2006.3.7-

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 2006年6月13日(火) 「心にホームベースはあるか。
               やりたいことさえ見失わなければそれでいい」

 上から振り下ろすような人生論ではなく、日々の過ごし方についての方法論や姿勢のことを考えたいと今は思ってる。
 日常にこそ確かな哲学が必要だ。始まりであり終わりであり、中心であり核である心のホームベースが。
 何のために生きているのかという問いに即答できる人でありたい。それさえあれば、人生の最終目標は必要ないのかもしれない。生きることの目的は終わらせることではなく続けることなのだから。
 揺れたりぶれたり変化したりするのは必然だ。時と共にいろんなことが変わっていく。不変であることが大事なのではない。揺るがない信念が不可欠なわけでもない。大切なのは、いつでも今自分が何をしたいのかを見失わないでいることだ。
 人は、自分が本当にやりたいことと心中すればそれでいいのだと私は思っている。

 2006年6月12日(月) 「相手がヒディンクだけに嫌な予感があった。
                負けてみれば当然の結果だった」

 ジーコ監督と長嶋監督は重なる部分が多い。信念と思い込みとかつてのカリスマ性だけでは勝てるチームを作ることはできない。
 トルシエには戦略と戦術があったけど、今の代表にはそれさえない。思い返せば、オフト監督のときが一番いいサッカーをしてたような気がする。
 ジーコが監督になってから日本代表に夢見ることはやめたから、今日の負けも悔しくはなかった。
 次はベンゲルが受けてくれるだろうか。
 それにしても、次の4年は遠いね。

 2006年6月11日(日) 「教えてもらうのではなく学び取ること。
                日々の暮らしの中にそれはたくさんある」

 日々の暮らしの中から学び取るものはたくさんあって、それは過去があるから気づくことができたことで、未来のどこかへとつながっていっている。すべての出来事に意味を見いだす必要はないけど、つながりは確かにある。有機的な連鎖が。
 ものごとのとらえ方はいくつもある。外から内と内から外、時間軸の中で現在、過去、未来と視点を変えたり、上からと下から、全体の一部と一部の拡大の全体など。絶対的に正しい判断をすることは無理としても、いくつもの視点から総合的に判断することはできる。それは、自分の死角を知ることにもつながる。
 私たちはあらゆることが分からない。でも、たくさんのことを知っている。大切なのは、分かっていることと分かっていないことの区別をつけることだ。同時に、想像することもすごく大事だ。
 毎日の喜怒哀楽をその場限りにせず、できるだけ意識的に自覚したい。それが学び取るということだから。教えられることだけを受け入れてるだけでは充分とは言えない。

 2006年6月10日(土) 「好きなだけではどうにもならないけれど、
                好きなことだけやっていたい」

 好きという感情は尊いものかもしれないけど正当性はない。
 自分を好きでない相手に自分の好きという気持ちを押しつけて困らせたり、好きなプロ野球チームが負けたといって腹を立てたり、人はときどき好きという感情に支配されすぎる。
 好きな服、好きな食べ物、好きな色。好きな小説に好きな映画、好きな音楽。そこに明確な基準はなく、客観性もない。あるのはとても曖昧で移ろいやすい感情だけだ。
 好きなものがたくさんあればあるほど人生を楽しむことができる。嫌いなものが多いよりも好きなことが多い方が幸せだ。ただ、あまりにも好きという感情を過大評価して囚われすぎてしまうのはよくないことだろう。
 好きというだけではどうにもならないことが世の中にはたくさんある。好きこそものの上手なれとは言うけれど。
 それでももし、好きなことだけやって生きていくことができたとしたら、それは本当の意味で人生の勝者と言えるかもしれない。好きなものを好きであり続けるためには強さが必要だ。

 2006年6月9日(金) 「自分を信じて信じすぎない。
                疑うことも大切なこと」

 いつもいつも自分を信じすぎると、かえって自分を見失うことになる。ときどき自分が信じられなくなるくらいでちょうどいい。それが揺り戻しのリセット効果となる。
 自分を疑うことは自分を信じることと同じくらい大切なことだ。疑う気持ちがなければ、修正もできず進歩もままならない。
 とはいえ、疑うことで身を守ったり言い訳に使ったりしてはいけない。自虐というのはスパイス程度に振りかけて効果を発揮するのであって、基本の味付けとして使うものじゃない。
 大切なのは、自分を信じること。そして信じすぎないことだ。それは、他人についても社会についても世界についても同じことが言えるかもしれない。

 2006年6月8日(木) 「本当の個人となるために。
               自分のため人のために何ができるか」

 なんでも自分でやってみなければ気が済まないというのは不幸な思い込みだ。
 誰かがやったことを自分もやる必要はない。たとえ人より上手くできたとしても。誰でもできることを自分もやって安心していても仕方がない。
 やるべきことは、誰もできないことか、誰もやらないことだ。どんなにばかばかしいことでも、そこには意味と価値がある。
 空白と何もないという事実は別ものだ。何も書かれてない日記の1ページと、今日は何もなかったと書かれた1ページが違うものであるように。
 私たちは個別でありながら同時に総体であり、その一部でもある。65億人兄弟の中のひとりと捉えたとき、個人としての責任は重くて軽い。全部の責任を背負う必要はないけど、誰かがやってくれるから自分は何もしなくていいというわけではない。
 自分のために何ができるか。人のために何ができるか。自分が本当の意味で個であるために自分は何ができるのかを考えていきたい。

 2006年6月7日(水) 「自己評価不能。
             今はいい状態なのか悪い状態なのか分からない」

 最近、日常の自分の状態がよく分かってない。この状態は是なのか非なのか、反省すべきなのか高揚すべきなのか、なんとなく自分自身つかみ所がないと感じている。いい状態なのか悪い状態なのかも、ぼんやりしている。気分的には決して悪くないのだけど。
 調子がいいのやら悪いのやら、どっちなんだろう。自己評価がうまくできないから、方向性が見えてこない。
 やりたいことがあってやらないといけないことがある。イメージがあって計画があって、日々実行がある。これでいいような、これではいけないような。何か大事な約束をしていたはずなのにそれを思い出せないようなモヤモヤ感がつきまとう。
 とりあえず今のところ足は動いてるから、このまま前進していくしかないだろう。あえて立ち止まって考え込む必要はない。心も内側ではなく外側に向かっていっている。
 早く明日に向かって、新しい一日を始めたい。

 2006年6月6日(火) 「走り出そうとする心。
             抑えようとする気持ちと心を追いかけたい思いと」

 心が走り出そうとしているのを少し抑えている。一週間をひとつの単位としたメリハリが大事だから。前半で飛ばしすぎると週末まで持たない。気持ちがエネルギー切れを起こす。
 常に全力疾走はできない。ただし、いつでも全力投球はできるはずだ。そのあたりを取り違えないようにしたい。
 梅雨入りまであと少し。それまでに花フェスタと海だけは行っておきたい。ふたつのイベントを終えて、心置きなく私自身も梅雨入りしたい。
 それにしても、心がぐるぐるぐるぐる回って、頭もクルクルクルクル回転して、目が回る。
 南知多ビーチランドに、アジサイに、ササユリに、ゲンジボタルに、明治村に、野鳥に野草に昆虫に、神社仏閣、山歩き。考え出すと、止めどがない。
 洗濯機の中に無作為に放り込まれた洗濯物がぐるぐる回るみたいに。

 2006年6月5日(月) 「未来に向けて自分ができること。
                千年後に対する優越と憧憬」

 途中参加、途中退場の私たちがこの世界に対してできることは何なのかを考えてみる。世界が自分に与えてくれるものが何なのかということとは別に。
 きれいごとの優等生的発言でいえば、過去の遺産を未来の子供たちに引き継ぐということなのだけど、もう少し自分勝手な思い込みの部分で何かできないものだろうか。世界遺産の建立物に自分の名前を彫り込むようなイタズラではなく。
 何をしても1,000年もすれば自分の痕跡は何も残らないし、1万年前の有名人を私たちは誰ひとり知らないわけだけど、だからといっても最初から何もしなくてもいいというわけではないだろう。
 後世の人の評価が欲しいわけではなく、生きている間に、これだけはやり遂げたなと思えることがひとつくらいは欲しいと思う。それは、誰にも知られないことでもかまわない。自分さえ本当にそう思えれば。
 私たちが発していることは、同時代の人に向けてだけではない。未来を生きる人たちに向けてのメッセージでもある。
 たとえば1,000年後の人たちに対する優越感と憧れはどんなことだろう? そんなことを考えれば、未来に向けて何をすればいいのか、少しは見えてくるかもしれない。

 2006年6月4日(日) 「上手であることの価値。
                意味はなくても上達する嬉しさはある」

 上手であることに意味があったりなかったり。
 努力で手に入れた上手さには価値がある。元々備わっている上手さにどの程度の価値を見いだすかは難しいところだ。生まれつき足が速いからといってそれが誉められるべきかどうか。
 人は簡単に才能という言葉で片づけようとする。もしくはセンスという言葉を使って結論づける。才能やセンスには2種類あるのに、それをあまり厳密に区別しようとはしない。いずれにしても、上手さは手段であって目的ではない。
 最近、上手いということがどういうことなのかを考える機会が多い。それは上手くなりたいと思ってやっていることがいくつかあるからだ。写真だったり料理だったり字だったり。
 字が上手くなりたいうというのも最近のテーマのひとつで、ペン字の本を買ってきて字を書く練習をしている。昔から自分の字には自信が持てなかった。それを今さらながら直したいと思うようになった。特にこれといったきっかけがあったわけではないのだけど。
 練習して、お手本のような字が書けるようになると、これが思いがけず嬉しいものなのだ。今までが下手だったけだけによけいそう思う。字に多少なりとも自信が持てるようになると、人前で書くときも恥ずかしくないし、むしろ積極的に書きたいとさえ思うようになる。とても新鮮な気持ちだ。
 写真も料理も文章も、もっともっと上手になっていきたい。その思いがある限り続けていけそうな気がしている。
 何かを上手にできることにどの程度の意味があるのか分からない。ただ、努力して上手くなると嬉しいことだけは確かだ。大人になっても、年を取っても、その気持ちはなくさないようにしたい。

 2006年6月2日(金) 「半分ずつの悲しみと喜び。
               打ち消し合うのではなく相乗させる」

 悲しみ半分、喜び半分。それはどこまでいっても変わらないらしい。
 でも、だからといって、生きることが嫌だとは思わない。悲しみもまた、大切な半分だ。
 届かなかった自分の想いを弔うことや、遠ざかる目標に顔が歪むことも、生きているがゆえの愛おしい痛みだ。人生が思い通りにいかないからといって絶望するには値しない。
 人生は思い描いた通りに線を描き色を塗るものじゃない。生きながら学び、知りながら作っていくものだ。痛い思いをしながら。
 痛みを喜びで打ち消してはいけない。痛みは痛みとして受け止め、喜びは喜びとして何も混ぜずに味わうことだ。そうすればきっと、生きることすべてを好きになる日も来るだろう。子供の頃苦手だった酸っぱさや苦さも、大人になって美味しいと感じられるようになったみたいに。

 2006年6月1日(木) 「どうした、相生山のヒメボタル。
               今日がたまたま少なかったと思いたいけど」

 天白の相生山緑地にヒメボタルを見に行った。去年に続いて二度目だ。
 しかし、見られたのは、わずかに2匹か3匹。一体どうしたことか。
 条件が悪かったとは思えない。今年は発生が遅れているという情報もあったから時期的に遅いことはないはずだ。今日は気候的にも暑くて風はなかった。たまたまタイミングが悪かっただけなのか。
 それとも、9時では少し早すぎて、もう少し遅くまで粘ったらたくさん見られたのだろうか。去年も同じくらいの時間で100匹以上見られたのだけど。
 竹藪の中の下草が刈り取られていたのが気になったとはいえ、上の梅林の方は特に目立つような変化はなかった。
 何か目に見えない環境変化があったんだろうか。あるいは、春から初夏にかけて気温が上がらなかったことが影響してるのだろうか。
 近く道路も通ってますます見られなくなっていくだろうに、この先が心配だ。
 今年はもう行けないだろうから、また来年になる。来年はもっと元気にたくさん光って飛んで欲しい。あそこはわずかに残されたヒメボタルの聖地なのだから。

 2006年5月31日(水) 「日々を重ねて連鎖の糸を見つける。
                昨日、今日、明日、どれも同じくらい大事」

 日々は過ごすものじゃなく、重ねるもの。その意識がないと、いつまで経っても平坦な道を前に進むだけになる。足もとに階段のように重ねていくことで上に登っていける。それができるのは自分だけで、毎日少しずつやっていくしかない。
 今日起こった出来事がどんな意味を持っていたか分からないことがある。でもそれは、思いがけないところで思いがけない形でつながることがある。あのときのあればここにつながっていたのかと納得することがある。それもまた、重ねるということだ。
 忘れっぽい私だけど、忘れないことの大切さというものもだんだん分かってきた。過去を切り離すことで身軽になって早く遠くまで行けるような気がしていたけど、それは間違いだった。先を急ぐことも大事。でも、現在、過去、未来は、どれも同じくらいの比重で大切なのだ。前も後ろも横も。上も下も。
 明日のことを考え、昨日までのことを思い出し、今日を重ねる。すべてにつながりはある。その連鎖が見えたとき、初めて生きることの意味が見えてくるだろう。

 2006年5月30日(火) 「本当の賢さを知りたい。
                限界があるならそこまで」

 賢さというのは、先取りであり、同時にそういうことではない。
 進んだ科学は魔法に見えるという言葉あるけど、賢さもそれと同じだ。
 たとえば、今私たちが小学生になったら、同級生からも教師からも親からも、すごく賢いと言われるけど、実際にそんなことはない。同年代と比べて先行してるだけだから。相対的な賢さと絶対的な賢さは違う。
 真の賢さとは何か、それは追求すべき大切なテーマのひとつだと思っている。賢さが解決できる問題は少ないと知ってはいるし、賢くなることが人生の本質ではないことは、これまで生きてきた中で分かったけど。
 人類としてこの先も生き延びていこうとするなら、そのときは今以上の賢さが必要になるに違いない。上っ面の知恵とかそういうことではなく、未来へとつながる深い部分で。
 生命はどこまで賢くなれるのか。限界があるのかないのか。終わりのない旅はまだ始まったばかりだ。

 2006年5月29日(月) 「強さと弱さは自分の両輪。
                自分の弱さを知ることが強さとなる」

 弱さと強さは、自分の中で違いに補完し合う関係だ。相反するものでもないし、反発し合うものでもない。
 たとえば、自信過剰が失敗を招き、失敗が次の成功につながったり、臆病さが慎重さを生み自分の身を守ったりする。
 完全に強くなる必要はなくて、弱さもいろんなところで役に立っているのだから大事にした方がいい。それも自分の一部だ。
 弱いから人に優しくもなれるし、思いやりも持てる。むしろ、強すぎる人間の方がときに危うい。根本からポキリと折れてしまうこともある。
 強さと弱さは互いにバランスを取りながら変化していく。年齢と経験を重ねながら。
 そして、自分の弱さを知ったとき、人は初めて本当に強くなれるのだと思う。

 2006年5月28日(日) 「大事なことはたくさんあって単純じゃない。
                これからも立ち止まらず考えていく」

 遙か彼方に思えたことも、辿り着いてみればあっけないもの。それでも後ろを振り返ると、長い年月と距離が横たわっている。
 私たちは時間の速度を超えることができない。
 遠くに目標を定めてそこに向かうことも大事。
 先を考えず今を頑張ることも大切。
 立ち止まって考え込まないことだ。考えることは進みながらでもできる。疲れたからといって休んでしまうと、次に歩き始めるときが大変になる。何かをやめるときは、新しいものを見つけたときだ。
 人生は長いと言い、人生は短いとも言う。どちらが正しいのかなんて考える必要はない。もし、あの世があれば、そのとき思い返せばいい。
 できることとしたいこと。自分のためと誰かのため。ときにふたつの間に立ち、引き裂かれることがある。どちらとも決められないことも。生きることはそんなに単純なことじゃない。少なくとも私にはよく分からない。分からないまま今日を生き延びて明日に向かっている。
 私に分かっていることは、この世界で生きることが好きだということだけだ。そう思えるようになるまで30年かかった。それが私の出した答えだとも言える。

 2006年5月27日(土) 「雨で散った5月のイメージ。
                6月のイメージ作りはこれから」

 たくさんのイメージがあった5月は、雨によってそれが散乱してしまった。今のところ、6月のイメージはない。
 雨なら雨の写真を撮ればいい。それはそうなんだけど、雨による制約はあまりにも大きすぎる。光のない写真は何かドラマに欠けるし、カメラを持っての散策はとても困難になる。
 5月からずれ込んだものもあわせて、6月はヒメボタル、バラ、ササユリ、アジサイ、そんなところだろうか。6月というのは、案外花の少ない時期だ。春の花が終わって、夏の花はまだ咲かない境目の季節だから。
 6月に一度、海へ行っておこう。雨の合間を縫って。梅雨が明けてしまうと、海岸は海水浴客のものとなってしまうから。
 5月の残りは、カキツバタで締めくくりになる。

 2006年5月26日(金) 「闘わなかった格好悪いかつての自分。
             鈍くなってもこれからは自虐的に立ち向かいたい」

 年齢と共に自分の耐性が上がっていっているのが分かる。それは年を取って鈍くなっていってるからでもあるのだけど、鈍感になることは必ずしも悲しむべきことじゃない。
 自虐を自虐と意識して楽しむとまではいかないまでも、苦手なことや不利な状況に自ら進んで立ち向うことができるようになってきた。もっと若い頃は、嫌なことは本当にしなかった。嫌だ、やりたくないという理由だけで。それを耐えれば自分のためになるかどうかまで考える余裕がなかった。
 今思い返してみると、たくさん耐えられるシーンがあった。今なら多くの場面で実際に耐えられるだろう。結果、事態は好転していたはずだ。
 若さは格好悪さを嫌う。それは仕方がないことなのかもしれない。
 鈍くなることは恥ずかしいことだと思っていたけど、そうじゃなかった。本当に格好悪いのは、嫌だというだけで闘おうとしないことだ。かつての闘いを今闘うことはできない。でも、せめてこれから訪れる逆風には立ち向かってきたいと思う。それが、かつての償いにもなると信じたい。

 2006年5月25日(木) 「脳のクールダウンに要する時間。
                 睡眠時間の長さで人生は変わるか?」

 人間の脳はものすごく高性能ですごいなと思う半面、連続16時間くらい稼働したあとは8時間も使い物にならないことを考えると、若干性能面で不満が残る。クールダウンに8時間はちょっとかかりすぎだ。それだけ高性能だと言うこともできるのだろうけど。
 ただ、24時間稼働し続ける脳は必要ない。それは脳が持っても神経が持たないから。肉体にも休息が必要だ。
 短い睡眠時間で済む人と、長い時間が必要な人と、脳はどんな違いがあるのだろう?
 私はだいたい7時間から7時間半がベストで、それ以上でもダメだし、それ以下だと起きてから性能が半減してしまうというタイプだ。3時間くらいでいいように脳を改造できないだろうかなんて考えるけど、将来的には何らかの方法でそんなことができるようになったりするんだろうか?
 睡眠時間が減れば、それだけ長生きになるのと同じだから、少なく済めばそれに越したことはない。
 もし、物心ついてから、睡眠時間が3時間でよかったとしたら、今ごろ私は違う人間になって違う生き方をしてたのだろうか? 今よりももっと豊かな人になれてただろうか。なっていたようにも思うし、あまり変わらないような気もする。
 ただ、睡眠は間違いなく幸せのひとつに違いなく、眠る喜びは捨てがたいものがある。夢を見る楽しさも。

 2006年5月23日(火) 「時代は人類の総意。
                いいも悪いも正しいも間違いもない」

 時代は人類の総意であって、正しいも間違いもない。あるのは結果としての必然だけだ。
 懐古趣味と未来志向は、どの時代にもある。昔はよかったなどと口にする人は、それこそ大昔からいる。
 どうやっても戻れないし、一定の速度以上には進めない。流れの中に身を置いて、時代の中で生きていくしかない。流行に乗ることとは違う。前後の流れを見失わないことが大切だ。
 時代というのは、どこか一面を切り取ってそこを評価したり、判断しても意味がない。完結したとき初めて、ここはよかったとかあそこは悪かったとか言えるものだ。
 時代は変わる。それは確かだ。これまで生きてきた中でそれを感じてきた。時代に選ばれ、時代に捨てられた人間も大勢見てきた。
 どんな時代であっても、いいも悪いもない。そのときどきで、時代の空気を胸に吸い込んで生きていくだけだ。これから先、どんなふうに移り変わっていくのかを楽しみにしつつ。

 2006年5月22日(月) 「ヘブンは目指すものじゃなく作るもの。
                地上のブライトサイドはハーフ・オフ・ヘブン」

 私たちの夢はきっと、天国へ行くことではなく、地上に天国を作ることなのだろう。自分たちの手で。
 天国帰りの人間なら尚更だ。
 私は、今のままでも充分、天国よりも天国的だと思っているけど。明るい面にいさえすれば。

 2006年5月21日(日) 「堕天使が天に戻ったとき、
                 人は本当の善になる」

 人間は本質的に善か悪かという論争は意味がない。そんなもの、善でもあり悪でもあるに決まっているから。
 ただ、最終的に善になり得る可能性を持った生き物だと私は信じている。今は無理でも、いつかは悪なしで世界を成立させることができるようになると。
 動物は善でも悪でもなく、どちらにもなり得ない。それは、彼らには選択の意志と自由がないから。悪を選べないものは善にも決してなることはできない。
 人間が最後、善になるか悪になるかは分からない。その前に滅びてしまう可能性も高い。それでも、可能性がある以上、そちらに向かうべきだろう。
 善とは何か。それは悪を選ばないという選択だ。
 悪とは何か。それは善を選ばないという選択だ。
 無意識の存在は、ただの純または鈍に過ぎない。
 人はそれぞれ、自分の中の悪と戦う堕天使のようなものだ。誰も無邪気な天使ではいられない。でも、一度地に堕ちた天使が再び自らの意志と力で天に昇ったとき、初めて人は善になるのだと思う。そこにこそ、本当の美しさと価値があるのだと信じている。

 2006年5月20日(土) 「幸福は感情じゃなく論理だ。
                 解釈を学ばなければ幸せになれない」

 天才に生まれなかったら、努力して向上する楽しみがある。
 貧乏に生まれたら、お金を得ることの喜びを人一倍感じることができる。
 人より劣っていれば、憧れるという気持ちを持つことができる。
 何かが足りないことの不幸というのは、一面的で一時的なものでしかない。人生は平行線を辿るだけのものではないのだから。
 他人よりスタートラインが後ろでも、スタートが遅れても、生きていれば挽回することが可能だ。
 もちろん、回復不能な絶対的な不幸もこの世界には存在しているだろう。けど、人は誰も、自分が思うほど不幸ではない。自分の不幸を過大評価しすぎる。
 他人や社会が与えられる不幸が不幸のすべてではない。多くの部分は心の問題だ。
 幸せになりたければ、幸福の論理を学ぶことだ。どう解釈すれば幸せになるかを知らなければ、どれだけ恵まれていても、どれだけ自分に与えても、幸福感は持てない。

 2006年5月19日(金) 「得意と苦手のわずかな差。
                 形のない自信では支えきれない」

 自信と不信の差は、意外と小さいものなのかもしれない。得意と苦手の差も。
 好結果が自信につながり、結果が出ないと不信となる。それは両極にあるものではない。ちょっとした違いに過ぎない。
 苦手だと思っていたことも、ちょっと人に誉められれば得意に変わることがあるし、その逆もある。
 結果がすべてかというとそうでもないけど、結果が出なくても自分に自信を持って頑張れるかといえばそんなに強くもなれない。どうしても人には確かな形が必要だ。形のない自信で自分を支えるのは難しいから。自信がもたらしてくれるものは決して小さくない。そしてそれは、自己評価ではなく、他人の評価だったり数字だったりすることが多い。
 自己満足には限界がある。他人の評価こそが自信につながり、更にその先へと自分を駆り立ててくれる。
 自信を持ち得るための努力は絶対的に必要なのだと思う。最初から他人の評価を放棄するのは歪んだ自己防衛だ。
 たとえ今は自信が持てず苦手なことでも、それを得意なものとするための上積みはそんなに大きなものじゃない。自分の好きなことなら尚更だ。気持ちを切らさず積み重ねていけば、いつか歳月が自信をもたらしてくれるだろう。

 2006年5月18日(木) 「不完全な目だからこそ。
                 人の目は都合がいい」

 人はものを意識的に見ているつもりが、完全には意識で支配できていないものだ。見たいものを不完全に見ているだけで、思い通りに見たいものと見たくないものを選別できているわけではない。
 見ているのは目ではない、脳だ。脳が意識に降ろす情報と遮断する情報を、ものすごいスピードで振り分ける作業をしている。たぶん、目は意識の何倍のも情報を拾っているのだろう。
 私たちの目は、ある意味では非常に性能が低いと言えるかもしれない。見える範囲が狭すぎる。ただ、それゆえ日常生活が送れているという言い方もできる。
 たとえば、一部の例外を除いて霊体を見ることができないからのんきでいられるわけだし、紫外線や赤外線は見えないから表を歩いていても平気でいられる。レントゲンみたいに人体が見えたら嫌だし、リモコンの光線なんかが全部見えたら邪魔くさくてしょうがない。暗闇も見えてしまったら、それはそれで困ることも出てくるだろう。
 そういうふうに考えてくると、人の目というのはとても都合良くできているということが分かる。私なんかは特に視力が弱いから、人の欠点などもあまり見えずに助かっているところがある。デジタルハイビジョン並みの視力を持っていたら、私は今ほど楽天的ではいられなかった気もする。
 人によって見えている世界はそれぞれ違う。それは脳が違うから。意識がフォーカスしている部分を主に見ているから、同じ風景を見ても印象に残るものは違ってくる。そのへんは撮る写真の個性といったところでも分かる。
 ものごとの良い面を見る人間と、悪い面を見る人間がいる。それを意識的に変えることができるのかどうかは分からない。私は幸運なことに良い面が見えるようにできているらしい。幸福な不完全と言えるだろう。

 2006年5月17日(水) 「生きることを学び、世界を知れば、
                 この世界も生きることも愛せるようになる」

 かつての攻撃性や憐れみの感情は、今や同情や共感に変わった。
 刃の先は丸くなり、ついには剣を捨てるまでに至った。
 もう、人を攻撃するための道具は必要ない。
 年齢を重ねて穏やかになることがこんなにいいものだとは思わなかった。
 枯れたわけじゃない、むしろ昔よりも強くなった。強さの在り方が分かってきた。他者を打ちのめしたり、相手より優位に立つことが強さじゃない。
 人間だけではなく、この世界を形作っているすべての要素を愛することが答えだった。その立脚点を見つけて、見失わないでいる限り、もう絶望することはないだろう。
 やっとここまできた。

 2006年5月16日(火) 「多くの人を間接的に幸せにしてる。
                 ラッキーは思うほど必要じゃない」

 自分がうまくいないことは、どこかで誰かうまくいっている。そんなふうに自分をなぐさめることがある。クジに私が当たらなかったことで誰かに当てさせてあげたのだ、と。
 そういう発想でいくと、私は相当大勢の人を間接的に幸福にしていると言っていい。すごくアンラッキーなことはほとんどないけど、すごくラッキーなこともあまりない私だから。
 逆の言い方をすれば、自分がいい目を見たら、誰かの幸せを奪っているということだ。とても切実なことを除いて、当たっても当たらなくてもいいようなものはなるべく当たらないようにしておこうと思う。バチも当てていらない。
 得をすることは好きだけど、それが誰かのマイナスで成り立っているものだったら、なるべく身を引いた方がいい。
 人生にラッキーはそんなにいらない。

 2006年5月15日(月) 「日本は孤独に強くて、友達を欲してない。
                 どこも嫌ってないから嫌わないで」

 国というのは、どこの国も孤独なもので、みんな寂しがり屋だ。だから仲間を求めたがる。孤立してるのは北朝鮮ばかりじゃなく、お山の大将であるアメリカだって友達がいなくて寂しい思いをしてるに違いない。ヨーロッパだって、みんな集まって無理に仲良しになろうとしてる。本当は自分のところが一番だと思いながら。
 その中で日本という国は非常に特殊な国に違いない。島国で、昔は鎖国もしてたから、孤独に強い。仲間を必要としない一匹狼的なところがある。イギリスやオーストラリアなどの島国はある程度共通してる部分もあるのだろうけど、日本人の精神性は他のどこの国とも違っている。アメリカとだって本当は友達付き合いしなくはないのだ。
 もちろん、食料にしても燃料にしてもいろんな国に依存していかなければ成り立たない。ただ、これほど仲間を外に求めようとしない国は他にはないんじゃないだろうか。悪く言えば自己満足的、言葉を変えれば独立心が強い。
 かつて数度あった戦略戦争は気まぐれ的なもので、日本の根源的なものではない。だからいつも失敗した。
 日本という国は良くも悪くも非常にユニークな国だ。外国人がどう思うかという問題は置いておいて、中にいると居心地がよくて、面白くもある。変なところがいい。問題点もたくさんあるけど、新旧取り混ぜた玉石混淆的な魅力に溢れている。
 日本の一番いいところは、自分たちに確信が持てず、疑うことができる数少ない国である点だと私は思っている。自分たちが正しいと思うかというアンケートをとったら、イエスという回答が世界一少ないだろう。でも、そうやって揺れるからこそ、外国のいい点を学べるわけで、そこに日本の可能性がある。自分が正しいと思い込んでいる国ほど危うい。それは国も人も同じだ。
 洒落と粋と笑いと酔狂、そのあたりに日本の本質はある。だから、日本は変な国だけど、できれば笑って許して欲しい。どこの外国も嫌ってなどいない。

 2006年5月14日(日) 「偉くなりたいと思う気持ちと姿勢。
                 偉くなくてもいいという思いはない」

 偉くならなくてもいいという選択肢はない。何もしないで最初から偉くなることを放棄するという姿勢は、してはいけないことだと思っている。
 結果が問題じゃない。方向性として、そちらを向かなければ自分という存在が許されなくなるということだ。
 偉くならなくては、偉くなりたい、その思いが可能性を残し、許しにつながると信じている。
 偉さというのは幅も広く、奥も深い。人それぞれの道がある。人として何が偉いのかは自分で決めればいい。社会的な地位だと思うならそれでいい。
 私が思う偉さは、まっとうであることだ。まっとうに生きている人たちを見ると、本当に偉いなと思うし、自分もそうなりたいと願う。でも、それは私にはひどく難しいことだから、せめて人間として偉くなりたいと思う。たとえば、強くあることとか、優しくあることとか、人を思いやることとか、そういうことだ。
 人として間違ってないと思えることが、自分を支える最後の拠り所となっている。

 2006年5月13日(土) 「心は育てるもの。
                丹誠込めてとっておきの花を咲かせたい」

 人の心というのは、育てるのに手間暇がかかるものだ。バラを育てるように。
 ほったらかしにしていたら、枯れもするし荒れもする。栄養を与えて、水をやり、日にも当てなくちゃまともには育たない。悪い部分があれば取り除き、病気になったら薬をやって手当てしなくちゃいけない。
 心は放っておいても勝手に育つほど丈夫なものじゃない。
 人生は、心を丹誠込めて育てる行為なのだと思う。いろんなことに興味をもって、自分から向かっていって、勉強して、知識や教養を得たとき、はじめて心は豊かに育つ。世界はそこに在るだけだ。こちらから欲しなければ望むものは与えてくれない。誰かが幸せにしてくれるものでもない。
 生まれたばかりの私たちは、新品の心を持っていた。それを育てたのは自分自身だ。他の誰かが育てたわけじゃない。
 心は自分であって自分じゃない。一番大事なものだけど、自分のすべてではない。自分の中に入っているものだ。あるいは逆に、自分を入れる入れ物と言ってもいいかもしれない。
 せっかくこんないいものを持っているのだ。大事に育てて、とっておきの花を咲かせたい。自分のため、誰かのため、世界のために。

 2006年5月12日(金) 「本を読める時期の良し悪し。
                 気持ちの電池が切れるまで」

 本を読みたい気持ちがここのところぐぐっと高まっている。数年ぶりだろうか。ここ数年はずっと読めない時期が続いている。
 本を読む気になることは喜ばしいことだ。けど、それは消極性にもつながってしまう。写真を撮りにいくことと、本を読むことは、相容れない。行き帰りの車の中で、信号待ちの間に本読みをするという荒技を使ったとしても。
 本の世界に触れていることが心地よいというのも、心の状態を示すシグナルとして、あまりいい傾向ではない。気持ちが外に向かわず内に向いてるということだから。
 今のところ、どちらに行こうか迷いながら揺れている。けど、そうやって揺れている間にも「Book off」で買ってきた本たちは日増しに増え、未読本の棚は今や溢れかえりそうになっている。読める量の3倍の本を買ってしまうというのが昔からの私の悪いクセなのだ。
 とりあえず、本へと向かう気持ちが続いている間は、その気持ちに乗っかっていくことにしよう。何もしなくても、そのうちまた、バタッと止まってしまうときが来るのだから。電池が切れたリモコンのように、一切操作不能になってしまう自分の気分の性質は、もうよく分かっている。

 2006年5月11日(木) 「一日一ページ。
                 印象に残るページを一枚でも多く」

 一期一会。一日一度。
 すべてはその場限り、一瞬の出会いと別れが連続している。人生に同じ日は一度しか訪れない。
 これは教訓でも戒めでもない、単なる事実だ。ただ、その事実は意識してる以上に重い。一日の重さを軽く見過ぎている。
 一日をどれほどの重みとして捉えればいいのか、それはまだよく分からない。大事にしなくてはいけないと分かってはいても感覚として正確に掴んでいるとは言えない。
 それでも、一日の終わりと始まりには、決意のようなものが必要だろう。
 一日はスケッチブック一ページのようなもの。何をどう描くかは自分で決められる。何も描かない一日を作らないようにしたい。そして、できることなら、印象的なページが一枚でも多くなるように、一日を描きたい。ずっと覚えていられるようなページが多ければ多いほどいい。

 2006年5月10日(水) 「写真は誰でも上手くなる。
                上手になりたいと願って撮り続ければ」

 写真はいい趣味だなぁと最近思う。
 若い方が有利じゃないのがいい。
 音楽にしろ文学にしろ芸術にしろスポーツにしろ、若さゆえの絶対的な優位というのがある。けど、写真にはそれがない。若くないと描けない絵というものは確かにあるけど、若くないと撮れない写真というのはほとんどない気がする。ゴルフは歳を取っても楽しめるけど、若くて体力があった方が有利に違いない。
 写真は誰でも、撮れば撮るほど上手くなるし、歳を取って衰えるということがあまりない。停滞はあっても、極端に下手になるということはない。そういう趣味って意外とないんじゃないだろうか。他には釣りや書道あたりは似たようなことが言えるかもしれないけど。

 去年自分が撮った写真を見ると、下手だなと思う。でもそれは上達した証だ。嘆くことじゃない。デジカメの場合、データは保存してあるし、すぐに見ることができるから、上達を実感しやすい。
 写真は記録であり、記憶であり、表現である。人によっては芸術と言うかもしれない。
 私は、写真の本質は共有だと思っている。自分で撮って自分で見てるだけでは写真の半面でしかない。誰かと一緒に見て、初めて写真として成立すると信じている。だから、これだけネットやブログが一般に普及したことは、写真を趣味とするにはとてもいい時代になったと言える。写真と写真が共鳴して、横につながり、広がっていく。5年前、こういう世界はなかった。

 もっと写真が上手になりたい。少年の頃、もっと野球やテニスが上手くなりたいと願ったのと同じように、今そう思う。もっと上手くなればもっと楽しくなるから。
 写真は誰でも上手くなる。絵を描いたり、ピアノを弾いたりするのとは違う。ただし、そのためには基礎の勉強も必要だろうし、何より上手くなりたいという気持ちが不可欠だ。写真なんて撮りたいものを撮りたいように撮っていればそれでいいと思っていては、どれだけ撮っても上手くはならない。習字やペン字の練習もせずにどれだけ字を書いても字が上手くなることはないように。
 一枚、一枚が練習、今日より明日、今年より来年、もっといい写真が撮れるようになりたい。

 2006年5月9日(火) 「5月は難しい月。
                だからこそ、上手く乗っていきたい」

 5月は気持ちが焦る。
 ゴールデンウィークで足止めを食らい、明けると雨が続き、花は逃げるように咲き急ぐ。追いかけようと気持ちが前へいきすぎて足もとがもつれる。
 と同時に暑さがやって来て、まだ夏仕様になっていない体がついていけない。汗とともに気力も体から流れ落ちていく。
 5月というのは、けっこう大事な月だ。ここを上手く乗りきると夏までの流れが生まれる。乗れないと、そのまま秋まで停滞しかねない。
 焦りすぎず、でも急ぎつつ、なるべく前倒しでいきたい。優先順位を間違えないように。
 次はカキツバタとバラ。ヒメボタルもある。まずはこの三つをクリアするまでは落ち着かない日が続きそうだ。

 2006年5月8日(月) 「半落ちに映画も小説も完落ち。
                映画のあとに読んでこそ」

 横山秀夫の小説『半落ち』を読んだ。佐々部清監督の映画版『半落ち』も素晴らしかったけど、小説も負けず劣らずよかった。映画を観たあと読んだ方がより深く楽しめるというケースの作品と言えるだろう。
 小説のどこが素晴らしかったかといえば、それはもう文筆力、それに尽きる。内容に関しては、それぞれ好みもあるだろうけど、小説家としての実力に疑う余地はない。文章に揺るぎがなくて、何の不安もなく読めるというのは、実はそれほど当たり前のことではない。
 キャラクターの造形力も見事。

「このミステリーがすごい」、「週刊文春ミステリーベスト10」のダブル1位となった作品ではあるけど、推理小説としてよりも人間ドラマを描いた小説として優れている。だから、映画で結末を知っていても、小説は小説で楽しめる。
 それにしても、寺尾聰というのはいい配役だった。小説を読む上でもイメージの助けとなった。
 映画も小説も、作品世界の中で登場人物たちが確かな存在感を持って生きていれば、作品は間違いなく良いものとなる。少なくとも私はそう思っている。
 ストーリーを追いたいわけじゃない。人間のドラマが見たいのだ。

 2006年5月7日(日) 「戦争がしたいわけじゃなく燃えたいだけ。
                命を賭けるものがあれば争いはいらない」

 人は平和に憧れ、平和に満足することができない。
 戦国を生きた人間は戦争のない世の中を求め、平和の中で生きる人間は戦乱の世を心のどこかでうらやましく思ったりする。だから、戦争と平和は交互に繰り返され、終わることがない。
 その精神性がホモ・サピエンスの宿命であり、限界なのだろう。
 次の人類は、心の底から平和を願う草食動物のような人間なんだろうか? それとも、私たちよりもっと高度な肉食動物なのか?
 争いの中で人は成長し、進歩が生まれる。この構造自体に間違いがあるとは思わない。ただ、私たちの意志コントロール能力はあまりにも弱すぎる。
 凪のような世界で、どうやったら人が向上していけるのか、その精神的メカニズムは私には分からない。
 ただ、人間は戦争がしたいわけじゃなく、熱くなりたいだけなのだと思う。命をかけてやれることが欲しいだけだ。その証拠に、トップのスポーツ選手や芸術家は戦争なんて欲しない。自分を賭けるものがあるから。
 そのあたりに次の人類のヒントがありそうな気がする。
 あるいは、それが私たちが天国と呼ぶ世界なのかもしれない。

 2006年5月6日(土) 「進みながら迷う。
                立ち止まるらず方向転換すればいい」

 自分の追いかけているものが無意味に思えても、追いかけるのをやめてはいけない。迷うなら追いかけながら迷えばいい。
 いったん立ち止まってしまうと、また走り始めるのに大きなエネルギーを必要とする。
 何かをやめることは失うことが多い。他にやりたいことが見つかってから方向転換すればいい。前へ進む速度を保ちながら。
 今やってることがどんなに無駄に思えても、進み続けることが大切だ。止まらなければ、次に進む方向はきっと見えてくる。

 2006年5月5日(金) 「悲劇は斜め後ろに。
                肩を叩かれたときはもう遅い」

 ハッピーになるはずだった時間に待ち受ける罠。
 ニュースのはざまに浮かんでは消える悲しい出来事。同じ悲劇がいつもいつも繰り返される。
 次は自分の番かもしれない。それは誰しもちらりと思うことだろう。でも、まさか自分の番が次だとは思わない。遠いところで起こったニュースに心痛めても。
 悲劇は自分の斜め後ろの死角にいつも寄り添っているのかもしれない。前方から迫ってくるのではなく、後ろから追いかけてくるのでもなく。とんとんと肩を叩かれて振り向いたときにはもう捕まっている。そんなものだろう。
 みんなが楽しいときに死なないということは、とても大切なことだ。そのために最大限の注意と集中力を発揮する必要がある。危ないことは避ける臆病さも大事だ。
 悲しいニュースの主役となることは、自分の身内だけでなく全国の見知らぬ人たちをも悲しませるのだということを忘れてはいけない。

 2006年5月4日(木) 「千年女王は存在するか?
                存在し得ると思う」

 もし、千年生きられるとしたら、生きるだろうか?
 もちろん、興味はある。好奇心から生きてみることを選択するかもしれない。けど、千年という時間は思っているよりも長いに違いない。今から千年前、日本は平安時代だった。鎌倉、室町、戦国、江戸、明治、大正、昭和、平成。これだけの時代を耐えられるだけの精神力を私たちは持ち合わせているのか?
 生きてみなければ分からない。それはそうだろう。でも、千年生きて、今より10倍以上幸せになれるかと考えてみると、そうは言えない気がする。

 私たちはどれくらい生きれば気が済むのか? 何百年生きれば人生は短いと言わずに済むのだろう。人間50年だった時代から80年になった今、あの頃よりも私たちの人生に満足できているだろうか。
 長ければいいってもんじゃないし、短ければ濃密になるというわけでもない。ただ、時間というのはどう生きるかを決める上でとても重要な要素となることは間違いない。百年と千年とでは、根本的に生き方も変わってくる。50年と80年でもそうだろう。

 何年生きるかを自分で決めることはできない。でも、何年生きたいかを意志として持っておくことは大切なことかもしれない。50年しか生きないつもりなら急がなくてはいけいないし、平均寿命くらい生きるだろうというのなら、老後のことも考えておく必要がある。
 時間の中に囚われている以上、時間を無視することはできない。私たちは引き返すことも、止まることさえも許されていないのだ。
 自分は何年生きるに値するのだろうと考えてみる。世の中のためになるなら100年でも200年でも生きてもいい。
 問題は何年生きられるかではなく、何年生きてもいいのかだ。千年に値する人もきっといる。私の知らないところで千年女王は生きているのかもしれない。

 2006年5月3日(水) 「まだまだ駄目はまだまだいけるということ。
                気落ちするより楽しみに先に進もう」

 自分もまだまだだな。
 深いため息と共にそう思うことがある。
 でも、それは幸せなことだ。まだまだと思えるなら、その先があるということだから。自分ももうこれまでだなと思ってしまったら、本当にそこまでなんだろうから。
 まだまだ駄目ということは、言葉を換えればまだまだ可能性があるというのと同じことだ。気を落とさず、先にいる自分を信じて進んでいけばいい。
 自分自身に問いかけ、確かめてみる。
 まだまだいけるよね?
 うん、大丈夫。まだまだこんなもんじゃない。

 2006年5月2日(火) 「最近知る自分の好きの限界。
                懐かしの80年代を思いながら」

 最近の私は、80年代のことがひどく懐かしく、写真をたくさん撮り、動物園へ行き、本を読みたい気持ちが強くなって、小松未歩をよく聴いている。
 これは退行なのか、新たな段階なのか。
 物心ついて30年以上も過ごすと、否が応でも自分の好みというものを思い知らされる。それは自分の限界でもあり、可能性の頭打ちをも意味する。
 失われるもの、新しく手に入れるもの、拾ったり落としたりしながら、自分の好きなものだけに囲まれていたいと願ってしまう。知らないものを求める気持ちが弱くなる。
 昔はよかったなどと年寄りくさいことは言わないけど、自分が本当に好きなものは、今ではなく過去の中にあることに気づく。
 それでいいじゃんという声と、それじゃあいけないという声と、ふたつの声が聞こえている。

 2006年5月1日(月) 「脱力ニュース。
                洒落で済めば笑える」

 気が滅入るようなニュースが多い中、笑ってはいけないんだろうけど笑えるニュースがあった。

<メード服の女>地下鉄車内でスプレーまき散らす 名古屋

 1日午後2時ごろ、名古屋市営地下鉄桜通線の瑞穂区役所―瑞穂運動場西駅間の電車内で、乗客の女が持っていたスプレーをいきなり車内にまき散らした。女は瑞穂運動場西駅で下車、乗客約40人のうち、同市南区の市立桜小学校5、6年の男女児童5人が3駅先の鶴里駅で駅員に目やのどの痛みを訴え、近くの病院に運ばれたが軽傷。愛知県警瑞穂署は傷害事件として捜査を始めた。
 調べでは、女は30歳くらいで身長160〜170センチ。ピンクのメード服を身に着けており、白のハイソックスと黒のエナメル靴を履いていた。髪は茶色だった。」

 個人的にはメード服ではなくメイド服だと思うんだけどそれはこの際置いておいて、こんなにはっきりと特徴を覚えられてしまう犯人も珍しいなと笑えて仕方なかった。ただ、特徴のある服装や顔をしてるとそこばかりに目がいって実際の顔を覚えてないという目撃者心理というのがあるから、この犯人は捕まらないかもしれない。
 スプレーの中身によっては洒落にならないけど、一体誰に対してどんな怒りを抱いていたのか、何故よりによってその服装だったのか、そのあたりの心境を知りたいとも思う。メイド服姿で30歳くらいに見えたということは、もっと年齢は上かもしれない。その服装で地下鉄に乗り込む勇気を称えたいという気持ちもある。その勇気があれば、もっと何か違うことで世のため人のために役立てるんじゃないだろうか。
 なんだか妙に笑えて、脱力感を誘われたニュースだった。

 2006年4月30日(日) 「一日は思う以上に長くて濃い。
                わずかずつでも毎日積み重ねはある」

 少しずつ分かっていく。いろんなことが、生きれば生きるほど。
 その上積みが小さすぎると嘆くか、わずかでも確実に成長はあると喜ぶか、それはそれは本人次第だ。
 子供から大人になることは、確かに悲しみを含んではいるかもしれない。けど、悲しむべきことではない。大人はそんなに悪いもんじゃない。
 老いは恐ろしいことだ。でもそれは感覚的な部分が大きい。歳を取らなければ分からないことを知るための代償としては安いと言える。
 一日ずつ重ねていくことは無駄なことじゃない。今日の中には何かしら得るものがあって、昨日より今日、今日より明日と良い自分になっていると私は信じる。
 今日あった出来事は、すべて新しいものだった。一日という時間は、自覚している以上に長く、内容は濃い。
 今日もいろんなことを見て聞いて知った一日だった。一日の最後にそれを思い返して、喜びとしたい。

 2006年4月29日(土) 「いつもの速度で、このままいこう。
                 やがて季節も変わるだろう」

 今の私は、立ち止まらざるを得ない状況に追い込まれてるわけではないし、走りたくないのに走り続けることを強要される時期でもない。
 この状況を支えてくれている存在に感謝しつつ、しばらくはこのまま安定走行でいかせてもらおう。
 また別の時期が来れば、走る速度も変わってくるだろう。状況に合わせて走りを変えればいい。
 不幸でもないのに不幸なふりをすることはないし、悲劇でもないのに自分の中に悲劇の要素を探す必要はない。
 自分を過大評価するのも、過小評価するのも、もうやめた。今感じてる自分が実際の自分に違いないのだから。

 2006年4月28日(金) 「音も映像もないところから生まれる想像。
                想像力をなくすことはとても恐ろしいことだ」」

 何もないところから想像力は生まれないけど、何かがありすぎても想像力は働かない。
 知覚、聴覚、触覚などの五感に刺激を与え続ければ、脳の働きは鈍くなるものだ。反応してるだけになってしまうから。
 だから、ときには何もない状況に身を置いてみることも大切となる。音楽を止めて、テレビを消して、PCもオフにして、ただ感じたり考えたりしてみる。外部からの刺激を遮断することで生まれてくるものが必ずある。
 私も、たまにはカメラを家に置いて散策に行ってみよう。歩くことは思考や想像を巡らせるのに適している。
 感動を写し撮るという行為が私から奪っている想像力に関して、今一度よく考えてみたいと思う。

 2006年4月27日(木) 「頑張っているから許されるわけじゃない。
                ぎりぎりの暮らしの中でもう一歩だけ前へ」

 毎日何かに追い立てられて、逃げるように、先を急ぐように、やるべきことをこなしていることで頑張っているような気になっているけど、本当にそうだろうか。
 たぶん、私たちは間違っているのだと思う。みんなそのことに気づきながら気づかないふりをしてるだけだ。
 でも、その間違いは間違いじゃない。正しい間違いだ。誰もが、そうでなければ立ちゆかなくなるぎりぎりのところで暮らしていて、それは誰にも責められないことだから。
 私たちは誰も間違ってない。けれど、あるいはだからこそ、私たちはあとほんの少しだけ、自分のためにやりたいことをやり、世の中のため人のためにやるべきことをやるべきなんじゃないか。
 それが何なのかは、みんな心の奥でそれぞれ自覚しているはずだ。人に言われなくても分かっていることだ。私もまた。

 2006年4月26日(水) 「マイナスからゼロ・プラスアルファ。
                それも幸福の半面」

「ケンカのいいところは仲直りできることね」
 映画『ジャイアンツ』の中で出てきたこの言葉は、幸福というものの半面をとてもよく表している。
 幸せというのはゼロからプラスへの上積みだけじゃなく、マイナスからゼロへの復帰とプラスアルファにもある。雨降って地固まると昔の人も言った。筋肉痛から超回復することで筋肉はつくのと同じようなものだ。

 積極的にケンカを売っていくことはないし、トラブルはなければないに越したことはない。でも、モメごとが必ずしも不幸を意味するわけではないということだけは認識しておいた方がいい。そこを乗り越えることができれば、幸福感も得られるし、自分自身成長することができる。

 今日はいいことがふたつあった。そのいずれもがマイナスからゼロ・プラスアルファのことだった。心配事や心の引っかかりが取れたことで、今日は気持ちよく眠れそうだ。
 明日になればそのことも忘れて、またゼロ以上が当たり前だという錯覚に陥ってしまうのだろうけど、今日のところは素直に喜んでおきたい。

 2006年4月25日(火) 「もっといいものよりも持ってないものを。
                自分を幸せにしてくれるものを」

 手に入れたいものがあって、手に入れたものがある。
 手に入れたいものがなくなって、ふと過去を振り返ったとき、手に入れたいものを手に入れる前もけっこう幸せだったよなと思う。足りないことや不満なことがあっても、それは不幸じゃなかった。むしろ、欲しいものがあっただけ今より幸せだったかもしれないと思ったりもする。
 自分を幸せにするために本当に必要なものが何なのかをちゃんと見極めていかなければいけない。必要でもないものに心奪われて不幸を感じてしまうことくらいつまらないことはない。
 今持っているもの以上のものを欲しがることがまずよくない。持ってないものを欲しがるのは悪いことじゃないけど。もっといい車、もっといいカメラ、もっといい家、もっとたくさんのお金、そんなものが与えてくれる幸せはささやかなもので本質的なものじゃない。
 今自分が持ってないものが何なのかをもう一度確認しよう。欲しいものの中でそれがまず必要なものだから。

 2006年4月24日(月) 「悪い日の悪い自分で判断しないで。
                良い日の良い自分こそが本当だと思いたい」

 自分の中の負の感情を信じすぎないことが大切だ。なんだか投げやりな気持ちになったり、何もかもが嫌になったりすることがあっても、それが感情のすべてではない。人の心はもっといろいろな感情で成り立っていて、悪い部分だけ取り出して判断すると間違える。
 たいていの感情は一時的なもので、そこを過ぎればまた元に戻る。気分も日々変わる。いっときの激情に流されないように、日頃からよくよく自分に言い聞かせておかなくてはいけない。
 どんな自分も全部自分には違いないけど、せめて自分くらいは自分の良い面を信じてあげたい。自分の悪い部分は気づかなくても、最良の自分は知っているはずだから。
 駄目な部分が自分を代表してるわけじゃない。悪い一日が人生のすべてでもない。

 2006年4月23日(日) 「結末がどうであろうと未来に向かうだけ。
                 自分たちの可能性を信じて」

 世界の結末から逆算して今日をどう生きるかを決めたいなんてことを昔は思っていた。そんなのはただの言い訳で、意味のないことだと今は分かる。結末がどうであろうと、今日、明日の生き方は変わらない。私たちは登場人物であって、脚本家でも演出家でもないのだから。最終回まで精一杯演じるだけだ。
 でも、だからといってこの世界に対して無責任であっていいわけではない。未来のために自分は何ができるのかを考えることは大切なことだ。そしてもちろん、それを行動に移すことも。
 人は自分たちの可能性を信じて未来に命をつなぐ。未来の子供たちのためにとか、そんなきれい事じゃない。未知のものに対する好奇心と言ってもいいのかもしれない。
 私もまた、より良い自分と出会ってみたいと思って、今日も生きている。昨日より今日、今日より明日の自分はもっといい人間になれると信じたい。
 私たちが向かっているのは結末じゃない、この世界の未来だ。

 2006年4月22日(土) 「いくつになっても不思議は楽しい。
                 それは20世紀的発想だけど」

 不思議なものを積極的に求める気持ちは、だんだん弱くなってきた。ただ、不思議なものを喜ぶ気持ちは昔とそんなに変わっていない。
 世界のどこかで巨大生物が見つかったなどと聞くと嬉しくなるし、UFOの映像だって相変わらず、わーすごいと感心してしまったりする。でも、それらが絶対的に存在してなくては気が済まないというようなことはなくなった。あってもいいしなくてもいい。あればあるに越したことはない。それくらいのスタンスだ。

 世界には実際不思議なことが無数にあって、解かれていない謎もたくさんある。古代の建造物にしても、宇宙のことに関しても、人体のことにしても。
 いつか全部解き明かされたらすっきりするだろうなと思いつつ、謎は謎のままロマンを抱いていた方が幸せなような気もする。手品だって種明かしをされたら意外とがっかりしてしまうことが多い。
 人類はどこまで不思議を発見したり解明したりできるんだろう? できるだけ長生きして、少しでも知りたいと思う。少なくとも、あと10年以内にはUFOと宇宙人問題くらいは解決してくれないだろうか。当たり前に宇宙旅行ができるように。
 子供の頃思い描いていた21世紀はまだやって来ていない。その前に、まず解き明かさなくてはならない謎や不思議がたくさんありすぎるようにも思う。先は長い。まだ当分は楽しめそうだ。

 2006年4月21日(金) 「心を閉ざすのがどんなに上手くなっても、
                心を理屈で納得させることは難しい」

 心を閉ざすことは簡単で難しく、難しいようで簡単だ。でも、やっぱり難しい。
 忘れようとして忘れられないことがあり、打ち消そうとして打ち消せない気持ちがある。
 許すことが自分を幸せにすると分かっていても許せないこともある。
 たぶん、私たちはたいていの理屈は分かっているんだと思う。でも、理屈で自分の心を納得させることは、とても難しいことだ。時には絶望的に困難だったりする。
 裏切られる痛さに、だますつらさ。
 私たちはぎりぎりのところでどうにか折り合いをつけていくしかないのだろう。すべてが思い通りにいくことは決してないのだから。
 心を開いて相手を許す、そこにしか解決の糸口がないことも、私たちは知っている。

 2006年4月20日(木) 「体が教えてくれる季節感。
                またひとつ、季節の目盛りが動いた」

 今年になって初めて、家の中で裸足で過ごした。
 また季節の目盛りがひとつカチリと動いた。
 もういいかげん、電気ストーブもしまっていいだろう。厚手のセーターもしまおう。
 次は風呂を沸かさず、シャワーだけで風呂を済ませたら、もうひとつ季節が進む。それももう遠くない。
 いろんなところで季節の移り変わりを感じるけれど、自分の体が教えてくれるものが一番分かりやすい。季節は4つじゃない。12か月よりも、二十四節よりも、もっと多い。
 そしてそれは、時計の針のように、とどまることなく動き続けている。今このときも、季節は後方へ飛び去っている。

 2006年4月19日(水) 「店が消えて思い出が残った。
                 最近なんだか不便です」

 昔からよく行っていた店が次々に閉鎖していくと、歳月の流れを感じずにはいられない。
 今日近所のTSUTAYAへ行ったら、5月に終わりと貼り紙があって驚いた。不便になるというだけではない喪失感がある。一時は毎週通っていた店だった。
 これまで失った多くの店を思うと、友達をなくしたような寂しさを感じる。レンタル屋に本屋にホームセンター。街には店がどんどん増えているけど、なんだかここ数年でずいぶん不便になってしまった。
 思い出は残っているけど、失った店はもう戻らない。自分の喪失は、同時に誰かにとっても喪失なのだということを、私自身も忘れないようにしたい。

 2006年4月18日(火) 「不連続な毎日。
                 できることなら駄目な一日も愛したい」

 毎日は別の流れの中にあって、連続しているけど途切れていて不連続なものだ。今日は妙に流れが悪くて変な引っかかりをするなと思う日がある。でも、それがそもまま次の日まで持ち込まれることはほとんどない。昼と夜、日付変更、眠りなどによって毎日リセットされる。そこに救いがある。
 今日という日がすごく悪い日は、早く次の日に移ってしまうのがいい。眠って起きれば流れは確実に変わっている。

 この世界のメカニズムというのは、気に入らない部分もあるけど、大部分は非常に上手くできていると感心する。目に見える部分も見えないところも。人間の精神性というものも、私たちには理解できないところで高度にプログラミングされているのだろう。日々の微妙な変化さえも本当は正確にコントロールされているのかもしれない。

 私たちは日々生まれ変わり、毎日新しい一日を生きている。この世界に生きる全員がそうだ。誰も今日という日を知らずに手探りで生きる。たとえタイムトラベラーがいたとしても、同じ一日の2回目だから、それは新しい一日と同じだ。
 日々の流れを完全に自分でコントロールすることは不可能だろう。流れを変えることよりも、流れに上手く乗ることを考えていった方がいい。
 ただし、どんなに気に入らない一日も、再び戻ることのない一日だということを忘れないようにしたい。駄目な一日も、それはそれで楽しめたらそれに越したことはないし、愛せるものなら愛したい。

 2006年4月17日(月) 「東野圭吾+小松未歩。
                 揺らされて触れられて小さく決壊」

 久々に聴いた小松未歩が思い出させた懐かしい気持ちが胸いっぱいに広がった。
 自分の意志で封印したわけではなかったけど、いつの間にか傷口はふさがっていたらしい。
 それは、前の晩に読んだ、東野圭吾の『秘密』とも無関係ではない。むしろ、あちらの方が揺さぶりは大きかった。
 切なさから離れて過ごしたここ数年。この気持ちをもう一度押し込めるか、それとも流れ出るに任せるか、迷っている。まだ決壊は小さい。
 どっちにしても、今はブレーキを踏むのが上手くなってしまった。

 2006年4月16日(日) 「本も映画も好きだけど、
                 具体的な質問がいい」

 本を読むのが好きですか?
 そういうふうに訊かれれると答えに詰まる。映画を観るのが好きですか? そう訊かれても同じように戸惑う。
 テレビドラマが好きかと問われたら、好きだと即答できるのに、本や映画だと素直に肯定できない。たぶんそれは、行為としてとして自分の中では当たり前のことで、それをあらためて好きかと訊かれるとどう答えていいのか迷うからだろう。たとえるなら、日記を書くことに似ているかもしれない。日記を書くのが好きですかと訊かれたらどう答えればいいか考えてしまう。それと同じだ。
 人の趣味は、必ずしも好きだからという理由によってなされているわけではない。習慣だったり、当たり前の行為だったり、なんとなくだったりすることもあるだろう。
 どの作家の作品が好きですか? 映画監督では誰が好きですか?
 そういう質問ならまだ答えやすい。でも、できることなら、もう少し絞って欲しい。本格ミステリを書いてる作家の中では誰が好きですかとか、ハリウッド映画の監督の中では誰がいいですかとか、おすぎとピーコではどちらが好きですかとか。
 などと、なんだかんだ言いつつ、私はやっぱり本と映画が好きだ。これからもきっと、ずっと読み続け、観続けることになるだろう。

 2006年4月15日(土) 「一日はけっこう多い。
                 意外とたくさんのものが入る」

 過ぎゆく時間の中で前を向いていると、時間の過ぎることのなんと早いことよと思う。けど、過ぎた時間を振り返ってみると、意外と時間は長いなと思う。やっとそういうところまでやって来られたということだろう。
 昔に比べて最近、一日が長く感じられる。それはやることがなくて退屈してるというのではなく、やることがたくさんあって、実際にやれている内容を思い返してみたとき、案外長いもんだなと思い直すからだ。長さというより一日の容量が大きいと言った方が感覚的に近い。一日って、けっこうたくさんのことを詰め込めるもんだ。見た目はコンパクトだけど物がたくさん入るバッグのように。
 もちろん、もっと大きなバッグが欲しいけど、これしか持ってないのだから、これに何を入れて何を出すかを考え、工夫していくしかない。どうやったって全部は入らない。
 ここ数年、寝付きが良くなったのは、たぶん一日を納得して終えられてるからだろう。早く明日を始めたい、その思いが眠りへと向かわせる。
 明日もきっと楽しくていい一日なる、根拠はないけど毎日そう思う。

 2006年4月14日(金) 「失った対象と言葉。
                 懐かしいあそこにあった言葉たち」

 失ったのは言葉じゃなくて、言葉をかける対象だ。
 たとえば愛の言葉。くだらない冗談も。
 今でもたくさんの言葉を持っているけど、ある一部分の言葉はごっそり抜け落ちてしまっている気がする。
 それを悲しみだとは思わないけど、あそこにあった言葉たちのことを思い出すと、やっぱり少し恋しくなる。どんな言葉だったか、もう、多くを思い出せないけれど。

 2006年4月13日(木) 「それぞれの心の中にあるあの頃。
         あの頃があるから今があって、今があるからこの先がある」

 あの頃、あれから、私も好んで使うこの言葉。
 スガシカオ作詞「夜空ノムコウ」の中で出てきた、「あの頃の未来にぼくらは立っているのかな?」、この歌詞に胸が痛んだ。
 あの頃も、あれからも、人によって時間も場所も年齢も違うだろう。ある人にとっては中学や高校だったり、ある人にとっては最後の恋が終わったときだったり、もっと漠然とした昔だったり。
 それぞれではあるけど、心が戻っていく場所であったり、走り始めたスタート地点だったりというのは共通する部分だろうと思う。
 あの頃、あれから。私たちは何をなくして、何を手に入れたのだろう? あのとき思い描いていた未来の自分になれているだろうか? 自分との約束は果たせているだろうか?
 もしかしたら、私は過去の自分を裏切っているのかもしれない。望んだような自分になれているかどうかは怪しい。ただ、あの頃感じていた将来に対する漠然とした絶望感は今はない。そのことだけは自信がある。

 今の自分であの頃に戻ることができたら、私はもっと上手くやることができたのだろうか? ときどきそんなことをぼんやりと考える。
 でも、戻りたいとは思わない。むしろもっと先に進みたい。楽しみや喜びは、あの頃じゃなくこの先にあるのだから。

 2006年4月12日(水) 「桜の終わりは新しい季節の始まり。
                 そしてギフチョウのことを思い出した」

 気持ちの中で桜が終わって、季節の目盛りがカチリとひとつ動いた。
 今日タンポポにとまるキチョウを見た。菜の花の上を飛び回るモンシロチョウも。そしたら、突然、ギフチョウのことを思い出した。去年は見られるものなら見てみたいと思った程度だったけど、一年経って、その思いは何倍にも強くなった。見られるチャンスはわずかな期間だけ。今年はなんとか見てみたい。見たら当然撮ってみたい。
 気持ちの中でも季節は確実に初夏へと向かっている。初夏は花の季節でもあるけど、虫の季節の始まりでもある。今年はどんな虫と会えるだろう。

 春先に撮った写真がたくさん残っている。これをどうしよう。これからは野草も虫もどんどん撮れるから、リアルタイムでも使い切れない。秋まではある程度選別していくしかないか。自分のための野草図鑑にもしたかったけど、撮ったもの全部は載せられそうにない。
 でも、撮るものがなくて探し回った冬のことを思えば、これからはいい季節だ。行きたいところもたくさんある。写真を撮ることが楽しい限り、退屈しそうにない。
 今年の春はギフチョウに出会えるだろうか。

 2006年4月11日(火) 「他人に依存している幸福感。
                 ただそこにいるだけで幸せを与えあっている」

 日常のバランスが取れた幸福感は、多くの部分で他者に依存しているものだ。
 家族が誰も欠けず一日を過ごすとか、事件や事故の被害者にも加害者にもならないこととか、他人の悪意に晒されないとか、そういう自分以外の部分で幸不幸は大きく左右される。自分の努力とは別の部分で。
 たとえば、日々何の問題もなく幸せに暮らしていたところへ、飼い猫が半日家に帰ってこないだけで、ものすごく不幸な気分になってしまったりする。
 そういうことを考えると、特に誰かに親切にしたり孝行したりしなくても、ただ日々を無事に過ごすだけで人の幸せに貢献してると言えるだろう。家族に対して、恋人に対して、友達やペットに対しても。
 人にとってもっとも大きな不幸は、大切な人の不在だから。
 そんなことに気づかせてくれたのは、一緒に暮らしているアイの存在だった。彼女は何もしないけど、ただいるだけで私の幸せに大きく貢献してくれている。だから私も、なるべく死なないようにしたい。

 2006年4月10日(月) 「便利さが生んだ目に見えない不幸。
                もう一度不便さを思い出すために」

 不便さが生むドラマがだんだん減っていく世の中で、便利さを求めるあまり置き忘れてきたもののことを思い出してみる。
 今になって思うと、昔はいいことをするにも悪いことをするにも、一定以上の努力が必要だった。でもそこでせざるを得なかった創意工夫は楽しかったし、笑い話にも思い出にもなっている。もっと便利だったらいいのにといつも思っていたけど、便利になった今、あの頃より楽しくなったかと考えてみると、案外そうでもないことに気づく。さほど苦労せずに手にしたものは、なんだか軽くて物足りない。
 不便さが生み出したドラマに代わるものは何だろう。考えてもすぐには思いつかない。やはり不便に回帰するしかないのか。
 努力のし甲斐があるものとか、苦労してでも手に入れたいものを探していかなくてはならない。そうじゃないと本当には喜べないから。
 たとえば、歩きながらフィルム・カメラで写真を撮って、現像に出して、図書館で花の名前を調べるなんて行為をあえてやってみるのも無駄じゃない。面倒な手順を踏むことで得られる感覚的な何かがそこにはあるはずだから。
 もう一度、不便ということがどういうことかを思い出したとき、便利さのありがたみを再認識するだろう。
 今の時代、幸せになるためには、そういうややこしい手続きを経なければならないのかもしれない。それが新しい時代の不便さといえばそうとも言える。

 2006年4月9日(日) 「自分の記録。
                自分発信のものは好きでいたい」

 写真にしろ文章にしろ、自分の記録を残しておくとあとから役に立つ。時が流れて振り返ったとき、自分もまだまだだと思い知らされるから。
 去年の9月から始めたブログの写真を今日、全部見直してみた。最近少しは写真が分かってきたような気がしていたけど、実はたいして進歩してないことに気づく。そのときどきでベストだと思ったものも、今見てみるとつまらなかったりする。
 それで自分をいさめるということもあるけど、励みにもしたい。もっと勉強して、たくさん撮っていかなくてはという思いを新たにした。
 文章に関しては、もう長く書き続けているから、ここ数年で大きな変化はないと思う。最近書いたものも、何年か前に書いたものも、どちらも照れくさいけど、どちらも自分の思いと大きなズレは感じない。客観的には違うのだろうか。
 私は自分自身を必ずしも好きではない。ただ、自分が発したものに関しては好きでいたいと思う。そうでなければ生きることを楽しめないから。

 2006年4月8日(土) 「幸せは行って来い。
               自分の存在を確信するために」

 学んで、知って、活かす。そこまででワンセット。最初を省略しても、最後をやらなくても一連の行為としては完結しない。
 世界中を旅して回って、あらゆることを見聞きして体験しても、それで終わりではない。100歳まで生きても、たとえ1,000歳まで生きても、それだけでは何にもならない。
 身につけたものをどう活かせばいいか、それは人を幸せにするためだろう。
 誰かを幸せにするために自分には何ができるか、それが出発点であり、終着点なんだと思う。自分は人かを幸せにできたと思ったとき初めて、人は自分の存在に確信が持てるようになるはずだから。そして、それこそが形のある幸せなんじゃないだろうか。
 幸せは自分でなるものじゃなく、人から与えてもらうものだ。そのためにはまず、自分が誰かを幸せにする必要がある。

 2006年4月7日(金) 「桜ザワザワ。
               まだ見ぬ桜風景を探して」

 桜は人の気持ちを落ち着かせないものがる。風に揺れる桜の花のように、ざわざわと心を揺する。
 桜前線が近づいてくるまでは単純に楽しみでいられるのに、いざ咲き始めるとどうしていいのか分からなくなる。あちこち見て回っても気持ちが静まらず、名所と呼ばれる場所に行っても何かが足りない。さんざん見て、もうおなかいっぱいだと思っても、散り始めるとやり残したことがあるような気がしてならない。
 写真を撮り始めてからは特にそうで、気持ちばかりが焦って、結局納得できるものが撮れないまま終わってしまうというのがここ数年だ。今年こそと思ったのに、どうも腰が重い。
 結局また、全部散ってしまうまで見て見ぬふりをしながらやり過ごすことになるのだろうか。でも、どこまで追いかけても終わりはないようにも思う。たとえ全国の名所100選を全部回ったとしても。
 どんなきれいな花も、どんな好きな花も、ワンシーズンで1回か2回見れば気が済む。達成感と満足感を味わうことができて、その存在を忘れがちにさえなる。なのに桜だけはそうはならない。すごく不思議な花だ。
 まるで私は、桜に対して不幸な片思いをしてるみたいだ。永遠に報われない恋を。
 2006年の桜シーズンも終盤に入った。残り少ない中で、もっと桜に近づくことができるだろうか。
 どこかにある、まだ見ぬ桜風景を探している。自分のための桜がきっとあると信じて。

 2006年4月6日(木) 「感動リレーのバトンを渡す。
                自分の次の人に」

 探しているのは感動。それは分かっている。分からないのは、その先の何を自分が求めているかということだ。
 感動することは人生の基本でだし、もしかしたらすべてと言ってもいいのかもしれない。ただ、それで終わりではない。感動すれば自分の心は豊かになるし、人としても成長できる。問題は、成長して何をどうしたいかということだろう。
 感動を伝えるとか、誰かと共有するとか、それはもちろん目的となり得る。じゃあ、感動を受けた人は何をどうすればいいんだろう?
 それはずっと考えてきて分からないことのひとつだから、今後もこのことについては考え続けていくことになる。
 感動を受け取るだけじゃなく与えられるようになりたいと思っている。感動リレーに参加したい。そうすれば、自分では答えが見つからなかったとしても、次の人がそれを見つけてくれるかもしれない。

 2006年4月5日(水) 「弱い自分の心がライバル。
                今日は負けても明日は勝つ」

 どんな人間にも必ず敵がひとりいる。それは、自分の中の弱い心だ。
 弱気がささやく誘惑に乗ってしまえば負け、打ち消せれば勝ち。その戦いは日々繰り返される。
 弱い自分以上の強敵はいない。こいつに勝利した先にこそ正解はあるのだと思う。楽な方へ流れて良い結果を招いたとしても、それは自分で勝ち取ったものではない。苦しくて、難しくて、嫌なことの方にこそ、その向こう側に大きな喜びや収穫があると信じる。
 勝ったり負けたりだけど、最初から負けてもいいつもりでいてはいけない。まずは勝とうという心意気が大切だ。結果は別にして。
 今日は負けたから、明日は勝つ。明日は今日より難しい戦いになりそうだけど。

 2006年4月4日(火) 「同じだけど全部違う桜。
                今度こそという思い」

 桜を追いかけてあちこち出向いていく行き帰り、街中のいたるところにある桜を見かけると、自分は一体桜の何が見たいんだろうと考えてしまう。たとえば、ソメイヨシノなら、どの木も全部クローンだというのに。
 私が見たいのは桜なのか、桜が咲いている場所なのか、それとももっと別の何かなのだろうか。名所と言われるところを回ることに何かコレクション的な喜びを見いだしているだけなのか? そうでもあり、そうでもない。
 そもそも、桜を見て撮って回って何になるのか、という根本的な疑問もわき起こる。近所にある桜並木で充分じゃないのか、と。隣の芝生は青いとか、ないものねだりに過ぎないのではないのか。
 そこまで考えていって、それでも見たい桜があると思うのは、まだ見たことがないという事実なのだろう。未知のところには何かがあるような気がするから、行かずにはいられなくなる。実際、行ってみれば何かがある。わずかでも感じるものが。
 同じものだけど、場所によって違う桜。まわりの風景も違うし、並木の様子もそれぞれだ。それに、まだ桜を本当に上手く撮れたと思ったことがないというのも、別の場所へと駆り立てる原動力となっている。
 今度こそ、次の場所こそ、今年こそ、そんな思いがいつも心の中にある。そして私はまた明日も桜を見に行き、桜を撮るだろう。

 2006年4月3日(月) 「一日のスピードと限界。
                もっとシャッフルしよう」

 一日の終わりに無事辿り着いて、喜びと安堵に包まれつつ、取りこぼしたことを思って気持ちが少し苦くなる。美味しいものを食べたあと舌の先に残ったざらつきのように。
 焦りや不満や反省を睡眠で流し込んでしまうことはできる。でも、それで本当にいいのかという疑問も残る。
 ギャロップの速さで駆け、隙間なく詰め込んでいるつもりが、これでもまだ足りないのだろうか。でも、毎日全力疾走はできない。これ以上自分を急かすと、気持ちが焦って楽しめない。これが限界なのか。
 あとできることといえば、毎日メニューを入れ替えていくことくらいかもしれない。いつも決まった時間に同じことをしてしまうのが悪い癖だ。これをなんとか交換させていきたい。メニューをもっとシャッフルしよう。
 明日のことを考えると眠る前からせわしない。少しだけ本を読んで、心を静めて眠りにつこう。今日は途中でアイにたたき起こされませんように。

 2006年4月2日(日) 「ハッピーになるための思考と論理。
                人生は一日勝負じゃない」

 毎日ハッピーでいることは難しい。そういうときは、期間を変えて見直してみるといい。長くするか、短くするかして。
 どんな不幸な日の中にも限定されたハッピーはあるし、今日が不幸でも一週間単位、ひと月単位で見れば概ね幸せかもしれない。今年が駄目な一年でも去年はよかったとかおととしはよかったとかあるだろう。

 見逃しの三球三振をして帰ってきた新田明男に、ベンチで後輩がどうして振らなかったんですかと訊ねたとき、彼はこう答えた。「野球が一回勝負なら振ってたさ」と。コミック「タッチ」の中のセリフだ。
 物事にはすべて前後のつながりがあって、その場限りのものはないと私は信じている。昨日があって今日があり、今日があったことで明日がある。今日たまたま不幸な一日だったからといってそれを嘆くことはない。取り返しのつかないことをして追いつめられたと自暴自棄になることもない。明日があるうちは。

 ハッピーになるためには、ハッピーになるための思考と論理が必要だ。ときには理屈を自分に都合良くねじ曲げることも。
 私は自分が幸せであることを説明することができる。

 2006年4月1日(土) 「知りたいけど知りたくない。
                書きたいけど書かない」

 知りたいことと知りたくないこと、のぞき見趣味と見ないふりをしていたいこと。人にはふたつの相反する感情がある。
 芸能人が誰とつき合っているかが気になったり、でも好きなアイドルのそういう面を知りたくなかったり。
 ネットでもそういうことが言えるようだ。いい写真を撮っていたり、いい文章を書いていたりするとその人の正体が知りたいと思うけど、そう思いつつその人の恋愛話なんかを読まされると気持ちがフッと冷めてしまったりする。
 書けるけど書かないとか、自分について隠すといかいうことが正しいのかどうかは分からないのだけど、何もかもあけすけに晒す必要はないと思う。ネットにしろテレビにしろ、かなりの部分、幻想で成り立っているわけだし。
 発する側としては、自己顕示欲との戦いということになるのだろうか。
 私の場合は、自分を積極的に出していきたいタイプではないから、特に計算とかもなく、普通に発したいことを発している。特に無理しているという自覚はない。これ以上晒さない方がお互いのためだろう。

 2006年3月31日(金) 「平和な3ヶ月の終わりに思う。
                次の3ヶ月はもっと楽しくなりそうだ」

 3月最終日も無事に終わった。特別な思い入れはなかったけど、3月から4月への移行は他の月とは違う意味を持っている。季節の変わり目でもあり、気持ちの区切りでもある。
 明日からは別の月、別の流れ、別の方向性になる。

 今年のここまでの4分の1を振り返ってみると、良くも悪くも平和だった。流れは悪くなかった。ただ、スピード感はもうひとつで、新しいことを始められなかったことに不満は残る。2006年らしさというのがまた見つかってない。
 変化はあった。小さなものから中くらいのものまで。変わるつもりがなくても変わっていってしまうこともある。
 4月、5月、6月は、とてもいい時期だ。一年の中で一番いい3ヶ月と言えるだろう。特に写真という点では撮るものがたくさんあって楽しい季節だ。

 細々としたところでは反省点もあるし、いろいろ正すべきところもあるのだけど、まずは心楽しく日々を過ごすことを考えたい。生きることを喜び、感動して、それを伝える。その基本姿勢にゆらぎはない。
 明日からまた、あらたな気持ちで毎日を大事にしていこう。無駄な一日なんてない。

 2006年3月30日(木) 「無数の美しさがこの世界にはある。
                まずはそれを知ることから始めよう」

 まずは知ることから始まる。そうすることで心が動き、頭が動き、手や足が動き出す。
 心で感じて、頭で考えて、手や足を動かして行動する。その流れを作って、上手く乗っていけば、人生はいい螺旋を描いて上昇していく。

 この世界には、素晴らしいこと、美しいもの、楽しいこと、美味しいもの、面白いことが無数にある。知れば知るほど、自分の中の幸福感は上がっていくし、幸福への可能性も広がっていく。
 不幸なことや悲しいこともたくさんあるけど、その何倍も何十倍も何百倍も嬉しいことや幸せなことがあると私は思う。一年365日の中で、つらい日や苦しい日は何日あるか。病気になった日は何日か。
 不幸の中にも喜びはあり、苦しさの先には開放感もある。

 この世界は日本だけじゃない。知っているたくさんの国と、それ以上の知らない国々があって、美しい風景がある。美術があり、文学があり、音楽がある。そして人々がいる。
 この世界の美しさを思うとき、私には何の不満もない。

 2006年3月29日(水) 「どういう自分になりたいのか。
                生きることはつまりそういうこと」

 日々起こっている小さな出来事が、少しずつ自分を変えていっている。自覚のないまま。
 それは必ずしも成長につながってはいないだろう。ただ、どんな変化も前進には違いないと私は思っている。たとえ逆方向へ進んでいたとしても、それは無駄ではない。次の一歩がなければその次の一歩もなく、すべての一歩は必然だ。

 問題は、日々の中に何を持ち込んで、どういう方向へ自分を変化させていくかということだ。何もしなくても自然に変化は起こる。でもそれだけでは充分ではない。自然な変化以外に何をするか、それが考えるべきことであり、大事なことに違いない。
 克己心と向上心。それを具体化させるのは難しい。何をすればいいのか分からないことも多い。それでも、意志としての方向性は決めてから進むべきだろう。

 どういう自分になりたいのか、まずはそれを見つけることから始めなければ正しい方向には進まない。どこへ行くかとか、何をするかとかは、どういう自分になりたいかという問題だ。
 もっと正しい自分になりたいのか、自分ではない人間になりたいのか、自分以上の人間になりたいのか。本来在るべき自分が見えている人間は、とても少ないような気がする。私もまた、見えたと思っては見失いの繰り返しだ。

 2006年3月28日(火) 「春は言い訳のきかない季節。
                 ここで何もしなければ一年中何もできない」

 楽しいことがたくさんあって、時間がなくて気持ちが焦って、でもそれは喜ぶべきことで、私は小さく微笑み、誰に向かってともなく心の中でつぶやく、ありがとう。
 私を支えてくれている人が私と共にこの喜びを共有してくれるといいなと思う。
 一方的な関係性は破綻しやすいから。

 春は言い訳がきかない季節だ。冬なら寒いから、夏なら暑いから、秋なら日が短いから、それぞれ言い訳ができるけど、春はそれができない。眠たいからなんてのは言い訳にもならないし、花粉症だって病気のうちに入らない。
 春がその一年の出来不出来を決める。ここで流れを作って加速していけば、夏から秋までスピードを保ったまま年末になだれ込んでいける。
 少し急いで毎日を過ごそう。のんびりしてるのはもったいない。

 2006年3月27日(月) 「分相応は敗者の発想なんかじゃない。
                 満足しながら更に求めればいい」

 自分にとっての適度、適量というものがある。適度に高価、適度に高級、適度にかわいい、など。誰もかれもが最高級のものを欲してるわけではないし、高価なものほど満足度が高いわけでもない。
 誰が見ても美人や二枚目とつき合ったとして、人からはうらやましがられるかもしれないけど、実際にそれが自分の求める幸福につながるとは限らない。自分とは釣り合いが取れてないと感じたら、それは苦痛にさえなる。
 好みというものも、多くは程度の問題なのかもしれない。たとえばゲーム。簡単なほど面白いという人もいれば難しいほど燃えるという人もいる。適度に難しいものがいいというのが大部分を占めるにしても、それが絶対というわけではない。
 何事においても、自分の身の丈に合った高級さや難易度や美しさというものがあって、それをまず知ることが大事だ。
 分相応、それは必ずしも消極的で非難されるべき姿勢ではない。向上心はもちろん必要だけど、分相応なところで満足することも大切なことだ。幸せになるための知恵として。

 年を取れば自分の相応というものがだんだん見えるようになってくる。若い頃、それは悲しむべきことだと思った。でも今はそうは思ってない。より高度な発想として、現状に満足しつつ更に高みを目指すという課題に取り組めるようになりつつある。簡単なことではないけれど。
 自分の好みが分かってくれば、無駄に追い求めることも少なくなって、満足することも難しいことではなくなる。

 2006年3月26日(日) 「春が好きになったから、
                急いで春を迎えにいこう」

 去年の今ごろ、愛・地球博が始まったとは、なんだか不思議な感じだ。遠いような近いような、つい最近のようなずっと前のような。私は去年のこの時期、明治村をうろついていた。久々の明治村はすごく楽しくて、最近また行きたいと思い始めている。
 一年という年月で得たものと失ったものを思うとき、それは決して小さくないことに気づく。どれだけ一年という時間が早く感じられたとしても、そこには多くの要素が詰まっている。たくさんのことを忘れてしまっているけど、見えないところできちんと収まっているに違いない。

 もうすぐ桜の季節だ。去年、来年も必ずこの季節に立とうと心に誓って、もうすぐ一年。自分との約束が果たせるように、あと少し油断せずに約束の場所に向かいたい。
 物心ついてからずっと長い間、春が好きじゃなかった。何か急かされているような気がして心が落ち着かなくて。それが何年か前から、春が好きになった。春は生き物が目覚める季節だから。そして、何かを始めるにはいい季節だから。

 3月も残り一週間。やり残したことはないか、まだやれることは残ってないか、もう一度見直していきたい。3月と4月は別の季節だ。冬から続いたこの季節の中で、やるべきことはできるだけやり切って終えたい。
 今週は、助走の終わりとして更なる加速が必要だ。

 2006年3月25日(土) 「幸福倍増計画。
                発掘ポイントはマイナスからゼロの間」

 わずらわしいことや、やっかいなことから開放されるとホッとする。一週間の中での一日だったり、一日の中での出来事だったり、そういう場面はよくある。
 そのときに幸福を自覚できるかどうかで人生に対する印象は大きく違ってくる。幸せは、ゼロからプラス方向だけではなく、マイナスからゼロの間にもあるものだ。それはまぎれもなく存在している。あるいは、マイナスとゼロの幅が大きければ大きいほど幸福も大きいと言えるだろう。
 いつも不満ばかりを口にしている人は、この部分での幸福感を大きくロスしてるんじゃないかと思う。もったいない。それを得ることができさえすれば、幸福は今の倍になる可能性だってある。

 人は自分の不幸には敏感なわりに、自分の幸福には案外鈍い。他人の幸せはよく見えるのに。
 今ない幸せを求めていくことも大事なことだけど、それと同じくらい、今ある幸せに気づくことも大切だ。
 マイナスからゼロの間には未発掘のお宝が眠っている。

 2006年3月24日(金) 「今日の中で得たものに気づきたい。
                どの道から行っても得るものはある」

 当日になって突然予定が大きく変更になることがある。そのことで何を失い、何を得たかは分かるようで分からない。予定通りの道を永遠に失ってしまったのだから。

 私たちはどんな道を通ろうと、一本の道しか歩けない。でも、それは悲劇ではないし、悲しむべきことでもない。逆に言えば、生きている限り一本の道は生きられる。
 大事なのは、その一本道に対してどれだけの自覚と覚悟を持てるかということだ。一生という一本にも、その日一日の道にも。
 何を失ったかよりも、何を得たかを考えたい。何を得ても何かは失い、すべてを得ることは出来ないから。

 何もない一日にも何かがある。その何かを見つけていくことも大切なのだと思う。無意識に手に入れているものを喜ぶことはできない。
 日々を喜びに変えられるかどうかは、得たものに気づけるかどうかにかかっている。

 2006年3月23日(木) 「もっと写真が上手になりたい。
                今年の目標がひとつ見つかった」

 写真がもっと上手くなりたいと思う。野球少年がもっと野球が上手になりたいと思うみたいに。
 もう15年以上前、もっと文章が上手くなりたいと思って日記を書き始めた。それは、自分の思いを正しく人に伝えることができず、とてももどかしく感じていたから。思いを伝えたい、それは写真も同じことだ。
 写真も文章も下手でもいいとは思わない。少なくとも、努力もせずにそれでいいとは認めたくない。上手になれば、もっと言いたいことや思っていることを伝えられるようになる。野球なら、上手に打ったり投げたりできるようになれば、観ている人を感動させることができる。

 ということで、今年の目標をさっきふいに思いついた。
 フォトコン入選。
 今までそんなこと思ったこともなかったし、そもそもフォトコンに入るような写真を心のどこかで否定してもいた。自分が撮りたいものはあんなものじゃないんだと。
 でも思い直した。否定するなら入選してみせてからだ。
 雑誌に載ってるフィルムで撮られた入選作は本当にレベルが高い。あそこまでいくにはちょっと遠すぎるけど、目標として持つことは悪いことじゃない。

 自分にとっていい写真とは何か。それはタイミングと偶然が生み出したドラマのある写真だ。光と影がある写真というのもある。
 いつも撮りたいと思っているのは、人がいる風景の写真だ。それを、偶然ではなく、意志と計算で撮れるようになれれば、ああ、自分も上手くなったなぁと思えるんじゃないか。
 今年の残り9ヶ月、どこまで近づけるか。

 2006年3月22日(水) 「まだ夢の中。
                覚めるまでいい夢を」

 人生が夢なら、いい夢を見たい。夢なんだからどうでもいいとは思わない。
 目覚めてすべてが幻のように消えてしまうのだとしても、夢の中では楽しく過ごしたい。
 夢見る力を失ってしまったら、もう生きてはいけない。今はまだその力が充分残っているから大丈夫。
 明日もまだこの夢が続くと信じて夢の中。
 今の私は、いい夢を見ているような顔をしてるだろうか?

 2006年3月21日(火) 「みんなと一緒。
                それが長い時間をかけて見つけた答え」

 それがどうした? という言葉が出かかってあわてて飲み込む。その繰り返し。
 それを言っちゃあおしまいよ、と寅さんも言っていた。
 流行に乗り、時代に流され、祭りで踊り、みんなと一緒に泣き笑う。昔はできなかったそんなことが今は少しずつできるようになってきた。成長だと思う。堕落なんかじゃない。
 無邪気であることと無垢であることは違う。努力して手に入れた無邪気さでこの世界を楽しんでいければそれが一番いい。ひとりでではなく、みんなと共に。
 しらけて見せることも、斜に構えることも、頑なに身を守ることもない。
 どんな使命があろうとなかろうと、生きることに喜びを感じ、この世界に感動することが人としての基本姿勢だと私は信じる。そう信じられるようになった。長い時間をかけて。
 辿り着いた答えを持って、最後までこれに殉じたい。

 2006年3月20日(月) 「どの感情も限定された一度限りのもの。
                大切なものはなくさないようにしまっておく」

 自分の中のすべての感情は限定されたものだ。同じ感情も二度目となれば違うものとなる。
 全部に対して一定の尊重を持ちながら同時にある程度の距離感を保つべきかもしれない。移ろいゆく感情のすべてに絶対的な信頼を置いていては、自分の中で気持ちがバラバラになってしまうから。
 人間の脳は優秀だから、そのあたりのことは曖昧なまま上手く処理できてしまうけど、なりたい自分になるためには出来る限り意識的でありたい。
 自分の感情をコントロールすることは決してたやすいことではない。ただ、難しいからといって最初から放棄していいわけでもない。感情は奔放な子供のようなもの。いいことはいい悪いことは悪いと教え諭す大人の思考も必要だ。
 今日の感情は今日限りのもの。明日にはもうなくなってしまう。そこに特別なものがあったとするなら、記憶の中にしまっておいた方がいい。それは、人に与えられた特権でもある。

 2006年3月19日(日) 「振幅のすべてが自分。
                 最高に驕らず、最低に失望せず」

 自分がどれだけ弱いかを知らなければ、自分がどれだけ強いかも分からない。
 天井だけが自分のすべてじゃないし、底だけが自分本来の姿というわけでもない。平常の安定した姿だけを本当の自分だと思い込むのも無理がある。
 自分というのは振幅のすべてであって、一ヶ所ではない。空間的にも時間的にも精神的にも。
 最高の自分も最低の自分も等しく受け入れなければならない。批判も否定も抜きに。
 そうやって見えた自分と、どうにか折り合いをつけて生きていくしかないのだろう。

 2006年3月18日(土) 「生きる意味はあってもなくてもいい。
                 生かしてくれてるのだから喜んで生きたい」

 生きる意味はなくても生きていける。楽しみと喜びがあれば。
 若い頃は熱烈に意味と理由を求めていた。それがなければ生きていても意味はないとさえ思いながら。
 生きるのが楽になったのは、意味を求めなくなったからだ。
 意味はあるのかもしれないしないのかもしれない。どちらでもかまわない。神がいてもいなくても生きることに変わりがないように。
 投げやりになってるわけではないし、居直ってるつもりもない。ただ、人を好きになるのに理由なんていらないのと同じように、生きることが好きになっただけのことだ。
 毎日が楽しくて意味なんて考えてる暇もない。

 2006年3月17日(金) 「すべてひっくるめて自分。
                 生きるほどに自分が増えていく」

 年と共に見えなくなっていくものや、できなくなっていくことを嘆きつつも、一方で年を重ねたことで見えるようになったものやできるようになったことを喜びと感じる。
 人生に純粋なマイナスはないと信じる。別れが悲しければ、それは出会いが喜びだったからだ。何かをなくして絶望したのは、大事なものを得たからだろう。
 幸せは今ここにあるものがすべてじゃなく、記憶の中にあるものも同じように大切なものだ。それを失ってしまうかどうかは自分次第。忘れない気持ちがあればずっと自分の中にとどまる。
 私たちは日々を積み重ね、エピソードを付け加え、過去を引きずりながら進んでいく。起こったことすべてひっくるめて自分だ。今現在の自分だけが自分のすべてじゃない。
 生きることは自分が増えていくこと。それは嬉しいことだと思いたい。

 2006年3月16日(木) 「完璧な過去を夢見ていても始まらない。
                 未知なものを求める心が必要だ」

 問題なのは過去でも、過去を忘れられないことでもなく、新しい未来が始まらないことだ。
 誰のせいでもなく、自分の心のせいに他ならない。
 美化した過去を基準とするからいけない。未知なものを求める好奇心と、新たな理想を見つけようとする探求心が必要だ。
 欲しいのは完璧なんかじゃないのだから。

 2006年3月15日(水) 「写真は地球の音を教えてくれた。
                 音の聞こえる写真を目指す」

 地球はたくさんの音に満ちている。
 それに気づかせてくれたのは、音の写らない写真だった。
 鳥の鳴き声、虫の声、風が木々を揺する音、波、雨、そんな自然の音だけでなく、飛行機の音や電車の音がするとそちらを向いてしまうようになった。
 写真に撮るものを探していると音に反応すると言った方がいいかもしれない。人の声もそうだ。

 写真を撮るという行為がこれほど自分の世界を広げてくれるとは思ってもみなかった。知識や興味や行動範囲も広がった。知らなかったことも知ったし、知らないことが無数にあることも知った。
 これまでは色や光をずっと探してきてけど、それに加えて今後は音が聞こえるような写真というのも意識していきたい。撮るのが難しい雨と風も写したい。

 2006年3月14日(火) 「一日よりも速く。
                 もっと急げと声がする」

 流れゆく日々を踏ん張って引き留めようとしてでもきるもんじゃない。それよりも、毎日よりも速く駆ければいい。もっと速く。もっと。
 時速何キロで進めば一日のスピードを追い越せるのだ?
 いずれにしても、頭と手と足と体をもっと速く動かす必要がある。物理的にも。
 今のままでは最低速度違反すれすれだ。
 急げや急げ。

 2006年3月13日(月) 「原因は時間不足じゃない。
                 勇気の欠如みたいなものだ」

 一時的な低空飛行から脱して、また安定飛行に戻った。
 気分的には。
 ただ、3月も半ばだというのに、まだ何もしてないような気さえする。新しい年がまだ本当には始まってないような、去年からの延長戦をやってるような。
 時間が足りないことは今に始まったことではないし、これはずっと続くテーマだから、それを言い訳にはできない。持ち時間の中でやり繰りしていくしかない。

 また明日、また明日、と繰り返す。
 今日もまた同じことを言って時間切れ。
 また明日。

 2006年3月12日(日) 「一週間の全力。
                 リセット効果を上手く利用していきたい」

 一週間の始まりは日曜日だというけど、やっぱり日曜日は一週間の終わりで、その日曜日の終わりが近づくと、今週が終わってまた来週が始まるんだなと、毎週思う。
 そこには大きな安堵感のようなものと、また一週間を最初から始めなければいけないのかという軽い憂鬱がある。学校へ行っていてた子供時代から大人になった今もそれは変わらない。
 そんな心の葛藤はおかまいなしに、日曜の夜に寝れば月曜がやってきて、否応なしに新しい週が始まり、巻き込まれていくことになる。
 この一週間のリズムというのはとても上手く考えられていると思う。体内のリズムから一週間が生まれたのか、一週間のリズムに体が馴染んだのかは分からないけれど。
 かつて、今よりももっと暦や時間が曖昧だった時代を生きていた人たちはどうやってリズムを刻んでいたんだろう。そもそも一週間って、いつから始まったのだ?
 それは分からないけど、私たちが生きている間は一週間、ひと月、一年という単位がなくなることはないだろう。それがときどき窮屈に感じることがあっても、このリセット効果はとてもありがたいものだ。
 また来週も、一週間単位の全力を尽くそう。

 2006年3月11日(土) 「今年の波は去年よりも高い。
                振り落とされないようにうまく乗っていきたい」

 去年は一年を通じて気分は安定飛行だった。今年は違うリズムのようだ。バイオリズムの波が大きい。
 運気という言い方をする。これも波のリズムのようなものだ。
 波に逆らわず、でも飲み込まれず、上手く乗っていきたい。高いところでも低いところでも。
 2006年が2005年と同じリズムである必要はまったくない。去年との比較より今年をどう乗っていくかが大切だ。
 いい波が隣にあればそっちに乗り換えてもいい。

 2006年3月10日(金) 「表紙の模様替えに伴う変更。
                 スタンスはこれからもたぶん変わらない」

 表紙の模様替えがやっとできた。ようやくやった、と言った方がいい。どれだけ先延ばしにしたか覚えてないくらいだ。
 それに伴って、更新のスタイルも少し変わってくる。表紙に書いていた断想日記をこのページに直接書くようになって、今日の一枚は表紙からは消えた。
 ブログの断想日記プラスワンは、始めて半年、毎日更新が続いている。すっかり軌道に乗った今、これが更新のメインとなる。通常の日記の断想日記も一応続けていくつもりでいる。今日の一枚はたぶん、このまま終わりになりそうだ。
 散策コーナーはすっかりペースが落ちた。新しいスポットに出かけてないというのもあるけど、写真を撮るスタイルが変わったので、ネタがない方が大きい。去年の愛・地球博で狂ったペースは半年経ってもまだ元に戻らない。もう戻ることはないのかもしれない。

 このDry&Wetは、かれこれ7年くらいになる。途中、やめようと思ったこともなく、今に至っている。今後もスタンスが大きく変わることはないだろう。やめるようなことがあるとしたら、それはよほど重大なことが起こったときだ。それはそれで楽しみではあるけど。
 自分の中で、いつか、書くということが終わってしまう日が来るんだろうか?

 2006年3月9日(木) 「正論がまかり通る世の中は、
                心地いいのか、悪いのか?」

 正論は確かに必要だ。学生にとって教科書が必要であるように。
 でも正論だけでは解決しない問題が多いのもまた事実だ。教科書には書かれていないことがたくさんあるように。
 正論があって反論がある。その先に反論の反論としての正論もある。
 そうやって行き着いた正論は切り札のようなものだ。そう簡単に切ってはいけない。
 私はできることなら正論に乗っ取って生きたい。それがすごく難しいことは知っているけど。でも、少なくとも反論ばかり探すようなことはしたくない。
 いつの日か、当たり前に真っ直ぐ善良に生きられるようになれたらいいなと思う。

 2006年3月8日(水) 「頼れる男、道真さん。
                まずは一人目、お見事」

 さすが道真さん、そして桜天神社、あっぱれ見事。
 親戚から届いた合格の連絡。
 今回お願いした三人の中では一番難しいと思われた京大合格。
 私の力もきっと5パーセントくらいはあったと信じている。
 まずは一人目合格で、残りは二人。この勢いで後に続いて欲しい。
 もし、今回全員合格したら、桜天神社の力は大したものだ。
 今日は他人事ながら嬉しい一日となった。おめでとうと言うよりありがとうと言いたい。
 道真さんはやっぱり頼りになる男だった。

 2006年3月7日(火) 「懐かしいけど今会いたいのとは違う。
                彼も彼女も記憶の中であのままに」

 昔のことを思い出すと、懐かしさと忌まわしさがない交ぜになった複雑な感情にとらわれる。
 どの過去にも、もう決して戻りたくはない。中学生とかそんな昔までさかのぼって同級生に会いたいとも思わない。
 それでも懐かしいには違いない。でも、やっぱりわずらわしいような気持ちも強くある。
 ただ、以前ほど過去に対して頑なではなくなった。前はもっと過去を振り返らずに前へ進むんだという気持ちが強かった。今は、振り返るくらいは振り返ってもいいじゃないかというふうに変わってきた。懐かしさというのも必ずしも後ろ向きな感情ではない。
 昔の友達たちはみんな元気でやっていて欲しいと思うし、あの頃好きだった人たちはみんな幸せでいて欲しいと願っている。でも、会いたいとは思わない。私が懐かしく感じているのは記憶の中にいる彼らであって、今を生きている彼女たちではないから。


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