2005.6.1-

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 7月25日(月) 「仲良しさんのススメ。
            仲良きことは美しきかな、と昔の人も言った」

 仲良し、ってとってもいい言葉だなと、私はずっと思ってきた。でもみんなあんまり口にしない。仲良しなんていうと、子供同士の友情ごっこくらいに思われるのだろう。けど、大人こそ仲良しさんであることが必要じゃないだろうかと私は思うのだ。
 友達だけでなく、恋人だったり、夫婦だったりでも。愛して合ってるカップルよりも、単純に仲良しの二人というのは見ていても気持ちのいいものだ。
 親子も兄弟も、仲良しであって欲しい。

 愛とか関係性とか利害とかに気を取られすぎて、みんな仲良しでいることの大切さを忘れがちになっている気がする。
 明日から、近しい人と仲良しであることや、もっと仲良しになることを意識して人とつき合っていきたいと思う。

 7月24日(日) 「努力して手に入れたい幸せの形。
            それが見えれば人生は単純だ」

 人生の最大の目標は、やはり自分の求める幸せを実現することなんだと思う。他人の評価よりも自分が納得することが一番だ。
 ただ、人生が難しいのは、幸せになればアガリで終わりにならないところだ。幸せがすべてでもなく、幸せであり続けることは幸せを手に入れることよりもずっと難しくもある。そこらへんがなんともやっかいなところだ。

 幸福を結果論として横に置いてしまうというのもひとつの方法ではあるけど、それはちょっと潔くない。あらかじめ逃げ道を作ってるみたいで。
 私たちは誠実に幸せを求め続けよう。理屈で誤魔化さず、言い訳をせず、説明もせず。
 思い描く幸せに真っ直ぐ向かう姿勢さえ崩れなければ、きっと人生は単純になる。
 もし、生きることが難しいと感じているならそれは、求めてる幸せの形が見えていないからだ。まずはそこから始めないと。明日からと言わず、今日から。

 7月23日(土) 「小さな変化の積み重ねがやがて大きな変化となる。
             外部の力を期待せず、自力でなんとかしよう」

 毎日少しずついろんなことがあって、気分は浮き沈み、気持ちは揺れ、成長しつつ後退する。
 常に変化はある。それは喜びとしたい。何も変わらなければその日一日を生きたかいがない。
 ただ、小さな変化の積み重ねだけで何がどうなるわけでもないという根本的な問題は、相変わらず自分の中心近くに居座っている。たまに蹴っ飛ばしてみるんだけど動こうとしない。

 大きな変化を求める心と、変化を嫌がる頭との闘いは、たいてい頭の方が勝つ。頭が心を抑え込む。
 ときどき、自分自身に向かって問いかけてみる。おまえは一体変わりたいのか変わりたくないのかどっちなのだ、と。
 少し考えて答える。変わってもいいけど変わらなくてもいい、と。

 もちろん向上心はあるつもりだけど、ひとっ飛びに自分以上になれるわけでもない。これはこれまでに思い知らされた。だからやっぱり、小さな変化を重ねていくしかないのだと思う。
 ずっと自分を変えてくれる人を待っていた。でももう待つのはやめる。自分で少しずつ変えていけばいい。これまでもそうしてきたようにこれからも。

 7月22日(金) 「加害者にならずに済んでいる幸運。
            自分は幸運な人間だという解釈」

 一日の終わりに、ああ、今日もついてたなと思うのは、被害者にならなかったことよりも加害者にならずに済んだことだ。誰かを悲しませたり小さく傷つけたりはしてるだろうけど、決定的な加害者にはなっていない。その事実が私を安堵させる。

 幸運や幸福は、自分で気づこうとしなければなかなか気づけないものだ。人は誰も、自分で思っているより幸福に違いない。と同時に、自分で気づいているよりもより不幸でもある。自分の中にあるすべての不幸に気づけないから。

 けど、幸不幸なんて解釈の問題でしかないのかもしれない。不幸を過大評価すれば自分は不幸な人間だということになるし、幸福を最大限評価すれば幸福を感じて生きていける。
 それぞれに解釈は任されているのだからそれぞれが決めればいい。客観的な評価は別として。

 私は自分は相対的に幸運な人間だと思っている。ここまで重大な加害者にならずに済んでいるという一点において。
 幸福か不幸かはよく分からない。あまり考えたことがないから。

 7月21日(木) 「思い出パワーを借りて走る。
             ちょっとガタがきた自分だから」

 生きて振り返って、振り返って生きて、また振り返る。
 時々立ち止まることも大切なことだ。振り返って見なければ見えないものもある。

 振り返るためには、何かを残したおくといい。文章でも、写真でも、物を買うことでもいい。自分のサイトを持つことが一番いいかもしれない。
 振り返った思い出が愛しければ、また生きていこうと思えるだろう。忘れかけていた屈辱感を思い出して力に変えるというやり方もある。

 若いときは前だけ見て走っていけるけど、だんだんそうもいかなくなる。思い出の力も借りないと走れない。
 心が疲れたときは、思い出話でもしよう。そうすれば、少しは元気になって、また明日も生きていけるはずだ。

 7月20日(水) 「依存し合う関係が必ずしも開くじゃない。
            助け合いは人のサガであり、知恵でもある」

 楽をさせてもらってるってことは、幸せを与えてもらってることにはならない。
 むしろ、仕事や役割を奪われるということでは無形の不幸を与えられてることになるのかもしれない。
 何もしなくていいというのも案外つらいものだし、何もしてはいけないと禁じられるのは拷問に近い。

 誰の役にも立てないと、人の心はいじけて死んでしまう。好きな人の役に立つことほど幸せなことはないんじゃないだろうか。そういう苦労なら平気なはずだ。
 それは言葉を換えれば、誰かに頼ってあげる、ということでもある。親子でも、夫婦でも、恋人でも、友達でもそう。
 人はプラス方向にもマイナス方向にも依存し合うことでうまくいくようにできている。独立心も大切だけど、それに依存心を適量加えると更に関係は良好なものになる。

 頼って頼られて、助けて助けられて、そういう湿った関係が人なのだとあきらめることで優しい気持ちになれることもある。
 それに頼ったり頼られたりって、案外素敵なことだな、と最近思えるようになった。

 7月19日(火) 「地球に向かう涙。
            呼び覚まされる太古の記憶」

 人は地球という星の息吹をダイレクトに感じたとき、言葉にならない感動を覚えるようにプログラミングされてるのだと思う。

 それは、ある程度の年月を重ねないと発動しない感情なのかもしれない。
 突然、私が花や昆虫や鳥の写真を撮り始めたのも、ここへきてそのプログラムが動き出したからなんじゃないだろうか。それまで小説や映画やゲームが与えてくれる感動で満足していたけど、それでは充分でなくなってきた。そして今、もっと直接的な感動を求めて地球に向かっている。

 自分よりずっと長い歳月を生き抜いてきた自然の生き物に触れると、やっぱり単純に感動する。きれいだな、すごいな、不思議だな、と素直に思う。
 今日、テレビで屋久島の縄文杉を見に行くというのを観ていて、ちょっと泣きそうになった。実際に自分の目で見たら、きっと泣いてしまうだろう。
 その涙は、嬉しいとか悲しいとか懐かしいとか、そんな名前のついた感情から来るものではなくて、自分の中の根源的な部分が揺さぶられるからなんだと思う。太古の記憶がよみがえるからかもしれない。

 人類もまた、この地球で長い時を生きてきた。命をつなぎ、世代を重ねながら。その記憶は全部、今を生きる私たちの脳や遺伝子にも組み込まれている。その古い記憶が私たちに地球を求めさせているのだろうか。

 私たちの旅は、行く旅でもあり、帰る旅でもある。地球から地球へと。
 私も、もっともっと地球に近づきたいと思う。まだたくさんの地球が残されている。山や空や海に。まだ知らない生き物たちや、見たことのない風景に。
 そして、あらたなる時の中に。

 7月18日(月) 「負け数の少なさは自慢にならない。
             たくさん戦ったことこそ誇りになる」

 負け数の多さは不名誉なことなんかじゃない。
 勝率の高さが勲章になるわけでもない。
 たくさん戦うことが本当の名誉なのだと最近思うようになった。

 もちろん、勝ちばかりの人生は楽しいだろうし、負けばかりではつらい。けど、たとえ負けるにしても、勝負するということはそれだけで価値がある。勝ちもしなければ負けもしないというのが一番勇気のないことだ。
 スポーツや勝負事に限ったことではない。勉強も仕事も、目標も夢も、恋愛もそうだ。

 思えば私はこれまで、勝てない勝負を避けすぎていた。だから負け数は少ないかもしれないけど勝ち数も少ない。これはとっても不名誉なことに違いない。
 これからはもっと負け戦も戦っていこう。負け数を自慢できるくらいになれたらいいなと思う。

 7月17日(日) 「始めたときの決意は自分との約束。
            大事な約束は果たしたい」

 初心に返るという言葉はよく使われるけれど、自分自身を振り返ってみると初心に返ったなんてことはほとんどない気がする。
 というより、そもそも初心がどういうものだったのか忘れてしまっていて思い出せないことが多い。何かの拍子にふいによみがえることはあっても、それはすぐに消えてしまう。

 今続けていることを始めたときの気持ちをどれくらい覚えてるだろう?
 ぼんやり思い出せることはあっても、はっきり覚えてることは少ない。それじゃあ初心に返ろうにも返りようがない。
 誓いや決意もどこかに置き忘れてきたようだ。20歳の誓いや30歳の決意もあったはずなのに。

 月日が経てば事情も変わるし、気持ちも変化する。それは当然のことだ。最初の想いがそのまま結実するなんてことはめったにない。ただ、ときどきは奥にしまい込んだ初心を取り出して確認するのも悪くない。何のために始めたのかが分からなくなってしまったときなどは。

 初心は、自分と交わした約束だ。約束は守りたい。

 7月16日(土) 「戻りたいのはあの場所じゃなくて、
            あの場所にあった自分の感情なんだろう」

 失った時間は二度と戻らない。同じ瞬間は二度ない、と言った方がいいかもしれない。戻りたくても戻れないし、たとえ戻ったとしてもそれは同じ時ではない。

 悲しいのは単に時間が戻らないからじゃない。あのときの自分の感情がもう戻らないことを悲しんでいるのだ。私たちが懐かしく思い出すのは、楽しかった出来事じゃない。楽しいと感じた自分の感情なのだ。
 それを自分の中で再現しようと試みてできなかったとき、人は切実に過去を懐かしいと思い、あの頃に戻りたいと口にしたりする。

 年寄りが若さをうらやむことがどういうことか若い頃には分からないものだけど、年齢を重ねればだんだん分かってくる。それはたとえば、自分が観てものすごく感動した映画をまだ観てない人に対するうらやましさのようなものだ。感動も一回きりで二度同じものは味わえない。

 大人とは知ってしまった悲しさであり、子供とはまだ知らない喜びなのだろう。
 私たちはたとえタイムマシンを発明したとしても、懐かしいという切ない感情を打ち消して心を満たすことはできない。もしできるとするなら、それは記憶を消すというやり方しかない。未来の人間がそこまでやるようになるのかどうか、今はまだ分からない。

 懐かしさを抱えたまま年老いていくことも案外悪くないもんだと最近の私は思う。戻れない過去を懐かしがるのも、長く生きた者の特権だ。

 7月15日(金) 「個人としての限界設定はどこに?
             近すぎるのか、遠すぎるのか」

 私たちは個人として間違っていても人類としては間違ってないから、最終的には間違ってなかったという結論に行きつく。個人の誤りは全体に飲み込まれてしまう。
 そういう安心がある一方、それでいいのかという思いもある。

 全体として正しければ個人としてどれだけ間違っていても問題はないのか?
 自分一人くらい、という甘えがみんなにどれくらい迷惑をかけることになるのだろう?
 個人の全体に対する責任がどれくらいあるのかというところで迷う。目安が分からない。個人としてできることには限界がある。ただ、その限界設定の位置が判断できない。
 一個人が人類全体に影響を与えることなんてできるはずがない、と言えばそれまでなんだけど。

 個人が人類に対してできるいいことって何があるだろう?
 それもまた、考えるほどに分からない。でも、無力だから何もしなくてもいいということにはならないはずだ。何かできることをしたいと思う。多くのものを与えてくれたせめてもの恩返しとして、ささやかな何かを。
 それをこれから探していかなくては。限界線をなるべく遠くに押しやって。

 7月14日(木) 「7月14日という日付にまつわる個人的な謎。
            今年もやはり思いつかず、思い出せず」

 7月14日になると、心がざわざわする。何故だから知らないけど、何もないのに何かがあるような気がして。
 それが毎年のことなのだ。自分でも不思議に思う。

 この人生で7月14日に何かあっただろうかと思い出そうとしても何も思いつかない。歴史上の出来事で印象的なことがあったのかとネットを調べてもこれといったものも出てこない。パリの革命記念日といっても特に感じるものはないし。
 覚えていなくてはいけない誰かの誕生日でもなく、思い入れのある人の命日でもない。けど、感覚としては忘れていた誰かの命日を当日になって思い出すというのに似ている気がする。

 毎年、あ、7月14日だと思い、それ以上思考が進まない。何かを思い出さなくていけないような感じはするのだけど。
 結局、今年も思い出すことができないまま過ぎてしまった。何なんだろう、この感じ。

 一年で一日だけの心に引っかかる特別な日。それは前世の記憶なのか、遠い約束の日なのか、まだ分からない。とても個人的な謎だ。

 7月13日(水) 「自己分析と他人の判断。
             両方あわせて自分という人間」

 他人の分析を私はよくよくする方だと思う。性格なんかを割と言い当てる自信もある。
 けど、自分の分析となると、とたんに客観性を欠いた曖昧なものになってしまう。実際のところどうなのか判断がつかない。分かっているようで分かってない。

 性格診断や占いに書かれていることを読んで、あはは、なるほど、そうかもしれない、と気づかされたりする。
 今日見たyahoo!ガンダム占いによると、私は「アッガイ」タイプらしい。そりゃまたマニアックなところを突かれた。私としてはシャア専用の赤いズゴックが好きだったからできれば取り替えて欲しいところなんだけど、そうもいかないようだ。

 性格分析が笑った。「作戦前の計画立案も冷静かつ完璧にやってのけます。ただし、頭でっかちで、なかなか行動力が伴わないのがウイークポイント。追いつめられるとあわてることしかできません。また、それを批判されると尖った口で屁理屈をこねて応戦します。」
 見事に言い当てられてるではないか。言われてみればその通りだ。やっぱりたまには人から自分について言ってもらうことも必要だ。

 自分にしか分からないことが自分がいて、他人にしか分からない私がいる。その両方をあわせて初めて自分というものを自覚できるようになる。
 それでもやっぱり意に沿わないことを言われると、口を尖らせて言い返したくなる私は、一生自分の本当の姿を知らないまま終わるのかもしれない。

 7月12日(火) 「正しさは打ち上げ花火のように。
             パッと開いて、フッと消える」

 正しさって、長持ちしない。寿命といえば、打ち上げ花火くらいのものだ。
 暗闇に高くどーんと上がって、パッと光がはじけて、わー、きれいだねー、と言って顔を見合わせている間に残像を残して消えていく。
 間髪入れず、次の正しさがひゅ〜っと上がって、どんっと火花を散らす。
 次から次へと。
 3つ前の正しさがどうだなんて言っても、みんなそんなことはどうでもよくなっている。
 そして正しさに飽きると、みんな立ち去っていく。それぞれの暮らしの場に。
 後に残るのは、正しさの燃えかすだけだ。
 そんなはかない正しさをいつまでも追いかけ続けるのも悪いことじゃない。くだらないと言って見向きもしないのはちょっと寂しい。ただ、忘れてはいけない。この夏最高の花火も来年には最高じゃなくなるように、今日の正しさが明日も正しいわけじゃないということを。
 昨日の正しさを取りに戻るようなことはせず、今日の正しさに従った方がいい。

 7月11日(月) 「食べることの罪悪感を超えて。
             罪の先に人の未来はある」

 ベジタリアンといっても事情や信条がそれぞれあるのだろうけど、人としてどうなんだろう。
 もし、動物の肉を食べるのが野蛮だからという理由で野菜しか食べないのだとしたら、それはむしろ人として無責任なんじゃないだろうか。自分だけが責任逃れしてるみたいで潔くない。人間は生物として、極端に言えば他の生き物を殺して食べる義務があると私は思う。それが地上に生きる宿命だから。

 人は罪を犯すようにできている。それに伴う罪悪感というものは必要なものだ。罪の意識があるからこそ、その反動としてよい行いをしようと考えるようになるのだから。
 悪いことをしてこそ人間だ。罪悪感から逃げきれば正義というわけではないだろう。

 人間は生きている限り、決してきれいな存在にはなれない。そこはもうあきらめなくちゃいけないし、背負わないといけないことだ。
 その上でどれだけの可能性を見せることができるかが大事なことになる。食べられた無数の生き物たちのためにも、人間自身のためにも。

 やがて、一切の残虐性を排した人類が地上に誕生するかもしれない。生き物を食べることもなく、人と争うこともなく、暴力さえふるわず、優しく賢く生きる人たち。でも彼らにその先の未来を感じるだろうか? 競争原理も働かず、金も存在せず、不幸がないから幸福の概念さえない社会。
 いつかそういう日が来てもいいけど、今はまだその段階じゃない。
 私たちは今日も美味しいものをたくさん食べて、明日も元気に生きていこう。生かしてくれている自然の恵みに感謝することだけは忘れず。

 7月10日(日) 「明日があるから今日をしっかりしなくちゃいけない。
             明日という日は今日の保険じゃない」

 明日があるさと人は言う。
 確かにその通り、明日は来る。
 でもだからといって、明日もあるから今日はいい加減に生きていいということにはならない。明日がなければ今日を無責任に生きてもいい。明日があるなら今日を適当に生きちゃまずいだろう。
 明日のことを考えて準備もしなくてはいけないし、余力も残さないといけない。学校なら宿題もしないといけないし、予習もできればした方がいい。

 私たちは明日があることを前提に日々を生きている。それは間違っていない。ただ、少しだけ明日という日に甘えてしまってるかもしれない。いつでもその気になれば逆転できるような気持ちがどこかにあって、今日という日の扱いが軽くなる。
 それは人情として仕方のないことだけど、一方で明日は来ないかもしれないというイメージを持って今日を生きることも大切だ。
 嘘みたいだけど、本当に明日がないかもしれないのだ。

 7月9日(土) 「存在は続き、
            不在もまた続く」

 失うってことは失い続けるってことなんだな、と当たり前のことに気づく。
 今日も、明日も、明後日も。
 死ぬってことが死に続けることを意味するように。
 だから、まだ失ってないこの日々を大事にしたいと願う。
 新しいものを求めるだけじゃなく、今持っているものも同じように大切にしなくては。

 7月8日(金) 「終わってしまえば全部納得。
            あんなことも、こんなことも」

 なんだか、終わってしまうと、すべてはあれでよかったんだなと、心の深いところで納得してしまうというか、納得させられてしまう。
 学校も、恋愛も、人間関係も、人生そのものも。
 ハッピーエンドの映画を観た後みたいに。
 悪者も最後はやっつけられて終わり、あんな不幸やこんな不運もみんないい思い出になる。別れはあたらな出会いにつながり、終わりは新しい始まりへと向かう。
 何か腹の立つことや嫌なことがあったときには、これはまだ映画が始まって1時間あたりの出来事だと思って、自分を慰めるようにしよう。
 やがて、何もかもが終わってしまうのだ。それでいい。
 続編があるかもしれないし、ないかもしれない。いずれにしても、今の私たちは途中を生きている。続きがある。
 今はまだ、一所懸命演じることだけ考えたい。ラストのことを考えるのはもう少し先でいい。

 7月7日(木) 「オールのないボートに乗っている。
            誰もいない海の上で」

 オールのないボートで海にこぎ出して、長い間、新大陸はおろか島影さえ見つけることができず、漂っていた。べた凪の中、ときどき気休めに手で水をかいたりしながら。

 誰もいない海の上でずっと嘆いていたけど、今はまだ浮かんでいることを喜びと感じている。沈みさえしなければ、終わりじゃない。航海は続く。
 たとえ流れ流されて、元の大陸に漂流したとしても、後悔はしないだろう。いちどは大海に向かってこぎ出したのだから。何もなかったわけじゃない。
 もし、みんなのいる大陸で、いつも海ばかり眺めて暮らして、それで年を取ってしまったら、そっちの方が悔やんでも悔やみきれなかった。

 もう、戻りたくても戻れないし、戻る気もない。
 できることなら、別の陸に降り立ち、そこで骨を埋めたいと思う。遠い故郷のなつかしいみんなのことを思いながら。

 7月6日(水) 「懐かしいという危険な感情。
            あの世は未来にあって過去に属している」

 懐かしい気持ちに取り込まれないようにしなければと、ふと我に返る。
 遠くを懐かしむ感覚は、あちらの世界とつながりやすいから……。

 人はそのとき、自分が一番いたい場所にいるものなのだと思う。生きるのが嫌だとか言ってる人も、この世が好きだからここにいるのだ。あちらが恋しくなったら、あっさりあっちへ行ってしまうし、天国が好きな人は天国へ行き、地獄が好きな人はそちらへ行く。
 それは言葉を換えれば、どのグループに属せば自分は居心地がいいかということで、その決定権は本人にある。どの学校へ行くかは自分の実力と相談した上で決めることができる。でもクラス分けは決められない。だけど、誰と仲間になるかは決められる。
 この人間社会はそれと似たようなシステムになっている。

 あの世もそうかもしれない。もしそうだとすると、過去を懐かしがるグループに属してしまうと、次へ進めないことになりかねない。それは嫌だから、私は未来を夢見る人たちの仲間となりたい。
 だから、懐かしいという気持ちに取り込まれないよう、あえて打ち消すことも必要となるだろう。

 想念というのは思っている以上に強いもので力を持っている。想いに身をゆだねすぎないように気をつけよう。
 懐かしさは塩や胡椒程度でいい。主役にしちゃいけない。

 7月5日(火) 「音楽は世界をつなぐ。
            世界を救うのは笑いかもしれない」

 異文化間の相互理解において、笑いというものがどうもないがしろになれているように思えてならない。これを最初にもってくるのが一番早いのに。
 極端な話で言えば、ジャングルの奥地に迷い込んだとき、突然目の前にヤリを持った半裸の男たちが出てきたら恐怖で震え上がるけど、もしこちらの愛想笑いに対して向こうが笑でこたえてくれたら、ああ、もう大丈夫だと思うはずだ。逆に言葉の通じない相手がニコリともしないときほど怖いものはない。
 表情ひとつ変えない異星人でも、地球に下りたって第一声で一発ギャグでも言ってくれたら、いっぺんに友達になれそうに思うだろう。

 日本人が中国や他のアジアともうひとつ上手くいってないのは、笑いの輸出入ができてないからじゃないか。日本人の持ってる笑いの感覚が向こうに伝わってるとは思えないし、向こうの笑いもこっちにほとんど入ってこない。これだけ身近になった韓国でさえ笑いの交流は全然足りてない。あちらのお笑い芸人ひとり知らないし、向こうでどんなお笑いが流行っているのかも情報として入ってきてない。韓国人がどんな笑いが好きなのかも私たちは知らない。

 日本人はもっと笑いを積極的に輸出すべきだ。日本人と笑いの結びつきは、外国人の中では上手くイメージできてない気がする。
 日本人ほど笑いに対するセンスがあって、生活や人生と密接に関わってる人種は他にないんじゃないか。こんなにテレビ番組でお笑いやバラエティーが多いところも外国にはないだろう。
 日本人の特殊な笑いがどこまで海外で通用するかは分からないけど、とりあえず日本人は笑いが好きなんだということだけでも知ってもらった方がいい。

 たとえば、公の場で、わざと転んで笑いを誘うというような国民は世界中でもほとんどないんじゃないだろうか。笑いを取るためにテレビでハダカになるとか、熱湯風呂に入れてみんなで笑うとか、そういう日本人特有の自虐的な笑いというのは、相手に対するサービス精神として世界中に広めるべきものだと私は思う。
 日本に来ている外国人タレントも日本でそれを覚えてやってるのだから、やってできないことはないはずだ。

 言葉、芸術、文学、音楽、そういうものに笑いも同等のものとして加えたい。それが世界平和につながる鍵となるような気がするから。

 7月4日(月) 「大人と子供と、どっちも間違いで、どっちも正しい。
            両方を合わせるのが一番いい」

 大人になって、子供の頃理解できなかった大人の精神構造や思考回路を理解できるようになったのは当然のことなのだけど、子供の頃の気持ちを忘れないでいることも大切なことだ。あのもどかしい感じや、腹立たしさも。
 大人と子供の考えを優劣で判断しちゃいけない。大人の論理を頭ごなしに押しつけるのもよくない。かといって若い一本気な思い込みが正しいわけでもない。

 人はただ変化するだけだ。上積みする部分もあるけど、失うものもある。一方的に成長するわけではないことは、世の中の老年の人たちを見れば分かる。
 たとえるなら配役が変わるようなものだ。若手スターも年を取ればお父さん役やおじいさん役になる。どちらにもそれぞれのよさがある。

 大人と子供の論理を対立構造で捉えるのは間違いだ。互いに補完し合う関係性だと思いたい。若くなければ思いつかないことがあり、年を取らないと分からないことがある。それを互いに持ち寄って物事を解決する方向へ向かえばいい。手柄を独り占めしようだなんて思わず。

 今の私は、かつての私には理解しがたい人間になっているけど、それもまたよしとする。自分でも予測できない方に変わっていくことは面白いことだ。もっともっと変わりたいと思う。でも、あの頃の自分を忘れないようにもしないと。

 7月3日(日) 「ドキドキワクワクしなくちゃ。
            それは家で待ってるだけじゃやって来ない」

 最近、ドキドキワクワク感が足りてないことに気づいた。とてもよくないことだ。このままじゃいけない。
 記憶の中を手探りして、かつてのドキドキワクワク感をもう一度取り出してみたり、それに近いものを求めたりしてみるけど、やっぱり違う。それは一度読んだ冒険小説みたいに魅力が褪せている。
 もっと新鮮なワクワク感をと思って、もがいたりうろついたりしてみても見つからず、鼓動は一定のリズムを刻み続ける。
 悲しいわけでも不幸なわけでもない。けど、ときめきが足りないことを何もないことのように見過ごすことはできない。
 贅沢な要求といえばそうだろう。でも探して見つけたい。何もせずににあきらめて不満ばかり漏らすよりはましだ。

 キーは未知の中にある。既知を捨ててでもそれは求める価値がある。
 まだしたことがないことなんて無数にあるけど、それが何なのかは意外と自覚できないものだ。ピンポイントで探し出すのは難しいから、ひとつずつあたって試していくしかない。

 心臓もあまり怠けさせると鈍くなるから、多少は負荷をかけて鍛えた方がいい。筋肉や脳と同じだ。心臓もきっとドキドキを求めている。

 7月2日(土) 「総体は空間と時間をあわせたひとつのもの。
            人類はまだ誕生しきっていない」

 凄惨な流血騒動と家族の暖かい笑いは、対極にあるわけでも、別の場所にあるわけでもなく、私たちが今立っているここにかつてあり、足下に何重にも折り重なっている。
 生命の進化があり、戦争の歴史があり、何百、何千世代のも暮らしがあった。その上に今私たちは生きている。
 本当にこの世界を愛すためにそのことを忘れないようにしたい。今この時を愛するだけじゃ充分じゃない。

 人間には様々な面があり、長い歴史がある、という認識は間違いじゃない。けど、それらはすべて融合したひとつの総体なのだという理解が必要だ。空間と時間はひとつのものだから。
 人類は絶滅するとき初めて存在として成立する。ひとつの種として。何故なら人類だけが大きく変わり続ける種だからだ。ある時代の一ヶ所を切り取って人類を語ることはできない。

 自分は全体の一部であると同時に自分以外のすべても自分である。いいことも悪いことも決して他人事ではない。
 人類はいつか一人に集約されるときが来るかもしれない。そうなったらもう絶滅する必要もなくなる。それがハッピーエンドの最良の形なんだろうか。

 7月1日(金) 「雨水をすすって生き延びてる人類。
           まだまだだね」

 雨が降らず、水不足で騒いでるのを見ると、雨水や川の水を飲んでることをふいに思い出してちょっと恥ずかしいような気持ちになる。
 これだけ時代が進んで、科学や技術が発達して文明社会の中にいる人間も、実は雨水を飲んで生きている。雨が降らないと死んでしまうという事実。
 人間って、日頃忘れているけど、まだまだ原始的な部分を色濃く残している。食べ物にしてもそうだし、やっぱり生物なのだ。

 水を買う時代になって水のありがたみが増すかと思いきや、逆に水のありがたみがなくなってきている。水不足にしても20年前、30年前とは受け取り方がずいぶん違っている気がする。水なんてコンビニやスーパーに行けばいくらでも売ってるじゃないかという思いがどこかにあって、深刻に感じない部分がある。
 けど、災害のときなどに水のありがたみを思い知るように、きれいな水がいつでも有り余っているというのは間違った思い込みだ。本当にあとひと月雨が降らなければ日本中で大変なことになるし、それが世界規模に広がったとしたら、それこそ水を奪い合っての戦争になる。人はあっけなくケモノと化し、奪い合い、殺し合う。
 けどその一方で人間には知恵がある。水を作り出す可能性も持っているし、いつか人工的に雲を作って雨を降らせることもできるようになるだろう。海の水も安く真水に変えることができるようになるはずだ。
 それをもっと進めていけば、他の惑星に水と空気を持って行ってそこに住めるようにできるかもしれない。

 人間の獣性と知性の振幅の大きさはつくづく面白いなと思う。
 でもなんだかんだ言っても、人間って雨水飲んでるんだよなぁと思い出すと、急に脱力感に襲われる私であった。
 ペットボトルのミネラルウォーターを常飲するようになって何か錯覚を起こしていたらしい。

 6月30日(木) 「すみませんの代わりにありがとうを。
            謝るよりお礼を言う方が気持ちいい」

 謝るくらいなら一回でも多くお礼の言葉を述べたい。
 かつての私は簡単に謝りすぎていたと、今になって思う。謝ることにさして抵抗がないから、謝らなければいけないことを安易にしすぎていた。
 今はなるべく意識して謝らないようにしている。そうすることで、謝らなければいけないことをあまりしなくなったような気がする。気をつけるようになったから。

 謝ればいいってもんじゃない。確かにその通りだ。
 ありがとうを乱発することでお礼の言葉が軽くなってしまうのかもしれないけど、それでもいいと思う。もったいぶって大げさにありがとうを言うと、それはそれでなんだか押しつけがましい感じもする。
 はいの返事代わりにありがとうと言い、街行く見知らぬいい人に心の中でありがとうをつぶやく。
「ありがとうマン」として、○で囲んだ「あ」のマークをプリントしたTシャツを着て歩きたいくらいだ(しないけど)。
 日常生活の中でも、ありがとうを言うシーンには事欠かないものだということを最近知った。

 6月29日(水) 「未来の人たちに対してできるささやかなこと。
            それは願うことだ」

 千年後を思って絶望するのは仕方ないし、一万年後を想像して虚しくなるのは当たり前かもしれない。一億年後なんて空想さえできない。
 でも、だからといって、遠い未来が自分とはまったくの無関係ということにはならないし、無責任であっていいわけはない。すべての未来は今こことつながっているのだから。

 未来を生きる人たちに対する私たちの責任は何かといえば、ひとつには絶滅しないことで、もうひとつは可能性の提示だと思う。
 それは偉大な発明とか、未来のビジョンを描くとか、そういう難しいことだけじゃない。願い事を未来に向かって投げることもそれに当たるはずなのだ。
 戦争や飢餓のない平和で幸せな世界が実現しますようにとか、みんなが賢くなってそれぞれの能力に応じた仕事ができますようにとか、今の時代では非現実的で実現不可能なことであっても、みんなの総意がそっちへ向かえば未来の世界では実現するかもしれない。過去の人々の願いのいくつかが今の時代では実現してるように。

 そうやって願いをつなぐということも、私たちのするべき大切なことなんだと思う。
 と同時に、受け取った願いをひとつでも実現させることを考えたい。
 過去の人たちを絶望の淵からすくい上げることも、私たちのなすべきことだろう。

 6月28日(火) 「ネットは生活を便利にしたけど何も変えてない。
            相も変わらず私たちは現実世界を生きている」

 これだけネットが普及して、調べたいことは何でも調べられるようになったけど、本当に知りたいことはネットのどこを探しても見つからない。ネットにあるのは答えを導き出すための素材でしかないから。
 結局のところ、学ぶべきことは外界で経験的に学ぶしかない。失敗を繰り返して痛い目に遭いながら。

 答えを出すための鍵は、関係性の中にある。人と人、人と世界、地球と宇宙といったような。
 その衝突や摩擦から生み出される偶然のイレギュラーこそが、答えにつながる重要な手がかりとなるはずだ。環境の変化や生存競争が生物の進化をもたらしたように。

 ネットは私たちに多くの素材を提供してくれる。けど、やることはこれまでと変わらない。時間と労力を費やしての試行錯誤。そういうことだ。

 6月27日(月) 「感傷も捨てたもんじゃない。
          通り雨のあとの虹のようなものを生み出すこともある」

 昔ほど感傷的ではなくなったけれど、こんなものもういらないやと捨ててしまうのは惜しい。まだ何かの役に立ちそうだから、取っておこう。
 感傷だけが生み出すことのできる柔らかくて優しくて壊れやすいもの、そんなものがきっとあるはずだ。それを今後も探していきたい。
 自分はセンチメンタリストなんだからしょーがねえじゃねえかというような居直りではなく、泣いてる人を見て流す涙の言い訳をしないような、ある種の弱さが何かをもたらしてくれる気が今はしている。
 論理で武装して心を鍛えるだけが強さの方向性じゃない。

 感傷の形も年と共に変化していく。どんな形になっても最後までなくさないでいたい。
 賢さと愚かさを感傷で混ぜ合わせることができれば、そこに私の目指す人間像が見えてくると思う。

 6月26日(日) 「経験はただの素材。
            最高の食材も最高の料理になってこそ価値がある」

 経験や知識は素材に過ぎなくて、それ自体では意味がない。自分のため、世のため人のために役立ててこそ価値を持つ。
 最高の食材を手に入れても調理できなければ無駄なのと同じように。
 たとえば世界一周すればたくさんの経験や知識を得ることができる。でもそれだけでは何にもならない。知識や知恵を人生に還元してこそ経験が役立ったことになる。学校の勉強もそうだし、本を読むこともそうだ。

 逆に言えば、質素な食材でも腕がよければ美味しい料理を作ることができるように、経験がなくても人は成長できる。大事なのは経験の質や量じゃない。それをいかす術を持っているかどうかだ。
 それは人間性の根幹の部分だから持って生まれたところが大きいのだけど、足りなければ努力と勉強で補えばいい。料理の天才じゃなくても美味しいものを作ることはできる。

 経験ばかり追い求めて本当に重要なことを見失わないようにしたい。

 6月25日(土) 「命の箱庭。
             神はなくとも生き物は生まれ滅びる」

 命のドラマは、それはもうすごく残酷で厳しくて切なくて暖かいのだけど、人間もひとつの生物としてしっかりその中に組み込まれているのだということを忘れてはいけないだろう。特別だとか、生命の連鎖の外側にいるだなどというのは思い上がりだ。決してそうじゃない。
 いくらコンクリートの高いビルを建てようと、武器で戦争をしようと、地球の環境を汚そうと、すべてはこの生命の箱庭の中で起こっている出来事だ。予定調和と言ってもいい。
 たとえ核兵器で自ら地球を消滅させようと、それはより広い世界におけるひとつのエピソードでしかない。
 逆に言えば地球や生命に対する罪悪感など持つ必要はない。他の命の保護者になれるほど人類は高尚でもないし、そんな力もないのだから。

 穏やかな春の昼下がり、腕に抱いた赤ん坊を優しく見つめる母親と、それを見ながら微笑む若い父親。それは紛れもなくこの世界の風景のひとつだけど、それが人間のすべてじゃない。
 別のとき、別の場所で、人間同士、狂ったように殺し合う、それもまた人の姿だ。
 生き物を殺して肉を食べながら、ペットの死に涙する。矛盾してるようだけど矛盾じゃない。

 これまで地球上に誕生し、絶滅した無数の生き物たち。彼らと私たちの間に差はない。人間もいつかは必ず消える宿命にある。
 私たちはただ、生存競争をしてるだけなのだ。存続したければ他の生物に勝ち続けるしかない。
 人類を滅ぼす要因がいくつもある中で、直接の原因となるのはもしかしたら私たちの中にある感傷かもしれない。

 6月24日(金) 「マイ・ルールに縛られないように。
             自分の位置を見失わないようにしたい」

 過去は一切振り返らず、ただ前だけを見て生きるんだ、などという考えに憧れた時期があった。少し若さを失いかけていた頃。
 でもそれって、考えたらずいぶん無責任な話だな。最近気づいたけど。
 友達からあのとき貸した1万円を返せよと言われて、オレは過去は振り返らない男なんだと言い張るようなものじゃないか。そんな言い訳は通用しない。返したものは返さないと。忘れていけないこともある。

 人のことは関係ない、自分のペースで生きていくさ、なんてのもかなり勝手だと思う。制限速度50キロの一車線で、通常60キロで流れる道を、自分だけが40キロをかたくなに守っていたら、違反ではなくても、後ろに続く大勢の人に迷惑をかけることになる。悪いことをしなければいいというわけではない。

 決められたルールがあり、マイ・ルールがあり、常識的なルールがある。その中で兼ね合いを見つけながら生きていくことも大切なことだ。若いときなら多少の愚かさは許させるにしても、少し年を取れば周りに合わせることも必要になる。自分ひとり無人島で暮らしてるならともかく、そうじゃなければ。

 過去はやっぱりときどきは振り返った方がいい。バックミラーを見て他の車の様子を確かめるように。
 大切なのは、時間の流れと他人の流れを見失わないことだ。前後左右をよく見て、全体の中の自分のいる位置を知っておきたい。
 他人に迷惑をかけられたくなければ、まずは自分が人に迷惑をかけないことだ。倫理の問題としてじゃなく生きていく知恵として。

 6月23日(木) 「生きることは増えるばかり。
             なくしても消えはしない」

 何かをなくすことも、何かが終わることも、それは何かが消えてしまったということではない。始まる前に戻って何もなかったことになるわけじゃないから。
 油絵で色を塗り重ねるように、新しい色の下に隠れて見えなくなるだけだ。

 人生において私たちのしたことは、なにひとつ消えやしない。
 生きることはごくごく単純な足し算だなと最近思うようになった。かけ算でも引き算でもなく、確率を出す割り算などでもない。
 たとえば人との別れも、別れというひとつの出来事が自分年表に書き加えられるということだ。たとえ記憶の中から消えても事実は消えない。

 人は得た以上のものを失うことはない。自分が赤ん坊だった頃のことを思い出してみれば分かる。
 何もなくすものはないんだと思って以来、私の中の絶望感と恐怖感はずいぶんやわらいだ。

 まだ生きていない新しい日の中で、また少しずつ何を失い、何かを得ていくことになるだろう。
 死もまた人生の内側にある出来事で、すべてをなくすことを意味するのではないということを忘れないようにしたい。

 6月22日(水) 「結論は必要ない、というのが今の結論。
             それもまた、この先ではどうなるか分からない」

 結論を出そうと焦りすぎるあまり、結論めいたものに飛びつきすぎていた。蜃気楼に翻弄される砂漠の旅人みたいに。
 今は結論を探してはいない。結論を前提にしなければどこをどう歩いていいか分からないじゃないかと思っていたけど、それは思い違いだった。もしくは言い訳だったかもしれない。
 目的地はなくても旅は続けられるし、旅を続けることが目的になる。
 だからもう人生論も幸福論もいらない。

 いつか結論は出るかもしれないし、出ないかもしれない。どっちでもいいと言うと投げやりな感じだけど、どちらでも納得できそうな気がしている。かつては連ドラの最終回を観なければ気が済まなかったけど、今はもう途中でやめても平気になった。物語は必ずしも完結に向かうものではないことを知ったから。

 昨日までに今日を足し、それに明日を足していく。結論はずっと先の彼方で気長に私を待ってくれているだろう。結論はない、という結論かもしれないけど、それもいい。

 6月21日(火) 「野鳥好きが尊敬される時代がやがて来る。
            と20年前の私と友達に言ったらきっと笑われる」

 インターネットがこれだけ一般化して、多くの人間がデジカメと自分のサイトを持つようになった今、一番恩恵を受けているのは、もしかしたら写真を趣味としていた人たちかもしれない。
 その中でもとりわけ地位が向上したのが、野鳥愛好家ではないだろうか。そんなことをふと考えた。

 バードウォッチャーというと、一昔前までは暗いと言われ、紅白歌合戦のカウントする人たちということで笑い話のネタにされがちだった。
 そこから一転、彼らは一部でではあるものの、「すごい」と言われる存在へと成り上がった。インターネットという野鳥写真を公開する場を得たことで。
 野草やペットならデジカメを持っている人なら誰でも撮れる。けど、野鳥はそうはいかない。いいデジカメはもちろん、知識と観察眼が必要不可欠で、一般人が軽い気持ちで撮れるものではない。よって、すごいですね、ということになる。

 長年のバードウォッチャーたちが突然の地位向上をどう感じているかは分からないけど(そういう知り合いもいないし)、時代の後ろの方を地道に歩いていた人間たちがふとしたきっかけで先頭に立っていたなんてことがときどき起こる。これはそのひとつの例だろう。
 時代の移り変わりって思いがけず面白いなと、にわか野鳥好き野郎の私は思うのであった。
 ああ、鳥を撮りたい。ギブ・ミー・ズームレンズ(できれば500mm以上の手ぶれ防止機能付きのやつ)。

 6月20日(月) 「バランサー礼賛。
            職人芸に拍手」

 この世界のバランスを保つことを仕事とするバランサーがきっといて、その仕事ぶりに私は常日頃感服している。
 大胆で繊細、微妙で大雑把。締めるところは締め、緩めるところは緩める。あやうくバランスを崩しそうなところでも、ギリギリのところで踏みとどまらせ、崩壊させない。
 平和のありがたみを忘れた頃に災害を起こし、絶望の時代に救いを散りばめる。幸せな家庭には不幸のスパイスを効かせ、不幸な人間の頭の中には希望の種をまく。
 そのバランス感覚は実に見事というより他にない。
 たぶん、緻密な計算によってなされてるわけではないと私は思う。言うなれば職人芸だ。持って生まれたバランス感覚と経験で仕事をしてるんじゃないだろうか。
 計算によって組み立てられたものは不測の事態にもろさを見せる。それに、人生が計算通りにいかないように、この世界が計算通りいくはずもない。ある程度の遊びも必要だろう。
 そんなバランサーの仕事に報いるためには、私たちが気づいてあげることだ。そして、できるだけ褒め称えたい。そうすればきっと仕事にも精が出て、ますますこの世界のバランスは保たれるだろう。
 まさに神業。

 6月19日(日) 「名所を訪れる人々。
             失われない好奇心が教えてくれたもの」

 観光地や花名所を訪れているおばさまたちは、とっても元気だ。同じ所にいるおじさん連中や若いカップルなんかよりよっぽど陽気で覇気がある。
 今までそういう場所へあまり行かなかったから知らなかったけど、いわゆるおばちゃんと呼ばれる人たちの好奇心は実に素晴らしいことを最近知った。全然枯れてなどいない。あの積極性には、感心を通り越して感動すら覚える。

 交わされる会話を聞くことなく聞いていると、あの庭園が新しくなってすごくよくなったとか、あの花名所は見事だったとか、今度あそこの名所へ行かなくちゃねとか、とにかく向学心に満ちている。単に暇を持て余してるからとか、友達同士おしゃべりがしたいからとか、それだけではないものを感じる。

 それに、頭でっかちの私なんかとは違って、素直に感動する心を失ってない。きれいな花を見れば、わー、きれいねー、と本心からの言葉を発している。
 そんな姿を見ながら、少し微笑む私。
 おかげでこれまで私の中にあった年配の女の人たちに対するイメージがずいぶん変わった。
 姿勢として見習うべきところが多い。私も負けずに、カメラを持ってもっと駆け回らなければと思った。

 6月18日(土) 「日々を楽しがる人となる。
             悩みたがり屋も、苦しみたがり屋ももう返上して」

 基本は楽しがること。それが大事。
「楽しがる」という日本語はないのだけど、そうとしか表現できないからこれでいい。
 面白がるという言葉はあるのに、楽しがるはないなんて不思議だ。恥ずかしがり屋はあるけど、泣きたがり屋や笑いたがり屋はない、みたいに。

 面白がるというと、人が間違えたり失敗したりするのを離れて見ながらニヤニヤするといった、ちょっとマイナスのイメージがある。
 それに対して楽しがるというと、たとえば子供がお絵かきや積み木遊びに夢中になってるような様が思い浮かぶ。日本語として成立する。いつか正式な日本語として採用してもらいたけど、とりあえず今のところは個人的に、好きなことに熱中してる様子を、楽しがるという言葉で表現したい。
 大人は子供ほど無邪気に楽しがることはできないから、積極的な姿勢として楽しむことをしたい。

 楽しがっている人を見てるとこっちも楽しくなる。だから自分もそうでありたいと思う。
 生きることも、出かけていくことも、写真を撮ることも、映画を観ることも、日々の生活も、今は何でも楽しがれるようになった。
 10年前、5年前と違って。
 こうして毎日書くことも。

 6月17日(金) 「一日1円。
            そうやって46億円も貯めてきた」

 今日を乗り切れば、また明日を始められる。
 今週の週末まで辿り着けば、来週はまた新たな気分でスタートできる。
 今年が終わればまた来年。
 そうやって10年が経ち、20年が過ぎる。
 自分が年を取れば、次の世代が育ち、またその次の世代へとつながっていく。

 どれだけ時の流れを早く感じたとしても、一日ずつしか継ぎ足してない。毎日1円ずつ貯金するみたいに。
 時間に細工を出来ない私たちは、時間とともにゆくしかない。
 すべてが流れ、すべてが積み重なる。
 やがて全部が終わる。でも何一つ消えることはない。何もかもが時間に刻まれているから。

 明日は今日までの続きであり、新しい一日でもある。
 自分もまた、何も減らない。増えるだけだ。一生の最初の日から最後の日まで、私たちは何もなくすことはない。だから、積み上げていくことだけを考えていけばいい。

 6月16日(木) 「よく見ろよ。見てるって。
            本当によく見てるか?」

 写真を撮るようになって、目に映っているものを更によく見ることの大切さが分かってきた。
 よく見ろ、という言葉を人は何気なく使うけど、本当にそうだ。よく見ないと。

 たとえば、学校の美術で描かされた果物の静物画のことを思い出してみる。こんなもの誰が描いたって同じじゃないか、じゃあ自分は誰よりも本物そっくりに描いてやると学生の私は思った。結果的に成績はよかったらそれ以上追求しようとは考えなかったけど、今となっては私の姿勢はまったく間違っていた。
 大切なのは、よく見ることだったのだ。描く前に。

 描く角度は正面だけじゃなく、たくさんある。横から、後ろから、下から、上から。光の角度と影はどうなっているか。どの光が一番よく見えるか、とか。
 そういったことをちゃんと検討した上で、確信を持って視点を選択することが必要だったのだ。たまたま目に飛び込んできたものをそのまま受け止めるのではなくて。

 見るという行為を、反射神経や感覚だけに頼っちゃいけない。もっと意識的でなければ。
 選んだ視点には理由が必要だ。何故その視点を選択したのか説明できなければならない。それができなければ、ちゃんと見てないということになる。

 よりよく見るためには自覚的な勉強と訓練が必要だろう。よい文章を書いたり、歌を上手に歌ったりするためには練習が必要なように。
 私は明日から、そのレッスン1から始めないといけない。

 6月15日(水) 「知りたがり屋には明日がある。
         地球は人間にとって興味が尽きないようにできている」

 地球をもっと知りたいと思ったとき、人はもう死んでる場合じゃなくなる。生きていきて、学んでまなんで、知ってしって知らなければならないから。
 時間はいくらあっても足りない。どこまでいっても学ぶことに終わりはなく、感動が尽きることもない。
 大きな感動を味わえば、もっともっとと求めずにはいられない。
 生きることに退屈を感じてしまう人は、自分のことに夢中になりすぎているからかもしれない。自分の外に目を向ければ、果てしなく興味は広がっていって退屈なんてしてられなくなる。
 地球はとにかく面白い。自然も人間も、自然が生み出すものも人が生み出すものも。
 今日も勉強、明日も勉強。知るってことは本当に楽しいことだ。

 6月14日(火) 「理解の向こう側にあるあらたな能力。
       手に入れる価値のあるものだけど、必要不可欠じゃない」

 物事を理解する上で、全体を眺めることはとても大事なことだ。と同時に、細部に目を向けることも同じくらい大切なことだと思う。どちらがより大事というのではなく両方必要なことだから、優先順位はつけなくてもいい。

 全体の中の部分や個から見た全体という関係性の理解、上から見下ろすこと、下から見上げること、外から、内から、様々な角度から総合的に見ること、それらも大切なこと。
 まずはたくさんのものをよく見ることだ。次に感じること、考えること、想像すること、そうやって理解を深めていく。
 理解が深まれば、理解の向こう側にだって行ける。

 悟るということは達成した状態ではなく、能力を意味する。考えたり想像したりするのと同じように。
 だから、たどり着くことが終わりではなくて、悟るというあらたな能力を身につけることが目的となる。
 ただしそれは、物事を理解するために役立つひとつの能力にすぎない。悟る力を手にしたからといって何もかも理解したと思ったら大間違いだ。

 ところでここで、根本的な問いかけを自らに投げかけてみる。
 物事を理解するって、生きていく上で本当に必要なこと? と。
 私は答える。全然必要じゃないさ、と。理解なんかしなくても普通に生きていくのに困ることはない。
 理解できないよりできた方が退屈しないかもしれないけどね。

 6月13日(月) 「拡散する気持ちの向かうままに。
             反対方向へ同時に行けるのも人の心」

 気持ちが向かう方向がたくさんあったとしても、それは必ずしも矛盾するわけじゃない。
 歴史に興味を持ちながら未来に対して夢を描くことはできるし、同時に現実的であることもできる。外国作品と日本の作品の両方を好きであることはもちろん不自然なことなどではない。人を憎んでいても人を愛することはできるし、俗を求めながら聖であることも可能だ。

 気持ちが向かう方と対極にあるものを最初からあきらめてしまうことはない。自分は駄目な人間だから立派な人にはなれないだなんて考え方は間違ってる。駄目でもあり、立派でもあることは誰にでもできることだし、現にみんなそうだと私は思う。
 自分は文系だから計算は苦手でもいいんだとか、そういう開き直り方もよくない。
 とにかく、自分を把握しようとして限定してしまうことだけはやめた方がいい。もったいない。

 自分がどういう人間かを説明する必要はない。自分の心が向かうすべての方向を知っていればそれでいい。

 6月12日(日) 「タイソン、負けたね。
            うん、負けたな」

 再起をかけた一戦で、38歳のマイク・タイソンは、6ラウンド、自らマットに尻をつき、次のラウンドでコーナーから出てくることができなかった。戦意喪失によるTKO負け。
 試合後のインタビューで、穏やかな表情をしたタイソンは、もう燃えることができない、これ以上戦うことは無理かもしれない、と答えていた。

 同世代最後の生き残りとして苦しい戦いを戦っているスポーツ選手たちがいる。巨人の桑田、清原、大魔神佐々木、サッカーのゴン中山や三浦カズ、F1のシューマッハ、そしてマイク・タイソン。
 彼らの全盛期の輝きを知る人たちは、みじめな姿をさらす前にもうやめればいいのに、と言う。
 でも私は、今の彼らの鈍い輝きにこそ胸を打たれる。彼らが戦っているのは自らの限界だ。下から上がってきた若い連中でも、冷ややかに眺めて勝手なことばかり言う世間の連中でもない。
 ここまで戦うことを許されているのは、彼らがかつて勝負に勝ち続けたからに他ならない。長く現役であり続けることは、それ自体が勲章だと言っていい。

 無敵だった頃のタイソンの姿はもちろん覚えてる。でも、私が覚えていたいのは、今日のタイソンだ。忘れないようにしっかり記憶に刻もう。

 6月11日(土) 「満足して物わかりよく生きて、
             その先に何がある?」

 夕焼け空が見える窓からは、朝焼けの空は見られない。
 それを残念と思うか、夕焼けが見えるからよしとするかで、不満と満足は入れ替わる。
 そして、それを仕方がないとあきらめるか、どうにか朝焼けと夕焼けを両方見ることができる窓を探すかでも、人生は違うものになる。
 ないものは自分の足で探すか、それとも自分で作ってしまうか、そういう生き方もある。
 物わかりのいい人間になりたいと思ってずっとここまで生きてきたけど、そこに限界を感じた今、私は今後、物わかりの悪い人間を目指すべきかもしれない。
 満足することは大切なこと。同時に危険なことでもある。満足は思考と感情の行き止まりだから。
 行き止まりの壁を壊した先にこそ、まだ見ぬ大切なものがきっとある。

 6月10日(金) 「これは目的地へ向かう旅じゃない。
            旅を続けることを目的とした旅だ」

 どんな物語にも終わりがあり、すべての時間には行き止まりがある。
 けど、私たちの物語は、終わるために始められたわけじゃない。続けることがもっとも大切なことなのだ。
 完成を目指してるわけじゃなく、継続を目的としている。

 終わらせないためにはどうすればいいかといえば、それは変化し続けることだろう。進み続ける限り、終わりは来ない。動きを止めたら終わる。
 私たちの旅は、目的地に向かう旅じゃない。故郷に帰るためでもない。続けることそのものが目的に違いない。最近、そう思うようになった。

 いつどんな形で終わりを迎えるのかは分からないけど、私たちは続けることだけを考えていよう。
 死は人生の完結を意味しない。すべての人生は未完成なのだと私は思う。
 本当の終わりは、もっとずっと先にある。

 6月9日(木) 「幸福学の必要。
           手順を教えてくれないと分からないよ」

 大人が子供に教えるべきなのは、幸せになるための方法論じゃないか、と今の年齢になって思う。そんなもの誰も教えてくれなかったけど。
 何が幸せで何が不幸かという基準は人それぞれだから、それぞれが決めればいい。
 料理を教えるように、大人は子供に幸せになる手順を教えるべきだ。

 小中学校で何故、幸福学という授業がないのか不思議だ。道徳や倫理はあるのに。
 幸福というものを中心に、その歴史や人類の戦いを教え、一緒に考えることをしたらいい。大人だってそんなことは分かっちゃいないけど、理論は知ってるはずだ。プロ野球選手が自分では3割を打てなくても、バッティング理論は語れるように。

 賢くなることも、金持ちになることも、恋愛をして家庭を持つことも、みんな幸せになるための前提ではないか。
 考え方やアプローチの方法が逆なんだと思う。幸福が実現したところから逆算して考えないから、幸福の入り口で途方に暮れてしまうのだろう。
 幸せに至るにはこういう道とこういう道がある、そこへ行くにはこういう方法とこういう手段がある。今何をするか、5年後、10年後どうなっていればいいのか、何をしたらまずいのか。それを説明して聞かせれば、中学生だって理解できるはずだ。理屈もなくただ命令されるだけでは納得できるはずもない。

 何を持って幸福とするかは人ぞれぞれ。でも方法論はそんなにたくさんあるわけではない。そういうことをこそ、子供たちに教えてやるべきではないだろうか。
 そうして最後に、私ならこう付け加えたい。
 きみたち、幸福になんてならなくてもいいだよ、と。

 6月8日(水) 「養殖よりも天然。鮮度が命。
            食べ物も、感動も」

 感動が命をつなぐというシステムを理解すれば、日々の過ごし方が分かってくる。命は感動を栄養にして生きている。
 どの食品にどういう栄養素が含まれていてどういうふうに体にいいのかを知っていれば、毎日何を食べればいいのかが分かるように。

 何に感動するかは人それぞれだけど、少しずつ継続して取り込んでいくのがいい。心にビタミンを与えるみたいに。
 心も命も育てるものだ。水も栄養も光も与えなければ立派な心に育つはずもない。ただ与えられるものだけをそのまま摂取していたら、心はどんどん青白く弱っていく。
 今は座っていても何でも手に入る時代だけど、こんな時代だからこそ、もう一歩自分の足で踏み出して、手を伸ばして掴む必要がある。
 心の一番の好物は新鮮な感動だ。

 6月7日(火) 「どんな責任感で悩んでる?
            私たちはこんな程度だ」

 自分を肯定できない日がある。
 そんな日は、たとえば、アマゾンの奥地で暮らす部族の屈託のない笑顔を頭に思い浮かべてみる。褐色の肌と白い歯、大きく見開かれた嘘のない瞳の表情などを。
 彼らと私たちは決して別の人間なんかじゃない。同じ地球の上で同じ時代に生きる同じ人類だ。同じだけの責任感を持って毎日を生きている。
 私たちはきっと彼らを否定しないだろう。彼らも私たちを否定したりはしないだろう。だったら、私たちも自分を否定することはない。

 一体何を思い悩む必要があるのか。
 私たちに責任があるとするならそれは、生きるという一点だけだろう。それ以上を求められてると思うのは、ちょっと自意識過剰かもしれない。自分を過大評価しすぎてる。
 そこまで思ってもまだ自分を許せなければ、もう眠ってしまうしかない。都合の悪いことは全部、明日の自分に押しつけて。明日の自分は、自己肯定派だといい。

 6月6(月) 「うらやましいなと素直に口にできる人は、
          たぶん人からもうらやましがられる人だ」

 他人をうらやましいと思うな、と昔教えられた記憶があるけど、本当にそうだろうか。それは違うだろうと、今の私は反論したい。
 素敵な人がいたら、素直な気持ちで大いにうらやましがるべきだろう、断然。うらやましいという気持ちを抑え込むなんて、なんだか自虐的だし、他人に対する寛大さが足りない。
 誰でも多かれ少なかれ、人にうらやましがられたいと思ってるはずだ。羨望の眼差しで見られれば悪い気はしないだろう。
 ということはつまり、他人をうらやましいと思うことは、その人のためになっているということだ。大げさに言えば人助けしてると言ってもいい。
 うらやましく感じたら、計算とか喜ばせるためとかじゃなく、うらやましいなと感想を口にすればいい。言われた方は満更でもないだろうし、口にすることで思いは形になり、努力を始めるきっかけになるかもしれない。

 大人たちが子供の私に言いたかったのは、人をねたむなということだったのだろう。でも、うらやましいことがそのままねたみにつながるわけじゃない。憧れの気持ちはうまくすれば自分の力に変えられる。
 明日から私も、もっと正直に、わぁ、うらやましいなぁ、と言える人間になろうと思う。うらやましがられる人間になる自信はないけど。

 6月5(日) 「地球人類は特別でも奇跡でもない。
          ありふれた存在だ」

 46億年前、宇宙に地球というひとつの惑星が誕生して、バクテリアから人類に進化するまでに丸46億年かかった。
 それはとてつもなく長い年月だと人は言うけど、逆に目もくらむような猛スピードの変化なのかもしれない。この宇宙の時の流れの中では。
 気づけば46億年、思い返せばあっという間だった。

 条件ときっかけさえあれば、人類は必然的に生まれる。そこに何の不思議もなく、奇跡さえないと言えるだろう。
 今このとき、どれだけ少なく見積もっても、数千億の星に人類が生きている。それぞれの銀河系に人類が生きる星がたった一個しかないと仮定して、だ。
 それぞれが歴史を持ち、人々は毎日暮らしている。
 どの星にも数億やそれ以上の人類だけでなく、無数の生物が生きているだろう。地球に動物や鳥や魚や昆虫や植物が生息してるように。

 生命は奇跡と呼ぶにはあまりにもありふれすぎている。
 何もかも当たり前で、だからこそ宇宙のすべてを当たり前に好きでいたいと思う。

 6月4(土) 「命は波のリズムで。
          この一瞬、この一点の連続が永遠の無限になる」

 命は波のリズムで、寄せては返し、引いては満ちる。
 地球上の生命も、宇宙の星々も。
 生まれては消え、消えてはまたあらたに生まれる。
 何百億年にも渡って、それが繰り返される。
 その壮大な時間のドラマの一点で、私たちは泣き笑い、争い愛し合う。
 それを無意味だとは思うまい。
 時間は一瞬の連続で、空間は一点の集合だから。
 小さな光でも、決して消さないように、最後の瞬間まで灯し続けたい。

 6月3(金) 「全部の目標を捨てるんじゃなくて、
          すべての目標を拾うことでその先が見つかる」

 自分の正しさを証明したいという野望を捨てた先で何を拾えるだろう。
 誰かを見返すことでも復讐することでもなく、恩返しでありそれだけではない。
 愛の完結でもなく、幸せな家族でもない。社会的な成功でも、金持ちになることも違う。人に認められることでもない。自分で認めることでもない。
 思いつく限りの目標を全部捨てた後に残るものって何だろう? 一生をかけるに値することって、本当に何だろうか。
 日々を誠実に生きることっていえばそうなんだけど、やっぱり最後のところが決まらないと努力の方向性を見失ってしまう。
 逆算できない人生って難しい。
 最終目的地点を見つけるには、まだしばらく時間がかかりそうだ。

 いや、そうじゃないのか。全部の目標を達成することこそが目標なのか?
 達成しないうちから投げ出してしまうのではなく、すべてを達成し終えたとき、初めて本当の目標が見えてくるのかもしれない。
 私は大きな勘違いをしていたのか。きっとそうだ。
 自ら正しく在り、社会的にも成功して、幸せにもなり、それでも虚しい心を埋めるものを次に探すことこそが物事の順序というものなんだろう。
 今から一つひとつを達成していくのは大変だけど、まずはできることからしていこう。
 近道なんてないって知ってるつもりだったのに、いつの間にかそんなものばかり探していたようだ。

 6月2(木) 「天使と悪魔は敵同士じゃない。
          役割の名前が違うだけだ」

 いいことをするといい気分になる脳と、悪いことをすると快感を覚える脳と、人間にはふたつのタイプの脳があるのかもしれない。そんなことをふと考えることがある。言うなれば、天使属と悪魔属と、二種類の種族がいるのではないか。

 それは善と悪との対立構造などではなく、それぞれのタイプで、それぞれが役割を果たして共存共栄してると言った方がいい。映画でもイイもんとワルもんがいて初めてドラマになる。
 いい人間だけではこの世界は成立しないだろう。もしそうなったら、正義も善も正しさも概念として成り立たないだろうから。
 そう考えると、悪いことをする人間を一方的に責められなくなる。むしろ損な役回りを演じさせられてることに同情すべきかもしれない。

 私の脳は天使属だ。悪いことをすると罪悪感にさいなまれてちっとも楽しくない。いいことはそんなにしないけど、たまにするとやっぱり気持ちいい。
 自分が天使脳に当たったことを感謝すべきか。

 6月1(水) 「賢いふたりより愚かなふたりで。
           救うことが救われること」

 自分で自分を救う一番簡単な方法は、賢さを超えて愚かになることだ。正しさでは自分を救えない。
 賢いと疲れるし、愚かだとつらい。いったん賢さの山頂を越えて向こう側の愚かさに達すると、肩の力が抜けて生きるのが楽になる。そうなったらこっちのもんだ。あとは生きることを単純に楽しんでしまえばいい。

 でも、もっと確かなのは、それをでやることだ。大愚のふたり組ほど強いものはない。恋愛関係に限らず。
 ふたりが互いの鏡となり、陰に日向に救い合うのがやっぱりいい。一方的な主従関係じゃなく。

 逆に一番よくないのは、二重遭難してしまうことだ。自分が相手を救うつもりがなければ相手に救いを求めてはいけない。
 多くの人が救いを求めることに夢中で、誰かを救おうという気持ちを見失っている。自分にはそんな力などないと思いこんで。そんなことはない、誰でも人を救う力がある。
 誰かを救いたいと思うことができたなら、もうそのときはすでに自分も救われているのだ。自分を救うことは他人を救うことで、他人を救うことは自分を救うこと、それが慈悲の心というものだから。


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