2004.6.29-

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 9月2日(木) 「結論はいつも先延ばし。
            未来人はこのツケを払えるのか?」

 三次元的人生論では人の人生は救えても人類は救えない。
 人類を救うなら、時間軸を含めた四次元的人類論が必要になる。
 別に誰が誰を救わなければいけないというわけではないし、人類が救われる必然性もないのだけど、もし人が自らを救おうというのであれば、人生論だけではらちは開かない。
 あるいは、どういう理由を持ってして人類は不要だと証明してみせるかという議論もなされるべきかもしれない。

 日々の暮らしの中で喜怒哀楽に翻弄され、貴重な時間を無駄遣いしないがら、それでもたまには人類のことや宇宙について思いを馳せたりもする。
 死んだ後のこととかも。
 何が本当で何が偽物というわけではないし、いつが本番でいつがリハーサルというわけでもない。
 どのステージもぶっつけ本番で、過ぎたことを何もなかったことにはできない。
 待ったもきかないし、やり直しもできない。
 人が見ていても見ていなくても、手を抜いたらそれは自分に返ってくる。

 自分のことと人類のことと、どっちが大事だといえばそれは自分のことだろう。
 けど、自分は自分である前に人類であって、人類が生存できなければ自分も存在することはできないわけで、この状況の中で、私たちは何をすればいいのだろう?
 生まれて生きて死ぬだけでいいのか?
 人類のために何か出来ることがあるのかないのか。
 できなくてもしようとすることが必要なのかどうなのか。
 たとえば100メートルを9秒台で走ることは人類にとって有意義なのか?
 相対性理論を見つけることは人類のためになっているのか?
 病原菌を発見して治療法を見つけて人類の一部分の寿命を延ばすことが無条件に正しいことなのか?

 思考はとりとめもなく原始の風景の中をさまよう。
 半裸で獣を追いかけて仕留める男の姿が思い浮かぶ。
 その風景の中に自分はいるのかいないのか。
 あれから私たちは何を得て、何を失ったのか。
 すべては未来か……。
 私たちは申し訳なさそうに頭を下げながら、未来に向かってたくさんの問いを放り投げる。

 9月1日(水) 「夢から覚めて見る夢は?
            これは夢の続きか、終わった夢の残像か?」

 夢の続きは見ようとしてそう簡単に見られるものじゃない。
 寝ているとき見る夢も、起きているときに見る夢も。
 途絶えた夢も、叶った夢も。
 夢をつなげることは難しい。

 強い人間は夢を見続けられる人間だという言い方ができるかもしれない。
 ただ、一方で夢は人を駄目にすることもある。
 夢の名のもとに自分を誤魔化してしまったり、夢をかかげることで自分を正当化しようとする。
 次の夢に向かって進む、言葉で言うほど簡単なことじゃない。

 子供の頃、夏休みの終わりは夢から覚めたみたいだった。
 大人になって自分の夢を見るのが難しくなって、人の夢に乗っかろうとする。
 たとえばオリンピックを観たりしたときなどに。
 そしてまた夢から覚める。
 何度もなんども、繰り返し。

 夢を見て、夢に裏切られ、それでもまだ夢の続きを探す。
 夢を見ないことのつらさも知ったから。
 あなたの夢は何ですか?
 大人は簡単に子供に訊く。
 何の答えも期待しないまま。
 でも、大人になって自分自身に向かって、おまえの夢は何なんだと自問自答する人間は少ないに違いない。
 そしてその問いに迷わず答えられる大人はもっと少ないだろう。

 夢は願望とは違う。
 努力すれば実現可能な高い目標だ。
 オリンピックを観て、私たちは心を揺さぶられる。
 それでも、そこから自分も更なる努力を始めることはあまりない。
 オリンピックが終わってしまえば、またいつもの日常に戻るだけだ。
 夢を見つけることの難しさ、持ち続けることの更なる困難さを思う。

 私たちは冷めない夢を探しているのか?
 私の見ているのはきっと夢物語だ。
 もう一度夢を探そう。
 ちゃんとしたやつを。
 夢をあきらめるほどまだ年老いてはいないのだから。

 8月31日(火) 「感傷なき8月の最終日。
            思考停止寸前」

 8月最終日は慌ただしく過ぎ去った。
 感傷もないままに。
 明日は病院行きで午前中からややこしい。
 そこを無事に乗り切れば、あとは少し余裕も出てくるだろう。
 よもやの悪い結果が出ない限り(病名が分からないというのも不安だけど、分かってしまうというのも不安だ)。

 考えないといけないことがあるようなないような、頭の中にもやがかかっている。
 思考がまとまらず、上手くものが考えられない。
 充電池が切れる前のひげ剃りのように切れない。
 それ以前にのんびり考えてる時間もない。
 こうなってしまったらもうお手上げだ。
 今日はこれで終わらせてしまって、明日起きてからあれこれ考えることにする。
 思考停止。
 もう寝よう。

 8月30日(月) 「ルールなき行動。
            感覚だけで動いてもいいのか?」

 損得勘定で動くとロクなことはないことは知っている。
 損することを恐れすぎるとかえって大きな損をすることが多いことをこれまでに学んだ。
 じゃあ、それ以外のどんなルールで動けばいいかと考えたとき、自分の中に明確な答えが見つからない。
 無償の愛?
 ボランティア精神?
 同情?
 美意識?
 倫理観?
 論理?
 弱肉強食の資本主義?

 人にはなるべく親切にしたいと思う。
 でも、それに気づいてくれないと損した気分になる。
 気づかれなくても、虐げられても、縁の下の力持ちであり続けることが本当に正しいのかどうか。
 被害者や犠牲者になっても自分だけが我慢すればそれで万事可決なのか?

 様々な利害関係やそれぞれの思惑が交錯するこの世界で、私たちはなんと泳ぎ渡る術に長けていることだろう?
 意識せずに母国語をしゃべるように、自分が属する社会を無意識に生きている私たちは、意外な部分でけっこうすごいのかもしれない。
 ものすごく複雑な計算と理論の上に成り立っているのに、そのメカニズムを知らなくても暮らしていけるのだから。

 結局の所、本能とバランス感覚だけが頼りだ。
 考えて分かることがあり、分からないこともある。
 ときに損得勘定で動き、ときに損得勘定抜きに動く。
 その線引きなんて、たぶん必要ないのだろう。
 自分の行動や思考を解析してみせる必要もない。
 結論はない。
 結論がないというのが結論だとも言える。
 臨機応変、それだけしかないのかもしれない。

 8月29日(日) 「喜びも悲しみも思い出の中に。
             2004年の夏を忘れない」

 生きることは、忘れて前へ進むこと。
 だとしても、アテネオリンピックがあった2004年の夏の終わりに立って、私はこの夏を忘れないでいたいと思う。
 きっと忘れてしまうけど、少しでも覚えていたいと願う。
 大切ないくつかのことを見つけたこの夏のことを。

 そして、人生は続く。

 8月28日(土) 「2004年の夏に思うこと。
             辿り着いた心の場所」

 生きること、それは……。

 一喜一憂。
 のち笑い。
 ときどき涙。

 それが2004年の夏、私が辿り着いた心の場所だ。

 8月27日(金) 「腕はしびれる、リンパは腫れる。
             体が病原体と戦ってるのを感じるここ数日」

 猛威をふるった謎の珍病も、今日になってどうやら勢いを失い、全面敗訴の様相を呈してきた。
 やりました! ついに勝訴です。無罪を勝ち取ったのであります。
 控訴却下。

 原因も分からなければ病名も不明、治療法も確たるものがないと、ある意味非常に恐ろしい病気だったのだけど、治ってみればいい思い出だ。
(そうなのか!?)
 まだ完治には遠いものの、いったん進行が止まってしまえば、あとは時間が治してくれると信じたい。
 やれやれ、まずはひと安心か。
 とはいえ、原因が分からないということは今後何をどう気をつければいいのかも分からないということで、その点でけっこう不安だ。
 せめて外的要因か内的要因かだけでも知りたかったのだけど、それさえ誰も見当がつかないというのだからやっかいだ。
 前回皮膚を採取して調査することになってるので、来週何らかの結果が出るとは思う。
 それ次第でこれからの対策も立てられるかもしれない。

 というわけで、またオークションでデジカメを買ってみた(またか!)。
 一度は使ってみたかったOLYMPUSのC-2020Z。
 これで写真を撮るまで入院したり寝込んだりしてる場合じゃなくなった。
 一日も早く完治させて写真を撮りに行こう。
 謎の奇病なんてお呼びじゃないぜ。

 8月26日(木) 「謎の奇病vs.私の体with薬軍団。
             形勢逆転か!?」

 謎の奇病と私の体との全面戦争は、どうやら体の方が優勢に傾きつつあるようだ。
 腕に上陸した後、破竹の勢いで腹と背中、そして足へと向かった赤い斑点戦士たちも、それに対抗すべく投入された飲み薬と塗り薬によって進行を阻まれ、今日になってまずは腕から敗走を始めた。
 いいぞ、もしかしたら勝てるかもしれない。
 いやいや、まだ楽観するのは早すぎるだろう。
 希望的観測は大抵良い結果を招かないものだ。
 このまま各地でゲリラ戦に転じる可能性もある。
 長期戦に持ち込まれてもやっかいだ。
 ここは油断せずにこちらから一気に攻め込んで叩くのだ。
 やつらが弱り始めた今この期を逃してはならない。
 行け! アレロック、リンデロン、ムコスタ、アンテベートたちよ。
 ひとつ残らずやっつけてしまえ!
 勝利の日は近いぞ。
 トラトラトラ。
 勝って〜 く〜るぞ〜と 勇ましく〜♪
 エイエイ、オー!
 欲しがりません、勝つまでは。
 貧乏人は麦を食え。
 ……。
 しかし、ホントに大丈夫なんだろうか、私の体……。

 8月25日(水) 「病院は見方を変えれば生に近い場所だ。
      誰もが死にたくて行くのではなく、生きたくて行く所だから」

 病院は死にに行くところだと思い込んでいた私が、生きるために病院へ行こうと思ったのは、進歩成長なのか、それとも退歩後退なのか?
 病院へ行くと二つのことを思う。
 生きることと、死ぬことと。
 生と死が同居する空間で感じるのは、自分はやっぱり生きたいと思ってるんだということだ。
 普段、生きることが当たり前で無自覚になりがちな私は、たまには病院へ行くべきなのかもしれない。
 病気ではないということがいかに特別でありがたいことかということを思い知るために。
 たくさんの病人を見ることが一番の薬にも思えた。

 8月24日(火) 「大いなる不幸と大いなる幸福は人生を単純にする。
             死なないこと」

 毎日は新しい経験の連続だということを、かつて経験したことがない病気が教えてくれるというのもちょっと皮肉めいているけど、あらたな痛みや苦痛が生きていることを実感させてくれるのなら、感謝しないまでも病気を利用しなくてはと思う。
 病気になったら大切なことは一つに絞り込まれる。
 死なないこと。
 その単純な使命を全力で全うすることだけを考えればいい。
 最大限、強い気持ちを持って

 8月23日(月) 「目に見える力と見えない力の関係性。
             すべての力は一定方向だけではない」

 目に見える力と、目に見えない力が同時に働いて、互いに干渉し合いながら影響を与えている。
 だから、結果として表れた状況は非常に複雑に見える。
 たとえば病気などがそうだ。
 西洋医学で治らなかったものが東洋医学で治ることがあり、その逆もある。
 すべての医療機関から見放された後に民間療法で完治することもある。
 加持祈祷やお祓いで治ってしまうことだってある。
 病気の原因というのは、いくつもの要素が複雑に絡み合っていて、はっきりとした原因を突き止めるのはほとんど不可能なのかもしれない。
 宿命とか運命とか寿命とかの要素を絡めるとますます分からなくなる。
 今のやり方や考え方では病気は治らないに違いない。
 病気の後を追いかけているだけで先回りしようとしないから。
 それは、犯罪が起こってから犯罪者を追いかけ始める警察が犯罪を未然に防げないのと同じだ。

 人類の歴史の中で、これまでたくさんの謎が解明されてきた。
 数学、物理、天体学、歴史学、病理学、遺伝子工学、宇宙論などによって。
 あるいは発明、発見によって。
 でもまだまだ解明されていない謎は無数にあり、分かっていることはほんの数パーセントに過ぎない。
 中でも一番分かっていないのは、目に見える要素と見えない要素との関連性なんじゃないだろうか。
 西洋医学で病原体が見つかって薬品で治療ができたとしても、その人間が病気に至った理由や必然性などは分からない。
 天罰だとか因果応報だとかそんなことも言うけど、実際のところ法則性は見つかっていない。
 中国の気孔でいうところの気の流れが悪くなったことがすべてでもないだろう。
 人類はまだ若くて、物事の表か裏かどちらかしか追求しようとしてないようなところがある。
 自分の専門分野しか勉強しようとしない専門家が多すぎる。
 物事の原因と結果を理解するためには、裏と表、内面と表面を同時に、そして総合的に分析して解明する必要があるのに、それができていない。
 人類総合学を学問として体系づけるにはあと何世紀必要なのだろう?
 小中学校の教科書に哲学、宗教、宇宙、心霊、超能力、気孔、異星人、超古代文明、医学、遺伝子学などを総合的に学習するところから始めないと駄目だと思うのだけど、たぶん私が生きている間に実現することはないだろう。
 地球学というのは、人類が認識できたり想像できたりするすべてを取り込まないと成立しない。
 非学問的、非科学的といってイレギュラーな要素を弾いているうちは決して真実は見えてこない。
 誰もそんな真実なんて望んじゃいないと言われればそれまでだけど。

 8月22日(日) 「日常を襲うゲリラ兵たち。
            各個撃破作戦しかないのか?」

 次々とやってくる新手の敵が私を苦しめる。
 大軍ではなく、ゲリラ戦の兵士みたいなやつが、いくらやっつけてもやってくる。
 実にやっかいだ。
 キリがない。
 病気や体調不良、トラブルや予定外の用事、甘い誘惑や罠など。
 やっと不調が治ったと思ったらまた別の不調に見舞われ、日常の流れが良くなったと思ったら不測の事態が起きて流れが寸断される。
 3日連続で予定通り、思惑通りにいくことなんてめったにない。
 予測もできないところでつまずく。
 そんな小さな戦いにかまけてる場合じゃないのに、進行を妨げる妨害工作を放置しておくわけにもいかず、日々無益な戦いは続く。
 それでもなんとか今日の終わりに辿り着くことができて安堵する。
 眠る間はしばらくの休戦だ。
 明日目が覚めたら周りから一切の敵が消えていなくなっていることを願いながら眠りにつく。
 そんな都合よくいかないことはこれまでに嫌というほど思い知らされているけれど。

 8月21日(土) 「恥ずかしいからやめておこうと思うことをやってみる。
            恥ずかしいからいいのだ」

 恥ずかしいという人間特有の感情は、自分の敵にもなれば味方にもなるものだ。
 大切なものを知るための手がかりにもなる。
 恥ずかしいからやらないでおくことを思い切ってやってみると、楽しかったり面白かったり幸せだったりすることが色々ある。
 恥ずかしさを乗り越えればその向こうに喜びがあったりもする。
 愛の告白なんてのはその最たるものだ。
 大人が子供の遊びをすることは恥ずかしいけどやれば楽しい。
 一所懸命になることは恥ずかしいことだけど、なりふり構わず必死になってやり遂げれば、そこには頑張ったことでしか得られない達成感がある。
 恥ずかしいという感覚は人を試すものかもしれない。

 恥ずかしさに勝利することでしか手に入れられない大事なものを簡単に逃したくはないものだ。
 ただし、恥知らずの手前で踏みとどまる感覚だけは忘れないようにしたい。
 恥ずかしさを克服することと恥に対して鈍感になってしまってしまうことは別だから。
 恥ずかしいと感じながらもその感情に負けないことが大切だ。

 私が最近克服したいと思ってる恥ずかしいこと。
 それは、人目のある場所でデジをしっかり構えて撮りたい写真を撮ることだ。
 なんだコイツ、カメラ小僧(もしくはカメラオヤジとも言う)かよ、と思われることを恐れず写真を撮りたい。
 人によってはなんでもない簡単なことなのだろうけど、私にとってそれはかなり恥ずかしい行為なのだ、実際。

 8月20日(金) 「ギリギリ? 楽勝?
            安全速度で走っていても、もらい事故はある」

 毎日というのは、横幅1メートル、高さ1メートルの平均台の上を歩くくらいのギリギリ感に思える。
 高さは1メートルしかないけど落ちれば即、死が待っている。
 横1メートルもあればめったなことでは足を踏み外したりはしないけど、それでも落ちるときは落ちる。
 大きく転んだりすればもちろん、誰かがこけたのをよけようとして落ちてしまうこともあるし、悪意がない人に運悪く突き飛ばされてしまうこともあるだろう。
 もしくは、ふいに自らの意志で降りてしまいたくなることもある。

 毎日はギリギリと言えばギリギリだし、楽勝と言えば楽勝だ。
 ゆっくり行けば安全だけどそれではなかなか先へ進めない。
 先を急げば急ぐほど危険は大きくなる。
 小走りくらいがちょうどいいのかもしれないけど、それでは遠くまでは行けない。
 でも、焦って早々に落ちてしまうよりゆっくり慎重に進んだ方が結果的には先まで行けることもある。
 毎日のスピード・コントロールとリスク・コントロールというのは思ってるより難しいのかもしれない。
 進行速度に関して無自覚すぎるところもある。

 ただ、間違えていけないことは、生き急ぐことと死に急ぐことは同じではないということだ。
 人生は最初から距離の決められたコースを走るレースではない。
 決まっているものがあるとすれば、それは距離ではなく制限時間の方だろう。
 それぞれの持ち時間の中で、どのコースをどんなスピードでどういうふうに走るかは本人が決めることだ。
 先を急げば途中の景色を見逃すし、寄り道をすれば遠くまでは辿り着けない。
 脇目もふらず真っ直ぐの道を先へ向かえば、他の人が決して目にすることはできない光景が見られるだろう。
 何かは必ず犠牲になる。
 何を犠牲にするか、その点において潔くあることが必要だ。

 慎重に、大胆に、焦りすぎず、先を急ぐこと。目に映る光景を見逃さないように。
 そして、何よりも大事なことは、うっかり足を踏み外してしまわないことだ。
 落ちたらおしまいなのだから。

 8月19日(木) 「正義は勝つ、こともある。
            理由もなく負けることもある」

 勧善懲悪、栄華盛衰、弱肉強食などといったものは、この世界を支配する法則のひとつではあるけど、絶対的なものではない。
 必然の法則が常に実現するわけではないし、強い者がいつも勝つと決まっているわけではない。
 柔道の世界チャンピオン井上康生が思いもよらない完敗を喫する姿を見ながら、あらためてそのことを思った。
 現実世界では正義の味方も時に脇役にあっけなくやられたりする。

 オリンピックには悲運の女神のようなものがいて、必ず誰かが捕まって犠牲者になる。
 そこに確かな法則性や必然性は、おそらくない。
 たまたま捕まってしまうだけなのだろう。
 今回でいえばそれが水泳の北島であっても良かったはずだ。
 谷亮子でもかまわなかった。
 けど、選ばれたのは、一番金メダルに近いと言われた男、井上康生だった。
 たぶん、理由はいくら考えても分からない。
 結果的にそうなったのだと思うより他にない。
 敗因を分析してもあまり意味がない。

 それにしても、井上康生がああいう形で負けなければいけなかった意味って何なんだろう、と考えずにはいられない。
 私は彼は世界の柔道史上最強の柔道家だと思っていたから、あの姿は本当に信じられなかった。
 それこそ悲運の女神に魅入られてしまったとでも思うより他に納得のしようがない。
 怪我とかそういうことではなかったはずだ。
 ある意味ではいいものを見せてもらったと言えるかもしれない。

 アテネオリンピックもまだ前半だけど、ここまででいえば、体操男子の団体金メダルと、井上康生の完敗はずっと記憶に残っていくに違いない。
 残りでどんなドラマを見せてくれるだろう。
 彼等の言葉に尽くせぬ努力にほんのわずかでも報いるために、私は彼等の姿を記憶に刻もうと思う。

 8月18日(水) 「4年の一度の確認作業。
            大丈夫、まだ自分は終わってない」

 お盆も終わって、逃げていく夏を追いかけないといけないのに、去りゆく夏を横目で見ながら毎日オリンピックに気を取られている。
 顔が前を向かず、テレビの方ばかり観ている。
 けど、ひとつ安心したのは、まだオリンピックを観て素直に感動できる自分を確認できたことだ。
 4年という年月は選手だけでなく観る側の人間も変える。
 時に大きく。
 今回も前回のオリンピックと同じ気持ちで観られるとは限らない。
 年を取るごとに冷めていく部分も当然ある。
 でも、まだ今回は大丈夫だった。前回と同じかそれ以上に熱中して観ている。それがけっこう嬉しい。
 ここ数年の間に自分の中で力を失ってしまったものがたくさんあるから余計にそう思う。

 勝つべき人が勝つ姿も爽快だけど、天才じゃない人間が金メダルをとることも気持ちがいい。
 希望を示してくれてるように思えるから。
 たまたま幸運でメダルが転がり込むというのも面白い。
 それもまた人生だから。

 何故私はオリンピックが特別好きなのだろうと考えてみると、やはりオリンピックだけが持つ密度の濃いドラマ性なのだと思う。
 オリンピックくらい人間くささが凝縮されるものは他にない。
 強烈な光と影が一方を照らし、一方を闇に飲み込む。
 そこに私は惹かれるのだろう。
 競技で日本人が外国選手に勝つことや金メダルをとることももちろん嬉しいのだけど、メダル秘話や選手の素顔紹介の方が楽しみだ。

 エピソードやドラマが見たいから私はオリンピックを観ている。
 スポーツとしてだけ観てるわけじゃない。
 たぶん、オリンピックは私が生きている限りずっと好きであり続ける数少ないもののひとつだろう。
 オリンピックをこの先何度も観るためだけでも長生きしたいものだと思う。
 逆に言えば、オリンピックを観て心が動かなくなったとしたら、そのときは私は終わっているということだ。

 8月17日(火) 「眠気の中でオリンピックを観ながら思ったこと。
            勝者の得るものと、敗者の失うものと」

 オリンピックが描き出す勝者と敗者の強烈なコントラストに目を奪われる。
 勝者の得たものと、敗者の失ったものを想像して、目がくらみそうになる。
 どちらもあまりにも大きく、あまりにも残酷で。
 人は残酷なものが好きだというのがよく分かる。
 戦争も、オリンピックも、残酷だから好きなのだ、きっと。
 勝者だけでなく、必ず敗者も生み出すところが。

 オリンピック観戦疲れで、頭の機能が停止した。
 眠気が思考を奪う。
 この続きはまた明日。

 8月16日(月) 「立派な言葉使いになりたい。
            ムツゴロウさんが動物たちを手なずけるみたいに」

 優しい言葉と厳しい言葉、それを時と場合と人によって上手く使い分けられればいいけど、そんなに器用にできるものではない。
 発した後も正解かどうかは分からないから尚更言葉というのはやっかいだ。
 けど、言葉は難しいという言葉で片づけたくはない。
 そんなに簡単に結論めいたことは言いたくない。
 今よりもっと正しく言葉を扱える人になりたいと思う。

 叱咤、激励、鼓舞する、慰める、怒鳴る、威嚇する、元気づける、無言の抗議。
 いろんな表現方法がある中で、その瞬間しゅんかんで私たちは正しいと思う言葉を選んで、人にかける。
 勘と経験を頼りに。
 でも、思惑は外れがちだ。
 上手く伝わらなかったり、誤解させてしまったり、言葉が足りなかったりする。
 逆に何も考えず無意識に発した言葉が思いもよらず人の心に届くこともある。
 そこに確かな法則性はない。

 発すべき言葉の量と質で私たちはいつも迷う。
 優しいだけでは駄目だし、厳しいだけでも良くない。
 愛の言葉も、感謝の言葉も、上手に伝えることができない。
 使い切れないほどたくさんの言葉を知ってるというのに。

 一言が重かったり、軽かったり。
 投げる力の加減を間違えたり。
 口に出さなくても伝わることがあり、言われなければ決して分からないこともある。
 私たちは言葉と共にあり、言葉は私たちに寄り添い、使われ、ときに裏切る。
 永久になつかない野生出身のペットみたいに。
 私たちは猫をかわいがるように言葉を飼い慣らそうとする。
 言葉は猫同様、完全に言うことを聞かせることはできない。
 けど、仲良くすることはできる。
 雑に扱って引っ掻かれたりしないように気をつけたい。
 正しい猫の飼い方があるとしたら、正しい言葉の扱い方もきっとあるだろう。

 8月15日(日) 「感謝すれば何かを打ち消せるわけじゃない。
             もちろん感謝することは大切なことだけど」

 感謝の意を表するのは簡単なことだ。
 実際に感謝することもそんなに難しいことじゃない。
 でもそれは、感謝することで罪の意識から逃れようとしたり、自分を正当化しようとする心の動きに過ぎないのかもしれない。
 自分の感謝に重みと意味を持たせることは、口で言うほどたやすいことではない。
 ただ感謝すればいいってもんじゃない。
 感謝された側の人間が心底ありがたいと思えないようなそんな軽い感謝などたいして意味はない。
 物を取ってもらったり取ってあげたりしたとき口にするありがとうと変わらないくらいだ。
 じゃあ、感謝に重みを持たせるにはどうすればいいのか?
 それは期待に応えることだ。
 人は無責任に他人に期待をし、勝手に希望を抱く。
 それでも期待に応えなければならない。
 期待をかけてくれるというのなら、それがどんなに身勝手なものであったとしても全力で応える必要がある。
 世話になったり迷惑や心配をかけたのなら尚更だ。
 応援する側と応援される側、期待する側と期待される側、その幸福な関係の完結は期待に応えることより他にない。
 そのとき初めて感謝の言葉は価値を持つ。
 もし、自分の感謝の言葉に重みがないと思えば、感謝の言葉は安易に口にしない方がいい。
 本当に人に感謝できる人間になるまで。

 8月13日(金) 「巡る季節の上に立って思う。
            過ぎた一年のことと、来年の今のことを」

 一年の中で、何度か感慨深い時期が巡ってくる。
 ああ、またこの季節に戻ってくることができたかと深く感じることが。
 お盆もそういう季節の一つだ。
 夏の終わりが始まるこの季節は、巡る一年を強く意識する。
 そしていつも思うのは、来年のこの時期自分はどうしているだろうということだ。
 そう思いつつ毎年たいして変わり映えしてなくて少し苦い気分を味わうのだけど、でも変わらずにまた戻ってこられたことを喜ぶ気持ちも強い。
 また満開の桜を見たいとか、夏の暑さを思い出したいとか、そういう思いも生きる原動力になる。
 来年もまた同じ季節に立てる保障はどこにもない。
 だから最後かもしれないと思ってこの季節を感じたい。
 その小さな決意を心の中にしっかりとどめておかなければと思う。
 いつでもよく見える位置に。

 今年ももう半分以上が過ぎた。
 正月が来て、桜を見たと思ったらゴールデンウィークで、そうこうしてるうちに梅雨に入り、暑いあついと言っていたらもうお盆だ。
 夏が過ぎれば残りは駆け足になる。
 なんとなく今年は自分自身つかみ所のないままここまで来てしまった。
 この夏にも上手く乗れないまま。
 お盆の帰郷でスイッチを切り替えられるといいのだけど。
 オリンピックを観て何か感じるものがあるといい。

 行って帰ってくるだけの帰郷だけど、油断せず、ぼんやりせず、しっかり感じるべきものを感じて帰ってこよう。
 今年は特に雨が降って欲しくないのだけど、どうだろう。
 雨さえ降らなければ田舎の写真をたくさん撮ってきたい。

 8月12日(木) 「まずは自分に好かれる自分を目指したい。
             他人の評価はオマケみたいなもの」

 自分に対する天の評価と、自己満足度は必ずしも一致するものじゃないはずだ。
 どちらを優先させるべきかはそれぞれが決めればいいことだけど、両方にいい顔をしようとすると結局どちらの評価も失うことになりかねない。
 誰にでも好かれることが難しいように、すべての人に認められるのは難しい。
 だとすれば、最後に頼れるのは自分の自分に対する評価だけなんじゃないか。
 みんなに好かれるより自分が好きな自分でありたいと私は思う。

 いろんな価値基準や判断がある。
 自己採点でもたくさんの項目があって、単純に100点満点の何点と決められるわけでもない。
 ただ、やっぱり対外的な評価よりも自己採点の方が重要なのだと私は信じている。
 責任の所在というか、責任の取り方という点においても、他人の採点より自分の採点に添ったものである方が潔くなれるから。
 ただし、そのためには強い気持ちで生きなければならないだろう。
 弱腰では上からの一方的な評価をはねのけられない。
 自分にとって一番怖い人の説教を食らっても尚、真っ直ぐ前を見て、自分は間違っていなかったんだと言い切れるくらいの強さが必要だ。
 たとえそれが強がりだったとしても。

 自分に対しては常に、甘すぎず厳しすぎないことを徹底したい。
 甘すぎると軟弱になり、厳しすぎると頑なになりすぎる。

 8月11日(水) 「懐かしいと思えるのはご褒美のようなもの。
             早死にしなかったことを喜びたい」

 若いやつは過去を懐かしむ年寄りを馬鹿にする権利を持っているけど、年寄りは昔を懐かしむ権利を持っている。
 昔が懐かしいと思えるのは、多くの時間を過ごし、自分が通ってきたあとにたくさんの思い出を残しているからだ。
 若い人間は懐かしがる能力を持っていないに過ぎない。
 それは自分も年を取ってみれば分かる。

 過去を振り返り、思い出に浸ることは決して悪いことではないし、弱い行為でもない。
 思い出は生きた証で、それを時々確認することは未来にもつながっていくことだ。
 たとえば、何故未来のある若い学生が修学旅行で京都や奈良の大昔の建造物を見るのか?
 それと同じことだ。
 その本当の意味や意義は大人になってからしか分からない。

 人は今現在この瞬間しか生きられないという言い方をよくする。
 それは確かにそうだけど、私たちは過去から未来へと連続する時間の途中を生きているのだということも自覚しておくべきだろう。
 過去があるから今があり、今があるから未来がある。
 今という時間は独立したものじゃない。
 いつも過去と未来を同時に見る目が大切だ。
 特に過去と未来が同じくらいの長さと量になってきた大人ならば尚更。

 過去は振り返らないなんてのはちっとも格好良いことじゃない。
 そんなやつは、車の運転中にバックミラーもサイドミラーも見ない身勝手なドライバーみたいなもの。
 いつでも前後左右を確認して、自分の位置をしっかり把握しておくことが大切だ。

 8月10日(火) 「遠い同窓会。
             別に昔を懐かしみたいわけじゃないけれど」

 どういう生き方をしていれば誰に対しても恥ずかしくなくて、自分自身納得できるのかということを考えたとき、ひとつの基準になるのが、学生時代の同窓会に喜んで出席できるかどうかというのがある。

 同窓会なんて楽しいものに決まってるじゃないかと思った人は、やましくない人生を送れている幸せな人だ。
 同窓会かぁ、あんまり出たくないな、と思ったらそれは自分の生き方にもう一つ自信が持てていないということかもしれない。
 私はもちろん、出られるような気がまるでしない。
 昔の友達や好きだった子に会うのは楽しみにしても、自分について話せることがあまりにも少ないような気がして。
 別に同窓会なんて出ても出なくてもどちらでもいいのだけど、気持ちの問題として呼ばれたらいつでも参加できるような人生を送りたいという密かな願いはある。
 同窓会というのは単なる象徴で、要するに人に対して後ろめたいところがなく、視線をそらすことも、前屈みになることもないような人間でありたいということだ。
 胸を張ったり、威張ったり、自慢したりしたいわけじゃない。
 見栄とかそういうこともでもない。

 いつかそんな人になれる日が来るのだろうか。
 なんだか、今の私にはすごく遠くて非現実的な気がしている。

 8月9日(月) 「自分の幸せは支えてくれている周囲の幸せでもある。
選挙に当選することは選挙事務所のスタッフにとっての当選でもあるように」

 人として最低限なすべきことは、生きることを喜びと感じ、日々を楽しく過ごすことだと私は思っている。
 それ以外にも大切なことはたくさんあるけど、生きることを楽しめていないとしたら、それは人として正しくないのではないだろうか。

 人は幸せになるのが務めだ。
 自分の存在を支えてくれている有形、無形すべてのものに対する責任として。
 たとえば、自分が死んで、自分の子孫の守護天使になったと想像してみる。
 その人間が世の中に文句ばかり言って、毎日を退屈そうに生きていたらどうだろう。
 とても悲しいと思うんじゃないだろうか。
 そういう目に見えない存在にも思い至れば尚更、生きることを楽しませてもらわないといけないと思う。

 自分の親や先祖のためにも、神がいるなら神のためにも、楽しそうに生きている姿を見せることが何よりの恩返しになるはずだ。
 神や祖先は見返りを求めてるわけじゃないだろう。
 食べられた無数の生き物たちのためにも、人間によって絶滅へと追い込まれた動物たちのためにも。

 自分が幸せになるということは、自分を幸せにするということだ。
 その責任は重い。
 私たちは夢と希望を託された代表者であり、一人の人間の存在はそれを支える無数の力が集結したものなのだということを忘れないようにしたい。

 8月8日(日) 「人の戦いまでしゃしゃり出ていくことはない。
           まずは自分の戦いに勝利することが先だ」

 この世界がずるいのは、どんな不幸や悲惨さにも救いめいたものが用意されていることだ。
 私たちは上手く誤魔化されているようなところがある。
 貧しさに中にも笑いがあったり、戦争の中にも友情が生まれたり。
 歴史的な不幸から名作や傑作が生み出され、人間の残虐さの隣に思いやりがある。
 私たちはそういったささやかすぎる温かい光にだまされているけれど、このままだまされた振りをしておくのがいいのだろうか?
 それとも、断固としてこの世界にはびこる暗黒面と戦うべきなのか?
 明るい面と暗い面の両方を同じように受け入れ、強く優しい人になるのが理想なのだろうけど、この世界の全員がそんなふうになるまでは待っていられない。
 現状の問題として、誤魔化しめいた救いをどう受け止めればいいのか。
 素直に喜んでおけばいいのか。

 私は、この世界の深くて暗い闇を見ないことで先を急ぐ。
 悲惨さとの戦いは私の戦いではないから。
 私は私の戦いを戦うしかないと思っている。
 この世界は局地的なゲリラ戦みたいなものだ。
 全員で一つの戦いを戦っているわけではない。
 それぞれがそれぞれの戦いに勝利した先に光は差すと私は信じている。
 いや、そう信じて自分を誤魔化すより他にやり方が分からないだけだ。
 今この瞬間も、世界中で個人的な戦いを続けている人々に思いを馳せ、心の中で互いに励まし合うことくらいしか思いつかない。

 絶対的に言えることは、私はこの戦いに負けてはいけないということだ。
 敗北の連鎖を生み出さないために。
 勝利が連鎖するように。

 8月7日(土) 「勝って兜の緒を締めよ。
           死んで花実が咲くものか」

 勝てば官軍、負ければ賊軍と最初に言ったのは誰なのか。
 でも確かにそうなのだ。
 それは過去から現在、未来に至るまでの歴史が証明しているし、この先の未来では変わらないだろう。
 それは手段を選ばずに勝てばいいということではない。
 結果としてそうなるということだ。
 スポーツも喧嘩も戦争も、理屈や正義を超えてやはり勝つべきなのだと思う。
 勝てばいいってもんじゃないというのは、敗者の負け惜しみでしかなく、勝者は遠吠えをしない。
 負ければマイナス、勝てばプラスマイナス・ゼロ、という言い方もできる。

 いずれにしても、勝負に負ければ正義が正義でなくなってしまう。
 正義を正義をして示すには勝つしかない。
 負けて得られるのは同情くらいのものだ。
 負けることから学ぶことは確かに多いけど、敗者というのはとても弱いものだ。
 弱者の立場からできることは少ない。
 たとえば本当に世の中を良くしたいと思うのなら、正しいことを言ったり書いたりするよりも、選挙に出て当選して派閥の中で力をつけて総理大臣になる方がずっと多くの正しい行いをすることができる。
 勝者になることの意義とはそういうものだ。
 正しいことが好きなのと正しいことを行うのとは別のものだ。
 弱者の論理では物事を大きく変えることはできない。
 残念だけど。

 今の日本の繁栄は第二次大戦に負けたからだと言う人がいるけど、あの戦争で勝っていたら今よりずっと豊かな国になっていたんじゃないか。
 ナチスドイツは負けたから悪と決めつけられたが、もしドイツが勝っていたらヒトラーは歴史上の偉人になっていたかもしれない。
 歴史は勝者が作ったものでしかないのだから。
 それはつまり、正義というのはどちらの側にも転がるということだ。
 織田信長を討ち取った明智光秀が豊臣秀吉に勝利していたら、明智光秀は正義の人となっていたに違いない。

 スポーツの大会も、優勝と準優勝ではまったく意味が違う。
 1位と2位の差は、2位と3位の差と同じではない。
 優勝だけが100で準優勝は0という場合もよくあることだ。
 敗者の弁は虚しく響き、人々の心にとどまることもなく、過去に置き去られ埋もれる。
 勝者になることが何よりもいいのは、勝者は言い訳も非難もする必要がないということだ。
 勝つことは憎しみの心を生まない。
 ただし、勝者には自らの驕りとの延長戦が用意されることになる。
 その戦いに勝ってこそ、真の勝者になれる。

 勝負はすべからく勝つべし。
 負けてもいい勝負なら最初からしない方がいい。

 8月6日(金) 「信じるということは、
          疑念のこちら側ではなく、向こう側にあるのだろう」

 疑念は人の心を虫食む。
 そのまま放置すると心を食い尽くすほどに。
 疑念は持たずに済めばそれに越したことはないけど、いったん生まれてしまったら最初からなかったことにはできないから、何とかしないといけない。
 負けなければいい。
 疑念を超えて向こう側へ行くことができたなら、それは価値のあることだ。
 疑念に勝ったという実績は自分の中に何かを残すだろう。

 人は生きることに迷い、愛を疑う。
 日々の生活に疑問を持ち、自分自身を信じられなくなったりする。
 でもそれは当然のことだと思う。
 むしろ生きることに疑いを持たない方がおかしい。
 私たちが取り囲まれているこの状況は明らかに不自然なのだから。

 世の中は不条理で、人生は解けない謎に満ちている。
 思い通りいかないことばかりで嫌になることも多い。
 本当に生きることに意味はあるのかと疑いたくもなる。
 ただ、それらの疑念は実体のないものだということだけは、いつも自分に言い聞かせておく必要があるだろう。
 疑いは心の中の影で、光を当てさえすればその影は消えるのだ。

 何もかもを無条件に信じることが正しいわけではない。
 けど、最初から一切を疑うことで自分を守ろうとするのは愚かなことだ。
 私たちは疑念と戦い、そして勝たねばならない。
 すべての疑いを疑い終えて、その向こう側に突き抜けたとき、そこにはきっと新たな世界が広がっていることだろう。
 それはあの世なんかじゃない。
 この世界の中の、私やあなたの心の中にある場所だ。

 8月5日(木) 「ギブアップしなければ負けじゃない。
            たとえどんなに大差がついていても」

 絶望的な気持ちになることはあっても、生きることに絶望したことはない。
 ただ、時々生きることに対してひどく投げやりな気分になってしまうことがある。
 何もかもが下らなく思えて、何もしたくなくなったりする。
 その一方で、ずっとずっと生きていたいと身もだえするほど熱烈に思うことがある。
 喜びと楽しみが連鎖しながら頭の中を駆けめぐって。
 その振り幅の大きさに自分でも疲れてしまうのだけど、どっちかはっきり決めろよと言われれば、それはもう迷うことなく生きる方を選ぶに違いない。
 生きることはベストではなくても常にベターだからだ。
 絶対的に正しくなくても相対的に正しい。

 よく人は、死んだ方がましだという言い方をするけれど、私はそんな言葉を聞くといつも思う。
 いや、生きていた方がましだろう、と。
 生きることのつらさと生きることの喜びを秤にかけたら、やっぱり喜びの方が重いだろうと思うのだ。
 そうじゃないと言う人もいるだろうけど、でも何度も考え直すと楽しいこともきっと見つかるはずだ。
 楽しみや喜びは生きていなければ決して味わうことはできない。
 私は自分の甘さを自覚している。それでも死ぬよりも生きる方を選んだ方が正解なのだと言い切りたい。
 誰にとっても、誰に対してもそうだと信じている。

 死は試合終了を意味する。
 死んだらもう一切挽回できなくなってしまう。
 どれだけ大差で負けていても、生きていれば少しは返せる。
 少なくとも挽回のチャンスは残される。
 人生にコールド負けはない。
 あるのはギブアップだけだ。
 負けを認めなければ負けじゃない。
 どんなに敗色濃厚でも、降参だけはしまいと心に誓おう。
 恥さらしでもいい。

 8月4日(水) 「音が与えてくれるもの。
            音が奪うもの」

 私たちは日頃、無数の音に囲まれて暮らしている。
 都会なら都会の、郊外なら郊外の、山や海ならそれぞれの。
 テレビ、音楽、車の音。
 生き物の声、人の話し声、物が立てる音。
 風の音や、波の音、雨の音、木がざわめく音。
 深夜には深夜の音があり、夜明けには夜明けの音がある。

 たまにものすごく静かなところへ行くと、ふと我に返ったようになることがある。
 無意識に自分を圧迫していた音から解放されたみたいに。
 そして普段感じないようなことを感じたり、考えたりしないようなことを考えたりする。
 それは逆に言えば、普段の生活の中で、いかに私たちが音によって思考や感覚を麻痺させられているかということだ。

 街の雑踏の中、人が集まる建物の中、電化製品に囲まれた部屋の中。
 私たちは音に囲まれることに慣れすぎてしまっている。
 だから今度は静けさをどこかで恐れるようになっているのではないか。
 静かすぎると不安になったりする。
 めったに行かない図書館に足を踏み入れた瞬間とか、恋人と向き合って会話が途切れた数十秒とか。
 音があることが当たり前になりすぎてしまっている。

 人間が野生を失った一番大きな原因は、人工的な音のせいなのかもしれない。
 無数の雑多な音によって注意力は散漫になり、思考は奪われ、感覚は鈍った。
 田舎の静寂の中で夜空を見上げたときや、キャンプへ行ってみんなが寝静まったときなどに、わずかに野性的な感覚をよみがえらせることがあるけど、あれは音から解放されるからではないだろうか。

 たまには部屋から音をすべて消して、何もせず瞑想などして過ごすのもいいかもしれない。
 特に私の場合は、常に音に囲まれているから、意識的に音を消してみる必要がありそうだ。
 静寂の中で錆び付いた感覚を磨こう。
 地球との一体感を取り戻すためにも。

 8月3日(火) 「頭を下げる理由は二つある。
            感謝と謝罪と」

 毎日何もないようでいて、実際はいろんなことが起こっている。
 世界中で、自分の生活の中で、テレビの中で。
 だから、まったくもって退屈はしない。
 それはそれでいいのだけど、遠い未来と遠い過去のことを思うと、あまりのんきに過ごしてるのもどうかと考えてしまう。
 思い出せない約束を果たせないでいることと、未来に向けて何ができるか見えないことが、心を淀ませる。

 どこまで行けば自分を許すことができるだろう。
 永遠を望んでなどいない。
 自分が消えてもいいと思える時と場所を探している。
 でもまだその瞬間は遠く感じる。
 こんなところじゃ終われない。
 何をどうすれば分からなくても、いや、分からないからこそ、日々を生き延びなければならない。
 私を生かしてくれている関係者各位に頭を下げながら。

 8月2日(月) 「単純そうで複雑な世界と人生。
            結末はそのどちらでもない」

 単純は複雑から学び、複雑は単純から学ぶ。
 それを交互に繰り返し、いつまで経っても学び終えることはない。
 複雑さを突き抜けた先に単純はあるけど、そこで終わりではなくて、更に先へ進むと次の段階の複雑さに辿り着く。
 そうやって繰り返していき、終わりはない。
 単純も複雑も結論じゃない。

 世界を単純に捉えることはできる。
 でもこの世界は決して単純ものではなく、非常に複雑にできている。
 人生も同じで、たまに単純に思えたりもするけど、やっぱり生きることはひどく複雑なことだ。
 簡単なことなんかじゃない。
 単純化しようとして、いつも失敗する。
 私たちにできるのはせいぜい簡略化することくらいだ。
 捨てるところは捨て、切り落とすところは思い切って切り落とすことで、なんとか複雑すぎる迷路から抜け出すことができる。

 考えすぎる人は天真爛漫な人に憧れる。
 大雑把すぎる人はきめ細かな気遣いができる人をうらやましく思ったりする。
 両方兼ね備えてなおかつ魅力的であることは難しいから、どちらかに徹した方がいい。
 自分の良いところを見失わないためにも。
 他人の良いところから学ぶことは学んでも、真似をすることはない。

 学ぶことそのものが生きる目的ではないし、学んだからといって何かが解決するわけでもない。
 ただ、まだ学ぶ余地がたくさんあるのだから学ぶ必要がある。
 先へ行かなければ見えないものや分からないものがきっとある。
 それは誰も教えてくれないことだ。

 生きることは知ること。
 何故知らなければいけないのか、と人は問う。
 じゃあ私はこう訊ねよう。
 何故小説を読んだり、映画を観たりするのか、と。
 人生はそれと同じだ。
 楽しみたいから生き、自分の人生の結末を知りたいから最後まで生きる。
 それで充分なんじゃないか。
 意味なんて必要じゃない。


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