して繰り返し何度も聴いた。
 発表当時から現在に至るまで、一度もいいと思わなかった曲が、何故か今日は染みてしょうがなかった。
 ああ、この曲って、やっぱり名曲だったんだ、と23年遅れで気づくこととなった。
 デビュー曲として歌う18歳の斉藤由貴の映像を見て、感慨深いものがあった。

 それをきっかけとして、You Tubeで懐メロメドレーになった。
 チューリップの「Wake up」やオフコースの「さよなら」なんて、熟成しすぎて30年前まで一気に運んで酔わせてくれる。
 久保田早紀「異邦人」や渡辺真知子「かもめが翔んだ日」なんてのを聴いて感動していた小学生というのも、今思うとちょっとおかしい。
 70年代後半から80年代は、ザ・ベストテン世代だ。この時代に生まれ合わせたことは幸運だった。
 当時はビデオもなかったから、ラジオからカセットテープに曲を吹き込んで、それを繰り返し聴いたものだ。だから今でも歌はよく覚えている。最近の曲はすぐに忘れてしまうのに。
 懐メロに走り出したらもう老化現象だけど、これまで生きてきた年数分の好きな曲を持っているということは、とても幸せなことだ。
 それぞれの年代に、それぞれの思い出の曲がある。

 作品というのは、高尚であるよりも世俗的なものの方が伝わりやすいということがある。
 歌謡曲などは大衆文化の典型だけど、私たちはそこから大切なものをたくさん学んだ。
 小説、ドラマ、映画、コミック、ゲームなんかもそうだ。分かりやすい形で哲学も思想も盛り込まれている。
 古くてもいいものは次の世代につなげていって、過去に与えてもらったものを自分の中で吸収して、新しい形として生み出していかなくてはならない。
 30年後に誰かを泣かせる作品とは、なんて素敵なものだろうと思う。一つそんなものを持つことが出来たら、それだけで生きた価値があったと言えるだろう。

 2008年3月10日(月) 「言葉がつなぐ人と人。
                思いやりのある強い言葉を」

 優しいだけの言葉は弱った心の慰めにはなるけどそれだけだ。
 相手のことを思ってぶつける厳しい言葉は、嫌われるかもしれないけど価値がある。
 感情的に怒ることは身勝手な行為だ。でも、愛を持って叱ることは必要なことだ。
 誰だって叱られるのは好きじゃないけど、叱られないと分からないのが人だから。
 叱ったり叱られたりして互いに身を正していく。
 人と人との関係で、言葉は非常に重要なものであり、取り扱いが難しいものでもある。たった一つの失言が関係性を決定的に壊してしまうこともあるから、そういう意味では恐いものでもある。
 ただ、あまりにも恐れすぎて強い言葉を投げかけられないとしたら、それは臆病すぎる。挑戦してみなければ始まらない。
 どんなに厳しい言葉も、相手に対して思いやりがあれば伝わるものだ。時間がかかったとしても。
 言葉は相手にも向かうと同時に自分にも返ってくる。だから発する言葉には責任を持たなくてはいけない。
 人に何かを言うためには、自分がその言葉に耐えられる必要がある。
 正論を言うことは誰にでもできても、正論に負けない人間は稀だ。
 言葉はキャッチボール。行って帰って往復でセットになっている。独り言でもない限り、相手あっての言葉だ。一方的であってはいけない。
 私たちは言葉に救われ、言葉に責められ、言葉に裏切られる。それでも言葉によってしか人とつながれないのだから、どうにかして言葉を手なずけるしかない。
 言葉に翻弄されず、言葉の主人になれるように。

 2008年3月9日(日) 「言葉と祈り。
               つなぎとめる願い」

 毎日の中で何気なく使う、「気をつけて」や「また明日」といった言葉たち。
 言われる方は軽く聞き流しているけど、実はそこには願いが込められていることを忘れてはいけない。
 気をつけてというのは祈りであり、また明日というのは約束だ。どちらもささやかなものかもしれないけど、そこには確かな想いがある。
 人は誰かの切実な想いによってこの世界につなぎ止められている。自分一人では世界に掴まりきれない。
 気持ちは言葉によって現実のものとなり、実在によって人と人はつながっている。
 想いは自分の中であたためるものではない。発して共有するものだ。言葉にしなければ二人のものにならないこともある。
 親が出かける子供にかける車に気をつけてという言葉がどれほど強いものか、恋人が別れ際に交わすまた明日という挨拶がどれほど明日という日を切望しているか、そのことに思い至ったとき、人は本当の意味で言葉の大切さを思い知る。
 日々の暮らしの中には小さな祈りがたくさんある。自分のものも、大事な人のものも、他人のものも、そっと手のひらで受け止めよう。淡雪が手の上ですぐに溶けてしまうように祈りが消えてしまったとしても、そこには一瞬感触が残るはずだ。

 2008年3月8日(土) 「人生の余白と遊び。
               そこには空が実在している」

 遊びや余白は何事においても必要なものであり、とても大事なものでもある。
 それは不可欠な無駄であって、不必要なものではない。
 たとえば人間は脳の30パーセント程度しか使えてないと言われるけど、それじゃあ残りの70パーセントは必要ないかといえばそうじゃない。いざというときのための予備であり、それだけの余裕が必要ということだ。
 もし、人間が脳の100パーセントを常に使ったとしたら、PCでいうところのビジー状態になってしまってフリーズしてしまう。
 世の中でも100パーセントの人間が労働しなくてはいけないわけではない。遊んでる人間も必要なのだ。会社組織でも同じことが言われる。
 車のハンドルやブレーキも遊びの部分がないとかえって危険になる。
 余白のない文章や写真は息苦しいし、真面目一本槍の人間は扱いづらい。
 人生も常にフル回転していたら、そのうち焼き切れて燃え尽きる。
 手加減なしの全力というのは、自分も周りも痛めつけるということを忘れてはいけない。
 空白には何もないのではなく空白という存在がある。ゼロは無ではなくゼロという実在がある。
 何もしない一日も大切だ。すべてはバランス感覚だという面白みのない結論に至るわけだけど、それは本当のことだから仕方がない。
 よく学びよく遊べとは昔から言われていることだ。これも真理に違いない。
 空虚を恐れることはない。人生には実だけでなく虚も必要なのだから。

 2008年3月7日(金) 「考えることが生きること。
               ただ頑張ればいいというものでもない」

 それでもけなげに生きていこうよという結論は、とても安易で無責任だ。
 前向きなようでいて、実は誠実じゃない。
 私たちは、この世界が本当に存在する価値があって、人間は生きる意味があるのかということを、ぎりぎりまで追求する必要がある。
 ただ真面目に生きていればいいという問題でもない。
 考えることや思い悩むことを放棄してしまえば楽になれる。けれど、考えて決めて行動するという手順を踏まなければ、成功も失敗も次につながっていかない。頑張るだけでは行き当たりばったりすぎる。
 結論として無駄だと分かったとき、人はどこまで潔くなれるだろう。この世界を消滅させて自分たちも消えていけるだろうか。記憶も爪痕も残さずに。

 夢や希望で苦い人生を甘くコーティングしても、噛んだら苦い。
 日々を忙しく過ごすことで信念を忘れるのは、自分に対する裏切りだ。
 私たちは世界に向き合わなくてはいけない。宇宙があって日常があるのだから。その逆ではない。ものごとの本質を後回しにしていいはずもない。
 現実は多層構造をしていて、様々な面がある。世界のどこかで殺し合っているのも現実だし、宇宙で起こっているリアルタイムの出来事も、毎日の暮らしも同じく現実だ。
 私たちは多面的な現実を同時に見る必要がある。そして、行為を決定しなければいけない。
 大切なのは意識的に選択することだ。そこには覚悟と責任が伴うことになる。
 誠実に生きるということは、分からないことを分からないまま放置しないことだ。分からなくても追い求めなければいけない。
 世界は問いかけであり、我々は解答者なのだから。

 2008年3月6日(木) 「宇宙の中の誰でもない独り言。
               起きながら言う寝言」

 浅い眠りの中で見る夢は、現実と幻の狭間で揺らぎ、自分の身が浮かんでいるのが空なのか水なのかさえも判然としない。
 ここは宇宙の中なのか外なのか。暗闇と光が折り重なる世界で、どこまで飛んでも、どこまで潜っても、明と暗が明滅を繰り返すだけだ。果ては新たな果てを作り、逃げ水に乗った蜃気楼のように届かない。
 神の神の神がいて、箱庭の中の箱庭の中の箱庭がある。誰の言うことも絶対だと証明されることはない。外には外があり、内には内がある。
 永遠も終わりも、連続する一瞬の交代に過ぎず、無限はゼロを突き抜けて無限を作り出す。
 人は揺らめきの中に漂うばかり。
 すべてが愛おしく、すべてが無意味で、残酷な優しさに満ちている。
 人間が意味を見つけるための旅に出たとき、始まりの前に戻るしかなくなった。裸でいられなくなったことが、どれだけ絶望的な不幸なのを私たちは知らない。
 銀河の片隅で誰かが見つけた真実は、別の銀河を滅ぼす。そしてまた、新しい銀河が誕生する。
 絶望する贅沢と、夢見る幼さを持った地球人は、いまだゆりかごとはいはいをいったりきたり。今はまだ子供でいさせてと、夢うつつ。しゃべる言葉は、寝言とうわごとばかり。

 2008年3月5日(水) 「苦しい道は自分のため。
               答は自分の中の弱い心が知っている」

 目の前に楽な道と苦しい道があるとき、苦しい道を選ぶのが正解だ。
 楽な道では自分を鍛えることができないから、その道を行く意味がない。
 厳しい方へ行けば、達成したとき経験が自分の血肉となる。
 レベルアップすればそれまで厳しかった道も厳しくなくなり、更に厳しい道に挑戦することができるようになる。
 厳しい道のりの先にいいご褒美があるのは世の常だ。楽な道にお宝がザクザクなんてことはない。
 ただし、無謀と勇気を取り違えないように気をつけなければならない。ときに強すぎる好奇心は我が身を破滅させることもある。実力も伴わないうちに強敵に挑んでいけば簡単にやられるのがオチだ。
 そのあたりが人生の難しいところで、一筋縄ではいかない。
 チャレンジ精神と臆病な心と、両方同じくらい持っていなければいけない。
 今の自分に見合った苦しさを選択して、地道にレベルアップを目指すことだ。

 それと、日常生活においては、やりたくないけどやった方がいいと思うことは必ずやった方がいい。
 やらなくてもいいことをやりたくないとは思わない。やらなければいけないけど面倒だからやりたくないと思うのだ。だからそれはやるべきだということになる。
 人生とは日々の暮らしの内側にあるもので、日常の外側にあるものではない。
 だから毎日の生活の中で自分を鍛え、高めるしかない。
 気がゆるめば際限なく落ちていくし、最大の克己心を発揮してようやく少しずつ向上していく。

 何をすればいいのかは、実は最初から答が出ているのだ。
 それはつまり、自分の中の駄目な部分がしたくないと思うことをやればいい。
 自分の声に耳を傾けて、弱い心の言うことを聞かなければ、それが答になる。

 2008年3月4日(火) 「許し許されどこまでも。
               許しの先に世界は存続するや否や」

 神は何度でも許す。
 仏の顔も三度まで
 悟りを開いていない人間の身でも、二度までは許そう。許し難いと思ったことを二度だけ許すことだ。
 許すということは、人の行いの中で最も尊いことであり、もしかしたら一番難しいことかもしれない。
 なかったことにするのでもなく、忘れるというのもでない。飲み込みがたいものを飲み込んで、自分の中で浄化することが本当に許すということだ。

 許す以外に幸せになれない道もある。
 逆に言えば、許すことさえできれば幸せになれることもある。
 乗り越えると言い換えてもいい。
 許すことは困難ゆえに価値がある。簡単だったら価値も低い。

 仏とは三度まで許せる人のことだ。
 それを超えれば人も神に近づける。
 憎しみは危険な快感だということを知らねばならない。
 許さないことが正しいことであることはない。

 許して、許して、許して、その先に何があるのか?
 それはいってみなければ分からない。いけば分かる。
 この世界はそうやって存続してきた。
 人間は許される存在なのだろう。
 だから私たちも世界を許さなくてはならない。
 どんなに不条理で、どんなに理不尽に思えたとしても。
 許すことが許されることだということに、やがて人は気づくだろう。
 そのためにはもう少し時間が必要かもしれない。

 2008年3月3日(月) 「一人の限界。
               人とつながることで自分以上になれる」

 一人で生きていけることは強さの証しなんかじゃない。
 弱い自分を認めたくないと我が身を守っているだけだ。
 人に頼ることも強さの一つだ。それは人を信頼するという行為だから。
 頼って頼られることは与え合うことでもある。そこに心の絆が生まれ、人とつながっていることで人は強くなれる。自分自身でいるよりも。
 誰かを守るということは簡単なことじゃない。ときにそれは弱みにも重荷にもなる。
 でも人は自分のことよりも大切な人のために頑張れるもの。
 自分のためだけに生きるのは限界がある。
 弱いまま強くなれる。強さは弱さを否定することではなく、弱さと強さは矛盾なく同居する。
 ヒーローも天才も一人ではヒーローや天才たり得ない。誰もみな、弱い一人の人間が核になっている。
 人間は人とのつながりなしには自分自身にさえなれないのかもしれない。

 2008年3月2日(日) 「幸不幸は見る角度の問題。
               私たちは多面体の単純な存在だ」

 何かを失ったときは、その代わりに得たものに思い至ることが大事だ。それが幸せになるための方法の一つだから。
 何かをなくすだけということは理論的にあり得ない。質量保存の法則というのは、人の幸不幸にも当てはまるものだから。
 無駄なことをして時間を失ったとしても、失敗という経験を得ることができる。
 行く予定だったところへ行けなくても、その代わりに行けたところがあるはずだ。迷うことや辿り着かないこともまた無駄じゃない。
 得られたものが小さくても、それはきっと失ったものに見合うだけの貴重なものだったのだ。
 幸福も不幸も、物事の見方の一面でしかない。一つの出来事も角度を変えれば違って見える。
 私たちは多面体で、一面的な存在ではない。その面は、現在過去未来という時間面も同等だ。構造としては特に複雑ではない。
 学びによっておめでたさを獲得すれば、どんな生き方になっても不幸じゃなくなる。
 自分の都合のいいように解釈する方法論を自分のものにすることが、幸せになる一番の近道だ。

 2008年3月1日(土) 「夢のようで夢じゃない。
               だから無責任ではいられない」

 人生は夢のようだけど夢じゃない。
 そんなに無責任でいいものじゃない。
 この感覚や手応えは確かなものだ。
 死はオチでもなく、終わりでもない。
 たとえ自分の意識が消えたとしても、私たちの存在は前後とつながっている。
 人生で起こったことは何一つなかったことにはできない。
 終わってみれば人生は夢のようにあっけないものなんだろうけど、この中にいる間は出来る限りのことはしよう。
 最後に、楽しい夢のようだったと言えるように。

 2008年2月29日(金) 「ライバルがいることの幸せ。
                負けても燃えたい」

 人は嵐の中では絶望しない。凪の中で絶望するのだ。
 戦うべき相手がいれば戦える。たとえばそれが自分の影だったとしてもかまわない。敵は誰でもいい。
 何も出来ない状況に置かれると、人は希望をなくしてしまう。
 幸福でも不幸でもないことが、もしかすると一番不幸なのかもしれない。自覚症状がない分、深刻だったりもする。

 私はいつも、負けたいと思ってきた。
 負けることを恐れながら、完敗したいと心のどこかで願っていた。
 誰かに負けることは屈辱的で悔しいことだけど、負けてみないと自分の実力が分からないということもある。
 一回負ければ、勝つための方法も見えてくる。負けてないということが勝っていることにはならない。

 自分よりも進んだ論理を持った人に徹底的に言い負かされたい。議論としての勝ち負けではなく、人として圧倒されたいという半ば自虐的な気持ちもある。
 世界で一番進んだ思想を持った人間に会いたい。本の中ではそれは見つけられない。
 私の先生であるアインシュタイン先生は、もはやこの世にいない。
 負けたいのではなく、負けてもいいと思う人に出会いたいというのが実際のところなのだろう。
 負けないと謙虚になるのが難しくなる。

 悲しきシャドーボクサーのような一生は寂しい。
 良いライバルを持つことは幸せなことだ。
 勝負は互いを尊敬する気持ちがあってこそ名勝負となる。
 相手を叩きのめすことが勝負の目的ではない。勝ち負けなんて本当は大した問題ではないのだ。
 燃えることができれば、それがすべてと言ってもいいのかもしれない。
 この世界で、燃え尽きることができるような恵まれた人間はほんのわずかだ。
 燃えることができる勝負なら、初めから負けると分かっていても挑むべきだろう。

 2008年2月28日(木) 「問題は起きるようになっている。
                だから人は成長し、何かを成せる」

 絶対にハズレを掴まない人生なんてあり得ないし、最初から勝つと分かっている勝負ばかりしていてもつまらない。
 生きることそのものがリスクが伴う行為なのだから、いろんなことが起きるのが当然だ。失敗も必ずある。
 誰かが言った。生きることは問題を解決することだと。
 悔しいけどその通りだ。もっと高尚に行きたいと願っても、次から次へと起こるやっかいな問題に対処することで日々は過ぎ去り、気がつけば自分が思った以上に歳を食っている。
 時間を押しとどめようとしながら先を急いで焦る。矛盾もまた、生きることの本質の一つだ。
 悪いことが何も起こらないようにと願うのではなく、悪いことは起きるものだという前提で立ち向かっていこう。
 問題を一つ解決すれば、それが経験となり自分の力となる。
 私たちは成長した先で何かを成すために生きている。何も成せないとしたら、それは力が足りないからだ。
 更なる実力が必要だ。もうこれでいいということはない。

 2008年2月27日(水) 「オフラインの2日間。
                思ったことと気づかされたこと」

 この2日間、ほとんどネットがつながらなくて、原因追及と試行錯誤の間に無力なまま時間が流れた。
 自分の環境の問題なのか、回線異常なのか、プロバイダのサーバなのか、最初はどこが悪いのか見当がつかなかった。
 結局のところどこがいけなかったのか分からないままつながるようになって、なんとなく釈然としないものが残った。原因が判明してないから、またいつつながらなくなってしまうか知れないという不安もある。
 PCは3台体制にしてあるからいざというときの対処はできるのだけど、回線に関しては過信していた。昔電話回線だったときはときどきつながらなくなったりしたものだけど、ADSLにしてからは大きなトラブルなどなかったから油断していた。
 今後は回線に関しても二重の備えが必要になる。とりあえず、ルータとモデムの予備を買い揃えることにしよう。今回ももしかしたらモデムの不良が原因だった可能性はゼロじゃない。ルータは一度外してモデムと直接つないでも駄目だったから問題はなかったと思うけど、故障しないと決まってはいない。2台持っていれば原因追求をしやすい。

 この2日間のオフライン生活は、多くの時間を失って、得たものがいくつかあった。それは必ずしもたくさんではないけど、ネットから無理矢理切り離されなければ気づけなかったという意味で貴重なものだった。
 ネットなしでも生活はもちろん成り立つ。それはそうだ、10年前までインターネットなど存在しないも同然だったのだから。
 案外大丈夫にも思った。これが3日、4日と続くほど依存度は薄れていくだろう。
 ただし、ネットのない生活はものすごく不自由なものだというのも思い知った。水道、電気、ガスに次ぐくらいのライフラインといっても大げさではない。
 何も調べられず、人との通信手段も失い、買い物もできず、何が起こっているのかも分からない。
 ネットのつながりのはかなさも思った。
 依存症がここまで進行しているというのを自覚する機会でもあった。

 つながることは当たり前じゃない。特別なことであり、大切なことだ。
 何気ないメールのやりとりだって、ネットなしには存在しない。失いかけて初めてその重要性に気づいたりもする。
 日々の暮らしの中で孤独感の中に沈み込まずに済んでいるのも、ネットのつながりがあるからこそだ。
 私たちをつなぐ回線というのは、もはや人体における血管に近いものとなっているのかもしれない。ネットの世界は大きな一つの生命体となっているとも言える。
 ネットの外側に放り出されて、またネットの内側の暖かさを思い出した。

 私たちは思っている以上に21世紀を生きているとも思った。
 20世紀の私たちが思い描いたのは、世界中の人たちとリアルタイムでつながる世界だった。それが実現しつつある。
 ラジオ、テレビ、電話、カメラ、ビデオ。それらは全部、人と人とがつながるための道具だ。もっとつながっていたいと、インターネットを発達させ、みんながみんな携帯電話を持つようになったこの時代、人は以前よりも強く人とつながっていることを求めているのかもしれない。
 インターネットはこの先も更に広がり、人々の暮らしに深く食い込んでいくことになる。脳とリンクするなんてことも30年先には実現しているかもしれない。
 それはもはや逃れられない方向性だ。

 まあしかし、オフラインはオフラインで楽しいこともたくさんある。それを思い出させてくれたのもこの2日間だった。久しぶりにまとめて映画も観たし、ゲームもやった。昔みたいに楽しめなくても、それはかまわない。読みたい本だってたくさんある。
 今後はオンとオフを上手く切り替えて、用もないのにオンラインに浸っているのはやめよう。
 おまえちょっとネットの依存度が高くなりすぎているぞという天の警告的回線遮断だったかもしれない。天の作為的な偶然なんてのはこれまでに何度となくあったことだ。手の込んだこともするし、巧妙に伏線を張ることもある。
 今回の原因はそういうことにしておこう。本当にそうかもしれないと、半ば信じている私なのだ。

 2008年2月24日(日) 「不自由な二元論的世界。
                そこには女がいて、男がいる」

 男にとっていい女というのは、尻を蹴飛ばして仕事をさせてくれて、いい仕事をしたら頭をなでてくれる女だ。
 逆に言えば、悪い女というのは、魅力的すぎて夢中にさせて、仕事も勉強も手につかなくなるさせる女ということになる。
 ソクラテスの「良い妻を持てば幸せになるけど、悪い妻を持てば哲学者になれる」という言葉は、真理を端的に言い表している。
 家に帰りたくないと思わせる奥さんを持った旦那が出世するというのは、皮肉な話だけど世間にはよくあることだ。

 一般論は別にして個人的な思いとしては、尊敬できる女の人が好きというのがある。人として、女性として、尊敬という感情はある意味では恋愛感情よりも強く長持ちする。
 才能でもいいし、仕事でもいいし、家庭人としてでもいい。趣味や特技や生き様や夢でもいい。何でもいいから尊敬できるものを持っている人が好きだ。
 将来の夢はお嫁さんになることですなんて言ってた女の子を、子供心にも理解できなかった。もっとやりたいことがたくさんあるだろうにと思ったものだ。
 お互いが尊敬という感情でつながれれば、それはとても幸せなことだ。
 憎しみや支配欲の裏返しのような激しい恋愛感情ではなく。
 ときに男と女は軽蔑という感情でもつながってしまうことがあるから気をつけなくてはいけない。

 男と女という不自由な関係でしか成り立たないこの世界を作り出した神は、やはり偉大だ。何もかもよく分かっている。
 エネルギーを生み出すためには違う要素がぶつかり合う必要があって、そのためには一元的ではいけない。常に相反する要素が存在し、衝突や結合を繰り返しながら変化を続けなければ世界は止まってしまう。
 たとえ男だけ、もしくは女だけで繁殖能力があったとしても、それでは世界は先細りになって弱体化していく。
 女と男は異分子同士だから理解し合えない部分もある。それでも、互いに必要とし合う関係なのだから、なんとか折り合いをつけてやっていくしかない。自分が理解できないものを憎むのは愚かなことだ。
 男女は同権であっても同じではない。それぞれに役割がある。どちらが上でも下でもない。
 いい男といい女を目指していくことで恋愛も家庭も上手くいくのだと信じたい。

 2008年2月23日(土) 「見えない善意を見ること。
                受け手は同時に与え手でもある」

 自分という存在は、大勢の人の善意で成り立っているんだなと、ときどきしみじみ思い知ることがあって、本当にありがたいことだと思う。
 世知辛い世の中だとか、弱肉強食だとか、勝ちだ負けだ格差だというけど、私たちは言うほど不幸じゃない。少なくとも、人は誰も、自分が思うほど不幸ではない。
 人はいつでも、感謝よりも文句の言葉が先に出る。

 この世界が善か悪かといえば、それはもう圧倒的に善の要素が勝っている。でなければ世界は成立しない。
 戦争にだって最低限のルールはある。
 悪意がこの世から消えることはなくても、善意が消えることもまたない。
 悪がいったん優位になっても、反動として善が押し返す。
 悪意を拡大解釈して悲観することはない。

 誰もが有形無形の善意で生かされていることに気づきさえすれば、この世界ももう少し住みやすいところになるだろう。
 愚かではないけない。相手を思いやり、自分が人のために何をすべきかを知るためには賢くなければいけないからだ。だから教育というのは必要なのであって、大切なのは知識の量なんかではない。想像力を養うための学びでなければ価値はない。
 人は痛みを知り、経験から善意の大切さを学び取る。
 けど、叩かれる前に気づけばそれに越したことはない。そのために必要なのが想像力だ。

 人は受け手であると同時に与え手でもある。本人の意志に反する部分でも。
 教えることは学ぶことであり、教わることは教えることでもある。
 善意を受けることは、善意の送り手に価値を与えることだ。
 そのためにはお互いの意志が通じ合わなければいけない。
 感謝することもまた善意なのだ。
 日々の暮らしの中で一つでも多くの善意を見つけることが大切になる。それが目に見えない小さな人助けになるのだから。

 2008年2月22日(金) 「成功の基準は自分が決める。
                勝負は最後の瞬間に決まる」

 成功していない人間は、非成功者ではなく、未成功者だ。まだ何も終わってないし、始まってもいない。それが負けになるはずもない。
 何をもって成功とするかは人それぞれだ。他人に決めてもらうことではない。
 勝ち負けの判定も、人にしてもらわなければ分からないほど無能では困る。

 何が成功なのかは、実は単純なことだ。
 死ぬ間際に自分の人生に納得できればそれが成功ということになる。
 思い残すことばかりで死にたくないと思えば非成功となる。
 明日死んでも悔いはないと心底思えるなら、それはもう成功しているということだ。
 そう考えれば、おのずとやることは見えてくる。
 武士でなくてもいかに死ぬかというのが人生最大のテーマであることは変わらない。死を前提としない生き方は、目的地を持たずに漂う旅のようなもので、どこまで行っても終わりがない。
 自分で見つけた目標に向かうことが生きることだ。辿り着くことが必ずしも絶対条件ではない。
 死は思い通りにはならないけど、死から逆算して今何をするかを考えることは発想として間違ってない。その方が分かりやすい。あみだくじをゴールからやるようなものだ。

 みんな本当は何をすればいいのか分かってるんじゃないだろうか。分かっていてやれないのが人生の難しいとこで、困難を克服した人間が納得のいく生き方ができる。
 最低限、日々を侮らず、怠けないことだ。少しずつでも積み重ねて、前進していけば、少なくとも自分を納得させることはできる。誰も誉めてくれなくても、自分を慰められる。駄目だったけどけっこう頑張ったじゃないかと。
 死を見ないふりをして生きるのは愚かなことだ。おびえる必要はないけど、前提とすることを忘れると、道を見失う。
 生きることは死なないことだ。当たり前のようでいて当たり前じゃない事実をしっかり胸に刻んで、全力で自分を守らなくてはいけない。
 生きていさえすれば、自分が求める成功の可能性はあるのだから。あきらめるのは死んでからでいい。

 2008年2月21日(木) 「もっと遠くへ。
                もっと速く」

 忘れていた。以前の自分の決意と思いを。
 もっと速く、もっと高く、もっと深く、もっと遠くまでという気持ちを、私はどこで落としてきたのだろう。
 前は、気持ちばかりが先行して足がもつれてもどかしいほど前へ進めなかったものだけど、それでも気持ちは勝っていた。
 いつしか熱を失い、気がつけばクルージングに入っていた。こんなスピードでは、永久に辿り着けない。
 ギアを5速から3速に落として、再加速しなければいけない。

 強い願いは祈りに似ている。
 それは自分の内側にとどまりきらず、天に向かっての声なき叫びとなる。
 固い決意の炎を絶やさない者にだけ、天は最後の一押しで手助けをしてくれる。
 あるいはそれは、他者の力などではなく、言うなれば火事場の馬鹿力のような自分の中からほとばしる潜在能力なのかもしれない。
 困難な目標を実現するためには狂気も必要だ。普通にやっているだけでは普通以上のことができるはずもない。

 東京の街を歩いていると、これだけ大勢の人間の中で頭一つ出すって並大抵のことじゃないなとつくづく思う。
 この世界は自分が思っている以上に人間が多い。
 世界の人口66億人の中の一人という数字は、現実のものとして自覚することは難しいけど、埋もれたくなればもがくしかない。
 誰も辿り着いたことがないところに辿り着く可能性は誰にでもある。人の後をついていかなければ。
 誰も見たことがない世界まで行き着ければ、それが答になる。

 2008年2月20日(水) 「才能は必要な要素の半分。
                そのことに気づくのに時間がかかった」

 天才は高速道路で一気に目的地を目指す。
 凡才は一般道でちまちま進む。スピードも出せず、信号に引っかかり、渋滞に巻き込まれながら。
 それでも、目的地に向かうことをあきらめさえしなければ、時間はかかってもやがて高速と同じところまで行ける。
 天才と凡才は道が違うだけだ。上から行くか下から行くかだけで、目指すところが同じなら、一緒のところに辿り着く。時間切れにならなければの話だけど。

 若い頃の私は、才能がすべてだと思っていた。才能がなければ何者にもなれないのだと。この世界の人間は、天才とそれ以外の二種類しかいないと考えていた時期もあった。若さとはそういうものだ。
 大いなる勘違いに気づけるくらい長生きできたことを喜びたい。あのとき死んでいたら、私は何も知らないままだった。
 自分が天才じゃないことを嘆くのは、両親が大金持ちじゃないことでいじける子供のようなものだ。才能は有利には違いないけど絶対的な条件とは限らない。
 どんな才能も目的を達すための要素の半分でしかない。50の才能を持つ人間でも、努力によって50を上積みしなければ100にはならない。
 才能が10しかなければ、努力で90の上積みをすればいい。それはものすごく困難なことだけど、最初から可能性がゼロというわけではない。

 大切なのは思いだ。自分は誰のために何をしたいのかをはっきり自覚できていれば、あとはやるべくことを日々重ねていくだけだ。結果は出ないより出るに越したことはないけど、その前にやることがある。
 才能は人を幸せにする。才能はサービス業に属するものだからだ。天才は世界の人たちに奉仕することを義務づけられたつらい職業だ。美人であることが男たちに夢を与える一方で嫌な思いもするように。
 才能を求めるなら、サービス業に従事する覚悟が必要だ。才能に応じた役割が与えられる。

 高速でいけば見えない風景もある。
 下から遅れていくことは無駄な経験ではない。
 負け惜しみなんかじゃなく、それもまた人生だ。どちらの道もいいことがあり悪いことがある。
 不幸なのは目的地を持たないことで、目指す場所があるということはそれだけで幸せなことに違いない。
 くたばるときは目指す先をしっかり向いてくたばろう。

 2008年2月19日(火) 「忘れかけていた約束。
                誓いは今でもあのときのまま」

 ここのところ、いくつもの大切なことを見失っていた。何度もなんども自分の愚かさに気づかされ、鈍い後悔が心に重く沈んだけど、それでもまた歩き出せると思った。過去に自分と交わした約束を思い出すことで。

 ドラマ「ハチミツとクローバー」のエンディングになっている平井堅の「キャンパス」をきっかけに、YouTubeで好きだった曲をさかのぼりながら聴いてみた。
 コブクロの「蕾」、「ここにしか咲かない花」、レミオロメンの「粉雪」、「3月9日」、K「over」、スピッツ「空も飛べるはず」や「楓」、「ロビンソン」、小松未歩「東京日和」、ミスチル「sign」、「君が好き」、「終わりなき旅」……。
 あの頃の気持ちがよみがえる。

 素敵な歌たちや小説やドラマや映画、人々との出会いと別れと彼らの言葉と思い。なんて素晴らしいものをたくさん与えてもらってきたことだろう。
 感謝の気持ちを持って、その恩に少しでも報いなければいけない。
 私が、あるいは私たちがやるべきことは、恩返しじゃなく、ペイ・フォワードだ。映画にもなったこの言葉にこそ答えがあったのだ。
 ペイ・バックではなく、他の誰かに違う形で先贈りすること、それがこの世界が存在する意味そのものでもある。
 作品からもらった感動を作品で返す必要はない。誰かが歌う曲で優しい気持ちになれたなら、その気持ちを身近な人にそっと差し出せばいい。
 そうやって優しい気持ちが次へ伝わっていけば、善意は形を変えながらやがて世界を回って自分のところに戻ってくる。二者の間で完結してしまうものは1対1の等価交換でしかないけど、次へ送り出すことで1は100にも1000にもなる。

 才能がなければ世の中の役に立たないなんてことは決して無くて、誰でも自分の思いを形にすればそれがどこかで誰かの役に立つ。
 受けた恩の大きさを思えば、何らかの形で返さなければいけないのは当たり前のことだ。全力を尽くすことは特別なことじゃない。
 あの日の誓いをもう一度思いだそう。交わした約束はまだ果たされていない。

 2008年2月18日(月) 「絶望を道連れに、
                光の導く方へ」

 心の奥にある絶望が溶けて消えるわけはなく、そこは永久凍土となって閉じこめられているだけだ。
 誰かの温かい手が溶かしてくれるなんてのはただの幻想だ。
 けれど、凍り付く大地にも花は咲くと信じたい。
 希望は絶望の上にこそしっかり根を張る。絶望を伴わない希望は浮き草のようなものだ。
 心の深淵をのぞき見て知った目ならば、わずかな明かりさえあれば前に進める。
 小さな光が導く先に何があるのか、それは行ってみるまで分からない。

 2008年2月4日(月) 「長生きという得難い経験は、
                世界一周の旅にも匹敵するものだ」

 長生きすることは勝ちか負けかといえば間違いなく勝ちだ。負けなかったという意味で勝ちとなる。誇っていい。
 長く生きるということは、この世界の移り変わりを自分の目で見て、多くを経験するということだ。それは、若いうちに世界中を旅して回るよりも価値があるとさえ言える。生きる世界は狭くても、縦の広がりがあるものだから。

 生きるというこは、自分の幸せを求めたり、誰かのために役に立つということと、世界を見るということと、二つの軸がある。それは絡み合って互いに影響を与えながら意味を持つ。
 傍観者としてだけでは得られない経験があり、見聞きすることで得られる学びという側面もある。
 人は何故生きるか。それは、見て感じて経験して、それを学び、学んだものを他人や世の中に還元して、更にそこから与えられる幸せを得るためだ。受け取ったものを別の形で与えて、もう一回戻ってくるという経緯を経たものが本当に満足できるものだ。受け取るだけでは人は決して幸せにはなれない。
 生きていればいろんな人に迷惑もかけるけど、知らずしらずに人に与えているものもある。この世界の関係性は一方的ではないものだから。
 自分にできることをやることが結果的には他人の役に立つ。何も与えているつもりがなくても、長生きすることは正しいことなのだと知るべきだ。悲観したり卑下することはない。

 この世界の移り変わりを見ることはなんと面白いことか。その一点だけでも生きる価値はある。こんなに楽しい物語の途中で退席してしまうなんてもったいなすぎる。
 30年後の世界は一体どんなふうになってるだろうと想像するだけでわくわくするではないか。生きてさえいればそれが見られるんだから、生きない手はない。

 2008年1月31日(木) 「この世界はバランスがすべて。
                天才が世界を傾けることもある」

 この世界の偉人や善人の抑止力というのがどの程度役に立っているのだろうと、ときどき思う。
 おそらく、完全な善にも完全な悪にもこの世界が染まることはない。悪人だけの世界になってもその中で善は生まれてくる。善良で優秀な人間だけを集めてもそこでもまた差が出る。均一というのはあり得ない。
 すべてはバランス感覚で成り立っているというのは分かる。バランスが崩れるから問題が起こるわけで、バランスさえ保たれていれば、世界はどんなに傾いていても成立する。それの単純な形が夫婦や家族で、世界はそれを拡大したものだ。
 善人であること自体は間違っていない。けれどそれは人に押しつけるようなものではなく、バランスの一方に過ぎない。みんながみんな天才になる必要はない。天才だけの世界など上手くいくはずもない。
 必要悪というのは確かに不可欠な要素なのだろう。バランスを取るにはどこかで重しがいる。
 無理に善人になろうとしなくてもいい。自分らしくあることがどの部分でバランスを取ることになるのかを知ってさえいれば。
 自分が役割を怠ければ世界のバランスが崩れるくらいの自覚が必要だ。もし、明るい場所に立つとするなら、そのことによって影ができるということも意識しておかなければなるまい。
 善は悪を生み出し、悪は善を作る。それがこの世界だ。天国も地獄なしには成り立たない。

 2008年1月28日(月) 「心の嵐の中をゆく冒険者が
                旅の果てに見るものは」

 人の心の中で、どんな嵐が吹き荒れているかは、本人にしか分からないものだ。どんなに近しい人でもそれは分からない。たとえ家族でも、夫婦でも。
 心が凪いでいる人などいない。いたとしても一時的な状態であって、凪が本質という人間はいない。凪は嵐を乗り越えて獲得するものだという言い方ができるかもしれない。
 人は誰も皆、未知の大海をゆく小さな冒険者だ。誰もこの先に何が待ちかまえているかは分からない。
 危険な航海を続けるのは、惰性ではなく好奇心でありたい。勇気を持って進めば、必ず得られるものがある。
 自分の力で得たものをを生かすも殺すも本人次第。経験は糧であって目的そのものではない。
 簡単な旅などどこにもない。だからこそ人生は面白くて楽しいのだ。
 最後まであきらめず、困難に立ち向かう気持ちが折れなければ、私たちの旅は実りのあるものとなるだろう。それがきっと次につながると私は信じている。

 2008年1月23日(水) 「気の遠くなる長い道のりも、
                日々の一歩ずつ」

 人生の半分は自分の思惑通りにならないかもしれないけど、半分は自分の意志で決められるものなのだと思う。
 半分を少ないと思うか充分と考えるかでも、生き方や満足度は違ってくる。
 大事なのは言うまでもなくお金の使い道ではなく、命の使い道だ。命はお金に換算するものではなく時間に換算するものだ。
 私たちは命で経験を買っている。そして、最終的に還元されるのは、自分自身に対してだ。すべてはそこに収れんされる。
 究極的に自分はどういう人間、あるいは存在になりたいのかというのがあって、そこに向かって何をするかというのが人生の決め方となる。
 些事は些事として大切にしなければいけないけど、根本が貫かれていなければ、些末なものはあっけなく砕け散ってしまって何も残らない。
 人生は遠い目標に向かって一歩、一歩進む気の長い作業だ。怠ければ取り戻すのが大変になるし、毎日コツコツやってもなかなか前に進まない。
 それでも続けていれば、ある日ふと、振り返れば遠いところまでやって来ていることに気づく。
 私たちの人生はこの世界の始まりと同時に始まっていた。そして、この世界の終わりまで続いていく。命は連続するものであり、一粒ひとつぶの命は他の命とつながって、一つの生命体となっている。
 今分かっていることは、先は長いということだけだ。焦らず急いでいこう。

 2008年1月22日(火) 「時間と空間の話。
                それが同じものだと気づくのはいつ」

 私たちの罪の一切合切は、1万年程度の歳月がきれいに洗い流してくれるという考え方は甘えだろうか?
 私たちは1万年前に生きた人を誰一人知らない。それでも彼らは確かに生きていた。
 人類の歴史の中で、現在のこの一点でのみ現実を捉えることの意味と無意味さを思うとき、地面が消えてふわりと浮かんだ自分が拠り所を失う。無重力の宇宙空間のように、上も下も左右も前後もなくなり、ただ力なく漂うだけだ。
 大きく考えればすべてが無駄だし、小さく考えれば全部に価値がある。たいてはその中間で無自覚に揺れている。私は自分の振幅の大きさに振り回されるばかりだ。流れた時間とこれから流れる時間の長さはあまりにも多すぎる。
 1億年後の世界に私たちはどんな意味と価値を見いだそう?
 決して届くことのない宇宙の果てに、地球人の一人として何を伝えることができるだろう。
 すべての空間と時間は現実だ。私たちの日常の一日もまた、宇宙の出来事に他ならない。
 それは決して大げさな言い方ではない。何故なら人が目指すのは宇宙しかないのだから。そしてそれはすでにもう始まっているのだから。私たちは宇宙の一部だ。
 空間と時間は一つの本質の別の面でしかなく、やがて人類がそれを融合することができたとき、私のこの言葉は別の空間の別の時間につながる。
 そのとき私はもう一度訊ねよう。私たちの人生は、旅の恥はかき捨て的なものなのだろうか、と。

 2008年1月21日(月) 「人生が時間制だということを、
                 もう一度確認しよう」

 死なない前提で生きるのと、死ぬ覚悟を決めて生きるのとでは、生き方がまったく違ってくる。人は死を宣告されなければ、死を意識して生きられない。毎日大勢の人が死んでいるのに、自分とは無関係なことと思ってしまう。考えたくないものとして遠ざける。
 この世界の絶対的な公平さは、この世に生きるすべての人間は死ぬということだ。自分だけが例外になれるわけではない。
 人生とは端的に言って、死ぬまでに何をするかということだ。自分のしたいことがあって、やらなくてはいけないことがあって、意に反してやらざるを得ないことがある。
 夢を持つことは大事なこと。でも、それだけを追いかけていられる人間ばかりではない。勇気とか才能とか執念とか、そんな問題だけではない。どんなに言い訳に聞こえても、致し方がないということは必ずあることだ。信念だけではいかんともしがたい。
 それでも尚、自分の思いに殉じる気持ちがあるなら、あとは全力を尽くすことだ。少なくとも自分自身に言い訳ができるくらいには。やるだけやってあきらめることができれば、それは負けじゃない。
 たとえ死を告げられていなくても、私たちは生まれたときから死に近づいている。それが明日じゃないと言い切れる人間は誰もいない。
 人生は言うまでもなく時間制だ。死は必ずしも忌まわしいものではないし、恐れるものでもない。あの世があろうとなかろうと。ただ、時間が切れるというだけのことだ。
 何をしたらいいのか、何を優先させるのか、死ぬまでにしたいことが何なのか、いつもそれを自分に問いかけて見失わないようにしたい。
 生きることはみっともないことで、恥ずかしいことで、人に迷惑をかけるし傷つけもする。それでも、確かな思いに裏打ちされたわがままな人生なら、それはきっと許される。
 自分を幸せにするために全力を尽くさない人生は、誰のせいでもなく不幸なことだ。

 2008年1月6日(日) 「何もしなくてもいいけど、
                何かしてもいいという自由」

 どこへ行っても何をしてもキリがなくて、どこへも行かなくても時は過ぎていく。突き詰めていくと人は何もする必要がないんじゃないかと思えたりもする。
 私たちは物心ついた頃から最後まで、物足りなさと投げやりな気分とを両手に抱えたまま、自分の思いを持て余す。どれだけ満たされても果てはなく、後悔に終わりはない。
 それでも私たちは生きていかなければならない。どこに満足の線を引くのか迷いながら。
 何もしなくても一生、何かなしとげても一生。楽しければそれでいいというほど人生は単純ではなく、立派な仕事をすればそれで満ち足りるかといえばそうでもない。最後はあきらめの気分が支配するという現実を見てみないふりをする。
 それでも、もっともっとという気持ちがあるうちは、まだ何かができるということだ。何もしないよりは何かした方がましというのは相対的な真理に違いない。私たちは自分のしたいことができるという自由があるということを、今一度思い出す必要がありそうだ。
 明日を考える前に、まず目の前の5分を考えたい。日頃からやろうと思っていてできないことを次の5分間にやってみる。そうすることで日常をわずかながら動かすことができる。その小さな波紋がやがては大きな波になることもある。
 唐突だけど私の今年の目標の一つは、字が上手になることだ。自分から見て自分の好きな字を書けるようになりたいと思った。そのためには練習するしかない。思いだけでは上達しないから。
 今日からペン字の練習を再開した。

 2008年1月5日(土) 「言葉が思いを追い越していく。
                それでも言葉使いへの道のりは遠い」

 20代の頃の私は、思いに言葉がついていかなくてものすごくもどかしい思いをしていた。思考の遙か後ろを文章がよろめくようについていくのがやっとだった。
 それが今や言葉が思いを通り越してしまった。自分が書く文章に思いが遅れをとってしまう。もっともらしいことを書いていても、それが必ずしも私の本心ではない場合がある。
 あの頃の私にとって言葉は、難しい楽器のように使いこなすのが困難な道具だった。今の私は上手だけど気持ちがこもっていない演奏者のようだ。こんな逆転現象が起こるなんて思いもしなかった。
 おそらくこの先も、私の思いは言葉に追いつけないだろう。だからこそ、思うことに対してもっと自覚的で誠実でなければならないと考えている。そのためにはあらゆる意味で実行が必要となる。態度で示すことだけが唯一言葉に対抗する手段だ。
 その一方で、言葉に関してももっともっと追求していく部分はある。20代の頃に掲げた目標は忘れていない。魔法使いが魔法を使うように、私は言葉使いになりたいと願ったあの思いを。
 言葉と思いは車輪の両輪だ。両方が回転するから前へ進むことができる。もっと先へという気持ちは昔も今も変わっていない。


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