2005.3.31-

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 5月31(火) 「21世紀はいつになったら21世紀的になるだろう。
           私が夢見ていたのは22世紀だったのか?」

 21世紀って、こんなもの? 私が望んだのとは違って、ちょっと歪んだ形で進歩しているように思うんのだけど。
 たとえば最近、店のトイレを使いながら、そんなに至れり尽くせりじゃなくてもいいだろうにと思ったりする。センサーに反応して勝手に水が流れ、便器は温度調整で暖かく、温風タオルで手を乾かす。確かに便利で衛生的だけど、そこまで望んでないのにと思う。技術力の方向性とか、力の入れどころがちょっと違ってないか。

 人間は相変わらず空を飛べないし、お手伝いロボットも当分発売されそうにない。宇宙旅行なんてまったくの夢物語だし、パソコンは空中キーボードや音声入力になる気配もない。車はガソリンを燃やして汚れた空気をまき散らしながらガタガタのアスファルトの上をバウンドしながら走ってる。不治の病も克服できず、冷凍睡眠も実用化されない。
 思えば、楽しみにしていたことの大部分はいまだ実現を見ていない。インターネットの普及は確かに素晴らしいことだけど、夢にまで見たというほどのインパクトはない。個人的には多くの部分で21世紀を残念に感じている。

 でも、悲観するのはまだ早いか。何しろ、21世紀は90年以上もあるのだから。
 せめてあと50年は生き延びて、この目で21世紀の変遷を見てみたい。そうこうしてる内に、人間の寿命も120歳くらいになってるかもしれないし、そうなれば22世紀だって見られるぞ。

 5月30(月) 「夢の続き。
           誰かの夢をまた次に渡すために」

 私たちが見ている夢は、誰かの夢の続きだ。
 親の夢だったり、仲間の夢だったり、過去の人々の夢だったり。
 人間は、すべての生き物の夢の代行者でもある。
 自分だけの夢なんてのは、きっと存在しなくて、私たちは途中の一部を担当してるだけだ。受け継いだ物語に少し書き足して、また次に引き渡す。巨大な絵の一部分を担当してるようなものでもある。
 そういうふうにして私たちはこの世界に参加している。孤独を感じても決してひとりではない。否応なく、世界とつながっている。横だけじゃなく縦に。
 大切なのは、夢を見続けることだ。その責任がある。夢見ることをやめてしまったら、そこでひとつの夢の流れが途切れてしまう。多くの人の夢をそんな形で捨てちゃいけない。

 5月29(日) 「ライバルの必要。
           さらなる輝きのために」

 競馬の日本ダービーで圧勝したディープインパクトの姿を見て、セナ、プロスト、マンセルが去った後のシューマッハみたいだなと思った。
 誰よりも速い。でも、本当に強いライバルを持つことができなかった巡り合わせの不運。
 ライバルを持たない悲劇というものがあるというのをシューマッハで知り、ディープインパクトでその思いは強まった。
 それは決して本人のせいではないのだけど。

 天才や最強は、好敵手を持ってこそ輝きを増す。古くは、王、長島だったり、モーツァルトとベートーベンだったり、ダ・ヴィンチとミケランジェロだったり。セナもマンセルとプロストがいたおかげで真のヒーローになれたのだと思う。

 ディープインパクトはもちろん名馬だと思う。無敗の三冠馬にもなって欲しい。ただそれよりも、ディープインパクトに強敵を与えて欲しいと願わずにはいられない。
 負けてなお強し、という言葉があるけど、鮮烈な負けの姿もヒーローにはよく似合うから。

 5月29(日) 「分かっていないことを分かってる大切さ。
           分かったつもりになってることの危うさ」

 私の中で自信を持てることがあるとするならば(そんなものはほとんどないのだけど)、この世界について誰よりも分かってないということだ。
 分かってるつもりのことがいくらかあるだけで、その他のことは何一つ分かっちゃいない。
 それは謙虚さが言わせることではなく、わずかな自負心から出ている言葉だ。負け惜しみみたいに。
 どれだけ分からないことを自覚できているかが可能性なのだと思う。進歩、成長する余地と言ってもいい。
 この世界に生きてる人間にそんなに差はない。あるのは可能性の差くらいのものだ。
 何でも分かってるつもりになってると、そこで止まってしまう。
 もっとずっと先で何が分かるようになるのかを楽しみにしつつ、それまでに少しでも多くの分かってないことを自覚できるようになりたい。

 5月28(土) 「思い入れがつなぐ自分と世界との糸。
           執着心なしに生き続けることは困難だ」

 思い入れを持つことは、生きていく上でとても大事なことのひとつだ。対象は何でもいい。
 思い入れが世界とのつながりを作り、この世界につなぎ止めてくれる。
 単純に言ってしまえば、好きなことがあればそれが生きる理由になるということだ。
 サッカーやオリンピックが好きなならまた4年後に観るために死なずにいたいだろう。バラが好きな人は冬人生に絶望しても春にバラが咲くまで待とうと思うんじゃないだろうか。映画や本好きならもっとたくさん観たい読みたいと思うだろう。
 人は実人生とは別に、そういう部分でもこの世界とつながっている。この世界で生きるということは、単に人生だけを指すわけではない。もっと総合的なものだ。
 自分の思い入れを自覚すること。それをいつも忘れず、生きることに迷ったときはそこに帰っていくといい。
 人生なんて、基本的には好きなことだけやってればいいんだから。

 5月26(金) 「実験台としての役割。
           エッセンスの組み合わせ」

 それぞれの分野の専門家が抽出した純粋なエッセンスを、私たちは分けてもらっている。ほとんどタダ同然で。
 本やテレビやネットその他から。
 でも、何の代償も払わず、ただ受け取っているかといえばそうではない。私たちの仕事は、いわゆるモニターだ。何百種類、何千種類のエッセンスを自分の中に取り込んで、それらを組み合わから何が出てくるか、実験台になっている。
 それが私たちの役割だ。

 トライアル&エラー。成功もあれば失敗もある。学問同士の組み合わせからまったく違った学問が生まれることもある。
 エッセンスの組み合わせは何億通りも何兆通りもある。
 そして突然変異が生まれる。瓢箪から駒。鳶が鷹を生む。
 そう、この突然変異を偶然の積み重ねから生み出すことこそが私たちの使命であると言い切ってもいい。
 それは専門家には生み出せないものだ。非専門家の異種交配によってしか。

 専門家は専門家の仕事を、非専門家は非専門家のなすべきことをする。どちらか片方では作り出せない大事なものがあることをお互いに自覚しておきたい。

 5月25(木) 「あのときはあの場所に。
           今はこの場所に」

 今いる場所から、かつて自分がいた場所を眺めてみると、ずいぶん遠くまで来たもんだなと思う。
 成長という意味ではなく、時間に流されただけでもなく、居心地のいい場所が変わったことで、居場所が変わってしまった。
 今自分が憩う店と、学生時代にたまっていた店がまったく違うところになってしまったのと同じで。
 たとえば、もう自分の中に文学は存在しない。それを論じる気分にはなれないし、他人の名言からも気持ちが離れた。
 詩の心は多少残ってるかもしれないけど、誰かの詩を読んで心を揺さぶられるようなこともほとんどなくなった。
 今自分の中で心地よく響くのはそういったものではない。
 昔の自分ならそれを堕落と呼んだだろうけど、そういうことじゃない。
 人は居場所を変える。意識的にも、無意識的にも。
 私はいつでも幸せな方に向かっているだけだ。幸福に引き寄せられるように。ただそれだけ。

 5月24(水) 「単純な幸せ。
           知らないより知っていたいあれこれ」

 花や鳥の名前を知ってる人でありたいなと思う。そうじゃないから、憧れとして。
 それは何かの役に立つとか、誰かに自慢したいからとかいうんじゃない。名前を知っているとういう事実が単純に嬉しいからだ。クイズ番組を観ているとき、答えられないより答えられる方が楽しいのと同じで。

 人間同士でも、顔見知りと知り合いでは大きく違う。相手の名前を知ることで初めてその存在が自分の中で現実感を持つようになる。
 自分と自然の関係にも同じことが言えるんじゃないだろうか。

 写真を撮るようになって、それまで知らなかったことが、毎日少しずつ知っていることに変わっていく。今はそのことにささやかな幸せを感じている。
 人間は複雑な存在だけど、幸せの構造は案外単純なものだ。

 5月23(火) 「あきらめないことは簡単なことかもしれない。
           あきらめるという難しい選択もときに必要となる」

 あきらめないことは大切なこと。でもときにはあきらめることも同じくらい大切なことだ。
 あきらめは敗北かもしれないけど、次につながる負けでもある。負けを認めることで前へ進めることもある。

 人は長い時間をかけていろいろなことをあきらめる。そうやって納得して前進する。
 いつまでもあきらめなければ、負けにはならなくても、ずっとその場で停滞して動けない。
 努力を続けることと、だだをこねることは違う。

 生きることに行き詰まりを感じたときは、何かをきれいさっぱりあきらめるというのもひとつの手だ。かなわない恋や夢や目標などを。
 着てる服を全部脱いだら別の服を探そうとするし、ふさがっていた手が空けばまた何かを掴まえようとする。
 あきらめないってのを言い訳にして、実は休んでるだけだったりするし。

 5月23(月) 「頑張る理由さえあればという言い訳。
           まずは頑張る理由を頑張って探さないとね」

 ずっとこう思って生きてきた。
 頑張る理由が欲しい。頑張らなければいけない必然性さえあればいくらでも頑張るのに、と。
 でもその理屈はやっぱり間違っているのだろう。間違ってると認めたくはないけど、どうやら認めざるを得ないようだ。
 努力する理由を見つけることも、人生における重要なことのひとつに違いない。何もする前に、言い訳みたいに他人に頼って誰かのせいにしようなんて、考えたらずいぶん身勝手な話だ。そんなものは正しい論理であるはずがない。

 ずいぶん長い勘違いだった。
 明日からは夢から覚めたみたいに頑張る理由をまず探そう。人を当てにせず自力で。
 でもやっぱり、頑張る理由がある人はうらやましいなと思ってしまう気持ちが完全に消えたわけではない。その人にしてみたら、うらやましがられる覚えはないと言うかもしれないけど。

 5月22(日) 「自分が誰かに気づいて欲しいと思うなら、
           まず自分が誰かに気づいてあげないと」

 この世界に生きる人たちに光を当てることはそんなに難しいことじゃないかもしれない。
 気づいてあげさえすればいいのだから。
 人知れず行われてる努力とか、感謝もされない親切だとか、報われない想いとかに。
 誰もが心に闇を持って生きている。その闇は心を食い尽くそうと狙っている。私たちは日々そうならないように戦っている。でも、ひとりではときどき負けそうになる。
 心の闇に小さな光を灯すのは、天よりも人がなすべきことなのかもしれない。闇は人の力によって案外あっけなくかき消されてしまうものだ。
 一番つらいのは、自分の存在を誰にも気づいてもらえないことだろう。逆に言えば、気づいてあげることが人助けになる。
 明日、あなたや私は、道行く人の何人の人生に気づいてあげられるだろうか?

 5月21(土) 「疑念が幸せを妨げる。
           最後までこいつとの戦いに終始するのだろうか」

 人を幸せにして、何の疑念も抱かずに生きていけたらどんなにいいだろう。
 結局、どこまで追求しても答えは出ないようだということがだんだん分かってきた。正解に終わりはなくて、掴まえたと思ったとたんにまた逃げていく。この世界の歴史を見渡してみても、誰ひとり、行き止まりまで行った人間はいない。大天才も、大偉人も、まだ先がある。

 だから、どこかで自分の立つ位置と向く方向を決めるしかないのだろう。妥協やあきらめとは言わないけど、ある程度の割り切りは必要だ。
 他人への批判や自分に対する非難はいったん棚上げして、自分は本当はどうしたいのかを自らに問いかけてみる。そこで出た答えに殉ずるしかない。
 自分を幸せにすることなのか、社会的に成功を収めることなのか、他人に尽くすことなのか、それは各自が決めることだ。何がいいとか悪いとかじゃない。

 私は、---優等生的発言に聞こえたとしても---自分が好きな人たちを幸せにすることで還元される幸せが一番満足感を得られるのだと思う。もし、疑念を差し挟まずにそうできれば私はきっと幸せになれる。けど、それは実に難しいことなのだ、たえずつきまとう疑念を振り払うことは。

 5月20(金) 「わりと普通に使う実感という言葉。
        でもその意味を知るのはずいぶん後になってからだ」

 昔も今も、経験至上主義じゃないけど、実感するの大切さみたいなものを最近よく考える。
 実感、実感する、実感がわかない。平和を実感する、生きてる実感がわかない、親になって親のありがたみを実感した。

 分かっているようで曖昧な実感という言葉の意味。
 五感に触れるものすべてが実感というわけでなく、実感はその一部に過ぎない。見ていても見えていなければそれは実感とは呼べないし、経験したことすべてが実感となるわけでもない。
 胃の腑に落ちる、という表現があるけど、あれが実感というものを一番上手く表した言葉かもしれない。胸のあたりでつかえていたものが腹の底までストンと落ちる感じ。

 実感を得るためには生きなくてはいけない。それも長い年月を。
 正しさというものはすでに全部この世界に存在していて、あとはそれを実感できるかどうかだけだ。人に与えてもらったり教わったりするものではなく、自分自身で。

 5月19(木) 「自転車操業的借金生活。
           いつか大きく成長して完済します」

 生まれてきたことは天に対して大きな借りを作ってるということで、その借りはそう簡単に返せるほど小さいものじゃない。
 毎日少しずつでも成長した姿を見せることが利子を返すことに当たるのだと思ってる。
 自転車操業的生き方だとしても、なんとか焦げ付かせることだけはしないようにしたい。
 天は決して貸しを帳消しにしてはくれない。こちらに返す意志がないと分かれば厳しく取り立ててくるだろう。命を取られるくらいならまだしも、魂まで取られてしまったら、もう次はない。
 今は成長を待ってくれているだけだ。もちろん、貸した分に利子を付けて返してもらうために。
 いつもニコニコ現金払い、とはいかないこの人生。でもいつか、どーんとまとめて返してやる。あ、いや、返したいです。どうにかこうにか(ごにょごにょごにょ……と、口ごもる)。
 すみません、あと10年だけ待ってください。うっ、せめてあと5年。

 5月18(水) 「神頼みの形を借りた自己願望確認。
           願い事がしっかり見えているかどうか」

 神社にお参りしたり、寺に願掛けなんかしても何の意味もないし、そんな他力本願でどうする、と昔の私は思ってた。若くて無知だったあの頃。
 でも、それはもったいないことだなと最近は思うようになった。少しだけ愚かじゃなくなった今。

 あれは、神頼みの形を借りた自己確認だと思えばいい。今自分が心底したいことや、叶って欲しい願いが何なのかを知るという意味で神頼みには意味がある。
 日常生活の中では、案外自分の願望というものが曖昧になってるものだから。
 今一番何がしたくて何が欲しいんだって訊かれて1分以内にスラスラ全部言える人は稀なんじゃないだろうか。でも、神社の前で何を願おうか1分間も考え込んでる人間はめったにいない。そういうことだ。

 ただ頭の中で思うだけではなく、神社仏閣にこちらから出向いていって、手を合わせて頭を下げて願うところに価値がある。
 なりふり構わず拝むことで願望が真剣だということを示すことにもなる。
 願いは具体的であればあるほどいい。天が願いを叶えてくれるかどうかはともかく、自分にできることをはっきりさせるために。

 5月17(火) 「運命は後ろからやって来る。
           戦うか、逃げるか」

 過去からの亡霊が復讐しにやって来るか、祝福を言いに訪れるか、それは分からない。まだ決まってなくて、これからの自分の行い次第だろう。
 誰にも恨まれる覚えなどない、などという主張は通用しない。他人に恨まれなくても、かつての自分に恨まれる可能性は誰にでもある。
 過去の自分の言動で身を滅ぼす人間のなんと多いことか。もちろん私も他人事ではない。

 人は誰もが、他人に恨まれる宿命を持ち、自分の過去に復讐される運命に晒される。
 運命も宿命も、未来で待ち構えているのではなく、過去から追いかけてくるものだ。戦って勝つか、逃げ切るか、助かる道はその二つのうちのどちらかしかない。

 5月16(月) 「尊敬できるのは、
           自分ができないことをしてる人」

 不可能に思えることはたくさんあるけど、その中で一番無理だと思えるのが女として生きることだ。
 無理、無理、絶対無理。
 自分が女だったらどうだろうとあれこれ想像してみると、あれもこれも不可能としか思えない。感覚的な部分で。
 男は大変、女は結婚すればいいんだから楽なもんだなんてとんでもない。主婦としての生活も私には耐えられそうにない。
 男であることをすごく気に入ってるわけではないけど、どちらかといえば男の方が楽でいい。自由度も高い。
 だから私は女の人に敬意を表している。自分にはできなことをやってる人たちだから。

 5月15(日) 「見失ってる軽さと重さ。
           それとこれって同じ重さなの?」

 世界で起こっている重要な出来事と、どうでもいいことが、横並びで同時に起こっていて、それを同じような重さ(または軽さ)で受け入れている私たち。
 そこに人間の面白さや不思議さがあり、同時に駄目なことかもしれない。
 あまりにもごった煮で、どこまでもとりとめがなさすぎて。

 今日のニュース一覧を見てみると分かる。世界規模の深刻な問題と、芸能人の内輪ネタが同じ扱いになっていて、それをおかしいとも思わず私たちは受け取っている。頭の中でどんな処理がなされてういるのか分からないけど。
 それが人間の愛すべきところさと分かったようなことを言って軽く笑い飛ばしてしまっていいものなのかどうなのか、思うことがある。
 などとちょっと真面目に考えたすぐあとで、テレビのバラエティー番組を観て笑い転げている私がいる。
 平和って一体なんだろう?

 5月14(土) 「大人は子供より勇気がある生き物なの?
           それは、可能性をなくしたとき、知ることになるだろう」

 人は大人になるにつれて勇気を持てるようになるのだろうか? それとも、だんだん臆病になるものなのか?
 自分では少年の頃に比べたらずいぶん心が強くなったような気がしてるけど、本当にそうだろうか。より臆病になることで、身を守る方法を身につけただけじゃないのか。

 最近ひとつ分かったことがある。それは、可能性をなくしていくことが大切で、そこに大人の勇気というものが存在するんじゃないだろうか、ということだ。
 昔は可能性が狭まっていくことがすごく怖かった。限界を知ることが。それが幼さというものだろう。
 でも、そうじゃなくて、可能性がなくなった先にこそ、あらたな可能性が生まれることを知った。

 行き止まりの断崖絶壁から暗闇に向かって飛び降りることができるかどうか、そのときこそ本当の勇気が試される。
 希望にすがり、可能性を抱えていては、勇気を試す機会さえ持てないまま終わってしまうだろう。

 5月13(金) 「一日生きて5行の言葉が見つからない日。
           いい一日も駄目な一日に急降下」

 今日は全然悪い日ではなかったし、反省すべき点もこれといってなかったのに、最後にきて一気に沈んでしまった。
 たった5行の言葉が見つからない。
 一日生きて、わずか数行の言葉も出てこないなんて。信じられないけどこれが現実。
 駄目な一日に成り下がってしまった。
 悪いことがなさすぎたからかもしれない。

 5月12(木) 「歴史の深みは想像では追いつかない。
           折り重なる時間の上に立っていることを思う」

 人が生きてきた歴史は、私の浅い想像なんかよりも、もっとずっと深い。
 その深みは、たとえば、偉大な人間の日常に潜んでいたり、紀元前と呼ばれる世紀に生きた人たちの暮らしであったり、知られざる天才の生涯などを飲み込んだ深さだ。
 歴史の闇は深く、どれだけのぞき込んでも私たちの目では見ることができない。
 文明を手に入れた人類の数千年は、思うほど短い年月じゃない。その歳月の中に存在する出来事や感情や思考、想像など全部が人類の歴史だ。
 人類の歴史は広がるよりも深まった、この地球の上だけで。
 私たちは今、その深いふかい闇の上に立っているのだということを忘れないようにしたい。

 5月11(水) 「やっと生きてる感じに共感する。
           死んだら役立たずになってしまう」

 道をおぼつかない足取りで歩くお年寄りと小さな子供。
 そういう光景を見て何も感じなかった年頃があり、邪魔に思えた時期があり、憐れむ気持ちを通り越して、今はありがたいことだなと思うようになった。尊敬に値する。
 有り難い、有り難う、ありがとう。
 素直な気持ちで応援したいし、見てるとこちらも励まされる。
 ただ生きるという姿勢において共感するものがある。
 そうだ、私も単純に生きればいい。寝てばかりいる飼い猫のように。遊び疲れて眠る子供のように。年金で家族の生活を支える高齢者のように。
 生きていさえすれば何かの役には立っている。死んでしまったら何の役にも立てない。
 だから明日も図々しく生きるのだ。

 5月10(火) 「窓の外の世界。
           今日から明日へ向かうための力」

 生まれつき体が弱くて、入院中のベッドの上から窓の外ばかり見ている12歳の少女がいる。
 いや、そういう知り合いがいるというわけではなく、私の頭の中にいて、彼女に対して何が言えるだろうとよく考える。
 小賢しい人生論なんかじゃ何の役にも立たない。口先だけの慰め言葉や励ましでは、閉ざされた心に届くことはない。
 そして思ったのが、窓の外の様子を、写真と言葉で伝えようということだった。この世界に存在する、たくさんの生き物や美しいものを見せてあげることが、彼女の生きる希望につながるんじゃないか、と。
 今私が彼女に言えることは、明日へ向かってくださいということだ。希望は明日にしかないから。
 その明日に向かうための手助けができれば、それは素敵なことだ。私にとっても。

 5月9(月) 「正義の味方が戦うこの世。
          知らないだけで、彼らは今日もどこかで戦う」

 世界のどこかに、本物の正義の味方がいて、今この瞬間も、悪の秘密結社とか悪者とかと激しい戦いを繰り広げているに違いない。
 人知れず。
 そうでなければ、こんなにも悪意に満ちたこの世界が、曲がりなりにも平和であるはずがない。
 私たちが安心して眠りにつけるのは彼らのおかげだ。
 時々起こる大事故や天災は、正義の味方が負けたとき、かもしれない。
 ガンバレ、正義の味方の人たち、私は遠くから応援しているよ。
 今日も一日ご苦労さんでした。おやすみなさい。

 5月8(日) 「心の埋まった場所にあるのは、
          元の心と同じものじゃないらしい」

 トカゲのしっぽは切られてもまた生えてくるけど、あのしっぽは偽物なんだそうだ。しっぽの形をした代用品で、生きていないらしい。
 確かによく見ると、色も質感も違う。
 同じようなことが人の心にも言えるかもしれない。
 心に空いた大きな穴も時間が経てば埋まるけど、それは元の心と同じものじゃない。代用品で埋めているだけだ。
 人の心には再生機能があるけど、元通りになるわけじゃない。傷跡も残る。
 生きるほどに私たちの心は継ぎはぎだらけだ。
 一度空いた大きな穴は、やっぱりもう前と同じになることはないんだなと、最近実感する。
 5月7(土) 「この旅は楽しいし続けたい。
          でも目的地が分かっていない」

 結局、おまえは何がしたいんだ?
 と自らに問いかけてみても、答えは返ってこない。言葉を重ねれば重ねるほど、想いから遠ざかってしまう気がして。
 ただ、はっきりと言えることは、未知に対する好奇心が私を明日へ向かわせてるということだ。それだけは間違いない。確信を持って言える。
 けど、それ以上のことは自分でも分からない。
 たとえば、何かの世界一になるということも最終的な目的とは思えないし。
 じゃあ、結末を知りたいのか?
 と訊かれたら、私はどうするだろう。きっと、黙って首を横に振るだろう。結末を見届けることができたとしても、それがやりたいことのすべてではない。

 私は終わりのない旅を続けたいだけなんだろうか。どこへ行きたいという当てもなく。

 5月6(金) 「世界は光で、光は色だ。
          もっと陽気に」

 この世界の明るい面や、人間の善良な部分をもって、よしとしたい。
 暗い部分や邪悪な面は存在してるから駄目だという理屈ではなく。

 この世界はいいところだ。人生は楽しい。
 そう思えるまでにずいぶん時間がかかったけど、今は本当にそう思っている。
 一人でも多くの人間がそう思えれば、世界はよりよい方向に向かうと信じたい。
 そのために自分に何ができるかを考えたい。
 理論で言いくるめても意味はない。
 理屈を押しつけて黙らせるなんてすべきじゃない。
 時間はかかっても、自分が善良で人生を楽しんでる姿を見せることが、結局私のできるすべてなのかもしれない。

 宗教も学問も哲学も芸術も、暗いのはよくない。もっと陽気で健康的でなくては。
 この世界の本質は光であり、色であるということを教え、学び、感じ取らなくてはいけないのだと私は思う。

 5月5(木) 「しんがりの戦いは背中を見せない。
          でもこれは負けるための戦いじゃない」

 自分は、自分を守るしんがりの役割をきっちり果たしたいと思う。
 真っ先に自分を放り出して逃亡したりするようなまねだけはしないように。
 最後まで自分を守るのだという強い意志を持ち続けたい。
 たとえ完全に負け戦と決まっても、最後尾で戦う。
 それが、自分の存在を支えてくれている人たちに報いることになると信じる。
 そのためには、自分を信頼する気持ちと、挫けない心が必要だ。

 5月4(水) 「楽なだけじゃ楽しくない。
          楽じゃないけど楽しいことを見つけよう」

 自堕落に過ごすと楽だけどやっぱり楽しくはない。
 と怠けた一日の最後に気づく。
 でもそのことを再認識するために、たまには自堕落に過ごす一日を持つのも悪くない。
 ごくたまには、なら。

 明日はちゃんと生きます。

 5月3(火) 「おぼえていますか?
          忘れることは残酷なことだ」

 忘れずに覚えていることが人のためになるなんて、昔の私は知らなかった。
 いや、それが分かったのはつい最近のことだ。
 過去を振り切り、記憶を捨てることで前へ進もうとあがいていた頃の私は、今思えば若くて愚かだった。

 生きるということはそういうことじゃない。全部抱えていくことだ。なんでもかんでも捨てればいいってもんじゃない。
 遅くなったけど気づいてよかった。

 私は今、思い出すという作業をしている。物置倉庫で古い写真や手紙を探すみたいに。
 出会った人たちが消えることはない。ただ忘れてしまっているだけから、思い出せばいい。
 覚えていることは、大げさにいえば、その人の存在を正当化することにつながると私は思う。

 5月2(月) 「情熱惑星。
          地球は冷たい星じゃない」

 才能も大事、根気も大事、何かを成し遂げるには時間も金もかかる。
 けど、本当に大事なものは、当たり前なんだけど、やっぱり情熱なのだと思う。
 そのことが最近になって感覚的に分かったような気がする。

 平熱ではなく、微熱程度でもなく、めまいがするほどの高熱が必要だ。何かをものにしたり、何者かになるためには。

 情熱。分ければ情と熱。気持ちと心は別のもので、両方が燃えていなければならない。
 何かに情熱を傾けながら生きてる人はあまりいないかもしれない。けど、好きなことなら誰もがあるだろう。だったら、そこに熱を注ぎ込めばいい。自分が持っているめいっぱいを。
 そうすればきっと、思いは目に見える形になる。

 5月1(日) 「セナはもういない。
          でもあのときあの場所に確かにセナはいた」

 5月1日。11年経っても、いまだにセナに片想いをしてる人のなんと多いことか。
 この日は失ったものの大きさを思い出し、静かに過ごそうと思う。

 どうしてセナのことを語るとき、たいていの人は感傷的になってしまうのだろう。あるいは、感情的に。
 それは、レース中の事故死が原因ではないと私は思う。もちろんそれもあるだろうけど、それよりもむしろ、セナの存在の特異性によりところが大きいんじゃないだろうか。彼ほど人をセンチメンタルな気持ちのさせる人はいなかった。生きてる間も、死んでからも。
 私もまた例外ではない。

 あの世でアイルトン・セナという人に会いたいとはあまり思わない。人としてのセナも好きだけど、やはりF1ドライバーとしてのセナが私は好きだった。
 そして強烈に思うのは、セナのいるF1が観たいということだ。
 11年経ってもその思いは変わらず私の中にある。

 4月30(土) 「今日が終わればすぐにでも明日を。
           速すぎず遅すぎないスピード感」

 明日に向かって前のめりになっているときは調子がいいとき。自分の中にそういうバロメーターがある。
 一日の終わりが近づくと、すぐにでも明日を始めたくなる。このまま睡眠を省略して。
 今日についての反省もないままに。
 これは追いかけてるのか、逃げているのか?
 ときどき自分でも分からなくなる。
 ただ、駆ける感じのスピード感が心地いい。小走りよりも少し速いくらいが。
 それ以上速いと追い立てられてるような気になるし、遅すぎるともどかしい。
 デッドポイントを過ぎて、このままどこまでも行けそうな気がするのは、やはり幻想だろうか。

 4月29(金) 「幸せじゃなくても楽しければいい。
           幸せでも楽しみがなくては耐えられない」

 ここまで生きてきた中で、最高のときも最低のときも、楽しさだけはいつも自分の中にあった。
 そのときどきで何かしら楽しみがあったからこそ、ひどく絶望的な気分になったときでも耐えることができたし、退屈せずに済んだ。
 幸せかどうかよりも、楽しいかどうかが大事だった。それはこれからも変わらないだろう。

 人生がこの先どんな風に転び、どんな形で終わったとしても、あの世で、人生は楽しかったか、と訊かれたら、間髪入れず、うん、うん、と二回うなずいて、楽しかったです、と答えられる。
 幸せだったか、と訊ねられたら、うーん、としばらく考えてしまうだろうけど。

 4月28(木) 「人の失敗は自分の失敗。
           自分の失敗は人の失敗」

 他人の失敗があるから、人生は80年やそこらでなんとか格好がつく。
 自分がいちいち転んで覚えていては身が持たないし、それでは時間がかかりすぎる。200年あっても足りない。

 この人間世界は、失敗の見本市だ。どれでも好きな失敗を参考にすることができる。
 それらの失敗を他人事とせず、我がこととして、ありがたく頂戴して成功へと転化させればいい。
 失敗例も立派な人類の共有財産だ。

 誰かのしでかした失敗や間違いは、自分の身代わりになってしてくれたんだというくらいに恩に着るべきだ。
 そして、自分の失敗は誰かの役に立つのだと喜びたい。

 4月27(水) 「あきらめがいいって美徳じゃないし、
           自分のためにもならない」

 あきらめることで身を守るテクニックを、知らず知らずのうちに身につけてしまうけど、それが人生を退屈にさせている大きな要因になっているような気がする。
 きらめれば楽になる。腹も立たないし悔しくもない。生活も精神も平和を保てる。
 でもやっぱりそれじゃあ面白くないと思うのだ。

 あきらめないことで人生は面白くなる。
 子供時代が楽しかったのは、あきらめる以前に、未知のことに対する不安と期待が胸一杯にあったからだろう。
 あの頃の気持ちを取り戻すためにも、もう少しだけあきらめないでいたい。あと一回だけ、あと一日だけ。
 そうやって先延ばしにしよう。
 あきらめのよすぎる物わかりのいい人間にならないようにしたい。

 4月26(火) 「彼はあの場所にとどまったまま。
           こちらは動いている」

 かつて感銘を受けた誰かの考えが、本当は正しくなかったと気づけるところまで生きたい。
 それが成長するということだから。

 子供は親を超える義務があり、今を生きる人間は過去の人間の行いを正す責任がある。
 歴史は常に否定すべきものだと私は思う。人類の歴史が今現在続いている以上、かつての完璧さが今の完璧ではないから。

 私たちは絶え間なく変化し続けている。否応なく。たとえ今日に満足していても、ここにとどまることはできない。必ず明日へ向かわなければならない。
 今日は昨日から見た明日で、今日という日は昨日までの自分を否定するためにある。
 一生同じ人間に憧れ続けるなんてのは間違いだ。
 彼はあの場所にとどまったまま動いてないのだから。こちらは動いているのだから、距離はどんどん離れるはず。
 憧れの人を追い越すことは彼らの想いを引き継ぐことだ。
 ずっと後ろから仰ぎ見続けていては彼らの苦労も報われない。

 4月25(月) 「正しさって不幸なものだ。
           幸せになるためにはみんなで正しくならないと」

 この世の中で一番不幸なのは、自分が正しいと思っている人間かもしれない。
 そんなことをふと思う。
 テレビの中で、自分の考えの正しさを声高に主張してる姿を見たりしたとき。

 自分は正しいのだという前提で生きようとすれば、こんなにもままならない世界はない。思い通りにならないことが多すぎる。それを不幸と呼ばずに何と呼べばいいのか。
 だから人は、自分が正しいと思えば思うほど不幸になっていく。

 私は自分が正しいなんてちっとも思ってないから気楽なもんだ。思い通りにならないことが当たり前だと思っている。
 その中で折り合いを付けつつ、喜びを見いだして生きている私は、かなり幸福な部類に入るのだろう。
 あくまでも主観的な意味においてだ。
 テレビの中の彼らは私を幸福だとは決して思わないだろう。
 私もそれを主張しようとは思わない。

 4月24(日) 「左を見て、右を見て、答えを探す。
           答えは脳の中のどこかにあるはずだ」

 左脳で答えの出ないことは右脳に聞け。と頭が言った、ような気がした。
 空耳か?

 左脳は自分の方が正しいに決まってると言い張るだろうけど、どちらの判断が正しいかは時と場合による。
 左脳の論理に従うのが正解のときもあれば、右脳の感覚に頼った方がいいこともある。

 考え事をするとき、顔や視線を左方向に向ける人は主に左脳でものを考え、逆右を向く人は右脳で感覚的にものを捉えているという。真偽のほどは定かではないけど、一理あるような気もする。
 あるいは、右を向く人はものごとを客観的に捉える傾向があり、左を向く人は内向的な性格という説もあるらしい。
 私はうつむいて視線を前に落として考える。右も左も向かない。視線も。
 それは左右両方使ってるのか、別のところを使っているのかは分からない。意識としては前頭葉にいっているような気もする。

 これからは左を見て右を見てもう一度右を見て答えを出すことにしよう。
 ついでに後頭葉も使おう。

 4月23(土) 「ここまで引きずってきた問いが今日また少し重くなる。
        そのうちこの問いのカタマリはどこかで捨てることになりそうだ」

 正しいということがどういうことはだいたい分かってきたつもりだけど、その先がどうにも分からない。
 見えていたはずのゴールに近づくほどに遠ざかっていく。悪ふざけをされてるみたいに。

 もっと先へ、もっと早く、と焦れば焦るほど足はもつれて進まない。
 自分を励ましても励ましても、励ましきれない。気持ちが挫けそうになる。
 いつもぎりぎりで踏みとどまるのが精一杯だ。

 完璧な人生のその先が思い描けない。
 そこで上がりじゃなければ、それ以上何をどうすればいいのか?
 実際に生きることは人任せにしても、知ることだけはどうしても自分でしたいと思う。分かりさえすれば納得するから。

 すべてを理解できない自分の脳にもどかしさを感じつつ、今日も結論は先送りとなる。

 4月22(金) 「許さなくてもいいのなら許さないけど、
           許さなきゃしょうがないんだから」

 絶望しながら許すことを、ここ数年間で学んできた。時間をかけて少しずつ納得させられたとも言えるかもしれない。
 希望を抱きながら許さないことよりも、あえて希望を捨ててでも許すことの方が大切なのだと今は思う。
 結局許さなければしょうがないのなら、最初から許してしまった方がいい。

 許すためにはある種の絶望感が必要となる。信じるなんていう殊勝なものではなく。
 正気を保ちながら許すなんてことは私には不可能に思える。無関心というのではないのなら。

 人は過去を許し、自分を許し、他人を許すしかない。それしか道はない。
 許さないところに未来はないのだから。
 少なくとも、許さないことは人のすべき仕事ではない。天かどこかの関係者に任せておけばいい。

 私にできることは、許しながら待つだけだ。本当の意味で許し合える世界が実現する日を夢見ながら。

 4月21(木) 「幸せな退屈。
           今ここでしかできないこと」

 今この時代の日本という国の中で、私たちは自由気ままに好き勝手生きているけど、それはいっこうにかまわないと私は思っている。現に許されているし、何の問題もない。
 巡り合わせの問題で、今この場所は人の歴史の中で重大な局面にはないから。

 ときに人は、世界のために生きることを強要される。自らの意志とは無関係に。
 それは不幸かもしれないけど、必ずしもそうではないかもしれない。そこでしか輝けない人間というものもいるから。
 乱世で活躍する人はたいてい平和な世の中では役に立たない。

 今はそうときじゃない。だから自分のために生きていいのだ。
 この幸せな退屈を物足りなく思おうと、幸運だと思うと、状況は変わらない。個人の意志で変えられるほど世界は簡単でもない。
 ただ、時代の流れと局面を読み違えないことは大切だ。いつでもどこでも身勝手に生きていいわけではない。

 今の季節がいつまで続くか、それは分からない。もしかしたら、明日で終わってしまうかもしれない。
 その時はその時。退屈から逃れられると私は喜びたい。

 4月20(水) 「知りたいという気持ちが明日へと向かわせる。
           生きていなきゃ知ることができない」

 いかに充実した人生を送るかというのも、もちろん大事なことなんだけど、それはいくつかある大事なもののひとつに過ぎなくて、個人的には知るということに重きを置きたいと思って、日々を過ごしている。

 知るということがどういうことなのか、知ることにどんな意味があるのか、それはあまり重要じゃないし考えない。ただ単純に知りたいと思うだけだ。
 今まで知らなかったことを知ったら嬉しいし、知ることは楽しいことだから。

 今日という日は、昨日までの自分が知らなかった一日。
 明日は今の自分が知らない日。
 そう考えると、大人げないほどときめく自分がいて、照れ隠しで走り出したくなるのだ。

 4月19(火) 「着地点はどこでもいい。
           着地できさえすれば」

 時の流れで失ってしまったものは多いけど、その代償として手に入れたものは、失ったものと見合うだけの価値がある。
 わらしべ長者みたいに上手く事は運ばないにしても、私たちも手に入れたものをどんどん別のものに代えていく必要がある。
 それは、これで終わりじゃないから。
 もうこれ以上のものはいらないとはならないから。

 そうやって、最終的に手にしたいものは、さて、何だろう?
 究極的な私たちの着地点というものはどこにあるのだろうか?
 そもそも、そういうものがあるのかどうかも、上手く説明できない。
 案外、詰まらないものだったりするのかもしれない。巡り巡って、野生生活に戻るとか。

 地上の生命が行き着く果てに何があるのか、興味がある。
 どんな形であれ、最後を見届けることができれば納得できると思う。
 絶滅でゲームオーバーというようなことではないような気がする。

 この生命のために今自分が果たせる役割があるのかどうか、他人事を思わずもう少し考えてみたい。

 4月18(月) 「忘れて思い出せないというより
           再現できないもどかしさ」

 忘れてしまったというんじゃなく、思い出したいのに思い出せないようなもどかしさが、いつも私の中にある。
 いや、そうじゃない。思い出せないのではなく、再現できないのだ。
 自分にとって本当に楽しかったこととか、理想の女の子の顔とか、ずっと昔に誓ったこととか、そういうことを上手くイメージできない。
 さっきまで見ていた夢を思い出せないみたいに、頭の中で再現できないことがいくつかある。
 軽い記憶喪失みたいなことは、案外誰にでも起こっているのかもしれない。

 イメージする力が弱くなっているのか、それとも元から足りなかったのか。結局、それらは再現できないまま先へ進むことになる。
 あらたなイメージが見つかればいいけど、失ったイメージを超えることができるかどうか。
 でもたぶんそれば、かつてのイメージを求めることが間違いなのだろう。私たちがもうあのときの私たちじゃないから。
 昔の自分の頭の中を再現することは、もうできない。

 4月17(日) 「相手を尊敬するにはまず、
           自分が尊敬される人間になる必要がある」

 一番不幸な関係は、互いを軽蔑し合う関係だ。
 逆に言えば、一番幸福な関係は、互いを尊敬し合う関係ということになる。
 だから私たちは、尊敬される人間になることを目指し、相手を尊敬することを学ぼう。
 それはどちらもとても難しいことだけど、自分の悪い部分を知って、相手のいい面を知ればなんとかならないことはないはずだ。

 憎むことは間違いじゃない。相手が自分より上ならば。
 憎しみや対抗心は生きる力となり、向上心や努力を導き出す。
 けど、軽蔑はいけない。そこからは何も生まれないから。

 すべての人を好きになることはできないにしても、あらゆる人に敬意を払うことは不可能ではないと信じたい。

 4月16(土) 「たぐり寄せたら切れていた糸。
           それは育てることを怠ったから」

 つながっているつもりが、いつの間にか糸が切れていた、ということがある。サイトのリンク切れみたいに。
 糸が切れればこちらの言葉を届ける術はなく、向こうからのメッセージも届かない。
 人生における別れは、自分が気づいている以上にあるらしい。

 こっちが友達と思っていても、向こうはそう思ってないかもしれない。
 同じ家に住んでいるのに気持ちが切れていることもあるし、もしかしたらそのことを自覚できていないかもしれない。
 人のつながりというのは、思っているよりも儚い。全部が全部そうじゃないけど。

 危ういと知っているなら、人とのつながりを大切にしなければならない。
 常に働きかけて、途切れないように。
 花に水をやるように、思いやって枯れないようにしよう。
 人と人とのつながりは、きっと育てるものだから。
 細い糸を縒るように。

 4月15(金) 「境界線を越えて。
           上手にすり替えて自分を上手くだます」

 楽しみと義務感が入れ替わってしまうことがあって、そうなると喜びだったはずのものが苦痛に感じたりする。
 でもそれは必然的な流れだ。引き返そうとせずに先へ進んだ方がいい。
 義務感をもう一歩進めて使命感へとすり替えれば、苦痛にも耐えられるようになる。

 人が求める一番の満足感は、好きな人に喜んでもらうということに帰結するのだと思う。自分を100パーセント満足させたとしても、どこか満たされない思いが残るんじゃないだろうか。
 人生に虚しさを感じている人は、喜ばせたい誰かを持たない人だろう。
 喜ばせたい人がいるなら、使命感を持って、今日も明日も乗り越えられるはずだ。
 苦痛さえも喜びに代えて。

 4月14(木) 「あなたのお名前なんてえの?
           名前を知ればもう友達同然」

 草花や生き物の名前なんて知らなくても、生きていく上で困ることは何もない。花は花だし、鳥は鳥だ。
 でも、それはちょっと不幸なことかもしれない。同じクラスの生徒の名前を知らなくても関係ないやというようなものだから。

 友達になりたければ、まず相手の名前を訊ねるだろう。
 なんて名前?
 名前を知れば、友達への第一歩になる。それは草花や鳥でも一緒だ。あっちは名前を名乗ってくれないので、こちらが調べなくてはいけないという違いはあるけれど。
 名前を知れば愛着もわくし、友達になったようなものだ。
 友達は多ければ多いほどいいし、相手のことを知れば知るほど親しくなれる。

 キミの名前は何ですか?
 そういう名前なんだ。以後よろしく。

 4月13(水) 「長いながい不幸との戦い。
           敵は内側にあり」

 生きること、もしくは成長するというのは、不幸に耐える力を身につけることなのかもしれない。
 論理的に考えることも、知識を身につけることも、経験を積むことも、不幸から逃れたいがためのような気がする。
 好きこのんで成長したい訳じゃない。成長せざるを得ないだけだ。生き抜くために。

 もし人に知恵がなければ、私たちはとても不幸な生き物だ。自然も克服できず、力の強い動物と対等に渡り合う体力もない。速くも走れないし、寒さをしのぐ毛皮も身につけてない。
 人は何でも持っているような気がしているけど、持っているのは知恵だけと言ってもいいのかもしれない。

 人類の歴史を振り返ってみても、それは不幸との戦いだった。
 自然と戦い、病気と戦い、人間同士で戦い。
 それらはすべて、人から見た不幸と言っていいだろう。
 私たちが戦っているのは、紛れもなく自分たちの内側にある不幸だ。外側の他者が本当の敵なのではない。

 子供の頃は幸せだったなどと言うまい。大人になって不幸になったとしたら、それは物事が理解できるようになったからだ。
 でもだからといって無知であっていいとは思わない。
 ものを知らない純粋さより、知った上での浄化こそをよしとしたい。
 私たちは賢くなることで不幸になったかもしれない。けど、不幸に打ち克つ知恵がある。それが生きる意味。
 戦わなければ不幸に負けておしまいだ。

 4月12(火) 「行き止まりの向こうに。
           限界を超えるための昨日、今日、明日」
 一刻も早く行き止まりまで行こう。明日と言わず、今日行けるものなら今日中に。
 到着を先延ばしにする必要なんて全然ない。
 むしろ、そこまで行かなきゃ話が始まらないのだ。
 人生は自分の限界を超えるためにこそ、あるのだから。
 壁の向こう、谷を超えた先に、目指すべき場所がある

 4月11(月) 「咲く花は去年の約束。
           散る花は来年の約束」

 桜の散りゆく様を見て、そこに儚い美しさと潔さを感じていたのはもっと若い20代の頃で、今は今年も忘れずに咲いてくれたことに感謝する気持ちが強い。
 そして、また桜の季節に自分が立つことができたことをとても嬉しく思う。
 桜よ、今年もありがとう。

 散った桜の花びらと、顔をのぞかせた青葉を見ながら、もう心は来年へと向かっている。
 また必ず、来年も会おう。
 そう、今は桜が散りゆくのを見ると、私は約束ということを思い出す。
 去年の約束を果たせてよかった

 4月10(日) 「毎日が自己記録更新じゃなくていい。
           明日のための今日であれば」

 毎日最善を尽くすことはいいことだけど、それは必ずしもベストでなければならないということではない。
 毎日ベストを積み重ねて、自己記録を更新し続けるなんてことはできるもんじゃない。
 今日までの流れを受けて、明日以降に対する伏線であればいいのだと思う。
 だから、今日が昨日よりも駄目であってもかまわない。それが単に怠けた結果ではなく、下準備だったり、新しい試みの結果でありさえすれば。
 積極的な失敗ならむしろ喜びたい。
 今日は今日という日にしかできないことを最優先にすること。
 それが大切。

 4月8(金) 「簡単に思えて難しい。難しく思えて簡単。
          その止め所が難しい」

 突然簡単に思えたり、急に難しく感じたり。
 どっちが自分の本当の感覚なのか、ときどき分からなくなる。
 あまりの不確かさによろめいて倒れそうになる。平衡感覚を失ったみたいに。
 夢を見つづけることも、そういうもののひとつだ。
 恋愛関係を保つこととかも。
 楽しみでやっている趣味でさえ。
 続けるというのはつまりそういうことで、一定の速度やバランスを保てないから難しい。

 人生を終えたとき、私たちはどっちだと思うのだろう。
 生きることは案外簡単だったなと思うか、人生は思いのほか難しかったと感じるだろうか。
 終わった時点が結論なのかもしれないけど、どちらかに決めたい。

 あなたは生きることが得意ですか?
 という問いかけがあってもいい。
 でもその問いに対して、得意ですと答えるのも苦手ですと答えるのも、どっちもなんとなく嫌みっぽい。
 軽々生きてる人間には反感を抱きがちだし、苦手というのを言い訳にいじけてる人を見ると苛立ったりする。
 だからこの問いかけには模範解答がある。こう答えればいい。
 生きることは苦手だけど、でも好きです、と。

 得意なことをやって生きる道と、苦手なことを克服する道とある。
 簡単に生きるか、難しく生きるか、と言い換えてもいい。
 どちらでもいいけど、好きであることが大切なのだと思う。
 生きることを好きになれば、難しさも楽しみに変えることができるから。

 4月7(木) 「いいものたくさん、悪いものたくさん。
          そこから生まれる大切なもの少し」

 いいものをたくさん見て、駄目なものをいっぱい知って、そうして、自分にとって大切なものが少し見つかる。

 日々は結晶を生み出すための大事な材料だ。
 生きることでそれが燃え、純度が高まり、透明になる。

 自分の好きなことだけしていては硬度が弱まる。
 砕けない結晶を生み出すためには、マイナスの要素も半分必要になる。

 自分にとって本当に必要で大切なものは、ほんのわずかなのだと思う。
 けどそれは、膨大な無駄の果てにしか見つからないものなだ。
 こんなことしてて意味があるんだろうかと疑問に思うようなことこそ積極的にやっていきたい。
 この世界のくだらないことを全部知ることができたら、くだらなくないことが何なのかが分かるだろう。

 4月6(水) 「時の囚人から時の旅人になるまで、
          あとどれくらいの歳月を必要とするのだろう」

 人の脳は、一生の出来事をすべて覚えているという。
 忘れてしまうわけではなく、思い出せないだけだ。
 それはきっと魂に刻まれ、二度と失うことはない。
 もし、私たちが肉体を失い、意識だけの存在になって、生きている間目にしたことや体験したことや感じたことすべてを呼び起こすことができたとしたら、どれくらいの時を耐えることができるだろう?
 百年? 千年? 1万年?
 記憶が多ければ多いほど長い年月に耐えられそうな気がする。
 魂というのは、つまり記憶そのものだ。

 私たちは時間の囚人だ。
 時の旅人でさえない。
 時間に縛り付けられ、時間に運ばれ、時間の外に出ることができない。
 けど、今の私たちは、時間の縛りから逃れることができたとしても、そこで存在するすべを知らない。時間の外の世界ではきっと生きられない。どうすればいいのか想像できないから。想像できないことは能力にないということだ。
 更なる成熟を待たねばならない
 そして、そのためにはやはり時間が必要ということになる。

 時間を克服したり、自在に操ったりすることは、いつかできると思う。
 遠い未来の世界において。
 ぼんやりとながら人間はそういうイメージができるから。
 想像できることは必ずすべて実現できるものだ。

 今はまだ、移ろっていよう。
 時間に守られながら。
 時間の内側で、まだやるべきことがたくさん残っている。
 すべての変化を自分に刻みつけつつ、時の住人であることを楽しみたい。

 4月5(火) 「恋のある方へ。
          わずかに一歩。その一歩が」

 恋のある日々を送っている人が半分、恋のない日々を送っている人がもう半分。
 それがこの地球。
 どちらが幸せな毎日を過ごしている?
 どちらが苦しい思いをしている?
 それは、両方とも恋の側にいる人たちだろう。
 恋は喜びと苦しみの両方で成り立つものだから。

 恋をしてる時期が特別な人がいて、恋をしてない時期が特別な人がいる。
 それは別の人種なのかもしれない。
 主に水の中で過ごしている生物と、主に陸で活動してる生物の違いのように。
 人は恋などなくても生きていけると言い、恋のない人生なんて価値がないと言う。
 どっちも本当だ。それぞれが好きな方を選べばいい。どちらも間違いじゃない。

 恋はいいものだ、と言い切ることはやっぱり難しい。やっかいなことも多いから。
 追いかけようとすると逃げられたり、逃げようとすると追いかけられたりで、どうにもままならない。
 あの頃の高揚感が懐かしくもあるけど、恋することに消極的になっている自分も感じている。
 今の気楽さに安堵する気持ちも強い。

 ここで無意味な問いかけをたわむれにしてみる。
 もし、あのときに戻れたとしたら、あのときと同じように自分は恋をするだろうか?
 また苦しむと分かっていても?
 二度目ならあのときよりももっと上手くやれるだろうか?
 分からない。
 分からないし、やっぱり無意味な問いかけだった。

 私は人生の半分で恋をして、半分で恋をしてないような気がする。
 そろそろまた、向こう岸に移動してもいい頃かもしれない。
 どっち岸にも、いいことと悪いことと半分ずつだ。

 4月4(月) 「神様の贈り物は日払い。
          私たちはその日暮らし」

 あるスペイン映画の中で、老人がベッドの中で窓から差し込む朝陽を見ながら、
「もう朝か。また一日生きた。神様の贈り物だ」
 と静かにつぶやいた。

 私たちの命が、神様の贈り物だとしたら、それはもしかしたら一括払いではなく、日払いなのかもしれない。
 ふとそんな考えが頭に浮かんだ。
 全命前渡しでは無駄遣いしてしまう恐れがあるから。

 今日の分の命、至らないながらもできるだけのことはしたい。
 何よりもまず自分を幸せにすることが最大の恩返しになると思う。
 子供が親に出来る最高の親孝行が幸福になることであるように。
 そして、ほんのちょっとでいいから世のため人のためということを考えたい。
 たいしたことじゃなくて全然かまわない。母親の肩たたきをするとか、公園に落ちてるゴミをひとつ拾うとか、人前では明るく振る舞うとか、そんなことでいい。
 かすかにでもこの世界をよくすることができないだろうかと考えることが大切だ。ひとつでいいから、意識して何かをしたい。

 私たちが個人として出来ることはたかがしれている。
 与えてもらった命の重みに値するような恩返しなんてできやしない。
 でも出来ないからといって何もしないのは恩知らずの恥知らずだ。
 たとえ何も出来なくても気持ちだけは持っておきたい。

 世の中がどんなに悲惨で汚れていても、それとは関係なく、個人の問題として恩に報いることはできるはずだ。
 感謝することは大事なこと。
 でもそれだけでは充分じゃない。感謝の気持ちがあるなら行いで示さないと。

 一日を生きて、寝る前のひととき、どうですか? 見ててくれましたか? と問いかけながらいたずらっぽく微笑むことができるくらいの毎日を過ごせたらいいなと思う。

 4月3(日) 「尊敬される国民は世界中探してもない。
           尊敬される地球人になれるといいけど」

 尊敬すべき人はどこの国にもいるけど、尊敬すべき国民というものはない。
 日本国も含めどこの国も、残虐か愚かかのどちらかだ。もしくは両方か。
 何故、優れた人間が集団になると駄目になってしまうんだろうか。それがとても残念だ。

 いずれ人は国家というものを捨てるときが来るだろう。
 ずっと先か、意外と近未来なのか分からないけど。
 ただそれは、全世界的な大災害や世界戦争が起きるとか、宇宙人が攻めてくるとかしないとそういうことには、たぶんならないんじゃないだろうか。
 これまでの歴史の流れでは、もう来年あたりから国家というものをなくしてしまおう、などという運動が起きるとは思えない。
 多くの人が国家という概念に疑問も持たずに生きている。あるいは、疑問を持っていても実際になくそうという行動に出ることはほとんどない。
 そこに今の人類の限界があるという言い方もできるだろう。

 人類は、他の生物同様、絶滅しないために生きている。進歩、成長したいがために生存してるわけではない。そういう積極的な理由で存続してるわけではないはずだ。存在の理屈は後から付け足したに過ぎない。
 そういう意味では、今の世の中を根本から改善する必要があるかというと、私はないと思う。絶滅する具体的な原因がまだ見えていないから。
 逆に、根本的な世直しがあってもかまわないとも思う。いったん、絶滅の危機に瀕して、そこから新しい世界を作り直してもいい。20世紀末でそうあってもよかったし、今そうなってもいい。

 かつて日本は藩というものに分かれていて、それを疑問に思わなかった。
 けれどやがて日本というひとつの国家になった。
 同じことが世界規模で起きても不思議ではない。
 ただ、そのためには外部の大きな存在が必要となるだろう。黒船のようなものが。
 地球がひとつになるためには、本格的な宇宙時代を待たねばならない。
 そんな場面に自分が立ち会えたら嬉しいなと思うけど、果たして間に合うかどうか。

 私たちはいつか、宇宙の中で尊敬される地球人になることがだろうか?

 4月2(土) 「進退窮まることの幸運。
           不運続きなら前進あるのみ」

 反省よりも前進。
 悩みは動いて振り落とす。
 そうやって誤魔化していけば、どうにかこうにか最後まで辿り着けるんじゃないか。と、思いたい。
 希望的観測だ。でも希望があるなら、それにすがろう。
 前進する余地があるなら、とりあえず前へ詰めよう。理屈は後から考えて適当に付け足すことにして。
 人の人生、なかなか行き止まりまで行こうと思っても行けるもんじゃない。
 もし、もうこれ以上、二進も三進もいかないというところまで行き着くことができたなら、それはむしろ喜ぶべきことだ。アガリのようなものだから。
 行き止まった後で、ゆっくり反省会を開けばいい。
 それまでは、目先のことにだけとらわれていよう。
 今日のことを思い返すより、明日のことを考えたい。
 今日から明日へと踏みだし、一歩前進。

 4月1(金) 「充電切れ直前の電動歯ブラシみたい。
           眠たさには勝ち目がない」

 頭の中が、充電池が切れる直前の電動歯ブラシくらいしか動かないので、今日はここまで。
 電池切れで動きが止まれば、ただのブラシ頭。
 使い古してくたびれた歯ブラシが、外側に向かって両手を広げてるみたいにお手上げ。
 眠たさには勝てない私。

 3月31(木) 「記憶の距離感のズレ。
           修正可能なのか、このままズレ続けるのか」

 遠い記憶を呼び起こしたとき、たまにそれが昨日のことだと気づいて驚くことがある。
 いいことなのか悪いことなのか分からないけど、最近一日の終わりに今日という日がすごく遠いものに感じる。
 昨日のことははるか後方の出来事だ。
 頭の中できちんと再現できない。

 それだけ毎日新鮮さを積み重ねられているという言い方もできるのかもしれないけど、それだけではなく、なんとなく自分の中で感覚が狂っているようにも思える。
 たとえば先週どこへ出かけたか思い出そうと思っても上手く思い出せないとか。
 または、先週行ったと思う場所が先月のことだったりする。
 これも一種の老化現象だろうか。記憶と出来事の距離感が狂ってきている。
 懐メロの歌詞は覚えてるのに最近の曲をすぐに忘れてしまうみたいに。

 歳を取るということは誰にとっても未知のことで、戸惑うことも多い。それは私だけではないはずだ。
 みんな口にはしなくても、どこかで感覚のズレを感じてるのことだろう。
 絶対につまずかないようなちょっとした段差でつまずくみたいなことが、脳の中でも起こっている。
 そのうちまたこのズレを修正できて、新しい感覚に馴染んでいくんだろうか。

 老化に限らず、人生というのは聞くのと自分で体験するのとでは大違いだ。 たいていのことは自分で実際に生きてみないと分からない。
 知識として知っていることと、体験として理解することはやっぱり全然別ものだ。
 そういう意味で、生きることは面白くもあり、興味深くもある。
 せっかくなら長生きしてたくさんの自分の変化を知りたいと思う。
 そう、私は興味本位で長生きしてみたい。
 駄目になっていく自分というのも面白そうだ。


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