2001.5.16-
5月28日(月) 「先頭を走っている人は誰?」 |
人は自分がいなくなった後の世界をどれくらい思いやれるだろう? 私は?
自分にとってのより良い世界と、自分抜きの世界にとってのより良い世界は一致するのだろうか?
いずれにせよ、できることなら、世界の終わりに自分も立ち会いたいと思う。
*
私は誰かより正しくて、誰かより間違っているだろう。
けど、確かなことは、100パーセント正しい人間は一人も存在しないということだ。
だから、誰の正しさも無条件で受け入れるわけにはいかない。たとえ、世界一正しい人間の正義も。
*
毎日、気楽にハッピーに過ごせたら、それは勝ちだ。誰がなんと言おうと。
何故なら、人は何の根拠もなく毎日を気軽に過ごせるようにはできていないから。それができるということは裏打ちされたものが必ずあるということだ。それは誉められるべきことだし、威張ってもいい。
毎日を悩んで過ごしている人間こそが負けなのだ。賢いから考えてるんじゃない。間抜けだから答えが出せないだけだ。
毎日楽しく陽気に過ごす人間こそが正しい、それはどんなに時代が進んでも変わらない。
*
時代が進む中で人間は少しずつ神から離れ、捨てつつある。これは正しい方向だと私は思う。
神は本質じゃない、世界の一部なのだ。いや、人間の一部でしかないのかもしれない。
もし、この世界が神の支配する世界だとするならば、それは間違っていると私は思う。世界の正しい在り方ではない。地主と小作人の関係性が正しくないように。
*
人の目は全方向を同時に見ることはできない。けれど、時間をかければ見られる。そのことを忘れないようにしなければいけない。
たとえば、誰かがある部分について見えてないように思えたとしても、過去には見えていたかもしれないし、将来見えるようになるかもしれない。そういうことだ。
*
非難というのはいつも無理解から生まれるものだ。理解した上での非難というものはほとんど存在しない。
たとえ、その人が間違っていて、そのことに気づいたとしても、その論理や心理のメカニズムを理解していれば非難する気にはなれないだろう。
これがつまり本当の同情ということだ。同情というのは、雨に濡れた捨て猫に対する感情のようなものばかりを言うわけじゃない。
*
孤独病の次は退屈病か……。
贅沢な話だ。
けど、それは私のための病気だ。
労働の汗で流してしまってはいけない気がする。
*
人生にバックギアはないし、そんなものはいらないけど、でもバックミラーは必要だし、時々はのぞいて見てみた方がいい。自分が今どこを走っているかを確かめるために。
ま、なくても走る分には困らないのだけど。
*
自分の人生がすべて無駄に終わってしまったとしても私はきっとあきらめられる。
何故なら、私は自分の可能性に賭け、やりたくないことを無理矢理やったりしてないから。
好きに生きてるんだから、報われなくても当然と言えば当然だろう。
私が死ぬ時は、たぶん、照れ隠しで笑いながら、誰にともなくこう言うだろう。
やっぱりダメだった? と。
*
人はみんな、幸せになりたいと思いながら生きているんだけど、頑張っているのは自分の愛する人たちのためだ。
幸せっていうのは人を幸せにすることなんだってことにみんな気づいているのかな。
*
自分の斜め後ろにいる人間からあれこれ言われることくらい邪魔くさいことはない。
そこから見ると私は間違っているように見えるんだけど、その場所は私にとってはもう通過した場所で、そこに答えはないと結論を出した場所なのだ。
その人間も、もっと先へ進めば私の言うことが分かるはずなんだけど、そのことを納得させることはとても難しい。
そして私もまた、私より先を行っている人間に対して同じことをしているに違いない。
一体、今この世界で先頭を走っている人間は誰なんだ?
*
*
*
今日メンズデーで『JSA』を観に行った。
相当話題になっていたし、始まって最初のメンズデーということである程度は混んでいるだろうと予想していた。
だが、現実は21人……。
なんか、いろんな方面に対して気の毒な気がして笑えなかった。
東京なんかではそんなことはないだろうけど、所詮名古屋の程度はこんなものだ。いや、正確に言うと名古屋の隣の春日井市なんだけど。
内容に関しては、説明がちょっと難しい。南北朝鮮兵士の友情と、葛藤と、争いと、事件、とでも言ったらいいだろうか。いや、でもなんとなくとらえ所がない感じもあった。
おすすめしたいようなしたくないような、でもある。
エンタテインメントとも言い切れないし、ドキュメンタリーとは明らかに違う。ヒューマンドラマかと言えばそれもちょっと違うだろう。
いや、面白かったことは面白かった。途中笑いもあったし、悲しいような切ない部分もあったし、作品としての力も申し分なかった。
ただ、単純に面白かったという言葉で片づけられる作品でないことは確かで、最後もハッピーとはほど遠い。
では力はあるけど欠点の多い荒削りな作品か、といえばそうでもない。欠点らしい欠点も見あたらない。
結局面白かったのかどうなんだ、と訊かれると、うーん、と言ったきり少し考えてしまう。面白いんだけど……。その後が続かない。とても不思議な後味を残す作品だ。
ということで、とりあえず結論は先送りにしよう。もう少し時間が経てば自分の中で消化されて結論めいたものも出るかもしれない。
エンドロールが始まってすぐ、約3分の1の観客が立ち上がって劇場をあとにしていった。
やがてエンドロールが終わり、場内が明るくなった時、ひとりで観に来ていた初老の男が号泣していた。
その姿を目にしたことで、私のこの作品に対する評価はますます混乱することになったのだった。
次の映画館作品は、三谷喜幸監督の『みんなのいえ』にもう決まっている。
最近いいコメディを観てないので楽しみ。久々に気持ちよく笑いたい。
*
諏訪湖は地図であらためて確認したら異常に遠い……。ひょっとしたら金沢より遠いかもしれない。ちょっと不安になってきた。
道の状況にもよるけど最低でも6時間は覚悟しなければいけないだろう。
諏訪湖一周はそんなにかからないと思うけど、今度こそ余裕を持って出発したいところだ。
金曜日晴れるかな。
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今日のための言葉 「本当に戦争が始まったら、俺たち4人も撃ち合いをしなければならないのか……?」 映画『JSA』より
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5月27日(日) 「神なき続編」 |
黄昏るには早すぎる。 たとえ太陽が雲に覆われてしまったとしても、まだ依然として太陽は高い位置にある。傾いてさえいない。
だから黄昏るのはやめよう。
*
悲しみは本当じゃない。悲しみは人の本質などではないのだ。
悲しみは確かにある。それは誰にも否定できない。けど、悲しみは始まりでもないし終わりでもない。もちろん答えなんかでもない。
私たちは悲しみを超えるために未来に向かって生きている。
だからそんなに悲しい目をしないで。
*
この世界には、悲しい人と悲しくない人がいる。
もしかしたら、違う人種なのかもしれない。 自殺する人間と自殺しない人間が別の人種であるように。 *
私が死んだ人から学ぶことはただひとつ。
やっぱり死んじゃ駄目だってことだ。 *
自分にとって重要なことは納得がいくまでとことん考えなくちゃいけない。
けど、大したことじゃないことはすぐに忘れた方がいい。詰まらない失敗や、過去の間違いや、なくした恋のことなんかは。 *
いつもいつも自分のことが好きな人間は異常かもしれない。それはやっぱりおかしい。どこかの回路がいかれてるに違いない。
*
誰からも批判されないような人ってのはある意味間違っている。
人はあれこれ勝手なことを言うけれど、何も言われなくなったらそれはそれで寂しいし、存在感が希薄だということでもある。
格好悪くない生き方をしようと思えばできるけど、格好悪くても誰かの心を動かせる方が存在としては正しい。
誰だって人から誉められたいものだけど、誉められればその分けなされたりもするわけで、それを恐れていたら誉められることもないだろう。
いくら批判されたり非難されたりしても、結果として人に多くのことを与えた人間の勝ちなのだ。
自分では何も生み出さずに文句ばっかりつけて得意になっているような人間の言葉に耳を貸す必要はない。
人の作品をけなせるのは、その作品以上のものを作った人間だけなのだということを知らない人間が多すぎる。
*
今日F1モナコグランプリを観ていて思った。
セナの死と共にF1から神は去ったのかもしれない、と。
セナの不在の間ずっと喪失感や物足りなさや違和感なんかを感じていたのだけど、つまりはそういうことのような気がする。
小説でいうところの「神の部分」というやつだ。傑作小説には作家の思惑を超えた神の部分が確かに存在する。映画にもそれは言える。
そう、セナの死以降のF1は、傑作映画の退屈な続編のようなのだ。その感覚が一番近い。
今のF1に、私の心をときめかせたり震わせたりするものは何もない。そのことがとても寂しい。
*
ドラマ「ラブストーリー」はかなり面白くなってきた。北川悦吏子脚本はいつもそうだけど、スタートがもたつく。スピードに乗ってしまえばあとはゴールまで一気にスパートするけど、スピードに乗るまでに時間がかかる。
スタートが下手だったカール・ルイスみたいだ。
たぶん、きちんと構成やラストを決めてから脚本を書き始めるじゃなくて、書いていくうちに人物やストーリーが見えてきて、先が自分でも分からないまま物語の後からついていくタイプの書き手なのだと思う。だから、最初がもたついてしまうのだ。
そのへんがちょっと惜しい気もするけど、これが北川悦吏子のスタイルで、これ以外の書き方をすると面白いものが書けなくなってしまうのかもしれない。
そういう意味では、ドラマの中のトヨエツと北川悦吏子本人は少し近いようにも思える。
この先が楽しみだけど、残念なことに北川悦吏子はラストが下手だ。下手というよりずるい。
わざとかもしれないけど、ひねりをきかせずに無難な形におさめてしまうのだ。結論づけずに。
「ビューティフルライフ」のラストもいただけなかった。難しいとは思ってたけど、あれはちょっとない。
印象的なラストはほとんどないと言っていい。「オーバータイム」も「愛してると言ってくれ」も「ロングバケーション」も、途中あんなにも面白くて印象的なシーンやセリフがたくさんあるのに、ラストシーンはどうだったか、と思いだそうとしても思い出せないのだ。これはあながち私の記憶力の問題だけではないはず。
今回のラストも難しい。ふたりが結ばれてハッピーエンドではあまりにもひねりがないし、でもそれ以外のラストは考えづらい。野島伸司あたりならわざとひねくれたラストにするんだろうけど、北川悦吏子はそんなことはしない。ということはやっぱり今回も無難なラストに落ち着いてしまうのだろうか。
*
今週はすっかりルーズに過ごしてしまったから、少し気持ちが苛立ってきている。けどこれは動く原動力になるからむしろありがたい。上手く利用してエネルギーにしよう。
明日はまずメンズデーで『JSA』だ。時間は夕方の5時からだから大丈夫なのだけど、問題は混み具合だ。なんかかなり話題になってしまってるようなんで、もしかしたら明日は混むかもしれない。始まって最初のメンズデーだし。
まあでも所詮春日井コロナワールド、多くても50人くらいだろう。両隣に人が座るようなことがあったら奇跡だ。
期待度は70パーセントくらいにおさえてある。あまりにも期待していくと必ずこけるから。
それにいろんな意味で『シュリ』は超えてないだろうという予感がある。『シュリ』はホントに出来のいい作品だったから。
映画のあとは諏訪湖だ。週間予報では木曜あたりに雨が降るというのだけど、どうだろう。でも今週行っておかないと後も詰まってるし、今週は少々条件が悪くても強行したいところだ。
木曜か金曜のどちらかが晴れなら行くことにしよう。
諏訪湖か。どんな表情をしてるんだろう。
来週はとりあえずこの二本立てだ。その合間もなるべくルーズにならないように。
今日はここまで。
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今日のための言葉 「ストーリーは人生のメロデイーだ」 ドラマ「ラブストーリー」より(北川悦吏子脚本)
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5月25日(金) 「いつも心に雨空を」 |
心が晴れたら言葉が消えた。 言葉は、心の雲から降る雨のようなものなのかもしれない……。
もしそうだとするならば、この世界を優しく洗う雨を降らせ続けるために、私はいつでも心に雨空を抱えよう。
それが私の役割ならば……。
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今日はとても散文的な一日だった。何をするでもなく、普通に過ごし、それがちょっと心地よかった。
けれど、やはり心の半分は納得してなくて、つぶやくように私に向かってこう言うのだ。
なんとかしようよ、と。
なんとかねぇ。なんとか、か。
最近はとても日が長くなって、夜明けも早い。今4時半だけど、もう空が明るくなってきた。少し蒸し暑い。
そろそろ沖縄に続いて九州方面も梅雨入りするだろう。こちらも6月になれば雨の日が多くなる。夏はもうすぐそこだ。
この前スイカを食べた。これが意外に美味しかったんだけど、なんとなくスイカって好きじゃない。大人になってから特に。
スイカというのは、少年の日の夏休みに食べるものだと思っているところがあるからかもしれない。
2001年の5月は平和のうちに終わろうとしている。
何人かの身内が死に、相変わらず私は行く末が定まらないけど、それでもこれだけ平和なのだか、やっぱりありがたいと感謝すべきなのだろう。
世紀末の混乱を望んだのも、もう昔の話だ。思い描いた未来じゃなくても私は確かに今こうして21世紀を生きている。大切なのはこれからだ。すべてはこれから始まる。
これからもいろんなことが分かるようになるだろう。それと同時にいろんなことを見失っていくに違いない。別れもあるだろうし、きっと新しい出会いもある。
この先どれだけ生きられるのか分からないけど、最後まで私はこの世界と自分を楽しもう。
そして、最後まで信じたい。すべてを。
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今日のための言葉 「ハローベイビー 僕はきっと愛を知らない 君もそうならついておいで この果てしなき物語の彼方へ」 野島伸司
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5月24日(木) 「分かっちゃいるけど」 |
人生を趣味や旅行や遊びや恋愛沙汰なんかで誤魔化すことはそんなに難しいことじゃない。けど、本当にそれでいいんだろうか? ……やっぱり駄目だと思う。もっと根本的な部分で人生を改善して、虚しくない日常を送りたい。楽だったり楽しかったりするだけじゃなくて、充実感と達成感と前進感があって、毎日ご飯が美味しいような日常にしなくては。
それはとても難しいことだけど、それでも自力でなんとかしなくちゃしょうがない。 *
分かっていることが何の役にも立たないことが人生にはたくさんある。
明日の予習をしなくちゃいけない、明日は朝早いから早寝しなくちゃいけない、将来のためにもっと頑張らなくちゃいけない、ダイエットも運動もしなくちゃいけない、そんなことは誰もが分かってる。でもそう簡単にはできない。ほとんど不可能に近いのかもしれない。
強者の論理では何一つ問題は解決しない。正論で世界は良くなることもないだろう。
教育や指導は難しい。結局のところ、自分でやっている姿を見せるしかないのだ。いくら遠回りに思えたとしても。
*
生きることを楽しみたければ、優しい気持ちになることだ。この世界や人に対して。
いろんなことがあるけど、笑って許すことができれば、楽しい気持ちにもなれるだろう。
とにかく人を裁かないこと。人を裁こうとすると、とたんにこの世界が下らないものに思えてくるから。
*
相手のことを好きだから許されることというのは思っているより少ないのかもしれない。
人は自分の好きという気持ちに甘えしまう。好きなんだからこれくらいかまわないだろう、と無茶をしてしまう。
でも本当はそういうすべての思い上がりは間違いで、その勘違いが関係を壊す原因なのだ。始めは見えない部分にヒビが入り、やがて崩壊する。
そうなるのが嫌なら、日頃から大事にして、こまめに補修することだ。それをやればきっと好きという気持ちも関係も長持ちするだろう。
*
たとえば、終身刑の刑務所の中で努力することはとても難しい。そこに未来はないから。
可能性のない恋の中で相手を思い続けることも同じくらい難しい。
男と女の友情は成立するか、という問いがあるけど、あれの答えは簡単だ。恋へ発展する可能性がある限り成立するけど、その可能性がなくなれば成立しなくなる。そういうことだ。
男女の友情っていうのは片想いの変形でしかない。本人たちが意識しているいないに関わらず。
人は可能性の中でしか生きられない。希望と言い換えてもいい。
逆に言えば、ほんのわずかな希望でもあれば人は生きていけるし、恋もできる。そういうものだ。
*
言葉は不幸から幸福への架け橋だと私は信じている。言葉にはその力がある。
人を不幸にする言葉はなるべく使わないようにしたい。
*
多忙と一所懸命は、頭痛を一時的に静める頭痛薬のようなものだ。人生の根本的な治療薬ではない。
だから過信しすぎないように。
*
神はみのもんただ。
いや、それじゃあたとえが分かりにくい。
神はクイズミリオネアのみのもんたのようなものだ。これで分かっただろう。
つまり、神はクイズを出す司会者だ。そして、私たちがその解答者。
クイズの司会者に向かってクイズの答えを教えろと迫ることはとてもトンチンカンなことだ。だから、当然神は答えない。解答するのは私たちだ。自分たちで答えを見つけなければしょうがない。
解答さえすれば、それが正しいか間違いかを教えてくれる。みのもんたよりももっと溜めてためて、もったいぶって。
あの間に負けてはいけない。自信を持って答えよう、ファイナル・アンンサー、と。
まずはその前に補欠ルームから出ないとね。
*
*
*
今日は予定通り60点の一日だった。いくつかのことをこぼし、必要最低限のことをこなした。
無気力感は相変わらず居座っているけど、勢力は少し弱まった。今週中には抜けて、また青空が戻ってくるだろう。
諏訪行きはやはり延期にした。今日はものすごい雨だったから、明日の諏訪湖はかなり濁っているに違いないから。一生に一度しか見られないかもしれない諏訪湖が濁っていたんではちょっと寂しい。
ということで明日空いてしまった。どうしよう。やらなくちゃいけないことはいくらでもあるけど、明日中にやらないと困るようなことはない。
ここは中途半端なことをせず来週に備えて力を溜め込むか。月曜はメンズデーの『JSA』が決定してるし、後半は諏訪湖行きがあるから。
明日の目標は小さく50点にしよう。テストの点数よりも睡眠時間の方が大切なこともある。
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今日のための言葉 「一生懸命投げるだけなら、小学生でも出来る」 巨人・宮田ピッチングコーチ
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5月23日(水) 「飽きたのか」 |
自分に飽きる、そんなことがあるのだろうか?
最近の私は、以前ほど自分を楽しめなくなってきている。恋心が冷めかけている恋人といるように。 これは自分に飽きたということでないのか? 自分を楽しませることに幸福を感じない。 これもひとつのステップなのだろうか。だったらいいのだけど。 * 書き手が経験に頼るようになったらそれは堕落だ。 想像力で書かなければ。 * 現在を生きながら千年先を走っていてもいいんだということを忘れないように。 同時代に自分を合わせる必要はない。自分の走るペースが時代よりも速ければどんどん先へ行ってしまってもかまわない。 生きている間に誉められるよりも未来の人たちに認められる方が名誉なことなのだから。 * 私の人生が無駄に終わってしまうことはかまわないけど、私の思考が私の死と共に消えてなくなってしまうことはとても残念に思う。 こんなにも長い時間、大量の思考をしてきたのに。 * いったんは完全に分かったことがいつの間にか実践できなくなっていることに気づく。その繰り返しだ。死ぬまでこの調子なのか。 * どうにもこうにもやる気が出ない時は、できることからひとつずつやっていこう。 そうすればやりたくないことがひとつずつ減っていく。 そうやって目の前から少しずつ嫌なことが消えていけば、やがて心も晴れるだろう。 心はいつだって本当は青空なんだ。雲がかかることがあるだけのこと。 曇り時々晴れーーそれが人の心の当たり前の天気模様なのかもしれない。 * みんなは、過ぎていく自分の毎日をどんな思いで見つめているんだろう? 納得してるんだろうか。 私はといえば、バスの停車ボタンを押したのに降りるはずの停留所に停まってくれないバスに乗っているような気分だ。
それなのにどうすることもできず、流れていく車窓からの風景を無力に見つめているだけ。
いつかこのバスが停まる日が来るのだろうか。
*
ひとりでいることは、ふたりでいることよりもずっと疲れる。
そのことを知らない人は本当のひとりを知らない幸福な人だ。
*
最近また絶望感の取り扱いに迷いが生まれている。
昔の私は絶望感を過大評価しすぎていた。それが少し前は逆に過小評価するようになっていたのだけど、でもそんなに簡単なものではないということに最近気づき始めたのだ。
絶望感というのは重いようで軽くて、軽いようで実は重い。絶望の根は深い。
そして、自分だけの絶望ではなくて、人の絶望まで判断がつかなくなってきている。他人の人生にどの程度の絶望感を感じるべきなのかが分からない。
たとえば、子供のいない専業主婦の未来に対して私は多くの希望を見出すことができないのだけど、彼女の人生に対して私がどの程度の絶望感を持つことが正しいのか、とか。
リストラされた中年サラリーマン、街にあふれる女子高生、ジャンクフードばかりの小学生、彼等が抱える絶望感と客観的な判断による絶望、それらに対して私は何を感じどう考えるべきなのか?
今ちょっと見失っている。
*
*
*
金沢行き以来、本当に調子が上がらない。なんだろう、これ。何かがおかしい。
もちろんスピード違反で捕まって落ち込んでいるとかドライブ疲れとかそんなことじゃない。なんだか知らないけど原因不明のローテンションだ。
ここは流れを変えるために諏訪行きを強行するか。
ただ、行けなくはないけど、ちょっと天気が気になる。金曜晴れたとしても明日まで雨が残ると諏訪湖が濁ってそうだ。せっかく行くなら最高の状態の諏訪湖が見たい。あのへんは他に見所もなさそうだから肝心の諏訪湖がきれいじゃなきゃ意味がない。だから迷っている。どうしよう。やっぱり来週に延期した方がいいか。
どうも流れが悪い。
いずれにしてもしばらく北へ行くのはやめよう。 今日という日を100点満点で採点すると、35点だな。夏休み1週間の補習決定。今更反省しても遅い。
明日の目標は60点。できるだけ積極的にいこう。
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今日のための言葉 「うなぎの気持ちになってみろ」 ドラマ「嫁はミツボシ」より |
5月22日(火) 「正しい色、正しい文章」 |
エピソードとエピソードをつなぐ合間を、人はどう生きるべきなのか? そして私は?
それが生活というものか。
生活を否定することは愚かなことだけど、退屈なのはどうにもやりきれない。
*
列の一番後ろへ行ってケツを蹴っ飛ばしてやって、列の先頭で腕を引っ張ってやる。それができたら理想的。
*
暖かい幸福を知ってしまったら書けないものもある。 欠けていたり劣っていたりするからこそできることがあり、知らないからこそ書ける文章というものもあるのだ。 *
生き方に正しいも間違いもない。
スタイルがあるだけだ。 *
究極まで行って、戻ってくること。その行程が必要不可欠なんだと思う。
少しずつ限界を延ばしていって、それでもいつでも元の場所に戻ってくること。行きっぱなしではなく。
その振り幅の中で、人は大切なことに気づいて、その気づいたことを自分や人のために役立てることができるのだろうから。
*
もし宗教の目的が天国への切符を手に入れるためだというのなら、私には宗教などまるで必要ない。だって、天国なんかに興味はないんだから。
私はこの地上世界で感動したり感動させたりして生きていきたいと思っている。
宗教が駄目なのではない、必要ないだけだ。娯楽としての宗教があっても全然かまわない。
*
あと30年。今求めてるものを求め、目指していることを目指せば、たぶんすべて実現するような気がする。それがどんなに荒唐無稽な夢物語だったとしても。
何者かになれる人間となれない人間の違いは、想いを持ち続けることができたかできなかったかの違いだけなのかもしれない。
寿命の長い短いはあるにしても、何か一つ、一生やり続ければ、それはきっと自分のものになる。途中で投げ出してしまいさえしなければ。
才能なんてエッセンスがひとかけらあればいい。あとは努力でいくらでも大きく育てることができるのだから。
*
人生を制限時間で考えない方がいいのかもしれない。まだ時間はあるだろうと思うと、どうしても生き方がルーズになってしまうから。
問題は持ち時間がどれだけあるかじゃなくて、やるべきことややりたいことをどれだけできるかだ。それは時間の問題じゃない。気力の問題だ。
*
私は真実コレクターじゃない。
私の中では、正しいことよりも正しい表現の方が優先する。書かれた内容がたとえ間違っていても表現として正しければそれでいいと思ってる。
正しい表現というのは、絵における正しい色使いのようなものだ。見た目と明らかに違っていても、絵として正しければその色は正しい、そういうことだ。
*
若さの寿命は短く、賢さの寿命は長い。
けど、正しさの寿命は若さ以上の短さかもしれない。
日々新たに正しくないと正しく在れない。
*
一年の中で、短く感じられる月と長く感じられる月があるけど、私は12月と5月がとても長く感じられるのだ。何故だか知らないけど。
もうずいぶん長く5月をやってるような気がするけど、まだ10日もある。ちょっと得した気分でもあり、なんとなく釈然としない感じもある。
*
ただ一所懸命生きればいいってもんでもないけれど、一所懸命生きてない人間が一所懸命生きている人間を笑うことはできない。
頑張ることは、格好悪くもないし、恥ずかしいことでもない。
*
*
*
昨日スピード違反の罰金を郵便局で払ってきたのだけど、罰金を送金する時の手数料は無料なのだ。10年前、何度か払った時は特に意識しなかったけど、今回は思った。国ってのはなんかいろんなところでグルになってるんだな、と。
普通かかってる手数料はこの場合、どうなってしまうんだ? 警察が払ってるとは思えないから、なかったものとされてるということだろう。ということは、普段は郵便局が儲けるために手数料とやらを私たちは払わされてるということだ。機械を動かすための実際のコストに100円以上もかかるはずもないのだから。
普段、自分の生活なんかが国に管理、支配されているという意識を持つことはほとんどないけれど、でも実際は見えないところでも色々コントロールされているのだ。
当たり前でしょうがないことではあるんだけど、なんとなくきな臭いものを感じる。
*
金沢から帰ってきてから、どうも調子が上がらない。テンションが低い。
私は本当に北とは相性が悪いのかもしれない。だんだん冗談とは思えなくなってきた。
こりゃあ北海道なんか行った日にはどうなるか分かったものじゃない。
もし行くなら地球を反対側から回り込んでいくしかないか。
東はどうだろう。岐阜、長野行きの時はなかなか好調になったからあっちは悪くない気がする。
ということで諏訪湖は近い。明後日行ってもいいけど、ちょっと無理があるか。
来週は月曜メンズデーだから、行くなら木曜か金曜になる。まあ、タイミングと気分が合えば。
そうそう、新たにコンパスも買ったのだ。ガソリンも満タンにしたし、一応これで準備は整った。
行けたら行こう。無駄に過ごす一日があるならば。
*
ビデオはいい作品に当たらない。
レンタルでドラマ「真昼の月」を借りて一気に観たけど、これはちょっと嫌なドラマだった。楽しくないことが悪いわけではなくて、描き方や方向性や半端なメッセージ性が気に入らない。
「きらきらひかる」も観た。これはかなり良かった。
監察医の世界も垣間見ることができたし、ストーリーも人物も上出来で、楽しめた。
深津絵里は特に好きというわけではないけど、気がつくと私が好きなドラマにはよく顔を出している。彼女のナレーションがけっこう好きだ。
ゲームは割とコンスタントにやれている。
PS2の「ガングリフォン ブレイズ」は個人的にすごく面白くて、久々にやり込んで極めた。
「首都高バトル0」はもうひとつ。このシリーズはもうさんざんやって飽きた。もういい。
「ウイニングイレブン5」も気に入らない。サッカーゲームもずいぶん進歩したけど、基本的な部分で作り手はサッカーのことが分かってない。テレビに映っている部分は表現できているんだけど、それ以外の部分がすごくいい加減なんで、やっていてうんざりしてしまう。
この「ウイニングイレブン5」に関しては、自分のチームが攻撃している時、自分が動かしている選手以外のポジショニングが明らかに間違ってる。理にかなってないから腹が立つ。
こういう部分はプログラムの技術的なことでなくて、気づけば直せる部分なのに、それが修正されないまま製品になってしまうのはなんとも不思議で仕方ない。誰が悪いんだ?
「グランツーリスモ3」は、確かにグラフィックが格段にきれいになったけど、ゲームの中身は何も変わってない。というか、前作よりまどろっこしくなってしまって楽しめない。同じことの繰り返しは退屈だから、あと少しやったら値崩れしてしまう前に売ってしまおう。
オークションは失速。ここのところ細かくあれこれ買ってるから少し休もう。
ゲームも更に買ってしまってるし、服もけっこう買った。しばらくはどちらも大丈夫だ。
あとはアニエスのジーンズと、余裕があればアニエスの時計くらいか。
*
さて、明日はもう一日ルーズな感じになりそうだ。
ただ、その中でも木曜と金曜のイメージをしっかり作っておかないといけない。
金曜諏訪湖はまだ気持ちの充電が間に合わないか。なんとか気持ちを高めていければいいんだけど。 寝よっと。
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今日のための言葉 「今日、わたしたちは、明日のために夢中で遊び、働き、そして、愛する人のことを想うだろう。 たとえ、世界の終わりが明日だったとしても」 ドラマ「きらきらひかる・2」より
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5月21日(月) 「世界の端に捕まって」 |
旅の途中で休んでいても、それもまた旅だ。移動だけが旅じゃない。 まだ旅の途中。目的地さえ見えてはいない。
*
ドラマは内側だけじゃなく外側にもある。
映画を観る観客にもそれぞれのドラマがあるように。 *
立派なだけの人間が退屈なように、立派なだけの言葉も詰まらない。
正しいことを言うのは簡単なことなのだ。そんなことを言って自分の言葉に酔っぱらってる場合じゃない。 いや、立派なことを言うのはいい。立派なことを言えない人間よりもずっとましだ。 ただし、素面で動くことが必要だろう。 *
書くという行為はいつだって絶望を伴うものだ。虚しさとの闘いでもある。
けど逆に言えば、絶望というスパイスの効いていない文章はどこか気が抜けた味に思えるものだ。
絶望感に負けないようにしなければ。
*
駄目と決めつけてしまうとそこで思考で止まってしまう。それはとてももったいないことだ。
駄目だと思ってもとりあえず保留しておくといい。いつかその駄目な中からふっと何かが浮かび上がってきて、大事なことを教えてくれることがあるから。 *
立派な人間からよりも駄目な人間から学ぶことの方が多いのかもしれない。近頃そう思う。
*
毎日起こるひとつひとつの出来事をもっと大切にしなくてはと思う。
無自覚にいい加減にやっつけてしまうとそこから何も得られず、何も与えられない気がするから。 *
人生の正解の寿命は短い。
正しさは一瞬で移ろってしまう。 人生の意味が分かった、そう確かに思ったとしても、月日が経つ内にその確信は揺らいでしまうものだ。
だから私たちは常に新しい正しさを探しているのだろう。 *
人の後ろ姿って時々とてもいいものに思えることがある。 好きな人や、自分の子供や、きれいな人だけでなく、時にはサラリーマンの後ろ姿がなんだかとても格好良く思えたりすることもある。
*
気持ちのピークで上手くいかなかった恋は、その後上手くいったとしてもそれは、なんというか、返品されてきた商品のように元の姿とはどこか違うものになってしまうものだ。 世の中には傷物になってしまうと商品価値を失ってしまうものもたくさんあるけど、恋もそうなのかもしれない。 *
自由は誰かに切り取って与えてもらうものなんかではない。自分で感じるものだ。
人がくれたものは全部偽物だと思った方がいい。
*
私はいつか、本当に自分を許せる日が来るのだろうか?
許したいと思ってるし、毎日許そうと努力もしてるつもりだけど、近頃だんだん自信がなくなってきた。
*
終わってしまった恋や人生にぶら下がり続ける人々。
多くはその自覚症状がない。
私もまた……。
*
何も始まっていないことともう終わってしまったことは似てる。
もしかしたら、同じものかもしれない。
やらないこととやれないことが結局は一緒のものであるように。
*
街明かりの夜景が何故美しいか?
それは悲しいからだ。
この世界で美しいものはすべて悲しいものばかりだ。
もちろん人間も。
*
どこからどこまでが幻想なのか。幻想と事実の境目を見失っている。
いや、そもそもそんなものはあるのだろうか? 人間は目に見えることを過信しすぎる。目というのは五感の中の一つにすぎないのに。
それに、人間の目は真実を見るのには適さないものだ。色や形しか見えないのだから。
*
本屋で無数の本に囲まれていると気が遠くなりそうになったり、おかしくて笑えてきたり、なんだかばかばかしく思えたりする。
そして、最も馬鹿げた事実は、それら無数の本の中に、私の探している言葉がどこにも書かれていないということだ。
だから私は、仕方なく、今日もこうして自分で探している。
*
人の外見を気にしないような人を私は信用しない。
嫌いなものがないということは好きなものもないということだ。
自分の好きなものも追求しないような人は生きているとは言えない。ただ状況に反応してるだけだ。
誠実に生きていない人を信じる気にはなれない。
*
私は正しい生き方に憧れながら正しい生き方に怯えている。
正しさで固めてしまう人生を生きるのはやっぱり私には難しい。
でも、こんなことではいつまで経っても行く末が定まらない。一生漂うのは間違いだと思っているのだけど。
*
凍り付くように孤独ないくつもの夜を通過しなければ決して手に入れられない結晶がある。
それは、世界の果てにある朝露のようなものだ。長いながい旅路の終わりにようやく見つかるもの。
不幸な人間にだけ贈られるプレゼントもある。
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生きていると、決定的に幸福な瞬間が何度か訪れる。生きていて良かったなと心底思う。
それはいい。間違いなく正しい。
だが、問題はそれ以外の長くて退屈で間延びする時間だ。その多くの時間を人はどう過ごし、どう受け止めればいいんだろう?
幸福な瞬間のために我慢したり捨てたりすることが正しいのか?
それとも、それらの時間もできるだけ充実させるための努力をすべきなのか?
その扱いが分からなくて私は日々迷ってしまうのだ。
欲張りすぎなのか?
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この時間の果てを知りたければ最後まで生きてみるしかない。それ以外に知る方法はない。
今日が終わればまた明日。こうやって一日ずつ生きていこう。それしかない。
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今日のための言葉 「我々は生涯の様々な年齢に全くの新参者としてたどり着く。だから、多くの場合、いくら年を取っても、その経験においては経験不足なのである」 ラ・ロシュフーコー |
5月19日(土) 「金沢ドタバタ紀行」 |
5月18日。午前10時30分、私は金沢へ向かって出発した。前の日洗車したインテグちゃんに乗って。 空は曇りがちではっきりしない天気だったが、思えばそれは今回の金沢行きを暗示していたのかもしれない。 まずは名古屋を抜けるためにとりあえず北へ向かう。中途半端な時間ということもあって、なかなか順調だった。
一宮市を過ぎ、岐阜県に入る。ここも何事もなく通過した。
が、順調だったのはここまでだった……。
名古屋から一般道を通って金沢方面に行くためには157号線という国道がある。というよりも、これがほとんど唯一の道といっていい。
ただこの道は途中から山奥深く入り込む峠道になるため、冬場は完全通行止めになるらしい。が、まさか5月はそんなことないだろうと思った。 でも、あろうことかこの道が岐阜と福井の間で完全通行止めになっていたのだ。 そんなアホな……。
どんな理由かは分からないのだけど、とにかく通行止めだったことは確かだった。
あまりの出来事にしばし車の中で呆然としてしまう私であった。
なんとか気を取り直して地図を見てみたが、本当にこれに代わる道がない。
しょうがないので、来た道をかなり引き返して、いったん西に向かって福井県に出て、そこから海岸づたいに北上するしかないようだった。
山の峠道をひたすら走る。
曲がりくねった峠道を何時間走っただろう。ふと目の前のコンパスを見ると、北を指したまま動く気配がない。峠道なので、つづら折りになってるから走っていればどう考えても東西南北を向くはずなのに。 コンパスが狂った……。
なんてこと。頼みの綱ともいえるコンパスがなければ先行き不安すぎるではないか。しかも、予定のコースから大きく外れているというのに。
コンパスが動かないまま山道は更に細く険しくなるのだった……。
家を出てから4時間。ようやく山道を抜け、福井県に入った。やれやれ、これで一安心だ。だいぶ遅くなってしまったけど、ここからは前回東尋坊へ行った時の道に近いし、なんとかなるだろう、と思った。
アクセルを踏む足にも自然と力が入るのが人情というものだろう。
しかし、その人情を解さない無粋な輩が私の行く手を更にふさぐのだった。
福井県の国道365号。そこは見通しのいい片道一車線の道だ。
そこを90キロで快調に飛ばしていると、対向車のトラックがライトを一回だけパッシングした。
ん? なんだろう? と思ったものの、私に対してだったのか、それともトラックの前を走っている車に対してだったのか判断がつかないまま、少しアクセルをゆるめた。まさかネズミ取りとは思いもよらず……。
その直後、レーダーが何の前触れもなくピコピコピコッとけたたましく鳴った。
いかんっ! と思って反射的に急ブレーキを踏むのと目の前に警官が旗を持って飛び出すのがほぼ同時だった。
終わった、と思った。
脇道に誘導され車を降りた私はとりあえず抵抗を試みた。
「名古屋から来たんですが、勘弁してもらう……ってのはダメですよね?」
すると警官はニコリともせず、
「はい、ダメですね」
「……。」
それ以上無駄な抵抗はやめて、私はだまってゴールデンの免許証を差し出したのだった。
次に気になったのが何キロオーバーだったかということだ。もし、90キロなら40キロオーバーで一発免停は間違いない。しかも罰金がものすごいことになる。
「えーと、何キロ出てました?」と私。
「68キロで18キロオーバーですね」
ふう……。
危ないところだった。最後の急ブレーキが効いたらしい。
「今日はゴールデンの人が多いなぁ」と警官。
って、アンタ、あんなところでやったてら誰だって捕まるって!
実際、その後も続々と捕まってワゴンの中は大盛況。あの日、福井県警はかなりの荒稼ぎをしたに違いない。
もうこの時点で帰ろうかと思った。道は迷うし、時間もかなりオーバーしてるし、おまけにスピードで捕まるし。
でも、ここで帰ってしまっては何一つ収穫がないままだ。それでは気が済まない、ということで頑張ってなんとか金沢まで行ってみることに決めた。
敦賀のそばまで行った時は、家を出てから5時間も経過した頃だった。前回は3時間半だったのに。
そこからひたすら北上を続けた。東尋坊を過ぎ、石川県に入り、松井の故郷の根上町を通過し、松任市を越えて、ようやく金沢に着いた時にはもうそろそろ6時で太陽は沈みかけていた。
一番近い海岸を探して夕陽を見ることにする。地図を見ると内灘海岸というのがある。もうここでいい。
が、ここでコンパスの故障が響いて迷った。あああ。
迷いつつなんかぐるぐる回っていたら突然目の前に海が見えた。おおおー、海だぁー!
大学に合格した時より嬉しかった。
見ると太陽が海に沈みかけている。あわてて近くの空き地に車をとめ、海岸に降りていった。
静かに海を眺めながらつらかったこのドライブの感慨に耽ろうと思った私の目に飛び込んできたのは意外な光景だった。
海の中に何かいる……?
黒い粒がいくつも浮かんでいるのだ。最初ゴミかと思った。が、なんか動いている。まさか動物!? アザラシとか?
実際は動物には違いないけど、それは人間だった。そう、サーファーというやつだ。なんじゃそりゃ? 意表を突かれた。まさか金沢の海岸に大量のサーファーがいるとは思ってもみなかったから。
海岸でのんびりする計画は破綻した。どこまでも思惑からずれ続けるドライブだ。
そうこうしているうちに夕陽がいよいよ沈んできたので、デジカメであちこち写真を撮り、動画も何本か撮影して、それが終わったら早々にその海岸をあとにしたのだった。
サーファーだらけの海岸にひとり服を着て写真を撮ってる人間というのは妙な違和感があったから。
結局8時間かけて金沢まで行って、金沢にいたのは正味20分ちょっと、という間抜けなんだか贅沢なんだかよく分からないまま、家に向かったのだった。
帰りはさすがに一般道で帰る気力はなかったので、北陸自動車道で帰ることにした。
それでもスピード違反が恐くて90キロしか出せないもんだから、3時間半もかかってしまったのだ。
いやはや、今回はなんとも盛りだくさんなドライブだったが、かなり高くついたことは間違いない。罰金に高速代、それとガソリンも満タンだったのが空になってしまったし。
その割に収穫が少なかったのだけど、最大の収穫は一般道での日帰りドライブの限界が分かったことだ。金沢の距離は無理。名古屋から金沢までの半径以内、それが日帰りドライブの限界だ。
最近少し日本が狭く感じるようになっていたけど、やっぱり日本列島は侮れない広さだ。
罰金に関しては、考えてみたらこれまで散々スピード違反をしていてまったく捕まってなかったから、たまには罪滅ぼしの意味も込めて払うのも悪くないだろう。
祝儀だ、取っておきたまえ、ってなもんだ。
(1万2,000円で偉そうに) けど、これで私のドライブへの意欲がなくなったかといえばそんなことはまるでなく、もうすでに次のドライブが私の中で決定した。 次は6月諏訪湖行きだ。今度は順調なドライブになりますように。コンパスもいいのを買わなくちゃ。
帰り道の途中、「またおいで福井県」という看板を見つけ、それに向かって私は心の中で叫んだ。
「もう来るかい!」と。
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今日のための言葉 「海はいいっすね。信用できる感じです」 松本大洋
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5月16日(水) 「私って何様?」 |
楽な毎日は駄目な毎日。 あまりにも多忙すぎるのも人生の本質からずれてしまっていると思うけど、楽すぎる毎日はそれ以上にどこかおかしい。間違ってる。
だいいち、楽すぎる毎日なんてちっとも面白くないだろう。
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人生の謎は、ゆっくり、ひとつずつ、確実に解き明かされてゆく。時の流れに運ばれる中で。
生き延びること。ただそれだけでいい。そうすれば、多くのことが分かるようになる。 焦らず行こう。 *
自分の甘えの構造や本質がだんだん分かってきた。自分がどの部分でどういうふうに甘えた考えで生きているのかが。
昔はそのことが分かっていなかった。甘えはあると思ったけど具体的には見えていなかった。 分かりさえすれば直しようもある。これから少しずつ甘えを捨てていくことにしよう。 *
何度でも謙虚になる必要がある。折にふれて。
謙虚さに終わりはない。
謙虚になれる時は確実になっておいた方がいい。 軌道修正なしに真っ直ぐ走れる人間はいない。
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閉ざされた物語の中で輝こうとすることの意味が時々分からない。
檻の中で見物人に向かってけなげに愛想を振りまくのと同じに思えてしまう。
それでも、置かれた状況の中で最善を尽くすことが正解なのだろうか?
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顔は生き方によって決まる。
たとえば双子の兄弟がいて、兄は田舎で実家の家業を継ぎ、弟は都会で勤め人をして暮らしたとする。20年、30年経った時、ふたりの顔はまったく別のものになっているだろう。顔というのはそういうものだ。
自分の顔を親のせいにしてはいけない。人は生き方を自分で決められるように、自分の顔も自分で決められるのだから。
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誰かが私に、おまえ、何様のつもりだ、と詰め寄ってきたら私はこう答えるだろう。
私もそれが知りたいんだ。
私は何様なんだろう?いくら考えてもそれが分からない。 *
恋は街に落ちているかもしれない。その可能性はある。少なくとも家の中にはないし、通販でも売ってない。
神などまったく当てにならない。
自分の足で歩いて自力で見つけるしかない。 *
これは間違っているかもしれないけど、ふと思った。恋は普遍的なもので愛は個人的なものなんじゃないか、と。
みんなは愛を普遍的なものだと思い込んで探すから見つからないのではないか。実は愛というのはすごく個人的なものなんだと思って探せば案外あっけなく見つかるような気もする。
恋に形はあるけど愛に形はない、というのはどうだろう?
まだ思いつきの段階で考えがまとまらない。もう少し考えてみることにしよう。
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生きることは、得ることよりも失うことの方が多いような気がする。
けど、失うことでしか何も得られないのだ。
いや、失うことと得ることは同時に起こっていることなのかもしれない。
ひとつの出来事の裏表。 別れが出会いのように。終わりが始まりのように。
だったら失うことはそんなに悲しむべきものじゃない。
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私はいつでも進歩や進化を全面的に肯定したい。古いものより新しいものの方がある種の絶対的な正当性があると思ってるから。
昔の方が良かったなんてことは思ったことがない。懐かしい気分はあっても戻りたいとは考えないし、考えたくもない。
過去の積み重ねが現在なのだ。その事実が動かない以上、私たちは過去よりも現在を支持するしかない。
過去へ回帰するなんて馬鹿げている。そんな時間があったら先を急いだ方がずっといい。
過去に正解は存在しない。だから現在がある。現在に答えがなかったら答えは未来にしかない。
いつだって過去より現在、現在よりも未来の方が正しい。
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今日はやっぱりさりげない一日になってしまった。
ただ、いいことが一つあって、それがちょっと嬉しくて気分が軽くなったから、トータルしたらけっこういい一日だったと言っていいだろう。
ここのところどうも時間の使い方が上手くいってない。ルーズになっている。
それから、一日の密度も低い。中身がない。時間の問題ではなく。
ということで、急きょ金曜日は金沢行きにした。
いや、まだ決定じゃない。一応行けたら行く、ということだけ決めた。
明日、洗車や買い物を済んで、夜早く眠れて、次の日の朝、もし起きられたら行く。
こう書くととっても簡単なことのように思えるだろうけど、私の場合これがなかなかそうは簡単にはいかないのだ。日頃から寝付きが悪くて、しかも規則正しい生活をしてるので(ホントだってば)、寝る時間と起きる時間を調節するのがすごく難しいから。
というか、誰でもそうだと思う。普段夜の12時に寝て朝7時に起きてる人間に、夕方の4時に寝て夜の11時に起きろっていうのは無理があるだろう。私が遠出をするってことはまさにそういうことなのだ。
でも次の金曜日はこれ以上ないほどタイミングがいいから、なんとか行けるものなら行きたい。
金沢か……。ほとんどイメージがないけど、どこへ行けばいいんだろう? ひとりで兼六園を見物するのもちょっとなんだし。 まあ、とりあえず金沢の街を車で走って、あとは能登半島のあたりで夕陽を見られたら見る、といったところか。
と、その前に内灘海岸というところに砂丘があるらしい。なんでも鳥取砂丘に次いで二番目に広いんだとか。うん、それはなかなか良さそうだ。ここを一応メインにしよう。
余裕があれば能登半島も一周してみたいところだけど、たぶんそれは無謀だ。帰り道で死にそうなんで、ほどほどのところで切り上げないとまずいだろう。
よし、よし、なんか気分が盛り上がってきた。これなら行けるかもしれない。なんとか明日の夜早寝しよう。
人間、やっぱり目標が必要だ。小さくても他愛なくてもいい。目標があれば動ける。
金沢は両親が新婚旅行で行った土地だ。それから34年。もしかしてこれも一種の里帰りみたいなものなのかもしれない。
金沢よ、私を待っていておくれ。それと、できたら金曜の朝7時くらいに起こしてくれないかな。頼んだよ。
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今日のための言葉 「ヒントをやろう。とにかく、今その瞬間を生きろ。今やらなければいけないことをやれ。そうすればおのずと答えは出る」 ドラマ「天国に一番近い男」
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