2001.5.7-

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 5月15日(火) 「未来へ向かう痛み」

 たとえハッピーな毎日でも毎日ハッピーな気分というわけにはいかない。どうしようもなく気分が雲ってしまうこともある。
 けど、そういうネガティブな感情を過大評価しないようにしたい。ハッピーは消えない。隠れることがあるだけなんだから。
 
                   *
 
 感心させるより感動させたいと思う。頭にうったえるんじゃなくて心に届けたい。
 けど、感心と感動は別の方向性のものではない。感動へ続く道の途中に感心があるのだ。
 感心を超えた先に感動がある。感動させるためには感心させることを極めなければいけない。
 そして、人を本当に感動させられるのはある種の狂気だけだ。
 
                   *
 
 安易に毎日を過ごすな、そういつも自分に言い聞かせている。言い聞かせてはいるんだけど、やっぱりどうしても楽な方に流れてしまって、億劫なことは先送りにしてしまう。
 そして、毎日が流れていく。手を伸ばして今日という日を掴もうとするけど、わずかに手が触れるだけ。手からすり抜けて掴めない。
 危機という名の救いが訪れるまで私はこのままなのだろうか?
 
                   *
 
 長い時間、多くのことを考えたり悩んだりすると、だんだん物事を気楽に考えられるようになる。いろんなことが実は大したことじゃないんだってことが分かってくるから。
 子供の頃、生きることが簡単だった。毎日遊ぶことに夢中で、自分の周りの世界は単純だった。
 やがて少しずつ生きることが難しくなってきた。死に近づいたりもした。
 けど、複雑さの先には必ず単純がある。人生だってそう。生きることは本当はとても単純なことなのだ。
 まず思い悩むこと。それが済んだらあとは生きるだけ。やりたいことと、やるべきことをやる。それだけのことだ。
 
                   *
 
 未練だけでつながっている関係性に未来はない。それは未来へと向かう上で足かせになる。
 未来のない関係性は心を殺して捨ててしまわければ。
 未来へ向かうことは痛みを伴うものだ。
 
                   *
 
 去年まで自分の中で正しかった人たちが今では正しくない。その事実を私はどう受け止めればいいのか?
 成長なのか、それとも退行なのか?
 尊敬心さえも次々と消えていっている。
 本当の孤独はこれから始まるのかもしれない。
 世界が早く私が望むほど素敵なものになってくれないと、私の孤独はますます深まっていくだろう。
 世界の成長と成熟を心底願う。
 
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 宗教は自転車の補助輪みたいなものだ。そろそろ外してもいいだろう。
 もっと自由に走るために。
 
                   *
 
 たとえ誰にも理解されなくても思考のレベルを下げる必要はない。ただし、表現を易しくしなければいけない。表現は易しければ易しいほどいい。
 思考は食材で表現は料理。良い食材を活かすも殺すも調理次第。誰が食べても美味しいのが一番。そのためには分かりやすい味でなくては。
 自己満足で終わらないように。
 
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 誰だって分からないことだらけだ。ひとつずつ覚えていくしかない。一気に何もかも分かる方法はないから。
 分からないことは恥ずかしいことじゃない。恥ずかしいのは分からないこと認めずに分かろうとしないことだ。
 毎日少しずつでも分かるようにならないと。
 
                   *
 
 人は過去の不幸を心のどこかで自慢している。
 それは間違ったことではないのかもしれないけど、あまり健全な考え方とは言えないだろう。病気自慢をする心理に似ていて。
 過去の不幸やそれを乗り越えたことで自分を支えるのはかまわない。けど、それで自分が人より偉いなどと思ったら大間違いだ。なんだかんだいっても不幸に見舞われてしまうのは能力が足りない証拠なのだから。本当に優秀な人間に対して不幸はよけて行く。
 それに、この世で不幸ほどありふれたものは他にないんだということを思い出した方がいいだろう。
 
                   *
 
 恋に根拠はある?
 恋の始まりや途中では確信がある。けど、恋が終わった時、その確信は揺らぎ、根拠も曖昧になる。どっちが正しいんだろう?
 
                   *
 
 良い予感はめったに当たらないけど、悪い予感はよく当たる。
 悪い予感のほとんどは実現すると言ってもいいくらいだ。
 私の中に今、いくつかの悪い予感がある。これもやっぱり実現してしまうのだろうか?
 
                   *
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 ここ数日、曜日感覚がなんだかおかしい。昨日は月曜日なのに土曜日のような気がして、今日は火曜日なのに金曜日のような感じだった。なんだろう。別に特別なことがあったわけでもないのに。
 明日はなんか水曜日のような気がする。
 ……。
 ん? 戻ったか?
 
 吉良行き前後、精神的には絶好調に近かったんだけど、ここへきて少しかげりが見え始めた。やや下降気味。無気力感に捕まりそうだ。でもなんとか失速は最小限に抑えたい。
 
 今日は雨などと天気予想屋は言ってたけど、まるで外れていい天気だった。なんだかなぁ。こんなことなら昨日洗車しておけばよかった。そうすれば今週の流れが良くなっただろうに。
 明日は熱帯魚の水換えもあるし、特に急ぎの用事もないし、また少しルーズな一日になるかもしれない。明日になって何か思いつくといいけど。
 
 今週はどうにも流れが掴めない。こういう時は何かひとつ思い切ったことをすると流れが生まれたりするから、木曜日、どうにかしよう。来週も視野に入れながら。
 
                   *
 
 間違えていることは確か。どこをどう間違えているか分かるまでこの違和感が消えないのだろう。
 今はまだ自分の間違いに気づけないでいる。
 
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 今日のための言葉
 
「私は、後世の人が哲学的問題に悩まないように、代わりに今自分が哲学している」
 
 ウィトゲンシュタイン

 5月14日(月) 「言葉を探す長い旅」

 人生は長編小説ではなく、短編集なのかもしれない。
 人生の物語はひとつではない。登場人物も、現れては消え、消えてはまた現れる。
 変わらないのは主人公だけの連作短編、それが人の一生の物語。
 
                   *
 
 自分の墓石に墓碑銘を刻むことを許されるのは限られた特別な一生だけだ。
 あなたは自分の墓碑銘を持ち得るだろうか?
 私はまだまだ見つかりそうにない。
 
                   *
 
 悩んでみせることで許されると思うのは幻想だ。悩むことは自己満足でしかない。
 反省は大切なこと。でも、それは挽回のためにすべきことであって、許しを得るためにするものではない。次にいかすためにすべきことだ。
 失敗したら取り戻せばいい。取り返しのつかない失敗をしたら? そしたらもう悩む必要もなくなる。
 要するに悩みなんて下らない。
 
                   *
 
 大切なのは自分を信じること。そして、自分を信じすぎないこと。
 絶対というものはありえないことを常に忘れないようにしなければ。
 
                   *
 
 まだ何一つ分かってはいないんだ、ということを私は毎日自分に言い聞かせなければならない。本当に分かっていることは何もない。
 
                   *
 
 生きることは、切り離していく作業でもある。余分なものや、必要なくなったものを。
 最後、思い出だけになったら、そこで上がりだ。
 
                   *
 
 費やした言葉の99パーセントが無駄でもいい。1パーセントの意味があれば。
 その1パーセントの結晶を手に入れるためには99パーセントの無駄が必要なのだ。
 楽して大事なものは得られない。
 
                   *
 
 軽蔑されたり嘲笑されることはそれほど問題ではない。同情されることも悔しいけどしょうがない。
 それよりも問題なのは、誰も幸福にできないことだ。だから自分の存在に確信が持てない。
 自分を幸福にできないことよりも誰も幸せにできないことの方がずっと重大な不幸に違いない。それはとても悲しいことだ。
 
                   *
 
 自分の身の丈を知らないことはやはり愚かなことなんだろうか。どこかに等身大の自分を写す鏡か、あるいは自分の身の丈を正確に測る物差しがあるといいのだけど。
 
                   *
 
 弱者を置いてきぼりにして強者の論理を振り回すな、と時々自分を叱らないといけない。
 一番弱い人間と一番強い人間を両方思い描いてこそ、正しい論理が見えてくるはずだ。
 
                   *
 
 世界の至る所にヒントが散らばっている。道にも落ちているし、空にも浮かんでいる。
 けど、答えはどこにもない。一つもない。いくつかのヒントを組み合わせて自分で導き出すしかない。自分のための答えを。自分のための答えは自分にしか出せない。
 
                   *
 
 世界で一番白けた人の心に届く言葉、そんなものがあるのだろうか。
 でも私は探したい。それがたぶん、究極だろう。
 もしそれが見つかれば、言葉を捨てられるかもしれない。もうそれ以上言葉を探す必要がなくなるだろうから。
 
 私は、言葉を探すためにこの世界にやって来た。それが私の生きる意味だ。
 
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 今日のための言葉
 
「ぼくは生きている。詩の一行から次の一行までの果てしない旅路を」
 
 寺山修司

 5月13日(日) 「絶対量の中から」

 きみを待っている人はいる?
 この世界の中で。
 世界は私を待っているのかいないのか。
 私は先へ行って待っている。
 
                   *
 
 超えている、という予感。
 今初めて、リアルタイムを追い越した気がしている。
 それが妄想だとしても、そういう思いを抱けるところまで来たことを素直に喜びたい。
 
                   *
 
 心が栄養不足にならないように、いろんなものをバランス良く取り込まなければ。
 本や映画だけでは充分ではないし、経験だけでも駄目だ。生活も必要だし、人との出会いや会話や触れ合いもなくてはならない。
 心に必要充分な栄養が行き届いた時、人は自分も周りも幸せにできるに違いない。
 
                   *
 
 大切なのは何が起こるかじゃない。起こったことに対して何を感じ、そこから何を得るかだ。
 すべてはそこに在る。目の前にすでに在る。あとは発見して、感動するだけなのだ。
 毎日のように夕陽が空を染め、四季折々の花が咲き、月が夜空を照らし、自然は多くの音を発してる。それに気づきさえすれば、きっと感じるものはある。ドラマもあるし詩もある。
 この世界が美しくないなんて言う人間は、一体どこを見てるんだ?
 
                   *
 
 他人の長所よりも短所がよく見える目を持っている人間は不幸な人間だ。
 けど、不幸に甘んじてしまえば不幸なままなのだから、不幸でいたくなければ努力して欠点を矯正しなければいけない。誰も目を取り替えてくれるわけではない。
 人間でも物事でも、すべて良い面と悪い面がある。悪い部分がたくさん見えることは決して自慢にはならない。そんなことを自慢するのはとても恥ずかしいことだ。
 良い面を見ればいい。そうすれば幸福になれるし、人を無駄に不快にすることもなくなる。
 世の中の不幸は自分のところで止めなくては。リレー競争じゃないんだから、人に渡す必要はない。
 人間には悪い空気を浄化する能力がある。
 
                   *
 
 人の弱さを認識することは大切だし、それを許すことも必要だろう。けど、自分の弱さまで許しすぎてはいけない。弱さはやはり憎むべきものなのだから。
 人はもっと強くならなければいけない。誰もが皆。人がもっと強くなれば、世界はもっとまともになるに違いない。
 だから、子供に対して優しい人になりなさい、という教えは間違っている。強い人間になりなさい、という教えが正しい。強くなりさえすれば自ずと本当の優しさとはどういうことかが分かるはずだから。
 
                   *
 
 人生は虚しさとも戦いでもある。油断したら負ける。負けたら虚しさに飲み込まれてしまう。
 虚しさなんかに負けないように。
 あるいは虚しくないという人もいるだろう。けど、それは多忙で誤魔化しているだけだろう。多忙と充実を取り違えている。忙しいことと充実してることとは違う。まったく別のものだ。
 人生の本質的な虚しさに気づいてないとするなら、それはまだまだ先が長い。虚しさに気づくことが折り返し地点なのだから。
 
                   *
 
 生きていけば絶対に迷う。どんなに信念を持っていても。
 だから、帰っていくべき基本姿勢を作っておくことが必要だ。自分は何をどうしたいのか、ということをいつでも覚えておかないといけない。迷った時、すぐに帰っていけるように。
 行き当たりばったりに生きていると、一度崩れた体勢を元に戻すのに時間がかかりすぎる。
 
                   *
 
 最近、色々なことに腹が立つ。けど、これはたちの悪い腹立ちではない。正当な怒りみたいなもので、ここ数年の私に欠けていたものだから、むしろ喜んでいる。
 世界や人に対して腹が立つということは、それだけ世界や人に対して積極的に関わろうとする意思の表れに違いない。
 新しい段落はもうすぐそこだ。物語の佳境はまだ訪れていない。
 
                   *
 
 100点満点を取ることは誰にでもできる。簡単ではないけど、努力すれば取れる。
 けど、100点以上の実力を持った人間だけが先の段階へ進めるのだ。100点は100点でしかない。目には見えない120点、150点というものも確かにある。
 
                   *
 
 私は絶対量の必要性というものを信じている。
 優れたものと平凡なものを見分けられるようになるためにはある一定以上の絶対量に触れる必要がある。
 それは知識の問題ではない。知識で優劣を見分けるのではなく、絶対量の中で勘を養うのだ。
 たくさん知れば知るほど、良いものは一目見れば浮かび上がって見えるようになる。良くできた偽物にだまされなくなる。
 だから私は、たくさん見聞きしている人の意見を尊重するようにしている。たとえば、映画なら1000本しか観てない人の感想よりも10,000本観てる人の感想の方がある種の絶対的な正しさがあると思っている。
 駄目な作品をたくさん知って多くの失望を味わっている人間が誉めるものは、たとえそれが自分の趣味とは合わなくても何かがあるはずだから。
 何かを語りたければ、まずは観たり読んだり知ったりすることだ。多くを知らずに語ることはとても危険なことなのだ。偽物を人に勧めることをやりかねない。
 
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 人はひとりでも生きられるとか、人は誰もひとりだ、などということを、私はこの先死ぬまで絶対に言わないと心に誓った。昔はそう思っていたけど、今はその考え方を全面的に否定している。
 人は決してひとりではない。そのことを今の私は知っている。ひとりで生きていくことなんてできやしない。
 人は求め求められ、愛し愛され、互いに利用し合い、迷惑をかけ合い、そうやって生きていくしかないのだ。それが人間なのだから。
 それでいい。それでいいんだ。
 
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 今日はルーズな一日になった。半分は狙いで、半分は怠け心によって。
 何かしようかとも考えたんだけど、やっぱりやめた。その代わり、思い切ってビデオとゲームの二本立てに集中した。明日以降の流れを作るためにも。
 
 テレビでやった『隣人は静かに笑う』を観た。
 なかなか面白かったが、一番良かったのはラストの落ちだ。ハッピーエンディング好きのアメリカ映画にしては珍しいラストで、私は気に入った。ああいう話があってもいい。
 
『インサイダー』は途中まで。『ブエナ・シスタ・ソシアル・クラブ』も。
 
 ドラマは『ラブ・ソング』が段々良くなってきた。トヨエツのセリフ回しがいい。
 北川悦吏子はいつも出だしエンジンがかかるまでもたつくけど、中盤あたりでキャラクターを掴んでからは一気に面白くなる。毎回そうだから、そういうタイプなのだろう。
 けど、このドラマ、キャスティングが個人的に気に入らない。トヨエツは文句なしにいいけど、あとは苦手な人が揃ってしまった。中山美穂、香取慎吾、優香の3人が別の人だったら、と思わずにはいられない。ただ、加藤晴彦はとてもいい。
 
 テレビでは、「情熱大陸」の音楽家溝口肇の特集がすごく良かった。色々感じることが多く、いい刺激になった。ありがたい。
 やはりインスパイアーは作品よりも人間そのものなんだということを再認識させてくれた。
 
 ゲームはちょこちょこやっている。その中で今一番熱中してるのが、PS2の「ガングリフォン・ブレイズ」という3Dロボットアクションだ。これがめっぽう面白い。相当難しくて途中で何度も投げそうになったけど、やればやるほど上達して、上達すればクリアできるから熱くなる。とてもバランスのいい作品だ。
 今までやったPS2ゲームの中では間違いなくベスト3に入るだろう(あとの2本は「はじめの一歩」と「鬼武者」か)。
 今日、一応クリアしたけど、あと少し残っているから明日もやることになるだろう。久々に熱中できるゲームに当たった。
 
 明日は買い物と洗車か。暑い一日になりそうだ。半袖の上に上着を着て、洗車の時は今年初の半袖男になろう。
 今年はどれくらい日焼けできるだろう?
 実は、去年岐阜ドライブでできた右腕の紅白ドライブ日焼けがまだ治っていない私であった。なんてこった。
 今年はランニングシャツでも着てみっか?
 
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 今日のための言葉
 
「迫ってくる閉塞感を押し戻しながら、ぼくは毎日を生きている。
 この暮らしは、少年の頃に思い描いていた未来なのか?」
 
 「情熱大陸ーー溝口肇特集」より

 5月12日(土) 「希望の向こう側」

 すべての絶望は道の途中にしかない。
 絶望の言葉を残して死んだやつは馬鹿野郎だ。救いがたい。
 道の終わりにあるものは何か?
 ーーそれは、おそらく、希望だろう。
 そこから先は道がない。
 
                   *
 
 人生は何度でもやり直しがきく。
 けれど、その瞬間しゅんかんはすべて一回勝負の真剣勝負だ。二度と同じ瞬間はやってこない。
 だから、ルーズに使ってもいい時間なんてありはしない。一瞬たりとも。
 人との会話も、映画も、小説も、毎日の生活も、すべて勝負だ。半端な気持ちで対峙すれば負けてしまう。

                   *

 高い場所に行きたいと願う人間だけが高い場所にいける。
 平地で文句ばかり並べる人間にだけはならないようにしたい。
 高い場所を目指して必死に昇っていれば、はぁはぁと息も絶えだえになってしまうからしゃべったりできないものだ。文句を言う余裕があるということは、まだまだ必死さが足りない証拠だ。
 登る山は高く、先は長い。眺めているだけでは何も始まらない。

                   *

 今まで許せていたことがある時突然許せるようになることがある。
 逆に、今まで許せていたことが急に許せなくなったしまうこともある。
 たとえば、誰かを。
 スイッチが入るのか、スイッチが切れるのか。とにかくそういうことがある。
 許せていたことを許せなくなって、もう一度許すのはとても難しい。もしかしたら不可能かもしれない。
 
                   *

 私は優しい人間になりたいと願う。今よりももっと。
 それは、自分が優しくない人間だと知っているからだ。元々優しい人間なら優しくなりたいと願ったりはしない。
 私はいつになったら自分が納得できるほど優しい人間になることができるんだろう?
 先は長い気がするけど、今よりもっと強い人間になる必要があることだけは確かだ。

                   *

 作品と名の付くものはすべて、自分を表現するための道具などではなく、受け手を幸せにするために作られるべきだと私は信じている。
 だから、内容が正しかろうか間違っていようがそんなものは大した問題じゃない。結果的に受け手を幸せな気分にすることができれば、それは「良い作品」なのだ。才能が溢れていようがいまいがそんなものは関係ない。
 真実なんて実は誰にとっても必要ではないのだ。必要なのは幸福になることなのだから。
 みんな幸福になることや、幸福そのものを侮りすぎている。幸福というのはほとんどの人が考えているよりももっと重大なことなのだ。
 
                   *
 
 きみの人生はきみが決めろ。それは神の問題などではない。
 神の仕事は人間の人生をいじくり回すことなどではないから、安心して自分の人生を生きるといい。
 
                   *
 
 自分の強さを過信しないように。いつでも自分の弱さを自覚しておくことが大切だ。
 自信は大切なこと。でも過信は何も生み出さないし、自分を幸福にはしない。
 
                   *
 
 アフォリズムは、指摘と提案の2つの要素で成り立っていなければいけないということに最近気づいた。
 人間の本質や世界の様を指摘するだけは駄目なのだ。指摘して、その上でどうすべきかという提案がなされなければ。
 このことに気づいてから、過去のアフォリズムの8割から9割は駄目だということが分かった。最近は名言集などを読んでも全然面白くないし腹が立つ。私が彼等の先生なら、全部赤ペンで直してやる。全然駄目だから、真っ赤になってしまうだろう。
 本当に優れたアフォリズムを作ったのは、アインシュタインやオスカー・ワイルドや太宰治や芥川龍之介や寺山修司や村上春樹くらいのものだ。
 もう一歩先へ踏み出さないといけない。原因があって結果がある。絶望があって希望がある。悪があって善がある。不正があって正義がある。
 そういう二元論をきちんと成立させて、更にそれを超えて言葉を発した時初めて本物のアフォリズムになる。
 こちら側から肯定して、向こう側から否定して、外側から全体を肯定する。これだ。この作業の先で真のアフォリズムは生まれる。
 10年やってきて、ようやく一歩前進した。
 
                   *
 
 私は20代の10年間を後悔してないし、間違っていたとも思っていない。それは開き直りでも強がりでもなく、ああいう生き方が私には必要だったし、ああ生きるより他に道がなかったから。
 あの10年間で失ったものと得たものを自覚した上で、私は自分の20代を肯定したい。
 いつも書いているように、大切なのはこれからだ。あの10年を活かすも殺すもこれから次第。
 私の人生はまだ何一つ終わっていない。
 
                   *
 
 ”練習”ということをもう一度見直そうと思う。
 大人になってから何かの練習というものをほとんどやっていない気がするから。
 練習、という言葉はよく耳にする。特にプロスポーツの世界において。彼等は当たり前のように毎日練習していて、私たちは当たり前のように毎日練習していない。これは間違っているんじゃないだろうか? 私たちだって毎日練習すべきことはたくさんあるはずなのだ。
 たとえば英会話とか、字が上手くなるためのペン習字とか、ピアノの演奏とか、キーボードのタイピングだとか。
 唯一一般人がやるものがゴルフの練習くらいか。あれはみんな練習をする。他はちょっと思いつかない。遊びにしろスポーツにしろ何にしろ、すべてはいきなり本番だ。本番のための練習はしない。
 これではいけない。私は明日から練習というものを意識して生活することにした。何をしようか。ここはひとつ、一念発起して生け花でもしようかな?
 って、生け花はどんな練習をすればいいんだろう?
 いかん、いきなりつまづいた。練習への道のりは遠い。
 
                   *
                   *
                   *
 
 ゴールデンウィークとその後の遠出などがあって生活パターンが乱れてたけど、今日から平常に戻った。明日もちょっとのんびりしつつ家の中の用事を済ませて、来週からまた安定させよう。
 早くも心は金沢行きに飛んでいるんだけど、いくらなんでもちょっとインターバルが短すぎる。ガソリン代だって安くないし。
 行くのは5月の終わりくらいにしよう。
 
 最近、少し毎日の密度が薄くなっているような気がする。今まではびっちり詰まっていた容器に所々で空気が入ってしまった感じなのだ。なんとなく物足りないというか、毎日の味が薄い。相変わらずの時間不足にもかかわらず。
 あまり良くない傾向だ。なんとかしなくては。何か他の要素を詰め込む必要があるけど、さて、何にするか。本読みはまだ気持ちが戻らないし、パソコン関連へも気持ちが向かない。ビデオも昔ほど観る気がしないし、オークションもそうはないし、部屋の模様替えも完成してしまっている。うーん、何もないなぁ。
 ここは何かまったく新しい要素を持ち込むべきか。趣味を増やすとか。何だろう。思いつかん……。
 それなら仕事しろって? まあ、そういう説もあるが、それはたぶん俗説だ。
 練習と新しい要素、この2つが明日からのテーマになる。しっかりやるべし。
 
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 今日のための言葉
 
「生きがいは他人から与えてもらうものではない。自分で見つけ、つかみ取るものである」
 
 松下幸之助

 5月9日(水) 「女性ボーカル、男性ボーカル」

 才能の秘密みたいなものが今日ふいに分かった。
 それは、たとえるなら半音ずれているようなものなのだ。人と全音ずれているんじゃない。そこまでずれると人に不快感を与えてしまう。その手前の半音ずれた感じが人に才能のようなものを感じさせるのだろう。
 誰も才能の実体を知らない。けど、感じることはできる。正体の定かではない心地よさを与えてくれるものを人は才能と呼ぶ。
 他者よりも優れていることが必ずしも才能ではない。

                   *
 
 中谷美紀のベスト・アルバムを借りて聴いてみた。
 悪くない。第一印象としてはかなりいい方だろう。さすが坂本龍一作曲、プロデュースといったところか。明日から少し聴き込んでみよう。
 それでふと思ったのだけど、最近男性ボーカルの曲をまったく聴く気になれなくて、女性ボーカルの曲ばかり聴いている。何故か男の歌を聴きたくないのだ。
 昔から私はずっと両方同じくらいの割合で聴いていた。いや、若い頃は男性ボーカルの方が多かっただろう。それがここへ来て、明らかに変わってしまった。これは一体どういう心境の変化なのだろう?
 女性ボーカルの方が優しいからだろうか。ということは心が疲れてる?
 女の人の声とか音域に関係があるのだろうか? 女の人の声の方が心地よく聞こえる理由が何かあるのか?
 みんなはどうなんだろう。女性ボーカルと男性ボーカルの割合がはっきり変わったりするんだろうか?
 あれほど好きでよく聴いていたスガシカオやスピッツでさえ、今は聴くことができない。
 
 このことに関連してもう一つ考えたのは、女性ボーカルの曲を聴く男が好きな女の人と嫌いな女の人、男性ボーカルを聴く男が好きな女の人と嫌いな女の人、女性ボーカルを聴く女の人を好きな男と嫌いな男、男性ボーカルを聴く女の人が好きな男と嫌いな男、というパターンにおけるそれぞれの心理についてだ。
 これは人ぞれぞれ好みがあるだろうし、心理を細かく分析していくと面白いだろうけど、私にはよく分からない。ただ、確かに好き嫌いはあると思う。女性ボーカルの曲ばかり聴く男は嫌だな、とか。
 私はどちらかというと、女性ボーカルの曲を好んで聴く女の人の方が好きだと思う。傾向として。
 なんというか、女性ボーカルの曲を聴く女の人の方が自分の生き方に対して自覚的であろうとしてるように思うから。
 まあ、もちろんいろんな要素があるから一概には言えないのだけれど。
 
 ひとつ言えることは、相手のことを知りたければ、好きな映画や好きな本を訊くよりも好きな音楽を訊いた方が手っ取り早くて確かだということだ。
 どういう音楽を聴いているかを知れば、その人の趣味や考え方のだいたいの傾向が分かるはず。
 たとえば、流行の歌しか聴かないとしたら、その人はそういう人なのだ。
 そして、音楽の趣味が違いすぎるカップルはどこか本質がずれているような気がする。
 
                   *
 
 強くなりすぎれば失うこともある。強ければ強いほどいいってもんでもない。筋肉ムキムキが必ずしも正しい体ではないように。
 いや、というよりも、ハードな強さへと向かう方向性に問題があるのだ。ソフトな強さにこそ真の強さがある。
 すべてを弾き返してしまうのが本当の強さじゃない。すべてを飲み込んでしまうのが本当の強さだ。
 筋肉は見せびらかすものじゃなく、内に秘めるものだろう。
 
                   *
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 どうやら明日は五月晴れの一日になりそうだ。もうこれで完全に恐怖の雨男伝説は終わりを告げた。この先、洗車中に大雨が降ってくるなんてこともないだろう。めでたい。
 というわけで、明日は吉良町行きだ。メインは一応夕陽ということで、午後2時か3時くらいに家を出ればちょうどいいだろう。だからそんなに早起きしなくてもいい。
 吉良はなんといっても吉良上野の助ゆかりの町だ。吉良の悪口でも言おうものなら自動販売機で缶コーヒーも売ってくれず、忠臣蔵に関するテレビの視聴率は0パーセントなんだとか。
 ……。
 ちょっと大げさかぁ? いやいや、でもかなり本当らしいから、うかつなことは口走らないようにしよう。
「すみません、吉良の中心へはどうやって行けばいいですか?」などと道行く人に尋ねるのもやめよう。
「忠臣だとぉ!?」
 と変な誤解を生んではいけないからな。
 47という数字にも気を付けた方がいいだろう。えーと、車のナンバーは大丈夫……だな。
 よし、心の準備も万端整った。
 あ、そうそう、吉良というのは漫画家の鳥山明の故郷らしい。しかも、アラレちゃんの舞台となったペンギン村は吉良町あたりがモデルになってるとか。まさか、吉良ワイキキビーチがそうなのかぁ!?
 うーん、これはぜひ確かめてこなければ。
 えーと、ウクレレはどこいったかな。
 
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 今日のための言葉
 
「聴く人と歌う私の一番深いところが歌を通してどこかで出会う、それは私の存在が届くこと。歌が届くことだけを願いながら、この三十年、歌ってきたような気がする」
 
 加藤登紀子

 5月8日(火) 「快楽と幸福と」

 20代の私は、快楽主義者を憎んでいた。絶対に間違っていると感じていたから。
 でも、今は違う。憎む気持ちはまったく消えて、生きる姿勢として正しいとさえ思っている。それはもちろん、本物の快楽主義に限るけど。
 快楽、という言葉が良くないのだ。これを幸福と置き換えた方が分かりやすいだろう。人として生まれたからには絶対的な幸福を求めるのは当然のこと。義務と言ってもいい。
 禁欲主義なんて貧乏くさくていけない。
 より大きな快楽を得るために個人的に禁欲的になるのはかまわないけど、それを他人にまで押しつけてはいけないだろう。禁欲は趣味でやればいい。
 人は自らの快楽に徹底的に自覚的でなければならない。自分にとって何が楽しくて、何が気持ちよくて、何が幸福なのか、そのことを知っておかなければ。それらを知らないままただ漠然と生きていては自分を幸福にすることはできないだろう。
 
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 長生きしてみないと分からないことはたくさんある。ただ長生きすればいいってもんじゃないけど、それまでずっと分からなかったことがある日ふいに分かったりするとすごく嬉しかったりする。長生きするのもそんなに悪いもんじゃない。長生き賛成。
 
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 貧乏や苦労から学ぶことは多いけど、貧乏や苦労は人間を下品にしてしまう。どこか影ができる。問題のある家庭環境で育った人間も。
 下品なことが必ずしも悪いことではないけれど、上品に越したことはない。もちろんそれは家柄とかそんなものではなく、人間として。
 苦労することが正しいなんて考え方は、天才は変人でなければいけないというのと同じように間違った思い込みだ。

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 偉そうなことを言うだけでは駄目だ、行動が伴わなければ、などともっともらしいことを言う人間に限って、自分は何もしないし、偉そうなことを言うことさえできない。
 間抜けを非難する人間が一番間抜けなのだ(その間抜けを非難するのは二番目に間抜け)。
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 私はまだ本当の悲しみを知らない。見えてもいない。
 本当の悲しみは本当の喜びの後に来るもので、私はまだ本当の喜びを知らないから。
 できることなら、狂喜乱舞して素っ裸で表に飛び出して街中を駆け回って逮捕されるくらいの歓喜というものを一生の中で一度くらいは味わってみたいものだ。いや、別に逮捕されなくてもいいんだけど。
 
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 良い一生と駄目な一生を分けるものがあるとするならば、あの世の門番にこう訊かれた時頷けるかどうかだ。
「おまえは、ちゃんと生きたか?」
 その問いに自信を持って「はい」と答えられたとしたら、それは良い一生だ。間違いない。誰がなんと言おうと。
 
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 今日は予定通りオークションと買い物の一日になった。まあほぼ予定はこなせた。
 明日はオークションの残りと熱帯魚の水換えがある。そして、明後日晴れるようなら次の日の吉良行きに備えて、夜は早々に寝てしまうことになるだろう。さて、無事晴れるだろうか?
 地図で観たら、吉良はけっこう遠い。2時間くらいで行けると思ってたけど、実際は3時間くらいはかかりそうだ。となると、夕方ふらっと行って帰って来るってわけにはいかない。12時には起きて2時には家を出ないと。吉良ワイキキビーチに沈む夕陽はきれいだろうか。
 木曜が駄目なら金曜がある。両方駄目なら……。まあ来週もある。いやいや、私はもう雨男は返上したはずだ。弱気になるのはやめよう。きっと木曜は見たこともないくらいの快晴に違いない。赤いアロハにアイロンを掛けておかなくちゃ。
 
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 今日のための言葉
 
「語られるべき物語はたくさんある。僕らの物語は本当の意味ではまだ語られていない」
 
 スパイク・リー監督

 5月7日(月) 「犯人は自分」

 人は毎日いろんなところに行けて、いろんなことができる。できるんだということを忘れさえしなければ。
 平凡な日常と言うけれど、日常を平凡なものにしてる犯人は紛れもなく本人だ。真犯人は他にはいない。
 たとえば、明日の朝、通勤電車いつも降りる駅を乗り越して終点まで行って、その駅の周りを30分散歩してみる。1、2時間の遅刻で失うものと得るものがあるだろう。失うことを恐れるか、得るものを喜ぶか、そのあたりに人生を平凡なものにするか非凡なものにするかの秘密があるような気がする。
 週末に家族と動物園に行くだけは、非凡な人生にはならない。
 
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 誰もが華やかな人生を望んでいるわけではないだろうけど、特別な人生にはそれなりの価値がある。普通に生きているだけでは絶対に経験できないことができたり、会えない人に会えたり、行けないところへ行けたりする。
 芸能人、作家、社長、政治家、文化人、芸術家、スポーツ選手、など。
 特別な生き方をしている人間はやはり正しいのだ。なんだかんだ言っても。
 だから、可能性を求めて特別な人生を目指すべきだ。最初からあきらめてしまえば何の可能性もなくなってしまう。
 
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 上に立つ人間に必要な能力は、下の人間を機嫌良く働くように仕向ける能力だけだ。それ以外の能力は大して必要じゃない。トップなら尚更のこと。
 でも、人は忘れっぽい。大人になると子供の頃のことを忘れてしまうように、上に立つと下の立場の時のことをすっかり忘れてしまう。
 ここでも大切なのは想像力だということに気づく。忘れたことは想像で補うしかない。
 
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 賢さだけが人を救うと思われがちだけど、愚かさが自分を救うことだってあるのだ。
 間抜けすぎて犯罪を犯す前に捕まって更正してしまうなんてこともある。親に隠れて悪いことをしても、どこか抜けていて早々に見つかってしまって悪の道へ進みきれなかったり。
 賢すぎると上手く生きられてしまう。それはそれで不幸なことかもしれない。
 人は自分が愚かだから他人の愚かさを許せるのだ。もし人が今の2倍賢くなったとしたら、たぶんこの世はそれまでの2倍住みづらい場所になるだろう。
 
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 恋心は自分の子供のようなものだ。子供のようにか弱く、はかない。どれだけ大事に育てても、時にあっけなく死んでしまったりする。
 恋も子供もまた新しくうまれるけれど、同じ子供、同じ恋は二度とうまれることはない。一度死んだらもうおしまいだ。
 
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 誰の人生もその場しのぎ。
 けど、今日をしのぎ切らなければ明日も、未来もない。
 命は希望。希望と可能性を明日につなぐこと。それが人として最低限の仕事だ。文句を言わずに生きること。たとえ、誰も誉めてくれなくても。
 
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 自分は何をしにこの世に生まれてきたんだろう、と少し前までよく考えた。
 けど、今はもうそんなことはほとんど考えない。そんなことはもうどうでもよくなった。
 あらかじめ人生がどう決められていようと、何者かの思惑がどうであろうと、私に興味があるのはこの先自分は何ができるかということだけだ。やりたいことを見失わず、やれることをやること。とても単純な話だ。難しいことは何もない。
 もう、奇跡も運命もいらない。
 
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 今日、メンズデーで『トラフィック』を観てきた。
 これはハリウッド映画ではない。アメリカ映画ではあるけどハリウッド映画ではなかった。
 観ている間中、なんとも言えない違和感があったのだけど、観終わってしばらくして違和感の原因が分かったのだった。
 そして、非常にソダーバーグらしい作品でもある。良くも悪くも。
 内容は、アメリカとメキシコを舞台に、麻薬を売る側、麻薬に溺れる人々、それを取り締まる側、それぞれを断片的に描いた、ドキュメンタリー・タッチの社会派ドラマ、といったところだ。
 力強くて、なかなかいい作品だろう。少し間延びしてるようにも思えるけど、エピソードは面白い。
 でも、この作品が好きか嫌いかと言えば、私は好きじゃない。何故なら、私が映画を観るのは幸せな気持ちになりたいからだ。この作品は私をひとかけらも幸せにしてくれなかった。だから、作品の内容よりも作品の在り方として好きじゃない。そういうことだ。
 こんなエピソードがある。
 サタジット・レイ監督が『大地のうた』というインドの悲惨な現状をリアルに描いた作品を撮り、それが世界中で絶賛された時、インド国内では誰もその作品を喜ばなかった。
「なんでわざわざ高い金を払って現実の悲惨さをあらためて見せられなくちゃいけないんだ。我々は現実を忘れるために映画を観てるのに」
 私の映画に対する思いも彼等のものに近い(『ダンサー・イン・ザ・ダーク』と相性が悪かったのもこのへんの感覚だ)。
 私は立派な作品よりも楽しい作品が好きだ。悲惨な話より、人の優しさを思い出させてくれるものの方がいい。
 もちろん私の態度が誰にとっても正しい映画とのつき合い方だなどと主張するつもりはまったくない。人それぞれ自分なりの楽しみ方をすればいい。でも、やっぱり映画というのは楽しいものであって欲しいと思わずにはいられない。せめて映画だけでも……。
 
 それにしても、開始15分で眠りに落ちたのはもちろん新記録だ。あと、時計を見た回数も。
 次は韓国映画のJSAで決まり。5月の終わりか6月の始めに行こう。次行けばスタンプが6個になって1回分ただで観られるし。
 
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 ゴールデンウィーク明けの行動第一弾は無事終了。このまま良い流れを作りたい。
 明日はオークションの送り出しと、買い物を一気に片づけて、週末前の吉良ワイキキビーチ行きに備えよう。タイミング良く晴れてくれるといいけど。
 今週、吉良ワイキキビーチに、赤いアロハシャツを着て、ウクレレを持った色白の男がいたら、それは私かもしれない。
 
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 今日のための言葉
 
「哀れなメキシコよ。神からはこのように遠く、アメリカにはこのように近い」
 
 ポルフィリオ・ディアス


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