2004.5.3-

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 6月28日(月) 「想像力がすべてじゃない。
            けど、想像力なしに人は賢くも優しくもなれない」

 人は、遠くのことを想像するのは得意だけど、近くのことを想像するのはあまり上手くない。
 想像のピントを合わせるのが下手だ。
 100年後のことや遠い宇宙のことなら想像力を目一杯駆使して思い浮かべようとするのに、明日のことは想像力を使わずに考えてしまう。
 見知らぬ国に住む人の生活を想像したりしても、一緒に暮らしてる人が何を思って毎日過ごしているかをほとんど想像したりしない。
 自分の老後のことを想像しても、明日自分が事故や事件で死ぬことを積極的に想像しようとはしない。
 近くのことを遠くのことと同じくらい想像することができたなら、もっと身近な人を思いやることができるだろうし、自分自身を大切にもできるはずなのに。

 思考と想像は似てるようでいて実際はまったく別のものだ。
 混同しがちだけど、きちんと意識して区別した方がいい。
 そして、たいていは思考するよりも想像することの方が大切だったりする。
 日常生活にも想像は大事なことだ。
 たとえば、バスで年寄りや妊娠してる人に席を譲るか譲らないかは倫理や道徳の問題ではなく想像力の問題だし、左折する車が歩行者待ちで後ろに車がつらなってしまってるのにのんびり横断歩道を歩いてる人は明らかに想像力が足りない。
 人が何をして欲しいと思ってるのか、何を言って欲しくないと思ってるのかなどは想像で判断するしかなくて、想像しない人は他人の気持ちが分からない。
 たとえ分からなくても想像してみることは無駄じゃない。
 犬や猫の気持ちだって想像してあげればもっと優しくなれる。

 想像は本来、万能のレンズのようなもののはずなのだ。
 望遠鏡のように、顕微鏡のように、眼鏡のように、遠くのものや近くのものをよく見るのに役立てることができる。
 望遠鏡的想像だけでなく、虫眼鏡的な想像も同じくらい必要だということを知っておいた方がいい。
 想像力が必要なのは芸術家や科学者たちだけではない。
 誰にとってもとても必要なものなのだ。

 6月27日(日) 「私たちは自分が見えている世界を表現する。
            それは同時に見えていない部分を表してもいる」

 私たちは世界を見ている。
 でも、見ているのは世界の一部だ。
 ほとんどの部分は見ているようで見えていない。
 私たちが見ている世界というのは、デジカメの液晶に映るくらいの狭いものな
のかもしれない。
 遠景、近景、マクロ。
 人物、動物、空、花、物体、建物。
 遠景写真ばかり撮っている人がいて、マクロばかり撮っている人がいる。
 あるいは人物ばかり撮っている人も。
 それはそのままその人が見ている限定された世界と言えるかもしれない。
 人の目に映るのは、自分が興味のあるものだけだ。
 いつも通い慣れた道の両側に並ぶ店をどれだけ知っているだろうか?
 新しいことに興味を持ち始めたとき初めて、ああここにこんな店があったんだと気づく経験は誰もがしてるんじゃないだろうか。
 ある日建物が壊されて更地になっているのを見て、そこにどんな建物が建っていたのか思い出せないこととか。
 何を見ることが正解ということはない。
 何かを絶対に見なくてはいけないということもたぶんない。
 人は誰でも自分が好きなものを見ればいいし、見たくないものは見なくてもいいのだと思う。

 日記と写真は似ている。
 本当のことの一部は本当ではないというところが。
 写真も日記も嘘ではない。
 けど、意識的に写さなかったり書かなかったりすることで、それは真実そのままではなくなる。
 限定された報道が真実を歪めるように。
 ただ、それは必ずしも悪いことではない。
 何を削るかということが表現でもあるわけだし。
 むしろそこに面白さがあると言ってもいい。
 人が何に興味を持ち、何を見てるのかを知ることは、それが限定的であればあるほど興味深い。
 自分には見えていないことを見せてくれるということもある。
 だから写真も写真も個性的なほど面白い。
 逆に言えば、現実そのままの一部を切り取っただけでは何の面白味もないということだ。
 京都へ行って、みんなと同じ場所から金閣寺を撮っても意味がない。
 そういうことだ。

 いい写真を撮りたければ、自分だけの視点を見つけることだ。
 写真というのは自分の視点の提供だから。
 それを人が見て面白いと感じるかどうかは別として、その人にしか獲得できない視点で撮られた写真は、やっぱりいい写真なのだと思う。
 独自の視点……。
 そう簡単に見つかるもんじゃないな。

 6月26日(土) 「幸福は不幸の上に、不幸は幸福の上に。
            世界が常に半分昼で半分は夜なように」

 世の中、思い通りにいかないことが多いなぁと感じることがあるけど、考えてみると、自分にとって思い通りじゃないことは誰かにとっての思い通りなのかもしれない。
 たとえば、自分の好きなプロ野球チームが連敗してると気分が悪いけど相手チームのファンの人たちは喜んでいるのだし、オークションの入札勝負で負けて悔しいと思ってる一方では落札できて喜んでる人がいるように。
 好きな人に振られて悲しんでいても別の誰かがその人と付き合えて幸せになっていることもある。
 財布を落として落ち込んでいる別のところで財布を拾って得した人がいる。
 別に仏のように悟ろうなどとは思ってないけど、そうやって考えると少しは沈んだ気分も晴れはしないだろうか。
 理詰めで他人をやり込めることはいいことじゃないけど、理屈で自分を納得させることは悪いことじゃない。

 自分の幸運や幸福は誰かの不運や不幸の上に成り立っている。
 幸運が少なすぎるとか、人より不幸が多すぎるなどと嘆くのは、切り分けたケーキがちょっと小さいなどと文句をつけるようなものだ。そんな意地汚くてはいけない。
 結局のところ、私たちはみんなで決まった分量の幸運や幸福を分け合ってるようなところがある。
 同時に不運や不幸も。
 思い通りにいかないのは自分だけじゃない。
 思い通りにいったらその影で泣いている人もいるんだということを少しだけ思いやれる人になりたい。
 ……というのはちょっと物わかりがよすぎるだろうか?
 いや、でもそうやって考えて自分を納得させることができればそれに越したことはない。
 いつも文句ばかり言ってる人や嘆いてばかりいる人にはなりたくないから。

 6月25日(金) 「21世紀よ、私に侮らせないでくれ。
            もっと新鮮な驚きを」

 この世界を侮ってるつもりはないし、そんなことを思いたくもないのだけど、生きた時間が長くなるほどに、毎日に新しいことが起こらなくなってきているから、つい、この世はこんなもんなのかな、と思ってしまう。

 もっと驚きに満ちた毎日を、と思う反面、習慣が乱されることを恐れもする。
 いろんなことがだんだん面倒になり、心が臆病になる。
 それが年を取るということなんだろう。
 足腰の衰えなんかはそんなに大きな問題じゃない。
 好奇心の欠乏が一番の問題だ。

 良くも悪くももう少年少女時代のようには戻れないのだから、もっと意識的に毎日に新しい要素を持ち込まないといけない。
 新しいことは向こうからやって来てくれなくなる。
 今までやったことのないことに挑戦するとか、行ったことのないところへ行くとか、持ったことのないものを自分に買い与えるなどして。
 体がだんだん運動不足になるように、心も動かさないと運動不足になっていく。
 心を動かすためには刺激が必要だ。
 しかも、だんだん強いやつが。
 若い頃は学校生活を送る中で自然と出来ていたことも、大人になれば自分で意識してやる必要がある。
 体にも心にも、毎日自分で負荷を与えていかないと、どんどん衰えていくから気をつけないと。

 それにしても最近新鮮な驚きに出会えていないような気がする。
 自分のことだけではなく、テレビのニュースを観ててもあっと驚くようなことがほとんどない。
 大きな事件や事故がないということはいいことなのだけど、なんかこう、私の侮りを一発で吹き飛ばしてくれるような出来事がもう少し起こってもいいんじゃないかと思う。
 宇宙人がワシントンに降り立ったとか、邪馬台国の跡がそっくり出てきたとか、太陽系に新しい惑星が発見されたとか、恐竜がどこかで生きていたとか、河童が見つかったとか、ちょっとばかばかしいことでもいいから今までの常識を蹴飛ばしてくれるようなことが起きないだろうか。
 新たな無限エネルギーが発見されたとか、空飛ぶ車が実用化になったとか、寿命が100年延びる薬が開発されたとか。

 あと50年も生きればこの中の一つくらいは実現するだろうか?
 一般人でも宇宙旅行が当たり前になるときくらいまでは長生きしたいものだ。
 何しろもう21世紀になってることだし。
 私に21世紀を侮らせないで欲しいと願う。

 6月24日(木) 「使うデジカメによって向かう対象が違ってくる。
            新しいデジは新しい可能性をもたらしてくれる」

 新しいデジカメを手にしたことで、ここしばらく淀んでいた心の中に風が吹き込んだ。
 閉ざされていた窓が久々に開け放たれたように。
 けど、その風に乗って思考が外に運ばれていってしまった。
 机の上に乗っていた書きかけの原稿用紙が風に飛ばされてしまったみたいに。

 何も考えられないからデジのことを書こう。それなら今はたくさん書けそうだ(というよりそのことしか考えてないからそれしか書くことがないと言った方が正しい)。

 今回のデジ選びの一番の目的は、高画質とマニュアル設定だった。
 携帯性ももちろん重要なんだけど、今回はカメラの勉強をするという意味でも
いろいろなことができるデジにしようと考えていた。
 画素数は200万から300万、予算はオークションで1万から1万5,000円まで。
 その中で欲を言えば高画質のものがいい。
 シャープで深みと透明感があるものがよかった。

 調べて勉強していく中で候補は一日に1台くらい増えていった。
 ネットには様々な情報があふれているけど、ここのページが一番参考になった。
 しまいには、これまで発売されたすべての200万〜300万画素のデジを把握したといえるくらいになった。
 明日から中古のデジカメ屋で即戦力で働けるくらい。
 ただ、その中で完璧なデジはないということも分かった。どれも特徴があり、いい点と悪い点があった。
 すべての要求を満たしてくれるものはないとしたら、あとはどの部分に目をつぶって、どの長所を取るかということになる。

 たとえば、COOLPIX950なら地球の近い部分に分け入って近づきたくなる。
 海なら風景としての海ではなく海岸に落ちている貝殻とか、森林や高原や花のあるところ。もしくは昆虫のマクロとか。
 OLYMPUSのC-2000Zなら明るいレンズを試すために夜の都会や港へ車を走らせて夜景を撮りたいと思うだろう。
 CASIOのQV-3000EXなら、特に星には興味がなくても天体写真でも撮ってみようかと思う。田舎に帰郷したときなども活躍してくれそうだ。
 RICHOのRDC-5300なら、赤瀬川原平にならって、車ではなく歩いて路地裏などに入り込んで家並みや日常の光景を切り取ってみたい。
 KodakのDC4800なら広がりのある風景を撮るために海や山へ行きたくなる。
 IXY 200aなら日常、常に持ち歩いて目に付いた光景を片っ端から写し取りたい。人目のある場所でも唯一使えるデジにも思える。
 CanonのPowerShot G1なら、奈良や京都なんかの絵になる街へ行ってみたくなる。

 というように、買うデジによって写したくなる対象が明らかに違ってくるような気がした。
 唯一CanonのPowerShot S30だけが、高画質と携帯性を兼ね備えて私の欲求にオールラウンドにこたえてくれるように思えて、一時はこれに決めかけた。
 ただ、それでもあえて今回COOLPIX950にしたのは、これが今までの私の撮影スタイルから一番遠いような気がしたからだ。これまで写そうと思わなかったものを写そうと思えるのだとしたら、あらたな可能性を求める意味でもこれが今のベストの選択だろう。

 デジカメも所詮道具に過ぎない。
 上手は道具を選ばないとも言う。
 けど、道具なら気持ちよく使いたいし、愛着のわくものであった方がいい。
 ただきれいな写真が撮れるというだけでは面白くない。
 何か主張や作り手の熱意みたいなものが伝わってくるものでなければ。
 手にしたCOOLPIX950にはそれがあった。
 ユーザーの要求に応える形で作られたデジではなく、メーカーの心意気で作られたカメラだ。
 往年の名機と言われるだけの風格も確かに備えている。
 それゆえに半端な使い方をするとちっともこちらの気持ちに答えてくれないようなところもある。
 オートフォーカスが言うことを聞かなかったり、ピントさえ合わなかったり。
 フルオートで撮っただけでは当たり前の写真しか出してこない。
 クラッシックなスポーツカーみたいなところがある。

 私がこれを使いこなせる日が来るのかどうか。
 今はまだ楽しみ半分、不安半分だけど、まずはたくさん枚数を撮ることから始めよう。
 今まで足を踏み入れたことのないようなところへ。
 ただし、いくらレンズが回転するからといって、観光地で自分を撮ることだけはやめておこう。

 6月23日(水) 「世界中の悩みを一ヶ所に集めてみたら?
            壮大な馬鹿らしさに笑えるかな?」

 人はそれぞれの悩みを悩んでいる。
 ここでもあそこでも、世界中でたくさんの人たちが、今いろんなことを。
 地球上の悩みを一ヶ所に集めたらどうなるだろう?
 そこではどんな光景が広がるのか。
 阿鼻叫喚の地獄絵のようになってしまうのか?
 それとも、あまりの滑稽さに笑いがこみ上げてくるだろうか?
 私は、壮大すぎる馬鹿らしさに腰が砕けてヘラヘラと笑い出してしまいそうな気がする。
 いやぁ、みんな悩んでるなぁ、あはは、ってな感じで。
 だいたい、本人にとってはこれ以上ないほど深刻で切実な悩みも、人からみれば他愛もないことであることが多い。
 結局みんな同じようなことで悩んでいる。
 そういう意味で、人類皆兄弟じゃないのか。

 この世界で悩まれてる悩みの中で一体何パーセントの悩みが本当に憂うべきものなんだろう?
 1パーセント、と言ったら言い過ぎだろうか?
 けど、死ねばすべての悩みから解放されるのだとしたら、1パーセントというのも案外大げさな数字ではないようにも思える。

 今現在、選挙のことで頭を悩ませている人がいて、病気で悩んでる人がいて、体重や髪の毛で悩んでる人がいる。
 生きることに悩んでる人も、受験勉強に悩んでる人も、恋愛に悩んでる人もい
る。
 家庭のこと、子供のこと、年老いた親のこと、借金のこと、仕事のこと。
 私みたいに3台目のデジカメを買っていいものかどうか悩んでいる人もいるだろう。
 明日着ていく服のことや、次に行く外国のこと、来週のデートのプラン、その他諸々、以下省略……。

 人間は本質的に悩む生き物だ。
 不幸なときも幸福なときも悩まずにはいられない。
 悩まない人間もたまにいるけど、それは本能の一部が壊れている。痛みを感じないのと同じように。
 悩むことが通常の状態で、悩んでないことは異常事態と言ってもいいかもしれない。
 それくらい人は常に何かで悩んでいる。
 だから、悩むことは悪いことじゃないと私は思っている。
 特別いいことでもないだろうけど、普通のことだ。
 頭が活動してるという意味ではいいことの方に属すると言ってもいい。
 むしろ悩まなくなったらそこで成長も進歩も止まるということだから、人は一生悩むべきだ。

 悩み倒した先に何があるのか?
 それは悩みが解決した喜びがある。
 のどの渇きが水によって癒されたときのような。
 あるいは、喧嘩した後の仲直りみたいな。
 悩みから逃げるといつまでもしつこく追いかけてくるから、こっちから向かっていってやっつけてやらないといけない。
 デジカメを買おうかどうしようか悩んだら買ってしまうのだ。
 そうすれば悩みは炎天下に置かれた氷のごとく一瞬にして溶けてしまうだろう。
 ……。
 そういうことなのか!?

 6月22日(火) 「人は何故写真を撮るのか?
           共感や共有の一番簡単な方だから、なのか?」

 誰でもできることを上手くやることは、実はけっこう難しい。
 誰も彼もができるわけじゃないことを上手にやることの方が簡単な場合もけっこう多い。
 上手いか下手というのは距離の問題だから。
 ほとんどの人が0のものに60や70を積むのは案外たやすかったりするけど、誰でも70くらいできることの上に30積み上げるのは難しいものだ。

 たとえば、100メートルは誰でも一応走れるけどマラソンはほとんどの人が走れないとか、ハーモニカは吹けるがバイオリンは弾けないとか、スキーはできてもスキージャンプはできないとか、そういうことだ。
 キャッチボールはできても150kmの球は投げられないとか、塗り絵はできても壁画は描けないとか、車は運転できてもF1カーは運転できないとか。

 そういう意味で、写真を撮るということは、簡単で難しいことの典型だろう。
 誰でも写真は撮れる。油絵を描けない人はいても写真は撮れる。
 大人でも子供でも、カメラを構えてシャッターを押せば写真になる。
 けど、上手に写真を撮ることは思う以上に難しい。
 きれいなだけの写真ならそんなに難しくはない。
 それなりの知識を持ってそれなりのカメラを使えばそれなりにきれいで上手な写真は撮れる。
 けど、本当にいい写真となると撮れるのはごく一部の人間だけだ。
 才能と言ってしまえばそれまでなのだけど、写真には才能とは少し別の何かがあるような気がしている。
 運という意味で麻雀の強さにも少し似ているかもしれない。
 運のいい人間はいい写真が撮れるし、運が悪い人間はいい写真が撮れない。
 それはそうなんだろうけど、その運を呼び込むものは何のかと考えてみるとよく分からない。
 感覚的に優れているとか、美意識があるとか、正しい構図を判断できるとか、人柄とか、人間性とか、そういう要素が総合して優れた写真となるのだとは思う。
 ただ、決定的にいい写真が撮れる人間と、何かが足りないと感じさせる写真しか撮れない人間との間にあるものの正体が見えない。
 たぶん、同じカメラで同じ被写体を同じ角度で撮っても違いは出てくるはずだ。
 ピントとか露出とか絞りとか、そういうことではなく。
 もちろん、人によっていい写真の基準は違うし、感じ方も人それぞれには違いないのだけど、何がいい写真を撮れる要因となるのかを知りたいと思う。

 それにしても写真って何なんだろう。
 光景の一部の一瞬を切り取って封じ込めるという行為に人は何を求めているのだろう?
 思い出作りとか、記憶の助けとするためとか、美しい絵を描きたいのと同じ思いで美しい写真を撮りたいと願うとか、自分の目にしたものを人に伝えたいとか、切り取ることで現実のドラマを表現するとか、それぞれ思いや目的はある。
 ただ、そういう直接的な目的以外の部分で、人は写真を撮るという行為をしてるような気が私にはしている。
 当たり前の行為でありながら特別な何かがある。
 あるいは、すごく単純に言ってしまえば、誰にでもできるから、というのが一番大きな理由なのかもしれない。
 誰にでもできるがゆえに、行為と目的が一体化して、同じレベルで共感できるとも言える。
 人には表現したいという欲求とそれを人に伝えたいという願いがあり、その一番簡単な方法が写真だということか。
 文章で伝えることは誰にでもできることではないし、歌を作って歌うことも難しい。絵を描くことも誰にでもできることじゃないし、思いを伝えるために話すことも簡単なことではない。
 そうやって考えてくると、写真を撮るというのは誰もが表現することができるほとんど唯一の方法なのかもしれない。
 自分は何を目にし、何を重要だと感じているのかということを写真は伝える。
 それはその人の人生観そのものだ。

 いい写真を撮るための条件はいろんな言われ方をする。
 枚数をたくさん撮れとか、経験を積めとか、足を使って被写体を探せとか、人柄だとか、あれこれ。
 私は、想いだと思う。
 何を写したいのかという強い想いこそが写真に力を持たせるのではないか、と。
 写したいものがあり伝えたいものが確かにあれば、その写真はテクニックを超えて見る者に伝わるのだと思う。
 カラオケをどれだけ上手に歌えたとしても人に感動を与えられないのは、それが自分の心の深い場所から生まれた自分の言葉じゃないからだ。
 写真も同じで、どれだけ上手に撮っても被写体に対する真剣な想いがなければ人の心は動かせない。
 いい写真を撮りたければ、まずは自分の中に想いを見つけることだ。被写体を探す前に。

 カメラなんて所詮道具、写真なんて人生や生活のほんの一部を彩るささいな一要素にすぎない。
 それは正しい。
 ただ一方で、これほど伝えたいことをストレートに伝えられるものは他にはないという事実もある。
 PCが普及し、ネットが浸透し、多くの人がデジカメを持ち、写真を見せ合うことが家族や友達同士を超えて世界規模に広がった今、写真というものも新しい段階に入ったのではないだろうか。
 もっと気楽に、もっと深く写真を楽しもう。
 かつてこれほど多くの写真が世界中に溢れかえったことはなかった。
 氾濫する写真の中で、私たちはかつてより少しだけ幸せを分け合ってないだろうか?

 6月21日(月) 「意味はひとりで探すものじゃない。
            他人と見つけるもの」

 人生に意味など必要ない。
 意味などなくても生きていける。
 けど、意味はあるのだ。
 たとえ必要はなくても私たちは生きる意味を求めずにはいられない。
 無意味なことを続けることはとても難しいことだ。
 生きることを少しでも簡単にしようと、人は意味を求める。

 今抱えている意味、かつてあった意味、未来にあるべき意味。
 生まれたり消えたり移り変わったりする意味の幻影を、私たちはいつも追いかけている。
 たとえば恋愛や仕事や家庭も意味に他ならない。
 生きることに意味づけするために人は様々なことをする。
 逆に言えば、何もしないことを無意味だと思い込み、そこから逃げだそうとする。
 無意味から離れれば離れるほど意味に近づけると信じて。
 自分から見て意味があると思えることをやっていれば安心だし、無意味だと思えば不安になる。
 私たちは自分を安心させるために意味を求める。
 必要かそうじゃないかはそれほど重要な関心事ではない。

 あなたの人生に意味はあるのかと真正面から問いただされて、自信を持って意味はあると答えられる人はそれほど多くないのではないか。
 意味と無意味を分ける基準はとても曖昧で流動的だから、主観的にも客観的にも判断は難しいということもある。
 自分さえ意味があると思えばそれでいいのかといえばそうとも言い切れないし、人から見て意味はあると思えても本人にその自覚がなければ意味はないのかもしれない。
 意味の深さや広がりや階層もいろいろだ。

 意味は逃げる。
 どこまで追いかけても捕まえることはできない。
 今日まで確かに意味があったのに明日になれば無意味になることもあるし、その逆もある。
 追えば逃げるし、逃げれば追いかけてくる。
 距離は縮まらない。

 結局のところ、意味というのは他人にとってのものでしかないのかもしれないとも思う。
 自分一人で意味を見つけてそれを決定づけることは不可能とさえ言える。
 他人に必要とされることが意味なのだと思う。
 自分の存在を正当化してくれるのは他人でしかない。
 だから人は他人と関係性を築くのだろう。
 社員となり、誰かの恋人となり、夫や妻となり、父となり母となり、子供となる。
 そうやって名称や位置を明確にしようとする。
 強い結びつきを持った関係性の中で、人は誰かに必要とされ、そのことで自らの存在の正当性と意味を確認する。
 誰かにとってなくてはならない存在だというのなら自分も少しは意味があるのだろうと思うことができる。
 人は単独では意味となり得ないとさえ言い切ってもいいかもしれない。
 どんなに美人で天才で人格者だったとしても、無人島では意味をなさないだろう。

 自分の存在の意味を見失いそうになったときは、自分と周りとの関係性を確認するといい。
 どこかしらに意味はある。
 それでも自分が無意味に思えたら、そのときは自分一人で何かをするのではなく、他人を求めることだ。
 そこにしか意味はないのだから。
 無意味からどれだけ逃げても意味には辿り着けない。

 6月20日(日) 「心に残るさよなら。
             それは届かなかったさよなら」

 さよならを言える別れは幸福な別れかもしれない。
 ほとんどの別れは唐突で、さよならを言えないことが多いから。

 言いそびれたさよならを、あなたはいくつ胸にしまっているだろう?
 言えなかったさよならは、永遠に届く機会を失い、死ぬまで胸の内にとどまり続けることになる。

 伝えることができなかったさよならを打ち消すとができるとしたら、それは、再会してこの言葉を言うときだろう。
 やあ、久しぶり。

 人は何故、死後の天国を望むのか?
 それはたぶん、自分が永遠に生きたいからではなく、さよならを言えずに別れた人と再び会いたいからではないだろうか。

 けど、さよならを言えなかった相手はいつまでも自分の中に残ることを思えば、さよならで完結させなかったことも、それはそれでよかったのかもしれない。

 さよならは、夢から覚めるための呪文の言葉みたいだ。
 夢から冷めたくなければ呪文を口にしちゃいけない。

 6月19日(土) 「気分の奴隷。
            気分の支配から解放されるときは来るのか?」

 太陽が焼き尽くしてくれる憂鬱があり、雨が運んでくるもの悲しさがある。
 一体、気分というのは何なんだろう?
 気分の正体は何者なのか?
 実体があるのかないのか、それさえも定かではない。

 気分に左右されにくい人がいて、気分に翻弄されがちな人がいる。
 私なんかはほとんど気分の奴隷と言ってもいい。
 わがまま放題の女の子に振り回されるみたいに私は自分の気分の言いなりだ。
 抵抗できない。
 自分の気分の主人には決してなれそうにない。
 気分が進めと言えば進み、気分が止まりたいと言えばおとなしく従う。
 気分は私であって私でない。
 みんなは自分の気分とどうやってつき合っているのだろう?

 AB型のせいにしちゃいけないけど、何かのせいにもしたくなる。
 これは芸術家気質なんだと都合よく思ったり。
 それくらい私は自分の気分が手に負えない。
 いつどういうタイミングで気分が上昇したり下降したりするのか、その法則性もいまだにまったく分からず、原因もはっきりしないから対策も立てようがない。
 気分って本当に何なんだ?
 私はこのまま一生、気分の後を遅れながら付いていくしかないんだろうか。
 喜怒哀楽が激しいわけではなく、気分のよしあしで人に迷惑をかけるわけでもないのだけど、できることならもう少し気分次第じゃない毎日を過ごしたいとは思う。

 それにしても最近は気分を高揚させてくれるものが少なくなった。
 心の機能が低下しているのか、たまたまそういう時期なのか、もっと別の問題があるのか。
 何かこう、気分を高めてくれるものが決定的に不足している。
 やはりここはデジを買って気分を盛り上げるしかないだろう。
 って、結局そこへいくのか、私!?

 今日も一日、ものすごく色々調べて考えたけど買えず終いだった。
 あまりにも迷いすぎて何を買えばいいのか分からなくなってしまった。
 というか、そもそも買う必要があるのかどうかも疑問に思えてきて。
 いやいや、でもここはやっぱり気分に与えるエサとしてデジが必要だろう。
 何か新しいものを与えれば気分も喜ぶに違いないのだから。
 わがままな女の子も欲しいものをあげれば、一時的でもご機嫌になるみたいに。

 6月18日(金) 「無駄から生まれる大切なもの。
            無駄だけど無駄じゃない」

 たくさんの無駄を重ねてここまできて、何が残ったかと考えてみると、残ったものはそれほど多くないことに気づく。
 あらゆるものを失ってしまったようにも思える。
 ただ、心の底にわずかに残った結晶のようなものがあって、それは無数の無駄からしか生まれることはなかったのだと思えば、失ってしまった無数のものに対しても面目が立つと言えるかもしれない。

 忘れられない言葉がある。
 それは無駄話の中で誰かが発した何気ない言葉だったり、たくさんやりとりしたメールの中の一行だったりする。
 たくさん読んだ本の中で深く心に残った一冊があり、嫌というほど観た映画の中で自分にとって決定的な一本がある。
 それらは数や量の中でしか見つけられなかったものだ。
 無数分の1として初めて意味を持つものだったりもする。
 長く生きる中の一瞬に人生の価値を見いだすこともあるだろう。

 無駄を省くことが果たしていいことなのかどうなのか。
 無駄話、無駄遣い、無駄知識。
 世の中には無駄なものがあふれ、この世から無駄がなくなることは絶対にない。
 無駄を省くという方向性が本当に正しいのかどうか、私は疑問だ。
 合理性の追求が私たちに何をもたらし、何を奪っていくのだろう?
 無駄なことは本当に悪の側に属するものなのだろうか?

 人生で起こることで無駄なことは何一つない、などとは思わない。
(そんなことを本気で言ってる人もうさんくさい)
 生きること自体がある意味では無駄なことだし、人生は無駄だらけだ。
 ただ、無駄を重ねることでしか得られない貴重なものもたくさんあるわけで、そこにこそ人生の本質があるのではないかと私は思っている。
 だから、個人的には無駄をなくそうという発想はあまりない。

 たとえば、私たちは子供頃から長い時間、たくさんの授業を受けた。
 そのほとんどは大人になってしまえば無駄なものばかりだ。
 けど、もし私たちがあの膨大な時間、学校で無駄な勉強をしなかったとしたら、大人になってどれほどの知識を持っていただろう?
 化学記号も、歴史の年号も、音符の意味も、πも知らない大人になっていたんじゃないか?
 そんなもの知らなくても不便じゃないと言うかもしれないけど、生きていく上でどこかしらで役に立っているんじゃないだろうか。
 興味のないことを多少なりとも知ることができたのは、あのばかばかしいようなたくさんの授業を受けたからに違いない。
 だからクイズ番組だって答えられるのだ。

 無駄なことを必要以上に擁護するのもどうかと思うけど、もう少し無駄と穏やかにつき合ってもいいと思う。
 無駄話をたくさんして、無駄遣いをしまくって、無駄な知識をため込んで、その中から大事なものを自分で見つけていくのも大切なことだ。

 というわけで、私はこのあと、デジ選びの調査、研究に戻らねばならない。
 日記など書いている場合ではないのだ、実際。
 うーん、何を買えばいいのやら……。
 NikonのCOOLPIX950がやっぱり本命なのか、OLYMPUSのC-2000Zでワンクッション置くか、KodakのDC4800の色とワイドを取るか、RICHOのRDC-5300の2:3比にこだわるか、意表を突いて隠れた名機といわれるCASIOのQV-3000EXをいってみるか、どうもCanonのPowerShot G1がよさそうじゃないか、などと心は千々に乱れるのであった。
 結局、順番に全部買えばいいのか?
 いやいや、無駄遣いじゃないですってば。

 6月17日(木) 「楽しみと喜びの連鎖。
            ミッシングリングを探して」

 楽しみと喜びが連鎖する日々なら、生きることに対する疑問も忘れていられる。
 明日楽しみにしてることがあって、昨日の楽しみが今日の喜びに変われば、心地いい疲れとともに安らかな眠りに落ちることができるだろう。
 そして、喜びを追いかけて爽やかな目覚めとなるだろう。
 けど、その連鎖が失われたとき、寝覚めも寝付きも悪くなり、日々の流れが悪くなる。
 悪い連鎖が更に悪い連鎖を呼ぶ。

 今の私は、そういう意味で、先々の楽しみを完全に失ってしまっている。
 気がついたらいつの間にか落としてしまっていた。
 毎日にそれなりの喜びはあるけど、それが明日の楽しみにつながっていかない。
 このぶつ切り感覚が私から充実感を奪う。
 流れが滞る。
 一日の中に収斂していくポイントがない。
 時間割に囚われてしまっているだけだ。

 すべては対象の消失ということに違いない。
 その自覚はある。
 もしくは、共有感覚の欠如と言ってもいい。
 要するに、人は自分一人では不充分だということだ。

 流動的な人生の中ではいろんな時期があって、今の時期だけを切り取って判断するのもどうかと思うけど、あまりいい時期じゃないことは確かだろう。
 大きなマイナスはなくても、あるべきプラスがなさすぎるのは問題だ。
 悪い時期を自力で脱出できる人もいるだろう。
 でも私は流れに身を任せるようにしている。
 悪い時期も人生には必要だし、ここからしか感じ取れないこともたくさんあると思うから。
 大切なのは自覚すること、それに尽きる。
 無自覚な幸福や不幸は次にいかせないから。

 明日の楽しみを一つでも持つために何をすべきだろう?
 普通に過ごせば何もないと分かってる一日に、何を持ち込めば次の日に楽しみが連鎖していくのか?
 目標? 別の趣味? 何かを買うこと? 新しいことを始めること? 出会いを求めること?
 偶然と必然を待つ以外に何ができるのか?
 決まった毎日以上の一日を実現することはそうたやすいことじゃない。
 単純に寝る時間を一時間減らせばその分だけ充実するというわけでもないだろう。
 人ぞれぞれ、一日にやれることの分量も、使えるエネルギーの量もだいたい決まっている。
 その中で、今日以上の明日にするためにできることが何なのか、もう一度よく考えてみようと思う。

 ただ一つ確かなことは、過去の記憶を再現してもそれでは駄目だということだ。
 思い出の中の素晴らしき日々はもはや記憶の中でしか生きられないものだから。
 新しさの中にしか明日の自分を楽しませてくれるものはないのだということを忘れないようにしよう。

 6月16日(水) 「最悪も最前も自分の一部。
            悲しみも喜びも人生の内側で」

 駄目なときは、この時この場をやり過ごすことだけを考えよう。
 駄目な自分を結論としてしまわないように。

 旅先で道に迷っても、私たちの本質は迷子であることではなく旅人だ。
 未開のジャングルを進む途中で泥沼に足を取られても、そこを抜ければ視界が開け、川もあるだろう。

 今ここにいる自分がすべてじゃない。

 自分が駄目なやつに思えても、それは一時的な気の迷いだ。
 自分を駄目だと決めつけようとするのは弱い心の自己防衛に違いない。
 そうやって怠けることを正当化しようとしてるだけだ。
 心の弱さの自己主張にほだされちゃいけない。

 これまで私たちはいくつもの最悪を抜けてここまで来たんじゃないか。
 今日の最悪だって同じように抜けられるだろう。
 明日か明後日になれば。

 降り止まない雨の中でも、明けない夜明けの闇でも、私たちは生きていける。
 泣き暮らしても、嘆き過ごしても、それは死んでることとは違う。
 私たちは自分が思うほど弱くない。
 きっと。

 駄目な日も、最悪の時も、それは人生の内側でのこと。
 人生の外側では何も起こらない。
 最悪の時も、駄目な自分も、今よりちょっとだけでも好きになることができたなら、また少しだけ元気になって明日へと向かうことができるだろう。
 今日で終わりじゃない。
 結論はまだ先だ。

 6月15日(火) 「目に映る風景を見てる私。
            その私が含まれた風景が意味するもの」

 夕暮れ時の郊外では何の問題も起こっていない。
 車の中から、そんなあまりにも平和な街並みを眺めていたら、世の中では何も起こっていないような錯覚に陥った。

 日焼けした部活帰りの中学生たち、自転車に乗った制服姿の恋人たち、民家の庭に忍び込む太った猫、子供と手をつないで歩く女の人、ランドセルを背負って駆け抜けるちびっ子ども。
 赤信号ですべての車は停止ラインに停止し、青信号に変わるとまた動き出す。
 私の視界に切り取られた風景の中では、一切のもめ事も、何の問題も起こっていなかった。
 誰一人そんな予感を匂わせるような人もそこには存在していない。

 この世界は本当にニュースが伝えるような悲惨な世界なのだろうか?
 ときどき分からなくなる。
 一体どっちがこの世界の本質なのか。
 あふれているのは不幸なのか幸福なのか。
 平和がこの世界の本質なのか、争いがこの世界の本来の姿なのか。
 何が特別で、何が特別じゃないのだろう?

 日用品を買うために店先の駐車場に車をとめていたら、すぐ後からもう一台入ってきた。
 それはもう20年くらい前の古びたホンダ車で、白髪のおじいさんが運転し、助手席にはおばあさんが乗っていた。
 その光景とタイミングに何かのサインを読み取ろうとしたのだけど、何故か思考が進まなかった。
 何を象徴してるのかしてないのかの判断がつかなかった。
 何かを思うことが正解だったのだろうか?

 世界が平和かそうでないか、どちらかに決めることはできない。
 自分の周りが平和だったらそれでいいという問題でもないし、自分の幸運を過信して安心するのも間違っているだろう。
 私が通りかかったのとは違う時間に、そこで大きな事故が起こっているかもしれない。
 あるいは、私には見えないだけで、そのとき家の中では恐ろしい事件が進行中だったかもしれない。
 結局のところ、自分が捉えられる狭い範囲をそのまま世界レベルまで拡大解釈してはいけないということだ。
 それに、世界の本質を正確に捉えたからといって、何がどうなるわけでもない。

 私は目に映る風景の中でどんな役割を演じればいいのだろう?
 寂しそうに一人で車を運転してる大人として、道行く子供にもの悲しい思いをさせたりしてないだろうか?
 私が存在してる風景の中で、私は少しは誰かの役に立っているだろうか?
 幸せや希望のサインを送れているだろうか?

 そんなようなことをぼんやり考えながら運転してたら、なんだか恥ずかしくなってきて、照れ隠しでアクセルを強く踏み込んでその風景の中から逃げ出した。
 大きな音のマフラー音で少しだけ平和な夕暮れ時の空気を乱しながら。

 6月14日(月) 「変化という本質から逃れることはできない。
            止まれば私たちは生きていけないのだから」

 何もかもがあまりにも過去のことになってしまうと感じている一方で、ずっと昔のことが振り向くとすぐ後ろにあるようにも思える。
 記憶の遠近感が上手くつかめない。
 つい最近の出来事がもう3年も前のことだったり、今年見た桜がもうずっと前のことに思えたり。

 何一つ大事なことなどないさと心でつぶやき、すべてが大事なんだと書いてみたりする。
 個別に捉えようとすると全体を見失い、全体を一気に捕まえようとすると伸ばした手が空を切る。
 この世界が実体なのかどうか、ときどき本当に分からなくなることがある。
 すべては幻ではないのか、と。

 極論に走るなと諭す声がする。
 何も裁くなと反論する。
 どちらの声も正義ではないし、正論でさえない。
 対岸への非難は川を挟んで石を投げ合ってるようなものでしかない。

 この世界は白と黒のモノクロ世界じゃない。
 灰色を入れた三色でもない。
 フルカラーの世界だ。
 やっかいなのは、人によって見えている色が違うということだ。
 見る角度によって何色にも変化するこの世界を、誰も正確に捉えることができない。
 多色という本質と、共通理解ではないという二つの本質が、この世界を致命的に混乱させている。
 赤い夕陽がきれいだねと言っても、見ている赤の色が違ったりする。
 青信号を青色だと言い、あれは緑色だと言う。

 個人の内側でもそうだ。
 多元的なものを一元的に捉えようとして、そのたびに失敗に終わる。
 言い切る先から世界は手の中からこぼれ落ちる。
 多様を無批判にそのまま受け入れると、今度は他人との共鳴ができない。
 共感は常に肯定と否定の上に成り立つものだから。
 私たちは時間軸の中で自分自身や他人と折り合いを付けていくしかない。
 ある人との会話では世界は美しいと言い、他の人とは分からないということで共感し、別の人との会話の中では美しいというのを否定して醜いと主張したりする。
 嘘を言ってるわけではなく、どれもが自分の思いだ。

 記憶は時とともに変質し、論理は揺らぎ、思考は入れ替わる。
 私たちは時間に運ばれながら自分の足で歩いたり走ったりする。
 決して一ヶ所にとどまることはない。
 この二重の移動が混乱を呼ぶ大きな要因になっているのだろう。
 みんなそれぞれ思いおもいの方に勝手に進んでいく。
 それぞれのスピードで。
 かつて共有した記憶もまた、お互いの中で違う速度で変化していく。
 変化に罪はなく、人は変化をコントロールできない。
 一生、変化の奴隷だ。

 変わらないものなど何もないと結論づけるつもりはないし、それは嫌だ。
 世の中には変わらないものがあって欲しいし、変わらないことの正しさのようなものもある。
 ただ、常に変化を覚悟しておかないといけない。
 人と人との関係性も、互いの変化の中で共感点を見いだしていくしかない。

 永遠は存在する。
 永遠の誓いを愚かなことだとは思わない。
 ただし、永遠は必ずしも不変ではなく、変化の連続なのだということだけは知っておきべきだろう。
 変わり続けることだけが存在の唯一の方法だ。
 止まれば永遠を失うことになる。
 時間が停止すれば存在できないのだから。
 人も世界も。

 6月13日(日) 「不足と過剰の綱引き。
             足りないのはどこかで余ってるからだ」

 何かが足りないと感じるのは、何かが過剰だからなのかもしれない。
 酸欠状態のときは、酸素の欠乏ではなく二酸化炭素の過剰で苦しいと感じるように。
 だとしたら、不足を満たすためには過剰なものを吐き出していけばいいということになる。
 私の日常で足りないものと過剰なもの……。

 たとえば、時間が足りないのは睡眠時間が長いからとか、恋愛不足なのは自分のための時間を守ろうとしすぎるとか、そういうことか?
 それだけではないと思うけど、完全に行き詰まっているとしたらそのあたりに突破口を見いだすためのヒントがありそうな気はする。

 不足と過剰は引っ張り合いだ。
 どこかで余分に持っていっている部分があるから不足なところが出てくるのだろう。
 一日24時間の時間割の中で、何かをする時間が足りないとしたら、何かに余分に時間を使っているということだ。
 時間は24時間で増減しないのだから。

 息を吐き続けると苦しくなるけど、息を吸い続けても同じように苦しくなる。
 日常においても、人生においても、自分がどういう状態で苦しいのかをきちんと見極めて、呼吸を整えるように不足と過剰のバランスを取ることが大切なのだろう。

 不足のところに何かを足そうとすると全体としてあふれてしまうということもある。
 足りないと感じたら、そこを新しい何かで満たそうとする前に、余分なところから持ってくることを考えた方がいい。
 時間が足りないのにそれ以上に何かをしようとしたら当然時間は足りなくなる。
 貯金が少ないのに更に物を買えばますます金はなくなる。
 不足は過剰と一体になって成り立っているということを知っておくべきだ。
 足りないと嘆くばかりでは何も解決しない。

 それにしても時間も金も足りねぇなぁ……。
 やっぱり理屈じゃない?

 6月12日(土) 「上手さに根性が加われば何者にでもなれる。
            根性抜きでは趣味の人で終わる」
 何事も上手いということはいいことだ。
 それは認めないといけないだろう。
 ただ、上手いというだけでは半分の正しさでしかないというのも事実だ。
 上手いだけでは何事も完結しないし、本当に大事なことを伝えることはできないのだと思う。

 上手いだけの歌、上手いだけの絵、上手いだけの写真、上手いだけの恋。
 それが人の心の深いところに届くことはない。
 感心はされても感動は与えられない。
 上手さでは埋まらない半分を何かで埋める必要がある。

 上手いだけの悲劇というものもある。
 上手さだけで勝負しようとして絶対的な才能に打ち負かされてしまうこととか。
 なまじ人より上手くできることで人生の進む道を誤ってしまう人が世の中に大勢いる。
 そこに救いを見いだすのは難しい。
 才能と心中するならともかく、上手さに溺れるのはつらいものがある。
 それは私自身にも当てはまることなのかもしれないけれど。

 器用貧乏という言葉はあまり好きではないけど、子供の頃、特に努力もしないのに周りより何でも上手にできたという印象は大人になってもなかなか消えず、死ぬまで勘違いで終わることもある。
 大切なのは上手くやることではなく、上手くなりたいという思いなのに、それに気づくのは案外難しい。
 才能と努力の問題にしても、才能半分、努力半分だと私は思っている。
 あるいは、才能30なら努力を70すれば、才能60で努力30の人間に勝てるという言い方もできるだろう。
 結局のところ、上手いだけでは100パーセントにはならないということだ。
 顔がいいというだけでは幸せになれないように。

 でも、上手くできることこそ努力をすべきだ。
 何もないところに足すよりも上手いところの上に足していく方が楽だし早いから。
 努力しなくてもできることを努力するのは難しいけど、それはした方がいい。
 人は苦手なことをして生きるよりも得意なことをして生きた方が幸せだろう。
 嫌いなことを文句を言いながらやるよりも、好きなことで苦労した方が自分にとってもいいし、世界のためにもなる。
 嫌いな科目の勉強をする時間があれば好きな科目をひたすらやった方がよかったことに今更気づいた。
 世間で生きていく上で、得意なものは2つも3つもいらない。1つあればいいのだから。

 好きこそものの上手なれ、これはとてもいい言葉だ。
 でも、好きなだけでは足りない。
 上手いだけでも半分でしかない。
 最後はやはり強い思いが必要になる。
 根性論は必ずしも間違ってないし、古くさいだけのものでもない。
 何かをものにしたり、何者かになりたければ、根性だ。
 ど根性さえあれば何でもできるし、何者にでもなれる。
 私は持ってないけど。

 6月11日(金) 「まだ触れたことがない多くのこと。
            経験を頼りすぎず侮りすぎず」

 私は経験至上主義ではないし、体験第一主義もその手の主張も嫌いだけど、それでもやっぱり自分の手で触れてみないと決して分からないことがたくさんあることだけは認めなければいけないと思っている。
 20代の頃はそれさえ認めないと頑張っていたが、今はそういう突っ張り方はやめた。
 折り合うことは恥ずかしいことじゃないと学んだから。
 大切なのは世間の当たり前を疑問も持たずに丸飲みしたりせず、自分なりに抵抗することだ。
 反抗するのは否定するためじゃなく納得して認めるためなのだから、自分が納得さえすればそれでいい。
 信念を曲げることも間違いじゃない。
 むしろ信念に固執することの方がよくないことだ。
 人の主張や、昔からの教えも、認めるべきところは認めないと。

 私にはまだ触れてないことがたくさんある。
 人として生まれ、人生の中で当然触れるべき多くのものに触れていない。
 だから人生がよく分からないのだろう。
 みんなは当たり前に知っている多くのことも私はたぶん分かっていない。
 触れさえすれば一瞬で分かるはずのことを知らずにいる。
 今まで触れ残したことをこの先で少しでもたくさん触れていきたいと思っている。
 失敗や間違いは後悔にならないけど、未知のものには未練が残るから。
 人生の地図には想像だけでは埋まらない部分がある。

 想像力がない人間は翼のない鳥のように空を飛べない。
 けど、自分の足で歩こうとせず、手を伸ばして触れようとしない人間は動物園の動物みたいなものだ。
 生きているけど生きてない。
 人は地球上のどこにでも行けるし、やろうと思えば何でもできる。
 檻に入れられているわけではないのだから。
 気持ちと行動力の不足は誰のせいでもない。

 何でも経験すればいいというもんじゃない。
 無目的に世界中を放浪しても立派な人間にはなれないように。
 大事なのは、好奇心を持ち、知りたいと願いながら、自分の足で地上を歩き、想像の翼で空を飛び、自らの手で触れてみることだ。
 生きるということがどういうことなのかを本当に知るために。
 その答えは他の誰にも出せない。
 自分で生きる中で知るしかない。

 6月10日(木) 「忘れることの残酷さ。
            忘れないことの優しさ」

 忘れることって、本当にそんなに大事なことなのかなと思う。
 つらい経験をした人を慰めるとき、人は忘れた方がいいと勧めることが多いけど、それは正しい助言なんだろうか。
 私はちょっと違うと思う。
 忘れるってことはなかったことにするってことだから。
 誰かを忘れてしまうということは、自分の中からその人を追い出してしまうということだ。
 それはやっぱり正しいやり方ではないと思うのだ。

 一度でも自分の中で大切だった人やものや出来事は、最後まで自分の中にとどめておくべきなんじゃないか。
 たとえどんな痛みを伴ったとしても。
 痛いからその部分を切断してしまうとか、痛みを打ち消すためにモルヒネを打つとか、そういうやり方ではなくて、痛みに自分を合わせていくやり方をとるべきだと私は思う。
 未練でも後悔でもいい。
 なんと言われても忘れないことが自分にとっても誰にとっても、最終的には一番いいことだと思うから。
 忘れようとする必要なんてない。

 忘れたいことはいくつもある。
 間違ったことや、失敗したことや、恥ずかしいことが。
 けどそれもまた自分の一部に違いない。
 忘れることは自分の一部をなくすことだ。
 欠けてない自分でいたければ忘れないようにしなくてはいけない。
 埋もれてしまった記憶も掘り起こそう。
 そして復元するのだ。
 そのとき初めて本当の自分が姿を現すだろう。
 数十年ぶりに。

 あなたは、物心ついてから今日に至るまでに好きになった人全員の顔と名前を思い出せるだろうか?
 私はどうだろう。
 だいたい思い出せるような気もするけど、どこかでこそっと記憶が抜け落ちてるような気もする。
 大事な誰かが。
 それは悲しいことでもあり、罪でもあるかもしれない。

 記憶こそが自分であり、自分は記憶なのだということを知る必要がある。
 記憶をなくさなければ、死んだ後も自分を失うことはないだろう。
 いや、私たちが今こうして生きているのは、もしかしたらなくした記憶を探すためなのかもしれない。
 だとしたら、忘れるという呪いにかかっていて、その呪いを解く方法を探しているのか?
 なくした記憶をすべて取り戻したとき、それが私たちが消えるときか?
 私たちは不完全なまま存在すべきなのか、完全体になって消えるべきなのか?
 記憶の不思議を巡る謎は依然として私たちの前に横たわり続ける。

 6月9日(水) 「ジャッキーを超えた男。
           その名は窪塚洋介」

 それにしても窪塚洋介はすごい。
 気の滅入るニュースが多い中、愛すべき珍ニュースとして私を大いに笑わせてくれた。
 考えれば考えるほど笑える。
 私は7階に住んでるのだけど、自分がもし9階から下に落ちたら絶対に生き残れる気はしない。
 下が芝生だろうが車のボンネットの上に落ちようが、フェンスに突っ込もうが、どう考えても無理だ。
 なのに窪塚くんは推定時速15kmで飛び出して全治三ヶ月って!
 腹立ち紛れにベンチを殴って骨折したダイエーの杉内でさえ全治三ヶ月なのに!
 いやぁ、ホントすごい。
 ジャッキー・チェンを超えたな。
 しかも私生活で。

 デビューした頃からやる男だと思ったけど、ここまでやる男だったとは。
 元々嫌いじゃないかったけど、これでますます好きになった。
 映画『ピンポン』の中にあったみたいに、「アイ・キャン・フラーイ!」と叫びながら飛び降りたのか、あるいは落ちる途中で映画『魔界転生』で演じた天草四郎時貞が乗り移ったのか?
 しかし並はずれた強運と生命力は実際賞賛に値する。
 尊敬はしないけど大感心だ。
 これを機に一回りも二回りも大きな役者になって欲しいところだ。
 死なない男キャラでもいけるし、バンジージャンプのレポーターもいい。
 芸の幅が広がったな。

 考えてみると高いところから飛び降りたいというのは、人間の中にある確かな欲求の一つなのかもしれない。
 バンジージャンプにしても、水泳の高飛び込みにしても、スキージャンプにして
も、スカイダイビングにしても、死なないと分かっていれば人は落ちることを楽しめるようにできている。
 窪塚くんがどんな気持ちで飛んだのかは本人にしか分からないことだけど、自分を試してみたかったというような思いがどこかにあったんじゃないだろうかと私は想像する。
 普通の人が大きな水たまりを飛び越せるかどうか試してみるというののもう少しスケールの大きなやつみたいな感じで。
 ニュースから伝わってくるある種のコミカルさは彼のキャラクターもあるのだろうけど、自殺とは明らかに違うトーンがもたらすものだろう。
 だから悲劇などでは決してなくて、私は喜劇だと感じている。
 奇行のようなことをすると世間に叩かれるタイプの人間と、なんとなく笑って許されてしまうタイプの人間がいるが、彼は後者だ。
 人間性の明るさがそうさせると言ってもいい。
 きっと親しい人間がお見舞いに行ったら、「大丈夫か?」と心配そうな顔で訊ねるよりも、「何やってんだ、おまえ」と笑顔で言うんじゃないか。
 たぶんこのエピソードは何年かしたら彼の中でも周りも笑い話になるだろう。
 喜劇と悲劇は紙一重と言うけど、それは演じる者によってだ。
 窪塚洋介は、悲劇を喜劇に変えられる数少ない役者だと私は思っている。
 だからみんなで大事にしないと。

 6月8日(火) 「結末を見ずには終われない。
           たとえそれがハッピーエンドじゃなくても」

 人間が抱いているすべての謎を解き明かしたからといって、何がどうなるわけでもない。
 宇宙の誕生から終わりまでを知ったからといって、この世界に生きる人々が劇的に幸せになれるわけではない。
 何の疑問もなくなって、すべてに納得がいくようになったからといって、生きることが簡単になるわけでもないだろう。
 人はどうして物心ついたときから、自分の中で生まれた謎を追いかけずにいられないのだろう?
 知りたいと切実に願う気持ちは、気の迷いに過ぎないのか?
 どんな予感をもって、分かるようになりさえすれば、と思いたがるのだろう?
 本能の命令に勝算はあるのか?

 私もこれまでずいぶん多くのことを考えてきたけど、分からなければ駄目だという頑なな思い込みが、少しずつ和らいできたのを感じている。
 もちろん知りたいことはたくさんあって、自分が謎を解明してみせるという野心も消えたわけではないけれど、分からないのなら分からなくてもいいと思えるようになってきた。
 それは堕落や退化なのかもしれない。
 ただ、精神的退化も進化の一形態だということは分かってきたから、それでもいい。
 多くを知れば知るほど分からないことが増えてきて、結果的に謙虚にならざるを得なくなったというのが実際のところかもしれないけど。

 私たちは世界のすべてを把握している必要はない。
 現実的にそんなことは無理なことだし。
 大切なのは、世界や人間や生きることの本質を感覚的に理解することだ。
 目に見えているものや認識できている範囲内で生きつつ、あとは感覚にゆだねれば案外間違ってないような気もする。
 広大な宇宙の中に地球があり、その長い歴史の中で人間として生まれ、生き、子孫を残し、死んでいく、それがすべてと言ってもいい。
 少なくとも、理解することよりも生きることの方が大切なのは間違いない。

 けど、私はやっぱり最後まで知りたいと願い続けるのだろうと思う。
 人間としての本分から外れていても、知ることで幸せになれなくても、分かりたい気持ちの方がいつも勝る。
 悲しい性とあきらめよう。
 とにかく知りたいという気持ちは依然として自分の中の奥深くでくすぶっている。
 知ってすっきりしたい。
 読み始めた推理小説は、犯人が分かるまで読み進めないとすっきりしないのと同じようなものだ。
 そもそもこの世界を作った犯人は誰なのか?
 そいつを見つけ、追いつめてやらなければいけない。
 そして、指を突き立ててこう言ってやるのだ。
 犯人はお前だ! と。
 それが私にとってのハッピーエンディングだ。

 6月7日(月) 「珍しいことはいいことだ。
           それが無駄な珍しさだったとしても」

 私たちはあまりにも多くの無駄に取り囲まれている。
 この世界には一体何種類の飲み物があるだろう?
 自然のもの、人工的なもの、加工したもの。
 何種類ものアルコール、お茶やコーヒー、日々増え続けるジュースなど。
 水さえあれば人は生きていけるというのに、休むことなくたくさんの飲み物を生み出し続けている。
 食べ物、服装、インテリア、電化製品、映画、本、娯楽、芸術、ニュース、情報……。
 けれど、この無駄こそがこの世界の本質であり、世界を解き明かすためのキーの一つでもあると私は思っている。
 無駄ほど素敵なものはないし、無駄のない世界くらい美しくないものはない。
 シンプルが美しいと思えるのも対極に多様があればこそだ。

 この世界には約100万種類の生き物がいるという(その中で昆虫が80万種類)。
 私たちは生きてから死ぬまでに何種類の生き物を見たり触れたりできるだろう?
 いや、そもそもこんなにもたくさんの種類の生き物が必要なのかどうか。
 必要か必要じゃないかといえばきっと必要じゃない。
 食物連鎖にしてもそれほどの種類はいらない。
 人間を楽しませるためにいるのか?
 そんなわけはない。
 人間が出現する前から無数の生き物がいたし、人間がいなくなった後もいるに違いないから。
 地球がどんなに暑くなっても冷たくなっても、生き物が絶滅することはないだろう。
 では予備としてこれだけ用意されてるのか?
 いや、それもない。
 環境が激変したらそれに合わせて進化すればいいだけだから。
 何のためにこれだけ多くの生き物が必要なのか?
 神様の趣味?
 たぶん、単なる偶然だ。
 たまたまだろう。
 そこには魂も意義も目的も必要ではない。
 だとすると、人間も例外ではないのではないか。
 そもそも人間にだけ魂があって他の生き物にはないという発想が怪しい。

 私は、この世界は人間にとって都合のいい説明はつかない世界だと思っている。
 奇跡には違いないけど、人間が思うようなものではない。
 この世界の本質は間違いなく多様性だ。
 縦の構造ではなく横の構造だろう。
 支配、被支配は見かけ上のものにすぎない。
 人間は確かに特別な存在かもしれない。
 けどその特別さは、たとえば花の中における桜とかヒマワリとかバラのような特別さでしかない。
 世界は時間のうねりの中で捉えるべきものだから。
 現在だけを切り取って人間の特別製を主張するのは無理がある。
 人間が宇宙の始まりから終わりまで存在したのなら、宇宙は人間のためのものかもしれない。
 でもそうじゃなく途中から出てきて途中で消えていく生き物にすぎないのなら、人類は宇宙を構成する一つの要素に過ぎないことになる。

 私たちはそのことを嘆くべきなのか?
 いや、私はそうは思わない。
 たとえ宇宙の片隅に突然生まれたあだ花だとしても、この多様な宇宙の中でもひときわ目立つ美しい花なのだから、そのことを喜び、誇りに思いたい。
 私たちは自分たちが思うほど重要な存在じゃない。
 けど、思っている以上に貴重な存在だ。
 宇宙の愛すべき珍種として。

 6月6日(日) 「過剰な幸福は人を駄目にする。
           甘すぎるものが体に悪いのと同じで」

 穏やかすぎる一日に多くの言葉は生まれない。
 一日中波のない海を眺めて過ごしていると言葉が出てこないように。
 平和すぎる世界は何も生み出さない。
 語られないままに朽ちていく。
 人は平和を求める、平和によって駄目にされる。
 穏やかさは人間にとって一番の強敵なのかもしれない。

 何も努力しなくても幸せなら、人はたぶん頑張れない。
 腹が減らなければ今ほど人は働かないだろう。
 人間は頑張って克服しなければならないものがなければ努力しない生き物だ。
 不幸や争いもまた、人間にとって必要不可欠なものだ。
 ヨットが前へ進むための向かい風みたいに。

 満ち足りた状態の中で自分で自分に負荷をかけるのは難しい。
 春休みに勉強するのと同じくらい。
 満足しなくても納得してしまえば同じことだ。
 常に今以上を求める気持ちを持っていないと、人間はとめどなく駄目になっていく。
 そういう意味で足りないことをいつも意識することが必要になる。
 足りないと嘆いたり愚痴を言ったりしても、それが進む原動力になってくれている。

 私も平和の中で穏やかに過ごしてる場合じゃない。
 そんなのんきに構えていては滑り落ちていくだけだ。
 せめて一日の終わりに多少なりとも意味のある言葉を生み出せるくらいには非平和的な毎日を過ごさなければならない。
 明日は波と風を探しに出かけよう。

 6月5日(土) 「ネットの海を漂い続ける想い。
           自分の名札はなくても言葉は残るだろう」

 想いは言葉に乗ってネットの世界を漂い、やがてどこかで着地する。
 運が良ければ、そこで根を張り、芽を出し、花が咲くこともあるだろう。
 そこは遠い未来の見知らぬ異国かもしれない。
 多くは雑踏に紛れ、人々の足に踏まれ、砕けて、息絶えてしまうのだろうけど。

 ネットの世界の住人になった私たちは、自分が未来に存在する可能性を手に入れた。
 かつては有名になることが未来へ記憶をつなぐただ一つの方法だったけど、今の私たちはデジタルに言葉や映像を刻むことで、ある種の普遍性や永遠性を獲得した。半ば無意識に。
 本を書いたり映画を作ったりするのと同じようなことを誰もができるようになったことは、非常に意味のあることだと私は思っている。
 もちろんすべてが価値のあるものなどではない。
 ただ、誰の中にも耳を傾けるべき想いや言葉あり、今まではそれを発することも受け取ることもできなかった。
 つまり、送り手にしても受け手にしても、可能性が一気に広がったということが大きいのだ。
 空間的な広がりだけではなく、時間的な広がりという意味でも。

 10年前、ネットの住人でなかった私には届くはずのなかった多くの想いや言葉を今受け取っている。
 そこから得たものは大きい。
 一人では分かり得なかったたくさんのことも知った。
 私の想いもまた、どこかの誰かに届いているだろうか。
 私が死んだ後、その想いを誰かが受け継いでくれるのなら、私はきっと絶望から解放されるだろう。
 人は未来を持つ限り絶望に敗北することはないのだから。

 6月4日(金) 「忘れないでと彼女が言う。
            忘れてくれと彼が言う」

 脆い子供時代に砕けず、危うい10代をすり抜け、今ここでこうして生きている私たちは、けっこう偉いんだということを、もう一度お互いに確認し合あおう。
 大人である自分にもっと自信を持っていいし、大人たちに対してもっと敬意を払おう。
 ただ長く生きればいいってもんじゃないと思っていた季節を過ぎて、ただ生きてるだけでもいいんだと思えるようになれたことを喜びたい。

 音を消したテレビに映る小学生殺害事件のニュース映像を観ながら、ミスチルの「タガタメ」を聴きながら、ドラマ「電池が切れるまで」を観ながら、ここ数日そんなようなことを思っていた。

 世界中で毎日起こっている悲惨な事件や事故に対して、私たちは何を思いどれだけ思いを馳せればいいのか?
 他人事だと何も感じないことは間違っているというのか?
 自分のことのように心を痛めてみせることが正しいのか?
 その問いの答えを正確に導き出せる人間はおそらくいない。
 誰もこの世界の不幸に対して責任は持てないし、劇的に解決することもできない。
 正しく思うこともきっとできないだろう。
 でも、何もできないわけじゃない。
 できることが一つある。
 それは自分が見聞きした悲しい出来事を忘れないことだ。
 誰もが消えゆくこの世の中で、せめて記憶の中に存在や出来事を封じ込めておくことが私たちに出来るささやかな良いことなんじゃないだろうか。

 自分は決定的な被害者や加害者にならなくて助かったと安心するのではなく、必要以上に同情するのでもなく、時代や社会に腹を立てたりせず、ただ思いを馳せればいい。
 非難せず、裁こうとせず、悲しんだりもせず。
 判断さえ必要ではない。
 ただ想って、忘れなければそれでいい。
 それ以上のことができると思うのは少し傲慢だ。
 この世界の本質の半分は不幸で、誰も世界の半分を背負うことなどできないのだから。

 こうして今日も生きている私たちは、彼ら彼女らの途切れた夢の続きを見て、志を受け継ぎ、生きたくても生きられなかった人たちの明日を生き、そして未来を生きる人々へ想いを引き渡そう。
 目を閉じて眠りに落ちるまでに、今まで死んだ人たちのことを順番に思い出してみる。
 知り合いもそうじゃない人も、有名人も無名人も、思い出せる限り。

 声にならない心の叫びを聞き、交わせなかった約束を果たそう。
 そして心の中でこう言おう。
 私の中で共に生きよう、と。
 大切なのは、忘れないで生きること。
 私たちがしてしまう一番残酷なことは、忘れてしまうということだ。

 6月3日(木) 「幸福を追いかけていると道に迷う。
            終点の駅の名前は幸福じゃない」

 幸福へは一直線に向かうのではなくて遠回りしていってもいい。
 もしくは、幸福というのは結果論に過ぎないのかもしれない。
 幸福だけを求めるよりも、自分がしたいことをして、すべきだと思うことを全うすることを優先させた方がいい。
 幸福は目的でも手段でもなく、副産物のようなものなのだろう。
 チョコのオマケを揃えるために大人買いするような幸福追求をしてると、どこかで幸福の本質を見失う気がする。

 私たちは幸福の名のもとに生きることを誤魔化してはいないだろうか?
 不幸だから自分はかわいそうなのだとか、自分は一所懸命幸福を追求してるからそれで間違ってないのだとか。
 子供の頃を思い返してみると、私たちはたぶん幸福を追求したりはしていなかった。
 幸せな気持ちはあったけど、幸福という概念を求めてはいなかったはずだ。
 私たちはいつからか、感情を名詞に置き換えるようになってしまったらしい。
 それ以来、どこか調子が狂ってしまったんじゃないだろうか。
 誰かを好きになるというだけではなく、恋愛とは何かを考えるようになって自分の感情が分からなくなってしまうみたいに。

 今更子供の頃の気持ちで毎日を過ごすのは難しいし、たぶんそんなことをしても意味がない。
 だから戻すことを考えるのではなく、進めることを考えよう。
 今幸福なのかと自問自答する代わりに、自分は何をしたいのかと自分に問いかけることにしよう。
 自分の中にある名詞を動詞に置き換えるのだ。
 旅行の計画を立てるのではなくどこへ行きたいのかと考え、明日の予定の代わりに明日何をしたいかを考えることにしてみる。
 どんな資格を取りたいかではなくどんな仕事をしたいのか、どんな恋愛をしたいのかではなくどんな人を好きになりたいのか。
 ちょっとしたことだけど、そういう小さな発想の転換で何かが変わらないだろうか。

 幸せになることが結末じゃない。
 幸せの向こう側で何をするかが大切だ。
 おとぎ話のめでたしめでたしの後をどう生きればいいのか。
 ずっと遠くまで見えていないと、たとえ幸せになれたとしてもそこで行き詰まることになる。
 幸せになることがアガリなら簡単な話だ。
 けどそうじゃないことだけははっきりしてる以上、その先を考えなくてはならない。
 私たちは人生のゴールにたどり着くことを目的に生きてるのではない。
 ゴールテープを切った後の日々を生きるために生まれてきたのだ。
 先は長く、人生は思う以上に短い。
 蜃気楼のような幸福をフラフラと追いかけているとすぐに寿命が尽きてしまう。
 だから、もう少しだけ毎日を急ごう。
 幸福の誘惑に心奪われず、果てを見るのだ。
 なるべく遠くまで行けるように。

 6月2日(水) 「超立体地球図の完成はいつか。
            作るときは一声かけて欲しい」

 物を知っていれば偉いわけじゃない。
 賢ければ正しいわけでもない。
 いろんなことを知っているくせに間違った論理で生きていている人間も大勢いる。
 気をつけてはいるつもりだけど、私自身陥りやすい落とし穴にはまっていないと言い切る自信はない。

 ある程度の一般常識は必要だ。
 教育を受けることも大切だし、教養もあるに越したことはない。
 ただ、それよりもこの世界における人間の在り方を読み解く上で、重要なキーとしての知識を持っていることが肝心だと私は思っている。
 数字だったり、情報だったり。

 星の数は一説では1,000億個×2,000億個だと言われている。
 一つの銀河系は1,000億個の星から成り立っていて、そういう銀河系が2,000億個あるということだ。
 この数字は決して無数などではないし、荒唐無稽なものでもない。
 私たちを取り囲む確かな数字であり、現実だ。
 これ意味するものはとても重い。
 地球中心の世界観は間違っているということだ。神の問題も、輪廻転生も、天国や地獄や、天使や悪魔も、この数字の前では崩れてしまう。
 私たちは自分たちが思っている以上に不可解な状況の中にいる。
 あまりにも自分たちとかけはなれたスケールの中にぽつんと置かれているのだ。
 これがどういうことか理解できなくても、不自然であることにだけは気づく必要があるだろう。

 地球の歴史は約46億年前だと言われているが(実際はもっと長いという説もある)、最初の生命が誕生するまでに10億年かかり、生物が陸にあがるまでに40億年かかっている。
 6,500万年前、それまで1億3,500万年地球上を支配していた恐竜が絶滅し、400万年前にやっと人類が誕生した。
 文明が生まれてから数万年にすぎない。
 年を金に置き換えて考えると少し分かりやすい。
 億万長者の恐竜に対して、中国4,000円の歴史とか。
 人間は、初めて1万円のお年玉をもらって大金持ちになったつもりの小学1年生のようなものだ。
 宇宙の歴史をカレンダーにたとえると、人類の誕生は大晦日の昼過ぎにすぎない。
 つまり、それまで人類は地球に不在だったということだ。
 人類中心の世界観では絶対に宇宙は捉えきれない。

 日本では17分に1人が自殺している。
 これは世界のワースト5に入る。
 こんなにも豊かな国なのに。
 テレビのバラエティ番組を1時間観て笑っている間にも、日本のどこかで3人か4人は自殺していることになる。
 他にも事故、殺人、病気など、猛スピードで人は死んでいっている。
 と同時に猛烈な勢いで生まれてきている。
 あるいは、こうしてる間にも多くの種が絶滅して、伝説上の生き物になっていっている。

 夫婦の遺伝子を調べてみると、ほとんどのカップルは自分とは遠い遺伝子を持った同士が結びついているのだという。
 同じ型の遺伝子を持つ同士は惹かれ合わないということだ。
 つまり、自分の中にない、そして一番遠い遺伝子を持つ人間との間に子孫を残すことでより強い生命体を作る仕組みになっている。
 恋愛感情も実は遺伝子が脳に命令しているらしい。

 といったようなことを雑学として知っているのではなく、物を考えたり世界観を組み立てるときに役立てることが大切になる。
 無数の本や資料や情報があふれる中で、何が重要な知識なのかを見極めなくてはいけない。
 そして次に、すべての情報を捨ててはいけない。
 専門外のことや自分にとって都合の悪い情報を切り捨てると世界観が歪むから。
 すべてをいったん自分の中に取り込んで、それを血肉に変えなければならない。
 間違った情報もそれが生まれる必然性は必ずあるし、嘘も人間の心理が欲して求めたものだから、それらも区別せずに飲み込んでみる。

 私たちは多くのことを知っている。
 同時に多くのことを知らない。
 安心してはいけないけど、悲観したり卑下したりすることはない。
 なんでも知ってると威張ってる人を馬鹿にすることもない。
 この地球に生きた人間全員の知識を集めれば、かなり立派な地球図のようなものが出来上がると私は思っている。
 未来において、超立体地球図ができるに違いない。
 地球儀と百科事典と時間軸を融合させたようなものが。
 それはネットの中でかもしれない。
 果たしてその時まで私は生きていられるかどうか。


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