2004.2.15-

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 3月22日(月) 「知識の果ての無知に向かって」

 自分は一体何が分からないのかということを、いつも自覚していけなければいけない。
 分かっていることと分かっていないことを区別して認識しておかないと。
 何が分からないのかが分かっていなければ、いつになっても分かるようにはならない。
 そして、自分は何を分かるようになりたいのかということも知っておくべきだ。

 私が本当に知りたいのは何なのか?
 宇宙の成り立ちなのか、存在することの意味なのか、生きることの目的なのか、運命と人生の関係なのか、究極の愛のようなものなのか、最終目的地点なのか。
 それら全部なのか、それとも一部でいいのか?
 知りたいことを何でも教えてやろうと言われたら、私は何を教えてもらうだろう?
 本当にすべてを聞く勇気が私にあるのか?
 私が分かりたくないことは何なのだろう?

 分かりたいという願いは、実はとても言い訳じみている。
何故なら、分からないということを認めて謙虚な振りをして自分を正当化しようとすることだから。
 しかし、それでもなお、私は分からないという思いの前で立ち尽くし、ここから逃れたいと願わずにはいられない。
 地平線以外に何も見えない荒野の真ん中で途方に暮れるみたいに不安だから。
 一刻も早く無人の荒野を抜けて、街明かりを目指したい。
 けれど、薄々感づいてしまってもいるのだ。
 分かるようになるということは地上を離れて俯瞰するということであり、地面から離れれば離れるほど景色はよく見えるようになるけど地上との関わりが弱くなるように、この世界のことが分かるようになればなるほど人間社会と上手く関われなくなってしまうということに……。

 物事が分かるようになるほど、自分が望まなくても超越せざるを得なくなり、周りに溶け込めなくなる。
 今の私たちが小学校に通ってもクラスメイトたちと上手く馴染めないように。
 分かるようになるということは恐ろしいことだ。
 それでも私は分かりたいと願うのか?
 分からない。
 ただ、もしすべてを知ることができたなら、そのときは完全なる無知となって再び戻れるような気がしている。
 気の遠くなるような旅路の果てで……。

 3月21日(日) 「幸福は共有するもの」

 夢や目標が限定されるということは、夢を持たない人間にとってはある意味とてもうらやましいことなのだけど、夢を持たなければ生きていけない人間から見れば、夢も持たずに生きてける人間は幸せな存在に見えるはずなのだ。
 夢に向かって一直線に突き進むことは、必ずしも幸福なことだとは限らない。
 たとえば、プロのスポーツ選手や芸能人と普通に暮らしている人の関係を思い浮かべれば分かる。
 あるいは、部活動に打ち込んでいる学生と帰宅部の学生を思い出してみるともっと分かりやすい。
 どちらかが一方的に幸せな存在というわけではない。
 得るものがあれば失うものもある。
 得るものが大きければ大きいほど失うものも大きい。
 要するに何を犠牲に差し出すかの違いだけだ。
 極端に言ってしまえば。

 人は非凡なものに憧れる。
 一方で、非凡であることを恐れもする。
 どちらがより幸福かということを決めつけることはできない。
 ただ確かなのは、他人をうらやましいと思わない人間は幸福で、他人をうらやましいと思う人間は不幸だということだ。

 絶対の幸福というものは存在しない。
 絶対の不幸もまた。
 幸福も不幸も相対でしかない。
 他者との比較の中でしか判断がつかないものだから。
 他人との兼ね合いの中で折り合いをつけて、最終的な判断は自分でするしかない。

 人より幸せになりたいと思うことは間違っていない。
 むしろ、人がどう思おうと自分さえ幸せならそれでいいという考え方の方が歪んでいる。
 他者との関係性を持たない幸福や、他人を巻き込まない幸せなど意味がない。
 幸せというのは人にあげたりもらったりして共有するものだからだ。
 スターが大衆に夢を与えることは、同時に夢を受け取ることで大衆がスターを支えていることでもある、それが幸せの構図だ。
 誰も一人では幸せになれない。

                      *

 私たちは何を探しているのか?
 バラバラに思い思いのものをそれぞれの場所で探しているみたいに見えるけど、本当はみんなで同じものを探しているのかもしれない。
 粉々に砕け散った宝物の欠片をもう一度ひとつにするために。

                      *

 人の子であり、神の子である私たちにできる最大の恩返しは、生きることを歓びとし、幸せに暮らすことだろう。
 何か物を返したりすることではない。
 その意味で私はまだまだ恩返しができていない。
 だから、もっと幸せにならなくてはと思う。

                      *

 たとえ小さな別れだとしても、そのことに対して鈍感になってはいけない。
 人と別れるということは、自分の一部を失うことなのだから。
 言えなかったサヨナラは小さな傷となって心に残る。
 指先の消えない傷跡のように。

 失い続ける時間も同じだ。
 今日もまた、人生の一日を失った。
 もう決して戻ることのない一日を。
 無駄に過ごしたわけじゃない。日々が過ぎていくことは避けられないことだ。
 でも、毎日の喪失に対して無感覚になってはいけないのだ。
 去った人の背中や、終わった一日をしばし見つめて、きちんと胸に刻まなければ。

 再会を夢見ることは、人生をやり直すことを夢見るのと同じくらい当てのない希望だ。
 そんな希望にすがってはいけない。
 人生は確実に一日いちにち終わっていき、物事は一つずつ終わりを告げ、出会った人とは一人ずつ別れていく。
 悲しむことはない。
 感傷的になる必要もない。
 ただ、覚えていなくてはならない。
 小さな痛みとして。
 生きることはとても痛いこと。
 そして、その痛みこそが生きている実感だ。

 3月20日(土) 「生きていれば呪いも解ける」

 この世界に生きるすべての人間が、幸福や恋愛や長生きを求めているわけではない。
 そんなことは当たり前のことを、私はときどき忘れてしまうことがある。
 幸福を求めることは決して当たり前のことなんかじゃない。
 むしろ積極的な向上を求めている人間の方が少数派なのかもしれない。
 みんな、どこか最初からあきらめてしまったり、自分を守るために多くを望まず、自分自身に言い訳したりしている。
 私は、できるだけ醒めてしまったり冷淡になってしまったりせず、生きている以上自分が求める幸福や恋愛をあきらめないでいたい。
 たとえ最初から自分にはそんな力も資格もないのだと気づいていたとしても。
 この身の呪いもいつかは解ける日がやってくると信じながら。
 最後まで生きるのだ。

 3月18日(木) 「消極性と積極性の反発」

 積極的にいくことが、別の部分で消極性を生んでしまうこともある。
 積極的にいけばその反動で消極的にならざるを得ない部分が出てくるのは仕方がないことなのだろう。
 たとえば、労力を惜しめば金が出て行くし、労力を惜しまなければ時間を失う。
 そういうことだ。
 積極性は消極性より正しいように思われがちだが、必ずしもそうではないということは自覚しておくべきだろう。
 何を得れば何かを失う、それが世の常だ。
 逆に言えば、消極性の中から何かを得ることもある。
 積極性と消極性を上手く使い分けていきたい。

 3月17日(水) 「幸福の終着駅の名前はまだない」

 目が覚めた後は、死ぬまで虚しさと絶望感との戦いに終始するということは分かっていたことじゃないのか?
 そう自分に向かってたしなめてやらないといけない。
 分かり切ったことをときどき忘れてしまうから。
 泣き言ばかり言うなよ、と。

 幸福がどんなに無意味なものに思えたとしても、私は全力で自分を幸福にするための努力をしなければいけない。
 理屈なんてどうでもいい。それは理屈を超えたこの世界の絶対的な正義なのだから。

 最近の私は自分を幸せにするための努力を少し怠っているかもしれない。
 自分を甘やかしてばかりいて。
 もう一度、自分自身に対して問いただす必要がある。
 お前の本当の幸福は何なのだ、と。
 それさえ教えてくれたら、私は全力でその実現のために力を尽くそう。
 ……。

 結局、私の一番の問題点は自分が求める幸福の形が見えていないことだ。
 ゴールのないマラソンを走っているようなものだから、それでは途中で虚しくもなろうというものだ。
 もはやとっくの昔に正規のコースを外れしてしまっているのだから、ゴールくらいは自分で決めるしかない。

 さて、一体私の目指す幸福の終着駅はどこなのか?
 それは何という名前の駅なのか?
 正直、よく分からない。
 ただ、大アンドロメダへ行って機械の体をもらうことではないことだけは確かだ。
 永遠が欲しいわけじゃない。
 この地球上で手に入れられるものじゃなければ意味がない。

 3月16日(火) 「共有と共犯」

 自分だけが間違っているわけではない安心感と、自分だけが正しいわけではない安心感と、両方揃ってこそ本当に安心できるもの。
 自分だけが悪人じゃないし、自分だけが善人でもない。
 愚かなのは自分だけではないし、賢いのも自分だけではない。
 この世界は競争原理が支配している世界ではあるけど、何一つ独占することはできない。
 トップの位置も、チャンピオンの称号も、世界一の評価も。
 何故なら、私たちは空間だけではなく、同時に時間の中でも存在しているからだ。
 人間は横だけでなく、縦にもつながっている。
 だから、いかなる意味でも孤独などではない。
 自分だけが……などと、ゆめゆめ思わないことだ。
 私やあなただけしか持っていないものは何もない。
 どんなにいいものも、どんなに悪いところも。
 私たちは共有者であり、共犯者なのだ。

                      *

 本物の悪魔は、天使よりも天使らしく見える。
 あなたは天使の微笑みと悪魔の微笑みを見分けることができるだろうか?
 そしてあなたは知っているだろうか。
 天使と悪魔が同一人物だということを……。

 3月15日(月) 「強制終了な一日」

 脳に大量に流れ込んでくる未処理の情報が、形を整えることなくひどく混乱して、どうにも収拾がつかない。
 悲しいのか、腹立たしいのか、もどかしいのか。
 感情として形を持つ前に脳が処理能力を超え、「応答がありません」の状態で停止した。
 その後、「不正な処理をしたため強制終了します」というメッセージとともに、今日という日はシャットダウンした。

 3月14日(日) 「他人の幸福に便乗できれば」

 人は世界の一部であるが故に、世界そのものなのだ。
 皿の中のスープの一滴がスープそのものであるように。

 誰かの幸福は自分の幸福であり、誰かの不幸は自分の不幸でもある。
 家族の一人の幸不幸が家族全体の幸不幸を決定するように。
 それが正しいものの見方なのだけど、きっと多くの人はこの角度で物事を捉えるのを嫌がるのだろう。
 そこにこの世界の不幸の本質が潜んでいる。
 人の共感する心の力が弱すぎるのだ。
 想像力不足と言ってもいい。
 人の幸せを上手く想像できないから共感もできない。
 想像できれば共感もできる。
 そういうことだ。

 もし、人の幸せを自分の幸せと思うことができたなら、あまり多くのことを望まなくなる。
 子供が幸せなら親の自分はそんなに幸せじゃなくてもいいと思えるみたいに。

 この世界はそんなにおめでたく出来てはいないと人は言うかもしれない。
 けど、私はおめでたい世界が好きだし、そうなって欲しいとも願っている。
 少なくとも最初からあきらめてしまわずに、少しでもおめでたい世界にする努力をすべきではないのか?
 もし、人類全体が今より10倍くらい賢くなれば実現しそうな気もするけど、どうなんだろう。
 実際はいつまで経っても人間は真に賢くなれず、世界はいつになっても無駄な不幸が溢れかえったままなのだろうか?
 いや、そうじゃないだろう。私はそんなに悲観してはいない。
 現在と100年前を比べたら、人は100年前より幸せになってると思うし、だったら100年後は今よりきっと幸せになってるだろう。

 3月13日(土) 「他人のためは自分のため」

 いつも結末を考えてしまう。
 まだ何も始まっていないのに。
 結末のその先まで想像して絶望してしまうのは、私の悪いところだ。
 結局それは先回りして自分を守っているだけだから。
 それはとても愚かなことだ。悲しいくらいに。
 別れたときの悲しみと絶望を思い描いて好きだと告白できない人間のように。

                      *

 生きていく上で悟りは必要ないというのが私の悟りだ。
 思いまどうことこそ、この世界で生きる喜びであり、死ぬまで迷い続けることが誠実な態度だと思うから。
 どんなことにも心を動かされないような生き方が本当に生きていると言えるだろうか。
 些細なことで怒ったり泣いたり笑ったり感動したりすることこそ、人間の本質ではないのか。
 テレビを観て笑ったり、好きなプロ野球チームが負けて不機嫌になったり、映画を観て本気で泣いたり、好きな子にわざと意地悪したり、きれいな風景を見て感動したり、それが生きるということだと私は思いたい。
 それは進歩を拒否した後ろ向きの考え方だと、ある種の人たちは言うだろう。
 でも、少なくとも、悟ったと思った後にもう一度人間らしく生きて欲しいのだ。
 悟った場所にとどまらずに。
 人間を超越することではなく、人間を極めることが次につながるはずだから。

                      *

 誰に何を還元するか、というテーマの答をいまだに見いだせていない私は、存在として非常に弱くて脆い。
 学校で学ぶのは、世の中に出て人や社会の役に立つためであるように、私もこれまでに得てきた知識や経験や想いを何かに役立てたいとずっと思ってきた。
 でも、どうにも手応えがない。
 お菓子を両手にいっぱい抱えて公園へ行ってみたら、子供は一人も遊んでいなかったみたいな感じだ。
 あるいは、私が抱えているものはお金でもお菓子でもなく、単なる枯れた木の葉だったというオチなのかもしれない。

 自分を幸せにすることは、ある意味とても簡単なことだ。
 自分のために美味しい料理を作って自分で食べるみたいに。
 ただ、もっと確かな幸福感を得るためには自分の存在だけでは充分ではなくて、そこに他人の存在が不可欠なのだ。
 自分で作った料理を自分で美味しく食べるよりも、好きな人のために美味しいものを作ってその人が美味しく食べているのを見ながら一緒に食べる方がずっと幸せなように。

 世のため人のために役立ちたいという考え方や発言は、必ずしも優等生的な発想から生まれるものではない。
 それはとても欲深い考え方でもある。
 もしくは、幸せのメカニズムをよく知る者の発言と言ってもいい。
 人の役に立つということはつまり、自分の存在が正当化されるということだ。
 人は誰も、多かれ少なかれ自分の存在の危うさに怯えている。
 だから、自分の存在を少しでも確かなものにしたいと思う。
 要するに安心感が欲しいのだ。
 他人の役に立っている自覚ほど安心感を与えてくれるものはない。
 罪悪感からも逃れられる。直接的、間接的に。

 世のため人のために役立ちたいという願いはとても利己的であると同時に、とてもまっとうな願いでもある。
 この心のメカニズムにもっと多くの人が気づけば、この世界ももう少し心地よくなるのだけど。

 3月12日(金) 「心の行方」

 心の行き着く先が見えない。
 どこに向かおうとしているのか。
 時々とても不安になる。
 でも私は心の後をついて行くしかない。
 どこに私を連れて行ったとしても、決して嘆くまい。
 心の行きたいところへ行けばいい。

 3月11日(木) 「長くて早い」

 人生は、思うより長くて、思うより早い。
 今、私は、その両方をとても強く感じている。

 3月10日(水) 「偏在するだけ」

 宇宙の中心点はどこにも存在しない。
 ここにもあそこにも、天にも地にも、私の中にもあなたの中にも。
 おそらく、宇宙に絶対的な基準というものは存在しないんじゃないだろうか。
 宇宙はただただ、多様なだけのような気がする。
 だから、裁いたり裁かれたりするのは違うと私は思うのだ。
 私たちが存在できているのも、絶対というものが存在しないからだろう。

 3月8日(月) 「ロウソクの明かりと人の親切」

 人間に絶望したときは、より広く、より深く他人と関わることだ。
 それ以外に人間不信から脱する方法はない。
 部屋の中が暗ければ暗いほど、ロウソクの光でも明るく感じられるように、心の闇が深ければ深いほど、小さな人の親切や優しさが心を照らしてくれるだろう。

 3月6日(土) 「ビターとスウィートの微妙な配合」

 繰り返される失望と絶望を、楽しみと喜びがいつもほんのわずかだけ上回る。 それで、どうにか毎日をやり過ごせる。
 明日も生きていこうと思う。
 ただ、それが出来レースなのか、それとも真剣勝負なのか、自分でも判然としないところがある。
 私は仕組まれた絶望感によってバランスを取るように仕向けられているのかもしれない。
 喜びのアクセルに対するブレーキとして。
 不幸というサイドブレーキでふいにスピンターンしたりしながら。
 絶望と幸福感のミックスジュースは、甘くて苦い。
 ビター・スウィート。
 甘すぎても苦すぎても美味しくない。
 いつも苦すぎるか甘すぎる。
 まだ正しい配合を見つけられずにいる。

                      *

 堤幸彦監督の映画『恋愛寫眞』を観た。
 作品の内容としてはたいしたことなかったのだが、作品の中で使われていた写真が非常に刺激的だった。
 誰が撮影したものかは分からないけど、あれはいい写真だった。悔しいくらいに。
 風景写真にしても人物写真にしても、写真には私が考えている以上に多くの可能性があるのだということを再認識させてくれた。
 私ももっと写真を撮ろうと思った。

 写真は決して現実を映すものではない。
 間違いなくフィクションだ。
 もしかしたら絵画以上に。
 現実の一部を切り取ることで、もはやそれは現実ではなくなる。
 日記に書かれたことが現実のすべてではないように。
 写らないことや書かないことで嘘ではないけど本当ではないものになる。
 余分な情報を足さなくても情報を抜くことはできる。
 そうすることで現実を歪めることが可能になる。
 より美しく、自分に都合のいいように。
 ただ、それは嘘ではない。現実ではないというだけで。
 けど、本物ではないことが本物以上に多くを伝えることもある。

                      *

 できないことが分かることも前進になる。だから、それはそれで喜ばしいことだ。
 やればできると思ってやらないでいるといつまで経っても前へ進めない。
 可能性というのはときに人を駄目にする。
 可能性が一つずつ消えていくことは悲しいことだけど、古い可能性が消えることで新しい可能性が生まれることもあるわけだから、あまり今ある可能性に固執しない方がいい。
 可能性も新陳代謝させていかないと腐ってしまう。
 古い可能性というのは、後で食べようと取っておいたら冷蔵庫の中で傷んでしまった好物のようなものだ。
 新鮮なうちに食べておいた方が良い。

                      *

 気づいたら人であふれる東京の百貨店のエスカレーターに乗っていて、何故だか靴を履いておらず靴下だけで、すごく恥ずかしい思いをしている夢ろ見た。
 何を暗示しているのだろう?
 靴をどこに脱いで忘れてきたのか、どうしても思い出せずにいた。
 その後、石段を上って神社にお参りをした。
 そこでもやけに周りに人がいた。初詣のときみたいに。
 幽体離脱?

 3月5日(金) 「目に力を入れて」

 自分の中の重大な勘違いにある日突然気づくことがある。
 何故今までそんな当たり前のことに気づかなかったのか、何故今になって気づいたのか、どちらの理由も分からないけど、そういうことがある。

 私は穏やかな人間になろうとしすぎていた。
 優しい目を手に入れることが正しいことだなどと思い違いをしていた。
 その結果、いい意味での攻撃性を失い、人間関係も緊張感をなくしていた。
 たぶん、必要以上に人に好かれようとしすぎていたのだろう。

 気づいたからにはきちんと修正しなければいけない。
 明日からまた、目に力を入れ直して、世界や人間を見るようにしなければ。
 まだ穏やかなだけの人間になるほど年老いてはいないのだから。

                      *

 自分を変えるのは他人? それとも自分?
 変わり続けながら変われないでいる自分自身にもどかしさと苛立ちを感じている。
 何も変わらない? それとも何もかも変わってしまった?

 3月4日(木) 「宇宙の温もりを求めて」

 この世界を冷酷に肯定するのではなく、感傷的、感情的に肯定するために私はもっと賢くなる必要がある。
 世界に多少の犠牲はつきものだと冷たく突き放すような理解の仕方ではなく、どんなに悲劇的も悲しくても、それでも世界から目を背けず肯定する方法を見つけるために。

 たとえば、宇宙は冷たい世界ではなく、私たちが考えている以上に暖かい世界なのかもしれない。
 暗い闇に包まれた無の世界ではなく、光と生命に満ちた。
 そのことを知るためには膨大な量の知識を得ないといけないし、考えて思い至るための時間が必要だ。
 だからまず、何よりも長く生きなければならない。
 今死んでしまえば宇宙の暖かさを知らないままで終わってしまうから。

 今の私たちは、知るという点において決して不幸な時代を生きてはいない。
 まだまだ歴史においても宇宙についても人間についても知らないことだらけだけど、ここ数十年で急速にいろいろなことが分かってきた。
 たとえば100年前の日本人の中で、地球には46億年の歴史があり、長い進化の過程があったことを知る者は誰一人いなかった。
 人類が誕生するずっと前にこの地球は1億6,500万年間も恐竜の天下だったことも。
 そのことだけでも私たちは100年前の人たちに比べて幸福だ。
 地球が誕生した時を新年1月1日の夜明けとして、今現在を12月31日の深夜0時だとすると、人類の誕生は12月31日の夕方である、ということも知識として知っている。
 宇宙は無数の銀河系が集まっていて、星の数は1,000億とも2,000億とも言われているということも。
 人間の体はすべて遺伝子の情報によって決まっているということも。

 私たちが生きていく上で無駄な知識はたくさんあるかもしれないけど、この世界で存続することの意味を考える上で無駄な知識は何もない。
 この世界は情報の集まりであり、世界を正確に認識するためには情報は選別されるべきものではなく、すべて拾う必要があるからだ。
 人間の勝手な判断で捨ててしまっていい情報など一つもない。

 知識が増えると悲しみも増えると聖書は言う。
 けれど、悲しみは半端な知識にとどまるからであって、進み続ければ決して知識を得ることは悲しいことではない。
 知識こそ希望につながるものだと私は信じている。
 ただし、その知識は冷たいものではなく、血の通った暖かいものでなければいけない。
 何故なら、知識は人間のためのものであって、人間というのはとても暖かい存在だから。
 生命はすべて暖かい。
 だとしたら、当然宇宙も暖かいに違いない。
 まだ今の私たちは宇宙の温もりを感じることはできないけれど、いつか人は宇宙の暖かさに触れる日が来るだろう。
 過去から受け継いだ知識を未来へ受け渡したその果てで。

 3月2日(火) 「まだ語り尽くされてはいない」

 誰かによってすでに語られたことを否定する必要はない。
 それはもう終わったことだから。
 語るべきなのは、まだ誰にも一度も語られたことがないことだ。

 すべてを語り尽くされたとき、この世界はその役割を終える。
 物語の裏表紙が閉じられるように。
 まだ私たちは語り尽くすほど多くを生きていない。
 だからこの物語は続くのだ。
 ただひたすら、最後のページに向かって。

 登場人物になるか、語り手になるか、読み手になるか、それは自分で決めればいい。

 2月29日(日) 「半煮え思考」

 恐ろしいのは、上を見ればきりがないことではなく、下を見ればきりがないことだ。
 まだまだ落ちる余地がたくさんあるということは、下の見えない高いところで綱渡りをする恐ろしさに似ている。
 最悪はいつもあっけなく更新されるものだから。
 この先いくつもの最悪があるだろう。
 それは学習だけでは決して克服できない。

 落ちることをただ恐れているわけではない。
 この世界の上下の格差に目がくらんでしまう。
 上から下までの距離が遠すぎる。
 いや、そういうことじゃない。
 私が本当に恐れているのは、自分が上にも下にも行けないことかもしれない。
 そして、上にも下にも大勢の人がいることがなんとなく恐ろしいような気がする。

                      *

 今日は書きたい気持ちが半煮えで、完成まで遠そうなのでもうやめておく。
 まだ想いに火が通っていない。
 このまま明日までとろ火で煮込もう。
 調理が不充分で食べられる状態じゃないものを人に出すわけにもいかない。

                      *

 明日から3月だ。
 3月といえばもう冬じゃない。
 冬じゃないとなると、もうのんびりしている言い訳が成り立たない。
 冬の間中、春になれば、と言っていたのだから、春になればそれなりに動かなくてはいけないだろう。
 どうやら今年も待っていても流れは変わりそうにないから自分から変えていくしかなさそうだ。
 まずは一日の時間割を変える。
 そこから始めよう。

 2月27日(金) 「遠くからのかすかな声」

 遠くから呼ぶ、かすかな声のする方へ。
 それは助けを呼ぶ声ではない。
 優しく手招きするような、でも、とても弱々しくて、何が言いたいのかよく聞こえない。
 だから気になる。

 導かれるままに手探りで暗闇を進む。
 不格好に手を前に伸ばしながら、もどかしいほどゆっくりと。
 もしかしたら罠かもしれないし、幻聴かもしれないと思いつつ。
 自分の心の声が、何もない行き止まりの壁にぶつかって反響してるだけかもしれない。
 それでも向かわずにはいられない。
 確かめなければ何も終わらないし始まらないから。

 そう、私はきっと確かめたいだけなのだ。何かを成し遂げようとか、自分を向上させたいとか、そんなことを望んではいない。
 ただただ自分の行き着く先を知りたいだけなのだと思う。
 たとえそこに何もなかったとしても、あるいはもっと残酷な結末だったとしても悔いはない。
 誰も待っていなかったとしても悲しみはしない。
 一番悲しいのは、自分の心を裏切ることだから。
 心の声に耳を傾け、それに従いさえすれば、最悪の結果も納得して受け入れられる。

 遠くからかすかな声で呼んでいる。
 でも、私がそこへ行き着いたとして、一体何ができるのだろう?

 2月25日(水) 「進化の行き止まりで私たちは泣くだろうか?」

 私たちは、この不確かで曖昧なルールと目的のサバイバル・ゲームに、気づいたら参加してしまっていた不幸な通りすがりなのか?
 それとも確かな目的と明確な意志でここへやって来た冒険者なのか?
 このゲームは複雑であると同時に単純だとも言えるし、単純だけど奥が深いという言い方もできる。
 ただ、目的や意味は別にして、ここは自分たちが思っているよりもずっと自由度の高い世界であることは間違いない。
 ままならないことが多いけど、やれることは無数にある。
 100年かかってもすべてを遊び尽くすことはできない。
 そのことをまずは自覚して、この機会を感謝すべきだろう。
 不満を並べ立てたり、世界に文句を言う前に。
 これは不幸な人間のチャンピオンを決める大会ではない。

 人にはこの世界を変える自由がある。
 けど、世界を変える必然性はないのだということは知っておくべきだ。
 世界と人間には主従関係は存在しない。
 どちらが主でも従でもなく、依存関係というよりもお互いに利用し合うことでバランスを保っていると言った方がいい。
 世界は決して人間の被害者ではない。

 この世界はどう変わろうとこの世界だし、変わらなくても同じことだ。
 どう変えようと、誰かにとって都合が良くなれば誰かにとっては都合が悪くなるわけで、そこにゴールや完成はあり得ない。
 別にどう変えてもまわない。住みやすいようにすることはいいことだし、自分たちが進歩と感じる方向に向かわせることは間違っていないだろう。
 ただ、この世界を人間にとって都合のいい姿に作りかえることが、人間の存在意義や私たちが生きる本質ではないということだけは理解しておかないといけない。
 世界を変えることに一生を費やすのなら、それは趣味と思ってすべきだ。

 私が本当に興味があるのは、この世界に生きるすべての人が、この世界の本当の姿や意味を理解したその先で何をしたらいいのか、ということだ。
 すべての疑問が解け、この世界が向かうべき目的地が見えたとき、本当に私たちはどうしたらいいのだろう?
 素直に何の疑問も持たず宇宙の一員として目的遂行のため従えばそれでいいのか?
 未知のものがなくなってもまだ私たちは存在する必要はあるんだろうか?
 100パーセント無知じゃなくなって、賢さを極めても尚、私たちは恋をしたり、スポーツに感動したり、映画を観て涙を流したりできるだろうか?
 夢を見ることがなくなっても?
 無知でなくなることがそういうものと引き替えだとしてもあなたは知ることを選ぶだろうか?
 私はどうなんだ?
 未熟で愚かで無知な人間であることに私はとどまってしまうかもしれない。
 知らないことで深く絶望感を抱いてしまうとしても、そちらを選んでしまうかもしれない。
 流行りの歌謡曲を聴きながらガソリン車を走らせるようなささやかな幸せを、そう簡単には捨てられそうにない。
 そんなものは進化の邪魔になる下らない未練だと笑われたとしても。

 地球の、この時代の、日本という国に生まれたことを、私はとてもとても幸せに感じている。
 それが自分の意志なのかそうでないのか、もはやどうでもよくなった。

 2月23日(月) 「思い出せない遠い約束」

 人は、一人だとどこまでいっても自分にしかなれないけど、他人と二人なら自分以外の人間にも、自分以上の人間にもなれる。
 自分の知らない面を発見したり、気づかない自分に気づかされたり。
 相手によっても自分は大きく変わる。
 だから人は他人が必要で、二人でいることに意味があるのだ。

 孤独は決して人の心を強くしたりはしない。心を硬くするだけだ。
 硬さは本当の強さなんかじゃない。
 心の強さは受け止めたり受け入れたりすることだから。

 他人を求めることはすごく大切なことなんだ。
 孤独にならないために。

 人を助けることは自分を助けることでもある。
 他人を励ますことが自分を励ますことにつながるように。
 左手で右手を洗うときは右手も左手を洗っているように。

 一人でいる方が楽だなんて思わないで。

                      *

 生きている間に起こることすべてが人生であり、この世で起こること全部がこの世界なんだということを感覚的に理解する必要がある。
 何一つ否定すべきものはなく、切り捨てなければいけないものもない。
 全体が一つの世界であり、無数の一つひとつが集まって世界を作っている。
 人生が毎日の積み重ねであるように。

 私たちはどこへ向かうのかなどと訊ねる必要はない。
 私たちは瞬間を生き、時間を通過し、月日を重ね、明日へ向かっている。
 ただそれだけだ。
 未来が導いているわけじゃない。
 過去が未来を作るのだ。
 今日、今ここで私たちが存在できているのは生まれてから毎日を積み重ねてきたからで、明日を生きるためには今日を最後まで生ききらなければいけない。
 そうやって未来は今日になり、昨日になる。

 納得なんてできるもんじゃない。どれだけ理解したとしても。
 意味など分かるものでもない。たとえ全部の真相を教えられたとしても。
 生きることが答であり、答は生きることでしかない。

                      *

 私には天国なんてものは必要じゃない。
 そんなご褒美を当てにして生きていたくない。
 死んだら安らかに眠りたくもないし、休みたくもない。
 ただ先へ進みたいだけだ。

 新しい世界への旅立ちはいつも不安だけど、胸躍る楽しみの予感に満ちてもいる。
 天国よりも次の時代を生きてみたい。
 何度も何度も。

 それにしても、私は何か大事な約束を忘れているような気がしてならない。
 それがずっと心に引っかかっている。
 いつどこで誰とどんな約束をしたのだったかまったく思い出せないのだけど、何を忘れてしまっているようだ。
 過去に置き忘れたのか、それとも未来での約束なのか。
 その約束を果たすことが、もしかしたら私の生きる意味なのかもしれない。

 2月20日(金) 「昨日の自分のために」

 今日書くことは、昨日書いたことを打ち消す行為だ。
 昨日より今日の自分の優位性を証明して見せるために。
 そうやって過去を否定することで現在の自分を確認しているところがある。
 格好悪くて恥ずかしい過去の経験から、格好悪くないためにはどうすればいいのかを知る。
 今日が昨日と同じ自分なら、昨日の自分に申し訳ない。今日の自分は、昨日の自分に希望を託されて生きているのだから。

                      *

 奇跡を願うのは弱い心ゆえなのだろうか?
 努力もせずにいい思いをしようとするということではそうだろう。
 けど、現実に起こる奇跡に耐えられるのは強い心だけだ。
 弱い心では奇跡の重みに押しつぶされてしまう。
 
 奇跡というのはめったに起こらないけど、ごく稀に確かに起きる。
 ただそれは、思うほど幸せのカテゴリーに属すものではない気がする。
 奇跡によってねじ曲げられてしまう人生というのも、それはそれでしんどい。
 奇跡抜きの人生の方が派手さは欠いても手作りのよさがある。

                      *

 自分が心底欲する知識を得るために何をどこまで犠牲にできるだろうか?
 もっと若い頃は知識を得るためなら大部分のものを失ってもいいと思っていた。
 魂を差し出して知識を得ようとメフィストフェレスを呼び出したファウスト博士のように。
 目の前にUFOが降りてきて宇宙人が宇宙を見せてやろうと言ったら喜んで乗せてもらっただろう。
 たとえ二度と帰れないことになっても。
 でも今はそういう気持ちがどんどん弱くなっている。
 私の中で、知識の重要性はかなり低くなった。
 もちろん今でも宇宙のすべてを知りたいと思う気持ちはあるけど、何かを犠牲にしてまでもとは思わない。
 人生の意味や生まれてきた目的を知らなくても割と平気で生きていけるようになった。
 ある意味では退歩と言えるのかもしれないし、生きることに馴染んだとも言えるだろう。
 けど、それだけではなくて、昔に比べてずっと謙虚になったのだと思う。
 自分は何でも理解できるんだという思い上がりがなくなった。

 結局のところ、知識というのはつまり理解力ということであって、理解力もないのに知識は得られないのだ。
 情報を知識に変えるには理解力が必要で、逆に言えば、理解力に対して知識というのは自然とついてくるものだということを理解した。
 私が宇宙に対する知識が足りないのは単に宇宙に対する理解力が足りないだけの話だ。
 何者かが私に何かを隠しているわけではない。
 それに、何かを知ったからといって何がどうなるわけでもない。
 そんなことを言ってしまったら身も蓋もないけれど。
 無駄知識は所詮無駄知識で、雑談のタネになるくらいのものだ。

                      *

 幸せを求めて前向きに生きることは必要なこと。
 何故なら、人生にはベターな道と無難な道の2本しかなくて、私たちはそのどちらかを行くしかないからだ。
 ベストの正しい道なんてものは一切存在しない。
 だから、私たちは前向きに生きるしかない。
 馬鹿らしくてもしょうがないんだ。

 2月19日(木) 「偉くなくても考えずにいられない」

 生きることの意味を私たちは本当に考えなくてはいけないんだろうか?
 知る以前の問題として、そもそも考える必然性があるのかないのか。
 考えなくても生きていけるし、考えずに生きている人間もたくさんいる。あるいは大部分がそうだと言ってもいいのかもしれない。
 その一方で、生きることの意味ばかり考えている人たちもいる。
 そして彼らは、考えずに生きている人間より考えて生きてる自分たちの方が偉いと思いこんでいる。
 果たしてそれは本当なのだろうか?

 考えることが考えないことよりも正しいなんてどうやって決めたのか。
 分かっていることと分かっていないことを比べたら、分かっていることは無条件で高尚だというのか?
 賢さと正しさが比例するのかさえ、最近私はよく分からなくなった。

 いくら考えても答えが出ないことに疲れてしまっただけなのか、それとも少しは世界の本質に近づけているのか。
 いずれにしても、ただ考えればいいってもんじゃないということだけは分かった。
 少しは進歩したらしい。

 考えることも、知っていることも、賢いことも、それ自体に意味はない。
 大切なのは、その先で何をするかだ。
 考えるだけで生きようとしないより、考えずに生きる方がずっと偉い。
 ただ、私は考えることでなんとかこの世の端っこでもいいから引っかかっていたいと願っている。
 正しくなくても偉くなくてもいい。
 考えることで私はかろうじて存在できているのだから。

 2月18日(水) 「千年後の自分にできること」

 たとえば私は千年後を生きる人たちのために何ができるだろう?
 もしくは、何をしてはいけないのだろう?
 千年後のことなんて知ったこっちゃないといえばそうなんだけど、たとえば千年後にまた自分が生まれ変わって生きていたとしたらどうだろう。
 未来の自分のために何かできることはないんだろうか。
 生き方によっては何か残すことが可能ではあるはずだ。
 今から千年前のものだってたくさん残っているし、千年前に生きていた人たちのことも私たちは知っているのだから。
 別に偉大である必要はないし、国家的、世界的な業績である必要もない。
 ささやかなことでいいから、千年後を生きる人たちの役に立つものを何か伝えたいと思う。
 言葉でも、発見でも、ヒントでもいいから。

 千年後の人たちは何を思い、どんなことを悩んで、どんな恋愛をして、どんな暮らしをしてるんだろう?
 街並みはどう変わって、文化や文明はどんなふうになって、どんな歌が流行ってるんだろう。
 あるいは、何が変わらずに残っているんだろう?
 どうやっても上手く想像できそうにないけど、きっと思うよりもずっと多くのことが大きく変わっているのだろう。
 人間はまだ相変わらず人間のままなんだろうか?

 どんなに進歩しても、どんなに大きく変わっても、逆に嫌になるほど変わってなくても、私は千年後の世界も今と変わらず優しい気持ちで愛せそうな気がする。
 どれほど悲惨で暴力的で救いがたいほど悲劇的であったとしても、人が人としてこの世界で生きている限り、私はこの世界を好きでいたい。
 何故なら、思い出のアルバムの中で人は、笑い、寄り添い、輝いた瞬間を持つから。
 終わりから振り返ってみた人生は、とても愛おしいものだから。

 私の願いは、この世界がずっと続いて、そこに人が暮らしていることだ。
 たとえ私が何一つ残せなかったとしても、私が生きた証が一切消えてしまったとしても、嘆きはしない。
 この世界が消えてなくなってしまわなければ。

 私が未来に対して何か残せるものがあるとするならそれは子供かもしれない。
 千年後の世界に私がいる必要はない。
 自分から続く人間が生きていれば。
 結局昔も今も、この世を生きる人の願いというのはそういうことなのかもしれない。

 2月17日(火) 「足りないからこそ」

 与えるものと同じ分量だけ返ってくるなら生きることはなんと簡単なことだろう。
 金や愛情や努力なんかが。
 でも、いつも思いとは裏腹に、少なすぎるか多すぎるかする。
 誰かのところにありすぎて、多くの人のところで不足してしまう。
 決して均一に行き渡ることはない。
 けど、足りないのと多すぎるのとではどちらが単純な人生かといえば、それは間違いなく足りない方が人生は単純で簡単だ。
 持つ者の悩みは他人から見るよりもずっと深くて理解されがたい。
 才能や美貌や大金がどれほど人生を複雑にし、難しくするか。
 足りなければ足りないことを嘆いていれば済むけど、多すぎるものを抱えているとそうはいかない。無駄な苦労を強いられる。
 それでも人は足りないことに比べれば多すぎる方がずっといいに決まってると言う。
 確かにそうかもしれない。
 でも、求めるだけの人間は知っているだろうか。多くを持たされてしまった人間が自分の人生よりも大勢の他人のために奉仕することを強要されるということを。
 才能がある人間は才能が枯れるまで働かされて使い捨てられる。
 美貌の持ち主は常に他人の干渉にさらされ対処することを求められる。

 人は愛したいと願い、愛されたいと願う。
 同じ分量だけ。
 でもそれには二重、三重の奇跡が必要で、そんなことはほとんどあり得ない。
 誰も皆、いつも足りないか多すぎる。
 ほんの一時バランスが取れることはあっても、それはすぐに崩れてしまう。
 愛の速さは人それぞれ違うから。

 あるいは私たちは贅沢すぎるだけなのかもしれない。
 だとするならば、私たちはどこで折り合いをつければいいのだろう?
 求めることを控えればいいのか、それともどこまでも求めて渇きに耐えることを学ぶべきなのか?
 もちろん、人生のすべてが自分にとって都合よくいくなんて思ってないし、そんなことを求めてもいない。
 でも、せめて、この世界のたった一人だけでいいから、自分が愛するのと同じくらい愛して欲しいと願うことはそんなに過ぎた願望なのだろうか?
 いや、もしかしたらそこが上手くいかないことがこの世界や人間の存続を支えているのかもしれない。
 すれ違いのメロドラマでなかなか男と女二人を巡り逢わさないことでドラマがどこまでも続くように。
 巡り逢ってしまえばドラマはそこで終わってしまうから。
 ならば私たちは安物のメロドラマを演じよう。次回に続くように。

 人は何故、愛を求めるのか?
 愛なしでも生きていけるのに。
 その答えはまだ出されてはいない。
 だから明日も世界は続いていく。

 2月16日(月) 「ダメ人間ですわ」

 私自身の誤りや間違いは、年々歳々、確かに正されていっているように感じる。
 ほんの僅かずつではあるけれど。
 そういう意味では、人生を生きるということは、神か誰かがいい加減に作った私やあなたという失敗作を、自分の手で少しずつ修正して成功作と呼べるものに近づける行為と言えるのかもしれない。
 誰かが説明書を見ずに適当に作って途中で放り出したプラモデルを作り直すように。
 神というものがもしいたとして、神は天才には違いないけど完璧主義者ではないらしい。
 トータルでは完璧なのかもしれないけど、細かい部分での粗が目立ちすぎる。

 私たちは自分自身を構成する一つひとつのパーツを自分で選ぶことはできない。ある種、親の借り物みたな部分もある。
 でも自分が気に入るように作り替える自由と権利と力を持っていると私は思う。
 創意工夫の余地は充分にある。内面も外見も。

 私たちが何故生きることを許され、生きる意味を持ちながら生きているかといえば、それは私たちの存在が完璧ではないからだ。
 最初から完全なら成長の余地もなく、生きる意味もない。
 存在しない完璧を求めながら完璧でないことによって自らの存在理由を持つ私たちは、考えてみればとても皮肉な存在だ。

 いずれにしても、生きることは進歩や成長という言葉よりもむしろ、修正という言葉の方が私は近いような気がする。
 そして私たちはいつか、修正を終え、完璧な存在へと戻るだろう。
 それは気の遠くなるような長い年月の果てにだろうけど、私はいつかそんな日が来ると信じている。
 その日を喜びとするか寂しさと感じるか、今はまだ分からない。
 ただ確かなことは、旅は必ず終わるということだ。
 終わりのない始まりはない。

 とはいえ、私の旅の終わりはまだまだ先だろうから今から終わりの心配をすることもないだろう。
 今は、ままならなさに喜びのようなものを感じて生きている。
 ダメ人間であることは実はとても楽しいことなのだ。

 2月15日(日) 「断想日記、再開。やや重い足取りながら」

 2004年という数字が持つ意味の重さと軽さを考えてみる。
 20世紀、20代だった私は、1999年という数字を目指して生きていた。良くも悪くも、いろんな意味で。
 そこにひとつのゴールもしくは大きな転換があるに違いないと信じて。
 しかし、そこに辿り着いてみたら拍子抜けするほど何もなかった。無情にも。
 そして私は途方に暮れた。照れ笑いを浮かべながら。

 あれから5年という数字が足され、2004年に私は今こうして生きている。
 その間、もちろん何もなかったというわけではないけれど、何か決定的なことがあったかと自分に訊ねてみると、しばらく考えた後、結局何もなかったな、とつぶやくしかない。苦笑いとともに。

 それでも2004年は止まることなく淡々と進んでいく。私の想いや思惑などまったく無関係に。
 私は時の流れに流されるよりも遅く、時の流れに置いていかれながらその後をよろめく足取りでどうにかついて行くのがやっとの有様だ。
 今年ももう、2月の半ばで、うかうかしてると春になってしまう。
 こんな調子では冬にも追いつけず、春にも手が届かないだろう。
 もっと足取りを早めなければ。時間に追いつけずとも、せめて季節には追いつけるように。
 2月中にやっておかなければいけないことだってまだいくつも残っている。
 とにかく、今の私のペースではいくら急いだって急ぎすぎということはない。
 だから、できるだけ急いだ方がいい。遅刻寸前とかそういうレベルの遅れではないのだから。たとえるなら、朝起きた時点でもう2時間目の授業が始まってるくらいの遅刻なんだから。でも、それならいっそのこと休んでしまえ、などという考えを起こしてはいけない。まだ大丈夫、まだ2時間目だ。

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 というわけで、今日からまた断想日記を再開することにした。といっても、表紙の言葉をここに移すだけなのだけど。
 また気が変わるかもしれない。でもとりあえずしばらくは続けよう。
 あとは表紙の模様替えだ(って、もう2年くらい言ってるような気がする)。

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(2月の表紙の言葉の覚え書き)

 誰もが自分の中にたくさんの面を持っている。
   いつも表に出ている面、たまに顔を出す面、決して表には出ない面、自分でも気がついていない面、特定の相手にしか見せない面。
 自分の好きなところもあれば嫌いなところもあるだろう。
 本当の自分はここなんだと思いたい部分や、絶対に認めたくない部分、変えたいところ、変わって欲しくないところなど、いろいろある。
 どれが本当で、どれが本当ではないかなんてない。それら全部が本当の自分だ。誤魔化しはきかない。
 どんなに嫌なところも自分の一部なのだと認めなければならない。全部が集まって自分なのだから。
  けど、自分の中のどの部分で生きていくかを人は決定することができる。
 自由な意志があり、選ぶ権利がある。
 それがあるから人間には救いがあり、存在としての正当性がある。
 悪いことを最初からできないからしないのと、悪いことをしようと思えばできるのにしないのとで意味が違う。
 そういうことだ。
 自分の中の暗い部分に取り込まれてはいけない。
 誰もが心の中に悪魔をすまわせているけど、そいつに負けてしまえばもはや存在の正当性を失い、その存在はあっけなく否定されるだろう。全面的に。
 逆に言えば、自分の中の暗黒に勝ち続けることができさえすれば、人は存在することを許される。
 自分の中にある最悪の部分を否定する必要はない。
 馴れ合わず、打ち勝てばいい。
 あるいは手なずけるか。
 心の中にどんなに深くて暗い闇を抱えていても、人は美しく在ることができると私は信じている。
 人間は光と闇でできている。

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 絶対に自分はそこで涙を流すだろうというシーンが頭の中にあって、私はきっとそこへ向かっているのだと思う。
 光も見えないまま、暗闇を手探りで。
 ただ、その究極の涙の先に何があるのか、自分はその後どうなってしまうのかということを上手く想像することができない。そこから先に想像の光が当たらない。
 おとぎ話の「めでたし、めでたし」に続くストーリーを読むことができないように。
 想像がそのシーンの続きを描けない。
 想像力の欠如なのか、私という存在の弱さなのか。
 人生にはいくつかの小さなハッピーエンドがあるけど、人生がハッピーエンディングで終わることはめったになくて、ハッピーエンドの先も続いていく。
 そこが人生の難しさだ。
 いや、だから人生は面白いと言うべきか?
 自分の存在の結末がどこにあるのか。
 愛が本当に答えになるのか。
 明確なゴールが何者かによって用意されているのか。
 その時々で流される涙が何かを知っているけど、答えを教えてくれるわけではない。
 それに涙はやがて乾く。
 人は泣きながら生まれてくる。
 でも泣きながら死んでいかないのはどうしてだろう?
 物語の結末のその先を自らの目で確かめることが私たちのなすべきことなのだろうか?
 何もかも分からない。
 分かっているのは、私が絶対に涙を流すであろう場面に辿り着きたいと強く願っているということだけだ。
 その時をこの命の終わりにしてもいい。
 私はハッピーエンドが好きだから。

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 他人の生き様は自分のものではないけれど、自分が持つ可能性の一部として自分のものであるように私は感じている。
 自分の人生にもいくつかの可能性があっても、その中で一つしか選べない。
 でも、選んだ道以外の道を誰かが進んでくれていればそれで私はけっこう満足だし、納得もできるのだ。
 たとえば自分が小説家か教師か画家かどれかになりたいと思っていて、その中で画家を選んだとする。
 でも兄弟が二人いて、それぞれが小説家と教師になっとしたら、私はもうその二つになる必要性を感じない、そういうことだ。
 それが友達であってもいいし、まったくの他人でもそんなに違いはない。
 私は誰もならない人になりたいのだ。
 誰もしたことがないことをしたい。
 それがどんなにささいなことでも、とてもくだらないことでも、誰もしていなければそこに価値があるような気がする。
 埋めるべき隙間があって、そこを埋められるのは私しかいないのなら、私は喜んでそこを埋めよう。
 勝手な思い込みだけど、この世でみんながやっている様々なことはすべて、私の代わりにやってくれているんだと思っている。
 私は一番出来の悪い末っ子でいい。
 ただ、もし私の願いを聞き入れてもらえるとしたら、私は誰かの夢の代行者でありたい。
 一番あり得ない可能性を具現する者として。
 失敗は失敗でも最高の失敗例であれたらいいと思う。

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 大切なのは、始めた理由じゃなくて続ける理由だ。
 何故始めたのかではなく、どうして続けているのかという問いに答えられたら、それは続ける価値がある。
 もし答えに詰まったら、それはもう続ける意味のないことなのかもしれない。
 始めた理由がどうであれ。
 恋愛も、仕事も、生活も、生きることも。
 続けることは大事なことだけど、なんでもかんでもただ続けさえすればいいというわけじゃない。
 時には勇気を持ってやめることも必要だろう。
 それは必ずしも降りるということではないと私は思う。
 何かを終わらせることは何か新しいことを始めるということだから。
 いや、理由とか意味とか価値とかいう言葉は違うかもしれない。
 続けたいと思うかどうかが一番大切だ、と言い直そう。
 願望だけではどうにもならないことも世の中には多いけど、いつも自分の気持ちだけは確認しておいた方がいい。
 私たちの人生はもう始まっていて、選択肢は二つしかない。
 続けるか、やめるか。
 続けたければ続ければいいし、やめたければやめればいい。
 どんな状況だろうと、どんな複雑な事情があろうと、最後の決定権は自分にある。
 自分の気持ちさえはっきり分かっていれば、人生の選択というのはそんなに難しいもんじゃない。
 最後は気持ちの強さが決める。

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 二人で行けば1年で行けるところを一人だと10年かかるということもある。
 一人では永久に辿り着けないところもある。
 私は先生を見失ったまま、どこまで行けるのだろう。
 弟子が師匠を追い越すというのならそれは美しい話だけど、弟子が勝手に道を踏み外すのは愚かなことだ。
 私はどちらなのだろう。
 もう、長い間、お手本と目標を失ったまま、ひとりさまよっている。
 360度見渡す限り地平線しか見えない荒野を。
 進むことをあきらめようと思ったことはないけど、目標物があまりにもなくて、時々気持ちが挫けそうになる。
 正しさとは何なのかという問いを通り越した先の正しさも間違いもない境地の更にその先にある正しさとは何なのか?
 知識、現実、歴史、宇宙、人生、日常、時間……。
 マクロとミクロ、永遠と瞬間、光と闇、無限と一点。
 不変の真実というのは3次元以上の世界でも成立するものなのか?
 それとも、永続的な変化こそが現実なのか?
 たとえば、人間として地球で生きていく上での絶対的な正しさというものがあり得るとして、それは無限の宇宙の中で相対的にどの程度意味と価値があるものなのか?
 地球の歴史上で一番賢くて正しい人間になればそれがゴールなのか?
 恋愛、家庭、日々の喜び、観光旅行、冠婚葬祭、美味しいご飯。
 あるいは、無数の悪意や底の知れない深い闇。
 全部を同時に捉えなければならない。
 一切を同時に。
 そのためには、まだまだ私には時間が必要だ。
 私の疑問に答えてくれる先生がいない以上、自分にできる範囲で考えてみるしかない。
 やれやれ、大変だ。

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 私たちは未来に向かって生きているわけだけど、未来がどうであれ、今ここで生きる
 しかないのだということを今一度強く自分に言い聞かせておく。
 毎日がトーナメントの戦いのようなもので、今日負けてしまったら終わりなのだ。
 たとえ目標が決勝戦に進んで勝って優勝することであっても、目の前の戦いに勝たなければ次はない。
 私たちは毎日勝ち続けることでしか未来を生きる権利を得られないのだから。
 毎日がサドンデスで、人が死なない日は一日としてない。
 明日自分の番が回ってこないという保証はどこにもない。
 生き延びることが勝つことだ。
 ただ未来に生き延びればいい。
 それは思っているほど簡単なことじゃない。
 私たちが生きている日常は、もしかしたら戦場よりも死にやすい場所なのかもしれない。
 兵士の絶対的な正義が、国のために相手を殺すことではなく生きて国に帰ることであるように、私たちもまた生きて明日に行き着くことこそが絶対的な正義なのだ。

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 自分の行為にはすべて責任を持たなくてはいけないけど、自分の人生には責任を持たなくていいんじゃないかと私はある時からそう思うようになった。
 自分の人生はどう転がるか分からない。
 予想がつかない部分がたくさんあるし、運不運をコントロールすることもできない。
 どれだけ綿密な計画を立てても絶対にその通りにはいかないし、常に自分の思惑は裏切られる。
 良くも悪くも。
 だったら、もう思い切って無責任に楽しんでしまっていいのではないか。
小説や映画の中の登場人物を眺めるように、ゲームの中の自分の分身を後ろから操作するように、人生の中の自分というものを客観的に見て楽しんでしまえばいいと私は思うのだ。
 どう転んでもそれは自分の人生なわけだし、上出来の人生と失敗に思える人生にそれほど大きな差はないような気がする。
 何度もやり直せるならもっと計画的に緻密に生きて次につなげる必要もあるだろうけど、一回きりなんだから、成功も失敗も、正しいも間違いもないではないか。
案用紙の帰ってこないテストのようなもので、自分は何点だったのか確かめるすべはないのだから。
 それは投げやりになるとか、自分勝手に生きるとか、そういうことではない。
 多くの人が、自分自身に必要以上の責任感を押しつけて人生を楽しめてないように私には見える。
 それではもったいないから、だったら思い切って無責任になって自分の人生を客観視点で楽しんだ方がいいということを言いたい。
 私がこの世界を見ていて悲しいのは、戦争や犯罪や飢餓など多くの不幸があるからというよりもむしろ、すごく恵まれた状況にありながら人生を充分に楽しめてる人があまりにも少ないように見えることだ。
 楽しめてないから感謝の気持ちも生まれないし、人に優しくもなれない、それで不満が募り、無駄な不幸がますます増えていく。
 私はこの世界はもっともっとおもしろおかしい世界であってもいいと思っている。
 人生が修行であったり苦行であったりする必要はない。
 ただ、そのためには個人がそれぞれもっと精神的な部分で向上する必要はあるだろうけど。
 それにしても、みんなもっと自分の人生に対して無責任になれるといいのにな。

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 過去の幸福感が時々亡霊のように目の前に現れることがある。
 うつむいて考え事をしなら歩いていてふいに顔を上げたら目の前に懐かしい友達がいたときみたいに。
 けど、それを直視できずに目をそらしてしまう。
 その過去が優しければ優しいほど。
 私は嫌なことを思い出すのも嫌いけど、いいことを思い出すのもあまり好きではない。
 それは前向きな性格ゆえではなく、ちょっと油断するとつい後ろ向きになってしまう自分を知っているから。
 だから私はいい思い出を恐れる。
 楽しかった過去を思い出さなければ戻りたいと思わずに済む。
 いつか私も、いい思い出に負けない自分になって、過去を平気で思い出せるような人になりたいと思う。
 でも、今はまだ振り返るのはよそう。
 思い出が優しく微笑んでいても、目を閉じて明日のことを思い描くのだ。

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 私が守るべきものはそんなに多くないような気がしつつ、日々を過ごしている。
守りたいと思うものはたくさんあるけど、本気で死守しなければならないようなものは、もしかしたらほとんどないのかもしれない。
 そういう意味での身軽さというのは、あまり正しくないし、歓迎したいものでもない。
 別に責任が欲しいとか重りがないと立っていられないとか思ってるわけじゃないけど、あまりにも守るべきものがないと生きることが難しくなるという面は確かにある。
 柵で囲まれた自分の家を外敵から守るというのならイメージが浮かぶけど、無人島に一人で住んでいたとしたら何をどう守っていいのかよく分からないみたいに。
 自分はどこまで自分でいられるのだろう?
 仕事をなくし、金を失い、家も持ち物もなく、家族もいなくなって、人間関係からも切り離され、日本から追い出されても、まだ自分でいられるだろうか?
あるいは、言葉の通じない外国で、自分の名前も忘れ、過去の記憶もなくしたとしたら、それでも私は私でいられるのだろうか?
 最低限これだけは守らないと自分ではなくなってしまうという境界線はどこにあるのだろう?
 それはやはり記憶なんじゃないだろうかと私は思う。
 それと意識と。
 自分の存在とは何かと考えてみると、それはつまり記憶そのものなのだということに気づく。
 現状の認識もすべて過去に積み重ねてきた脳の中のデータを元に判断されているのだし。
 もし、これまでの一切の記憶をなくしてしまったとしたら、世界とのつながりをすべてなくしてしまうのに等しいだろう。
 だから私はもっと記憶というものを大切にしなければいけない。
 忘れることはそれだけ自分を失うことだから。
 そういう意味では私もまた、みんなと同じように守るべきものはたくさんあるということになる。
 ちょっと安心した。

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 私が今してることも、これまでの生き方も、もしかしたら根本的に間違っているかもしれない。
 いや、きっと、間違えているだろう。
 大いなる勘違いと、自分にとって都合のいい思い込みが元で。
 私は大間違いの間抜け野郎だ。
 でも、それはそんなに大きな問題じゃない。
 いつの日か、自分の間違いに気づきさえすれば、そこですべて帳消しになるから。
 だから間違いにまだ気づかない今はこのまま行けばいい。
 それに私の人生の目的は、正しい道を正しくなぞることではない。
 間違えることで可能性を一つずつつぶしていくことのはずだ。
 後悔はあるといえば全部そうなんだから、初めからないものと思っている。
もし、私がいつか自分の間違いにはたと気づき、正しい道に戻ったとき、私はきっと今このときの日々をなつかしく思い出すことだろう。
 間違った道を間違いだと気づかず、のんきに歩いているというのはとても幸せなことなのだ。


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