2004.9.3-10.27

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 10月27日(水) 「対極を求めてしまうのは、
             人の悲しさか、知恵なのか」

 体調が悪いときは体が健康的なものを求めて、普段口にしないものを半ば無意識に食べたり飲んだりするものだということを最近発見した。
 近頃の私といえば、昔は大の苦手だったトマトジュースを飲んでみたり、日頃めったに食べないバナナなんかが妙に美味しく思えて食べたりしてた。
 半ば自分の意志ではなく。
 でも、体調が元に戻ったとたん、それらを口にしようという気がまったくなくなってしまった。それどころか見るだけで気持ちが拒絶反応を示す。
 風邪もひいてないのに風邪薬なんて飲みたくないみたいに。
 体というのは正直で、脳にもちゃんと指令を送ってるんだなとあらためて思った。
 ここ数日は体に悪いものばかり口にしてる。ラーメンとか、甘いものとか。

 不健康なときは健康的なものを求め、健康なときは不健康なものを求める。
 これは精神的な部分にもあてはまるんじゃないだろうか。
 心が健康なときは不健康なものに気持ちが向かい、不健康なときは健全なものを欲するようになる。
 疲れてるときは難しい映画なんかよりも平和なアニメを観たいと思うし、心に張りがあるときは病気の番組や悲劇的な映画なんかを積極的に観たくなったりする。
 精神と体というのは、そうやってどこかで自らバランスを取ろうとするところがある。
 どっちかに偏りすぎるのを嫌うらしい。たとえそれが良い方であってもそうだ。
 幸せすぎると自分から不幸を探したり、持ち慣れない金を持つとわざと無駄遣いをして貧乏に戻ろうとしたりする。
 良すぎる状態をどこかで恐れてしまうというのはどういう本能なんだろう?
 人間に本来から備わってる根源的なものなのか、それとも経験から学んだことなのか?
 面白い機能だとは思うけど、ちょっと不思議でもある。

 自分が今、健康志向なのか不健康志向なのかによって現在の自分の状態を知ることができる。
 不健康を求める今の私は、けっこう大丈夫なのだろう。
 そういう安心の仕方もある。

 10月26日(火) 「遅れてでも行こう。
           出遅れたスタート地点でいじけてなんかいられない」

 出遅れたことを簡単に追いつくのは無理だ。
 たとえば5年、10年前からやってる人に昨日今日始めてそう簡単に追いつけるものではない。
 でも、だからといってあきらめてしまえば永遠に追いつけない。逆にどんどん引き離されていってしまう。
 それではちょっと寂しいし悔しい。一度はやろうと思ったことをそう簡単にやめてしまうのはもったいない。ただ出遅れたというだけの理由で。

 先頭を行くより後から行った方が時間もかからないということもある。先達が5年かかったところなら3年で行けるかもしれない。
 何かを始めるのに遅すぎることはない、という言葉は慰め言葉で必ずしもその通りだとは思わないけど、いくら遅くても何もしないよりはましであることは間違いない。
 いくら遅れても待ち合わせには行った方がいいし、どれだけ遅刻してもズル休みよりはいいように。
 たとえ追いつくことはできなくても、追いかけることが大切だと思う。

 それに、先を行ってる人だって、極められないという点では変わらないのだ。差はあってもそんなに悲観することはない。
 道は先へ行くほど進むのが困難になってなかなか進まなくなる。後から行っても進んでさえいけば、やがて追いつくこともあるだろう。
 初心者から中級者になるのは早いけど、中級者から上級者になるには時間がかかるし難しい。更にその先へ行くのはそれまで以上に困難になる。
 何事も途中で投げずに続けてさえいれば上級者にはなれる。
 その向こう側へ行けるかどうかは時間が決めることじゃない。先に行けば優先して行けるわけじゃないし、遅れていってもすっと突き抜けることもある。

 あともう10年前に始めていれば、などとは言うまい。
 思い立ったときが始めるときだ。
 単なる思いつきなどと言うけど、それは案外重要なものだったりする。思いつかないことはいつまで経っても思いつかないわけで、それは始めようがないのだから。
 思いついたことを出来る限り大切にしたい。
 そして、目標を追い続けたい。
 始めたからには追いつき追い越したいとも思う。

 10月25日(月) 「今日の優先順位を確認。
             昨日は終わり、明日はまだ来てない」

 今やれることをやるという単純なことが、できているようで実はあまりできていない。
 してはいるけど、徹底が足りない。
 やれることのどの程度を毎日できてるだろうか?
 けっこうできたように思う日もあるし、まったくできなかったと思うこともある。

 生きることは、決して現在だけのものではなく、過去と未来をあわせた今この瞬間だ。
 けど、ときどき配分が分からなくなる。
 リアルタイムに偏りすぎてしまったり、未来を恐れて今に立ちすくんでしまったり、後ろを振り返りすぎてまったくスピードが出なかったり。
 ベテランドライバーのように、スピードメーターと遠くとバックミラーをまんべんなく、もしくは同時に見ながら走れるといいのに。

 太古の歴史から未来までの時の流れの中における今を生きることが大切だ。
 今の瞬間だけに生きるのではない、時間の流れを感じながら今に集約させるのだ。
 今日という日は、過去の約束を果たすための一日であり、未来でかわす約束の場所へ自分を運ぶための日でもある。
 今私たちが立っている場所は、無限の中の一点と永遠の中の一瞬が交わった所だ。
 それは同時に、前後左右上下、すべての方向につながり広がっていくことも意味している。

 今日やるべきことは、明日でもできることではなく、今日しかできないこと。
 昨日すべきだったことではなく、今日やるべきことだ。

 10月24日(日) 「変わるのも悪くない。
             新しい自分に出会えるなら」

 気持ちが変わるように、生き方も変わる。
 何もかも、もう昔みたいじゃない。
 でもそれを悲しむまい。
 大切なのは、いつも何かを好きであること。
 新しい好きに出会えるなら、変わるのも悪くない。

 10月23日(土) 「押し入れの奥のアルバムの写真。
       大切な記憶はしまっておくものじゃなく、取り出して見るもの」

 自分でも気づかないうちに、あまりにも多くの記憶を捨てすぎていたようだ。
 今日、そのことにはっと気づいた。
 ネットのある写真が昔の記憶を一瞬にして蘇らせたことで。

 前へ進むために捨てなければならないものなんて、実はそんなに多くないんじゃないか。
 記憶をためておくスペースは、狭いアパートの押し入れみたいに小さくないはずだ。
 何もかもをやたらめったら詰め込んでおけばいいというわけじゃないけど、一生分の大切な記憶を収めておくくらいの広さは、脳の中に充分ある。

 目障りというだけで多くの記憶を無造作に捨ててきた。
 できることなら、それらをもう一度拾い集めて、整理してしまっておきたい。
 たとえばそれは、自分の子供時代の写真に似ている。
 成長する中で、ある一定の期間、自分には不要なものになるけど、大人になり、年を取ったとき、もう一度必要なものとなる。
 懐かしく思い出すために、あるいは誰かと共有するために。

 古い写真も記憶も、押し入れの奥にしまいっぱなしでは役に立たない。どこに何をしまったか覚えておいて、いつでも取り出して見られるようにしておかなければ。
 昔の出来事は確かに過去に属するものだけど、記憶は今現在、そして未来に属するものなのだということを知った。

 10月22日(金) 「信じる者は救われる。
             ほんの時たま、奇跡みたいに」

 何事につけ、疑問を持つことは大切だ。
 疑問をひとつずつ解き明かしていくことが人生だから。
 でも、疑念を持ったら負けだと思ってる。
 疑う心が鬼を呼ぶ。
 疑念は歩みを止めさせ、求める心も殺してしまう。
 仕事にしても、恋愛にしても、人生にしても、疑念が駄目にしてしまうことがどれだけ多いことか。
 自分に向かない仕事だと簡単に放り出し、相手を信じられずに恋をなくし、生きることに疑問を持って命を捨ててしまう。
 疑念がどれだけ正しく思えても、決して信じてはいけない。
 それは私たちを試す意地悪な罠だから。
 生きることや、愛することや、祈ることに疑いを抱いて何を守ろうというのか?
 愚かさがそんなに恐ろしいだろうか?
 裏切られることがそんなに悪いことだろうか?
 疑うことは賢さのしるしなどではない。
 それは小賢しさの証だ。
 小さな鬼に負けてはいけない。
 たとえ救われなくても報われなくても、最後まで信じることが大切だ。
 生きることを信じること。そうすれば死さえも信じることができるだろう。
 その後に続く自分の存在も。
 自分の存在を疑う人間に未来はない。

 10月21日(木) 「引き算より足し算で。
             加点方式を採用したい」

 世界を減点方式で見るか、加点方式で見るかによって、この世界をどれだけ好きになれるかがずいぶん変わってくる。
 自分の理想を100点として現実をマイナスしていけば、それは好きになれっこない。
 それよりも、0から始めて、いいところをプラスしていった方がずっと幸せになれる。
 もちろんマイナスだってたくさんあるけど、プラスマイナスでマイナスにはならないと思うのだ。
 もし、それでもマイナスになってしまうというのなら、それは世界が間違ってるのではなく見る側が間違ってる。いいところが見えてなさすぎる。
 この世界はそんなに悪いところばかりじゃない。

 私自身はマイナスから始まったので、今はどんどんプラスになっていって100点を超えている。
 自分の理想さえ押しつけなれば、この世界は本当に面白くていい場所だ。
 ありがたく楽しませてもらっている。
 世界に対して受け身であり続けることが正しいことなのかどうかまだ決めかねているのだけど、時代は変わるという決定的な事実の前で、私はある種のあきらめを持って世界と向き合うようにしている。
 いいときもあり、悪いときもある。
 私は今この時、この場所で生きることを楽しんでいる。
 大局的にはいい方向に向かっていると信じながら。

 世界も人生も試みだ。
 誰の人生も、個人の日々の暮らしも。
 100点満点の完璧な世界が一時的に実現したとしても、そこで終わりではない。
 だから、100点満点を目指してもしょうがないのだ。
 それに、満点が100点と決まってるわけじゃない。上限はないのかもしれない。

 減点方式を採用してる人は、それをやめれば今より幸せになれから、明日から加点方式に切り替えることをおすすめしたい。

 10月20日(水) 「過ぎ去る季節を振り向かず。
             まだ来ていない季節を憂わず」

 時がゆくのをどれだけとどめようとしても、時は待ってくれない。
 時は決して急がない。けど、絶対に立ち止まらない。
 こちらが遅くなれば置いていかれる。
 年々一年が早く感じるられるのは、自分の足が遅くなってるからだ。
 時の速度を追い抜くことはできないけど、せめて後ろについていけるように足取りを早めたい。
 季節に追い抜かれてしまうようなことがないように。

 一年の残りがだんだん少なくなってきて気持ちが焦り始めた。
 でもその割りには足が進んでない。
 もう2ヶ月とちょっとしかない。でもまだ2ヶ月ある。
 あと2ヶ月を乗り切ればという思いもある。
 焦らず先を急ぎたい。
 来年のことはまだ考えず、今年の中でできるだけのことをしよう。

 10月19日(火) 「うらやましがることは悪いことじゃない。
             そんなに自分に満足してるわけじゃないなら」

 誰かをうらやましいと思うことは、いいことなのか悪いことなのか。
 単純に言えば、うらやましいと思うときは悪いときで、思わないときはいいときだということになるのだろうけど、もう少し考えていくとそう単純に言い切れるものではないんじゃないかと思えてくる。

 うらやましさというのは、ある種の執着心だろう。
 金持ちがうらやましいなら自分も金持ちになりたいと思ってるということだし、自分が病気のとき健康な人がやけにうらやましく思えるのは自分も健康になりたいと思ってるからだろう。
 逆にうらやましくないというのは淡泊するんじゃないのか。向上心が足りないとも言える。
 あまりにも他人をうらやましがらないのは不健全な強がりだ。そういう達観は自分のためにならない。
 うらやましがるだけで何もしなければねたみに変わり、意味もないけど、向上心として利用できるのなら、他人をうらやましがってもいい。いや、むしろ積極的にうらやましがるべきだ。

 結局、基準というのは他人の中にしかなくて、自分と他人を比較するより他に自分を知る方法はないのだ。
 幸福にしても、成功にしても、体調にしても、外見にしても。
 だったら他人との比較をきちんとしていけばいい。今の自分を知り、何が足りないのかに気づくためにも。
 あまりも自分の中だけで基準を決めて判断してしまうのはあやうい気がする。どこかで自分を見失ってしまうような。そして、かたくなになりすぎる。

 憧れの人や、自分の理想や、尊敬する人をきちんと持つことも大切なのだと思う。
 目標は誰ですかと訊かれて誰もいないという答えが格好良いと思うのは、発想として幼いんじゃないか。
 謙虚になることも必要だし、誰かを目標とすることは恥ずかしいことではな
い。
 たとえどれだけ人からうらやましがられる人間になったとしても、そこで満足してしまえばもうそれ以上は上がれない。
 いつまでも誰かを素直な気持ちでうらやましいと思える人でありたいと思う。

 10月18日(月) 「完璧という幻想の向こう側には、
             愛すべき不完全がある」

 かつて完璧だったものが今はもうそうじゃないと感じるのは寂しいことだけど、それだけ自分が前進して成長した証拠なのだから、むしろ喜ぶべきことなのだろう。
 生きるほどに世界は完璧じゃないことを知るようになる。
 でも、完璧じゃないがゆえに愛せることも増えていく。
 だからやっぱり成長することは、悲しいことなんかじゃないのだ。
 もっともっと、不完全な世界に住む完全じゃない人間を愛せるようになればいいなと思う。
 完璧は必ず幻想だ。

 10月17日(日) 「今の自分が喜ぶものを、
             自ら与えなければ満たされない」

 私が探しているのは、かつて面白かった何かではなく、それを楽しいと感じたかつての自分なのだろう。
 喜びや楽しみを与えてくれたものじゃなく、そのときの自分の感情だったのだ。
 そのことに最近やっと気づいた。
 根本的な勘違いをしていた。
 それじゃあ見つかるはずもない。
 昔の自分はもうここにはいないのだから。
 たとえばそれは、インベーダーゲームに夢中になっていた頃の自分はもう存在しないというようなことだ。
 あの頃みたいな恋をしたいと思って、もしそれが見つかったとしても、もうあの頃のように恋することは決してできないだろう。
 すべては今の自分を基準に考えなければならない。
 今ここにいる自分が楽しいと感じられることを探すことだ。
 昔の感情と比較しても意味がない。
 かつては与えられるものだけでおなか一杯だった。
 でももうそうじゃない。
 自分で探して見つけなければ満たされることはないだろう。
 大人になれば、口を開けて待っていても、誰も何も与えてはくれない。

 10月16日(土) 「もっと軽く、
             浮ついた感じで」

 生きることは重いことだけど、もっともっと軽やかに生きたい。
 フワリと浮き上がって、海の彼方に吹きさらわれるみたいに。
 悩みなんて何もないような顔をして、ヘラヘラしながら毎日過ごしたい。
 ポーズじゃなく、本心から。

 10月15日(金) 「死にたくないから生きるんじゃなくて、
             生きたいから生きてるんだと言いたい」

 死を意識しないと生きることが軽くなりすぎる。
 でも死を思いすぎるのもあまり健全なこととは言えない。
 死を思うほどに自分や日々を大事にしようとする気持ちは強くなるけど、毎日の暮らしの中でどの程度死を意識して、どれくらい生に執着すればいいのか、その加減がよく分からない。
 死のうが生きようが今日という日を大事にするというのは当たり前。
 でも、死との距離感が違えば、その重みというのは決定的に違ってくる。
 平均寿命くらい生きるつもりで生きてる今日と、余命3ヶ月と宣告されて生きる今日とでは、今日一日に対する思い入れはまったく違うだろう。
 でも、健康でも明日事故で死ぬこともある。

 毎日、多くの死を間接的に知る。
 そして、どんなに不調でも自分はまだ生きてるじゃないかと自分に言い聞かせる。
 いや、それほど調子が悪いわけじゃないのだけど。
 いずれにしても、一日の終わりに辿り着くと安堵する。
 天と地の関係者の方々、今日もどうもありがとう。
 明日もまた頑張ろう、と。

 死にたくないというのではなく、生きたいという強い気持ちをどこまで持ち続けられるか、ということだ。
 その気持ちが折れるまではきっと大丈夫だ。

 10月14日(木) 「気持ちが大事というけれど。
             気持ちエネルギーでは越えられない坂もある」

 気持ちでねじ伏せられる部分と、気持ちだけではどうすることもできないことがある。
 気持ちだけでどうにもならないことと戦っても仕方がない。それはあきらめよう。
 でも、気持ちでどうにかなることでも、実際気持ちさえあればどうにでもなるというものでもない。
 気合いは大事、でも気合いだけでは充分じゃない。

 自分の中の弱気とどう戦うか。
 気持ちで勝てる病気なのかそうでないのか。
 自分に対して努力を強要すべきことなのか違うのか。
 怠け心はやっかいな強敵だ。そうをどうやっつければいいだろう。
 理屈抜きで怠けるなといっても素直に聞くはずもない。論理で言うことを聞かせるか、感情に訴えるか。
 もっと頑張れと自分に励ましの言葉をかけるのは簡単だけど、今以上に頑張るのは難しい。
 毎日の決まった暮らしの中で簡単に上積みできる余地などそうあるものじゃない。
 一日10分のエクササイズでダイエットになりますなどと言われても、その10分を毎日やり続けるのはそう簡単なことじゃない。10分という時間的な余裕があればできるというものではないから。
 一日100円貯金すれば一月で3,000円、一年で4万8,000円と分かっていてもできるものではない。
 絶対に続けなければならない意味や理由がないとできないというのが普通の感覚だろう。
 一体どうすれば普通以上の自分になれるのだろう?
 何事も気持ちの持ちようと言うけれど、気持ちだけではどうにもならないことの方が多い。

 自分に言うことを聞かせられる人間、自分の言うことを聞ける人間。
 そうなるにはどうすればいいのだろう?
 何が足りないのか?
 優秀さや立派さとは関係ない部分で、自分なりにもっと頑張るにはどうしたらいいのか。
 自分自身に対して説得力のある強い気持ちというのを見つけたい。
 誰かに求められて初めて頑張るというのではなく、自分から発して自分に帰着する気持ちというのも必要なのだと思う。

 10月13日(水) 「印象の薄い一日。
             名前の思い出せないクラスメイトみたいに」

 印象的な夢があり、起きたとたんに忘れてしまう夢がある。
 日々も同じで、特別な日があり、何もない一日がある。
 出来事としてだけでなく、感覚的な部分で。
 昨日は印象的な一日だった。
 そして、たいていそういう次の日は印象の薄い一日になりがちだ。
 今日はまったくそんな日だった。
 いい夢を見て、また今夜もあんな夢を見たいと思っても、そうならないことがほとんどであるように。

 10月12日(火) 「年を認めて認めすぎないこと。
             すべてが一方的に悪くなっていくわけじゃない」

 年を認めないのはどうかと思うけど、潔すぎるのもかえってよくない。
 無理して若作りしてるのは確かに見ていてちょっとだけ痛々しくもあるけど、年を言い訳にしてあきらめていしまう方が格好悪いんじゃないか。
 年だから少しくらい腹が出ててもしょうがないとか、年だから物忘れが激しくなるのも当然だとか。
 それが最大限努力した結果なら仕方ないけど、そうじゃないなら言い訳する前にできることがあるはず。
 最初からあきらめてしまって、言い訳ばかり考えるようになるから、大人はダメだと子供の目に映るのだ。
 私自身ももちろん例外ではない。
 だから、今後はそういうのをなるべくやめることにした。
 体型だって記憶力だって知能だって、まだ鍛えれば伸びる余地はあるはずだ。
 勉強だってもっとしなくちゃいけない。
 初めてのことも始めたい。
 やってないことはまだたくさんある。これまでに中途半端にやり残したことも。
 全部一度にはできないけど、一つずつでもやっていこうと思う。
 特に30代後半はある意味分岐点のような気がする。
 ここであきらめてしまうと一気に中年化が進むだろうし、ここでもう一度加速すると若い40代になれるだろう。
 腹は出てないけど、もう一度腹筋が見えるくらいまでになろうじゃないか。
 円周率だって覚えられなくはない。
 ひとよひとよにひとみごろ。
 すいへいりーべぼくのふね。
 にしむくさむらいしょうのつき。
 ねうしとらうたつみ……。
 ねぇうしとらうぅたつみぃ……。
 次なんだっけ?
 ダメだぁぁぁ。
 ダメ40代男へ一直線か!?

 10月11日(月) 「予定通りいくことが幸せじゃない。
             予想以上のものこそ本当の幸福だ」

 予定調和がいつもその通り現実となるわけではない。
 予定も調和も崩れるのが人の世だ。
 勧善懲悪も、弱肉強食も、絶対の法則ではない。悪が栄え、弱者が勝利することもある。
 そこに神や運命などを持ち出す必要もない。
 ただ単純に、無作為に、不幸は訪れる。あるいは、幸福が。
 意味や理由は影だから、どこまで追いかけても捕まらない。

 私たちは、あまりにも不確かなこの世界で確かなものを求めようとする。
 でもそれは気休めのようなもので、本気で確かなものを必要としてるわけではない。
 分からないから正気を保てるのだし、理解できないから生きていられるのだ。
 そこに矛盾はあるのだけど、それでも世界はこうして成立してるのだから、こういうものだと受け入れるしかない。
 確かすぎる世界では、たぶん人は生きていけないのだと思う。

 人は自作自演をしているだけとも言える。
 自分たちで壊してまた作り、作ってはまた壊す、そうして自己批判をしている。
 ユニークな習性の生き物と一言で片づけてしまうのは乱暴だろうか。
 でも破壊の中から思わぬ副産物を生み出してきたのもまた人間の特徴に違いない。

 たとえば私たちは物語や作品の中に理想を描き、それを演じ、それに酔う。
 現実もこうだったらいいのにと思ったりもする。
 でも実際世界は自分たちの都合のいいようにはならないことを知っている。
 だから努力するのではなく願うだけなのだ。

 ただ、現実は悪い方だけでなく良い方にもときに裏切ることがある。
 あきらめていたことが思いもよらず実現したり、駄目だと思っていたものがたまたま認められたり。
 だからこの世界は面白い。
 予想不可能な部分が少しだけあるところが。
 その数パーセントの意外性こそが、人間にとっての救いであり、未来に向けての可能性なのだ。
 予定通りいかないところからジャンプが生まれる。

 明日、予定調和が崩れないと決まってるわけじゃない。
 それが本当の意味での希望なのだと思う。
 自分の思い通りになることが最高の幸せではない。
 想像を超えることこそが真の喜びなのだ。

 10月10日(日) 「イイもんもワルもんも、一緒に行こう。
             私が果てまで連れて行く」

 人は誰でも、無意識のうちに、自分の中で幸福と不幸のバランスを取りながら生きている。
 誰もがいつでもどこでも100パーセントの幸せを求めてるわけじゃない。
 どこかでバランスを取るための不幸を求めている。
 幸せすぎて怖い、と言ったりするのはその表れだろう。
 幸せの側に傾きすぎると道を踏み外しやすくなるというのを、本能と経験から知っているからに違いない。

 人間はいろんな部分でバランス感覚を発揮している。
 幸不幸もそうだし、善悪もそう。努力と怠惰、聖と濁、希望と絶望、愛と憎、緩と急など。
 一方に傾きすぎるのはバランスが崩れている状態だ。それが良い方であっても。
 それはこの世界全体にもいえる。
 善人だけの世界なんて気味が悪いし、正しいだけでは息が詰まる。きれいなものを知るためには汚いものも必要だ。
 どちらか一方では成立しないのがこの世界であり、人間なのだろう。
 その根本的な仕組みにケチをつけても仕方がないし、無理矢理きれいにしようとするのは無理がある。
 このバランスはバランスとして理解しつつ受け入れるしかないと私は思う。
 そのバランスも時とともに変化していくということを知っておくべきだろう。

 私たちは幸福だけを追い求めて生きてるわけじゃないということだ。
 不幸は幸福のためにきちんと受け入れないといけない。
 不幸は幸福と釣り合わせるための重りとなる。
 鬼は外、福は内、という精神ではなく、福も内に取り込みつつ同時に鬼も内に飼うのだ。
 そうやってバランスを保ってこそ心の安定を得ることができる。
 幸福も不幸も来るものは拒まずの精神で生きていけば、豊かで賑やかで深い人生になるんじゃないだろうか。
 いいやつも悪いやつも全部お伴として引き連れていってやるのだ。

 10月9日(土) 「地球人が異星人に教えてあげられること、
            歌うこと、恋をすること、笑うこと、泣くこと」

 笑いや恋や歌は、本質的なものであると同時に本質的なものではない。
 なくても生きていけるから。
 でもないと寂しいというだけでなく、人間がこの世で生きることの本質的な部分に深く関わっているように思う。
 人間を人間たらしめているものと言ってもいい。
 これらがなければ人の知性では生きられないかもしれない。ただ食べたり寝たりするだけでは。

 恋もせず、歌も歌わず、笑いもせず、そうやって生きているように見える人もいるかもしれないけど、その人が一生に渡ってそうだとは限らない。
 もしそんな人がいたら、その人は人間として大事なものが欠けていると言えるのんじゃないだろうか。
 笑いや歌といったものを、人はもっと自覚して大切にしていいと思う。自分のものも、人のものも。

 人間は太古の昔から、笑い、歌い、恋をし、踊ったり、怒ったり、泣いたりしてきたのだろう。
 それがこの先の未来、どこまで続くか分からない。
 人の感情というのは進歩してるのか退化してるのか。
 もしかしたら遠い未来で人は感情というものをなくしてしまうのかもしれない。
 でもそのときはもう、人は人でなくなっているのだと思う。
 私たちは笑いのある世界に生まれ合わせて幸せだ。

 神は笑うか?
 そりゃあ笑うだろう。全知全能というのなら。
 千年後、一万年後、百万年後、人は今みたいに笑ってるだろうか?
 他人の失敗に笑い転げたり、誰かの言った冗談に爆笑したり、好きな人と目があってはにかみ笑いをしていて欲しいと思う。
 かつてどんなに暗い時代の中にあっても、人は笑っていた。
 貧乏の中にもささやかな笑いがあり、不幸のどん底にも苦笑いがあり、戦争中でも笑いが絶えたことはなかった。
 人が笑ってる間はこの世界はきっと大丈夫だ。
 宇宙に笑いはあるのか?
 なければ地球人が教えてやらないといけない。
 笑いは宇宙の中でも最高の発明のひとつだから。

 10月8日(金) 「どうして生きているのかは分かってる。
            意味なんていらない」

 悟りの海の浅瀬を駆け足で通り過ぎ、先を急ぐ。

 アナタはどうして生きているの?
 と、アユはオトナに訊ねた。
 私は答える。
 まだ明日を生きていないからだ。

 私は明日という日を見たい。
 だから、何が何でも今日を生き抜かなくてはならない。
 明日の始まりに立つために。

 明日に何があるの?
 と誰かが私に訊くかもしれない。
 私は答える。
 明日には未知がある、と。

 幸福や正しさや真実や正義なんてのは、物に付けられた名前みたいなもの。
 名前の付いたものを求めるから満足できないのだ。
 大切なのは、言葉では言い尽くせないような感情ではないのか?
 名状しがたく、心の奥底からわき上がってくるような。
 まだこれまでに味わったことのないような。
 それを私は今日に探している。
 今日見つからなければ明日探す。
 だから生きている。
 格好悪くてもいいじゃない?

 10月7日(木) 「波に乗ること。
            浮き沈みに身を任せて」

 無数の波が複合的に作用してこの世界を成立させている。
 時間のうねり、自分の気分の上下、体調の良し悪し、時代の気分、流行の回転、人類の進化、星の運行などなど……。
 個人のもの、家族のもの、周りの人間、国単位、星単位、銀河系単位……。
 たくさんの波が上下左右、別々の角度、それぞれの速度でうねり、ぶつかったり、合わさったり、分かれたりしつつ、互いに作用し合っている。

 物質の存在は運動で成り立っている。
 分子単位、原子単位で。
 人間もそうだし、生き物すべてもそう。世界も星も全部。
 バランスが取れたり、崩れたり、また別のバランスが成立したり。

 言いたいことは二つ。
 何ものも不変ではないということ、波に逆らわず乗ることが大切だということだ。
 理解とあきらめはときに似ている。
 理解があきらめにつながり、あきらめが理解を生むこともある。

 私たちは生きている限り浮き沈みがある。
 浮いているときも次に沈むときのことを忘れず、沈んでいるときは必ず次は浮くことを知っておきたい。
 波に逆らって、下手にもがけば溺れるだろう。

 10月6日(水) 「用意された選択肢と、
            自分で作った選択肢と」

 状況が常に選択を要求してくる人の人生を見て、ときどきすごくうらやましく思えることがある。
 たとえば、小さい頃から周りの誰よりも非凡で、いろんな誘いや期待が押し寄せてきて、必然的に選択を迫られるような人生がある。
 いわば巻き込まれ方の人生だ。
 その一方で、誰からも何も要求されない人生がある。
 特に周りから強く選択を要求されるでもなく自分で進む道を決める人生。
 多くの人は後者の人生を生きているわけだけど、果たしてどちらが幸せなのだろう?
 ある部分では他方をうらやましく思うこともあれば、逆に優越感や安堵感を感じたりもするだろう。
 才能があるとかないとかではない部分で、周りに決められがちな人生と何もかも自力でやらないといけない人生と、どちらが得られるものは大きいのだろうか。

 自由度の高い人生を生きている私はときどき途方に暮れる。
 ときには誰かに自分の進む方向を決めて欲しいと思ったりもする。
 何かを要求してくれれば応えるのに、と。
 でも、強要されないということの素晴らしさはなにものにも代え難いのかもしれない。
 これはきっと自分が選んだ道なのだから。
 意識的にも、無意識の部分でも。
 だから、何事を言わずにこれからも自分で全部決めていくしかない。
 道筋があまりにも見えないのはあまりいい気持ちはしけないけど、とにかくこのまま行けるところまで行くしかない。
 それに、道上だけが歩くところと決まってるわけじゃないんだし。

 10月5日(火) 「立ち止まっただけ。
            明日になればまた進めるさ」

 今日という日に立ちつくす。
 足は動かず、思考は停止し、ただ呆然と。

 何もしないことや、何も考えないことが罪なのかどうか。
 罪悪感が顔を出したり、それを追っ払ったり。
 誰に何をどう謝ればいいのか。

 そんな中でも心だけは動いていた。
 勝手気ままに、とりとめもなく。
 そのことは救いだ。
 心まで動かなくなったら、自分に対する最後の信頼感がなくなってしまいそうだから。

 明日は自分を動かそう。
 まずは足から。
 体を動かせば、頭も動く。
 頭の位置を変えれば、視点も変わる。
 視点が動けば、思考も動き出す。
 そのまま時間や習慣も動かしたい。

 10月4日(月) 「限界が分かれば超えられる。
            限界に届いてみなければ見ることすらできない」

 自分の本当の限界を知ることができる人間がどれくらいいるだろう?
 多くの人は自分の限界がどのあたりにあるのか知ることがないまま一生を終える。
 記録は破られるためにあると言う。
 限界もまた、超えるためにある。
 限界を超えるためには限界まで到達してみせる必要がある。
 だから、自分の限界を知ることは悲しむことなんかじゃない。

 今この時、自分の限界というものは確かにある。
 どこにあるかは分からなくても、目には見えなくても、どこかにある。
 でも、限界線を向こう側に押しやることはできるはずなのだ。
 限界を超えることも必ずできる。
 一度も限界点に達してなければ尚更だ。

 何よりもまず自分の限界を知ることから始めよう。
 能力、気力、体力、才能。
 限界の向こう側の光景というのは、自分で行ってみなければ決して見ることはできないものだ。
 そこに広がる空間や時間こそが、明日の自分が生きる場所に違いないと私は思っている。
 限界を超えられない人間に明日はない。

 10月3日(日) 「鈍い痛みの正体。
            それは、馴れ合いからくるけだるい日常」

 悩んでいないことが悩んでいることよりいいわけじゃないってことをが、最近実感として分かった気がする。
 悩んでいるときはこの悩みさえ消えてくれればどんなに楽になるだろうと思ったけど、いざ悩もうとしても悩めなくなってしまうとなんだか途方に暮れてぼんやりしてしまう。
 部屋にあったテレビがふいになくなってしまったみたいに。

 悩んでみせることが誠実さの証明だと思い込んでいたときはもう過ぎた。
 あの頃みたいなことはもうないのだろうけど、あまり悩まなくなった今があの頃よりも無条件に幸せだとは思えない。
 生きることに迷いがなくなった今より、毎日悩みの中でもがいていたときの方が充実感みたいなものがあったような気もする。
 ただ季節が過ぎただけ。
 そうなのかな?

 もちろんこの先もあらたな悩みがたくさん出てきてそれに悩まされることになるのだろうけど、かつてのように真剣になれなくなってしまったのは少し寂しい。
 人は年と共に成長して、賢くなって、どんどん幸せになるはずだ。
 そんな幻想を抱いていた若い日の私はまだ知らなかった。
 大人の人生が子供の人生に比べて退屈そうに見えるのは、大人になると悩みの質が低下して、悩みと真剣に向き合えなくなるからだということを。
 人生や悩みと馴れ合いになってしまって、新たな日々との緊張感が足りなくなる。
 若いときは良かったなどとは思わないし、口に出してはいけない。
 ただ、大人になり、年を取るということは、やっぱり鈍い痛みを伴う悲しいことだなと思わざるを得ない。
 その鈍痛は、少年の私には決して想像できるものではなかった。

 10月2日(土) 「人生の勝者の明日に何がある?
            敗北するよりましな未来だけでなく?」

 人生の勝者には何が与えられるのだろう?
 賞賛? 死後の豊かな暮らし? 愛にまつわるもの?
 人は本当に勝ちたいのか、それとも負けたくないだけなのか。
 私自身に関して言えば、どうしても勝利のイメージというものがわいてこない。
 何がどうすれば勝ちなのか、ルールと目的が分からない。
 たとえどれだけ勝ち続けてもその先に続きがあるような気がして、勝つということに執着できない。
 誰かにどこかで止めて欲しいという思いがあるのだけど、誰にどこで止めて欲しいのかもよく分からない。
 ゴールテープの先で誰かが待っていて、よく頑張った、もうここでいいんだと言ってくれたとして、それで納得して走るのをやめれるだろうか?
 やはり勝利の形は自分で決めるしかないのか。
 ただ、一つだけ確かなことは、最後は勝って終わりたいということだ。
 上手く勝ち逃げしたい。
 その時と場所が見つかるといいけど。

 10月1日(金) 「昨日も明日も大事。
            でも、今日をもっと大切に」

 今日、今このとき、自分が確かに生きていることを最大限評価しよう。
 昨日や明日なんて、ジャンボ宝くじの前後賞くらいのものだ。
 9月30日(木) 「裁かないことの次は判断しないこと。
            自分の浅知恵を味方と思ってはいけない」

 判断しないこと。
 今はそれを一番心がけている。
 良い悪いとか、正しいとか間違ってるとか、罪とか責任とか、そういうことを判断しようとすると目が曇って逆に判断を誤るような気がする。
 そして物事の本質を見失う。
 客観的な判断もいらない。
 目の前で起こってることも、世界の出来事も、心の内側で混乱してる想いも、すべてありのままに受け入れたい。
 判断のフィルターを通さずに。
 それくらいはそろそろ出来るようになってきてるはずだ。
 吸収するものは吸収して、受け流すものは流して、見なくていいことは見ないでおく。
 頭や論理で判断せず、感覚で処理するようにしたい。なるべく。
 よりこの世界との一体感を高めるために。
 この場所で生きることに馴染むまで30年以上かかったけど、ようやくしっくりくるようになってきた。
 いい感じ。
 それがちょっと嬉しい。

 9月29日(水) 「肯定に肯定を重ねてどこまでも。
            肯定と否定を交互に重ねることはない」

 自分の人生を全体として100パーセント肯定してしまうと、あとはもう楽になる。
 何が起こっても、自分はこれでいいんだと思えれば、必要以上にくよくよしなくて済む。
 それはそんなに難しいことじゃない。
 たとえば、大人になって自分の学生生活を振り返ったとき、自分の学生生活はおおむねいいもんだったなと思えたとする。
 それと同じことだ。
 人生を丸ごと外側からひとくくりにしてしまって、全体として肯定してしまえばいい。
 内側では細々としたことがいろいろあるけど、そんなことは重要なことじゃない。
 自分の人生の絶対的肯定こそが、毎日を楽しく過ごすための方法論であり、終わった後に後悔せずに済む心の持ちようであり、いつ死んでもいい覚悟にもつながるだろう。
 自分を否定したり過去を反省したりしても事態は好転しない。
 遠くまで行きたければ肯定に肯定を重ねることだ。

 9月28日(火) 「地球以上の星はあっても、
            地球以上の星を私たちは作れない」

 世界中に散らばっている優秀で、知的で、美しくて、才能あぶれる人たちを一ヶ所に集めて一つの国を作ったとする。
 果たしてそれは素晴らしい国になるだろうか?
 絶対にならないと私は思う。
 評価は常に相対的なものでしかなく、勝者ばかりを集めてもそこで新たな競争と格差が生まれ、全員が幸福になることは理論上不可能だからだ。
 でもそれは悲観すべきことじゃない。
 むしろ現状を肯定すべきであるという何よりの証拠ではないか。
 私たちが考える理想は頭の中だけのものであって、今この現状こそが理想そのものなんじゃないかと私は思う。
 私たちの在り方や方向性は間違っていない。これでいいんだ、と。

 優秀なやつらは各地に散らばらせておけばいい。
 世界はそれぞれが自分の役割を分担することでバランスを保っている。
 全員が幸福になる必要もないし、地上に楽園はいらない。
 船だって全員が片方に寄ったら傾いて沈没するかもしれないし、飛行機だってみんなが片側に座ったら真っ直ぐ飛べないだろう。
 誰かが休みの日は誰かが働かないといけない。

 この世界というのは、考えれば考えるほど上手くできている。
 完璧に人知を越えている。
 もし、地球上の天才が全員集まって別の惑星に地球以上の星を作ろうとして作ったとしても、地球を超えることは不可能だろう。
 あまりにもたくさんの構成要素が複雑に絡みすぎていて、人間の脳では計算しきれない。
 私たちは、現状を部分否定することよりも自らの向上を考えた方がいい。
 結局のところ、それだけが私たちのできることなんじゃないだろうか。

 9月27日(月) 「前へ行こうとする気持ちと踏ん張る体。
          レジに向かおうとするお母さんとだだをこねる子供みたい」

 気持ちは今すぐにでも駆け出そうとするのに、体が動いかない。
 足が言うことを聞いてくれない。
 腰がどうにも重い。
 自分の意志が反映されない夢を見てるみたいだ。
 あるいは、一発K.O.パンチを狙いすぎて手が出ないボクサーのように。

 今ちょっと、心と体のバランスが悪くなっている。
 心と体の調和が取れていない。
 頭の中の思いが未整理のまま山積みになっていて、その山を見ながら何から片づければいいのか見当がつかずに途方に暮れて立ちつくしている感じだ。
 まずは一つずつ、一歩ずつなんだけど、それさえも出てこない。

 流れのないところに流れを作り出すのは難しい。
 むしろ向かい風の中を逆らって進む方が簡単だったりするけど、逆風も吹いてない。
 とにかく今は、小さな流れが必要だ。なければ自分で作るしかない。
 いったん動きが生まれれば、動きは連鎖するはずだ。
 気持ちは早くも明日へ向かう。
 だけど眠りがついていかない。

 9月26日(日) 「奇跡を願うのは恥ずかしいことじゃない。
            老成がいつも早熟に勝るわけではない」

 考えてみると、奇跡を願う気持ちがだんだん弱くなってきて、それが私を駄目にしてるような気がする。
 信じる信じないという以前に、願う気持ちさえいつの間にか失ってしまっていたようだ。
 一体私は何から自分を守ろうとしていたんだろう?
 奇跡を信じてそれが起こらないことがそんなに怖いのか?
 それとも、信じること自体、恥ずかしいとでもいうのか?
 奇跡を信じないことが賢さなんかじゃない。
 そんなふうに自分を守っても何にもならないだろう。
 もう一度、奇跡を願う心を取り戻そう。
 舞い上がるための空がなければ心も高く羽ばたくことはできないのだから。

 9月25日(土) 「普通より少しだけ。
             悪いときは悪いときなりに」

 F1ドライバーや100メートル走ランナーがコンマ1秒を競うみたいに私たちは日常の一分一秒を大切にすることはできないけど、せめて一日単位で無駄にはしないようにしたいと思う。
 何もない一日を作らないように、毎日その日のテーマを持って臨みたい。
 一日でも無駄にすれば、もうその分を取り返すことはできないのだから。
 代替日は用意されていないし、雨天順延もない。
 晴れの日も曇りの日も雨の日も、それぞれにできることを最大限やるようにしたい。
 調子のいいときはいいときなりに、悪いときは悪いときなりに、一日を壊さないように心がけよう。
 どんな偉大な人生も、ささやかで平凡な人生も、日々の積み重ねであることに違いはない。
 小さな失点も重なっていくと逆転不可能な点差になる。
 頑張らないといけなくなったとき頑張ればいいと思ってると手遅れになりかねない。
 普通に過ごすよりも少しだけ上積みして頑張りたい。
 十分と十二分の間の十一分くらい。

 9月24日(金) 「下り坂ほど胸を張れ。
            転落せず最後まで自分の足で歩くために」

  絶望するには値しない物的証拠はいくらでもあるのに、私たちはときとして絶望すべき状況証拠に惑わされ負けそうになる。
 まるで見当違いの無実の人間を追いかける刑事みたいだ。
 そんなことをしていては人生の迷宮に自ら迷い込むことになる。
 そして時効が来てお宮入りだ。
 部屋を見渡してみて、自分を楽しませ、喜ばせてくれるものがどれだけあるか、もう一度よく確認してみた方がいい。
 物証は目の前に晒されている。

 明日の絶望より今日の喜びが常に優先するのだということを今一度自分に言って聞かせなくてはいけない。
 何をくよくよ思い悩んでるんだ、それより今日の楽しいことを全部やったのか、と問いかけてみる。
 まだやれることはあるんじゃないのか?
 あるなら、今日の残りを急いだ方がいいんじゃないか?
 眠りがいつも通り自分を明日まで運んでくれるという保証もありはしないしね。

 絶望的な状況から目を背けて刹那的に生きることが正しいというのではない。
 優先順位を間違えないことが大切だということだ。
 あきらめる前にやれることがあるはずだし、投げ出す前に最後の確認をした方がいい。
 それは本当にファイナルアンサーなのか、と。

 人間は何もあきらめなくてもいいのだと私は思っている。
 最後まであきらめないまま死ねばいい。
 潔いのは格好良いけど、格好良いことはたいてい間違ってるものだ。
 格好悪い方が正しい場合が多い。

 上り坂を登ってるときに胸を張りすぎると後ろに転げ落ちていく。
 下り坂を下っているときにうつむいて背を丸めていると前へ転げ落ちていく。
 どんな下り坂でも最後まで胸を張って歩きたい。

 9月23日(木) 「失敗作も集めればひとつの作品になる。
            人生は失敗の見本のようなものだ」

 これまでさんざんいろんな失敗をしてきたけど、失敗から学んで今にいかされてると思えることがたくさんある。
 だから過去の失敗は無駄じゃなかったと思いたい。
 失敗はしなければそれに越したことはないけど、失敗からしか学べないことも確かにあって、だからやっぱり失敗することも必要なのだろう。
 思い出すと悔しいこともあるけど仕方がない。

 どれだけ失敗を繰り返して何度学んでも、完璧にいくことはない。
 でも、同じようなシーンに出会ったとき、前回よりは上手くいってるはずなのだ。
 たとえば恋愛とか、仕事とか、ペットとの付き合い方とか、子育てとか、そういう正解のないものでも少しずつは上手くできるようになっていく。
 それは過去に失敗した苦い思い出があるからだ。

 自分から失敗する必要は全然ない。失敗すると最初から分かっていることをやるのは愚かなことである場合が多い。
 ただ、大事なのは失敗しないことよりも失敗から学ぶことだ。
 そうやって進歩成長していくことが生きることの意味だと思うから。

 失敗経由成功行きのバスに乗ったなら、途中下車したり降ろされたりしないように、終点まで行きたい。
 強がりみたいだけど、遠回りも無駄じゃなかったと言えたらいい。

 9月22日(水) 「勇気は生きるためのエネルギー。
             でも解決のためのキーじゃない」

 生きていくためのささやかな勇気みたいなものは、そこかしこにころがっている。
 会社や学校の中にも、街角にも、テレビの中にも、家の中にも。
 けど、人生を解決に導くためのキーは、そう簡単には落ちていない。

 そう、問題は解決を目指すのか、目指さないのかということだ。
 解決を目指さなくていいというのなら、生きることはそんなに難しいことじゃない。楽しいこともたくさんあるし、退屈せずにすむ方法はいくらでもある。
 70年や100年なんて、すぐに過ぎてしまう。
 解決を目指そうとすると、とたんに難易度が上がる。

 歴史があり、今の生活があり、未来の世界がある。
 時間の流れ、空間の広がり、人の心の内側。
 毎日を楽しく過ごすこと、人生に目的を持って努力すること、生きることを楽しむこと、人としての義務を全うすること。
 同じテーブルに乗せて考えてみても、思いつく限り隅から隅まで駆け回っても、まるでとりとめがない。
 着地点も心のホームも見つからない。
 そしてまた、同じところを巡ることになる。
 夢の中で何度も同じことを繰り返し見るみたいに。

 人生は解決不可能なのか?
 いや、そんなことはないと思いたい。
 それぞれが何らかの結論に辿り着くことはできるだろう。
 ただ、全面解決はあり得ない。
 時間が停止しない限り。
 私たちはこの流動的な世界でさまよい続けるしかない。
 いつかすべてが解決することを夢見ながら、小さな勇気をエネルギーに変えながら生きていくだけだ。

 9月21日(火) 「毎日が清書。
             下書きも、書き直しもできない」

 一日ずつ丁寧に生きよう。
 そんなささやかな決意が健康体に戻ったときまで続くかどうか怪しいけど、今日そう思った。
 乱暴に書き殴るみたいな生き方は今後もうやめようと。
 好きな人に宛てた手紙を書くみたいに丁寧に生きるよう。
 走り書きみたいな生き方じゃ、きっと気持ちは伝わらないから。

 9月20日(月) 「いいオチがあればそれでよし。
            みんなで突っ込めるようなやつなら」

 分からないという答えがぎりぎりの誠実さから生まれたものならば、それは正解なのかもしれない。
 分かるはずもないことを分かったと言い張るよりも。
 ただ、もう一歩先に、分からないというのではない別の何かがありそうな気がするのだ。
 ああ、なるほどそういうことか、と全身から力が抜けるようなタネ明かしがあるんじゃないかと。
 そこまでは最低でも辿り着きたいと思う。
 何もないことが答えでもいい。
 納得さえできれば。
 たとえ、何もかもが夢でしたというオチでもかまわない。
 とにかく、どんな形でもいいから落として欲しい。
 オチのない話くらい聞いて損したと思うものはないから。
 最後は笑わせてくれるかな?

 9月19日(日) 「死ぬのにいい時期。
            死ぬのには悪い時期」

 自分がどの程度死にたくないと思ってるのか、つきどき掴みかねる。
 どの程度死んでもいいと思ってるのか、と言い直した方がいいか。
 もうこのへんで駄目なんじゃないかと弱気になったり、思い直して気持ちを強く持たなければと自分を鼓舞したり、ときにはひどく投げやりな気持ちになってしまったり。などと考えつつテレビのバラエティを観て笑っていたりする。
 一日の中でも気持ちの浮き沈みがあって、どうにも捉えられない。

 死ぬ可能性として現実的なのは、今なら謎の発疹からくる病気とか、車を運転してるから車の事故とか、大きな地震とかいったあたりだろうか。
 思ってもみない死に方をすることもあるけどそれは別にして、これらの現実的な死の可能性に対して私はどう思えばいいのだろう?
 体調が悪くなると必要以上に悲観的になり、元に戻ると楽観的になりすぎる。
 こちらの思いや思惑や事情などおかまいなしに死は訪れるのだろうけど、気持ちも持ちようとしてどうすればいいんだろうと考えたとき、自分の心が定まらない。
 死ぬまで生きる、という単純な考え方でいいのかどうか。

 ただ、どんな死に方にしても死の前兆みたいなものは欲しいと思う。なにがしかの準備をするためにも。
 夢で知らせてくれるとか。
 そんなに都合よくいかないかもしれないけど、なんていうか、予告もなしに死なされてしまうと自分がエンドロールにも名前が出ないようなエキストラみたいな気がしないだろうか。
 漠然と信じている輪廻転生とかあちらの世界とかそういったものまであっさり否定されてしまうような。
 だから虫の知らせくらいは欲しいと思う。

 かつて自分の中でできていたはずの死の覚悟が、この頃大きく揺らいでいる。
 そのことがいいことなのか悪いことなのかさえ、今の私にはよく分からない。
 今は死ぬには悪い時期だ。

 9月17日(金) 「未来のためのそれぞれの闘い。
            無駄じゃないと信じて」

 それぞれの闘いがあって、それぞれが痛みがあり、それぞれが見えない血を流している。
 でもそれは必ずしも不幸なことじゃないと私は思うのだ。
 たとえみんなが損をしても、傷つけあったとしても、無益な争いだったとしても、闘いはこの世界の本質であって、何かを生み出しているはずだから。
 平和は本質じゃない。人が生み出したものだ(だからこそ価値があるのだけど)。
 すべての闘いに意味はある。無駄じゃないと信じたい。

 権利を勝ち取るための闘い、未来のための闘い、病気や怪我との闘い、自分の正当性を示すための闘い、ただ勝ちたいがための闘い……。
 生きることは闘うことだ。他の生き物との闘いに勝って人間は生きている。
 闘いを無条件に肯定するわけではない。
 元々性格的に争いを好む方ではないし、争いを賛美しようというわけでもない。
 ただ、確かなことがひとつある。
 それは、負けてはいけない闘いがあるということだ。
 生き残るために勝たなければならない闘いがあり、勝つために全力で闘わなくてはならないこともある。
 そのことから目を背けて争いはいけないなどと分かったようなことを言うのは違うと思う。
 もう一つ忘れてはいけないことは、闘いは相手の存在までをも否定するためにすべきことではないということだ。
 私たちは、どれだけ主義主張や価値観が違っても、地球上で共に生きる運命共同体なのだから。
 願わくば、すべての闘いがより良い未来につながるものであって欲しいと思
う。

 9月16日(木) 「強い気持ちで生きること。
            格好悪く」

 毎日を強い気持ちで生きるのと、何も考えず漠然と生きるのとでは、何かが違う。
 その違いは目に見えないし、微妙なものなのかもしれないけど、でも決定的なもののようにも思える。
 何の感動もなくご飯を飲み込むのと、米の美味しさを噛みしめながら味わう食事とでは、行為としては同じでも意味としてはまったく違うように。
 プロスポーツ選手でも芸術家でもなくても、毎日を強い気持ちで生きることはできるはずだ。
 目に見える努力や練習だけが強さの表れじゃない。

 アニマル浜口ほどの気合いはいらないにしても、あの10分の1くらいの気合いは毎日を生きる上でも必要なんじゃないだろうか。
 もっと日々を格好悪く必死に生きてもいい。
 なんていうか、頑張らないと日々に手応えがなくて面白くないと思うんだけど、どうだろう。
 疲れないとご飯も美味しくなかったり、よく眠れなかったりしないだろうか。
 一日一回くらいは誰も見てないところで「気合いだぁーー!」と叫ぶくらいの強い気持ちがあってもいい。
 何もなくても街中で全力疾走したっていい。
 たとえそんな特別なことをしなくても、気持ちを込めて毎日を生きなければなと思う。

 日々を過ごすことは安易にもできるけど気合いを入れて生きることもできる。
 どう生きるかは個人の自由だけど、自由だからこそ強く生きたい。
 強く、もっと強く。
 ときに必要以上に。

 9月15日(水) 「人から評価されようと思わなくなったとき、
            人はきっと正しい道を見つけるのだろう」

 誰にも憧れなくなったのは、傲慢になったからじゃなく、小賢しくなくなったから。
 格好良く生きようと思わなくなって、みんなが誉める人への憧れは消えた。
 それに、誰かの生き方を真似して同じように生きても意味がないことが分かった。
 どんな形でもいいからオリジナルであることが大切なのだと思う。
 それは必ずしも人より優れている必要はない。劣っている部分でオリジナルであることにも意味はある。
 間違った道を行くことで、あとに続く人たちにこの道は間違いですよと教えることができる。
 それも社会貢献だ。
 自分は人と違う生き方をするんだなどと言うと、なんだか聞き分けのないティーンエイジャーみたいだけど、あの主張は案外人として正しい方向性だと今の私は思う。
 単に個性的であるというだけでは充分じゃない。
 人と違う格好をしたりすることは本質的なことなんではない。
 誰にも憧れられなくてもいいから、人がしないことをすることに意味がある。
 それは難しいようだけど、案外簡単なことかもしれない。
 人から評価されようと思いさえしなければ。

 9月14日(火) 「時間は敵でもあり味方でもある。
            どちらにしても必要不可欠なものだ」

 一番大切なのは日々を生き延びること。
 毎日、一日ずつを。
 生きるということは時間を確保するということで、時間があればやりたいことができる。
 時間がなければやりたいことができない。
 死とは時間を失うことで、生きることは自分の時間を持つということだ。
 私たちは時間によって縛られ不自由になっているけど、時間によって可能性と未来を持つことができる。

 この時間というものから出発してすべての物事を考えるべきだし、逆に持ち時間から逆算して考えることも大切になる。
 人生はいくら時間をかけてもかけすぎということはない。
 完成というものがないから。
 いくら考えても分からないものは分からない、思い出せないものは思い出せないといったテストのようなものじゃない。
 時間をかけて考えれば考えるほど答えに近づくものだ。
 今日分からなくても一日寝て明日になれば分かることもある。
 今は解決できなくても10年後なら解決するかもしれない。
 そうやって結論を先延ばしにすることは間違いではないと思う。
 生き延びて長生きすればするだけ得るものはあるし、価値も意味もある。

 私たちの命は時間であるということをもう一度よく自覚した方がいい。
 だから、安易に死なないように最大限の努力をしないといけない。

 9月13日(月) 「自分の知らない自分は、
            まだ出会ってない大切な人と同じくらい大事」

 まだ自分も知らない優しくて温かい気持ちが自分の中にあって、きっと私を待っている。
 私を驚かせようと、じっと身を潜めながら。
 それはある状況や時期にならないと決して顔を出すことはない。
 自分から潜っていって手探りしても見つからないだろう。
 出会いの時を私もまた待つしかない。
 そのときを楽しみにしている。

 自分との付き合いもだんだん長くなってきて、ちょっと飽きたところもあるのだけど、一体私は自分のどれくらいを発見できているのだろう。
 半分くらい?
 それとも80パーセントくらいはもう見つけたことになるんだろうか。
 もしかしたらまだ30パーセントくらいしか知らないのか?
 自分のすべてと出会えるわけではないだろうけど、もっとたくさんの自分を見つけたいとは思う。
 まだこんなものでは物足りない。
 そのためには、身を置く場所をもっと変えていく必要があるだろう。
 あらたな状況こそが新しい自分を引き出してくれるのだから。

 9月12日(日) 「60億分の1画素としてできること。
            最後まで明滅しよう」

 他人を見て見習うこと。
 人の振り見て我が振り直せ、という教え。
 よそはよそ、うちはうちという母親の苦し紛れの言い訳。
 憧れの存在、目標とする人、尊敬すべき対象。
 人は多かれ少なかれ人の影響を受けるものだし、他人との比較の中でしか自分というものを捉えることができない。
 唯我独尊といえども、他人の存在抜きに我という概念は生まれないわけで、他者というものが常に前提としてある。

 人まね、物まね、二番煎じ。
 自家薬籠中。
 青は藍より出でて藍より青し。
 朱に交われば赤くなる。
 オリジナリティ、シンクロニシティ、歴史は繰り返す。
 レトロ、リバイバル、レプリカ。
 故きを温ねて新しきを知る。温故知新。

 目に見える影響と目に見えない影響、積極的な模倣と消極的な模倣。
 どこからどこまでが自分のオリジナルなのだろう?
 私たちはどこを最終目標にして進めばいいのか?
 手本となる人間はいるのかいないのか。
 人はものすごくたくさんのものからものすごくたくさんの影響を受けている。
 なのに、あまりそのことを意識していない。
 無数の信号や情報を全身に絶え間なくシャワーのように浴びているのに。
 それを無意識に処理してる能力がすごい。
 無自覚であるがゆえに耐えていられるのだろうけど。

 他人と自分は、思う以上に互いに影響を与え合い、影響を受け合っている。
 考える以上に融合度は高い。
 人間だけでなく、世界中のすべてのものが連動している。
 結局のところ、私たちは人類というひとかたまりでしかないとも言える。
 私たちの姿を、カメラをひくようにどんどん離れてずっと遠くから眺めてみたら、それは液晶画面に映る動く映像のように見えるだろう。
 私たちひとりひとりは、60億画素の中の一画素にすぎなくて、色を変えながら明滅してるようなものだ。
 せいぜい画素欠けにならないように、寿命までは明滅していたいと思う。

 9月11日(土) 「忘れることと、覚えていることと、
            どっちが残酷で、どっちが優しい?」

 覚えてることの大切さと、忘れることの大事さと、その両方の間で私たちは揺れ続ける。
 時に大きく、時に小刻みに。
 忘れることと、忘れないことと、どっちが残酷なんだろう?
 どちらかを選ぶものではないのかもしれないけど、私はいつも迷い、答えは出ない。
 忘れることは自由になることなんかじゃない。
 糸の切れた凧が自由などではないように。
 だからやっぱり、私たちは忘れないことの不自由さにあえて甘んじて生きていくのがいいのだろう。
 もう忘れていいんだよ、という優しいささやき声が聞こえるまで。

 9月10日(金) 「キメの言葉は、
           それでも生きる」

 それでも生きる。
 この言葉にすべての思いを込めて、自分に言い聞かせる。
 強くつよく、何度もなんども。
 その言葉で、あらゆる弱音を黙らせる。
 それでも生きろ、と自らに命ずる。
 あらゆる理屈を超えて。

 9月9日(木) 「迷わなくても誠実であることはできる。
            上手く生きることは堕落じゃない」

 苦しむためにさまようのではなくて、楽しみを見つけるためにさまよいたいと最近思うようになった。
 若さを否定したりはしないけど、苦しんでみせることが誠実さを示すものだと思い込んでいた、かつての自分はもういない。
 人生は喜びに満ちたものなんかじゃない。
 でも、苦しいだけのものでもない。
 一方ではなく両方だ。

 天才の苦悩も、求道者の努力も、人生を形作るたくさんの要素の中のひとつに過ぎなくて、正しさの全部じゃない。
 空間的な意味でも、時間的な意味でも、一部だけが正しいのではなく、正しさも間違いも溶け込んでいるのだ。
 分かちがたく混じっている。
 この世界は正義と悪をきちんと並べ替えられるようなところじゃない。
 碁石の白と黒を分けるようにはいかない。
 正しさはとても流動的なものだ。
 それも粘土ほどの硬さもなく、水と同じくらいに形を変える。

 迷うことが正しさの証なんかじゃなく、愛することが唯一の正義でもない。
 かつて上手く泳ぐことができず溺れそうになっていた私も、今では泳ぎも上達して、楽しみや喜びの間を泳ぐことができるようになった。苦しみをなるべく避けながら。
 それは自然なことだ。
 大きな波が来てもやり過ごすことを覚えた。
 上手く生きることは決して堕落などではない。
 悩まないことが不誠実なわけでもない。
 かつてがあって、今がある。
 かつてはかつてで、今は今だ。
 正しさと間違いの線引きはできないし、しても意味はない。
 そして未来は未来の自分がいて、そのときの生き方がある。
 移りゆく自分に寄り添いながら生きていくことは正義でもなく罪でもなく、自然ことなのだと思う。
 それを主張してみせることさえ必要ない。

 9月8日(水) 「もういいといつか人々は口を揃えるだろうか。
           まだ足りないと言い続けるのか」

 人々の胃や心を満たすための無数のあれこれが世の中には氾濫していて、その数と種類の多さを思うと圧倒される。
 立ち並ぶ飲食店や新聞や雑誌の見出しだけを見ただけでも目眩がしそうだ。
 人は常に新鮮なものを求め、次々と消化され、古いものは使い捨てられていく。
 形あるものもないものも、食べ物も人間も。
 歌も映画も流行も。

 人間の貪欲さが多くのものを生み出す原動力となっているとはいえ、あまりにも容赦のない要求にときどきぞっとする。
 それでも人はまだ満たされないと嘆き、もっとよこせと叫ぶ。
 どこまでいってもキリがない。
 その限りない欲求が人の死と生を生み出したとも言えるかもしれない。
 人間がこれほど多くのものを求めなければこれほど多く死ななくても済んだだろうし、これほどたくさん生まれる必要もなかっただろう。
 けど、ここまで来たらもう引き返せない。
 慣れた贅沢をやめることはできないし、あるものをなかったことにはできないから。
 無限の欲求の果てに何が待っているのかを確かめるために私たちは進むしかない。
 何もなくなってもまだ、人は求め続けるのか。
 それとも、求めない生き方を見つけることができるだろうか?

 9月7日(火) 「心のシンクロ率を上げること。
            自分一人で生きることの限界を知ること。」

 自分以外の多くの人に思いを馳せ、心を通じさせれば、自分は多くの生を生きたに等しくなる。
 自分一人でできる経験は限られている。
 充分成長して賢くなるためには、自分だけの経験では絶対に足りない。
 ただ、たくさん本を読んだり映画を観たりするだけでは駄目だ。
 客観では自分のものにならない。
 心のレベルで同調させて初めて他人の経験が自分の血肉となる。

 街中で日々自堕落な暮らしを続けていたとしても、目を閉じて山中で座禅して瞑想してる修行僧の心に入り込み、世界中を旅して回ってる旅人が見上げてる星空を思えば、自分で実際に体験してなくても、それらの体験から得られるであろうエッセンスの一部を得られる。
 思いを馳せて、その人の視点の後ろ側に回り込み、その人の視線でものを見て、考えて、感じる。
 空想するのではなく、思考するのでもなく、ただ見るだけでもない。
 シンクロするのだ。
 そうやって自分を深めていくことも成長のひとつだろうし、生きるということは必ずしも個人的なことじゃないというのはそういう部分でもある。
 私たちは人類の一部であり、直接的、間接的にみんなつながっているのだ。
 シンクロ率を上げることが未来的には人類の進歩や平和の鍵になると私は思う。
 頭で理解しようとしても理解し合うことは難しいだろうから。

 9月6日(月) 「不毛な地に花を咲かせよう。
            種をまかなければ芽は出ない。」

 不毛だと人が言うところにどんな花が咲くか?
 それは種をまいてみなければ分からない。
 まけばそこにわずかでも可能性が生まれる。まかなければ可能性はゼロだ。
 何もしないで不毛だと言って分かったような顔をしている人の顔は決まって間が抜けている。
 そんな間抜けな人になってはいけない。
 砂漠の中にラスベガスが生まれたように、体にいい水を飲んでツルピカ頭から毛が生えてくることだってある。
 ……。
 いや、そういうことじゃなくて、無意味だと言われてもそこに自分の信念があればやってみるべきだということが言いたいのだった。
 良い結果を出すことが必ずしも重要なことではない。やってみて、何らかの結果を導き出すことが第一なのだから。
 何もせずにあきらめてしまうことは一番カッコ悪いでござる、ニンニン、というようなことを忍者ハットリくんも言っていたではないか。
 そうでござるよ。まずはやってみるでござる。ニンニン。
 ……。

 そもそもやる前から意味があると分かっていることをやってみてもあまり意味はない。
 勝つと分かってる勝負に勝っても威張れないように。
 やってみないと意味があるかどうか分からないことこそやってみるべきではないか。
 たとえ最初から負け戦だと分かっていても、あえて戦うことに意味があることだってある。
 良きにつけ悪しきにつけ結果を出してみることが大切なのだと思う。
 科学における実験至上主義みたいな姿勢は人生にも同じことが言える。
 実践あるのみだ。
 失敗は次につながるけど、失敗の手前ではいつまでたっても次へ進まない。

 私もまた、不毛な地に咲く花を探そう。
 次に続く人の希望となれるように。

 9月5日(日) 「猫は本当に地震の予知をしないのか?
            それとも震度4程度では動じないだけか?」

 地震の予知に猫は使えない。
 今日、そのことがよく分かった。
 一度目のときアイはいつものように出かけていてどこかをほっつき歩いてたし、二度目のときは部屋で寝ていて、かなり揺れた後へっぴり腰で起きあがってきて、おさまったら何もなかったようにカリカリをいい音を立てて食べていた。
 そしてまた、寝た。
 なんたる役立たず。
 鳴きさえしなかった。

 震度4というのはあまり経験したことがなかったのでちょっとおっかなびっくりな感じもあったけど、今日のような横揺れはあまり怖い地震じゃない(ただ、うちは7階なので下に比べると5割増しの揺れになる)。
 私の部屋でさえ天井近くに積み上げてあった文庫本が5、6冊落ちてきただけだった。
 ただ、いつ収まるともしれないような長い時間の揺れはかなり不安にさせられた。ここまで長いのはかつてそれほど経験したことがなかったから。
 たかが数十秒なのに、ああいう時間というのはとても長く感じられるものだ。
 そして、早く収まれ地面っ、という怒りにも似た感情と、無力感の入り交じった複雑な感情を味わった。
 その間私は何をしてたかというと、なんとなくテレビを押さえていた。
 もっと他に押さえないといけないものがたくさんあるだろうに。

 でも今日は、いい予行演習にはなったんじゃないか。
 やがて訪れると言われる東海大震災や東南海地震に備えるという意味で。
 昔学校でやったみたいに机の下に隠れる訓練なんてのはまったく役に立たない。
 直下型が来たらそんな暇はないし、逆に余裕があれば人はもっと別のことをしようとする。少なくとも大事なものを守ろうとするだろう。命さえ助かればあとはどうなってもいいだなんて、とっさには判断できないものだ。

 今回の地震はなかなか教訓に満ちていた。
 個人的にはあれだけ大きいと燃えるものがあった。
 アイは一体何を感じたのだろう?
 少しは学習して、次回の予知に役立つだろうか?
 今日のへっぴり腰の様子ではあまり期待しない方がよさそうだ。

 9月4日(土) 「自分が別の自分に変わる感覚。
            キミ、誰? ってな感じ」

 何年かに一度、自分が大きく変わったと感じることがある。体質や気質までも。
 誰もがそうなのかは分からないのだけど、自分でもついていけないほど大きく変わることがあって、ここ最近もまたそれが起こった。
 少し前までの自分がまるで別の人みたいに思える。
 以前の悩みもまったくの他人事で、まともに考える気も起きない。
 思考回路まで入れ替わってしまったみたいだ。

 そもそも、私が花の接写なんかを喜んでやってること自体、不自然と言えば不自然なのだ。
 昔はカメラも写真もそれに関わってる人たちも積極的に嫌っていたし、少し前まではカメラは風景を切り取るものでしかなかったというのに。
 そういう変化は誰にもあるものだと人は言うかもしれないけど、自分の中で趣旨ががらりと入れ替わることにかなり違和感を覚える。
 単に嫌いなものを克服したというのではない、極端に言えば、別の人格が自分に乗り移ったようにさえ思えることがある。
 別人の心臓を移植すると性格ががらっと変わるという話があるが、それに少し似ているかもしれない。

 今回の全身赤い湿疹も何かそのへんのことが関係してるのではないかと少し疑ったりもした。
 自分の中に別の気質が入り込んだことで体が一種の拒絶反応を起こしたんじゃないか、とか。
 妊婦が別の命を宿すことでつわりを起こすみたいに。
 まあそれは妄想だろうけど、それくらい自分の中で勝手な変化が起きた。

 リニューアルした自分はかなり元気だ。これまでにないほど。
 活発になってるこの時期を逃さず利用したい。一時的なものかもしれないし。
 謎の皮膚病も実はまだ完全には治りきってないのだけど、この9月はできるだけ積極的にいきたい。
 夏に乗り切れなかった分を取り戻すために。
 できることなら、生活パターンも大きく変えたいのだけど、新しい自分はやたら眠いので困る。
 今までより一時間くらい余分に寝ないと満足できなくなった。
 その分一日が短くなってしまうのが残念だ。
 一日5時間睡眠くらいで充分な人間に一度くらいなってみたいな。

 9月3日(金) 「写真は一部であると同時に別のもの。
            嘘はきれいな方がいい」

 写真は、自分が目にしたものの一部を切り取ったり、移りゆく光景の一瞬を封じ込めたりするためのものだと思ってきた。
 視覚や記憶の補助のためのものだと。
 あるいは、自分の見たものと同じものを人にも見てもらいたいと思ったときの伝達手段だと。
 けど、それだけじゃなくて、目に見えるものを目に見えるのとは違うものとして写し出すためにも使えることが最近分かってきた。
 特に花の接写をするようになって。
 人間の視点の高さで見える風景は限られていて、人は多くの色を見落としている。
 カメラは光と色を捉える道具でもある。
 カメラというのはこれまで抱いていたよりももっと創造的な道具のようだ。
 目に見えるのとは違うものを切り取りたい。
 全体の一部は部分でありながら別のものにもなる。
 それは必ずしも限定された真実ではない。
 真実とは別の真実だったりもする。
 写真は本当のことを伝えることもあれば、嘘を表現することもある。
 嘘なら現実よりもきれいな方がいい。
 本当のことはより本当らしく表現しなければ意味がない。
 カメラは本当も嘘も両方切り取れる面白い道具だ。


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