2006.6.14-

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 2006年9月18日(月) 「イメージのない人生は、
                 地図も持たずに旅をするようなもの」

 イメージの大切さをこの頃あらためて思う。イメージのないところに現実もないと言っても言い過ぎではないかもしれない。
 イメージは実現のための下書きのようなものだ。家を建てるときの設計図と同じくらい大切なものでもあり、DVDを観るためのDVDプレーヤーのようなものでもある。
 たとえば明日が休みで、何のイメージも持たないまま眠りについて次の日、さて今日は何をしようと考えてるようでは遅いのだ。明らかに立ち後れる。
 もし、前の日からイメージを作っておけば、目が覚めてすぐそのイメージに向かって動き始めることができる。イメージの大切さというのはそういうことだ。
 頭の中だけではなく、具体的に書き出してもいい。その方がよりはっきりするから。明日の予定も、今年の計画も、将来の目標も。自分は何がしたいのか、どうありたいのか、どういう自分なら許せるのか。
 イメージは理想と言い換えてもいい。イメージのない人生は理想のない人生だ。理想はなくても生きていけるけど、できることなら理想に向かいたい。地図もコンパスも持たずに理想の場所にたどり着くのは難しい。
 動物の中で人間だけがイメージに向かう生き物なのだから、私たちは理想に向かう使命がある。

 2006年9月17日(日) 「言葉を持つことの幸せ。
                日本語を使えることの幸福」

 言葉を持つことの幸せを、もう一度よく噛みしめたい。
 言葉があるから想いが形になり、それを人に伝えることができる。抱き合うことで通じる想いもあるけど、私たちはもっと多くの伝えたい想いを持っているはずだ。
 中でも日本語というのは、とても優れた言葉だ。この言葉をあやつることができる私たちは、ある意味では地球上で最も幸せな民族かもしれない。表現することは苦手で下手でも、潜在能力としては間違いなくある。
 たとえば、J-POPのラブソングひとつとっても、世界のどの国の歌詞よりも深くて多様で細やかだ。文語に口語、外国語にカタカナ、古語に流行語、直喩に隠喩。
 日本に生まれて、日本語を苦労なく使えることの幸せを今一度再認識したい。大切な思いがあれば、なるべく大切な人に伝えた方がいい。それもまた、私たちの幸せのひとつなのだから。

 2006年9月16日(土) 「約束は今日も破られる。
                最後にすべての自分を笑顔にできるか」

 一日の終わりに、昨日の自分と交わした約束をまた守れなかったことに気づく。昨日の私がおとといの私を裏切ったように。
 約束とは、願いのバトンリレーだ。昼の間、それを受け取ったことさえ忘れてのんきに過ごして、寝る前になってからやっと思い出す。そういえば、と。
 明日こそは。その思いで、今日の自分は明日の自分に思いを託す。
 けど、私はいつも明日の自分を過信し過ぎる。これまで数え切れないくらいの約束が破られたというのに。
 ただ、それでも信じずにはいられないのは、明日の自分だけが希望だからだ。これまで夢を果たせなかった無数の自分たちの分まで明日の自分が夢を叶えてくれるかもしれない。
 人生には、生きた日数分だけの自分がいる。ずらりとうねるように並んで、泣いたり笑ったり怒ったりしている。それらすべての自分を幸せにできるのは、未来の自分だ。
 最後の最後に約束を果たしたとき、並んだすべての自分が笑顔になるだろう。

 2006年9月15日(金) 「もうカッコ悪くてもいい年頃。
                みっともなくても全力投球を」

 何かムキになってひとつのことをやっているとカッコ悪いと思えた。自分がそうであっても、他人がそうであっても。
 歳を取ることのよさのひとつに、カッコ悪さがだんだん気にならなくなるというのがある。だからもうカッコつけなくてもいいのだ。みっともなくてもいい。
 20代の私から見たら、カメラに熱中することも、野草や動物や野鳥を追いかけることも、バカみたいに全力でブログを毎日書くことも、カッコ悪いことに映っただろう。けど、今は意識が変わったからできている。そのことを嬉しく思う。やりたいと思っても格好を気にしてできないでいたことができていることを。
 一所懸命になることがイヤだったあの頃の私はもういない。これからは、あの頃の分を少しでも取り戻せるように、日々一所懸命なことを少しでも増やしていきたい。
 全力疾走じゃなくてもいいから全力投球を、というのが近頃のテーマになっている。

 2006年9月14日(木) 「スピードを上げることで見えなくなる、
                良いものと悪いこと」

 スピードを上げれば視界が狭まるのは車も日常も同じ。左右や後ろを見る余裕がなくなる。
 でも、日々の中でスピードアップするといいこともある。それは、小さな不幸を振り落としたり、大きな不幸に目がいかなくなったりすることだ。悲しみからも遠ざかることができる。
 生きる速度を上げることが根本的な解決になるわけではないけど、今は先を急ぎたい。先に何かが待っているというわけじゃなく、ただ単に飛ばしたい気分だから。

 2006年9月13日(水) 「予定外のバタバタ9月。
                スピード感に酔って勢い余る」

 9月は何もない月だと思ったら、思いがけずバタバタと慌ただしいことになっている。スピード感と前進感は歓迎するけど、時間不足と圧迫感がちょっと苦しい。
 そうこうしてるうちに、そろそろ今月も後半に入りかけている。週末は祝日続きで、これはこれで邪魔くさい。行動が制限されてしまいがちだから。
 実はデジカメを3日間で3台も買ってしまった私。大丈夫なのか、自分?
 そんなこともあって、気持ちは焦るが雨は降るふる青空遠し。
 やりたいこととやらなければいけないことが混じり合って、頭の中をぐるぐるぐる回って、ばたりと倒れるように眠るのだった。

 2006年9月12日(火) 「普通になりたいだけなのに、
                 普通であることは難しい」

 普通に達してない部分が普通でさえあれば、みんなそんな思いをいくつも抱えていることだろう。誰でも、本人にしか自覚できない劣等感を持っている。
 私たちの願いというのは、何もそんなに贅沢で大それたものじゃない。足りないところがせめて人並みならといったような願望が、ほとんどすべてと言ってもいい。大富豪になりたいとか、誰もが振り返るような美人になりたいだなんて本気で思ってはいない。
 普通でありさえすればいい。なのに、その普通というのが案外難しい。ここが足りない、あそこに難点がある、こっちもできればもう少し。平均点以下のところが多すぎて、補いきれない。そうして、私たちの心は縮こまる。
 逆に言えば、普通より足りないから、背伸びして頑張っていけるというのもあるのだけど。
 結局のところ、普通以下のところは我慢して、普通以上のところで自分を慰めていくしかないのだろう。とはいえ、本当に普通になりたいだけなんだよねぇ。

 2006年9月11日(月) 「100年後の世界のためにできること。
                それを探すことが生きる意味になる」

 100年後の世界やそこに生きる人たちのために、自分は何ができるだろう。
 そんなことを考えてみるのも無駄じゃない。
 名を刻むことでも、立派な行いをすることではない。重要なものを作って残すことでもなく、もっと些細なことでいい。たとえば、100年後も生きる木の苗木を植えるとかでも無意味じゃない。
 あるいは、無謀でもあらたな試みをすることで後の世の人が続く道を作ることができたら、それは素敵なことだ。生きたことが無駄じゃなくなる。
 自分なんかには何もできないと最初からあきらめてしまったら本当に何もできないで終わってしまう。大切なのは、できることがないかと探すことだ。たとえ見つからなくても。
 自分で思いつかなければ子供を作ることだっていい。でも、ただ作るだけじゃ意味がない。意志や思いを伝えなくては。
 世のため人のため、それはそんなに大それたことではないし、おこがましいことでもない。100年後の人たちにできる何かがきっとある。それを見つけようとすることが、生きる目的にもなる。

 2006年9月10日(日) 「時間不足は言い訳にならない。
            足りないものがあるとすればそれは気持ちだ」

 時間なんていくらあっても足りないから、持っている時間の中でできるだけ自分のしたいことをするしかない。
 たぶん、時間がないからという理由だけで本当にできないことは少ないのだと思う。時間不足はいつも言い訳に使われるけど。
 それよりも問題は心の優先順位だ。これをしっかりとコントロールする必要がある。今日の中でしておかなくてはいけないことは何で、明日にはみ出してもいいものは何かの区別をつけたい。そのへんを曖昧にしたまま、なんとなくやりたいことからやっていると、一日の最後に帳尻が合わなくなる。
 時間がなかったという言い訳を聞くのは悲しいことだし、そんな言い訳をしてしまう自分は虚しい。できるかできないかは、気持ちがあるかないか、それだけだ。
 時間は常に足りないのだということを思い知って、そこから再出発しなくてはないけない。やれることは限られている。

 2006年9月9日(土) 「ずっとなりたかったのは、
                地球のガイドさんだった」

 学ぶこと、知ること、表現すること、伝えること、共有すること。
 自分がやりたいと思っていたことの形が、ようやく少しずつ見えてきた気がする。
 地球を知ること、それが第一歩だ。やがて出て行くであろう宇宙への。
 私たちは、この星のことを宇宙に誇れる地球人であらねばならない。そのためには、まず地球のいいところをたくさん知る必要がある。知れば知るほど愛すことができるのが、この地球という星だ。
 私は少し先を行こう。いつでも宇宙からのお客さんを出迎えられるように。

 2006年9月8日(金) 「好きな人に求めるものを知っていること。
                あなたが必要だと伝えること」

 人に何をして欲しいかを知ってる人と知らない人がいる。たとえば好きな人に何をして欲しいのかを具体的に言える人は、案外少ないかもしれない。たとえ夫婦であっても。
 どんな人が好きかという問いに対する答えとして、優しい人というのが必ず上位に来る。あれがよく分からない。相対的にみて厳しい人より優しい人がいいというのは分かる。でも、その優しさというものをもって何をして欲しいと望んでいるのだろう?
 いつもそばにいて欲しいとか、一緒に夢を追いかけたいとか、お互いに尊敬できて高め合える関係でいたいとかなら分かる。単純に格好いい人とか美人がいいというのも理解できる。でも、優しい人というのが昔から私にはよく分からなかった。結局それは女心が分からないということなのだろうけど。
 私はどうにも人を必要とするのが苦手らしい。というよりも、必要だということを伝えるのが下手みたいだ。決してそんなことはないのに。
 これからは、いつでもあなたが必要なのだと口にするようにしたい。ちょっと100円貸してくれるかな。キミの100円が今どうしても必要なんだ、といったように。笑うかもしれないけど、これは私が向かうべき方向性の本質を突いているような気がする。これまでの私は、のどが乾いていてジュースを飲もうとしたら財布に100円玉がなかったら、飲まずに我慢してしまうようなところがあったから。

 2006年9月7日(木) 「運命は確かにあるけど、
                戦って勝てない相手ではない」

 被害者にも加害者にもならなず、危うい中を縫うようにして生き延びていくということは、戦場で誰も殺さず誰にも殺されないようにするのと同じくらい難しいことなのかもしれない。
 毎日テレビから流れてくるニュースを見ていると、そんなことを考えたりする。被害者も加害者も、下手をすれば明日は我が身だ。決して他人事ではない。
 ただ、だからといって恐れすぎたり消極的に生きることが正しいというわけでもないだろう。攻めていく姿勢は必要だし、自分を信じることも大切だ。疑う心が鬼を呼ぶこともある。
 運を天に任せるのではなく、人事を尽くすことだ。天の思惑とは別に。あるいは神の意志を越えて。
 運命は逃げる人間を追いかけ、何もしない人間のところにはやって来ない。そして、戦えば勝つことができるものだ。必ず負けると決まっている勝負なら最初からする意味がない。運命という下書きをなぞるだけなら生きる価値もない。
 もしかしたら、この世界で一番の強敵は自分の運命なのかもしれない。予定調和に陥らず、運命を打ち負かすことができたとき、人は初めて本当の意味での自由を手に入れ、自らの意志で生きられるようになるのだろう。
 くれぐれも、運命に黙って従うことが人の道だなんて思い違いをしてはいけない。

 2006年9月6日(水) 「誰かというのは誰でもなく、
               求めるものに具体性を欠けば難しい」

「誰か」というのは誰でもないのだと知った。
 誰か助けてくださいと叫んでも、その誰かが自分のことだとは誰も思わないし、もし助けてあげても誰でもよかったと言われたらいい気分にはなれない。
 何が食べたいか訊かれて何でもいいと答えるのは、本当に食べたいものが何もないということだ。どんな仕事がしたいのか問われて自分に出来ることならなんでもしますというのは、したいことがないということに他ならず、誰でもいいから自分のことを好きになってと欲しいと願うのは、誰も好きな人がいないということだろう。
 誰かというのは誰でもなく、誰でもいいというのはとても悲しいことなのだ。

 いつでも自分の願望に対して意識的であることが大切だ。いつ何が食べたいか訊かれても即答できるように自分は今何が食べたいのか知っておく必要がある。一番欲しいものは何なのか、行きたいところはどこなのか、好きな人は誰なのか、やりたいことは何なのか。
 そういう具体的な目標や方向性がなければ積極的に生きることは難しい。たとえ分からなくても、探すことはできる。
 大声で助けを呼ぶときも、誰か助けてくださいではなく、そこの白い上下を着て大きなカメラを持ってるあなた、救急車を呼んでください! と具体的に求めれば、え? オレ? ああ、はい、了解です、今呼びます、となる。
 求める対象は具体的であるほど実現の可能性が高くなるものだ。

 2006年9月5日(火) 「悔いが残ることは思いがあったからこそ。
               後悔は生きた確かな証」

 どんな人生を送っても、あとから振り返ってみれば一本道で、どの道を描いても必ず悔いは残る。でも、だから後悔しないようにというのではなく、悔いというものをもっと肯定的に捉えてもいいんじゃないかと思うのだ。
 悔いを残すことは、杭を打ち込むのに通じる人生の足跡のようなものだ。それだけ強い思いを持ったということを喜びたい。たとえ思い通りにならなかったとしても、そこには確かな願いがあったのだ。
 本当に寂しい人生は、後悔が多かった人生ではなく、後悔さえなかった人生なのだから。
 日々を生きる中で、たくさんの願いや希望を持つことが大切なのだと思う。

 2006年9月4日(月) 「神に愛されなくてもいい。
               自分で自分を愛すことができたなら」

 神に愛され足りないと感じたら、自分が自分を愛して補うしかない。
 それは、自分を磨き、高めるということだ。容姿も、精神も、肉体も、才能も。
 最初から美貌も才能も頭脳も揃っていればそれに越したことはない。神に愛されるということは素敵なことだ。けど、始まりがすべてというわけではない。努力で積み上げていけるところはたくさんある。
 自分は外見も頭も悪いし何の才能もないだなんて嘆いたりいじけたりしてる暇があったら、エステへ行ったり習い事をしたりジムに通ったりすればいい。金がなければ稼ぐか、なければないで工夫する余地はある。
 そうやって自分を愛して愛せるようになれば、もはや神の愛はさほど必要ではなくなる。それに、神でなくてもいじけていたり泣き言ばかり言ってるような人間を愛すことはできないだろう。
 神は自らを愛する者を愛す。

 2006年9月3日(日) 「見えている幸せの形。
               見えない幸せの向こう側」

 はっきりしているのは、誰かのせいではないということだ。私に関して言えば。
 不完全な孤独感が、完全ではないという理由で戦うべき敵を私から奪う。
 不幸でないゆえに、戦うという行為から私を遠ざける。
 誰かと共にある人生が自分にとっていいことであるのなら、きっとそうなっていただろう。ここまでそうならなかった意味や必然性は分からないけど、私はひとりであることを受け入れるしかない。
 人をうらやましく思うこともあるし、苦労から解放されていることに安堵したりもする。
 求める幸せの形は私自身見えているつもりだ。けど、もしそれが実現したとして、その先がどうなっていくかを想像すると、イメージはひどくぼんやりとしてしまう。思い描く幸福が三つ重なったとして、今抱えている問題が全部片づくのかどうか。
 みんなは幸せの向こう側が見えているんだろうか。そんなものは幸せになってみれば分かることなのかもしれないけれど。

 2006年9月2日(土) 「考えても無駄だと思ったら
                すべてが無駄になってしまう」

 一日の中でたくさんのことを考えて、その大部分は無駄だったり、今日に落として明日まで持ち越せなかったりするのだけど、こぼれるからといって少ししか汲まなければ少ししか残らない。そして、その少しがいいものだとは限らない。こぼれてもこぼれてもたくさん汲むことが、わずかでも良いものを残す結果となるはずだと信じて、今日も考えに考えて、ほとんどが無駄に終わる。

 2006年9月1日(金) 「人のために生きることの欠落が
               ひとりでさまよい続けることにつながった」

 持っておくべきものをずっと失ったまま、ひとりで勝手に生きて、さまよって、でたらめに歩いて、そうしてやっぱり今も失ったままだ。
 いけなかったのはどこで、足りなかったのは何だったんだろう。
 宇宙にパラレルワールドがあるとして、向こうの自分はもっと上手くやっているんだろうか。
 けど、振り返ってみると、あまり選択の余地はなかった気がする。必然的な方へ流れてここまで辿り着いただけだ。どこかで決定的に間違えたとも思えない。
 たまに、もっと楽になりたいと思うことがある。でも、楽な方を選べば満足できないことも知っている。
 私は本当に何かを失ったのだろうか? もしかしたら、まだ何も手に入れてないだけもしれない。
 ひとつ後悔していることは、あまりにも自分のことで手一杯で、人を幸せにするために生きてこなかったことだ。この先で間に合えばいいけど。
 ただ、そのためにはまず自分のことを何とかしなければいけないわけで、そうやって堂々巡りはまだ続く。

 2006年8月31日(木) 「意味や理由がなくても生きていける。
                けど、分かっていた方が生きやすい」

 意味がなくても、幸せじゃなくても、生きていくことはできる。暮らしは待ってくれないから、毎日やることをやっていれば過ぎていく。多忙さに追われて走っていれば、意味や理由なんて考えなくても済む。
 でも、何故生きるのかを考えるために立ち止まっているのも愚かなことだ。オシムの言うように考えながら走らなくてはいけない。

 誰かが人生の意味について語り、幸せについて教えてくれる。けどそれは自分のものではない。生きる理由や幸せの形は、自分で見つけなければ価値がない。幸福かどうかは人に決めてもらうものじゃないのだから。
 自分というものは探すものじゃなく作り上げていくものだ。毎日塗り重ね、積み重ねていくことで。

 生きる目的など最初からありはしない。あえて言うなら、生き続けることこそが目標だ。自分を完成させることが目的なんかじゃない。
 生きていく意味が分からないとか、自分の価値が見いだせないなんてのは当たり前のことで、嘆くまでもないことだ。それは生きながら探していくものなんだから。
 絶望も当然のことで、それこそが生きる土台となる。そこから再出発して、私たちは自らを幸せにしなくてはいけないし、できると私は信じている。幸福になることが人生の目標ではないけど、幸せの方が生きやすいから。生きる意味が分かっていた方が迷わずに済む。
 たとえ分からなくても、走りながら考えていこう。明日がある限り。

 2006年8月30日(水) 「変わり続けることだけが
                昨日までの間違いを救う」

 過去を振り返ってみると、たくさんの思い違いや勘違いがあった。未来から見た今もきっとそうなのだろう。自分では気づかない考え違いをまだたくさん抱えてるに違いない。
 自分を信じることは大切だけど、疑うことも同じくらい大事なことだ。過信や確信は自分の進歩や成長を止めてしまう。
 あがりと思ってもあがりではなく、終点と思ってもそうじゃない。まだまだ先は続くし、常に状況は変化している。自分自分もまた。
 今日は昨日までの自分を正すためにある。今日の始まりと今日の終わりが同じ自分であったなら、今日を生きた価値はなく、明日を生きる資格を失う。
 日々成長することだけが自らを救う唯一の道なのだということを忘れないようにしたい。

 2006年8月29日(火) 「気分と気持ちのせめぎ合い。
              10のうち7は気分が勝ってしまうのだけど」

 気持ちはあるのに気分が言うことを聞かないことがよくある。いつもそうだと言ってもいいかもしれない。
 消極的な方に向かいたがる気分と、積極的であろうとする気持ちが引っ張り合い、私はその中間で行ったり来たり。
 気分と気持ちが一致することは少ない。やるべきこととやりたいことがたいてい違っているように。
 それにしても私は気分に忠実すぎる。もっと気持ちの言うことを聞かないといけない。たいていの場合、気分よりも気持ちの方が正しいのだから。
 明日は気持ちが気分に勝てるだろうか。せめて気持ちの方を応援したいと思う。

 2006年8月28日(月) 「明日という宝の山。
                何もないと分かっていても夢を見る」

 心の浮き沈みが激しいとわずらわしいのに、心が安定してしまうと寂しい。刺激的な毎日は楽しくて疲れる。平和な日常は退屈だけど楽だ。
 じゃあ、その中間が理想なのかといえば、それはそれで続けばつまらなくなっていく。わがままというか、ないものねだりが人の本質なのだろう。たとえ、求める最高の幸せが手に入っても決して満足することはない。また別の幸せが欲しくなり、求めてさまよう。
 私たちはどこまでいっても求めることをやめられない。新しい幸せ、別の恋、楽しい出来事、面白いもの、新鮮な何か。
 そんな不満だらけの私たちを慰め、誤魔化すのは、明日という日の存在だ。まだ生きてない新しい一日の中に、理想を描き、夢を見ることができる。だから生きていけるし、生きていこうと思えるのだ。たとえ、今日という日が空っぽだったとしても。

 2006年8月27日(日) 「やれやれの8月。
                いよいよの9月」

 夏は好きだけど8月はあまり好きな月じゃない。学校が休みということで行動に制限がかかることが多く、身動きが取りづらい。散策へ行くにも親子連れが多そうなところは行きたくない。
 その8月もいよいよ終わりが近づいてきた。この夏に特別な思い出は作れなかったけど、無事にここまで過ごせたことをホッとしている。
 9月は、もしかしたら一番動きが取りやすい月かもしれない。自他共に制約も少なく、気候もちょうどいい。8月に溜めた力も充分残っている。
 今のところ9月に予定している一番大きなイベントは夜行バスでの東京行きだ。東京見物がもちろんメインなのだけど、夜行バスってどうなのよというのもある。ちゃんと眠れるものなのか、どれくらいしんどいものなのか、上手くイメージできない。これが使えると分かればまた行動範囲も広がる。
 他にも9月はあちらこちらと行きたいところがたくさんあって、思いを巡らすのは楽しい。ゆっくりできるのは9月、10月で、その先はまた慌ただしくなるから、この2ヶ月を大切に過ごしたい。
 まず来週は、8月の後かたづけと、9月のイメージ作りを。

 2006年8月26日(土) 「2週遅れの松阪行き。
                まだお盆が来てない感じ」

 明日は2週間遅れの帰郷となる。よもやの車故障で、いまだお盆を越してないような気分のまま時が流れている。
 子供の頃からの習慣で、盆暮れには一応帰っておかないと何かすっきりしない。心の中で区切りがつかない感じで、切り替えができない。年越しそばを食べてないというか、年賀状を書いてないというか、桜を見てないというか、そういうわだかまり感に近い。
 まずは行って無事に帰ってくることだ。日帰りでちょっと大変だけど、ここを越えないと次に進めない。
 ということで、ちょっと行ってきます。一番の楽しみは写真を撮ること。

 2006年8月25日(金) 「人生は目隠しゲーム。
                ルールが分からなくてもやるしかない」

 ふと思う。私は誰に義理立てする必要があるんだろうか、と。
 いや、居直っているわけではない。その範囲をちゃんと把握して、できるだけのことをしたいと思っているから、知りたいのだ。
 両親はそうだろう。友達? 神? 天? 他の生き物たち? 昔の自分? いつか出会うであろう大切な人?
 適用範囲を拡大していけばとりとめがなくなるし、限定していけば両親に対してさえその必要が本当にあるんだろうかと迷いが生まれる。そもそも、義理を果たすとはどういうことなのかもよく分からなくなる。

 人生には分かる時期と分からなくなる時期がある。確信を持てるときとそうじゃないときと言った方がいいかもしれない。
 自分が愛する人に愛されてるとき、人は最も自分自身を確信できる。自分はこの世界に存在していていいんだと思えるから。でも、それは人生の一部だったり、なかったりすることだ。人は多くの時間を、自分の存在を疑いながら生きている。周りの人たちとの関係の中で自分の居場所はあり、必要とされていると頭では分かっていても心が信じられないこともある。
 自分のために生きることの虚しさに気づいたとき、他人のために生きることに向かう。それは方向性としては正しい。けど、それでも尚、満たされることはなく、確信も持てなくなった私たちは、誰のために生きていいのかさえも見失う。

 生きることの基本姿勢がある。正しい理屈や論理も持っている。理想もあるし、目標だってある。自分の幸せの形も知っている。
 それでも、いや、だからこそ、人は毎日の暮らしの中で生き方を迷い、悩む。そして、当面の解決策として見ないふりをするか、先を急ぐかする。大きな問題に取り組む前に、小さな問題が次々と目の前に現れるから、それに対応するだけで精一杯になる。
 人間は、どういうわけだか知らないけど、許されたいと願う生き物らしい。他の動物は自分以外の許しなど乞うてはいないように見える。人間は何故、許しを求めずにはいられないのだろうか。義理立てというのもそういうことだ。罪を背負う前に罪から逃れたいと願いから生まれる思いだ。ただ罰が怖いからだけなんだろうか?

 生きてるときから、今自分は100点満点の何点くらいにいるのか分かればいいのに。それが見えないから恐れながらも努力を怠ってしまう。
 けど、もし、隠しパラメータを知るための秘密コマンドを知ることができたら、知ろうとするだろうか? 私はちゅうちょするだろう。
 結局のところ、人生は目隠しゲームのようなものだ。良い悪いではなくこれがルールなんだから従うしかない。せいぜい楽しみながらできるだけのことをしよう。何点取ったかではなく、どれだけ自分が納得できたかが大事なんだろうし。

 2006年8月24日(木) 「小松未歩『東京日和』を聴いて
                 東京見物を思いつく」

 今日の歌は、小松未歩の「東京日和」。
 繰り返し聴いて、頭の中をずっと回って、何度も口ずさんでいた。

 ♪焼きつけてた
  外宛通りで 夕日追いかけ
  はしゃいだあの日
  羽田までの 最後のドライブ
  ゆらり揺られていた

  遠のいてく お台場の海は
  まぶしい西陽に 乱反射して
  滲む景色 湾岸道路も
  ゆらり揺らめいた
 
  目を閉じても
  たどれるよ いまは
  少し手前の駅で降ろして
  天空橋 モノレールに乗り
  ゆらり揺られてく♪


 そして、思った。東京へ行こう、と。
 遠くて近い東京。深夜バスなら3,000円だ。
 9月になって、もう少し涼しくなったら。
 明日から東京の予習だ。
 ひとりシリーズのスペシャルとなる、ひとり東京見物。
 迷子にならないか、今から心配になってきた。

 2006年8月23日(水) 「好きなドラマを思い出してみる。
                 次こそ個人のベスト100を」

 突然、何の脈略もないけど、好きなドラマについての覚え書き。ときどき記憶の引き出しから取り出して確認しておかないと、奥の方に仕舞い込んだまま忘れてしまうから。
 マイベスト3は変わらない。
『WITH LOVE』、『Over Time』、『H2』
 ドラマ『北の国から』は別格ということで。
 ベスト3に続くのが、『アンティーク西洋骨董洋菓子店』、『世界の中心で、愛をさけぶ』、『愛してると言ってくれ』、『ひとつ屋根の下』といったあたり。
 他にもたくさんいいドラマや好きだったドラマがある。
『高校教師』、『ビーチボーイズ』、『青い鳥』、『カバチタレ』、『トリック』などなど。忘れてしまっているものも多い。『テレビドラマベスト100』という本も出てるので、それを買っておいた方がいいかもしれない。映画と違ってテレビの連ドラは風化しやすいものだから。
 何か思い出しきれないのがもどかしい。近いうちにもう一度よく思い出して、次こそテレビドラママイベスト100を作ろう。

 2006年8月22日(火) 「幸せに負けない自分であること。
                幸せより下では居心地が悪い」

 誰もが幸せになる資格を最初から持っているわけではない。たぶん。
 幸せの方だって選ぶ権利がある。きっと。
 幸せになりたければ、まずは自分がそれにふさわしい人間になることだ。そのためには努力もしなければいけないし、自らを正さなければならない部分もたくさんある。
 何もせずに幸せが向こうからやって来てくれると思うのは、寝てる間に財布にお金が入ってくると空想することくらいにあり得ないことだ。
 幸せと自分との力関係でいうと、自分の方が幸せよりも優位に立つ必要がある。もし、幸せに自分が負けていると感じてしまったら、幸せであるはずのものも幸せではなくなってしまうだろう。自分のレベルが上がれば幸せのレベルも上がる。そういうことだ。
 幸せになりたいと願う前に、まずはやれることを全部やりたい。神頼みはそれからだ。

 2006年8月21日(月) 「過ごすのではなく生きること。
                敵不在で生きるのは難しいけど」

 毎日を過ごすのではなく生きなければと思う。過ごすのと生きるのは明らかに違う行為だ。
 でも生きるってどういうことだろう? 分かりやすいのは極限状態だ。たとえば無人島に放り出されたと想像してみる。まずは食べ物と水の確保だ。飲み食いしなければ生きられない。敵に襲われないように警戒しなくてはならないし、襲われたら戦わなくてはならない。寝る場所も必要だ。あるいは、病気になったら病魔と闘って死なないことが生きることになる。

 けれど、日常の中で生きることは思っているより難しい。戦わなくても生きられる状態で、何を持って生きるとすればいいんだろう?
 ひとつには行為の自覚というものがあるだろう。食べることをありがたいと思う、楽しいことをしてることを意識すること、自分が今持っている幸せを再確認することなどがある。ただ、生きているという確かな実感を得るにはどうしたらいいのかというと、それは分からないと認めなければならない。
 結局、予定に沿って時間の流れの中で物事を進めて、時間切れで一日が終わりになる。

 苦行や修行をすればいいのかといえば、そういうことでもない気がする。はっきりとした目標を定めて日々努力を積み重ねることだと言われればそうなのだろう。
 戦うべき敵がいないということは不幸とまでは言えないにしても、生き方を難しくさせる。私たちは動物園にいる動物たちに似ている。
 私にできるのは、毎日全力投球に近づけることくらいだ。全力疾走は無理にしても、せめて今日の中でやれることを全力でやろう。限界を少しでも超えることができれば、それが生きるということにつながるかもしれない。

 2006年8月20日(日) 「穏やかすぎた2006夏。
                でも、まだ夏は終わらない」

 今日、この夏はじめてツクツクボウシの鳴き声を聞いた。夏の終わりが近づいている。
 何もなさすぎた2006年夏。心に落ちて広がった小さな波紋も、今消えようとしている。穏やかすぎる夏だった。
 8月も残り10日となった。何かひとつ、心に残ることをしよう。小さな冒険のようなものを。来年の今ごろまで覚えていられるようなことを。
 やっと車も直って戻ってきた。私の夏はこれからだ。

 2006年8月19日(土) 「嫌いという感情を利用したい。
                何も感じないのでなければ」

 嫌いという理由だけでその人間から目を背けてしまったら、何も得るところがない。それはとてももったいないことだ。大変な損と言ってもいい。
 生理的に苦手ということもあるけど、その苦手意識を克服して嫌いな人間から学ぶところは多い。得るものがないのは何も感じない人で、嫌いという感情には何か大きなヒントが隠れている。
 何故嫌いなのかを分析すると、それは嫉妬だったり、自己の反映だったり、好意の裏返しだったりすることが多い。それを自覚できれば、自分が本当は何が好きなのかも見えてくる。
 嫌いなものを好きになる必要はないかもしれないけど、嫌いという感情には利用価値がある。反面教師にもなるし、もし嫌いが好きに変わったら、それは普通の2倍好きになったということで、そんな喜ばしいことはない。
 もう一度、嫌いと思っている人間と向き合ってみたい。私にはそういう人があまりいないのだけど。

 2006年8月18日(金) 「もどかしい安全運転。
                でもこの心の渋滞も必要なのだ」

 40キロ制限の道を40キロで走っているような一週間だった。自分の意志に反した安全運転。どうにもスピードが上がらず、もどかしくて仕方がなかった。車を使えなかったというのが一番の理由だけどそれだけじゃない。気持ちが走らなかった。
 悪い条件が重なった一時的な不調といえばそうなんだろうけど、どうにかしてもっとスピードを上げていきたい。この気持ちの渋滞から抜け出して。

 8月も残り2週間。前半は何をしていたのか思い出せないほど印象の薄いものだった。車が戻ってきたら、少しでも取り戻して、この場所に記憶を刻みたい。何もなかった2006年8月にしてはいけない。
 マイナスにはマイナスの、停止には停止の、凪には凪の必然性があるのだと思う。それを無駄にせず活かせるかどうかは自分次第だ。
 捨て置いてかなわない出来事はなく、無駄にしていい一日もない。すべては有効活用できるはずだし、そうしたいと思っている。
 意味はなくてもいいから、流れを見失わずにつなげたい。過去から現在、現在から未来へのつながりを考えて、上手く乗っていくことが大切だ。
 流れが悪いときほど、未来を見据えたい。

 2006年8月17日(木) 「今は正しさに向かう途中。
                悪の能力があるから善になれる」

 人間は基本的に許されざる者なのだから、そこから出発していかにすれば許される存在となるかが私たち全体のテーマなのだと思う。
 残虐で非道で身勝手で好戦的なのは人の本質で、それは変わらない。否定したり打ち消したりする必要もない。暗い能力を内に抱えながら善い行いをすることこそが正しさだ。
 目の前に金がなければ誰も盗まないし、それは偉さではない。正しさというのは店の中に店員がいなくてレジも開きっぱなしでもお金を盗らないことだ。
 もし人間に悪の能力がなければ、私たちはきっと永遠に正しくはなれなかっただろう。悪を行えるからこそ善になり得るのだということを自覚しなければいけない。
 戦争を起こし、動物を殺して食べるから人間は駄目なんだという論理は間違っている。人類はいつかきっと正しい存在になれると私は信じている。まだまだ長い歳月がかかるだろうけど、いつか必ず。
 私たちは今その途中にいる。人間に対して絶望することはない。

 2006年8月16日(水) 「世界の明るい面を見れば
                 どこまでも愛していける」

 愛すべき人やものや出来事がたくさんあるこの世界で愛が見つからないとしたら、それは全面的に自分に非がある。
 好きなもの、愛する人、幸せなこと。ものごとの明るい面を見て、世界を肯定したい。それは必ず可能だと思う。半分の闇がどんなに深くて暗くても。
 絶望はあって当然だ。打ち消したりする必要はまったくない。悲しみも苦しみも必ずある。なければおかしい。不幸であることで幸福のありがたみを知るということもある。
 世界を欠点で否定するより、この世の長所を愛したい。単純な話だ。
 人生は何も問題ない。このまま喜んで生きさせてもらえばいい。

 2006年8月15日(火) 「つながっている人たちのために、
                つながっている人たちよりも強く」

 つながっている人と人とは見えない糸で結ばれていて、気分や感情や精神に影響を与え合っている。好きな人が悲しんでいれば自分も悲しくなるし、家族の中でひとりが悩んでいたら家の中が暗くなる。
 共鳴、共振、共時性。
 楽しい気分が伝わることもあれば、悲しい気持ちが流れ込んできて同調してしまうこともある。不幸が伝染したり、幸運を共有することになったりもする。
 だから人は、自分のためだけに幸せになればいいといわけではないのだ。つながっている人たちに幸せを流し込むためにも陽気でありたい。そして、相手の負の力に打ち勝つ強さが必要だ。
 強い光は闇を照らし、燃える炎は凍てついた心を溶かす。大いなる幸福感は、大切な人の不幸を蹴散らすはずだ。
 まずは自分自身が明るく元気でなくてはならない。

 2006年8月14日(月) 「幻想を力に変えて。
                現実の中でできることを」

 幻想はそれ自体悪いものじゃない。幻想を力に変えることができれば、むしろいいものにもなる。
 いけないのは幻想に飲み込まれてしまうことだ。現実を超えた幻想は、生きることの主体性を自分から奪ってしまう。
 いくつになっても夢を見たり何かに憧れたりすることはいいことだと思う。世界は現実がすべてじゃない。ただし、やっぱり現実が主で幻想は従であるという基本は動かせない。主従が転倒するのは正しくない。幻想に殉じたい気持ちは私も共感するけど、その誘惑に負けてはいけない。幻想に逃げ込む前に、現実の中でやれることがあるはずだ。
 夢や目標は努力して叶えてこその喜びだ。祈ったり願ったりして人に与えてもらうものではない。
 私は幻想を肯定したい。思い描く理想に対してぶれないことが大切だ。自分が本当に欲しいものを見失わないように進んでいけば、幻想はいつか現実になると信じている。

 2006年8月13日(日) 「心配より応援を。
                優しさは加減して」

 人を心配して気持ちがいいのは本人だけだ。心配される方は負担でしかない。相手のことを心配することが思いやりだなんて思ってはいけない。その人のためを思うなら、励まし応援することだ。それは嬉しくもあり力にもなる。
 信じることも大切なこと。信じ続けることは難しいけど。
 優しさは、本当に相手が困ったときだけでいい。常に与え続ける優しさは甘えにつながり、甘えは弱さへと流れるから。
 人を思いやることは、思うほど簡単なことじゃない。加減を間違えると互いを不幸にすることもある。
 個人的には、心配したりされたりといったウェットな関係は嫌いじゃないのだけれど。

 2006年8月12日(土) 「出会いという希少価値。
                 その先で何を得るかは本人次第」

 出会う必要のなかった出会いはなく、すべての出会いには何らかの意味や必然性がある。たとえそれが自分の望まないものだったとしても。
 運命や宿命の仕事は出会わすまでだ。そこから先は本人がどう受け止め、どういう意識を持って、何を得ようとするかだ。せっかくの出会いも、何もしなければ何も得られるものはない。
 出会いというのは特別なものだ。毎日何十人、何百人とすれ違い、言葉を交わし、時間や空間を共有したとしても、それは出会いではない。出会いは人生の中で、とても希少価値の高いものだ。だから大事にしなくてはいけないというのもある。
 いったん、出会ってしまえば、もう出会う前には戻れない。先へ進むしかない。運命を祝福できるか呪うことになるかは、すべて自分自身にかかっている。

 2006年8月11日(金) 「得られないことをなくすこと。
                大切なものひとつのために」

 幸せを知らない苦しみと、幸せをなくした苦しみと、どっちが不幸なんだろうとよく考える。結論は出ない。
 比較することはあまり意味のないことなんだろうし、必ずしも自分で選べるわけではないから考えても仕方がないことなんだけど、でもやっぱりどっちなんだろうと思う。
 私はこれまで、得るものも少なく失うものも少ない人生を送ってきたように感じているけど、人に言わせればそんなことはないおまえは恵まれていると言うだろうか。
 ありきたりのものしか持ってない人にしたらありきたりじゃないものを持っている人をうらやましく思うのだろうし、当たり前じゃないものしか持ってない人間からすると当たり前のものを持っている人がときどきすごくうらやましく思える。結局、ないものねだりというだけなんだろうか。
 それでもやっぱり私は、いつも一番欲しいものを手にすることが出来なかった。このひとつを守るためなら他のものは何もいらないなんて思ったことがない。
 それはもしかしたら、ひとつのもの以外を捨てる覚悟が私になかったからなのかもしれない。だとすれば、今後の課題は、一番大切なものを手に入れるためにどれだけのことを犠牲にし、捨てられるかということになるだろう。その勇気が持てるかどうか。

 2006年8月10日(木) 「悪いことも良い方に変えられる。
                乗り越えれば力になる」

 何が起きても対処すること。うずくまったり、回避したりしようとせずに。沈む気持ちを蹴飛ばして、やれることに全力を尽くしたい。
 乗り越えよう。乗り越えた先に楽しみと喜びが待っているのなら。
 何もかも予定通りいくわけじゃないし、いつも上手くいくわけでもない。突発的な不幸は起きる。障害をひとつ越えれば、それが自分の力になる。
 悪い出来事は、もしかしたら順調にいっていたら起きてしまった大きな不幸を回避するためのものだったのかもしれない。ものごとは出来る限り良い方に解釈したい。
 今日解決できなくても、明日がある。

 2006年8月9日(水) 「続けることは難しい。
                だから毎日続けなければ」

 いろんな意味で、続けることの難しさを最近感じている。
 決意の継続も、変わらない関係性も、努力の積み重ねも難しく、好きなものを好きであり続けるのさえも困難だ。
 希望を持ち続けることも、自分を信じ続けることも、決してたやすくはない。ときには揺らいでしまうし、過ぎゆく時の中で薄れてしまうこともある。
 続けることが難しいからこそ、日々寄り添っていなければならないし、いつも近くで触れている必要がある。
 苦しかったり面倒だったりで休んでしまうと、続けるのはますます難しくなる。休みが一日になり二日になり、ついには終わってしまう。
 大事なことは毎日続けることだ。関係性を保つにはそれしかない。誓いも日々新たにしなければ続かない。

 2006年8月8日(火) 「幸せの手招き。
                誰よりも先に」

 実効性のない偉さよりも、実用性のある能力の方が正しいし、世のため人のためになる。そのことに気づくまでにずいぶん時間がかかった。
 若い頃は、誰よりも賢くなることや正しく在ることことが偉さだと思い込んでいた。それは自己完結的で、誰かの役に立ってはいなかった。
 医学書の内容を全部覚えていることよりも、転んでヒザをすりむいた子供にツバをつけてあげる母親の方が役に立つこともある、そういうことだ。
 
 この多様で美しい世界に生きることがどれほど幸せなことかということを伝えるためには、言葉で説明したり言い聞かせたりすることでは難しい。それでは伝わらない。自分自身が全力で美しさを求め、幸せな姿を見せることだ。
 みんなの後ろから応援したりああしろこうしろと指示するのではなく、誰よりも先を走って手招きすることこそ大切なのだと今は思う。
 幸せとは何かを知るのは、幸せな人の姿からだけだ。誰かに幸せのなんたるかを伝えたければ、まずは自分が幸せになってみせる必要があるだろう。

 2006年8月7日(月) 「望むことが生きること。
                求めるものがありさえすれば」

 その願望が自分のためにはならないと分かっていても、熱烈に望まずにはいられないこともある。
 願望、欲望、希望。それさえあれば他には何もいらないなんてことは決してないのに、そんなふうに思い込んで自分の望みを正当化しようとしたり。大きな犠牲を払ったからといって、欲しいものが手に入るわけじゃない。
 ただ、望むものがはっきり分かっているということは幸せなことだ。たとえ願いは叶わなかったとしても。何が欲しいかも分からずに過ごしていたときもあった。
 欲望は生きる原動力であり、願望は生きる望みだ。希望があれば生きていけるというけれど、それだけで自分を支えるのは難しい。

 2006年8月6日(日) 「なくした大切なもの。
               約束は思い出せないまま」

 自分でも信じられないほど、大切なことをたくさん忘れてしまっている。
 懐かしい歌を久しぶりに聴いてふいに思い出したり、あらたな出会いが忘れていたものを思い起こさせてくれたりすることがあるけど、それはほんの一部でしかない。
 大切なもの、大切なこと。あの日あのとき、心に深く刻み込んだはずの言葉や誓いや約束が、風雪に晒され、今ではかすれて判別不能となっている。傷跡さえも消えてしまった。
 永遠の誓いも、再会の約束も、立てた目標も、過ぎゆく季節の中でどこかに置き忘れてきてしまったらしい。
 大切な使命を忘れても幸せに暮らすことは出来る。でも、自分との約束以上に大切なものはたぶんない。それを思い出せないことが悲しい。
 約束を忘れた私は、はぐれたままどこにも繋がれないでいる。

 2006年8月5日(土) 「悲しみは心のオモリ。
               自分がどこかに飛んでいかないように」

 どんなに調子が良くて楽しいときでも、心の中で悲しみの素を探してしまうようなところがある。あまりにも問題が無くて幸せだとかえって不安になるから。
 悲しみは心のオモリになってくれる。自分が高く舞い上がりすぎて、そこから落ちて痛い思いをしないで済むように。
 不幸性というか、苦悩性というか、こればかりはどうにも治りそうにない。たぶん、この先も。
 別に悲しみが好きなわけじゃないし、悲しみたがり屋ではないと自分では思ってる。人より不幸かといえばそんなこともない。それでもやっぱり、心にひとかたまりの悲しみは必要だと感じる。幸せなときほど。
 たとえばそれは、報われない恋なんかが一番いいのかもしれない。

 2006年8月4日(金) 「覚悟があれば間違ってもいい。
                目指すべきは正しさの向こう側」

 正しい人の言うことを聞いて正しく生きなければならない理由はひとつもない。けど、自分の生き方が正しいのか間違っているのかも分からないまま、身勝手に生きるのは違うと思う。
 自分が正しいと信じているのなら誰に何を言われてもそのまま行けばいい。ただ、間違っているかもしれないと思うのなら人の言うことも聞いた方がいい。依存しない程度に耳を傾けることは大切なことだ。
 自分が責任を取る覚悟がしっかりできていればどんな生き方でもかまわない。そもそも正しい生き方と間違った生き方なんてのもないと言えばない。
 愚かなのに謙虚になれないというのが一番よくない。居直るのも駄目だ。
 教わることと学ぶことの兼ね合いは難しい。学ぶことに終わりはなくても、教わることに終わりはあるのかもしれない。教わっているうちは師を超えることはできない。
 正しい生き方の向こうに何があるんだろう。

 2006年8月3日(木) 「心にホームはあるか。
                帰る場所がなければ旅にもならない」

 心にホームがあれば、安心していられる。帰る場所があれば、不安を持たずにどこまでだって行けそうな気がする。
 心にホームがなければ、ホームベースのない野球のように終わりはなく、線路から外れた列車のように目的地も戻るところも見失ってしまう。
 心のホームは人それぞれだ。好きな人だったり、家族だったり、仕事だったり、夢だったり。
 私はそんなものはいらないと強がってここまで生きてきた。それが最近少し弱気になったのか、心のホームを探すようになっている。辿り着くべき場所だけでなく、帰るところが欲しくなったらしい。
 今さらそんなこと言うのかと過去の自分に叱られるかもしれない。でも、今ほど人並みというものに憧れているときはない。
 心にホームを持たない人間は、旅人ではなく迷子だ。

 2006年8月2日(水) 「胸に残ったのは解説の言葉だけ。
              天才はやはりそう簡単には現れないらしい」

 辰吉丈一郎は天才だったけど亀田は凡才、という言い方が悪ければ、努力によって強くなったボクサーだ。ファイターではなく、ボクサーというのが意外ではあるのだけど、そこに強みと弱さが混在している。
 今日は勝ち負けよりも心に響かない試合だったのが残念だった。強く心に残ったのは、解説の「格好悪くたっていい。クリンチしてもいいんです。世界戦なんだからそんなにきれいに勝とうなんてしなくてもいい。ベルトを獲るってことはそんな簡単なことじゃないんです」という(ような)言葉だった。言ったのは、畑山だったか、鬼塚だったか。

 私は今まで見たボクサーの中で鬼塚が一番好きだった。天才ともてはやされ、あるいは作られたチャンピオンなどと言われよく批判されていた。ボクサーとしてはとても脆かった。見ていて危なっかしいほどに。リングの上ではいつも、相手ではなく自分の影と戦っているようにさえ見えた。
 K.O.負けした試合は今でも鮮やかに覚えている。最後、サンドバッグ状態になったときは胸がいっぱいになった。ボクシングの試合であんなに泣けたことはない。

 亀田は確かに強いかもしれない。世界チャンピオンにもなった。人並み外れた努力と、ボクシングに賭ける一途な思いは素晴らしい。ただ、残念ながら天才の燦めきや胸が熱くなるようなスピリットを私は感じない。
 もし亀田が本当の輝きを見せることがあるとすれば、それは偉大な世界チャンピオンに挑戦して負けるときかもしれない。勇気を持って戦い、見事に散ることができたなら、初めて私は思うだろう。ああ、亀田もいいボクサーだったな、と。

 2006年8月1日(火) 「入れ替わった1/3。
                まだ淀む2/3」

 月が変わって、気分も入れ替わったかというとそうでもなく、でも3分の1くらいは変わったようにも思う。新しい風が吹き込んで、流れが変わり始めれば、あとはもう心配することはない。気分はリズムであり、流れであり、浮き沈みだから、いったん好転し始めれば自然とそちらに向かうものだ。
 ここ数年、安定飛行できていたから、もうずっと大丈夫だと思っていたらそうではなかった。人間としても、生物としても、バイオリズムというのが厳然とあって、その支配から逃れることはできない。むしろずっと一定というのは不自然だとも言える。
 AB型としては、これくらいが普通だ。などと言うと血液型なんてって言われそうだけど、きっとAB型の人なら分かってくれると思う。自分ではコントロールできない気分があるということを。

 8月は何をしよう。7月は散策を意識的に休んだから、それを再開しつつ、お盆は例によって里帰り、それが終われば、さて何があるかといえば特に思いつかない。
 結局今年のトピックスも見つからないままここまで来てしまったから、そのへんのことを見つけていかないといけない。8月以降は時間の進み方が駆け足になるから。

 淀んだ気分の3分の2は明日以降どうなっていくのかまだ見えない。スカッと晴れたらいいけど、何をどうしたらいいのか、今はちょっと分からないままだ。自分がどうしたいのかさえも。
 幸せの形だけは見えてるのだけど。

 2006年7月31日(月) 「見失った犠牲にしたもの。
                太陽は雲の向こうに」

 今の自分の暮らしがどんな犠牲の上に成り立っているのか、ときどき分からなくなる。正当な悩みなのか贅沢な悩みなのかの判断もつかない。
 自分ではささやかな望みのつもりでも、実はもうそれを犠牲にしてしまっているのだろうか。
 やり直したいとか戻りたいとかそういうことではなく、先をずっと見渡して絶望的な気分になる。希望は失望に変わり、失望は慢性的な鈍痛となり、やがてそれにも慣れてしまう。自分の心を守るためにはあきらめるしかない。
 ひとつの望みに固執しすぎて、他にもたくさんある願望を自ら投げ捨ててしまう。自分の幸福の面を見失っている。
 たいしたことじゃない、自分に言い聞かせる。そんな気もしてくる。それでも、心の曇りはどうしようもない。
 太陽は本当にひとつだけなのか?

 2006年7月30日(日) 「不幸と幸福のまだら模様。
                みんな同じ」

 私たちの心は、幸せと不幸のまだら模様をしている。
 たとえば健康体ならその部分では幸せを感じるし、貧乏ならその部分では不幸感を味わうことになる。恋がうまくいってなければそれは不幸と感じるけど、事件に巻き込まれているわけじゃなければそれだけで幸せとも言える。
 人の夏休みやボーナスがうらやましいと思ったり、ひどい目にあった有名人のニュースを見て気の毒だと思ったり。
 一日の中でも浮き沈みがあり、日によっても違う。明日が幸せかどうかなんて分からない。予測もつかない。
 絶対的な不幸も幸福も存在しないのだから、あまり両極に心を振らないことが大切なのだろう。常に自分の幸不幸の判断をする必要はない。もちろん、不幸よりも幸福のいいし、幸福になるために努力することも大事なのだけど。
 ひとつだけ確かなのは、誰もが皆、自分は不幸だと思っているということだ。自分だけが不幸なわけじゃない。

 2006年7月29日(土) 「ひとりだと孤独じゃないのに
                ふたりだと寂しい。そんなこともある」

 自己完結できているときはいい。少々寂しかったり物足りなかったりしても、たいした問題じゃない。
 自分以外の要素が絡んでくると、とたんに心のコントロールを失う。言うことを聞かなくなったハンドルを握ってるみたいに。
 それが面白いこともあるけど、たいていはあまり楽しいものではない。
 長い時間をかけて孤独に強くなりすぎた。言葉を変えれば孤独に対する耐性を身につけたとも言える。たとえばそれは、ひとりでいると孤独じゃないのにふたりでいると孤独を感じるというようなことも起こってくる。
 頭と心がバラバラに進もうとして、自分自身は動けないでいる。進むことも、戻ることも、方向を変えることもできない。
 それは誰のせいでもなく、私自身のせいなのだけど。

 2006年7月28日(金) 「感傷の2006夏。
                言葉にできない思い」

 最近の私はといえば、小松未歩の曲をずっと聴きながら車を運転して、いつまでもどこまでも歌に浸りながら走っていたいようなそんな調子で、完全に感傷に絡め取られてしまっている。ここ数年、なかった状態だ。
 これだけ多くの言葉を書き連ねながら、言葉にできない思いのなんと多いことか。

 2006年7月27日(木) 「誰もがもう選んでいる。
                自分の欲する人生を」

 人生が冒険の連続ならどんなに楽だろう。
 平凡な人生ほど生きるのが難しい。
 逆説的に聞こえたとしても、それが現実だ。
 宿題も期限もない夏休みの中で、自分を律することができるのは、よほど目的意識と強い気持ちを持った人間だけだろう。
 人は他人に人生を決められるのを嫌がりながら、どこかそういう部分に依存してしまっているところがある。学校では時間割に縛られ、会社では与えられた仕事をこなしているうちに、自分で何かを決めるという能力がどんどん衰えていく。
 テーマも制限もなく、真っ白な巨大壁画に好きなものを描いていいと言われても途方に暮れてしまう。その感覚は、人生にもそのまま当てはまる。誰もが解放されたがっているけど、本当の自由の中で上手に歩くことができる人間はそれほど多くない。誰もが本当は自由なのに、自ら縛りの中に身を置く。
 守るものがなく、求めることだけがある人生ほど簡単なものはない。どれだけ命の危険にさらされようとも。
 じゃあ、冒険の人生を欲しているのかといえば、そんな単純な話でもない。
 たぶんみんな、それぞれ自分が求めるような人生を生きているのだと思う。本人がどう自覚しようとも。不満や文句を口にしても、全部自分のせいだ。誰のせいでもない。

 2006年7月26日(水) 「流れが変わる。
                 幸福は平和は終わったか」

 絶望も恋も言い訳には使えない。
 占い師に身をゆだねてしまう危うさ。
 悲劇酔いは酒に酔うよりタチが悪い。
 夏の感傷に取り込まれて、懐メロに浸る。
 やるべきことをやらずにやりたくなという自分の心の言うことを聞きすぎて向かうべき方向を見失っている。滅茶苦茶に走り出したい気持ちと、部屋の中でじっとしていたい気分と、どちらもできない自分がいる。
 そうして思いを巡らしている間に、今一番大切に思っているものさえ滲んで歪んで形をなくす。
 少し風向きが変わった。それはどうやら間違いない。幸福は同じ姿のまま一ヶ所に長くとどまることはなく、不幸はいつも違う顔をしてやってくる。
 いつだって過去の生き方は参考にならない。最初から最後まで、手探りで進むしかない。それを喜びに変えられれば。

 2006年7月25日(火) 「脳と心と両方あって、
                両方使ってこその人間」

 脳と心は互いに影響を与え合い連動しているものだけど、それぞれ別のものだ。違う思惑で思い、求め、満たされそうとする。ときに盾し合い、引き合って譲らない。
 私たちは脳のしもべで、心の奴隷だ。本体であるはずの魂は、肉体に組み込まれることで舵取りを失い、思うようにならなくなる。
 人の本質は心だと思う。脳がハードだとすれば、心はソフトだ。でも、どちらも必要で、片方では生きられない。心で感じるだけでは足りないし、頭で考えるだけではいけない。心の暴走を許してはまずいし、脳の判断がいつも正しいとは限らない。
 私たちは感じることができる生き物であり、考えることができる生き物でもある。両方できる生き物だ。どちらか片方だけの人間にならないようにしたい。

 2006年7月24日(月) 「幼年期の終わりは遠く、
           たったひとつの冴えたやり方まだは見つからない」

 私たちは本当の意味での土台を持たないまま、空中都市のような危うい思考世界を築いている。
 横軸で言えば宇宙空間、縦軸で言えば宇宙の歴史と未来、その両方についてあまりにも知らなすぎる。何も知らないと言ってもいい。
 個人として限りある人生をどう生きればいいのか考えるとき、まずは宇宙全体の意志や方向性があって、その上でどうするかを決めるのかが筋道というものだ。私たちは宇宙空間における一員なのだから。
 でも、誰も何も知らない。知る手がかりも方法もない。地球人は全員、勘で生きている。知識もなく、情報もないまま。
 たとえば、1,000億の星に1兆種類の人類が存在しているとして、1兆分の1人類の中の65億分のひとりとして自分は何をすべきなんだろう、という問いがある。もちろん、そんな問いに対する答えは見つけられない。
 そして宇宙は今この瞬間も無数の死と無数の生が猛スピードで交錯している。私たちの知らないところで、私たちを置き去りにしたまま。
 私は知らないことについて絶望してるわけではない。ただ、すごく残念には思っている。
 22世紀の終わりまでに地球人はどれくらい宇宙に目覚めることができるだろう。宇宙に直面したとき、初めて地球はひとつになれるかもしれない。今の地球はまだ幼すぎるのか。

 2006年7月23日(日) 「好きと言わないで保っている幸せなんて
                本当に大切な幸せなんかじゃない」

 求めすぎずに得られる幸福を、どれくらい大切にすればいいんだろう。
 求めすぎたら壊れてしまうと分かっているとき、私たちは今いる場所にとどまるべきなんだろうか、それとも砕けることを承知で突き進んでいくべきなのか。
 たとえば愛の告白。たとえばより多くのお金を得るための危ない橋。たとえば危険を伴う更なる興奮の追求。
 好きと言わなければ仲のいい友達でいられたのに、なんてことを何度か経験すると臆病になる。今のささやかな暮らしは退屈だけど満足できる。でも、もっと向上心を持つべきなんじゃないかという迷い。
 欲望は前進の原動力になる。それは間違いない。私たちは、もっともっとと求めずにはいられない。でも現状に満足することも大事だ。

 本当は最初から答えは分かっている。小さな幸せにつかまっていてはいけないんだということを。より大きな幸福の可能性があるのなら立ち向かっていくべきなのだということも。
 人の心は、砕けてバラバラになっても、時間が経てばどうにかくっつく。つぎはぎだらけの心でも生きていける。幸せをなくしてしまうことを恐れず、不幸になることを恐れない勇気が必要なんだろう。
 まずは、守っている小さな幸せを捨てることから始めたい。それはとても難しいことだけど。

 2006年7月22日(土) 「1パーセントの自負でどこまでいける。
                せめてこの1パーセントが誰かのために」

 私の中には1パーセントの自負がある。限りなくゼロに近いけどゼロじゃない。
 どこまでいっても100パーセントの自負というものは持ち得ず、最高の自負は99パーセントでしかない。自分を疑うことができなくなったら終わりだから。それは死による完結かもしれないけれど。
 この1パーセントの自負が、実はやっかいの種だったりもする。こんなものが最初からなければまっとうに生きられるのに、なまじっかあるものだからかえって動けないなんてことも起こってくる。
 私はこの1パーセントと心中できるだろうか。本当にそれは信ずるに値するものなのだろうか。
 最後まで行ってみなければ分からないことだけど、これなしには生きられないようにも思う。
 たとえば、1パーセントが50パーセントまで上がったとしたらどうだろう。私はもっと確信を持って幸福に生きられるのだろうか。それとも、今度は残り半分を埋められないことに苦しむことになるのか。
 願わくば、自負が誰かの役に立つ形で使われんことを。そのときこそ、本当の安らぎが得られると思うから。

 2006年7月21日(金) 「幸不幸合わせて100。
           不幸を切り捨てることは人生の一部を捨てること」

 この世界は、幸福と不幸とで成り立っている。片方だけではどうやっても成立しない。それを一番直接的に教えてくれるのが恋愛だ。
 誰かを好きになって、切なくならないことは無理だし、愛することは相手を憎むことでもあり、幸福感の始まりは不幸の始まりでもある。得た瞬間から失うことを恐れなくてはならなくなるから。
 恋はときめきだけを心に運んできてはくれない。みんな知ってるはずなのに、なんで不幸を嫌ったり恐れたりするんだろう。幸福を引き受けるのなら不幸も一緒に引き受ける覚悟が必要だ。幸福だけ先にむさぼってしまえば、後から不幸のツケが回ってくる。
 逆の考え方をすれば、不幸には必ず幸福が付いてくるとも言える。結局のところ、人生を幸せに生きられるかどうかは、不幸に付随する幸福にどれだけ気づけるかにかかっている。恋愛なら、苦しみにさえ喜びを見いだしたい。
 人生は幸福と不幸と合わせて100パーセント。どちらかが多くなったり少なくなったり流動的だけど、いつも50:50というわけではない。
 駄目な自分も自分の一部であるように、不幸も人生の一部としてちゃんと認めてあげたい。

 2006年7月20日(木) 「運命なしでも人は生きていける。
                大事なのは自分の意志」

 運命や宿命はもう当てにはしてないけど、まったく捨て去ってしまったというわけでもない。今でも心の中にそれを信じたい気持ちは残ってる。
 ただ、何の努力もせずにそんなものを待っているだけなのはもうやめた。運命や宿命なんてなくても人は生きていけることを知った。
 大団円とか、必然への収斂だとか、そういうものの考えたも、もうしない。未来は何も決まってないのだという前提で今日どうするかを決めていきたい。自分は何をどうしたいのかが大切だ。
 人知を越えた存在や力を侮っているわけではないし、傲慢になってるつもりもない。むしろ、昔よりずっと謙虚になった。素直に天にも地にも感謝している。
 自分が何者かである必要はないのだ。天が決めた運命の相手を待つこともない。自分以外のところでどんな思惑があったとしても、それはそれ、自分は自分だ。もし相容れない部分が出てきたら、そのときどうするか考えればいい。
 一番大事なのは、自分の意志だ。そのことだけは、ゆめゆめ忘れないようにしたい。

 2006年7月19日(水) 「世界も人も正しくてこれでいい。
                最後までそう言い続ける」

 きれいな世界を望みつつ、きれいなだけでは物足りない。
 世界も人も。
 光と影。裏と表。善意と悪意。優しさと厳しさ。天使と悪魔。
 二元論ですべてが説明できるわけではないけど、相反するふたつの要素でバランスを保っているのがこの世界の本質だ。
 生と死から逃れられない以上。
 この世界を知れば知るほど、考えれば考えるほど、今のこの世界以上の世界を想像できない。完璧ではないのに完全とさえ言える。地獄よりも地獄的で、天国よりも天国的な。
 変化がなければ世界は死ぬ。だから、変わることは必要だ。改善する余地もたくさんある。ただ、何がどうなろうと、私たちは世界を肯定するしかないのだと思う。
 足りないところもある。悪いところもたくさんある。それでも世界は美しく、人は正しい。ぎりぎりのところで踏みとどまって、歯を食いしばって、この世界と人間を正しいと言い続けるのだ。

 2006年7月18日(火) 「夏には夏の感傷が。
                鮮やかな記憶が滲む」

 冬には冬の感傷があり、春には春の、秋には秋の、夏には夏の感傷がある。
 それぞれ別のものだ。はっきりと違う。
 夏になると小松未歩の「君がいない夏」に捕まる。
 
 忘れかけてた甘い夏の日を
 あれからどれくらいの時がたつの?

 私たちはいくつもの夏を通り過ぎて、たくさんのものを失ってきた。いくつかの別れもあった。
 あれからどれくらいの時がたつんだろう?

 鮮やかすぎる 君がいない夏
 あの声 あの仕草が 広がってく
 言葉になんかできなくてもいい こぼれた日差しに心がにじんだ
 ああ もう戻れない時を小さく祈っている


 本当に戻れないことを知るのは、ずっとあとになってからだ。
 戻れないと知ったとき、夏の記憶は鮮やかによみがえる。

 今年もまた夏がやって来る。君がいない夏が。

 2006年7月17日(月) 「簡単に手に入るものを
                人は大切にできないから」

 なんでもできて、なんでも買えたら嬉しいだろうけど、楽しくないだろうなと思う。
 負け惜しみみたいだけどそうじゃない。苦労しないで手に入れたものって大事じゃないから。
 努力してできるようになる喜びとか、少ない予算の中で工夫して安く買えた嬉しさとか、そういうものって自分が思ってるより大切なものだ。練習もせずに最初からできたことや、望んでもないのに人からもらったものよりも。
 子供の頃はなんでも人並み以上にできて、欲しいものはたいてい買えた。今はそうじゃない。だからあの頃より不幸かといえば全然そんなことはない。
 生きていく上で、そんなに多くのものは必要ないのだろう。今あるもので幸せになるための創意工夫をしていく方が大事だ。そういう意味では、私はまだまだ多くのものを持ちすぎているかもしれない。そして、得意なことだけをやろうとしすぎる。

 2006年7月16日(日) 「夏を前にして平和。
                次のイメージはこれから」

 何もない一日なんてないけど、今日は何もない平和な一日だった。
 それは、悪いことがなかった一日でもある。
 こういう日こそ、感謝して眠りにつこう。何もいいことがなかったことに不満をもらすではなく。

 7月も気づけば半分終わった。今月はここまで意識的に停滞してるけど、後半は少し動いていい。ぼちぼち梅雨も明けるし、学生は夏休みに入る。明日は海の日だ。
 動くために大切なのはイメージ作り。イメージがないと動きにつながらない。いったん動き出せば慣性の法則が働いて、しばらく動き続けられる。加速するのも難しくない。
 楽な場所にとどまり続けないようにと自分に言い聞かせる。

 2006年7月15日(土) 「成長は積み重ね。
                内側には全部の自分が隠れてる」

 人の脳は、中心に動物に近い古い脳があり、その上をやや新しい脳が覆い、更に上から新しい脳が覆うという構造をしている。単純に言ってしまえば。
 言うなればこれは、建て増した家のようなものだ。古い母屋に二階を足して、横にも部屋を追加して、更に離れまでくっつけてしまったような作りになっている。
 これは、人の精神にも同じようなことが言えるんじゃないだろうか。幼少期の心に小学校、中学校、高校、20代、30代、といったように重なっていっている。大人になって子供の精神と入れ替わるわけではなく、変化するわけでもない。古い精神に新しい精神が上塗りされているだけだ。
 だからときどき、ふとしたきっかけで古い心が表面に出てくることがある。恋愛のときとか、追い込まれたときとかに。無力な少年になってしまったり、昔の血が騒いで攻撃的になったり。
 誰の中にも少年がいて少女がいる。精神の外皮をむいていけば、内側には傷つきやすい10代の心が今もそのまま変わらずにある。
 成長は変化ではなく上塗りだ。そこに歳月を重ねる価値がある。何も失うことはない。長生きすることも無駄じゃない。
 今さら中学生のような恋愛をしたからといって、全然変なことなんかじゃない。自分の中には今でも全部の自分がいるのだから。

 2006年7月14日(金) 「一年に一度の特別な日、7月14日。
                でもこの日の意味が分からない」

 今年もまた、7月14日が巡り来て、去った。
 たぶん、去年も断想日記に書いたと思うけど、7月14日という日にちに何か大事な意味があるはずなのに、それをどうしても思い出せない。今年もまた思い出せなかった。
 歴史上の大きな事件が起こったわけでもなく、特別な人の誕生日や命日でもない。ネットで検索しても、何も心に引っかかってくるものはない。
 毎年もどかしい思いをしつつ、どうしてもその理由が分からない。遠い日の大切な約束なのか、過去の生における何か特別な日だったのか。
 この感覚は年に一度、この日しかない。他の日付に同じようなことを感じることはない。たぶん、とても個人的なことなんだろうけど、一体これは何なんだろう。いつか思い出せる日が来るだろうか。
 今日もまた、何事もなく過ぎた。7月14日。あるいは、未来に起こる何かがこの日なんだろうか。

 2006年7月13日(木) 「戦国無双2をやりながら戦場の狂気を思う。
                もうやめたいけどやめられない」

 今「戦国無双2」というゲームをやっているのだけど、これは自分の狂気を呼び起こす。信長、真田幸村、明智光秀、前田慶次などの戦国武将となって戦場を駆け回り、敵を斬ってきって斬りまくるアクションゲームだ。
 これの何が危険かというと、斬りまくっているうちにだんだん感覚が麻痺していくところだ。やらなければやられるという自己防衛本能が拡大して、相手をやっつけることを何とも思わなくなってしまう。これがいわゆる戦場の狂気というやつで、日頃は花も踏まないような人間が、戦場では人が変わったように殺人狂となり得るということが、このゲームをしてると分かる。
 敵方の武将と戦って殺し合うのはいいとしても、逃げまどう一般兵士を馬に乗って追いかけて後ろから斬りつけてはいけないと思う。たとえゲームの中であっても。でも、その罪悪感も麻痺する怖さがある。兵士にも家族があり、人生があるということまで考えられなくなる。
 私たちは戦国時代にロマンのようなものを感じたりするのだけど、現実の戦場は地獄絵図だったろう。このゲームはそういうことを思い起こさせてくれるものでもある。
 これを快感と感じてしまうとしてたら、それは危うい傾向だ。若い頃なら尚更。私もこれ以上感覚が麻痺する前にこれはもうやめようと思っている。ただ、全員クリアして宮本武蔵がやりたいという気持ちが捨てがたい。明日もやってしまうかな、たぶん。なるべく一般兵士はやっつけないようにしよう。

 2006年7月12日(水) 「知りたいことに終わりはない。
                知りたくないことがひとつある」

 この世界について知れば知るほど知らないことが増えていく。学ぶことに終わりはない。
 それは、読みたい本や観たい映画がたくさんある喜びと、すべてを観たり読んだりすることはできないのだという絶望が入り交じる感覚に似ている。
 無限に知るために永遠の命が欲しいとも思う。そんなことは無意味だと知っているけど。
 知ることの欲望は、知る先にあるのか後にあるのか。知りたいから知ろうとするのか、知らないことが悔しいから知りたいと思うのか。
 知識が増えれば悲しみも増えると聖書は言う。知らぬが仏という言葉もある。世の中には知らない方がいいことだってたくさんあるだろう。それでもなお知りたいと欲する心を止めることはできない。
 一番知りたいことをひとつ決めるのは難しいけど、どんなことでも答えてくれるカードが10枚あったら、私は何を訊ねるだろう。
 宇宙のこと、人類の歴史のこと、歴史上の事件の真相、脳のこと、地球の未来について。たくさんあって選ぶのは難しい。自分のことに関してはあまり興味がない。この先どうなるかは、行ってみれば分かることだから。
 一番知りたくて、でも訊いてはいけないことがある。それは、最後はどうなるのかという問いだ。これだけは知りたくない。たとえ自分がその場にいられなくても、この世界の結末だけは知らないままでいたい。

 2006年7月11日(火) 「面白い夢は出来のいい映画以上。
                楽しい経験に近い」

 夢が面白くてつい寝過ごした、というのが遅刻の理由としては通用しないことは分かるけど、でも確かにそういうこともある。
 ときどき、楽しい夢が続くことがあって、ここ数日もそうだった。自分自身は主観的にも客観的にも登場して、友達やそうじゃない登場人物たちとの思いがけないドラマや会話が面白い。設定や展開はかなり無茶だったりするのだけど、起きているときには想像できないことなので、映画やドラマを観ているみたいに楽しめる。
 続きや結末を見たくて、つい二度寝、三度寝してしまい、寝過ごす。
 それでも、起きたときの気分は悪くない。面白い夢を見ると、なんだか妙に得した気分になるからだ。

 2006年7月10日(月) 「一瞬の夢。
                これでも上出来の部類か」

 タイムマシンが何故今ここに存在しないのかというパラドックスをよく考える。
 概念として存在する以上、タイムマシンはこの時間の延長線上の未来で必ず実現しているに違いない。もし、実用化すれば、歴史のどの部分にもタイムマシンか、もしくは未来人、過去人が存在することになる。もちろん、今ここにいてもおかしくないし、逆にいないのは不自然だ。
 もしかしたら私が知らないだけなのかもしれないけど、少なくとも一般的にタイムマシンはないことになっている。
 ひとつの可能性として、タイムマシンが完成する前に人類が滅亡するというものがある。それならば今ここにないことの説明はつく。

 私たちがかつて思い描いた未来世界はついにやって来ないのだろうか。車が空を飛び、誰もが気軽に宇宙旅行を楽しみ、ロボットがなんでもやってくれるような。
 人類がせっかくここまで進歩してきたのに、無に帰してしまうのは惜しい。と同時に、この程度で行き止まりというのもなさけなく思う。人類の限界はこんなところでしかないのか?

 銀河系の片田舎の太陽系の中にあるひとつの小さな星、地球。2,000億×1,000億分の1の一瞬のドラマは、まどろみの中で見る短い夢よりも儚い。

 2006年7月9日(日) 「平凡さの中に潜むマイナスのドラマ。
               それは誰のみにも起こり得る」

 今まで観た中で一番つまらなかったワールドカップ・ドイツ大会。
 後々まで記憶に残るのは、最後に見せたジダンのヘディングならぬ頭突きだけだろう。
 誰の人生にも、思いがけないときに思いがけないことが起こる。しかも、その気はないのに自ら起こしてしまうことがある。たぶんそれは、悲劇ではなく、名前のない何かだ。誰もその原因や理由を説明することはできない。本人さえも。
 最初から最後まで退屈だった大会で、最後の最後にマイナスのドラマが待っていた。やはり、この大会はジダンのためのものだったのだろう。

 2006年7月8日(土) 「感情に振り回され、
               感情と共に喜びがある人類の過渡期」

 失恋とは、文字通り恋を失うことだ。相手を失うことよりも、自分の中にあった好きという感情をなくしてしまうから悲しいのだろう。
 私たちが恐れているのは、自分の感情を失うことだ。もし感情を失わないのなら、世界も人生もいらないとさえ言える。
 女は感情的で男はそうじゃないというのは違う気がする。男は自分の感情に固執し、振り回されやすいから、無理矢理論理で抑えつけているだけなんじゃないか。そして、論理で抑えが効かなくなると感情の暴走を止めることができない。
 男の方が過去の恋愛に未練を残すというのも、感情的な部分だろう。

 私たちの頭の中には、たくさんの感情が未整理のまま雑然と放り込まれている。ある部分にはびっしりと、あるところはスカスカに。
 ホモ・サピエンスの大きな欠点のひとつとして、この感情整理能力の欠如という点が挙げられる。あるいは、そこに限界があると言ってもいい。
 動物だって感情はある。けど、彼らの感情は一時的なもので、長期にわたってそれに左右されることはない。人間は、記憶力がいい分、感情を長く保つことができる。ただ、完全にコントロールができないところに問題がある。人間界で起こるもめ事の多くは、人の感情が引き起こすものだ。それも突発的な感情によって。生命体としてはまだまだ未熟な存在で、この程度が果てだとはとうてい思えない。

 とはいえ、私たちの中にある感情が生きることを面白くもさせているという現実もある。不完全だから恋愛に夢中になったりすることができるのだし、ままならないから楽しくもある。
 まだ無邪気な人類である私たちは、今はまだこの過渡期を楽しんでいればいいのだろう。やがてこの世から今のような恋愛は消えてなくなる。感情をコントロールできてしまえば恋にのめり込むなんてことはしたくてもできなくなるのだから。
 ペットをなくして悲しんだり、恋人とケンカして仲直りしたり、自分を憐れんで感傷に浸ったり、映画や小説で泣いたり怒ったり、そんなことができるのも今のうちだけだ。
 もしかしたら、私たちは感情とたわむれることができた人類最後の世代となるのかもしれない。

 2006年7月7日(金) 「中庸という高度な在り方。
               その正しさを知るのに少し時間がかかった」

 中庸の考え方は、どっちつかずで無難な生き方をするということではなく、すべてを見渡した上で一番いい場所に身を置くということだ。それは、両極を知らなければできないことでもある。
 若い頃はこのことがよく分かってなかった。それどころか馬鹿にさえしていた。若さゆえの愚かさを今さらながら思う。
 私たちは未来だけを見て生きていくことはできないし、過去ばかり振り返っても生きてはいけない。現在だけしか見ないというのも正しい在り方じゃないだろう。前を見て後ろを見て、左右を確認して前へ進んでいくことが大切だ。
 過去があって今があり、未来があるから今をどう生きるか迷う。思い出が生きる支えとなり、希望が生きる原動力となる。
 私たちには何かが欠けていいということはない。何もかもすべてが必要だ。多くを知って真ん中を行くこと、それが中庸という高度な生き方なのだ。

 2006年7月6日(木) 「疑問を持つことが知るための第一歩。
               与えられる情報は知識にならない」

 物事を知るということは、まず興味を持つこと、そして疑問を持つことだ。
 たとえばそれは、インタビューを思い浮かべると分かりやすい。相手の何を聞きたいのか、何を引き出したいのかが分かっていなければいいインタビューにはならない。インタビュアーとしての才能はそのあたりにあって、いくら世間話を続けても本質的な答えを得ることはできない。
 世界に対しても同じだ。興味と疑問を抱いたところから知ることが始まる。
 知りたいことと知らないことを自覚できなければ疑問は生まれず、疑問が生まれなければ知ることはできない。
 与えられる情報を受け取っているだけでは本当の知識にはならない。自分から向かっていかなければ。
 疑問を持つことの大切さをあらためて自覚したい。

 2006年7月5日(水) 「ひとつのいいもののために、
               100の駄目なものを毎日」

 許せないと反射的に思うことはよくあることだ。でも、本当に許せないことはそれほど多くない。
 だから、簡単に許せないなんて言葉を口にするのはよくないことだ。一度口から出た言葉は命を持ってこの世界に生まれるものだから。それは、この世界を汚すことになる。小さな憎しみも、集まれば大きな力となってしまう。
 いつか許せることは、なるべく早く許した方がいい。
 許さないということは、自分の存在を賭ける重大な決意だ。
 許し難いことを許すことができれば、自分自身のためになる。

 2006年7月4日(火) 「ひとつのいいもののために、
               100の駄目なものを毎日」

 何かひとつのことを続けていくことで、慢性や平凡の中からフッといいものが生まれてくることがある。それは続けていく中でしか生まれることがない貴重なものだ。
 調子のいいときだけやるというのではなく、とにかくできてもできなくても毎日続けていくことが大切となる。
 ひとついいものを生み出すためには、100の駄目なものを作る必要があるのかもしれない。能力を無駄遣いせずいいものだけを厳選して生み出すなんてことは、とても難しいことだ。たとえ天才であっても。天才じゃなければ尚更だ。
 スポーツなどの練習にも同じことが言える。毎日同じことを繰り返していく中で、ある瞬間、突然成長したり会得したりする。イチローだっていまだに毎日鬼のように練習してるのだ。何かを掴んだり見失ったりしながら。
 そんな思いで、写真を撮ったり、ブログを書いたりしている。100枚に1枚、100日の中で1日、いいものを生み出せているだろうか。

 2006年7月3日(月) 「未来のイメージ。
                イメージは自分自身」

 辿り着ける未来と、その先の未来と、私たちはたぶん、そのどちらをも目指さなくてはいけないのだと思う。
 イメージのないものは実現しない。イメージがあるものは実現可能だ。
 この世界は、私たちの脳の中が具現化したものだ。脳がイメージできないものは存在できない。あるいは、その逆かもしれないけど。
 あの世なんてないと思う人には本当にないんだろうし、来世があると信じる人にはあるのだろう。それは上の方の誰かが決めるものではなくて、自らのイメージが形になるかならないかだけだ。人は自分が意識してる以上に多くのことを自ら決定している。
 人間の魂とは何かといえば、記憶と意識と想像力だ。それらが自分そのものであり、それが途切れなければ自分は存在し続ける。肉体を失おうと、どんな形になろうと。
 自分を見失わなければ、宇宙のどこへ行っても生きていけるだろう。そのためには、未来のイメージを常に持ち続けることが必要だ。

 2006年7月2日(日) 「やりたいことが見えているか。
               そのための努力をしているか」

 やりたいことがないとか、行きたいところがないとしたら、それはとても不幸なことだ。実際にやれるやれないは別にして。
 逆に言えば、やりたいことや行きたいところがたくさんある人ほど幸せな人と言える。そういう人生には楽しみと喜びがあるから。

 生きるということは、可能性を意味する。生きていれば多くのことができる。死んでしまえばできなくなる。
 人は自分の可能性を過小評価しがちだ。思っている以上にいろんなことができるに違いないのに。
 たとえば明日、会社を休んで朝一番の飛行機に乗って北海道へ行ってしまうなんてこともできる。どうしても明日は休めないとか、お金がないとか、そういうことがあったとしても、可能性としてはある。思いがなければ可能性も生まれない。
 問題は、自分が何をしたいかということを自覚できているかどうかだ。そして、それを実現するために努力をしてるかどうか、もう一度自分に確認した方がいい。

 やりたいことも、日々の暮らしの中で、案外簡単に見失ってしまうものだ。いつも頭の引き出しの一番取り出しやすいところに入れておいて、常に確認してないと。押し入れになんてしまったらすぐに忘れてしまう。
 目標さえはっきりすれば努力の方向性も見える。実現に向けて心も向かっていく。イメージができれば、あとは体が動いてくれるはずだ。
 もう一度、自問自答してみよう。本当にやりたいことは何なの? と。

 2006年7月1日(土) 「まだ半分残ってる。
               楽しみを見つけたい」

 一日の中で楽しいことはある。なのに楽しみがない。矛盾してるようでしていないこの嫌な感じ。
 一日の終わりと始まりで楽しみに向かえないというのは、やっぱり詰まらないものだ。結果的に楽しいことがあったとしても。
 贅沢な不満と分かっているけど、物足りなさは常につきまとう。
 楽しみとは何か、何を楽しみとすれば毎日の暮らしが充実するのか、そのあたりのことを最近どうも見失ってしまっている。
 楽しみに待っていられることを作っていくのもひとつの方向性だろう。と同時に、散策と写真以外の新しい趣味も見つけていきたい。それも今年のテーマだった。
 まだようやく半分。残り半分、短すぎる時間じゃない。

 2006年6月30日(金) 「折り返して後半開始。
                 低調なスタート」

 日付が変わってもう7月1日。一年の後半が始まった。
 さあ、明日からまた張り切っていこうとなるところが、今はちょっと低空飛行の時期に入ってしまっている。生命エネルギーは一定じゃなく波があるものだから、こればかりはいかんともしがたい。波に逆らわず、上昇を待つしかない。
 時期的には今何もないときだからちょうどよかったとも言える。7月の後半に向けてゆっくり上げていけばいい。
 低調のときでもできることはある。低空飛行のときにしかできないことも。その小さな前進が、次の大きな前進につながるものだから、こういう時期も大事にしていきたい。

 2006年6月29日(木) 「愛おしい感覚は戻らないけど、
                 新しい自分との出会いがある」

 通過してしまった愛おしい感情や感覚をなんとか引き戻そうとするのだけど、やはりもう色あせてしまっていて再現しても味気ない。昔楽しかったゲームを何年かぶりでやったときみたいに。
 懐かしい感覚も、好きだった感情も、もうあの頃のように味わって喜ぶことはできない。あのときの自分はもう、ここにはいないから。どうしようもない。
 それなら先へ行って新しい喜びを見つければいいではないかと思う。思うけど、そういうことでもないのだ。取り戻したいのは新鮮な感覚だから。
 結局、歳を取るというのはそういうことなのだろう。昔の感覚を取り戻せないことが悲しい。肉体の衰えや外見の老いなどは大した問題じゃない。
 ただ、一方で、新しい自分との出会いがある。これは月日を重ねないと決して味わうことの出来ない喜びだ。まだまだ自分は自分のすべてを見ているわけではない。まだ知らない自分がいて、毎日新しいことが起こって、そこには楽しみと喜びがある。若いときは感じられなかったことだ。
 歳を取ることは、悲しいことでもあり、楽しいことでもある。負け惜しみなんかじゃなく、今は本当にそう思う。まだ見ぬ駄目な自分も、きっとたくさんいるのだろうけど、それもまたいい。

 2006年6月28日(水) 「自分になった。
                そしてこの世界が好きになった」

 何者かにならなければいけないと思っていた。
 でも、気づいたら自分になっていた。歳月をかけて、少しずつ積み重ねて、何者でもない自分に。
 虚勢からも自虐からも開放されて、今ありのままの自分がいる。それを認めていいと思えるようになった。
 もはや祈りの言葉はなく、あるのは感謝の思い。そして何よりも喜びがある。
 この世界を愛せるようになったら、もう自分を愛す必要もない。

 2006年6月27日(火) 「思いがけない一日は、
               もしかしたら誰かのプレゼントかもしれない」

 明日になれば流れは変わるだろうと昨日思った明日が今日。思いがけず不思議なトリップ感の一日となった。思い描いていたのとは全然違った。
 予定が狂うというのは悪いことでもあるけど、考え方を変えれば別の一日を手に入れたということでもある。まったくやる予定のなかったことが出来たことを喜びたい。失ったものと同じだけ得たものもある。
 今日は流れの中で特別な一日。明日はまた元の流れに戻す。特殊な日が続くと流れがブツブツに途切れて戻れなくなってしまうから。

 自分の一日は自分だけのものじゃない。そこには有形無形、様々な思惑が交錯している。自分の意志を見失わないことは大切なことだけど、流れに逆らわないで上手く乗ることも大事だ。思った方向に進まないのは、見えざる善意の力かもしれない。
 いずれにしても、ものごとはすべて自分にとって都合がいいように解釈していこうと思っている。それが幸せになる方法だから。

 2006年6月26日(月) 「今日という行き止まり。
                早めに明日へバトンを渡す」

 考え事をしていて、いい解決策が見つからず、行き詰まる。そんなときは、早く今日を終わらせて明日を始めた方がいい。眠りを前倒しして、リセット効果に期待する。
 今日はそんな一日だった。こういう日はもう、早く眠ってしまうより他に仕方がない。明日になれば、違う自分が違う考え方をしてくれるだろう。何か思いついてくれるかもしれない。
 人生のリレーは、毎日同じ距離を走ってバトンをつながなくてはいけないわけじゃない。

 2006年6月25日(日) 「日記を書けば自分が分かる。
      自分の当たり前が他人にとっても当たり前とは限らない」

 誰にも見せるつもりがない個人の日記を書いてみれば、自分の興味のあることが何なのかがよく分かる。同時に、興味のないことも。
 書いているのは、その日の出来事なのか、行動なのか、思いなのか。恋愛のこと、食べたもののこと、誰か他人のこと、自分のこと。天気、時間、読んだ本のこと。そこには大きな個人差があり、自分では当たり前のことを書いているようで、書かれている内容は人によってはっきり違う。
 ネットで書く日記では自分のことはよく分からない。よそ行きの顔しか見せないし、他人を意識して書くことで本当の自分を無意識に装飾してしまうから。
 個人日記はその日一日の確認にもなるし、自分自身を知る手がかりにもなる。ただ書き捨てるだけでいい。取っておいたり、読み返したりする必要はない。
 本当の自分なんて知らなくてもいいっていうなら日記は書かない方がいいかもしれないけれど。

 2006年6月24日(土) 「疲れることや嫌なことは、
                 やった方がいいこと」

 正しいことは疲れる。ということは、疲れることは正しいという言い方もできる。正しい姿勢をずっと保つと疲れるように。最近、なるべく背筋を伸ばして座ることを心がけている。
 疲れることが正しいことなのだと思い込むことに成功したら、あとがすごく楽になる。疲れたなと思うと、それは正しいことをしたからだなと思えるから、マイナスの感情をプラスに変えることができる。長い時間歩いたり、重い荷物を持ったり、エレベーターを使わず階段を歩いたりすると、いいことをした気分になる。

 同じように、嫌なことはやるべきことだという論理も成り立つ。やりたくないけどそれでは済まないから嫌だなと思うわけで、それはつまりやるべきことだと教えてくれているということだ。
 優等生ではない自分を誤魔化すためには、少々強引な論理が必要だ。怠け心の言うことを聞いていたらろくなことにならない。
 自分のためになることは、なるべくやるようにしていきたい。いつかそれが役に立つ日が来るかもしれないと信じて。
 夏休みの宿題を先送りにしてばかりいた少年時代から、そろそろもう少し賢くなってもいい。

 2006年6月23日(金) 「今はまだ続けるだけ。
                 目標はいまだ見えず」

 目指すのは世界平和ではなく、その先にあるものだ。平和は状態や状況であって、それ自体が目的ではない。
 人類はどこへ向かうのかという普遍的な問いに対して、私たち自身がまだ答えを持てずにいる。世界の目的がどこであろうと、人類としての目的は自分たちで決められるというのに。
 私たちに足りないのは何か。知識か、情報か、知能か、時間か、それとももっと根本的な何かなのだろうか。

 人類は知ることを求めるあまり、自分たちがどう在りたいのかということを見失っている。それを決めるのは誰であってもかまわない。大宗教家でなくてもいいし、アメリカの大統領でもいい。酔っぱらったサラリーマンでももちろんかまわないし、子供でも駄目という理由はない。
 天から地上の人間たちを見たら、こいつらは一体何がしたいんだろうと思うだろう。良く言えば多様な価値観、悪く言えば一貫性がなさすぎる。人類共通の目的を持つことは、ついに不可能なのだろうか?

 もし、人類に何もかもが思い通りになる力が与えられたとしても、私たちは何をどうしたらいいか分からない。途方に暮れているうちに時間切れになって消えてしまうというのでは寂しすぎる。
 それでも、今はまだ、続けることそのものを目標とするしかない。いつの日か、本当の目標が見つかるその日まで。

 2006年6月22日(木) 「世界一の実力は、世界一の基本。
                 次の4年へ向けてのこれが第一歩」

 世界一高い実力を持つためには、世界一基本ができていなくてはいけないということを、ブラジル代表が教えてくれた。
 何もかもが違うけど、その中でも一番違ったのは基本の部分だった。日本はそれをどこかに置き忘れてきたらしい。
 それでも、今日の試合は3試合の中で一番いい試合だった。負けたのは誰のせいでもなく、実力の違いだけで、日本は最善を尽くせたと思う。前の2試合は、上手く戦えば勝てる試合だったけど、これはそういう試合ではなかった。
 と同時に、日本はこれから何をしていけばいいのか見失わせる試合でもあった。何が足りないって、何もかも足りないことを思い知らされて。
 この4年、8年、12年、コツコツと積み上げてきた自信は、今日で粉々に砕かれた。そして、今日があらたな一歩目の始まり。
 次の4年で何が見つかるだろう。

 2006年6月21日(水) 「意味は生きながら探し続けるもの。
              外側にいる誰かに与えてもらうものじゃない」

 すべてが無意味だと言うのも、すべてに意味があると言うのも、どちらも簡単なことだ。そう言っておけば、とりあえず正しかったり賢く思えたりするし、それ以上考えなくても済む。
 でも、それはとても無責任な言い草だ。この世界も人生も、そんなに単純なものではない。簡単に結論づけられるようなら、こんなに大勢の人がこんなにも長い歳月をかけて答えを求めたりしない。私たちは最後まで、誠実に意味と向き合い、意味を求めていく必要がある。最終的な結論がどちらであっても、どちらでもなくても、答えを他人任せにしてはいけない。
 この世界の意味、それは存在の内側にだけあるものだ。と同時に、外側の存在にとっては外側からの意味しかない。絶対的な意味というものは、そもそも存在し得ないのではないだろうか。
 私たちは、自分の人生の中で意味を見つければいい。客観的なものではなく、あくまでも主観的なものとして。意味は人から与えられるものではない。自分で作り出すものだ。

 2006年6月20日(火) 「たまには誉められないと頑張れない。
                だから自分が誉めるに値する人に」

 誰かに認めてもらうことを目標に生きていなくても、ときどきは他人に認めてもらわないと気持ちがいじけてしまう。それが人情というものだ。あまりにも誉めてもらえないと、どう頑張っていいのか分からなくなる。
 私も特別誉められたがり屋というわけではないけど、ときにはそんなことを思ったりもする。と同時に、自分がいいと思うことはなるべく誉めたいとも思う。ただし、自分が誉めたことで誰かに喜んでもらうためには、自分自身がもっと成長しなくてはいけないし、ある種の称号や地位みたいなものも必要となるだろう。
 レベルの高いところでの誉め合い---たとえば天才同士が互いを認め合うといったものほど世界に平和をもたらすものはない。低いところで互いに慰め合うのではなく。
 そういう社会や世界が実現するまでにはまだまだ長い歳月が必要なのだろうけど、まずは自分が人を誉めるに値する人間になるというのが当面の目標となる。

 2006年6月19日(月) 「過去と未来をつなげるために、
                思い出を大切にして夢を描く必要がある」

 多くの思い出と、たくさんの夢があれば、いつもおなか一杯。
 そんなおとぎ話のようなことはないと人は言うかもしれない。
 お金がなければ、夢や思い出を売ればいい。それもひとつの生き方だ。
 日本は古い価値観が崩壊したと言われて久しい。確かにそういう部分もあるだろう。でも、それは流れの中のひとつの必然だ。いいも悪いもない。
 今私たちが立っている場所は、かつての人々が思い描いた場所なのだ。これが私たちの夢でなかったとしても、かつての人たちのために私たちはこの場に辿り着く必要があった。思ったほどいいもんじゃなかったということを示すためにも。
 今を生きる私たちは、過去と未来をつなぐ架け橋だ。だから、思い出を忘れないようにしなくてはいけないし、未来に向かって夢を投げなくてはいけない。
 夢を描けない人間は、未来にもつながることができず、過去の人たちの思いを裏切ることにもなる。

 2006年6月18日(日) 「4年間、選手たちは足踏みをしながら
                ジーコ監督の成長を待っていた」

 4年間の長いながい足踏み。それが今日はっきりと形として表れた。
 素人監督ジーコが監督として成長するためには4年間という期間は短すぎたのかもしれない。
 今日の試合は前回に比べたらずっとよかったけど、客観的に見て、日本はベスト16にふさわしいチームだとはとても思えなかった。チームとしての完成度が低すぎる。勝ち負け以前の問題だ。
 ドーハの喜劇を経験したオフトジャパンから、初出場を果たした岡田ジャパン、自国開催でベスト16に入ったトルシエジャパンと、考えてみると順調にステップアップしてきた。今回も決勝トーナメントに進めば、日本も準一流国の仲間入りができたかもしれない。でも、このへんでもう一度立ち止まって力をつけ直すことが必要だったのだろう。ドイツ大会はその意味でいい教訓となった。
 今後日本が世界のトップとなっていくには、組織とスピードしかない。技術でも体格でも体力でも勝てないのだから。部分の組織と全体の組織との二重構造で、チームとして守ってチームとして攻めるというスタイルの確立が絶対的に必要だ。せっかくトルシエがその基礎を作ったのに、なんでブラジル式に切り替えてしまったのか。
 今の日本代表は、見ていてサッカーが詰まらない。早いパス回しがあるわけではなく、見事なオフサイドトラップがあるわけでもない。潮の満ち引きのような波のうねりを感じることもなく、憎らしいほどの試合運びなどというものも見たことがない。みんな個人で頑張ってるだけだ。攻めも守りも行き当たりばったりで。
 かつてストイコビッチは言った。サッカーは技術で攻めて技術で守るスポーツなのに、日本のサッカーは根性で攻めて根性で守っている、と。私はいいサッカーが見たい。自分たちらしいいいサッカーができれば、負けてもいいじゃないかと思う。
 今日の試合を観ていても、何か胸が熱くなるような、心浮き立つものが感じられなかった。だから、勝てなくても悔しくなかった。結果よりもそのことが残念でならない。
 前大会のロシア戦やトルコ戦は覚えていても、今日のクロアチア戦を10年後まで覚えていられる自信がない。

 2006年6月17日(土) 「逆転も奇跡もあきらめないことで起こる。
                ギブアップは一番駄目な負け方」

 私たちは、あきらめないことの大切さをこれまで何十回、何百回と教えられてきたのに、それを忘れてしまって、すぐにあきらめようとしてしまう。少しでも追いつめられるともう駄目だと思い、簡単に口にする。あらかじめあきらめることで自分の心を守ろうとする。
 あきらめないこと、あきらめないこと、あきらめないこと。
 あきらめるのは、最後の結果が出てからでいい。いや、それでもあきらめなくてもいいのかもしれない。
 勝負事には勝ち負けがある。でも、自分から勝負を降りることだけはいけない。あきらめるということはそういうことだ。

 2006年6月16日(金) 「言葉は誰かのために。
                伝えるのは自分のために」

 伝えるべき言葉は、伝えるべき人がいて初めて役に立つ。
 伝える言葉を持たないのは不幸なこと。でも、伝えたい人がいるならそれは幸せなことだ。
 大切な人が近くにいるなら、思いをいちいち伝えた方がいい。たぶん、それは自分のために。
 伝えるべき人をなくしてしまうことは、とても悲しいこと。人から言葉をも奪ってしまう。
 失った時間の中にはたくさんの言葉もあった。言葉にならない言葉が。もはやそれを伝えることはできない。
 なくした言葉は、風に乗ることもなく、時の止まった過去で凍りついたまま、誰の耳に触れることもない。置き忘れてきた記憶と共に、地面に横たわったまま冷たい風に吹かれている。
 いつの日か、私たちはなくした言葉を拾って、届けるべき人に届けることができるのだろうか?

 2006年6月15日(木) 「無理かどうかは結果の話。
                 無理だと決めるのは自分じゃない」

 すべてが思い通り、理想通り、理論通り、イメージ通りにいくわけはない。常に思いは裏切られ、予定は狂う。困難が立ちふさがり、何度ももう駄目かもしれないと思う出来事が起こる。
 それは分かっている。自分の能力の問題もあるし、誰のせいでもない不幸もある。現実的に不可能なことも多々ある。
 ただ、それでも、初めから無理という言葉を口にして逃げるのは卑怯だ。どんなに難しいことも、可能性がないことも、できるだけのことをする必要がある。それがひどく愚かなことだとしても。
 無理予測は賢さでも何でもない。自分自身に対する侮りでもある。
 無理という言葉は、結果として、過去形として口にすべきものだ。自分の能力の限りあらゆることをやってみたけど無理だった、と。その言葉には重みも説得力もある。
 私たちには、まだやれることがたくさんたくさん残っている。命ある限り、戦い続けることができる。したいことややるべきことがあるのなら、最後まで自分に賭けてみるべきだ。
 無理と口にする前に、もう一度やり残したことがないか考えたい。

 2006年6月14日(水) 「排除ではなく浄化という方向性。
                 人はもっといろんなものと共存できる」

 悪いものを取り込んでしまったり関わったりしたとき、人は反射的に排除という方向性で考えることが多い。毒を飲んだら吐き出し、病気になったらそこを切り離し、悪い友達とはつき合わないようにする。
 でも、排除ではなく、取り込んだ上での浄化という方向性もあるのだということを思い出したい。
 毒を飲んだらそれを体内で薬に変えたり、悪い友達はつき合った上でいい人間に変えたり、悪い霊がついたら体内で良い霊にするということもできなくはない。
 汚れることを恐れすぎる潔癖性では、この世界を何一つきれいにすることはできない。自分のことだけでなく、少しだけ世界をきれいをすることを考えていきたい。
 ゴミだって最近はリサイクルするのが主流になってきている。それを人間単位でも、社会単位でも、世界単位でも実現させていくことが今後の課題となっていくだろう。完璧にはできなくても、方向性として浄化というのは正しいと思う。
 汚れたら洗えばいい。単純な話だ。なんでもかんでも捨てればいいってもんじゃない。
 私は、鬼は外福は内というかけ声が嫌いだ。鬼だってうちの中に入れて大事にすれば役に立ってくれることもある。もっと共存共栄ということを考えていきたい。


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