2004.10.28-

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 12月30日(金) 「闇を見て絶望するより光を見て喜びとしたい。
             闇が深いほど光も強い」

 この世界は、光と影、そして陰影が生み出す色でできている。
 目に見える部分も、見えない部分も。
 人も、すべての生き物も、社会も、街も。

 私たちは光の眩しさに目を細め、闇の暗さをじっと覗こうとする。
 けど、光が強すぎても、闇が深すぎても、見ることは出来ない。
 そこに人間の限界があり、うがった見方をすれば慈悲がある。
 それでも私たちには想像するという素晴らしい能力がある。想像力こそが思いやりや優しさを生む。
 そして知恵も。
 光のあるところには必ず影が生まれ、影があるからこそ光を知ることができるのだということを忘れないことが大切だ。

 どれだけ闇が深く広がろうと、この世界から光が消えることはない。
 影だけを見て悲観することはない。
 影になった部分も光を当てれば色が生まれる。色は隠れているだけだ。
 暗い時代にも絶望する必要はない。そんなときこそ光が強く輝くときなのだから。

 来年はきっと今年よりいい年になる。
 それは願望などではない。
 時代は前へ進んでいるのだから。継続してるということは、それだけで正しい。
 失敗や間違いを重ねれば重ねるほど、成功や正解に近づく。
 光を求め、闇を恐れず、先へ進めばいい。
 この色に満ちた世界に喜びを感じながら。

 12月29日(木) 「少しだけ今年を振り返りたい気分。
             もう来年はすぐそこまで来てるから」

 今年の中でやり残したことはもうあまり見あたらなくて、そろそろ今年一年を振り返る気分にもなってきたと同時に、少しずつ来年への思いも自分の中に出てき始めた。

 2004年という年を終わりから眺めてみてどんな印象だったかといえば、動きのある一年だったということができるだろう。
 心境にも大きな変化があったし、肉体的にも、身の回りでも動きがあった。
 世間的にも、世界的にも、変化の始まりのような一年だったように思える。
 個人的にはデジカメ写真熱というのも大きな出来事だった。単に趣味が増えたというだけではない変化をもたらせてくれたのは大きい。
 2003年がすごく停滞感の強い年だっただけに、今年の動きは喜びたいと思う。
 そういえば、一年休んでいた断想日記を再開したのも今年の2月のことだった。

 自分のこと以外では、アテネオリンピックと、ドラマ「世界の中心で、愛をさけぶ」が記憶に深く刻まれた。
 あと、テレビ時代劇「壬生義士伝」も強い印象として残った。
 映画では絶対的な一本に出会えなかったのが残念だったけど、今年もたくさん観た。
 ゲームでは「PHANTOM OF INFERNO」は決定的な作品だった。

 その他、いろいろ思い出せることもあり、忘れてしまったこともある。
 でも、終わってしまえばどの年もいい年だったと思うものだ。無事生き延びられたんだからそれに勝るものはないと。
 命を今日から明日につなぎ、今年から来年へとつなぐ。その中でいいこともあれば悪いこともある。
 つなげていくことで可能性は消えることがない。それが希望だ。
 今年を生きなければ分からなかったことや、知ることがなかったことがたくさんあった。出会えなかった作品や、見ることがなかったあれこれも。
 それだけでも生きたかいがあったというものだ。

 来年もまた別の一年になる。
 どんな年になるかは分からないけど、すごく楽しみであることは間違いない。
 頭の中には、したいことがまだまだたくさんあるから。

 12月28日(水) 「何かを簡単にあきらめていいほど
             私たちには残り時間の余裕はない」

 あきらめることは自分を守ること。
 攻める気持ちをなくしたら、今以上の自分にはもうなれない。
 何をそんなに守る必要があるというのか。

 平和なことは決して良い状態ではない。人生においてそれは不自然なことだ。
 穏やかに過ぎていく日々も必要だけど、それは何かを成し遂げてからでいい。
 人生の途中にある人間が安穏に過ごしてる場合じゃない。
 いろんなことをあきらめてしまえば、人生は一気に単純になる。
 いつもの時間に寝て、起きて、仕事や家事をして、テレビを観て、週末は趣味、恋もせず、新しいことも始めず、というのでは悪いことは起きなくてもいいことも起こらない。
 偶然や幸運頼みでは、あまりにも間延びしすぎる。

 平穏な人生を否定するのは間違っている。でも、あえて否定したい。それはやっぱり間違ってるのだと。
 他人が否定するものではない、自分で否定するのだ。
 楽をしたい気持ちを自分から砕いたり崩したりしていかないと、本当に何事もなく人生はあっけなく終わってしまうから。

 あきらめなければ人生は動き続ける。
 挑戦する気持ちをなくさなければ。
 とにかく、楽だと感じたらそれは間違ってると思った方がいい。
 面倒だと思ったらそれはやるべきことだ。
 面倒くささを超えた先にこそ、大事なものや喜びがある。
 年を取れば取るほど、残りの人生で何一つあきらめちゃいけない。

 12月27日(火) 「もう終わり?
             でもやれやれだな」

 今年がもう終わってしまうなんて信じられないし、信じたくないのだけど、一方ではあと少しで今年を乗り切れそうだという安堵の思いもある。
 夏休みが終わってしまうのは悲しいけど、学校が始まればまたクラスの好きな子に会える、というのに似た。
 今年は平和なようでいて、実際途中でいろいろ危ういところがあって、不安感も強かったから。
 気にしてないようで厄年というのもどこかで気になっていた。

 一年を振り返るにはまだ少し早い。
 それは大晦日の日にでもすればいい。
 それよりも残り一週間、田舎で除夜の鐘を聞くまで油断せずに過ごすことに意識を持っていきたい。
 淀みなく、粛々と。
 来年の目標も、願い事も、その他諸々ややこしいことも、丸ごと来年に向かって投げてしまって、ここを乗り切ることだけを考えよう。
 2004年の危機を上手く超えることができれば当面安心できるに違いない、という根拠のない予感を信じて。

 12月26日(日) 「スピードが解決してくれる。
             急げばいいってもんだ」

 悩まずに考えること。
 反省せずに明日の目標を立てること。
 建設的だとか前向きだとか、そういうことでもあり、そうでもない。
 思考のスピードを上げていくことでしか自分の心を守れなくなっている。
 反省すべきことが多くなりすぎて。
 借金を悔いるよりこの先で稼ぐことを考えるというのに似てるかもしれない。
 借金があるわけではないけど。
 たとえば20代でやっておくべきだったことで、できなかったこともたくさんある。
 でもそれもこれも今更だ。この先でやれることをやっていくしかない。
 遅れを取り戻すにはスピードしかない。飛ばせるだけ飛ばして、後ろから追いかけてくる後悔を振り切らないと。
 あまり後ろを見ないようにしながら。

 12月25日(土) 「捨てたもの。
             この先で捨てなければいけないもの」

 自らを解放していく旅の途中。
 真実から離れ、祈りを捨て、正しさからも解き放たれ、意味を追うのもやめた。
 正義も、裁くことも、判断することさえも過去に置いてきた。
 今身にまとっているものは本当に少なくなった。
 この世界とケンカする気がなくなったから、もう自分を守るためにいろいろなものを身につける必要はない。
 この先で、あとどれくらい捨てられるだろう。
 最後は身ひとつの裸になることができるだろうか。
 丸裸になることは難しいだろうけど、ひとつだけいつか捨てなくてはいけないと分かってるものがある。
 それは、知識だ。
 もしそれを捨てることができたら、そのときはもう一歩先へ進めるだろう。

 12月23日(木) 「自分のために片足。人のために片足。
             その場所が一番安定感のあるところだ」

 自分のためと、人のためと、片足ずつ置く着地点のようなものを見つけたいと思うようになった。
 自己満足の虚しさを知らさせ、他人のための自己犠牲というのも正義じゃない気がする今、そこにしか足の置き場はないのだと。

 自分のためでもあり、同時に誰かのためでもあること。
 その両立は難しい、というより無理だろうと、かつてはあきらめていた。
 でもそんなことはない。難しく考えすぎていただけだった。
 そのキーはやはり自分自身の幸福にある。
 自分が幸せである姿を見せることで人に与えられるものは、自分で思っている以上に大きなものだ。
 たとえば親孝行なんてしなくてもいい。幸せに暮らしてさえいれば親はそれで安心するものだ。
 子供たちの無邪気で明るい笑顔が私たちを幸せにしてくれるように。

 自分さえよければそれでいいということではない。自分が幸せなら心にも余裕が出来るし、そうなれば人に親切にする気持ちも生まれてくるということだ。
 逆に言えば、自分が不幸になってはいけないとうことでもある。自分の不幸が周りに与えるマイナスの影響は決して小さくないから。

 自分の幸せを願ってくれている人がこの世には何人もいる。あの世にも。
 その人たちのためにも、最大限の努力をして自分を幸せにしてみせなくてはと思う。

 12月22日(水) 「格好悪いのは嫌だけど、
             格好つけてあきらめるよりはいい」

 もうあきらめてしまう?
 まだ命があるのに?
 明日を持っているのに?

 限界を感じたところから先の一歩にこそ意味があるのだと思いたい。
 止まらずに足を動かし続ければ、いつか辿り着くと信じたい。どんなに遠くても、せめて近づきたいと願う。
 あきらめないという気持ちが、もう動かないと思う足を動かす。
 あきらめてしまえば、そこでもう足は動かなくなる。動かなければ目標には近づくこともない。

 昨日より今日、そして明日。
 私もあきらめないでいよう。いろんなことを。
 あきらめかけているものは、もう一度拾い直そう。
 あきらめれば楽になるし、格好悪さからも逃れることができるかもしれないけど、最後まであきらめないでいれば、納得して最後の日を終えられるような気がする。
 他人の評価よりも、自分の納得を優先させたい。
 次の一歩を踏み出して足が着く場所があるなら、足を一歩だけでも前へ出そう。そして、また次の一歩と。

 12月21日(火) 「言葉よりも動くことを思いたい。
             次に足を踏み出す先だけを見ている」

 今は、思考よりも、言葉よりも、自ら動くことが心の中心になっている。
 写真はその口実のようなものなのだ。
 そして、意味から解放されて、昔より自由になった。
 今は、過ごすことだけを考えている。今日を乗り切って、明日に自分を運ぶことを。
 この心境がいつまで続くかは分からない。もしかしたら明日で今の自分は終わってしまうかもしれないし、今年いっぱいかもしれない。
 ただ、移りゆく自分に寄り添えばいい。変わるなら変わればいい。変わらないなら無理に変わることはない。
 結局のところ、分からないという結論が出たところで私は決定的に変わってしまったようにも思える。終わったと言った方がいいのか。
 その後は、分からないなりにどうすればいいのかというふうに気持ちが切り替わった。
 でもそれは投げやりになったのとは違う。謙虚になったのだ。
 昔は遠くばかり見ていた。
 今は足下だけを見ている。

 12月20日(月) 「正しさはお任せ。
             出来損ないでも出来ること」

 正しい人も、立派な人も、愛すべき人も、世の中にはたくさんいる。
 見ていて、ああ、偉いなぁと感じる人が大勢。
 だから私は安心して自分でいられる。
 偉さや、真っ当さは彼等に任せておけばいい。私よりずっと上手くやってくれるから。
 私は自分にしかでないことをやろう。
 それが誰かの役に立つのかどうかは分からないけど、最初から上手くできないと分かってることをやるよりも、好きなことをしてた方が少しはましだろう。
 駄目な人類の末っ子でも、いつかどこかで一回くらいは何かの役に立つこともあるだろう。
 一度くらいはみんなに誉められることをしたいとは思う。

 12月19日(日) 「さよならは再会を約束する言葉。
             大切な人と交わす」

 死んだ友達に、さよならは言わないと幼い彼女は言った。
 またすぐに会えるからと。
 でも、さよならは言った方がいいんだ。
 それは、再会を約束する言葉だから。
 さよならも言えない別れをたくさんしてきた今だから、そう思う。
 もし、さよならの響きが寂しく感じたならば、その後にこうつけ加えればいい。
 またいつか、と。

 この世との別れのとき、さよならを言いたい人があなたの中に何人いるだろう?
 それがあなたの大切な人だ。
 そう、さよならって、そんなに悲しい言葉じゃない。

 12月18日(土) 「ありがとう、これからもよろしく。
             今ある人生と、あったかもしれない人生に」

 別の人生もあった。
 違う選択をしていれば。
 それは今よりずっとましだったかもしれない。
 けど、別の人生を選択しなかったことで今の人生がある。
 これはこれで悪くない。
 たとえ間違っていたとしても、私はこれで満足だ。
 いろんな人にお礼を言いたい。
 どうもありがとう。
 そして、これからもよろしく。

 12月17日(金) 「怠けたいけど怠けすぎても疲れる。
             だから交代で怠けたり怠けなかったりがいい」

 怠けずにやるべきことをやった満足感と、いろんなことを放り出して怠ける密かな喜びと、両方ないと嫌だ。
 どちらか片一方だけでは物足りない。
 だいいち、疲れる。たまには怠けたいし、でも怠けてばかりいたらそれはそれで気疲れする。
 だから、怠けたり怠けなかったりを繰り返すのが一番いい。
 そのバランス感覚はもう自分の中にあると思う。どちらか一方に極端に偏ることはないだろう。
 息を吸ったり吐いたりするのと同じくらい自然に出来るようになった。
 怠けることは悪いことではないし、眠りと同じくらい必要なものだと思う。

 12月16日(木) 「点と点をつないで織りなされる人生。
           模様は出来上がって遠くから見ないと見えない」

 毎日生き延びて、命と気持ちを明日につなぐこと。
 そうやって点と点をつないで織りなされた模様が人生だ。
 人生を逆から計算していかなくてもいいんじゃないかと最近思うようになった。
 刹那主義だとか行き当たりばったりだとか言えばそうなんだけど、たぶんそれは物心ついてから今に至るまで変わらない私の性格によるものなので、もう仕方がないのだ。
 結末を想像しながら映画を観ることはしないし、犯人を予想して推理小説を読むようなこともしない。常に物語を追うだけだ。
 人生も同じで、遠い先のことをあまり考えない。
 それはたぶん、思いがけない感動や驚きというものが好きだからだ。
 自分の思い通りに事が運ぶよりも、次に何が起こるのか期待してる方が楽しい。
 だまされないぞと構えるより、きれいにだまされたいと思う。
 自分の人生がこの先どうなって、どういう結末を向かえるのか、それは分から
ない。
 私自身がそれを自ら確かめるだけだ。最後の日まで生き延びて。
 どんなオチでもかまわない。
 どういう形であれ、私はそれに納得するだろうという予感だけはある。

 12月15日(水) 「正しさの向こう側へ。
             ズルをせず頂を通って行きたい」

 正しく理解することは半分でしかない。
 正しく行動することもまた半分だ。
 理屈と行動が伴ってこそ、本当の意味で正しい行いとなる。
 が、それもまた自らを慰めるものでしかない。
 正しく生きたからといって、それが何ほどの意味を持つというのかという問いに、私は答えることが出来ない。
 正しさなんてものは、酔い止めの薬みたいなものだ。自分自身に言い聞かせるためのものという意味で。
 正しくなくても生きていけるし、正しさなんて必要としない人間もたくさんいる。
 ただ、正しさは乗り越えるべきものだという気はしている。そこに価値があるんじゃないかと。
 正しさという山の頂上に登れば終わりじゃなくて、そこからこちらに下山してくるのでもなく、向こう側に下りた先が私たちの向かうべき場所なんじゃないだろうか。
 正しさを通過しなければ見えるべきものも見えてこないような気がする。
 それにやっぱり、山頂からの眺めは気持ちがいいのだ。

 12月14日(火) 「天国を作るための場所と道具。
             それはもうすでに与えられている」

 全員の欲求を満たすための天国はどこにも存在しないし、誰もそんなものは作れない。
 神が全知全能でも無理だ。
 でも、その代わりに私たちにはそれぞれが天国を作るための場所と道具が与えられている。
 それがこの地上であり、人の脳だ。
 天国は、それぞれが頭の中に作り上げる王国なのだと私は思う。
 しかもそれは、生の中でしか作ることができないのだ、と。
 死んだら天国へ行けるだなどという当てのない夢を見る前に、今こうして生きているこの場を天国にすることを考えた方がいい。
 それは必ず実現できるものだと私は信じている。
 誰の脳にもその力はあるはずだ。
 天国は人に与えてもらうものじゃない。自分の中に作り上げるものだ。
 一気には完成しないけど、毎日少しずつ築いていって、やがて完成が近づけば、毎日が天国になる。
 その天国はきっと、あの世にも持って行けるはずだ。

 12月13日(月) 「一瞬の判断という危険。
              すべては過ぎていくから」

 その一瞬ですべてを判断しないことだ。
 瞬間的な自分の判断にすべてを任せるのは危険が大きすぎる。
 一瞬で物ごとを総合的に判断できるほど人間の脳は高性能に出来てない。

 すべての瞬間は過ぎ去るのだということを忘れないようにしたい。
 一瞬の怒りも、ひとときの悲しみも、今抱えてる絶望も、みんな過ぎていく。
 過ぎても変わらないものもあるけど、ほとんどのものは変わる。姿を変えたり、消えてしまったり。
 たとえば、車を運転していて無理に割り込まれたからといって、怒ったり怒鳴ったりすることはない。そんなものは信号2つ過ぎたら忘れてしまうことだから。
 人生に疲れても、自分からさよならすることはない。しばらく休めば疲れも取れるし、そのうち向こうから迎えがやってくる。

 楽しいことも、喜びも、感動も、過ぎてしまえばなくなってしまう。
 けど、それは儚さじゃない。優しさだ。
 人が同じところにとどまらなくていいように、すべては過ぎ去っていく。

 私たちは前だと信じる方に進もう。
 一瞬を重ねながら。
 たとえ時の流れについてはいけなくても。

 12月12日(日) 「毎日が新しい一日。
              そのことを毎日思い出したい」

 今日が新しい一日だということを知るためにも、新しい何かを今日の中に放り込みたい。
 まだ行ったことのないところへ行ったり、見たことのないものを見たり、新しく何かを覚えたり。
 終わりを意識することも大切だ。
 人生の終わり、一年の終わり、今日の終わり。

 それもこれも、今日という日の貴重さを再確認し、自分に知らしめるためだ。
 今日は昨日までの延長であるけど、それだけじゃないと。
 一日単位で無駄にしないようにしていかないと、一年、十年単位にすると相当な無駄が出てくるから。
 無駄に過ごす一日もそれはそれで必要なのだけど、そのときでも自覚的でなければならないし、それを次にいかしていかないと、無駄は本当の無駄で終わってしまう。
 一生の中で捨てられる日は一日としてないはずだ。

 今の私はテーマは意味を問うことじゃない。目先の一日を大事にすることだ。
 今がすべてじゃないけれど、今は今がすべてと思いたい。

 12月11日(土) 「幸せの前後にある幸せ。
              見えないけれどそこにある」

 まだ自分の知らない幸せは、憧れるという楽しみや喜びがある。
 たとえば、まだ行ったことがない外国旅行のパンフレットを眺めるみたいな。
 それもまた一つの幸福の形だ。
 手に入れるだけが幸せのすべてじゃない。
 幸せは渦中とその前後がある。遠足の前の日、当日、帰ってきた日の夜、みたいに。
 高嶺の花に恋をしたり、食べたことのない高級料理の味を想像したり、結婚に夢を見たり、かつての恋愛を懐かしく思い出したり、そういうことも幸せにまつわるあれこれだ。
 それに気づけば、人は二重に幸せになれるだろう。

 12月10日(金) 「誰も幸せにしない言葉もある。
            それはこの世に出さない方がいい」

 言ってはいけないことの他に、言わなくてもいいことがあって、それが今、頭の中にたくさんある。
 言ってしまいたいけど言わない方がいい言葉が、飛び出そうと構えている。
 でも、出させてしまってはいけない。
 そうやって口ごもるのもいいことではないのだろうけど、それでもこぼれ出そうになる言葉を飲み込む。
 それはたとえば、誰かへの批判めいた意見だったり、泣き言だったり、自慢のようなものだったりだ。
 優越感を得るためだけの言葉や、自分を必要以上に守るために相手にぶつける言葉なんてのは、しまっておかないと。
 何故それらの言葉を発しない方がいいのか?
 その答えは単純明快だ。
 自分を嫌いにならないため、それに尽きる。相手がどうこうじゃない。
 言わない方がいいと思ったことは言わない方がいいのだと私は思う。
 やらずに後悔するならやって後悔した方がいいというのとは違うから。
 愛の告白ならした方がいいけど、誰かの欠点を鋭く突くなんてことをしても、誰も幸せにはならない。

 12月9日(木) 「感動する心と、感謝の気持ち。
            相反する二つの思い」

 感動する心と、感謝の気持ちという、二つを軸に日々を過ごしたいと、今は思っている。
 年寄りくさくもあるけど、精神の若さを維持しなければ、それを両立させるのは難しいから、ポーズではできない。
 善良でありたいとかそういうことではなく、今はそういう気持ちに至ったというだけだ。
 明日になれば違う思いが軸になるかもしれない。
 保身のための感謝じゃなく、人生を豊かにするためのスパイスとしての感動でもなく、混じり気の少ない澄んだ心でありたいと願う。
 せめて今だけでも。

 12月8日(水) 「解かれるべき謎としての世界。
            解かれれば終わりではないけれど」

 人のもっともらしい教えや、正当な論理はどれも理解できてるつもりだ。
 納得できるものも、そうじゃないものも。
 ただ、そういうまともなやり方ではできないことをしようとする場合、人が言うような方法では実現しないと思うから、私は誰も言わない論理を探している。
 今まで誰かが試したやり方は、それが成功であれ失敗であれ、それを上からなぞる必要は感じない。
 もっと上手に色を塗れたとしても、新しい絵にはならないから。

 この世界を理解するための論理を組み立てるには基本要素がまだ全然足りない。
 まだまだ知るべきことを知らないと組み立てることはできない。
 そういう意味では、私の中に論理は存在してないと言える。まだ材料を探している段階で。
 あと何年すれば材料は集まるんだろうか?
 百年か、千年か、一万年か、それ以上か。
 死ぬまでに見つかるとも思えないけど、せめて探し続けることだけはしよう。

 この世界は、いつの日にか、解かれるべき謎だ。
 理解できないまま放置しておいたら、いつまで経っても終わらないし、次の段階へ進めないから。
 完全解明の日が来ることを私は信じている。
 そして、その先の世界を楽しみにしている。

 12月7日(火) 「幸せになる義務。
            たったひとつの恩返しの方法」

 人間のためにこそ他の生き物は存在しているという考えを肯定できないし、人間がすべての悪の根源という意見にも共感できないけど、多くの生き物の犠牲の上に人間は生きていられるのだという事実は否定できない。
 人間さえいなければ絶滅しなかった生き物もたくさんいただろうし、人によって無数の生き物が食べられ、あるいは生きる場所を奪われた。
 動物園の動物たちを見てもそんなことを思う。
 こんなところにいなければ、今頃アフリカのサバンナを走り回ってたかもしれないな、とか。
 ただ、そういう感傷は感傷として、だからこそ、人はそういう犠牲になった生き物たちのためにも幸せになてみせる義務があると思うのだ。
 償いではなく、恩返しとして。
 人はすべての生き物にとっての希望の星だから。
 自分たちが消えることではなく、未来につながることが、私たちが生き物たちに対してできる、ただひとつのことなのなんじゃないだろうか。
 それが進化の意味だと思う。
 生きることに喜びを感じ、幸せになることこそが自分のすべきことだと、私は信じたい。

 12月6日(月) 「いいものをもっとたくさん見たい。
            たとえそれが何の役にも立たなくても」

 いいものをたくさん目にすることが、いつどこでどんなふうに役立つのか、または役立たないのかは分からない。
 思いがけない形で役に立つこともあるだろうし、見てきたことがそのまま還元されることもあるだろう。
 一生無意味に終わることもあるに違いない。もしかしたら大部分はそうなのかもしれない。
 それでも、もっといいものを見たいと思う。

 何故自分はいいものをもっと見たいと思うのだろう?
 と問いかけてみても、その答えはまだ出てこない。
 ただ、いいものをたくさん見ておいた方がいいはずだという予感めいたものがあって、だからなるべくいいものを見ておきたいと思っている。
 いいものはこちらから足を運んでいかなければ見ることができないものが多い。向こうからはなかなかやってきてくれないから。
 対象に近づくこと。そしてよく見ること。それが最近の私にとって大切なことになっている。

 いいものって一体何だろう?
 実はそれもよく分かっていない。とても漠然としていて、自分にも人にも説明できない。
 単純に言ってしまえば、心を動かされるものなんだけど、それでもまだ曖昧だ。
 もしかしたら、筋肉を鍛えるのと同じような感覚で、心を動かすことによって鍛えたいという無意識の願望なのかもしれないと思ったりもする。
 とにかく、理屈を越えて、もっといいものを見せてくれと心が要求してくるのに対して、私はできるだけ応えていくだけだ。
 まだ見たことのないものを目にするために、まだ行ったことのないところへ出かけていく。
 明日もまた。

 12月5日(日) 「あの頃大事なものはあの頃のために。
            今大切なものは今の自分のためだけに」

 大人が子供の遊びを馬鹿にしちゃいけない。
 ままごとも、お絵かきも、鬼ごっこも、探検ごっこも、リアルタイムで子供を生きていた私たちには確かに必要なことだった。
 同じように若者の遊技を否定してはいけないのだと思う。
 真実や、正義や、絶望も、あの頃の私にはなくてはならないものだった。
 たとえ、今はそれらが若者の遊び道具のようなものだったと感じたとしても、あの時代の私はあのときなりに真剣だったり、深刻だった。あれらの戯れも、間違っていたと思ってはいけない。
 今大切なものも、やがて大事じゃなくなるときが来るのだから。

 自分の根本的なところさえも変わってしまっていい。自分の中で絶対だったものがそうじゃなくなったからといって、それを誤魔化そうとする必要もない。
 今このとき、大切にすべきものは、今一番大切だと思っているものだ。過去の一番でも、未来の一番でもなく。

 最近の自分のテーマとして、二つの言葉がいつも自分の中にある。
 優先順位と、一期一会の二つが。
 それを一日の中で何度も自分に確認している。
 優先順位の先頭にあるのは何なのか、この時この場所は二度と訪れないのだ、と。
 間違えたり、思い違いをしたりしないようにしなくては。

 12月4日(土) 「人生ってときどきとっても儚く思えるけど、
            実際はどれくらい儚いんだろう?」

 私たちは人生が儚いものだということをおぼろげながら知っている。
 それと同時に過大な期待もしてしまう。
 健康で毎日を過ごせるだけ充分だと思いながら、幸せが足りないと嘆く。
 生き甲斐が感じられないなどと贅沢なことを言い、夢が叶わないから絶望だなどと傲慢なことを思ったりする。
 今この時も、戦争で人と人が殺し合い、飢えて死んでいく子供たちが大勢いることを知っているのに。
 ペットの死に涙を流し、動物の肉を食べる。
 いや、そういう自己矛盾が問題なのではない。私が今思っているのは、そういうこの世界の状況にどうしようもなく取り込まれてしまっている自分という存在を、どの程度儚いものだと思えばいいんだろう、ということだ。
 死ぬときはあっけないものだといえばそうだし、案外しぶといといえばそうとも言える。
 病気を必要以上に恐れたかと思えば、自ら危険なことをしてみたりもする。
 これでいいと自分に言い聞かせたり、まだまだ全然足りないと自分を叱責したり。
 確実に死に向かっている日々の中で、いまだに儚さの度合いを掴めずにいる。
 毎日を誠実に生きていくだけで充分なのかどうか、それもよく分からないまま、根拠もなく明日を信じて今日を生きている。
 ただ言えることは、私たちは瞬間をつないで生きているというとだ。
 確実な点を太い線にし、線を面に、面を立体に、そういうふうにしていけば私たちの存在は儚いものではなくなるはずだと信じている。
 今この一瞬、この一点を強く打たなくては。

 12月3日(金) 「やるべきことよりしたいことを。
            気持ちの旬が逃げないうちに」

 自分が何をしたいか知っているだけでは充分じゃない?
 そうかもしれない。
 でも、たとえ不充分でもいいから、今自分が本当にしたいことは何なのかを正確に把握しておきたいと思う。
 できることなら今以上にもっとしたいことは何なのかも。
 もちろん、我慢しなければならないことや、したくてもできないことはある。
 ただ、本当にしたいことが何なのかを、案外見失いがちだから、そこだけは見失わないようにしたい。
 美味しいものをあとに残しておくようなことはやめて、一番食べたいものから食べるような日々の過ごし方をしないと。
 気持ちの旬を逃せば、最高に美味しいものも最高じゃなくなってしまうから。

 12月2日(木) 「かつては気づかなかったこと。
            今になって分かること」

 昔は何も感じられなかった光景なのに、今はそこに特別なものを感じるようになった。そういうことがいくつかある。
 たとえば、夕暮れ時、郊外の道で犬を散歩させている中年の女の人を見て、あれもある種の勝者だなと思ったりするようになった。
 あるいは、昼間の公園のベンチで何をすることもなくぼんやり座っているおじいさんを見ても同じようなことを思う。
 それはどういうことなのかを5年前の自分に説明してもたぶん分からないだろう。理屈は分かっても感覚的には理解できないに違いない。
 これが年を取るということなら、案外悪くないものだ。
 この世界に対する理解が深まるほど、心は穏やかになる。

 12月1日(水) 「幸運を知ることは幸福なこと。
             多様性はそれ自体、幸福だ」

 この世界の多様さを思うと、それだけで幸せな気持ちになる。
 それ以上のものはいらないと言ってもいいくらいだ。
 どれだけ走っても泳いでも飛んでもすべてを回りきることはできないし、どれだけ知っても果てがない。
 それは絶望ではなく希望だ。

 人の個性は無数にあって、変化し、入れ替わる。
 色、音楽、生き物、味。
 全部を味わい尽くすことは決してできない。
 自分の頭の中で思うことも、感じることも、きりがない。
 次から次へととりとめもなくあふれてくる。
 終わりがないということは素敵なことだ。

 時間の経過に伴う変容、宇宙に広がる無限、その縦糸と横糸が織りなす絵模様は、複雑でありつつ単純で、どこまでも美しい。
 私は、この世界を形作る一部として存在していることを素直に喜びたい。
 それを喜びと感じられることがすでに幸せなことなのだと思う。

 11月30日(火) 「得るものはどこにでもある。
             光の中にも、影の中にも」

 得たものの代わりに失ったものと、失ったことで得ることができたものと、その光と影を見失わないようにしたい。
 他人を責めるのではなく、自分を卑下するのでもなく、迷ったら影を見るのだ。そして光を見ようとしてみる。
 そこには必ず救いがあり、嘆きがある。
 光の中にも、影の中にも。
 両方を同時に見ることができれば、必要以上の悲しみと驕りから逃れることができるだろう。
 見えなければ、目を閉じて想像してみることだ。

 11月29日(月) 「壁の向こうにあるのは自由か、開放か。
             それは壊してみれば分かる」

 私たちは壁にぶつかり、跳ね返され、また逆の壁にぶつかっていく。
 そうやって壁を壊して、ここから抜け出すしかないから。
 壁は乗り越えるものじゃない、壊すものだ。
 四方が壁で囲まれたところに私たちは囚われているのだから。
 何度もなんどもぶつかり、ひびが入ったところにぶつかって壁を崩す。
 そうやってやっとここまでの広さを確保した。過去に生きた大勢の人たちのおかげで。
 でもまだまだ充分じゃない。まだこれでは狭くて息苦しい。だから、これからも続けていくしかない。
 いつか、私たちを取り囲むすべての壁を壊すことができるのだろうか?
 いや、その勇気が人間にあるかどうか。
 本物の自由に耐えられるようにはできていないかもしれない。
 無重力の宇宙で生きられるような体をしていないように。
 もし、壁の外側へ出ることが自らの破滅をもたらすのだとしても、人は外を目指すべきだろう。
 本当の開放というのは、きっとそういうことだから。

 11月28日(日) 「未来は案外遠かった。
             21世紀ってこんなもの?」

 気がつけば自分は21世紀にいて、何年も過ぎたけど、未来は意外に近づいてこない。
 かつて思い描いた未来にいるような気がまるでしない。
 確かに20世紀は過去のものとなり、どんどん遠ざかって行ってるけど、その分未来が近づいたかといえばそうでもない。
 過去が後ろへ猛スピードで離れていくから自分がその速度で動いているような錯覚をしてるけど、実は動いているのは自分ではなく遠ざかる過去だけかもしれない。
 時代の変化が速く感じられるのも、過去を切り捨てていってるだけなのだろうか。
 貯金するのには時間がかかるけど、使うのはあっという間みたいなもので。

 それにしても21世紀は、ここまで見る限り、さほど画期的でもないなと思う。
 車は空を飛んでないし、一般人は月にさえ行けないし、夢レコーダーさえ発明されていない。
 相変わらず生き物を食べ、病気はなくならず、不老長寿も錬金術も見つからない。
 お手伝いロボットもいないし。
 生活は便利になったけどそれだけだ。暮らしの本質はほとんど20世紀の延長線上でしかない。
 世紀をまたぐことで、何か決定的なジャンプがあると期待したのだけど、今のところその兆しもない。
 流行の変化の早さに惑わされているけど、社会の根幹はほとんど動いてないと言える。
 たとえば明治の終わりに生まれた人間が、明治、大正、昭和で味わった30年なり40年なりの激変ぶりを、今を生きる私たちはほとんど体験していない。

 これにはけっこう失望した。
 20世紀を越えて、21世紀にさえ辿り着ければ劇的な変質を体験できると期待していたのに、あてがはずれた。
 たとえばインターネットや携帯電話の普及なども付け足しでしかないから、私の望んでいた激変とは違う。
 どれだけ長生きすればそんなものを体験できるのだろう?
 あと10年で世界はどれだけ変わるだろうか?
 私がまだ死ねないと思うひとつの大きな理由は、望んだほどの大きな変化をまだ味わってないことだ。
 自分の想像を超える21世紀体験をするまでは死ねないと思っている。

 11月27日(土) 「まだ5年? もう5年?
             速くて遠い5年」

 とても久しぶりに、ドラマ「WITH LOVE」の主題歌、MY LITTLE LOVERの「DESTINY」を耳にした。
 まず単純に、ああ、懐かしいなと思って、次にじわっと切なさがこみ上げた。当時の自分にまつわるあれこれがよみがえってきて。
 そして、こう思う。もう、二度と再び、あの頃の自分に戻ることはできないんだな、と。

 たった5年前のことがなんと遠いことか。
 私たちはなんて速いスピードの中で生きてるんだろう。
 あのときの気持ちと、ほんの5年間で遙かに隔てられてしまったことを思うと、ちょっと愕然としてしまう。
 まだたった5年しか経ってないのに。
 それとも、もう5年と言わなければならないのだろうか?

 あのとき心の中心にあったものは、もうそこにはなくて、周辺にあったものももうなくなってしまったり、どこかに埋もれてしまったりしている。
 林立するマンションの谷間に埋もれた二階建てのアパートみたいに古びてしまった。
 あの頃の恋も、夢も、希望も、感動も。
 今更あのときの気持ちに返って二階建てのアパートに住みたいとは思わないけど、あの頃の自分の気持ちをもう一度思い出して触れたいとは思う。
 それはかつての自分に対するノスタルジーでしかないのだけど、遠い過去ではないのに手をのばしても届かないのがもの悲しくもあり、ちょっと悔しくもある。
 そういえば、そんなセンチメンタルも、気づけば最近はどこかに置き忘れがちだ。

 どうやってももう、5年前の気持ちにさえ戻れないという現実の中で、突如亡霊のように蘇った、この甘酸っぱい切なさをどうしようか。
 もう一度飲み込むのか、吐き出して過去に向かって投げてやればいいか。
 などと言ってるこんな気持ちも、更に5年が経てば別の心に入れ替わっているのだろう。
 その頃までには10年前の気持ちなんて、ひとかけらも思い出せないかもしれない。
 それとも、思い出が別の形に変わっているだろうか。
 切なさも、悲しさもない、今よりもっと澄んだものに。

 11月26日(金) 「今もあの場所で、あのときのままに。
             たとえこちらから見えなくなってしまっても」

 過ぎ去った感情と、こぼれ落ちた思いと、それらは、振り返ってみれば、私が歩いてきた道に残骸のように落ちている。
 いや、思いが敷き詰められて、道を作っていると言った方がいいかもしれない。
 けど、もはや拾いに戻ることはできない。
 遠ざかるごとにかすみ、やがて過去の思いは、色も姿も判別できなくなる。
 でも、それらは確かに今も落としてきたところに、落としたときのまま、そこにある。その場所で風化することなく。
 それが私の生きた証だ。拾いに戻れなくても、今いる場所から見えなくなっても、それは変わらずそのままだ。
 人生は、フィルムの上に焼き付けられた映像のように、一回きりの書き込みで、上書きされることはない。

 11月25日(木) 「これは手段なのか、目的なのか?
           あるいは、そのどちらでもないものに変質したのか?」

 手段と目的は常に入れ代わりがちだ。
 そして、注意してるつもりでも、自分ではなかなか気づかなかったりする。
 感動を与えようとしてやってることが、いつの間にか感心させることばかり考えていたりするようになったり、やりたいと思って始めた仕事が、いつからか金を稼ぐだめだけになってしまっていたりすることも多い。
 何のために自分はそれをしてるのかを、ときどきは確認した方がいい。
 初心に返るというのは、言うほど簡単なことではないけれど、返るべき初心をせめて思い出せるようにはしたい。
 これは自戒の言葉でもある。
 ただ、常に状況は変化し、自分の思いも変わることを思えば、目的と手段が入れ代わるのも必然的な流れなのかもしれないと思ったりもする。
 恋愛の始まりと途中と終わりがあって、自分ではどうにもできないように、すべてのものごとはどうしようもなく変わってゆくものなのだろうか。
 私たちは変化を受け入れるしかないのか?
 すべての別れを受け入れるしかないみたいに。

 11月24日(水) 「スピードと思考の幸せな関係。
             高速移動と思考は両立しない?」

 スピードが思考の余裕を与えてくれない。
 あれこれ考えていたとき、いかにゆっくり生きていたのかが分かった。
 それでも今は、とにかく先を急ごう。
 思考を全部放り出してでも。
 急げば急いだだけのことがある今は。

 11月23日(火) 「自覚が自由を育てる。
             意志なきところに自由は存在しない」

 人にはしたいことをする自由と、したくないことをしない自由と、二つの自由がある。
 その二つは別のものだから、区別してそれぞれを選択した方がいい。
 何でもできるし、何もしなくてもいい。
 もちろん、そのどちらも自分にはね返ってくることだし、結果に責任を取らなくてはならないのだけど、自由はいい加減に行使せず、きちんと自分の意志で選ぶべきだ。
 義務といったものは、突き詰めていけばひとつもない気がするけど、自由は確かにある。
 それは可能性と言い換えてもいい。
 何よりもまず自覚をすることが大切だ。
 自分は何をしたいのか、何をしたくないのか、ということをよく知っていなければ、せっかくの自由も無意味なものとなる。
 周りや状況などに惑わされて自分の自由を見失わないために。
 他人より、歴史より、過去より、社会より、風習より、最後に頼りになるのは自分の思いだ。
 意志のないところに、本当の自由は生まれないし、育たない。
 人は、生まれて、物心ついてから死ぬまでに、何をしてもいい。したくないことはしなくてもいい。100パーセントの自由がある。
 何をしたいのかが最優先なのだということを決して忘れないようにしたい。
 それは理想論なんかじゃない。自覚の有無の問題だ。

 11月22日(月) 「ときに速く、ときにゆっくり。
             スピードの方に自分を合わせること」

 スピード感のある日々は、左右の景色が流れて、前だけしか見えなくなりがちだ。
 でも、前に見るべきものがある間はそれでもいいのだと思うようにしている。
 速度が落ちたり、前方に見るものがなくなれば、自然と左右も見えるようになるし、後ろを振り返る余裕も出てくるものから。
 常に前後左右を確認しておかなければならないわけじゃない。行くときは行っていい。止まるときは止まればいい。

 日々を生きるスピードというのは、アクセルを踏んだり放したりするようにコントロールできるものではない。自分の意志とは関係ない部分で速くなったり遅くなったりする。
 だから、こちらからスピードに合わせるしかない。速いときは速いときのように、遅いときは遅いときのように。
 正しい速度というのはない。急げばいいというものでもないし、ゆっくり行けばいいとも言えない。
 大切なのは、自分を運ぶスピード感に逆らわないことだ。
 そして、速すぎたり遅すぎたり感じるときも、恐怖感に負けないようにしたい。

 11月21日(日) 「悲しみは生きてる者のために。
             同時に死んだ者のために」

 悲しみは生き残った者の特権のようなもの。
 死んだら悲しむことさえできなくなる。
 だから、生きている間に思う存分悲しんでおくといい。
 悲しんであげることも、人としての思いやりに違いない。

 11月20日(土) 「生きる理由はもういらない。
             もっと単純な喜びがあるから」

 この世界の真実を見つける前に、生きることの単純な喜びをもう見つけてしまった。
 だから、もう真実はいらない。
 真実が見つかろうが見つかるまいが、私たちは生きるだけなのだから。
 もちろん分からないよりも分かっていた方がいいのだろうけど、でも結局人が理解できることはそれほど多くないし、少し分かったからといってすべてがきれいに解決するわけでもない。
 生きなくてもいい必然が見つかるまでは、生きるより他に仕方がない。

 かつての賢くなりたいという切実な願いを今更否定する気はない。
 でも今は、愚かになる覚悟ができた。
 居直るわけじゃなくて、その方がより誠実だと思うから。
 迷って、笑って、泣いて、怒って、楽しんで、そんなばかばかしいことを本気でやれば、自分の中で何か大切なものが見つかるような気がしている。
 生きることは、静かに溢れてくる歓喜だ。

 11月19日(金) 「もはや意味は見いだされている。
             今更見つけても新発見でも何でもない」

 無意味なことを無意味なままで終わらせなかったところに人間の正しさはある。
 そんなことしなくてもいいのに、あらゆる無意味に意味を見いだしてきた。道でころがっているものを拾ってきて、磨いて値札を付けるみたいに。
 でも、そうやって暗黒のこの世界に光を与えてきて。暗闇を隅から隅まで明かりで照らすように。
 だからもう、今を生きる私たちは、意味を探す必要などないのだ。もはや意味は過去の人たちが見つけてくれているのだから。
 何も疑問に思うことなく、黙って当たり前のように生きればいい。
 開拓者が築き上げた街に暮らすみたいに。

 もう、この世界は、すさんだ荒野なんかじゃない。
 街明かりが作る影に目をこらしてみても、たいしたものは見つからない。そこに重要な意味はない。
 もっと光を見よう。意味という光を。
 無意味を無意味のまま終わらせなかった人々に感謝しながら。

 11月18日(木) 「目の前には正しさと間違いの両方がある。
             どちらか一方で塗りつぶさないように」

 私たちは常に、正しさと間違いの両方を目にしている。
 見えているかどうかは別にしても、目の前に確かにどちらもある。
 同じものを見て、ある人はそれを正しいと言い、ある人は間違っていると言い張る。
 実際のところどうなんだろう? どちらかが正しくてどちらかは間違っているんだろうか?
 正しくもあり間違いでもあると、分かったような顔をしていれば賢いというのか?

 たとえば、貧しくてもけなげに頑張って生きてる人を見て、単純に感動してる人がいる一方で冷ややかに眺めて笑う人がいる。
 あるいはその三者を外側から傍観してるだけの人もいる。
 そうやって人は判断し、ときに言い争う。自分が正しいと相手を言い負かして安心するために。もしくは、自分が間違っているかもしれないという不安から逃れるために。
 でも、第三者をも含めたいうなれば第四者的に冷静な目で見てみると、貧乏だけど頑張るというのは状態としての間違いと姿勢としての正しさの両方の要素があると思うのだ。
 貧乏はやっぱり正しい状態とは言えないし、頑張る姿勢を間違ってるとは言えない。
 一方的、全面的に決めつけようとするから無理が生まれる。結果的に判断は歪む。
 事実を事実として判断抜きに見ることをまずしないといけない。自分がどう思うか以前に。
 人の正しさから学ぶべきところもあるし、人の間違いを教訓にすることもたくさんある。偏った見方をしてしまえば片方からしか得られないということになりがちだ。そんなのはもったいない。せっかく目の前に両方あるのに。

 正しいだけの人もいないし、間違いだけの人もいない。どんな他人からも学ぶべきところはある。
 批判や判断によって裁いてしまうことで自分の中で完結してしまうことが一番よくないことだ。
 だから、認識をして、あえて判断しないことが大切なのだと私は思う。
 正しさにも間違いにも惑わされないようにしたい。

 11月17日(水) 「優しいなんて言われてるようじゃ。
             誉められて喜んでるようでは、まだまだだね」

 偉そうに見えるとしたら、それは本当は偉くないからだ。
 賢そうに見えるのも、やっぱり賢くない。
 優しいと思われてるようでは、まだ本当の意味では優しくないのだと思う。
 一見して誰でも分かることは深くない。表面だけのことだ。
 そして表面と底が同じようなものだとしたら、それは厚みのない薄っぺらいものだということになる。
 実際のところは、深く潜ってみないと真相をうかがい知ることはできない。

 偉そうなことを言ってやがると思われたら負けだ。
 何でも分かってるように思われても同じこと。
 偉さや賢さは見せびらかすものではない。
 馬鹿に見えて実は賢いというのが次の段階。
 でもそこが最高じゃない。
 一番は、馬鹿なのか賢いのか、どうにも判断ができないというものだ。
 要するに規定されたら駄目だ。規定されるということは捕まるということだから。
 捕まって判断されているようじゃまだまだ甘い。
 判断されることから紙一重でよけないと。
 そしてよけたことさえ気づかれないこと。
 そこまでいければ、人間としてはまず上出来と言えるだろう。

 11月16日(火) 「無駄な経験はない。
             無数の無駄を集めればひとかけらの意味になる」

 どんな経験も無駄じゃない。
 いいことも悪いことも、珍しいことも当たり前のことも。
 いつか、思わぬ場所、思わぬ形で役に立つ。直接的ではなく、間接的にでも。
 自らどん欲に経験を求める必要はないと思うけど、経験に対して自覚的であった方がいいとは思う。
 自分の身に起こった出来事に対してあまりにも無自覚に過ごしてしまうと、せっかくの経験も身に付かない気がするから。
 上の空で美味しいものを食べても本当の意味で栄養にならないみたいに。

 ただ同じことを繰り返しているように思える毎日も貴重な経験に違いない。
 日々を生き延びることだって、実はたいしたものなのだ。
 毎日が未体験の新しい一日なのだと思えば。

 学校の授業なんて大人になって何の役にも立たないと言うけど、そんなことはない。
 一生のうち、一回でも、ちらっとでも何かの役に立てばそれは無駄じゃなかったことになる。
 知識や情報や見聞きしたことは全部組み合わせてこそ利用価値のあるものになる。
 それを細かく分解していけば、学校で習ったこともその中にかなりたくさん含まれているはずだ。
 日常生活だってそうだし、詰まらない仕事だって、誰かと交わした何気ない会話もそうだ。
 無数の無駄が集まって一粒の価値を生む。
 そういう意味では、人生で起こることに無駄なことは何もない。
 ささいな経験はご飯一粒みたいなもの。
 米も経験もいただけるものは全部美味しくいただいて、一粒も残さないようにしたい。

 11月15日(月) 「不幸とは仲良く。
             追い出すのではなく、不幸の主人になればいい」

 不幸は、闘うべきものであって排除しようとしない方がいいと私は思っている。
 たとえば、世の中に生きる不幸な人間を順番に取り除いていったとして、残された人間は全員幸福になれるだろうか?
 それはたぶんあり得ない。
 ひとり不幸な人間が減れば、ひとり新しい不幸な人間が生まれる。
 たとえ一時的に全員が幸福になったとしても、そこからまたあらたな幸福と不幸の格差は必ず生まれる。
 全員に100万円を配ったら、100万円がゼロに等しくなってしまうように。

 それと同じことが自分の内側においても言えるんじゃないか。
 今ある不幸を排除できたとしても、また別の不幸がかならず顔を出す。不幸は列を作って待っていて、キリがない。
 だから、不幸とは仲良くつき合っていくのが一番いい。追い出さず上手くやっていけば、そのうち馴染みになる。得体の知れないやつより見知ったやつの方がつき合いやすいだろう。
 それに、大きな不幸をひとつ飼っておけば、それ以外の小さな不幸を蹴散らしてくれるという利点もある。
 あまり刺激せず、そっと置いておくのもいい。
 なんなら、不幸をコレクションしたっていい。世の中からひとつでも不幸を減らして自分で背負うという形の社会貢献というものある。
 とにかく、頭ごなしに不幸を悪と決めつけないことだ。
 不幸が私たちにもたらしてくれるものだってある。それもまた人生における貴重な財産なのだと思う。

 11月14日(日) 「スーラの絵は人生に似ている。
             無数の色と点で成り立っている」

 人生で起こるあらゆることは、一部であって全部じゃない。
 幸福も不幸も、仕事も趣味も、結婚も仕事も、絶望も悟りも。
 細々とした要素が集まって世界を構成しているように、どの人の人生も単一色で塗りつぶせるものではない。
 無数の色が集まって一枚の絵のようになっている。
 スーラの点描画のように。
 私たちは部分を認識し、全体を理解する必要がある。一部分にこだわりすぎれば全体像を見失うし、全体ばかり見ていると一点の意味と色を知覚できない。
 近づいたり遠ざかったりして自分の人生を見失わないようにしたい。
 今ここに存在している自分は、人生のあらゆるシーンに登場した自分の分身のひとりに過ぎない。
 今日の私が、私の人生すべてを代表する自分ではない。

 11月13日(土) 「カーテンの向こう側、
             カーテンのこちら側」

 子供の頃は、大人のしてることの大部分がとても神秘的に感じられた。
 カーテンに映った影絵を見るように。
 自分が大人になって、カーテンを開けて見てみたら、そこで行われていたことは子供の頃と何も変わらなかった。単に秘密めかしていただけで。
 でも、だからなーんだと白けてしまったわけではなくて、ほっとしたという気持ちの方が強い。なんだ、結局変わらないんだな、と。
 というよりも、大人は子供の延長線上なんだということが分かって、安心したと言った方がいいだろうか。
 私は大人に変身しなければならないのだと思い込んでいて、そのやり方が分からずに少し怯えていたところがある。
 けど、子供から大人になるということは特別何かをしなくてはいけないというわけではなかった。気がついたら子供でなくなっていたというだけだった。
 大人と老人の関係も、これと同じなんだろうと思う。
 少年も青年も中年も老人も、別の人種ではないし、老人の意識もまたしっかり子供からつながっているに違いない。
 人は良くも悪くも生まれ変わったり脱皮したり変身したりはできないものなのだろう。
 昨日から今日、今日から明日へと、続けていくより他にやり方はない。

 11月12日(金) 「浄水、偏在、浸透。
             勝ち負けじゃなく」

 人より優れていることがもうそんなに大事じゃなくなったから、自分は普通に、当たり前に日々を過ごしていけばいいと感じている。
 負けず嫌いな方が人生を楽しめるけど、勝ち負けじゃない部分でこの世界で起こるあらゆるものを喜びとしたい。いいことも悪いことも、なるべく分け隔てなく。
 心の入り口に浄水器を取り付けたみたいだ。これでたいていのものはきれいな状態で自分の中に流れ込んでくる。
 もちろん浄水しきれないものもあるけれど。

 みんなと同じことをすることが苦手だった。かつて、もっと若かった頃。
 今は人と同じとか違うとかを意識することが少なくなった。
 自分がしたいことをして、それが結果的に違っていたり同じだったりするだけだ。

 上も下もなくなって、自分の意識は偏在し、浸透する。
 自分と他人の境目がますます曖昧になる。

 11月11日(木) 「目指せ、反省ゼロ。
             健康な心のために」

 少しでも気を抜くと、心の隙間に反省心の野郎が無理矢理割り込んでこようとするから油断できない。
 生意気なやつめ、おまえなどお呼びではないのだ。
 見つけ次第かき出して、うぉりゃっと、できるだけ遠くに投げてやる。

 反省なんてのは、活性酸素みたいに名前だけ聞くといいヤツみたいだけど、実は有害な悪玉に違いない。
 正常な細胞を食い散らかすように、まっとうな心を食い荒らす。
 反省なんてしてもロクなことになりゃしない。
 そんな詰まらないものに絡め取られたりしないようにするには、急ぐのが一番いい。
 反省心は足の遅い人間にしか追いつけないから。

 寝る前のひとときは、今日の失敗や間違いを反省するんじゃなく、明日やる楽しいことやいいことを考えるための時間だ。
 眠るために目を閉じたときから、もう明日が始まっている。

 11月10日(水) 「流れてていく先は約束の地ではない。
             すべてはこれから起こることだ」

 さまよい、漂い、最後に辿り着いた場所が、最初から私の行くべきだと決まった場所なのだと思う。
 そこに自分の意志は必要ない。だまっていても運んでくれるだろう。

 辿り着く場所を自分で決めなくてもいい。状況も方向も途中で変わる。風向きも。
 流されることに自覚的であればれでいい。流されていることに気づかないというのでなければ。
 流れに逆らおうとすればその場で動けなくなってしまう。乗れば泳ぐこともできる。
 行き着く場所を決める権利が人にあるのかどうか、それは分からない。自分で決めて無理矢理そこへ行き着くことが正しいのかどうかも、私には判断がつかない。
 それよりも流されることを楽しみ、その場で臨機応変に対応することが大切だと思う。
 思惑通りには決していかないし、いかなくてもいい。
 予測がつかないから面白いんだとも言える。

 流れ着いたところがどんなところであれ、それを悔やまず、文句は言うまい。
 たとえ満足じゃなくても納得はできるだろう。文句を言える身分でもない気もする。
 今は何もかもありがたい気持ちでいっぱいだ。
 けど、その気持ちもまたこの先で変わっていくだろう。
 すべては流れのままに。

 11月9日(火) 「列の先頭から対処するのは世の習い。
        その場の思いつきで順番を無視したら前後も納得しない」

 今一番やりたいことをするために時間を作り出すなんてことは実にたやすいことだ。
 むしろ、そこまでしてやりたいことを見つけることの方がずっと難しい。
 本気で好きになる人を見つけることがとても難しいように。
 見つかりさえすれば努力の方向性も分かるし、頑張ることもできる。
 どれだけ多忙な日々でも時間は作れる。

 一日は24時間から増えることはないのだから、何かを削るよりしょうがない。
 普通は睡眠時間を削るのだろうけど、私の場合それは無理なので、他のことを放り出すしかない。何もかも後回しにして。
 時々ふっと恐ろしくなったりするけど、まあ後でなんとかなるだろうと自分に言い聞かせながら、前だけを見てよそ見をしないようにしている。
 それにしても払いきれないほどのツケをため込むのはさすがにまずい。
 時間の自己破産というものもある。
 せめて先を急ごう。動作の一つひとつを機敏に、そして切り替えを早くして間を空けないように。

 とにかく今は一日がとても早くてあっけない。
 面白かった映画を観終わったあとみたいに。

 11月8日(月) 「期間限定の楽しみは、
            気持ちが旬のうちに」

 一生を通じて自分の幸せの核となる部分とは別に、期間限定の喜びというものもある。
 限られたときにしか楽しめないことが。
 両立しない場合は、断然期間限定の方を優先させた方がいい。そのとき限りのものは二度と巡り来ないのだから。
 味わい尽くせば終わりではなく、むしろ物理的な時間で区切られてる場合も多い。
 だから、手加減して長持ちさせようとせず、急いでやり尽くして味わってしまおう。
 気持ちが旬のうちに。
 そういうものは自分の中で終わってしまうと、もうそれ以上どうしようもなくなる。
 冷めた恋心のように。
 でも楽しみは恋と違って割り切って切り替えればいい。そうなったらそうなったで、また次を見つければいいだけのことだ。終わらなければ次が見つからないということもある。
 期間限定の幸せをつなぎ合わせていけば一生幸せなまま終われるだろう。
 水で薄めた単色の幸せよりも、鮮やかなつぎはぎだらけの幸せの方が私は好きだ。
 気持ちが登っているときは、出来る限り急いで多くのことを味わって、一日も無駄にしないことだ。
 それは明日、突然終わってしまうかもしれないから。

 11月7日(日) 「人生はピンチでありチャンスでもある。
            いずれにしても試してみなければ始まらない」

 幻想でも何でもいいから、追いかけるものがあるなら追いかけていいんじゃないか。
 たとえ無駄に終わっても、いじけて立ち止まってるよりはずっと得られるものはあるはずだから。
 走れば見える景色も変わるし、風景が変わればそこから感じるものもある。
 手をのばせば、その手に触れるものもある。ポケットの中に手を入れていたら何にも触れられない。
 勇気ある前進じゃなく、逃避でもいい。
 動いて失うことよりも動いて得られるものの方が多いものだし、動いて失敗してもそのまま動き続けることであらたな成功もあるだろう。
 止まっていたら成功も失敗もない。
 絶対に実現不能な夢でも見た方がいいし、どんなに無謀な挑戦でも最後まであきらめることはない。
 何故なら、私たちがしているのは、死を前提としたゲームだから。
 失敗さえしなければずっと生きていられるというのなら、慎重にいくべきだろうけど、そうではない。
 動かずに頭の上から物が落ちてくるか、動いて車にひかれるか、どっちの可能性が高いとも言い切れないわけだし。
 この世には正義も正解もない。あるのは、試みの機会だけだ。

 11月6日(土) 「変わるスタイル、変わらない本質。
            人としての短い瞬きの中で」

 時代と共に変わるのはスタイルだけで、人が求めているものや方向性なんかは何も変わっていない。
 新しい歌手が違う言葉で同じテーマを歌っているように。
 スカートの長さが長くなったり短くなったり、また元に戻ったりするみたいに。
 大人も子供も、若者も年寄りも、みんなシフトしていってるだけだ。
 子役から成長して老俳優になるみたいに。そしてまた新たな子役が出てくる。
 流行のように姿形は変化するけど、世の中の関係性や構造に大きな変化はない。
 若者は若者としてどう生きるかに悩み、老人は老人として不安と闘っている。

 物心ついて20年、30年と世の中を見てくると、だんだんそういうことが分かってくる。
 結局、みんな同じことを歌い、同じことを書き、同じことで悩んでいる。何も変わってない。
 それは言葉を換えれば、何も解決してないということだ。
 生きることの意味とか、愛とか恋とか、幸せとか。
 それがどこまで続いていくのか、どこかで行き止まりになるのかは分からないけど、私自身に関して言えば、もう充分、おなかいっぱいという気がしている。

 ただ、分かったフリをして見下ろすとかそういうことではなく、そういうことを理解した上で、もっと優しい気持ちになりたいと思う。
 若くてチャラチャラした連中に腹を立てたり、情けない中年を軽蔑したりせず。
 むしろ自分ももっと人間らしく駄目なやつになって、交わっていきたい。
 夏休みの子供満載の市民プールに飛び込むみたいに。

 外側から世界を眺めるのにもそろそろ飽きてきた。
 無知ゆえの素直さではなく、分かった上での素直さというものもきっとあると思う。

 11月5日(金) 「光を集めて闇を照らす。
            この暗い場所を」

 この地上は、どうしようもなく、果てしなく暗い場所だから、明るく照らさないといけない。
 その明かりは何だといえば、やっぱり人間なのだ。
 人間こそがこの世界における希望の光に違いない。
 強い光を放つ人が生まれればその分この世界は明るくなるし、その人を失えばその分だけ確実にこの世界は暗くなる。
 それでも残った者たちが小さな明かりを寄せ合ってこの世界を照らしていく必要がある。
 それができるのは人間だけなのだから。
 人は希望であり、光である。
 私たちはそれぞれが精一杯の光を放ち、この世界が闇に飲み込まれないようにしなければならない。
 人間以外のすべての生き物たちのためにも。

 11月4日(木) 「小さな間違いも集まれば大きな間違いになる。
            その逆のことも言える」

 今日はいろいろ間違えた一日だった。
 計算間違いをし、ペース配分を間違え、優先順位を取り違えた。
 ささいな失敗や小さなミスも、重なれば結果的に大きな間違いになる。
 そういう教訓めいた一日でもあった。

 でも、反省しても失った時間が戻ってくることはない。
 明日、少しでも取り戻すことを考えるしかない。
 今日はここで時間切れ。
 また明日。
 そう、また明日。これはとても素敵な響きだ。

 11月3日(水) 「上も下もなくて、あるのは前と後ろだけ。
            見るのは後ろじゃなく、前にしておいた方がいい」

 人には上も下もないと言えばないのかもしれない。
 ただ、先行と後続があるだけで。
 先進国、後進国という言葉あるが、あれみたいなものだ。
 今でこそ日本人は他の国のことを笑ったりしてるけど、ちょっと前まで同じようなことをしてたのだ。
 私が生まれる100年前まで、同じ国の人間同士が刀で斬り合ったり、さらし首をしてそれをみんなが眺めたりしていたなんて事実もある。
 早熟な学生は同級生を馬鹿にしたりするけど、時間が経てばみんな追いつくもんだ。
 先を行ってることと優れていることを取り違えてはいけない。

 遅れてる人を軽蔑したり侮ったりするのは自らを危うくする。
 追いつかれないように自分もせいぜい先を急ぐことだ。のんびりしてたらいつの間にかすごい勢いで追いつかれて、それについて行けないなんてことになるから。
 中国に追いつかれそうになってあわててる日本みたいに。
 または、小馬鹿にしてた日本製品に自国製品が追い抜かれてしまった欧米のように。

 優越感ほどやっかいなものはない。
 それを持てる状況で持つなという方が難しいのだけど、せめて在る程度はコントロールしないとまずい。
 暴れるがままにしておくと、やがて内側から蝕まれてしまう。
 自分の位置を確認するために上下や前後を認識するのはかまわない。
 ただ、いつも前や上を見ることを心がけておいた方がいい。
 自分の後ろを判断しないようにすれば、なんとか優越感に惑わされないで済むだろう。
 上を見ればきりがないし、前を見たら果てがない。
 だから、目の前を行く人をひとりひとり、追いつき追い越すことを考えるといい。
 その気になればみんなまとめて一気に抜いてやるなんて考えは捨てて。

 11月2日(火) 「イメージの旅。
            ただ漂うだけじゃなく」

 生きることは、予定をこなすことではなく、時間を潰すことでももちろんなく、イメージを具現化することだ。
 頭で思い描いたことを実際にやってみて初めてどういうことか分かる。
 それが生きる意味。それぞれが、実際に。
 人に言われたことをやってるだけでは、そこにイメージは生まれない。

 イメージが間違っていたらいい絵は描けないし、いくらイメージが完璧でもそれを正しく再現する能力がなければきちんとした形にならない。
 上手な字を書くということに似ている。正しい字を頭に描けることと、手がその通りに動くことと、ふたつが合わさって初めて上手い字を書ける。
 イメージがない人生は、設計図のないまま建てられた家のようだ。
 いびつで倒れやすく、時に耐えられない。

 大事なのは片方ではなく、両方だ。
 イメージ喚起力と実践能力と。
 まずはしっかりしたイメージを思い描くこと。それさえ間違っていなければ、あとはその下絵を元に完成へと近づけていけばいいだけということになる。
 私たちは旅人だ。
 ただ放浪してるわけじゃない。

 11月1日(月) 「姿勢の問題。
            自覚してるしてないにかかわらず」

 私たちの幸せは、囲まれた柵の内側にしかないのだということを、悲しい現実とみるか、ありがたいと素直に受け入れるか、どっちがいいんだろう?
 たとえばそれは、重力が人間を地表に縛り付けて自由を奪っているけど、重力がなくなったら宇宙に漂うことになって生きていけないという現実が象徴している。

 もそも幸福という概念は、人間社会の内側でしか成立しないものだ。
 無人島にひとりで生きていたら幸福とか不幸とかは、どんどん意味をなくしていく。
 比較する対象がなければ、人は自分が幸せなのか不幸なのか、たぶん分からない。

 生きることは幸せなこと。でも私たちはそれだけでは満足できない。幸福以上を求めずにはいられない。
 そんなあいまいで実体のないものに多くのことを賭ける。
 そのことをばかばかしいと突き放してしまうことは簡単だ。
 でも、そう簡単に捨ててしまっていいものでもない。
 幸福というのは実はそれほど重要なものではないけど、それを知っていて尚、人は全力で幸福を求めるべきなのだと私は思う。
 それは姿勢の問題なのだ。
 努力して、向上、前進するためには、ある程度形のあるものが必要となる。
 それはたとえば幸福であったり、金であったり、地位であったり、名誉であったりする。愛や恋もそうかもしれない。
 幸福がかりそめの概念にすぎなくてもいっこうにかまわない。そのもの自体は本質ではないのだから。

 必ずしも自覚的である必要もないのだろう。分かってなくても正しい姿勢で生きてる人もいる。
 ただ、幸福というものの追求に疑問を持ってしまったとするならば、幸福やそれを求める人間の本質を読み違えないようにしなくてはいけない。
 何故人は向上しなければならないのかというのはまた別の話だ。
 とにかく、利用できるものはなんでも利用して前進しなければならない。
 同じ場所にとどまっていたら、足下から崩れて飲み込まれるだろう。

 10月31日(日) 「1パーセントのスペシャルのために
             重ねるべき99パーセント」

 スペシャルを持つためにはレギュラーを確立しないといけない。
 それはイレギュラーだから。
 イレギュラーは確かにある。いい方にも、悪い方にも。
 非日常は日常との対比によってしか成立しないように、奇跡は99パーセントの失望の上にしか成り立たない。
 そういう意味で、結局は日々の小さな積み重ねを大事にするしかないのだと思う。
 釈然としなくてもしょうがない。
 近道はあるようで案外ないものだ
 99パーセントの無駄を超えてこそ、スペシャルに辿り着くことができるだろう。
 そのとき初めて99パーセントが無駄じゃなくなる。
 人生は1パーセントのためにある。けど残りの99パーセントが無駄なわけじゃない。

 10月30日(土) 「種をまくこと。
             始めればゼロが1になる」

 始めたはいいが、その後が続かないことはたくさんある。
 けど、それはそれでかまわないのだと思う。
 飽きっぽいということは全面的に悪いことのように言われがちだ。
 でも意外とそうでもないかもしれない。
 それよりも何にも興味を示さないことの方が問題なんじゃないか。何事にも無関心で心を動かすことがないのが一番よくない。
 何にでも興味を持つことが大切で、始めさえすればゼロは1になる。たとえ100にならなくても、1でも10でもゼロじゃないことに意味があると私は思う。
 始めなければゼロは永久にゼロのままだ。

 続けることはもちろん大切なことだし、偉大なことだ。続けることでしかものにならないこともたくさんある。
 けど、まずは始めることを重視したい。飽きたら飽きたでいい。また違う何かを始めればいいのだ。
 興味を持つことによって自然と知識も増えるし、そのことが別の何かにつながっていったり、新しく知り合いが増えたりもする。
 何よりもいろんなことを知ってるということは楽しいことなのだし。

 どうせ続かないんだから最初からやめておこうだなんて思わず、まずは始めてみればいい。
 子供が何か始めたいと言ったらなんでもやらせてみるべきだ。
 もちろん大人も。
 もしかしたらその思いつきの小さな種が大きな木に育ち、思っても見なかった花を咲かせるかもしれない。実を付けることだってあるだろう。
 種をまかなければ絶対に芽は出ないのだから、なんでもいいから種をまいてみないとね。

 10月29日(金) 「オリジナル地図の作成。
             人のを写すのではなく」

 人生は思っていたよりも何もないものだ。
 期待はずれなことも多い。
 行ってみたら何もなかったり、思い描いていたことが起こらなかったり、道が行き止まりになっていたりする。
 何か面白いものがあると思って苦労して行ってみたら空き地だったとか、憧れの世界に入ってみたら案外空っぽだったりとか。
 でも、それはそれでいいのだ。意味もあるし価値もある。
 自分の目で見て、体験してみて初めて納得できるのだから。人から伝え聞いているだけでは知っていても分かったことにはならない。
 その納得するということがとても大事なことなのだ。ないならないで納得さえすれば先へ進むことができる。気になってるといつまで経ってもそっちへ気持ちが残って足が進まなかったりするから。
 片想いと告白のようなもので、告白して振られたら前へ進めるようになるみたいに。

 生きることは、人生の未開地の地をなくしていく行為だ。土地はすでにあるけど、地図はない。
 日本で初めて日本地図を作った伊能忠敬のように、自分の足で歩いて、測量して、一から地図を作っているのが人生だ。
 何もないところに何もないと書き込むことは、何かあるところに何かあったと書き込むのと同じくらい大事なことに違いない。
 そっちの道を行っても何もないぞ、と誰かに言われたとしても、自分で行って確認してみるまでは自分の地図に書き込むことはできない。もし、他人から伝え聞いたことだけで地図を作ったら、そんなものは正確性を欠いた詰まらないものになるだろう。

 なるべく、今まで行ったところのないところへ行き、やったことのないことをして、それまでと違う自分で別の生き方をすることが大切だ。
 充実した自分だけのオリジナル地図を完成させるために。

 10月28日(木) 「オールオーケイ。
             なんでもいただきます精神で」

 幸せだからオーケイなのではなくて、
 不幸だからNGなのでなく、
 オールライト、All right、つまり、すべてオーケイ。
 そんな心境にやってきた。はるばる、時に運ばれて。
 好きなものや食べたいものを自分で注文するんじゃなく、
 出されてものをなんでも美味しくいただこうという姿勢。
 何が出てくるか分からない楽しみだとか、
 びっくりするくらいまずいものを笑ってしまうとか。
 自分の身にこれから起こることも、
 世界で起こってる出来事も、
 オール・オーケイ、何でもアリだ。
 大事なのは無差別に飲み込むことではない、
 よく噛んで何でも消化する丈夫な胃腸を持つこと。
 あらゆる人の考えも一回は飲み込んでみないと。
 匂いや味だけで判断したりせず。


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