2006.9.19-

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 2006年12月20日(水) 「事後言い訳は誠意の表れ。
                 事前言い訳は弱虫の逃げ」

 言い訳には事前言い訳と事後言い訳がある。
 個人的には事後言い訳は悪いものじゃないと思っている。起こってしまった失敗やしてしまった失敗の言い訳をすることは、相手に理解を求めるための説明だから。仕方がなかった原因があったのなら許すしかない。
 けど、事前言い訳はなるべくしてはいけないことだと思っている。何かをする前に防御策として言い訳するというのは、みっともないし潔くない。これは苦手だから上手くできなくても許して欲しいというようなことだ。難しいとか、時間がないとか、やっても意味がないとか、そうやって戦う前に逃げるのはいけない。
 言い訳が口をついて出そうになったときはいったん飲み込んで、まずはやってみることを優先させたい。やれるところまでやって、やっぱりできそうにないと分かったら素直に謝ればいい。やってみたけど自分にはできませんでしたと。それは言い訳とは違う。
 言い訳は必ずしも悪ではない。相手に嫌われたくないという思いから生まれるもので、言い訳する気にもならないとなったらもうその関係は冷めてるということだ。ある種の誠意だったりもする。
 相手に誤解を与えないように、状況に応じて上手に言い訳をしたい。そして、逆の立場になったときはそれを受け入れたい。

 2006年12月19日(火) 「賢さは速さじゃなく、
                 思いやりだと思う」

 頭の回転が速いことと、物事を大局的に見られることとは違う。
 反射神経がいいことと、スポーツが得意なことが別であるように。
 何事につけ、速さは武器にもなるし、有利になることが多い。ただそれは、必ずしも好結果につながるわけではなく、速い人間ほど自分を過信しがちだ。
 人間関係、特に恋愛関係においては、反射神経はある程度制限した方がいいのかもしれない。思ったことをすぐに口にしていいことはあまりないから。反応して口をついたひと言が命取りになることもある。
 反射神経はときどき自分をも傷つける武器となるから注意が必要だ。

 賢いというのはどういうことか?
 究極的に言えば、全部であるということだろう。速くて、強くて、柔軟で、攻防兼備で、優しくて、大きくて、深くて、広いこと。
 けれど、なかなか全部を身につけるなんてことはない。だから、優先順位をつける必要がある。
 賢さの定義は人それぞれなのだろうけど、私の思う賢さは、人を思いやれる心だと思っている。人の気持ちが分かる人間こそ、本当の意味で賢いと言えるんじゃないだろうか、と。
 そういう点で、私はまだ全然賢さが足りないことを自覚している。いつだって、もっと優しく、もっと賢くなりたいと願ってはいるのだけれど。

 2006年12月18日(月) 「言葉が縛ったり、
                 言葉に縛られたり」

 言葉には正の力も負の力もあって、良くも悪くも人を縛るものだ。
 ときに自分の言葉が自分を縛ることもある。
 あるいは、人を解放することもできる。
 たとえば名前というのも人を縛るものであり、人は自分の名前に縛られる。言い換えれば、名前によってこの世界につなぎ止められている。もし、名前を失えば、存在というのはとても不安定なものとなってしまう。世界と自分とも、人と人のつながりにおいても。私たちは他人を名前で認識している。

 言葉は慎重に使いたい。放たれた後にも責任を持てるように。
 呪いの言葉は相手も縛るけど自分にも返ってくる。呪われる側と呪う側は言葉でつながってしまう。
 人にはいつでも祝福の言葉をかけたい。そういうつながりなら縛られるのも悪くない。
 子供にも、あれをするなこれも駄目だと言わないで、こうしたらいいんじゃないのかなと言い換えてやる方がいい。叱ることが効果的であったとしても、誉めることで伸ばしてあげたい。

 できない約束はしない方がいいように、心にもない言葉は使わない方がいい。本物でない言葉は人と人との関係が歪め、言葉に復讐されるから。
 結局のところ、言葉は選ばなくてはいけないということだ。それは簡単なことじゃない。間違えることもある。それでも自分の能力において全力を尽くす義務がある。
 私は言葉を信じている。良いところも悪いところも含めて。言葉は時々無力だけど、それでも最後まで信じたい。言葉は最高に素敵なものだ。

 2006年12月17日(日) 「プレゼントの受け渡しで流れる
                 愛しさの交流が幸福の構図」

 プレゼントに何が欲しい?
 その質問は反則だ。問題の答えを聞くようなものだから。聞きたくても聞いてはいけない。
 誰でも欲しいものはあるし、もしそれをもらえば嬉しい。けど、プレゼントってそういうことじゃないと思う。
 プレゼントで大事なのは、相手が何をもらったら喜ぶかを考えることだ。正解はあるようでない。ないようである。当たることもあるし外れることもある。でもいい、それがプレゼントの意義なのだから。欲しいものを聞いてそれをあげることを買い与えると言う。それはプレゼントとは違う。
 高価なものじゃなくていいし、変に奇をてらわなくてもいい。ある意味では実用から遠いものの方がいいのかもしれない。プレゼントの醍醐味は、自分では決して買わないであろうものをもらうことで世界が広がることだから。
 プレゼントを渡すことと受け取ること。それは告白のようなものだ。私はあたながこんなものを欲しいんじゃないかと思いました、という。言い方を換えれば、相手は自分のことをこんなふうに見ているんだということを知るための手がかりとなる。自分のことを分かってくれてるなと思うこともあるだろうし、自分ってこんなふうに思われてるんだと意外に思うこともあるだろう。
 何にしても、今年もまたクリスマスには世界中でたくさんのプレゼントが行き交うことになる。それはとても素敵なことだ。この世界の幸福の本質は、エクスチェンジにあると私は信じている。
 与えて、もらう。もらって、与える。そのとき流れる愛しさと思いやりの流出と流入が幸せの構図だ。幸福は自分の中にため込んでおけば淀んで濁るし、一方的に与え続けていたら枯れてなくなる。
 クリスマスが世界で一番幸せな日だということを、私も長く忘れていたような気がする。

 2006年12月16日(土) 「変動優先順位制。
                 大事なことから先頭に」

 優先順位はいつだって変動制だ。
 日々の暮らしの中で自分でも気づかないうちに変わっていく。
 ときに大きく劇的に変わることもある。
 気に入ろうと気に入るまいと。
 優先順位を間違えないことが大事だ。持ち時間は限られている。
 ただそれは、無駄をはぶくというのとは少し違う。遊びのない人間はオンとオフの両極端になってしまうから、それはよくない。多少のルーズさは必要だ。
 今は誰のために生きるべきなのか、まずそれを見失わないようにしなければいけない。自分のためなのか、家族のためなのか、大事な人のためなのか。
 大切なことなのについ面倒で後回しにしてしまうことがある。そこに間違いのもとがある。順番間違いが取り返しのつかないことにつながることもある。
 どう生きても完璧になんて生きられない。ただ、優先順位は間違えてなかったと思えれば、失敗や間違いのあとでも悔やまずに済む。できるだけのことはやったんだと思えることが一番の慰めになる。
 大切なことを先頭に持っていくという当たり前のことからもう一度始めたい。

 2006年12月14日(木) 「日々を感じることが生きること。
                 求めれば求めるだけ与えられる」

 生きることは日々を感じること。
 それは誰にとっても、どんな人生にも共通することだ。
 五感を研ぎ澄ませて、最大限に感じる努力をしなければ、生きるということを実感することはできない。受け身でいては、感じられることに限りがある。病気になって治ったときだけ生きてるありがたみに気づくようでは、もったいなすぎる。
 感じるとはどういうことかといえば、たとえば暗闇の中で他人や生き物の気配をさぐるようなことだ。そういうとき人は、目と耳と匂いと感触と第六感まで総動員して自分の回りの空気を感じようとする。それを昼間の日常に持ち込めばいいのだ。意識的に見て聞いて感じて、この世界とのつながりを確かめれば、生きている実感が必ず得られるだろう。それは人と人とのつながりも同じだ。
 結局、努力しない人間に対してこの世界は微笑まないように出来ている。世界は自分を求めてくる人間に対してそれ相応のものを与える。
 何もしなくても人生。何かしても人生。求めて得られるものに限界はない。限界は自分の意志だけだ。

 2006年12月13日(水) 「疑いながら疑わない。
                 疑いをかけすぎると台無しになる」

 何事においても、ほんのちょっぴりだけ疑ってかかることが大切だ。
 他人も、世界も、恋も、自分自身も。
 それは自分の心を守るためというよりも、人としてのたしなみのようなものだと思う。あるいは礼儀と言ってもいい。のめり込みすぎると背中が丸まるから、少し背筋を伸ばすことが必要だ。
 ただし、疑いすぎるのはよくない。疑いすぎれば薬味をかけすぎた料理のように台無しになってしまう。スパイスは適量を守ってこそ味が引き立つというもの。

 たいていの人は、自分は信じるに値する人間だという思いがあるだろう。
 みんな基本的には人を信じたいと思っているはずだ。
 でもやっぱりだまされたりすると、だんだん信じられなくなる。自分を守るつもりはなくても恐怖心が先行するから。
 それでも、この世界も人間も、全面的に信じたいと私は思っている。戦うべき相手は、自分をだまそうとする人間ではなく、だまされまいとする自分の弱さだ。
 けど、オレを信じろという人間に限って信じてはいけない場合が多いから、その点だけは気をつけてほしい。オレの目を見ろ、これがウソをついてる人間の目か、などという人間はますます怪しい。本当に正直でウソをつかない人間はそんなことは言わない。
 疑いつつ疑わないこと。加減が難しいけど、間違えないように。

 2006年12月12日(火) 「バトンを受け取ったら、
                 なるべく遠くまで行って渡そう」

 下を向いて歩いていても、落ちているのはせいぜい百円玉くらいのものだ。顔を上げて、前を見て歩こう。遠くを見て、近くを見て、左右を見渡して、たまには後ろを振り返って。
 そうすればいろんなものが見えてくるし、自分の位置も分かる。
 100メートル走もマラソンも、みんなゴールを目指して走っている。それはきっと、ゴールを切ったあとの世界を見たいからなのだと思う。そこを超えた自分を知りたいからだ。
 ゴールテープは自分のひとつの限界のようなもの。そこで終わりじゃない。ゴールの先にはまた別のゴールが遠くにある。限界を超えた者だけが、次を目指す資格を得ることが出来るのだろう。
 何度でも超えていこう。この先へ、もっと向こうへ、もっともっと遠くへ。
 私たちの旅の目的は、どれだけ速く行くかではなく、どれだけ先まで行けるかどうかなのだと思う。そこで次のランナーにバトンを渡すことが使命だ。
 走らないランナーに誰がバトンを渡すものか。倒れて起きあがったところに後ろからやって来たランナーがいれば、またバトンを受け取って走り出そう。そうやって思いはつながっていく。
 生きることは、自分のためだけじゃないんだ。

 2006年12月11日(月) 「強いだけの論理は暴力のようなもの。
                 弱い人間こそ強くなれる」

 強者の論理の反対側に弱者の理屈も織り込まなければ、説得力のある教えにはならない。
 誰もが自分の弱さを自覚して戦っているのだ。そこへ他人が強い論理をまともにぶつければ反発するのは当然のこと。反発されたことを怒る方が間違ってる。正論を疑うことなく押しつけてくる人間ほどやっかいなものはない。
 けれど、正しい理屈はいつだって必要だ。人間は普通にしてれば甘えに負けるように出来ている。自分の克己心だけで自らを律することが出来る人はそう多くない。だから、人からの忠告も必要だし、ときには叱ってあげることも愛情に違いない。
 そのときに、正しさで逃げ道のない追い込み方をするのは絶対的によくない。ちゃんと弱い心が逃げ込む場所だけは確保しておいてやらないと。そこに追い込んだ上で、そこにいちゃ駄目だから自分で出てきなよと説得するようなやり方が正しい。怠けたら困るのは自分だということを納得しさえすれば、人は誰にも言われなくても努力するものだ。

 弱い人間は、最初から強い人間よりも強くなれる可能性が高い。弱さから出発して強くなれば、弱い人も理解できるから、柔軟な強さが手に入る。強いだけの人は硬い鉄のようなもので、意外ともろくて折れやすい。
 本当の強さは海のようなものだ。あるいは水のようなものと言ってもいい。すべてを飲み込み、浄化し、ときには鉄よりも硬くなる。様々に形を変え、流れるという点も水の強さだ。
 優しさは強さであり、厳しさだ。甘やかすことが優しさじゃないし、叱るだけが厳しさでもない。たまにはガツンといってもいい。そのあとにちゃんと抱きしめてあげれば。
 つまりは、相手に対する愛情の問題と言えばそれまでのことなのだろう。

 2006年12月10日(日) 「すべきことは自分の心が知っている。
                 やれることは全部やろう」

 目標に向かって進み続けるために(たとえそれが主観的な錯覚だったとしても)、日々怠けてはいけないことがある。それはきっと、自分が一番よく知ってる。
 人はときどき、一番大切であるはずのものをないがしろにしてしまう。自分の夢を実現させるための努力だったり、愛する家族との絆を深めることだったり、いつもそばにいてくれる恋人のことを思いやることだったり。
 大切にすべきものを大切にし続けることは、案外難しい。でも、難しいからこそ続けることに意味と価値がある。
 あれしなくちゃ、でも面倒だな、今日はやめておくか。こんなふうに心が動くことはよくあることだ。そして同時に、こういうことを毎日やっていけるかどうかがやがて決定的な差となって表れてくる。まあいいかと思ったことこそやるべきことだ。それをしなければ、失うものは一日だけでなく、取り戻すための日が必要となり、更にそれで持ち時間が失われていく。
 夢や目標があるということは、とても幸せなことだ。目標も持てずに生きている人が大勢いることを思えば。やるべきことがはっきりしていれば、それを頑張りさえすればいい。簡単ではなくても単純な話だ。
 苦痛を伴う努力は、必ず自分の血となり骨となる。筋肉に負荷をかけることでいったん壊れた筋肉組織が元の姿以上に回復して戻る超回復のように。
 一日の中で、やれることを全部やり切ってから眠りにつきたい。

 2006年12月6日(水) 「何をしたいかを知っていること。
                欲しいものには真っ直ぐ正面から」

 大切なのは、自分が何をどうしたいのかが分かっているということ。
 それをいつも見失わなければ、迷うことはない。
 人にどう思われているかとか、自分は駄目なんじゃないかと疑うことなんかよりも、自分がどうしたいかが優先する。
 欲しいものには手を伸ばし、大切なものは抱きしめ、求めるものには真っ直ぐ飛び込んでいけばいい。一瞬の迷いが永遠に失うこともあるのだから。
 いつでも自分に問いかける言葉は同じ。
 自分は今どうしたいんだ?

 2006年12月5日(火) 「もっといい自分に会うために、
                自分を許すための今日でありたい」

 未来に何が起こるか、予測がつくこともあり、想像すらできないこともある。
 明日の自分は、大部分が今日までの延長線上にある。でも、すべてをイメージできるわけではない。もしかしたら、明日の自分はそれまで知らなかった自分かもしれない。
 生きていれば、まったく違う自分に出会える楽しみがあり、その出会いは喜びだ。ニュースで流れるどんな嬉しいものよりも。
 昨日の自分と今日の自分は同じ人間じゃない。何かを失い、何を得て、自分では意識できない部分で入れ替わっている。明日の自分は今日の自分とはまた違う。
 変化は常に上書きで、何一つ消すことはできない。たとえ時間を移動できるようになったとしても、人の意識は一方通行だ。
 辿り着いた先の自分が自分のすべてではない。辿った道すべてが自分なのだ。無駄な一日などなくても、一日も無駄にしないという思いが大切だ。
 今日を生きることは明日の自分に出会うためだ。まだ何も始まっていない明日という日を持つことができる私たちがどれだけ幸せなのか、もう一度よく考えたい。
 私たちは自らを許すために時間を与えられている。自分で許せる自分にならなければ、誰も許してはくれない。今日という日は、より良い自分になるためのチャンスなのだ。

 2006年12月4日(月) 「手品師よりも魔法使いに。
                無から生み出せる有もある」

 魔法と手品は、目に見える現象が同じだったとしても、それはまったく別の力によって起こっている別のものだ。言うまでもなく。
 念力でテレビのスイッチをつけたり消したりするのと、リモコンでするのとではまるで違うように。
 たとえば文章にも魔法的な文章と手品的な文章がある。私の場合は、この断想日記は無から有を生み出す魔法的なもので、ブログは手品的なものだ。当然ブログの方が簡単にいくらでも書ける。断想日記は短いのに苦労する。
 人の行為というのも、魔法的なものと手品的なものに分けることができる。タネがあるものとないものとに。学校や会社というのは手品的で、どこにも所属してないと魔法的といったように。芸術でも音楽でも同じことが言える。
 すでにあるものをアレンジするのは難しくない。まったくオリジナルというのは何事においても難しい。それは魔法がほとんど存在しないのと同じくらい存在し得ないものかもしれない。でも、だからこそオリジナリティーというのは貴重なものなのだ。
 せっかくなら、手品師よりも魔法使いになりたいと思わないだろうか。人はみな、魔法使いになれるのだと私は思っている。その魔法はとるに足らないささやかなものかもしれないけど、人には無から有を生み出す力が確かにある。

 2006年12月3日(日) 「幸福と目標の二輪走行を。
                安定志向なら二輪より四輪で」

 幸せならそれでいい、なんて思いたくない。やっぱり目標に向かって生きていきたいと思う。
 たとえそれが、妄想だったり幻想だったとしても、少なくとも自分の中ではそちらに向かって歩いている自分でありたい。今がどれだけ幸せでも、ここにとどまることは欲しない。とにかく前進するのだ。
 もはやそれは願いなのかもしれない。

 幸せは刺激剤であり、エネルギー源のようなものだ。水ではなく、主食の米やおかずでもなく、デザートのようなものだと私は思っている。変わらない幸せが続くことは、毎食ケーキが出てくるようなもので続けば胸やけして嫌になる。でも、甘いものは必要だ。甘みを奪われるとイライラして落ち着かなくなるから。幸せも切れると禁断症状が起こる。
 思い返すと、私は無意識のうちに幸せを制限してきたような気がする。どこかで幸せになりすぎることから逃げていた。自分の心の弱さが幸せに負けて溺れてしまうことを本能的に知っていたからかもしれない。そして、不幸でないことを常に選択してきた。

 幸せと目標の両輪で進んでいくことが大切だ。ハンドルさばきが難しいけど、なんとかコントロールしなくてはいけない。
 目標にせよ幸福にせよ、どちらかを失うことは一輪走行になるようなもので、とても不安定で危うい。
 目先の幸せと遠くの目標は必ずしも矛盾するものではない。どちらかの車輪を大きくしたり小さくしたりすることで真っ直ぐ進むことができるはずだ。
 その理屈は、ひとりでもふたりでも変わらない。ひとりよりもふたりの方が安定するのは、二輪と四輪と同じようなものだ。

 2006年12月2日(土) 「もっといい自分を見たければ、
                クラシックカーのように自分を磨くことだ」

 乱れていた自分を正していく毎日は苦痛なんかじゃなく、むしろ喜びだ。壊れていたものが元の姿に返っていくようで。
 これまでの自分は何もかもが駄目だった。あまりにもいろんなことに無自覚で、悪い意味で無邪気すぎた。
 最近になって、少しずつ自分を許せるようになっていっていることが嬉しい。自分はまだ変われると思う。もっといい自分に。
 20代の頃にこのことに気づいていればと思わないでもないけど、やっぱりそれは無理だったのだろう。今だから気づけて直せているに違いない。
 いくつかのきっかけがあって、小さな流れが大きな流れになった。いったん流れ始めれば、それは太くなり勢いも増す。
 もう手遅れな部分もあるけど、まだできることもたくさんある。自分を大事にするということの意味が今になってようやく分かった。たとえばそれは、クラシックカーを大切に手入れして万全の状態に保つのに似ている。新車のときのように何もしなくても快調というわけにはいかない。
 天才ほどよく練習をし、美人ほど手入れに怠りなく、金持ちほど無駄遣いをしない。結局のところ、毎日の積み重ねに勝るものはないのだという平凡な結論に至る。
 自分の怠け心に甘えてしまったら負けなのだ。別にそのことを誰も責めはしなくても、最高の自分になれないのは残念なことに違いない。多くの人が、なり得たであろう一番いい自分の姿を知らないまま人生を終える。
 誰のためでもなく、自分のために自分を磨けば、もっと自分を好きになれる。自分を好きになることは、とても幸せなことだ。

 2006年12月1日(金) 「人生は最後まで一張羅。
                 駄目な自分も自分の一部」

 夢には手触りがなくて、現実には肌触りや匂いや汚れがある。ぬくもりも、冷たい風も。
 夢の中では自分を愛せても、現実の中で自分を受け入れるのは難しい。それでも私たちは肉体を持って生きていかなければならない。他人とも自分とも現実とも折り合いをつけながら。
 人生は生活じゃない。でも、人生は生活でもある。生きることは食べることだ。でも、夢も見ないで生きてもしょうがない。
 誰だって大きな矛盾を抱えているし、理想通りの暮らしなんてめったに手に入るものじゃない。いいときもあるし悪いときもある。
 それでも私たちは現実を選ばなくてはならない。そこには大きなプラスと大きなマイナスがあるけど、マイナスを厭えばプラスもなくしてしまう。
 人生は穴の開いた靴下とは違う。一部が駄目になったからといって捨ててしまうわけにはいかないし、代わりもない。破れたら繕って、汚れたら洗濯をして、ずっとつき合っていくしかない。使い古しの人生でも、まだまだ使い道はある。
 現実の気に入らない部分を受け入れて飲み込んだとき、きっと自分も、生きることも好きになれるはずだ。そのためには、ある種の鈍さも必要なのかもしれない。少しくらいの汚れを気にしないくらいの大らかさが。

 2006年11月30日(木) 「美味しい料理を知っていても作れない。
                 だから料理人の料理を食べる」

 たいていの人は、正しいことや、なすべきことが何かを知っている。人に言われるまでもなく、自問自答の中で答えを見つけている。
 ただ、正しいことを自分に言い聞かせることができる人は少ない。勉強しなくちゃいけない。もっと努力しなければいけない。人には優しくしなければいけないし、世の中のために役立つこともすべきだろう。それは分かっている。分かっているけどできないのが普通だ。
 だから人は、他人の意見を聞いたり、本を読んだり、映画を観たりする。それは、聞き分けのない自分を説得して欲しいからだ。自分自身が納得したいからと言い換えてもいい。
 発信する側の問題としては、正しいことを生のまま人に差し出してはいけない。無理矢理口の中に入れようとするなんてもってのほかだ。たとえそれが親子の間柄だったとしても。
 正しいものは苦い。だから、ちゃんと飲み込みやすいように調理して出す必要がある。心の健康も考えて、甘いだけにならないように気をつけながら。
 思想や倫理は料理に似ている。美味しくて体にいいに越したことはない。自分の考えを伝えたければ、良い料理人になることだ。調理や味付けによって人に喜んでももらえるものにもなるし、逆に苦痛を与えることにもなる。
 正しさは、最高に難しくて最高に美味しくなり得る高級食材だ。そう簡単には調理できない。

 2006年11月29日(水) 「人生は悪くない。
                 そう言えるところまで生きたら勝ち」

 何かひとつ、たったひとつでも、苦労が大きく報われることがあれば、それまでの努力も苦しみも全部チャラになるということがある。大きな借金を返し終えたときのように。
 それは何も一発逆転とかそういう自分にとって都合のいいことばかりを言うんじゃない。それまでの伏線の意味が分かりさえすればいいのだ。ああ、これまでのことはここにつながってたんだなと納得することができればそれでいい。
 人生にはそういう決算期のようなことが何度かあるのだと思う。大波、小波、満潮、干潮の合間に。
 努力が大きければ大きいほど報われたときの喜びもまた大きい。そういう意味で努力は無駄じゃないのだ。無駄に終わる努力がたくさんあるから無意味だとかではなく。
 人生は思ってるほど意地悪なものじゃない。ときには天の粋な計らいもあるし、思わずニヤッとしてしまうような演出や、出来すぎのようなシナリオもある。
 年を取ってみないと分からないことは、人生は悪くないということだ。そう、悪くない。

 2006年11月28日(火) 「ザワザワザワと音がする。
                 遠くに明かりが見えたらそちらへ」

 ときどき、ほんのときたまだけど、自分は何がしたいのかが決定的に分からなくなることがある。おまえは一体何をどうしたいんだと自らに問いかけて答えが返ってこなかったとき、心の中に吹き抜ける音が聞こえるような気がする。風に揺れる竹林がザワザワザワザワと音を立てるように、胸のあたりがざわつく。
 しばらくすれば風もやむし、不吉な音も聞こえなくなることは分かっている。それでも、やはりひどく不安になる。陽の落ちた山道にひとり取り残されて、進むことも戻ることもできなくなったみたいに。
 暗闇の中で目を見開いて闇を覗こうとしてはいけない。どうせ見えないのだから、目をギュッと閉じて駆け抜けるのだ。どこかにぶつかっても転んでもいいから、闇雲に。
 とどまっていても夜明けは来ないし、明かりを持った人が迎えに来てくれるとも限らない。闇からは自力で抜け出すしかないのだ。明けない夜もあるし、やまない雨もある。
 人の心は強くないから、誰かに求められたいと思う。それが明かりとなり、迷ったときの道しるべとなるから。そうやって人は迷子になったり迷子を助けたりしながら、暗闇を行く。ひとりではなく二人でいることの、それが理由だ。
 人はひとりでも生きられる。でも、二人の方がより遠くまで行けるのなら、二人で行ってもいい。それは弱さや甘えとは違うのだと思う。

 2006年11月27日(月) 「究極の自分と10年後の自分と今の自分。
                 その3つの点を結べば道に迷わない」

 ドラマ「東京タワー」の中で一番印象的だったセリフは、「今のオレたちって、何を頑張ればいいのかすらよく分かんないんだよな」だった。
 ほとんどの人は多かれ少なかれ同じようなことを感じたり考えたりしてるのだろう。
 逆に言えば、何を頑張ればいいのか分かっているということは幸せなことなんだろう。

 思い切ってシンプルに考えるなら、究極的の自分と、10年後の自分と、今の自分と、その3点を結んで直線を描けばいいのだ。それを道しるべにして進んでいくことができたなら、必要以上に迷うことはなくなるはずだ。
 誰でも妄想的な願望を思い描くことはたやすい。それはある意味では実現できなくてもしょうがないことだから無責任でいられる。
 けど、10年後の自分となると、突然現実問題として自分に迫ってくる。目を背けたくて、そこにいる自分を想像するのも嫌だと思う。だからこそ、10年後のイメージやビジョンというのは大切なのだ。

 大事なのはもちろん、今日を生きることだ。今日がなければ10年後もないのだから。ただ、毎日を漠然と積み重ねているだけでは目標に向かって進んでいるとは言えない。今日の一歩は10年後の自分に向かうための一歩でなければ。
 分からなければ考え続ければいい。たとえ10年間でも。その先にある最終的な自分が消えてなくならなければ、私たちは確かにどこかに向かって歩いていると言える。
 あなたはどこへ向かっているのですかと訊ねられたとき、すぐに答えられる自分でありたいと思う。

 2006年11月26日(日) 「センチメンタルな一面の本質。
                 それは深いところにいる友達」

 感傷は自分の一部で、もう長いつき合いだから、しばらく顔を見ないとちょっと寂しくなる。そろそろ会いたいなと思う。

 人は誰でも多面体で、主な特徴だけでできているわけではない。明るく元気な人でもそれがすべてじゃないし、おとなしくて無口に見える人も別の部分ではおしゃべりだったりする。
 人を判断するとき、特徴的な面だけで断定してしまうのはよくない。表から見えなくても、裏面の存在に思い至るべきだ。そうしないと判断を誤る。

 私は自分が鏡のような存在だと思うことがよくある。相対している人の特徴がそのまま反射して相手に返っていく。その反射率が人より高い。
 だから、誰にでも合わせることができるし、同時に人によって印象がかなり違っているのだと思う。マジメそうに見えれば、それはそう思った人のそういう面が反射してるのだし、愛想が悪いと感じればそれは相手に合わせているだけだ。すごく善良にもなるし、ときには邪悪にもなる。
 私の本質は自分でもよく見えていない。もしかしたら、ないのかもしれないとも思う。いろんなものになれて、常に変化しているから。あなたはどんな人ですかと訊かれても答えに困る。
 ただひとつ自覚しているのは、自分の中にセンチメンタリストが確かにいるということだ。そして自分のそういう部分が嫌いではないということも気づいている。
 ただし、現実社会の中で私のセンチメンタルを見破ることはそう簡単ではない。表面には出てこない部分だから。もし私の中にセンチメンタリストを見つけたとしたら、それはその人もよほどセンチメントな人に違いない。

 感傷のやつは今どこかにいって姿を見せない。しばらく穏やかな日々が続いている。こういう毎日も悪くないけど、やっぱり少し物足りない感じがする。

 2006年11月25日(土) 「全力で自分の命を守ること。
                 人生は単純な話だ」

 人生の最大の目標は死なないことだ。
 人も他の生き物と同じく生物である以上、それが基本であり、すべてと言ってもいい。
 人間だけが特別な生き物だなんて思うのは傲慢すぎるし、勘違いだ。
 私たちは生き延びるために全力を尽くさなくてはならない。なるべく死なないように気をつけることは努めでもある。
 本来はとても単純な話を難しくしすぎている。私たちはただ生きればいい。そこには理屈も理由もいらないし、もしかしたら目標さえ必要ないのかもしれない。生きることで結果として得られることを大切にして、それをこの世界に還元していくことが個としての最低限の役割といったところだろう。
 野良猫だって人の慰めになって役に立っている。彼らは人のために生きてるわけじゃなく、自分の命を守っているだけだ。人間もまた、自分たちの外の世界のために生きているとも言える。

 2006年11月24日(金) 「なるほどそういうことね。
                 ときどき深く納得する」

 生きれば生きるほどに、それまで解けなかった謎が解けて、なるほど人生ってそういうことなんだと納得する。
 良い面でも悪い部分でも。
 小さい頃親に言われたことや、ドラマの中では起こってるのに自分には起きない出来事、あのときの言葉の意味や、実感したいと思った曲の歌詞などが、遅れて自分の中にストンと落ちる。あれはここにつながって、だからああいうことがあって、それで今になってこうなるわけか、なるほどね、と。
 自分の人生がときどきひどく作為的なものに思えることがある。あまりにも辻褄が合ってしまったり、どう考えても不自然なことがあったりもする。それもこれもすべて、分かってしまえば笑うしかない。見事にだまされた推理小説のオチを読むように。
 謎がすべて解ける日もいつか訪れるのかもしれない。けど、解けない謎もいくつかは残っていて欲しいと思う。生きることは未知の探求で、全部分かってしまったらもうおしまいになってしまうから。

 2006年11月23日(木) 「足りないのは思いじゃなく力。
                 それでも思いが尽きる分けじゃない」

 人の役に立てないのは、力が足りないから。ずっとなのか、まだなのかは分からない。ただ、力不足は間違いない。
 けど、だからといって、人のためになりたいという思いまでもが否定されたわけじゃない。その思いを持ち続けることは無駄じゃないし、それが自分の力にもなっていく。
 悲しむべきことは、力が足りないことではなく思いが足りないことだ。それは恥ずかしいことでもある。
 自分のためだけの幸せなんて、人の役に立つことで得られる幸福感に比べたらずっと小さくて頼りないものだ。
 あくまでも自分の幸せのために人の役に立つことを考えればいい。ちまちまと自分のために貯金するよりも、大勢の人に投資した方が大きく返ってくる可能性が高い。
 親切や愛情は掛け捨てでもいい。見返りを計算するのではなく、楽しみに待つくらいでちょうどいい。
 人を幸せにすることが自分に幸せにつながるというのは優等生的な発想とか宗教的な教えとかそんなこととは違う。それはあくまでも現実的な方法論だ。幸福の理屈と言ってもいい。
 優しい気持ちがあるのなら、自分の中にたんす貯金なんかせず世の中に流通させた方がいい。そうやってみんなで優しさを持ち寄れば、この世界は優しさで満ちるはずだ。
 こんなことは、きっと1,000年後には子供でも知ってる常識になってるだろうけど、今の世界で実現するのは難しい。けど、世界がよくなるなら、一日でも早い方がいい。できるかできないかじゃなく気づくか気づかないかだけなのだから。

 2006年11月22日(水) 「駄目な自分が自分のすべてじゃない。
                 いつだって変わりたいと思っている」

 投げやりになっているわけでも居直っているわけでも努力を放棄してるわけでもないけれど、自分は今のままでいいと思う日もある。どうやっても前向きになれないことがある。
 でもだからといって、自分が本当に駄目になってしまったわけじゃない。今までの自分を見てきてそれは分かってる。いったん駄目になっても、次はまた良くなる。

 変わりたいという思いと、変わらなくてもかまわないという思いが両方自分の中にあって、あっちへいったりこっちへいったりフラフラと定まらない。
 ただひとつ言えることは、変われるチャンスが目の前にやって来たら、理屈抜きに変わってみることだ。そこから必ず得られるものもあるし、たとえ失敗に終わったとしても無駄にはならない。変われる機会というのはめったに訪れないものなのだし。
 恐れる気持ちを投げやって、面倒と思う弱気を蹴飛ばして、差し出された手を握ればいい。
 立ち止まっていたら、時間がなくなるだけだ。

 2006年11月21日(火) 「日本人で生まれたことの幸運。
                 日本を誇るためには日本を知ることだ」

 日本人としてこの国に生まれたことの幸運を自覚したなら、もうそれだけで充分なほどの幸せを手に入れたと言える。
 この国には大いなるプラスと大いなるマイナスが半分ずつ存在している。それが人生を知る手がかりになる。いいことばかりじゃない。悪いこともある。悲しみもあるけど、それでも喜びもある。
 厳しい冬とつらい夏があり、穏やかで優しい春と感傷が心地いい秋がある。悪いことばかりじゃない。
 春の桜に、秋の紅葉。冬は雪景色とコタツがあり、夏は海にスイカにかき氷。
 様々な歌謡曲がカラオケを生み出した。日本特有のお笑い番組も海外にはないものだ。
 夏休みの思い出があり、卒業の別れがある。出会って結婚して子供を育て、老いて死ぬ。
 宗教から自由でいられて、国家から生き方まで干渉されない。欲しいもの無数にあって、世界中の多くの情報や知識を得ることができる。自分たちだけが正義だなんて思ってもいない。
 私たちは世界に対してもっと物を言っていい。教えてあげられることもたくさんある。東洋の島国だからといって卑屈になる必要は全然ない。
 アメリカ中心の物質経済至上主義がやがて終わったとき、日本人は世界の中心となる資格がある。精神性という部分で。
 そのときまでにしっかりと日本のことを学ばなくてはいけない。日本の素晴らしいところを。歴史、文化、風習、伝統、日本語、文学、芸術、音楽、作法、心意気などなど。
 日本の愛すべきヘンテコリンな魅力は、宇宙にだって誇っていいと私は思っている。

 2006年11月20日(月) 「誰の人生にもドラマがあり、
                 人ってやっぱり素敵だ」

 たくさんの言葉や思いや出来事が自分の中に流れ込んでくると、感情の奔流に飲み込まれて判断停止になるか、感情が麻痺する。人の脳はときに自らを守るために主人から離れて独立して動くことがある。
 あるいは、一度に多くの人の生き様を見せられたりすると、何が正しくて自分はどうすればいいのか分からなくなる。
 たとえばつい最近で言うと、たまたま巡り合わせでモーツァルト特集とチンギス・ハーンの一生と「東京タワー」を立て続けにビデオで観て、ちょっと混乱した。人生ってなんだろう、と今更ながら思う。
 いろんな生き様があって、自分にもいろんなことがあったりなかったりする。確信が持てる時期があり、どうしようもなく見失ってしまうときもある。人は幸せを求めているのか、求めていないのか。求めているものはもっと別のところにあるんじゃないのか、そんなことを考えたり。
 何にしても、ここのところ私が感じてることは、人と人のつながりってやっぱりいいなということだった。そして、人間は素敵で、人生は面白いと思う。たとえそれが、英雄でも天才でも成功者でもない、ありふれた人の人生であっても。そこにも小さなドラマのきらめきがある。
 捨てたもんじゃない。

 2006年11月19日(日) 「毎日一歩。
                 進み続けることが生きる意味」

 日々成長。それが合い言葉であり、自分の支えとなる。
 昨日の自分よりもひとつでも知識を増やし、昨日までの自分が見たことのないものを見て、やったことのないことをやり、昨日よりも一歩でも前に進む。そうやって1ミリずつでも前へ進んでいる限り腐ることはない。目には見えなくても目標に近づいている。
 大切なのは必ずしも目標に辿り着くことではない。目標に向かって進み続けることだ。そうであれば、たとえ志半ばで倒れたとしても、必ず次につながる。
 生まれて生きて死ぬ。たったそれだけのことだけど、それだけじゃない。私たちには次がある。存在としての可能性がある限り、何度でも生まれ変わり、自らを成長させる。
 それが生きる意味であり、存在としてやむにやまれぬ欲求だから。

 2006年11月18日(土) 「遠くを見すぎているけど、
                 一番遠くは見失ってない」

 いつも向こう側ばかりを見過ぎて目の前のことにピントがあってない遠視人間。
 遠近両用メガネが必要か。まだ老眼でもないのだけど。
 ただ、一番遠くの目標さえ見失わなければ、どこかにぶつかっても、つまずいて転んでも平気だ。少々痛いくらいは我慢できる。足もとばかり見て向かうべく方向を見失うよりずっといい。
 私たちの目標は、辿り着ける一番遠くのその先に広がっている光景を自分の見ることだ。誰かに聞いて教えてもらうのではなく。
 そこにはどんな世界があるのか、行ってみなければ分からない。行ってみれば分かる。
 それさえ見ることができれば、あとはもう死んでもいいし消えてもいい。
 遠くへ、もっと遠くへ。

 2006年11月17日(金) 「人を喜ばせることが、
                 自分が幸せになるための方法論」

 この世界で最も確実な投資は、人を幸せにすることだ。
 利息が付くのはずっと先になったとしても、それは必ず返ってくる。もし返ってこなかったとしても、誰も損はしない。
 ただし、自分の利益ばかりを考えると、不公平感に負けてしまうことがあるので、それだけはあらかじめ自分に言い聞かせておく必要がある。
 寄付のつもりで人に親切にするのが一番いい。少なくともそれで自己満足はあるし、大きく寄付をすれば名誉を得ることもできる。人に感謝をされるというのはとても嬉しいものだ。
 情けは人のためならずというのは、教えではなくこの世界のシステムを端的に表した言葉だ。人に情けをかければ巡り巡って戻ってくる。もちろん、回収率は100パーセントなんかではないけれど。
 人を幸せにすることがどういうことなのか、具体的に見つけるのは難しいかもしれない。ひとつには人を不幸にしないということだ。そして単純に言えば、人を喜ばせることだろう。
 たとえば面倒だったりわずらわしいと感じてしまうことで、これをやればあの人は喜ぶだろうなということがあるとする。そういうとき、自然の心に任せてしまえば、たいていはまあいいかで終わってしまう。でもそのときこそが人を喜ばせるチャンスなのだ。やりたくないと思うことをあえてやることが、つまりは人を幸せにするということじゃないだろうか。
 友達にしろ、恋人にしろ、家族にしろ。あるいは、見ず知らずの人にしろ、幸せにすべき人は周りにたくさんいる。
 誰も見てなくても、お天道様は見ている。

 2006年11月16日(木) 「自分と人を幸せにする二本柱が、
                 目の前の一番高い壁に阻まれる」

 自分がなりたい自分の姿が見えているようで見えていないのかもしれない。
 いや、それは分かっているはずなのだ。問題は、一番手前にある壁が一番高いということだ。これさえ乗り切れば、その向こうは次々に壁が低くなっていくはずなのに、目の前のやつがあまりにも高くて唐突すぎて、よじ登ろうにも手がかりも足がかりもない。ただ立ち尽くして、壁の向こう側からロープが下りてくるのを待っている。
 やっぱり回り道するしかないのだろうか。

 自分のこととは別に、もうひとつの思いがある。それはこの世界に生きる人たちに対する思いだ。
 自分がどんなに無力でも、自分が役に立つことが何かあるんじゃないだろうかとずっと思ってきた。それはボランティアとかそういうことではない。
 まだ自分はそれに値する人間になれてないのだろうか。求められれば全力を尽くすのにという考え方が間違っているのか。
 この世界を変えることには興味がないけど、人を変えたいとは思う。幸せになる潜在能力をみんなあまりにも使えてないように見えるから。人はもっと幸せになれるはずだ。

 壁は高く、道は遠くても、今日やれることはたくさんある。完全に行き詰まっているわけではないから。
 ひとつずつ、少しずつやっていくことで道を作っていくしかないのだろう。最後まで自分だけは自分を見放さないように。そして、決していじけたり投げやりになったりしないようにしなければと思う。

 2006年11月15日(水) 「自分の存在のための人生。
                 大切なのは人生でなく自分という存在」

 考え方の筋道を立てれば、自分を幸せの方向に導くのはそんなに難しいことではない。
 ただし、幸せは目的地の目安のようなもので終着駅ではないことを、あらかじめ知っておく必要がある。そうじゃないと、幸せにたどり着いたとたん、目的を見失ってしまうから。
 幸せの基本は、今日を楽しむことだ。そして今日は未来のための今日でなければならない。未来の目標を持たずに漠然と過ごす今日の中では、幸福感は不安によってかげってしまう。
 何が起こっても、どんなことも、楽しむ方向で考えたい。ドラマや映画を観るように。自分が主人公なんだから、小説よりも感情移入はしやすいし、ハラハラドキドキワクワクを楽しめばいい。
 人生なんて考えてるほど大げさなもんじゃない。それよりも大切なのは自分という存在だ。あくまでも自分という意識が主で、生きることは従にすぎない。人生は自分自身のためにある。人生のために自分があるわけではない。
 幸せは深く追求するだけでなく、横にも広げることができる。バリエーションやレパートリーを広げるように。
 この世界には無数の幸せがあるということに気づけば、生きることに退屈してる時間なんてなくなるのだ。

 2006年11月14日(火) 「明日が最後ならすること。
                 10年後の自分をイメージすること」

 明日死ななくても、死ぬかもしれない前提で生きる方が、結果的にいい一日になる。
 問題は、死ぬことをどうやってイメージするかだ。あさってこの世界にいないということを具体的に想像するのは難しい。
 じゃあ、明日で世界が終わりという設定ではどうだ。これなら多少はイメージもできるだろうか。
 いずれにせよ、明日が最後の一日となったとき、自分は何がしたいだろうかと考えて出た答えが自分が一番したいことに違いない。
 それから、江原啓之がよく書いている、10年後自分がどうなっていたいかを考える、というのも確かに必要なことだろう。もしそれが見えないのだとしたら、人生を見失っているということだ。その年齢の自分なんて考えたくないだろうけど、10年は目標に向かって努力するには充分な時間であり、漠然と過ごしていればすぐに過ぎてしまう月日だ。
 10年後にどうなっていたいかということが見えたなら、もう明日死ぬかもしれないなんてことは考える必要はなくなる。10年後に向かってひとつずつやるべきことをやっていけばいいのだから。
 それにしても、10年後の自分をイメージするのは難しい。都合のいい願望や空想ならできるけど。

 2006年11月13日(月) 「自分に見えるものや感じたことを、
                 当たり前に表現することの正しさ」

 大きな声にかき消されそうな小さな声に耳を傾けるのを忘れないようにしようと思った。
 人が見逃してしまいそうな街の小さなドラマに微笑もう。
 誰も使えないような言葉でそれを伝えたい。

 同じ場所、同じ時を生きていても、私たちはそれぞれ違うものを見て、別のことを感じている。
 その人にしか見えないものがあり、その人だけに聞こえる声があり、その人にしか使えない言葉がある。

 この世界の本質は上下関係でも優劣でもない。横の広がりと多様性だ。
 誰かと比べて自分の方が劣っていると感じても、自分に価値がないというわけではない。
 私たちは全員で一枚の大きな絵を描いているようなものだ。自分は絵が下手だからといって描くのをやめてしまえば、自分の担当部分が空白になってしまう。
 自分を卑下する必要はまったくない。自分が見たものや感じたことを、表現し、伝えればいい。そこには必ず価値がある。
 これは慰めでも気休めでもない。私が自分の存在を賭けて保証する。
 だって、そうじゃなければ、世界にこんなにもたくさんの人間はいらないでしょ?

 2006年11月12日(日) 「甘えるのが下手だから、
                 人に心を開けない」

 私の駄目なところは、本当には困ってないところなんだと思う。
 だから、心の底から人を求められなかったり、甘えられなかったりするのだろう。結果的にそれが心を開けないことにつながる。
 もちろん、私は完璧さとはほど遠いし、何でも自分でできるというわけでもない。ある面においては、人並みのことさえ出来ない。それでも、ものすごく困って追いつめられたことがないということは、幸せなことと言うべきなのだろう。
 私は昔から変に守られすぎているところがあった。両親や周りというよりも、見えない力によって。それが私を孤独に追い込むことになるのだけど、それを恨んではきっといけないのだ。
 今後の課題として、もう少し人に甘えるのが上手になりたいというのがある。もっと自分の願望を人に求めてもいいのかもしれない。受け取った分を別の形で返せばいいのだから。
 たぶん、私と同じようなことを考えてる人がけっこういるんじゃないだろうか。人を求めて求められてという世界の方が美しいのだと私は思う。

 2006年11月11日(土) 「秋には秋の心。
                 秋だから」

 秋には秋の食べ物があるように、秋には秋の感情がある。春にも夏にも冬にもないものが。
 それに絡め取られてしまったとしてもいいのかもしれない。しばらくは身を任せて浸ってみよう。これは限定の感情なのだから。もっと寒くなったらこの感情は生きていくことができないことを知っている。

 強い人間は孤独に耐えることができる。
 けれど、いや、だからこそ、溢れるような強い愛情には負けてしまう。酒に溺れるように愛に溺れ、自分を見失う。自分でも薄々分かっているから、孤独の中に逃げ込もうとする。心を守っていれば、愛に飲み込まれることはないと。
 強さというのは危うさでもある。弱い方が身を守れるということもある。

 感情をコントロールすることは大切なこと。けど、感情を檻に入れるようなことはしない方がいい。克己心も度を超すと自分の成長を妨げる。
 秋くらいは少し人に寄りかかってもいい。たまには甘えたり、寂しいと口に出してみたり。だって、秋なんだから。

 2006年11月10日(金) 「サインを受け取った。
                 あとはまた走り出すだけ」

 入った店の有線からミスチルの「Sign」が流れてきて、それに耳を傾けていたら、思いがけず涙があふれそうになって店を飛び出した。

 ♪ありふれた時間が愛しく思えたら
 それは”愛の仕業”と 小さく笑った♪


 秋の真ん中で、自覚している以上に人恋しさが募っていたらしい。
 いつも秋の初めでは、今年は大丈夫、と思う。けど、気温が下がるにつれてやっぱり毎年ダメになる。

 ♪緑道の木漏れ日が 君に当たって揺れる
 時間の美しさと 残酷さを知る♪


 このあたりが桜井くんの決定的な才能だ。素晴らしい着眼点と描写力。

 泣きそうになったのは悲しかったからでも切なかったからでもない。人と人とのつながりが愛おしかったからだ。出会いと別れを何度も経験して、それでも人は人を求め好きになる。それはとても素敵なこと。
 私としてはミスチルの曲を心が求めているときは、いい状態にあると言える。前向きになれているということだから。桜井くんの歌詞には光を求める強い思いがある。影を知り、影を抱えながら。

 きっと、あのタイミングで流れた「Sign」は偶然じゃない。私に聴かせるためだったのだ。

 ♪残された時間が 僕らにはあるから
 大切にしなきゃと 小さく笑った♪


 2006年11月9日(木) 「できることよりやりたいことを。
                なれる自分ではなくなりたい自分に」

 やれるかやれないかじゃない。大事なのはやりたいかやりたくないかだ。
 なれるかどうかが問題ではなく、目指すか目指さないかだけだ。
 自分の心の位置と方向さえ見失わなければ、必要以上に迷うことはなくなる。思惑とは別の方向に進んでいったとしても、やがて元の道に戻れるだろう。
 結果を恐れて踏み出せないでいることが一番愚かなことだ。
 なれるなれないは別にして、誰でも目指すことはできる。肩書きがなくて自称でもいい。胸を張って言えたなら。
 せっかくこうして生きる機会を得たのだから、なれる自分になるよりも、なりたい自分になった方が嬉しいし、目指していく過程も楽しめる。
 人は死ぬ前になるとやりたいことが見えるのに、死ぬまでにやりたいこととなると見えない。毎日もっとみっともなくうろたえて、本当にしたいことをした方がいい。
 人生は美味しいものを後回しにすると損するようにできている。

 2006年11月8日(水) 「いいこだわりと悪いこだわりと、
                これはどっちなのか判断がつかない」

 こだわりと執着の区別がときどき分からなくなる。物に対しても、人に対しても。
 あきらめないことが大切だと言い、あきらめが肝心だと言う。どっちなんだと思う。
 固執していては前へ進めない。それは分かる。でも、ちょっと上手くいかなかったり思い通りにいかなかったくらいですぐに放り出したり逃げたりすることが正しいのかどうか。
 夢だってそうだ。どこまで追いかけていいのか、どこであきらめるべきなのか、その判断は難しい。今自分が歩いている道が行き止まりなのか光に続く道なのか、そんなことは分かるはずもないから。この迷路に出口があるのかどうかも、誰も教えてはくれない。
 捨てた方がいい気持ちと、大事にした方がいい気持ちと、両手の手のひらに乗せて重さを量ってみる。同じくらいの重さのように思えて、やっぱりどうしたらいいのか分からないのだ。
 答えは時間に教えてもらうしかないのか。

 2006年11月7日(火) 「すべての過去は消せないから、
                美しい今を重ねてきれいになるしかない」

 人の魂は記憶でできている。記憶を思い出と言い換えてもいい。
 過去を否定することは自分の一部を否定ことであり、思い出を打ち消すことは自分を打ち消すことになる。だから、やめた方がいい。
 起こったすべての出来事は積み重なり、記憶はすべて魂に書き込まれる。忘れたいことも忘れたくないことも。過去なんて関係ない未来がすべてだ、なんてわけにはいかないのだ。
 今となっては思い出したくないこともあるけど、それもまた紛れもなく自分自身だ。私たちにできることは、過去をなかったことにすることではなく、自らを浄化することだろう。汚れた記憶も、時が経てば薄れていくし、心の不純物もやがては底に沈殿していく。
 私たちは誰でも、きれいな人間になることが可能だ。ただし、過去を清算するからではない。美しい記憶を重ねていくことでだ。それが生きることの意味と本質なのだと思う。

 2006年11月6日(月) 「自分を高めれば可能性は増える。
              自分を幸福にするために最大限の努力を」

 チャンスが来ないのはチャンスをものにする力がないからだ。
 チャンスが来たならそれはできる力があるからだろう。恐れずに立ち向かえばいい。もちろん、可能性は100パーセントではないし、もしかしたら50パーセントもないかもしれない。けど、チャンスは来た瞬間がすべてで、逃したら同じチャンスは二度来ないものだ。
 今がチャンス、つまり機会なのかどうかは自分の心が判断できる。やりたいことや欲しいものなら、迷っていても進むべきだ。進んで失敗して怪我しても得られることはある。当たり前のことだけど、チャンスを前に何もしないことが一番悪い。
 いずれにしても、自分を磨き高めることだ。そうすれば必ずチャンスは向こうからやって来る。何の努力もしないでチャンスを待っているのは、エサもつけずに釣り糸を垂らしているようなものだ。そういうのを努力とは言わない。
 自分を成長させるには目標がはっきりしていた方がいい。具体的であればあるほど努力の方向性が見えるから。意志の強い人でも漠然と日々鍛錬を続けるのは難しい。
 泣き言を言う前にやれることはたくさんある。すべては自分の幸せのためだ。人の評価など関係ないし、人として立派になろうとする必要もない。人はもっともっと自分を幸福にするために必死になってもいいと私は思う。すごく格好悪くてもいい。

 2006年11月5日(日) 「光も影もすべてプラスの存在。
                この世界にマイナスは存在しない」

 自分が世界に受け入れられていると感じる日と、自分が誰からも必要とされてないと思えてしまう日がある。
 それはたぶん、どちらも正しくてどちらも間違っている。私たちは完璧な孤独にも、完全なヒーローにもなれないから。でも、そう感じる心は嘘じゃないから。
 最悪の不幸のときにも光があり、最高の幸福の中にも闇がある。人は何色にせよ心を一色に塗りつぶすことは出来ない。光のあるところに影は生まれ、影があるから光の存在を知る。
 基本はいつも半分半分なのだ。良いことも悪いことも。それは50パーセントのプラスと50パーセントのマイナスではなく、100パーセントのプラスと100パーセントのマイナスだ。足してプラスマイナス0にはならず200になる。人生にマイナスはない。すべては起こったことであり、それは存在だから。
 人は人を求めることで求められた人の存在を正当化することができる。誰かを好きになることでも人の役に立つのだ。そういう想いが人をこの世界につなぎ止めている。

 2006年11月4日(土) 「世界一を目指そう。
                それは誰にとっても無縁のものじゃない」

 世界一を目指そう。そうすれば、そちらの方に顔も足も向く。
 何も一回の人生で到達しなくてもいい。10回でも20回でも、100回でも生まれ変わって目指せばいい。
 世界一になるのは思っているほど難しいことじゃないかもしれない。何しろ世界一を目指す人間は案外少ないから、そこに盲点がある。金剛地武志だってエアギターで2年連続世界4位だ。どこかに世界一のスキのようなものがある。隙間産業的な世界一が。
 世界一の称号を持っている人間はたくさんいる。それがどんなものであれ、とても誇らしいものだろう。自分は無縁な世界と決めつける必要はない。少なくとも自ら世界一への扉を閉ざしてしまうことはない。
 私も実はひそかに目指している世界一がある。口に出してしまうと幻がはじけて壊れてしまいそうだから誰にも言ってないけど、道は遠くても、毎日一歩ずつ進んでいると思っている。

 2006年11月3日(金) 「想い想われ夜も更けて、
                涙と微笑みの混じる朝」

 この月夜の下、今日も誰かが誰かを想ってる。
 泣いている人もいるだろう。眠れぬまま夜明けを迎えた人もいるかもしれない。幸せな気持ちで微笑みながら眠っている人もいる。
 人が人を想うことの素敵さよ。たとえ、その中に自分が入れなかったとしても、その素晴らしさに変わりはない。
 この世界で、想い想われる同士が出会える確率はどれくらいなのだろう。それらすべての人々に祝福を。
 この世界の平和も、美しさも、人が人を想うことから始まるのだから。

 2006年11月2日(木) 「輪廻転生のすべてを理解できなくても、
                このシステムは素敵だ」

 輪廻転生という救済システムは確かに優れたものだけど、誰が何のために個人の魂を救済する必然性があるのかという点に疑問が残る。誰かがより良い世界を作るためだろうか。
 輪廻転生は選択制なのかもしれないとも思う。単純に、本人が望めば生まれ変わり、望まなければそのままあちらの世界にとどまる。あるいは消える。
 宇宙や人間以外の生き物との関連性はどうなっているのだろう。地球は地球で独立しているのか、他の星との生まれ変わりの行き来はあるのか、地球を卒業したらより高いレベルの星に行くのか。他の生き物が人間になったり、人間が他の生き物になったりすることもあるのか。宇宙では人間以外の生物が生態系の頂点に立っているかもしれない以上、その可能性は消えない。
 輪廻転生自体は感覚的に理解できる。生まれて死ぬまでがすべてなら、生きている間の苦労に意味はない。そんな無駄なことを日々してるとは思えない。ただ、システムを理解できないまま手探りで生きていることの戸惑いはいつまで経っても消えることはない。知らないからいいのか、自分がただ理解に至ってないだけなのか。
 この世界に宇宙のすべてを説明できる人間はいないのだから、誰が言う輪廻転生も実態の一部にすぎない。だから信じるにしても話半分にしておく必要がある。
 私は何度でも生まれ変わりたいと思っている。いろんな時代のいろんな場所に興味があるから。どこにも苦労はあるけど、喜びや楽しさや感動がある。いつだってどこだって新鮮なやつが。だから、たとえ理解はできなくても、このシステムから外れるつもりはない。何かやらかして踏み外さないように気をつけたい。

 2006年11月1日(水) 「自分史上最高は超えるためにある。
                最高はいつも未来に」

 昨日までの自分にとって最高だったものを今日の自分が超えることも、人生における本質的な目標のひとつだろう。
 記録は破られるためにあるという言葉があるけど、自分史上最高もまた同じだ。最高はそれを超えるためにある。
 最高の時代、最高の恋、最高の感動、最高の喜び。
 最高を味わっているときは、もう決してこれを超えることはないだろうと思うけど、そうじゃないことがほとんどだ。最高の小説も映画も、時と共に変わっていく。最後の恋だと思っても、また新しい恋に出会える。
 いつだって最高の瞬間はこの先にある。だから私たちは人生が一方通行でも生きていける。
 明日という日は、まだ見ぬ最高に出会える日かもしれない。向こうからやって来なければこちらから迎えにいこう。

 2006年10月31日(火) 「興味あるということは好きということ。
                 人を好きになれば世界が広がる」

 好きということは興味があるということで、逆に言えば興味があるということは好きということだ。興味がなくなれば好きではなくなるということでもある。
 そう考えると、好きというのはある種の征服欲なのかもしれない。征服して自分のものにするためには対象についてよく知らなければならないわけで、それを興味という形で自分自身認識してるのだろう。
 未知な部分が少なくなればなるほど興味薄れ、それとともに好きという感情も小さくなっていく。飽きるという言葉で表現されることがあるけど、ままならなさがなくなることが関心の薄れにつながっていくことが多い。相手を知ることで得られる安心感は危うさでもある。
 興味を持つことと好きということと征服というこの三つには確かな因果関係があるから、自分の心を知るための手がかりにはなる。好きという感情は必ずしもきれいなものじゃないし、相手のためにならないこともある。
 私が人を好きになることで一番いいと思うことは、自分の世界が広がるきっかけになるという点だ。相手が好きなことは自分も好きになりたいから積極的に勉強したり体験したりする。それで世界が広がり、好きなことが増えていくのは幸せなことだ。
 人がもし、人を好きになる生き物でなかったら、人類の進歩はもっとずっと遅れていただろう。好きという感情の正体がなんであれ、人が人を好きになるこの世界はとても幸せな場所に違いない。

 2006年10月30日(月) 「向かうべきなのは幸せの手前。
                 求める感動の先に幸せはある」

 私たちが生きる目的は、幸せになることではない。目標はその手前にあるのだ。幸せかどうかは結果であって目的とは違う。
 幸せが実現したところの空想から逆算するから難しくなる。私たちは、現状から理想に向かわなければならない。そして、当面の目標はいつでも、感動を求めることなのだ。幸せは理想の到達や感動体験の向こう側にあるオマケのようなものだ。
 自分にとって何が楽しいことなのか、最高の喜びは何なのか、欲しいものが何で、一番したいことは何なのか、それらが見えさえすればあとはそこに向かうための努力をするだけだ。空想して待っているだけでは何も始まらないし、誰も与えてはくれない。たとえ欲しいものが手に入らなかったとしても、自分の足で向かうことだけはしたい。
 人は感動するために生きているのだということをもう一度強く自覚しなければいけないだろう。

 2006年10月29日(日) 「駄目な自分を受け入れること。
                 そこから新たな道が見えてくる」

 自分にとっての悪い知らせや都合の悪い情報に対しては、どうしても耳をふさいだり目をそらしたりしがちだ。けど、発想を変えてそういう部分を自虐的に見つめてみると、自分を変えるためのヒントが見えてくる。
 自分の駄目なところは人に言ってもらった方がいい。憎まれてるならそれを知った上でどうするか対処を考えればいいし、才能がないならないと分かった方が別の道を探すこともできる。
 結局、見てみないふりをして自分を誤魔化すことが、自分にとって一番悪いのだろう。可能性のない恋や未来のない仕事なら、どんなに痛みを伴っても切り捨てるべきだ。実現しそうにない夢を免罪符に使ってもいけない。
 自分自身や自分にまつわるあらゆるマイナス要素を知って受け入れることで事態は好転する。まずは正直になることだ。そうすれば謙虚になれて、人に助けを求めることもできる。自分ひとりで頑張りすぎないことが大切なのだと思う。
 あなたも誰の助けも借りずひとりで頑張りすぎていないですか?

 2006年10月28日(土) 「自分色を選ぶこと。
                 その先には自分色を作ることがある」

 クレヨンでも絵の具でも色鉛筆でも、なんで好きな色を1本選んでもいいと言われて、一番好きな色を選んだとしても、私たちは決して満足しないだろう。もっと他の色が使いたいと思い、2本目が手に入れば、次は別の種類のものが欲しくなる。5本でも10本でも、もっとでも欲しくなってきりがない。一番好きな色は終始変わらないとしても。
 人生も同じことで、一本の道やひとりの人では満足できない。色鉛筆を選ぶように簡単にはいかないけど、他のもの、別の人を欲する気持ちは抑えられない。少なくとも興味や想像は尽きない。
 私たちは一色の人生で満足することを覚えるべきなのだろうか? それとも、俳優のようにいろいろな役を演じることで欲求を満たせばいいのか。
 結果的に人は二種類の人生は選べない。一本道に満足できなくても納得するしかない。私たちに必要なのは、たくさんの彩りなのか、一色を極めることなのか。
 ただ、多くの選択肢があることの幸せだけは忘れないようにしたい。今の時代ほど自分の意志で何色を選んでもいいことはかつてなかった。現在は史上最高の自由度と言ってもいい。だからこそ、難しく、私たちは迷うのだけど。
 自分だけの色を作り出せれば、それがもっと幸せなことなのかもしれない。

 2006年10月27日(金) 「愛から生まれた言葉だけが、
                 人のための言葉となる」

 相手を喜ばせたり、好かれようとするだけの耳ざわりのいい言葉では意味がない。こちらに引っ張り、背中を押す言葉でなければ。
 慰めることも、励ますことも、誉めることとも、どれも必要なことだ。恋人同士でも、親子でも、家族でも。
 大切なのは、相手本意であることと、愛から生まれた言葉かどうかということだ。愛があるなら、どれだけ叱ってもいい。耳が痛い言葉をかけなくてはいけないときもある。たとえ嫌われたとしても。
 自分にとっても相手にとっても一番いけないのが、感情的なだけの言葉だ。感情にまかせて怒っては絶対相手の心をよくしないし、感情で発せられた愛の言葉も虚ろで価値がない。
 言葉が万能ではないことくらいは知っている。それでも私は最後まで言葉の持つ力を信じたい。言葉を尽くすことは無意味じゃないと。
 今の私があなたに言える言葉は、毎日勉強しなよ、だ。もちろん、私自身も、な!

 2006年10月26日(木) 「思い描く夢があるから、
                 実現したときの幸せがある」

 夢を見ながらあきらめるのは、夢を見ないより悪い。
 夢を見るなら最後まで見続けて、夢に殉じなければ。
 実現可能な夢なら、手は届かなくてもやがて近づくことはできる。死ぬまで夢を見失わなければ、何の悔いもない。
 喜びとは、夢が実現すること。夢も見ないで幸せになんてなれないのだ。

 2006年10月25日(水) 「久しぶりの理屈負け。
                 直接対決では負けない」

 最近、理屈ではほとんど負けることがないと思っていたのに、江原のオヤジの本を初めて読んで、ちょっと理屈負けした。そうか、こういう論理の曲げ方があったか、と。どんな変化球でも打てる自信があったのに、初めて見る変化球に空振りしたような感じだ。
 けど、勝負に負けるって気持ちがいい。まだ自分も成長する余地があることを教えてくれるから。江原のオヤジ、私もまだまだだね。でも、いつかどこかで会いましょう。そのときは直接勝負だ。次は負けない。

 2006年10月24日(火) 「止まらない変化の中で、
                 昨日までのすべてにさよなら」

 毎日、毎日、状況は刻々と変化している。自分では気づかないところで。自分自身も、世界も、人との関係性も。
 それは、連続しつつ、どこかで断絶している。ときに、前触れもなく決定的に壊れてしまう。
 たとえ、どんなに小さな変化を見逃さなかったとしても、壊れるときは壊れる。それは人の力ではどうすることもできないことだ。
 けれど、だからといって何もしなくてもいいというわけではない。日々を大事にすることと、今日は二度と戻らないことを自覚することが必要だ。
 特に人との関係性においてはそうだ。長く一緒に過ごした時間の積み重ねに油断していると、足もとが腐っていることに気づかなかったりする。誓った永遠の愛も、もちろん永遠ではない。
 すべての関係性は、日々あらたに築き直さなくてはならない。
 あらゆるものは変化し、相互に作用する。時よ止まれとどれだけ強く願っても、願いが叶うことはない。私たちは、変化を受け入れ、対処していくしかないのだろう。たとえそれが自分の望まない変化だったとしても。
 昨日までのすべてに、さようなら。私にできることは、なるべく忘れずに覚えていることと、ありがとうの気持ちを小さくつぶやくことだけだ。

 2006年10月23日(月) 「春を夢見る。
                 長い冬の中で」

 長いながい冬の途中でも、春が来るのを夢見ることはやめない。
 私がどんな思いで長い冬を過ごしてきたかは誰にも分からないし、語る必要もないことだ。そんなものは意味のないものだから。
 春が来たら、次は一番好きな夏。そして、秋には死のう。もう冬はいい。
 この長い冬を人生最初で最後にしよう。ひとりでもきっと耐えられる。
 けれど、春はまだ遠い。

 2006年10月22日(日) 「強い気持ちと覚悟。
                 限界の果てに見えるもの」

 自分の中の判断として、日々の中で自分には足りないものが多すぎる。
 真剣さも、ひたむきさも、勉強量も、スピードも、賢さも、正しさも、優しさも。
 一日の中で限界が見えないというのは過ごし方を間違えている。もっと全力疾走と全力投球が必要だ。もっともっと。疲れ果てて倒れるように眠るほど。
 すべては覚悟の問題だ。必要以上の一所懸命さの向こうに見えるものが何なのかを知りたい。すべてが無駄に終わってもいい。
 自分が辿り着ける限界の先に目標はある。

 2006年10月21日(土) 「目標は死なないこと。
                 この世界は面白いことばかり」

 昨日まで気づけなかったことに今日気づくことがある。そういうとき、ああ、生きていて本当によかったなと思う。昨日死んでいたら今日気づいたことを知らないままだったのだ。
 20代でひと仕事終えたら30までに死ぬ、というのがかつての私の人生設計だった。
 30を超えて、まだひと仕事できてない私の予定は狂いに狂い、今の私の人生の目標は死なないこと、となった。
 自分の人生以外の部分でも、この世界にはたくさんの喜びや楽しみがあることを知った。そのためだけでも、この世は生きるに値する。

 2006年10月20日(金) 「不正解でも進めるところがいいところ。
                 大切なのは正解を求め続けること」

 人生のいいところは、連続正解しないと次へ進めないわけじゃないところだ。正解と不正解を繰り返しながらでも、明日へ進むことを許される。
 ときに間違いを重ねることで取り返しがつかなくなることもあるけど、一度の間違いで終わりじゃないのはやっぱり助かる。生きている限りチャンスは与えられる。可能性がどんどん小さくなったとしても、ゼロにはならない。
 そりゃあ、いつも正解ばかりならそれに越したことはない。いつだって私たちは正解を求め、自分の言動が正解であって欲しいと願う。けれど、いつも上手くいくわけじゃない。それが人生だ。
 重要なのは、正解の数でも不正解の回数でもなく、正解を求め続ける姿勢なのだと思う。
 そして私たちは最後に気づくだろう、人生に正解も不正解もないということを。私たちのするすべてのことは正解なのだ。正解がないゆえに不正解もないという意味で。

 2006年10月19日(木) 「わざと卒業を先延ばしにする
                 ダメ学生みたいな自分を自覚する」

 近頃の私は、物わかりがよくなりすぎている。それがちょっと怖い。悟れば悟るほど死に近づくような危うい予感。
 そんな私をこの世界につなぎ止めてくれているのは、いくつになっても苦手な恋愛部分の自分なのかもしれないと思ったりする。本当に成長がない。
 昔の友達はみんな家庭を持ってしっかり生きているけど、私がもし幸せな結婚なんかしてしまったら、その瞬間死んでしまいそうな気さえする。
 苦手なことがあるから生きていける。全部克服してまったら、もう二度とこっちには戻ってこられない。
 自分は、わざと留年を続けている大学7年生みたいだと思う。8年になったら卒業ではなく退学だ。

 2006年10月18日(水) 「最後まで腐らなかったと言えるように。
         頑張り続けるだけが自己正当化の方法論じゃない」

 あきらめないことはときに自分を必要以上に苦しめることになったり、周りに迷惑をかけたりする。だから、あきらめないというのをやめて、こう変えよう。
 いじけない、腐らない、と。
 上手くいかないことが続いてもいじけない。求める結果が出なくても腐らない。この心がけでいこう。
 基本は最後まで続けるということに変わりはない。けど、自分の力以上に頑張り続けても駄目なことはあるから、そういうとき心が折れないように、あまり気持ちを強くしすぎるのはやめた方がいい。
 この先どういうことになっても、自分は最後まで腐らなかったと胸を張って言えるようにしたい。自分を見捨てずに最後まで自分を信じてやり続ければ、たとえ何者にもなれず、何も残せなかったとしても、私ひとりは自分を認めてやれると思うから。

 2006年10月17日(火) 「人は変われる実例を自分に見た。
                 変わればもっと自分を好きになれる」

 自分が変われるかどうかは、変わろうと思えるかどうかだ。
 じゃあ、どうすれば変わろうと思えるようになるかといえば、それはよく分からない。ただ、突然のようにそう思えるだけで、きっかけもあるようなないようなはっきりしないことが多い。
 自分の内なる命令、なのかもしれない。あるいは、守護霊の指令とか。
 私が変わろうと変わるまいと他人にとってはどうでもいいことなのだけど、人は変われるのだという実例を自分に見てきた私としては、やはり伝えたいのだ。人は変われると。
 変わるということは、これまでやれなかったことができるようになることであり、見て見ぬふりをしていた自分の欠点を直そうとする努力をすることだ。これまでの自分を捨てて入れ替わるとかそういうことではない。より良いと思える自分に修正することと言ったらいいだろう。
 自分の気に入る方向に変われれば、それまでより自分を好きになれる。より好きになった方が当然ながら幸せに違いない。

 2006年10月16日(月) 「自分の本当の望みが何なのか。
                 どう死にたいかが生き方を決める」

 本当に自分にとっての望みというのは、それが実現した先に未来があるものだろう。
 勉強したいことがないのに入る大学は本当の望みじゃないし、生活を思い描けない恋愛に未来はない。
 もし、どういう形で引退して、どういう最期を迎えたいかを思い描けたとしたら、人生は単純になる。その最後から今に向かって逆算すればいいのだから。結果さえ分かれば、そこに至るまでに何をすればいいのかも自ずと分かる。
 一番大きな最終的目標は何かということだ。私を含めて、本当に自分が欲しいものを分かってない人が多いような気がする。あるいは、自分の望みに対して無自覚すぎる。
 今何をすればいいのかが分からなくてもいい。ただ、自分の本当の望みは何なのかということだけは常に考える必要がある。
 行き当たりばったりにのんびり行って間に合うほど私たちの持ち時間は長くない。

 2006年10月15日(日) 「いつまでもここに。
                 あちらには帰らない」

 悟りを開いたらアガリなら、私は悟りを開いたりはしないだろう。だって、地上で生きている方がずっと楽しくて面白いのだから。
 天界がどんなにいいところだとしても、地上の魅力にはかなわない。雑多で俗っぽくて駄目な世界だけど、ここは愛すべき場所だ。苦しみと隣り合わせの喜びにこそ感動や感激がある。
 何もかもままならないけど、ひとりで転げ回っていた20代を過ぎて、やっと生きることが好きになったのだ。もう、生きることが嫌いになんてならないのさ。

 2006年10月14日(土) 「希望と絶望はいつも一緒にやって来る。
                 穴だらけの心でどこへ行こう?」

 希望と絶望は絡みつきながらやって来て、心の中に住みつき、さんざん心を食い散らかして去っていく。
 私たちは穴だらけになった心をどうにか修復しながら生きている。もう、完全に元通りに戻ることはない。
 それでもまた、次の新しい希望を求めてさまよい、見つけたらそれを自分の心に住まわせずにはいられない。絶望が必ず付いてくると分かっていても。
 いつか、希望も絶望も飲み込んで、私たちは何の憂いもなく生きられる日が来るだろうか? 来るかもしれないし、来ないかもしれない。ただ私は、絶望のない自分というものを想像することができない。

 2006年10月13日(金) 「出会いは自分を広げるきっかけ。
                 別れても自分が狭くなることはない」

 人との出会いのいいところは、相手に影響されて自分の世界が広がるところだ。人は他人との関わりの中で自分以上の自分になれる。
 そうやって自分を拡大していって大きくなるり、ひとつの変化が別の変化を呼び、更に世界は広がる。
 影響を受けるとき、そこに恋愛感情が伴えばより効果的になる。外国語を覚えるには外国の人とつき合うのが一番早いように。
 自分ではなかなか興味の対象を広げていくのは難しい。だから、あらたな出会いがあれば、積極的にその人の世界に触れていくことが大切だ。そういうきっかけは貴重なものだから。
 好きなことが増えれば幸せも増える。別れのあとにも、それは自分の財産として残る。

 2006年10月12日(木) 「行って来い。
                 往復の流れが大切」

 行くことも大切だし、帰ることも大事。行って来いの往復があってこそ、ものごとは完結する。
 与えたら受け取ることも必要だし、何かしてあげたらしてもらうのも親切だったりする。
 一方的な関係性はどこか不自然な歪みを生み、片方の不幸がもう一方にも伝染する。
 対等である必然性はなくて、ただ往復の流れが不可欠ということだ。
 個人間だけでなく、個人対多数だったり、人と世界にも同じことが当てはまる。
 ただし、すべては与えるところから始まる。求めることを先にしてしまうと、返すのがだんだん苦しくなるから。返せる当てのない借金をしてはいけないように、返せる当てのない親切と愛は受け取ってはいけないのだ。

 2006年10月11日(水) 「回り道の果てに見えた単純な答え。
                 あとは実行があるだけ」

 ものすごく回り道をしたけど、単純な話だったのだ。
 人の役に立って、感謝されて、幸せな気分になる。
 自分が望んでいたのはそういうことだった。そのことに気づくまでにずいぶん時間がかかってしまった。今までそれが分からなかった。何をどうすれば自分を幸せにできるかが。
 あとは何をもってして、誰の役に立つかということだ。たったひとりのためなのか、できるだけ大勢の人のためなのか、特定の人のためなのか。
 できることなら、自分にしかできないことをしたい。それが見つかるまでまた時間がかかるんだろうか。

 2006年10月10日(火) 「一番欲しいものに手を伸ばして
                よろめきながら進もう」

 毎日が楽しくて、楽しさが足りなくて、それは溝なのか不足なのか楽しさが代替品なのか、分かるようで分からない。
 大きな望み、小さな望み、中くらいの望み、たくさんの希望や願望がある中、見て見ないふりをしたり、あきらめることで自分を守ったり。
 そんなのは贅沢な悩みだと心の声が言う。いや、一番欲しいものが手に入らなければそれ以外のものをどれだけ手にしても決して満足できやしないぞともう一方の自分が答える。
 1億円ですべての希望が叶うかといえばそれでは不足で、じゃあ無制限に金が使えるようになれば幸せになれるかといえばそういうことでもない。
 愛がすべて? だとしても、四六時中愛をささやき合うことで過ぎゆく人生を望んでいるわけじゃない。
 思いは巡りに巡って、結局今いる場所に戻ってくる。案外、私は自分が望んでいる場所にいるんじゃないか、と。でも、それでは渇きは癒されない。
 だから、きっと欲しいものをひとつずつ手に入れていくしかないのだ。そのことで状況は変わるし、欲しいものもまた変化していく。よろめきながら前へ進んでいくしかない。転びながら、転がりながら。
 そのとき一番欲しいものだけは見失わないで。

 2006年10月9日(月) 「時間を食べて生きている。
                だから、食べた時間に感謝を」

 私たちは時間を売り、時間を買い、時間を預け、時間を共有する。
 すべての関係性は時間と共にある。人と人も、人と世界も。
 一生を通して同じ時間をずっと生きる人は、おそらくほとんどいない。区切られた時間の中で私たちは出会い、共に過ごし、別れる。肉親とも、恋人とも、家族とも。
 それは、学年が上がり、クラス替えになり、卒業するという経験をしてきて誰も知っているはずなのに、大人になると忘れてしまう。今いる時間が限れた時間の中だということを。
 時間の流れの中で、すべては移ろい変わり終わる。だからこそ、今この時間を大切にして、いい時間にしたい。
 私たちは時間を食べることでしか生きられない生き物だ。それが生きるということだから。時間は無限じゃない。当たり前だけど、もう一度そのことを自覚しなければいけない。
 ひとつの終わった時間に心からありがとうを言えるように。やるべきことをやり尽くしたと思えなければ、終わってしまった時間に感謝することはできない。

 2006年10月8日(日) 「自分の肉体をもっと自覚すれば、
                生きている実感をもっと得られる」

 喜びも苦しみも、肉体を持つがゆえだ。魂が肉体から解放されれば楽になる。でも、生きる歓びも失ってしまう。
 もっと自分の体を自覚するのだ。そうすれば生きることがもっと愛おしくなるだろう。心や頭だけでなく、肉体も鍛えたり磨いたりすることが大切だ。
 悲しみや痛みさえも歓びに変えて、生きていることを実感したい。自分自身の存在やこの世界を愛するために。

 2006年10月7日(土) 「7年間ずっと孤独を忘れてた。
                ネットの世界の中で」

 ネットの世界がなかったら、今ごろ私はどれくらい孤独を感じていただろう?
 周りにどれだけ人がいても孤独だったあの頃。本当に孤独だったことなんてないのに、ひどい孤独感にさいなまれていた。
 ネットが一般的なものになり始めたという時期的なものもあったのだろうけど、あのときは孤独が私をネットに向かわせたのだと思う。確信は何もなかったけど、救いの予感はあった。
 ネットの世界に入って7年くらいになるだろうか。あれからずっと私は孤独じゃない。孤独だった頃の自分を上手く思い出せないほどだ。
 出会った多くの人たちに感謝している。いちいち家まで行ってありがとう、これからもよろしくなんて挨拶はしないけど、これからもよろしくお願いします。

 2006年10月6日(金) 「いないはずの姉貴がいる気がして。
                出来の悪い弟という位置」

 私はひとりっ子なのに、なんとなく自分は出来の悪い弟のような感じが昔からしていた。姉貴にいつも心配ばかりかけているような。
 実際にはいない姉がいるような気がして、ときどきとても恋しいような気分になる。なあ、姉貴、オレはどうしたらいいと思う? そんなことを問いかけたくなる夜もある。
 もし本当に姉がいたら、私の人生はどんなふうに変わっていたんだろう。上手く想像はできなけど、今とはずいぶん違うことになっていたことだけは確かだ。
 もしかしたら、今も背中についてくれているのかもしれない。生まれてこられなかっただけで、私と一緒に成長してきたような感じもある。けど、やっぱり実際に生きていて、いろんな話をしたり、笑ったり、叱られたりしたかった。そこの位置が自分には一番馴染むような気がするから。
 私が好きになる女の人は、いつも不思議と妹ではなく姉だった。それは、たぶんこんな思いがどこかにあったからだろう。姉だから好きになるのではなく、好きになってから姉だったと知ってやっぱりなと思うのだ。
 姉貴、すまん。自慢の弟になれるように、もっと頑張るよ。

 2006年10月5日(木) 「好きな人が財産。
                好きなることで正しさの証明にもなる」

 好きな人をできるだけたくさん作ることが、この世で生きたことの財産になる。それは恋愛感情に限らない。
 嫌いな人間をいくら作っても世界が狭くなるだけだし、あの世に行ってからも何の役にも立たない。
 友達を100人作るのは難しくても、好きな人を100人作ることならできそうだ。
 好きになるということは、その人の正しさを間接的に証明することにもなり、人に好かれることの必要性はそこにある。自分の本当の理解者はたったひとりでいいと頑なになるよりも、100人の人から好かれた方が力になることもある。
 好かれるためには、思いやりとおもてなしの精神が必要だと思う。
 好きになるためには、まずは受け入れることだ。嫌いの中にこそ好きの種があり、嫌いな人を好きになれれば、もはやこの世界に嫌いな人間はいなくなるだろう。
 好きな人が多いほど幸せ。

 2006年10月4日(水) 「ありがとうとごめんなさいの言葉を
                約束の言葉に代えて」

 直接、間接、陰に日向に自分を支えてくれている人たちのことに思い至れば、少しくらい思い通りにならないことや、少々の苦しみなどものの数じゃない。
 大丈夫、まだ頑張れる。
 みんなにごめんなさいとありがとうを。
 きっと恩返しします、という約束が空手形にならないように。
 今日泣いたのは悲しかったからじゃない、悔しかったから。
 でもまだ、自分を見捨てたわけじゃないんだ。

 2006年10月3日(火) 「変えたい習慣があるのなら、
                明日からではなく今日から変えていこう」

 毎日の習慣もいつの間にか無意識のうちに変わっていくものだけど、自分の意志で長年の習慣を変えるのは難しい。特に明日からいきなりなんてのは無理なことが多い。急に早寝早起きをするとか、甘いものは一切食べないとか、資格試験の勉強をするとか、始めるにしてもやめるにしても突然は無理がある。
 でも、本当に習慣を変えたいと思うなら、無理を承知で挑戦する必要がある。たとえ失敗したとしても、試みのないところには何も生まれないし、何も変わらないから。
 それにはまず、意志の力を鍛えるところから始めないといけないかもしれない。何をどうすれば強い意志を持てるようになるのだろう?
 たとえば、自分ではなく人のためという観点から考え直してみるというのもひとつの方法だ。人は自分のためには頑張れなくても大切な人のためには頑張れるものだ。他人というのを持ち出してそれを心のつっかえ棒として利用するのは間違った方法ではない。
 まずは夏休み前の計画を思い出して、あんなふうに時間割を紙に書いてみるといいかもしれない。それから、期間を区切って目標を立てる。短期、中期、長期と。それが達成できたら、自分に褒美をあげるのがいい。子供なら親に頼むところだけど、大人なら自分で買える。
 人の意志は弱いものだという前提に立ちながら、それでも強くあるにはどうしたらいいのかを考えていきたい。弱いままでは結局自分がつらい目に遭うだけだ。
 私たちは自分で自分を好きなように変えられるのだということを、もう一度思い出そう。明日からと言わず、今日から自己改造を始めよう。

 2006年10月2日(月) 「インプットはアウトプットのために。
                やりたいこととやるべきことの両輪」

 一日の自分の生産力というものをもう一度見直してみる。
 自分は一日24時間の中で何をどれだけ生み出せているだろうか。出せているようないないような。
 クリエイティブであることが必ずしも正しいわけではない。ただ、創造性というのは自分に対する慰めにもなるし、他人に対する言い訳にもなる。どんなに人間性が優れていたとしても、結果的に何も生み出せていなければ価値は低い。
 毎日は勉強で、インプットは大事だ。けど、インプットはあくまでもアウトプットのためでなくては意味がなくて、アウトプットを前提としたインプットであるべきだ。取り込んだものをエネルギーに変換して新たなものを生み出してこそ、正しさにつながる。
 誰もが偉大なものを生み出せるわけではない。そんなことは当たり前のことだ。ただ、自分の精一杯を追求することは必要なことだろう。自分には何もできないと言って逃げる前に。
 やりたいこととやるべきこと、ときにそれは矛盾し、相容れないこともある。けど、私たちはその両輪で進んでいくしかないのだ。どちらかしかやらなければ大きく曲がって、ついにはその場で円を描いてしまうことにもなりかねない。それでは前へ進めない。やりたくないこともやってこそ前進となる。
 何をしたらいいか分からないときは、一番大切な人を思いやることから始めたらいい。いったん、自分のことを置いて。他人を優先させることが、つまりは生産性の第一歩なんだと思う。

 2006年10月1日(日) 「今更新築は無理だから増築を。
                人間は総合生命体だ」

 生物としての人の進化というのは、変化ではなく追加だ。家にたとえるなら、新築ではなく増築で、だから人間はどこかいびつな姿をしている。生命は初めから人間を設計して作り上げられてきたわけではない。
 今まで長い歳月をかけて少しずつ改築してきて、今に至っている。かなりいきあたりばったりに。それでも、今更これを全部取り壊して建て直すなんてことはできない。あまりにも長い年月がかかりすぎるから。
 まだ改築、増築の余地はある。ただ、これ以上の積み上げは難しいかもしれない。そもそもが二階建ての設計のところに無理矢理三階を乗せているようなところがあるから、この上に四階を積むのはたぶん無理だ。そういう意味では、人の進化というのはそろそろ頭打ちと言えるかもしれない。
 あとは横に広げるか、地下しかない。心を地下にたとえるなら、まだまだ多くの可能性がある。地上部分は飾りに過ぎないというところまで進化できるだろう。

 人は生物の頂点に立っているわけではない。ただ先を走っているだけだ。すべての生き物たちの夢と願いを背中に乗せて。彼らの想いを裏切ることはできない。更なる進化を目指さなければ。
 人間はすべての生命の総合体なのだ。独立した単独の生き物ではない。人間の中にはすべての生物がいるということを忘れないようにしたい。
 まだ増改築の途中。劇的ビフォーアフター。匠の技が冴える時代に私たちは居合わせることが出来るだろうか?

 2006年9月30日(土) 「求めて手に入れたら終わり。
                失い続けながら得られるのは時間だけ」

 得られたものは、もう終わってしまったことになる。だから興味が半減し、ありがたみも見失う。
 何も得られてない人間は得られた人間をうらやましく思い、不幸だと嘆くのを贅沢な悩みだとあざける。
 得られた人間は何も得てない人間の気楽さを侮りつつも、できることなら自分もそこに戻りたいなどと思ったりする。
 求めた幸福を手にして、それをずっと手の中で大切にし続けることは難しい。人は手を伸ばすのが好きだから。今持っているものよりも、まだ持ってないものを欲しがる。そうやって、大切なものは手の中からこぼれ落ちる。ときに、落としたことにさえ気づかない。
 恋をして結婚して子供が生まれ、家を建てて少しは贅沢な暮らしもして、子供の成長を見守りつつ自分も歳を取り、それで人生は万事丸く収まるかといえばそうじゃない。求めるすべてを手に入れても、次々とあらたな悩みや苦しみはやって来て、不幸に終わりはない。
 手に入れたものを大事にするにはどうしたらいいのだろう? あるいはそれは無理なのかもしれない。生きることは失い続けることでもあるから。
 けど、私たちは嘆かないでいよう。そして求め続けよう。どれだけ失うことになろうとも。もともと裸の手ぶらで生まれてきたのだ。生きることで本当に得られるものは、時間だけなのだろう。

 2006年9月29日(金) 「自分らしくあるために変わり続ける。
           昨日の自分より明日の自分を好きになるために」

 変わり続けることが自分らしくあること。変化を止めてしまえば、自分を失っていく。たとえ一番いいときの自分でも、固定するのはよくない。
 日々を生きるということは、自分らしさを模索することだ。自分を探して作っていくことを怠ってしまえば、ただ日を失うだけで終わってしまう。無駄遣いしていい日は一日もない。
 変化は必然なのだ。どういう方向に進むか、どう変わっていくのか、すべてをコントロールすることはできないけど、変わろうという意志を持つことが大切だ。
 変わるためにはどうすればいいか。ひと言で言えば、行うということだ。行為の前と後で自分は変わっていく。何もしなければ変わらない。頭で考えるだけでは人は変われない。大きく変わるためには、新鮮さも必要だ。
 今生きてる人は誰も、まだ自分を見つけていない。その途中にいる。誰も明日の自分がどういう人なのか知らない。
 振り返ってみると、自分は本当に変わったものだなと思う。ここ10年、15年で。昔の自分より今の自分の方がずっと好きだ。だから、今の自分よりも10年後の自分の方がきっと好きになれるだろう。

 2006年9月28日(木) 「神社仏閣巡りのすすめ。
                悪い霊をいい霊と交換するために」

 なんとなく心が晴れなかったり、流れが悪かったり、不運なことが続いたりしたときは、神社仏閣に行きまくるというひとつの方法論がある。これは笑い話のようで笑い話ではない。
 霊なんていうと信じない人はそんなものと思うだろうけど、そういうことだけではなく、厳粛で清らかな空気に包まれた場所に身を置くことで、確かに浄化作用があるのだ。霊的なことで言えば、格式の高い神社仏閣ほど居心地が悪くなって出て行くということもある。
 昔の人はそういうことを知識ではなく生活の知恵のようなものとして実践していたんだろうと思う。今の人たちはそれをしなくなったことで、みんな自ら背負う必要のない重荷を背負って苦しんでいるようなところがある。
 環境が人を作るということがあるのなら、たとえそれがほんのわずかな時間であったとしても、清潔な場所へ行けば心もきれいになるのは必然だ。それは逆のことも言える。
 神社仏閣は、趣味とかじゃなく、願い事をするというのでもなく、ただ行くだけで効果がある場所だ。神様なんて信じなくてもいい。気分としては、悪い霊を置いてきて、神社でいい霊をお土産にもらっていくくらいの感じがいいと思う。

 2006年9月27日(水) 「皮肉屋完全廃業。
              明日から素直ないい人屋さん(開店予定)」

 もう皮肉屋は廃業した。しばらく前から開店休業状態だったけど、今日で完全に店じまいを決めた。
 思えば、若い頃からずっと、人をからかったり、おちょくったり、皮肉ったりしてきた私。楽しかったというより、それがコミュニケーションの手段と思い込んでいた。けど、そんなものは意味のないことで、誰も幸せになんてしない。そんな笑いはいらない。
 もっと普通でいようと思った。面白みがなくなっても、普通に人を心配したり、普通に人の相談に乗ったり、普通に毎日の会話をしよう。意地悪なこともやめて。
 単純に言えば、素直になるということだ。いい人だと思われることを恐れずに。それで詰まらない人間になったとしてもいい。
 今まで私におちょくられて腹を立てた人たち、笑って許してネ。

 2006年9月26日(火) 「自分と愛と幸福と他人。
                全部揃ってこその完結」

 人は誰も自分ひとりだけで自己完結することはできない。他人の存在抜きに成長はあり得ないし、進歩がなければ完成もない。
 私たちはきっと、互いに互いを幸せにすることでしか幸せになれないのだ。20代の私が絶対に認めたくなかったその事実を、今は受け入れている。方法論としてもそれ以外にはない。
 本当に愛せる自分というのは誰かから愛される自分なのだから。誰にも愛されてない自分を愛すことは誰にとっても難しい。ほとんど不可能とさえ思える。
 幸せは与えることだ。そしてそれが返ってきたときに幸福は完成型となる。
 人を愛し、愛されなければ幸せにはなれない。それが厳しい現実。
 人生にとって愛や幸福がすべてではない。けれど大事なパーツであることは間違いなくて、すべては連鎖している。ひとつ重要な要素が抜ければ、完結することはないだろう。それでもいいとは言わないで。

 2006年9月25日(月) 「もう、昨日の自分にはもどれない。
                なかったことにはできない」

 昨日にはもう戻れないというのは、昨日の自分にはもう戻れないということでもある。もう今更なかったことにはできない。何もかも。
 けど、たとえ昨日までは知らなかった苦しみを味わうことになっとしても、それは後退ではなく前進だ。未練で昨日を振り返るより明日に向かって足取りを早めた方がいい。突き抜けた先にはきっと新しい自分に出会えるだろう。
 私たちは毎日、知らなかった自分を発見する。毎日が初めましてだ。そこに戸惑いがあったとしても当然のこと。初対面のようなものなのだから。
 昨日の自分がお気に入りだからといって、今日の自分でいくしかない。同じ自分は二日とおらず、明日はまた、まだ見ぬ自分が待っている。
 すべては明日の自分のために。苦しいときは息を止めるようにして今日を駆け抜けるのだ。

 2006年9月24日(日) 「投げやりになっても投げないで。
                カッコ悪く転がっていこう」

 投げやりな気持ちになることはある。そのことさえも否定してまっては、息苦しくて耐えられなくなる。だから、ときに投げやりになってもいいのだ。ぎりぎのところで思いとどまって、本当に自分を投げ捨ててしまわなければ。
 上手くいかないことが続いたり、追いつめられて逃げ出したくなったり、いっそのことあきらめて楽になってしまいたかったりすることもある。ただ、そういうピンチをチャンスに変えて乗り越えられるかどうかで、人は大きく違ってくるのだということを忘れないようにしたい。
 汗をかいたり、青ざめたり、みっともなく転んだり、泣いたりしながら、私たちは行くしかない。思ってるほどカッコよくはいかないのだから。
 大切なのは、進むことをやめないこと。私たちが目指すのは、思い描くことができる一番遠くなのだから。

 2006年9月23日(土) 「生きることは探すことではなく作ること。
                幸せも自分も人生も」

 私は自分がここまで作り上げてきた善良さに対して、ある意味では絶対の自信を持っている。本質的に悪人ではないけど、思われてるほど善人でもない。
 この善良さは純金ではない。でも、よく手入れされた真ちゅうくらいの光沢はあると思っている。金メッキではないという自負もある。

 生きることは作っていくことだと、ある日気づいた。幸せも自分も、探すものではなく作っていくものだったのだ。それが分かったときは、目が覚めたような思いだった。そうだ、そうなんだ、と。
 自分という存在は、日々の暮らしの中でコツコツと少しずつ作り上げていくものだ。大切なのは、完成させることではなく作り続けること。一気に出来上がるものではない。
 幸福と運命は関係ない。幸せは山の向こうにあるものでも、スポットライトの中にあるものでもない。もちろん、誰かが与えてくれるものでもない。
 結婚や家族にも同じことが言える。人生もまた、作っていくものだ。歩いた後ろに勝手に出来ていくといった無責任なものではなく。

 人は誰でも、自分自身の作り手だ。作者としての責任があり、自分の仕事に誇りを持たなくてはならない。
 自分を作る努力を怠って、現状の自分自身の中に安住してしまえば、作者としての自覚も失い、途中で作業を投げ出された自分だけが残る。そんな自分は、自分でも愛せない。
 何かを作るという作業は基本的に楽しいものだ。どんどんよくなっていく過程は心が浮き立つ。自分を作っていく作業にもそれは当てはまるに違いない。長い時間をかけて生きることの醍醐味はそのあたりにあるのだと思う。

 2006年9月22日(金) 「学ぶ相手よりも学ぶないよう。
                学習に果てはない」

 自分よりも下の者から教わることはたくさんある。
 年下、目下、格下。上から見下ろしてばかりでは見えるものも見えない。
 大切なのは学ぶ相手ではなく、学ぶ内容だ。謙虚でなければ、本当に大切なことに気づけない。目の前にあっても手を伸ばせないから。
 教わることにキリはなく、学ぶことに終わりはない。たとえ、一番先頭を走っていても、一番上にいても。
 天もまた人間から多くのことを学んでいることだろう。そうじゃなければ、この世界が存続する理由もない。変化、成長の連続こそが存在なのだから。
 よく見ること、耳を傾けること、触れること、味わうこと、体験すること、感じること、考えること、想像すること。五感を研ぎ澄ませてできるだけたくさんのものを吸収するのだ。
 すべては還元のために。他人に対しても、この世界に対しても、役に立つ人間になるために。

 2006年9月21日(木) 「幸せになるための強い論理は、
                学んで獲得するものだ」

 人は幸せになるために強い論理が必要だ。ちょっとの不幸など軽くねじ伏せてしまえるくらいのものが。
 理屈のない幸福は脆い。幸せとは何かを自分の中で定義づけて、説明できるようにならなければならない。人はそれを屁理屈と言うかもしれないけど、愚かでは幸せになれないのだ。幸せに気づくことができないから。
 幸せになるためには多くのことを学ばなければならない。そして、この世界に存在するたくさんの幸せを知る必要がある。身の回りにある小さな幸せも見逃さないようにしなければ。
 幸福がいつも分かりやすい姿をして正面からやって来てくれるとは限らない。いつの間にか横にいたり後ろにいたりする。それを見つけることができた人間だけが幸せになれるのだ。

 2006年9月20日(水) 「理解できなくもされなくてもいい。
                大切なのは知りたいと思う気持ちだ」

 誰もが自分のことを理解してもらいたいと願っている。あるいは、どうやっても理解してもらえないことを知って、誰にも理解なんてしてもらわなくてもいいと頑なになっている。
 けど、理解してもらおうなんてのは、考えてみるとずいぶん贅沢な願いだ。たとえば、私が誰かに自分のことを理解してもらいたいと思ったとき、何年も書き続けているこの日記やブログや自分のノートを全部読んでもらうのが一番手っ取り早い。でも、そんな労力を相手に強いるのは横暴でもあるし、強制しても意味がないことだ。過去の自分はもうここにはいないし。
 結局、理解というのは相手に任せるしかないもので、それがたとえ自分の望むものでなかったとしても仕方がないことだ。自分が自分のすべてを知っているわけでもない。
 人は相手のことを理解しようと思うから好きになり、知りたいという気持ちが続く限り好きでいられる。興味がなくなれば、もはや理解も何もない。
 だから、こう言えばいい。自分はあなたのことが分からないし理解できていないのかもしれない。でも、あなたのことをもっと知りたいと思う、と。
 互いに相手のことを知りたいし知ってもらいたいと思うことが、人と人との幸せな関係性だ。

 2006年9月19日(火) 「恋はいつでも無駄には終わらない。
                恋で自分が下がることはないから」

 恋はいつでも無駄じゃない。恋愛感情は、自分を向上させるためのきっかけとなるから。
 恋を長く休んでいると、男として女として油断するからどんどん落ちていく。男として女としてだけでなく、人としても。筋トレをしないと筋肉が落ちていくように。
 成長期ならともかく、下降期に入れば、現状を維持するには休まず自らを鍛える必要がある。
 掃除だってそうだ。年末になって慌てて大掃除をしようとするから疲れるし手が回らない。普段から掃除していればいざというとき慌てずに済む。日頃自分を磨いていれば、突然の恋にもうろたえないでいられるはずだ。
 何のきっかけも理由もなく自分を高め、磨くのは難しい。よほど勤勉な人間か自分のことが好きな人間でなければ。恋はそういう意味では最高のきっかけとなる。その流れに乗っかってもいい。恋心を利用するというと言葉は悪いけど。
 何年か前、「恋を何年休んでますか」というドラマがあった。あれは不倫の話だったけど、そこまでいくことはない。そうでなくても、恋に落ちることはあって、それは自然なことだ。そこまでは否定できない。
 恋はたとえうまくいなくても、相手に届かず自分の中で自己完結したとしても、決して無駄には終わらない。たとえ最悪の思い出として残ったとしても、自分を成長させる要素はたくさんある。
 命短し恋せよ乙女という言葉もあった。乙女の人もそうじゃない人も、この言葉は当てはまる。


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