2005.11.22-2006.3.6

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 2006年3月6日(月) 「変なところで泣かされた映画。
                『恋は五・七・五』」

『恋は五・七・五』という日本映画を観た。
 誉めたい人の気持ちも分かるし、そうでない人の気持ちも分かる。 総合的にみて、少し物足りないけど魅力的な青春コメディと言えばそう遠くはないと思う。主演の関めぐみがよかったのが最大の収穫という言い方もできるだろう。
 俳句を題材にしてるものの、映画としてのスタイルは非常にオーソドックス。個人的には嫌いじゃない。
 その中で出てきたこんな句がある。

 向日葵や僕らにひとつある言葉

 これが妙に染みていけなかった。いや、いけなくはない。よかったのだけど、不意打ちに泣かされたのがちょっと悔しかったのだ。
 この句だけでは分からないと思うので、機会があったら観てみてください。『恋は五・七・五! 全国高校生俳句甲子園大会』。高校生ロボットコンテストを題材にした『ロボコン』と共にオススメします。

 2006年3月5日(日) 「駆けてるだけじゃ空は飛べない。
            大きくジャンプすれば天にも触れられるかもしれない」

 最近、少し前の地面ばかり見て、上を見ることを忘れていたようだ。
 向上心を忘れた人間は、飛ぶのを忘れた鳥のよう。地面を駆けているだけでは海の向こうには行き着けない。
 上を目指すことを思い出したなら、手をばたつかせるようにして駆け出そう。
 空は飛べなくてもジャンプすることはできるはずだ。

 2006年3月4日(土) 「ありがとうのお祈り。
                誰にともなく、一日の終わりに」

 健康なときに健康のありがたみを自覚することは難しいけど、一日の終わりに祈るという行為がわずかにそれを可能とするかもしれない。
 祈る相手は神様なんかじゃなくていい。家族でも、恋人でも、猫や犬でもいい。今日も一日、どうにか無事に最後まで辿り着けて、ともに過ごせたことを感謝します。ありがとう。
 祈りはお礼の言葉だ。お礼を言えば人は謙虚になれる。面と向かって言わなくても、心の中で言えばいい。
 それは誰かに向かってのポーズなんかじゃなく、自分自身のために他ならない。幸福は自覚して初めて得られるものなのだから。

 2006年3月3日(金) 「オリジナルの2006年。
                流れの延長線上の違う流れ方」

 その年特有の流れといったものが確かにあって、2006年はどこか2005年とは違っている。同じようなことをしているにも関わらず何かが違う。
 違わなければ詰まらないからそれはいいんだけど、よかった部分もなくなってしまうのは少し残念だ。
 ただ、そこを引き戻そうとすると歪みが生まれてくるから、無理に戻すことはやめておいた方がいい。あの流れがあって今に至り、今の流れが未来につながっていく。それを滞らせるのはよくない。川だって一方向に流れてるから淀まずに済んでいる。
 このまま流れを前に進めて、あらたな流れを作っていけばいい。去年よりももっといい形で。
 2006年の形がようやく少しずつ見えてきた。前後のつながりを見失わないようにして、このまま進んでいきたい。

 2006年3月2日(木) 「続けることが目的。
                どこに辿り着かなくてもかまわない」

 どこまでいっても、完結も完成もないのなら、続けられるだけ続けるしかない。
続けるという行為そのものが目的となり、目標となる。
 人生は綱渡りだと人は言う。それほど危うくはないと私は思う。むしろ、橋を造りながら進むのに似ている。
 この先どこに向かっているのかは分からない。ただ、足下に今日も柱を立て、板を渡しながら進むだけだ。
 きっとどこかに辿り着けると信じて。

 2006年3月1日(水) 「あの頃好きだったものはあのときのまま。
           気持ちは変わってもありがとうの気持ちは変わらない」

 昔夢中になったドラマの再放送を観てなんでこんなものをと思ったり、かつて好きだった人に再会してこんなもんだったんだと思ったりすることがある。でも、大切なのは今の評価ではなくあのとき自分の中にあった感情なのだ。それを忘れないようにしたい。
 リアルタイムの感情はいつだって本物で間違いはない。時が経って気持ちが変化しても、かつての思いはあのときのままだ。
 素敵な感情を持たせてくれたすべての人と物事に感謝したい。ありがとう。

 2006年2月28日(火) 「損得勘定がすべてじゃないけれど、
                 人の悪口は損することが多い」

 人のことを悪く言って得することは少ない。たいていろくなことにはならない。
 そういう部分での消極性は悪いことじゃないのかもしれない。言いたいことをすべて言えばいいといものじゃない。
 特に公の場で他人の悪口を言うときはくれぐれも覚悟を決めてからにした方がいい。
 テレビの中にはたくさんの反面教師がいる。彼らに学ばない手はない。
 人のことを決して悪く言わない長嶋監督が私の先生だ。
 批判や批評も、何年か前に全面的に放棄した。冗談と誉め言葉だけでもなんとかなるもんだということが今は分かった。

 2006年2月27日(月) 「ここから再加速。
                 新しいことを始めるなら4月よりも3月から」

 2006年もふた月が終わろうとしている。
 ここへきてようやく今年のリズムが出てきた。それまではどうもしっくりいってなくて、気持ちのもやがかかっていたのが晴れてきたのを感じる。
 ここ数年、毎年出だしは鈍いから、今年は早い方かもしれない。
 ここで4速から5速に入れてクルージングに入るのではなく、3速に落として再加速をしよう。3月は今年一年のリズムとペースを作る上で大事な月だ。新しいことを始めるなら、4月よりも3月の方がいい。
 オリンピックも終わって、気持ち的にも区切りをつけるのにちょうどいいきっかけになった。
 まずは2006年の大きなテーマをひとつ決めることからだ。中小のテーマは流れの中で見つかるけど、メインテーマは自分で決めないと見つからない。

 2006年2月26日(日) 「迷ったらやめろ、それはたいてい正しい。
               本当に欲しいものの前で人はためらわない」

 ときどき、自分は何が欲しいのか見失うことがある。
 欲しいという思いにとらわれてしまって、それが本当に必要なのかどうか判断がつかなくなる。
 迷ったらやめろといつも自分に言い聞かせている。迷うというのは何かしら心に引っかかる理由があるということだから。その声はたいてい正しい。もちろん、やめて後悔することもあるけど、踏みとどまることで別の道が見えてくることもある。
 というわけで、今日はもう寝ることにする。迷う心を封印して。もし、明日になってもまだ気持ちが続いてたら、そのときは迷わず行こう。
 何の話だって? デジをもう一台買おうかって話です。
 そんなことかい!

 2006年2月25日(土) 「思うよりも楽しい季節の中にいる私たち。
                 昔もよかったけど今もいい。そして将来も」

 この世界は難しくてままならないから面白い。予定調和と気まぐれなドラマが交錯して、そこに巻き込まれてしまった人間は翻弄され続ける。
 太古の昔から、人はいろんなことを思い、感じ、口にしてきた。そしてこの世界の謎を解き明かそうとして、ついに仕組みを解明できないまま今に至っている。
 もしかしたら、遠い将来、今私たちが分からないことはすべて解き明かされるのかもしれない。でも、私はそんな時代ではなく、今このときに生まれ合わせたことを幸運だったと思っている。オリンピックで勝った負けたと一喜一憂してるようなこんな時代にいられることが嬉しい。
 私たちは、無邪気さゆえに楽しみ喜べていることがたくさんある。それは恥ずかしいことでもないし、悪いことでもない。そういう季節の中にいるというだけのことだ。昔は昔、将来は将来、今は今だ。私は素直にこのときを楽しみたいと思っている。
 上手くいかないな、コンニャロメ、と悪戦苦闘する日々を喜びとしたい。
 自分のことだけじゃなく人のことでも、わけも分からず感動できるって、とても素敵なことだ。

 2006年2月24日(金) 「トリノの女神の気まぐれで粋な計らい。
   どこに光が当たり、どこに影が落ちるか終わってみるまで分からない」

 日本のトリノオリンピックは荒川静香のためだけにあったのか。ここに至るまでのすべては長い前フリに過ぎなかったのかもしれない。原田のアレも、成田・今井兄妹も、メダルがひとつもなかったことも。
 最初から最後までトリノの女神の粋な演出だとしたら、これはもうまいったと言うしかない。イタリア人らしい茶目っ気というか、イタズラ心のようなものを感じた。そのあたりがイタリア人の憎めないところだ。
 文句なしの金メダル。おそらくあのドーナツ型のメダルを持っているのは荒川静香だけになるだろうから、どのオリンピックのメダルよりも価値が高い。
 しかしあれ、よく見たらデカいな。最初、材料ケチって真ん中くり抜いたのかと思ったらそうじゃなかった。
 それにしても、オリンピックというのはなんと気まぐれで意地悪なことか。スルツカヤがついに金メダルをとれずに終わってしまったことを私はずっと忘れないだろう。たぶん、荒川が金をとったことよりも。

 2006年2月23日(木) 「物わかりがよすぎる子供はかわいくないし、
                 物わかりがよすぎる大人も正しくない」

 この頃、あまりにも物わかりがよくなりすぎていると思った。
 何でもいい方に解釈していくことは心の平安を保つためにはいい方法だけど、それはあきらめにも通じる。
 人として当然のマイナス方向に振れなければ、心の振り子はプラス方向にも動かなくなる。止まったままの心は淀む。
 喜怒哀楽、どれが抜けてもまっとうな心とは言えない。たまには怒ったり、嘆いたり、沈み込んだりもしていい。その分、プラスの感情に大きく揺り戻すことができるだろうから。
 物わかりがよすぎるのもいいことじゃないことが最近分かった。

 2006年2月22日(水) 「感情の行くままに。
                 主人は譲らずに」

 ひとつひとつ感情が終わっていくことを嘆いたり恐れたりしないようにしたい。
 それは必然的な流れだから。
 出て行こうとする感情を引き留めても、自分にとっていいことはない。空いた場所にはまた別の感情がやって来るだろう。
 古い感情がなくなることが必ずしも鈍感になることを意味するわけではない。
 どこまでいっても、結局私たちは感情に振り回されることから逃れることはできないだろう。
 ただ、感情を主人としないことだけは心がけたい。いつも言うことを聞かせられるわけではないけれど。

 2006年2月21日(火) 「春やることを今やろう。
                 明日やることは今日でもできる」

 春になればあそこにもここにも行って、あんなこともこんなこともしよう、そんなことを思い巡らす。
 でも、いざ春になってしまえば、たぶんその思いは半分も実現されないだろう。明日やると言ってずっと引き延ばすみたいに。
 春になったらやろうと思っていることは今やろう。ひとつでもいいから。不完全な形でもいいから。オリンピックや寒さなんかを言い訳に使わず。
 今日やれないことはきっと明日もやれない。逆に言えば、明日できることは今日だってできるはずだ。
 毎月、12月の年末進行みたいに前倒しできると一番いい。
 私たちはみんな、自分が思っているほど時間を持っていないのだろうから。

 2006年2月20日(月) 「残念なのはメダルがゼロということじゃない。
             ニューヒーロー・ヒロインのドラマが見られないこと」

 原田はトリノに身体測定をしに行ったのか!?
 どうせダメなんだから、せめて最後の団体は飛ばせてあげて欲しかった。
 そしたら私も気持ちよく、原田ぁ〜と震える声で応援できたのに。
 それにしても日本は20年時代が戻ってしまったようだ。カーリングもついに力尽きて、残すはフィギュアのみ。
 メダルよりもニューヒーロー、ニューヒロインが見たいという私の願いも、ついに叶わずに終わるのだろうか。

 2006年2月19日(日) 「こちら側とあちら側。
                 内側と外側、全部あわせてひとつ」

 人の世は浮き沈みがあって、こちらが浮けばあちらが沈むわけで、負けても嘆くことはないし、勝ったときは相手側の気持ちを思いやりたい。
 たとえばオリンピックは、国別対抗戦ではあるけど、参加してる選手全員のものであり、関係者や視聴者全部を含めてひとつのものであるという見方ができる。あれは地球のものだ。
 自分が不幸なときは、その分幸せな人がどこかに必ずいる。この世界は常に相対的なもので、質量保存の法則は人の幸不幸にも当てはまる。
 そうやって考えていけば、自分を慰める役にも立つし、自分とは無関係のところで行われてるものに対しても親しみが持てるようになる。この世界はみんなものもであり、自分のものでもある。
 世界をもっと大切にしたいと思う。自分を大事にするように。世界と自分は本質的に同じなのだ。

 2006年2月18日(土) 「カーリングで次の次のオリンピックを?
                 自分でやってみないと分からない難しさ」

 カーリングというものを初めてちゃんと見たのは、長野オリンピックだった。もう8年前になる。
 あれから8年間、すっかりカーリングのことなど忘れていたけど、今回のオリンピックでまた思い出した。
 それで思ったのは、カーリング、自分もやってみたいかも、というものだった。おいおい、本気か?
 実際やってみたらかなり難しいものなんだろう。真ん中に止めることも簡単じゃないことを知れば、小野寺〜、またかよ〜などと安易に文句を言うこともできなくなるはずだ。
 しかし、彼女、今日は別人のように絶好調だった。それまでとんでもなく失敗続きだったのに。
 一番近いカーリング場ってどこにあるんだろう? 北海道までは行けないぞ。でも、やってみたいし、言ってみたい。Aプランはアングル・テイクで、Bプランはタップバックでいこうか、などと。そして叫びたい、ウォーとか、ハリーとか。
 小野寺や林たちを描いたカーリング映画『シムソンズ』も公開されたし、時代はカーリングか!?
 次の次のオリンピックを目指したい。

 2006年2月17日(金) 「後ろの自分と前の自分は全員違う自分。
                 だけど、全員が自分」

 人は日々新しい自分と出会っている。今日という日を生きてみなければ出会えなかった自分と。
 まだ見ぬ自分が前の方でたくさん待っていて、できることなら全員と会いたいと思う。
 振り返ってみると、大勢の自分がいる。
 前も後ろも、同じ自分はひとりとしていない。
 そして、全部が自分だ。
 これからの新しい自分との出会いを楽しみにしている。だから、毎日、今日を生き延びて明日に向かいたいと思うのだ。

 2006年2月16日(木) 「好きという気持ちを入れる心の瓶は、
               底が少し漏れるから、日々新たに継ぎ足そう」

 今日の最高は3日後の平凡。寂しいことだけど、そう感じられたのなら、日々成長してるということだ。飽きるという感覚も進歩の証拠だと思う。
 自分が打ち込んでいることも、人との関係性も、ランデブーのように同時に前へ進んでいっている。時間の流れというベルトコンベアの上を。時代という流れの中で。
 人の感覚もまた、日々とどまることなく前方に向かって動いていっている。とどまりたくてもとどまることはできない。
 今日好きだったものや人を明日も好きであろうとすれば、今日以上に思いを上積みしなければならない。確認作業を怠れば、少しずつ崩れていってしまう。目には見えないところで。
 今日の最高に安住しないようにしたい。明日はもっと好きという気持ちを重ねよう。

 2006年2月15日(水) 「ここまで何もないか、トリノオリンピック。
                 時代が20年くらい戻ってしまったみたい」」

 印象的なことがなさすぎて逆に印象的なトリノオリンピックの前半戦。
 ひそかに期待していたショートトラック女子の神野も、あっけない幕切れだった。
 テレビのこちら側の私は応援するより他にすることはなくて、あまりにも無力で申し訳ないくらいだ。
 もしかして、私の応援が足りないのだろうか? こうなったら気合いを入れて応援するために、スピードスケートのあの格好でもしようか。あのピチピチスーツ、どこで売ってるんだろう? 本物は高そうだから、大須で安いレオタードを買ってきて加工するか。でもスリムな私が着たら貧相なんだろうなぁ。
 とにかく誰かがなんとかするしかない。どこかに伏兵はいないのか。カーリングも下手だしなぁ。
 スノーボードクロスとかいう謎の新競技にでも期待するか。
 ガンバレ、ニッポン。このままじゃ終われない。

 2006年2月14日(火) 「トリノを嫌いにさせないで。
                 女神よ一度だけでも微笑みを」

 トリノにいる勝利の女神は日本人にここまで微笑まないか。
 手を伸ばして指先が触れそうになったメダルを別の選手に与えてしまう。日本人選手がメダルに値しないとは思えないのに。
 勝者がいれば敗者がいる。それは当たり前のことだ。ただ、それとは別の部分で何かがおかしいと感じる。こんなオリンピックは初めて見た。この違和感をどう説明すればいいんだろう。
 日本選手団が不調だったり、悪い流れからメダル確実と言われた選手が逃したりなんてことはこれまでいくらもあった。今回はそれとはちょっと違う気がしている。
 選手の顔ぶれを見ても、古い世代と新しい世代の間が育ってない。過渡期と言ってしまえばそれまでかもしれないけれど、風が吹かない。
 トリノの風は日本人選手に冷たい。実力が足りないだけだと人は言うだろうか。
 せめてドラマを見たいと思ってもそれさえない。あそこには勝利の女神も魔物もいないのか? このままアンチ・ドラマチックなオリンピックで終わって欲しくはない。心に残る何かが見たい。

 2006年2月13日(月) 「ヒーローたちが放つ最後の鈍い輝き。
                 それは月明かりのように優しく心を照らす」

 自分の体が言うことを聞かなくなるほどひとつのことに打ち込んで練習したという経験が私にはない。部活はきつかったけど、そんなレベルじゃなかった。
 毎日の練習で体を痛めてもなお闘おうとするアスリートの本能は、痛々しくもあり、胸を打つ。
 安全策を取れば決勝に進めたのに、と人は言った。でもあえて最高の自分を求めて、砕け散った彼らを悪く言う気にはなれない。成田童夢と今井メロは、トリノオリンピックで最も印象に残る敗者となった。
 今回のオリンピックは、かつてのヒーロー、ヒロインが自分の最後の時と場所を求めてやって来たように私には見える。ジャンプの原田たち、スピードスケートの清水、ショートトラックの寺尾、モーグルの里谷多英、彼らに往年の輝きはない。このあとに続く岡崎たちもそうなるだろう。
 同時代を生きた者として、彼らの最後の雄志をしっかりと受け止めたい。過ごしてきた時間に思いを馳せながら。
 たとえ彼らが衰えから完敗を喫したとしても、私の中で彼らがヒーローでありヒロインであることに変わりはない。

 2006年2月12日(日) 「頑張ることがどこかで誰かの役に立っている。
                 それは素敵なことだと思う」

 人は自分のためだけに生きているわけじゃない。知らないところで誰かの力になったり、役に立ったりしている。自分ではそんなつもりがなくても。
 その逆もある。
 人は人を見ながら生きている。まったく誰の影響も受けずに生きることは無理だろう。そうやって互いに修正し合う。
 とにかく頑張って、明るく元気でいることだ。そんなこと言うとまるで幼稚園生みたいだけど、これってとても大事なことだと思う。大人はもちろん、歳を取ってからも。
 人はなかなか頑張ろうと思っても頑張れない生き物だけど、人がものすごく頑張ってる姿を見ると自分も頑張ろうと思うものだ。
 オリンピックを観ていると、人として大切なものが何なのかということを思い出す。だから私はオリンピックが好きだ。

 2006年2月11日(土) 「アンチ・ドラマチックなアン・ハッピーエンド。
                非情なのは勝負させてもらえなくなること」

 不完全燃焼のアンチ・ドラマチックな終焉。それは選手にとって最も不幸な結末なのかもしれない。
 完敗して終わるとか、自分の限界を知って身を引くとか、そういうことなら納得もできるだろう。でも、そんな終わり方ができる選手はたぶんほとんどいない。たいていは持っている力を出し切れないまま、時間が来て終わりを告げられてしまう。燃え尽きて終わるなんてのは奇跡みたいなことだ。
 勝負の世界は非情だという。でもそれは勝ち負けがはっきりしてるからとかそういうことじゃない。本当の非情さは、勝負をさせてもらえなくなってしまう日が来るということだ。
 子供の頃からずっと打ち込んできたことを明日からもうできないと分かったとき、選手と呼ばれる人たちは何を思うんだろう。心に空いた穴の大きさや深さを私は想像することができない。
 今回のオリンピックが競技者としては最後になる選手も大勢いるだろう。しっかり見て、その姿を心に刻もう。

 2006年2月10日(金) 「幸せを捨ててこそ得られる幸せもある。
                 幸せのメカニズムを知りたい」

 人が幸せになるのに理屈は必要ないというけど、本当にそうだろうか。
 親から一方的に押しつけられた正しさを子供の頃受け入れられなかったのを思いだしてみると、幸せになるためには自分なりの理屈や論理が必要なんじゃないかと私は思う。
 人並み以上の幸せは望んでないけど、幸せになるための論理は見つけたいと、ずっと探してきた。それさえ見つかれば、自分がその通り幸せにならなくても納得できると思うから。
 人には幸せは必要だというところから出発して、幸せなんて必要ないというのを経由して、やっぱり必要だろうというところに今来ている。この先で、人にとって本当に必要な幸せは何で、どうすればそれを手に入れることができるのかを見つけたい。
 幸せになるための方程式は存在すると信じている。

 2006年2月9日(木) 「一日の収穫。
                それは思いがけず偶然に得られたもの」

 一日の収穫ということをよく考える。
 新しいものと出会ったり、見たり、聞いたりして知らなかったことを知ることは収穫だ。初めての写真、初めての映画や本、初めての場所。そこには大いなる収穫がある。
 それとは別に、偶然というものも大事な要素だ。思った通りのものが得られることはそれはそれで収穫だけど、思いがけなく得られたものこそが本当の意味での収穫と言えるかもしれない。だから生きるのは面白いのだし、それが未知の明日へ向かう原動力になる。
 上手くいかなかったことから得られる予想外の収穫というものに日々期待している。それは新しい一日を生きてみないと得られないものだ。
 今日の収穫に思いを馳せつつ、明日はどんな収穫があるだろうと楽しみにしながら眠りにつく。

 2006年2月8日(水) 「受け入れるべき小さな奇跡。
                すでに受け取っている大きな奇跡」

 信じてもいいと思える小さな奇跡がこの世にはいくつかあって、ムキになって否定するより素直に感動する人間でありたい。
 賢くなることは大切だけど、小賢しくはならないように気をつけなければいけない。
 なんでも分かってるような気でいると、分からないことに当たったとき拒絶してしまうから、未知のものや理解不能なものにも心を開いていよう。
 奇跡を当てにせず、起こった奇跡は受け入れる。そんなゆるやかな姿勢で奇跡とつき合っていけたらいい。
 小さな奇跡はきっと、もう誰の身にも起こっていることだ。気づきさえすれば幸せになれる。

 2006年2月7日(火) 「風は吹き、凪ぐ。
                吹き流される先を恐れず進もう」

 風が吹いたり拭かなかったり、強風、暴風、微風、そよ風、順風、逆風、いろいろな風がある。自分の力ではどうすることもできないことも。
 ときには凪となって、待つより他にどうしようもない。
 風に乗り、風を切り、風に逆らい、私たちは進み、立ち止まり、吹かれ、流される。上手くいくこともあるし、いかないときもある。
 なんでもかんでも風任せでは面白くはないから、自分の意志と力で強引に進むことも必要だ。強引に風向きを変えることも。
 ただ、いい風が吹いたときは素直に乗っていきたいと思う。どこに吹き飛ばされても恐れずに。
 大切なのは、今自分に吹いている風を読み違えないことだ。

 2006年2月6日(月) 「輝ける人生は暗闇の中の星のように。
                闇が深いほど小さな星も輝いて見える」

 生きててよかったと思える瞬間と瞬間を線で繋いで、夜空の星座と同じように何かの形が描けたなら、それで充分じゃないかと思う。
 無人の荒野で見る星空みたいにたくさんの輝きがなくてもいい。都会の星空くらいあれば。
 たとえ目には見えなくても、人生には無数の輝きがある。すべての星座を集めたよりももっと。
 心の闇が深ければ深いほど、輝きは増す。

 2006年2月5日(日) 「地球はラブソングの流れる星。
                それがこの星の理由なのかもしれない」

 ラブソングが解決できる世界の問題は少ないかもしれない。もしかしたら、ほとんどないのかもしれない。でも、それは確かにあるのだ。ほんの短い間、テレビや街から流れてくる流行のラブソングが人を救うことがある。
 ドラマや映画にも、それは欠かせない。人によっては毎日の生活にも。
 だから新しいラブソングは日々作られ、私たちはそれを聴く。積極的に、あるいは消極的に。
 宇宙ではどんなラブソングが流れているのだろう。もしかしたら、ラブソングは地球にしかないものなのかもしれない。だとしたら、これは地球人が生み出した最も素敵なものなんじゃないだろうか。
 今日も地球のどこかで、途切れることなくラブソングは流れている。

 2006年2月4日(土) 「自分が知らないということを知ってる大切さ。
                知ることに終わりはない」

 一日にひとつでもこれまで知らなかったことを知ると、それで安心する。前進感が得られて嬉しくもある。
 そのためにはふたつの自覚が必要だ。知らなかったという自覚と、知ることができたという自覚が。知らないことを自覚してなければ知った喜びは得られない。だから、知らないということを知っていることがとても大事なことなのだ。
 自分がまだ知らないことにたくさん気づいている人間は、それだけ可能性があるという言い方もできる。
 あとは、何に対しても興味を持つことと、未知なものに触れたときの喜びをいつまでのなくさないことが大切になる。鈍くなればなるほど、この世界を楽しめなくなる。
 何でも知っているという錯覚ほど危険なものはなく、知ることに限界はない。

 2006年2月3日(金) 「知らなかった不幸よりも知った幸福。
                互いを小さな光で照らし合うこの世界」

 世の中には自分の知らないところでたくさんの不幸な人間がいるという現実がある。でも、自分が思っていた以上に大勢の幸せな人がいるという事実の方を私は大切にしたい。それを教えてくれたのがネットの世界で、そのことを私はとても嬉しく思っている。
 直接、間接に知ることができたたくさんの素敵な人たち。彼らの幸せそうな姿が私を安心させてくれる。
 世の中って人が言うほど悪いところじゃない。善意の解釈で押し切れるものなら押し切ってしまってもいいじゃないかと思う。
 私の感じている幸福感が、誰かの心を少しでも明るく照らすことができたなら、それは私にとっても幸せなことだ。
 人は太陽でも月でもなく、誰もが自ら光を発し、互いに照らし合う生命体なのだと私は信じている。そう思えるようになるまでにかかった長い時間を知っているから、私は自分の判断を信じたい。

 2006年2月2日(木) 「口の悪い弟みたいなもうひとりの自分。
                いつか合体はなるのか?」

 自分の中に、意地悪で生意気で正しい自分がもうひとりいて、本体の私が何かに満足しそうになると顔を出してきてこんなことを言ってくる。おまえ、本当にその程度で満足なのか、と。からかうような口調で。
 一瞬カチンとくるんだけど、それはたいてい正論なので反論できない。
 うん、確かにそうだ、こんな程度で満足してる場合じゃない。悔しいけどその通りだ。
 相対的な満足感で納得してしまいそうな私をいさめてくれるもうひとりの私。気に入らないこともあるけど、やっぱり必要なやつだ。
 いつかこいつを納得させられる自分になって、ひとつになれればいいのだけど。

 2006年2月1日(水) 「何を犠牲にしてるのかという自覚。
                失っているもののためにも今してることを」

 何かをしてるときは、別の何かをする時間を削ってやっているんだということを忘れないようにしたい。何をする代わりに今何をしてるのかをちゃんと自覚しておきたい。
 無自覚に時間を過ごして誰に迷惑をかけるというわけでもないけど、やるべきことをやらないと結局後になって自分が後悔することになる。
 時間割に縛られず、優先順位を毎日確認してから始めたい。
 それから、やりたくないことを後回しにすることもなるべくやめたい。気が重いことからやってしまえば自分が楽になるのだから。
 毎日に満足することは難しいけど、納得してから眠りにつくことならできるかもしれない。嫌な夢を見ないためにも。
 優等生的とか道徳的とかじゃなく、自分を楽にするための最善の方法を考えればいい。

 2006年1月31日(火) 「カレンダーをめくる行為。
                それが切り替えスイッチになる」

 1月も終わったか。
 気持ちを切り替えたいという思いと、このまま平穏な日々を守りたい気持ちがせめぎ合って、結局は保留してしまう。とりあえず、という駄目な言葉を味方にして。
 切り替えるチャンスというのはいろいろある。大きなものなら年越しだとか誕生日だとか、小さなものなら月替わりや週の始まりなど。
 このひと月は環状線のように同じところをぐるぐる回っていた。明日からは2月ということで、ポイントを切り替えてここを抜けだそう。新しい場所へと。
 カレンダーを一枚めくって、気持ちのスイッチを切り替える。パチンと音がするくらい。

 2006年1月30日(月) 「30年の覚悟。
                それがあればやりたいことだけしててもいい」

 好きこそものの上手なれ。
 そんな負け惜しみみたいな言葉が昔は嫌いだった。でも今は好きだ。本当にそうだと思う。
 天才は生まれながらのもので、天才に生まれなかった者が天才になることはできない。ただ、誰でも努力を重ねれば一流にはなれると私は信じている。少なくとも、二流にはなれるはずだ。
 大した努力もせずに一流になれる人間も悪くはないけど、苦労して苦労してやっと手に入れた二流にもけっこう価値がある。
 ひとつの目安として30年というのがあると思う。思いを定めて30年ひとつのことを続ければ、たいていのことはものになる。習慣として続けるだけでは駄目だけど。
 継続は力なり。そんな言葉も若い頃は大嫌いだった。今は顔を歪めながらもそれは認めないわけにはいかない。
 思いを決めたら、まずは30年やってみよう。それでも何も生み出せなければ、そのときはそのときで自分を讃えていい。報われない努力をご苦労様と。誰も誉めてくれなくても、そこまでやれば自分で自分を誉めてあげられる。

 2006年1月29日(日) 「偉大さを目指すことの意味は?
                 自分に満足することの幸福と不幸」

 歴史上の有名人を描いた2時間なり4時間なりのドラマを観終えたとき、人生って何だろうなとあらためて思ってしまうことがある。
 どんなに偉大な人物でも数時間に収まってしまうくらい一生ってあっけないものなんだろうか、と。
 でも実は、ああやって描かれてる部分に人生の本質にはないのかもしれないとも思う。生きることは日常的で細々としたものだ。そのときどきの小さなドラマに一喜一憂することにこそ、生きることの理由があるような気がする。
 だとするならば、私たちは自ら望んで偉人にならなくてもいいのかもしれない。どんな人間も、生きているのは日々の暮らしの中だとするならば。
 ただ、生きていることの確かな実感が欲しいと思ったとき、人は偉大さを目指さなければならないのだろう。自分以上の自分になろうとしなければ、本物の高揚感は得られない。
 現状の自分に満足してしまうことは不幸なのか幸せなのか、それがときどき分からない。

 2006年1月28日(土) 「あらゆる出来事を受け入れつつ、
                 無責任な観客として自分を楽しみたい」

 どんなに真面目で堅実に生きていても、ときに思いがけないところで不幸な出来事に巻き込まれてしまうことがある。不可抗力で、誰のせいでもなく。
 だからといって、まっとうに生きることが馬鹿らしいかといえばそうではない。悪いことをせずに生きていれば報われることもある。
 私は、あまりこうでなければと決めつけず、自分を守りすぎないようにと考えている。ノーガードで攻守一体の自然体でありたい。
 何事も起きるときは起きる。起こるべくして。逆玉で令嬢と結婚するかもしれないし、ひょんなことから刑務所に入ることになるかもしれない。どっちも自分の人生で起こる得ることだ。
 何が起きても、それを受け入れて自分の役割を全うしつつ、客観的にドラマとして楽しみたいと思っている。
 人生のストーリーは、脚本家と演出家の思惑を超えて、物語自らの意志で進んでいくもので、そこにこそ面白さがあると信じている。

 2006年1月27日(金) 「ここは楽しいところ。
                 最後までそう言い続けたい」

 生きることは楽しいことだと思えるようになるまでに30年以上かかった。
 でも、だからこそ、そのことを伝えていきたいと思う。少なくとも言い続けたい。誰にともなく、最後まで。
 悲しむことも、苦しむことも、絶望することも大切なこと。そこを抜けた先にこそ喜びや楽しさがある。もしそう思えないとしたら、それはまだ苦悩し足りないからだ。
 生きることは面白くて退屈なんてしてる暇はない。明日も楽しいことがたくさん待っている。その前に夢を見るという楽しみもある。
 起きたらまた新しい一日だ。

 2006年1月26日(木) 「一年で一番長い月も終わり、
                 そろそろ新しい何かを見つけたい」

 気がつけば1月も終わりかけている。
 でも毎年1月は一年で一番長く感じられる月だ。正月なんてもう遙か昔に思えるのに、まだ今月は終わってない。
 だからといって安心してると、2月はあっけなく終わってしまうから油断しないようにしたい。
 今年もやっと軌道に乗ってひと安心だけど、まだ2006年の新しさというものは見えてこない。2005年の続きをやってる感じが続いている。新しい出会いが向こうからやって来ればいいけど、こないからこっちから行くしかない。
 今年は去年とははっきり違う形のいい年にしたい。出だしの気分は悪くない。あとは新しいものとの出会いだ。

 2006年1月25日(水) 「成長する必要があるから成長する。
                 その答えはまだずっと先にある」

 人が他の生き物よりも長生きなのは、成長しなくてはいけないからだ。もしくは、成長することができるからと言い換えてもいい。成長する必要のない生き物なら、70年も80年も生きる必然性はない。
 何故成長しなければならないのか、という問の答えは単純だ。成長できるからに他ならない。
 私たちは成長を子孫につなげることができる。新しく生まれた人間は、いちから始めなくもいい。受け継がれた資産がたくさんあって、それを引き継げばいい。
 どこまで成長すれば終わりなのか、それは分からない。ただ、確かなことは、今この程度じゃ駄目だということだ。答えはまだずっと先にあって、私たちはこんなところで止まっている場合じゃない。
 もっともっと成長しなくては。

 2006年1月24日(火) 「テレビが映すニュースは、
                 ウソじゃないけどホントでもない」

 ニュースにニュースが被さり、古いニュースが見えなくなるこの構図。
 私たちが事実として見ているニュースのなんと断片的なことか。そんなカケラから真実を見抜くなんてできるはずもない。
 ニュースは真実の報道なんかじゃない、エンタテインメントだ。そのつもりで見れば必要以上に憤ることもないし、絶望することもない。連ドラが最終回を迎えるように、どんなニュースも終わりがある。現実はどこまでも続くのに。
 テレビに映ることは、日記に似ている。まるっきり嘘というわけではないけど本当でもない。描かれてない部分がたくさんある。というよりそちらが大部分だ。現実の一部は現実であって現実でない。写真で目に見える光景の一部を切り取るのと同じだ。どんな演出もできるし、様々な解釈が成り立つ。
 私がニュースを見て思うことは、あちら側じゃなくてよかったということくらいだ。ニュースなんかに多くを期待してはいない。

 2006年1月23日(月) 「4年経っても彼を忘れない。
                あれは教訓に満ちた愉快な出来事だった」

「俺たちは時代に選ばれ時代に捨てられた。」
 幕末を描いた時代劇の中のセリフで、とても印象に残っている。どんな時代劇で誰が言った言葉だったかは忘れてしまったけど。
 一番新しいものから古くなる、という言葉もある。流行語がすぐに使えなくなってしまうみたいに。
 先頭を走り続けるというのは誰にとっても難しいことだ。そのためには、実力に加えて、人々の支持と尊敬みたいなものが必要なのだと思う。みこしの上は自ら登るものじゃない。かつぎ上げられるものだ。
 私は、ソルトレイクシティー・オリンピックのショートトラックで、金メダルをとったスティーブン・ブラッドバリー走法でいこうと思う。最後方からゆっくりいって、前が全員コケたらラッキー。

 2006年1月22日(日) 「楽園よりも天国よりも地上で。
                  こっちは楽しいところだ」

 あの世がないという前提で生きられたらどんなに楽だろうと思う。でも、あの世がないつもりで生きるなんて、なんて詰まらないことだろうとも思う。死んだら終わりだなんて、あまりにも残念すぎる。せっかくここまで積み上げてきたものが無になってしまうなんて。
 私はあるという前提で生きている。宗教とは関係ない。別に信念があるというわけでも、恐れているわけでもない。ただ、当たり前の話としてあって欲しいと思っているだけだ。みんながあっちにいるから。
 だから、死ぬために生きているわけじゃなく、あの世に行くために生きている。生きている間に何をして、どんな人間になってあちらへ行くか、それが重要だ。
 そして、あっちで懐かしい人たちに再会したら、またすぐにこっちに戻ってきたい。なんだかんだあるけど、やっぱりこちらの世界で生きるのが好きだから。地上ほど楽しい場所はない。

 2006年1月21日(土) 「相対と総体を知って、
                 もっと自由に」

 どんな主義があってもいいけど、主義に縛られてしまっては楽しくない。こうあらねばならないと思い込むと息苦しくなって自由を見失う。
 私はもっとゆるかやで揺れていたい。形を変える水のように。
 そのためには基本姿勢としてあらゆることをいったん肯定しなくてはいけない。否定するのは肯定した後だ。
 ひとつの絶対にも相対的な絶対が必ず反対側にある。
 正義も真実も、常に相対的で流動的なものだ。
 誰のようであれば正しいのか?
 それは、すべての人のようであればいいのだ。人類も世界も総体なのだから。

 2006年1月20日(金) 「思い出すことを思い出してから。
                 忘れたまま進まないように」

 まず思い出すことを思い出したい。それがスタートラインに立つための最後の一歩となる。忘れることは仕方ないけど、思い出すことは大切だ。
 そして、どちらに向かうかを決めてから再スタートしたい。過去を思い出した上で。
 人生はローリングスタートだけど、途中自分でスタートラインを何本引いたってかまわないし、そこでは立ち止まっていい。後ろを振り返って、前を見て、遠くを思い描いてからまた走りだそう。
 歩き疲れて、道に迷ったとき、振り向いて出発点を確認できるように。
 落としてきた約束や誓いを拾いに戻ったっていい。

 2006年1月19日(木) 「やっと安定飛行。
                 またここから一日ずつ重ねていこう」

 1月もほぼ3分の2が過ぎたところで、ようやく日常の流れに乗れてきた。ふらつきが収まって、安定飛行に入った。
 去年と今年は別の年だ。昨日と今日が別の日のように。それは感覚的な部分でもあり、経験的な部分でもある。私たちは毎日新しい日を生きているけど、それは昨日までの日々に重ねるものだ。毎日リセットされるわけではない。
 古いものに新しいものを重ねるというこの行為の本質を知らなければならない。新しい日を生きながら昨日までの日々を忘れないことが大切なのだということを。忘れてしまえば進歩もなく同じことの繰り返しになってしまう。
 明日という日をもっと楽しみにしたいし、もっと期待してもいいと思う。高をくくらないようにしたい。
 2006年はもう始まっている。新しい年はそれまでの年月を修正するためのものだ。去年までの反省や後悔をきちんと思い出して、忘れないようにしなければいけないという思いを新たにした。

 2006年1月18日(水) 「もう少しだけ善意を寄せ集めて。
                 でも、世界を善意で埋め尽くさないで」

 善意は人の中にたくさん埋もれている。まだ掘り出されていない金のように。または、かつて埋めて忘れられてしまった埋蔵金のように。
 この世界で起こっている多くの問題をあきらめるのはまだ早い。どうにもならないと絶望するにも値しない。もし、全員が100パーセントの善意を出し切ったら、この世界は完璧なほどきれいな世界になるかもしれない。
 でも、現実そうならないのは、人は必ずしも善良な世界を求めていないからだ。少しくらい散らかったり汚れたりしている部屋にいる方が落ち着くように、善意と悪意のバランスが取れた世界の方が居心地が良い。
 世界の本質はどこまでいっても変わらないと私は思っている。昔からこうだったし、これからもきっとそうだろう。本当に汚れきってしまったときは、自分たちで大掃除する気になるはずだから、心配もしてない。
 ただ、もう少しだけみんなで善意を持ち寄れば、もっと住み心地はよくなるだろうに。
 それは、悪いことをしないというんじゃなくて、もっといいことをする方向でみんなが考えていければいいのだと思う。

 2006年1月17日(火) 「去りゆくものに別れの言葉を。
                 感謝の気持ちを確認するために」

 春になるということは冬を失うということだ。
 いつも先のことに気持ちが行き過ぎて、失われゆくものに対する思いやりを欠いてしまう。
 春が近づくと、春のことばかり良く言って、冬のことを悪く言いがちだ。冬にもいいところがたくさんあって、多くのものを与えてくれたのに。そのことをすっかり忘れてしまう。
 古いものより新しいものに気持ちが向かうのは仕方ないけど、去りゆくものにもう少しだけ思いやりを持ちたい。季節にも、人にも。
 せめて最後は別れの挨拶をしてから別れよう。ありがとうの言葉とともに。

 2006年1月16日(月) 「心のアクセルを踏めなくなっている。
                 何度かの事故の記憶は消えていない」

 今にして思うと、昔は気持ちのコントロールが上手くできていなかった。まるで余裕がなくて、いつもアクセルを踏みすぎるか、急ブレーキを踏むかのどちらかで、その途中でコントロールするすべを知らなかった。
 理屈は分かっていても、その通りにはできなかった。ペーパードライバーみたいに。
 あの頃に比べたら今はベテランドライバーになって、加速も停止も速度調節もだいぶ上手になった。自分も周りも平常通りならだけど。
 ここ最近はむしろ安全運転しすぎているかもしれない。もう少し危険を冒してもスピードを上げていった方がいいのだろう。せめてプラス10キロくらいは。
 ただ、やっぱり事故の記憶というのはいつまでも消えずに残っていて、踏みかけたアクセルをついゆるめてしまうのだ。

 2006年1月15日(日) 「幸福よりも必要な幸運。
                 幸運でさえあればできることを見つけたい」

 深夜に響き渡る救急車のサイレンが、自分が幸運であることを思い出させてくれる。
 幸福であることよりも幸運であることの方が必要だ。幸運に気づいたのなら、それを活かさなければ意味がない。
 自分には何ができて何ができないのか。持ち時間の残りが分からない中で、それを見極めなければならない。
 人の不幸の中にこそヒントがある。あの人ができなくて自分ができることは何なのかと考えれば、やることが少し見えてくるんじゃないだろうか。

 2006年1月14日(土) 「涙雨が降らなくても心の咲く花。
                その花は健気だけど美しくないかもしれない」

 寂しさを感じない寂しさというものもある。
 人恋しさとか、恋愛沙汰を求める気持ちとか、持て余す孤独感とか、そういうものを痛みとして感じない心は、強さじゃなく鈍さなのだと思う。
 最近の私は心が鈍くなってきているようだ。由々しき事態とまでは言えないけど、あまりいい兆候ではない。
 克己心は人並み以上にあると思う。けど、あまりにも強くあろうとすると心が硬くなり過ぎる。もう少し悲しみだとか寂しさなんかに対して素直に身をゆだねた方がいい。たまには涙の雨を降らせて乾いた心を潤わさないと。
 今私の心に咲いているのは、雨が少ない土地でも咲くことができるように進化したサボテンの花みたいなものかもしれない。

 2006年1月13日(金) 「金回りと至らなさ。
                金を循環させてこそ暮らしも心も豊かになる」

 持ち金が少なくても生きていける。ただ、金がないとあちこちが次々と至らなくなっていく。それがときどき悲しかったりする。
 最初は目に見えないところや家の中から始まり、次にだんだん見えるところへとどうしようもなく波及していく。
 金回りがいいとか悪いとかいうのは上手い表現だ。余裕があって循環してると、身だしなみにしても、持ち物にしても、部屋の中も、行き届く。気持ちがいかないところには金が回っていかない。そこが滞っていく。
 小金持ちと貧乏の差は、一見それほど大きくないけど、細かい部分で決定的に表れてくるものだ。大きな家に住んでいい車に乗って高い服を着ていても、金回りが悪いとどこかでほころびが出てくる。
 金に余裕があって、なんでもかんでもすぐに買い換えたり買い足したりすることが必ずしもいいことだとは思わないけど、あまりにもあちこち至らないのはやっぱりよくない。貧乏は悪いことじゃないけど、実際以上に貧乏くさいのは駄目だと思う。節約とケチは違う。あまり至らない部分をあちこちに作らず、使うべきところでは金を使っていきたい。

 2006年1月12日(木) 「自分を悪く言わないこと。
                 いつでも自分を応援すること」

 かつて、自虐を防御にも攻撃にも使っていたことがあった。それがとても有効な武具に思えたから。
 でも、今はもう一切の自虐は捨てた。たとえそれで相手に勝ったとしても何も生まないことを知ったから。卑下しても得られるものは何もない。
 謙虚になることは大切だ。でも必要以上に謙遜する必要はない。駄目でも下手でも悪びれず堂々としていればいい。これが今の自分の精一杯なのだから。誰も自分に完全であることを求めてなどいない。
 ただ、自虐的にならずに済むには何かがなければならない。自分の中で心の拠り所になる何かが。それは人ぞれぞれだけど、私は向上心だと思っている。今はまだでも明日、あさって、一年後、十年後にはもっと、という思いがあれば大丈夫だ。
 自分は自分の最大の理解者であり、応援団長でありたいといつも願っている。

 2006年1月11日(水) 「マイナスの感情を行き止まりとしない。
                 嫌な感じには続きを持たせたい」

 負の感情を結論としたくない。
 嫌いとか、嫌だとか、許せないとか、そういう感情がわき起こることはあるけど、
そこを行き止まりとは思いたくない。そういうものは保留にしておくことにしている。その感情には続きがあると信じて。
 そのせいもあって、今のところ憎んでる人もいないし、許せないこともない。
 よい感情はそこで完結させてもいい。一度好きになった人はずっと好きなままだ。
 あとは忘れてしまうのに任せればいい。
 時間がすべてを解決してくれるわけじゃないけど、時間は私に代わって多くのことを解決してくれる。

 2006年1月10日(火) 「毎日反省が活かされないけど、
                反省する気持ちがあるうちは大丈夫と思う」

 毎日いくつもの小さな反省点があって、昨日の反省を今日に活かせなかったことを悔やむ。
 明日こそはという思いが夜を越えられず、今日という日に置いてけぼりにされる。
 でも、少しずつでも自分はよい方向に向かっているのだと信じたい。一日生きれば一日分だけ、一年生きれば一年分。
 そのためには毎日少しでも勉強して、新しいものを取り込んでいかなければと思う。昨日まで知らなかったことを今日知れば、それはこれまでの上積みになる。そうやって毎日ちょっとずつ進んでいくしかないのだろう。たくさんの反省を引きずりながら。
 反省心がなくなれば、同時に向上心も失ってしまう。反省する気持ちがあれば大丈夫ということだ。

 2006年1月9日(月) 「世界がもし閉じていればこの世界は完璧だ。
                閉じていないのなら完璧である必要はない」

 この世界を知れば知るほど、仕組みに気づけば気づくほど、上手くできていることを思い知る。
 かっちりと決まって動かないバランスではなくて、すごく流動的なのに全体として崩れない。そこが実に絶妙だ。
 何か文句があったり不満に感じたりする部分は、まだ気づけてないところだ。そこの仕組みを知ればきっと納得できるに違いない。好き嫌いは別にして。
 時間と空間を全部ひっくるめて見たとき、この世界は正真正銘の完璧なのかもしれない。世界が閉じていればの話だけど。

 2006年1月8日(日) 「あきらめるのは最後でいい。
                可能性を侮らないで」

 絶対にあると決めつけるのは危険なことだけど、絶対にないと言い切ってしまうのは別の意味で危険なことだ。
 絶対というものは存在しない。この時間という概念の内側では。100パーセントのプラスも100パーセントのマイナスもない。どんなことも可能性は0パーセントではない。可能性を侮ってはいけないし、あきらめてもいけない。
 明日という日が人生で最も素晴らしい日になるかもしれないし、最悪の日になるかもしれない。死んでしまうかもしれないし、奇跡を体験するかもしれない。
 私たちは良くも悪くも不確かな世界の中に生きている。それは危うくもあり、希望でもある。そしていつでも可能性に翻弄されている。
 わずかな可能性を希望と見るか、それにすがることをよしとしないかはそれぞれの生き方の問題だ。でも、最初からあきらめすぎてしまっている人を見ると、まだあきらめるのは早いよと言いたくなる。そう、あきらめるのはいつでもできるから、最後にすればいい。

 2006年1月7日(土) 「時間がなかったと言う。
                でも時間はあった、間違いなく」

 時間がないというのは言い訳にもならない言い訳だ。
 時間は誰にでもある。日本一忙しい人間でもまったく時間がないということはない。あるのは優先順位の問題だ。
 だから、時間がなかったという言い訳は、そのことは自分にとって重要ではなかったという告白に違いない。本当にやらなくてはいけないことや、やりたいことは先頭に持ってくる。それさえもできない状況だとしたら、それは異常なことだ。生き方が根本的に間違ってる。
 確かに、タイミングとか他のこととの絡みで時間が取れないことはある。でも、時間がなかったという言い訳だけはなるべくしないようにしている。
 私は言い訳が好きだから、どうせならもっと気の利いた言い訳をしたい。

 2006年1月6日(金) 「行ったら返ってくる親切がいい。
            プラスマイナスゼロでも動きのないゼロよりずっといい」

 恩を売るというのじゃないけど、人にはなるべく親切にしておいた方がいいと思っている。後々巡りめぐって自分にとって得になることもあるから。
 情けは人のためならずとか、損して得取れとか、昔の人もそのことは身をもって分かっていた。損得勘定というと嫌らしいけど、同じプラスマイナスゼロなら、行って来いの方がいい。それぞれが1万円を自分のために使うよりも、相手のために1万円を使う方が素敵だと私は思う。
 だから私はものをあげるのも好きだしもらうのも好きだ。もちろん、あげるばかりで返ってこない人にまであげようとは思わないけど。
 見返りを期待する親切は悪いことじゃないと思う。大切なのは、誰かに対して何かをしてあげるという具体的な行為だから。
 小さな親切の積み重ねがやがて大きな恩返しとなって戻ってくるといい。たとえ戻ってこなくても、誰かの役に立てば無駄じゃない。

 2006年1月5日(木) 「自己満足という基本姿勢。
                その先にある楽しさの共有」

 自己満足だけじゃ駄目だけど自己満足は大事だ。自分を満足させて初めて気持ちに余裕が生まれて、人を喜ばせたいという気持ちになれる。自分の幸せが余っていれば人に分けてあげようと思う。
 自分がかつかつの暮らしをしてるにもかかわらず他人にほどこすなんてのは、偽善的で自虐的すぎる。
 文章や写真でも同じようなことが言えるかもしれない。まずは自分を楽しませ、喜ばせることを考えたい。はじめから人のためなんてことを考え出すと迷いが深まってとりとめがなくなる。
 その基本姿勢を見失わない上で、人を楽しませることを自分の喜びにできればいい。

 2006年1月4日(水) 「どこまで否定せずにいられるか。
                想像できるすべては否定できない」

 否定を排除して、排除して、排除して、ギリギリまで削って、打ち消していって、何か困ることがあるのかと、自らに問いかける。
 ない、と言い切りたいけど確信は持てない。やはり何らかの不都合はあるのかもしれない。
 ただ、究極的な目標として、この世界を一切否定せず、という姿勢を目指したいという思いはある。想像できることはすべて実現のはずだし、すでに起こってしまったことを否定しても仕方がない。
 なるべく否定しないこと、それがここ数年のテーマとなっている。
 分からないものは保留して先送りにすればいい。否定してしまうとそこで完結して思考が停止してしまう。それがよくない。
 まずは一度肯定すること。そこから始めたい。

 2006年1月3日(火) 「再始動。
                手を抜かずにやれるところからちょっとずつ」

 正月三が日が終わって、明日から4日。少しずつ心も生活も通常のパターンに戻していきたい。散策も再開しよう。
 家の中のことでは、Dry&Wetの表紙の模様替えと、部屋のカーペット替えがある。去年できなかったことだ。
 写真に関しては、この冬は思ったほど鳥が撮れてないからそのあたりを中心にしたい。川、池、河口、海、干潟。出向いていけば鳥たちがいる。でも鳥たちは春までしか待ってくれない。
 気持ち的な部分では、今のところ特に変更の必要性は感じてない。去年は起伏の少ない穏やかな心持ちだったから、まだしばらくそれを延長していきたい。
 何よりもまず、日々手抜きをしないことだ。怠け心との闘いはずっと続く永遠のテーマで、それが変わることはない。

 2006年1月2日(月) 「新しいものを目指して。
                目的地が見つかれば向かうのは簡単」

 今年最初の目標は、新しいものを見つけること、それでいこう。
 去年は愛・地球博というはっきりした目印があって、前の年の秋から始めた写真を一年間続けるという分かりやすい指針があった。そういうのが今年はない。冬季オリンピックやワールドカップは楽しみはだけど、それは個人の目標とは違う。
 さて、何にしようか、とあらためて考えてみると思いつかない。去年のサンデー料理のように前触れもなく見つかるものがあるにしても、それとは別に意識的に向かう方向が欲しい。新鮮で、胸が躍るような何かを。それをなるべく早く見つけていきたい。
 当面は、去年こぼしてしまったいくつかのことがあるから、それを拾っていくことから始めていこう。

 2006年1月1日(日) 「不安定飛行の年またぎ。
                でも墜落しなかったことを喜びたい」

 31日はあやういところで不時着。大事に至らず安堵する。
 1日はよろめきながら離陸して、なんとか上昇に成功したものの、かなりふらつき気味。
 不安定低空飛行のため、最寄りの飛行場に着陸します。
 機体整備と燃料補給をして、明日からは高々度安定飛行の予定です。

 12月30日(金) 「5年前と今。
             変わらないこと、変わったもの」

 今年も一年間、ありがとうございました。
 このDry&Wetもかれこれ5年くらいになります。昔からの方も、最近の方も、また来年もよろしくお願いします。
 明日私は旅に出ます。8時ちょうどのあずさ2号で。
 ……。
 ホントは車で松阪に帰郷です。1泊2日の短いものだけど。
 というわけで、また来年。

 12月29日(木) 「約束を果たすために生きている。
             だから今日があり、明日を生きることができる」

 果たせなかったいくつかの約束を飲み込んで、来年へと向かうことになった。破られた誓いもいくつかある。
 それでも下を向かず、遠くを見ながら先へ行こう。あやまるのは最後でいい。
 待たせてしまっている人もいるかもしれない。でも、もう少し待っていてもらおう。生きるということはわがままなことだ。つぐないはずっと先でいい。
 明日を頑張ろうと思う気持ちがあればまだ大丈夫。またもう一日生きられるだろう。

 12月28日(水) 「作り物の善良がいつか本物になって、
             やがて善人になれるまで生きてみたい」

 私の善良さは作り物だから、天然の善良さだけで生きている人を見るとたじろぐ。でもそれは嫌な気分ではない。自分を恥じるというのとも違う。少し申し訳ないような、でもその人を祝福したいような、ちょっと複雑な気持ちになる。軽い敗北感というのも混じっているかもしれない。
 ある少年の言葉がずっと心に残っている。きみは大人になったら何になりたいですかという問いかけに対して、少年は「善人」と書いた。どういうつもりでそう答えたのかは分からない。もしかしたら冗談だったのかもしれない。けど、その答えに私は強く心を動かされたのだった。
 善人になりたい。なるほどそうだ、善人というのは生まれながらのものじゃなくて努力してなるものなんだ。大切なことを教えてもらった。
 いつか、自分で作り上げた善良さが本物になればいいなと思いながら生きている。

 12月27日(火) 「一年を振り返ることができるのは、
             一年間生きたから。そういう当たり前の幸せ」

 一年を振り返ることができることの幸せというのが確かにある。それは自分の誕生日と同じくらい幸福で幸運なことだ。
 生き延びることの絶対的な正しさを愛せるようになったのは、ここ数年のことだ。これまでそんなことに気づきもせずに暮らしてきた。
 直接、間接に世の中の不幸や苦しみを知れば知るほど、当たり前の普通のありがたさに気づく。
 望みが小さくなることが人としてスケール感を失うことにはつながらない。大きな希望を持つことはもちろん大事だけど、小さな幸せに気づくことも同じように大切なことだ。
 そのことに気づきさえすれば、生きることは意外と簡単に思えてくる。
 20代の私は今の私を見たら裏切ったと思うかもしれないけど、今の私は20代の自分も愛せるし、今の自分も喜べる。

 12月26日(月) 「散策に行けなくなったのはD30を買ってからだ。
             デジを買い換えればまた行けるようになるのかな」

 今年も残り一週間になって、散策どころじゃなくなった。写真を撮る時間もほとんどない。今年中にやっておかないといけないことに頭がいっていて、写真の方に気持ちが向かわない。
 気づけば最後に行ったのが11月1日の海上の森だから、もう2ヶ月近くも散策に出かけてないことになる。そんなに時間が経ったとは思わないけど、間違いはない。毎日何をしてたんだろう、私。そこまで時間がまったくなかったわけでもないのに。
 今年はもう行けないからあきらめる。ただ、正月に松阪の田舎で写真は撮れるだろうから、それは楽しみだ。
 31日まで、一日ずつやることをこなしていこう。焦る気持ちを抑えつつ。

 12月25日(日) 「ディープが負けたクリスマスは、
             思ったよりも衝撃的ではなかった」

 ディープインパクトが負ける姿は想像できなかったけど、負けてみればあっけないものだ。負けるのは仕方がないけど、大きなドラマもなく負けたのは残念だった。ああいう負け方ではのちのちの語りぐさにはならないだろう。
 ずっとライバル不在だったディープインパクトを負かしたのが脇役だったというのは皮肉ではあるけど納得はできる。こういうことはどんなスポーツでもありがちなことだから。田村亮子がオリンピックの決勝で無名の北朝鮮選手に負けたように。
 もしこれがゼンノロブロイに負けていたとしたら、もっと悔しいような気持ちになったんじゃないかと思う。
 絶対王者も負けることはある。世の中に絶対はないということをあらためて思い知らされたクリスマスの一日だった。

 12月23日(金) 「感慨不足のクリスマス前。
             寂しくないのはいいことなのか悪いことなのか」

 クリスマスを前に感慨不足。今年はとびきり。
 不幸なことがないというのはマイナスではないけど、プラスマイナス・ゼロというのがもしかしたら一番不幸なことなのかもしれないと思ったりもする。何もないことが悪いことが起きるよりも必ずしもいいことだとは限らない。
 毎年恒例になった(自分の中で)12月24日はネット完全休養日。25日のサンデー料理で復帰予定。

 のはずが、クリスマスイブにも断想日記プラスワンを更新。更新記録が伸びてよかった。

 12月22日(木) 「揺れながらいこう。
             千鳥足でも転ばない」

 心は上下にも左右にも前後にも揺れる。ピタッと止まることはめったになくて、だから心の揺れに合わせて寄り添っていこう。無理に止めようとしても止まるものでもない。揺れながらコントロールしていって、倒れないようにすればいい。
 心が大きく揺れる年があり、揺れない年がある。今年は揺れなかった。それはいいことでもあり悪いことでもある。大揺れの出来事が起きなかった幸運を喜びたいとは思うけど、揺れる出来事が少なかったことを寂しくも感じる。
 揺れるのも揺れないのも、どちらも楽しめるようになった。来年はどっちになるだろう。その前に、今年は最後まで揺れを抑えながらきちんと立ち続けていたい。

 12月21日(水) 「2005年の印象的な出来事の最後はまだ先に。
             いいニュースで今年の印象を締めくくりたい」

 渡部篤郎と村上里佳子の離婚なんてどうでもいいけど、吉岡秀隆と内田有紀の離婚は驚いた。吉岡くんは子供の頃から見てきてるから普通の俳優に対する思いと少し違う。彼には離婚は似合わないと思ったのだけど。
「北の国から」のもうひとつの最終回みたいで寂しい。
 でも、まだまだこれから吉岡くんは日本を代表する俳優としての仕事が続いていくわけで、そちらの方で楽しみだ。更に人間としても演技も深まっていくだろう。
 もう一回、倉本聰脚本書かないかな。タイトルはもう決まった。
「北の国から 2006離婚」

 12月20日(火) 「普通に生きたかった多くの人たち。
             同情でも尊敬でもなく感謝をしたい」

 生き延びることよりも立派な人になることを宿命づけられてしまった人は、もっと生きたいと願ったのだろう。
 生きたいと心の底から願いながら生きられない人がいて、生きられるのに生きたくないと命を捨てる人がいる。
 私は、命の電池を充電しながら、なるべく長く生きようと思っている。自分自身とこの世界の行く末を見届けるために。
 立派さとも正しさとも別のところで。

 12月19日(月) 「奇跡は日常に。
             明日のことより終わった今日を祈る」

 奇跡が続けばそれが日常になる。そしてありがたみは薄れる。
 出会いも愛も健康も家族も、全部奇跡に属することなのに、毎日ありがたがることをしない。それをなくすまでは。
 毎日、奇跡の確認作業が必要だ。寝る前の短い時間でいい。
 祈りというのは、明日のためにするだけでなく、今日のためにするものでもある。宗教とか神とかに関係なく。
 奇跡なしには一日たりとも持ちこたえることはできないということを、日々忘れないようにしたい。

 12月18日(日) 「雪が特別な土地の楽しみ。
             雪の夜の静けさを知る」

 ここは雪国か?
 ってほど雪が夜通し降り続いている。短時間でどかっと降ることは稀にあっても、こんなに長い時間途切れずに降っているというのは珍しい。
 月曜日の朝は絶望的状況だろう。すべての交通機関が麻痺に近い状態になるはずだ。名古屋は雪には極端に弱いから。
 まあしかし、こんなことは何年かに一度のことだから、あきらめてこの雪を楽しむことにしよう。
 雪が降る暖かい夜はとても静かだった。

 12月17日(土) 「フィギュアの本場は大須。
             人形じゃなくてスケートの方」

 名古屋名物にフィギュアスケートがある。古くは伊藤みどりから始まって、恩田美栄、安藤美姫、そして浅田真央と舞姉妹と、これだけ続けばもはや名物に指定してもいいだろう。
 それにしても今日のグランプリファイナルは残酷だった。安藤美姫と浅田真央のスケーターとして持って生まれたものの絶望的なまでの差があそこにはあった。今日で安藤美姫はおそらく悟っただろう。自分は今後どうやっても浅田真央を超えられないと。4回転とかそういう問題ではない。銀盤の上での輝きの問題だ。説得力の差と言い換えてもいい。
 同じ名古屋出身としてどちらにも頑張って欲しいけど、天才と天才じゃない人間の間には永遠に超えられない溝がある。安藤美姫は転倒したショックよりも浅田真央そのもののショックで今夜は眠れなかったかもしれない。
 それにしても浅田真央はすごい。あんなにトリプルアクセルを簡単に跳べるなんて(というか降りられるなんて)、完全に女子の常識を外れている。彼女にかかったら、トリプルのルッツもフリップもループもなんでもないように見えてしまう。そんなはずないのに。何より悲壮感がないのがいい。
 4年後の保証はない。今年のトリノでぜひ見てみたい。

 12月16日(金) 「変わり続ける自分なら大丈夫。
             変わるのをやめてしまったらそこで終わり」

 一直線に迷いなく進む人生は文句なしに素晴らしい。でも、途切れ途切れのぶつ切り人生も、これはこれで面白いものだ。負け惜しみかもしれないけど、今はそう思えるようになった。
 揺るぎない自分というものはいなくて、いるのは変わり続ける自分だけだ。どれが本当でどれが偽ということはない。全部が自分に違いない。好きなときもあれば嫌いなときもある。
 私は時の流れとともにある自分を感じたい。そして、どう変わっていくのか予測がつかない自分を楽しみたいと思っている。
 今年も一年が終わろうとしてるけど、去年の今ごろの私と今の私はまるで違う人間だ。来年の今ごろの自分はまた別の人間になっているだろう。たとえ退歩であったとしても違う自分であればそれでいい。

 12月15日(木) 「一年が長いという幻想を捨てるために
             一週間という単位を重くみたい」

 一年が実は短いということをいつになったら納得できるようになるんだろう。
 一ヶ月は4週間ちょっとでそれが12回しかないんだからはかないものに違いない。頭では分かってるつもりだけど、感覚が受け入れてくれない。
 毎日を大切にするってのはもちろん大事なことだけど、日々を積み重ねていくと一年は短く感じる気がする。それよりも、一週間をもっと重たく捉えるということを意識していった方がいい。
 野草と昆虫と野鳥の移り変わりが、そのことを私に教えてくれた。だから今年は短かったけどあっけなかったという感じはしない。
 一週間単位で全力を出しきっていくという方向性はいいことが分かった。来年もそれでいこう。
 今年もあと2週間。やれることと、やれないことを取り違えないようにしたい。

 12月14日(水) 「感覚の幼さが楽しませてくれたもの。
             成長することの寂しさ少々」

 感覚が幼いというのは考えようによってはいいことだ。それだけハードルが低いということだから。ハードルが低ければ感動がこちら側に飛び込んできやすい。楽しめるものが多ければ多いに越したことはない。厳選という概念から自由でいられる。
 感覚が成熟していくと、楽しめないものがだんだん増えていく。昔は面白かったものも面白くなくなり、かつてはすごくいいと思えたものがそう思えなくなる。成長することは必ずしもいいことばかりじゃない。
 でも、感動のツボは変わるけど、涙のツボは意外と変わらない。昔泣けたものは今でもあっさり泣けてしまったりして自分でも戸惑う。まるでスイッチを押したみたいに。
 泣きどころというのは大人になって成長してもあまり変わらないものなのかもしれない。
 という発見をしたのは、昔ビデオに録りためた自家製名曲集を何年かぶりに聴いたから。

 12月13日(火) 「悪くなかった。
             最後にそう言えたらいい人生」

 かみしめるとビタースウィートな幸福感がじわりと心に染みてきて、私たちは小さく微笑む。
 いつだって今が大事。それは昔も今もこれからも変わらない。ただ、気づく幸せの形が変わるだけだ。
 今ここで同じときを共有してる私たちは、たくさんのことを乗り越えてきた。多くを語らなくても、顔を合わせてちょっと笑ってうなずいて肩をひとつ叩けば分かり合えることがある。
 また並んで前へ進もう。
 どちらかが、悪くないよねと言えば、もう一方は答える。
 うん、悪くない。

 12月12日(月) 「もう少し待っていておくれ。
             いつかはきっと行くから」

 おやじ、涅槃で待つ。
 沖雅也はひとこと書き置いて、京王プラザホテルの47階から飛び降りた。
 あれから22年。オヤジこと日景元社長が覚醒剤所持で捕まったと小さなニュースになった。
 ああ、そうか。小さくつぶやいた私に何か特別な思いがあったわけではない。ただ、生きることの難しさと大切さを少し感じた。
 死んだ人間は待たせたっていい。それよりも生きることが大事だ。たとえどんな形であったとしても。
 私たちはこれまでにたくさんの大切な人をなくしたけど、それでも生きていこう。まずは今日を。そして明日を。

 12月11日(日) 「風邪に捕まりかけ。
             逃げ切れるか?」

 一年の最後にきて風邪に捕まりかけている。
 逃げろや、逃げろ。
 追いつかれて、今背中に取り付いている。邪魔くさいやつめ。なんとか振り切って、振り落として逃げたい。
 一年のゴールラインはもうすぐそこに見えているのに。
 それよりもう寝た方がいいんじゃないか、私。
 うん、そうだね、そうしよう。

 12月10日(土) 「記憶が過去に戻りたがる。
             これは負けてもいい誘惑なのか?」

 気持ちが過去の楽しかったときの記憶に向かっていく。
 何かの前触れなのか、悪い傾向なのか、季節柄なのか、時間的なことなのかは分からない。
 記憶が帰っていく場所はたいてい決まっている。あそことあそことあそこと三ヶ所くらい。この先でもそういう記憶の場所を作っていけたらいいけど、そう簡単なことではないような気がする。
 戻ろうとする心と、それを引っ張って前へ連れて行こうとする気持ちと、今はそれが拮抗している。
 負けてもいい誘惑と負けてはいけない誘惑と、これがどっちなのか区別がつかない。

 12月9日(金) 「いいときこそ動いて変化を。
            守ろうとして守りきるのは難しいから」

 現状が何事もなく安定していると、それを守ろうとしてなるべく変化させないようにしてしまいがちだ。日常生活や自分自身を。それが中長期的にみると、停滞を招く。崩れ始めてからあわてても遅い。
 むしろ良い流れのときほど積極的に動いて変えていくべきなのだろう。逆に悪いときはむやみに動かない方がいいとも言える。
 守ろうとして守りきることは思うより難しい。攻撃しながら守る方が簡単だ。
 変化を持ち込むことでリズムを作り、良い流れを途切れさせないようにしたい。
 今年は安定してたからこそ、残りひと月でできるだけ多くのことを変えていって来年につなげたいと思っている。

 12月8日(木) 「善良な小さな灯りがこの世界を照らす。
            強い輝きだけが光じゃない」

 世の中には、混じりけなしに善良で勤勉で幸せな暮らしを送っている人がいる。ほんのわずかだけど間違いなくいる。
 そういう人にごく稀に出会うと、ああ、この世界はまだ大丈夫だなと私は安心する。彼らがこの世界を照らしてくれる。どんなに深い闇でも小さな灯りには勝てない。漆黒の闇もろうそくの火を飲み込むことができないように。
 善良であることはそれ自体が灯りとなる。決して無駄なことなんかじゃない。
 強く光を放つことだけがこの世界を照らすことではないのだ。

 12月7日(水) 「知らないことを学ぶことと、
            分かってなかったことを自覚することと」

 学ぶべきことがなくなることは決してない。いくつになっても知らないことはたくさんあるし、勉強する気になればいくらでもできる。そういうお年寄りがいるし、そうじゃない人もいる。
 でも、学ぼうという思いに終わりはある。確かにある。
 人には理屈抜きの向上心が必要だと私は思う。それは毎日確認しないと見失いがちだ。
 一日の最後に自分に対して確かめる。今日の自分は昨日の自分よりもいい自分になっただろうか、と。
 成長とは、知らなかったことを知ることであり、分からないことを自覚することだ。分からないことを自覚するほど賢くなると信じてるから、この先でも分からないことをひとつでも増やしていきたい。それが明日を生きる理由になるから。

 12月6日(火) 「最後のひとりになっても、
             最後の屍を越えて」

 本当の悲惨さは誰も知らないところで起こっている。
 表に出てきた非道さに憤ったり嘆いたりすることは人として大切なことだけど、目には見えない闇に思いを馳せることも大事だということを忘れないようにしたい。
 憎しみを更に強い憎しみで打ち負かしたところで、世界がより良くなるわけではない。
 私たちは無数の屍を越えて進むことを宿命づけられている。最後のひとりになるまで。

 12月5日(月) 「暗い道でも自分が発する光で。
             いいかげん闇にも目が慣れた」

 若さって眩しいものだ。
 年を取って弱った目で見ると、光が強すぎて直視できない。だから目を細めて見る。少し笑顔みたいになりながら。
 幼い日の自分を思うと、すごく照れくさいけど、やっぱり光に包まれていたのだと思う。
 でも、今の鈍い光こそが自分の求めていたものだ。昔の光を取り戻したいわけじゃない。
 ここから先は更に暗くなるかもしれないけど、自らの発する光で道を見失わないようにしたい。

 12月4日(日) 「ギャロップでは速すぎるし、
             アンブルでは遅すぎる」

 季節は待ってくれないけど、追い越すこともできないから、行く早さに合わせてこちらも小走りに駆けていきたい。
 馬でいうところのトロットくらいの早さで。
 今は少し遅れ気味。足取りを速めて、今月中に追いつこう。初雪が降る頃までには。

 12月3日(土) 「忘れ物のないように2005年をお降りください。
             次は2006年。残りは25日です」

 意識的に先送りにしたり後回しにしたりしているのはまだいい。問題は半ば無意識のうちに忘れてしまってることだ。
 やりたくないという思いがある一線を超えると、人はそれを忘れようとすることがある。そういうものはたいてい差し迫ったものじゃない場合が多いのだけど、それにしてもひと月ぶりにやらなくちゃいけなかったことを思い出すというのは、自分でもちょっとどうかと思う。
 たとえばこのサイトの表紙の模様替えとか。部屋のカーペットを替えるというのも、うっかりすると来年まで思い出さない可能性がある。
 買わなくちゃと思っていたものや、何ヶ月も放り出しままになってるメール。夏に行こうと思っていて行けなかったいくつかの場所。今年の初めに置いてきた2005年の決意。そんなものが頭の中でちらちらと姿を現したり消えたりしている。
 12月は決算のために残された月だ。やり残したことをひとつでもたくさんやっつけて、すっきりした気持ちで今年を終えたい。
 と毎年思ってるけど、うまくいったためしがない。今年はどうだろう。

 12月2日(金) 「明日が必要だと感じたら、
            それはもっと自分を成長させたいと思ってるということ」

 昨日より今日、今日より明日、悔しさを伴ってそう思えたなら、まだ大丈夫。進歩、成長の余地はあるということだ。
 一番怖いのは、今日の自分に満足してしまうことかもしれない。
 明日を必要としなくなるなんて、考えただけでも恐ろしい。

 12月1日(木) 「望んだ長生きも望まなかった長生きもやることは同じ。
             後半はお返しする人生に」

 早死に出来ずに長生きしてしまった人間は、人生の後半が大事になってくる。 印象というのはなかなか長続きしないもので、前半より終わりに近いほど印象深いものだから、いい人生だったと思うためには後半をなんとかしないといけない。前半が駄目でも後半で取り戻すチャンスがあると言い換えてもいい。
 30を過ぎたとき、これでもうあとはオマケみたいなものだなと思ったけど、あれは間違いだった。大事なのはこれからだ。
 せっかくここまで生きられたんだから、前半に受け取ったものを後半で還元していきたい。それが長生きすることになった人間の使命でもあると思うから。

 11月30日(水) 「もの悲しくない12月の始まり。
             でもあきらめたわけじゃない」

 今年は12月に入っても悲しい感じがしない。焦りもあまり感じず、淡々と過ごしている。でもあんまり達観というかあきらめたりするのもよくない。人間あきらめが肝心だなんて負け惜しみだから。
 この一年も早かったのだろうけど、毎年同じことを言っていても進歩がない。思っていても口にしない方がいいこともある。
 今年はここまでそこはかとなく好印象のうちに過ぎた。これくらいで満足しておくべきだとは思うものの、もう少し欲張ってもいいという思いもある。残りひと月で更にいい印象を強めたい。
 2005年を象徴する愛知万博と一眼写真で何かあるといい。そのあたりで今年のことを忘れない何かを探そう。

 11月29日(火) 「普通よりちょっと上って面白くない。
             でも伸びる余地がまだあると思えば悪くない」

 テレビでやってたIQテスト。今回で3回目になるんだろうか。今年も準備万端臨んだ。集中力を高めて。
 がしかし、去年より悪い120。なんてこった。一年で老化したか? 途中でアイがエサよこせとか言ってきたのがいけなかったな(と、アイのせいにしてみる)。
 脳のタイプはどれにも当てはまらない左右インプット左アウトプット型。これは自分でもなるほどと思った。
 そしていつも思い知らされる視覚記憶力の絶望的な悪さ。絵を見て覚えて後から出された質問に答えるというやつ。あれは猛烈に苦手だ。外国人の顔なんて覚えられっこない。
 120って、所詮自分はこんなものなのね、と思い知らされるそこはかとない悲しい数字だ。そして出来そうで出来ないもどかしさ。
 でも来年までに視覚記憶力を鍛えてもう一度挑戦したい。

 11月28日(月) 「時は情け深い。
             いつでも誰に対しても公平だから」

 時は無情だと言うけれど、誰に対しても絶対公平であることを思えば、時ほど情け深いものはないのかもしれない。
 ひいきはしないし、気まぐれに速まったり遅くなったりもしない。
 時は人に厳しくもあるけど優しくもある。
 私たちは時間のある世界に生まれて幸せだった。それがほんの短い間だったとしても。

 11月27日(日) 「人生を棒に振ってもいいし振らなくてもいい。
             覚悟を決めて振ってみるのもまた楽しい一生」

 人生を棒に振るには二種類のやり方がある。
 間違ったことをして自分の自由を失うのと、自分の好きなことだけやるのと。
 楽しいことだけやって、結果的にそれが無駄だったとしても、それはそんなに悪い人生じゃないと思う。不満ばかり言いながら実りのある人生を送るよりいいかもしれない。
 ただ、いずれにしても覚悟が絶対的に必要だ。覚悟がないと、つぶされるか振り落とされる。
 好きなことだけやって生きるのはそんなに簡単なことじゃないから。

 11月26日(土) 「生きてる実感があることを。
             死んでから今の自分を見る視点を持ちたい」

 死んだ側から見れば、生きている間の出来事はすべて、許されるべきことになるのだろう。
 醜い争いも、間違った行いも、愛すべき人間がすることだ。微笑ましいとさえ思えるんじゃないだろうか。
 祭りが終わった後、浮かれたどんちゃん騒ぎが懐かしくて、もう一度あそこに自分も戻りたいと思うみたいになるのが死ぬということだ。

 私たちは生きることをしなければいけないのだと思う。どんな形であれ、それが私たちがなすべきことだ。死んだ後のことを思えば、今できることは多い。
 みっともなくても、恥ずかしくても全然かまわない。自分が生きている実感さえあれば。

 11月25日(金) 「強くブレーキをかけて、バックギアに入れかけてる。
             もう一度一速に入れて再加速だ」

 ここ最近、なんとなく気持ちが後ろ向きになってるというか懐古趣味的になりかけている。この心の欲求に従った方がいいのか、言うことを聞かず無理矢理にでも前へ向かわせた方がいいのか、判断がつかない。
 昔やりたいと思っていてそのままになっていたゲームをまたやりたくなったり、行ったことのないところよりも馴染みの場所へ行ってしまったりする。本を読めているということも、私にとっては過去の方を向いてることを意味するのかもしれない。
 今年は夏まで快調に飛ばしていたのに、夏の終わりにブレーキがかかって、冬になって逆走しそうになっている。これはやっぱりよくないことなんだろう。残りひと月、もう一度アクセルを踏み込むときだ。

 11月24日(木) 「自分の魂のためにできること。
             いかに多くの感動を自らに与えることができるか」

 この世界の秘密に近づきたいと思い込みすぎると、生きることを見失う。宝探しにのめり込んで生活を投げ打ってしまう探検家のように。
 ただ、本当に秘密に近づきたいのなら、もう生きることは捨てて、そのことだけに一生を捧げた方がいい。それもひとつの在り方だ。
 いずれにしても半端なのが一番よくない。
 生きることの意味を知ることは本質じゃない。人生の核心は何かといえば、それは生きて感動することに尽きる。
 人の本質が魂と呼ばれるものならば、それに対していかに還元できるかがすべてと言っていいだろう。

 11月23日(水) 「不平等だから面白い。
             そう気持ちを切り替えたときから楽しくなった」

 正論だけが通用する世の中なんて退屈で仕方ないし、誰もが平等の世界なんて気味が悪い。
 みんなこの社会や人間に対していろんな不満を口にするけど、私は大枠のシステムとしてはこれで間違ってないと思う。破綻しないギリギリのところでバランスを保てているのだから。
 これ以上のものを作ろうったってなかなか作れるものじゃない。生態系ひとつとっても、一から全部作り直してみろと言われたら頭が変になってしまう。
 だから、システムそのものに文句をつけるんじゃなく、ルールを上手く利用していくことを考えたい。守ったり破ったりすり抜けたりしながら渡っていくところにこの世界の楽しさがある。

 11月22日(火) 「自分らしいだけじゃ駄目だ。
             もっと自分らしくを目指さなければ」

 自分らしくあればいいのだと思う。そこから始まってそこに帰っていけば。
 無理に背伸びをしたり、誰かのまねをしたりしなくてもいい。
 ただ、現状に満足することなく、いつも向上心を持っていることが何より大切なのだと思う。
 今の自分でいいっていうんじゃなくて、もっと自分らしくを目指して。


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