2004.2.15-

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 5月2日(日) 「否定の否定は肯定じゃないよね、やっぱり?」

 すべての否定を否定して、すべての肯定を否定すると、その次に何があるのだろう?
 それは全否定なのか、半否定なのか?

 たとえば誰かが誰かの悪口を言うのを聞いて、そんなことはないと否定する。
 別の誰かが誰かを誉めるのを耳にして、本当にそうだろうかと疑ってみる。
 否定の否定は肯定のはずなのに、気づくとすべてを否定しないと気が済まない自分がいる。
 けど、それは必ずしも他人を認めないとか意地を張ってるとか人間不信とかいうことではなくて、肯定して思考や感情を停止するのではなく否定した先にある思考や感情を知りたいからなのだ。
 人間を否定してるのではない、評価を否定しているだけだ。

 悪人を悪人として否定してしまうのではなく、偉人を偉人として疑うことなく肯定してしまうのでもない、もっとその先に正しさや間違いがあるはずだと私は思う。
 歴史上最も偉大な人物でさえ答えではなく、史上最悪の人間でさえ悪を極めたわけではない。
 一番幸福な人間も一番不幸な人間も、それが幸不幸の見本というわけじゃないだろう。
 良い方向へも悪い方向へも、まだまだ先がある。
 こんなもんじゃない。
 安心してはいけないし、油断してもいけない。
 まずは否定することから始めよう。
 やがてすべてを肯定するために。

 5月1日(土) 「愛されればすべてが分かる、なんて幻想でさえない」

 人は知りたいと願い、一方で知ることを恐れる。
 愛されたいと願いながら愛されすぎることを怖がるみたいに。
 知ることも愛されることも、自分の意志だけではコントロールできない。
 だから私たちは恐れるのだろう。
 幸せというのは中間地帯にしか生息できない、か弱いものなのだろうか?
 酸性でもアルカリ性でもない中性の水でしか生きられない川魚のように。
 知りすぎれば幸せになれないし、愛されすぎても幸福ではない。
 このまま幸せでいたければ、人として、あるいは人類として適度なところにとどまり続けるしかないのか?
 それとも、何もかもを知り、愛を突き抜けた先でも今みたいに無邪気でいられるのだろうか?
 ほどほどに愛し愛され、自分が知りたいことだけを知って、幸せを一度手に入れたらできるだけ守る、それが私たちが目指し求めてきたものなのか?
 不幸になると知りながらあえて破滅へと突き進むことが必然なのだろうか?

 神の慈愛と100パーセントの知識が私たちを真に満たしてくれるというのなら、たとえそれが夢物語でもそこを目指してもいいけど、それはどうも違うような気がしている。
 知ることの意味を今の私は見失ってしまっている。愛されることの意味を見失っている以上に。
 愛は絶対的なものの一つだけど、絶対の全部じゃない。
 もちろん知識がすべてを解決してくれるわけもない。
 まだ私自身が発見できていない絶対的なものを、これから探して見つけていかないといけない。
 知識でも愛でも才能でも悟りでもない、別の何かを。

 4月30日(金) 「言葉と想いの届け間違い」

 少年の頃、届けられた手紙の中で綴られていたような言葉が、今の私にはきっと必要なのだろう。
 あのときみたいな気持ちで書かれた、混じり気のないまっすぐな言葉が。
 ただ想いだけがあった。
 伝えたい気持ちが。
 それ以外には何もなくて、あれは添加物の入ってない天然の想いから生まれた言葉だった。

 いつからか、私の言葉は濁ってしまった。
 見た目を良くするための添加剤や、腐りにくくするための防腐剤、形を整えるための薬品などが混ぜ込まれた人工的な果物みたいに。
 それは甘くて美味しくて口当たりもいいけど、どこか作り物めいていて物足りなくもある。
 それに比べ天然のものは、酸っぱかったり苦かったり形がいびつだったりするけど、懐かしくて本当の味がする。
 その味を忘れてしまっていた。
 私は言葉を飾り立てることにばかり夢中になって、大切なことを見失っていたようだ。
 届くはずの言葉が届かなくて、ふと我に返った。
 もう一度自然栽培に立ち返ろう。
 そして何より大切なのは素材としての想いだということを思い出そう。
 栽培と調理に心を奪われすぎていて、一番大事な素材をおろそかにしていた。
 届けるのは言葉じゃない、想いなんだ。
 本物の想いの込められていない言葉は届かない。
 それが遅れて私の心に届いた彼女からの無言のメッセージだったのだろう。

 4月29日(木) 「これのどこが現実だよ、と心の中で声がする」

 いつからか、私は自分がどこか偽物めいていることに気づいてしまった。
 そして、それを密かに恥じている。
 私はこの世界を本物の現実としてそのまま受け入れることができず、世界も私をどこか本当に受け入れていないように感じる。
 起こっている出来事も、舞台装置も、何か違和感を感じてしまう。
 夢の中で、これは夢なんだと薄々感づいているときみたいに。
 いつの間にか映画のスクリーンの中に入ってしまっていて、周りにあわせて演じてるみたいだ。
 本当ではない感じが常につきまとう。
 何もかもが作り物めいて見える。
 みんなはそんなことを思ったりしないのだろうか?

 たとえば、宇宙のスケール感を考えたとき、宇宙は明らかに人間のために作られたものではないという事実に疑問を感じないだろうか?
 恐竜が地球上を支配していたとき、人間は不在だったという歴史的事実を私たちはどう受け取ればいいのか?
 解けない進化の謎に対して、それが本当に何者の意志もなくただ自然に起こったことだと本気で信じていいのか?
 つまり、あまりにも多くの不確定要素に囲まれた中で、私たちが今現在認識できる数少ない要素だけで世界観や現実感を構築してしまっていいものなのかどうかというところに私は大いなる疑問を抱いてしまう。
 これはおかしい。不自然すぎる。
 何もかも作られた幻覚ではないのか?

 では、本当とは一体どういうことかと自分に問いかけてみるが、もちろん答えが返ってくるはずもない。
 何もかもあやふやで実在感を伴わないのだから。
 どういう現実なら納得できるのかもよく分からない。

 夢か幻か、それとも純然たる実在なのか、いずれにしても頼れるのは自分の意識だけだ。
 この世界や自分の存在が本物であってもそうじゃなくても、この意識だけは信じられる。
 連続する空間と時間の中で、存在形態がどうであろうとも、この意識こそが自分自身であることに間違いはないはずだ。
 だから、それだけは失わないようにしようと思う。

 人間に憧れたピノキオみたいに、私もいつか本物になれるかもしれないと夢見て、すべての疑問や疑惑を明日に向かって放り投げて進む。
 何かがおかしいとつぶやきながら

 4月28日(水) 「人生において何を選ばないか、それも選択だ」

 生き方にも恋愛にも、正解はない。
 夕飯のおかずに正解不正解がないように。
 あちらを選べばこちらは選べない。
 欲張りすぎるとろくなことがない。

 私たちができることは、どちらを選ぶかということだけだ。
 あるいは、何を選ばないか。
 そう、人生において、恋愛において、何を選ぶか分からなければ何を選ばないかを考えて決めればいい。
 その方が簡単だろうから。
 選んだものに殉じてもいいし、選ばないことに殉じてもいい。
 どちらでも好きな方でいけばいい。
 大事なのは、自分は何をしたいのか、何をしたくないのか、それだけだ。
 他に正解不正解の基準はないのだから。

 いろんな制約や価値観やモラルやしがらみがある中で、あまりにも自分の人生に対して無責任になりすぎるのもどうかと思うけど、迷ったとき私は自分にこう言い聞かせるようにしている。
 100年後、誰もおまえのことなんて覚えてやしないさ、と。
 まさか1,000年経ってもまだ私の罪を問う人間もいないだろう。
 だから私は、したくないことをしないと決めている。
 最後までそれに徹することができれば私の勝ちだし、徹することができなければ私の負けだ。
 勝てば正解となり、負ければ不正解となる。

 4月27日(火) 「未来はやって来ない、こちから行ってやるしか」

 未来は手招きをしている。
 優しく誘うように。
 けど、未来の方からこちらに近づいてきてはくれない。
 こちらから自分の足で歩いていかなければ。
 一歩を踏み出さなければ、いつまで経っても未来の手招きに惑わされ続けることになる。

 未来はいつも希望という静かな微笑みを浮かべている。
 その裏に冷酷な現実を隠し持ちながら。
 それでも私たちは手招きする方に進んでいくより他に道はない。
 近づいたとたん、未来が突然冷ややかな表情で現実を突きつけてくるかもしれない。
 でも負けてはいけない。
 そして、忘れてはいけない。
 私たちが辿り着くべき場所は未来ではなく、未来の向こう側なのだということを。
 未来に追いつくことが目的なんかじゃないのだ。
 私たちが今頭の中で思い描いている未来の姿は幻に過ぎない。
 その幻影を突き破った向こう側にこそ、私たちが行くべき場所がある。
 そこはきっと楽園などではないだろう。
 けど、思い描く最悪の場所ではないはずだ。
 未来の終焉の地、そんなものが果たして本当にあるのかどうか、それは分からない。
 でも行けば分かる。
 行かなければ永遠に分からない。

 4月25日(日) 「死と生は連鎖する、自分と他人の」

 人の死を言い訳にするのは間違っている。
 誰かが死んだから自分は駄目になってしまったなどと。
 自分の死を誰かが言い訳に使っていたらきっと嫌な思いをするだろう。
 人の死は、自分が生きるための力に変えなくては。
 志を受け継ぎ、生きたくても生きられなかった人たちの続きを生きるのだ。

 4月24日(土) 「過去の自分は裏切られるためにいる」

 ここ数日の私は、過去と現在と未来がひしめき合って、心の中がきしんでいる。
 ぎしぎしと不吉な音を立てて。
 見失いかけた過去が、俺はまだここにいるぞとかすれた声でうめく。
 そうして現在の私を責め立てる。
 お前は俺の想いをどこへやってしまったのだと。
 助けを求めようと未来の自分を探すのだけど、いるべきはずの場所に私はいない。
 過去と今をつなぐ線の延長線上に未来の私の姿が見あたらない。
 呼んでも声は届かず、手を伸ばしてみても虚しく空を掴むだけで。
 別のどこかから呼ぶかすかな声が聞こえるけど、姿は見えない。

 今の私は、過去と未来のあいだで、惨めなほどおどおどとしてしまって、視点も定まらないような状態だ。
 見知らぬ外国の駅で迷子になってしまった旅人みたいに。
 過去の自分を裏切りたくない思いと、未来へ踏み出すのを恐れる心と、今だけを安楽に過ごしたい気持ちが、バラバラの方向へ向かって進み、私を引き裂く。
 自分の中のどの声に従えばいいのかひどく混乱して。
 ただ一つ言えることがあるとすれば、かつての私が思い描いたよりももっと先へ行けそうな気がしているということだ。
 それは過去の私が描いた未来ではないけれど、まだまだ先へ行けそうな予感だけはある。
 そんなものは結論を先延ばしにしているだけじゃないかと過去の私が遠くでわめいているが、とりあえず今は放っておこう。
 もっとずっと先まで行けばその声も届かなくなるだろう。

 未来はまだ何も決まっていない。
 人は誰でもなりたい自分になれるのだと私は思う。
 それは過去の自分が決めるんじゃない。
 今これからの自分が決めるのだ。
 ある意味では、過去の自分を裏切ることでしか前へ進めないのかもしれない。

 4月23日(金) 「過去が間違っていても人の想いまで否定しないで」

 悲しい歴史に涙を流しても、悲しい過去を否定しないで欲しいのだ。
 それがどんなに悲惨で間違った過去であっても。
 歴史を否定することは、そのときを生きた人たちの真実の想いを否定することになってしまうから……。

 同じように、自分の人生の過去も否定しないで欲しい。
 間違った言動も、失敗の恋も、誤った選択も、全部あれでよかったんだ。
 そのときの自分の想いに忠実であったなら……。

 悲しい過去や、つらい思い出も、流した涙も、時が経てば、古いフィルムに残った映像の中の笑顔みたいに優しいものに変わるだろう。
 音が消えて、セピアに色褪せた映像の中に封じ込められた人たちみたいに……。

 流れた血も大地が吸い取り、無数の遺体も深く地面の中で土に還った。
 華麗な建築物も、人々が暮らした家々も、今は海の底に沈んでいる。
 生きた人々の記録も歴史の闇に埋もれた。
 私たちは今、歴史の地表に立ち、雨に打たれ、空気を吸って生きている。
 すべては太古から今につながっているものだ。
 あるものは形を変え、あるものは昔と変わらず。

 歴史も過去も否定することなんてない。
 肯定する必要もない。
 ただそこに思いを馳せて受け入れればいい。
 何も間違ってはいないのだから。
 すべては流れ、移ろい、重なっていく。
 私たちは、今ここにあるそのままの姿で生きていけばいい。

 4月22日(木) 「人生におけるいくつかの完璧な一瞬、そうこれだ」

 私はほんの時たま---人生の中でも数えられるくらいしかないけど---この世界や人間や生きることを絶対的に信じられると思える瞬間がある。
 ほぼ100パーセントに近いくらい。
 たぶんみんなもそうだと思う。
 何に絶対を感じるかは人それぞれ違っているだろうけど。

 心の一番深い部分で共感できる映画を観たとき、自分のために書かれたのではないかと思えるほどの小説と出会ったとき、恋愛の始まりの浮かれ気分の数ヶ月、完璧な夕焼け空を見たとき、遠い記憶を呼び起こし未来への希望を持たせてくれる歌を聴いたとき、飛び跳ねて喜んでしまうくらいの表現が見つかったとき……。

 絶対的な瞬間というものが確かにある。
 この世界のあらゆるものを一切の疑い抜きに肯定できると思えるときが。
 人はそういう瞬間を持つからこそ未来を信じて生きていけるのだろう。
 絶対の点と点をつないで生きていると言ってもいいかもしれない。

「生きててホントに良かったなぁ」と心の底からしみじみ思うことがきっと誰にもあるはずだ。
 それがつまり人生ではないだろうか。
 すべてが完全だったり、何もかも思い通りにいく必要なんてない。
 完璧な瞬間がいくつかあればそれでいい。

 私たちはこの先、いくつの絶対的な時を持つことができるだろう?
 みんなの人生において、そういう瞬間が一つでも多くあればいいと私は願う。
 誰の人生も苦しくてつらい時間の連続だと知っているから……。

 4月21日(水) 「一つでも多くの不正解を重ねよう、未来人のために」

 人生は、不正解を重ねていくことでしか正解に近づけないのかもしれない。
 不正解を知ることで初めて正解に気づくことができる、と言った方が分かりやすいだろうか。
 いきなり最初から正解には辿り着けない。
 もし運良く辿り着けても、すべての不正解を知るまではそれが正解だとは分からないに違いない。

 人は、生きていく上で、意識するしないにかかわらず、正解を求めるものだ。
 自分の人生においても、恋愛も、人間関係も、子育ても、毎日の生活も。
 結果は別にして、常に自分なりの正解を探しているのだと思う。
 その姿勢は間違ってないはずだ。
 そして、無駄でもないと思いたい。

 何故人は正解を求めずにいられないのだろう?
 本能という言葉で片づけてしまっていいほど単純な問題じゃない気がする。
 人としての存在に関わる根幹の部分で、正しさへの希求性は何かを示しているはずだ。
 人間以外の動物はおそらく自らの存在に疑問を持っていない。
 なのにどうして人間だけが自らを疑うのか?
 それはたぶん、知能が高いというだけではない。
 正解を知らなければいけないという思いや強迫観念めいた気分は、もしかしたら今私たちが考えている以上に切実なものなのかもしれない。
 そうでなければ、すでに何千年もの間探し続けてるのに見つからないものを、こうもしつこく探し続けているのは不自然だ。

 おそらく、私が思うに、正解を見つけなければ人間は存在することを許されないのではないだろうか。
 そして、今こうして探し続けていることで執行猶予を認められているんじゃないか。

 正解は確かにある。
 そうでなければ話のつじつまが合わない。
 つじつまが合わない世界は成立しない。
 だったら見つけなくてはならないだろう。
 たとえ何万年かかろうとも。
 私たちが今できる最低限のことは、せっせと不正解を重ね続けることだ。
 後に続く未来の人たちのために。

 4月20日(火) 「変えなくても足せばいい、総替えなんてできないし」

 今の自分が気に入らないからといって、自分を変えようとする必要なんてないのだ。
 人生のキャンバスは一枚しか与えられてない。
 デッサンや色塗りを失敗したからといって二枚目をもらえるわけじゃないのだ。
 取り替えなくても今の自分に付け足すことを考えればいい。
 絵の具を上から塗り重ねるみたいに。

 生きることは、とても単純な足し算だ。
 子供でもできる。
 思うほど複雑な計算ではない。
 引き算でも割り算でも掛け算でもない。
 日々を重ねていくこと、それが人生だ。
 一日ずつ積み重ねることしかできない。

 人はおそらく、誰も変わることなどできはしないのだ。
 元々の自分以上にはなれないし、自分以外にもなれるはずがない。
 変わったように見えたとしてもそれは、違った面が表に現れただけだ。
 新発明ではなく新発見にすぎない。
 でもだからといって失望したり悲観したりすることはない。
 誰でも多くの未発掘の部分を抱えているものだから。
 そして、たいていの人間は自分のすべてを発掘しないまま死んでゆく。
 それは本人にとっても残念なことだし、この世界にとっての損失でもある。

 だから、今の自分を否定して変わろうとすることはない。
 自分の中にある未知の部分を探せばいい。
 未知の自分は見つけ出してくれる日を、いつまでもずっと待ち続けている。

 4月19日(月) 「時間の無駄ってどういうことだろう、とふと考えた夜」

 時間を無駄にしないように、時間を無駄にしちゃいけない、早く、急ぐのだ、一日にスペースを作らないように。
 そう念仏のように唱えてここまで生きてきたけど、最近、時間を無駄にしないということがどういうことのなのか、時間を無駄にするというのはどういうことなのかが、だんだん分からなくなってきた。
 今は昔に比べて明らかに毎日のスピードが緩んでいる。
 時速100kmだったのが60kmくらいに。
 それは単純に時間を無駄にしてるということなのだろうか?
 一分一秒もぼんやりしないようにできるだけ多くのことを一日の中に詰め込んでいたあの頃は、本当に時間を無駄にしてなかったと言えるのか?
 極端に言えば、すべてが無駄だとも言えるし、逆に無駄なものは何一つないと言えなくもない。
 一体どちらが正しいのか、よく分からなくなった。

 スピード感と正当性の関係性を見失い、スピードを上げるだけでは罪悪感から逃れられなくなってもきている。
 忙しくすることで思考を打ち消すやり方も正しくないと気づいた。
 ゆっくり過ごすことでしか見えないことがあることも知った。
 ただ、毎日の中で正しいスピードがどうにも分からないのだ。
 人生には法定速度も、スピード違反も、スピードメーターもないから。
 自分のスピード感覚をどこまで信用していいものなのか。

 時間はもちろん大切だ。それは間違いない。
 湯水のように使っていいはずもない。
 貴重なものだから。
 とはいえ、いくら貴重だからといって大事にしすぎてもいけないだろう。
 美味しい料理だからといって満腹以上に食べてもいいことはないのと同じように。
 そのへんの扱いが難しい。
 たぶん、どれだけ年を取っても時間というものを正確に捉えることはできないに違いない。

 今できることは、時間に上手く乗ることを考えることだ。
 それが正しいスピードなのかどうか判断はできなくても、自分の意志でスピードを調節できるようにはなりたい。
 時間は敵にもなれば味方にもなる。
 敵に回しては勝ち目はない。

 4月18日(日) 「知らないで幸福になるより知って不幸になりたい」

 知識が人を幸せに「しない」とは言い切れない部分がある。
 何故なら、無知が人を不幸にすることが確かにあるから。
 ではこう言い直せばいいか。
 知識は人を不幸にすることから救うこともある、と。

 何も知らなかった子供時代は幸せだったと人は言う。
 でも本当にそうだろうか。
 少なくとも私はそうは思わない。
 むしろ子供時代は無知ゆえに不幸だったとさえ思う。
 自分ではそのことに気づかなかっただけで、昔と今を比べて今の方が不幸だなどと思いたくもない。
 知識が足りなくて人に優しくできなかったこともあったし、無知であったために人を傷つけたこともあっただろう。
 そして何より、知らなかった多くのことが自分自身を駄目にしていたように思う。

 知識は救世主でもヒーローでもない。
 ましてや万能薬でも特効薬でもありはしない。
 けど、もし人が自分を深い不幸から救うことができるものがあるとするならそれは、知識だけなのかもしれない。
 他人の親切にすがるのが嫌ならば。
 そういう意味ではやっぱり教育も必要だろうし、教養もあるに越したことはないだろう。
 何より学ぶ姿勢とか、勉強への意欲が必要だ。
 知らないことを知りたいと思う気持ちが。
 日々、少しでも新しい知識を取り込んだり、学んだりしていかないと、いつまで経っても今いるところから抜け出せない。
 生きているうちは決して学び終えるということはない。
 つまり、それだけ幸福になる余地はあるということだ。
 無知が幸せだというのなら、幸福になる可能性があるということを意味するからだろう。

 4月16日(金) 「生きない人間は人間ではない」

 人間であることと、生きることとは、イコールでありイコールでない。
 ただし、切っても切れない関係にあることだけは確かだ。
 そんなことは当たり前だと思うかもしれないけど、案外当たり前のことではないかもしれない。
 たとえば、生きていれば喜怒哀楽というのは当然の感情だけど、自分が幽霊になったと想像したとき、喜怒哀楽は当たり前のことではなくなってしまう気がする。
 何か強い感情が残っても、それはどこかに偏ってしまうんじゃないだろうか。
 怒なら怒に、哀なら哀に、楽なら楽に、といったように。

 人間は様々な要素から成り立っている。
 感情、思考、肉体、技能、苦悩、痛み、病気、感覚、想像、創造、などなど。
 それらはすべて、生きているからこそ成立するものだ。
 人間は生きている、生きているからこそ人間でいられる、その両者は同じ一つのものでありながら同時に別々のことであり、互いを支え合う関係にある。
 人間として味わえる感覚や体験は、生きていることの特権と言ってもいい。

 死もまた存在のひとつの在り方だ。
 けど、それは人間ではない。
 死は一瞬の出来事ではなく連続する存在の形態なのだ。
 そう言えば分かりやすいだろうか。

 私たちは今、当たり前のように人間をやっているけど、これはすごく特別なことなのだから、より人間であることを強く感じるためには、より多く、より深く生きなければならない。
 私たちが人間でいられるのは生きている間だけなのだから。

 4月15日(木) 「失ったきり取り戻せない何か」

 4月も半ばを過ぎ、ゴールデンウィークが近づくと、私には死の季節とでも呼ぶべき気分がやって来る。
 4月の25日に尾崎豊が死に、5月の1日にアイルトン・セナが死んだ。

 毎日まいにち大勢の人間がいろんな死に方をしている。
 その中の数人がニュースとして伝えられ、大部分の死はほとんど知られることもなくすぐに忘れ去られていく。
 誰も皆、自分の番じゃなかったと安堵して。
 でも、4月の終わりだけは私にとって死というものがとても重たく感じられる季節なのだ。
 死に対して無関心でいられなくなる。

 そんなことを思いだしのも、今日、ミハエル・シューマッハのインタビュー記事をネットで読んだからだ。
 シューマッハはその中で、「あれからしばらく自分は完全な喪失状態だった」という言葉を使っていた。
 完全な喪失状態……。
 私もまた、ちょうどそんな感じだった。
 事故のあとの数日ではなく、数年間にわたって。
 あれから10年。
 私自身、セナが死んだ年齢を追い越して、いろんなことがあって、悲しみは薄れたけど、それでもまだどこかであのときの喪失感を引きずっているような気がする。

 私にとって特別な二つの死は、私の中から大切なものを持って行ってしまった。
 その空洞は決して小さなものではなく、おそらくこの先もずっと埋まることはないだろう。
 悲しみではない。
 単なる喪失感でもない。
 失ったものは、この世界の在り方に対する信頼感のようなものなのだろう。
 あるいは無邪気さのようなものか。

 この先も私は、いくつかの死と直面し、更に多くのものを失うことになるだろう。
 けど、願わくばその死が、4月の終わりから5月の始めにだけは訪れませんようにと願わずにはいられない。

 4月14日(水) 「駄目な方の半分も自分」

 人は誰もどこか悲しいものさとか、みんな心の中では孤独なんだ、なんてセリフは寝言でしかない。
 そんなことは大発見でもなんでもなく、当たり前のことだ。
 誰でも知ってる。
 空が青いとか太陽はまぶしいとかと同じくらいに。
 ねえ、空って青いよね、知ってた? と自慢げに語ってる人を見かけたら、ちょっとおかしいんじゃないかと思うだろう。
 おかしいと思われたくなかったら、悲しみや孤独を語ってはいけない。

 孤独や悲しみや不幸や病気や暴力や絶望などは、世界や人間を形作っている一部であって、否定したり打ち消したりできるものではない。
 いや、半分と言っていい。
 そこに確かにあるものをないものとすることはできないのだ。
 人が一番間違っているのは、そういうネガティブな要素を持っていることではなくて、根拠もなくマイナスを否定しようとする心ではないか。

 世界も人間も、プラス要素とマイナス要素でバランスを保っている。
 プラスの要素だけではバランスを取れないに違いない。
 もし不幸を排除してしまったら同時に幸福も消えてしまう。
 犯罪者がいなくなれば警察もなくなり、不細工がいなくなれば美人もいなくなる。
 夜がなくなれば昼という概念もなくなり、貧乏人がいなくなれば金の存在そのものも意味を失う。
 マイナス要素が世界の半分を支えているということを忘れてはいけない。
 ネガティブな要素が自分の半分を支えていることも。
 自分の半分を否定したくなければ、マイナスもすべて愛すことだ。

 私たちは昼と夜の両方を生き、生と死の両方を持っている。

 4月13日(火) 「愛だけが未来へ」

 生きることを歓び、人間を愛すこと。
 それが始まりであり、究極だ。
 答であり、問いでもある。
 人間というのは小さな奇跡だ。
 とてもとても小さな。
 大いなる存在ではないし、偉大でもない。
 でも、間違いなく奇跡の存在である。
 この人間という存在を、ぎりぎりのところで踏みとどまって愛しきることができたなら、この世界は正しいということになり、自らの存在を正当化できる。

 私たちは100年前の人間も、1,000年前の人間も愛すことができる。
 1万年前の人類も。
 今を生きる人間も最終的には愛せるだろう。
 同じように、100年後、1,000年後の人間を愛すことができるだろうか?
 1万年後、1億年後はどうだろう?
 人間は長い宇宙の歴史の中で一瞬咲いた、きれいなあだ花にすぎないのか?
 それとも生まれたときから永遠へとつながっているのだろうか?
 この世界の終わりのときに、人間は存在してるのか?
 そんなことはいくら考えても分からないことだけど、それでも人間というのは非常に重要な存在だと私は思っている。
 重大な鍵を握ってるに違いないと。
 もし人間の存在が否定されしまえば、世界はこれまでとはまったく別のものになるだろう。

 私はたぶん、人間抜きの世界を愛すことができない。
 だから、人間はこのまま未来へつながって欲しいと願う。
 そのために一番必要なのが愛だ。
 人間を愛し、愛されなければ、未来はない。
 人間の存在は、私たちが考える以上に危うく、未来へ続く道はとても細いのだ。

 4月12日(月) 「すべてへ向かえ」

 生きていく中で、心や頭の中にいろんなベクトルがあってもいい。
 いや、むしろ、いろんなベクトルがない方が不自然だ。
 一つの方向性しか持たないことでしか得られないことも確かにあるのだけど、あえてそこに自分を追い込んでしまうことはないだろう。
 自然に生まれた方向性はそのまま伸びるに任せればいい。

 幸福や平穏さを求める気持ちと、成功や波乱を追いかけたいという思いは、矛盾するようで矛盾ではない。
 自己犠牲の一方で利己的になることも、高尚なものを尊びつつも低俗なものに惹かれてしまうことも間違ってはいない。
 偉大さや天才を褒め称え憧れるのに、毎日を怠惰に過ごしてしまうことも。
 動物を可愛がりながら生き物を殺して肉を食べることも。
 偉くなりたいと思ったり、普通でいいとあきらめたり、人に与えたり人から奪ったり。
 人間は矛盾した生き物だと人は言うけど私はそうは思わない。
 究極的にはすべてが合理的であるとさえ言えるのではないか。
 矛盾はきっと何一つないのだ。
 何故なら、こうしてこの世界で存在が成立してるのだから。
 もし本当に矛盾していたら、今ここにこうして存在できてはいない。
 つまり、どちらか一方や何か特定のものを否定するから混乱して、それを矛盾という概念や言葉に封じ込めて安心しようとするだけなのだ。
 何かを駄目だと決めつけるから矛盾に思えてしまうだけで、一切を否定しなければいい。
 すべてをそのまま受け入れてしまえば何も問題はない。
 いろんなベクトルがある、ただそれだけのことだ。

 四方八方、上下左右、前後、斜め、現在過去未来。
 外側へ、内側へ遠くへ、近くへ。
 人間は何も間違っていない。
 それは私が断言しよう。
 この世界の許容量はそんなに小さなものではない。
 慰めの言葉になるかどうか分からないけど、人はこの宇宙に対して罪を犯せるほど大きな存在ではないのだ。
 悲しいけれどそれが現状だ。

 今はまだ、いろんなことへの興味がようやく芽生えた、人間でいうところの三歳児のようなもの。
 ただ、思いのままに生きればいい。
 目につくものを見て、手に触れて感じて、ためしに口に入れてみたりして。
 大人になるためにはまだまだ長い年月がかかる。
 時間をかけて学んでいくしかない。
 やがて、人間も子供でいられなくなる。
 そのときまで、このままでいい。

 4月11日(日) 「思考の触手の先端に触れるもの」

 思考の触手をもっと先まで伸ばして、もっともっと向こう側に触れてみたい。
 人間の手がまだ触れていないところに。
 人生、幸福、愛、意味、目的、宇宙、時間、魂、次元、神。
 多様性、多面性、多元性、無限、永遠……。
 空間軸と時間軸、その平面的、多層的な同時性と相互作用による変化、あるいは不変。
 何も分からなくてもかまわない。
 何一つ理解できなくてもいい。
 ただ触れてみたいのだ。
 人間がこれまで頭の中で思いついてきたこと以外のものに。

 人としてこの世界に生まれ、愛を知り、幸福になり、宇宙や魂やこの世界のことをすべて知り、理解したとして、更にその先に何があるのだろう?
 どんなものがあるのか、そこで終わりなのか、どれだけ考えてもまったく想像できないのが悔しくもあり残念でもある。
 そこにはっきりと私の限界がある。
 たとえば、平面的に100億の星に1,000億種類の生き物がいるとして、その1,000億種類の価値観や在り方を時間軸の中で考えたとき、人間(あるいは地球人と言うべきか)の脳細胞では決して捉えきることはできない。
 神が真に全宇宙の絶対唯一の存在だという神話を曲がりなりにも信じたとして、その神に対して私は何ができるというのか?
 宇宙に目的があり、意志があるとして、私は何をすべきなのか?
 どこまで自分という存在を小さく見積もればいいのだろう?
 宇宙はあまりにも広く、時間はあまりにも長すぎる。
 このスケール感は絶望的でさえある。
 そして、その絶対的な現実は、自分の人生という現実よりもずっと重たいような気がする。

 宇宙は他人事などではない。
 私は少しでも遠くまで思考を伸ばしたい。
 未知のものを求めて。
 だから少しでも長く生き延びたいと思う。
 感じることだけでなく知ることもまた、この世界で生きる中でしかできないことだから。

 4月10日(土) 「期待したり期待されたり、応えたり応えられなかったり」

 期待されないことと、期待に応えられないことと、どちらが悲しくて、どちらがより罪深いのだろう?
 期待されたいと願う人がいて、期待されても困るという人がいる。
 他人に期待したい人がいて、誰にも期待などしたくない人もいる。
 期待の正体というものを実はよく分かっていない。

 思えば私は、少年の頃から期待に応えないままここまで来てしまったような気がする。
 それなりに期待された部分もあったのに、ひねくれた気持ちからわざと期待から逃げたりもした。
 力がなくて応えられないところもあった。
 別に期待されることが嫌いだったわけじゃない。
 自分も自分に対して期待してきた。
 しかし、今となってはもはや私に対する期待は薄れ、応えたいという気持ちだけが宙に浮かんだまま行き場をなくしてしまっている。
 そのことをすごく悲しんでいるわけではないけれど、でもやっぱり寂しいことではある。

 最初の問いに戻ろう。
 期待されないことと、期待に応えられないことと、どちらが悪いのか?
 期待に応えないことはもちろん良くないことだ。
 わざと応えないのも、応える力が足りないことも。
 どんなに無責任な期待だっとしても、他人の期待には応える義務のようなものがある。
 人が人にかける期待というのは、願いであり、希望であり、夢だから。
 自分にはできないことを他人に託す強い想いを軽く見てはいけない。
 やはり罪なのは、期待に値しない人間であることだろう。
 人は独特の感覚で期待できそうな人間を見つけるものだ。
 期待できない人に誰も最初から期待などしない。

 期待されたければ期待に応えることだ。
 期待は期待を呼ぶ。
 裏切りが裏切りを呼ぶように。
 そして誰よりも一番裏切ってはいけないのは、言うまでもなく自分自身だということを忘れてはいけない。

 4月9日(金) 「ただ未来を信じて、強く、強く」

 未来を信じる強い気持ちを、今を生きるための原動力に変えたい。
 そうしないと、時々目の前があまりに暗くて、恐ろしさに耐えられないような気分になってしまうから。
  薄暗いくらいならなんとか手探りでも進めるけれど、真の闇の中では人は前へは進めない。

 未来はきっと今よりいい世界だ。
 未来の私はきっと今より少しはましな人間になっているだろう。
 私はそう、当たり前のように信じている。

 どこまでいっても決して、昔はよかった、などと口にすまい。
 どんなに未来へ行ったとしても、更にその先の未来を信じよう。
 神も、真実も、答も、すべては未来の中に……。

 4月7日(水) 「成功すればいいってもんじゃない、けど……。」

 人生の成功者に学ぶことは多い。
 模範としてではなく、反面教師として。
 いや、成功することが間違いだというのではない。
 ただ、同じことをすればいいというわけではないということだ。
 ひとつの成功の形を示してくれたら、後に続く者はそれとは別の形の成功を模索しなければならない。

 人生が公に晒されるということは、あるようで実はそんなにあることじゃない。
 ごく親しくつき合っている人や家族でも、私たちはその人の人生の半分も知らないだろう。
 けど、たとえば芸能人やスポーツ選手の生い立ちやエピソードを私たちはかなりの部分知っていたりする。
 そう言う意味で、成功者というのは犠牲者とも言えるかもしれない。
 自らの良いところも悪いところも、成功も失敗も晒してみせることで、大勢の人間に教え諭す役割を担っている。
 望むと望まざるとに関わらず。
 成功者から学ぶべきことが多いといのはそういうことだ。

 成功者は決して見本なんかではないし、模範にすべき存在でもない。
 マネをしても同じような成功は得られない。
 けど、だからといって頭から否定してしまったり、やっかみから目を背けてしまうのはとてももったいないことだ。
 良いところは取り入れ、悪いところは違うことをするようにすればいい。

 成功者と非成功者を分けるものは何か?
 それは与えられた役割の違いだ。
 実力や才能のあるなしは結果でしかない。
 才能があってもなくても成功者になる人はなるしなれない人はなれない。
 それよりも大事なことは、いかに多くを学び、そこからたくさんのものを得て、自分自身に還元するかということだ。
 成功や失敗は結論ではない。
 一つの到達点であると同時に出発点でもある。

 立場は違っても学べる量と質に変わりはないと私は思っている。
 たとえ成功者になっても自分が正しいと思い込むのは間違いだし、成功しなくても自分を駄目な人間だと決めつけることはないのだ。

 4月6日(火) 「高杉さん、21世紀も相変わらず、面白きこともなき世です」

 生きることをくだらないことだと決めつけるのはとても簡単なことだ。
 そしてそれは一番面白みのない解答でもある。
 当たり前すぎて笑えない。
 そもそも、生きることのテーマは、どうすれば面白くなるかということではないのか。
 それは言葉を換えれば、くだらないことをどうすれば面白くすることができるかということで、そのことを人間は誕生以来ずっと考えてきたのだ。
 くだらないということは前提条件であって、結論などであるはずがない。
 それを得意になって言い張ってるのも間抜けな話だ。
 無駄だとか、無意味だとか、役に立たないとか、そんな指摘も必要ない。
 どうすれば生きることが面白くなるか、大事なのはその一点だ。

 面白くないものを面白くしようというのだから、そんなに単純で簡単なものではない。
 自分が持っているすべての知恵と能力を使って、最大限の創意工夫をしなければ、生きることは決して面白いものにはならない。
 何もしなければ面白くない。
 当たり前だ。

 人生を面白くすることは簡単なようで難しい。
 でも、だからやりがいもあるというものだ。
 何もしなくても簡単に面白かったらすぐに飽きてしまうだろう。
 少なくとも人生というのは100年や120年程度で味わい尽くせるほど単純なものではないから、思う存分面白がってもいい。
 天国なんかで安楽に暮らすより地上で生きる方がずっと楽しいに決まってるのだ。

 4月5日(月) 「愛するための近道」

 生きることに絶望しながらでも人間や世界を愛することはできる。
 それは全然矛盾する心の動きではない。
 自分が好きじゃなくても人を好きになることができるのと同じで。
 むしろ、自分自身に対して絶望することは、世界を愛するための近道かもしれない。
 自分のことばかり考えてると、世界は敵になりがちだから。
 でも、いったん世界を愛することができるようになれば、今度は自然と自分や人生を愛することができるようなる。
 自分は世界の一部であることが分かるようになるから。

 自分が世界からいなくなった後も、私は世界を好きでいたいと思う。
 自分抜き出も世界は回る。
 何も変わりはしない。
 けど悲しむことはない。
 世界はどんな姿形になろうとも、愛すべきものだから。
 内側からでも、外側からでも。

 愛することは幸せなことだ。
 幸せになりたければ、世界を愛すればいい。
 世界を愛すれば自分も、人生も、他人も、愛すことができるようになるだろう。
 この心理の流れはたぶん、間違ってない。

 4月4日(日) 「流れよ変われ」

 歴史の流れというのはそう簡単には変わるものではない。
 期待したり願ったりするけどめったに変わってはくれない。
 悔しくて、もどかしくて、悲しいけれど、それが味気ない現実の姿だ。

 私はいつも、歴史が変わる瞬間を待ちながら生きている。
 自分自身の歴史だけでなく、周りの人間たちや、社会や、世界や、宇宙や、その他どんなものでもいいから歴史の流れが変わるのを目撃したくて仕方がない。
 だから、史上初とか、人類初とか、歴史的なとか、新記録とか、かつてないとか、そういう言葉に弱い。
 自分にとって都合良く変わって欲しいとかじゃなく、とにかく驚きたいのだ。
 その驚きが自分の想像を超えれば超えるほど嬉しい。
 あるいはそれが悲劇であったとしても……。

 必ずしも大きなことじゃなくてもいい。
 小さな流れでも、それはそれでいい。
 ジンクスを破ったりだとか、自分とは無縁のものだと思い込んでいたものと縁が生まれたりだとか、そういうことで。
 単に新しいことの始まりというのではなく、単なる追加でもなく、過去からの流れを変える何かが欲しいのだ。
 たぶんそれは、自分自身で何かを変える力が弱いからという面と、自分の思いの及ばないところで何かが変わることによって、未知の可能性を信じる気持ちを取り戻せるという二つの理由によるものだろう。
 簡単に言ってしまえば、この世界が自分の想像や計算の範囲内であってもらっては困るということだ。
 世界も人間も自分も、もっともっと偉大で驚きに充ち満ちたものであって欲しい。
 そうでなければ絶望してしまうから。

 歴史は繰り返される?
 歴史は変えるためにある?
 歴史はごく稀にだけど、確かに流れを変えることがある。
 ただ、もう少しだけ頻繁に流れが変わってくれないかなと私は思う。
 だって、当たり前のことが当たり前に起きるだけじゃ詰まらないから。

 4月3日(土) 「夢の代行者として」

 人間は本当に、人間以外の生き物の敵なのだろうか?
 地球を汚す自分勝手な悪の生物なのか?
 いや、私はそうは思わない。
 人間は、あらゆる生き物にとっての憧れであり、夢の代行者なのだと私は思う。
 決して罪深いだけの駄目な存在などではない。
 すべての生き物が描いた夢の先頭に私たちは今立っている。
 人間になりたくてもなれない無数の魂の叫びが聞こえないだろうか?
 かつて人間になりたいと願った遠い過去の記憶がないだろうか?

 人間は他の動物のように自由じゃないと人は言う。
 鳥のように空を飛べず、魚のように泳げず、猫のように自由じゃない、と。
 でもそうじゃない、私たちが求めたのは、縛られない自由ではなく、自由度の高さだったはずだ。
 自分の思うことをなんでもできること、それが私たちが願ったことだったはずなのだ。
 その真の自由こそが人間を夢の存在たらしめている。

 人間が生き物すべてにとっての夢ならば、生きることは歓びでなければならない。
 夢と希望の担い手として、あらゆる生き物のためにどんな生き物よりも生きることを楽しまなければ。
 そして私たちは、過去からの知恵と知識と記憶を受け継いで、未来へと運ぶ責務がある。
 それもまた、人間にしかできない尊い仕事の一つだ。

 人生ではない、生きる生そのものをもっと喜び、尊ばないといけない。
 歩くこと、走ること、笑うこと、歌うこと、涙を流すこと、食べること、恋をすること---それらの人間を成立させているすべてのものに対して。
 命というのは、本当に、とても、とても……いいもんなんだ。

 4月2日(金) 「今日のためじゃなく明日のための言葉を」

 上手に嘆いてみせるより、その嘆きの先にある言葉を見つけたい。
 言い訳の言葉を飲み込んで、嘆を省略して次の言葉を探すのだ。

 共感だけでは足りない。
 その場しのぎの慰めの言葉じゃ駄目だ。
 酔っぱらった言葉でもいけない。
 次へ向かうために手招きしたり、背中を押す言葉でなければ。

 何よりもまず、自分自身のために。
 あらゆる慰めの言葉でも言い含めることができなかった私でも納得させるものを見つけることができたなら、それは力のある言葉ということだ。
 絶対的なキーワードがあるのかないのか?
 あると信じたいけど、きっとそれはないのだろう。
 何故なら、自分も人も世界も、すべては変わりながら続いていくものだから。
 たとえ今日100パーセントの言葉が見つかったとしても、明日にはそれはもう100パーセントではない。
 何事においても永遠の絶対はあり得ない。
 言葉もまた、例外ではない。

 その時、その場で最善の言葉を見つけていくしかない。
 古くなった言葉をどんどん使い捨てながら。
 私が探しているのは解答ではない。
 明日への言葉だから。
 正解じゃなくてもいいんだ。

 4月1日(木) 「日常よりも速く」

 人生はあまりにも平凡で鈍い日常に彩られすぎていて、きらめきも優しさも決定的に不足している。
 どれだけ未知なものを追い求めても、触れた瞬間に既知になってしまう。
 見たことのなかった風景も、初めての街も、新しい恋も、未体験の出来事も、すべて色褪せないものはない。
 あらゆる非日常も、非日常にとどまることはできず、日常にすり替わる。
 まだ生きていない新鮮な明日が、いつの間にか当たり前の今日になってしまっているように。

 人の歴史の一つの流れとして、非日常の追求というものがある。
 人は常に新しい刺激を追いかけてきた。
 日常に飽き足りないものを感じて。
 それはある意味本能に近い部分かもしれない。
 単に退屈を紛らわせようとするだけではないはずだ。
 人間は宇宙を目指すように、まだ見ぬ非日常を追いかけ続けている。
 終わることのない非日常を夢見て。
 この先の未来で、人はそれを手に入れることができるのだろうか?
 飽きることのないバーチャルな架空世界や、冷めることのない恋愛なんかを。

 もし、人の人生が最初から最後までドラマチックな非日常に彩られたなら、私たちはそのことをどう思い、どう感じるのだろう?
 今よりもっと満足できるのだろうか?
 それとも、結局のところ何も変わらないのだろうか?
 今の私たちは、田舎に住む生真面目で退屈な両親の愛情に包まれるように日常に守られて暮らしているようなものなのかもしれない。

 宇宙の中心のきらびやかで激しい非日常的現実から遠く離れて。
 そのことを幸福に思うべきなのか、それともあえて強い気持ちで否定すべきなのか、私にはよく分からない。
 ただ、静かな田舎で安住するにはまだ早すぎる。
 新しい明日に、新しい刺激を求めなければいけない。
 触れる先から日常になってしまっても、さらにその先へと手を伸ばさなければ。
 まだ触れてない非日常に触れるために。

 3月31日(水) 「みんな時間が足りない」

 時間不足という言い訳は自分にしか通用しない。
 誰もそんなたわごとに耳を貸してはくれない。
 時間というのは誰にとっても不足しているものなのだから。
 自分だけが特別足りてないものなんかではない。
 それに、時間が足りていることが幸せなわけもない。

 時間は足りないことが普通なのであって、それを言い訳にすることがそもそも
間違っているのだ。
 そこを思い違いしてはいけない。

 一日は24時間しかない。
 一年は365日しかない。
 でも、それだけあると考えた方がいい。
 それだけあればけっこうなことができるはずだ。
 増やせないのなら急ぐしかない。
 口ではなく手と足を動かすのだ。

 3月30日(火) 「無駄じゃないと思うしかないから」

 無駄であるという可能性は常にある。
 ただ、一方で、無駄ではないという可能性もある。
 神がいる可能性といない可能性が同じくらいあるように。

 無駄かそうではないかを突き詰めていけば、すべては無駄だという結論に辿り着いてしまう。
 そもそも宇宙が存在することさえ無駄といえばそうなのだから。
 どちらかに賭けなければいけないのだとしたら、私たちは無駄ではないという方に賭けるしかない。
 すべてが無駄ということになれば私たちは存在できなくなってしまうのだから。

 自分たちがやっていること、生きていること、幸せになろうとすること、自分を向上させようとする努力、人を好きになること、すべて無駄ではない、そう無理矢理にでも自分に思い込ませ、納得させて。
 でも、本当に無駄じゃないと私は思うのだ。
 根拠はないけど、そう確信している。
 行為や結果を一つひとつ取り出しみれば無駄なことかもしれないけど、行為することが自らの存在を成立させているという意味で、私たちのしていることは決して無駄じゃない。
 たとえば、泳ぐという行為抜きに魚が生存できないように。

 私たちは、自分という存在を存続させるために無駄と思える行為をなす必要がある。
 無駄なことをしないということは生きないということに他ならない。
 だから、無駄なことはするななんて言わないで。

 3月29日(月) 「終わりの始まりと始まりの終わり」

 とりとめもなく過ごしてきた日々の表も裏も、贅沢な悩みも貧乏くさい惑いも、心の中の光が当たる部分も深く影になった部分も、すべてが懐かしくて愛おしいと感じられたなら、それは終わりじゃなく始まりだ。
 悟ることがゴールじゃないから。
 終わりの予感に震えることはない。
 旅は終えるためにあり、旅を終えることは新しい旅を始めることだ。
 希望は常に終わりと共にある。

 きらめく思い出も、苦い記憶も、涙で汚れた胸の奥も、すべては地上に生きた証であり、地球に刻まれた歴史だ。
 愛せることに気づくことが、古い自分の終わりの始まりであり、新しい自分の始まりの終わりなのだ。

 3月28日(日) 「つながってないつもりでもつながってる」

 すべての空はつながっている。
 すべての海もつながっている。
 すべての陸も海の下でつながっている。
 あなたと私もまた、この地球の空の下で、大気の中で、地上の上で、つながっている。
 私たちは、どんなに孤独な夜の中でも、決してひとりじゃない。
 生者と死者、地球と宇宙、過去と現在と未来、すべては縦横無尽につながっているのだ。
 自分だけがつながってないなんて思わないで。

 3月27日(土) 「単線時間電車の旅」

 過去はものすごい早さで後方へ吹き飛んで、すぐに見えなくなってしまう。
 走る電車の窓から飛び去ったハンカチみたいに。
 私たちは無情なる時間という線路の上を走る電車に乗せられ、どこかに運ばれる。
 そして、こちらの都合などおかまいなしに途中で強制的に降ろされてしまう。
 終点でもないのに。
 時間の線路は単線で、反対方向へ戻ることはできず、過去とは永遠に別れたままだ。
 この時間線路の終着駅はどんな駅なんだろう?
 それとも、たとえ最後の一人が降り、無人になっても時間電車は走り続けるのだろうか?
 無数の過去と記憶を引きずったまま、どこまでも。
 せめて、過ぎ去った時間の駅名として名を残せる人になりたいと思わないだろうか?
 もし、遠い未来の人が、過去へ向かう線路を見つけ、時間の下り電車に乗って旅をしたとき、その人が自分の駅に降り立ってくれるような……。

 3月26日(金) 「春は待つためではなく生きるために」

 私はずっと春を待ってきた。
 けど、春を迎える準備が本当にできているといえるだろうか?
 いざ春になって、春の中に立ったとき、私には何ができるだろう?
 イメージはちゃんとできているのか?
 春が横を通り過ぎるのをただぼんやりと見つめているだけで終わってしまうのではないのか?
 冬が過ぎるのを身をかがめてじっと待っていただけみたいに。

 お前は結局待つだけの人間なんじゃないのかと、頭の中で意地の悪い声が私に問いかける。
 私はその声に対してどんな反論ができるだろう?
 いや、正しくて強い反論なんて必要ない。
 行動で示してみせればそれに勝る反論はないのだから。

 さあ、もう春がすぐそこまで迫っているぞ。
 何をのんびりしているんだ?
 急いで心の準備を整えろ。
 無駄にしていい一日などありはしない。
 春を待つだけじゃなく、春を生きるのだ。

 3月25日(木) 「見捨てるには早すぎる」

 もしかして、私は殉じていない?
 本当に?
 そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
 これまでずっと心の声に従ってきたつもりだけど、実は気づかないうちに自分自身に対して背信してしまっているのだろうか?
 最悪の形で。
 ただ、もし客観的な判断がそうであったとしても、現時点で私は私を罪としない。
 志はまだ心の中から消えていないから。
 自分を見捨ててしまうには早すぎる。
 自らを罰するときは自分で決める。

 3月24日(水) 「いつもの、じゃないやつ」

 それじゃあ明日はさぁ、いつもの店じゃない店で、いつものものじゃないものを食べて、いつものところじゃないところへ行ってみようよ。
 どう?

 3月23日(火) 「永遠と無限の一点である責任」

 現在、過去、未来。
 その中における自分の位置というものを常に把握しておくことは、思っている以上に大事なことかもしれない。
 過去や未来ばかり見ていては足下がおぼつかないし、現在しか見ていなければ行き当たりばったりになってしまう。
 過去から続く今と、未来へと続く今、その二つの視線で今の自分の位置と方向性を認識する必要がある。
 主観、客観、俯瞰で同時に見なければ正確な位置を掴むことはできない。

 自分の位置を把握したからといって、それですべてが上手くいくわけではないけど、それが前提として必要だろうとは思う。
 それを拡大していけば、宇宙の中の自分や、地球の歴史の中の今、といった視点も獲得できるようになるから。

 私たちは、無限の中の一点であり、永遠の中の一瞬を生きている。
 でもそれは存在の小ささを示すだけではない。
 無限や永遠は私たちが形作っているのだということを忘れてはいけない。
 それだけの責任があるということだ。
 その場限りで適当に生きていいわけじゃない。


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