2004.6.29-

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 8月1日(日) 「結論は今ここに。
            今日より明日、その結論が少しでも良くなるように」

 結論は、ずっと遠い未来にあるんじゃなくて、きっと自分のすぐ前、顔や胸のたりにあるのだろう。
 進む先にゴールテープが用意されているのではなく、私たちは胸にゴールのテープを貼り付けたまま走っているのだ。
 辿り着いた先端が私たちの結論ということになる。

 結論は未来にはなく、今ここにしかない。
 生き続け、生き延びることは、結論を先延ばしにすることだ。
 死んだところが私たちの結論になり、それ以上先の結論を私たちが持つことはない。

 毎日遺書を書き換える必要はないけど、今日が人生最後の日になるかもしれないという覚悟で一日を始め、終わらせないといけないのではないか。
 毎日眠りにつく前の自分が、人生の結論だ。
 その結論が気に入らなければ、明日も生き延びて、それを修正しなければならない。
 結論が見つかったときが一番の死に時なのかもしれない。

 7月31日(土) 「みんなで仲良くそれぞれの生き方で生きていこう。
           だって、ひとつの考え方ではまとまらないのだから」

 この世界を誰に託せばいい?
 政治屋? 科学者? 金持ち? 天才? 宗教家?
 善良な人々? 普通の人たち? 一般大衆? 母親たち?
 いずれにしても、上手くいくことはないだろう。

 たとえば、北朝鮮の農民と、ジャングルの原住民と、ニューヨークのエリートビジネスマンと、沖縄の漁師と、パリのファッションデザイナーと、カナダの自然保護団体員と、中東の石油王たちの価値観や人生観を共鳴させることは事実上不可能だ。
 100年たとうが1,000年たとうが、無理なものは無理。
 どうやっても考えがまとまることはない。
 同じ環境に住む同じ民族同士でもそれぞれの考え方があって、譲れない部分や、互いに相容れないところがあるのに、別の場所で別の生き方をしてる人たちが一つの基準でまとまるはずがない。
 全員にとっての着地点はおそらく存在しないのだろう。

 結局、私たちはどこまでもバラバラな気持ちのまま先へ行くしかない。
 永遠に一つにまとまることはない。
 だから、私たちが探している絶対的な答えを見つけることもできない。
 何が本当の正義なのかも最後まで分からず終いだろう。

 ヒーローも独裁者も、この世界を完全に統一することはできない。
 どんなに立派な人間でも、世界一の人気者でもそれは無理だ。
 自分の命程度で世界中の人々を救うことなどできるはずもない。
 私たちは、それぞれが自分の着地点を見いだして、そこに降り立つことだけを考えて生きるより仕方がない。
 誰も一人で世界を背負えるものではない。
 それは悲しむべきことでも、嘆くべきことでもなくて、たぶん、互いに尊重し合うことが大切なのだ。
 責任も未来も、それぞれが分担して担えばいい。

 7月30日(金) 「いじけたがり屋がいじけずにいるのは、
            自分の大好物を食べないのと同じくらい難しい」

 誰もが多かれ少なかれ、いじけたくなるときがあると思うし、いじけるに値する理由もきっとあるに違いない。
 いじけるなと人に言われ、これがいじけずにいられるかと思うこともある。
 そして、ときにこらえきれずにいじけてしまう。
 ただ、それでも、いじけてみせていいことは何一つないのだ。
 事態は好転しない。
 だから、いじけちゃいけない。
 と、私自身、自分によくよく言って聞かせないと。
 いじけたがり屋の私だけど、この先一生いじけないと誓おう。
 ……。
 それはちょっと無理か。
 なるべくいじけないように頑張ろう。

 7月29日(木) 「人類は地球の歴史の中の一発屋。
            それだけでどこまで食いつなげる?」

 地球上で最も種類の多い生物は昆虫だ。
 生き物全体の種約100万種類の内、80万種が昆虫ということだから、昆虫が8割を占めていることになる。
 地球は昆虫のものだ、そう言い切ってしまってもいいかもしれない。
 そう考えれば私たち人間は気楽なものだ。
 地球に対する責任なんてあってないようなものと言ってもいい。
 恐竜が絶滅しても、人間が絶滅しても、昆虫は生き残るだろう。
 地球最後の日まで。

 人間は自分たちの存在を過大評価しすぎている。
 賢いといっても、クラスの優等生気取りみたいなもので、客観的に見ればずいぶん嫌みなやつだし、仕切り屋みたいでもある。
 もしかしたら、人類はその始まりから終わりまで、一切の責任はないのかもしれない。
 地球が昆虫のものなのか、植物のものなのか、自然のものなのか、遺伝子のものなのか、いずれにしても人類は地球上のひとつの要素に過ぎない。
 ひどい勘違いをしている。

 人類が地球の絶滅種になるまでにあと何年あるだろうか。
 数百年か、数万年か、数千万年か。
 さて、それまで私たちはどうやって過ごしていこう。
 壁に消えない絵の具で落書きでもするか、地上に思わせぶりな線でも引くか、山の上に街でも作るか。
 だが、いずれそれらもすべて地面の下に埋まってしまうことになる。もしくは海底に沈むか。

 地球上に生存するという点において、知性というのは絶対的なアドバンテージではない。
 生き残るという部分において、人類は非常にレベルが低い。
 昆虫や他の生物には遠く及ばない。
 人間ほど絶滅への要素をたくさん持っている生物は他にいないだろう。
 今の自然界のバランスであやうく生存できているだけで、ちょっとでもバランスが狂えばとたんにひ弱な存在に成り下がる。
 私たちは生物としてはかなり劣等な方だろう。
 たとえば1億年という短い期間に関しても地球に対して責任を持つことができない。
 人類は地球上の歴史における一発屋で終わる、かもしれない。

 もし人間に魂と呼ばれるものがないとするならば、人類は何の責任を負う必要もない軽い存在だ。
 もし人間に魂があったとするなら、それでもやっぱり地球は人類のためのものではないだろう。
 少なくともこの星は人間専用には作られていない。
 人間は地球の上でもっと視点を低くして、この世界における自分という存在を捉え直す必要がある。
 今より千倍くらいは謙虚にならないといけない。
 地球環境を守ろうなどという発想からして間違っている。
 自分たちをカブトムシと同列くらい考えてちょうどいいくらいなのに。

 7月28日(水) 「日常の中の非日常の分量は?
             塩と胡椒を少々くらい?」

 ささやかな非日常は、たまにしか食べないデザートのようなもの。
 その場限りのささいな贅沢で、味わい終わってしまえば、もう味もよく思い出せない。
 食べ続けると小さな感動もなくなってしまうところも似ている。

 非日常も加減すべきものなのか?
 ペースを空けて、日常へとすり替わってしまわないように微妙な調整をしないといけないのだろうか。
 それとも、一つの味に飽きればまた別のものを探せばいいのだから、手加減などせず、その時好きなデザートを食べ、向かいたい非日常へと向かえばいいのか?

 非日常にしても、恋愛にしても、趣味にしても、いつも加減を迷う。
 そして、たいていの場合、上手くやろうとしすぎて失敗する。
 速すぎるか遅すぎるかして、ちょうどいいペースを掴めない。

 これは才能のようなものでどうしようもないのか、それともだんだん上手くできるようになるのか。
 日常に非日常をどの程度挟み込むことが正しいのかどうかなんてことを考えること自体、あまり意味がないのかもしれないけれど。

 別に毎日1時間、何か特別なことをしてもいい。
 それくらいの時間的な余裕はある。
 ただ、問題は気持ちが必ずしもそれを望んでいないことだ。
 深夜の街中を1時間ドライブしてもいいし、海から昇る朝陽を見に行ってもい
い。
 学生時代の友達に電話するとか、新しい習い事をするとか、ジョギングを始めるとか、特別な勉強をするとか、他にもいろんなことが考えられる。
 それらはやろうと思えば何でもできることだ。特別難しいことではない。
 では何故私はやらないのか?
 単純に言ってしまえばやりたくないから。必然性がないからと言ってもいい。
 毎日の暮らしの中でそれほど多くの非日常を欲しているわけではない。
 毎日食べたことのないデザートを開拓して食べてみようとは思わないように。

 日常と非日常の関係性については、まだまだこの先もずっと考えていくことに
なる。
 どの程度入れ込むかという前に、どの程度求めるかということを自分の中で掴まないといけないだろう。
 今よりもっと求めるべきなんだろうか?
 そこに何かがあるというのなら。

 7月27日(火) 「子供の遊びもどこか象徴的だったり、
       大人になってから秘密を解くための鍵が隠されていたりする」

 昔、トランプ遊びで、「戦争」とか何とかいうのがあって、よくやった。
 名前は違うかもしれないが、こういう遊び方だったと思う。
 二人でトランプを半分ずつ配り、いっせいの〜せ、で1枚ずつ出し、数字の大きい方がトランプを取り、最終的に持ち札が多い方が勝ちというゲームだ。
 この遊びが面白いのは、一番強いエース(A)は3に負けて、キング(K)は4に負ける、というところだった。
 あの遊びは子供頃以来まったくやってないのだけど、その後よく思い出したし、今でもよく覚えているのは、強いはずのものも特定の弱いものに負けてしまうことがある、というルールが象徴的だったからだ。
 会社で威張ってる上司が奥さんに頭が上がらなかったり、怖いおじさんが孫にはからっきし甘かったり、強者が誰に対してもいつも強いとは限らないというのがこの世のいいところだ。

 力関係は常に一定ではなく、正義がいつも勝つわけでもなく、歴史がいつも同じように繰り返すわけではない。
 そういう部分での幅とかゆらぎみたいなものが上手くこの世界のバランスを取っている。
 それがすごく面白くもあり、不思議でもあり、感心もするのだけど、同時にある種の作為めいたものも感じて胡散臭くもある。
 いや、それでも、そういうバランス感覚は救いと見るべきなのだろう。
 強い立場の人間がいつも思い通りに勝ってしまうというのであれば、私たちは奇跡の逆転を夢見ることもできないのだから。

 エース相手に3で勝つことの爽快感、そんなものもまた味わってみたいものだ。

 7月26日(月) 「誰もうらやましくなんてない、
           そう思い込まないとやってられない時もあったけど」

 私の今の迷いは、どんな人もうらやましいと思えなくなったところから始まったのかもしれない。
 それで、自分が進むべき方向性を決定的に見失ってしまったのだ。
 目標とする人が視界から消えてしまったから。
 だとしたら、もう一度うらやましいと思える人を見つける必要がある。
 そういう人もたくさんいるはずなのだ。
 誰もうやらましくないと思うほど自分に満足してるわけはないのだし。

 いつからか、必要以上に強がる変な癖がついてしまったようだ。
 悪い癖は直さないといけない。
 うらやましいと思うことはある意味では負けているということではあるのだけど、負けを認める謙虚さも時には必要だ。
 悔しいと思えなければ努力できないということもある。

 何しろ目標がいる。
 今の私は、地場が狂った方位磁石の針みたいにフラフラして頼りない。
 SならS、NならNを指し示す指針がいる。
 進む方向さえ分かっていて間違えなければ、迷子になることもない。

 それにしても、私がこの世界で一番うらやましいと思える人って誰だ?
 しばらく考えてみたが、まったく思い浮かばない。
 これはけっこう重症だ。
 誰かみたいになりたいと思えなくなってからずいぶん多くの月日が流れた。
 すべての憧れは、風雪の中でボロボロに崩れてしまった。
 それが元々誰であったのか判別できないほどに。
 うらやましいという感情さえ、どこかに置き忘れてきてしまったのかもしれない。

 7月25日(日) 「演技を忘れた役者は、
            舞台の上で何をすればいい?」

 恋とか、思い出とか、仲間とか、そんな優しくて暖かいものを大切にすることを、ことさら強く肯定してみたり、時に否定してみたりするけど、実際のところどうすればいいのか全然分かってない。
 一方では戦争やテロや残酷な行為があり、偉大な人生や人類に貢献する立派な行いがなされている。
 私とは関係ないところで。
 自分はどちらの側に属すればいいんだろう?

 一体、私たちにとって本当に大事なことって何なのだろうか?
 ささやかな暮らしに満足することは是なのか否なのか?
 満足してる部分もあり、納得してるところもある。
 幸福だと感じてるけど、不幸な面も確かにある。
 テレビの中でタレントが必死に頑張っていて、それを観て感動してる人たちがいて、馬鹿みたいと白けてる人たちがいる。
 その外側で冷ややかに眺めている人もいる。

 私はどこに立って、どちらの方向を向いて、何を感じて、何を思えばいいのだろう。
 舞台の上でどんな演技をすればいいのか分からなくなってる役者みたいだ。
 言いかけたセリフが出てこず、挙げた手の持って行き場が分からない。
 別にそんなことどうでもいいや、という結論で逃げてしまっていいものかどうか。

 家族の幸せ、楽しい趣味の世界、将来の夢。
 美しい世界、温かい人間、人と動物の優しい関係。
 私たちは、許されるならそんな光の当たる場所だけで生きていていいのか?
 あえて暗い場所に踏み込む必要はない?

 明るい世界に安住できない私の後ろめたさみたいなものはどこから来てるのだろう。
 それが私の罪と罰なのだろうか。
 幸せに満足できない人間は何を求めてどこへ行けばいいのか。

 7月24日(土) 「声はまだ耳に残る。
            なつかしいいくつかの声が」

 人の記憶の中で、一番深く長い間刻まれるのは、もしかしたら話し声の記憶かもしれない。
 それは人それぞれなのだろうか?
 でも私の場合は間違いなくそうだ。
 たくさんのことを忘れすぎるくらい忘れてしまった私だけど、子供の頃好きだった女の子や友達のしゃべり声だけは、今でも頭の中で再現することができる。
 もう顔もはっきり思い出せないのに。

 好きという感情と声には深いつながりがあるのかもしれない。
 考えてみると、自分にとって心地いい声や話し方をする人を好きになることが多かった気がする。
 そしてその逆も思い当たる。
 そんなことを考えていたら、また彼女たちや彼等の声を聞きたくなってきた。
 まだ今でもあの頃みたいに話してるのかな。

 7月23日(金) 「生まれては消える世界の中心。
            それは天からのスポットライトが当たる場所」

 世界の中心は一ヶ所ではない。
 けど、すべての場所が世界の中心なわけではない。
 決してない。

 世界の中心は、世界のあちこちで生まれては消え、消えてはまた生まれる、そういうものだ。
 あるときはあなたや私が世界の中心に立っている。
 誰もがドラマの主役になることがあり、そのときその場所には天からのスポットライトが当たっている。
 でも、そのときはほんの短い時でしかない。

 今の私は、明らかに世界の中心にはいない。
 誰にとっても、自分自身にとっても。
 世界の中心を失ってから長い年月が流れている。
 ふたたび、自分の足下に世界の中心を出現させることができるのかどうか。

 7月22日(木) 「ヒーロー、ヒロインは特別な存在じゃない。
            不幸の象徴だ」

 世界の英雄や時代のヒロインが絶対的に正しいとされる世の中って、本当にまっとうなのか?

 歴史上、英雄やヒロインが登場したのは、たいてい不幸な時代だ。
 その不幸を駆逐するためにその時代の世界が英雄やヒロインを必要として、彼等は切り札として登場した。
 もしくは、登場させられた。
 逆に言えば、何の問題もない時代や世界にヒーローやヒロインは必要ないのだ。
 悪人がいなければ正義の味方もいらないし、人々が自分の人生や暮らしに満足していてればヒロインに夢を託す必要もないだろう。
 確かに、ヒーローやヒロインは世界を救い、人々に希望を与えた。
 けど、その存在が本当に正しかったのかといえば、私はすごく疑問に思う。
 彼等はある意味では不幸の象徴だし、ヒーロー礼賛みたいな発想には胡散臭ささえ感じる。
 いや、ヒーロー、ヒロインvs.悪、不幸という世界の構図に文句を言いたいわけではない。この世界において、ヒーロー、ヒロインの存在は必要不可欠だとも思う。
 ただ、正義の味方が常に正しくて、悪がいつも間違っていて、庶民はヒーローをたたえるのが当然、というのが嫌なのだ。
 単なる役どころの違いだけじゃないかと思う。
 なので私は、ヒーローにも、大企業の社長にも、由緒正しい家柄の人にも、国会議員や大臣にも、有名プロ選手にも、世界の偉人に対しても、その辺の道を歩いている人と同じだけの敬意しか払ってない。

 7月21日(水) 「理屈を極めれば理屈は必要なくなる。
             卒業するまでは勉強を続けないと」

 理屈を超えるためには理屈をきちんと通過して、頂を極めなければならない。
 屁理屈も含めて。
 理屈を迂回して行った人間に理屈を非難する資格はない。
 山登りをしない人間が登山家を批判する資格がないように。
 正しいのは、世界中の理屈を極めた上で、理屈を語らないことだ。

 複雑を超えてない単純に価値がないように、理屈を超えてない感覚に根拠はない。
 我流とか、センスとか、才能とかも、結局のところ基礎を修めていなければ本物にはなり得ないのだ。
 何事も近道はない。
 悔しくても悲しくも納得いかなくても、やっぱりそれは認めざるを得ない。

 理屈や理論を超えたところに何があるかは行ってみなければ分からない。
 でも何かがある。
 超えなければ見えない何かが。

 理屈を極めることが目的ではない。
 理屈を卒業することが目的で、大事なのはその先だ。
 学校を卒業することが目的なのではなく、その先で何をするかが大事なように。
 あるいは、理屈の届く範囲と届かない範囲を明確化すること、と言ってもいいかもしれない。
 この世界を理屈という明かりが照らすことができるのは、それほど広い範囲ではないということも知っておく必要がある。

 7月20日(火) 「答えがなくても求めること、
            褒美をもらえなければ頑張らないというのではなく」

 正しく在ろうとする姿勢をなくさないことが大切なのだと思う。
 それを途中で放棄したりせず。

 正しさというのは、どこまでいっても相対的なものでしかなく、絶対的な正しさというのはたぶん存在しない。
 それでも尚、正しさを求める心こそが正しいのだと思う。
 投げやりな気持ちに負けず、あきらめず、正しさを馬鹿にしたりせず。

 正しい人生、正しい日常生活、正しい人間関係。
 果てはなくても求め続けることはできる。
 完成させることよりも作り続けることに意義を見いだした、ガウディのサグラダファミリアみたいに。

 日記に何を書けば正しいのか、どんな写真が正しいのか、そんなこともずっと考え続けていかなければならないことだろう。
 答えはなくとも。

 7月19日(月) 「転げる変化、
            変化だけが救いになる」

 絶対的、決定的に変わりゆく自分や現実を、いちいち受け入れていく必要はない。
 変化を押しとどめることなく、変化より早く変わっていけばいい。
 変化に気づくのは変化した後で、もうそのときは元には戻れないのだから。
 変わらないようにと足を踏ん張ったりせず、流されつつ泳げばいい。
 いずれにせよ私たちは変化の流れに押し流されてしまうのだから。
 懐古趣味も、原点回帰もいらない。
 必要だとすれば、温故知新くらいのものか。
 戻ることではない、進むことが大切だ。

 現代のスピードでもまだ全然遅すぎる。
 変化が緩やか過ぎてもどかしい。
 この先はもっと大急ぎで変わらないといけないと思う。
 個人としても、人類としても、この世界も。
 学ぶにせよ、経験するにせよ、感じるにせよ、100年では短すぎる。
 これ以上はもうそんなに寿命も延びないだろうし、これまでの人類の歴史をふまえて考えると、のんびり学んだ小学校をそろそろ卒業する時期だろう。
 停滞する現代を生きる私たちが現状を脱するには変化しかない。
 それも大きくて急激な変化が。

 今を日本人の若者として生きてる人間たちがある意味気の毒に見えるのは、彼等は大きな変化の予感を感じてないからではないだろうか。
 彼等が生きたこの10年の間に大きな変化はほとんどなかった。
 たとえばネットや携帯の普及などもプラスとしての上積みでしかなく、何かが大きく壊れたとかなくなったとか入れ替わったとか、そういったことはなかった気がする。
 この先10年を考えてみても、激変のようなものを感じない。
 単純に言ってしまえば、闘うべき対象がない。
 明確な敵もいないのに、戦えとか燃えろとか張り切れとかいっても無理な話だ。
 この状況を変えるには、変わっていくことを加速させるしかない。
 自分たちで変えられないのなら、せめて変化を押しとどめることはやめよう。

 人は変わらない日常の中では熱くなれない。
 平和の中で命を燃やすことは難しい。
 変化は摩擦を生み、摩擦は熱を発生させる。
 今の日本は、鎖国中の江戸時代中期から後期にかけての時代に似ているかもしれない。
 一つの時代が成熟して、行き場を失っている。

 人の心は変わり、習慣も、関係性も、感情も、記憶もとどまることはない。
 すべて先へ進めてしまえばいい。
 未練を捨てて、心置きなく。
 最大の敵は、変わりたくないと思う心なのだと自分に言い聞かせよう。

 7月18日(日) 「光を失った目に映る風景は?
            野性の叫びは遠い祖国に」

 今日の私は言葉を持たない。
 動物園の檻の中で鳴くことさえやめてしまった彼等みたいに。

 7月17日(土) 「幸せの方へ。
            馬鹿にされた幸せが微笑むはずもない」

 幸せになることを馬鹿にしちゃいけない、と最近思う。
 幸せを馬鹿にできるのは幸せな人だけで、幸せでもない人間が幸せを馬鹿にするのはやっぱり違うだろう。
 結構できない人間が結婚を馬鹿にするのと同じで、子供っぽいひがみでしかない。

 幸福の追求というのは、人生の様々な段階で、否定したい気分になったり肯定したくなったりするものだ。
 けど、最終的な結論として、幸せを求めることは人として必要なのだと認めざるを得ない気がする。
 もちろん幸せが人生のすべてじゃない。
 人には自分の意志で不幸になる権利もあるし、不幸もまた人生の楽しみの一つには違いない。
 ただ、幸福に背を向けたり、幸福になるための努力を放棄するのはやっぱり間違っていると思うのだ。
 自分の中でわき起こる反論を封じ込めて、あえて今はそう言おう。

 この頃、心の中で呪文のようにつぶやく言葉は、幸福の方へ、幸福の方へ……。
 幸せとは何かをもう一度よく考え、探し回り、見つけなければいけない。
 自分にとっての幸せと、他人にとっての幸せと。
 幸せの追求は、人類のテーマの半分と言ってもいい。
 結果としての幸不幸はあるにしても、姿勢や態度の問題として、この先で私はこれまで以上に幸福というものを求めていくことにしよう。
 照れたりせず、当たり前のこととして。

 7月16日(金) 「絶望の大波、小波。
             けど、本当の絶望はべた凪なんだ」

 私たちは大きな失望感の前で深くふかく絶望する。
 とても長い間。
 大いなる喪失は大いなる幸せの証だということに気づくには、たぶん、人は多くの時間を必要とするのだろう。
 けど、長い時間の果てに人は気づく。
 失ったものが多ければ多いほどたくさんの大切なものを一度は手にしたのだということに。
 何かを失って絶望できる人は幸せな人だ。
 失うものが何もなくて深い悲しみを知らない人よりも。

 眠れない夜は、目を閉じて、物心ついてから今日までになくした大切なものを一つずつ思い出してみるといい。
 幸せな記憶を再確認するためにも。

 失うことを恐れず手を伸ばし、触れて、掴もう。
 寄せては返す絶望の波に何度溺れそうになっても……。

 7月15日(木) 「欲望は親分じゃなく子分だ。
            手なずけて上手く利用すべし」

 人生を悟りたいとか、人間を見切りたいという欲望にもキリはないらしい。
 金持ちになればなるほどもっと金が欲しくなるように、この世界のことが分かるようになればなるほどもっと分かりたくなる。
 その欲望に果てはなく、渇きが癒されることはない。
 世界中の知識や知恵を全部あわせても足りないと感じてしまう。
 そうやって幻を追いかけるようになり、道を見失う。
 金を儲けるのはそれを使って自分や人を幸せにするためのはずなのに、ため込むことばかりを考えるようになってしまうみたいに。
 世界を知るのはより良く生きるためであるはずが、いつの間にか知ることそのものが目的になってしまう。
 どこかで目を覚まして、本来進むべき道に戻らないと。
 私たちがここにこうして存在してるのは、生きるためだということを再確認しなければ。
 幸せになるために金を稼ぎ、正しいと信じる生き方をするために物事を知る、それが基本だ。
 私たちは欲望の奴隷になるのではなく、欲望の主人になるのだ。
 悪いのは欲望じゃない。

 7月14日(水) 「昨日の自分も、明日の自分も、
            自分であって自分じゃない」

 人は未来の自分にまで責任を持たなくてもいい。
 今の自分は今のことをして、未来は未来の自分に任せればいい。
 誰もが心変わりするし、昔とは正反対のことを言ったりしたりする。
 けどそれは裏切りとかじゃないと思うのだ。
 矛盾でもない。
 人はそういうもので、それだけのこと。
 移り変わっていくことを厭わないようにしたい。

 選挙へ行かないことを公言してたのに次の選挙へ行ってもいいし、タバコなんて吸わないと言ってて吸ってもいい。
 永遠の愛を誓ってもいいけど、それを守る必要はない。
 人はリアルタイムしか生きられないのだから、今の自分を信じるしかないのだ。
 今この時の価値観や信念や感覚を。
 将来に対する責任感からもっと自分を解放して、今に殉じることを強く思い定めた方がいい。
 振り返ってみて間違いや失敗だったと思うことはたくさんあるけど、そのとき正しいと信じてやったことならそれは間違いではない。
 過去の信念や信条に縛られすぎないようにすることも大切だ。

 実際のところ、昨日の自分と今日の自分が同一人物だという保証はどこにもない。
 眠っているうちに入れ替わってるかもしれない。
 昨日の自分と今日の自分が同じ人間だとする根拠は記憶の連続でしかなく、眠りという断絶を持つ私たちに絶対的確信はないはずだ。
 もはや今日の自分は昨日の自分をどうすることもできないのだから、昨日の自分と今日の自分は別ものと同じと言ってもいい。

 毎日は同じようでいてけっこう違っている。
 その日によって体調の良し悪しも違うし、メインにやったことも別のことだったりする。
 観るテレビ番組も違うし、違うことを考え、別のことを感じてもいる。
 だから、いろんな部分で侮ってはいけないと思うのだ。
 今日も、昨日も、明日も。
 そして何より自分自身を。

 今の自分というものを、もう一度強く信じることから始めよう。
 昨日までの自分よりも、ここにはいない明日の自分よりも、今日の自分として生きることが大切だ。
 私を含めた多くの人が、今日の自分が持っている可能性を見くびっているようにも思える。
 昨日までできなかったことが今日もできないと決まったわけじゃないし、明日できるかもしれないことは明日の自分に任せず今日やってしまうことだってできるはず。
 人生は積み重ねだけど、生は一瞬の連続だ。
 今日の自分ができる最大限のことをやろう。

 7月13日(火) 「25度の日なたみたいな人。
            快適すぎず、和みすぎず、少し汗ばむくらいの感じ」

 そばにいると、25度の日なたにいるような感じがする人が、たまにいる。
 私はそんな人が好きなんだということに最近気がついた。
 できれば自分もそんな人になりたいという叶わぬ夢を見たりもする。
 穏やかすぎる春のようでもなく、真夏のように暑くもなく、冬のように凍えないような。

 7月12日(月) 「探す場所探し。
             頭の中じゃないどこか」

 いくつかの思考がボツになって、最後は何も残らなかった。
 頭の中は、燃えるゴミの日にゴミを出した朝のゴミ箱みたいに空っぽだ。
 その中でひとつ結論めいたものを見つけたとするならば、頭の中をいくら引っかき回しても探してる解答は見つからないということだ。
 答えを見失ったのなら探せば見つかるかもしれないけど、最初からなかったものを見つけるのは考えてみたら絶対無理だった。
 雨上がりの水たまりで魚釣りをしても魚が釣れることはないように。
 探す場所をまったく間違えていた。
 ただ、だからといってどこを探せばいいのかは、今のところさっぱり分からない。
 自分の頭の中ではないし、誰かの頭の中でもない。
 本の中でもあり得ないし、過去のどこかでもない。
 まずはどこを探すかを探すことから始めないと。
 なんだか雲を掴むような話だな。
 しょうがない、とりあえず夢の中でも探してみるか。
 ということで、今日はもう寝ることにする。
 匂いが夢の内容にダイレクトに影響するらしいということをテレビで観た。今日早速実験してみよう。
 けど、人生の答えってどんな匂いがするんだ!?

 7月11日(日) 「迷わないで行くためにもっと速く。
            ちんたら走ってると意味に捕まってしまう」

 自分のしたいことをしようという思いと、意味のあることをしなくちゃいけないという焦りの間で、いつも迷ってしまう。
 美味しいものを食べるか、体にいいものを食べるかを迷うみたいに。
 やりたいことと、やらなければならないことが、どうにも上手く折り合わない。
 右足と左足がそれぞれ違う方向に踏みだろうとするように。
 どちらの言うことも聞こうとしすぎて、結局私はどっちつかずのままだ。
 どちらかに徹底できず、中途半端になってしまう。
 だから足取りがおぼつかない。

 どちらかに決めることなんてできやしない。
 それは当たり前のことだ。
 どちらか一方だけをして生きていくことはできないから。
 やるべきことはやらないと前へ進まないし、やりたいことだってやらないと自分が納得しない。
 両方できればそれに越したことはないけど、できないこともたくさんある。
 一日は24時間で、体は一つしかない。
 ただ、迷いながら何かをするというのはやっぱりよくないと思う。
 居直らないように、かつ迷わない方法を見つける必要がある。
 最近の私は、自分の基本姿勢さえ見失いがちだ。

 もっといろんなことができるはずなのに、実際にはできないでいるこの現実をどう見ればいいのだろう。
 毎日を特別なものにするための努力が足りない。
 習慣というレールの上をつい安全に走ってしまう。
 路面電車みたいに。
 もっと積極的に突き崩していく部分を作らないと、毎日がただ流れていってしまう。
 そのことも分かっている。分かっているけど、腰が上がらず、足が動かない。

 意味から解放されて自由になること、それが今後の課題になる。
 私は意味に縛られすぎている。
 体中に巻き付いた意味という鎖を解き放てば、もっと軽やかに走り出せるんじゃないだろうか。
 もしくは、意味よりも速く走ればいいのかもしれない。
 意味が追いついてこられないくらい速く。
 そう、思えば毎日のスピードが足りないことが一番の原因かもしれない。
 だからもっと速く。

 7月10日(土) 「優しい部屋が自分を弱くする。
            過保護な親が子供を駄目にするみたいに」

 最初は何もなかった部屋に、気づけば物が溢れかえっている。
 必要なものからそうでないものまで。
 いつも使っているもの、何年もずっと忘れ去られたもの、捨てようとして捨てられずにいるもの。
 それはまるで人の脳の中みたいだ。

 けれど、それよりももっと溢れているのは、この部屋の始まりから今に至るまでの私の想い、なのかもしれない。
 私はこの部屋でどれだけ多くの想いを想っただろう。
 もし、想いが目に見えたとしたら、その密度の濃さに息苦しさを感じて、一分だって心安らかに過ごせない気がする。
 部屋が私の想いすべてを記憶しているとしたら、私の部屋は泣いているだろうか?
 それとも暖かくて優しい気持ちになっているだろうか。

 私は自分の部屋にいると、あまりにも守られすぎているように感じることがある。
 心安らぐけど、守られすぎるのは良くない気がする。
 部屋の中の強い想いが部屋の外では弱くなるし、私自身、部屋の中にいるときほど外では強くいられない。
 無数の想いが、層になって私を守っているのだろうか。

 部屋の中にいる私が本当の私なのか、それとも部屋の外の私が本物なのか。
 部屋の鏡に映る自分の顔と、部屋の外の鏡に映る自分の顔が、ひどく違って見えて戸惑うことがある。
 部屋の鏡もまた、私に甘すぎるのかもしれない。
 残酷な外界に対して、部屋はいつも優しい。

 部屋にはそれぞれ、人の想いが蓄積され、記憶を持っている。
 他人を受け入れないこともあるし、人を守ることもある。
 それは、私たちが考えているよりもずっと強い力なのかもしれない。

 7月9日(金) 「地球は誰のものか?
           そんなの決まってる。地球は遺伝子のものだ」

 今はまだ、何も判断しなくていい。
 ただ、世界を見つけるためにできるだけのことをしよう。
 よく見て、多くを感じて、想像し、捕まえる。
 意味も考えなくていい。
 目標もいらない。
 判断は世界を見る目を狂わせるから。
 すべてを飲み込もう。
 フィルターを通さずに。

 よく耳をすませて人の声を聞こう。
 彼等が何を叫んでいるのか。
 声にならない声を。
 世界が発する音に耳を傾けるのだ。
 肌で感じ、舌で味わい、地球の匂いを嗅いでみる。
 五感でこの世界を本当に感じることができたなら、その先で私たちは自分の存在を知ることになるだろう。
 人間は脳がすべてではない。

 たとえば、砂浜に素足で立ち、目を閉じて五感を開放してみる。
 そのときの感覚こそが、人と地球と宇宙と時間の関係性なのだ。
 それが始まりであり、終わりであり、すべてであると言ってもいい。
 遺伝子が長い旅の果てに、私たちをここに導き、また未来へ向かって旅立とうとしている。
 人は遺伝子に使い捨てられるまで、ここにこうして存在することを許される。
 ただそれだけの存在だ。
 世界を判断することは、おそらく、人のやるべきことじゃない。

 7月8日(木) 「幸福や不幸の奴隷にならず、
           やつらを手なずけるといい」

 人は他人の不幸がなければ自分の不幸に負けてしまう。
 他人の不幸を知ることによってかろうじて正気を保っていられるようなところがある。
 だから、世の中にあふれる不幸というのは、人が狂気に陥らないための抑止力となっているとも言える。
 人生を戦うための仮想敵でもある。

 他人の不幸を喜ぶのはあまりいいことではないけど、自分が不幸を体現してみせることで他人の慰めになるのなら、そのお返しとして他人の不幸を利用させてもらうのは悪いことではない。
 お互い、持ちつ持たれつだ。
 人は自分が不幸な目に遭うと、自分よりも不幸な人を見つけて、あれに比べれば自分はずいぶんましだというような慰め方をする。
 これは正しい心の在り方だと私は思う。
 人は一人では生きられないというのは、こういう隠れた意味もある。
 物理的な部分だけでなく、精神的な部分や気持ちの部分でも、人は一人では生きていくことができない。正気を保てないから。
 人と人との関係性というのはなかなか興味深くて底知れないところがある。

 世界も人生も、プラスの要素だけでは決して成立しない。
 闇の部分だとか必要悪だとか、そんな言葉を持ち出す必要もない。
 プラス要素とマイナス要素は互いを必要としていて、どちらも単独ではバランスを取れない。
 だから、幸福も不幸も重みに違いはない。
 どちらも同じだけの意義がある。

 不幸と幸福は、右足と左足に履いたローラースケートのようなものだ。
 片足だけではバランスが取りづらく、滑って転びやすい。
 けど、両足で上手に乗りこなせば、普通に走るよりももっと速く前へ進める。

 不幸は敵と決まったわけじゃない。
 上手くつき合えば味方にもなる。
 何もない退屈な日常から連れ出してくれるのは、幸福だけじゃなく不幸でもあるのだ。

 7月7日(水) 「七夕の日に大人は思う。
            子供に伝えられることの少なさを」

 七夕の日、大人は子供に何を教えればいいんだろう?
 語り尽くされたおとぎ話が、子供の成長にどれほど役立つというのか?
 教訓めいた話ではなく、通り一遍の物語でもなく、何か心に残ることを話して聞かせることができるだろうか?

 私たちが悲しいのは、誰も子供に本当のことを教えられないことだ。
 宇宙のことも、人間のことも、何も確実ではなく、正しい生き方さえ示してやることはできない。
 子供は大人に教わり、大人は子供から教えられ、互いに成長する。
 それはいい、間違いではない。
 ただ、あまりにも確かなことがなさすぎる。
 大人が子供に対して確信を持って言えることってどれくらいあるだろう?
 子供はすぐに「なんで?」と訊ねる。
 誤魔化しではなく、大人が正確に答えられることはとても少ない。
 そういうもんだと決まってると言いくるめたり、適当な作り話をしてその場をやり過ごす。
 そういうことが何度か続くと、子供はあきらめ、子供の中にたくさんあった「なんで?」も消えていってしまう。
 そうやって、「なんで?」を持たない大人になる。

 子供の頃、織り姫と彦星の話を聞いた私は思ったものだ。
「二人は会って何をしたの?」と。
 一年に一度会うのはかまわないけど、そこで何かが生まれるわけでもなく、何か面白いことが起きるでもないというなら、あんまり意味ないな、とも。
 その疑問を大人にぶつけることはなかったけど、もし訊ねていたとしてもきっと私が望むような気の利いた話は聞かせてくれなかっただろう。
 大人になった今の私は、子供の頃の私に何と説明してやればいいのだろう。
 遠距離恋愛は無理があるからやめておけとでも言えばいいのか?
 あれが美しい物語だと思えないのは、昔も今も変わらない。

 別に七夕にケチをつけたいわけではないし、願い事を短冊に書くという習慣も悪くないと思う。
 ただ、語るべき話も持たず、同じことを何年も何十年も繰り返し続けるだけなのがなんとももどかしい。
 人が30年も50年も80年も生きて、次の世代の子供たちに与えられる答えがあまりにも少ないことに虚しさを感じる。
 結局、確かなことを伝えられないものだから、子供たちは私たちや私たちの親がしたのと同じように悩み、迷い、ゆっくり成長していくことになる。
 これはものすごく効率の悪い成長の仕方だ。
 たとえば、獲得した知識や才能や技能をそのまま子供に受け継がせることができたなら、次の世代はそこから上積みしていくだけでいい。
 学習能力を持ったチップをロボットに載せ換えるようなシステムが、未来では確率されるだろうか?
 脳から情報を読み取り、それを別の人間の脳に移すようなことが。
 それはそれで何とも味気ないことではあるけど、人類は否応なしに効率的であることを求めるから、そんなことも実際遠い未来ではあり得るかもしれない。
 22世紀にはもしかしたら七夕という言葉さえなくなってる可能性もある。

 生きていく上で勉強や教養や知識はそれほど必要じゃないと言う人もいる。
 けど、人は人の親としてそういうものが必要になるんじゃないだろうかと私は思う。
 子供は親を超えるべきで、その親の基準が低すぎるのはやっぱり問題だろう。
 この先の時代は何でもネットで調べて解決できるようになるだろうけど、それは個別の知識や情報でしかない。
 総合的な教養は人間が勉強を重ねる中で身につけるしかない。
 人の親でなくても、大人なら更に学び続ける必要がある。

 それにしても、七夕の元になった話や、行事の由来や、願い事をするようになった理由を正しく子供に説明できる大人って、どれくらいいるんだろう?
 子供に短冊を書かせる前に、まず大人が七夕を勉強して、その物語を語って聞かせてやることの方が先かもしれない。
 七夕ってのはそもそも中国の古い伝説から来ていて、恋をして仕事を放り出してしまった牽牛と織姫に怒った神様が二人を引き離して、年に一度だけしか会えないようにしたんだ。日本で七夕が一般的に行われるようになったのは江戸時代で、織姫にちなんで手先が器用になりますようにって願い事をするようになったのが始まりなんだよ、とか何とか。

 7月6日(火) 「希望と失望の間に結論はない。
       答えは希望の彼方にあるかもしれないしないかもしれない」

 たとえば失望は鏡の中にある。
 たとえば希望は振り返った先の笑顔にある。
 失望との虚しい戦いに疲れ、希望が癒してくれるという繰り返しの中で、私たが本当にすべきことは何なのか?
 何がどうなれば納得できるのだろう?
 身に降りかかった不幸を嘆き、突然訪れた幸福に浮かれ、幸運を喜び、不運を嘆く。
 意味はあると言い、意味などないと言う。
 運命、宿命、偶然、必然。
 楽しければそれでいいじゃないかと思ったり、幸せなだけでは足りないと気取ってみせる。
 神、宇宙、人類、人生、生活。
 すべてはあまりにもとりとめがない。
 私たちは何も分からないままに毎日を過ごす。
 ただ先へ進むことだけを考えて。
 終着駅はあると信じている人と、車窓からの眺めを楽しむだけの人と、たまたま居合わせてしまったと感じてる人と、目的地も理由もバラバラの人たちが乗り合わせたこの列車は、休むことなく進む。
 想いは決して一つじゃない。
 いつかこの列車は終点に着くのか、それとも永遠に走り続けるのか。
 辿り着いたとしてもそこは誰もが望む場所ではないだろう。
 だから永久に走り続けるしかないのか?
 私たちは何らかの答えを求めている。
 けど、答えが出てしまうということは終わりを意味している。
 終わらせないためには分からないままでいるしかない。
 それを皮肉と呼ぶべきかどうかのか。
 いずれにしても、私たちは日々個人的でささやかな戦いを死ぬまで戦い続けることになる。
 結論は何もない。

 7月5日(月) 「飲み込んだ言葉でおなかが一杯でもないけれど
           ちょっと張り気味か」

 言いかけて飲み込んだ、たくさんの言葉が、私の中で行き場を失い、いくつかはいまだに私の中でさまよっている。
 自分はまだここにいるぞ、早く出してくれともがいている。

 言うべきか言わざるべきか迷うことがある。
 迷って言ってしまうことがあり、迷ってやめてしまうことがある。
 どちらが良かったのかは分からない。
 言ってしまった場合も、言わずにおいた場合も、正解はない。
 ただ、一つの言葉が人生を大きく変えることが確かにあることを知ったから、私はこの先も迷い続けることになるのだろう。
 言おうか、やめようか。

 一つの言葉が幸せを呼び込むことがあり、一つの言葉が大切な関係を壊してしまうこともある。
 あのとき、あの言葉を言ってたら今頃どうなっただろう、と時々考える。
 人生は今より良くなっていただろうか、悪くなっていただろうか、それとも何も変わらなかっただろうか。
 口に出そうとした言葉を引き戻した力は、危険察知能力だったのか、単に勇気がなかっただけなのか。
 言ってしまえとけしかけるささやきは、私の味方か敵か。

 言えなかった言葉は愛の告白だけじゃない。相手を打ち負かすための言葉や、誰かを否定する言葉や、人を喜ばすための言葉だったりもする。
 最後の一押しの言葉、売られた喧嘩を買うための言葉、感謝すべき相手への感謝の言葉、非難されて言い返すための言葉。
 私の中で生まれ、ついには日の目を見ることなく終わった、たくさんの言葉たち。
 そんな心の墓地に葬られた言葉たちが、ときどき出てきて私の頭の中をすっと横切る。
 私は見て見ないふりをする。

 7月4日(日) 「みんな正しいということにしてしまった方がいい。
           みんなが間違ってるとするよりも」

 誰も彼もが正しいと思えなくなったら、それは誰もがみな正しいと思うしかないのかもしれない。
 自分が正しくて人が間違ってるとか、人が正しくて自分だけ間違ってるとか、そういう区別がつかなくなっている最近の私だから。

 みんな正しくないじゃないかなどと嘆くことはないのだろう。
 自分は間違ってるんだと責めることもない。
 結局のところ、人は誰も正しくないという底辺で全員がつながっている。
 海も山も地球上の地表はすべてつながってるように。
 正しさの差は個性でしかない。
 本質的な違いではない。
 年月とともに海が山になったり、その逆になったりするのもそれを象徴してい
る。

 私たちがすべきことは、正しさの背比べなんかじゃなく、自分をよく知り、他人を尊重することなんじゃないか。
 山には山の良さや役割があり、海には海の役目がある。
 野原にも、平野にも、荒野にも。
 一番高い山と、一番深い海と、一番広い砂漠と、どれが正しいとか間違ってるとかじゃない。
 どれも必要だし、どれも必要じゃないかもしれない。
 誰も必要だし、誰も必要じゃないかもしれない。
 表面的な正しさや間違いがすべてではないことを知る必要がある。

 私たちは、みんなが正しくないことを共通理解として、その上で互いに肯定し合えばいいんじゃないか。
 正しさという観念に振り回されるのはもうやめにしたい。

 7月3日(土) 「ハッピーなやつへの遠い道のり。
           サインはV作戦」

 理屈としての幸福論じゃなく、気分としての幸福感をこの先では見つけたいと思う。
 今はそんな気分だ。
 幸福の理論はもういい。だいたい分かったから。
 幸福論を超えたその先で、単純で純粋な幸福気分というものを見つけたい。
 それは理論づけるよりずっと難しいことなのだけど。

 ハッピーであること。
 それはどういうことか?
 たとえば、誰かがカメラを自分に向けたとき、ニカッと笑いながら両手でVサインを作れる、そんなようなことだ。
 作り笑顔でなく。
 そんな人に私はなりたい。
(そりゃおまえ、絶対ムリだって、という頭の中の声に負けないように)

 7月2日(金) 「冬ソナやセカチューを楽しめることが分かった私たちは、
           自分たちが思ってるほどダメになってないらしい」

 ドラマ「世界の中心で、愛をさけぶ」の第一回目の放送を観ながら思った。
 韓国ドラマ「冬のソナタ」に20代、30代の女の人が夢中になり、「世界の中心で、愛をさけぶ」のような物語を、たくさんの10代、20代の女の子たちが受け入れられる今の日本人たちって、案外捨てたもんじゃないな、と。

 これはある意味では非常に2000年代的な現象ではないだろうか。
 もし、1990年代にこれらの作品が日本で生まれたり日本に入ってきたりしていたら、たぶん今みたいに受け入れられなかった気がする。
 それは、現実と非現実、あるいは現実と憧れとの距離感の問題で、それが今ちょうど上手い具合にバランスが取れたのだと思う。
 90年代の私たちならあれを古いと感じたはずだ。
 2000年代の今は、古すぎて逆に新鮮に感じているのだろう。
 単なる着古しがビンテージになったみたいに。

 けど、これらのブームを私は素直に喜びたいと思ってる。冷ややかに眺めるのではなく、無関心を装うのでもなく、輪の中で共有したい。
 実際、「冬のソナタ」はかなりのめり込んで観てたし、「世界の中心で、愛をさけぶ」は心の一番弱いところに触れられて泣きそうにもなった。
(今日の回に関しては、思い切り「北の国から 初恋」のテイストだ)
 今の時代を若者として生きてる人たちも、みんながみんな好きこのんで冷めているわけじゃないだろうし、格好悪くて一所懸命になることへの密かな憧れもあるだろう。
 都会の街でたむろしてる高校生も、田舎の学校で退屈な授業を聞いてる高校生も、心のどこかで一生に一つの純愛を見つけたいと思ってるに違いない。口には出さなくても。もしくは、意識してなくても。
 現代の女子高生に象徴されるような風潮が、今の日本の世相のすべてを表してるわけではない。
 私もまた、マスコミの操作するイメージに乗せられすぎていたようだ。

 いずれにしても、「世界の中心で、愛をさけぶ」がこれほど大勢の人たちに受けたというのは、とても喜ばしいことだ。
 作家の片山恭一が、今の時代を代表するような若い書き手ではなく、冴えない気象予報士のような外見のおっさんだというのも、個人的にはちょっと嬉しかった。

 年月とともに時代は移り変わり、考え方も流行も生き方も変わる。
 変わらないものもある、とは言うまい。
 何もかも変わっていくのだと思う。
 ただ、形を変えて受け継がれていくものがあり、その時代に合った良いものはしっかり受け入れられるという現実もある。
 恋愛や恋愛にまつわる様々な形の作品は、まさにそういうものの一つだ。
 人が人として生きていく上で、おそらく、世界からラブストーリーがなくなることはないだろう。現実の世界でも、虚構の中でも。
 人はいつの時代も、恋に憧れ、愛の夢を見る。
 手が届きそうで届かないものに……。

 7月1日(木) 「見えたり見えなくなったりするもの。
           蜃気楼の元になった実体を見つけろ」

 見えたと思えたり見えなくなったと嘆いたり、見つけたり見失ったりする日々の中で、失望するな、絶望するなと、何度となく自分を励まさないといけない。
 いい加減飽きるほど。
 私は自分自身の応援団兼チアガールだ。
 ガールじゃないけど(アンガールズ……)。
 とにかく、分からないということを結論としないことだけは自分に言い聞かせておかないといけない。
 分からないというのは行き止まりじゃなく、再出発地点だろ? と。

 ノートの見開きページの左に分かることを、右に分からないことを書き出してみる。
 分かることの項目より分からないことの項目が多いほど、人として優秀なのかもしれないと思ったりもする。
 分からないことを分かったつもりになっているよりも、分からないことを分からないとして認識できる方が、より世界が見えているということだから。
 人間、分からないといえば全部分からないわけで、本当に分かってることなんて世界のほんの一部に過ぎない。
 それもほんのわずかな時間に限定されたものだ。
 一体、人は世界のどれくらいのことを分からないとして認識できているのだろ?

 生きることも分からない、人類の目的も分からない、正しい恋愛も分からない、何もかも分からない。
 ただ、分からないづくしの中でも、ある一瞬、完璧に分かったような気分になることがある。それはたぶん間違いではないし、気のせいでもない。
 人間には確かにはっきり分かったと思える瞬間がある。
 私たちはその瞬間と瞬間をつないで生きていくしかないのかもしれない。

 連続的に分かるということはたぶんあり得ない。
 だから、分からなくなったり、見えなくなったりしてもあまり沈まないことだ。
 またそのうち何かが見つかるだろう、生き延びていけば。

 分からないことは明日への糧だ。
 もし何もかも分かってしまったらもう生きる必要がなくなる。
 教科書を全部理解してしまったらもう学校へ行く必要がなくなるように。
 それじゃあ詰まらない。
 留年しない程度に課題はあった方がいい。
 分からないことを多く自覚できているほど謙虚になれるし。

 今日まで分からなかったことが明日突然分かるようになるかもしれない。
 解けなかった方程式の解き方が突然ひらめくように。
 生きるってこういうことだったんだな、と心底納得して笑い出してしまうかもしれない。
 そういう明日への淡い期待感が、重い足取りの私を手招きしてくれている。
 分かってみせる、とつぶやいて、今日も二、三歩前へよろめく。

 6月30日(水) 「学んだ知識はどこかで使わないと。
         いつか寄付できるくらい大教養持ちになれるといいけど」

 せっかく稼いだ金は使わなければもったいない。
 同じように、学んだことは役に立てなければ無駄になる。
 どこでどう有効に使うかをよく考えて。
 自分のためにも、人のためににも使いたい。
 金も知識も、自分のためだけに使えば虚しい。
 机の引き出しに入れたまま死んでしまえばもっと悲しい。
 けど、金も知識も、上手に使うのは案外難しい。
 増えれば増えるほど使い方が雑になる。
 少なければケチになる。

 サラリーマンの生涯収入は2億から3億円だという。
 私たちがたとえば80歳まで生きるとして、その間にどれくらいのことを学ぶのだろう?
 その中のどれくらいが生きることに必要なことで、どれくらいが無駄知識で終わるのか。
 個人が学んだことのどの程度が子供や周りの人間に受け継がれていくのだろう。
 誰のために何をどれくらい学べばいいのかと考えると、なんだか途方に暮れてしまう。

 学んでも学んでも学び終わらないことにいつからか絶望してしまって、それをいかすということを忘れてしまってるような気がする。
 知ること、覚えること、身につけること、それらは何のためにすべきことなのかということをもう一度よく考えてみよう。
 つまりは、よりよく生きるためなのだろうけど、そこにいくまでがあいまいになってる。
 私たちは悩んだり考え込んだり迷ったりするために学んでいるわけじゃない。
 生きるためだ。
 すべては生きることにつなげていかないといけない。

 たとえば、何のために英語を習うのか。外国旅行へ行くためだ。じゃあなんで外国へ行く必要があるのか。見たことのないものを見て、新しい経験をするため。どうして新しい経験が必要なのか。それは心を豊かにするため。何故心を豊かにないといけないのか。それは日々の生活を幸せに過ごすため。なんで日々を幸せに過ごすのか。生きることを肯定するためだ。
 というように。
 半ば無意識の指向性を、明確な手段と目的とをひとつのセットとして捉えると、学ぶことといかすことの関係性をより意識的にできるようになるはずだ。

 金も知識も埋蔵しちゃいけない。
 後年、誰かが埋蔵したものを発掘してくれればいいけど。
 徳川の埋蔵金発掘に失敗した糸井重里みたいな人じゃない人が。

 6月29日(火) 「自分を救えない人間がどうして他人を救えるか。
          泳げない人間が溺れてる人を助けることはできない」

 自分のためだけに生きるのは愚かなことだけど、自分にとっての最高を求めることは間違っていないし、必要なことでもある。
 いつも人のことを優先し、他人を思いやり、自分を犠牲にすることで多くの人に幸せを与えたとしても、それはどこか偽物めいている。
 誰のおかげで飯が食えてるんだと怒鳴るお父さんや、こんなにも愛して尽くしてる私を捨てるなんてひどいと泣き叫ぶ女の子みたいだ。
 そうやって押しつけられた幸せでこの世界が本当に良くなるだろうか?

 私は、人はぎりぎりの選択の中で、最終的には自分のことを優先すべきなのだと思っている。
 いや、そう信じたいと言った方がいいかもしれない。
 それは苦しい決断だけど、人は自分のことを自分でなんとかしなくてはどうしようもないから。
 誰も自分の代わりに生きてはくれないし、求める答えを与えてもくれない。
 人を助けるために自分を犠牲にすることは格好いいことだけど、それも時と場合を見極めないといけない。
 ただ、自分を優先する中でどれだけ自分の人生を他人のために割けるか、というのも一つの大事なテーマとなる。
 それでも、よく言われるように、自分や自分の家族を幸せにできないような人間がどうして他人を幸せにできるか、とも思う。
 人に尽くす努力をするということは、自分に尽くした上ですべきことだ。
 自分にとって最高の人生とは何か、最高の幸せとはどういう形なのか、それを実現した人間だけが、その先で他人のために何かをやれるのだと私は思う。

 他人のために生きるというのはとても高度なことだ。
 誰も彼もができる簡単なことじゃない。
 言うなら、大学まで卒業して、更に大学院で専門の研究をするみたいなものだ。
 高校も卒業しないうちに大学院へは行けないように、自分を幸せにできない人間が人を幸せにするのは無理がある。
 他人を言い訳にして自分の人生を半分放棄してしまうのは絶対によくない。  自分がかなえられなかった夢を自分の小さな子供に託して、そのことだけになってしまってるお母さんみたいになってはいけない。

 他人のために生きることが絶対の正義のような言われ方をするけど、それほど単純なものでもないだろう。
 今の時代に問題があるとすれば、他人のことを思いやれなくなったことよりもむしろ、自分のことに一所懸命になれなくなったことの方だ。
 自分を大事にできない人間は他人も大事にもできない。
 それは昔も今も変わらない。

 人助けはそれが好きな人がやればいい。
 人助けが自分にとって最高の生き甲斐だという人種は確かにいる。それはそれでいいのだ。何の問題もない。そういう人たちもいないとこの世の中は成り立っていかないところがある。
 ただ、誰もがボランティア精神を第一義に掲げることはない。
 もし人の役に立ちたいなら、一日も早く自分が幸せになることだ。
 自分を卒業すれば他人のために生きることを許されるだろう。

 歴史上の偉人なんて見本にならない。
 ここから未来へ続く道の中で、私たちは過去に存在しなかった正しさを見つけていかないといけない。
 まだ誰も、世界の答えには辿り着けていないのだから。

 今この世界に生きてる人はみんな、輪廻転生迷宮に迷い込んだ人たちかもしれない。
 だとしたら、目的はこの永久の出口を見つけることだ。
 自分にとっての究極を見つけて実現しない限り、この迷宮から出ることはできないだろう。
 自殺というギブアップではおそらく許してもらえまい。


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