2004.5.3-
6月1日(火) 「弱った翼で未来へ向かって飛ぶ。 宇宙で真の人間性に目覚めるために」 |
人は背中に羽を持たない代わりに心に翼を持った。 両手を羽ばたかせても飛べないけど、目を閉じればどこまでも飛んでいける。 遠い宇宙へも、遙かな未来へも。 なのにいつからか、私たちの心の翼は退化してしまった。 文明が生まれ、便利なものがいくつも発明され、物があふれ、見ることばかりをするようになってしまったから。 眠るとき以外に目を閉じることもほとんどなくなった。 そして今、私たちは高く飛べない。 もうかつての人々のように高くは飛べなくなってしまった。 今更何もなかった時代へは戻れない。 けど、人類は未来において新しい翼を手に入れるときが必ず訪れるのだと思う。 本当の宇宙時代に。 人類が宇宙に旅立ったとき、人はかつてない心の翼を持つことになるだろう。 何もかもがあった地球を離れ、何もない宇宙空間を漂うとき。 地球上で人類は成熟したけど、宇宙ではまた無知で無力な子供に戻ることになる。 だから新しい翼が必要になる。 それで人はどこまで飛べるのだろう? 宇宙の果てまで行けるだろうか? でもまだ当分宇宙時代は訪れそうにないから、私たちは小さな翼を精一杯広げて低いところを飛ぶより他に仕方がない。 長い距離も飛べないから、ときどき地面に降りて翼を休めながら。 このまま未来へ向かって低空飛行を続けることになる。 いつか高く飛べる立派な翼を手に入れることを夢見ながら。 |
5月31日(月) 「時代は進み、不幸は増えた。 そして世界はもはや個人を幸福にしてくれない」 |
人は自分にとっての最優先事項が他人にとってもそうであるように勘違いしがちだ。 病気の人は病気を、借金を抱えてる人は借金を、忙しく仕事をしてる人は仕事を、恋愛中の人は恋愛を、他人もそれを最大限尊重すべきだと思い込む。 決してそんなはずないのに。 自分にとって命よりも大切なことでも、他人から見れば何の価値もないということはよくあることだ。 100パーセント絶対的な確信も、人にとってはそうじゃない。 個人的な絶対感覚の押し付け合いがこの世界をひどく混乱させ、無駄な争いを起こさせている。 価値観のぶつかり合いは悪いことではないけれど、押しつけを自覚してる人間が少なすぎるのだろう。 人は自分の欠けている部分を過大評価しすぎる。 そして必要以上に自分を憐れみ、実際以上に他人に不幸だと見られたがる。 そのくせ同情されると攻撃的になる。 人間は地球上に生息する生き物の中で、唯一の卑屈な生き物だ。 賢くなるということは自信をなくすことなのだろうか? 知能が発達すればするほど歪みが生まれるけど、それは避けられない必然なのか? この先、人間は更に卑屈になり、自らを憐れみ続けることになるのだろうか? それとも、精神的な弱さを決定的に克服するキーをどこかで見つけることになるのか? 人類は将来、強くて揺るぎのない平凡性へと向かうのか、繊細な天才性へ向かうのか、あるいはまったく別の方向へ向かうことになるのか? 100年前に生きた人たちに比べて私たちは、なんだかとてももろくなったような印象を受ける。 たくさんのものを発見したり発明したり、進歩成長をしてきたけど、どこか弱く なってしまった。特に精神的な面で。 このままその傾向は進むのか。 寿命は延び、多くの病気を克服し、世の中は便利になったけど、不幸だけはいっこうに克服できず、むしろ増えていっている。 自らを憐れむのも当然なほどに。 いつか不幸の押し付け合いみたいなことから逃れることはできるのだろうか? 不幸が健全な姿になり、人間が卑屈にならず、もっと確信を持って生きていけるような世界とはどんな世界なんだろう、と想像してみる。 健康で長生きするだけでは充分じゃない。金があって欲しいものが何でも買えても何かが足りない。もっとたくさんの天才が現れたとしても苦悩は深まるばかりだろう。 たぶん、今の方向性では無理だ。 人間性が大きく変わり、それに伴って世界も様変わりしなければ駄目だろう。 問題はそういう世界の完成型を誰も思い描くことができないということだ。 自分にとって都合のいい世界なら誰でも想像できるけど、誰にとっても都合のいい世界というのは想像すらできない。 私たちはこのままずっと、我を見失った混乱状態の中で生きていくしかないのだろうか? 先のことはどうなるか分からない。 考えて分かることでもないから、見守っていくしかないだろう。 ただ、自分のことを言えば、不幸自慢と自己憐憫だけはなるべくやめておこうと思っている。 これでも昔に比べたらずいぶんましになったけど、まだまだできていないところもある。 思うに、世の中をよくするには、ひとりひとりの幸福能力を上げていくしかないんじゃないだろうか。 どんな世界、どんな時代、どんな状況でも自分の中に幸福を見いだせる人間が多くなれば世界は今よりよくなるような気がする。 規模は大きくなったとはいえ、この世界はひとりひとりの集合で成り立っていることに変わりはない。 個人の成長が結果的に世界の改善につながるのだと私は思う。 もはや一人のヒーローや指導者では世界は変わらない。 そういう意味では時代は正当な方向に進んでいると言っていい。 私たちはもう、無知でか弱いだけの被支配者ではない。 幸福能力を上げること、それが人類の今後の課題になっていくだろう。 時代や社会が人を幸福にしてくれる揺りかごの季節はもう終わったのかもしれない。 |
5月30日(日) 「未来の自分に会いに行こう。 駆け足で」 |
もっと先へ行こう。 できるだけ遠くまで行きたいと思う。 そこに自分の新しい可能性があるから。 昨日まで分からなかったことが今日になって突然分かるようになったり、今日まで気づかずに過ごしていたことに明日気づくこともあるだろう。 時間が私たちを運んでくれるけど、私たちは自分の意志と力で駆ける足を持っている。 だからもっと速く走るのだ。 限られた時間の中でなるべく遠くまで行くために。 人の可能性は閉ざされていないし、行き止まりもない。 目の前に向かってずっと続いている。 どんなに先細りになったとしても、道が途切れることはない。 人として生きている以上。 誰もが明日という日を持っているわけではないけれど、可能性のない明日は存在しない。 それが時間というレールから外れることができない人間にとっての唯一の救いでもある。 たとえば10年前の自分を思い出して、その時の自分と今の自分を比べてみる。 もうあと10年生きてみたいと思わないだろうか? 自分はどこまで行けるか知りたくないだろうか? 10年あればずいぶん変われる。 10年前から今日まで、いろんなことがあり、自分自身も様々な方向に変化したことだろう。 初めての経験もたくさんあったに違いない。 それまで知らなかった自分にも出会えたはずだ。 生きている間は可能性があり、可能性がある以上人として駄目と決まったわけじゃない。 生き延びて先へ行くこと、それだけが自らを救う方法だ。 私たちはもっといい人間になれる。 昨日より今日、今日より明日。 |
5月29日(土) 「悪い見本を見て人は初めて気づく。 何をしてはいけないのかを」 |
何をすればいいのかは分からなくても、何をしなくてもいいのかなら分かる。 過去の人々の生き方と同じことはもうしなくてもいい、そういうことだ。 彼らと同じことをする必要はない。 同じ発明を二度する必要がないように。 人の人生というのは人類における新発明のようなものだ。 トライアル・アンド・エラーと言った方がいいかもしれない。 試行と失敗、それが人の人生だ。 失敗の積み重ねが人類の歴史に他ならない。 偉人の人生でも真似すればそれは同じ失敗を繰り返すことになる。 出来る限りオリジナルであることを目指すことだ。 オリジナルでありさえすれば、その人生は間違いではない。 人と違うということはそれだけで意味のあることだから。 人類への貢献というのはかならずしもプラス方向だけじゃない。マイナス方向への貢献というものもある。 人の手本となることと同じくらい、悪い見本となってみせることには価値がある。 世紀の極悪人も世界の役に立っているのだ。 その視点を見逃すと、世界を捉え間違える。 天の邪鬼とか変わり者と呼ばれても、人と違うことをすることが正義だと信じたい。 何をすれば正解なのか最後まで分からなくても、しなくてもいいことを避け続けていけば、それが結果的に正解になるだろう。 消去法の人生論もある。 まだまだ人がやり残してることはたくさんあるし、試みてない生き方もあるはずだ。 私にしても、誰にとっても。 発見されてないものも、発明されるのを待っているものも無数にある。 私たちは可能性の発掘者としての任務もあるのだということを忘れてはいけない。 世界の余白を埋めること、それも人として大切な仕事の一つだ。 |
5月28日(金) 「正体不明の違和感。 もしかしたら実体はないのか?」 |
毎日感じる違和感の正体を、目を細めて探ってみるけど、いっこうに掴めずに いる。 今日も収穫なしだった。 相変わらず謎のままだ。 正体が掴めないことには対策も講じようがない。 だから、またなし崩し的に明日へと向かうことになる。 毎日に確信を持てる時期というのは、人生の中でごく限られている。 それは私だけではないだろうと思う。 違和感を感じない日々の方がきっと少ない。 ただ、今回のは今まで感じたことのないもののように思えて、それが少し不安だ。 放っておいたらいつか消えるたぐいのものではない気がする。 どうしたものか。 考えて分かるようなことでもないから、今日のところはここらであきらめることにする。 誰かのせいにだけはしないようにと念を押して、また一日を終える。 |
5月27日(木) 「前向きなやつなんて大嫌いだ。 でも自分は前向きなやつになろう、こっそりと」 |
ささやかな幸せをよしとすることをよしとしないようにしたい。 平凡でもいいではないかという考え方をぎりぎりまで否定し続けたい。 小さな悟りは意外な強敵だったりする。 大志を打ち消してしまうから。 たとえ今はよろめく足取りで歩いていても、力尽きてうずくまってしまっても、また駆け出したいという思いだけは失わないようにしよう。 現状に満足してるふりをしたり、不満をなし崩しにしてしまわないように。 どんな方向でも、どんな形でもかまわない。現状維持でさえなければ。 非現実的な夢物語とは別に現実的な欲求や上昇志向がある。 そこのところを誤魔化かずに上手く利用したい。 できてもできなくても気持ちだけは強く持っていよう。 人は現実を言い訳にして甘えてしまうものだ。 私は特にその傾向が強い。 もちろんすべてが思い通りにいくはずはないし、上手くいかないことの方が多い。 それでも自分の中で現状をよしとしてまえばそれ以上の自分にはなれない。 人生は下りのエスカレーターを登るようなものだ。歩き続けることでようやく下がらずに済む。休めば下り、登りたければ走るしかない。 それでもいいじゃないかと私の中で声がするけど、その声に耳を貸していけない。 悪魔の確信めいた言葉と天使の弱々しい声を聞き間違えないように。 前向きに生きることも、そういう説教じみた言いぐさも本当は好きじゃない。子供の頃から嫌いだった。 けど、好むと好まざるとに関わらず、無理矢理にでも前向きにならなければ自分はどんどん駄目になっていくという事実の前では前向きにならざるを得ないのが現状だ。 だから仕方ない。 練習が嫌でも練習しないと何事も上手くならないし、勉強が苦痛でも勉強しなければ賢くはなれない。 誰かに押しつけられると余計にやる気がなくなるから、せめて言われる前に自分からやろうと思う。 とにかく、分かったような気にならないことだ。 確信を持たず、悟ったりもしないように、自分によく言い聞かせよう。 まだ、次、もっと、---この3つの言葉をいつも忘れないようにしたい。 |
5月26日(水) 「正解の言葉を探す。 結果よりも早く」 |
毎日、何をそんなにむきになってたくさんの言葉を書いたり話したりしてるんだ? そう自分に問いかける。皮肉混じりに。一日に2度、3度と。 本当にそうだ。私は一体何が言いたいんだ? と、逆に聞き返す。 質問に対して質問で返すのはよくないことだと知りつつ。 そしてお互いに答えは返らず、問いだけが交錯して虚しく漂う。 携帯メールというのはとても難しい。 何年もの間に、無数のメールを書いてきたけど、携帯のメールはいまだに難しいと感じる。 250文字に書きたいことを収めるのにいつも苦労する。 すぐに制限数を超えてしまう。挨拶を削り、無駄な単語を消し、接続詞もやめ、長い言葉を短い言葉に置き換える。 それでも収まらないときは、また最初から書き直す。 結果的に最初の文章と比べて短くしたものが良くなっているのかどうかはよく分からないのだけど、短い文章の中に書きたいことを詰め込むという作業は訓練としては面白いものだ。普通のメールではこういうことはしないから。 自分も携帯から書いているとまた事情は違ってくるのだろうけど。 言葉というのは、自分の思惑をしばしば超える。 良い方へも悪い方へも。 自分ではまったく思いもよらない反応にあったりすることもあって、驚きを通り越して愕然とすることもある。 この前、何気なくネットをさまよっていたら、ドラマ「愛し君へ」の主題歌である森山直太朗の「生きとし生けるものへ」を大嫌いだと日記に書いているページに辿り着いた。 驚いたのはその理由で、「こういう規模の大きい歌は理解できないから大嫌い」なのだそうだ。 歌を嫌いに思う理由は色々あるし、人それぞれだから別に驚くことはないのだけど、スケールが大きすぎて理解できないから大嫌いという発想に私はすごくびっくりしてしまったのだった。 理解できないことと大嫌いがイコールで結ばれるなんてことは一度も思ったことがなかったから。 私の中ではスケールが大きければ大きいほど広い視野に立って物事を捉えてるからいいんだという思い込みがあって、それが世間的には必ずしもそうでないということをほとんど初めて知り、後頭部をがつんと叩かれたような思いだった。 どちらの考え方が正しいとかどうこうではなくて、自分の思い込みや言葉に対する固定したイメージというのはけっこう危険なんだなとあらためて思い知らされた。 正しい言葉というのはない。 文学的に正しい言葉づかいというのはあるとしても。 結果論として正しい言葉や間違った言葉はあるけど、発する前は誰も正しい言葉を知らない。 キャッチャーがサインを出してピッチャーが投げる球のように、打たれれば悪い球と言われ、抑えればいい球だったということになるみたいに。 それでも私は正しい言葉というものをいつも見つけたいと思って探している。 ここ一番、大事な場面で、次はどんな言葉を発すれば正しいのか? 誰かの切実だけど何気ないふうを装って投げられた問いに対して、どの言葉をどれくらの強さで投げ返せばいいのか? 相手が望んでいるであろう言葉と、自分が発したい言葉の間で迷う。 状況によっては、あえて間違った言葉をぶつけることも必要かもしれないと思ったりもする。 相手にとって思ってもみない言葉が意外なほど深く突き刺さることもあるだろう。 私自身、どんな言葉で自分を納得させることができるのだろうか? 私がこれまでの人生の中で発した言葉の中で、一番素敵な言葉って何だろうと考えてみる。 思い返してみるけど、これだという決定的な言葉は見あたらない。 それじゃあ、この先で見つけなければいけない。 生涯で最高の言葉を。 |
5月25日(火) 「長生きするというのは絶対の正義なんだ。 戦場で最後まで生き延びる兵士のように」 |
来年に希望はなくても、自分の将来に過度な期待ができなくても、たとえば50年後の未来には希望が持てる。 この先、世界はどんなふうに変化し、どんなものが発見され、どんな便利で画期的なものが発明されるだろうと想像すると、なんとしてでも長生きしてみたいと思う。 自分の目で確かめて、自分の手で触れたい。 死んだら何も見られないし、味わえない。そんなの詰まらない。 千年後、1万年後、1億年後の地球を思い浮かべてみる。 そこに自分は存在してるかもしれないし、してないかもしれない。 何度も転生してるかもしれないし、死と共に消滅してるかもしれない。 地球があるのかないのか、人類は生き残ることができているのかいないのか。 許されるなら、すべての時代に偏在していたいと思う。 生きるということは、自分個人としての人生だけではない。同時に社会や世界や時代を知ることでもある。 戦争もなく、大きな社会的変化を知らない私たちの世代は、そのことを実感として知ることは難しいのだけど、私たちは確かにいくつもの時代をまたいで生きている。 長生きしてもいいことなんてないと言う人もいるけど、そうじゃない。 様々な変化を目にしたり、歴史の目撃者になったり、人々の移り変わる様を見ることもとても面白いことだ。 それだけでも生きる価値がある。 今100歳の人たちは、明治、大正、昭和、平成と4つの時代を生きてきている。 その間には様々なことがあり、信じられないくらい何もかもが大きく変わったと感じているだろう。 戦争があって、高度経済成長を体験し、平和で牧歌的な最後の時を経て、バブル経済に浮かれ、今PCやネット全盛の不況時代を生きている。 4つの年号を生きるというのはどういうことなのだろう。 私には上手く想像できないけど、単純にうらやましいなと思う。 これから世界や時代はどう変わっていくのか、それは分からない。 でも私は悲観はしていない。 どんなことが起きても、どんなふうに変わっても、それぞれの状況の中で楽しめるような気がしている。 自分の人生がどんなに上手くいかなくても、生きてこの世界に参加できているということだけで嬉しく思う。 私の中ではいつも、絶望より希望の方が重たくて、それが私をこの地上につなぎ止めてくれている。 |
5月24日(月) 「正しさコレクターは正しい人ではない、 ただの収集家だ。制服コレクターみたいに」 |
私は正しさコレクターのようなものになりたいと思っている。 自分の中だけでなく、人の中にそれを探して見つけて集めたい。 どんな人間も全面的に正しくなることはできないし、すべての正しさを体現することはできない。 誰もが大部分の間違い中に何らかの正しさを持っていて、それを体現している。 どんなに極悪人に見えたとしても、正しさがゼロの人間はいないと思う。 私はそれらの隠れた正しさを見いだし、自分の発見コレクションに加えたい。 そうやってこの世界のあらゆる正しさをすべて集め終わったとき、それを発表して自慢してやりたいのだ。 珍しい正しさから、絶滅した正しさまですべて網羅したい。 私自身、自分を正しい人間だとは思ってないし、正しい生き方もしていない。 ただ、正しさの本質だけは知っているつもりだから、人の中に正しさを見つけることができる。 正しさとは何か? それは、簡単に言ってしまえば、誰かにとって意味や価値を持っている、ということだ。 自分が嫌いなタレントでもたくさんのファンがいればやっぱり正しい存在なのだし、どうしようもない上司でも奥さんや子供がいれば正しいということで、ヒトラーでも信奉者が大勢いたのだから正しいと言わざるを得ないのだ。 正しさというのは全方向性でなくても、一方性でいいものだから。 あらゆる価値観は、状況や場所や時代によって常に変化している。 正しさの基準も例外ではない。 わずか一瞬でも意味や価値を持てばそれは正しいことになる。 それでは誰も彼もが正しいことになってしまうではないかと思うかもしれない。 実際その通りだと私は思っている。 この世界における全員は正しいのだと。 それぞれが部分的な正しさを担っている。 正しいと認められないのは自分にその能力がないだけのことだ。 すべての人は何らかの正しさを体現してるから、今ここに人間として存在しているに違いない。 真に正しくない人間はこの世界では存在し得ないのではないか。 人間にとっての正しい正しくないの判断は、一面的な部分に過ぎない。 私たちはすべての人をそのまま受け入れるしかないのだ。 誰も否定しないこと、それがこの先の人類が目指す未来になるのではないかと私は思ったりするけど、きっとそんな世界は永遠に来ないのだろう。 私みたいな考えの人間ばかりだと、たぶん世界はどこかで決定的に破綻してしまうだろうから。 だから私は、ひとりで密かに正しさを見つけるのを喜びとする正しさコレクターでしかないのだ。 |
5月23日(日) 「生きることは限定することではなく広げること。 そして向こう側に突き抜けること」 |
生きる力が弱くなったり、人生に迷ったりするとき、たとえば小さな子供の真っ直ぐな生命力に打たれて、自分ももっと強く生きなければと思うことがある。 それはとてもいいことだ。 理屈抜きに力強く生きることは間違いではない。 生きることそのものに価値があり、生き抜くことが一番大事だというのもその通りだろう。 けど、私はそれだけでは駄目なのだ。ただ生きるだけでは決して満足できない。それでは心も頭も許してくれない。 生きることを超えて、その向こう側にあるものをなんとしてでも知りたいし、触れたいし、突き抜けて向こう側へ行ってみたいと願う。 生きることの意味も分かりたいし、人類の存在の理由も理解したい。 この世界の在り方や、向かっている方向や、時間の終わりも始まりも知りたい。 自分の頭が思いつくすべてを理解して納得しなければ、何も終わらないし始まらないような気がしてならないから。 命を燃やし、命をつなぐというただそれだけではどこへも辿り着けない。 時間に流され、どこかに流れ着くだけだ。 私たちは何を目的にどこへ向かうのか、まずはそのことを自分たちで定める必要がある。 なんのためにそこに行く意味があるのか、そのために今何をすべきかということを。 天国とか楽園とかそんなことではなく、この地上の時間軸の中で生きながら。 今のままではあまりにも理解できないことが多すぎて、すべてが行き当たりばったりになってしまっている。 ゲームのルールを知らない人間たちが、ひとつのグランドの上でサッカーとラグビーと野球とバレーと陸上をそれぞれが勝手にやってるみたいだ。 生きることは大切なことだ。 幸せを求めることも、子孫を残すことも、命を燃焼させて夢を実現してみせることも。 もう一つの流れとして、人類の知的探求の旅というものもある。 ただ、二つの流れは決して無関係なものではなく、ある部分では密接に結びついている。 いや、実はもっと濃密に結びつけないといけないのだと私は思っている。 今はそれぞれが別の流れをいって、お互いの流れを認めようとしていない。 役割分担はあるとしても、もっと互いを知った上で絡み合わないといけないだろう。 生きるだけではなくどうして生きるかということを知ろうとしなければいけないし、知るだけでなくきちんと命を燃やして生きなければならない。 もっと互いの姿を見て、感じて、学ばなくては。 生きてみせて、追求してしてみせる、そうやって人類は進んでいく。 それぞれが行く道を先へ先へと進んで道を切り開くことだ。 どんなことでもいいから、自分のできることを。 誰かの後をついていくのではなく。 そうすることが結局人のためになり、自分のためでもあり、世界のためにもなるのだと思う。 私たちは、四方八方を壁に囲まれた洞窟の中にいるようなものだ。 みんなで同じ方向へ向かって掘り進んでいっても、その向こうが開けているとは限らない。 だから、みんなで手分けして掘り進み、洞窟を広げ、やがて壁を突き破って向こうの世界へ突き抜けてみせよう。 左右上下、柔らかいところ固いところ、誰かが力尽きた後、あるいはまだ誰も掘っていないところと。 どこが正解か分からないし、永遠に突き抜けないのかもしれない。 もしかしたら根本的に発想が間違っているのかもしれない。 ただ、今できることをやろう。 狭い洞窟で快適に平和に暮らすことに満足してしまってはいけないと思う。 誰かだけが正しいわけじゃない。 正しい人に比べて自分が間違っているわけでもない。 正しさは限定すべきものではなく、広げていくものだから。 生きること、考えること、感じること、やってみること、それら全部が合わさって自分であり、人間なのだ。 他人の正しさにも自分の正しさにも惑わされず、自分にできるすべてを求めていくことが大切なのだと私は思う。 |
5月22日(土) 「進化の果てに手に入れた恋愛能力。 退化させないように使い続けよう」 |
楽をしようとすると何か物足りなさが残る。 疲れない毎日に充実感がないように。 恋愛沙汰もその一つだ。 あると疲れて、ないと平和で楽だけど、足りない日々が続くと毎日に物足りなさを感じてしまう。 恋愛はある種のまやかしだ。 けど、決してそれだけではない。 古代から現代に至るまで、人は退屈しのぎや結婚前のリハーサルというだけで恋をしてきたわけじゃない。 人生のすべてじゃないけど、人間の本質の一部だ。 生きることに深く結びついてもいる。 若い人間の特権でもないし、若さゆえの迷走でもない。 数ある動物の中で、人間だけが進化の果てに恋愛の能力を身につけた。 これは思う以上に重要な事実かもしれない。 人間以外の動物が人間になれないのは、人間のように恋愛ができないからと言ってもいい。 恋愛の能力は言葉や道具を使うというより以前の段階の本質的な部分だ。 遺伝子の突然変異なのか、生物進化の過程における必然なのか、単なる偶然なのか、何者かの作為なのか。 人類の歴史を振り返ってみたとき、人間がしてきたことすべての中で、3分の1は恋愛にまつわるあれこれと言ってもいいくらいかもしれない。 だとすると、今の恋愛不足の私は、人間として大事な3分の1が欠けているということになる。 人より地面に出来る影も薄いかもしれない。 恋愛感情は自分の意志だけでコントロールできようなものではない。 持って生まれた能力の問題もある。 ただ、臆病にならないようにということだけはいつも自分に言い聞かせなければいけないだろう。 面倒くさがるなよ、と。 過去の最高を上回ることばかりを追い求めるのもやめよう。 恋愛不足による心の乾きは致命的なものじゃないかもしれない。 けど、潤すのにいつも水で誤魔化すのは、いかにも味気ない。 せっかく潤すなら甘いジュースや炭酸やほろ苦いコーヒーの方がやっぱりいい。 そして、まだ味わったことのない新しい味覚にも積極的に挑戦する気持ちをなくさないようにしたい。 酢が体にいいというなら無理矢理にでも飲んでみよう。 子供の頃は不味くて飲めなかったトマトジュースも。 乾くことに耐えるボクサーのようになりたいわけじゃないのだから。 |
5月21日(金) 「言葉が全部をつないでいる。 言葉が消えればすべてがバラバラだ」 |
人を傷つける言葉は、それ自体が罪なのではない。 罪だとするならそれは、人を傷つけようとする心だ。 言葉に罪はない。 思いやりや愛情から生まれた言葉で傷ついたとしても、それは傷つけた方ではなく傷ついた方が悪いのだ。 言葉には3種類ある。 頭から下がって来て口から出る言葉と、腹や心から上がって口から出る言葉と、口の中で生まれてすぐに出る言葉と。 出てきた言葉がまったく同じ姿と響きだとしても、どこから出てきたかによって本当はまったく別のものなのだ。 日本の海で捕れた天然の魚と、養殖の魚と、外国で捕れた魚が別物であるように。 それをあまり意識しない人が多いけど、もう少しきちんと区別した方がいい。 自分が発する時も、受け手の時も。 言葉は道具であり、本質でもある。 武士にとっての刀に似ている。 常にそばに置いて磨いておかなければ肝心なときに役に立たない。 人を斬る道具であり、自分を守るための武器であり、心を映す鏡のような役割もある。 けど、めったやたらに振り回すものでもない。 使い方を間違えれば身を滅ぼし、人を無駄に傷つける。 きちんと使えば自分の身や大切なものを守るために戦うときの心強い相棒になる。 使いこなすためには訓練をしなければならない。 使うための心得や作法があるというところもよく似ている。 伝えたい想いがあるのなら、ちゃんと言葉で伝えなくてはいけない。 自分の中から生まれたとっておきの言葉で。 気持ちさえあれば言葉なんていらないなんてのは嘘だ。 逆に、想いの入ってない言葉に価値はない。 想いと言葉はセットになって初めて形となるのだから。 もし私たちが明日全員、言葉を完全に失ってしまったとしたらどうなるか? 大部分の人間関係が成り立たなくなり、社会も崩壊してしまうだろう。 仕事も、学校も、テレビも、もちろんネットも実体を失い、生活そのものがまったく形をなくしてしまう。 言葉がなくなれば名前もなくなり、数字がなくなれば金の概念もなくなる。 物と物、人と人を区別できなくなるかもしれない。 そう考えると、今の私たちが言葉によって成立してるということがよく分かる。 この先の未来で言葉はどうなっていき、私たちと言葉の関係はどう変化していくのだろう? PC関連は言葉で動くようになり、対話はテレパシーになったりするのだろうか? 言葉を超えた概念が生み出されたりするのだろうか? 未来がどうなるにせよ、私は今の自分をとても幸運だと思っている。 現代日本語と、若者言葉と、外国語と、漢字と、カタカナと、造語と、擬音語と、古い言葉遣いと、そういう多彩な言葉が入り交じったこの時代の日本という国に生まれ合わせたことを。 |
5月20日(木) 「勘が冴えなければ事態は悪化する。 捨てるべき意見を拾ってる場合じゃない」 |
生きることに異存はない。 まったくないと言ってもいい。 生きることを許されていることはとてもありがたいことだ。 とても感謝している。 天と地の関係者各位に。 それでも、心はいつも叫んでいる。 「もっと」と。 そして、「別の」とも。 あるいは「何か」と。 物心ついてから今に至るまで、ないものねだりばかりだ。 そういう希望に基づいた自分勝手な主張に対して、私はどういう態度を取ればいいのだろう? 時々そんなことを真面目に考えてしまう。 「はい、はい、全くその通りです、間違いありません、大変申し訳ありません、速やかに善処します」、と苦情係のように聞く振りをしてやりすごしてしまっていいのか? それとも、「そうです、なんとかしなくちゃいけませんっ」、と熱血若手弁護士みたいに立ち上がって闘うべきなのか? もしくは、母親がだだっ子に、「わがまま言うんじゃありません!」と叱りつけて黙らせるべきなのか? もちろん心の要求を全部その通りに聞くことはできない。 現実的に無理だし、やりたい放題してはかえって自分のためにならないだろう。 どういう態度で聞き、どこまで聞くか、そこらあたりの加減がどうもよく分からない。 自分のことながら。 反抗期のティーンエイジャーをもてあます親みたいだ。 どうしたもんかなぁ、などと考えているうちに月日は流れていく。 なんとかしなくちゃなと思いつつ、対処を先送りにして。 生物的に生存すること、人として暮らすこと、人間として人生を生きること。 それぞれのレベルでどう生きるかという問題があって、それらの要素は絡み合い、時に複雑化し、時に矛盾し、混乱する。 それぞれのレベルで最低限のラインがあり、要求があり、希望があり、目標がある。 クリアしていたり、基準が変わったり、増えたり減ったり、忘れたり、消えたり、 常に状況は変化し、後から追いかけるけど間に合わない。 単純に考えれば実に単純だし、複雑に捉えようとするととりとめがない。 結局私たちは、その場その場で自分の都合のいいように折り合いをつけていくしかないのだろうか? 心の声は、意見箱に入れられた意見書のようなものかもしれない。 微笑ましいもの、下らないもの、深刻なもの、どっちでもいいもの、それらが無作為に放り込まれている。 その中から何を選び、耳を傾けるか、そこにすべてがかかっている。 難しい判断だけど、成功すれば良くなるし、間違えたものを選べば余計に悪くなる。 無視してしまえば何も変わらない。 やはり何を選ばなくてはならないだろう。 そんなとき、最後に頼りになるのは、案外、勘のようなものなのかもしれない。 |
5月19日(水) 「一人旅に終着点はない。 行けるところまで、そこがゴールだ」 |
二人でしかできないことや、二人でしか行けない場所というものが実はたくさんあるのだと知った今でも、私は一人でしかできないことを探し、一人でしか行けない場所をさまよっている。 つなぐ手を求めて手を伸ばすこともなく。 半分は仕方なく、半分は自分の意志で。 手をつないでいては掴めないものがある。誰かを背負っていては速く走れないし、守るべきものがあると捨て身になれない。 それはあまりに寂しい考え方ではないかと言われるかもしれない。 言い訳にしか聞こえないかもしれない。 ただ、寂しいことはそんなに悪いことじゃないと私は思うのだ。 寂しさに強いことが人として優れているわけじゃないことは知っている。 別に孤独を気取ってるわけでもない。 強がりでもあきらめでもなく、そういう役割を私は背負ってもいいと思ってるだけだ。 すべての人が光の当たる道を歩けるわけではないのだとしたら、私は陽の当たらない裏道を行こう。 誰かが幸せな道を歩いているのを突き飛ばしてでも自分がその道を行きたいとはどうしても思えないのだ。 そこが私の弱い部分でもあるのだろうけど、幸福の奪い合いには参加したくない。 裏道には裏道にしかない良さもある。 負け犬と呼ばれることに対して噛みつくことはないし、おどけてみせる必要もない。 自分に向かって吹く風というのがある。その風に吹かれて、風が運んでくれる方向へ進めばいい。 自分に対してどんな役割が振られるかは分からない。 脇役は嫌だから主役を蹴落として自分が主役に取って代わるというのも一つの生き方ではあるけど、振られた役がどんなものであれ、その中でできることもあるだろうし、感じられることもたくさんあると思うのだ。 一生舞台に上がれなくても、舞台の下でできるだけのことをやっておこう。 他人の在り方を非難せず、自分の在り方を否定せず。 上昇志向というのは必ずしも自分を変えるということではない。 何も変わらず、ただ深めることもまた、ひとつの成長の仕方だろう。 かつて自分に向かって何度も問いかけた言葉を今日もまたつぶやいてみる。 どこまで行けるかね……? |
5月18日(火) 「未知のものに触れたいという願い、 それは可能性を信じる心だ」 |
何をしても、どうなっても、何を手に入れても、満足することはないのだと思う。 それが現時点における悲しい結論だ。そこから逃げることはできない。 成功しても、金持ちになっても、幸せな家庭を築いたとしても、どんなに賢くなっても、もうこれでいいとは思えないだろう。 だから問題は満足できないことではないということになる。満足すべき状態を上手く想像できないことが問題なのだ。 何がどうなれば満足できるのか、その終着点がまったく見えなくなってしまっている。 かつて見えていたはずのものはすべて、砂漠の蜃気楼のように歩いているうちに姿を消してしまった。 記憶にもなく、イメージもできない。 深刻なイメージ不足、それが最大の問題点だ。 大金持ちになることも、常に冒険に身をさらして興奮し続けることも、どうやら私の人生の目的にはならないらしい。子供頃からそういうことを夢見たことはなかった。 大恋愛をすることや、波瀾万丈の人生を送ることにも憧れはない。 ささやかな幸福を求めているわけでもないし、地道に生きることは肯定も否定もしていない。 そうして残ったものは、未知のものに触れたいという思いだけだ。 それだけが今の私を支え、明日へと生かしてくれている。 未体験のことをしてみたいとかそういう個人的な未知ではなく、誰にとっても未知のものを知りたい。 誰かが経験したことは私にとっても未知ではない。 完璧なる未知、そんなものをずっと探している。 あるいは待っているだけなのかもしれない。 豊かな人生を送るのではなく、自らを満たしたいと思う。たとえくだらないことでもいいから自分の中に注ぎ続けたい。空っぽになりたくないから。 その方向性が正しいのか間違っているのかは分からない。 ただそうしたいというだけで、単なるわがままなのかもしれない。 けど、死が必ず訪れ、人生がいつか終わってしまうものである以上、人生よりも自分の存在を優先するという姿勢はそれほど大きな間違いではないようにも思える。 死んでもなお、自分の意識は消えないという方に私は賭ける。 たとえ死後の世界などなくても、自分という意識さえあればそれでいい。 自らを豊かにした後に一体何があるのか? 天国での老後暮らしなんかじゃない。 もっと別の世界が先にあるような気がしている。 今の自分は思ってる以上に初期段階にあるのではないだろうか。 目に見える宇宙のスケール感と、膨大な時間の流れだけを見てもそう思う。 今の自分の存在は宇宙のスケールに対してあまりにも小さすぎる。不自然に。 この宇宙が無駄に広いだけだとはどうしても思えない。 人間は今ようやく地球のスケールに追いついたところだ。 飛行機を使って一生の内に地球の隅々まで行けるようになり、映像や音声をほぼリアルタイムで世界に送れるようになり、インターネットで世界は双方向につながった。 今を生きる私たちは人類が地球のスケールを達成した時を生きている。 これは地球の歴史の中でかなり大きな到達点であると私は思っている。 ただ宇宙に関しては、いまだ太陽系さえ克服できていない。 銀河系や、銀河系の外については望遠鏡で眺めるのがやっとだ。 触れることさえできていない。 人は何故宇宙を目指すのか? それは、そこに未知があるからだ。 絶対の未知が。 自分の人生のことよりも未知に触れたいと願う私は、特別変わった人間じゃないんだ。 |
5月17日(月) 「心にはトーンがあって、 共鳴したときだけそれが分かるようになっている」 |
心にはトーンがあり、それは人によって異なっている。 幅があり、高低にも個人差がある。 あの人とは合うとか、あの人とはどうも合わないというのは、このトーンが合う合わないという部分がかなりの割合を占めているんじゃないだろうか。 話し声の高さが耳に心地よく響くとか、話すテンポがぴったりくるというのはその一部だろう。 それは文章にも同じことが言える。 合うトーンの文章と合わないトーンの文章がある。 上手い下手ではなく、内容の問題でもなく、耳で聞こえるわけでもないのに好きなトーンというのははっきり分かる。 あ、この調子はすごくいいな、と。 メールを始めてしばらく経った頃、そのことに気づいた。 心のトーンが合うというのはどういうことか。 向かい合ったり、横に並んだとき、ふっと気持ちが楽になって心が落ち着くことがある。 それはトーンが同じくらいのレベルで静かに共鳴してるからだ。 そうすると人は、この人とは合うなと感じることになる。 ただ、心のトーンはいつも一定ではなく、高くなったり低くなったりする。 音程が上がったり下がったりするように。 その上下動さえもシンクロするとしたら、かなり珍しいことだし、貴重でもあるからその相手を大事にした方がいい。 けど、たいていの場合、トーンの上下に共鳴できず、心が不協和音を奏でることになる。 だから初めは上手くいっていた関係も、お互いをより多く知ることで上手くいかなくなる。 合わないトーンが増えることによって。 それぞれ一番上の部分で共鳴するだけの関係も危うい。 それからもうひとつ、トーンの片想いというのがあることも知っておいた方がいい。 自分では相手のトーンが気に入っていても、相手も必ずこちらのトーンを気に入っているとは限らない。 自分が心地よく感じるトーンと同じものを自分も発しているわけではないから。 いつの日か、心のトーンを科学的に解明し、記号を付けたりできるときがやって来るかもしれない。 最近になって遺伝子や脳細胞がだんだん解明されつつあるように。 あの人のトーンは、A4 H3 E7 J1 C0型だから、自分と3つも合致してる。だから相性はぴったりだとか。 けど、そうでない私たちは自分の感覚を頼りに合う相手を探していくしかない。 何度も間違えたりしながら。 |
5月16日(日) 「散乱する思考、 整頓不可で逃避」 |
ほんのささいなことで人生はひび割れ、粉々に砕け散る。 何気なく肘に触れたガラスの置物が床に落ちるみたいな、そんなちょっとした不注意でも。 私たちはディテールに絡め取られてしまって、全体のことも全体における自分の位置も、そのスケール感も見失っている。 小さな世界のささやかな日常に囚われた囚人のようだ。 外の世界を知ることを怠っている。 しかも自らの意志で自分を閉じ込める。 そうやって自分を守ろうとする。 狭ければ狭いほど安全だと信じて。 生きることにおける攻めと守りのバランスは難しい。 半分ずつでいいかといえばそんな簡単なものではなく、守りすぎてもいけないし攻めすぎてもいけない。 その時、その場の状況に応じて臨機応変に攻めたり守ったりすることが必要だ。 けど、多くの人は力の加減を間違える。 誰も正解を知らないし、知る手がかりもないから分からない。 守りすぎて自滅したり、攻めすぎて自爆したり。 間違えたと気づいたときにはたいてい手遅れだ。 誰も彼も確信が持てないまま手探りで毎日を生きている。 子供の頃、大人は何もかも分かってるように見えたけど、大人になってみるとそうじゃなかった。 子供の頃と変わらず何も分からないままだ。 50になっても80になってもそれは同じだろう。 死んでも分からないかもしれない。 居直ることは簡単なことだ。 人間何をしても死ぬときは死ぬし、死なないときは死なないとかなんとか。 そんなふうに分かったようなことを口にしたりもする。 けど、もう少し追求してみるのも悪くない。 開き直らず、居直らず、分からないとあきらめず、分かったような気になって悟らず、どう生きれば正しいのかを見つける努力みたいなものを継続させていこう。 暇つぶしレベルではなく、少なくとも道楽レベルで。 結局最後まで分からなかったとしてもそれはそれでかまわない。 ただ、これまで数千年、数万年、誰も分からなかったからといって、明日もあさっても百年後も一万年後も分からないと決まったわけじゃない。 自分じゃなくても、明日、世界のどこかで誰かが決定的なキーを探し当てるかもしれない。 分かろうとすることをあきらめさえしなければ。 結論めいたことを言ってしまうと、確信を持つためには最終目的地点から逆算していくしかないのだと私は考えている。 最後が分かればそこから逆に辿って今日自分は何をすればいいのかが今よりははっきり分かるようになるだろう。 ラストの一行が思い浮かべばあとはそこに向かって物語を書き進めればいいのと同じで。 ただ、答えが分かってなお、私たちは生きていく必要があるのかどうかというあらたな疑問も生まれてくるのだけど。 今日もまた、世界のあちこちでたくさんの人生が終わり、始まっている。 それらすべてをふ瞰で眺めることができたなら、個人の人生の生きる意味を見つけるのはかえって難しくなる。 天体望遠鏡を見ながらで目の前に座ってる人を捉えることはできないように。 世界のすべてを見渡すことができないという人間のマイナスの能力も、人が生きる意味を考える上では必要不可欠なものなのだろう。 とりとめもなく思考は散乱し、整理整頓する気力もなくなり、散らかし放題のまま明日に逃げ込むことになった。 睡眠という都合のいい能力を与えられたことを私たちは喜ぶべきだろう。 |
5月15日(土) 「心の栄養素が足りなければビタミン剤を飲めばいい、 たとえそれがどこか間違ったやり方だとしても」 |
理由や意味を必要とする人生というのは、どこか貧しい感じがする。 誰かを見てどうこうというより自分を見てると特にそう思う。 何もしなくても豊かな人生に理由付けは必要ないから。 そういう自己批判めいた反省に対する反論も一方にはある。 ただ、生きることに意味や理由を探す姿勢の貧乏くささは認めないわけにはいかない。 元々金持ちの家に生まれた人間は金のことに無頓着で心にゆとりがあるのに対して、成り上がって金持ちになった人間は金のことに執着しすぎてかえって貧しい印象を与えるのに似ている。 意味、理由、動機、目的、始まりと終わり、論理、価値観、美意識。 そんなものが実際どれだけ必要だというのか? まったくなしでもいいような気もするし、必要不可欠なような気もする。 本当のところはよく分からない。 ただ、中途半端に必要だったり不要だったりというわけではなく、どちらか対極なんじゃないかとは思う。 全部必要か、まったく必要ないか。 心の成金主義を是とするか非とするか? 生まれながらに天真爛漫で、生きることを楽しみ、周囲を明るくする人間がいる。 そんなふうに生まれつけばいいけど、そうじゃなければ道は二つしかない。 貧しい心で我慢して生きるか、自力で心を豊かにするか。 私は貧しい心のまま生きたくはない。 金持ちになることには興味がないけど、心だけは今よりももっと豊潤にしたいと思う。 天然ではなく養殖的な手法であったとしても。 意味や理由がなければ生きていけない私は、それを見つけるしかない。 でも裏返せば、それらを見つけさえすれば陽気で幸福に生きていけるとも言える。 もっと心豊かにするためには更に多くの栄養素が必要だ。 質も量も。 自然素材で足りなければ人工のビタミン剤で補ってでも。 |
5月14日(金) 「自分に感動できる人生なら、 そこに理屈をのさばらせる必要ない」 |
自分のことに一所懸命になれて、周りのために頑張れて、自分に感動して泣ける人生というのは、やっぱりとてもいいものだなと思う。 言葉で言うほど簡単なことじゃないけど。 そこに意味だとか正しさを探そうとするのはやめておこう。 理屈を超えた絶対的な正しさというものもある。 あえて何も考えないことが正しいこともある。 ただ単純に感動しておけばいいときが。 こんな日は、地球はやっぱり素敵なところだ、と天と地と宇宙に向かって言いたくなる。 こんな面白くて愛すべき世界はそうめったにあるもんじゃないだろう、と。 私はこの先の人生で、自分のことに感動して泣くことができるだろうか? よくやったと何度自分を誉めてやれるだろう? せめて一度だけでもそんなときを持とうと思う。 そんなようなことを考えた一日だった。 |
5月13日(木) 「絶望に負けない強い論理を探す、 硬い絶望を砕けるくらいの」 |
素直には肯定しがたい人生を無理矢理にでも肯定するためには、強引ともいえる論理が必要となる。 理屈抜きに生きることは素晴らしいなどと決して思えない。 生きることに何の迷いもない人を少しうらやましく思うこともあるけど、私はそういうふうに出来ていないのだから、これはもうどうしようもない。 絶望と共にある人生を行くしかない。 自分の中で次々と生まれ、形を変える絶望を、私は論理でねじ伏せる。 忘れることでも、バランスを取ることでも、見て見ぬふりすることでもなく。 それでも絶望は放っておいたらどんどん浸食してくる。 退治する一番有効な方法は、やはり論理だ。 痛みを一時的にやわらげるモルヒネ注射のような治療ではなく、放射線療法のような確かなやり方で私は闘おう。 その結果、思わぬ副作用をもたらしたとしても、それは仕方がないことだ。 恋愛でも趣味でも旅行でも非日常への逃避でもなく、絶望を叩く強い論理が私にはどうしても必要なのだ。 絶望感から発せられる心の声を黙らせなければならない。 すべての何故ウイルスに対する抗体を作り出さないと。 亜種ウイルスに対抗できる抗体も。 絶望はいつでもある。 それは決してなくなることはない。 病原体と同じで。 生きている間はずっとつきあっていくものだ。 それを否定したり悪だと決めつけたりするのは間違っている。 絶望は生きていく上で必要不可欠なものと言ってもいい。 大切なのは絶望に負けないことだ。勝てばいい。 実際は勝ったり負けたりの繰り返しだけど、最後には絶望に勝てると私は信じている。 論理で打ち消しながら心を持たせつつ、最後は希望の光で焼き尽くすのだ。 |
5月12日(水) 「自虐の海底に沈んでいると、 目の前を見慣れないやつが通り過ぎる」 |
自虐的な気分の一日は、自分を慰めたり励ましたりせず、そのまま自虐の底に沈んでしまった方がいい。 途中で引き返してしまうのはもったいない。 底までいかないと見えない部分もあるから。 過剰な自己防衛で大事なことを見失ってしまわないように。 たまには自分の駄目なところをひとつひとつ確認して、自虐の中で身もだえするような日があってもいい。 誤魔化しや虚飾を一切捨てて、恥ずかしい裸の自分を鏡に映して子細に眺めてみるのだ。 耐えられそうになくても直視してみる。 ゆっくりと時間をかけて。 すると普段見ようとしないから見えなかったことも見えてくるだろう。 たくさんの悪いところと、少しの良いところが。 悪いところや駄目な部分は直す方向で考えていけばいい。 自分の悪いところを頭ごなしに否定してしまう必要はない。 まず、直すべきところをきちんと把握することだ。自覚できなければ直すこともできない。 曖昧なまま見ないことにせずに。 眠ってしまう前に、駄目な自分を再確認しよう。 そして、不治の病と治療可能な部分を別々に認識するのだ。 悪い部分は放置しておいても良くならないから、どうにか直る方法を探していく必要がある。 不治の部分もできるだけ闘っていきたいと思う。 人から手遅れだと言われても、自分だけは最後まで完治を信じよう。 完璧な健康体になりたいわけじゃない。 けど、今はもう少しきちんと闘いたい気分なのだ。 |
5月11日(火) 「上手く生きようとせず全力で生きよう、 そんなまっとうなことを言ってみたくなる日もある」 |
上手く手加減して好かれるよりも、自分の精一杯を出して嫌がられる方がいい、という発想もある。 上手に立ち回って自分を抑えながら周りと調和するよりも、やりたいことを貫いて周りに迷惑をかけた方がいい、という考え方もある。 それはわがままで傲慢ではあるけど、結局それが一番後悔の少ない方法だから、それもまた一つの生き方だ。 間違うことを恐れないことは大事なことだろう。 正しい道があればいいけどないからしょうがない。 あるのは結果としての正解と間違いだけだ。 結果論なら何でも言えるけど、そんなものは意味がない。 大切なのは自分の全力を尽くすこと、それだけだ。 そんなふうに私は自分に言い聞かせることがある。 なくした恋を振り返ったり、過去の選択を見直したりしてしまうようなときは。 上手く生きようとしないこと。 自分の未来を都合のいい方向で考えないこと。 実力以上の自分になれるという幻想を捨てること。 自分はこんなもんじゃないだとか、実力の半分も出し切れなかっただとか、そんな言い訳ほどみっともないものはない。 自分が持っている力の中で何をどこまでできたかがすべてだ。 実力や才能がどれくらいあるかなんて関係ない。 100の実力があっても30しか出せなければ、40の実力をすべて出した人間に負けたということだ。 至らないところや、できないことや、人より劣っている部分は、それはそれで仕方がない。 誤魔化そうとする必要はない。 駄目なところは素直に認めて、できる範囲でできるだけのことをすればいい。 これは必ずしも前向きになるということではないし、居直っているわけでもない。 基本姿勢の確認であり、逃げ道をふさぐためだ。 言葉を換えれば、上手くやってる他人を見てうらやましがる自分に対するいましめと言ってもいい。 できないことはできなくもいいからできることはやれということだ。 人生の結果がどうであれ、全力を尽くしたから駄目だったけどしょうがないと胸を張れたとしたら、誰も文句を言わないだろうし、悔いも残らないだろう。 人生が終わって後悔が残るとしたら、それは失敗したことよりもやろうとしてやらなかったことに違いない。 明日死んでもいいように、愛の告白は今日中にしておいた方がいい(かもしれない)。 |
5月10日(月) 「希望の大安売りをしているところに大勢が群がる、 セール品を奪い合うみたいに」 |
希望に満ちた言葉は必要だ。 私にとっても、誰にとっても。 けれど、もしそれが空約束のようなまやかしの言葉だとしたら、それはとても 罪深いものとなる。 人は可能性がないと気づいても最後まで希望にすがろうとするから。 その結果、人生の多くの時間を無駄に失ってしまうことになる。 そんなふうに人を導いてはいけない。 希望というのは、人に力を与える一方で人を駄目にしてしまうものでもある。 取り扱いをあやまると自爆しかねない。 希望なしに生きていけないと言い、希望などなくても生きていけると言う。 一体どちらが本当なのか? 未来は希望だ。それは間違っていない。 希望というのは可能性の一部のことで、可能性の存在しない未来はないから。 けど、それを個人にまで適用してしまっていいものかどうか、私には判断がつかない。 人の人生は希望にすがって気長に待っていられるほど長くはないから。 いつかきみにも素敵な王子様が現れるさとか、将来きみはきっと世の中に認められるだろうとか、魂は永遠で命は転生するとか、そういった誤魔化しに近い言葉をどう処理すればいいのだろう? まともに受け取らずあくまでも現実的に生きることが正しいというのか? それともだまされてもいいからそういう言葉を信じて生きていけばいいのか? たとえば前向きな歌詞の歌がある。 希望を描いた小説がある。 学校の勉強ができなくても運と才能があればテレビに出て金を稼げることを芸人やタレントが証明してみせる。 そういうものを実際私たちは目にすることによって自分にも同じような希望があるのではないかと思いたがる。 そして、希望の言葉に簡単に乗って、希望の名の下にするべき努力を怠ってしまう。 そう、問題は希望に満ちた言葉に乗るべきか乗らないべきかだ。 それをどうするかを私は考えよう。 インチキくさい人間が本気とも冗談ともつかない調子で、もっともらしくて耳障りのいい言葉を並べ立てている。 多くの人たちがそれに耳を傾け、私はその様子を苦々しく眺めている。 そんなものはくだらない偽物の言葉だといくら大声で説明しても、偽物でもいい人にはどうすることもできない。 けど、少なくとも私は、自分が希望にまつわる言葉を発するときは、ぎりぎりまで誠実であろうと思う。 たとえそれが日常会話やメールでの軽いやりとりであったとしても。 明けない夜はない、だとかそんなたぐいの言葉はこの先死ぬまで使うまい。 希望を伝えることはとても難しいことだ。 けど一つだけ確実な方法がある。 それは、自分自身が希望そのものになってみせることだ。 そうすれば、もう言葉は必要じゃなくなる。 |
5月9日(日) 「分かるようになりたい、 単純に生きるために」 |
欲しいものなら知っている。 願望とか欲望とかなら。 けど、自分にとって本当に何が必要なのかを考えたとき、私はどうやらよく分かっていないらしい。 自分自身に対して少し改まって真面目に問いかけてみる。 ところでおまえは誰が必要なんだ、と。 そう、私には一体どんな人が必要なんだろう? 恋愛対象としての恋人? 家族を作るための奥さん? 自分の生き甲斐のための子供? 自分を理解し励ましてくれる人? 人生の師匠? 絶対的な真理者? 私をここから連れ出してくれる誰か? 陽の当たる場所に立たせてくれる協力者? 喜怒哀楽を共にする親友? どうなんだろう……。 結局、私はそんな基本的な問いに対しても明確な答えを持てないでいる。 欲しいものは分かるのに本当に必要なものが分かっていない。 かつて、何もかも分かったような気になっている自分の傲慢さに気づき、実際は何も分かってないんだということを認めるところから再出発した。 その後、今度こそ分かったような気になり、またそうじゃないことを再認識するというのを繰り返し、何度もやっぱり分からないという原点に戻ることになった。 何度旅立っても答えが出ないまま故郷に帰ってしまうみたいに。 今もまだ、何も分かってはいない。 分からないことの絶対量があまりにも多くて、その前に立ちつくして呆然としている。 配られたテスト用紙を見て、あまりにも分からないことだらけでひどく混乱してしまっている生徒みたいに。 分からなくても生きていける。 楽しいことはたくさんあるし、幸せだってそれなりにある。 確かにそれはそうだ。間違いではない。 ただ、分かることと分からないことの二つしかなくて、分かるようになる可能性があるのなら、少しでも分かるようになりたいと私は思ってしまう。 理解したいというよりも納得したいのだ。 納得した上で生きたいし、納得して死にたい。 ただ単に、自分は幸せでいい人生を送ったと思い込むのではなく。 これまで分かっているようなつもりになっていたことのほとんどすべてが分からなくなってしまった今、これまで以上に生きることの難しさを感じている。 目標も指針も手本も失ってしまった。 この先のことはどんな本にも書かれてないし、誰も手本を示してはくれない。 向かっている先に追いつくべき背中も見えていない。 ただ一つ確かなことがある。 それは生きるということだ。 分からないから生きないのではなく、分かるようになるために生きる必要がある。 そして、分かった先でも生きなければならない。 死んでから分かっても仕方がない。生きているうちに分かるようにならなければ。 そう、何故私がこれほど分かるということにこだわり、分かるようになりたいかといえば、分かれば生きることが簡単になるからに他ならない。 人生をわざと難しく考えて難しく生きようなんて思ってるわけじゃない。 単純に生きたいだけなのだ。 生きることに疑問を持ちたくないだけだ。 単純で簡単に生きたければ知っておくべきことが二つある。 一つは自分が何をしたいのかということ、もう一つは自分が誰を必要としているのかということだ。 その二つをはっきりと自覚していれば、人生は簡単で生きることに迷う必要もない。 もし二つとも分からなければ、私同様これから探して見つけなければならない。 |
5月8日(土) 「世界が美しいかどうかは私たちが決めることじゃない、 そう思う自由があるというだけのことだ」 |
小さな光も暗闇の中で集めれば大きな光になる。 そういうふうに人は、この世界や人生を好意的に解釈することがある。 けど、忘れてはいけない。それを言うなら逆のことも言えるのだということを。 小さな闇も光の中で集めれば大きな闇となる。 大いなる醜さと切ないほどの美しさが共存するこの世の中で、人はどちらか一方に寄りたがる。 ある人は生きることはおぞましくて人間は汚いと言い、ある人は人間は素晴らしくて生きることは美しいと言い張る。 あるいは、その両方だと悟ったようなことを言って安心してる人たちもいる。 でも、この主観というものが世界を捉える上で大きな障害となっているように私には思えてならない。 主観の存在しない人間はいない。でも、主観をいったん外すことはできる。 そうやって主観を外し、客観による判断も停止して、この世界を単純に眺めてみたとき、これまでの私たちの世界観は根本的に間違っていたことに気づきはしないだろうか? 世界は光でも闇でもない。 物体と生命のエネルギー運動のようなものだ。 判断抜きにただ眺めてみたとき、そこにあるのは動きだけだ。 人は判断というものを過信しすぎる。 主観による判断が視界を歪ませているのも気づかず。 もう一度主観や判断抜きにこの世界を見てみる必要がある。 たとえば地球の誕生から現在に至る過程を早送りのテープを見るように想像してみる。 火山活動、雨、海、大気、生命の誕生、進化、絶滅、生物、植物、恐竜、人類、文明、機械、文化、科学、宇宙……。 こうやって考えてくると、私たちが世界を判断するとき、いかに短い期間の少ない要素で世界観を作っているのかということがよく分かるのではないだろうか。 世界が美しいかどうかなんて、かりそめにも判断などできはしない。 人間が正しいか間違っているかも分かるはずがない。 私たちは何かを判断する必要なんて全然ないのだ。 少なくとも決めつけることはない。 世界を美しいものだと主張したところで何がどうなるわけでもない。 人間を悪だと証明してみせる理由は何もない。 世界とはどういうものなのか、どういうふうに生きれば正しいのか、そんなことは誰にも判断できやしない。 ただ私たちは目に映る世界の中で、感じるままに生きていくだけだ。 地球の歴史の中である日突然生まれ、そして消えゆく定めにある私たちに、それ以上の何があるというのか? |
5月7日(金) 「負け戦を戦う私たちはヒーロー、ヒロインなのか? 誰がこの戦いに拍手を送るのか?」 |
私たちが戦うべき相手というのは、本当にこの世界の内側に属する何かなのだろうか? 国だとか、人種だとか、他人だとか、システムだとか、時代だとか、本当にそんなものが私たちの敵なんだろうか? 不幸や病気を克服するたり、自然や他の生き物を支配するための戦いが私たちの本質的な目標なのだろうか? 私にはどうしてもそうは思えない。 でも、それゆえに生きることに迷い、人生を見失っている。 戦うべき相手がはっきりしていればいるほど人生は単純明快だ。 倒すべき体制、抑圧する国家、スポーツにおけるライバル、芸術における頂点、救うべき不幸、支配すべき対象。 そういったものと本気で戦える人生はとても幸せな人生だ。 皮肉ではなく本当にそう思う。 ただ、私は幸か不幸か、そういうことをまるで望んではいない。 私にもし戦うべき対象があるとするならば、それは私を含めた人々をこの世界に閉じ込めている外部の何者かだ。 といってもそれは倒すべき敵ではない。言うなれば解くべき謎のようなものだ。 自分を外部へと解き放ってくれるキーと言ってもいい。 必ずしもこの世界から外側へ出て行くことを望んでいるわけではないけど、少なくともその方法くらいは知っておきたいのだ。その上で自分の意志で選択したい。 ここにとどまるのか、ここから出て行くのか。 誰とも戦いを望んではいない。 それでも人生が戦いであるという現実から逃れることはできず、私もまた戦うことでしか自らの存在をこの世界につなぎとめておくことはできない。 他人の悪意と戦い、内面からわいてくる絶望感と戦い、病原菌と戦い、弱肉強食のシステムの中で生き物を殺して食べている。 そして何より罪悪感と戦っている。 人は意識的にも無意識にも戦う。 その対象をたえず探している。 戦うことそのものが自分たちの存在意義にさえなっている。 そしてたいていの場合、戦う対象は自分にとってのネガティブなものだ。 それは仮想敵でしかないのだけど、それは重要なことではない。 必要なのは真の敵ではなく戦うべき対象なのだから。 実体がなければ影とさえ戦おうとする。 もし、この世界が、私たちが望むほどきれいな世界になったとしたら、私たちは一体何と戦えばいいのだろう? 不幸も、病気も、犯罪も、不正も全部なくなってしまったとき、私たちはどうなってしまうのか。 そんなことは絶対にあり得ないと人は言うだろう。 けど、もし、だ。もしそうなったら、私たちはそれでも生きていけるのだろうか? 仕事一筋に生きてきて定年をむかえたとたんに呆けたようになってしまうお父さんみたいになってしまいはしないだろうか? そう考えてくると、やはりこの世界には不幸や倒すべき敵の存在は必然なのかもしれないとも思う。 敵の存在がバランスを保つ役割にもなる。 敵を失えば力の行き場を探して迷走することもある。ソ連を失ったアメリカみたいに。 必要悪という言葉があり、悪が栄えたためしなしとも言うけど、この世界から悪が消えてなくなるようなことはたぶんないだろう。 不治の病が克服されてもあらたな不治の病が生まれるように、古い不幸を克服したとしてもまた新手の不幸がやって来る。 不正も犯罪も形を変えるだけだ。 だとしたら、何故人は終わりなき戦いを戦おうとするのか? みんなはそれが自分を支えるためだからということを自覚してるのだろうか? いや、人の戦いそのものを否定しようとしてるのではない。無駄だと思ってるわけでもないし、冷ややかに無関心に眺めているわけでもない。 そういうことではなくて、どうして私たちはここまでこの世界のシステムにがっちりと組み込まれてしまっているのかが、すごく気になるのだ。 まんまとこの世界の思惑にはまり込んで、自らの意志で自作自演してしまっている。 まるでごっこのように。 私たちは必ず負ける戦いを戦っている。 これは間違いなく負け戦だ。誰も例外ではない。 人間も世界も永遠ではなく、いつか終わってしまうのだから。 勝ち逃げはできない。 これは単なるヒロイズムやセンチメンタリズムがなせるわざなのか? それとも、いつのに日か、戦いに勝利して、めでたしめでたしでこの世界の物語が完結するのだろうか? 物語の最後のページを読み終え、裏表紙を閉じる何者かが存在するのかしないのか。 いずれにせよ、私たちはこれまで戦い続けたように、これからも戦い続けるだろう。 この世界最後の日まで。 人間は戦うことが好きなんだ、という結論でもいいのかもしれないと思ったりもするけど、でも戦いの存在しない世界というのも興味がある。 そこでは人は決して美しくないだろうけど。 |
5月6日(木) 「今のきみはあの頃のことを馬鹿らしいと笑うだろうか? 今の私は未来の自分の笑われるのかな?」 |
今になってみると馬鹿らしいと思えることを馬鹿らしいと思わなかったあの頃。 たとえばつまらないことでいじけていた小学生の頃、取るに足らないことで人を好きになったり嫌いになったりした中学生の自分、人生に対して悩んでみせることが正しいと思い込んでいた大学時代。 それらの時代を今になって馬鹿らしいという理由で否定する気はないけれど、あの頃の自分と今の自分とどっちが本当でどちらが正しいのかと考えたとき、私はひどく迷って判断がつかない。 ただ失ってしまっただけなのか、それともこれが成長というものなのか? できなくなってしまったことはたくさんある。 逆にできるようになったことも同じくらいたくさんある。 できなくなってしまったことを嘆くべきなのか、できるようになったことを喜ぶべきなのか、その両方なのか? ……ねえ、きみはあの頃の気持ちって覚えてる? あのとき嬉しかったことや、悲しかったことや、泣いた理由や、信じた未来のことを。 私たちが交わした言葉をどれくらい思い出せる? 私はもう忘れてしまったよ。 何もかも上手く思い出せないんだ。 必死に思い出してみるけど、なんだかそれは作られた感情の記憶みたいで、あまり本当らしくないのさ。 私たちはこのまま失い続けて未来へ向かっていいのかな? 破られた約束や誓いを放り出したまま……。 起こった出来事はすべてこの世界が記憶してくれている。望むと望まざるとにかかわらず。 自分の中で生まれた感情は全部、私という人間を形作る地層の下に堆積するように横たわっている。 決して消えてなくなってしまったわけではない。心の深い層に今も埋まっている。 気持ちは変わり、心は移ろう。けどそれは形が変わるだけだ。本質的には変わらない。 地球上で生まれた水が、あるときは川となり、あるときは海となり、空の雲になって、雨として地に降り注ぎ、また川となるように。 自分の中から失われても、全部この世界の中に封じ込められているのだとしたら、私たちはなくした過去をそんなに悲しまなくてもいいのかもしれない。 自分の過去も、人々との出会いや別れも、消えた多くの命も。 馬鹿ばかしいけど馬鹿ばかしくない。 それが過去だ。 肯定しすぎず、否定しすぎず、面倒だからといって丸ごと受け入れてしまうのでもなく、生きている限り最後まで誠実に向き合うべきなのだろう。 私たちを形作っているのは記憶なのだから。 過去こそが自分自身なんだ。 |
5月5日(水) 「目の前に天国があったなら、ためしに入ってみる? 門は思ってるより広い」 |
もし天国というものがあるとするならば、それは場所ではなく人を指すのだろう。 天国を天国たらしめるものは、美しい花畑とか美味しい食べ物とか安楽な暮らしななんかではなく、天国にふさわしい人々が集まる場所のことを言うに違いない。 たとえば学校に置き換えれると分かりやすいかもしれない。 学校の施設がいくら充実していても給食が美味しくても授業やテストが楽でも、それだけでは学園天国とは言えない。 学校生活が本当に楽しいと思えるとしたらそれは、気の合うクラスメイトや尊敬できる教師や好きな人がいるといったことではないだろうか。 更に言えば、授業中もおしゃべりばかりしていて学校行事もやる気がなく何事にも必死にならないクラスメイトしかいないクラスと、各分野で優秀な生徒が集まった活気のある特別選別クラスを比べたら、どっちに入りたいと思うだろうか。 そんな優秀なやつらばかりのクラスは嫌だという人ももちろんいるだろうけど、私は同じ学園生活を送るなら優秀な連中のいる方に混じっていたいと思う。 そういう意味で、もし天国とそうでない場所があるのなら、天国の方に行きたいとも思う。 それは人生の目標になり得るだろう。 たぶん、天国に入るには資格検査のようなものはない。誰でも入りたい人間は入れるはずだ。 何故なら、人は明らかに場違いな場所に長くとどまることはできないから。 無理していい学校やいい会社に入っても決して居心地はよくない。だから、その場所はその人間にとっての天国とはならない。 天国の住人になる資格はただひとつ、そこを苦痛と感じないことだ。 天国に住む人たちに囲まれて楽しく過ごせるようになるためには、どれくらいの人間にならないといけないのだろう? 人間として優れていなければならないことはもちろんだけど、それだけではなくある程度実績のようなものも必要だ。 手ぶらでは恥ずかしい。 こんな想像をしてみる。 私は天国に入りたいがために、またこうして地上に生まれ直してきたんじゃないだろうか、と。 天国にふさわしい人たちのことがとても好きだから、きっとそうなのだろう。 今度こそ、と思ってこれは一体何回目なんだろう? 天国浪人……そんな言葉もあるのかもしれない。 |
5月4日(火) 「指一本でも未来にかかれば、 そんな思いで手を伸ばす」 |
あきらめながらあきらめきらない、という基本姿勢だけは最後まで保ちたいと思う。 どんなに手を伸ばしても届かないように思えても、未来に向かって手を伸ばし続けよう。腕の力が尽きるまで。 もしかしたら最後の最後に、一本の指が求める未来に届くかもしれない。 そんな幻を頭の中で描きながら。 この世界は圧倒的な不条理や絶対的な無意味さに充ち満ちている。 どれだけ頑張っても説明がつかないことや、どうやっても納得できないこともたくさんある。 それはもう、絶望的なほどに。 たとえば、大して悪いこともせず、善良に生きてきて、ずっと前から楽しみにしていた旅行に家族とゴールデンウィークに出かけて、交通事故で死んでしまうなどということが起こる。 あるいは夏休みに田舎に遊び行った子供が海で溺れて死んでしまうとか。 そのことの意味を知ることはほとんど不可能に近いし、説明もつかない。とうてい納得もいかない。 マクロ的にもミクロ的にも、論理的にも感情的にも。 それでも私たちは無理矢理そういう不幸を飲み込んで未来へ向かって進む。 いろんなことから目を背けたり、都合の悪いことを忘れたりしながら。 わずかな希望や可能性みたいなものにすがって。 それにしても私たちは何故こうもあきらめが悪いのか? これだけさんざん痛い目にあいながらまだ未来を信じていられるなんて、よっぽど頭が悪いか鈍感かどちらかなんじゃないか? 学習能力がなさすぎるか、屁理屈が長けすぎているのか? でも、それこそが人間の最も優れた能力なのかもしれないとも思う。 異常なほどの打たれ強さこそが。 人は死んでも死んでもまた生まれ、不幸を幸福で打ち消し、愚かな行いを無限に繰り返しながら、ばかみたいに未来を信じて命をつなぐ。 私もまた、絶望感との終わりなき戦いの中で、自分を納得させてくれるキーワードのようなものを探しながら今日を生き、また明日に向かう。 いつか、必ず終わりはある。 人の死、人類の絶滅、この世界の消滅、時間の喪失。 でも私はなんだかんだいって案外未来を信じているのだと思う。 いつかきっと、みんな納得できる日が来るんじゃないかと思いたい。 ミステリ小説で、最後に名探偵が鮮やかに事件を解決してくれるみたいに。 この世界が終わるときには誰かが種明かしをして、すっきりしてから終わりにして欲しいものだ。 |
5月3日(月) 「明日を考えすぎると今日こける、 双眼鏡を見ながら歩くみたいに」 |
私は今日よりも明日を考えすぎるのかもしれない。 昔からそういう傾向があったけど、最近ますますそれが強くなっている気がする。 個人的な日記でも、前半で今日の出来事を書いて、後半の半分は明日のことをよく書いている。 あまり意識してないのだが、人と比べて日記における明日が占める割合がかなり大きいんじゃないだろうか。 人は自分が好きなことや興味があることを一番多く日記に書くという。食べ物だったり、その日の行動だったり、買い物の内容だったり、仕事のことだったり、恋愛のことだったり。 心の内だったり、将来のことだったりする人もいるだろう。 そういう意味では、私にとって最も興味があるのが明日ということになるらしい。今日でもなく、未来でもなく、過去でもなく。 しかしながら、明日という日が来て今日になったとたん興味がなくなるというのは、欲しいものを手に入れたとたんに興味を失ってしまうという私の性格をよく表してもいる。 それにしても私は明日を考えすぎる。 過剰な期待をしすぎると言った方がいいかもしれない。 けどそれは、自分の人生をおろそかにして子供に夢や希望を丸ごと託す親のように間違っていると言わなければならないだろう。 明日のために今日を生きるのならかまわないけど、明日を追いかけるだけではどうしようもない。 自分が生きられるのは今日というこの瞬間しかないのだから。 明日を夢見るなとは言わない。それは私にとっても誰にとっても酷なことだ。 ただ、もう少しだけ今日のことを考えようぜと自分によく言って聞かせる必要がある。 今日できることはなるべく今日のうちにやっておけよ、と。 このままでは、夏休みはまだ30日以上もあるじゃん、宿題はまた明日やればいいや、と言っていた小学生時代からちっとも進歩してないことになる。 今日が終わって眠りに落ちるまでは今日なのだ。家に帰るまでが遠足ですと言っていた先生の言葉を思い出そう。 残り30分、15分でもまだ何かやれるはずだ。 日記に明日のことを書く時間があればその分今日のうちにできることもあるだろう。 明日があると思うな、そう自分に言おう。 明日があるさ、などという青島幸夫のたわごとを信じちゃいけない。もちろん口ずさんでもいけない。 明日はないつもりで毎日今日を生きるべし。 それが明日のためではなく、今日のためのその一、だ。 |