2006.12.21-

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 2007年12月30日(日) 「世界と自分との関係。
                人と人のつながりは、今日を生きてこそ」

 この世界の行く末を見届けるためにできるだけ長生きするという一点において、それが私の生きる必然性となってきた。たとえ傍観者でしかなくても、私はこの世界をいつまでも見ていたいと思う。その基本姿勢は昔も今も変わっていない。
 今年はそれに加えて、自分自身が生きることの必然性が増した年でもあった。この世界と自分との関係、人と人との関係を思うとき、無事であることが何よりも大事ということをあらためて思い知った。今日を生き延びることが明日につながる。
 けれど、どんなに死ねない理由があったとしても、人の終わりは突然やって来る。自分だけは大丈夫だなんていう思い込みは間違っている。この世界で最も公平なことは誰にも等しく死が訪れるということだ。そこには善人も悪人もない。
 私たちにできることは、毎日をしっかり自覚的に生きることだけかもしれない。米粒の一粒ひとつぶ、おかずの一切れひときれをじっくり噛みしめて味わうように。それ以外に後悔せずに済む方法はない。
 私たちが存在するということで当たり前のことは何一つない。この世界は大小無数の奇跡が連続することでかろうじて成り立っている危ういものだということを忘れてはいけない。
 今年を生き延びてこそ新しい年を迎えることができる。自分の存在は自分自身が全力で守らなければならない。自分を守ることは、大切な人を守ることと同じことなのだから。

 2007年12月4日(火) 「一日の精一杯を続ければ、
                それが一生の精一杯になる」

 ささやかなことが大切なことのすべてだったあの頃。もう昔には戻れないけど、大切なことがささやかであることは今も変わってないのだろう。ささやかさの内容が変わっただけで。
 大事なことは、毎日の暮らしの中で、自分の向かうべき方向と在りたい自分の姿を見失わないことだ。それを見失えば日常の中に飲み込まれてしまう。
 振り返って大切なものに気づくのは簡単なことだ。でもそれでは取り返しが付かない。
 毎日は綱渡りで、人と人、人と世界のつながりは危ういものだということを自覚しておく必要がある。油断すれば糸はあっさり切れてしまう。明日も今日までと同じように世界が自分をつなぎ止めてくれるという保障はどこにもない。
 毎日は思っている以上にぎりぎりの戦いだ。私たちは命をすり減らしながらこの世界に存在し続けている。時間もやれることも限られている。
 私たちの命など軽いものだけど、やれることはたくさんある。やれないこともたくさんある。今日何をするかを間違えないようにしたい。
 命が尽きたとき、許される言い訳があるとすれば一つしかない。それは、精一杯やったけど駄目だったというものだけだ。実力や才能のなさは罪ではない。
 だから毎日自分に問いかけてみるのだ。おまえの精一杯は本当にその程度なのか、と。

 2007年12月2日(日) 「格好悪くても勝つ。
             格好つけて負けるくらいくだらないことはない」

 必死になることは恥ずかしいことじゃない。
 一番恥ずかしいのは、格好つけて一所懸命やらずに負けることだから。
 みっともないくらいがむしゃらでも勝てば正義になる。
 敗北から学ぶことはたくさんあるけど、負けて得られるものは勝って得られるものと比べたらずっと小さい。

 2007年11月18日(日) 「必然は過去の中にだけ存在する。
                 この世界のすべては偶然の出来事だ」

 この世界のすべては、あらゆる意味で結果論で語られているに過ぎない。
 時間は現在から未来に向けて一方に流れていて、決まった未来から逆算しているわけではない。
 私たちが必然と思っている現在は、過去の偶然が積み重なっただけだのことだ。現在から振り返って見るからそれが必然に見えるだけで。
 もし過去で違う結果が出ていたら未来は今とは別の方向に流れていて、その未来から見た過去は必然に見える。勝てば官軍、負ければ賊軍ということだ。
 人は意味という名の病にとりつかれているから、すべてに理屈や必然性を求めてしまう。でも、それはたぶん、間違ってる。この世界のあらゆる出来事は偶然なのだ。未確定の時間の中で必然は存在しない。必然は過去の中にあるだけだ。
 そう思うと、この宇宙も、生物の進化も、人の一生も、人と人との出会いもすべて偶然の出来事と言い切ってしまってもいい。そこに何者かの意志があったとしても、それが予定調和の必然というわけではない。
 たとえこの世界が偶然に成り立っているだけだとしても、それを嘆くことはない。意味も必然も神も存在しなくても、私たちはここにこうして存在している。偶然が連れて行ってくれる未来を私たちは楽しめばいい。

 2007年10月12日(金) 「想い想われた心のカケラ。
                 それが向こうへ行くときの手みやげ」

 誰か近しい人や好きな人が死ぬと、自分の中の何を失ってしまうように思うけど、それはあちらへ旅立つ人に持たせてあげるおみやげのようなものだ。だから心の穴を嘆いてはいけない。いいことをしてあげたと思わなければ。
 あちらへ持って行けるおみやげは、人を想い人から想われた心のカケラだ。それをたくさん持っている人が、心のお金持ちということになる。
 大切な人に自分の心を分け与えることがなんで悲しいことか。たとえ自分の心が空っぽになったとしても、行く人が向こうで困らなければそれでいい。

 2007年9月20日(木) 「答えはたくさん。
               選ぶのは一つ」

 答えは一つじゃない。たくさんあって、そのどれを選んでもいい。
 けれど私たちはどれか一つの答えを選ばなければならない。
 それは同時に、一つ以外すべてを捨てることも意味する。
 人生は選択だ。後悔のない選択などないけど、とにかく選んだ答えに対しては最後まで誠実でなければならない。
 人は選んだ一つの答えと共にいくしかない。人生を後ろから振り返ってみれば、誰の人生も一本の線となる。
 結局、それ以外の答えはないのかもしれない。

 2007年9月4日(火) 「悪い出来事はサイン。
               ピンチはチャンス」

 何か悪いことが起きたら、それは立ち止まって自分の状況をもう一度よく見つめ直してみろというサインだ。
 調子に乗りすぎてないか、反省を忘れてないか、大事なことを見失ってないか、間違った方向に進んでないか。
 それらの戒めとして悪いことが起きてくれると考えた方がいい。たいていの場合は、思い当たる節があるはずだ。
 いいこと続きで問題がない毎日はスルスルと流れ去ってしまう。流れに乗ったまま引っかかる岩も、掴む草もないまま下流へと押し流される。それは必ずしも幸福なことではない。
 今日少し悪いことが重なって気分的に沈んだけど、ものごとはいい方に解釈したい。前向きなんていう優等生的なものじゃなく、自分に都合のいい考え方でピンチを乗り切りたいだけだ。ピンチはチャンスの可能性でもある。
 今日が終わればもう明日が待っている。やれることはまだたくさん残っていて、私はできるだけのことをするだけだ。生きていられる限り。

 2007年8月24日(月) 「海の暗さと空の青さを知っている。
                 どちらも決して忘れない」

 自らの意志で深い海の底に潜って絶望を見てきたから、浮かび上がったとき見えた空の青さを私は忘れない。
 闇を知ってるから、わずかな明かりのありがたみに気づくことができる。
 被害者ではないという幸運と自負を持って、私はこの先も陽気に生きていこう。

 2007年8月21日(火) 「絶望は希望の種。
                新しい希望はいつでもこの先にある」

 心に希望を持った人間だけが絶望する。
 絶望もできない人生なんて、つまらないではないか。
 希望が絶望に変わったら、また新しい希望を見つければいい。
 夢は一つじゃなくてもいいし、目標を達成しなくてもかまわない。
 生きることは未知への冒険だ。毎日はワクワクに満ちている。
 何もない日常に一石を投じるのは、他の誰でもない、自分自身なのだ。
 向かうべき方向さえ見えたなら、あとは勝手に足が動き出す。
 さあ、駆けていこう。
 私たちにはまだ明日がある。

 2007年8月20日(月) 「問いがあるから答えがある。
                答えがあって問いがあるわけじゃない」

 良い答えは良い問いかけからしか生まれない。
 良いインタビュー記事が良いインタビュアーからしか生まれないように。
 この世界は、問いかけない答えを人に与えてくれることはない。訊かれないことは黙って答えようとしない。
 本当に知りたい答えがあるなら、あきらめずに最後まで扉をノックし続けなければならない。世界が根負けして答えてくれるまで。
 どんな問いかけを持っているかが、その人の人間力という言い方もできる。何の疑問も持たずに生きていたら成長はない。
 あなたは、この世界に対して、どんな決定的な問いかけを持っているだろう。

 2007年8月12日(日) 「恋愛は片手間でするもんじゃない。
              最後に手に入れる思い出のカケラのために」

 どんな恋もそれ自体が答えではない。答えという花を咲かせるための種だ。
 大切なのは、二人で大切に育てていくことで、片方だけに世話を任せておいていいというわじゃない。
 愛や家庭も同じことだ。役割分担という名目でやるべきことを怠けてはいけない。どちらかだけが幸せでもバランスは崩れて続かない。
 貴重なものは壊れやすいから丁寧に取り扱わなければならない。片方が強く握りしめて独り占めしようとしたら、すぐにつぶれてしまう。
 恋や愛を育てるということは決して簡単なことではない。たとえそれが血のつながった親子の間の愛でもだ。だから、自分の持てる力のすべてを出し切って、相手と自分に尽くす必要がある。無力なら無力なりに。
 恋愛は二人で小舟に乗って大海にこぎ出すようなものだ。確かな当てなどありはしない。運命という波に身をゆだねていれば自動的に行き着くべき場所に着くなんてことはない。そのときどきで目標を見つけて、強い意志をもって自ら漕がなくては。
 大事なのはどこへたどり着くかではなく、漕ぎ続けることだ。
 死が終わりといった単純なものでもない。
 気の遠くなるような旅路の果てに私たちが手に入れるものは、思い出の結晶だ。それを詰まらないものだと思ってしまえば、あとには何も残らない。

 2007年8月9日(木) 「目標に向かうことが目的で、
                たどり着くことが目標ではない」

 たとえどこへも行けなくても、どこにもたどり着かなかったとしても、何者にもなれなかったとしても、私たちはどこかへ向かうことが必要だ。進んでいるという思いが幻想だったとしても、手足を動かし続けて、あがき続けなければいけない。
 それはもう、理屈でも理論でも哲学でも何でもなくて、どこかへ向かい続けることでしか自分の存在を維持できないからだ。消えたくなければ走り続けるしかない。もう、ここまででいいやと、深いところから自分の声が聞こえてくるまで。
 大切なのは終わらせることでも完成させることでもない。続けるという行為そのものが一番大事なことなのだ。
 夢、目標、願望、空想。向かうべき方向にあるのは不確かなものばかりだ。けど、確かなことなど何もないこの世界では、幻もまた現実と同じ重さで存在している。
 命の最後まで、きちんと夢を見られる大人でありたいと思う。

 2007年5月28日(月) 「遠い90年代に見た光が今消えた。
                追いつけなかった人がいってしまった」

 坂井泉水の突然の死は、あまりに思いがけなくてガツンときた。
 ニュースを見て、思わず、嘘っと口走った。
 死に方もらしくなかった。
 彼女の死は、ひとつの時代の終わりと、自分の過去の終わりを私に告げることとなった。追いつきたくて追いつけないままいってしまう人が増えていく。
 思えば90年代ももう遠い。歳月というものをあらためて思い知らされた。
 みんなに愛されてる人は生きているだけでいいのに、それさえもときにかなわない。
 残された人は生き続けていくしかない。この先の世界を確かめるために。
 私の暗かった20代に光をともしてくれた人よ、さようなら。
 生き残った私は次へ進まなくてはいけないらしい。

 2007年5月15日(火) 「自分がすり減ってなくならない。
                小さな核になることが自分になることだ」

 自分がすり減るということは、自分が磨かれるということだ。
 大切なのは自分の中心にある核の部分で、まわりにごてごてと飾り立てるようについている部分は本質的なものではないから、いくら削られてももったいながることはない。見栄とか虚栄心とか虚飾は少しでもそぎ落としていった方がいい。
 若い頃は自分がすり減ることで自分がなくなってしまうのではないかと、とても不安に思った。けど、まだ未熟なときは表面も尖っていて、なおかつ柔らかいから削られることはむしろ歓迎すべきことなのだ。歳を取ると表面も固くなって、なかなか削ぐことができなくなる。
 最後はピカピカの小さな球体になれば、それが本当の自分だ。それ以上はもう、削ることもすり減ることもない。そこまでいける人間はごく稀だけど。
 忙しいというのは心を亡くすと書くから、自分もなくなってしまうように感じるけど、心なんてのも本当は必要なものではないのだ。感情は人格の本質ではない。人間の本質であっても。
 どれだけ悟っても完全なる無になることはない。ただ、余分なものを極限まで削っていけば無の境地にまでは達することができる。それは空とは違う。虚ろと無はまったく別のものだ。無という存在がいっぱい詰まったものと言い換えてもいい。
 そこまでいってから俗に戻ったとき、人は毎日を穏やかな心境で淡々と生きることができるようになる。この世界のすべてに感謝をしながら。

 2007年5月10日(木) 「どんどん軽くなって、
                そのうち空も飛べるかも」

 ひとりで生きても充分楽しいけど、ふたりならもっと楽しい。2倍、3倍に。
 別にひとりで頑張らなくてもいいじゃない、という単純に理屈に乗っかってもいいと思った。
 どんどん私という人間は軽くなっていって、この調子でいくと、あと20年くらいしたら空も飛べるかもしれない。今でも、地に足が着いてないとよく言われる。

 2007年5月9日(水) 「答えに近道なし。
               真理は遠回りして辿り着くもの」

 単純な真理に辿り着くためには、複雑な思考を通過する必要がある。
 若さゆえの迷いと過ちも。
 真実はたいてい単純なものだけど、本当に自分が納得するには時間がかかる。年齢も重ねないと分からない。
 先人の教えというは結局のところ近道にはならない。自分もまたそこへ至るまでには同じような回り道をするしかない。
 何事も生きてみなければ分からない。つまりはそういうことだ。

 2007年5月7日(月) 「自分は記憶で出来ている。
               思い出作りが人生だ」

 若い頃の私は、人生は思い出を作るためにあるんじゃない、と自分に言い聞かせるように書いた。
 今の私は、自分という記憶を重ねるために生きている。
 自分という存在の本質は、記憶と意識に他ならないということが分かったから。

 2007年4月30日(月) 「13年目の5月1日。
               今もヒーローは死んだまま」

 また巡り来る5月1日。
 あれから13年。私の中のヒーローが死んで、あのときから私は別の人間になってしまったまま、歳月だけが流れている。
 彼の年齢を越した今でも、彼はずっと遠くに走り続けていて、いつになっても近づけない。
 ヒーローの名は、アイルトン・セナ。どうやら彼が私の最初で最後のヒーローということになってしまうらしい。私の中の先生がアインシュタイン先生ただ一人であるように。
 心のヒーローを持つことができた幸福と、それを失った不幸。それでも、彼と同時代を生きることができたのはとても幸運なことだった。失ったものがいかに大きくても、得られたものはそれよりもずっと大きいのだから。
 また次の10年、20年も彼は私のヒーローであり続けるのだろうか。それとも、新たなヒーローの出現があるのだろうか。
 懐かしい気持ちで笑って思い出話をするためには、まだ少し時間がかかりそうだ。

 2007年4月23日(月) 「前よりももっと人はつながって、
                私たちは孤独じゃなくなった」

 人と人とをつなぐものは人だったり、文章だったり、写真だったり、猫だったり、その他いろいろなものがあるけど、やっぱり大切なことは人が人とつながるということだ。たとえそれがどんな形であったとしても。
 時代が進んで人が悪くなっていったような言われ方をすることが多いけど、形が変わっているだけで、本質的なところはそれほど変わってないと思う。むしろ昔よりもよくなっている部分もある。
 ネットやメールにしても、今の若者は昔に比べて大勢の人とコミュニケーションを取っているし、活字離れと言われて久しい中、以前よりもずっと多くの文章に触れている。自分から自分の意志や考えを発信する機会も圧倒的に増えた。
 私たちはみんな、昔よりも孤独じゃなくなった。
 世界は前よりももっとつながっている。もう私たちは、自分だけの孤島に住む無人島の住人じゃない。
 手を伸ばして、声をかければ、もっともっと大勢の人とつながることができる。そのことを当たり前のことと思わずに、もっと喜んでいい。

 2007年4月22日(日) 「あんな兄弟はいないくても、
                自分の中に間宮兄弟は確かにいる」

 映画『間宮兄弟』はとってもよかった。
 しばらく当たりの作品に出会えてなかったけど、これは大当たりだった。
 江国香織らしくない非ラブストーリーの原作に、年を取って肩の力が抜けた森田芳光監督。
 大した事件も起こらない、冴えない30代の男兄弟の話。それがなんでこんなにもほのぼのと暖かくて優しくて幸せな気持ちになるんだろう。
 それはきっと、ふたりが毎日を楽しそうに生きているから。何もない普通の一日も、ちょっといいことがあった日も、すごく嫌なことがあったときも、ふたりで仲良く暮らしているからだ。
 佐々木蔵之介とドランクドラゴン塚地のコンビが醸し出す空気感が素敵だ。彼らを取り巻く人々もキュート。森田芳光監督は、ときどきこういう不思議な傑作を作る。『(ハル)』も大好きな作品だ。

 間宮兄弟みたいな兄弟はどこにもいないかもしれないけど、きっとどこかにいると思わせる。いや、間宮兄弟そのものが確かに存在していて、今日もふたりでレンタルビデオを見たり、布団の中で反省会をしたり、自転車をこいでいるような気がする。間宮兄弟のことを思うと、胸が少し熱くなって幸せなんだけどちょっと泣きそうにもなる。
 人生ってそんなに悪いもんじゃないよって言ってくれるのが映画の役割だと私は思っている。ときどき、年に一度でいいからこういう作品と巡り合わせてくれると、やっぱり映画っていいなと思う。これからも観続けていこうと。
 ふっと疲れて気持ちが沈んだ夜などに、ぜひ『間宮兄弟』を観てください。ああ、明日からも頑張ろうってきっと思うはず。

 2007年4月19日(木) 「絶望するまでもない人生で、
                絶望のない宇宙を夢見る」

 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。
 というけれど、捨てるほどの身があるやあらずや。
 笑いは絶望を和らげても打ち消すことはなく、絶望は売り物にするような値段はつかない。
 地上の星くずは再び輝くこと能わず、天に戻る術もなし。
 流れゆく先を我が目で確かめたとて、それが何になろう。
 かといって死ぬほどのこともない。
 幸福はときに無力で、希望は色褪せ続ける。
 我々に残されたのは、千年後の夢を見る力だけだ。
 せめて、地球のカケラとして宇宙を永遠に彷徨い続ける道を選ぼう。

 2007年4月18日(水) 「人生は手探り。
                終わらせるためでなく続けるために」

 人生に正解はなくて、何歳になっても、人は手探りで進むしかない。
 子供の頃は、自分の親や大人たちはみんな、毎日悩みもなく、確信を持って生きていると思っていた。でも、自分が大人になったとき、そうじゃないことを知った。あのときの親たちもみんなそうだったのだろう。
 田舎のじいちゃんやばあちゃんだって、80になっても90になっても、生きるということが本当はどういうことなのか、きっと分かってなかった。

 毎日は初めての日で、ここから先は自分にとって未知の世界だ。これまでの誰の人生も参考にはならない。自分の過去も同じだ。
 それでも進みたいと思わずにはいられないのは、前に何があるか知りたいからだ。正解を知りたいと思いながら、正解を求めているわけではないことに、やがて気づく。見つけることが目標ではない、探すことそのものが目的なのだ。
 私たちはただ進むために進む。生きるために生きる。暗闇の中、ほのかな明かりを頼りに、ずっと先の光を求めて、今日も、明日も。確信などないままに。

 2007年4月16日(月) 「生きるための小さな理由。
                愚かでも生きていける」

 誰もが自分の愚かさの一番の被害者は自分で、自分の振り上げた拳で後頭部を殴るようなことをしている。
 それでも生きていかなくてはいけないわけで、転んでもまた立ち上がって前へ進むしかない。
 生きるための小さな理由はたくさんある。小銭を集めるように、それをかき集めて、この世界に存在するための代金を支払い続けるしかない。
 おまえには生きる資格がないと言われるまで。

 2007年4月13日(金) 「理想が幸福とは限らない。
                戦うべきは必然ではなく運命」

 理想通りにいく人生も、理想通りにいかない人生も、それぞれに不満と満足があるわけで、理想通りなら無条件に幸せというわけでもない。
 バランスの問題として、いいことがたくさんあればその分悪いことも増えるものだ。ささやかな幸せなら、攻撃されることも少ない。
 何が起ころうと、何もなかろうと、あきらめて受け入れるのではなく、納得して受け止めたい。起きる出来事が自分の理解を超えていても、それは起こるべくして起こったのだ。その必然を否定しまえば、不満も大きくなるし、何もかも納得できなくなってしまう。
 人生には選択の余地がないこともある。それが気に入ろうと気に入るまいと。自分の意志ではどうすることもできないことは、そういうものだと思うしかない。必然は戦うべき相手ではない。宿命は変えられない。戦うべきなのは運命だ。こいつには勝てる余地がある。
 私たちができる大部分のことはリアクションだ。こちらからアクションできることは思いのほか少ない。起こった出来事に対してどうするかが人生だ。その判断が遅くなればなるほど結果は悪くなる。常に準備をしておかないといけない。よいことに対しても、悪いことに対しても。
 人生は悪いことよりもよいことの方が圧倒的に多い。不満を言えばキリがないけど、感謝の気持ちが優先することだけは忘れないようにしたい。

 2007年4月12日(木) 「世界が自分に何も要求しなくても、
                世界に対してできることはたくさんある」

 世界が自分に何かを要求してくれると考えるのは思い上がりだ。
 世界に向けて何ができるかを自分で考えて、自分で実行すればいい。こちらから差し出さなければ、世界は手を出さない。
 何の努力もせずに、世界が先生ここはひとつお力をお貸しくださいと頭を下げてくるなんてことは、普通に考えてない。買わない宝くじが当たらないようなものだ。
 自分はこの世界の一員として何ができるだろうと考えてみる。そんなに大それたことじゃない。お世話になっていることを感謝して、ほんのささやかな恩返しのつもりで考えればいい。
 お金が無くても大切な人にあげられるプレゼントがあるように、私たちは誰でも世界に対して贈りものを渡すことができる。心がこもった小さなものでいい。
 世界の目的は何かといえば、それはもう存続ということ意外にあり得ない。完成や完結に向かって世界は動いていない。自らの存在を自分で放棄してしまうなんことはないから。
 だとすれば、自分が世界にできることは少し見えてくる。世界の存続に役立てる何かをすればいい。世界が終わりに向かうのにつながることをひとつでもやめれば、それもまた世界のためになる。
 考えていけば、やれることはたくさんある。それは偽善ではなく、人として当たり前の恩返しだ。

 2007年4月11日(水) 「心のつっかえ棒としての論理。
                楽観的であるための根拠」

 強く楽観的であるためには、確固とした根拠が必要だ。
 その日暮らしの明日は明日の風が吹く的な楽観は、真の楽観ではない。
 揺らがずに楽天的であるためには、何よりもまず、生きていることやこの世界に存在していることがいかに貴重でありがたいことかを理解して自覚しなければならない。
 毎日、天と地に向かって手を合わせて頭を下げるような気持ちになることができれば、生きているすべてのシーンで喜びが得られる。食べること、友達と話すこと、寝る家があること、愛する人がいること、自分の好きなことをする時間があること。
 謙虚になることがつまり、楽観を支えると言っていい。

 哲学や思想、宗教というものは、折れそうな心につっかえ棒をするための手助けのようなものだ。大上段に構えた教えなどではない。
 人が楽天的に生きるための論理や理屈を提供することが哲学の仕事だ。大人や教師が子供に対してすべき仕事でもある。
 人が自力で会得できる真理というのはさほど多くない。限られた時間と経験の中で痛い目に遭いながら少しずつ学び取っていくのは限界がある。だから、みんなで真理を持ち寄って共有しなければいけない。みんながみんなに教え合い、学び合う。一方的な教育関係というのは不自然で歪んだものだと理解すべきだ。

 すべての人間が幸せになることは理論的に不可能かもしれない。けど、すべての人が楽観的に生きることは可能だと私は思っている。死という絶対的な前提の前では、どんな悲劇や不幸にも限界があるから。

 2007年4月9日(月) 「存在は変わり続けること。
               変わる私たちは未知へ向かう」

 存在の本質は変化だ。連続する変化が存在を支えている。
 物質的にも、観念的にも。
 それは一個人の存在だけでなく、社会も、世界も、人と人との関係性についても言える。
 変化が止まれば存在も止まる。永遠不変の存在などはあり得ない。
 人は成長し続けなければ存在を許されないし、社会は進歩を続けなければ破綻する。人間関係もまた、停滞すれば壊死していく。
 存在を続けたければ変化し続けるしかない。それが存在するものすべての宿命なのだから。
 変わらない誓いなど意味がない。人は変わるし、それにつれて関係性も変わっていく。人と人、人と社会、人と時代、何もかも。そこで終わるものもあり、始まるものもある。もちろん、続くものも。ないのは変わらないものだけだ。
 変わることは嘆くことはない。いい時が終わって悪いときが来るかもしれない。でも、悪い時のあとにはまたいい時が来る。変わることは悪いことばかりじゃない。
 変わり続ける私たちだから、別れがあっても再会がある。変わるから明日は未知なのだ。
 どうなってしまうか分からない不安よりも、どうなるか分からない期待を持って生きていこう。未来の私たちはもっとよくなっていると信じて。

 2007年4月8日(日) 「絶望の向こう側にある幸福感。
                無限の一点に在ることの喜び」

 この世界に生きることを心底楽しむためには、絶望を知る必要があるかもしれない。
 この場合の絶望というのは、愛する人を失った悲しみとかではなく、たとえば宇宙の絶望的な広さに思い至るという意味での絶望感だ。

 私たちはこの宇宙に対してどこまで無責任でいていいのだろう? まったく何の責任もないと言い切ってしまっていいのだろうか。
 そのスケール感が小さくなっていったらどうだろう。地球に対する責任、世界に対する責任、日本に対する責任、自分が暮らす街に対する責任、自分が所属する会社や学校に対する責任、家族に対する責任。スケールが小さくなればなるほど責任は大きく、重くなる。でも、それが大きくなればそれに比例して責任が薄まってしまっていいのかどうか。旅の恥はかき捨て的な無責任感に私たちは陥っていないだろうか。

 ひとつには、自分はどこに所属している存在であるかということを明確にすることだ。社会なのか、日本なのか、人間界なのか、地球なのか、宇宙なのか。
 現実感を伴って考えられる一番外枠で決めるべきだと私は思っている。たとえば地球に対してなら、自分がやらなければいけないこととやってはいけないことがはっきりしてくる。それはときに社会での価値観と矛盾したりもするけど、自分の責任をどちらに対して成すのかがブレなければ迷うことはない。
 私たちは絶対的に小さな存在だということを自覚するところから再出発する必要がある。その上で、最低限の責任を果たしつつ、自分の人生を楽しむ方向性を見つけていけばいい。それはそんなに難しいことではないし、無責任なことでもない。

 生きる意味は人生の絶対的ともいえる無意味さを超えた向こう側にある。
 美しさは無駄の中にあり、繰り返しの先に小さな喜びがある。
 宇宙の広さを知って初めて人は自分の中の小宇宙の狭さと広さに気づく。
 無限と永遠が交わる一点に私たちは存在し、生きている。なんて感動的なことだろう。

 2007年4月5日(木) 「限界の向こう側にいる自分。
               そこが自分と交わした遠い約束」

 私たちはいつの間にか身についてしまった余分なものを振り落としながら、身軽になって、少しでも遠くまで辿り着こう。たくさんのものを失いながら。
 財産はリュックに背負って持ち運んでいくようなものじゃない。心の中に刻んだ映像と言葉があればいい。大切なのは記憶だ。私たちの存在は記憶でできている。
 過去がどうであれ、今ここにいる自分を喜ぶか嘆くかしよう。進み方が足りなければもっと前へ行けばいい。翼を持たない私たちはどこまでも先へ駆けていくしかないのだから。力尽きた仲間のためにも。
 限界の先に、出会うべき自分が待っている。もう駄目だと思ったその一歩先に新しい世界が広がる。

 2007年4月3日(火) 「米粒を一粒ずつ食べるように、
                毎日を余さずじっくり味わって」」

 人生は美味しいところだけつまみ食いというわけにはいかなくて、いい目を見たければ苦いところも噛みしめなくてはいけない。好きなものだけ食べるようにはいかない。
 不味いものを我慢という苦痛だと思うか、そのあとの美味しいものにつながる喜びとするか、人が幸せになれるか不幸になるかはそのあたりの心の持ちようにかかっている。
 誰かをうらやましく思ったら、その人の不幸も背負う覚悟が必要だ。自分の持つ欠点を持ってない人と代わりたいと思っても、その人は自分の持ってない欠点を抱えている。誰かと入れ替わっても、欠点の種類が変わるだけだ。
 結局のところ、自分自身を毎日丁寧に生きていくしかないという当たり前の結論に達する。詰まらないけどそれが実際だから仕方がない。

 2007年3月30日(金) 「空虚な闇の光の粒。
                星をつないで見えない線を描く」

 人生は、一瞬のきらめきが数粒散らばる。
 夜空に浮かぶ星座のように。
 点と点を見えない線でつないで、幻を描く。
 あとは暗闇が広がるばかり。

 2007年3月28日(水) 「欲コントロールの難しさ。
                それでも欲しいのは正当なのか」

 多くを望まないことが人として正しいことなのかどうかという迷いがある。
 志は高く、欲望は少なく、というのが本当に理想なのだろうか。
 欲を持つことが努力の原動力になるということもある。高望みしなければ手に入らないものもある。
 分相応が一番というのもなんだか逃げのような気がする。おとなしくしてさえいれば大きな不幸はないという計算ではないのか。
 欲の加減というのは難しい。はじめは控え目な人間も、ひとつのものが手に入ると次が欲しくなり、願望が叶うともっともっとと言い出す。
 謙虚であろうとすることが自分を縛ることになって小さくまとまってしまうのももったいない話だ。たぶん、分相応よりも少しだけ欲深いくらいでちょうどいいのだろうけど、なかなかそううまくはコントロールできない。
 愛があればなんでも許されるのか。好きであれば度を超しても仕方がないのか。マニアであることの幸福は自己完結するけれど、対外的にはどうなんだろう。
 なんにしても、望まないものは手に入らないということだけは確かなのだから、欲しいものだけはいつも自覚しておくことが必要だ。自分の中の欲望の奴隷にならないように気をつけながら。

 2007年3月27日(火) 「心にエネルギーを。
                人は心で動いている」

 いじけることと泣き言はもう封印した。
 でも、だからこそ、気分が沈むと何も言えなくなって黙るしかなくなる。それはそれで悪循環を生む元になったりしてよくない。心が弱くなっているときは泣き言のひとつくらい言った方がいいのかもしれない。
 人はたぶん、弱不幸なくらいが安心感があって楽なのだろう。幸福感は疲れる。恋の最中よりも失恋に浸っていた方が楽なように。
 絶望は誰の胸の内にもある。それが顔を出したり引っ込んだりするだけだ。人に見せるものでもない。簡単に打ち明けられる悩みで悩んだりはしない。
 いつでも近いところに死の誘惑がある。それは必ずしも自殺とかではなくて、死を思うことで気持ちの安定剤になったりもする。けど、死が救いではないことだけはいつでも忘れないようにしなければいけない。
 生きるためにはエネルギーが必要だ。前進を生むために原動力となるものが。恋愛でも金でも成功でもなんでもいい。趣味でも食べることでも寝ることでも、ただ未来が見てみたいという思いだけでも人は生きられる。
 心にエネルギーを食べさせよう。弱ったときはいつも以上に。人を生きさせるのは心だ。体も脳も心が動かしている。
 心にもっと燃料を。今は炎が小さくなっている。

 2007年3月20日(月) 「100年後の人たちに対する思想。
                心の深くまで届く言葉を探して」

 歴史上の人物と勝ち負けを争っても仕方がない。そんな勝負は勝って当然なのだから。
 戦うべき相手がいるとすればそれは過去の偉人ではなく、100年後の普通の人たちだ。たった100年後の人たちの心に届かない思想や言葉なんて、今現在でも価値はほとんどない。
 力のある言葉は、建物よりも、植物よりも長生きする。1,000年も、2,000年も生きることがある。
 もうすべての思想や言葉が出尽くしたなんてことはない。過去をふまえた上で、今という時代の中でしか生み出せない思想もある。この時代にしか生まれ得なかったものを生み出してやるということも、私たちの使命だ。
 100年後の人々の心は今の私たちよりもっとすさんでいるかもしれないし、しらけているかもしれない。古いものを侮る気持ちがどこまで進行してるのか想像できない。それでも尚、彼らの心の深いところに届く言葉は何だろうと考えてみる。
 単なる皮肉でもなく、無邪気な肯定でもなく、ぎりぎり深いところまで潜ったあとに浮上して突き抜けた晴れやかな言葉を私は探している。
 それは結局のところ、生きることの素晴らしさをたたえる言葉になるのだろうけど、見つけるのはそう簡単なことじゃない。100年後の彼らは、おそらく思っている以上に手強い。

 2007年3月18日(日) 「自分の都合を優先させないこと。
                優しさは他人を優先させること」

 自分の感情ではなく相手の都合に合わせて自分を少しだけ犠牲にすることの必要性を、飼い猫のアイから学んだ。
 猫はこちらの都合などおかまいなしに要求をしてくる。エサをくれとか、ドアを開けろとか。それに対してこちらが感情的になっても仕方がない。要求が正当なものじゃなくても、相手に合わせることで物事が上手くいく。そういうときの自分の犠牲というのは、思うほど大きなものじゃないなと思うようになった。それはそのまま人間同士の関係にも当てはまる。
 どんなときでも自分が我慢すればいいというわけではないけど、相手が本当に助けが必要なときは思い切って自分を捨てることだ。それが優しさというものなのだろうと思う。
 それに、自分の都合なんて実は大したもんじゃない。本当に優先させなくてはいけないことなどそんなにあるわけでもない。
 優しさというのは、気まぐれにプレゼントをあげたり、助手席のドアを開けたり、そんなことじゃない。

 2007年3月17日(土) 「傲慢な思いやりでもいい。
                それが小さな花を咲かすなら」

 自分がこの世界に対して何かいいことができるはずだなんてのは傲慢だ。そんなに思い上がってはいけない。
 けれど、何かできるはずだという思いは相対的な意味で間違いではない。結果的に何もできなかったからといって、それが最初から何もするつもりのない人間に負けているはずはないからだ。
 自分には何ができるだろうと考えることは無駄じゃない。小さな存在が大きな存在に対して思いやりを持つことが間違いとは思わない。
 個人がどうあがこうと、どれだけ頑張ろうと、宇宙は何も変わらない。でも、それでもいい。投げた小石が小さな波紋でも作れば、何もしなかったとは違うことになる。
 話しを小さなことに戻してもそれは変わらない。すぐ隣にいる人のために自分は何ができるだろうと思いやることは大切なことだ。たとえ相手が望むことを何一つ与えられなかったとしても、その思いは宇宙の片隅に小さな花を咲かせる。その花を見つけて、きれいだと言ってくれる人もいるだろう。

 2007年3月14日(水) 「どこまでも終わらない生と死。
                終わらないという救い」

 死んで解決する問題は案外少ない。たいていのことはそのまま持ち越しになるし、精算しなくてはいけないことも多い。
 死んだら終わりの方に賭けるのは非常にリスキーな賭けだ。終わりじゃなかったときのことを考えたら取り返しがつかない。むしろ、死後も続く前提で生きた方が怪我は少ない。ないと思ってあったときと、あると思ってなかったときを想像すれば、どっちに賭ければいいかは自ずと明らかになる。それに、なければそこで意識も途切れて後悔する間もない。
 いい子になれとかそういうことではない。後悔しないように精一杯だなんていう優等生的な生き方も必要ない。ただ、死は解決にならないということだけはあらかじめ思っておくべきだ。人生は長く、その先もずっと長くて、そうそう簡単にアガリにはなれない。
 だから結局のところ、コツコツと少しずつ積み立てしていくしかないのだ。貯金をしたものを一気に使ってしまうようなこともせず。
 生と死は連続して続くものだ。線路と駅のように。死のあとにはまた生が来る。存在はどこまでも続く。この世界の続く限り。
 私たちに逃げ場はないのだ。だから、今いるところで踏ん張るしかなくて、終わりがないというのはありがたいことでもある。ある意味では気楽にいけばいい。終わりがもしかしたら一番の救いかもしれないけど、そういう救われ方は面白くない。やっぱり自力でアガリたいものだ。
 それでも、あんまり焦らずゆっくりいこう。私たちの問題はそんなに簡単じゃないのだし。

 2007年3月12日(月) 「運命が何とかしてくれる。
                でも運命をどうにかもできる」

 世の中や人生に対して悲観的よりは楽観的の方がずっとましだ。悪い方に考えるよりもいい方に考える方が上手くいくことが多いし、人生を楽しめる。
 ただ、楽観はあまりよくなくて、楽天的であった方がいい。
 どうにかなるだろうではなく、どうにかできるだろうという思考でなければいけない。他力本願的ではなく、たとえ根拠はなくても自力本願的であるべきだ。
 どう転んでも人生だから、必ずしも前向きでなくてもいいのだけど、自分の意志と力で物事を良い方向にねじ曲げていった方が気分がいい。
 宿命は変えられなくても、運命はいくらでも変更することが可能だ。そこが人生の面白さでもある。
 大切な人の出会いは宿命。でもその先をどうするかは意志と努力次第。安心して油断して何もしなければ筋書き通り事が運んでおしまいだ。気に入るかもしれないし気に入らないかもしれないけど、運命任せにしていては面白くない。
 人生が楽しくなるかどうかまであらかじめプログラムされているわけではない。楽しむかどうかは本人次第で、それは考え方次第だ。他の誰のせいでもない。
 人生は何とかなるものだ。と同時に、何とかできるものでもある。

 2007年3月11日(日) 「一粒の小さな光でも誇りと責任を。
                世界がどれほど広くても」

 広い海や星空を見て自分の存在の小ささを感じるのは間違いじゃないけど、そこで思考が止まってしまったら何にもならない。こんなにも小さな存在なのに、大宇宙の一点として確かに存在していることの偉大さに気づかなくては。
 私たちの存在は、小さな一粒の偉大さなのだ。そのことに自信と誇りと責任を持たなくてはならない。

 自分の知識や認識の外側に広がる広大な世界を常に意識する必要がある。
 そして、知らないということに対していつでも正直でなくてはならない。知らないことを認め、その外側に思いを馳せることが誠実さなのだから。
 知らないことは必ずしも恥ずかしいことではないけど、知ったかぶりをすることは恥だ。恥知らずになってはいけない。

 もうこれで大丈夫ということは決してない。上には上がいて、世界はどこまでも広く、認識に限界はない。
 どこまでいっても我々は無限と永遠が交わる一点でしかない。
 謙虚であることだ。でも、卑屈になることはない。無知もまた人間の本質であり、それは同時に可能性でもある。
 知らないことがあるからこそ私たちに明日がある。明日という日がいつも新品であるのは、昨日までの自分以上の自分になるためだ。洗濯した一日じゃない。
 毎日は使い捨てでもある。だからこそ大事に使わなくてはいけない。
 一気にこの世の果てまでいけるわけじゃなく、一日で高みに登れるはずもない。毎日わずかずつ積み重ねて積み上げていくしかない。

 私たちは確かに個々は小さな存在だ。でも、小さな無数の点が集まってひとつの形を作り、それがまた全体の中の一部となっている。100万画素あっても1画素が欠けたらそこは光のない黒点となってしまう。与えられた光を発することは自分のためだけではなく全体のためでもある。
 夜空の星がひとつくらいなくなってもいいだなんてことはない。私たちも命が燃え尽きるその日まで、光り続けなければならない。その小さくて弱々しい光にも誇りを持とう。

 2007年3月7日(水) 「大切なものを大切にする努力。
               温室の花を育てるように」

 大切にすべきものを大切にするためには、日頃から大切にしなくちゃなと自分に言い聞かせておく必要がある。なかなか無自覚に大事にできるものではないから。それが身近にいる人なら尚更だ。
 好きでること、愛していること、大切に思うこと、それぞれ別なようで根っこは同じと言っていい。愛が何かが分からなければ、自分が大事にしてるものを思い浮かべればいい。なくては困るものと言い換えてもいい。
 日々大事に思い、大切にすること。それは努力だ。放っておいても勝手に咲く雑草とは違う。手をかけて育てないと育たない温室の花のように、大切に思う心を育てなくてはいけない。
 大切にすべきと分かっているものさえ大事にすることができないようでは、ちゃんと生きてるとは言えない。一番大切なものを最優先するという基本を忘れないようにしたい。

 2007年3月6日(火) 「時間は主観的なもの。
                毎日は未来のための一日」

 追いかけるときの時間は早く過ぎて、待つときの時間は遅い。
 時はとどまることなく一定のリズムで刻まれているけど、時間の感覚はとても主観的なものだ。
 たいていは楽しいときほど無情に早く過ぎる。時に情けはない。
 そして、待っている時間の長いこと。
 今年の私は、例年になく時間の歩みが遅い。それは充実してないからではなく、待つというために使う時間が多いからだ。これで日々が豊かなら言うことはない。

 それでも時は流れて早3月。季節は春。そんなにのんきにしていられない。
 ここから時間は少しずつ加速していって、夏になれば終わりも遠くに見えてくる。
 今年はお盆というひとつの節目があるから、それまで日々を無駄にできない。もし無為に過ごしてしまえば、今年もまた私は変われないまま終わってしまう。
 毎日をしっかり生きることだけではなく、ちゃんと目的に近づくために日々を使わなくてはいけない。一日で少しでも前進できるように。
 今日は未来のための新しい日。明日は過去の自分との約束を果たすための日。自分自身との誓いをいつでも忘れないようにしなくては。

 2007年3月5日(月) 「毎日が未知の一日で、
                冒険は日常の中にもある」

 毎日が未知の冒険への旅。そう思って一日を過ごすことがとても大切なこと。
 今日を昨日の焼き直しだなんて考えたらもったいない。
 今日という日は、まだ誰も生きたことのない新しい一日で、それは30歳の人も50歳の人も100歳の人も変わらない。
 未知であることを意識することによって、見ることも聞くことも感じることも学ぶことも、すべてが積極的になれる。意識的と言い換えてもいい。いつもと同じと思ってしまえば感覚は極端に鈍くなる。走り慣れた道を運転するのと初めての街を走るのとでは違うように。
 どうすれば未知を意識できるかといえば、簡単なのは行ったことのないところへ行くことだ。でもそれは難しいから、せめて昨日までと違うことを毎日少しずつ取り入れていくという手がある。会社帰りに5分だけ回り道をするとか、気になっていた店に入ってみるとか、ネットで気に入ったサイトに書き込んでみるとか、そんなところから案外人生が大きく動き出すきっかけになったりする。
 毎日一歩余分に歩を進めたり、少しだけ足取りを早めたり、意識的に変化を持ち込むことが必要だ。それは誰かが与えてくれるものではなく、自分の意志の力でするしかない。ささやかなことだけど、やるとやらないとではまったく違う。
 人生を楽しめるかどうかは、大部分が本人の意識にかかっている。能力でも環境でも条件でもない。
 毎日はドキドキワクワクにもなるし、やることがなくて退屈にもなる。
 明日から冒険の旅に出よう。大げさだと馬鹿にされることを気にすることはない。自分が楽しくて生きることに喜びを感じられることが一番なのだから。
 冒険はアマゾンのジャングルにだけあるものじゃない。日々の生活の中にもあるものだ。

 2007年3月4日(日) 「終わるけど消えない。
               与えてもらったすべてに感謝」

 奪われるものよりも与えられるものの方がずっと多いのだから、まずは最初に感謝したい。自分の存在を支えてくれているすべてに。そして、なくすことを必要以上に嘆くまい。
 別れがつらいから出会わなければよかったなんて理屈は絶対に間違ってる。死ぬのが嫌だから生まれなければよかったというようなものだから。
 手に入れたものはすべてなくすのだと思い知るべきだ。死ぬときは何も持っていけない。もし意識に続きがあったとしても、持っていけるのは記憶と人格だけだ。
 人も世界もうらまずに生きることはそれほど難しいことではない。発想を変えれば、考え方も変わる。
 すべては終わるけれど、通った道のりが消えることはない。何も残せなくても、自分の中に残るものはある。
 最期の言葉は、ありがとう以外にない。

 2007年3月3日(土) 「人生は大部分が無駄なこと。
                その無駄の果ての一粒のために」

 人は繰り返すために生きている。
 その膨大な無駄の中からわずかに大切な結晶を生み出すために。
 無駄なことは何もないと言えばそうだけど、私たちがしている大部分は無駄なことだ。それでもいいと思える人だけが、手の中に小さな黄金を掴むことができるのだろう。
 たったそれだけのためになんでこんな苦労をと思うか、これのためならどんな苦労をしてもいいと思うか、それは人それぞれ。
 人生で報われることは少ない。でも、まったく報われないということはない。
 毎日同じようなことを繰り返す中でしか手に入らない一粒を、私たちは大切に思えているだろうか。
 生きることは無駄だけど無駄じゃない。人類の無駄、世界の無駄、地球の無駄、宇宙の無駄、時間の無駄。その膨大な無駄の果てに生まれる一粒の結晶は一体何なんだろう。

 2007年3月2日(金) 「駄目なところを自覚するところから。
               反面教師からじゃなく教師から学ぶこと」

 皮肉をやめたら人の皮肉が気になるようになった。
 タバコをやめて人が吸うタバコの匂いと煙がよく分かるようになるみたいに。
 タバコも皮肉も、あまり人を幸せにしないから、できればやめた方がいい。
 やらない方がいいことは、自分が一度やってみてからやめるという手順を踏まないとなかなか気づかないことかもしれない。やる前に気づけばいいけど、人はそんなに賢くできていない。
 人の振り見て我が振り直せというけど、反面教師は過去の自分の中にたくさんいる。今の自分の愚かさは、未来の自分のための悪い手本だ。必ずしも無駄じゃない。
 いつの日か、無理をしなくても正しい人になれるといいと思う。自分の愚かさからではなく人の賢さから学べるようになりたい。
 自分の駄目な部分に気づくことから始まる。自覚できてない欠点は直らないから。
 もっといい自分になろう。自分ためにも、周りの人たちのためにも。

 2007年3月1日(木) 「才能不足は言い訳にならない。
               思いを裏切らないことが大切」

 才能で自分を判断するのは間違いだ。
 判断材料となるのは、思いの強さとそれに比例する努力の質量だ。
 才能がない人間はいない。足りているか足りてないかの差があるだけだ。
 足りない分は努力の上積みで何とかするしかないし、何とかなる。才能がある人間よりも時間はかかるにしても。
 思いの強さを自分は裏切ってないだろうか。才能の足りなさを言い訳にしてないか。時間不足で自分を甘やかしてないだろうか。
 思いがあって、毎日の積み重ねを怠けていなければ、嘆く必要はない。自分を卑下することもない。けど、思いを思いのまま放置していたら、それは自分自身に対する裏切りであり、罪となる。
 毎日全力疾走、全力投球するのは無理だ。人の心はそれほど強くできていない。でも、毎日少しずつでも続けていくことはできる。目標はそう簡単に近づいてくるものじゃない。
 大切なのは、自分は何をしたいのかを見失わないことだ。思うことに才能は関係ない。できるできないは結果でしかなく、大事なことはそのずっと先にある。

 2007年2月27日(火) 「歳を取ることの悲しみと喜び。
                重ねる時間と分かち合う思い出」

 歳を取ることは、半分の悲しみと半分の喜びを私たちに与える。
 喜びには悲しみがつきまとい、悲しみの代わりの褒美のような形で喜びがある。
 歳を取ることが悲しいと思うか嬉しいと感じるかは本人次第だ。残された時間がもう半分しかないと思うか、まだ半分あると思うかの違いのように。
 一緒に歳を取る人が隣にいれば悲しみは半分になり、喜びは倍になる。
 重ねる時間と記憶の中で、尽きることのない思い出話ができる相手がいれば、歳を取ることも悪くないと思えるだろう。

 2007年2月23日(金) 「醜さとの対比で知る美しさ。
                光と影は裏と表じゃない」

 人間の醜さや現実の悲惨さから目を背けてこの世界が美しいと言っているわけじゃない。どんな時代にも裏の社会はあり、ある意味ではそれが光の社会を支えてもいる。
 残虐さや暴力ががあるからこそ美しさが際立つ。影があるから光を知るように。
 人は毎日動物を殺して肉を食べながら、傷ついた野鳥の手当をし、災害地に取り残された犬を助けたりする。殺し合いの一方で命がけの人命救助が行われている。
 それは矛盾なんかではない。人の心はいつも一方向にばかり進むわけじゃない。
 それを偽善だというのなら、もうこの世界は成り立たなくなる。映画や小説を作りものの無意味なものと決めつけるみたいに身も蓋もない。
 世界は半面の美しさだ。のっぺらぼうの光の世界じゃない。夜と昼があるように、醜さと美しさがある。どちらかが世界の本質でどちらかは否定するものとはではなく、両方で成り立っている。
 影に生きるか光に生きるかは自分で決めればいい。この世界を悲惨と見るか喜びと感じるかは本人次第だ。置かれている状況に差はあっても、どう感じるかでこの世界に対する見方も変わってくる。
 美しき世界の住人になるには、美しさと醜さを知ることだ。清らかな人間になれば、自然と清らかな世界に導かれる。
 地上は地獄にも天国にもなる場所だ。

 2007年2月22日(木) 「目標に向かうことが目標。
                達成は結果でしかない」

 人生の目標に毎日近づいているという実感を持つことは難しい。
 どれだけ全力で追いかけても、どれだけ手を伸ばしても、届かない夢もある。
 けれど、夢が実現しないなら走らなくてもいいという理屈にはならない。それは、相手が自分のことを好きになってくれなければ好きになる価値がないという論理と同じだ。
 大切なのは目標に向かい続けることそのものだ。結果はいろいろある。思い通りにならないことも多い。でも走り続ければ遠ざかることはないし、それは自分にとっても決して無駄にはならない。
 人はなんのために生き、どうして走るのか。それは自分が決めた目標に向かうためだ。その目標の先に何があるのかは行ってみなければ分からない。自分自身で確かめるしかないものだから。
 いつも走り続けなくてもいいから、せめて歩き続けよう。立ち止まらずに歩きながら道を探そう。最後まで自分を信じて。

 2007年2月21日(水) 「愛すべき地球に気づけば、
                明日何をすべきかが分かる」

 時間の最先端と信じる現在という場所に生きながら、今この時代の地球を懐かしいくて愛おしいと感じる。まるで失われたものを振り返って思い出しているみたいに。変な言い方だけど、そんなふうに感じながら生きている。
 今はまだ当たり前にできていることが、そんなに遠くない未来に当たり前じゃなくなる。太陽の光を直接浴びたり、水道の蛇口から出る水を飲んだり、畑になっている木の実をもいでそのまま食べたり、雨に濡れながら道を歩いたり、裸で抱き合ったり、そんな普通のことがいつかできなくなる日が来る。それは予感ではなく、歴史的な事実として知っている気がする。

 私が未来からやって来たとかそういうことではない。やがて人類は時間を克服する。遠い過去を遺伝子が記憶しているように、未来もまた遺伝子の記憶の中に組み込まれているのだと思う。だから、今を生きながら同時に今が懐かしいのだろう。
 それでも私は現在を変えようとは思わない。誕生のあとに消滅が来るのは必然だから。無駄なアンチエイジングや意味のない延命措置のようなことを地球にするのは違う。
 私にできるのは、今このとき、この場所で、見られるものを見て、体験できることをして、感じられることを感じることだけだ。知ることと学ぶことが地球や人間を愛することにつながる。
 崩壊が必然だったとしても嘆くまい。胸が潰れるほどの悲しい予感にさいなまれたとしても、私は未来を信じることをやめない。
 大切なのは今日を大事に生きることだ。それは今日のための今日であってはいけない。明日のため、未来のための今日でなければ。

 地球最後の日、私たちは何をするだろう? 答えは案外単純で他愛ない。
 好きな人とふたりでピクニックへ行くのだ。好物のおかずの入った弁当箱を持って、美しい風景と光と風を求めて、広い空のある場所へ。抱き合い寄り添って、最後は沈む夕陽と夕焼け空を見て、私たちは言うだろう。地球よ、ありがとう、と。
 地球最後の日はまだ来ない。私たちには残された時間がまだたくさんある。けれどそれは、何もしなくていい時間じゃない。大切に過ごすための時間だ。失われるべきものがまだ失われていないということを喜びと思えるなら、きっと明日もあさってもいい日にできる。最後の日にやることを明日やればいい。
 地球は素晴らしく美しい愛すべき星だ。今このときこの星に生きられていることはなんて幸せなことだろう。

 2007年2月18日(日) 「マイナスが欠けているという欠点。
                憎しみのない愛を探して」

 愛が憎しみと背中合わせだったり、征服欲と紙一重だとするならば、そんなものは最初からいらないと思ってしまう。もっと穏やかで慈しみ合う関係に逃げ込みたい。たとえそんなものは本物じゃないと言われたとしても。
 喧嘩するほど仲がいいなんてのも好きじゃない。喧嘩しなくても仲良しでいられると私は信じたい。何もかもさらけ出して、遠慮もなくつき合うことが深い関係性だとも思えない。
 私は自分の中にマイナス要因が欠けているという欠点がある。人として当たり前の憎や怒が決定的に足りない。それがかえって人との関わりにおいて支障になっている気がする。ネガティブな部分で共感し合えないから、共通の敵を持てない。
 けれど、たったひとつ、抜け道的な解決方法がある。それは、自分と同じ人種を見つけるということだ。それが自分のためになるのかどうかは分からない。ただ、それしか道がないから選択の余地がないのだ。
 憎しみのない愛が幻想だったとしても、私はそれに殉じる道を選ぶだろう。

 2007年2月15日(木) 「限界を向こうに押しやって、
                その先にいる自分に会いに行く」

 疲れていたり、時間がなかったり、やる気が起こらないときほど、休まず、最後の一歩、ひと掻き、ひとあがきが必要なのかもしれない。休むときは余力があるときの方がいい。
 限界に上積みしていくことが自分の成長につながるから。苦しくなって尚できたことが身につく。
 限界を指の先で向こうに押しやることで、限界は自分から遠ざかる。
 もうできないと思っても、まだできるはずだ。
 限界の先に出会うべき自分がいる。

 2007年2月14日(水) 「バレンタインが終わるとホッとする。
                これで冬の季節が終わったと」

 12月24日のクリスマスイブから始まった冬のイベントは、2月14日で終わりを迎える。独り身にとって一年でもっともつらい時期が終わると、毎年やれやれと思う。今年は事情が違っていたけど、それでもバレンタインが終わってちょっとホッとした感じがあった。
 ここが過ぎると次は気持ちが春に向かう。春の野草も咲き始めて、スポーツも始まって、出かけるにも家で過ごすにも退屈しなくなる。寒さや暑さにわずらわされずに済むのもありがたい。

 明日からまた、気持ちの中に新しい空気を送り込んで、再加速させていこう。やるべきことはたくさんある。のんびりするのはもったいないし、休むのはもっと先でいい。
 今年はいつもの年と違ってやることがはっきりしていてメリハリもあるから、生きやすい。去年のように漠然としてないから。時間割もある。タイムリミットも。
 だからぼやぼやしていられないのだ。まずは夏へ向けて。その後、今年中にやらないといけないこともある。
 さあ、駆けるのだ。

 2007年2月8日(木) 「近づかなくても進み続けること。
                チャンスを焦げ付かせないように」

 目標があって、毎日怠けてないつもりだけど、それでも目標は近づいてこない。
 目標は遠ざかっていくものなのかもしれない。だとしたら、そのスピード以上で追いかけないと追いつけないということか。下りのエスカレーターを登るみたいに。
 分かっているのは、休んだら停滞するのではなく遠ざかるということだ。利子だけでも返済していかないと借金が焦げ付くように。
 機会と時間は与えられている。でも、それは無限でも永遠でもない。限られた時間の中で少ないチャンスをものにできなければ、親切と支えと期待が無駄になる。
 誰かがどこかで自分のことを見守り、応援してくれている。その人たちのためにも応えなくてはいけない。
 もっと速く、もっとできることがある。もっと。

 2007年2月6日(火) 「言葉使いになりたいという願いは、
                あの頃も今も変わってない」

 言葉は暴力にもなり、優しさにもなるから、使う人間の心がけが大切。
 言葉で間違いや問題を起こしてる人間は、心が間違っているからだ。必ずしも頭が悪いというだけではない。
 ずっと言葉を上手に使えるようになりたいと思ってきた。魔法を使う人間が魔法使いと呼ばれるように、言葉を使う言葉使いになりたいと。
 まだ完全には遠いけど、20代の自分を思い返すとずいぶん上達したとは思う。
 言葉は決して無力なんかじゃない。全能ではもちろんないけど、言葉が役に立たない場面は人生の中で数えるほどしかない。たいては言葉で片づき、言葉が足りずに片づかない。
 もっと言葉を、その思いはこの先も変わらない。
 自分の言葉が誰かの心の深い場所に届いたとき、自分は生きていていいんだと思える。

 2007年2月5日(月) 「それぞれの学び。
                上がりはまだずっと先だ」

 自分に生まれて、この自分でしか学べないことがたくさんあって、それは他の人では得られないものだ。最後まで自分という学びに殉じるしかない。
 不幸の中にしか見つからないものがあり、幸福の中で初めて知ることもある。
 人として、この国のこの時代に生まれ合わせたという共通の要素はあっても、自分独自の立場があり、そこでの経験は取り替えのきかないものだ。私たちは全部を一度に学ぶことはできない。少しずつ積み重ねていくしかない。だから生まれ変わりが必然なのだ。けど、落第すれば次はない。
 私たちの学びに終わりはあるのか? あるとも言えるし、ないとも言える。神になれば上がりというわけでもない。神には神の学びがある。でも、いくつかのゴールテープも用意されている。ステージクリアと言った方が分かりやすいかもしれない。
 宇宙は広い。地球で学び終えてもまだまだ先は長い。安心するのは早いし、あっけなくて詰まらないと思うほど簡単じゃないからがっかりしなくてもいい。
 人生の難易度は絶妙だと私は思う。

 2007年2月3日(土) 「新しい一年、新しい毎日の中で、
                まだ知らなかった自分と出会う」

 一年のうちの12分1が終わって、早くも焦りが出てきた。この調子では今年もあっけなく終わってしまいそうで。でも、今年ばかりはそんな簡単に終わらせてしまってはいけないのだ。もし、今年を去年と同じように過ごしてしまったら、私はこの先もずっとこの調子になってしまいそうだから。せっかく変われる機会が訪れてるのだから、変わろう。恐れずに手を伸ばして、先へ進もう。
 人生が用意してくれるのはお膳立てまでだ。そこからどうするかは自分の意志で決めなければならない。選択するもしないも自由だ。何もしないでやり過ごすという選択肢もある。それが絶対に不正解だとも言い切れない。
 運命は駅のようなものだ。駅から駅への道は自分で決めることができる。駅に寄らないこともできる。止まるのもいいし、通過してもいい。
 自分にできることは、意志を持つことだ。思惑通りにいかないことも多いし、他者の力が加わって方向が変わってしまうこともある。でも、自分は何がしたいのかを見失わなければ、最終的には思い通りになるものだ。なんとか人生と折り合いはつく。
 人生で一番つらいのは、選択肢を与えられないことだ。べた凪ほど厳しい状況はない。それが長く続いた後、ようやく吹いた風だ。これに乗らずに何に乗る。漕いで漕いで、行き着く先は風に任せよう。ただ前へ進みたい。それだけだ。
 まだ知らない明日が待っている。今年も生きたことのない新しい一年だ。まだ知らない自分がいて、新しい日々の中で待っている。その出会いが嬉しい。

 2007年1月26日(金) 「留守します連絡」

 東京行きと栃木での葬儀が重なって週末留守にします。
 戻ってくるのは月曜日の予定。

 生きていることと、大切な人と過ごすことは、当たり前のことなんかじゃないことをあらためて知る。

 2007年1月25日(木) 「年相応の正しさ。
                先行せず、後れを取らず」

 新しい年齢にまだ馴染んでない。前の年齢を書いてしまったりする。ようやく馴染んできた頃にはまた新しい年齢になっての繰り返し。
 止まりたい年齢があるとしたら、32か33くらいだろうか。その年代が懐かしいとか戻りたいとかではなく、これくらが何をするにしてもちょうどいい感じだから。若すぎず、年すぎず。
 とはいえ、同じ年齢は一年しかないわけで、繰り返すこともできない。ただ一定の速度で一つずつ重ねていくだけだ。そのこと自体は悲しむべきことではない。年の取り方には個人差があって、みんな同じというわけでもない。
 ただ最近思うのは、年相応が一番正しいということだ。若く見えすぎても、年を取って見えるのもよくない。どこかに問題がある。
 自分の年齢と寄り添って上手く並走していけるといい。焦りすぎず、後れを取らず。
 今年は、年齢相応の年にしたいと思っている。今年中にやっておきたいこともいくつかある。少しだけ急いだ方がよさそうだ。

 2007年1月23日(火) 「現実と理想を生きて選択すること。
                 理想は自分自身のために」

 自分の中の戦いは善と悪との戦いじゃなくて、理想主義派と現実主義派の戦いが日夜繰り広げられている。飽きもせず。
 志さえ間違ってなければ結果はどちらでもいいじゃないかと主張するのに対して、いくら志が高くても何もできなければできないのと同じだと一方が反論する。どちらにも理がある。
 もちろん、志を持って実現でもできればそれに越したことはない。そのときは、理想と現実が歴史的な和解のテーブルにつくことになるだろう。でもそれは、そんなに簡単なことじゃない。
 でも、どうすればいいかは自分が一番よく分かっている。両方どちらでもあれて、自らの意志でどちらかを選択することが正しいのだと。
 理想に逃げるのではなく、現実に飲み込まれてしまうのでもなく。
 ただひとつ言えることは、現実は理想のためにあるということだ。主人はあくまでも理想の方であって、理想が現実の家来になるのは違うと思っている。
 理想という目的地もなく走り続けていても、最後は倒れるだけだ。私たちは自分の理想を叶えるために命と機会と時間を与えられている。命は守るためじゃなく使うものだということを忘れてしまったら、それは借金の踏み倒しになりかねない。
 今日という日を楽しくするためには、毎日少しずつでも理想に近づいているという実感を得ることだ。今日を楽しく生きてるだけではいつまでも虚しさがつきまとう。
 理想は誰のためでもない、自分自身のために持つものだ。それが結局一番楽に生きる方法だから。

 2007年1月22日(月) 「凛として。
                 背筋を伸ばして」

 もっと自覚を持てと人は言う。
 思えば大した自覚を持たずにここまで来てしまった気がする。来られてしまったという方がいいかもしれない。
 明日からはもっと自覚というものを考えて毎日を過ごそうと思う。自覚が何かということがいまだによく分かってないのだけど。

 自分に自信を持つことは大切なことだ。けど、自信と過信の間には線が引かれていないので、それを見極めるのは難しい。
 胸を張って張りすぎてふんぞり返ってしまってる人たちも多い。
 背筋を伸ばして、凛としていこう。ときには手を合わせ、頭を下げて。
 大丈夫、まだ間違いが確定したわけじゃない。もっといい自分になれる。
 まだ自分の限界は見えていない。

 2007年1月21日(日) 「心を曇らせないで。
                 幸せの側にいるように」

 生きていれば多かれ少なかれいろいろな問題がある。深刻なものじゃなくても、日常のわずらわしい細々とした問題から逃れることはできない。考えると頭の痛いことや、解決しなければいけない懸案もあれこれある。
 けれど、そのことで心を曇らせてしまってそれ以外の部分でも楽しめなくなってしまうのは、とてももったいないことだ。一部駄目なところがあったら全部駄目というわけではない。

 目を閉じればこの世界は、花の咲き乱れる草原で、空は高く青く、暖かい風が優しく草を揺らし、頬を撫でていく。地上を温める太陽の光は生き物に命を与え、人間の営みはとどまることがない。日は昇り、日は沈む。季節は移ろい、巡る。死んだ命の代わりに新しい命が誕生する。

 手を伸ばした先につなぐ手があれば、どこまでも走っていける。この世界の果てまで。命の限り。
 生きていることの歓びを忘れない。今ここにいることは当たり前なんじゃないんだ。
 心と体と頭で目一杯幸せを感じて毎日を生きなければ、自分を生かしてくれている存在に対して申し訳が立たない。

 解決しなくてはいけない問題はどこまでもついてくるし、先回りをして待ち構えている。けど、止まらずに走り続けれていれば、大事じゃない問題は振り落とすことができる。立ち止まるときは戦うべき相手と戦うときだけでいい。

 死に向かって命を燃やすことが輝くこと。
 すべては愛すべき人のために。
 この世界の幸福と不幸との戦いで幸福の側のために力を貸したい。幸福が勝つことも不幸が勝つこともないけど、少しでも幸福の比率が多くなるように。
 自分が幸福の発信源となることで、水面の波紋が広がるように幸せの波動が世界に伝わっていくように。

 2007年1月19日(金) 「消極も必要。
                 積極はもっと重要」

 生きることに積極的になればすべて事態は好転するかといえばそうではなくて、それに比例したり反動が出たりして悪いことも同時に起こってくる。
 前向きになることで食欲が増えて太ってしまったり、忙しくすることで大事なことを置き忘れたり、調子に乗って転んで大ケガしたり。
 もちろん消極的よりも積極的な方がいいには違いないのだけど、物事はそう単純ではない。得るものがあれば失うこともある。天の嫌がらせとかではなく、そうやって自分の中で勝手にバランスを取ろうとしてるからなのだろう。人は幸福なだけでは生きていけないものだ。
 前向きに努力をすることは大切なこと。でも、たまには消極的になって休んで充電することも必要だ。悩むことも、迷うことも、悲しむことも、それらは次へとつながっていく。
 一番いけないのは何もしないことだ。私たちは失いながら前へ進もう。

 2007年1月18日(木) 「成長は時間と他人がくれたもの。
                次はそれをいかすこと」

 少しずつマシな自分になれているのは、時間と周りの人たちのおかげで、決して自分だけの力なんかじゃない。
 人は他人との関わりなしに充分な成長をすることができないのだと思い知る。思えば若い日の自分は必要以上に傲慢だった。自負と傲慢は違う。
 この先は、せっかくマシになれた自分をいかして還元することを考えたい。成長は貯金なんかじゃないから。使ってこそ価値がある。
 背中を押してもらったら、あとは自分の足で歩くことだ。

 2007年1月16日(火) 「どんな生き方にも間違いはある。
                大切なのは気づいた間違いをいかすこと」

 過去の生き方は間違いであり、間違いではなかった。
 違う選択をして違う人生を生きていたとしても、そこには必ず正しさと間違いがある。今と比較しても間違いの種類と質が多少変わるだけだ。
 何度でもやり直すことができたとしてもそれは変わらない。すべての人生を記憶できるわけではないのだから。
 過去はもうどうしようもないことだ。今さら書き換えられるわけでもなく、その必要もない。大切なのはこれまでに気づいた間違いを今後にいかすことだ。
 自分には何ができるだろうと思ったところがあらたな出発点となる。正しいことをするのに遅すぎるということはない。
 残された時間は永遠ではないけれど、私たちには明日がある。
 自分が思い描くことができる最高の正しさへ向かおう。それが自分の過去の間違いに対する償いにもなる。

 2007年1月12日(金) 「自分が変わり続けていけば、
                生きることに飽きることはない」

 飽きるまで生きられるなら、私はどれくらいまで生きようと思うだろう。80歳にもなれば、生きることに飽きてしまうのだろうか。それとも年老いて生きる気力がなくなるだけなのだろうか。
 ずっと長く生きるなら何歳の自分で生きたいと思うだろう。この先の自分は分からないけど、ここ数ヶ月で一番いい自分を見てるから、この年齢でもいいかもしれない。このまま歳を取らないのなら、何百年でも生きられそうだ。
 ただ、考えてみるとそれは違うことに気づく。飽きないのは、世界が変わっていくからでもあるけど、自分が変わっていくことでもあるから。年老いるということも、飽きないという点においては必要不可欠の要素なのだろう。
 だとすれば、人は長く生きても80か90くらいでいいのかもしれない。人類の寿命が120歳というのは納得できる。
 浅知恵で考えると人間をもっと上手く作れるような気がするけど、そんなことはないのだ。今のままでこれ以上ないほど上手くできている。私たちはシステムを変えることではなく、このシステムの中で自分が変わっていくことを考えた方がいい。自分たちで世界を作り直すことができるだなんて思うのは不遜だ。
 この世界は生きるに値する。いいことばかりじゃないけど、やっぱり生きることはいいことだ。

 2007年1月11日(木) 「生きることに納得できさえすれば、
                人並みじゃなくても後れをとってもいい」

 生きれば生きるほど、生きることの謎が解けて、いろんなことが腑に落ちる。ああ、なるほど、こういうことだったんだね、と。
 私は自分は理解が早い人間だと思っていたけど、どうやらそれは違っていたらしいことが最近分かってきた。みんなが20代の頃に気づいていたであろうことを今ごろ気づいたりして、自分って遅れてるんだなとしみじみ感じた。
 思ってるほど賢くもないし、先に進んでもいない。前に人が見えないから先頭を走ってるつもりでいたら、自分だけ周回遅れになっていた。いつの間にみんな先に行ってしまったんだろう。
 けど、遅れてもなんでも、知りたいと思っていたことを知ったのはよかった。人並みである必要はないし、人より上になる必要はない。生きることに自分が納得することが大切なのだから。
 まだまだ解けない謎はたくさん残っている。時間のある限り、それらをひとつひとつ解き明かしていくしかない。もう焦らない。休まずゆっくりいこう。

 2007年1月10日(水) 「自分が変われば周りも変わる。
                天国の扉はいつでも開いている」

 明るい気持ちでいれば明るいものを呼び寄せるし、暗いものは離れていく。
 沈んでいると、そこに闇がつけ込んでくる。
 元気でいることの大切さを今さらながら思う。夜の部屋で思い詰めていたことも、昼間の太陽の下では焼かれてしまうことが多い。
 類は友を呼ぶという言葉は正しい。どんな人と共鳴するかは自分次第だ。悪い人間が寄ってくるのは自分の中に同じような悪があるからで、善良でいれば善良な人たちの仲間に加えてもらえる。
 天国と地獄も自主選択制なのだ。地獄的な人間は天国では耐えられない。誰かに裁かれるまでもなく。
 すべては自分が変わることだ。そうすれば周りも変わっていく。周りがよくなれば自分ももっとよくなれる。自分が変わらなければ何もよくならない。
 清らかな場所に身を置くという方法もある。太陽の光を浴びて、海を見て、森を歩けば気持ちは必ず浄化される。環境が人を作るということもある。
 私たちは誰でも天国へ行ける。それは必ずしも行いの良し悪しで決まるわけではない。自分が天国的な人間になればいいのだ。天国が心地いいと思えれば、天国の門はいつでも広く開いている。

 2007年1月8日(月) 「夢中に殉じることの
               勇気と無謀」

 何かに夢中になっているとき、道に迷うことがある。
 このまま行くべきか、戻るべきか、立ち止まるべきか。
 こんなことは人生にめったにないことだし貴重なことなんだから殉じるべきだという思いと、いくら楽しくても本質から外れているなら自分で軌道修正すべきなんじゃないかという思いがぶつかる。
 そういうときは結局答えが出ないままなし崩し的に前進してしまうのだけど、その姿勢も自分自身正しいのかどうかよく分からない。間違っていてもいいじゃないかという気持ちもある。
 迷ったときはやめろなのか、迷ったときは行けなのか、状況によるにしても基本姿勢というのはあらかじめ決めておくべきなのかもしれない。
 迷いはある種の警告のようなものなのだろうけど、それを振り切ってこそ幸せになれるということもある。
 それでも、何かに熱中したり、夢中になれたりすることは、とても幸せなことだ。そうじゃない期間が大部分なのだから。やっぱり、夢中になってることには、主観的にも客観的にも喜びを感じていればいいのだろう。それが一生覚めない夢ならそれでいい。

 2007年1月7日(日) 「大きな変化の時期。
               分かりやすい2007年」

 これまで何度か経験した、大きな体質の変化がまたやって来たようだ。
 夏が大の苦手だったのが大好きになり、肉食から健康食を好むようになり、人混みや行列が嫌いじゃなくなったように、夜型から朝型になろうとしている。夜になるとやけに眠たくして仕方がない。今も脳は30パーセントくらいしか機能していない。けど、不眠症とかでは全然なく、ぐっすり眠れるのに早く目が覚めてしまうのだ。ひょっとしてこれは老化なのか?
 人格的にもここ数ヶ月で大きな変化を感じている。すごく良い方へ。きっかけがあって変わったのか、変わったことがスイッチになったのか、その両方かもしれない。
 変化の時期でないときは、自分でどれだけあがいても変われないものだ。変わるべきときが来れば自然と流れが生まれる。こういうときは変に抵抗せずに流れに乗っていきたい。今までもそうやってきて正解だった。

 2007年も一週間経って、だいぶ落ち着いてきた。祝日が明ければ、平常に戻っていけるだろう。
 今年は個人的に分かりやすい年になる。やりたいことや目標がはっきりしてるから。去年の始まりのように漠然としてない。
 良い年、悪い年というのはたぶんなくて、大切なのは自分のしたいことがどれだけできるかということだ。いろいろ不測の事態も起こるだろうし、結果は分からない。ただ、結果を求めてやれることを全部やっていきたいと思っている。
 ベストを尽くすことが大切なのではない。大事なのは結果を出すために生きることだ。できるだけのことはしますというのは逃げ腰の言い訳でしかない。
 明日も一日しっかり生きたい。

 2007年1月6日(土) 「ライバルは昨日の自分。
                勝つことで許せる」

 毎日ひとつでも知らなかったことを知り、賢くなることができればそれは嬉しいこと。
 ライバルはいつも昨日の自分だ。昨日の自分に勝てさえすれば、勝負は続いていく。もし負けが続くようなことあれば、もはや勝負さえさせてもらえなくなると思っている。
 毎日、進歩、成長、前進。それを感じられる限りは自分を許して信じることができる。
 今日も大丈夫だった。明日も頑張ろう。一日少しずつでいいから。

 2007年1月2日(火) 「日本システム。
                まだしばらくは日本人は大丈夫」

 年が変わることはいいことだ。気持ちに区切りがついて、新しく出直せるから。
 何か始めようと思うし、悪いところは改めようと決意できる。
 一年という時間は主観的には短く感じるけど、これ以上長かったら間延びしてしまうし、リセット効果の回数も少なくなってしまう。だから、ちょっと物足りないくらいの長さで、そのたびに再出発していった方がいいのだ。
 日本人は特に、たくさんの区切りを持っている。四季や時節や行事などを。切り替えの上手い人種と言えるだろう。悪く言えばすぐに水に流そうとしてしまうし、飽きっぽくもある。ただ、外国のようにしつこく過去のことにこだわらないところはいいところだ。
 日本という国のシステムというのは実に良くできているものだと思う。いろんなことが理にかなっている。一軒無駄に思えることにも意味がある。
 すたれていっている伝統行事も多いけど、大晦日に正月にお盆があるうちはまだ大丈夫だろう。お年玉をもらいにじいちゃんばあちゃんのところに里帰りして、何千万人もの人が初詣に行くという現実もある。この国は絶望して嘆くほど悪いところばかりじゃない。
 日本や日本人って、まだまだ捨てたもんじゃないよねと思う、2007年の正月。

 2007年1月1日(月) 「2007年発進。
                 今年は個人的に節目の年」

 2007年という数字と響きにまだ慣れない。平成19年にも。
 それでも一日が経過して、すでに1月2日に入った。
 まずはさらっと入って、すっと動き出した。滞りなく。
 今年は個人的に変化の年になる予感がある。そうしなければいけないとも思っている。ここ数年、良くも悪くも平和な日々が続いて、凪だった。ようやく風が吹いてきたから、これに乗っていきたい。恐れることはない。
 今年の具体的な目標はまだ決まっていない。状況が流動的なので、それ次第という部分もある。イメージしていることが具体化していけばいい。
 どんな年も見方によってはいい年で、無駄な年は一年もない。ただ、その中でもやはり大事な年というのはある。2007年は節目の年になる。
 まずはカレンダーを買おう。そういえば自分の写真でPCのカレンダー壁紙を作るってのを去年考えていてすっかり忘れていた。今月中に一枚作ろう。
 明日からまた一日一日自覚的に生きなければと思う。毎日の積み重ねが365日で一年になる。一日の長さは誰にとっても共通だけど、一日の厚さは人によって違う。なるべく分厚い一年を作りたい。

 2006年12月30日(土) 「平和から変化へ。
                 2006年12月を忘れない」

 今年はこれで最後の断想日記になる。
 2006年を振り返ると、平和の中に安住していた前半4分の3と、思いがけない変化の後半4分の1になった。いい一年だった。文句はない。今年くらい悪いことがなかった一年というのも、ちょっと記憶にないくらいだ。
 たくさんいろんなところへも行って、写真も撮った。東京行きもあった。今年の目標として掲げたフォトコンテストに入るというのはついに達成できなかったけど、それは今年限定のことじゃない。来年へと持ち越しになる。

 来年は流動的ではあるけど、今年とは全然違う一年になりそうだ。今年が静とすれば来年は動の年になる。もしかしたら、大きな変化もあるかもしれない。それは自分の意志でどうにかなるものなのか、それとも見えない力がないと実現しないものなのかは分からないけど。
 散策と写真が引き続き基本となる。それに書くことを加えて三本柱は変わらない。趣味の料理も続けつつ、何か新しいことも始めたいと思っている。

 今年一年、お世話になりました。どうもありがとうございます。来年もまたお世話になります。もろもろよろしく頼みました。

 2006年12月29日(金) 「見るべきものを見せられている。
                 噛んで飲み込むのは自分ですること」

 自分が見るという行為は、見えざる力に見せられているということでもある。
 自分の意志で決めていると思っている行為の大部分とは言わないけど、かなりの部分はある種の作為が働いているように思う。悪く言えば仕組まれている。良く言えば導かれている。
 見るという行為とそれを意識することは別のものだ。意識しなければ見えていても見えないし、意識を持つことで初めて見えてくることがある。
 ただ、あくまでも受け手は自分なのだから、見えたものをどう受け止めて自分の中に取り込むかは本人にかかっている。見えざる手がしてくれるのは、口の中に入れてくれるまでだ。噛んで飲み込むのは自分の仕事になる。
 私たちは目に見えたものから何を得て、何に変えられるだろう。どれくらいきちんと消化できるのか。もし見えなくなったときは、何を失い何を得るだろう。目に見えることでものごとの本質を見失うこともある。
 身近すぎる大切なものは案外見えていないものだ。もう一度よく見て、大事にすべきものを見失わないようにしたい。たまには隣にいる人のことをしっかり見直すことも大事なことだ。

 2006年12月28日(木) 「どんな変化も必然。
                 変わることを恐れず変わり続ける」

 物事はいつもゆっくりと変化しているわけではない。一瞬で事態が急変することもあるし、一日でガラリと変わってしまうこともある。多くの場合、そのことを予知することはできない。
 昨日まで輝いていたことが今日になって急に色あせてしまったり、楽しかったことが突然詰まらなくなったり、気持ちが折れたり、感情が消えたり、変化も様々だ。
 永遠に変わらないという誓いほど無意味なものはない。そんなことは最初からあり得ないことだから。永遠の愛を誓うなら、日々あらたに気持ちを入れ直すしかない。今日が昨日までの連続だと決まっているわけではないのだから。
 人も世界も変わる。その前提に立って物事を見つめ直したとき、人はあきらめがつく。悪い意味ではなく良い意味で。すべての変化が必然だと受け入れることができれば、後追いでも対処していける。変わらないということにしがみついてしまえば成長はなく、日を追うごとに退化していく。
 私たちは否が応でも変わり続けていくしかないのだ。それが命をつなげていくということだから。
 人は変わりながら変わらないでいることができると私は信じている。たとえばそれは、同じ風景を毎日写真に撮り続けるようなことだ。一度撮っただけの写真は変わらないけど色あせていく。毎日新しく撮れば色あせることはない。その中に変化があったとしても、変わったというのとは違う。
 激変は明日訪れるかもしれない。だから、今日を最大限味わっておかなくてはいけない。

 2006年12月27日(水) 「感情に流され翻弄され、
                 心と頭が日々戦っている」

 自分の中にある暴力的とも言えるような感情の言うことをどこまで聞いていいものか、時々判断に迷う。
 心と頭の戦いは常に繰り広げられていて、私はいつも仲裁に入らないといけない。どっちの言うことも分かるけど、きみたちのどちらか一方だけが正しいわけじゃないんだよと。
 感情は自分であって自分じゃないところがある。私という存在は、どちらかといえば頭の方にいることが多い。感情はもちろん敵ではないけど、感情側ではない。
 それでも、どちらかといえば私は感情的な人間なのだと思う。感情に身をゆだねてしまうことが多いからだろう。いつも冷静で何事にも動じないような人には憧れない。感情に翻弄されている自分でいいと思っている。
 喜怒哀楽の怒が欠けている私は、どこか不完全な人間であることを自覚している。他の3つは人並み以上だと思っているけど。怒りにもいい怒りと悪い怒りがあって、怒りがないというのは正しいことではない。
 今はわりと感情とうまく折り合いをつけられている。一時的なものなのか、それともついに感情を手なずけることができるようになったのか、もう少し様子を見てみないと分からない。

 2006年12月26日(火) 「下手なことこそ丁寧に。
                 毎日を丁寧に生きること」

 自分が下手だと自覚していることこそ丁寧にやるべきだ。そのことに気づいたのはそんなに昔のことじゃない。
 字が下手だから丁寧に書きたいと思った。誰だって大切なラブレターを書くときは自分に書ける精一杯丁寧な字で書くだろう。下手なまま放っておいたらいつまで経っても上手くならない。
 同じように、生きるのが下手だと知っているなら、できるだけ毎日を丁寧に生きることだ。それが誠意であり、責務だ。そうやって日々を重ねていけば、いつか少しは生きるのが上手くなるに違いない。
 一日を生き延びることは、決して当たり前のことなんかじゃない。だから、今日という日を丁寧に生きようと思う。そうすれば、もっと自分の思いが分かるだろうし、その思いが自分以外にも伝わるはずだから。

 2006年12月23日(土) 「新しい場所で新しい自分と出会う。
                 経験と時間の二大教師」

 今まで行ったことがないところへ行き、したことがないことをすると、いろいろと学ぶことや感じることが多い。いくつになっても未知のことはたくさんある。
 新しいものに触れると、自分の新たな面を発見する。そうやって人は変わってもいくし、積み重なってもいく。より多面的になり、深みも増す。
 経験と時間が、人間にとっての二大教師だ。
 でも、教わるばかりでは上には行けない。学んだことを応用するのはあくまでも自分自身だ。そこには想像と思考という二つの柱が必要となる。
 明日はいつでも新しい一日で、新しい自分がいる。日々の小さな出会いにも喜び、感謝できる人になりたいと思う。細部まで感じられてこそ幸せな人生だから。

 2006年12月22日(金) 「作為と演出。
                 精一杯演じればいい物語になる」

 人生はいつも、自分が思い描いていたようにはいかないものだ。常に思いがけない展開に巻き込まれ、不可抗力的に状況に流され、予想していかなかった結論に導かれる。
 そのことの意味が分かることもあるし、理解できないこともある。
 私たちはたぶん、妥協点ではなく納得点といったようなものを求めているのだろう。自分にとって都合がいいようにはいかなくても、納得できれば状況を受け入れることができるものだ。たとえそれが運命のようには思えなかったとしても。
 いったん納得すると、意識の流れが逆流してそこに至った必然性が瞬間的に見える。ときに笑ってしまうくらい上手くできていたりする。してやられたという感じに。
 そういうとき、人生って面白いなとつくづく思う。すごく作為的であったとしても、それは悪い気分じゃない。人はそんなふうにして人生を納得していく。
 人生は主観で演じることを楽しみ、客観で状況を楽しむという二重の喜びがある。私たちは必ずしも操り人形なんかではない。何もかも天任せにして幸せになれるはずもない。ただ、演出は感じておく必要があるのだろう。すべて身勝手に演じていいというわけではない。人はそれぞれこの世界に対する役割があるから。
 いずれにしても人生は楽しめるものだ。天の演出意図を理解し、精一杯演じさえすれば物語は動いていく。結末がどこへ流れていくかは決まっていない。世界はそんなに単純ではない。常に状況は変化している。明日のことは誰にも分からない。だから楽しいのだし、明日を生きてみる価値があるのだ。

 2006年12月21日(木) 「新しいことを始めるときは入れ替えで。
                 大変でも崩して積み直す」

 これまで長い時間をかけて築き上げてきたことを全部やり直して入れ替えるというのはとても大変なことだ。物理的な意味だけではなく精神的な部分でも。
 けれど、そうしたい、そうしようと思ったときが変わりどきなのだ。その気持ちをやり過ごしてしまうと、変われる時機を逸してしまうことになる。
 面倒に感じても、途方に暮れてしまったとしても、少しずつやっていくしかない。部屋から一つずつ荷物を運び出して、新しいものを一つひとつ運び込むように。
 ときどきは心の引っ越しも必要だ。
 ただ、何かをやめるときは、何かを始めるときでなければならないと思っている。やめたい逃げたい放り出したいというだけでやめてしまうのは、自分の一部を捨てることだから。新しく始めることは、あくまでも入れ替えでなければいけない。

 今年も終わりが近づいてきて、残る日数も少なくなってきた。そろそろ今年の総括をしつつ、来年に気持ちを向けていってもいいだろう。
 イメージのないところに実現はなく、希望のないところに求める未来は存在しない。何がしたいのか、何が欲しいのかを自分自身よく知っておくことが大切だ。何をどうしたいのか分かっていれば努力することで近づける。目的地のない旅ではゴールに近づかない。
 残り10日。まだできることはある。終わりよければすべてよしとも言うのだから、普通に過ごさず特別に過ごしたい。来年へとつながるように。


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