2002.11.7-

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 12月30日(月) 「ありがとう」

 今年はどんな年だったろうと振り返ってみると、なんだかとてもぼんやりとした一年で、上手く思い出すことができない。軽い記憶喪失のように。
 記憶が遠くの海の上に浮かぶ蜃気楼みたいだ。
 けれど間違いなく一年365日、私は生きたのだ。ずっと眠り続けていたわけじゃないし、気絶してたわけでもない。いつもの年と変わらず同じ一年という時間を過ごしてきた。
 今年一年から私は何を学べばいいのか。この出来事不足の退屈で平和な一年から。
 まだよく分からない。何もないのかもしれないし、何かあるのかもしれない。
 ただ、今年あらためて思ったのは、真っ直ぐな道は決して存在していないということだ。自分では真っ直ぐ進んでいるつもりでも実際は曲がりくねっているし、坂を上ったり下りたりもしている。スピードもいつの間にか速くなったり遅くなってたり。
 誰の人生も、レールの上を走る電車のようにはいかない。
 そしてもう一つ思い知ったのは、自分が最良だと思っている部分もいつかは変わってしまうということだ。一番好きだったものもやがて一番じゃなくなり、一番得意だったことも色褪せ、自分の中にあった唯一の救いも救いじゃなくなったりする。
 変化というものに情けの入り込む余地はないらしい。
 人は変わりたいと思ってもなかなか変われず、一方では変わりたくないところが変わっていってしまう。
 変化は本人の思惑通りにはいかない。

 今年失ったものと新たに手にしたものがある。
 心の平和を手に入れ、そして言葉を失った。
 今年というのはつまりそういうことだったのだろう。
 それを喜ぶべきなのか悲しむべきなのか。

 まだこの先の行方はまったく見えてこない。決定的なイメージ不足も相変わらずだ。
 こんな調子で来年はどんな年になるんだろう。
 自分はどんなふうに変わっていくのか。
 分からない。想像もできない。
 でもだからこそ、来年もまた生きたいと思うし、生き延びなければならない。

 来年の目標は死なないこと。
 自分に対する無責任な期待感が消えるまでは生きていようと思う。

 深夜、暗い部屋でひとり、天上を見上げて、誰にともなくつぶやいてみる。
 私はこれでも前進してる……よね?

 今年最後の言葉は、深くふかく頭を下げて、どうもありがとう。

 12月9日(月) 「終わってみれば笑い話」

 今私の中にあるすべての想いや思考は、これまでの風雪に耐えてきたものばかりだ。
 19や20の頃の言葉とは違う。
 多くの言葉や想いが時間の重みに耐えられず消えていった。
 残ったものはそんなに軽いものじゃない。

                   *

 自分のためにどう生きればいいのか分からなくなったら他人のために生きればいい。
 自分のためにどう生きればいいのか分かっていれば自分のために生きればいい。
 どちらにしても人は他人のために生きることから逃れられない。
 表通りから行っても裏道から行っても、結局同じ場所に辿り着く。
 だから心配せず、思うままに生きればいい。
 
                   *
 
 自分に対して厳しくあるように他人にも厳しくあることを強いるより、自分に対して甘くあるように他人に対しても甘さを許した方が世の中上手くいく。
 でも、他人に対して甘くあることは難しい。
 みんな、自分に甘いように他人にも甘くできればいいのに。
 甘いことが必ずしもいいことだとは思わないけど、それでも私は厳格さに可能性を見出すことができない。
 向こう側に突き抜けることができるとしたら、それは究極の甘さの果てなんじゃないだろうか。
 全員が全員を無条件に許せるといいんだけど。
 
                   *
 
 まだ知らない多くの感情がある。
 こんなところが旅の終着点であるはずがない。
 もっと多くを感じ、考え、想わなくては。
 限界なんか感じてる場合じゃない。
 
                   *
 
 正しい人は、敬意を表すべき相手を見間違わない。
 一番偉い人間が一番威張っていいわけじゃないことを知っているから。
 
                   *
 
 この地球という星の正しさを、宇宙とこの星に住む人達に証明してみせる必要がある。
 地球を侮っている宇宙の人と、地球の素晴らしさに気づいていない地球の人に。
 
                   *
 
 正しい人の正しい論理と、駄目な人の言い訳の両方を同時に視界に入れて物事を判断しないといけないと私はいつも思っている。
 どちらかの言い分が一方的に正しいってことはまずあり得ないことだから。
 できることなら、上下左右360度すべてを同時に捉えたい。
 そのためには、目に見えるものだけに頼ってはいけない。心の目で見なくては。
 
                   *
 
 私の思考は決して複雑なものじゃない。むしろ普通の人より単純だと思う。
 複雑なのはむしろ感覚の方だ。この感覚を理解してもらえるように言葉で説明するのは難しい。すごく複合的なものだから。
 ただ、それでも発する言葉は常に単純でなければならないと思っている。小学生でも理解できるくらい。
 
                   *
 
 これまでの人生を振り返ってみると、私は二つの道しかなかったような気がする。
 こちらの道とあちらの道と。
 あっちを行ってたら今頃どうなってたんだろうとたまに想像する。
 でも結局のところどちらを行っても後悔してたことだけは確かで、私はあの時こっちの後悔を選んだのだ。半ば無意識にだけど。
 あっちへ行っていたらきっと今より幸せだったろう。でも可能性をなくしていた。守るべきものを持つことで。
 だからこっちで良かったのだ。
 この道がどこに続いているのか、まだ分からない。行き止まりかもしれない。それでも最後は納得はできるだろう。
 たとえ分かれ道にもう一度戻ることができたとしても、やっぱり私はこっちを選んでしまうはずだ。
 そういう意味では結局のところ、私の行く道は最初から一本道だったのかもしれない。
 いや、道をわざと外して道なき道を進むことにしたんだ。だから目の前に道はまったく見えていない。
 それでもこのまま行こう。
 というよりも完全に道に迷ってしまっているから今さら元来た道に戻ろうったって戻れやしないのだ。
 迷子の呼び出しをしてもらっても誰も迎えにきてはくれない。
 ま、なんとかなるだろう。なんとかならなかったらならなかったで、それはそれで楽しい旅。
 すべては笑い話になる。

 12月8日(日) 「曇天の一日」

 今日の空模様のようにはっきりしない心模様の一日だった。
 なすすべもなく、ただひたすら録り溜めたビデオを消化した。まるで宿題を片っ端からやっつけるように。
 今日の中にあったわずかな救いは、観たビデオの中に『サイベランス -監視』というすごく面白い(個人的に)映画があったことと、「さんまのスーパーからくりTV」が爆笑だったことくらいだ(お気に入りのボビーに続いて、「よいしょ坊主」というニューヒーローの誕生に大喜びする)。
 あとはルーティンワークだったり、雑多なあれこれがあったくらいで他に印象に残ったことはほとんどない。
 平和といえば平和な、平凡といえば平凡な日曜日の一日だった。不幸でもなく、幸福でもなく。

 それにしても今年の12月は鈍い。行動も心も。気持ちがどうしても走り出さなくて、足取りもすごく重い。ここまで加速感のない12月というのもこれまでちょっとなかったんじゃないかと思う。
 どうやら本格的な低調期に入ってしまったようだ。悪い時期に。
 なんとか今年中に抜けられればいいんだけど、下手したらこのまま年末年始に突入してしまうかもしれない。今は上昇の兆しがまるで見えない。

 今日はこれ以上粘っても何も出てきそうにない。こんな日は早めに切り上げてしまって明日を早く始めた方がいい。
 うん、そうしよう。

 12月6日(金) 「ちょっと前の断想日記みたいな断想日記」

 幸せの決め手が独占ではなく共有だということに今頃気づいた私は少し遅すぎたのだろうか?
 いや、でもまだ手遅れじゃないはずだ。まだ終わったわけじゃないから。
 
                   *
 
 いろんな考え方ができるようになった。
 いろんな感じ方ができるようになったと言った方がいいかもしれない。
 昔の自分に向かって優しく諭せるほどには賢くなれたと思う。頭ごなしに正しさを押しつけるというのではなく。
 これでもまだまだ充分ではないけど、それでも未来の自分の言うことに今なら素直に耳を傾けられそうな気がする。
 一番成長したのは、自分の愚かさを自覚できようになったことだろう。
 
                   *
 
 何かを否定したら負けになる。
 正しさを競うゲームにおいて。
 何故なら、長く生きるほどにそれまで否定してきたものを肯定できるようになるから。
 つまり、より多く肯定できた者こそ先まで進んでいるということであり、正しさの勝ち負けがあるとしたら、それは上下の関係ではなく前後の関係だからだ。
 すべてを肯定できるようになった時点でそこがゴールになる。
 
                   *
 
 求めるべきは正しさじゃないということに気づいたけど、それでも尚、正しさを求めずにはいられない。正しさを超えるために。
 そのためにはまず、正しさに辿り着かなければならない。届かなければ超えられないのだから。
 限界を超えるためにはまず自分の限界を知る必要があるように。
 正しさを知らずに正しさや正しさを求める人間を否定することはできない。
 
                   *
 
 人間に泣くという能力が与えられている以上、人はやはり泣くべきだと私は思うのだ。
 少なくとも、一生の中で何度か、本気で泣くべき時と場面がある。
 男とか女とか関係なく、恥ずかしいとかみっともないとかそんなことはどうでもよくて。
 ただし、泣きすぎると涙が安くなるから気をつけないと。
 泣きたくでも泣いてはいけない場面もある。
 
                   *
 
 不自然なことが自然なことに切り替わる瞬間がある。
 たとえば、見知らぬ他人だったのが恋人と呼ばれる関係性になった時、それまで不自然だった多くのことが自然なものになる。
 あるいは、無名から有名になった時なども。
 こういう切り替わり現象というか、逆転現象みたいなものこそ人生の面白みや痛快さといったものなのだろう。
 生きているといろんな思いもよらない出来事に遭遇する。そういう新鮮な驚きがあるから、人は70年も80年も退屈せずに生きられる。
 たとえ毎日の生活が退屈だったとしても、それでも生きるってやっぱり面白いものだ。なかなかやめられない。
 
                   *
 
 誰も自分の成長を止めることはできない。
 だから人は、完璧になる可能性を持ち、完璧になることができない。
 
                   *
 
 奇跡に支えられた現実というのは思っている以上に脆いのかもしれない。
 宝くじに当たって手に入れた幸せがとてもあやういように。
 だから、恋や出会いに奇跡を求めるのはやめた方がいいのかもしれない。
 奇跡の助けを借りた出会いは現実の重みに耐えることが難しい気がする。
 奇跡には積み上げた土台がないから。
 
                   *

 すれ違った私たちが再び出会うことがあったとしたら、その時にこそ運命という言葉を使おう。
 出会うだけでは運命じゃない。奇跡でもない。
 最後まで一緒にいられたら、それこそが運命であり奇跡なのだ。
 
                   *

 出会いの確率は、街の人混みの中を歩いていて正面から来た人とぶつかるくらいの確率なんじゃないか。
 毎日雑踏の中を歩いていてもそうそう人とぶつかるもんじゃない。肩と肩が当たったり、ぶつかりそうになったりすることはあっても。
 それでも人がいなければぶつかりようがない。

                   *
                   *
                   *
 
 2002年の日本人の平均寿命は、女性が85歳、男性が78歳らしい。
 この数字で私たちはなんとなくまだまだ生きられるような気がして安心してしまっているけど、実はここまで寿命が延びのはつい最近のことで、日本も少し前まではみんなもっと早死にしていたということをみんな忘れがちだ。
 20世紀の最初頃にようやく60歳を超えたけど、19世紀の終わり頃は40歳でしかなかった。私なんてそろそろ死を考えなきゃいけないところだった。やれやれ、21世紀で良かった。
 それにしてもよくもここまで寿命が延びたものだ。ありがたいことだなとつくづく思う。
 無駄に長生きすりゃあいいってもんでもないけど、30歳や40歳で人生を味わいつくすのはすごく無理がある。感覚的にそう感じる。ましてや20歳やそこらで寿命が尽きてしまってはおちおち寝てもいられない。
 そういう意味で70歳、80歳というのは、なかなかいい感じなんじゃないだろうか。長すぎず、短すぎず。
 
 せっかくだからついでに人間の平均寿命の歴史を見てみると……。
 驚くことに古代ギリシャ時代の平均寿命は18歳だったらしい。いやはや。
 古代ローマ時代でようやく22歳で、 その後1600年くらいまでゆるやかな上昇カーブを描いてやっと28歳になる。これじゃあ大人になって結婚して子供ができて、うわっ、もう寿命!? って感じではないか。油断してるとあっという間に終わってしまう。
 更に18世紀で35歳になり、19世紀で40歳を超えたのだった。
 50歳を超えたのは20世紀に入ってからで、しかしそこから急激に寿命は延びることになる。食生活の改善とと医療の発達などによって。そして何より、乳幼児の死亡率の低下が大きい。
 しかしわずか1世紀で20歳以上も延びたのはかなりすごいことだ。古代の人から見たら信じられないことだろう。ずるい〜と言ってるかもしれない、あの世で。
 この調子でいくと21世紀中には平均100歳を超えるかもしれない。満更冗談でもなく。
 私もこうなったら超長生きして、きんさん、ぎんさんを娘っ子呼ばわりしてみたい。じいちゃんの若い頃にきんさんぎんさんという100歳の双子がおって、たいそう評判になったんじゃが、ワシから見たらあんなもんは娘っ子のようなもんじゃ、かっかっかっ、とひ曾孫に語って聞かせるのだ。
 
                   *

 テレビでやった映画『GO』を観た。
 なんとなく観たくない作品だったんだけど、せっかくテレビでやってくれから観てみたんだけど、これがなかなか良かった。思ってたよりずっと。
 観ていくうちに作品に対する偏見みたいなものが消えていって、中盤から後半にかけてはとても楽しめたし、いい作品だとも思った。
 ただ、観終わって心に残っているものが意外に少ないんで自分でもちょっと拍子抜けしている。
 ラストが弱すぎたせいだろう。予定調和なハッピーエンドにしてしまったせいで、観る側にとってもこじんまりと物語が完結してしまった。あそこでよりを戻して終わりってのはいくらなんでもちょっとショボかった。せっかくもっともっと発展させられるテーマを持っていたのに。
 もったいない。
 あんな教訓めいた分かったような終わりじゃなくて、もっと突き抜けて欲しかった。もう一回滅茶苦茶に暴れるとか。
 傑作の要素を持ちながら傑作になり損ねた作品、それが私にとっての『GO』だった。残念。
 
                   *
 
 最近、もうひとつ本読みに気持ちが向かわなかったんだけど、病院の待ち時間に読み始めた藤原伊織の『テロリストのパラソル』は久々の当たりだった。
 最初文章がぶつ切れですごく読みにくいと感じて投げそうになったものの読み進めていくうちにそのリズムにも慣れてきて、内容の盛り上がりと共に私の気持ちも乗ってきた。まだ最後まで読んでないけど、これは間違いなく面白い作品だ。今、毎日寝る前に少しずつ読んでいる。
 読み終わったらまた感想などを書いてみよう。
 
                   *
 
 12月6日。いまだ気分が年末モードにならず。
 明日もイメージ不足。
 
 12月5日(木) 「21世紀型病院施設の在り方の提案」
夜、民家の間からぬーぼーと浮かび上がる
尾張旭スカイタワー。



 先週の深夜は救急車の中だった。
 今となってはもう冗談みたいだ。
 でも大事にならなくて良かった。変な病気も見つからなかったし。
 今日、最終的な検査結果が出て、結局原因不明のまま、食あたり騒動は幕を閉じた。
 いくつかの知識や現実を私に教えて。
 一つ、救急車は車酔いするほど激揺れする。
 一つ、世の中は病人だらけ。

 ごくまれにしか病院へ行かないからというのもあるんだろうけど、行くたびにいつもこう思う。
 世の中って病人や怪我人だらけなんだなぁ、と。しみじみ、つくづく。
 まるで健康な自分の方が異常なんじゃないかと錯覚するほど、病院は病人で溢れ返っている。あちこちを故障した人達が調子悪そうにしてる。

 そしてもう一つ思うのは、ここで上手く商売すれば儲かるだろうなぁ、という思いだ。
 だいたい病院くらい退屈なところはない。とにかく何をするにも待たされて、その間やることがない。見舞いに行っても退屈だし、看病だって退屈だ。病院には退屈が売るほどある。時給に換算したらすごい金額になるだろう。
 あれだけ人が大勢いて、しかもみんな退屈してるのにこれといった気の利いたものを提供できないなんてもったいなすぎる。社会的にみても大いなる損失だ。あそこなら大抵の商売なら外しようがないんじゃなかろうか。タワシの実演販売だって売れるんじゃないか。バナナのたたき売りだっていける。
 そこで私は考える。思い切って病院を一大レジャー施設と合体させてしまうのはどうだろう、と。この際ありとあらゆる娯楽施設を病院と併設してしまうのだ。
 いや、もっと単純に言ってしまえば、百貨店と病院を合体させてしまうのがいい。食べ物から買い物から遊ぶところまで何でもありにしてしまう。病院に行けば病気も治るし、何でも揃う、みたいな。
 ……。
 駄目かなぁ。けっこう良い考えだと思うんだけどな。

 病院ってのはどうしても死の影が濃くつきまとい、とかく暗くなってしまうものだけど、むしろより強く生きるためのものという攻撃的なイメージでいってみてはどうだろか。そのためには生きるためにすることができる施設との合体というのは病院の概念を一新するはずだ。
 一つのビルの中にフロアを分けて、でもつながりを持たせるっていう発想はそれほど荒唐無稽なものではないと思うんだけどな。どっかに頭の柔らかくて金持ちの院長はいないもんだろうか。
 もしくは、史上初の病院と百貨店の合併というのもありだな。銀行でも企業でも合併するこの時代、病院と百貨店が合併したっていいではないか。スクエアとエニックスだって合併したくらいだ。
 当然、最初は冒涜だ何だと非難ゴウゴウだろうけど、でもきっと儲かるぞぉー。私は行く。そんな病院なら病気でもなくても行くぞ。
 どうせなら、眼科や耳鼻咽喉科や歯医者も一緒にしてくれると助かるな。
 それぞれの待ち時間を利用して、一日で全部回れたらそんな便利なことはないから。更に空き時間があれば買い物したりもできるし。
 そうだ、映画館も一緒にしてしまおう。歯の治療を受けながら映画も観てしまうのだ。
 ああ、果てしなく便利で楽しい病院の妄想がふくらんでいく……。
 21世紀中にこんな病院ができるだろうか? 可能性としてはあるだろう。だって現に私の頭の中にそのイメージがあるのだから。誰かの頭の中にあるものはすべて実現可能だということだ。
 でもホントにそんな病院、できないかなぁ。

 12月2日(月) 「すれ違ういくつもの好きたち」

 今生まれたばかりの小さな予感をそっと両手で捕まえる。
 でも、逃げないようにゆっくり手を開けてみると、そこにはもう何もない。消えてしまったのか、初めから捕まえてなかったのか。
 何かが始まる予感、何かが終わる予感、自分が変わる予感、何かいいことがある予感……。
 予感の影さえ見あたらない。
 今のは何だったのか。
 
 溢れ返る色と音と映像と光によって私の感覚は鈍くなってしまったようだ。
 何かを得れば何かを失う。
 経験が驚く心を奪い、記憶が想像力を削っていく。
 
 何もかもを手に入れることはできない。
 だから、いつでも両手は開けておいた方がいい。
 なくすことを恐れずに。
 
                   *
 
 自分は誰にも似ていないのだという悲しい諦めみたいな感情がいつもどこかにあって、だから、少しでも自分に似た人に会うと嬉しくなって、必要以上に自分を好きになってもらおうとしすぎる。自分が相手を好きになるより先に、それ以上に。
 思い返してみると10代の初めから今に至るまでその繰り返しだったような気がする。
 そしてその試みは常に失敗に終わるのだ。

 好きという感情が正面からぶつからず、斜めに当たってすれ違う。そのスピードが速ければ速いほど行き過ぎた後、引き返しても間に合わない。
 それでも後悔はないし、失敗もしてないのだと思う。
 恋愛に絶対や正解はないとしても、組み合わせに絶対的な正解は存在すると信じているから。
 どんなにものが見えるようになって心が冷めても、それくらいのおめでたさはあってもいい。
 
                   *
 
 何かを証明してみせることの必要性を今はあまり感じていない。
 誰かを見返してやろうとか、自分の正当性を知らしめるとか、成功してみせるとか、そういう野心のようなものがいつの間にかなくなっていた。良くも悪くも。
 別に人生を降りたわけじゃないし、将来を諦めたわけでもないけれど、なんというか、あまり形にこだわらなくなったということなのだろう。
 どうあるべきかとか、何々をしなくてはいけないとか、こういうスタイルが正しいとか、そういう発想がどこかへいってしまったのだ。スタイリストだった20代からは考えられないくらい。
 ただし、形へのこだわりが消えるということは必ずしも良いことばかりではなくて、気持ちが楽になる分、目標も曖昧になって生きることが難しくなるという面もある。毎日に流されもする。
 けれど、今はこの調子でもいいような気がしている。ここが結論ではなく、今はそういう時期というだけのことだろうから。また先へ行けば考え方も生き方も違ってくる。その先のことはその先の自分に決めさせればいい。
 ただ、言えることは、人間性だけでは充分ではない、ということだ。実績や結果は必要なんだと思う。
 能力と実績は言い換えれば才能と作品だ。才能は作品としての形を得て初めて価値を持つ。
 そういう意味では、最終的には形へのこだわりがまた必要になるだろう。
 
                   *
 
 他人の愚かな行為は、まだ使えるのに無造作に捨てられた粗大ゴミに似ている。再利用できるものはしなければもったいない。
 自分の代わりに先回りして愚行を演じてくれている他人に感謝しなくては。非難したり馬鹿にしてるだけじゃ、せっかくの好意が無駄になる。
 だから自分も、誰もしないような愚かな行為をしてみせなくちゃいけない。人まねではなく。
 それが人助けというものだ。
 
                   *
 
 思い出は宝物だという。
 確かにそれは間違ってない。色褪せない宝石のようなものだ。大事にした方がいい。
 でも宝石が所詮宝石であるように、思い出もまた所詮思い出でしかない。生きていくために絶対に必要なものじゃない。贅沢品だ。
 だから、もっと大事なものは後ろではなく前で探そう。自分が立っている足元より前で。
 
                   *
 
 世界が美しいのは、その多様性ゆえだ。完璧さゆえじゃない。
 もしこの世界が完璧に正しかったとしたら、そこにはもはや美しさはなく、喜びさえもないだろう。
 だから、もし天国があったとしても、そこは決して完璧な場所などではないはずだ。あらゆるものが存在する場所に違いない。
 ということはやはり、今私たちが存在しているこの世界こそが天国なんじゃないのか?

 12月1日(日) 「世界のどこかで私たちの心の破片が」

 自分が変われば世界も変わる。
 見えている世界は自分を映している鏡だから。
 世界が変わって見えたら、変わったのは世界じゃなく自分の方だ。
 それは人間関係でも同じで、恋人や友達や家族が変わって見えたとしたら、それは相手ではなく自分が変わったからに違いない。
 逆に言えば、自分が変わらなければ自分の目に映る他人は変わらないように見えるはずだ。本当はその人は大きく変わっていたとしても。
 人も世界も姿を変える。でも、見ているのは自分の目であって目というのものは絶対的なものではない。鏡に映る自分の顔と実際の顔が違っているように。
 相手が悪い方に変わったと思ったなら、それは自分が良い方に変わったということだ。相手を責めちゃいけない。むしろ喜ぶべきことだ。

                   *

 自分の甘さはリアルタイムではなかなか気づけないものだけど、先へ行って振り返ってみれば必ずその時の自分の甘さに気づく。
 誰かのせいにしてたけど全部自分のせいだったり、単に実力不足だったり、考えが足りなかったり。
 けど、気づけるということはそれだけ進歩してるということだ。
 過去の自分を否定できなくなったらそれは進歩が止まっているということだから。
 前ばかり見ていても大切なものを見失うし、後ろを振り返ってばかりいても前へ進んでいかない。前を見て、後ろを見て、また前を見て、そして足元を確認して、走るべき場所なのか歩くべきところなのかを判断する。
 急ぎすぎても落とし穴に落ちるし、ゆっくりしすぎれば時間切れになってしまう。
 人生の長さと短さを間違えず捉えることが必要だ。
 
                   *

 この現実世界のありふれた毎日の中で浮かんでは消える様々な心の断片は、誰の目にも触れることなく消えてゆくように思えるけれど、本当はそれは今でも世界のどこかで風に吹かれて漂っているのかもしれない。
 たとえばメキシコの乾いた砂埃の中を、たとえばモンゴルの草原を吹き抜ける風の中を、たとえばシベリアの永久表土の上を、たとえばニューヨークの五番街のビルのすき間を。
 私たちの世界に空は一つで、世界中どこに立っていても、世界中のすべてとつながっているのだから。
 アフリカの少女の笑顔を実際に見たことがなかったとしても私たちがそれを思い浮かべることができるように、ガンジス川のほとりで瞑想する人の心に私たちの涙が見えているだろう。
 世界は無数の彩りで成り立っていて、私たちの存在はその一点でしかないけれど、でも確かに世界の一点なのだ。
 決して孤独などではないし、悲しむことも嘆くこともない。自分も世界を成立させている一点としての自信と誇りを持ってしっかり立っていればいい。
 存在することの喜びを全身で感じながら。
 
                   *
                   *
                   *
 
 気がつけばさりげなく12月に突入してしまっている。でもそんなに慌てて何かしなければいけないというわけでもない。何もないのに自分も周りに合わせてペースを上げる必要もないだろう。
 今日すること、明日すること、今週の予定、それらのイメージだけきちんと持って見失いさえしなければ。
 ロングドライブも気分が乗らないのに無理に決行しなくてもいい。
 それは自分を甘やかすとかそういうことではなくて、心のシグナルを素直に受け止めていればいいということだ。
 いつ何をすべきかということは心がすべて知っている。
 心の声を聞き逃さなければ間違うことはない。

 11月25日(月) 「新たな旅の始まり」

 とても平和な一日。朝から雨が降って、街の騒音が雨音に全部吸い込まれたように静かな日だった。

 心の中から悲しみが消えたわけでは決してないけれど、今は心の一番奥底に沈んでいる。心の水面が穏やかな時は心の中も悲しみで濁ることはない。

 通過してきたいろんな感情が今はとても遠いものに思える。
 それらのほとんどは、もう興味がなくなってしまったものばかりだ。
 読み終わった小説のように。

 私には幸せがどういうものかよく分かる。
 それは私が幸せではないからだ。
 でも本質的な部分では実際分かってない。
 あるいは、絶対的な歓喜のようなものを。

 飢えを知れば足りるということも知る。
 私たちが本当には満たされないと感じているのは、飢えることを知らずに育ってきたからだ。
 でもだからといって飢えることが生きる上で正しい状態だとは思わない。飢えずに済めばそれに越したことはない。

 苦労というのは自分を支えるためには役立つけど、人から品のようなものを奪ってしまう。
 苦労なんて貧乏と同じで自慢するもんじゃない。
 笑い話のネタにはなるけれど。

 いろんなものを目指したり、心の支えにしたり、生きる拠り所にしてきた。
 ある時は才能こそがすべてだと信じ、ある時は自己完結を目指し、ある時は美意識が最も大切なものだと思ったこともある。
 言葉だけが自分を支える唯一のものだと考えていた時期もあった。
 あるいは、賢くなることが正しさだと思い込んだり、愛だけが答えだと分かったような気になったりもした。
 けど、今の私には何もない。心を支えるものが何一つ。
 でも失ったのではない。通過したのだ。
 そして何もない広い場所に出て、私はようやく拠り所となる杖を持たずに自分の足で立てるようになった。
 これまで考えたことや思ったことや感じたことはすべて間違いだった。と同時にすべて正しかった。
 答えは空であり、すべてなのだ。
 今また、新たな可能性や道が見えつつある。
 この先は言葉を探す旅ではない。言葉では表現できないものを探す旅になる。
 まだまだ先は長い。こんなところで分かった気になってる場合じゃない。

 11月24日(日) 「言葉の真空地帯」
頭の上を走る道路や線路を当然のものとして
受け入れるようになったのはいつからだろう?


 日本で初めて地上より上に道路が走ったのはいつだろう?
 やっぱり東名高速道路なのか。それとももっと前にあったのか?
 地面より下の道はどうだろう?
 世界では?
 そんな疑問を持つこともなく、いつの間にか頭の上を走る道路や海底を走る道路を当たり前のものとして受け入れている。本当はそれほど当たり前のことではないのに。

 たとえば江戸時代の人が今の日本の風景を見たらどう思うんだろう?
 まるで別の星のように思うのか、それとも空想通りに進歩した未来の光景として案外当たり前のように受け入れてしまうんだろうか?

 関ヶ原の合戦が1600年だから、あれから400年。ここまでの進歩や変化が大きいか小さいか、一概には言えないけど、でも確かに街並みは大きく変わった。
 400年も経てばそりゃあ変わるけど、その前の400年はどうだろう? 1200年ってどんな時代だったか。あ、そうだ、「いい国作ろう鎌倉幕府」が1192年だから鎌倉時代か。それを考えると、やっぱり時代の変化というのは加速しているんだなとつくづく思う。

 400年後の2400年、日本はどんな姿をしているんだろう? まったく想像がつかない。車はどうなってるのか、道路はどんな形になってるのか、乗り物はみんなどんなものになってるのか、家や建物はどうか、人間はどんな姿恰好をして、どんな生活をしてるのか。
 そんなことを想像してると、また懲りずに何度でも生まれ変わりたいと思ってしまう。新しい時代を自分の目で見られるなら、少々の苦労や不幸なんて何でもないことだから。

                   *

 話したいことはいくらでもあるのに、語るべきことが何もない。
 頭の中にはたくさん言葉があるのに、胸の中が空っぽなのだ。
 デートの最中、会話が途切れてできた二人の間の真空地帯のように。
 これはただのインプット不足か、それとももっと根本的な問題なのか。
 ただ一つ言えることは、対象を見失ってるということだ。暗い観客席に向かって漫談を続けるのは難しい。明るい観客席か、もしくは相方が必要だ。

                   *

 修理途中で行き詰まってた日立のビデオ7B-S80だが、もう一台別の機種7B-F91を入手できたので再挑戦してみたら、あっさり直った。
 再生方向にテープが送り出されなかったのは、メカ裏のギアが外れていたからだったのだ。両方のメカを取り出して比較してみてようやく気づいた。そんなもんだ。気づいてしまえば簡単なことだけど気づかなければ永遠に気づかない。
 ギアを分解して組立て直したらちゃんと動くようになった。
 持病の誤作動や暴走は、日立ビデオお決まりのモードスイッチで、こっちも分解して紙ヤスリと液体コンパウンドで磨いて、田宮の接点グリスを薄く塗ったらすっかり直った。
 7B-F91の動作異常は、モードスイッチのクリーニングだけでは直らず、再生画像が全然出なくて焦ったものの、テンションバンドを新品に換えたら何気なく直ってしまった。テンションバンドのテンションがそんなに大事なものだったとは。これはけっこう盲点かもしれない。
 といわけで、わざわざ日立のサービスセンターまで行って部品を調達してきたかいがあったというものだ。嬉しい。
 けど、この2台、使い道がない……。
 そのうち売って別のビデオを買う資金にしてしまおう。
 これで日立ビデオの7Bで始まる型番のビデオはだいたい掴めた。メカもほとんど共通のものを使ってていつもたいてい壊れる箇所は同じみたいだから、また壊れたやつが手に入ったら直してみよう。中がスカスカでビデオマニアには評判の悪いメカだけど、分解するにはこんな簡単なメーカーはない。日立はビデオ修理初心者にはSONYと並んで最適なメーカーだろう。

                   *

 明日から11月最終週だ。しかし、積極性が戻る気配はない。なんとか週末までに気持ちを高めて、何かしたい。一つでもいいから、特別な何かを。

 11月21日(木) 「ドラマが必要」
日立のサービスステーションで買ったビデオの修理部品。


 日立のサービスセンターへ行って、ビデオの修理部品を買ってきた。
 三菱やシャープなんかは消耗しやすい部品をセットにして消耗品キットとして売ってるんだけど、日立やSONYなんかはバラ売りしかしてない。まあ余計なものを買わずに済む分安上がりでいいといえばいい。ただ、消耗品キットのように説明書はないし、欲しい部品の型番や名前を知らないと買えないから面倒といえば面倒だ。
 何はともあれ、テンションベルトと、モードスイッチと、アームを買ってきて、早速故障してる7B-S80の部品を交換してみた。
 が、直らん……。
 半ば予想していたのだが、どうやら故障の原因はこれらの部分ではないようだ。テープが走行する時に、ウンウンウンとどこかにこすれて当たってるような音がするから、もっと根本的なギアあたりがおかしいようだ。
 メカを部分を抜き取って、あれこれいじったり組み立て直したりしてみたんだけど、とうとう直せずあきらめた。
 日立のビデオの構造がよく分からない。すごく中はスカスカで分かりやすい感じなんだけど、完全に故障してる状態で手に入れたビデオなので元の状態を知らない分、ここで行き詰まった。もう一台同じ機種か近い機種があれば分かりそうな気がするから、また近いうちに手に入れてみよう。日立のこの年代の機種はほとんど共通のメカの使ってるようだから安く手に入れるのはそんなに難しくない。
 ただ、今は機嫌よく動いてるビデオがたくさんあるから、ぼちぼちでいい。直しても置く場所がないし(って、じゃあなんのために直すんだよー)。

                   *

 最近平和な毎日が続いていて頭をあまり使ってない。平和ボケという言葉があるけど、あれは本当だ。人間、毎日刺激がないとだんだん脳が鈍っても衰えていく。確実に。使わない筋肉がすぐに落ちてしまうのと同じように。
 脳のためには平和な毎日よりも少々の不幸や心配事なんかがあった方がいい。あんまり強すぎると逆に停止してしまったりするから適度じゃないとまずいけど。
 頭が働かなければ言葉も生まれない。言葉は思考なしには作り出せないものだから。

 でも思えば言葉というのは、プラスの状態よりもマイナスの状態から生まれることの方が多いような気がする。感動や幸せは言葉にしなくてもかまわないと思えるけど、不幸は言葉にすることで少しでもマイナスを減らそうと思う。嫌なことがあったら誰か人に話して少しでも嫌な気分を紛らそうとする。
 そういう意味では、言葉というのはある種の防衛本能から生み出されるものなのかもしれない。
 人の非難から自分を守るために使ったり、相手をやり込めて優位に立つために使ったり、相手に対して悪意がないことを伝えることで敵を作らないようにするために使ったりする。
 逆に言えば、もし言葉を一切使わなかったとしたら、人は多くの敵を作るだろうし、他人を傷つけるだろう、人の悪意から自分を守ることもすごく難しくなる。

 ほとんどの人は、無意識のうちに当たり前のように言葉をしゃべり、文章を書いたりしてるけど、実は言葉を使うということは生きる上でものすごく重要なことなのだ。だからもっと大切にしなくてはいけない。
 言葉一つで他人は敵にもなるし味方にもなる。
 言葉を上手く使いこなせなければ自分を守れないし、上手く使えば身を守ることができる。

                   *

 ようやくロングドライブへ向かう気持ちが戻ってきた。一日の中で何度も、今まで行った記憶の中の風景が断片的に浮かんでは消える。これは遠くへの想いが高まっている証拠だ。
 日常を離れて、知らない道を走ったり、初めての街を見たりすれば、必ずそこには感じるものがあって、後々それらは財産になる。
 半日かけてただ遠くへ行くだけでいい。それだけで得られるものが絶対にある。名所や観光地なんかじゃなくても。

 私にとって11月というのはそういう月なのかもしれない。10月ではなく、12月でも1月でもなく11月になるとどこかへ行きたくなる。11月はこれといって何も行事がない空白の月だからだろうか。そういえば6月もそうだ。
 イメージが浮かんで時間ができたらすぐに行こう。11月も気づけばあと一週間しかない。

                   *

 地域情報のちょっとした小冊子がポストに入っていて、パラパラとめくっていたら、「子猫が産まれましたので、どなたかもらってください」という記事が目にとまった。
 そういうふうにしてまで猫をどうこうしようって気持ちはないんだけど、でもそろそろまた猫のある生活が恋しくなってきていることは確かで、ふとどこかに子猫が落ちてないかなと考えてしまったりする。
 猫との出会いも男女の出会いも待っているだけでは始まらないという考えでいくか、それとも出会いは運命的、宿命的なもので、必然性のある出会いは待っていれば向こうからやって来ると信じて待つか。
 もちろん猫と恋愛を一緒にしちゃいけないんだろうけど、でもどっちにしても私はなんらかのドラマを必要としてしまう。偶然でも必然でも運命でも何でもかまわないから、何かドラマが欲しい。そうじゃないとその出会いが今ひとつ重要なものに思えないから。
 私が映画や小説やゲームや連ドラに求めているのはドラマで、それは日常でもそうだ。
 私のドラマ好きはきっと一生治らないんだろう。

 11月19日(火) 「忘れがたいものたち」
見慣れたベランダからのいつもの風景。

 いつもの方角に夕陽は沈み、飛行機はいつもと同じコースを飛び、いつもと同じ場所に明かりが灯る夕暮れ時。今日も平和のうちに一日が過ぎた。

 私はすべての物事を肯定的に捉えたいと思っている。ある時、そうすることに決めた。楽観的というのではなく、投げやりというのでもなく、物事の判断は良い部分でしよう、と。
 今日一日終わったことで寿命が一日縮んだのではない。一日生き延びて寿命が延びたのだと思いたい。
 悪くない一日は良い一日。

                   *

 ドリキャスの「サクラ大戦4」をやり終えて、想像以上に胸にずしりときた。エピローグのムービーでじわっと画面が滲んだ。
 一作目をやったのが確か1996年だから、あれからもう6年になるのか。中古でサターンを買った時、最初に買ったゲームが一作目の「サクラ大戦」だった。
 あれから時は流れ、多くのゲームが生まれ、私自身も変わっていった。「サクラ大戦」もサターンの「2」を経て、ドリキャスに移って「3」が作られ、そしてこの「4」で完結した。寂しくも悲しいことだけど、ついに終わってしまった。PS2で「5」が作られてもそれはもうサクラ大戦ではない。
 そして「4」でのこの完結は、私の中のセガ・ハードの完結でもあるような気がする。
「サクラ大戦」がやりたいがためにサターンを買い、「サクラ大戦」が終わることでドリキャスの使命は終わったのかもしれない。この先ドリキャスは静かな余生を送ることになるだろう。
 ドリキャスが生産中止になり、セガはコンシューマーのハードから撤退し、セガはSONYに負けたと多くの人が思っているだろう。でも私にとってセガのハードは「サクラ大戦」を生んだということだけで大成功だと思っているし、とても感謝もしている。それだけ「サクラ大戦」は私にとって大切なものであり、おそらくこの先ずっと一番好きなゲームであり続けるだろう。20年前、ゲームというものに出会った少年の頃の私が夢見たゲームの完成型が「サクラ大戦」なのだから。

「熱い 想い この身を焦がし たとえ あした 命つきても
歌い 踊り 舞台に駆けて 君に届け 今宵高鳴る その名……」

「花咲く乙女」より

                   *

 今日は「サクラ大戦4」と香港映画『わすれな草』で、なんだかしんみりしてしまった。こんな日はふと尾崎豊の「Forget-me-not」を思い出して小さく歌ってみる。
 生きることは、忘れていくことでもあり、忘れがたいものが増えていくこともでもある。

 11月18日(月) 「行けば分かるさ」
また満月が巡りくる。
月の満ち欠けもまた、無言で何かを教えようとしているのか。


 幸福は二重構造になっていて、外側と内側と両方が正しく満たされてなければ完全な形とは言えず、どちらか一方だけが完璧だったとしても人は決して満足できない。金だけでは満たされないし、愛だけでも足りない。だから幸福を手に入れるのは難しいのだ。どちらか一方だけで良ければ世の中の半分の人間は幸福になっているだろう。
 まずは二重構造の仕組みを正しく理解しなければならない。二元論というものを常に意識して、内と外をバランスよく追い求めなければ。
 翼が二枚ないと飛べないように、一方の羽だけどれだけ立派でも駄目なのだ。

                   *

 男と女の友情は成立するか、という昔ながらの問いに対する答えは単純で、それは友情が恋愛感情の変形だということを知っていれば答えはすぐに出る。
 友情と恋愛感情の間に境界線はない。国と国の間に国境線など本当は存在してないように。
 男との女の友情は片想いだったり、恋愛の手前だったり恋愛後だったりするけれど、でも両方共通するのは好きという感情なわけで本質的な違いはない。
 あるいは、恋愛感情の分量の違いとバランス感覚と言った方がいいのかもしれない。どちらかの感情が不足してるから恋愛にならないだけで、両方の感情が一定量を超えればそれは恋愛になる。

 でもまあ、そんなことは実際のところどうでもいい話で、最近感じているのは男と女は恋愛感情だけじゃないということだ。若い頃はすべてを恋愛方程式に当てはめて考えがちだったけど、そんなことをする必要はないんだということがだんだん分かってきた。それはある種の老化現象なのかもしれないけど、でも自分の中で白黒をつけない感情があってもいいし、誰かを好きになったら当たり前のように好きだと口に出して言いたいとも思うようになった。
 好きという感情はそれほど特別な感情ではない。

 気づけば私もずいぶん人間好きになったものだ。昔の私からは想像もつかないほど。昔はもっと好き嫌がはっきりしてたし、潔癖で人の欠点と許せないと思ったり、興味のない人に関しては決定的に無関心だったりしたけど、今はいろんな人のいろんな部分を好きになって、人間そのものを素直に愛せるようになった。
 人間というのは本当に面白くて愛すべき存在だ。

 私が人間だけでなくこの世界や神という存在を信じられるようになったのは、私自身のこういう気持ちの変化によるところが大きい。私でさえこれだけ人を愛し、世界を愛せるんだから、神ならとっくの昔に人間を許して無条件に愛しているだろう。人が思うよりもずっと強く、深く。
 そりゃあたまには腹を立てたり、あきれたり絶望的な気分になることはあるかもしれないけど、でもそれでもなお、この世界は美しく、人間は愛すべき存在だ。昔も今も変わらず、神はきっとそう思ってるはずだ。

 たとえば宇宙レベルで考えた時、宇宙のあまりの広大さと多様さと複雑さと流れた時間の多さや星の数に、私は決定的に打ちのめされ、心底絶望してしまう。この無闇やたらな広さだけでも宇宙の意味を理解できないし、その頂点でありすべてである神というものを理解するのは絶対に不可能だ。私は何も言えなくなってしまうし、思考さえ停止してしまう。
 でも、この地球の上の現実的な日々の中で考えた時、私はこの世界や人間や生き物やその他あらゆる存在を愛し、生きることを楽しみ、笑い、喜ぶことができる。それで私は満足だ。
 もちろん、個人的な願望や欲望や夢はあれこれたくさんある。金だって欲しいし、認められたいし、結婚だってしたい。けど、それらが手に入らなかったからといって私が不幸な人間だとは思わない。
 生きることが大嫌いで、この世界にものすごく違和感を感じていた10代、20代を超えて、今ここまで辿り着くことができたのだから……。

 もう私はいつ死んでもいいのかもしれない。いや、そうじゃない。だからこそ生きなければならないのだ。せっかく大切なことが分かったのだから。
 できることなら、この世界やこの世界で生きる人の役に立ちたいと思う。必要とされる時代の必要とされる場所で。

                   *

 昨日と今日の夢はけっこうまともな内容だったと思うんだけど、普通の内容のものって覚えてないものだ。すっかり忘れてしまった。
 そういえば今気づいたけど、みんな正夢って見たことあるんだろうか? 私は記憶してる限り、夢で起こったことが現実になったことは一度もない。夢で死んだ人が実際に死んだなんてこともないし、インテグちゃんを盗まれたことも、大学で留年したこともない。いまだに浅香唯とジェットコースターにも乗れないし(一度そういう夢を見たのだ)。
 初夢で見ると縁起がいいという、一富士二鷹三茄子の3つも夢に出てきたことはないぞ。
 ほとんど悪夢というものを見ないかわりにすごくいい夢というのも見ない。残念だ。せめて夢くらいもっと波瀾万丈、右往左往、上を下への大騒ぎ、といった一大スペクトルな冒険活劇のような夢を見たいものなのに。
 いつの日か、夢レコーダーと共に、夢ディレクター選択機能付き枕みたいなものが発明されないだろうか。
 今日は大騒ぎの冒険ものが見たいから夢ディレクターはスピルバーグにしようとか、今日は上質のコメディがいいからビリー・ワイルダーだとか、たまには恋愛ものでロブ・ライナーなんかどうかなとか、たまには日本風でぐっと渋く小津安次郎だなとか。
 登場人物や背景なんかは個人の記憶にあるデータで、物語と演出だけ有名監督にしてもらうのだ。これは実現したら受けると思うんだけどなぁ。現実的に不可能だろうか。でも人間の脳と夢のメカニズムがもっと解明されれば、それをコントロールすることもそれほど難しいことじゃないはずだ。ぜひ私が生きてる間に実用化して欲しい。

 それにしても、私が生きている間に人間の脳についてどこまで分かるんだろう。すべて解明される日は来るんだろうか。
 そういうことを考えてもやっぱり長生きしなきゃなと思うのだ。
 100年生きた明治時代生まれの人達が今の世界に感じているよりもずっと大きなギャップを私たちは感じられるはずなのだ。世の中の変化スピードはどんどん加速してるから。
 たとえばあと50年後の世界ってどんなふうになってるんだろう。なんだか上手く想像できない。
 まあでも、アントニオ猪木じゃないけど、「行けば分かるさ」ということだろう。そう、行けば分かる。すごく楽しみだ。

 11月16日(土) 「絶妙の難易度」
気づくと夕暮れを通り越して夜になってしまう最近。
すっかり夜か、と思って時計を見るとまだ6時前だったりする。


 冬が嫌いな点は、すぐに暗くなってしまうところだ。寒いのは平気だけど、夜が早いのはどうも好きになれない。暗くなると家に帰りたくなってしまう。
 ついこの前まで7時くらいまでまだ明るくて夕方感覚だったのに、最近では5時半にはもう真っ暗で夜だ。なんか一日の前半がやけに短く感じられる。
 これでは海行きもますます難しくなってしまう。

 私はたぶん鳥目だ。いや、鳥が夜どの程度見えているのかは知らないし、みんなどれくらい夜に見えてるのかも分からないからそう言い切ってしまうのはどうかと思うけど、どうも夜の私はよく見えてない気がする。
 昔、デートのドライブ中に暗い道に入り込んでしまい、気がつくと反対車線を走っていて隣の彼女は絶叫していたっけ。
 だから私との夜デートドライブはかなりスリリングだし、それ以前に私自身けっこうスリルを味わっている。昼よりもやや前のめりになって運転してるかもしれない、無意識の内に。
 ただでさえ目が悪いのに夜はますます見えなくなってかなり危険な私。だから早く暗くなってしまう冬は嫌いだ。田舎にも住めない。だって田舎の夜ってホントに暗いんだもん。
 あと、昔のお侍さんだったら夜道で賊に襲われて早死にしてたろう。
 そんな私はフクロウがちょっとうらやましい。フクロウ仕様のコンタクトレンズが発売されたら是非とも買おうと思う。

                   *

 これまでいろんなものを取り込んで自分の栄養にしてきたけど、もう闇雲に量だけ取り込んでも新たな血肉にならなくなってきた。ある時を境に乱読では新しい知識や喜びを得られなくなった時のように。
 だから異質のものを常に求めてしまう。心も体も。厳選して良いものだけを取り込むというより、今まで取り込んだことがないものが欲しくなる。美食家がこれまで食べたことがないものを食べたがるように。
 でもそれがなかなか見つからずに途方に暮れる。
 まあ必然的な流れでもあり、一種の病気でもあるんだけど、新鮮なものを取り込み続けるってのはけっこう難しいものだ。
 この1、2年、ずっとそういうものを探してきたけど、結局決定的なものは見つからなかった。劇的に自分自身や生活を変えてくれるものとはまだ出会えていない。かつての車やゲームやネットのようなものが何かないだろうか。

                   *

 生きることは簡単なことじゃない。どちらかと言えば難しいと言った方がいいだろう。
 でもだからこそ生きることは面白いのだ。
 もしもっと簡単だったとしたら人は70年も80年もかけて生きるということを追求したりしないだろうし、それに80年も生きる前に飽きてしまうに違いない。
 生きることの難易度は、絶妙だと私は思う。いつの時代、誰にとっても。難しすぎず、簡単すぎず、奥が深い。もうこれで極めただろうと思うとまた更に奥がある。
 生きることは面白く、人生は挑戦しがいのある難題だ。

                   *

 私は別に神を嫌ってるわけではないし、信じてないわけでもない。ただ神に対して必要以上に卑屈な人間が嫌いなだけだ。
 すべては神の思し召しなどと言って祈っている姿は、地主に媚びへつらって愛想笑いをしたり泣き落としをしたりする小作人みたいで、見てて気分が悪い。
 神と人間の関係はそんなものだとはどうしても思えないし、もし神が人間に服従や卑屈さを求めるとしたら、そんな神はこっちから願い下げだ。そんな弱い者いじめをしたり威張り散らしたりするような存在が本当の意味で神と呼べるだろうか? もし自分が神だったとして、不幸な人間がひたすら自分に祈っている姿を見て嬉しいだろうか?
 神が対して敬意を表することや愛することは必要なことだろう。でも服従する必要はない。願ったり願いを叶えたりという関係性でもない。
 神と人間はそれぞれの役割を演じているだけだ。それは関係性で言えば、持ちつ持たれつといったようなものだろう。
 互いに必要として、それぞれが互いを尊敬し、互いに助け合う、それが正しい関係性だと私は思う。もちろんそのためには人間の側がもっと成長しなければならないけれど。
 そういう意味では、21世紀というは人間に与えられたラストチャンスなのかもしれないと思ったりもする。それが、20世紀末でこの世界が破滅しなかった意味なんじゃないだろうか。

                   *

 この世界に生きるすべての思考や想いは、誰にも伝えなくても、書き残さなくても、目に見えない胞子となり、風に乗って世界中に広がっていくものだ。いったん生まれたものは決してゼロにはならない。
 世界中で常に悲惨なことが起こり、不幸が絶えることはないけれど、それでも尚この世界が美しいのは、人のきれいな想念が邪念に打ち勝っているからだ。
 絶望の数より希望の数の方が上回っているから世界は成り立っている。
 そして私も、ぎりぎりのところで絶望しないで済んでいる。

                   *

 昨日の夢は最近の夢の中ではけっこうマシな方だったけど、でもやっぱりヘンな内容だった。
 私は何故かウッチャンナンチャンが司会のクイズ番組のアシスタントをしていて、番組が終わってバス停でバスを待っていたら、そこへウッチャンがやって来て、「ああ、オレ急いでるんだけどバス来ねえなぁ」とか言ってるから「ウッチャン、車じゃないの?」と私が訊ねると、「あ、オレ、今日ちょっと急いでて、途中で役所に書類も出さなくちゃいけねえんだよなぁ」と言うもんだから、「あ、それってもしかして婚姻届?」と私が何の根拠もなく訊いたら、「ああ、そうそう」って言うもんだから「おおおー、それは良かった! ウッチャン、ついに結婚するんだ!」と私が妙に喜んでしまって、ウッチャンに抱きついて飛び跳ねてるところで目が覚めたのだった。
 ……。
 なんだ、こりゃ。
 最近ホントに自分でも夢の内容がだんだん意味不明になっていく。私の夢は基本的に、現実で起こったことや実際の友達が関連する夢がほとんどで、現実とはかけ離れた夢はあんまり見たことないんだけど、やっぱり何か自分の中で変化が起こってるんだろうか。
 今日の夢は何だろう。なんかちょっと楽しみになってきた。

 11月13日(水) 「猫と犬と恋と結婚」
高速道路の出入り口付近。
夕暮れ時の月の向こう側に続く明かりの列。


 この信号を過ぎればその先には東名高速と東名阪の出入り口がある。それに乗りさえすれば日本全国どこへだって行ける。東京だって大阪だって、もっと遠くの東北だって九州だって。夕暮れの道路を走りながらよくそんなことを考えることなく考える。
 でも実際は乗れない。
 それは何故か?
 その問いの答えは、人生のままならなさに似ている。
 人はできることのすべてをやれるわけじゃない。そういうことだ。
 そして私は今日も、高速の入り口を横目でちらりと見やりながら、近所の目的地へと車を走らせる。

                   *

 昔感じていた言いようのない無力感は今はもうない。10年前に比べて劇的に無力じゃなくなったわけではないけど、無力感だけはなくなった。でもそれが必ずしも正しい成長を意味しているわけではない。相変わらずあの頃のまま無力に違いない。
 無力感っていうのは、持ちすぎてもいけないし、あまりにもなさすぎても良くない。緊張感と同じように。
 どんな生き方をしていても、適度な無力感や不足感は必要だ。それがないと向上心を持てなくなってしまうから。満足したらそこで止まってしまう。

 それにしても20代の頃の無力感はもう思い出したくもない。私がもう一度20代に戻してやると言われても絶対に断るのは、もう二度とあの無力感と戦いたくないからだ。もう一度あの季節を乗り越える自信はない。だから私は先を急ごう。
 この先もまた別の形の無力感が私を苦しめるだろう。まったく新しい形の無力感が。私は今度もそれに勝たなくてはいけない。負けたら終わりだから。何度でも。
 けど、もう20代のような無力感はおそらく二度とやって来ないだろう。あそこを乗り越えるということは私にとって本当に大事なことで、あそこが人生の大きな分かれ道だった。あそこで潰れないで本当に良かった。
 精神的などん底まで自ら潜っていって、そこから自力ではい上がったことは大いなる自信となっている。もう最悪は見た。あれ以上はないはずだ。
 残りの人生は、最後まで陽気に生きていきたい。

                   *

 ミーがいなくなって感じたのは、やっかいな恋心が消えた時に似ている、という感覚だった。
 猫というのは恋に似ている。
 犬は結婚に似ているかもしれない。
 犬好きな人は結婚願望が強くて、猫好きの人間は恋愛願望が強い、と決めつけてしまうのは少し乱暴だろうか。でも、そんな傾向があるような気がする。
 犬はいったんなついてパートナーになってしまえば二度と裏切らない。少々ひどい扱いをしてもこちらを嫌いになることはあまりないし、関係性としてもとても安定している。
 でも猫は恩を感じないところがあるし、いつ裏切られたり、いなくなってしまったりするか分からないし、こっちの都合もおかまいなしにわがまま放題で、でもかわいくて好きだからつい許してしまう。
 そういう緊張感が恋愛に似ている。

 ミーをなくした私は、ややこしい恋愛を失ってしまった時みたいに、すごく寂しい反面、どこかで少しほっとしている。もうこれ以上失うことを恐れなくてもいいから。
 それでもまた、懲りずに新しい恋を探してしまうように、新しい別の猫を求めてしまう。恋と猫はそのたびに新しくて、おそらく死ぬまで求めずにはいられないものだから。

                   *

 相変わらず夢見が悪い。
 昨日の夢は、ばあちゃんちに遊びに行ってて、ぼちぼち帰ろうとしてるところに玄関から遠縁のおっさんらしき人がよろめくように転げ込んできて、そのまま死んでしまって、連れの人が誰かに殺されたというもんだから私は帰るに帰れなくなってしまい、そろそろ帰りたいんだけどこのまま葬式に出ないといけないのかなぁ、親が来て変わってくれないかなぁ、私はこのおっさんよく知らないし、などと弱っている、という夢だった。
 なんだこりゃ。一体この夢に何の意味があるというのか。
 そして今日の夢はこうだ。何か世界規模の大異変か大災害が起こって、気がつくと私はまったく様変わりしたうちの近所に似た風景のところに立っていて、あまりの街並みの激変におどろき途方に暮れつつも、バス停でバスを待ってる人にここはどこで、あれはどうなったとか色々訊ねてみるとどうやらそこは未来世界らしいということが分かって、いよいよどうしようかと困っていると、だったらあの人に聞けば何か分かるかもしれないと紹介してもらって訊ねて行ったら、有名な女のSF作家で、そこまでは良かったんだけど、何故かその人はロシア語しかしゃべれなくて、ますます途方に暮れてるとこで目を覚ましたのだった。
 今日のもかなり意味不明だった。というか、今まで見たこともないような傾向の夢なんで何かあるのかもしれないとちょっと心配になったりもする。いいことならいいんだけど、正夢にならないことを願おう。
 しかし、もう少しいい夢を見たいものだ。困るなら、何人もの女の人に愛の告白をされて、いやぁ、困ったなぁ、ハハハ、ってな夢がいい。
 ……。
 それじゃあ、おやすみなさい。

 11月12日(火) 「世界地図の一部」
冬とくればこれ、「やきいもカー」。

 今年は早くも寒さ全開の冬ってことで、11月の最初からやきいもカーがうるさいくらい走り回っている。スピーカーでがなりながら。夏のわらびもちカーより明からに多い。けど、そんなに売れるんだろうか? あんまり買ってる人は見かけないんだけど。
 もう何年買って食べてないだろう。10年かそれ以上か。子供の頃は何度か買って食べたことがある。食べてけっこう美味しかったような記憶もあるけど、今食べたらきっとそれほどのものでもないんだろう。考えてみると昔はコンビニなんてなかったし、今ほど美味しいものが溢れていなかったから、やきいもなんかでも美味しいと思って食べたものだった。

 たとえば北海道産のじゃがバター屋台ってどうだろう? こっちの方がやきいもよりも美味しいと思うんだけど。イメージとしてもじゃがバターの方が洒落てるから(たぶん)女の子でも買いやすいだろうし、ちょっとした午後のおやつなんかにもいい。いつの時代もやきいもとわらびもちが定番だという思い込みはやめた方がいいんじゃないか。
 屋台というのはまだ死んだ商売じゃなくていろんな可能性がある気がする。今の時代だからこそ。中華料理の屋台とかあったらけっこうみんな買うと思うんだけどな。
 ま、そんな本格的な料理をできる屋台を作った日には、元を取るのが大変すぎるか。

                   *

 楽しい思い出はつらい現在を生きる上で心の支えになるけど、楽しすぎた思い出は逆に手強い敵になる。
 だから闘っては駄目だ。折り合いをつけて上手くつき合っていかないと。
 思い出と闘ったり逃げたりしようとしても逃げ切れるもんじゃない。

                   *

 美人や才能というのは武器ではなく責任だ。それはもう、とても重たい。
 美貌や才能を背負わされてしまった人間は、自分以外の大勢のために生きることを強要される。好むと好まざるとに関わらず。
 そして時に、その重すぎる責任に耐えきれずつぶれていく。
 才能や美貌は端から見てるほどありがたいものじゃない。

                   *

 悪く変わることを恐れないこと。どんな変化も歓迎すべきことなのだから。
 生きることは、自分の可能性の白地図を埋めること。先へ進んで、歩いて走って泳いで。
 どんなに心地いい場所でも安住しちゃいけない。行き着いた先が今までのところよりも悪い場所だったとしても、それは無駄じゃないし嘆くことでもない。更にその先を目指せばいい。
 そして、その自分の地図は、世界地図の一部でもあるということを忘れないように。
 人類はいつの日か、地図の空白を全部埋め、この世界の地図を完成させるだろう。その中の一部は、私たちが描いたものなのだ。

 11月11日(月) 「心が遠くを目指さない」
紅葉する木、しない木。
色も様々だ。
木だってそれぞれ都合がある。


 今年は急激に寒くなったおかげで全国各地で紅葉がきれいらしい。家の近くの平和公園も見事に紅葉してるという。寒いことも悪いばかりじゃない。
 本来ならどこかに遠出して紅葉でも見に行くところなんだけど、今年はなんとなくこのまま行けそうにない。心がどうにも行きたがらないのだ。行きたくないものを無理矢理行っても楽しめないだろうから、気分が自然に遠出を求めるようになるまで待つことにしよう。非日常を必要としないということはある意味ではいい状態なんだろうし。
 けど、テレビや映画でいろんな風景を目にするとやっぱり出掛けたい気持ちがわき上がってくる。
「あいのり」を観れば見知らぬ外国へ行きたくなるし、「アルジャーノンに花束を」を観ると必ず海が見たくなるし、「さんまのからくりTV」の加藤淳の浪漫紀行を観ると田舎へ行きたくなったりもする。
 ただし、「ホーム&アウェイ」を観ても決して旅に出たいとは思わない。家でおとなしくしていたくなる。あれほど旅心をそそらないドラマもちょっとない。
 あと、「ナイトホスピタル」や「真夜中の雨」や「サイコドクター」を観ても医者には行きたくならない。医者ドラマが好きだからといって医者が好きなわけじゃない。
「天才柳沢教授の生活」を観るとちょっと大学生の頃がなつかしい。
 何にしても今はどうやら遠出の季節ではないらしい。思えば今年一年そうだった。まあそんな年もある。

                   *

 移りゆく風景のようにとどまることなく変わりゆく日々が私に教えるものは何なんだろう?
 変わり映えのしないような毎日だけど、気がつけばいくつかのものを永遠に失い、終わってしまったこともあり、新たに始まったこともある。
 失うことと得ることを繰り返しながら変化し続ける毎日は、一体私に何を教えようとしてるのか? 私はそこから何を学べばいいんだろう?
 せっかく見つけたと思った答えも、やがてはすべて移ろい意味を失うのに、それでも新しい答えを探し続けなくてはいけないというのか?
 私がこの先で手に入れなければならないものが何なのか、今はまだ分からない。
 これまで失ってしまったことが多すぎるから。
 もしかしたら、全部をなくした時初めて、本当に探しているものが分かるのだろうか?

                   *

 もし、考えられるすべての能力が私にあったとしても、街行く人達を救うことさえ不可能だ。くすぶってる人達全員をなんとか幸せにしてあげたいとどれだけ思ったとしても、彼等すべての人生を輝かせることはできないだろう。
 天才で、超能力があって、霊能力や治癒能力や予知能力があって、過去も未来も見通せて、人の心が読めたとしても、それでも一人も救えないかもしれない。
 でもだからといって絶望することはない。人は他人を救うことができるし救われることもある。そう、みんなで助け合うことによって。
 一人でできることには限界があるけど、みんなでそれぞれいろんな部分を助け合うことによって人は救われる。それは天才じゃなくてもできるし、超能力も必要ない。助け合いの気持ちさえあればそれで充分だ。

 ラグビーの精神を表す言葉で「one for all, all for one」という言葉がある。
 一人は全員のために、全員は一人のために、という精神だ。
 これは何もラグビーやスポーツに限ったことではなくて、この世界全体にもそのままあてはまる。
 人は世界のために生き、世界は個人のためにある。
 あるいは時間に関してもそうだ。この瞬間は人生のためのものであって、人生というのはこの瞬間のためにある。

 人はこの世界で助け合って生きていくより他に道はない。それは無力なことで情けなくもあるけど、でもそれも悪くないではない。みんなで生きていくことは楽しいことだし。
 ここは地球号の上で、私たちはそこにたまたま乗り合わせた乗客だ。せいぜい転覆しないようにみんなで協力して力を合わせないと。

                   *

 最近夢見が悪い。昨日はいろんな家から持ち物を盗み出してたら、実はそれがみんな友達の家だったということが分かって青ざめる、という夢だった。今さら告白できないしどうしよう困ったなと悩んでるところで目が覚めた。
 それぞれ家庭を持った友達をうらやましく思ってるのかな。
 それにしてももう少し目覚めのいい夢を見たい。

 11月9日(土) 「うどんは年に5杯くらい」
今日の夜食、自家製讃岐うどん。

 テレビの「ウッチャきナンチャき」で讃岐うどんのことをやってるのを観てたら突然私も讃岐うどんを食べてみたくなった。うどんと言えば讃岐うどんしかないっ、と急に讃岐うどん派になってしまった私。が、考えてみると私は今まで意識して讃岐うどんを食べたことはない気がする。たぶん実際ないだろう。だいたいうどん自体めったに食べないのだから。
 ということで早速買ってきて作ってみた(といってもほとんどインスタントのようなものなんだけど)。
 で、味はというと、うん、なかなか美味しい。さすがに麺がしっかりしててつゆによく合う。まあ正直他のうどんに比べてダントツ感動的に美味しいというわけでもないけど、でもなんとなく美味しい気がする(実はあんまり自信がない)。
 これが本場の讃岐うどんの美味しさを全面的に再現してるとも思えないけど、その美味しさの一端を伺い知ることはできたと思う。いつか香川県へ行って本場の讃岐うどんを食べてみたいと思える程度には私を洗脳したと言っていい。村上春樹が『辺境・近境』の中で紹介してた「中村うどん」もぜひ行きたい(ものすごくマニアックな店みたいだけど)。
 値段もセルフの店は200円とか300円とかいうし、ホントに一度行ってみたいものだ。

 ところで香川県民は讃岐うどんを食べて食べて食べまくってるらしい。信じられないほど。
 県内だけでうどん屋が650軒から700軒くらいあって、県民の半分は一週間に3、4度うどんを食べ、10人に1人は毎日うどんを食べてるのだという。
 すごい。というか、食べ過ぎ。そんなにムキになって食べなくてもよさそうなものだけど、おそらく香川県民の遺伝子の中には讃岐うどんを食べずにいられない讃岐うどん遺伝子が組み込まれているに違いない。
 この食べっぷりは大阪人とたこ焼きの関係よりもより密接なのかもしれない。あるいは香川県の各家庭にはうどんを練る棒とかうどん切り包丁とかも完備されているのか?
 私は香川県民と個人的に親しくなったことがないので香川県民の讃岐うどんに対する思い入れの強さがどんなものなのかよく知らないのだけど、実際それだけ食べまくってるのということは相当好きなのだろう。愛して止まないと言っても大げさではないのかもしれない。
 でなければ600軒以上のうどん屋が成り立ってはいかないはずだ。恐るべし、香川県民。
 香川県民を笑わせたら鼻の穴からうどんを出しかねない。

 それにしてもそんなにうどんばっかり食べなくてもいいと思う。他にもいろんな食べ物があるんだから。
 などと言ったら香川県民に猛反撃をくらいそうなので香川県民に面と向かって言うのはやめておこう。

 そういえばうどんは低インシュリンダイエットでオススメだっかもしれない。米よりもなんやら値が低いとかなんとか。
 私ももっと食べようかな。香川県民並みとはいかなくても、月に2、3度は。
 私は「赤いきつね」がけっこう好きだ。
 などと香川県民に言うと叱られそうなんで、香川県民の見てないところで食べることにしよう。

                   *

 どんな生き方をしても、究極的に突き詰めて考えていけばその生き方は間違っているし、同時に正しくもある。
 どこへ行っても、私たちは正しさからも間違いからも逃げ切ることはできない。
 だったらもう楽しむしかない。毎日を目一杯。
「生きることは楽しいか?」と訊かれた時、「うん、すごく楽しい」と当たり前のように答えられるように。
 それがこうして私たちに生きる機会を与えてくれた関係者たちに報いることになるんじゃないかと私は思ってる。
 運命があるにしろないにしろ、宿命があるにせよないにせよ、役割があるにしてもないにしも、基本は生きることを堪能することだ。それだけは間違いない。
 生きることは苦行でもないし、修行でもない。生きることは喜びなのだ。
 こんな楽しい世界が他のどこにあるというのか?
 私たちに天国など必要ない。すでにこの地上があるんだから。

 11月8日(金) 「シルバー野郎への道」
MEDICINE WHEELのシルバー・ストラップ。

 シルバーのストラップを探していてたまたまこれを見つけて、なんとなく惹かれて買ってみた。
 MEDICINE WHEEL(メディシンホイール)というのは、ネイティブ・アメリカンの生き方や宇宙観を表すシンボルの呼び方らしい。写真でいうと、真ん中少し上にある十字のようなマークがそれだ。
 四つの方角にはそれぞれ、北は「智慧」、南は「信頼」、東は「悟り」、西は「自己洞察」を意味していて、それぞれをすべて回って一周してきた時、人は初めて本来の自分に帰るという教えなんだそうだ。

 検索してたらこんなページを見つけた。

 http://www.ma.nma.ne.jp/~t-post/medicine_001.htm

 なかなか面白い。今までまったく知らなかった教えだけど、言われてみると素直に納得できる。インディアンは嘘をつかないだけではなかった。
 私の守護鉱石とカラーが銀というのもなるほどと思った。昔から銀にはなんとなく惹かれるものがあったし、縁もあった。シルバーという色は好きで小物類もシルバーが多かったり、唯一持っている貴金属がシルバーのブレスレットだったりするから。
 これからもっと銀製品を意識してみるといいかもしれない。銀紙とか銀チョコとか銀杏とか。
 ……。

 それはともかく、鉱石というものもそんなに毛嫌いしたり避けたりするものでもないのかもしれない。基本的に私はそういうものが好きじゃなくてほとんど身につけないし持ってなくて、時計さえしないくらいなんだけど、考えてみたら鉱石ってのは人工的ではあるものの元は自然に作られたものだ。だから、身につけることが必ずしも着飾ることではない。
 それに鉱石は独自のパワーを持っていて、身につけるものとその人との相性や体質によって色々影響を与えるという。だとするなら積極的に利用することで自分のパワーに換えることもできるのかもしれない。
 そういえば自分の誕生石を身につけおくといいって話も聞いたことがある。
 サイババに会いに行くと、その人に合った鉱石を手から出してくれるし。
 ……。
 まあそれは置いておいて、私の場合はどうやらシルバーが良さそうだ。
 なんなら石見銀山でも行って銀を採掘するってのもアリかもしれない。
 ……。
 やっぱりそれはナシにしておこう。
 でも今は銀ってどこでどうやって採ってるんだろう? 金なら昔は金山で採れたり、川で砂金を採ったりいうふうにイメージできるんだけど、銀ってどうやって採ってるのかイメージできない。砂銀採掘ツアーなんて聞いたことないし。
 うーん、これはちょっとした謎だ。近いうちに調べてみよう。

 ネイティブアメリカンの教えだけじゃなく、昔の人の教えというのは侮れないものがある。おばあちゃんの知恵も役に立つ。
 温故知新。故きを温ねて新しきを知る、その心を忘れないようにしなくては。

                   *

 書きたい気持ちが少しずつ戻りつつあるのを感じる。
 同時に人恋しい気持ちも戻ってきた。
 独りに潜り込もうとする気分はやはり良くない。苦しくても上に向かってもがかないと。

 今日はここで時間切れ。また明日だ。

 11月7日(木) 「愛の足りない日」
もらいものの草加せんべいの詰め合わせの一部。
最近甘いものよりもせんべい類の方が好きになりつつある。
これもひとつの老化現象なんだろうな。


 想像力は人間が持っている能力の中で最も優れた能力だと私は持っているのだけど、人は想像だけで自分を救うことはできない。一番であってもすべてではないから。
 人は、自分の手で触れられないものを決定的に信じられなくなることがある。
 手の届かないところにいる存在をいくら愛しても、抱きしめられなければ愛は虚ろなものになってしまう。
 人は目を開けて生きている生き物だから。目に見えないものを信じるのは難しく、目に見えるものを信じすぎる。
 想像に限界はないと言うけれど、想像力には限界がある。いくら美味しいものを想像してもおなかは一杯にならない。
 想像は万能じゃない。想像力を過信しないようにしなくては。
 現実と想像は補完関係にあるということを忘れてはいけない。

                   *

 気の利いた言葉で人を励ましたり慰めたり力づけたりするのはそんなに難しいことではない。けど、それを自分に適用するのはとても難しい。
 自分にとって自分はクラスで一番出来の悪い生徒みたいなものだから。愚かで頑固で、なかなか言うことを聞こうとしない。
 でもだからみんな自分がかわいいのだろう。手の掛かる子ほどかわいいものだから。

                   *

 水彩画的な思考タイプと油彩画的な思考タイプとある。塗り重ねない思考と、塗り重ねる思考と。
 私は水彩画的なタイプだ。絵も水彩画の方が好きだし。
 一枚の絵を自分の納得がいくまで塗り重ねていくよりも、何枚もの違う絵をたくさん描きたいと思う。まだ描いたことのない絵を。
 でもたいてい未完成で次に移ってしまうから、完成したものはとても少ない。数だけはたくさん描いたけど。

                   *

 今またすごく消極的な時期に入ってしまっている。やらなくてはいけないことのほとんどをやる気がしない。全部先送りにしてしまっている。特に今日は駄目だった。
 最後まで調子が戻らなかった。
 これはもう、今日はここで切り上げて明日に向かおう。
 今日はいろんな部分で愛が足りない一日だった。自分にも他人にも世界にも生きることにも。


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