2005.7.26-

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 11月21日(日) 「海底深くに眠った悲しみは、
            いつか掘り起こされるのを待っているのかいないのか」

 心の海底に眠る悲しみが顔を出さないように、底の方を歩くときは静かにそっと足を運ぶ。
 そして、長居はしない。探していた記憶を見つけたら速やかに浮上する。
 悲しみが歳月によって朽ちるのかそうでないのか、まだそれほど長く生きていないから分からない。
 たとえば50年後、それはお宝となるんだろうか?

 11月20日(日) 「好きな人に料理を作ってあげたい心理。
             それはそんなによこしまなものじゃないかも」

 女の子が好きな男に、料理を作りに行ってあげようかと口にする心理が最近ちょっと理解できるようになった。
 あれは単に好意を持っているとか、いいところを見せたいとかいうだけでなく、ホントに料理が作りたいという気持ちも入っている言葉なんだろうと思う。
 自慢したいという気持ちと喜んでもらいたい思いと、いわば一石二鳥なのが好きな男に料理を作るという行為だ。いい奥さんになれるのよアピールというだけではない。
 私ももう少し美味しく作れるようになったら好きな男に、じゃなくて好きな女の人に作ってあげたいと思う。
 その相手が見つかるのが先か、料理の上達が先が、さて、どっちの料理ショー。

 11月19日(土) 「プラスと同じだけのマイナスが必要。
             マイナスを取り除いたとたんに世界は転覆する」

 この世には発明する必要のないものがたくさんある。
 たとえば、悲しくならない方法とか、泣かなくてもよくなる術とか、好きになった気持ちが消えない薬とか。
 人が持つマイナス方向への力みたいなものは絶対的に必要なものだと思う。精神のバランスを取るためにも、世界を安定させるためにも。
 プラスの力に対しては、同じだけのマイナスの力がなければ、世界は水平を保つことが出来ない。
 人を憎む心や、負けず嫌いの気持ちだってきっと必要なのだ。他人と理解し合えないことも。
 悪い部分を切り捨てるのではなく、全体をまるっと愛することができるようにみんなが気持ちを持っていけるといい。

 11月18日(金) 「寿司食いねえ、
             とかヤジられるんだろうか、寿司選手」

 今日のプロ野球ドラフト会議で個人的に最も衝撃的だったのは、楽天の4巡目指名の「河田寿司」だった。
 寿司って!
 もちろん寿司屋の名前ではなく選手の名前だ。両親はよほど寿司が好きだったのだろうか。
 読み方はさすがに「すし」ではまずいと思ったのか「ひさし」と読むらしい。でも絶対家に寿司の出前の注文電話がかかってくるんだろうな。ヤジもいろいろ飛びそうだ。登録名は「ICHIRO」、「SABURO」についで、「SUSHI」でいって欲しい。これなら外国人にも通りがいい。
 即戦力キャッチャーということで、もしかしたら来年から早速見られるかもしれない。楽天にまたひとつ楽しみができた。ガンバレ、寿司選手。

 11月17日(木) 「必死にならずに駄目よりも、
             必死になって駄目な方がずっとましと今は思う」

 必死になることは確かに格好悪いことだけど、格好悪くてもいいやと思えればこっちのもの。昔は必死になることを必要以上に格好悪いと思いすぎていた。
 必死さというのは人に見せるためにすることじゃなく、自分自身に対する投資のようなものだ。直接結果は出なくても、納得はできる。

 自分に対する言い訳をやめるには、まず必死になってみることだ。全力を出して駄目ならあきらめもつく。
 全部に対してがむしゃらになる必要なんてない。自分が一番好きなことや大切なことだけは全力でやりたい。

 11月16日(水) 「手を合わせて頭を下げることは負けじゃない。
             不遜な自分に対する勝利だ」

 神でも仏でも天でも何でもいいけど、手を合わせることに意味があるような気が最近している。
 それはプライドとの葛藤だったり、屈辱感との戦いだったりする。その傲慢な自分の心を打ち砕く行為が、手を合わせるということなんじゃないか。
 単純に言えば謙虚になるということだ。それは負けを意味するわけではない。頭を下げるということも決して恥ずかしいことなんかじゃない。
 不遜であることが格好いいと思える年代はもう終わった。
 高すぎず低すぎない位置に心を保っていきたい。

 11月15日(火) 「ヒーロー・ヒロインはなるものじゃなく選ばれるもの。
             正のヒーローも負のヒロインも」

 病気が人を選ぶ。
 そんなこともあるのかもしれない。時代がヒーローを選ぶみたいに。
 選ぶ基準は、闘えるかどうか。
 誰も負のヒーローになりたいと願ったりはしないだろうけど、誰かが選ばれてしまう。気まぐれなのか、必然なのか。
 人の歴史は、戦争の歴史であり、病気との闘いの歴史でもある。どちらも、悲劇のヒーロー・ヒロインが必要らしい。
 今もどこかでヒーロー・ヒロイン予備軍が平和な眠りについている。

 11月14日(月) 「この秋は泣けるほど人恋しくない。
             いいのだか悪いのだか分からない平和」

 人が泣くにはいろいろな理由や原因があるわけだけど、最近めっきり泣いてないなと思う。いや、ちょくちょく泣いてるような気もするんだけど、気持ちよく泣いてないというか。
 すごく積極的に泣きたいというわけでもない。でも泣ける場面なり状況なりに遭遇したいような思いはどこかにある。
 良くも悪くも平和なここ数年。涙壺に涙がたまってないのかもしれない。貯水率20パーセントとか。
 この秋も、なんとなく泣けそうにない。

 11月13日(日) 「11月ももう半分だけどあと半分。
             なんでもない月にしないように」

 11月が始まったかと思ったらもう半分終わった。いよいよ気持ちが焦る。
 ここの表紙の模様替えもしないといけないし、散策行きも滞っている。断想日記プラスワンだけは書けてるけど、映画館もしばらく行ってない。
 12月に入ればもっと急がなくてはいけなくなるのだから、今から少しでも前倒しにできるものはしておきたい。
 11月をなんとなく過ごすのはやめにしなくては。まだ半分残ってる。

 11月12日(土) 「同情は始まりの感情で行き止まりじゃない。
             大事なのは憐れむことではなく励ますこと」

 他人の不幸への同情はキリがないし、自分の不幸への同情も同じだ。
 同情は大切、それは思いやることだから。でも憐れむのは違う。かわいそうと思うだけでは人も自分も救えない。
 優しい気持ちと強い心を持って、私たちは先へ進もう。暗闇におびえず、光のある方へ。

 11月11日(金) 「明るく脳天気に生きて、
             白昼色蛍光灯くらいまわりを照らそう」

 脳天気な人間ばかりじゃこの世は回っていかないけれど、見てるだけで脱力感を覚えるほどのんきに生きてる人たちのグループに私も入れさせてもらいたい。
 すみっこの方にお邪魔します。
 ばか騒ぎするというのじゃなく、日々の暮らしの中で泣き笑い怒り、ときには落ち込んだかと思うとすぐに立ち直るような人たちを見習おう。
 難しい顔をして考え込んだりするのも楽しかったけど、それはもういい。
 これからは白昼色蛍光灯くらい明るき生きるのだ。
 そして、自分とそのまわりくらいは白い光で照らしたい。

 11月10日(木) 「悪意の黒い絵の具は、
             大量の善意の白い絵の具で飲み込める」

 悪意には悪意をもって打ち負かすのではなく、大いなる善意で包み込むのが一番いい。
 黒い絵の具はどんな色も黒く染めてしまうけど、大量の白で飲み込んでしまえば黒も白に同化する。それと同じように。
 自然界にも浄化作用があるように、人間界にも浄化作用というのはある。汚れたら終わりというわけではない。
 何をもって浄化するかといえば、それはもう人間の善意しかないわけで、そのためにはみんなが最大限の善意を発揮して持ち寄るしかない。
 それは同時に自分の中でも行われていることだ。
 悪を打ち負かしたり、切り捨てたりする社会が正常だとは思わない。悪を善が飲み込む社会こそまっとうな人間社会だと私は信じたい。

 11月9日(水) 「風が吹かなきゃ頭は回らぬ。
            平和な無風頭じゃものも考えられない」

 今日もっとも印象に残ったニュースは何だろう?
 一日の最後にそんなことを考えてみる。
 しばらく考えた後、思いつかない、と答える。
 今日は個人的な印象として平和な一日だった。もちろん世界に平和な日なんて一日たりともないのだけど。
 じゃあ、一番嬉しかったニュースは何だろう?
 それも思いつかない。
 どうやら今日は私の頭の中は無風状態だったようだ。風力発電じゃないけど、風が吹かなきゃ頭は回らない。
 明日はもう少し風を入れて、今日よりは印象的な一日にしよう。

 11月8日(火) 「忙しい? と訊かれても、そうでもないと答える。
            たとえどれだけそうであったとしても」

 嫌いというほど強い気持ちじゃないけどなるべく使いたくない言葉がある。
 それは、「忙しい」と「退屈」だ。
 どちらもその状態が嫌というのもあるのだけど、それ以上にそれらの言葉が持つ負のエネルギーみたいなものを感じるから、なるべく使わないようにしている。
 何かをしない言い訳としての「忙しい」。
 自分のせいなのに人のせいだと言わんばかりの「退屈」。
 だから、その言葉を使いたくなったときは、慌ただしいとか、時間を持て余すというような言葉に置き換えるようにしている。なんとなく通るのが嫌な道を避けて別の道から行くみたいに。

 11月7日(月) 「特別な生と特別な死があるのかないのか。
             特別な幸福はいつでもそこにある」

 日々人は死に生まれ、そこに特別な意味を見たり見逃したりしながら私たちは生きていて、自分が死から遠ざかったり近づいたりしてる自覚もない。
 お互い、明日も生き残って、またここで会いましょう。
 それは当たり前じゃない特別な幸せだから。

 11月6日(日) 「身勝手な解釈で幸福になろう。
            誰かが決めた幸不幸の定義なんていらない」

 失敗や間違いはしなければそれに越したことはないけれど、その痛みで大切なことを知ることもあるから、悪いことも憎んだりしないようにと思うようになった。
 前向きなんていうと胡散臭いけど、自分に都合良く考えると言えば嫌味な感じはしない。世界をどう見るかということに正解はないのだから、自分がいいように解釈すればいい。
 私はできるなら、いつまでもどこまでもおめでたいお人好しでありたい。
 20代の深くて暗いトンネルをどうにかこうにかはい出したのを無駄にはしまい。 これからは毎日を陽気でのんきに過ごしていくのだ。ひょうひょうとしたじいさんになるまで。

 11月5日(土) 「明日が今日よりいい日になると思うから、
            つい明日のことばかり考えてしまう」

 いつも今日のことより明日のことが気にかかる。今日を過ごしながら、明日は何があるろう、明日は何をしようと、そんなことが頭の中の半分近くを占めてるような気がする。
 それがいいことなのかよくないことなのか分からないけど、たぶん私は明日という日が好きなのだと思う。個人的な日記にも、毎日明日のことを書いている。
 明日は今日よりももっといい一日になりそうな予感がして、それが幸せな感じなのだ。

 11月4日(金) 「たけのこの里の誘惑。
             叶わなかった恋のように未練が残る」

 ドラッグストアで久しぶりに「たけのこの里」を見た。もしかしたら、もう10年くらい食べてないかもしれない。手にとってしばし見つめた後、そっと元に戻した。
 198円か。これは安売りなのかそうじゃないのか、ホントに食べないのかそうでもないのか、判断がつかず。。

 小さな買い物で迷ったとき、迷いを振り切って買うかやっぱりやめておくかで人生は微妙に違ってくるような気がする。買ってしまえば確かに喜びは得られるだろうけど、そうやってルーズに金を失っていくことで大きな買い物を逃すことになりかねない。
 私は三度の食事以外にほとんど間食をしない。それと同じように思いつきの小さな買い物はなるべくしないようにしている。それで不幸になっているのかどうかは分からない。

 とはいうものの、久々に「たけのこの里」、食べてみたかったな。「きのこの山」はあんまり好きじゃないんだけど、「たけのこの里」は昔から好きだった。
 あのサクッとした食感が記憶の底から今よみがえる。

 11月3日(木) 「不幸も幸福も伝染する。
             だから、まずは自分が幸せでありたい」

 もらい泣きは嫌いだけど、もらい笑いは好きだ。
 好きな人の笑い顔を見てるとそれにつられて自然と笑顔になる。そういう笑顔の伝染はとてもいいものだ。更にその笑顔が他にも伝わっていく。
 風邪がうつるように、不幸も幸福も伝染するものだと私は信じている。だから、なるべく幸せの側にいる人の近くにいたいし、自分自身できるだけ陽気で笑っていたいと思う。
 明日も笑顔でいこう。たとえ好きな人が近くにいなくても。

 11月2日(水) 「一所懸命という最低ライン。
            その先からスタートになる」

 一所懸命やればいいってもんじゃないけど、一所懸命ってのは必要最低限の誠意だ。スポーツでいえば走り込みのようなもので。
 まずはこれと決めたことに関しては、一所懸命やるところから始めたい。言い訳したり理屈をこねたりするのは、一所懸命やってもそれ以上になれなくなったときでいい。
 言うほど簡単じゃないけど、気持ちだけでもそうありたい。

 11月1日(火) 「善意と悪意のふたつの車輪でこの世は進む。
            ブレーキとアクセルがあってこそ」

 善意が世界を支え、悪意が世界を回す。
 争いのない平和な世界では進歩が遅すぎる。人間にも、人類にも、平和以上のスピードが必要だ。のんびり行けばいいってほど時間を持ってないから。
 競争心、欲望、願望、希望が世界に動きを与え、加速させる。
 けれど、善意がなければ世界はブレーキのない車のように加速するだけ加速して、どこかにぶつかって大破してしまうだろう。
 世界はうまく出来ている。
 悪人のいない世界で成長できるほど、今の人類は成熟していない。だから、これでいいのだ。

 10月31日(月) 「移ろうから愛おしい。
             懐かしいのは、今ここにないから」

 時代が流れ、移り変わることはとてもいいことだ。振り返ったときに懐かしく思い出すことができるから。
 元号というのも、日本特有の素敵な制度だと思う。70年代、80年代に青春を過ごした私たちは、昭和の子供でもある。そういう振り返り方ができる。
 ブームや流行歌が記憶に彩りを添える。懐かしい映像や、懐メロを楽しく観たり聴いたりできるのは、時代が移り変わったからだ。変化がなければ懐かしいという感情は生まれないだろう。
 誰だって、自分たちの育った時代が愛おしい。自分の世代を必要以上に大事にすることも間違いじゃない。それは、生き残った者にだけ与えられる権利みたいなものだから。

 10月30日(日) 「何も起きない裏で働く大きな力。
             守る力は見えないところでフル稼働している」

 どんなに大きな力に守られていても、守ってもらえないときもある。でも、悪いことが起きたからといって守ってもらってないということにはならない。守り手の力が及ばない部分もある。それは当たり前のことだ。親が愛するわが子を守りきれないことがあるように。

 何も起きないということは、見えざる力が自分を守ってくれているということだ。自分一人でこの世界から身を守ることなどできないのだから。
 いいことが起きないことを嘆く前に、悪いことが起きなかったことを感謝したい。見当違いの方向を向いていてもいいから、手を合わせてお礼を言うことくらいはしてもいい。

 10月29日(土) 「段取りを追いかけてるつもりが
             いつの間にか追いかけられていた」

 段取りに追われる日々が続いている。一日の自由度が低い。
 それはある意味楽だ。次に何をしようか考えなくて済むから。でも息苦しくもある。線路の上から飛び出せないようで。
 予定と自由行動との兼ね合いの中で、もう少し自由度を高めたい気持ちが強まっている。そのためにはやはり急ぐしかないのだろう。持ち時間が増えることはないのだから。
 明日も明日で少しややこしい。また一時的に慌ただしくなりそうだ。前倒しにできればするけど、できないこともあるから、結局のところひとつずつ確実にやっつけていくしかない。
 大丈夫、難しいことはない、そう自分に言い聞かせながら。

 10月28日(金) 「栄養素はその場限りの使い切り。
             心に蓄えてるから安心ってわけじゃない」

 心に与える栄養素は、摂り続けないとエネルギーとして利用できない。ビタミンと同じように。
 過去にたくさん本を読んだり映画を観たり旅行をしたからといって、それが今現在の自分に栄養素として作用してるわけじゃない。栄養はその場限りで使い切りだから。
 心がビタミン不足に陥らず健康を維持したければ、栄養素を摂取し続けることだ。常に新しいものを取り込まなければならない。
 止まったら終わり。心はそこから死んでいく。

 10月27日(木) 「明日の自分はまだ自分じゃない。
             はじめての自分と会える楽しみ」

 何事も勢いは大切だ。
 でも、勢いだけで突っ走ってしまうと、止まったとき途中での味わいが足りなかったことに気づいたりするから、勢いに乗ればいいってもんでもない。詰まったり、迷ったり、ときにはちょっと引き返しながら進むのも悪くない。
 昔は否応もなく悩みを悩み、苦しみを苦しんでいた私だけど、最近は悩むことや迷うことを楽しめるようになってきた。次に何を買おうかとカタログや雑誌を見ながら迷うのを楽しむみたいに。
 自分がこの先どうなってしまうか、不安といえば不安だけど、無責任に楽しみでもある。先の展開が読めないドラマを観るように。
 明日のことだって分かってるつもりでも本当は何も分かってない。良くも悪くも。
 狭く小さい方へ自分を追い込まないように、可能性を求めて自分を解放してやることが大切だ。決めつけてしまうと、その枠に収まってしまう。
 明日の自分を分かってるつもりになっちゃいけない。

 10月26日(水) 「あんなシナリオを書いたら誰も誉めてくれない。
             そんな2005年日本シリーズだった」

 あっけにとられてるうちに終わってしまったロッテ対阪神の日本シリーズ。なんだったんだろう、あれ。意味が分からなかった。
 かつて巨人が西武に4連敗したときは、明らかに野球のレベルが違って完敗だったけど、あれはあれで納得できた。3年前、巨人が西武に4連勝したときは、西武が力を出せず巨人のいいところばかりが出てああいう結果になった。今回はあれに似てるようで何かが根本的に違った。阪神はロッテの引き立て役にさえなれなかった。
 いろんないい記録と悪い記録が生まれたけど、なんだか奇妙な日本シリーズだったというのが私の印象だ。実力の差ではなく、何か見えない力が一方に100パーセント傾いてしまった感じだ。あんなこともあるんだな。
 この記憶がずっと残るのか残らないのか、それさえもよく分からない。
 古い言葉で言えば、キツネにつままれたみたい。
 シナリオとしては、あまりいい出来とは言えない。

 10月25日(火) 「流れゆく先を見つけようとはもう思うまい。
             連れて行ってくれる場所を楽しみにしたい」

 すべては流動的で、何がどこへ流れていくのか自分でも予測がつかない。心のゆくえさえも。
 かちっとした習慣でさえいつの間にか崩れてしまい、昨日まで一番楽しかったものが一気に後退して周回遅れのようになる。
 確かなことは何もない、それがここまで生きてきて経験から思い知らされたことだ。でもそれを受け入れて、不確実さを楽しみとすればいいことを知った。
 明日は何が起こるか分からないから不安なのではなく、予想ができないから面白いのだと今は思える。いい意味でいい加減に生きられるようになった。
 自分の中の好きという気持も、常に期間限定だと思い定めて、今ある好きをできるだけ大事にしようと思う。

 10月24日(月) 「初めての場所へ。
             そこにはまだ見たことのない何かがあるから」

 明日はどこに辿り着こう?
 初めて訪れる場所には何かがある。どんなに印象的な場所でも、二度目になると思ってる以上に新鮮さがない。
 だからなるべく初めてのところへ行こうと心がけているのだけど、なかなかそうもいかない。
 ひとつ思いついたのは、そろそろリニモに乗ろうかということだ。愛・地球博への行き帰りは混雑を避けるためにリニモには乗らなかった。ぼちぼち頃合いじゃないか。終点まで往復するだけでも乗っておく価値はある。
 ただ問題は、今この時期、物珍しそうに写真を撮っていても恥ずかしくないかどうかということだ。現在リニモを利用しているほぼ全員観光客ではないという状況の中で。
 とりあえずカメラをむき出しで乗らない方がいいかもしれない。でも隠し撮り疑惑で捕まるのだけは避けたい。

 10月23日(日) 「衝撃は深く静かに。
             ディープインパクトに祈りは不要だったか」

 自分勝手な願い事はなるべくしないようにと心に決めて、最近はしてなかったんだけど、今日だけは久しぶりに祈った。
 お願い、番狂わせが起きませんように、と。
 ディープインパクトが駆けている3分の間。
 今日のレースはなんだか知らないけど、変に胸が締め付けられるみたいだった。嫌な予感とまではいかないけどちょっと胸騒ぎがして心配だった。
 けど、そんな私の祈りや心配などまったく無関係に、やはりディープインパクトは強かった。当たり前のように先頭で駆け抜けた。
 ああ、ホントによかった。
 馬券は今まで一度も買ったことがないけど、今日だけは買っておけばよかったと思った。単勝払い戻し100円なんて馬券はもう二度とないかもしれない。

 10月22日(土) 「みんなけっこう楽しんでるんだ。
             ブログを巡って知った嬉しい事実」

 みんな心の中に、本人にしか分からない不幸を抱えているのは前から知っていた。
 でも、それと同じかそれ以上に、外からは分からない個人的な楽しみや喜びを持って毎日を生きていることが分かったのは、ネットがこれだけ普及したおかげだった。とりわけブログの存在が大きい。
 ブログをランダムに巡っていると、なんだか笑ってしまうくらい自分とは無関係のところで、私の興味外のことにみんなは楽しみを持っていることを知る。学生、主婦、各職業の人々、年配の人たち、子供、夜の仕事の人などなど。ブログには普通のHPにはない多彩さと雑多さがある。
 そして同時にこうも思う。
 世界ってけっこう平和じゃないか、と。
 そう思ってなんだか最近ホッとひと安心の私なのだった。

 10月21日(金) 「自分が知ってる自分は半分。
             残りの半分は人に教えてもらうしかない」

 自分は自分が思ってるような人間じゃないと分かったとしても、それはそれでいいのかもしれない。最近になって大らかにそう思えるようになった。
 自分が思ってる自分と、他人から見た自分が違っていても全然かまわない。一致してなければいけない理由なんてそもそもなかったのだ。
 自分のことを誤解されるのが嫌だった若い頃の私はもういない。自分が見つけられない自分を誰かが見つけてくれたなら、それはむしろ喜ぶべきことだ。低く見られていたってかまいはしない。
 自分という人間の価値は、主観と客観と両方をあわせた総合評価で決まるのだということがようやく理解できるようになった。そして今、自分に対する過信も不信もない。

 10月20日(木) 「あの頃、ぼくたちは暇だった。
             それも素敵だったけど、今の慌ただしさも悪くない」

 私たちが今日を急ぐのは、明日もあさってもあるからだ。あるいは、あると信じてるからだ。今日で人生が終わるとしたら、もう焦っても仕方がない。
 だから、忙しかったり慌ただしかったりすることはいいことに違いない。喜びと感じよう。
 今になって振り返ってみると、昔はなんだか暇だった。時間もたっぷりあって、ときにやることがなくて持て余したりもした。それが子供ということだったのだろう。
 大人はとにかく忙しくて時間がない。なんだか知らないけれどやることが多い。
 でもそれがちょっと嬉しかったりする。もう退屈だったあの頃には戻りたくない。

 10月19日(水) 「上手下手がすべてじゃない。
             顔の良し悪しで全部決まるわけじゃないように」

 誰かよりも上手くできるなんてことは意味がない。自分に対する慰めにはなるかもしれないけど。
 誰かより下手だとしても嘆くことはない。上手か下手で決定されていることは、この世では案外少ないから。

 大事なのは自分が何をしたいかと、それがどれくらいできているかだ。他人を物差しとすると、かえって分かりづらくなる。物差しは自前のを使わないと。
 何かと比べたければ、自分の過去と比較すればいい。進歩、成長してればそれでよし。してなければもっと頑張ればいい。
 下手なのに他人をうらやむだけで努力しないのが一番いけない。

 10月18日(火) 「秋の深まりは人恋しさの深まり。
             久しぶりです、その言葉が言えないこともある」

 夜、風呂に入ったとき、久しぶりに寒いということがどういうことなのか思い出した。
 まだ体が夏仕様のままで、ちょっとした寒さにさえ順応できない。なのに、いまだに部屋では半袖Tシャツと裸足で、扇風機まで出ている始末。寒いのか暑いのかはっきりしようぜ、自分、と言いたい。
 まず扇風機をしまおう。見てるだけで寒々しくなる。

 今年は秋の深まりが少し遅れてるようだけど、そうはいっても季節は確実に進んでいる。日暮れも早い。太陽は5時から男のように(たとえが古い)5時をまわるとそそくさと帰っていってしまう。
 この季節は人恋しくなるときだ。その気持に負けないようにしたいという強がりと、その気分に身を任せてもいいかなという弱さと、両方自分の中にあって、今揺れているところだ。

 10月17日(月) 「ハッピーニュース局希望。
             未来のテレビに期待」

 テレビや新聞で毎日流されるニュースの大部分は不幸に類するものだ。だから、この世界は不幸に満ちていると思いがちだけど、実際はニュースにならない幸福がたくさんある。大きなものから小さなものまで。そのことに思い至りたい。
 どこのローカル局でも衛星でもいいから、幸福ニュース局というのがあればいいのにと思う。日本中から幸せなニュースを集めてきて、朝から晩までそれを伝えるのだ。どこどこの県で三つ子が生まれましたとか、どこどこ中学で告白をした男子生徒がOKの返事をもらいましたとか、子供が巣から落ちたスズメを育ててますとか、そんなことだけを流すニュース局が。
 人の幸せが嫌いな人ばかりじゃない。私なら、そのチャンネルをずっとかけっぱなしでもいい。
 この世界には不幸なニュースが多すぎる。

 10月16日(日) 「永遠という絶望。
             変わり続けるものだけが存在する」

 永遠というものは決して希望なんかじゃない。絶望に属するものだ。むしろ、終わりの方が希望を意味する。
 変わらぬ愛なんてぞっとしない。そんなの野生動物のはく製みたいだ。
 希望はつまり可能性だ。変化の余地と言ってもいい。変わるからこそ、私たちは生きていられる。
 永遠なんて求めるのは無を求めるのと同じことだからやめた方がいい。
 愛を誓いたければ、命の限りで誓えばいい。

 10月15日(土) 「死と生の周りの楕円軌道。
              近づいたり離れたり」

 今日はたまたま巡り合わせで、死にまつわるドラマばかり観た。
「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」、「太宰治物語」、そして映画「砂と霧の家」。
 どれも重たくて腹にもたれた。こう続くとちょっと気が滅入る。

 死のことを考えることは大事なことだ。でも、死のことを思わないことも同じくらい大切なことだろう。
 病気も死も生の内側にあるもので、それは自分の一部と言ってもいい。だから、嫌ったり排除したりすることばかり考えないで、なんとか上手くつき合っていきたいと思う。
 死は必ずしも不吉なものじゃない。

 でも、明日はもっと陽気なものを観ることにしよう。死を思い出さないようなやつを。

 10月14日(金) 「ただ明るい方を目指す。
             闇の中の光に集まる蛾のようだとしても」

 もう深いところは目指さない。20代のとき、底を目指してさんざん潜ってさまよって溺れそうになって懲りた。
 これからは明るい方、光の差す方へ向かうだけだ。善良で幸福な人たちのいる方へ。
 いつも陽気であること、それがこの先ずっと変わらない自分との約束になる。たまには感傷的になることもあるけど、暗くなることはもうしない。

 10月13日(木) 「小5のキモチ。
             すっかり忘れてたけど、ちょっと思い出した」

 ブログをうろついていて小5の女の子のページにたまたま行き当たった。試しに少し読んでみたら、ものすごい脱力感に襲われた。いや、いい意味で。
 なんだろう、このフニャフニャな感じ。
 内容はクラスのこととか、テストのこととか、他愛もない日常のことなんだけど、不思議な幸福感みたいなものを感じたのだった。あまりにも自分から遠すぎて。
 私にもこんな心を抱えて毎日を過ごしてたときがあったんだと思うと、照れくさくもあり、嬉しくもあった。はるか遠い過去だ。もう思い出そうとしても思い出せない。
 女の子だから、けっこう大人びたところもあるんだけど、やっぱりものすごく子供で、その両面性も面白かった。
 それにしても小学生まで自分のサイトを持つ時代になったんだ。なんとも愉快な時代になったものだなと思って、そのページから立ち去った。また読みたい気もするけど、もう見失って辿り着けない。

 10月12日(水) 「宇宙でも最もユニークな星のひとつ。
             地球出身であることは自慢になる」

 この地球という星をひとことで表現するとしたら、私は「ユニーク」という言葉を選びたい。
 面白いという意味ではない。それはファニーだ。でもファニーじゃない。
 ユニークの本来の意味は、「独特の」とか、「他に類を見ない」という意味だ。特別といよりも特殊という方がイメージに近い。
 この星は宇宙の中でも特異な存在だと思う。良くも悪くも。地球に似た星は宇宙の中で他にはたぶんない、そんな気がする。
 ここには単に個性的というだけではない何かがある。そこに私は希望と可能性を見る。
 ユニーク・プラネット地球。私たちはこの星を、宇宙の誰に対しても自慢していい。

 10月11日(火) 「どっちが出るかは起きてからのお楽しみ。
             毎日真面目な方が出てきたら疲れてしまうけど」

 楽をしたいという思いは常につきまとうわけだけど、楽をするとロクなことにならないことは経験的に学んだはずだ。それでも尚、低い方に流れてしまうのは、心の弱さを超えた本性に近いと言える。自分の中にひそむ何者かが足を引っ張る。
 いや、あるいは逆か。駄目な部分こそが自分の本体で、優秀な取り巻きがいるからこそ、なんとかまっとうな方向へと重い足取りながら進んでいけるのかもしれない。
 真面目な自分が本当の自分なのか、怠け者の自分が本物なのか、さてどっちなんだろう。
 明日はどちらが出てくるか、それは起きてみるまで分からない。

 10月10日(月) 「共感と反感のあいまいな境界線。
             反感が教えてくれるものを見逃さないように」

 共感と反感の境目はとても微妙だ。
 もっとも惹かれるものと、強い反感を感じるところは、隣り合わせにある。好きなタレントのそっくりさんに妙な反発を感じるように。好きという感情は、ある種の憎しみも含んだものだからなのかもしれない。

 共感も反感も、言葉で説明するのは難しい。それを決めてるのは理屈じゃない部分だから。好きに理由はないし、嫌いな理由もこじつけであることが多い。
 写真もそうで、人の写真を見て回ってると、上手いんだけどどこか好きななれないものがあったり、逆に上手くないけどいいなと感じるものがある。上手い下手は関係ないのかといえばそうでもない。説明はつかないけど、自分では分かる、好きなものとそうじゃないものは。

 好みというのは理屈ではコントロールできないものだ。ただ、共感と反感を絶対視しないように気をつけたい。そこには何の正当性もないのだから。
 それに、反感というのは何らかのヒントを含んでるものだから、なるべく目を背けないようにしようと思う。反感の中から自分が求めているものが見えてくることもある。

 10月9日(日) 「知らなかったこと。
            まだ知らないことに気づいてない知らないこと」

 今日一番驚いたこと。
「幅員減少」を読めなかった自分。
 これは何と読みますか? という問いに、おそるおそる答えた。
「はばいんげんしょう……?」
 ブブーーー!!
 正解は「ふくいんげんしょう」です。
 なんですと!? ふくいん? これってそう読むのか。知らなかった。車を運転してるときよく目にする車線が少なくなることを知らせる例のあれだ。工事中を知らせる看板に書かれてることも多い。
 よく目にしてるのに、ちゃんと読もうという意識がなかった。見たら、ああ、車線が少なくなるんだなと思うだけで。
 こういうことは気づいてないところでもまだたくさんあるはずだ。漢字の読み間違いや、語句の使い方違いなど。笑われるくらいならいいけど、取り返しのつかない失敗につながることだけは避けたいところだ。
 知らないことがときに命取りになったりするから気をつけよう。

 10月8日(土) 「モメる人生、モメない人生。
             モメない方希望」

 世の中の多くの部分をモメごとが占めているように見えるのは、たぶん気のせいじゃない。
 一般人の人生におけるモメごと比率というのはだいたいどれくらいなんだろう? 10パーセント? 20パーセント? 人によっては50パーセントを超えてるのかもしれない。なにかっていうとメモてる人がいるから。
 私の人生におけるモメごと比率は、おそらく1パーセント以下だと思う。これはかなり極端な例だろう。モメごとが嫌いというのもあるけど、不思議とそういうシーンに巻き込まれることが少ない。これはやはり幸運なことなのだろう。
 今日もモメごとがひとつもない平和な一日だった。ありがとう。また明日もこの調子でいこう。

 10月7日(金) 「夢の代わりに目標ができたなら、
             私たちはもう夢を見なくても生きていける」

 ドラマ「白線流し 夢見る頃を過ぎても」を観ていて、大人になることの残酷なまでの悲しさをあらためて思い知らされた気がした。
 若くて転げ回っていた日々はもう戻らない。彼らにも、私にも。
 それは圧倒的で絶対的な悲しみだ。
 けど、悲しみは半分でしかないことを思い出さなくてはいけない。もう半分は、大人になったからこそ知ることができた喜びだということを。
 私たちはあの頃、夢を見たくて見ていたわけじゃなかったはずだ。夢を見ることでしか得体の知れない悲しみに打ち勝つすべを知らなかったから夢を見ていたのだと思う。
 だとするなら、夢を見る必要がなくなった今このときを、私たちは喜びとしてもいいんじゃないか。
 私たちはもう、夢を見なくても生きていける。

 10月6日(木) 「流れが悪いくらいでは不幸のうちに入らない。
            明日になれば風向きも変わる」

 今日は流れの悪い一日だった。ひどくとかなりの中間くらい。
 人の悪意のない妨害に進行を阻まれ、自分の思いきりの悪さによって進展を逃し、せっかく無理して行ったところでも収穫がほとんどなかった。悲しく空回りな感じ。
 けど、だからといって不幸なわけじゃない。特別悪いことが起きたわけでもない、ただ風が自分に吹かなかったというだけだ。
 だから、表情を曇らせたり、沈んだりするのはやめよう。また明日、良い流れにすればいい。
 今日が終われば、もう明日。眠りについたときから、明日は始まっている。

 10月5日(水) 「言葉のための写真を撮る。
            歌詞を乗せるためのメロディーを探すように」

 言葉と写真の関係は、音楽の歌詞とメロディーの関係に似ている。
 私にとって音楽を聴くということは、歌詞を聞くということに等しいから、日本語の曲しか聴かない。
 言葉が主で写真が従だ。言葉を生み出すための写真を撮りたいといつも思っている。
 それとはまったく逆の方向性や好みがあることは知っているし、それを違うと思っているわけではないけれど。
 私は写真屋じゃなく、言葉屋だ。

 10月4日(火) 「夢レコーダーはいつか発明されるだろう。
            でも、私たちが夢見てるほど面白いものじゃない」

 中学のとき好きだった女の子はずっと昔に結婚してるんだけど、今度中国人の青年と結婚することになり、何故か私がその付き添いをすることになった。小舟に乗って相手の家に行くと(中国なのにすぐに着いてしまった)、一族が揃って出迎えてくれて、どういうわけか私が向こうの家族に気に入られて温かいもてなしを受ける、という夢を見た。
 他人の夢の話はたいていつまらないもので、この話も例外ではないのだけど、自分にとって面白い夢を見ると人に話したくなるからやっかいだ。
 今日の目覚めは爽やかだった。

 10月3日(月) 「運命は不確定要素に大きく左右される。
             これだけ大勢の人間が関わってるから当然だ」

 自分の運命は、意外なところで意外な人たちによって翻弄されているものだな、と今日のドラフト会議を見て思った。
 結果もどこに落ち着くか本人には分からないし、その結果が次にどういう結果へとつながっていくか誰にも予測がつかない。良い結果が悪い流れの始まりになることもあるし、その逆もある。
 ただひとつ確かなことは、結果としての運命はたったひとつしかないということだ。そこに必然を見るか、偶然を感じるかはそれぞれだけど、人に出来るのは、流れゆく先で自分に出来ることをやるだけだ。立ち止まっている時間はない。
 ピンチとチャンスはいつでもひっくり返る。ときにあっけなく。あきらめてはいけ
ないし、油断してもいけない。

 10月2日(日) 「優先順位の間違い。
             気づくのは最後になってから」

 終わったとき初めて気づく、一日の中で優先順位を間違えていたことに。
 後悔の中の半分以上は、この優先順間違いかもしれない。
 こぼすはずのなかったものをこぼしてしまって、気づいたときには手遅れだ。後回しにできる簡単なことや楽しいことから先にやって、やるべきことを放置して時間切れ。毎度その繰り返しで成長がない。
 今日も最後に来て、失敗したなと思った。怠けたわけではなく、起きてる間はそれなりに慌ただしく過ごしていたのに、やり残したことがいくつかある。
 反省はする。明日こそは間違えないようにしようとここでは思う。でもきっと、明日の終わりでも、今日と同じようなことを思ってるんだろうな。
 またか、と。

 10月1日(土) 「10月は難しい月。
             でも、することがないなら何でもできる」

 10月開始。
 出発進行。視界クリア。
 ん? 視界に何も映らない?
 そういえば10月の予定をまだ立てていない。愛知万博ボケだ。
 早急に予定を立てて、ノートに書き記すべし(書かないとすぐに忘れてしまうから)。
 海へは行ったし、ヒガンバナも見た。さて、次は何があるだろう? 紅葉は来月だし。
 考えてみると10月って、過ごし方の難しい月かもしれない。個人的な大きなイベントもなく、メインとなる花も思いつかない。
 でも、難しさの中に別の可能性もあるはずだ。新しい出会いや発見を積極的に求めていきたい。

 9月30日(金) 「善意は希少だから価値がある。
             でもみんなで持ち寄ればけっこうな量になる」

 この世界は善意にあふれているわけではない。だから、私はあえて善意を求めてたい。希少価値としての善意を。
 もしこの世界が善意に満ちあふれていたら、私は善意の人になろうだなんて思わないだろう。ダイヤモンドや金が道ばたに転がっていたら誰も欲しがらないのと同じで。

 とてつもなく強い悪意に対して、ごく稀に、ありふれた善意がそれをあっけなく打ち負かしてしまうことがある。そこがこの世界の面白いところだ。
 それに探してみると善意というのは案外たくさんあるのかもしれない。多くの人の中に眠っていて、何かのきっかけで目覚めるのを待っている。
 最近では、愛知万博に善意を見た。あれは善意によって成り立っていたから心地よく感じたのだ。金儲け主義だと言われたり、入場者数の成功とかが取り上げられがちだけど、あそこの内部には確かに善意があった。それが楽しいとか面白いとかではない不思議な心地よさを感じさせてくれた一番の要因だったんじゃないだろうか。オリンピックやワールドカップなどとは違う、人間の良い部分を前面に押し出そうする姿勢が特別なものに感じた。

 人の心も、もちろん善意だけで成り立っているわけではない。けど、善意をみんなが持ち寄れば大きな力になる。そしてそれは、未来において今以上に必要なものとなるだろう。
 善意は少しでいい。けど、善意がゼロになったら、この世界はもはや存続できない。

 9月29日(木) 「自分のためは人のため。
             人のためは自分のため」

 自分のために生きてると言うと傲慢に聞こえるけど、自分を全力で幸せにするという姿勢に間違いはないはずだ。
 自分のために生きながら、間接的に他人のためになるような工夫があれば尚いい。

 9月28日(水) 「世界にあるのは足し算だけ。
             割り算も、引き算も、掛け算もない」

 一念と狂気こそが滞った状況を打開する唯一の方法論だと思い込んでいた若い頃。
 それは間違いじゃないけど、物事の一面でしかないことを今は知っている。
 状況は否応なく変わっていくものだし、自分自身もまたどうしようもなく変わっていってしまう。良い方向と悪い方向と、両方同時に。
 世界は善と悪のシーソーゲームではなく、一方通行の足し算だということも、昔は分かっていなかった。正義は増え続け、悪も増え続ける。正しさも間違いも。
 だんだん分かってきたというよりも、単に自分の立っている位置が動いて、それまで見えなかったことが見えるようになっただけのようにも思う。年を重ねて特別賢くなったわけじゃない。
 それはこれからも変わらなくて、今はまだ見えてないことも、この先では見えるようになるはずだ。
 だから、過去の自分を否定するのではなく、加算していく自分というものを喜びとしたい。

 9月27日(火) 「スローな万博。
             これからゆっくり心で育っていく」

「愛・地球博はスローな万博だった」と荒俣宏は言った。
 ……。
 しばらく考えたあと、なるほど上手い言い回しだなと思った。
 その良さにみんなが気づくのに時間がかかって、でもメッセージがゆっくり染み込んでいったというような意味合いで言ったのだとしたら、私も同じように感じている。
 閉幕を惜しむ声が多かったのもそういうことだろう。みんな気づくのがちょっと遅かった。あと半年続けてもよかったかもしれない。

 ただ、あえて全部を伝えきる必要はなくて、これをあらたな始まりとすればいいというメッセージ性において、最高に盛り上がったところで終わったのはかえってよかったとも言える。
 これから時間が経って、参加した人たち一人ひとりの中で記憶が成熟して育っていくことだろう。

 万博というのは思っていた以上に深いものだったのだと、終わってからあらためて思い知らされた。普通のイベントとは全然違うものだった。規模や参加人数だけじゃなく。
 何年も前の万博誘致から海上の森問題、出だし不調の開催から最高潮の閉幕、そして今後の跡地問題までの長いスパンで見渡したとき、その思いはいっそう強くなる。
 私自身にもこれほど強い印象を与えるとは想像してなかった。
 今は、ここでやってくれて本当によかったなとしみじみ感じているところだ。

 9月26日(月) 「心の住人は大家の自分が決める。
             気に入らない人を住まわせる必要はない」

 私たちは自分の心に住まわせる住人を選ぶ自由がある。
 好きな人に住んでもらって、嫌な人には出て行ってもらえばいい。心の大家さんとしての権利は誰にも干渉されることはない。
 平和で楽しい心のアパートを目指し、そこに住む人たちと仲良く日々を送りたいものだ。
 心の絶対的な自由を思い出したい。

 9月25日(日) 「立ち止まらないという約束。
             悲しみも喜びも引き連れて」

 私たちには、悲しみが終わるという希望があり、喜びが終わるという絶望がある。
 でも、絶望は終わりじゃないし、行き止まりでもない。悲しみも失望も切なさも、必ず希望へとつながっていく。
 別れは次の出会いへ。閉幕はあらたな開幕へ。
 私たちの約束は、立ち止まらないということ。
 涙のあとには笑顔がある。
 明日からまた新しい始まりだ。全部の過去が明日へとつながっていく。

 9月24日(土) 「意味は全部自分で後付け。
             物事の始まりに意味はない」

 意味は誰も教えてくれない。どんな本にも書いてない。だから自分で見つけるしかない。
 生きる意味、死ぬ意味。この世界の意味。
 それは個人的なものでかまわない。普遍的な意味など見つけようとすれば永遠の迷子になってしまうから。

 そんなことして何の意味があるんだと人はよく問いかける。でもその問いに上手く答える必要はない。自分の中で確認ができてさえいれば。
 無意味に思えることからどれだけの意味を拾い集められるか、そこが絶望と希望の分かれ道になる。
 自分にとってだけでいいから、意味のある人生を送りたい。
 世界が自分に意味を与えてくれるのではない、自分が世界に意味を与えてやるのだ。

 9月23日(金) 「絶望は生きる知恵。
             希望だけで自分を支えることはできない」

 正気を保つためには、心の半分で絶望しておく必要がある。それが精神のバランス保つ重りとなるから。
 人は希望だけでは決して生きていけない。あらかじめ絶望しておくことで、希望を半分にしておくのだ。そうすれば希望がすべて失われても心の半分は残る。
 それを悲観的とは呼ばない。生きる知恵だ。

 本当の希望は絶望の先にある。絶望の海を泳ぎ渡った向こう岸に。

 9月22日(木) 「ウエットなネットの世界。
            そこには人の最良の部分がある」

 ネットの世界って、思っている以上にウエットだ。
 ときどき、ひどく。
 古くは映画『(ハル)』、ドラマ「WITH LOVE」、そして今回の「電車男」。
 そういった作品がネットの---あるいは人のと言い換えてもいい---最良の部分を再認識させてくれる。
 ドラマ「電車男」にあったセリフが心に届いた。
「おれたちは電話線でつながってるんじゃない。心でつながってるんだ」

 9月21日(水) 「志は命の延期手形。
             なくしたらそこで試合終了」

 志をいつも高く掲げている必要なんてない。人に見せびらかすものでもないし。
 でも、手を伸ばせばいつでも触れられるポケットくらいには入れておきたい。心の奥の引き出しに仕舞い込んだりせず。
 そして、ときどき、そっと取り出して確認してみるといい。汚れて色あせてないか。ひびが入ったり、割れたりしてないかどうかを。
 志は、あの世の入り口で見せる身分証明書でもある。
 志の高い人間には次があり、低い人間に次はない。

 9月20日(火) 「バランスという法則。
             それは何者かの意志ではない」

 この世界がどうやってバランスを取っているかが、だんだん分かるようになってきた。長く生きてることで。
 それはもちろん善悪などではなく、感情を伴わない正確無比で冷酷非情なバランス感覚だ。
 常にバランスは危うく、崩れようとするのを世界がバランスを取っている。担当者がいるのかいないのかは分からないけど、バランスが崩れれば世界は存在できない。

 結局、そのことに対して人間がどうこう言っても仕方がない気がする。世界のバランスはバランスとして、自分でバランスを取るより他にどうしようもない。
 たとえば、自分が乗ってる巨大な船が波のうねりで大揺れに揺れているところを想像してみる。そのとき、波や船に文句を言っても事態は改善しないから、自分がバランスを保つしかない。そういうことだ。
 波は宇宙で、船は体。自分は魂に置き換えてみるといい。そう考えると、できることは精神のバランスをどう取るかということだけだと分かるだろう。
 バランスこそが世界の法則だ。そこに神は必要ない。別にいてもいいけど。

 9月19日(月) 「不自由さの中の自由。
             皮肉な話」

 人は、不自由さの中でギリギリの自由を求めるのが一番いいのかもしれない。
 一番いい、などというと曖昧な表現だけど、結局のところそれが一番楽しくて幸せで自分のためにもなるんじゃないだろうか。皮肉な話だけど。
 ドラマ「女王の教室」の最終回を観てるときもそんなことを思った。
 人は、完全な自由の中では本当の意味で自由ではいられないような気がする。

 9月17日(土) 「スタイルが変われば変わるものもある。
            スタイルが変わっても変わらないものがある」

 断想日記と今日の一枚は「断想日記プラスワン」に統合しました。
 一時的に。
 また戻ってくる可能性もあり。

 9月12日(火) 「思い出の形。
             生きることは肌で感じること」

 ふとこんなことを考えた。

 死んであちらの世界へ行く前に、生きている間に好きになった人たちにお見送りに来てもらえたら嬉しい。初恋の人から最後の恋の相手まで。
 そして順番にギュッと抱きしめて、別れの挨拶をして旅立つ。
 大きく両手を振って、ありがとー、と叫びながら。

 とりとめのない空想だけど、そんな粋な計らいがあったらいいな。

 9月11日(月) 「子供と大人と老人と、
             私たちは一人三役だ」

 子供のままだったらよかったのに、だなんて絶対に思わない。
 子供時代が嫌いだったわけじゃないし、早く大人になりたかったわけでもない。子供と大人と、両方経験できたことが嬉しくて楽しいのだ。だから、子供時代だけが楽しかったなんて思わない。

 どちらか一方しか知らなかったら、きっと満足も納得もできなかった。
 子供の恋もよかったし、大人の恋ももちろんいい。知らなかったことの幸せがあり、知ることができた幸福もある。まだなくしたことがなくて得てなかったあの頃があり、なくした代わりに得るものがあった今がある。両方経験したから、今のよさと昔のよさに気づくことができた。

 成長や変化ほど、人に多くのものを与えてくれるものはない。ただ時間を通過するだけでは、これほどたくさんのものを持つことはなかった。私たちは変わることでなくし、なくすことで得る。
 年を取って老いることだって、決して悪いことじゃない。三段階の自分を経験することで、より深く生きることやこの世界のことを理解できるようになるはずだ。

 私たちは、現在と未来と過去を持ち合わせている。それが幸せの鍵だ。思い出があり、希望があり、何でもできる今がある。
 その全部が大事なのだということを忘れずにいたい。

 9月10日(日) 「いくつかあった自信の分岐点。
            でも結局、今この自分が必然なのだろう」

 自信を持てるようになるかならないかという分岐点があって、そこにどんな力が働いてるのか知らないけど、転ぶ方向によって自信の度合いは決定的に違ってくる。ぐぐっと自信を引き寄せたり、握っていた自信がこぼれ落ちたり。

 振り返ってみると、そういうここぞというポイントが誰にでもあるのだと思う。恋愛とか受験とかコンテストのように大きなものだけじゃなく、自分の中だけの小さな賭けみたいなものに勝つか負けるかで、自信を持てるようになったり自信を失ったりする。
 そういう分岐点で私はことごとく自信を砕かれてきて今に至っている。だから、自分に対する信頼感はあっても、他人に対しての絶対的な自信は持てない。確かな根拠や実績がないから。
 ただ、だからこそどうにか謙虚さを保てていて、自信過剰にならずに済んでいる。自分が本当に自信を持ってしまったら危ういなと感じてもいる。
 自信過剰がいいとは思わないけど、持てるものなら自信を持った方がいい。自分を支えるために。

 記憶を辿ってみると、いくつかのシーンが思い浮かぶ。あのときもし逆の方に転んでいたら、自分は自信満々で生きていられたんだろうか。力不足だったと言えばそれまでだけど、もう少し幸運が味方してくれていてもよかったんじゃないかとうらみごとを言いたくもなる。
 自信過剰の自分は上手く想像できない。だからやっぱり自信のない自分で生きていくのが私の道なのだろう。

 9月10日(土) 「最後の言葉に至る遠い道のり。
            光と影がなければ言葉は形にならない」

 自虐と自負を涙で混ぜて、光にかざしてできた影が形作る言葉こそが、ぎりぎりの真実として鈍く輝く。
 人は皆、最後の言葉を残して死んでいくしかない。
 光が強ければ強いほど影は濃くなり、想いが強いほど言葉は深く刻まれる。
 私たちをつないでいるのは言葉だ。言葉が空間と時間をつなぐ。縦と横に。
 だから、最後は未来へとつながる言葉を。

 9月9日(金) 「願望の影には義務感が生まれる。
            求め続けることでしか疑念は打ち消せない」

 行きたい思いや、やりたい思いがあり、その影に行かなくてはいけない、やらなくてはいけないという圧迫感がある。そいつらが攻守ところを変えて、絶えず私を責め立てる。前から手を引き、後ろから背中を押し、私の足取りはもつれがちだ。
 ちょっと待ってくれ、休ませろ、と言って言えばやめてくれる。止まってもかまわない。けど、時間は待ってはくれない。自分の足で歩かなくても、時が運んでいく。結局、休むだけ無駄ということだ。

 自分のしてることに疑念を抱くことは確かにある。ただ、やめてしまって得るものがあるかといえばそんなものはほとんどないわけで、やり続けることで疑いを消化していくしかない。
 やめるならやめてもいいけど、休むのは意味がない。

 願望と義務感を上手くコントロールしようなんてのは無理な話だ。気に入らなくても、気が進まなくても、逃げるようにして前へ進むしかない。
 義務感よりも速く。願望が手招きしてる方へ。
 行けば何かある。ここにいるよりも。

 9月8日(木) 「悩んで大人になって、
            悩むことにはもう飽きた」

 子供の頃、周りの大人たちを見て、大人は悩みがなくていいなと思った。
 自分が大人になって、そんなことはないぞと思いつつ、確かに昔のように上手く悩めなくなっているのを感じている。
 上手く悩むというと変な表現だけど、悩みに事欠かなかった頃に比べると、確かに悩みの絶対的な量は減った。質はともかくとして。
 ひとつの悩み事が解決して、さて次は何を悩もうかなと頭の中を探したとき、ぽっかりと空白になっていて驚くというようなこともある。悩むことが通常の状態だった時期が長く続いたから、悩みがない方が不自然に思えて戸惑う。
 これじゃあ、子供から見て、悩みがないと思われても仕方がないかもしれない。

 私自身について言えば、ここ3年くらい悩みから遠ざかっている。それがたまたまなのか、必然的な流れでそうなったのかは分からない。
 ただひとつ言えることは、大人になってから悩んでも遅いということだ。悩むなら若いうちに一生分悩んでおくに限る。宿題は常にため込んで後回しにしていた私だけど、悩むことに関しては誰よりも先にたくさんこなしてきた。そのことに関しては変な自信がある。

 この先、昔みたいに悩むことはきっとないだろう。あとはもう、軽やかな老人を目指すだけだ。

 9月7日(水) 「時間をコントロールすることはできないけど、
            時間の感じ方は操作できるかもしれない?」

 私たちは客観時間の中を生きているけど、同時に主観時間の中でも生きている。
 時間の進み方は一日の中で様々に感じる。果てしなく長く感じる5分があり、瞬間的に過ぎてしまう1時間がある。朝の支度をしているときは時間が待ってくれないのに、暇な授業中や仕事中は全然時間が進んでいかない。
 長く感じる一日があり、早く過ぎる一日もある。
 一年という時間は年齢と共にどんどん早くなっていく。

 この主観的な時間の感覚をもっと自分の意志でコントロールできないものなんだろうか? 早く過ぎてしまうと感じる時間をゆっくりにしたり、長く退屈な時間を早めたりといったようなことができるならしたい。
 一日24時間はまったく同じリズムで過ぎているのだから、早い遅いは主観の問題でしかない。主観でありながら感じ方は受け身なのだから、変える余地はあるような気がする。感じ方を能動的にコントロールする試みというのは案外してない気がするから。

 一日中、ものも言わずにずっと立っているガードマンという役を演じてる人たちは一体何を考えて毎日を過ごしてるんだろう? 長く感じる時間を短くすることのコツはそのあたりにヒントがありそうだ。その逆はどうだろう? 毎日多忙を極めてる人の思考を参考にすればよいのか。

 時間の感じ方というのは、なかなか面白いテーマだと思う。たとえば江戸時代と今ではまったく時間感覚が違うだろうし、もっとさかのぼって縄文時代とかはどうだったんだろう。短い寿命の中で一生を短いと感じてたのだろうか。
 このあたりのことは、今後とも勉強したり考えたりしていきたい。

 9月6日(火) 「ケンタロウのススメ。
            料理はゲームと同じくらい面白い」

 もしあなたが、ゲーム好き---とりわけSRPGやRPGのコレクション要素、育成シミュレーションゲーム好きの男子または女子なら、ケンタロウレシピ本を買って、明日からオトコの料理を始めることをオススメする。きっと、ガストの「アトリエ」シリーズと同じくらい楽しいと感じるはずだ。

 何故他の料理人ではなくケンタロウなのかというと、それには理由があって、ケンタロウの料理は、どこでも買える材料で簡単に作れるのに、味にひねりが利いてて、オフクロの味じゃないからだ。
 まともに作ったんでは母親の味には勝てない(たいていの家庭では)。でもケンタロウの味つけはちょっと変わっていて、食べたことのない味わいのものが多いから、作って食べたときに、おっ、自分ってけっこうやるかも、とその気にさせてくれる。そこがいい。
 センスのいい店のカフェめし---なんてのはほとんど食べたことがないんだけど、そんな感じの料理だ。

 料理を作ることのもうひとつのよさは、食べることに対して受け身ではなく能動的になることというのもある。作ってもらったものや店のものだと、どうしても積極的に味わって食べるという姿勢が弱くなりがちだけど、自分で作ったものに対してはこちらから味に向かっていく気になる。それで美味しければまた作りたくなるし、失敗したら今度はもっと美味しく作ろうと思う。
 料理は家事でもあるけど、趣味にもなる。

 ぜひ一度、ケンタロウ・レシピを試してみて欲しい。
 え? ケンシロウ? 北斗の拳の? 誰だ、それ! などと思っていた2ヶ月前の私はもうここにはいない。

 9月5日(月) 「神様なんて勤まらない。
            だから、いつもご苦労さんと声をかけたい」

 私たちは神様じゃなくてラッキーだった。
 不完全さの中にこそ、楽しみや喜びがあるのだから。
 そして、完璧じゃないからこそ未来がある。
 神様の役を振られなかった幸運を感謝しよう。

 9月4日(日) 「ラブソングが多すぎる。
           それでもラブソングなしには生きていけない?」

 私たちはたくさんのラブソングを聴きながら、自ら恋愛を語ることは少ない。
 毎日大量生産される曲の多くがラブソングで、それをときに心地よく、ときに耳障りに感じながら、愛の言葉に晒されている。とくに不自然とも思わず。
 にもかかわらず、私たちは愛を語ろうとしない。恋愛の内側にいるときも、外側にいるときも。
 語るとしても、内輪の会話としてで、メッセージとして外に発信しようとはしない。
 考えてみるとこれは非情にバランスの悪いことなんじゃないだろうか。ラブソングが過剰すぎるのか、私たちが愛を語るのが過小すぎるのか、その両方なのか。

 これだけたくさんの個人サイトやブログがある中で、恋愛の言葉をメインとした人気サイトというのはあまりないように思う。個人の趣味として恋愛詩を書いてるところはあるだろうけど、メインストリームではないし、ラブソングを聴くように恋愛サイトを読む気にはなれない。
 あるいは、だからこそ、私たちはこれほど多くのラブソングを必要としてるのかもしれない。自らが語れないことを代弁してもらうために。

 それにしても、作られてる曲の大部分がラブソングというのはどうにかならないだろうか。ときどき息苦しささえ感じる。私たちの物語がすべて恋愛に収斂していくわけでもないのに。
 たまには愛の出てこない、いい曲を聴きたい。

 9月3日(土) 「信じられるのは今日の自分だけじゃない。
            明日もあさっても違う自分を信じたい」

 昨日自分がしたことを昨日の自分は誉めてくれたのに、今日の自分は誉める気になれないことがあって戸惑う。
 あれは昨日限定の確かさに過ぎなかったのか、それとも昨日から今日にかけて自分が成長した証と理解すべきなのか。
 昨日の自分と今日の自分、信じられるのは今日の自分だけなんだろうか?
 変わったのは基準なのか自分なのか。見る角度が違ったことで見え方が変わったんだろうか。

 明日の自分もまた、今日の自分と同じじゃない。
 でもそれは私だけが特別なんじゃなくて、みんなも同じようなことを感じているのだろう。だから、普通のこととして受け入れることにする。昨日の自分も、今日の自分も、判断に間違いはないのだ。どちらか決めなければいけないときだけ新しい方の基準や感覚を信じればいいのだと思う。

 明日の自分がどういう自分なのか、誰も知らない。まだ生きてない日の自分は、半分他人のようなものだから。

 9月2日(金) 「情けも勉強も人のためならず。
            誰もが人に与えられる時代」

 勉強は自分を楽にしたり幸せにしたりするためにするものだけど、その先には人のために役立たせるということがあって、そこで初めて勉強が役に立ったと言えるのだと思う。
「ドラゴン桜」はいろんな意味で示唆に富んだドラマだけど、「海辺で腹を減らして倒れてる生徒がいて、教師である自分は釣り竿を持っていたらどうする?」という問いの答えとして、「魚を釣って与えてやるのは一見親切に思えるけど、本当にやるべきことは生徒に釣り方を教えてやることだ」という論理には深く納得するものがあった。

 これまでの社会を考えてみると、電気屋になりたい人間は家電やメカについて勉強して、その知識をいかしてメカに弱い人間の代わりに与えたり直したりしてきた。医者や店舗や飲食店だってそうだ。専門の人間が一般人に一方的に与えるという構図だった。
 でも、ここ数年でその構造は急速に崩れてきている。たとえばPCを使いこなすために勉強して詳しくなった人間は、それを他の人にも還元することができるし、写真だって料理だって、映画や本のことだってそうだ。今はこれだけネットが普及して誰もが発信者になれるようになった。資格のない一般人でも。

 プロだけが人に何かを与えられる時代はもう終わった。言い方を変えれば、多くの人が社会に貢献できる時代が始まっているとも言える。
 それは受け手にとっても、与え手にとっても、とても幸せな時代が訪れたことを意味する。
 勉強したことが人のために役立ったときほど、勉強は無駄じゃなかったなと思えるときはない。勉強は自分にも人にも役に立って、もう一回自分に返ってきて二重に役に立つのだ。

 9月1日(木) 「ギリギリだけど大丈夫。
            みんな同じだから」

 自分のまわりの人たちのことを順番に思い浮かべてみる。みんなけっこうギリギリの中であやうく踏みとどまって生きている。誰も余裕で生きてなんかいない。
 私の感じているギリギリ感は、なにも特別なことなんかじゃない。いや、むしろ、私なんて余裕がある方だ。甘えちゃいけない。
 そう考えると、ふっと気持ちが軽くなって、みんなの肩を叩いてまわりたいような気になってくる。
 なんの悩みのないお気楽野郎の笑顔を添えて。

 8月31日(水) 「いつも心に希望を。
             それだけが大事なこと」

 あえぐ自分に対して、希望という空手形を乱発してきた。苦しい息継ぎの合間、あいまに。
 でも、だましたわけでも、だまされたわけでもなかった。だまされたふりをしてるでもなく、それは必要な優しい嘘だった。
 甘い罠にはまって行き先を見失ったわけでもない。
 それに、希望手形に期限はない。死ぬまで有効なのだから、まだ捨てなくてもいいだろう。今でも心の引き出しの奥にしまってある。

 人は希望さえあれば生きていける。目標や夢は、たとえば電気やガスみたいなもので、止められてもなんとかなる。幸福なんてものは電話くらいなものにすぎない。
 それに対して希望は、ライフラインで一番重要な水のようなものだ。それなしに生きてはいけない。

 心に水をやるように、常に新鮮な希望を与えたい。表面が乾いてきたら、たっぷりと。

 8月30日(火) 「この夏最後のアイス。
             体がアイスを欲しなくなったら夏は終わりだ」

 大人になってから、一年の中で、ごく短い期間だけアイスを食べたくなるという体質になった。子供の頃は季節に関係なく毎日のように食べていたのに。
 その中でも、氷系のものを食べたい時期と、ソフト系のものを食べたい時期とがあって、そういう部分で季節の微妙な移り変わりを感じたりもする。

 7月になるとふいにアイスのことを思い出す。それが夏を告げる合図になる。
 最初はカップのソフトを食べ、更に暑くなると氷系を食べる。その後氷系は見るだけで寒くなり、またソフトに戻って、そのあと次の夏までぴたりと食べなくなる(だから、夏のはじめは、去年から残ったアイスが冷凍庫に入っていたりする)。
 それがここ数日、ソフトさえも食べる気持ちが消えかけていることに気づいた。それで、ああ、夏は終わったんだ、と自分の中ではっきり分かったのだった。

 などと書いていたら、ふいにアイスが食べたくなってきた。体がまだ夏は終わってないぞと訴えてるようだ。夏をもう少し延長しないといけないらしい。
 とりあえずこのあと、もうひとつだけ食べてみて、自分の中で確認してみることにする。これでこの夏最後にするかどうかを。

 8月29日(月) 「今日の最後は明日の最初。
             終わったらもう次が始まってる」

 明日も死なずに生きる予定なので、今日に言い残しておく言葉はないと判断して、このまま明日に向かう。
 今日もありがとう。明日もよろしく。

 8月28日(日) 「悲しみにしか教えられない大切なこと。
            直接、間接に、人はそれを必要としている」

 私たちに向かって絶え間なく降り注ぐ悲しみが、たとえ天の嫌がらせだったとしても、まったく悪意のないものだとしても、それを立ち向かう力に変え、明日の糧として私たちは生きていこう。
 悲しみの中でしか得ることができない大切なものが確かにあって、人はそれをどうしようもなく必要としている。
 光る涙の美しさを思う。そして、その先にはきっと笑顔があるはずだ。

 8月27日(土) 「あの日の男の子と女の子は、
            今でも言葉を失ったままあそこにいる」

 あの場所は、もうあまりに遠くて、振り返って目をこらしてみるんだけど、かすんでよく見えない。
 あそこにいる男の子と女の子のところへ、年を取った私が戻って行けたとして、彼らに一体何が言えるだろう?
 どんなに上手に説明しても、うまくいかないものはいかないもんだ。あのときの自分ができなかったことは、もう永久にどうすることもできない。

 大人になった男の子と女の子は、やがてどこかで再会して、普通に挨拶をして、当たり前のように話しをして、何もなかったようにさよならを言う。
 別れ際、視線を落とした一瞬に、何か大事なことを思い出そうとして思い出せない。言い忘れた言葉がなかったのかあったのか。
 言えなかった大切なことも、きっとあそこに置き忘れたままなのだろう。
 あのときの自分に届く言葉は、もうないのだ。

 8月26日(金) 「分からないということはいいことだ。
            分かったつもりでいるときは止まってるとき」

 何もかも分かった気でいるときは停滞期で、何も分からなくなったときこそ成長期だ。
 古くなった家を、修理したり増築したりしてると、だんだん不格好で統一感のないものになっていく。人の思考もそれに似たところがある。一部を自分の都合のいいようにねじ曲げたり消したり継ぎ足したりしていると、気づかないうちに歪んでいく。
 新しく建て直すには古いものはいったん壊す必要がある。それは大変だけど、後々のことを考えると建て直せるときにやっておいた方がいい。何もかも分からなくなったときがそのときだ。
 または、引っ越すみたいに他の価値観や論理に移ってしまってもいい。
 いつまでも不便な家に住むようなことはせず、心地いい思考の中で生きた方がずっと幸せだ。心の故郷にしがみつくこともない。
 心の終点は、たぶんどこにもない。

 8月25日(木) 「衝撃の8:2分け、って。
             何事も度を超したらいけない、ということだ」

 最高に笑えた昨日のニュース。
「衝撃のヘアスタイル! ヨン様の8:2分けに650人が釘付け」
 どんなことになってるのかと読んでみたら、映画『四月の雪』の試写会の舞台挨拶に現れたぺ・ヨンジュンの髪型が、7:3を超えた8:2分けだった、というのだ。
 なんだか知らないけど、このニュースを読んで笑えてわらえて笑いが止まらなかった。いやー、面白い。
 写真を見ると、ペ君、8:2分けになっているではないか。どうしたんだ!?
 もう少し分け目が深ければ江畑さん(湾岸戦争のとき毎日テレビで見た軍事評論家)並みの9:1分けにも迫る勢いだったかもしれない。
 しかし、そんなことがニュースになってしまうあたりにまだまだペくん人気健在を思わせた。「衝撃のヘアースタイル」って。
 映画の話題よりもヘアースタイルを巡って報道陣が賛否両論ってのもおかしい。あー、その場に居合わせたかった。
 でもなんで、ヨン様、8:2分けにしてしまったんだろう? 素朴で深い謎。
 こればっかりは流行らないだろうけど、夏休み明けにこれをやって学校へ行ったら受けるだろなぁ。

 8月24日(水) 「やれるのにやらないのは、
             金を持っているのに使わないのと同じ」

 もっと頑張りたい自分に贈る言葉。
 おまえはやればできるやつだ。
 でもやらなければできないのと同じだぞ。
 そしてもう一言。
 きみは頑張らなくてもできるやつじゃあない。

 8月23日(火) 「ないものねだりは不幸なじゃなく幸せなことだ。
            夢見る力が自分を幸福な方へと運ぶのだから」

 夏には夏のよさがあって、冬には冬のよさがある。もちろん、春にも、秋にも。
 そして、その季節の中で別の季節を恋しく思うことも、四季のよさのひとつに違いない。夏の暑さの中では冬の寒さが懐かしく、冬の寒さに震えながら夏の暑さを待ちこがれる。

 手に入らないものや今ここにないものを欲しがることもまた、幸せのひとつだ。足りないゆえの楽しさみたいなものも確かにある。
 空腹にならなければ満腹の幸せは感じられないように、不足するから満たされたときの喜びがあり、対極にあるからこそもう一方のよさやありがたみを知ることができる。

 私たちはいつもどこかで何かに憧れている。そういう夢見る力がある。
 だから、どんなときも幸せはあると私は思うのだ。うだるような暑さの中でも、凍えるような冬の中にも。

 8月22日(月) 「悪くなかった。
             そう言えたら、もうこっちの勝ちだ」

 自分も頑張ろうと思えるきっかけを誰かにもらったり、自分が誰かの動き始めるきっかけになったり、そういう温かい善意の力が確かにこの世界にはあって、そんな目に見えない力が世界中の人たちをつないでいる。
 たとえ直接関わらなくても、いがみ合っていたとしても、人が仲間であることに違いはなく、私たちは間接的に助け合って生きている。

 生きていると、ごくまれに、人間も捨てたもんじゃないね、と思える瞬間を持つことができる。
 それがこの世界や人生の本質なのだと思う。
 99パーセントが無駄でくだらなくても、1パーセントの光や輝きがある。

 死んだとき、あちらの世界の門番が、どうだった? と訊ねてきたら、こう答えよう。
 うん、悪くなかった、と。

 8月21日(日) 「いいことをしよう。
            悪いことをしたらそれ以上にいいことを」

 善良なだけの人間は意外に罪深いのかもしれない。
 正しさという安全地帯に逃げ込んで、悪いことをしないかわりにいいこともしないのなら、それは世界にプラスを与えないという罪に当たる。
 むしろ、悪いことはしても、その分いいことをした人間の方が罪は軽い気がする。

 この世界は足し算だ。引き算は理屈の上のことだけで、実際には存在しない。いいことも悪いことも積み重なって、それが歴史になる。
 世界の目的は清潔になることでも、全員が幸福になることでもなく、より高度な方向に進めていくことだろう。進歩、成長、発展、進化、それが全体としての方向性のはずだ。

 正しさなんてものはそれ自体が目標になるようなものじゃない。単に姿勢の問題だ。姿勢が正しかろうと間違っていようと、いいことをしたら勝ちでしなければ負けだ。
 私たちはもっといいことができる。能力にかかわらず。意識と意志を改めれば、きっと世のため人のために何かできる。

 まずは何ができるだろうと考えるところが第一歩となる。
 自分のことだけで終わってしまう人間に次のチャンスが訪れるだろうか?

 8月20日(土) 「ひとつの出来事にはふたつの側面がある。
            得ることは失うこと」

 何かを得ることは反面何かを失うことで、失うことは同時に得ることもでもある。
 部屋のドアが出入り口を兼ねていて、部屋から出ることは別の部屋に入ることであるように。

 何かを一方的に失うことはなく、何も失わずに得ることはできない。
 幸せと不自由がセットになっていたり、不幸には自由がついてきたりするように。
 何かを手に入れたときは失ったものに思いを馳せ、何かをなくしたときはその代わりとして手に入れたものに思い至りたい。
 何かを失ったときも嘆くことはない。

 私たちは光であり影である。天使でもありあくまでもある。
 天国か地獄か、どちらかを選ぶことはできない。両方に属する存在なのだから。

 8月19日(金) 「必要以上に思える多様さと格差。
             これが本当に全部必要だとしたらそれはすごい」

 この世界は良いものの見本市でもあり、駄目なものの展示場でもあって、その差はびっくりするくらい激しい。
 その中で一番分かりやすいのは、やはり人間だ。その出来不出来の落差は、非情を通り越して冗談に近い。そのジョークも、笑えるものから洒落にならないものまで多種多様で幅広い。
 泣けてくるほど善良な人がいるかと思えば、理解を超えるほど極悪非道な人間もいる。こんなにも幅が必要なんだろうかと思う。同じ種類の生き物なのに。外見から中身まで、こんな統一性のない生物は宇宙でもそんなにいないかもしれない。

 人類の可能性を追求するためにも、競争原理を働かせるためにも、多様さは確かに必要だし、格差もなくてはならない。それは理解できる。ただ、それにしてもちょっと過剰すぎるような気がする。その方が面白いと言えば面白いのだけど。

 こうして考えてくると、この世界はやっぱり実験所なんだと考えた方がしっくりくる。もしくは、誰かの趣味の部屋とか。
 そこにはやはり、主人の存在は欠かせない。
 空はきっとマジックミラーになっていて、あっちからこちらを見下ろして喜んでいるのだ。ちょっとくやしいから、こっちからも手を振ってやろう。さもこっちだってそっちに気づいてるんだぞといわんばかりに。

 8月18日(木) 「なんとなくな気持ちになんとなく負けていた。
             戦わずして」

 なんとなくな気持ちに流されがちな自分にふと気づく。
 なんとなく食べたくて食べ、なんとなく欲しいものを買い、なんとなくしたくないことをやめておく。そんな、なんとなくシンドロームにかかって、なんとなくな要求を飲みすぎていた私。

 自分の欲求に正直になることは必ずしも悪いことじゃない。どうしても食べたいものを食べたり、絶対に欲しいものを手に入れたり、なんとしてでも行きたいところへ行ったりすることは、悪いどころかとてもいいことだ。そういう強くてはっきりした気持ちなら実現させた方がいい。
 けど、なんとなくはいけない。少なくとも、自分の中でなんとなくな気持ちと、はっきりした思いを区別することが必要だ。

 したいことをしていれば、自由で充実してるように思いがちだけど、単に自分のわがままを聞いて甘やかしているだけかもしれない。それは本当の自由じゃないし、優しさでもない。
 もう一度自分自身に確認してみた方がいい。今それを心底欲しいと思っているのかとか、目の前にあるそれを食べたいと本気で思ってるのかとかを。
 そういうふうに二段階の確認作業をするクセをつけたい。
 二度訊ねて意志が変わらなければ、それは強い気持ちと言えるだろうから、そのときは言うことを聞いてやってもいいだろう。

 8月17日(水) 「イメージ不足。
             気持ちの電池切れ」

 お盆に向けて気持ちを作っていって、無事それが済んでホッとしたら、なんだか急に気が抜けたみたいになった。充電式の歯ブラシが勢いを失って止まってしまったみたいに。
 別に帰郷なんていつものことだし、そんなに大げさなことじゃないんだけど、帰ってきたら目の前にイメージがなかった。
 散策も写真も気持ちが向かわない。

 それで気分転換のためにゲームの「太閤立志伝5」を始めたら、これがなんだかものすごく面白い。久しぶりに時間を忘れて熱中した。これは最近の「信長の野望」シリーズよりずっと面白い。戦国時代を個人の視点から描くやり方はとても新鮮だった(このシリーズをやったことがなかったということもあって)。
 しばらくやり続けてしまいそうだ。

 とりあえず今週いっぱいは気持ちを立て直すことにする。来週からまた出直しだ。
 そうこうしてる間に学校の夏休みも終わって、散策スポットも静けさを取り戻すだろう。
 ただ、夏が行くのを見逃したりしないように気をつけたい。せっかく今年はここまで季節と併走できているのに、ここで遅れたらもう追いつけなくなりそうだから。

 8月16日(火) 「一日は命の一部。
            日々と命は使うためにある」

 日を失うことは命を失うこと。一日は命の単位だ。日々を過ごすことで命の目盛りは着実に減っていく。
 何かしたいことがあって、したくない気分の日がある。怠け心の言うことを聞いて、すべきことをしない一日を作ってしまったら、それは命の一部を捨てたに等しい。
 陰で応援し支えてくれている人たちの想いにこたえるためにも、日々あがいて、動いて、行って、見て、して、感じなければならない。大きな借金の利息を払い続けるみたいに。大恩は一度には返せない。でも、利息だけでも払わないと恩が焦げ付いてしまう。そういう裏切り方はしたくない。
 一日は案外重い。けど、もっともっと軽やかに駆け抜けたいと思う。喜びと笑顔で。
 もっと速く。

 8月13日(土) 「優しさって何?
            その答えはいつか出るのかな」

 優しさとは何なのか、見つけては見失い、分かった気になってはまた分からなくなる。物心ついてから今に至るまで、ずっとその繰り返しだ。
 人の言う優しいってことがどういうことなのか、本当のところよく分からない。ときどき決定的に。優しい人だと言われたりするとますます混乱する。自分は優しい人間だという自覚がまったくないから。
 親切なのと優しいのとは違う。人に親切にすることならできるし、そう心がけてはいる。大切に思いやることが優しさなのかどうなのか、確信が持てない。どうもそれだけではない気がする。
 厳しさ、自己犠牲、相手本意、親身、助ける、そんないくつかの言葉が浮かんでは消える。

 優しさの正体を知りたいとずっと思ってきた。いつになったら見つかるのか、最後まで見つからないのか。いずにしても、この先も自分の中で重要なテーマのひとつであり続けるのだろう。
 今のところ、優しさって何ですかと訊かれても私には分からない。
 その答えは、個人的なものでいいのか、普遍的な答えはあるのだろうか?

 8月12日(金) 「帰郷できることは喜ぶべきこと。
             やがてしたくてもできなくなる日が来るだろう」

 盆と正月のわずらわしさと安堵感、またその季節がやってきた。
 今年も無事里帰りすることができるとホッとしつつ、習慣化した帰郷は使命感みたいなものを伴う。
 少年時代の夏休みとは違い、今は全面的に心浮き立つものではなくなってしまった。
 ただ、帰郷は一年の中で区切りになるし、気持ちのリセット作用もあるから、行けるものなら行った方がいい。何かの都合で行けないと、なんとなく釈然としないようなわだかまりが残って、気分が切り替わらない。
 義務感であろうと何であろうと、つべこべ言わずに帰ればいいのだ。行って戻ってきたときの達成感はいい気分なんだし。
 楽しみもいくつかある。田舎の空気感は心が落ち着くし、自然も余るほどあって、写真もある。
 楽しい想像に多少の憂鬱感を交えつつ、一泊二日の短い帰郷は明日から。

 8月11日(木) 「子供の正しさを大人として再現すること
             それが人生でなすべきことだと気づいた」

 人生について理解できるようになったとしても、生きることを楽しめていなければ意味はない。
 長い間、考え違いをしていた。人生の意味や仕組みを分かるようになれば、すべての問題は解決すると思い込んでいた。
 でも、本当にやるべきことはそういうことじゃなかった。
 大切なのは、何をどうすれば楽しめて、熱くなれて、夢中になれるかを見つけることだったのだ。
 探すのは、理屈ではなく方法論だ。子供の頃は無意識にできたことを意識的にするための。子供の正しさを大人に導入することこそがやるべきことだった。。それが今ようやく分かった。
 人生に勝ち負けがあるとすれば、より深く理解した人間ではなく、より楽しんだ人間の勝ちだ。
 楽しむことは簡単でもあり難しくもある。簡単にも、難しくも、どちらにも楽しくありたいと思う。

 8月10日(水) 「映画が監督次第なら、
             自分の人生にも監督としての演出を」

 映画は監督の演出次第で面白くもなり、詰まらなくもなる。登場人物やストーリーよりも演出で決まる部分が大きい。
 人生にも同じことが言えるんじゃないか。大切なのはどう演じるかよりも、どういうふうに自分に演じさせるかだ。

 誰でも自らの人生を演じている。けど、監督から見た主人公という視点で自分に演じさせている人は少ない。そこにもっと面白くさせる余地がある。
 演じる側は必死だ。演じることを楽しむ余裕なんてない。でも監督は客観的でなければならないし、冷静に計算しなくてはいけない。と同時に、その視点でこそ面白がることができるのだと思う。

 自分の人生を、主人公の視点から監督の視点に切り替えてみる。そうするとそれまでとは違った面白さが見えてくるはずだ。
 役者に楽させちゃいけない。もっと追い込んで、限界まで力を引き出させないと。

 8月9日(火) 「一日は案外長く、
            一生は意外に壊れやすい」

 一日って、けっこう長くて、細くて、ギリギリだなと思うことが最近多い。
 一日というだけじゃなく、一週間とか、一年とかも。
 歩いている足下の道は、思っている以上に狭くて踏み外しやすい。田舎の農道くらい。普通に歩いている分には問題ないけど油断してると転落する。
 誰もが皆、かなりギリギリの中で生きている。自分の命だけではなく、たとえば家族の寿命とか、人との関係性とか、今の暮らしとかもそうだ。
 転落や崩壊なんて、この世界の中では日々起こっているありふれたことだ。それを私たちは目にしたり聞いたりしてるのに、何故か根拠もなく自分だけは大丈夫と思い込んでいる。明日は自分の番が回ってくるかもしれないのに、そんなことは考えもしない。
 もう少しギリギリ感について意識して自覚した方がいいと思う。そうして、一日が無事に終わったら、天と地の関係者各位に感謝の意を表したい。何もない一日というのは、本当はすごく特別なことだから。
 感謝の気持ちが明日の誠実さにつながる。

 8月8日(月) 「成長さえしてればとりあえず大丈夫。
            他人にも自分にも言い訳がきく」

 いつも今の自分の2倍を目標にしたい。
 知識も賢さも技術も優しさも。人として。
 自己満足とは別の部分で、他人に対する言い訳が必要なとき、その拠り所となるのは何だろうと考えると、それは成長を続けてることだと思い当たる。
 今日よりも明日、今年よりも来年、ずっとよくなっていくという自覚ができたなら、誰に対しても卑屈にならずに済む。同時に自分自身への言い訳にもなる。

 人と同じスピードで歩いていたら、負けてる相手にはずっと負けたままだ。先へ行きたければジャンプしなくてはいけない。もっと速く、大きく前へ。
 成長という概念は大いなる救いとなる。それを上手く利用したい。
 小さな成長では弱い気持ちに負けてしまうから、ある程度目に見える前進が必要だ。そのためには今の2倍くらいを目標にしておいた方がいい。たとえハッタリでも。
 人の能力には限界があるけど、努力と成長には限界がない。

 8月7日(日) 「季節と併走中。
            花や鳥が教えてくれる」

 野草や昆虫や鳥を写真に撮ろうと追いかけてたら、季節の微妙な移り変わりが分かるようになってきた。自然は一週間、二週間単位で目に見えて変化し、とどまることがない。先週まで咲いていた花が今週はもう咲いてなかったり、少し前までたくさんいた虫の数が減ってたりする。
 その微妙だけど絶対的な移り変わりを目にすると、ああやっぱり自然はすごいな、とかんだか妙に感心してしまう。

 都会では季節感がなくなったというけれど、都会のすぐ隣では、昔と変わらず自然は正確なリズムを刻んでいる。人と自然との距離感が離れてしまって気づきにくくなっているだけだ。
 季節は決してなくなってないし、曖昧にもなっていない。だからその点では安心していい。

 写真をちゃんと撮りたいと思って、そこで自然の花や鳥に出会ったのが去年の8月だった。そろそろ二周目に入る。一周目である程度変化の様子は見た。でも知識が足りなくて見逃したことや分からなかったことも多い。二周目はさらに理解を深めたいと思う。

 今年くらい季節の変化と併走できてる年はかつてなかった。いつも、去りゆく季節の背中を見てようやく気づくほどぼんやりしていた。
 このまま夏から秋、そして冬までしっかり季節の歩みについていきたい。そうすればきっと、一年という時間の感じ方も違ってくるだろう。あっけなさすぎる一年はもう味わいたくない。

 8月6日(土) 「心に降る雨を待つ。
            言葉涸れ」

 心に雨が降らず、ダムは言葉不足。
 貯言葉率20パーセント。
「心にダムはあるのかい?」
 と、ドラマ「ひとつ屋根の下2」であんちゃんがよく言ってたっけ。
 ダムはあるさ。でも言葉の雨が降らないんだよ、あんちゃん。
 この言葉不足、まだしばらく続きそうだ。

 8月5日(金) 「感情地図。
            完成の日は来るのか?」

 感情の地図が少しずつ塗りつぶされていく。
 空白の部分が少なくなっていくことは喜びだ。寂しさはあるけれど。
 それでも、年に一度か二度は、自分でも知らなかった自分の感情に出会い、驚き戸惑う。
 それもまた、喜びであり、楽しみでもある。

 何も感じないことを悲しむことはない。それはもう読んだ本のページのようなものだ。新鮮な感情はまだ読んでないページにある。
 まだ知らない感情はきっとたくさんある。新しい日々の中に。それをひとつでもたくさん見つけて、できることなら感情の地図を完成させたいと思う。見果てぬ夢だけれど。

 8月4日(木) 「言葉がはじけて消えた。
            弱すぎる思いだったから」

 思いが言葉になり、生まれた言葉は少しの間深夜の部屋に漂い、消えていった。誰に届くこともなく。
 言葉にならない思いは、思いのなりそこね。そんなものはもう忘れて明日へ向かおう。
 終わってみれば、何もない平和な一日だった。

 8月3日(水) 「喜びと悲しみのダンスは続く。
            暗闇を照らすスポットライトの下で」

 どんな時代も、どんな世界も、悲しみと喜びの両方がそこにある。
 健康的なだけでは退屈で、不健康すぎれば楽しめることも楽しめない。
 口では平和を求めながら、心では熱く燃えられる戦いを求めている。
 罪を犯す自由があり、罪悪感とたわむれながら正義を振りかざす。自虐性で無意識に暴力的。
 高尚な理想を語りながら俗悪な日常を楽しむ私たちは、主観的にも客観的にも愛すべき存在だ。
 人は光であり、影でもある。世界の希望でもあり、同時に破壊者でもある。
 何者かに選ばれてここにいるのか、それとも自らの意志で舞台に上がったのか。
 光の当たる舞台で踊り、舞台裏の闇で嘆く。
 人間はどこまでいっても善にもなれず、悪にもなれない。天国を追われた堕天使だから。
 地上で引き裂かれながら、世界が続き限り生きていくしかないのだ。
 それは悲しみであり、喜びでもある。

 8月2日(火) 「小さな可能性があれば前へ。
            360度の可能性が必要なわけじゃない」

 かつて、自分の周りぐるり360度の可能性があった。
 あの頃は行きたいと思う方へどこへでも行けた。
 やがて進める方向は180度になり、90度になり、大人になって45度くらいになってしまった。ちょっと右や左に進路を変えようとすると肩が壁にぶつかって押し戻される。見えない壁に。

 今、私やあなたの前には何度の可能性が開けているだろう?
 もしかしたら、もう肩幅いっぱいの30度くらいに狭まっていないだろうか。そのうち体を横にしないとつかえて進めないようなことにもなるかもしれない。
 それは嘆くべきことだろうか?
 私はそうは思わない。どんなわずかな可能性でも体が通って前へ進めるなら、それは未来へと可能性がつながっているということだから。
 それに、可能性は一方的に狭まると決まっているわけじゃない。狭くなったり広がったりする。突然壁がなくなることだってある。

 もし可能性の行き止まりまでいけたなら、それは喜ぶべきだ。余すことなく生き切るなんてことは誰にでもできることじゃない。
 可能性が狭くなったくらいで自分を見限ってしまうのはもったいなすぎる。壁に挟まれて身動きできなくなるまで進みたい。

 8月1日(月) 「愛が足りない。
            だから輝きが足りない」

 関わっている多くのものに対する愛が足りないことに突然気づいた。
 好きだけど愛してるとはいえない多くのものたち。
 写真、花、映画、小説、猫。
 そして人間……。
 どこかへ置き忘れてきたのか、少しずつすり減ってしまったのか、それとも元々持ち合わせていなかったのか。そのうちのどれなのか、上手く言い当てることができない。
 ただ、足りないことだけは気づくことができた。そこにまだ救いや希望がある。

 どうしたらもっと強く深く愛せるようになるのか、今は分からない。でももっと愛したいという思いはある。淀川長治が映画を心の底から愛していたみたいに。いや、それは無理でも、水野晴郎が「シベ超」を愛してるくらいには。

 何かを愛することは、自分を輝かせることにつながる。強い思いが対象からはね返ってきて光を与えてくれるのだ。

 7月31日(日) 「焦れないのは焦らなくちゃいけない状況じゃない、
            ってことだと経験的に知っている」

 終わりや節目を意識しなければ急げないし焦れない。昔からそうだ。それは自分の性格として子供の頃から自覚症状があった。今に至ってもあまり改善は見られない。
 たぶん欠点なんだろうけど、バロメーターとして使えるから便利は便利だ。現状があわてるべき状況なのかそうでもないのか、自分の焦り具合で計れる。本当に差し迫った状況になればスイッチが入って頭は速く回転するようになり、手足の動きさえスピードアップする。
 そうやってなんとか最後は辻褄を合わせてきた。夏休みの宿題だって最後の3日で終わらせたし。

 今はどうにも焦れない状態にはまり込んでしまっている。もがいても焦っても足が重くて前へ進めない夢を見てるみたいに。
 8月に入ってもいっこうに急ごうという気持ちになれない。さし当たってどうしても期日までにしなければならないこともないし、一年の終わりとかそういう区切りもないから。お盆は帰郷するけど特別することもないし、万博だってなんだかんだいってまだ2ヶ月近くやってる。

 こんな状況では慌てられない。自分の気持ちをかき立てようとしても奮い立たない。勝つ気をなくした競走馬みたいに、いくらムチでたたいても走りゃしない。どうにものんびりしてまっている。夏の牧場でまったりする馬のようだ。
 どうやら焦らなくちゃいけない時期が来るのを待つしかなさそうだ。そう簡単に基本的な性質は変わらない。たぶん死ぬまでずっと。

 7月30日(土) 「解決も完結もいらない。
            今は終わらせず続けることだけを考えている」

 思い返してみると、20代の自分は完結を求めていたのだと思う。ラストシーンを探す映画監督のように。
 どうにかすれば大団円のようなものが見つかると信じていた。
 でも私は20代で運良く死に損ね、今30代を生きている。もう早期解決も完結も求めていない。それは手遅れだから。
 映画でいえば「パート3」くらいに入っていて、続編というよりシリーズ化が見えてきた。いったんシリーズ化になってしまえば、もう完結を目指すことはなくなる。目的は終わらせることから続けることへと変わる。私も完全に方向転換した。

 人生は思いがけない。少年の頃描いていたのとはまったく違う自分になり、想像とは別の生き方をしている。でもそれを悲しんではいない。むしろ楽しいと感じている。思い通りにいかなかったことが。その楽しみはこれからもきっと続く。

 7月29日(金) 「感傷よサヨウナラ。
            切なさは未来の中で」

 懐かしくて愛おしい感傷に取り込まれそうになったとき、以前ならこちらから一歩踏み込んで自ら浸りに行ったものだけど、最近は踏みとどまるようになった。昔のユーミンの曲なんか聴いてちゃいけないぞ、私、とか自分を戒めたりして。

 たとえば、大学生のとき、夜明け前に車を走らせながら窓から入り込んでくる空気の匂いみたいなものがときどきむしょうに懐かしくなることがある。でも今自分の中でそれを再現しようとしてもうまくいかない。たとえうまくいってもどうなるものでもないし。大昔のデートのワンシーンで、なんであのときああ言わなかったんだろうと今頃思っても仕方がない。

 切ない思い出は記憶の中で甘く味付けされて美味しいと感じるようになってるだけだ。実際、昔好きでよく聴いたアルバムを今聴いてみたら、こんなつまらないものがなんであの頃はよかったんだろうと不思議に思う。

 いい思い出がすべて感傷的なわけではない。思い出に浸ることが悪いわけじゃない。甘い記憶も必要だ。ただ、思い出と感傷を混同しないようにしなくてはいけない。今まで感傷の取り扱いを少し間違えていた。

 いい気分になるために記憶の引き出しをさぐるようなことはやめにしたい。楽しいことは今と未来に求めよう。
 古い賞味期限切れの感傷に今日でサヨナラだ。

 7月28日(木) 「忘れないことの正しさと悲劇。
            忘れないでなんて簡単に言わないで」

 忘れることの悲劇性と、忘れられないことの悲劇と、両方ある。
 人は過去の過ちを忘れ、繰り返す。
 あるいは、昔の恋を忘れられず前へ進めない。
 どちらがより悲劇的かといえば、やはり忘れないことだと私は思う。
 戦争を忘れるなと言うけど、恨む気持ちと一緒に忘れてしまった方がいいんじゃないのか。
 いいことは覚えておきたいけど、悪いことは早めに忘れたい。忘れられるというのは人間にとってとてもいいことだ。
 私は忘れっぽく生まれついたことを幸運だったと思っている。おかげで憎んでる人もいないし、死ぬときも恨みを持たずにいける。

 7月27日(水) 「心のつっかえ棒が取れて、
             楽になったけど行き先を見失った」

 その時代、その年代の自分を支えてくれていた人が心の中にいつもいた。生き方のお手本だったり、姿勢に共感できる人だったり、尊敬すべき人が。
 たとえばそれは、尾崎豊だったり、太宰治だったり、アイルトン・セナだったり、アインシュタイン先生だったりしたわけだけど、いつからか、そういう人がいなくなってしまった。
 そして、私は行き先を見失った。

 心の支えがなくても生きていけるようになったことは喜ぶべきことかもしれない。補助輪なしに自転車に乗れるようになったようなものだと思えば。ただ、そういうこととは別の部分で、自分の中に何かしらの問題を感じているのもまた事実だ。尊敬する人を即答できなことは、人としてどこか間違っているんじゃないかという思いがある。目標にする人もいないほど偉くなったわけでもあるまいに。

 心の中の支えを失って、ある意味では自由になった。もう、誰かみたいに、という生き方をしなくてもよくなったから。
 けど、今の私は師匠を失った未熟な弟子のようなものだ。決して独り立ちできたわけではない。だから、もう一度あらたな師匠を見つけなくてはいけないだろう。もう一段上の謙虚さを身につけるためにも。
 もっと先まで歩いていくためにも。

 7月26日(火) 「成功は経験じゃない。
            成功したら成功し続けなければ意味がない」

 成功したことのない人間が成功した人の悪口を言ったりするのは単なるねたみでしかないのだけど、成功することの難しさは経験すればいいってもんじゃないところだ。
 一度成功してから転落するのは、成功したことがないよりも惨めで耐え難いに違いない。だから、いったん成功したなら成功し続けなければならないということになる。それは大変なエネルギーを要することだ。惰性ではいかない。
 金持ちの生活を味わったらもう貧乏には戻れない。だから、稼ぎ続けなくてはならない。そういうことだ。

 成功がもたらすものはもちろん大きい。けれ、同時に失うものも少なくない。ささやかな喜びを喜びと感じなくなってしまうことが、もしかしたら一番の喪失なのかもしれないと思ったりもする。
 それでも成功したいと思うなら、半端な気持ちで求めないことだ。安易な気持ちで成功してしまうと、かえって不幸になりかねない。
 成功は経験としてしておくようなものじゃない。

 でも成功者を見て、みんな本当にうらやましいと思うんだろうか?


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