2005.1.2-

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 2月27日(日) 「感覚が鈍らないように、対極を体感すること。
             いいものばかり食べていたら舌は肥えない」

 感覚の慣れというのが恐ろしい。世の中の恐ろしいものの中でもかなり上位に来ると思う。
 人はどんな状況や状態にも慣れてしまうもので、怖いのは慣れてしまっていることを自覚しにくいところだ。
 良い意味でも悪い意味でも、人は慣れる。
 同じ刺激を受け続けるとだんだん感覚が鈍くなり、しまいには何も感じなくなる。
 それはなんとか避けたいところだ。
 だから、意識的に対極の状態に自分を持っていくことが必要になる。

 フランスの天才パティシエは言った。
 なるべく普段から不味いものを食べるようにしている、と。
 それを聞いてなるほどと思った。
 美味しいものばかり食べ続けていると舌が鈍くなって、美味しいものを美味しいと感じられなくなるというのだ。
 これはあらゆることに当てはまるだろう。
 幸せすぎると幸せのありがたみがなくなるし、日常を外れた非日常も続けばそれが日常になる。

 自分が今置かれている状況と、自分自身の状態をいつも把握してなければいけない。
 最高と最悪の間のどの部分に自分はいるのかということも。
 そして、自ら勢いをつけて向こう側へ振ってやることだ。
 特に悪い方へ。
 そうやって鈍くなった感覚を自分で戻していきたい。
 自然に戻ることはまずないだろうから。

 ときには、あえて何もしないということが必要になる。
 完全に捨てる一日があってもいい。他の日を活かすために。

 2月26日(土) 「真理の押し売りをしてくれた大人に感謝。
             今になって役に立ってますと伝えたい」

 今は真理を大事にしたい。
 いや、「まり」という女の子のことじゃなく、「しんり」の方を。

 若い頃は真実に夢中で、真理にはあまり興味を持てなかった。そんなこと当たり前じゃないかと思って。
 でも、だんだん歳を重ねると、真実よりも真理の方が大事に思えてくる。
 真実は解き明かされるとそこで完結してしまうけど、真理は自分のために役立てることができるからかもしれない。
 若い頃の身勝手さと、歳を取ってからの身勝手さの質の違いとも言える。

 毎日1ページずつ小説を読むような生き方をしたい、と最近思う。
 一気に読むのではなく、気分次第で読んだり読まなかったりするというのでもなく、毎日ちょっとずつでも前進感が欲しい。
 自分の気分任せにすると、絶対に勤勉さよりも怠け心の方が勝ってしまう。
 毎日ハードに課題をこなしていくほどの精神力も持ち合わせてない。
 となれば、最も現実的な解決策としては、気分の負担にならない程度に自分に負荷を与えて動かしていくというやり方しかない。
 なだめたり、言い訳に耳を傾けたりしながら。

 やっぱり夏休みの宿題は毎日少しずつやらないといけなかったのだ。今さらだけどそう思う。
 1日わずか1ページずつでも、1年すれば1冊は読める。たった1冊でもゼロではない。ゼロと1との間には深い溝がある。

 継続は力なり、急がば回れ、努力に勝る天才なし。
 こういう真理を大人から押しつけられて、素直に受け止めて努力できるような子供は特殊な人間だ。普通じゃない。
 私のように、くだらないと反発するのが子供としては当然の反応だろう。
 ただ、子供に対する教えというのは、何十年もしてから効いてくるということがあって、そこに教育の本質があるのだと私は思うから、子供には正論が必要なのだ。
 言ってすぐ言うことを聞かせられなくても、いつか気づくかもしれない。だから、子供には真理を教えるのが正しい。
 それもまた、ひとつの真理だ。

 かつて押しつけられた真理を今、初めからひとつずつ選別する作業をしている。
 取るに足らないともう一度放り投げるか、それとも自分の懐に入れるか。
 全部の真理が必要というわけではない。

 2月25日(金) 「知識が増えれば楽しみも増える。
            増えた悲しみは知恵でやっつけろ」

 知識が何故大切かといえば、知識が増えればそれまで見えなかったものが見えるようになるからだ。
 野原に咲いている花を見ても何か花が咲いているとしか思わなかったし、野鳥の鳴き声も耳にはしていたけど何という名前の鳥が鳴いているなんて考えたこともなかった私が、今では普通に道を歩いているときも野草の名前を当てたり、鳥の名前を思い出したりするようになった。
 それは紛れもなく、知識が増えたからに他ならない。
 家の近所の神社の前を何も感じずに通るより、ここにかつて織田信長や徳川家康が訪れていたんだと知っていれば、歴史に思いを馳せることができて楽しい。
 そう、知識が増えると楽しいのだ。それが何より大切なことだと思う。

 ただし、情報では駄目だ。知識まで昇華させなければ。
 あそこの公園にオオイヌフグリがたくさん咲いていたよと人に聞くのは情報であって知識ではない。
 実際に自分で野草を探しに行って、できれば写真に撮って、家に帰ってきてから図鑑やネットで調べて、それがオオイヌフグリという名前だと知って初めて知識となる。
 旅行でもそうだ。いくらテレビやガイドブックで情報を調べても、それはやっぱり知識ではない。
 知識を得るには時間と手間が掛かる。

 知識が増えれば悲しみも増える、と聖書は言った。
 確かにそういう面もある。知らなければ幸せだったのに知ってしまって不幸になるということもあるだろう。
 けど、知識が人の人生を豊かにするということも間違いなくある。
 もし、知識が増えることで悲しみが増したとしても、人間には知恵がある。
 悲しみは知恵で乗り越えられると私は信じている。

 知識と知恵の両輪できちんとバランスを取れたとき、初めて人は自分の思う方向に進めるようになる。
 どちらかが大きすぎても真っ直ぐ進めない。
 片輪だけではフラフラしておぼつかない。
 そして、車輪が大きければ大きいほど、速く進める。遠くまで。

 2月24日(木) 「人のために祈るなら悪いことじゃない。
             好きにならせてくれてありがとうのお礼に」

 昔好きだった人が今幸せに暮らしていればいい、なんて言うのは絶対に嘘だと、若い頃の自分は思ったけど、でも今の私は本当にそう思う。
 ごく当たり前の感情として。

 自分が中学生のとき好きだった女の子が、今では中学生の娘を持つお母さんだったりする。
 はは……と、苦笑いをしながら首を横に振るしかない。
 まさかそんなことが起きるなんて、中学生の私には想像もできなかった。
 そんなに自分の人生に時間が流れるなんて。
 でも全然悪い気分ではない。
 むしろ嬉しい。
 少し切なさを伴いながら。
 人生ってこういうことなんだな、と納得する。

 彼女たちが今、どこでどう暮らしているのかまったく知らない。
 元気でいるんだろうか。
 私には何もできないけど、どうか幸せに生きてくださいと願うことくらいはできるかもしれない。
 そうだ、今度から神社仏閣巡りをするときの願い事はそれにしよう。それなら賽銭の100円も意味を持つというもんだ。

 2月23日(水) 「64億人分の1人としての軽い責任。
             軽く考えず、重く捉えず、軽やかにいきたい」

 世界の総人口64億人分の1人として私ができることを考えたい。
 そのあまりにも軽い責任の中で、何をすべきなのだろうか、と。
 私の命は全体の中で考えると恐ろしく軽い。
 64億円持ってる人にとっての1円程度だ。お釣りをもらうとき、うっかり床に落としても拾うことはないくらいに。

 でも、いくら責任が軽くても、まったく責任がないわけではない。
 64億円も1円の集まりだ。
 なにがしかの役割分担はあるだろう。
 それを考えたいと思う。
 すき間産業的人生論とでもいおうか。
 メインストリームにいないからこそできることもある。

 私は自分は自由だとは思っていない。
 ただ、自由意志の元で、いくつかの選択肢があることは知っている。
 自由度がいくら高くても、無制限に何をしてもいいというわけではない。
 自分を取り囲む状況があり、自分の願望と、他者からの要求と、なんとか折り合いを付けながらやっていっている。

 不満を言い出せばとりとめがない。
 したいこととできること、やりたいけどやらせてもらえないこと、いろいろある。
 予定は狂うし、思惑はいつも際限なくずれていく。
 ただ、自分の可能性を最後まで信じて、自分を信じることに殉ずるしかないとは思っている。
 そうやって今日までやってきたし、明日からもそれは変わらない。
 64億人の中のひとりとして生きていることだけはいつも意識していこうと思う。

 2月22日(火) 「人類皆兄弟、と言ってた笹川会長は胡散臭かった。
            けど、言ってたことは案外本当だと最近思う」

 イエス・クリストくんも、聖母マリアっちも、私たちと本質的には変わらない人たちだ。
 ずっと昔、同じようにこの世に生まれ、生き、そして死んでいった。
 さらにさかのぼれば、ミトコンドリア・イヴを持つ同じ母親から生まれた兄弟だ。
 いや、だから同格だとかではなくて、神を持ち出さなくても私たちは彼らを年の離れた兄貴、姉貴として好きでいられるんじゃないかと思うのだ。
 出来の悪い末の弟として、私は彼らに親しみと感謝の念を持ちたい。

 彼らが望んでいるのは、人々に恐れ敬われることではないはずだ。
 それよりも愛されたいと願っているだろうし、自分たちの存在が後の世を生きる人たちの役に立てればいいと思ってるんじゃないだろうか。
 それ以上のことは望んでない気がするけど、どうなんだろう。
 あるいは、そろそろ自分たちに取って代わる人間が地上に現れて、普通の男の子や女の子に戻りたいと願っているかもしれない(そして、しばらくしたら芸風を変えて再デビューとか)。

 この世界の宗教に関して、私は特別な意見を持っていない。かつて持っていたこともあったけど、今はもうない。
 個人的に天の関係者各位と穏やかで緩やかで良好な関係性を築いていきたいと思っているくらいで。
 世界中のどの宗教にも信者も一定の敬意を払いたい。そのおかげで神社仏閣や名所旧跡巡りができているという現状もある。
 特に今日の多治見修道院を訪れて感じたのは、なるほど宗教という形があるからこそ、その入れ物としての特別な建物が造られて、そこに特殊な空間ができるわけで、だとしたら宗教というスタイルも悪くないな、ということだった。

 私がひとつ気がかりなのは、天の関係者を私は怒らせていないだろうかということだ。
 まあ、まあ、まあ、落ち着いて、おちついて、穏やかにいきましょう、話せば分かる、ハハ……。
 と笑ってごまかせるかどうかが問題だ。
 天にも冗談が通じるといいんだけど。
 でも、神は笑いを理解すると私は信じている。
 笑いもまた、間違いなく人間の本質のひとつなのだから。

 2月21日(月) 「自分専用の物差しを持ち歩きたい。
            その都度人のものを借りていたら正確には測れない」

 誰かと自分を比較して自信をなくしたり持ったりするのはなるべくやめるようにしたい。
 どちらにしてもその判断は危うい。
 誰かが正解の人生を生きてるわけでもないのに、その人と比べて自分が駄目に思えて、せっかく持っている自信まで失ってしまうなんてもったいなすぎる。
 逆に、駄目な人を見つけて安心しするのもまずい。

 他人を物差しとするのは、あまりにも不確かで、軸が揺らぎすぎる。
 その都度他人と自分を比較して一喜一憂していては、自分が本当はどうありたいのかさえ見失う。
 誰の中にも正しさと間違いはあって、こちらがうらやましいと思ってる相手も、実はこちらをうらやましがっていたりもするものだ。
 みんな何かを得るためにいろんなことを犠牲にしている。
 正しく生きてるように見える人も、他人が思うほど自分に確信を持ってるわけでもないはずだ。
 そもそも、他人のいい部分と自分の駄目な部分を比べて勝とうというのが無理がある。

 個人主義がいいというのではない。よそはよそうちはうち、という言い草もどうかと思う。
 そうじゃなくて、他人と自分を両方尊重しようということだ。
 誰かが白ならそれと違う自分は黒だと決めつける必要はない。
 他人も自分も両方白の場合もあるし、どちらも黒ということもある。

 個人的には全員が黒でもあり白でもあると思っているけど、そういう発想も無責任なものなので、それはそれであまりよくないのかもしれない。
 ただ、確かなのは、自分の良し悪しを決めるのは他人の生き様ではなく、自分自身の在り方なのだということだ。
 自分が正しいか間違っているかを人に決めてもらう必要はない。
 自分専用の物差しを作って、それをいつでも取り出せるようにしておきたい。

 2月20日(日) 「小さな甘さも積もれば大きな甘さ。
            自分に対して厳しすぎず、でも甘やかしすぎず」

 まだまだ一日に対する危機意識が甘すぎる、と最近自覚することが多い。
 それなりに詰め込んではいるつもりではいるけど、いろんなことをあっさりと先送りにしてしまってもいる。
 夏休みが始まってまだ一週間くらいの小学生みたいに。
 明日死ぬつもりで今日を生きねば、というのはちょっと極端すぎて現実味がないけど、せめて余命一年と宣告されたくらいのつもりで今日を生きなければと思う。
 わずかな甘さも毎日積み重なっていけば大きな甘さとなる。

 自分を甘やかすことで怖いのは、将来が不安だからとかそういうことじゃなくて、自分が自分を許せなくなるからだ。
 誰かに対するポーズとかそういうことでもない。
 言い訳がかっちりと成り立つように、隙をなるべく作らないようにしたい。
 誰が私を許さなくても、自分だけは自分のことを許せるように。
 一日くらい怠けても大丈夫だろうという甘えが、やがて命取りになる。

 私にとって一番甘いのは自分であると同時に、一番厳しいのも自分だ。
 甘やかすだけの母親と、厳しいだけの父親の板挟みになってる子供みたいだけど、その間で上手くバランスを取っていきたい。
 甘えすぎず、頑なになりすぎず、楽しみながら出来のいい人間を演じられればそれが一番だ。

 2月19日(土) 「汚れ役も確かに必要。
            でも、もっと必要なのは汚れないきれいな人だ」

 自分が汚れてしまうのは本人の勝手だけど、その人間と関わらざるを得ない人にとってはとても迷惑な話だ。
 ときにそのことで他人に大きな傷を負わせてしまうこともある。
 身内や親しい人だけでなく、その人のことを好きな人間も被害者になる。

 ただ、この世界は全員がきれいな人間では成立しない。
 汚れ役も必要だし、必要悪というのもある。
 だから、汚れることを否定することはできない。

 けど、それでもこの人だけは汚れて欲しくないと思わせる人が確かにいて、それは勝手な願望ではあるのだけど、そう思われる人は人助けと思って最後まできれいなままで一生を終えるべきなんじゃないだろうか。
 京都はいつまでも京都らしくあって欲しいと思わずにいられないように。
 きれいな人は、この世界の希望として絶対に必要だから。

 みんながみんな、世界の裏側や人の汚さを知って汚れてしまわなくてもいい。世間知らずでお人好しでも、それを馬鹿にしたりするのは違う。
 それは必ずしも人として成長してないということではない。

 もっと個人的なことを言えば、私はきれいな人間が好きだ。
 できることなら、きれいな場所で、きれいな人たちと生きていたいと思う。
 私にとってはきれいな方が楽だから。

 2月18日(金) 「他の誰にも勝たなくていいから、
            昨日の自分には負けないようにしたい」

 自分の思惑通りにいかない日は多いけど、その中でも何かひとつくらいは収穫を得たいと思う。
 そのためには今日という日に、なるべく新しい要素を持ち込むようにしたい。昨日まで自分の中になかったものを。
 今日の始まりと終わりが同じ自分であったら、それはとても寂しいことだ。一日を生きたかいがない。

 行ったことにないところへ行ったり、したことのないことをするのが一番だけど、毎日そうもいかない。
 何もない日常の中から何を拾えるかが大事になってくる。
 同じ生活習慣を繰り返すだけでも、そこから何かひとつでも見つけて手にしたい。
 そのためには、新しさを意識して受け取ることが必要だ。
 テレビや映画を観るにしても、本を読むにしても、友達や家族と話しをするにしても、昨日までの自分は経験してないことを今日の自分はしてるのだという自覚が欲しい。
 そうすることによってのみ、自分の中で新たな収穫となるはずだから。

 毎日を無自覚に過ごしてしまっては、それこそ自分の寿命を減らしてるだけになってしまう。
 一日いちにちを無駄にするのも自分の血肉にするのも、心の持ちようにかかっている。
 昨日までの自分がうらやましがるような今日の自分でありたいと、私は毎日願っている。

 2月17日(木) 「小さな親切ってそんなに大きなお世話かな?
            それはもう、今は昔の話じゃない?」

 親切にされた恩返しは、当人ではなく誰か他の人にする方がいい。
 親切が二人の間で往復すると、そこで完結してしまって、社会に還元されないから。

 金は天下の回りものというけど、親切もそれと同じように回したらどうだろう。
 親から受けた恩は自分の子供に、友達からの親切は別の友達に。
 見知らぬ人に助けられたら、自分もどこかで他人に同じだけの親切をしたい。
 自分が受けた恩以上のことをする必要はない。同じ量しかしなければ自分の中に不満や不公平感を作らずにすむ。

 クリスマス会のプレゼント交換のようなものだ。そうやってみんなが親切を持ち寄って、誰かの親切を自分が受け取り、自分の親切が誰かのところへいって、みんなが喜ぶのが一番いい。自分で自分にプレゼントするよりも。
 多くの人が自分の中にプレゼントを持っている。ただあげる相手がいないと思い込んでいるだけだ。
 それら多くのプレゼントを世の中に出さずしまい込んだままでいるのはもったいなすぎる。

 これを牧歌的で非現実的な発想だと決めつけて何もしなければ、親切は相変わらず淀んだまま動かない。
 でも、自分ひとりでもやってみれば、そこからささやかな流れが生まれるんじゃないか。
 もしかしたらそれがいくつもの支流を生み、やがて大きな流れになるかもしれない。
 今、この世界では、小さな親切が決定的に不足している。

 2月16日(水) 「黒服封印。
            明るさの自己演出」

 少し前から、出かけるときは黒い服を意識的にまったく着なくなった。
 かつての黒信奉の私からは考えられないことだ。
 なるべく明るい服を着るようにしている。目立つ色じゃなくて、白とか明るい茶系統とかを。

 何故黒い服を着なくなったかといえば、とにかく最近の私は暗いのが極端に嫌になったのだ。
 暗いのはいけねえ、というのが自分の中の合い言葉みたいになっていて、毎日何度も繰り返している。
 人間もそうだけど、暗いのはやっぱりよくない。
 暗い歌もあまり聴きたくない。

 最近は犯罪も暗いのが増えて気が滅入るから、せめて自分だけでも明るくしようと思う。
 服装と気分というのはかなり密接な関係があって、その日着る服によってずいぶん気持ちが違ってくるものだ。
 フォーマルな服装をすればしゃきっとした気分になるし、だらしない格好をすれば気持ちも油断しがちになる。
 全身真っ黒な格好をしたときは他人に対しても世間に対しても身構えてしまうようなところがあるけど、派手で目立つ色を着ると視線に負けないように背筋が伸びる。
 これだけ変わるのだから、着る服を自己演出することで気持ちもコントロールできるはずだ。
 黒は当面、一切着ないことにする。

 そういうわけで、最近着るものが少なくなってしまって、少しずつ買い足している。
 黒を封じられてしまうと私の場合、ずいぶん困ったことになってしまうのだ。黒い靴も駄目となると、上から下まで全部入れ替えないといけない。
 今のところ無難に白からベージュを通って茶色へのグラデーションでなんとかしてるけど、今後は新しい色を見つけていきたい。
 応用のきく色で派手すぎない色というと何色になるんだろう。
 赤、青、黄色、緑……。
 夏場は何色でもそんなにおかしくないけど、冬場はインナー、アウター、パンツ、靴までトータルで考えないといけないから難しいし、選択の幅は狭くなる。
 そう考えると、実際着られる色はけっこう限定されていることに気づく。
 近頃、街ゆく人の服装がとっても気になる私であった。

 2月15日(火) 「高いところから見下ろして見えるのは世界の半分。
            下から見上げて見えるのも半分」

 高いところに登れば、全体の様子がよく見える。
 でも、いい気になってはいけない。それが世界を理解するということではないから。
 高いところにずっといたら、見えるべきものが見えなくなる。だから、下に降りてこなくてはならない。
 かといって、ずっと世間に揉まれてばかりいたら人間は分かっても世界を見失うことになる。

 低いところからは、高いところは下の部分しか見えず、全体を捉えるイメージを持てない。
 高いところからは街並みは見えても人間一人ひとりを見ることはできない。
 世間の裏側を知りすぎれば、表側のきれいな部分が見えなくなる。

 大切なのは、どこから見るかではなく、どれだけ多くの視点を持てるかだ。
 高いところ、低いところ、世界の中心、外側、人の近く、遠く、そうやって自らが移動することで多くの視点を獲得することが必要だろう。
 そうすれば世界や人間を総合的に理解できるようになるし、今自分がいる場所から別の視点を想像できるようにもなる。

 けれど、視点が増えれば増えるほど判断は難しくなる。
 世界の多様性や多面性を知れば知るほど、自分の側から一方的に断言できなくなる。人の立場や心情が想像できるから。
 いくら賢くなっても、学ぶべきことは少なくならない。むしろとりとめなく増えていく。

 私はもう判断を放棄している。
 自分が思う正義も絶対じゃないことを思い知らされたし、だからもう誰も裁く気になれない。
 世界だって見えてはいない。
 地平線の向こうだってイメージできない。
 ここまで生きて分かったことは、どこまでいっても理解できないということだけだ。

 これからは判断しないまま生きていく方法を学ぼうと思う。
 見て、触れて、感じて、考えて、あとは喜ぶか悲しむか笑うか泣くかするだけだ。
 それに加えて感動があればもう文句はない。
 そうやって、この存在が行けるところまで行こう。
 行き止まりを自分の目で確かめるために。

 2月14日(月) 「悪人は正義の味方の悲しき犠牲者。
            光のないところに影は生まれない」

 正しさはみんなで分け合えばいい。
 間違いも、罪も、痛みも。
 誰も、ひとりですべてを背負いきれるものじゃない。そのことをまず最初に理解したい。
 だから、地上にこれほどたくさんの人間がいる。誰かがひとりで正しさを体現できるなら、こんなに大勢の人間は必要ない。そもそも歴史もこんなに長く続いてない。
 そして、生態系システムを保つためにこれほど多様な生物もいる。
 とても回りくどい成立の仕方だけど、きっとすべてひっくるめて必然なのだろう。遊びや彩りの部分も含めて。

 ひとりは全員のために、全員はひとりのために。
 強者は弱者のために、弱者は強者のために。
 正義は悪のために、悪は正義のために。
 この世に正義の味方に憧れる人間がいる以上、悪人がいなくなることはない。
 警官になりたい人間がいなくならない限り、犯罪者がいなくなることもない。
 悪があるから正義が生まれるわけではない。正義が悪を生み出しているのだ。
 光が影を生むように。

 この世界のシステムは、相反する立場の存在同士が互いを支え合うという形で成り立っている。
 光と影のように。コインの裏表のように。
 そうすることでしかどの存在も存在たり得ない。
 成功者と挫折者、金持ちと貧乏、才能と平凡、幸福と不幸、早死にと長生き。
 色分けしたり、線を引いたりしなければ、人はものごとを判断することができない。

 自分の対極の存在を否定することは、自らの存在をも危うくさせる。
 どんな存在も尊重するしかない。
 憎むべき存在も、その反対側にあるものを成立させるために必要なのだから。
 誰の中にも、正しさと間違いがある。
 自分だけが正義だなどと思い違いをすると、やがて自らを食い殺すことになる。

 2月13日(日) 「地球という絶対的な正しさが、
            個人の罪を飲み込んでしまう」

 自分はもう大丈夫だと思ったり、やっぱり駄目かもしれないと思ったり。
 いったん何もかもが上手くいって丸く収まっても、それはなかなか長続きしないものだ。
 浮いたり沈んだり、そうやって一生迷い続けるしかないらしい。
 それでも、これまで学んできたことや経験的に知ったことは、今後の大いなる助けになる。
 過ごしてきた歳月は無駄じゃない。
 乗り越えてきたいくつかの危機が、弱気になりかける自分を支えてくれるだろう。

 子供の頃、大人はなんて鈍いんだろうと思った。
 けど、それは内面が鈍くなったのではなく、皮膚が硬くなるように外側が硬くなったからそう見えただけだったのだ。
 今はそのことがよく分かる。
 一番深い本質的な自分というのは、なかなか変わるものではない。
 どんな大人の中にも、かつての少年や少女が一番奥に潜んでいる。

 私たちは案外大丈夫なのだと思う。
 今こうして生きている私たちは。
 根拠はないけど、なんとなくそう確信している。
 私でさえそう感じているんだから、もっと上の方にいる人もそう思ってるだろう。

 人も世界も、より良くすべきところは多々あるけれど、否定するところはどこにもない。
 何故なら、地球そのものが正しい存在なのだから。

 2月12日(土) 「正しくないものはやがてひとつもなくなるだろう。
            そこまで人類の存在が続かないかもしれないけれど」

 自分の正しさが正しさのすべてではない。自分の中にある正しさすべてをかき集めても、それは世界の正しさの一滴にすぎない。

 自分の中の基準だけで物事の正しさを決めようとすると、判断を誤るから気をつけたい。
 声高に自らの正しさを主張し、それを他人に押しつけようとしてる人に正しい人は一人もいない。
 正しさは人に与えてもらうものではなく、自分で発見するものだから。

 結局、正しさをどこまでも追求していくと、ありとあらゆるものが正しいということになる。
 肯定できない部分は無知によるものだ。
 世界を知れば知るほど肯定せざるを得ないものが増えていく。

 この世界にあるもので正しくないものは何一つないのだと私は思う。
 まだ本当にそのことに納得できているわけではないけど、そうなんだろうという予感はある。
 という考えが正しい、などと言うつもりはないけれど。

 2月11日(金) 「これから始まる表の周期12年の始まり。
            それはかつての自分の再生への試みでもある」

 邪念なく、真っ直ぐで、単純に本気で、怒ったり笑ったり人を好きになっていた時期がかつてあった。
 そのことは、今の生活の中でまったく忘れられていて、でもときどきふっと思い出されることがある。
 たとえば若い俳優たちのドラマを観たりしたときや、自転車に乗って並んで走る制服の二人を見たりしたときなんかに。
 あ、そういえばああだったなと、かつての感覚が一瞬よみがえる。

 懐かしいというより、あまりにも完全に昔の自分を忘れてしまっていることに驚く。
 いつの間にこんなふうになってしまったんだろう、と。
 若い人はいいなぁ、とかつて自分に向かって言っていた大人たちの気持ちが分かった頃にはもう遅い。

 過去を振り返ったり、思い出を懐かしんだりすることが楽しいというのではない。
 昔の無力だった自分に戻りたいわけでもない。
 ただ、ときどきでいいから、かつての気分だけでも自分の中に再現したいと思う。
 すぐに好きになったり嫌いになったり、焼きもちを焼いたりケンカしたり仲直りしたり、そういうことも気づいたら遠い出来事になってしまっている。
 計算もなく一所懸命になったり、意味も分からず熱くなったりということも。
 もう昔みたいにはなれないけど、それにしても今の私はあきらめすぎているんじゃないだろうか。
 あきらめが悪いのも格好悪いけど、あきらめが良すぎるのもいいことではないよな、と最近思い直している。

 時間や月日は12という数字を単位としている。
 一日は12時間が2回で24時間、一年は12か月。干支も12。
 だから12年というのは一周期と言っていい。
 0歳から11歳までは成長するための子供時代。12歳から23歳まではそれまで学んだことを実践する青年期。
 これを裏と表とするなら、24歳から36歳はもう一度学び直す裏の時期で、これからの12年はまた表の実践期と言うことができるんじゃないだろう。
 最初の12年が午前中で、後の12年が午後とたとえてもいい。

 これからの12年間を第二の青年期と思って、取り戻せるものは取り戻そう。
 再び学び直したことをいかしたい。
 実践という意味では、これが最後の表周期になるかもしれないから、今度こそ後憂を残さないように。

 2月10日(木) 「もっと速く。
            後悔が追いつけないように」

 過ぎ去った過去を嘆いても仕方がないと今の私たちは知っている。
 嘆いてもなげいても取り戻せないということを思い知らされたから。
 けど、今この時が過ぎ去る前に本当に、最善を尽くせているのかと強く問いかけられると、どうしても口ごもりがちだ。
 そしてなんとか言い訳をして理屈でかわそうとする。
 頭では分かってるけど現実はそうはいかないとかなんとか。
 駄目な大人の見本みたいに。

 私たちはもっと速く走ろう。
 問いかけを置いてけぼりにして、嘆きが追いつけないほど速く、もっと先に。
 自分自身が後ろを振り返っているような余裕がないほどのスピードでこの世界を駆け抜ければ、何の後悔もなくてすむ。
 バラードのテンポで生きるからセンチメンタルに捕まってしまうのだ。
 嘆いて何か重大な問題が解決するならそれでもいいけど、そうじゃないだろう。
 嘆きの天使や、憂いの王子に憧れる季節はもう終わったはずだ。

 2月9日(水) 「ここは歴史の流れの途中。
           来た流れと行く流れを間違えないように」

 自分の過去を振り返ってもあまりいいものは出てこないけど、歴史を振り返ることは何かしら発見があって意義がある。
 温故知新。故きを温ねて新しきを知る。
 よく言われることだけど、本当にそうだなと最近思う。

 歴史は、今私たちが立っている足下に何重にも折り重なっている。
 昭和、大正、明治、江戸、安土桃山、戦国、室町、南北朝、鎌倉、平安、奈良、飛鳥、古墳、弥生、縄文、先土器……。
 アスファルトで固められた道を車で走ってるとそういう気分にはなれないけど、歴史的な場所を自分の足で歩くと、足下にそんなものをかすかに感じる。
 歴史の教科書に載っている人物たちが、私たちが生活してるのと同じ場所で確かに生きていた。
 それぞれが求めるものを賭けて戦い、血を流しながら。
 幸せを探して、泣いたり笑ったりしながら。

 私たちが今くみとるべきなのは、彼らの想いなんじゃないだろうか。
 もちろん、彼らのしてきたことを知ることも大事だし、過去の失敗から学んで繰り返さないことも必要だ。
 けど、それよりもなんのために彼らが戦ってきたのかということに、もう一度よく思いを馳せた方がいいと思う。
 歴史は過去から現在につながり、ここから未来へと続いていく。
 その流れの中で今という時を捉える必要がある。

 現在を生きている人間は、過去を生きた人間から希望や願いを託された存在なのだということを思い出したい。

 2月8日(火) 「大事なのは上手くやることではなく、
            自分が何をしたいかを知ってること」

 知らなかったことを知ることは嬉しくて楽しいことだ。
 初心者から中級者になる入り口あたりは特に。
 けど、知れば知るほど知らないことが多いことに気づいて、だんだん苦しくなっていく。
 スポーツも恋愛も趣味も、人生そのものもそうだろう。
 先へ進むほどに歩みは遅くなり、時に後退することもある。
 ただ、それでも知ることを恐れてはいけない。
 苦しくなることを避けようとせず、あえてそのまま進もうとしなければ。

 たとえば本好きが本屋に入って嬉しいのは最初だけで、次には必ず絶望感に襲われる。
 一生読み続けても読み終わることはないという絶対的な事実に気づいて。
 でも、大切なのは完成させることではないのかもしれない。
 続けることこそが何かにつながるのだと思う。
 知識欲、向上心、コレクション、創作、制作……。
 勉強も、芸術も。
 続けていくことでしか見えないことが必ずある。それが知りたければ途中でやめないことだ。

 最近、写真を撮るのが怖い。
 自分が撮る写真のすべてが間違っているような気がして。
 それは写真の難しさが少しずつ分かってきたからなのだろうけど、だとしても決して嬉しくはない。早くここを抜けたいと思ってしまう。
 でもここから一歩踏み出すためには、どう撮るかを知ることではなく、何を撮りたいかを見つけることに違いない。
 これもまた人生全般について言えることだ。

 大切なのは、上手くやることでも賢いことでもない。自分が本当に何をしたいのかを知っていることだ。

 2月7日(月) 「デジカメ写真は趣味でもあり、先生でもある。
           写真を撮ることで気づかせてもらったことは多い」

 デジカメ写真は、想像していたよりずっとたくさんのことを私にもたらしてくれた。
 写真を撮ることの楽しみはもちろん、いろいろなものに対する興味を持たせてくれたのは、デジカメで写真を撮るようになったからに他ならない。
 花や鳥の種類の多さや名前だとか、家の近くにある神社や史跡だとか、歴史に対するあらたな好奇心だとか、季節の移り変わりや彩りだとか。
 それらは、思いがけず嬉しい副産物だった。

 かつて私は、ゲームに大切なことをたくさん教えてもらった。
 映画でも小説でもなく。
 今はデジカメ写真がそれを引き継いでくれている。
 まだまだ、この世界で学ぶことは多いことを思い知って謙虚な気持ちにもなれた。
 楽しいことや面白いことが無数にあることも再認識させてもらった。
 絶望してる暇などまったくありはしない。

 写真が気づかせてくれた一番重要なこと。
 それは、この世界は光と影が織りなす豊かな色彩だということだ。
 写真だけでなく、人間も、社会も、世界も、宇宙も、歴史もそうだ。
 光が色を生み出すのは特定の色が反射してるからで、影の中にも色は隠れている。

 地球は色に満ちている。
 私たちは、溢れる色彩を見て感じることができる、とってもとっても幸せな生き物だ。
 そして、光でも影でも、その両方でも好きなものを選べる。

 2月6日(日) 「いつから分別くさい大人に成り下がったんだ。
           腹が立たないのは侮ってるからだ」

 もっとちゃんと腹を立てようと、最近思った。
 怒らなくなったのは、いつからか高みの見物をしてるような気になってたからなんじゃないか。
 他人や社会に対して怒らないことが人間としての成長を示すものだと思ってきたけど、それはやっぱり違うかもしれない。
 寛容なのと無関心なのはまったく違うことだから。

 他人との距離感も離れすぎているようだ。上手く距離を保って摩擦を避けることが上手くなりすぎていた。
 悪い意味で大人になろうとしすぎているような気がする。

 怒るといっても、ささいなことで怒り散らすということじゃない。
 たとえば、悪いことをしてる人間を見たら本気で叱るというようなことだ。
 駄目なものは駄目だと言って戦うことと言ってもいい。
 自分でも気づかないうちにここ何年か冷めすぎていたようだ。

 怒りを呼び覚ますことで、同時に喜びや感動も増すことも期待できるだろう。
 喜怒哀楽の振幅をもっと大きくすることで自分自身を活性化させたい。
 分別くさくなるにはまだ早すぎる。

 2月5日(土) 「ハッピー・アクシデントは確かにある。
           でも寝て待つのではなく迎えに行かないと」

 ハッピー・アクシデントを信じながら待つ人生と、そんな都合のいい偶然を当てにせず自力で道を切り開こうとする人生と、どちらかをちゃんと選ばないといけないんだろうか。
 困った時の神頼みは駄目で、日頃から信心深くなければならないなんて論理が本当に正しいのかどうか。
 強い意識を持って努力する人間だけが偉くて、幸運に頼ろうとする人間が弱くて劣った人間なのだとしたら、私たちは夢を見ることさえ許されないのだろうか?
 たとえそれが正論だとしても、そんな正論ならいらないと思う。
 もちろん、ただ待つだけで何の努力もしない人間に幸せな偶然など訪れないだろうけど、信じて向かっていけばどこかで当たるものだと私は信じたい。
 待っていて来ないから、こちらから迎えに行けばいい。

 ハッピー・アクシデント。
 そんなものを心のどこかで待っていてもいいんじゃないのか。
 コミックみたいに走りながら角を曲がったら運命の人とぶつかるかもしれない。
 犬の散歩をしてたら道で1億円拾うかもしれない。
 そんな冗談みたいなことが起こるから人生は面白い。

 人生が夢なら、私は自分が見たい夢を見たい。
 現実を超える夢を。
 そのためには、夢を見る力をつけなくてはいけない。
 人が見せてくれる夢を見させてもらうだけじゃなく。

 2月4日(金) 「中学生って小さかったんだ。
           中学生の頃は大きくなったつもりだったのに」

 最近、軽く愕然としたこと。
 ---中学生がとっても小さく見えたこと。
 それは、自分が歳を取ったことの証だ。
 まぎれもなく。

 でも人の感覚の不思議なものだ。
 下から見上げるのと、同じ視線で見るのと、上から見下ろすのとでは、同じものを見ても違って見える。
 中学生の頃は、自分もずいぶん大きくなって大人に近づいたと思っていたのに。

 高校生が小さく見えるようになるまで、あと何年の猶予があるんだろう?

 2月3日(木) 「それじゃあ、また、と人は言う。
            私たちはその続きを探してるんじゃないだろうか」

 忘れたいと思う人に笑顔で再会するためには、どれくらいの歳月を要するのだろう?
 5年? 10年? もっと?

 きっと、誰の中にもいるだろう。
 二度と会いたくない人、今は会いたくないけどいつか再会したい人、会いたいけど会えない人が。

 こんなことも多くの人が感じてるかもしれない。
 別れても好きな人がいる一方で、会わなくなったとたん驚くほど自分の中に存在しなくなってしまった人がいる、と。

 人は再会するために生きている。
 それは、何年か前に別れた人かもしれないし、なくした大切な人かもしれない。
 何千年も前の約束を果たすためということもあるだろう。
 出会いがあれば別れもあるというのは使い古された言葉だけど、更に言えば、別れの次には再会がある。
 幸福な再会は千分の一かもしれないし、一万分の一かもしれない。
 でも、人はその一点に向かって生きているんじゃないだろうか。

 それじゃあ、また。
 人は何気なく口にする。
 それは再会の約束。
 だから私は、それじゃあまたという言葉が好きだ。
 じゃあまた明日。
 それもまた愛の言葉。

 2月2日(水) 「最善を尽くしてるわけじゃないけれど、
            次善でありたいとは思う」

 何故先に進もうとするのか?
 ここにとどまるよりましだと思うから。
 幸せになろうとするのも、賢くなりたいと思うのも、正しくありたいと願うのも、みんな同じ論理だ。
 自分によってより気持ちのいい方を選ぼうとしてるだけで、深い理由はない。
 絶対だとか、その方がいいに決まってるなどと確信を持って生きてるわけじゃない。

 最善を尽くすなんて言葉で言うほど簡単じゃないけど、どっちがいいかを選ぶ二者択一ならそんなに難しくない。
 理屈は分からなくても選ぶことはできる。
 あとは自分の感覚を信じるだけだ。こっちの方がよさそうだなと。
 たとえそれが間違っていたとしても、頼れるものは感覚しかないから仕方ない。

 私は未知のものに惹かれ、導かれるようにそっちへ向かってよろめきながら進むだけだ。
 何があるのかは分からないけど、きっと何かがあるのだと信じて。
 向こう側のもっと先へ。

 2月1日(火) 「忘れることは残酷で優しい。
            時の流れと同じように」

 忘れることの残酷さと、忘れることの優しさは、いつも隣り合わせで混じり合う。
 時の流れが良いことも悪いことも流し去ってしまうのに似て。

 忘れないで欲しいと願いながらも、忘れてもらった方が楽だとも思う。
 たとえば、大切な人を失ったことを忘れないことが愛情なのか、忘れてあげることが優しさなのか、分からない。
 忘れないことは縛ることで、忘れることは解放してあげることかもしれないから。

 私が忘れてしまった人が私のことを覚えていて、私が覚えてる人が私のことを忘れてしまっているということもある。
 どちらをどう悲しんでいいものか。
 長い時間を共有した二人でも、覚えている記憶は別々だ。
 嫌なことは忘れて、いいことだけ覚えているという姿勢も正しいのかどうなのか、よく分からない。
 そんなに都合よくはいかないし。
 もしかしたら、全部覚えていることが誠意なのかもしれない。

 地球は私たち人間のことをいつまで覚えていてくれるのだろうか。
 人間? そういえば一時期たちの悪い暴れん坊で自分勝手なそんなやつらがいたな。でもすぐに自滅して消えたな。
 という程度でしかない可能性もある。
 だからといって地球が人間に対して優しくないとは言えない。
 忘れないということはただの感傷なのだろうか。

 覚えている、忘れないでいるということがどれくらい大切なことなのか。
 ただ、人間がどんなに進歩しても、忘れるという能力がなくなることはないだろうと思う。
 人は忘れることで精神の安定をなんとか保つことができているのだから。
 それを思うと、やっぱり忘れることも大切だということだろう。
 忘れることはなくすことじゃない。
 過去が消えるわけではないように。

 1月31日(月) 「手を伸ばした先で触れられる幸せを。
             空想だけでは満たされない」

 冬を恨まず、春を待たず、夏に思いを馳せない。
 今ここにある季節を愛でること。
 それが幸せになる方法だから。

 ここにないものを追いかけていては、いつまで経っても満たされることはない。
 暑い夏には涼しい秋を恋しがり、寒い冬は暖かい春を待ちわびる。そんなふうに遠い幸せを思っても手応えがなさすぎる。
 それよりも、今自分がいる場所で最大限の喜びを見いだすことを考えたい。
 冬には冬にしかない良さや楽しみがある。

 幸せのエッセンスはどこにでもある。
 身の回りすべてに。
 それを引き出せるかどうかだけだ。
 手を伸ばせば触れられる。

 他人をうらやましがらず、日常から幸福をしぼり取る。
 そうやって絞り出して飲み干した幸せこそが心の渇きを癒してくれるだろう。
 水道の蛇口をひねったら出てくる消毒された水をありがたがることができない私たちは、誰かに与えられた幸せ以外のものを自ら求めるしかない。

 1月30日(日) 「正しさも儚いことを知れば、
            短い命を愛おしむことができるだろう」

 どんな正しさも一過性のものだということに気づけば、傲慢にもならず、絶望もせずに済む。
 テストで100点を取っても、それで終わりではなく、また次々に新しいテストがやって来るように。
 夏に一週間だけ生きられる蝉をいたわるように愛おしむこともできるだろう。

 絶対的な正しさというのは存在すると思う。
 ただしそれは一瞬のことだ。連続性はない。
 もちろん永続性もない。
 たとえば、恋愛感情のピークも正しさだと思うし、何かの仕事で賞を獲ったりするのも正しさに違いない。
 でもピークはほんの一時のことで、そこに長くとどまることはできない。
 正しさもまた一期一会で、出会いがあれば必ず別れがある。
 そのことを最初から自分に言い聞かせて生きていれば、正しさという幻影をいつまでも追いかけ続けることにならずに済む。

 正しさは目的地じゃない、通過点だ。
 私たちは正しい人間になることを目標にするのではない。正しさを超えることを目指すのだ。
 でも、だからといって横を通過していいわけじゃない。
 いくつの正しい瞬間を通過したかということも、その人間を評価するひとつの基準になるだろう。

 1月29日(土) 「すべてを知るという究極の野望へ向かって、
            私たちが進んでいるこの道は正しいのか?」

 すべてを知りたいという願いは、究極の野望であると同時に、禁断の野心なのかもしれない。
 もし、天というものが存在するなら、決してそれを許すことはないないだろう。
 すべてを知るには全体であるしかなく、それは唯一でなければならないから。

 それでも人は知りたいと欲せずにはいられない。
 それは何故かといえば、やはり知ることは感動だからだ。
 行ったことのないところへ行ってきれいな景色を見るのも、歴史書を読んで勉強するのも、空に浮かぶ星を天体望遠鏡で探すのも、感動したいからだろう。
 既知のものが増えれば増えるほど、人は遠くを目指すようになる。
 前後左右、上下、大小、あらゆる方向へ向かおうとする。
 その欲求がどこまでもエスカレートしていくのは必然だし、その先に全部まとめて知りたいと思いが生まれるのも当然だ。
 人は知るために生きていると言ってもいいのかもしれない。

 人類は絶滅するまでにどこまで知ることができるようになるんだろう。
 人類が滅んだ後に、この思いを受け継いでくれる生き物はいるんだろうか。
 私たちはより多くのことを、少しでも早く知りたいと願う。そして、日々あらたなことを知っていっている。
 まるで何かに追われていてそれから逃げるみたいに。

 いつか、充分知ったからもういいやと思える日来るんだろうか。
 それとも、生きるためには食べ続けるしかないように、存在するために知ることを求め続けるしかないのだろうか。
 この果てしない未知との戦いに人類は勝てるのか。
 できることなら最後まで見届けたいと思うけど、私の存在はそこまで持つのかどうか。

 1月28日(金) 「すべてはあり得ること。
            その外側にあるものを見たいと思う」

 この世界が自分の理解の範囲内に収まってるなどとは、ゆめゆめ思わないし、そんな恐ろしい想像はしたくない。
 もちろん、そんなことを望んでもない。

 私はいつでも、自分の想像を超えることが起こって欲しいと願っている。
 それはほとんど祈りに近い。
 この世界に絶望してしまわないように。
 けど、その願いは叶えられることもなく、理解や空想の内側で完結してしまう。
 とても残念なことに。

 未体験のことや、初めて目にすることも、それが理解を超えるとは限らない。
 たとえば、UFOにさらわれることも、幽霊を見ることも、大災害に遭うことも、自分では経験してなくても知識としてはある。それらは理解の範囲外ではない。
 理解を超えた体験こそが私を安心させてくれるという予感がある。

 それとも、理解の外のことは日常的に起こっているのだけど、私が認識できてないだけなのだろうか。
 だとしたら、理解を超えるためには、自分の理解力を上げるしかないのかもしれない。
 理解の外へは出られなくても、理解の範囲を広げるということで。

 単純に言えば、もっと新鮮な驚きが欲しいということだ。
 それは、あり得なければあり得ないほどいい。

 1月27日(木) 「満足しすぎず満足すること。
            その境界線を見失わないこと」

 満足することと、満足してしまうことの境界線は、とても曖昧であやうい。
 こっちにいるつもりがいつの間にかあちら側へはみ出していたりする。
 満足することは大切なこと。
 でも、満足してしまうことは危険なことだ。

 人間、分相応が一番だと言い、現状に満足せず向上心を持てと教えられる。
 どちらの言い分ももっともで、間違ってはいない。
 でも両立は難しい。
 現状に満足しつつ更にどん欲に欲するというのは言葉で言うほど簡単なことではない。
 満腹のときに次のご飯のことはあまり考えないように、人は基本的に怠惰だから、満足してしまうとそれ以上を求めなくなりがちだ。
 どちらの言うことにより多く耳を傾ければいいのか迷う。

 人は感覚的に---もしくは自分にとって都合のいいように、満足と不満を出したり引っ込めたりしながら生きている。
 それで別に問題はないといえばない。
 不満を追いかけなくても向こうからやって来るから、それに対処していけばいいだけだとも言える。
 でも、もう少し意識的に生きようとした場合、向上心の持ち加減がなかなか難しい問題となる。
 満足することが正しいのか、満足しないことが必要なのか、さて、どっちなんだろう。

 最近の私は、変に満足しすぎてしまってるようなところがある。
 妙にしおらしいというか。
 でも取り立てて不満がないところへ無理矢理不満を見つけていくことがいいことなのかどうなのか。
 もちろん足りないものだらけには違いない。
 自分では意識しないままあきらめすぎてしまっているのだろうか。
 だとしたら、もう少し積極的に自分の中に不満を見いだして求めて行く必要がある。
 少しその方向で考えていきたい。

 1月26日(水) 「変わりたい自分を知らなければ、
            自分の気に入るようには変われない」

 変われないなぁと、深夜の部屋でひとり苦笑いを浮かべてみる。
 それを誰も見てないのか、それとも誰かがどこかで見ているのか。
 新しい年になっても、誕生日を超えても、何も変われないでいる。

 変わりたいと思っても、変わったあとの自分のイメージがなければ、自分では変われない。
 偶然を待つだけでは、あまりにも不確実だ。
 必要なのは、変わりたいという強い気持ちよりも、変わるべき自分の姿を具体的に思い浮かべることだ。
 人は日々変わっていくものだけど、自然に任せていたら、自分が気に入るようには変われない。
 自然任せにどう変わるかを楽しむという姿勢も間違いではないと思うけど。

 20歳の頃の自分と今の自分を比べたら、ずいぶん変わってしまったなと思うけど、それでも変わることの難しさを最近あらためて感じている。
 きっかけなんて期待していても、そう訪れるもんじゃない。
 自分から自身を崩していかないと。

 久々に会う人によく、変わらないねと言われるけど、それはやっぱりいいことじゃない。
 ずいぶん変わったなと言われるくらいでなければ。
 まだまだ良い方向に変われる余地はあるはずだ。

 1月25日(火) 「伝えられなかった空白。
            未来でそこに言葉を埋められるだろうか」

 言ったことは取り消せないけど、言わなかったことはもう伝えられない。
 あのときの自分はもうここにはいなくて、伝えようとした相手はもうあの場所にはいないから。
 すべてを口に出して言う必要はないし、全部を伝えられるわけでもない。
 ただ、どうしても言いたくて言えなかったことは、人生の空白として残ってしまう。それがやっぱり残念に思える。

 伝えなくていいこと。
 ---正確な批判。
 伝えられるものなら伝えた方がいいこと。
 ---自分が好きだということ。
 それは恋愛だけじゃなく、両親や友達に対しても。

 私はいつか、謝りたいとずっと思ってきた。
 ここという決定的な機会に。
 感謝の言葉の安売りはしたくない。
 でもいつかそのときがきたら、感謝の言葉とともに心から謝りたい。
 その日がいつか必ず訪れますように、と強く願っている。

 1月24日(月) 「恥ずかしいけど恥じなくてもいい。
            生きるほどに過去は正当化される」

 過去を思い返すと恥ずかしいことばかりだけど、生きることは基本的に恥ずかしいことだから、それを恥じることはないと思う。

 恥ずかしいを、照れくさい、と言い直した方がいいかもしれない。
 馬鹿な悪さをして叱られたことも、ささいなことで深刻に悩んだことも、好きな子に書いたラブレターも、少年の自分がしていたことはどれもこれも照れくさいことばかりだ。
 でも、それらを照れくさいと思い返してあげられる大人の私がいるということが、大いなる救いになってるような気がする。
 ここまで生きたことで、過去のあれこれを正当化できたと思う。
 恥ずかしい記憶は、みんないい思い出になった。

 物心ついてから今に至るまで、好きになった女の子のことを最初から全員思い出してみる。
 ひとりで照れ笑いを浮かべたりしながら。
 ああ、生きることは素敵なことだな。
 みんな元気にしてるかな。

 1月23日(日) 「この世を夢のゴミ捨て場にしないように。
             自分のものは捨てないで最後まで持っておく」

 頑張らなくてもいいから挫けないで。
 という励まし言葉で、夢や希望の延命措置をとりたい。
 自分に対しても、人に対しても。
 この世には、途中で投げ捨てられた夢の残骸が多すぎる。
 どんなに干涸らびても、捨てずに持っていた方がいい。
 死んでも尚、しっかり握って放さずに。
 夢を捨てるのは、あの世に行ってからでも遅くない。

 1月22日(土) 「2005年の新しいことを探す。
            単発ではなく、自分の中で続いていくことを」

 せっかく新しい年なんだから、何か新しいことを始めたり挑戦したりしようじゃないか、とふと考えた。
 確かにそうだ。いい考えだ。そうしよう。
 今までしたことがないことはもちろん、思いついたこともなかったことなら尚いい。
 何かないだろうか、これだっ、てものが。
 面倒であればあるほどいいとも言える。思いついても面倒だからやらないでおいたものがたくさんあって、それはやっぱり自分にとって損失になってきた。
 その中の親玉みたいな面倒なことをやって、これまでの分を少しでも取り返せたら。
 せっかくやるなら自分にとってプラスになることがいい。たとえばスノボに挑戦するとかそういうことじゃなくて。
 スキューバダイビングをして新しい世界を体験するとか、本物の登山をするとか、まったく無縁だった乗り物の免許を取るとか、そういうことがいい。
 何年か先で、2005年を振り返ったとき、強い印象として残ることをしたい。
 まあそう簡単に思いつくものでもないだろうけど、これから毎日いろいろ考えたり調べたりして、1月中には何かひとつはっきりしたものを決めたい。
 新鮮で斬新な思いつきが欲しいところだ。

 1月21日(金) 「後に残るのは意味や理由じゃない。
             深く刻まれた記憶だ」

 意味は歳月の風に晒され、固く干涸らび、やがて崩れてしまう。
 残るのは、魂に刻まれる記憶だけだ。
 音のないフィルム映像のように。
 だから、意味の幻影を追うのをやめて、生きた証を自らに強く焼き付けよう。
 風雨に浸食されても簡単に消えないくらい深く記憶を刻み込む。
 私たちの正体は意識で、意識はつまり記憶なのだ。

 1月20日(木) 「ずっと向こうで大きく手を振る。
             そして、もっと先へ駆けていく」

 偉大さを否定するつもりは全然なくて、でも憧れもなくて、偉くならないまま、ひとりで勝手に、跳ねるように、飛ぶようにどんどん先へ進んでしまって、ずっと遠くから振り返って、おーい、こっちだぞー、と大きく手を振りながら、にこやかに、ほがらかに、みんなを呼ぶような自分でありたいと願う。

 1月19日(水) 「小さな不幸を利用したい。
            それが世界とのつながりになる」

 ずっと心に引っ掛かっていたトゲのような心配事や用事が、消えたり済んだりすると、確かにほっとはするのだけど、だからといって幸せになるわけじゃない。
 あれさえ終わればどんなにすっきりしていいだろうと思うけど、案外そうでもないことが多い。
 逆に気が抜けてしまったり、退屈になったり。
 引っ掛かりを言い訳にして怠けたり先延ばしにしてたことが、支えを失ってかえって気が重くなったりすることもある。

 小さな不幸は、捨ててしまわずに飼い慣らしておいた方がいいのかもしれない。
 排除しようとするから気になるわけで、共存する道を探した方が心の平穏が保てるということもある。
 だんだん年を取ってきたら、生きることに上手く順応していかなければと思う。
 そのためには、自分の内外にあるマイナス要素と仲良くつき合っていかないと。

 1月18日(火) 「細部に本質が宿る。
            省略しないで見るようにしたい」

 まだ私が知らないささやかさがこの世界にたくさんあって、小さな悲しさをもっと知って、自分に何が言えるのかを考えたい。
 あまりにも小さな悲しみを悲しんでる人の前で言葉を失ってしまったとき、そう思った。
 たとえ何もできなかったとしても、何かは言いたい。
 自分にとって正解の言葉を見つけなければ。
 笑い飛ばしたり、慰めたりする前に。
 ディテールを省略してしまえば、この世界の本質を見失う。

 1月17日(月) 「いつか来るかもしれない日のために。
             たとえその日が来なくてもしておきたいこと」

 自分がいつか役に立つと信じながら生きていくのは、健全な生き方だと思う。
 今はまったくの役立たずでも、自分を自分を駄目だと決めつけてしまって努力をやめてしまうのはよくない。いざ出番が回ってきたとき立ち後れて何もできなくなってしまうから。
 声が掛かったらいつでも飛び出せるように心の準備だけはしておいた方がいい。
 一生出番はないかもしれない。
 でも、私たちはみんな、レギュラーじゃなくてもベンチ入りはしてるのだ。スタンドで応援してるわけじゃない。
 たとえ、負け試合の代打でも、何かができる可能性が最後まである。
 世の中の自分をあきらめかけてしまってる人たちと、何よりも自分自身に声援を送りたい。
 最後まであきらめるな、と。

 1月16日(日) 「毎日使い捨て。
            使い捨てだからこそ大事にしたい」

 毎日を特別と思わなくても、毎日は特別な一日だ。
 人生の最初から最後まで。
 今日は昨日とも明日とも違う一日で、誕生日と同じくらい特別な日なのだということを忘れないようにしたい。

 私たちは、世界中を一方通行で回ってる旅人みたいなものだ。
 今日いるところへは二度と戻ってくることはできない。
 この今日という場所が特別な場所なのだ。今立っている今日この場所が。
 それを思えば、無駄にしていい日など一日もない。
 今日一日だけしかできないことも、きっとある。
 本日限り、売り切り。

 私たちは毎日を生き捨てている。日めくりカレンダーをめくるみたいに。
 だからこそ、心を込めて日々を使い捨てなければと思う。
 できることなら、毎日を夏休み最終日と同じくらいの思い入れで過ごしたい。
 よく目を開いて、感覚を鋭敏にして、たくさん見て感じて考えて、一日分のエネルギーを出し惜しみせず、今日という日を隅から隅まで味わい尽くそう。
 今日の残りを明日に持っていくことはできないのだから。

 1月15日(土) 「ライバルは昨日の自分。
           過去の自分を納得させられる今日の自分でありたい」

 昨日の自分が、今日の自分から見て納得できないとしたら、それは今日の自分が正しいのだ。
 昨日の自分が間違っている。
 文字通り、今日の自分には一日の長があるから。

 昨日までの自分を毎日否定していくことが、成長するということかもしれない。
 今日の自分は、人生の最先端にいる。
 言葉を換えれば、自分の限界にいる。
 明日になれば、今日の自分は先端でも限界でもない。
 だから、否定されても仕方がない。それは納得できる。

 自分にとって、勝つべきライバルは昨日の自分で、挑戦すべきライバルは明日の自分ということになるだろう。
 他の誰でもなく。
 昨日の自分にだけは負けたくないと思う。

 1月14日(金) 「さよなら記憶。
            こんにちは思い出」

 自分の中で風化してしまうものを寂しく感じることがあるけど、でも古いものが全部悪いというわけではない。
 たとえば昔の神社や城のように、古ければ古いほどいいものだってある。
 古くさいとばかにしていた昭和がいつの間にか懐かしいものになっていたりする。
 思い出もそうだ。かつてと今の距離があればあるほど、懐かしく愛おしく思い出すことができる。

 私たちが未来の自分のためにできることは、今このとき、今の自分が好きなものをできるだけ大切にすることだ。
 未来の自分が懐かしくこのときを思い出せるように。
 夢中になってることとか、隣にいる人のこととか、感動した作品や、目にした印象的な風景とかを。

 どんなに大事なものも、いつか忘れてしまう。
 けど、忘れたものは思い出すことができる。最初から何もなければ思い出すことができない。
 思い出を懐かしんだりすることができるのも、長く生きてきたからこそだ。
 忘れていた大切なことを思い出してじんとするというのも、人生における喜びのひとつに違いない。

 忘れずことを恐れずに、今自分が愛するものを大切にしたい。
 目を閉じれば思い浮かべることができる。
 愛おしいものが、前後左右、近く遠くに広がっていることを。

 1月13日(木) 「変わらずにはいられないのが私たちだから、
             変化を受け入れようと思う」

 日々状況は変化している。
 ある部分では悪化し、別の部分では好転している。
 増えたり、消えたり、広がったり、閉じたり、変わらずにいられるものは何もないのかもしれない。
 自分ではそんなに変わってるつもりはなくても、思う以上に変わっているのだろう。
 私もまた。
 気づくのは、変化が完了したときだ。だから、手遅れになったりする。

 変化に敏感であることは重要なことだけど、それ以上に、変化を想像することこそが大切だと思う。
 先回りして自分を守るためというよりも、この世界や生きてることに対して多くを感じるために。
 変化こそが気づくチャンスだ。

 世界は変わり続け、自分も変わり、人も変わり、関係性も変わる。
 変わることはいいことばかりじゃないけど、変化を前向きに捉えて、上手く利用していきたい。
 必ずしも時流に乗るということだけではなく、流れに逆らうにしてもきちんと変化を認めた上でしよう。

 私たちはたぶん、変化なしには何も感じることができないほど鈍感な生き物だ。
 腹が減らないと食べる喜びを感じることができず、花や鳥が知らせてくれないと季節の変わり目も分からない。
 老いることがなければ若さの尊さを知ることもなく、死ぬことがなければ生きることを大切にすることもできない。
 変化はつまり時間を教えてくれるものだ。
 限られた時間の中で、変化を見失わないことが自分自身の大切を見失わないことでもある。

 1月12日(水) 「思い通りにいかないから面白いという猫派?
            自分の言うことを聞いてくれるからいいという犬派?」

 人生の中で、自分の思惑通りにいくことは、全体の何割くらいあるんだろう?
 なんとなく半分くらいはあるんじゃないかなぁ、と期待を込めてそう思ったりもするのだけど、たぶん実際はもっと少ない。
 これまでの人生を振り返ったり、日々自分の思惑が外れることの多さを考えるとそう思う。
 もしかしたら、1割、2割くらいなのかもしれない。

 不測の事態、突発的な出来事、降ってわいたような話、計算外、予定変更を余儀なくされる、願ってもない話、嬉しい誤算。
 思い通りにいかないことを表す言葉がたくさんあることからしても、人生というのはもともとそういうものだと言うべきだろうか。
 みんな自分に都合よく考えすぎてるだけで。
 青天の霹靂、驚天動地、寝耳に水、藪から棒。

 計算通りにいかず、予想通りに事が運ばないから面白いとも言えるし、その悔しさが励みになるということも言えるのだけど、それにしてもやっぱりこんなふうにつぶやかずにはいられない。
 上手くいかないもんだなぁ。

 でも、せめて人生の3割、4割くらいは思い通りになって欲しいと思う。
 3日に1日くらいの割合で、今日は最初から最後まで上手くいったなぁと、にやけながら一日を振り返る、といったように。
 それは贅沢な願いなのかな?

 1月11日(火) 「赤いやつ、再び。
            謎は謎のままなのか?」

 謎の発疹、再発。
 うひゃ。
 瞬く間に広がっていく。
 嫌な感じ。
 やっぱり治ってなかったのか。
 原因不明なだけに、何に気をつければいいものやら。
 また違う病院でも行ってみるかな。
 前回もそうだったけど、田舎から帰ってきて10日くらいすると出るというあたりに謎を解く鍵があるのかもしれない。

 1月10日(月) 「考えても分からないこともたくさんある。
            それは未来の自分に任せよう」

 どれだけ考えても分からないことを考えるのはもうやめた。
 それはあきらめたということでもあるのだけど、かつて---10年以上も---考え続けた末の結論でもある。
 誰が悪いわけでもなくても不幸は起きる。スマトラ沖の大津波や、新潟の地震のように。
 あの出来事の意味をいくら考えても決して分からないだろう。誰が悪いとかそういうことではないから。
 神を持ち出そうと、輪廻転生や因果応報で説明しようとしても、無理なものは無理だ。
 すべてを説明するには、あまりにも複雑な要素が絡みすぎている。誰のせいでもない。
 起こった出来事に悲観せず受け入れて、これからどうするかを考えたい。

 自分のことについても、生まれた意味や生きる意味なんて分かるものではない。
 ましてや日々起こる細々とした出来事のすべてを理解するのは不可能だ。
 考えるよりも行為することを優先させたい。

 意味が分からないとすればどうすればいいのか?
 すべては無意味に偶然起こってるだけなのか?
 そうは思わない。
 意味はあるのだと思う。
 ただ、分からないということだけは言えることで、分からないなりにどうするかということを考えたいと思う。
 意味が分からなければ生きていけないわけではないし、理屈を理解できないことが怠けることの言い訳にはならない。

 いつか私たちにも意味が分かるときが来るだろう。
 でも今はまだ分からない。それは現状として受け入れないといけない。
 分からないことを前提としつつ何ができるか、それが大切なことだ。
 悔しくて残念だけど仕方がない。
 分かるようになりたいという思いだけはなくさずに、時を待ちたい。
 立ち止まって考えることに多くの時間を費やさないように。

 1月9日(日) 「批判に勝てるのは有無を言わせぬ結果だけ。
            理屈で黙らせても勝ちじゃない」

 ずるい論理に、自分自身気をつけなくてはいけないと思いつつ、その論理の内側に逃げ込んで安心してしまってることがある。
 たとえば、果たすべき役割も果たさず、こういう人間が一人くらいいてもいいじゃないか、といったような論理だ。
 でもそれはやっぱりよくない。
 大きなスーパーで、自分一人くらい万引きしてもたいしたことない、というのと同じようなものだから。

 あるいは、宇宙は広い、人類はちっぽけだ、そのちっぽけな人類の中の一人にすぎない自分が何をしても意味がない、といったようなものもやめた方がいい。
 そういう屁理屈で相手を黙らせたからと言ってそれが何になるか。
 大きな理屈を持ち出してきて小さな問題を踏みつぶしたり、蹴散らしたりするような真似はなるべくしないようにしたい。

 ただ、一方で、無難な在り方で身を守ろうとするのもよくないとは思う。
 自分は誰にも迷惑をかけず真面目に生きてるから、世界で戦争があろうと飢餓で子供が死のうと知ったことではない、といったふうに。
 悪いことをしないことは悪くないというだけで正しいわけじゃない。

 では一体どうすればいいのか?
 それはそれぞれが自分で出すべき答えなのだけど、どうすれば批判に打ち勝てるかを考えればいいのだと思う。
 結果を残すことだったり、ひたむきな努力を続けることだったり、社会や人のために役立つことだったり、人に愛されることだったり、何でもいいけど何かが必要だ。目に見える形で。
 誰でも非難されたり批判されることはある。どんなに優秀で、正しいことをしてる人間でも批判から逃れることはできない。
 そういう批判に理屈で対抗するのではなく、態度や結果で雑音を打ち消せればそれに越したことはない。
 批判や論理が消えても、結果は残る。

 1月8日(土) 「迷うこともまた楽しい。
            大回りして行こう」

 道に迷ったときは、引き返して見覚えのあるところまで戻るのが鉄則。
 それが結果的には一番時間も体力も無駄にせずに済む。
 なのだけど、私はどうしても先へ進んでしまう。根拠もなく、前へ行った方が早いような気がして。
 そうしていつもよけいに深く迷い、時間を無駄にすることが多い。
 ときどき、致命的に迷い、泣きそうになったりもする。

 ただ、迷うこともまた楽しみのひとつだと思えば、道に迷うことも無駄じゃない。
 迷うことでしか見つからないこともある。
 人生も同じ。
 迷って、さまよい歩いて、道草を食って、時間を無駄にして、そうやって結局どこにも辿り着けなかったとしても、それはそれでかまわない。
 元々、はっきりと目的地が決まった旅じゃないのだ。行く途中を楽しむことにしよう。大回りでもいい。
 帰る場所があるわけでもないし。
 最後に着いたところが目的地ということにすればいい。
 それに、どれだけ迷ったとしても、人生の外側に出ることはないのだから、安心して内側で迷っていよう。
 どこかには着く。

 ところで、私が今いるここはどこ?
 と、誰にともなく訊いてみる。

 1月7日(金) 「広がる思い。
           まだ行ったことのないところを目指して」

 思考はとめどなく漂い、同じ場所に長くとどまることがない。
 一日を振り返ってみたとき、昨日考えていたことと今日考えたことがまったく違うことに気づく。
 興味の中心や、論理の方向性さえも。
 毎日のように見る夢も、とりとめがなく、統一性がまるでない。

 誰もがそうなのか、私が特別そういう傾向が強いのか、それはよく分からない。
 ただ、資質や性格とは別に、自分の意識的な姿勢として、一度考えたことはもう考えたくないというのがあるのは確かだ。
 一度観た映画はもう観ないし、本もそうだ。一度行ったところへ行くよりもまだ行ったことのないところへ行きたい。
 一度悩んだ悩みはもう悩みたくない。
 新鮮であればよしとするところがある。
 深めるよりも広がりたいと思う。まだ行ったことのないところを目指して。

 こういうやり方がいつまで続くかのも分からない。
 基本的な方針さえも、これまで何度も気まぐれに入れ替わってきた。
 私は自分が分からないのかもしれない。
 私はもちろん自分の主人ではあるのだけど、自分の気の向くまま、足の向くままに任せたいという思いもある。
 犬を散歩させている飼い主が、犬の行きたいところについていくみたいに。
 私と自分は、同じであって同一ではない。

 1月6日(木) 「教えるべきは道徳や正論ではなく、
           正しく判断するための思考の形」

 人を正しいとするには、一人ではできない。
 少なくとも二人の人間が必要だ。
 互いが相手のことを正しいと思ったとき初めて、その二人はどちらも正しい人となる。
 一人でいくら正しさを主張しても正しい人間にはなれない。
 一人ではアリバイが成立しないように。

 この理屈は個人だけでなくその他にもあてはまる。
 国の正しさもそうだし、集団もそうだ。
 この世界を正しいとするには、もう一つ別の世界が必要となる。
 あるいはそれは、地球以外の星の文明や人類ということになるかもしれない。

 人が他人を正しいとするのはそんなに簡単なことではない。たとえ親兄弟や夫婦であってもそうなのだから、赤の他人が相手を正しいと思うことは難しい。
 大勢から正しいとされる人間でも、自分を正しいと言ってくれるすべての人を肯定するのは無理だろう。
 人は自分が正しいという前提で生きているから、自分と違えば正しいとは思えない。
 そうやって世界中でもめ事が絶えない。

 世界をよくするためには他人を肯定するしかないのだということに気づけば、今よりはもう少し生きやすい世の中になるだろうに。
 みんながそのことを理解するにはあとどれくらいの歳月が必要なのだろう。
 自分の存在の正しさを証明してくれるのは他人しかいないということを、世界中の子供たちに教えてやって欲しいと思う。家でも学校でも。
 それは数学の方程式と同じような論理であり、思考の形だ。道徳や倫理なんかではない。

 そしてもう一つ、自分が一人でも多くの人を肯定することが、この世界に正しい人間を増やすことになるのだということも知っていて欲しい。
 否定は否定を生むだけだ。
 もっとみんながみんなを誉めあえる世界であればいいのにと思う。

 1月5日(水) 「賢さの向こうには何がある?
            やっぱり行ってみないと分からないのかな」

 自分自身に対する言い訳が上手くなって、何か自分が成長したような気になってるけど、それは完全な勘違いだ。
 私は間違っている。
 誤魔化すのが上手なことが賢さではない。
 人が賢くなるのを妨げるのは、この小賢しさかもしれない。

 小賢しくならずに大賢となるにはどうしたらいいのか?
 禅問答のようなものに答えは本当にあるのかないのか。
 天才哲学者の論理も、稀代の高僧の教えも、共感できる部分はあっても納得はできない。
 悟りを開くことも、すべてを見通すことも、何か行き止まり感のようなものを感じずにはいられないから。
 その先の果てが見えない。
 私が知りたいのは、彼等が語るその先だ。

 大切なことはたくさんあって、そのいくつかは知っている。
 ただ、決定的に分からないのは、大切なものの向こうにあるものだ。ドラマの最終回のその後、みたいに。
 行けば分かるのか?
 確かにそれはそうなのかもしれない。
 賢くなることの虚しさは、本当に賢い人間だけが言えるのだろうし。
 いろいろ思いを巡らすと、あちこち行かなければならないところがたくさんある。あちらにもこちらにも、遠くにも近くにも。
 まだまだ道は遠いね。

 1月4日(火) 「今分からないことも時が来れば分かる。
            分かりたいという気持ちを持ち続けていれば」

 時が来れば分かる。
 来なければ分からない。
 世界の意味とか、自分の価値とか。
 かつて恋人に振られた理由とか、子供の頃親に叱られた訳とか。

 だから、少しでも早く先へ進みたいと思い、あの頃の自分がいたところからなるべく遠くまで行きたいと願う。
 できることなら、時よりも早く。もっと前へ、急いで行きたい。
 そう思えば思うほど足がもつれて進まないから、もどかしい。

 立ち止まって少し考えてみる。
 分かることって、本当にそんなに大事なこと?
 分からない。
 できることといえば、時を待つことだけだ。
 待つことはやめないでおこうと思う。
 でもやっぱり分かりたいという気持ちはずっと心にある。

 1月3日(月) 「複雑なものを単純に考えようとするのは無理。
            複雑なものは複雑なまま捉えないと」

 私たちは、とても複雑な存在なので、生きることや存在することをあまり軽く考えない方がいい。
 私たちの存在は単純ではないし、生きることはそれほど簡単でもない。

 たとえば、社会人であること、親であること(あるいは子供であること)、日本人であること、地球人であること、人類であること、21世紀を生きる人間であること、それぞれの立場でなすべきことを考えると、ときに決定的な矛盾に陥る。
 仕方がないので適当に優先順位を決めて誤魔化したりするけど、何を優先すればいいのかも分からなくなることがある。
 大事なのは、人としての温かさや優しさなのか、それとも知識や理論なのか、自己満足か他人への奉仕なのか、才能なのか努力なのか、金なのか名誉なのか幸せなのか、愛なのか生活なのか。
 人類への貢献はしなくていいのか?
 ホモサピエンスにとどまっていていいのか? 人類としての進化を模索してもいい?
 宇宙に関する知識を増やすための努力や、地球の外へ出て行くための準備は必要ない?
 かつてこの地球上で生きて、志半ばで死んだ人たちの遺志を継ごうとしなくていいのか?

 人生で大切なのは人それぞれ。
 何をしてもいいし、何もしなくてもいい。それは個人の自由。
 過去の歴史があり、現在があり、未来がある。
 答えはあまりにも複雑で、たぶんどこにも存在しない。たとえ、宇宙の中で1,000億の星に、過去1兆種類の人類が文明を築いているとしても、正解を知ってるやつはいない。
 もし答えがあるとすれば、それは存在すべてというより他にないだろう。

 私たちが恐竜と同じように滅亡してしまうかどうかは分からない。
 個人としてできることを一所懸命やって人間としての生を全うすることが絶対的な正解だとも思えない。
 今の私にできることは、思考の及ぶ一番遠くまで行って、そこから今日この時に引き返してきて、次の瞬間何をするかを考えることくらいだ。

 最終的にしたいことのひとつとして、立体的な地球百科事典を作りたいというのがある。具体的な作業は人に任せるとして、その発想だけでも提供したい。
 横軸に地球の時間の流れを一本の線として置いて、そこに立体的に各分野の百科事典のデータを上下左右に関連づけて並べるのだ。
 現実世界の紙の本ではできないから、コンピューターの中で。
 たとえば、西暦1,000年の日本の歴史をクリックすると、そこで起こった出来事を調べることができて、じゃあそのとき世界では何が起こっていたのかを知りたければそちらにジャンプできる。更にまったく無関係のジャンル、そのときの生き物や花、もしくは流行、うわさ話や生活様式、文化、科学、文学、美術、宇宙、それら地球上で認知されているあらゆる要素を時系列で調べることができる、といったようなものだ。
 ものすごく複雑で膨大ではあるけど、理論的に不可能じゃないと思う。
 キーになるのは、コンピューターとコンピュータグラフィック、それとインターネットだ。
 共時性と、共有が大事で、常に加えたり書き換えられたりしなければならない。
 20世紀中には不可能だったけど21世紀ならできるんじゃないだろうか。
 インターネットの検索を文字ではなくグラフィック化したものといえば分かりやすいか。それのもっと複雑なやつだ。
 三次元では無理かもしれないから、四次元モデルになる可能性もある。
 世界ではこれと同じようなことを考えてる人間がきっといるから、案外近い将来実現するような気もする。
 ただ、私のリクエストとしては、アカデミックなものとせず、学問と民間伝承や生活の知恵やオカルト的なものやキワモノのようなものまで、ぜひ差別せず同列として並べて欲しい。UFOも、霊も、超能力も、超古代文明も。
 そういう部分では、まだまだ人類の成熟のための時間が必要かもしれない。
 もちろん、私自身も。

 1月2日(日) 「イメージ優先。
            次に勉強」

 計画よりもイメージを。
 目標と達成や、計画と実現よりも、イメージとその具現化の方が自分の中でしっくりいく。
 お手本はないし、最終目標も曖昧で、具体的な数字や、時間制限もない。
 となると、頼りになるのは自分自身のイメージ喚起能力だけだ。
 イメージさえできれば、そこに到達するまでの道のりが生まれる。イメージがないと進む方向さえ分からなくなる。

 自分が納得するだけでは絶対駄目だ。それは分かってる。けど、優先順位でいけば、やはり自分自身を納得させるというのが先頭に来る。
 人がどう思うかは副次的なものだ。本質的なものじゃない。
 ただ、他人を巻き込んだ形で自分を幸せにできればそれに越したことはない。

 今年一年を通じてのイメージというのはまだ出来てない。
 当面は、春までどうつなぐかが問題となる。
 冬の間はどうしても消極的になりがちだけど、冬に休んで春から始動だと遅くなってしまう。夏頃ようやく本調子になってるようではいけない。
 だから、この冬はなるべく自分を動かしていくことにしよう。どこまで自分の消極性をねじ伏せられるかが重要になる。
 足を動かして、体を動かしていくと、それにつれて頭や心も動くものだ。体を動かさないと体も動かない。
 今年は頭より体を動かすことを優先させてもいい。

 イメージよりもう少し具体的な部分では、明確な形での勉強と訓練というものも日常的に取り入れていこうと思っている。
 写真のこともそうなんだけど、やりながら覚えていくというよりももうひとつ進めた形で、積極的に学ぶという姿勢を持ちたい。
 花や鳥の名前も覚えて、記憶力の向上のための訓練をして、字をもっと上手に書けるように練習をして、脳を鍛えて、歴史の勉強もしよう。
 そういう学校の勉強に近いようなこともやっていこうという気になっている。どういう心境の変化なのか、自分にもよく分からないのだけど。

 2005年は、自分自身に対する信頼を回復するための一年にしたい。


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