2005.2.28-

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 3月30(水) 「不幸と幸福の背比べ。
           不幸より幸福が少しだけ上回ればいい」

 楽しいけどつまらない。
 つまらないけど楽しい。
 それが日常。

 両方から引き合っているというより、背比べをしてる。
 どちらか頭を出した方を自分の感情と感じているだけだ。
 100パーセントつまらないことはたぶんないし、純粋な楽しさもない。
 両方合わせて100になるわけではなく、合わせて200になることもあれば、20にしかならないこともある。
 人はそういうふうに相反する二つの感情を併せ持つ。

 愛と憎しみ、憧れと対抗心、うらやましさと自己満足。
 好きと嫌い。
 矛盾だけど矛盾じゃない。それは当たり前のこと。

 こういう心のメカニズムを知っておくことは大切なことだと思う。
 自分の表面上の感情に自分がだまされないために。
 反対側に隠れている感情も引き出したい。

 私たちは不幸であり幸福でもある。
 不幸を打ち消し、幸福だけにしようとするのは間違った方向性だ。
 クラスの中の駄目な生徒を切り捨てるみたいなことはしないでおきたい。
 不幸も幸福も自分の身内として、不幸は不幸のまま、幸福を増やすことを考えればいいのだと思う。
 幸福が不幸を上回ればいいのだから。
 ほんのちょっとだけ。

 3月29(火) 「馴染みのないテーマは健全と善良。
           でも案外心地いい」

 最近のメインテーマは、健全であること。
 サブテーマは、善良であること。
 そういう方針で日々を過ごしている。

 といっても特別なことをしてるわけではない。
 なるべく太陽に当たるとか、たくさん歩くとか、見知らぬ人とすれ違うときに挨拶するとか、人に頼まれた面倒なことも嫌がらずにするとか、その程度のことだ。
 でも、今まで健全なんてテーマで過ごしたことはないから、けっこう新鮮に感じている。
 健康的なのもやってみると案外面白いものだ。

 30代も半ばを過ぎると、だんだんくたびれてきたり、急速に若さを失ったり、染みついた汚れに馴染んでしまったりしがちだ。
 そういう自然の摂理への反抗心が私の場合、健全ということなのかもしれない。
 ただ、10代の頃のように、無意識な健康さではなく、意識的に善良を演じることに意味があるような気がしている。
 健康的な生き方なんてカッチョ悪い、と昔は思ってた。けど、格好悪さを乗り越えた先に、若い頃感じていたのとは別の格好良さがあると今は信じている。

 とにかく、陽気で元気であることだ。
 馬鹿みたいに映ってもかまわない。
 当面、この方針でいくことにする。
 さあ、明日も張り切っていきましょう。

 3月28(月) 「まずは自分を幸せにしてみせること。
           そこから始めよう」

 どうすれば幸せになれるかじゃなく、幸せであるにはどうしたらいいかを考えたい。
 それはもう心の持ちようでしかないわけで、どうやってそういうふうに自分を持っていくのかという方法論を確立したい。できるものなら。
 満たされているだけでは幸せにはなれないし、ないものだらけでも幸せと思えることもある。
 実はそこには方程式のようなものがあるのではないか。恋愛感情にメカニズムがあるように。

 幸せな心理状態であることが何故必要かといえば、その方がずっと事態が好転しやすいからだ。
 幸福であることがすべてではもちろんない。
 たとえ最高の幸福を手に入れたとしても、そこで人生が終わるわけではない。おとぎ話のようにめでたしめでたしでは終わらない。

 でも、幸福は正義なのだと私は信じている。
 美人や才能が正義であるように。
 美人や天才には誰もがなれるわけではないけど、幸福なら誰にもチャンスあ
る。チャンスがある以上、チャレンジしてみない手はない。

 幸福を馬鹿にするのは幸福になってからでも遅くない。
 幸せにもなれない人間が幸せのことを悪く言うのは、結婚できない人間が結婚のことを悪く言うのに似ている。
 負け惜しみを言う前に、幸せになってみせればいい。

 まずは幸福を目指すことだ。その先に必ず何らかの光がある。あるいは希望が。
 人を幸せにする前に、まず自分を幸せにしたい。
 世のため人のためどれだけ役に立っても、自分を幸せにできなかった人生というのは違うんじゃないかと私は思う。
 犠牲者になっちゃいけない。
 犠牲者にならないためには幸せになることだ。
 そうすれば、人に対しても世界に対しても優しい気持ちになれるだろう。

 3月27(日) 「夜景を見てきれいと思えない人よりも、
           普通に感動できる人でいられたらいいなと思う」

 たとえば、街を見下ろす丘から夜景を見たとき、明かりを見てきれいだと思うか、闇に思いを馳せるかで見える景色の意味が違ってくる。
 素直に光だけを見て感動できることは素敵なことだ。
 その光に意味を見いだしたり、光と影のコントラストにこの世界の意味を感じたりすることは賢いことかもしれない。
 私は、同じ景色を見てそれぞれが違った想いを抱くことの不思議さを思う。
 見ている風景は同じでも、見えているものは違っているものだ。

 何を見て何を見ないことが幸せなのかということを考えてみる。
 見ない方が幸せなこともあると言うけど、本当にそうだろうか?
 見たくないものまで見せられることは不幸なのか?
 どこまで見れば私たちは満足できるのだろう?

 見たい、知りたい、分かりたい。
 人の興味は尽きることはない。
 他人のものの見方を自分のものにしようとしたり、自分の見えるものを人に押しつけようとしたりする。
 何を見て何を見ないかを個人の自由意志に任せてしまっていいものなのだろうか?
 知識が増えれば見えるようになるものも増え、賢くなることでかえって目が曇ることもある。
 人の目にはいつも同じものが見えているわけではない。

 男がドライブで夜景のきれいなところに連れて行く。夜景がきれいねと彼女が喜び、そんな彼女の姿を見て男が喜ぶ。
 単純で幸福な光景。
 その闇の中で何が行われているかを思いもしないで。
 けど、夜景を見てそこに悲しみしか見えないとしたら、その人は幸せな人生を送っているとは言えないだろう。あるいは、幸せになりたくない人なのかもしれない。

 宇宙から見た地球は、青くて素晴らしくきれいな星だ。
 私たちはその姿だけを見ていたら幸せなのだろうか?
 いや、そうじゃない。
 地球に近づけば近づくほど汚さが目に付き、人間を知れば知るほど醜さを知る。
 けど、人の心の美しさを知るのは、遠い宇宙から見ていては不可能だ。人の輪の中に入り、更にその内部まで入り込んでいかなければならない。
 美しさは、遠くにもあり、近くにもある。中間にもある。それを全部知っていればそれに越したことはない。

 私たちは光と闇を知っている。理屈ではなく。
 だからこれでいいのだと思う。
 夜景はきれい。それに間違いはない。
 見たいものだけ見て幸せになればいいさ、と少し投げやりな結論で今日を終える。

 3月26(土) 「地球を代表するのは大天才じゃなく、
           優秀さと幸福を兼ね備えた人であって欲しい」

 最近また、ヴィンチ村のレオナルド君が世界的なブームになっているようだ。
 私はまだ読んでないのだけど、ダン・ブラウンの小説『ダ・ヴィンチ・コード』の影響が大きいのだろう。

 私もダ・ヴィンチは昔から好きだし尊敬もしてる。紛れもない大天才だとも思う。
 ただ、いくら天才だからといって、無条件で賞賛するのはどうなんだろうという気持ちも同時にある。
 人としてのダ・ヴィンチを、人類の代表としていいものかどうか。
 なんとなく、みんな彼の多彩な天才性に幻惑されてしまっているように見える。

 まず第一に人として暗すぎないか。
 ヒーローというには天真爛漫さが足りない。
 それはイエス・キリストにも共通して言えることで、私が彼らに対してしっくりこないものを感じるのはそのあたりなんだろう。
 私は幸福の側に属する人種が好きだ。
 人としてどれだけ優秀であっても、不幸では駄目なんじゃないのか。
 彼らの作品や存在が多くの人を幸せにし、救いになっているではないかといえばそうなんだけど、何かもっと進んだ形で人としての正しさがあるように思えてならない。

 たとえば、優秀な宇宙人が地球にやって来て、友好的に話し合いたいから、きみたちの中でひとり、代表を出してきて欲しいと言ったら、私たちは誰を出すだろう?
 キリスト?
 不幸の影がつきまといすぎる。
 ダ・ヴィンチ?
 絵を描いて説明するには時間が掛かりすぎるし、美は説明できても人の素晴らしさをきちんと伝えられるか疑問だ。
 モーツァルト?
 確かに音楽は伝わるだろうけど、悪ふざけが過ぎる。
 もちろん、代表として推すのは人それぞれの意見や考えがあってすんなり決まることはないだろう。
 たとえば私なら、坂本竜馬なんかどうだろうと思う。
 まず陽気なのがいい。偏見も少ない。人の意見も聞ける。人間のいいところをたくさん知っているし、誰に対しても物怖じせず言うこともできる。そして何より、幸福なところがいい。

 もちろん、坂本竜馬が歴史上最優秀だとは思わないし、必ずしも賢いとは言えないかもしれない。
 けど、彼の人となりには、私たちが目指すべき人としての正しい生き方のヒントがあると思うのだ。
 その時、その場で精一杯燃えて、未来を目指すという姿勢こそが、理屈を超えて人として正当なんじゃないだろうか。
 地球人のよさを異星人に知ってもらうには彼以上の人間は他にちょっと見あたらないような気がする。

 たとえば、一万年後か、十万年後か、百万年後か、今の人類は絶滅して、次の人類が生きているとき、私は彼らにこう思って欲しいと願う。
 ホモ・サピエンスのやつらは知識も足りなかったし愚かで馬鹿なことばかりやってたけど、陽気な生き物でけっこう幸せに暮らしてたらしいぜ、と。

 私たちはここ数千年、数万年の間、賢くなることに必死だった。
 この先もそれは基本的に変わらないのだろうけど、更に先では、どうすればもっと単純に幸せに生きられるだろうかということを考えるようになるんじゃないだろうか。
 22世紀か、もっと先かは分からないけど。
 賢くなることは、幸せになるための手段だということに人類が気づくのには、もう少し時間がかかりそうだ。

 3月25(金) 「今はどんな時代なのか?
         100年後を生きる人たちに私たちが贈れるものは何?」

 誰かが言った正しいことは、私が同じことを言う必要はないし、それを実践して証明してみせる責任もない。
 これまで何度も聞いたような正論を、勝ち誇ったように私に向かって言われても困る。
 それより別の正しさを模索しているんだから、邪魔しないで欲しいと言いたい。
 言わないけど。

 文明が私たちに証明してくれた正しさと間違いを踏まえた上で、私たちは何をすべきか考えたい。
 一度目の愚かさは許される。
 でも二度目、三度目となると、そう簡単にお許しは出ない。裁きの対象となる。

 まだまだ発見されるべき正しさはたくさん残っているはずだ。
 隠れてる間違いももちろんあるに違いない。
 歴史を重ねた上で初めて知る正しさもあるだろう。
 ただ、間違えていけないのは、私たちは抑えの切り札などではないということだ。単なる中継ぎピッチャーの一人に過ぎないという自覚はいつも持っているようにしたい。
 この立場、状況をよく見極めて、自分にできる最大限のことをするのが私たちの仕事だ。

 今の時代の土台は明治にあると思うけど、明治から大正、昭和を経て、今の平成の日本で私たちは何ができるだろう?
 まだ昭和の続きをやっているような気分がどこかにないだろうか?
 平成の時代としてこういうことをやっていくのだということを、ここらへんでしっかり掲げるべきだ。
 戦争もなく、不況とはいえ貧乏でもなく、さりとて未来に大きな希望も抱けないこの時代。成熟と言えば聞こえはいいけど、それよりも停滞感の方が強い。
 華やかな文化が花開いてるわけでもない。
 自由なのに自由の使い道を知らないか間違った使い方をしている。
 でもそんなに悲観的になるほどひどいわけでもない。

 私たちは今何がしたいんだろう?
 この時代ならではの正義とは何か?
 いろんなことが曖昧になっている世の中で、今限定の正しさというものを個人的に見いだしていかないといけない。
 かつての日本では、その時代の気分として、ある種絶対的な正しさを持っていたように見える。
 それが正しかったかどうかは別にして、はっきりと向かうべき目標がみんな分かっていた。
 今はそれがない。みんなで共有できる正しさが。
 全体主義は危険だと言うけど、スポーツにおけるチームワークのような共通理解は必要だ。
 それを今後、なるべく早く見つけていかないといけない。
 たとえば100年後、この時代を振り返ったとき、平成って何々の時代だったよなぁと、みんなが思えるような時代性が欲しい。

 3月24(木) 「途切れた恋の続編を望む声。
           続編も再放送もいらない」

 かつて、途中で途切れた恋を心に抱えたまま日々を生きている人がいる。
 その人数を数えることはできないけど、きっと思ってる以上にたくさんいるのだろう。
 私もそんな人たちに何人か出会った。
 彼女たちは、新しい恋を求めながら同時に恐れていた。自分の中で想いが薄れてしまうことを。
 そして、途切れた続きが明日にでもまた再開することを無意識のうちに願っているようだった。そんなことはあり得ないと知りながら。

 人がドラマや映画の続編を求める心理は、そういうことなのかもしれない。
 現実では、一度完結したエピソードの続きなどそうあるものではない。
 だからせめてドラマで観たいと願うのか。
 楽しい物語はいつまでも続いて欲しいと。

 私は未練たらしい人間だと思うけど、でも続編はいらない。現実でもドラマでも。
 一度観たものは二度観たくないし、一度経験したことはたとえどんなに楽しいことでも二度目はもういいと思う。
 それよりも、まだ観たことがないドラマを観たいし、経験したことがないことを知りたい気持ちが勝る。
 初恋も、最高の恋も、もう続きはない。再放送もいらない。
 ただ忘れないでいられたらそれでいい。
 悲しいのだとしたら、終わった恋を悲しんでるのではなく、次の恋が見つからないことだ。

 彼女たちはまだ古い恋を抱えたまま暮らしているんだろうか。
 それとも新しい恋を見つけることができたのかな。
 ふとそんなことを思ったりする夜がある。
 もし、電話の呼び出し音が鳴っても、たぶん私は出ない。
 いや、やっぱり出てしまうだろうか。

 3月23(水) 「夢見る力が必要だ。
           時代が進めば進むほど」

 人の夢見る力がこの世界を浄化する。
 夢を見ない人間が汚した世界を、夢見る人がせっせと掃除をしている。
 けれど、一人、二人と脱力してやがて夢を見ることができなくなる人間が出てくる。
 そして今度は自分が汚す側に回ってしまう。
 それがこの世界の図式だ。

 今の世界が汚れているように感じるのは、夢見る人が減り、人の夢見る力が弱くなったからだろう。
 けど、まだまだ捨てたもんじゃない。きちんと夢を見てる人も大勢いる。子供も、大人も。
 私もその中のひとりとして、わずかでもこの世界をきれいにする力になりたいと思っている。

 夢と現実のギャップに苦しむとか、いつまでも夢見てないで現実を見ろとか、そんなことがよく言われる。
 でも、夢を実現させること以外にどうやってこの世界をよくできるというのか?
 きれい事では世の中渡っていけないというのが現実だとしたら、それは現実の方が間違ってる。
 間違っていると分かってることは少しずつでも直していけばいい。

 この先、ますます夢見ることが難しい時代になっていくと思うけど、私はあまり悲観していない。
 今の状況は、いろんなことが晒されすぎていて、その結果、想像力を働かせる余地が昔に比べて減ったことが要因になっているのだと思う。人が賢くなったからではない。
 これは必然的な流れだ。この先で人はもっと行き詰まる。
 そのときこそ、人は想像力をもう一段進化させる必要に迫られるはずだ。
 その時代で人は、今とはまったく違う夢を見ることになるだろう。
 そして、汚れきった世界をもう一度本気で掃除しようという気になるに違いない。

 人間は、本来持った感覚として、あまりにも汚れた世界では生きられないようにできている。
 だから私は心配していない。
 人が夢見ることをやめることは決してないだろう。どれだけ時代が進んでも。

 3月22(火) 「人生に起こらない、起こりうること。
           期待はずれでも悲しまないよう」

 人生に起こりうることはいくつもあるけど、それらが当たり前のように起こることは案外稀だ。
 避けてるつもりがなくても飛んでしまったりする。
 小説のページが数ページ抜け落ちてしまうみたいに。
 そのことが経験的に分かったし、思い知らされもした。
 15年前の自分に教えてあげても、決して理解できないだろうけど。

 当然のことが起きない人生の中で何をどうすればいいのかというのは、なかなか難しい問題だ。
 あくまでも追い求めてもがくか、ひたすら待つか、あきらめるか。
 いずれにしても正しい方法論はなく、絶対確実な道もない。
 結果的に思い描いたことが起きれば幸運だし、起きなくてもそれが普通といえば普通だ。

 運命、宿命、偶然、必然、幸運。
 どの力が働いて自分の人生への働きかけがあるのは分からない。全部かもしれないし、ひとつかもしれない。
 最初から力が働かないのか、それとも逆の力が働いて打ち消しているのか。
 当たり前のことさえ起こらないことを嘆くべきなのか、それとも最悪の出来事がふりかからないことを喜ぶべきなんだろうか。

 人生が予定調和的だったら面白くない、などと負け惜しみみたいに言うことも、あまり格好のいいものじゃない。
 本当は予定調和でありながら自分が望んだ以上のことが少しだけあるといい、というのが本心なんじゃないだろうか。
 不幸を積極的に楽しめるほど幸せな人もそうはいないだろう。

 子供の頃、大人になれば当然起こるだろうと想像したことのどれくらいが実際にあるんだろう?
 人生って、ほとんどの人にとっては案外期待はずれなんだろうか。
 もしそうだとしても、私は悲しまないけど、やっぱりもっと悲しむべきなのかな。

 3月21(月) 「空っぽの世界。
           満ちた世界」

 この世界を形作っている要素は、夜空に見える星々くらい無数にある。
 それは同時に、夜空くらい空っぽでもあると言える。
 このスカスカの世界の空白を埋めているのは、人の想いだ。
 幻想と言い換えてもいいかもしれない。

 たとえば、人間が地球に誕生する以前の世界を想像してみる。
 数限りない生き物が地表、空、海に充ち満ちていたにしても、人工物が一切ない地球はスカスカのカラカラだったはずだ。
 どれほどの生き物が生息しようと、地球はあまりにも広かったに違いない。
 今地球はとても狭くなったけど、多くが作り物で、偽物でさえある。
 人類の滅亡と共にほとんどが消え去ってしまうものばかりだ。

 建造物以外に、今この地球上にあるものといえば、単純に言ってしまえば人間の感情だけと言ってもいいかもしれない。
 喜怒哀楽や夢や希望や幸不幸や愛情や憎しみ。
 それらは形を持たないけど、確かに世界の上空を漂い、覆っている。
 この世界は、人間の頭の中にだけ存在するものと言ってもいい。
 幻想を共有してるから実存してるような気がしているけど、確かな客観性はないようにも思える。
 これを本当に実在と呼んでいいものなのだろうか?

 夜空に見える無数の星たち。
 どれだけ手を伸ばしても届かず、向こうからこちらに降りてくることもない。
 永遠に交わることのない向こうとこちら。
 本物の世界はこちら側なのか、それとも向こう側なのか?

 3月20(日) 「変わらないものは何もない。
           でももしかしたら未来で手に入るかもしれない」

 消えない想いはあるかないか?
 流れる時間と変わる世界。
 移ろう心。
 変わらない想いがあるとすれば、それは良いものなのか悪いものなのか。
 愛も憎しみも薄れ、幸福も喜びも後方に置き去られる。
 たった100年を永遠とは呼ばない。

 ただ、それでも、何もかも変わるとか、すべては消えるとか、最初からあきらめてしまうのは嫌だ。最後まで抵抗せずにはいられない気持ちがある。
 あえて永遠を誓い、約束は必ず守ると口にしたい。
 たとえそれが幻想だとしても。

 物心ついてから今に至るまで、変わらない想いが本当にあるのか、と自分に問いかけてみる。
 考えるまでもなく、そんなものはないと分かる。
 けど、この先でもしかしたら見つかるかもしれない。そう信じたい。

 人も世界も、変わることが自然であり、必然的な流れなのだろう。
 でも、当たり前のことを当たり前に受け入れるだけが能じゃないはずだ。
 変わらないでいるという抵抗の仕方があってもいい。
 人間は、自分の意志で自然に逆らえる唯一の生き物だ。どれだけ自然が偉大で正しくても、それに逆らってみせることは無意味なことじゃない。
 そこにこそ新たな可能性は生まれるのだから。

 人はいつか、永遠を手に入れるのかもしれない。
 そこではもう、変わる必要はなくなる。永遠なのだから。
 私たちがかつて交わした約束は、そのとき初めて実現するものなのかもしれない。
 遠い日の約束を、私は覚えていられるだろうか。

 3月19(土) 「肯定でもあり、否定でもある。
           肯定でもなく、否定でもない」

 この世界や人を肯定すべき要素はたくさんある。
 同時に否定すべき理由にも事欠かない。
 自分は肯定でいくのか否定でいくのか姿勢をはっきりさせるのもいいし、曖昧なままでもいいと思う。
 両方するという欲張り屋でもかまわないだろう。
 どれを選んでも正解であり間違いでもあるから。

 たぶん、この世界が続く限り、肯定派と否定派との論争は終わらないだろうし、はっきりとした決着がつくこともないだろう。
 大昔から今に至るまでずっと、人は自分の側の正しさを主張し、相手側をなんとか説得しようともがいてきた。
 自分の言うことの方が絶対に正しいと思い込んで。
 でも、相変わらず結論は出ないままだ。

 そんな様子を横目で見つつ、私はあっちへ行ったり、こっちに来たり、ふらふらして足下が定まらない。
 こんな世界は下らねえと吐き捨てるように言ってみたり、どっちでもないさと肩をすくめて見せたり、いややっぱり人間は正しいだろうと柄にもなく熱くなったり。
 そんなこんなで今は肯定派の隅っこの方にこっそりいる。人って捨てたもんじゃないよね、と横に人に小さな声で言ってみたりしつつ。
 この先自分がどうなるかは分からない。このまま同じ所に居続けることになるのか、それともまた反対派に鞍替えしたりするのか。
 またはまったく違う別の道を見つけることになるのか。

 当面はここで無条件肯定というものについて考えてみようと思っている。
 もし、すべてを飲み込んだ上で何もかもを絶対的に肯定したら、その果てで私は何を見いだし、何を得ることになるのだろうか。
 何も否定せずに肯定してしまうことが正しいのかどうか。
 分からないけど、しばらくはとどまって、ここから見える光景を眺めていることにしよう。
 自分がいる場所によって、世界はまったく違って見えるものだけど、私は今ここから見える風景がけっこう気に入っているのだ。

 3月18(金) 「知るために生まれ、生きるために知る。
           知り続けることが生き続けることだから」

 未知は時間軸の未来方向にだけ広がっているわけじゃなく、宇宙へも広がり、過去へも、自分の内面にも広がっている。
 この先にある未発見や未開発だけが未知部分ではない。
 前後左右、知らないことだらけだ。

 遺跡から発掘されたものが教科書を書き換えさせたり、宇宙で新たな惑星が見つかって今までの常識が覆されることもある。
 人体や脳に関して新たなことが分かれば、解けなかった謎が解け、進むべき未来も分かるようになるかもしれない。
 まだ見ぬ新しい才能に驚かされることもあるだろう。
 明日、自分の中に新たな一面を見つけることもあり得る。

 私たちは、古い無知と新しい無知の両方を抱えている。
 分かっていない過去や現在もたくさんあるのだということを忘れないようにしたい。
 歴史を学ぶことは過去を振り返る感傷などではない。過去を掘り起こすことも、この先を生きる人類がなすべき大切な仕事だ。
 それは知識や技術の進歩を待たなくてはならない、未来での課題という言い方もできる。

 私たちは少しずつ、未知を既知に変える地道な作業をしている。
 それと同時に新たな未知が見つかる。
 けど、未知が増えることは決して絶望的なことなどではなくて、むしろ希望なのだと思う。
 それが知るということの必然的な流れだから。
 かつての人類は、自分たちの未知を知ることさえできなかった。

 生きることは知ることで、人はもっと知るために生きる。
 知り続けるためには生き続けるしかない。
 だから、私たちは明日も生きよう。
 明日という日は、まだ誰も足を踏み入れたことがない未開の地だ。
 何があるかは分からないけど、何かがある。

 3月17(木) 「個としての完結ではなく、全体の中の個を。
           果てしない想像の果てへ向かって」

 全体の中の個という視点ですべてを捉えたいと思う。
 それでも充分じゃないことは分かってるけど、それが今の自分の限界だから。
 個を個として捉えるのではなく、全体における個というふうに考えたい。
 どれだけ人間を深く完璧に描いたとしても、人間は人間でしかなく、それだけでは理解したとは言えない。
 人を描くなら、人類の中の個人という視点を同時に思いたい。
 それが必ずしも正しい物の考え方だとは思わないけど、自分が納得するために。

 時間についても同じで、この瞬間は始まりと終わりをつないだ真ん中にある一瞬だという感じ方をしたい。
 過去からつながった今があり、今からつながる未来がある。
 前後の時間を見失うと、今この時の意味を取り違える。

 無限の中の一点、永遠の中の一瞬。
 広がりを感じれば、一点の意味や理由が溶けだして曖昧になる。
 意味がないわけではなく、始まりと終わりの理由が存在しないわけでもない。
 ただ、それらは捉えがたいだけだ。
 分かる、という幻想から少しでも早く抜け出す必要がある。

 一切は理解できない。
 捉えたと思ったら影で、残像が長く尾を引き手招きする。
 よろめく足取りで手を伸ばして追いすがるが、指先に触れることさえできない。
 想像で補えるほど世界はたやすくなく、それでも、私たちが頼れるのは想像するという能力だけだ。
 だから、自分の思いを追いかけるしかない。

 いつか、すべてを正確に認識できるときが来るかもしれない。
 そんなことを夢見る。
 でも、そこが終わりではなく、本当の始まりなのだ。
 現実は夢の向こう側にある。

 3月16(水) 「この世界を肯定させてくれる人たち。
           みんな元気にしてるかな」

 歴史上にたくさんの愛すべき人たちを持っている私たちは、それだけで幸せなのだと思う。
 彼らに自分たちもつながっているのだから。
 その記憶を受け継ぎ、次の世代に伝えていくことだけでも生きる価値がある。

 アインシュタイン先生、太宰さん、坂本さん、アイルトン・セナ、上杉謙信、土方さん、安倍晴明、レオナルド・ダ・ヴィンチ……。

 友達になりたい人たちもたくさんいる。
 みんな元気にしてるだろうか。
 あの世で会えたらいいな。
 生まれ変わってこの世での方がいいか。

 ああいう人たちを生み出したこの世界が素晴らしくないはずがない。
 その一点で私はこの世界と人間を全面的に肯定したい。

 3月15(火) 「役立たずならここにはいない。
           乗るか背負うか」

 もし、私やあなたが本当の役立たずなら、たぶん今ここにこうしていない。
 存在することを許されているということは、直接的にせよ間接的にせよ、世のため人のためになっているということだ。
 安心して生きていい。
 自分は役立たずだと思うことでなすべきことから逃げてばかりいると、本当にそうなってしまうから気をつけたい。

 今以上を目指すなら、人の力を借りることも必要だろう。自分ひとりでできることには限界がある。
 けど、そのためには、ふさわしい人間にならないといけない。
 たとえば、神頼みにしても、願い事を実現させてやってもいいと思えば手助けしてくれるだろうし、協力するに値しないと思えば貸してくれないだろう。

 誰もが自分で夢を実現させられるわけではない。
 多くの人間が他人の夢に相乗りする。その想いが応援になり、力となる。
 乗っかられる人間はその重みに耐えられる存在でなければならない。
 人の力を借りるということはそういうことだろう。
 金を出してくれるとか、雑用を代わりにしてくれるとか、そういうことじゃない。

 人の夢に乗るということは決して悪いことではないし、無意味でもない。
 自分では意識してなくてもその人間に力を貸しているということになる。
 他人の応援をすることも、そんなに馬鹿にしたもんじゃない。そういうところでこの世界の役に立っている人もたくさんいる。

 自分が夢を叶える側の人間になりたいのなら、ふさわしさということをもう一度よく考えてみるべきだろう。
 私は人の夢も乗せて走れる人間だろうか、と。
 自分だけで叶えられる夢なんてたぶんないし、自分が追う夢は同時にたくさんの人の夢でもあるということを忘れないようにしたい。
 そして、夢を追うということの責任はとても重いということも自覚しておかなければならない。

 3月14(月) 「不自由さの中にある自由。
           大気の中の酸素みたいに」

 自由になって楽になるほどルーズになる。
 悪条件になるほど工夫、努力しようとする。
 それが人の心の自然な動きだ。
 時間があるほどのんびりしてしまうし、時間が足りなくなれば急ぐようになる。
 恋愛が典型的だけど、日常生活でも、趣味でも、人生でもそうだ。
 不自由さの中でしか燃えることができないのが人間かもしれない。

 追い込まれるほど力を発揮するのが人の強みであり、同時に追い込まれなければ最善を尽くせないのが弱さだろう。
 それがバランス感覚といってしまえばそうなのだけど、人間がこの先で向上していこうとするとき、どのあたりで均衡を保てばいいのか。
 もっと進歩向上すべきなのだろうけど、どこまでいけばいいのかがよく分からない。
 完璧な勤勉さを手に入れても精神が持たない。
 逆にすべてから解放されたら、それはそれで耐えられないだろう。

 もしかしたら、今くらいのルーズさとタイトさがちょうどいいのかもしれないと思ったりもする。
 西暦2005年の日本くらいが。
 機械と人力、脳とコンピューター、想像力と実行力、知識と無知、地球という広さと狭さ、人間の寿命。
 これらのバランスは、この先の未来において確実に崩れていくだろう。
 その先で人はどういうバランス感覚を手に入れることになるのか。
 ますます便利で楽になっていく日常生活は、今より幸福だろうか?

 どんな社会になっても、どんな環境でも、人間は生きていける。
 これまでだってそうだったし、これからだってそうだろう。
 どんなにゆるやかでも、どれだけ過酷でも。
 でもまだそれは先の話か。
 今はまず明日どうするかを考えよう。
 解放を求める心をどうコントロールすればいいのか。
 不自由さの中にこそ自由はあるのだということを、どうやって納得させよう。
 分からせることはできても納得させることは難しい。

 3月13(日) 「変化に対して自覚的であればいい。
           それが良い方でも悪い方でも」

 自分が駄目になっていくのはかわまない。
 その変化に自覚的でありさえすれば。

 生きることは変化することで、思い通りになる変化もあればならない変化もある。
 すべての変化をコントロールすることはできないから、自分の変化に対してある程度傍観的になるのは仕方がない。
 無理に自分の意志を反映させようとしてつらくなるよりも、いっそ無責任に楽しんでしまった方がいいようにも思う。
 それが自分の精神を守るための防御策でもある。

 嬉しくないとか楽しくないとか幸せじゃないとか、そんなことは大きな問題じゃない。
 苦しいときは心を殺してでも生き延びるのだ。
 寿命まで生き切ることを何よりも優先させて考えたい。
 それが使命であり、約束だから。

 死は生の結果だ。
 結果を恐れずに生きたい。

 3月12(土) 「正しく生きられなければそれ以外の道は二つ。
           偉くなるか、賢くなるか」

 正しく生きられないというのなら、せめて偉くなるか、賢くなるしかない。
 強引な手を使ってでも地位や権力を手に入れるか、もしくは馬鹿みたいに勉強して、考え事ばかりして賢くなってみせるか。
 それ以外に正しくないことを正当化する方法はないような気がする。
 優しさとか、真面目さとか、人柄の良さなどでは充分じゃない。正しさの代わりとするには全然足りない。

 正しく生きてる人に勝るものはない、と最近思う。
 成功とか財産とか才能とかそういったものは、正しさの代用品でしかない。
 正しく生きてる人にはそんなものは必要ない。
 ただ、人にはどちらの道を行くかの選択権が与えられている。自分の好きな方へいけばいい。より満足度の高い方へ。

 それでも、清く正しく美しく生きることが一番だと私は思う。
 そして、そういう生き方に憧れる。
 でも、自分にはやっぱり無理そうだから、あきらめて代わりの道を行こう。
 偉くなるのはまったくイメージできないから、残された最後の道である賢さを目指すしかない。
 いつか正しさに追いつけるだろうか。
 たとえば、30年後とか50年後とかに。

 3月11(金) 「幸福エネルギー切れ。
           要エネルギー補給」

 心が弱くなっているときは生態エネルギーも落ちて体も弱る。生命力そのものが小さくなる。
 そうすると病原菌につけ込まれたり、普段なら何でもない外部からの攻撃に負けてしまったりする。
 体が弱れば、心は更に弱まってしまう。

 心と体の負の連鎖はどこかで止めたい。
 そのためには、まず心にエネルギーを注入する必要がある。
 それは、嬉しいことだったり楽しいことだったり、そういう幸福エネルギーだ。
 心が元気を取り戻せば、体もつられて回復に向かうはずだ。

 今の私は幸福エネルギー不足に陥っている。警告ランプがともるほどに。
 これはけっこうまずい。早くエネルギーを投入しないといけないけど、さて、どこから調達してくるか。
 周りを見渡しても見あたらないと途方に暮れてる場合じゃない。
 何か即効性のあるやつはないものか。
 こういうときは新規開拓という不確実なものではなく、既知のものがいい。記憶の中で探るのだ。
 ああ、やっぱりこれはいいなぁとしみじみできるものを。

 前へ進むだけではなく、ときには引き返すことも必要だ。
 必要なものは店ではなく、自分ちの押し入れに眠ってることもある。

 3月10(木) 「先回りの感謝という依存。
           好意は受けるべきだけど、強要しちゃいけない」

 信仰心は依存心とは違う。ということを最近忘れがちになっていた。
 そのことにふと気づいて我に返った。
 信仰心といっても特定の宗教とか神とかではなく、天とか地球とか周囲の人たちに対する思いという意味なのだけど、先回りして感謝することで自分を支えてくれている力を当てにしすぎていた。
 いつの間にか好意に甘えるようになり、それを当たり前だと思うようになっていた。
 更に依存を超え、好意を強要するようにさえなっていたかもしれない。
 もしそうだとしたら、私を支えてくれていた存在がいい気分のはずはない。
 怒っていたか、あきれていたか。
 どうやら大きな思い違いをしていたようだ。

 周りの支えに依存することが何故いけないかといえば、何か悪いことが起こったとき自分以外に原因を探そうとしてしまうからだ。自らを省みるより先に。
 それはやっぱり間違っている。
 自分ひとりで生きているんだと頑なになればいいというわけではない。
 依存せず、でも感謝も忘れないことが大切だ。

 遅ればせながら気づいたから、態度を改めることにする。
 好意は行われた後に感謝すること。
 かつて自分の中で発令した神頼み禁止令はまだ解かれてはいない。
 明日のことを頼らず、あくまでも自分が主体なのだということを忘れないようにしたい。
 協力要請くらいはしてもいいと思うけど。

 今日一日を無事生き延びられたことを感謝します。
 明日もなんとか頑張ってみます。

 3月9日(水) 「消えた孤独感。
            静かな別れ」

 何年か前まで、いつもそばに寄り添って離れようとしなかった孤独感が、ふと気づけば近くにいない。
 いつの間にか私から離れていってしまっていた。
 そのことを私は決して喜んではいない。むしろ悲しんでいる。
 今となっては、あの孤独感がとても愛おしくて懐かしい。できることなら引き戻したいくらいだ。
 けど、もうそれは叶わない。
 頭の中で再現しようと試みても上手くいかない。

 孤独を必要としなくなったのは喜ぶべきなのだろう。
 今思えば、あの頃の私は確かに孤独感を必要としていた。
 たぶん、それが楽で心地よかったから。
 壊れそうな心を守るためには、深い孤独の淵に潜り込む必要があった。
 今はもう、その必要はなくなった。
 心が強くもなり、鈍くもなった。

 孤独感を身にまとって、車の運転席から、この世界を風景のように見ていたあの頃。
 あのときがあって、今がある。どちらがいいとか悪いとかではなく、どちらも大切な時間だ。どちらも嫌いじゃない。
 ただ、絶望も孤独も、私から捨てたわけではなかった。向こうが私から離れていったと感じている。自分で望んだわけではない。
 時期が来て、私から去っていった。
 だからたぶん、未練のようなものが残ったのだろう。
 でももう戻らないし戻れない。
 それが成長であり、歳を取るということだろうから。

 振り向いて、そっと手を挙げて、静かに降ろす。
 かつて自分がいた場所に向かって。
 さよならの代わりに。

 3月8日(火) 「自分に見捨てられないように。
            得意なものを見つけて自分を支えたい」

 自己不信ほど危ういものはない。
 自分さえ自分を見捨てなければ、どんなに追い込まれてもぎりぎりのところで
踏みとどまることができる。
 でも、自分で自分を見放してしまったら、周りがどんなに支えようとしても支えきれなくなってしまう。
 自己満足や自己中心、自己完結や自己愛などはあまり誉められるものではないけど、でも必要なことだと思う。

 自分が信じられなくなったとき、どうすればいいのか?
 その決定的な解決策はたぶんない。
 仮想世界に逃げ込むとか、お笑い番組を観て笑うとか、旅行をするとか、自分よりダメな人を思って自分を慰めるとか、そうやって誤魔化す方法は色々ある。
 それでやり過ごせるならそれでもいいのかもしれない。
 でも、自分を信じられるというのはまた別のことだ。

 自分に対して確信を持てるようになるにはどうすればいいのか、私は知らない。
 ただ、何もしないよりは何かをした方がいいに違いない。できれば自分が得意なことを。
 自分が一番得意なものは何なのか、という問いかけは非情に重要だ。
 あっさり答えられる人は少ないだろうけど、普段から意識して探すようにした方がいい。
 もし見つかれば、あとはそれを続けることだ。
 得意なものを知っているというのは強みで、それは自分を支えるための大きな要素になる。

 自分が信じられれば人も信じられるようになる。

 3月7日(月) 「気分を過保護にしないように。
            他を甘やかすことは自分を甘やかすことだから」

 憂鬱な気分に甘えすぎてることがある。
 それを勤勉さから逃れるための言い訳に使おうとして。

 私は自分の気分のいいなりになりすぎる。我が子に甘すぎる親のように。
 気分をのさばらせるのは、自分を甘やかすことでもある。
 これじゃあどちらが主人なのか分からない。気分のしもべにならないようにしなければ。

 あくまでの主は自分の意志で、気分は本来こちらの命ずるまま言うことを聞かせるべきもののはずだ。
 ときどき頑なになったり、暴走したりするくらいは許しても。
 頭ごなしに従わせるのが無理なら、なだめたりおだてたりして変えさせていく必要もあるだろう。

 気分転換という言葉が何気なく使われるけど、それはとても大切なことで、積極的に取り組んでいかなければいけないことでもある。
 特に私の場合は。
 ただじっと身をかがめてやり過ごすのではなく。

 3月6日(日) 「感傷では世界は救えない。
            でも見えないところで感傷が人間を救っている」

 ときどき、普段忘れている自分の罪深さや残酷さを思い出せることがあって、それをどうにか感傷でやわらげようとするのだけど、たいていはうまくいかない。
 感傷で解決できることの少なさをまた思い知らされる。

 私は自分が感傷的な人間だという自覚はあるし、そのことが嫌いではない。
 でも、一方で感傷では人も世界も自分も救えないことも知っている。
 それでもなお、感傷的であろうとするのは、それが人にとって必要だと思うからだ。
 感傷を軽蔑する人は多いけど、もし人間から感傷を取り除いてしまったら、人はもっと残酷になるに違いない。
 感傷があるから、なんとかこの程度の残虐さで済んでいるのだ。
 そして、自分の罪深さを知らしめてくれるのも感傷の役目だろう。

 不幸な人を気の毒がったり、ペットの死を悲しんだり、よその国の災害を憂うことは決して無意味なことではない。
 嘆いても何も解決しないけど、無駄じゃないと私は信じる。
 ただし、感傷に流されすぎるのはよくない。
 感傷がこの世界を解決してくれるわけではないということだけは自覚しておくべきだろう。

 ドライ・アンド・ウェット。
 それがこの世界だ。

 3月5日(土) 「分からないことをそう簡単にあきらめないように。
            人生の謎はできるだけ解いておきたい」

 年月を重ねるごとにだんだん分からなくなっていくこともある。
 それはそれで不思議な話ではないのだけど、分からないことをあきらめてしまうことが私は怖い。
 もう分からなくてもしょうがないやと、分かろうとすることを投げ出してしまうと、もうずっと分からないままで終わってしまう気がするから。
 分からないことこそ、最後まで誠実に追い求めるべきなのだと思う。
 あきらめるのは楽だけど簡単すぎる。

 誰でも歳を取れば分かるようになることはある。
 でもそれだけでは人と同じになってしまう。更にそこに積み上げることができるのは、ただ歳を取るだけでは分からないことだ。
 言い換えると、だんだん分からなくなっていってしまうことを追求して解明してみせることが大切に違いない。

 子供の頃は、大人はなんでも知っていて、自分も大人になれば同じようにすべての謎が解けると思っていた。
 けど、実際自分が大人になってみたらそうではなかった。
 大人は子供以上にたくさんのことを知らない。
 そしてもうひとつ分かったことは、人生の謎を解明しようとしてる大人はとても少ないということだ。
 多くの人が、普通に分かることだけで満足してしまって、それ以上を分かろうとしてない。
 それが間違ってるとは思わないけど、私は謎がどうしても気に掛かる。できれば全部解明して、納得してから人生を終えたい。
 それは無理にしても、ぎりぎりまで分からないことに対して真摯でありたいと思う。
 それが自分を明日に向かわせる力にもなる。

 3月4日(金) 「自分を一番縛っているのは自分。
            自分から自分を解放してあげよう」

 他人に対しても社会に対しても常に批判的な人がいるけど、そういう人種は苦手だ。
 と思ったり言ったりすることが批判的な言動なるから難しい。
 批判を批判することも批判だ。
 駄目な人に駄目ということも駄目ということになりはしないか?
 間違った正義を振りかざす人の頭を押さえつけて主張する正義が果たして正しいのかどうか。
 というような自己批判にときどき決定的に囚われてしまうことがある。
 自己矛盾を解決できない。

 人は誰しも、多かれ少なかれ不自由さの中で窮屈を感じながら生きているのだと思う。
 けど、何に一番縛られているかといえば、他でもない、自分自身の決めごとなんじゃないだろうか。
 反社会を気取っても、反社会的であり続けることを自分に強いることで自由さを失うことになる。
 誰にも縛られない、自分に従うだけと言うけど、言葉通り自分に従属させられている。半分無自覚に。

 自分の決めたルールに従ってぶれないことは立派だし、尊敬すべきかもしれない。
 ただ、他者に従うにしろ、自分に従うにしろ、そんなに不自由である必要はないんじゃないか。
 信念に固執しすぎるとかえって自分のためにならないこともある。
 大切なのは、迷ったときに戻っていくことができる基本的な姿勢だ。
 それさえ見失わなければ、ある程度ルーズであった方がいい。臨機応変に身動きできるように。

 あえて決まりごとを破っていって、規定を取り外すせば人はもっと自由になれる。
 体制派でも反体制派でもない場所で。
 まずは、何々すべきのべきを外していくことから始めたい。
 mustをcanやwillに置き換えて考えよう。

 3月3日(木) 「ただ目指すこと。
            それが始まりであり終わりでもある」

 私たちはただ目指せばいい。
 それが最初にやること。
 そして、最後までやることだ。

 かつて自分が目指した方向と違っていてもかまわない。
 でも、ただ進むだけじゃ駄目だ。
 どこかへ向かって行かなければ。
 向かう先を見失わないようにしたい。
 もし見失ったら、また新たに見つけたい。

 漂うのではなく、過ごすのでもなく、私たちは目指そう。
 それが遠い日の約束。
 果ての果てに向かって。

 3月2日(水) 「駄目な一日も自分の一日。
            全部大切な日」

 今日は悪い一日だった。本当に。
 今年になって一番駄目な日かもしれない。
 自分自身が原因でもあり、不運な外的要因もいくつか重なった。
 でも、どんなに悪い日でも自分の一日に違いないから、出来の悪い我が子をかばうように、無条件で愛おしみたいとは思う。
 こんな日もある。

 明日は今日よりはよくなることを願って、もう終わりにしよう。
 これ以上続けてもいいことはない。

 3月1日(火) 「3つのトピックス。
            小さな変化は歓迎」

 毎日、小さな不測の事態が起きる。
 ちょっとした悪いことや、ささやかな嬉しいことなどが。
 新発見やあらたな出会いもある。
 そして予定は微妙に狂う。ときに大きく。

 今日のトピックスは3つ。
 愛用のキーボード「TK-P2109JPWB」に水をこぼして壊してしまったこと。
 またひとつお気に入りの場所、布池教会を見つけたこと。
 テレビアニメ「BECK」の新しいエンディング曲、Soweluの「MOON ON THEWATER」に深い感銘を受けたこと。

 キーボードは痛かった。「全角/半角」やいつも使っている方の「Ctrl」が効かなくなってしまったのは致命傷だ。買い換えないといけないけど、もうなかなか手に入らない。
 布池教会はこの先長い間印象に残る場所になるだろう。
 Soweluは今まで知らなかったけど、何曲か聴いてみたら、そのうちのいくつかは耳にしたことがあった。ただ、「MOON ON THE WATER」は圧巻だった。初めて聴いたときしばらく動けなくなった。2枚のアルバムを早速聴いてみなければ。

 些細な出来事が日常のリズムを乱したり、いい流れを途切れさせてしまうことはよくあることだ。
 ただ、それを悪いことを思うのはよそう。
 小さな変化はどんなものであれ、歓迎したい。たとえそれが自分の望んだものでなかったとしても。
 小さな支流がやがて大きな流れとなり、いつかメインストリームになることもある。
 何かを失ったときも、失った分、別の何かを手に入れることができると喜ぼう。

 変化というものはなかなか自分では生み出せないものだ。
 変わろうと思ってもそう簡単に変われるものではない。
 だから、外部からの変化を受け入れ、そのことに敏感でありたいと思う。
 無自覚な変化では得られるものは少ないから。

 明日は何が起きるだろう、と想像してみる。
 何も起こらない日というものはない。
 しっかり目を開いて、感覚を解放していれば、何かが起こっていることに気づくはずだ。
 それを感じ取りたい。
 明日はまだ知らない新しい一日。

 2月28日(月) 「独りよがりではない、正確な自己判断を。
             過大評価も過小評価も罪となる」

 悪びれないことの大切さってのもあるように思う。
 罪を認めると罪人であることが確定してしまうから。
 自分の非を認めなければ、最後のところでぎりぎり踏みとどまれるんじゃないだろうか。
 生きていれば取り返すこともできる。

 罪を逃れたいがための反省は事態をより悪化させる。
 悪いと思ってないのに簡単に謝るのも誠実さを欠いた行為だ。
 謙遜も度を過ぎると必要以上に自分をおとしめることになる。
 謙虚であることも大事だけど、過剰に自己防衛する必要はない。

 究極的に、人は自分自身で自らを評価するしかない。
 誰も裁けないし、もし最後の審判があったとしても、判断を下すのは自分以外にいないのだ。
 その判断を誤れば罪となるし、正確に自らを認識できていれば罪とならないのではないか。
 自分を過小評価したり過大評価したりすることが愚かさであって、己を知るということが賢さなのだと私は思っている。

 他人の評価は他人の評価としてある。それは否定できないし、その評価によって裁かれることもある。
 ただ、他人の評価で自分の価値が決まるわけではない。
 最終的に自分の価値を決めるのは自分自身だということを忘れてはいけない。
 そして、その判断を誤らないようにしたい。


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