2002.10.21-

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 11月5日(火) 「美しさの足りない街並みを走りながら」
あ、この曲線は美しい、と思った。
これは道路じゃなくて、モノレールかな。


 日本人はこれだけ芸術や美術の才能を持っていて、確かな美意識も持っているのに、何故それらの才能や美意識を街並みに反映させることができないのだろう?
 車の外を流れる景色を眺めながらよくそんなことを考える。どこの街へ行っても変わり映えがしない。
 特に日本の道路や標識やガードレールは決定的に美しくない。色も冴えないし、形にも工夫はないし、直線と曲線の組み合わせが適当で、その結果として当然のことながら美しくない。それがすごくもどかしいような悔しいような腹立たしいような気持ちにさせる。

 道路だけではなく、店や建物やビルに関してもそうだ。
 街全体としてのコンセプトやトータル・イメージがないまま自分勝手に作っていってしまうから、とりとめのない風景になってしまう。それはアメリカやヨーロッパの統一感のある街並みと比べるとよく分かる。
 何故日本人は単一民族でありながらこれほど街並みに統一感がないのだろう? ファッションや流行に関しては喜んで横並びになるのに、街並みに関してだけは全体のことをまるで無視して身勝手なデザインの家やビルを建ててしまう日本人の心理は、面白いといえば面白いけど、不思議と言えば不思議だ。

 話を道路に戻そう。何故日本の道路はこれほど美しくないのか? 何故みんなそのことを問題にしないのか? もっと美しくしようと思えばいくらでもできるのに。
 それは、明治から昭和にかけての政治家に美意識がなかったからだと私は思う。不幸なことに。
 たとえば田中角栄に美意識や芸術的センスがあったら、日本の道路はもっときれいだったんじゃないか。
 もっとさかのぼれば、徳川家康がいけなかったのかもしれない。贅沢を嫌い、外観よりも実質を重んじたことで、江戸時代以降、日本は良くも悪くも渋くなってしまった。
 もし、織田信長が天下を統一して、長らく織田時代が続いていたとしたら、日本は今とはまったく違う姿をしていただろう。きらびやかで美しかったはずだ。
 あるいは、明治維新で一流どころの人達が生き残っていたとしたら、そこで取り返しがついただろう。坂本龍馬が長生きしてたら、今の日本の街並みはどんなだったろう。
 今さら言っても遅いけど、残念なことだ。

 けれど考えてみれば日本はとても貧しい国だった。ついこの間まで。
 街並みや道路を美しく飾ることよりも実用だけで精一杯だった。だから、仕方がなかったと言えばなかったのだろう。
 とはいえ、美意識を忘れた街作りをしてしまった結果、日本はなんだかおかしな街並みになってしまったことは確かで、それはやぱり政治家にもいくらかの罪があったと言わねばならない。

 それでも最近、少しずつ街並みに関して日本人の意識が高くなってきたのを感じる。特に店の作りやビルなんかに関しては美しいものも増えてきた。
 道路も、今日の一枚のように少しずつ美意識をもってデザインされた曲線のものも作られるようになってきた。ロードデザイナーも縛りの中でなんとか美しくしようと工夫してるのだろう。
 でも道路の灰色ってのが良くないし、いつまでも前時代的なアスファルトってのもちょっと情けない。まずは灰色の固定観念から抜け出さないと。道路は何色だっていいんだから。

 私が生きている間にどこまで日本の街並みは美意識を持って作られたものになるだろう。
 いつの日か、美しい曲線と色を持った街並みが見たい。車を走らせていて嬉しくなるような道路を走ってみたい。美しい街並みに暮らし、美しい道路を走るということはとても幸せなことなのだ。

 11月4日(月) 「書くということ」
文具代表。
無数にあるペンの中から選ばれた数本のペンたち。

 特別文具にこだわりがあるわけではないけど、一応お気に入りのペンなどもあり、大抵買うものは決まっている。
 今使っているペン類はこの写真のものがすべてと言っていいくらいだ。そんなに種類は多くない。
 赤、青、黒の水性ペン(PILOTのVCORN100円、これが一番使いやすい)と、蛍光ペン(テレビガイドの「TV Taro」の観る番組のところを囲むため)、無印の油性ペン、CROSSのボールペン、SHEAFEERの万年筆、といったところだ。
 けど、この他にも部屋には無数のペン類がある。使われることもないままペン立てや引き出しの中に、100本以上はあるだろう。買ったけど使わなかったり、もらったり、何かのオマケで付いてきたりでいつの間にか溜まってしまった。
 使わないのなら捨ててしまえばいいようなものだけど、性格的に捨てられないから一方的に増えていってしまう。困ったものだ。
 でもこれは私に限ったことではなくて日本中の多くの人がそうなんじゃないだろうか。必要最小限のペンしか持ってないという人は少数派だと思う。
 考えてみると、ペンというものは日本で必要以上に生産され誰もが必要以上に所有しているものの代表と言っていいかもしれない。洋服以上に。世界では鉛筆一本買いたくても買えない人がたくさんいるだろうに。
 逆に言えば、有り余るペンというのは豊かさの象徴でもある。無駄と言えば無駄だけど、こういう無駄は私はけっこう好きだ。これくらいのささやかな贅沢は誰の人生にもあっていい。

 最近はPCなどの普及でペンで文章を書くことは少なくなった。この先もその傾向は進むに違いない。
 でもペンが滅びることは決してないだろうと私は思っている。たとえどれだけ時代が進んでも。
 何故なら、人間にとって手で文字を書くという行為は非常に本質的なものであり、純粋な喜びでもあるから。
 人類が自分の手で初めて文字を書いた時の歓喜は、現在を生きる私たちの遺伝子の中に組み込まれている。

 私もまた、きっと死ぬまでペンで文字を書くことに喜びを感じ、書き続けることだろう。
 ペンも手も大事にしなくては。

 11月2日(土) 「低速スピード違反」
フル稼働のWOWOWデコーダ。
燃え尽きるまで働いてもらおう。

 どうにもやる気が足りなくて、一日ビデオを観ながらダラダラ過ごす。ただひたすら。自堕落に。
 かつて毎日のスピード感に酔ってた日々があったけど、それはもはや過去の話。今は緩やかな速度が心地いい。
 でも過去は過去、今は今。どちらが正解ってわけではないし、どちらが本質ってわけでもない。
 人生は常に一定の速度を保って進むわけじゃないから。
 猛スピードで飛ばさなくちゃいけない時もあり、のんびり行けばいい時もあり、時には止まって休憩することも必要だ。不意の故障もあるし、道から飛び出してしまうこともある。
 どんな時でもただ闇雲に飛ばせばいいってもんでもない。
 とはいうものの、今日のようなスピードではさすがにちょっと遅すぎるだろう。高速道路を40キロで走るようなもので、ある意味スピード違反だ。
 もう少し気持ちのアクセルを意識的に踏んでいかないと。

                   *

 今は人恋しくさえない。自分で感じている以上に低調なのかもしれない。過去を思い出すのさえ煩わしい。
 孤独に強くなりすぎるのは、痛みに強くなりすぎるのと同様、自分にとってかえって命取りになりかねないから気をつけないと。
 孤独や痛みをもっと自覚した方がいい。それらはやはり正常な状態ではないということだし、危険を知らせてくれているシグナルでもあるのだから。

                   *

 7ならべの6と8が出ない感じ。それさえ出ればその後はどんどんつなげていくことができるのに、それが出ないからその先へどうにも進めない。
 踏み出すためのきっかけのカードが欲しい。
 私がなくしてしまったのか、それとも誰かが私に嫌がらせをしているのか。
 それともルールを勘違いしてるのか?

                   *

 とりあえず今日はこれで勘弁してもらおう。無い袖は振れないってことで。
 遠い国では雷に打たれて死んだ人もいる。
 私はまだここでこうして生きている。
 そのことを感謝しつつ、おやすみなさい。また明日。

 11月1日(金) 「寒さに降伏」
向こうの空が燃えていた。
最近すぐに夕暮れだ。

 淀みなく流れた一日。どこにも引っかからず、心にも引っかからない日。そんな日を望んでいるわけではないのだけれど、いつか振り返ってみた時、こういう日々がとても大切で貴重だったということに気付くのだろう。
 でもやっぱり少し物足りない。

 それにしても今年は秋が短かった。秋を味わう間もなく冬になってしまった。もう季節は完全に冬になったことを認めないわけにはいかない。家の中でも冬服に近い恰好をしないと寒くて震えそうだし、外でもそろそろ上着が必要なくらいだ。車の中ではもちろんヒーターを入れている。
 なのだけど、まだ家の暖房器具は何も出していない。明日あたり電気ストーブを出そう。寒さに降参。

 やらないといけないことをあれこれ先送りにしてたらちょっと気分的に追いつめられてきた。夏休みの宿題にほとんど手をつけてない8月25日という感じだ。ぼちぼち片づけていかないと間に合わなくなる。今年ももうあと2ヶ月なんだし。
 一番やりたくないことからやっていくのが一番なんだろうけど、これがなかなか。
 まあ多少なりとも気が向いたことからやっていくしかない。

 今日はもう特に何もないから終わりにしてしまおう。
 今日が終わればまた明日へ急ぐだけだ。

                   *

 神のようにこの世界を愛すこと。
 それが目標。
 不可能? それとも案外簡単なことかな?

 人間がこの世界のすべてではないし、人間が世界の中心でもない。
 でも世界と人間はとても似ている。多くの欠点を抱えながらそれでも魅力的なところが。
 私は欠点を憎んだり否定したりするよりも魅力の部分を愛したい。世界も人間も。

 10月31日(木) 「無思考な幸福」
けっこう野蛮な食べ物、卵かけご飯。

 一年に何度か、ふいに卵かけご飯のイメージが頭に思い浮かんで無性に食べたくなることがある。ああ、私は卵かけを食べなくては食べなくては食べなくては……とエコーが聞こえる。
 今日がちょうどそんな日だった。
 ということで今日の夜食は卵かけご飯。
 うん、これだ。これが食べたかった。久しぶりに食べる卵かけご飯はやっぱり美味しかった。イメージと違わない味だ。
 けど、考えてみるとこれはかなり野蛮で残酷な食べ物だ。ご飯としょう油で誤魔化されがちだけどなんたってメインは生の卵なんだから。私自身、生卵を丸ごと飲む人間をちょっと恐ろしく感じたりするし、卵を丸飲みするヘビの映像を見るとなんてひどいことするんだなどと思ってしまうけど、生卵を食べるって点ではあれらと同じことなんだから。
 私ってば、ヘビ並みだったのか……。
 まあそんなことを言ってたらほとんどのものを食べられなくなってしまうから考えてもしょうがないんだけど、それにしても卵かけご飯はちょっと野蛮な食べ物ではある。
 と言いつつやっぱり食べる私。だって美味しいんだもの。
 また何ヶ月後かに食べよっと。

                   *

 今日は非常にトピックが少ない一日だった。世間的にも私としても。
 日本シリーズは終わってしまったし、サッカーのU-20は決勝で韓国に負けてしまったし、オークションの落札もなく、何も荷物が届かなかったし。
 いいこともなく、嫌なこともなく。
 特別なことと言えば、この前オークションで買ったビデオNV-BS30Sを接続したことくらいか。これは思ったより時間もかかって大変だった。WOWOWに入って以来、ますます配線がややこしいことになったから。ビデオの後ろ側は配線の大渋滞というか大洪水のようになっている。10人の釣り人全員の仕掛けがオマツリになってしまったみたい。

 NV-BS30Sはなかなかトータルバランスの取れたいいビデオだ。録画もいいし、再生も悪くない。デジタル化粧が薄い分ノイズはやや目立つものの、全体の印象がいい。
 あと、音が意外にもいいんで少し驚いた。その一つあとの機種NV-SB50と比べて明らかに一段上だ。NV-BS900にも負けてないくらい、と言うとちょっと言い過ぎか。
 この時代のパナソニックビデオはとにかく丈夫なんで、これからビシビシ使っていこう。多少画質が劣っても丈夫さがそれを充分補ってくれる。

 これでビデオが10台稼働状態になってもはや抜かりはない。すべての放送局を同時に録画することだって楽勝だ。そんなことは実際あり得ないんだけど。
 とりあえずあちこちで録画と再生をローテーションで使ってる。中6日の巨人の先発ローテーションみたいに余裕だ。
 なんでそんなにたくさんビデオを持つのかとよく訊かれるけど、それはたくさんの靴を買うのに少し似ているかもしれない。その時の状況や目的や気分によって使うものを決めるという意味で。
 靴もビデオも集め出すと次々に別のものが欲しくなる。

                   *

 今日はあまりあれこれ考えない一日でもあった。良く言えば平和、悪く言えば退屈な。
 人間不幸じゃないとあんまり考えることってないもんだ。

 明日はやや慌ただしくなりそう。雨降りの予想だけどどうなんだろう。夕方にはあがってくれるといいな。
 そういえば明日からは11月だ。冬が近づくにつれて猫のように行動範囲が狭くなりがちな私だけど、そんな中でもなんとか少しでも積極的にいきたい。日々、攻撃的な気持ちを忘れないように。

                   *

 あんな時代があって、こんな時代があって、また別の時代がやって来る。
 それらを比較して優劣をつけても仕方がない。それぞれの時代を生き、それぞれの時代を楽しめばいい。過去に戻そうとせず、無理に急ごうとせず、今この時代を充分に。
 いつでも時代の終わりと始まりを思って今の時代を生きること。
 新たな時代の始まりは明日かもしれない。

 10月29日(火) 「遠い教室のざわめき」
ちょっと都会っぽい名古屋の街並み。

 たまに名古屋の街の中心に出ると、名古屋って意外と大都会なんだなぁ、と妙に感心してしまう。実際名古屋は大きな街なんだから意外に感じなくてもよさそうなものなのだけど、同じ名古屋といっても街の中心で暮らしてる人間と郊外に住んでる人間とではかなり意識の差があって、確かにそう感じてしまうのだ。毎回。
 それはどこの街でも多かれ少なかれあるのだろうけど、名古屋は特にその格差が大きいような気がする。あるいはそれは、名古屋人の名古屋を少しだけ馬鹿にする気分がそう思わせているのかもしれない。

 日本の都会に暮らす人々の中で、おそらく名古屋人がもっとも都会人意識の低い県民に違いない。名古屋という街は大都会だけど、名古屋人は自分のことを大都会人だとは思ってない。どこかに自分たちは田舎者だという自虐を抱えている。
 名古屋にはいろんな変わった文化や独自の食文化があるけれど、一番変わっているのは名古屋人のこの歪んだ都会意識(もしくは田舎意識)ではないかと私は思っている。
 しかも、そのことを自分では意識してないところがまた面白い。
 名古屋人の多くは、自分たちは標準語に限りなく近い言葉を話していると思い込んでいる(東京へ出ていった時、初めて名古屋人は自分の話し言葉が標準語にちっとも近くないことを知る)。つまり、自分たちは決して変わり者だとは思ってない。けどだからといって東京と対抗しようという気もなく、都会人とも思っていない。ではどう思ってるかといえば、名古屋人は自分たちのことを「標準」、もしくは「普通」と思っている。この「標準意識」こそが名古屋人の最大の特徴だろう。このへんの感覚は名古屋人以外の人には少し分かりづらいかもしれないけど。

 名古屋に生まれることはとても幸せなことだ。名古屋を出ていかない限りは。
 名古屋に生まれなかったことはとても幸せなことだ。名古屋に住むはめにならない限りは。
 名古屋に生まれ、名古屋で生きることはとても楽で心地よいものだ。あらゆる面で事足りるから。
 逆に言えば、名古屋以外で生まれ、名古屋で生きることはとても難しい。よそ者が京都で住むよりも難しいだろう。名古屋人特有の微妙なニュアンスの意識が理解できずになかなか馴染めないから。
 そして何よりも名古屋弁というのはマスターするのがすごく難しい言葉で、完璧な名古屋弁をしゃべらない人間を名古屋人は本当の仲間だとは思わないところがあるのだ(名古屋人以外が完璧な名古屋弁を話すのを私は聞いたことがない)。

 それにしてもこんな名古屋に誰がした? きっと名古屋だけは、22世紀になっても23世紀になっても名古屋のままなんだろうな。そのうち独立するかもしれない。

                   *

 寒さを言い訳にしちゃいけないだろうけど、今ひとつやる気の出ない一日だった。終始消極性の中に沈み込んだ。
 動きのない一日。無風のため池みたいに。

 日本シリーズは巨人ファンだけしか盛り上がってないに違いない。でも私はなんだかんだいってちょっといい気分。というか、負けると気分が大きくマイナスになるんで、負けないことが嬉しい。助かる。負けなければ試合が終わったらもう思い出さなくても済む。負けると寝付きが悪くなる。
 今回のシリーズはつべこべ言わず明日勝って決めてしまって欲しいところだ。これ以上長引かせる必要もないだろう。

 横浜マリノスのウィル解雇は笑った。
 退場間際に味方を蹴っ飛ばして帰っていくなんてほとんどジョークだ。ちょっと考えられない。奥の膝カックンも笑ったけど。
 しかしよくぞ解雇までしたと言っていいだろう。なあなあにしなかったマリノスは偉かった。まあレンタル移籍だったからってこともあっただろうけど。
 プロ野球もJリーグも外国人を特別扱いにして甘やかせすぎだ。乱暴者は取り締まらないと。

 そういえば、ヤクルトのペタジーニが来年阪神に行くとか。ホントかな。
 ついでに広島の金本までとるとかとらないとか。
 近鉄の中村はどうなるんだろう。
 巨人の松井はぜひメジャーに行ってもらいところだ。
 この冬はなかなか楽しめそう。

 ゲームは今完全休養状態に入っている。
 GBAの「逆転裁判」を最後に(これはなかなかユニークなゲームだった。面白さはもう一つだと思ったけど)。
 ゲームも昔ほどはできなくなった。ゲームの根気が続かない。

 ビデオはまあまあ観ている。WOWOWその他で。
『ミート・ザ・ペアレンツ』は気持ちよく笑えるコテコテのアメリカンコメディーで面白かった。さすがデ・ニーロ、ああいう役も上手い。
 信号レースのシーンは大爆笑。

 ドラマももちろん欠かさず観ている。
「アルジャーノンに花束を」はこのあたりから脚本として少し難しくなるか。原作では急速に天才化していく様が鮮やかに描き出されていて私は一番好きな部分なんだけど、ドラマ脚本とユースケの演技でそれをどこまで再現できるか。あまり過剰な期待はしない方がいいだろう。

 昨日やった単発ドラマ「遺言・桶川ストーカー殺人事件の深層」はかなり良かった。観る気は全然なかったんだけど、奥貫薫だけちょっと見ようと思って録画したのが大正解。久々に面白い単発ドラマだった。

 表紙の模様替えは完全に暗礁に乗り上げた。どうもイメージが浮かばない。
 最初、白地に明るい紺色と金色の縁取りで上品なイメージにしようと作り始めたんだけど、どうも寒々しい感じになってしまう。それは秋から冬に向かう今、ちょっと合わない。ただでさえ寒いのによけい寒くしてしまっては自分自身嫌だ。冬はもう少し暖かい感じにしないと。
 ということで、レイアウトのイメージはだいたい決まってるのにイメージカラーを見失った。マロン系は一度作ってるし。
 もう一回下地の色から考え直そう。

                   *

 30歳を超えると学校の教室というものがだんだん遠いものになっていって、遠ざかるほどに懐かしく思い出されるようになる。
 それぞれの学年、それぞれのクラスで起こったいくつもの小さな出来事が浮かんでは消え、消えてはまた浮かぶ。ある特定のエピソードは繰り返し何度も。
 それは必ずしもいい思い出ばかりではなくて、ほんのささいな取るに足らない小さな出来事だったりするんだけど、何故か忘れられずに何回も思い浮かぶ。
 普段ほとんど話したことがなかった女の子との短い会話だとか、友達が教科書の朗読で読み間違えたところとか、窓から外を眺めていた時の運動場の様子だとか、席替えの時のささやかなときめきとか、小さなケンカとか、回ってきた手紙だとか。
 目を閉じるとあの時のざわめきが聞こえてくる。とても心地よい響きを持った音として。
 学校というところはいつも愉快だったわけでは決してないし、あの頃に戻りたいとはサラサラ思わないけれど、あの長くて退屈な時間を通過して、その後ここまで生きてきたことで、学校や教室の記憶が懐かしくて愛おしいものになった。そのことが今は素直に嬉しい。
 思えばどの教室にもいつも好きな子がいたんだった。すぐ前や横だったり、遠く離れた席だったり色々だったけど、目をそちらに向ければそこにいた。あれはいいもんだった。
 考えてみると今私が感じている一番物足りない感覚というのは、あの教室の感覚なのかもしれない。
 今さらあの退屈さに耐えられるとは思わないけど、あれに近いものをまた味わってみたい気はする。
 でもやっぱり、もう教室には戻れない。今はもう懐かしく思い出すことができるだけだ。

                   *

 明日は今日よりはもう少し頑張ろう。

 10月28日(月) 「溢れるほどの」
名古屋人の心の支え、テレビ塔(なのか?)。
でも、なんだかんだ言っててもみんな、
テレビ塔が好きなんじゃないかな(でもない?)。


 言葉を失うほどの残酷さと言葉に尽くせないほどの素晴らしさが絡み合うこの世界で、人は憎み合い、愛し合う。日々意味を探し、何かを失い、どうしたらいいのか分からないまま、喜び、悲しみ、泣き、笑い、怒り、生きている。狂おしいほどにもがきながら。
 その出来事の一つひとつ、連続する時間の一瞬いっしゅん、この世界を形作る一粒ひとつぶすべてが、いかに大切で貴重で愛すべきものか、分かっているようで分かっていない。捉えられそうで捉えきれないものだから。いったんは確かに捕まえたと思った確信も、次の瞬間には手の中からふっと消えてしまう。まるで初めから存在していなかったように跡形もなく。
 この世界や自分の身に起こるすべての出来事に優劣はなく、善悪もなく、上下もない。あらゆるすべてを私たちは全身に浴びて感じればいい。裸になって太陽の光と風と地上の匂いを体中で浴びるように。
 一切を否定せず、選ばず、裁かず、ただ受け入れればいい。
 そして愛すこと。喜びだけじゃなく、悲しみや喪失や絶望さえも。
 それがこの地上で生きる意味。他のどこでもなく、他のどの時代でもなく、今この場所で生きていることの意味はそういうことなのだ。

 毎日は喜びに満ちている。起きてから眠りにつくまでのすべての瞬間、そして眠っている間も。溢れるほどの喜びがそこにある。

 10月26日(土) 「キーボードの記憶」
かすれたキーボードのMとNの文字。

 ふと気付くとキーボードのMとNの文字がかすれていた。
 そういえばもうこのキーボードとのつき合いもけっこう長い。そろそろ2年になるだろうか。その間、それこそ無数の文字をこのキーボードで打ってきた。メールやMLやBBSやこのHPの日記などで。
 これまで一体どれくらいの文字がこのキーボードから生まれたのだろう? 何文字、何行くらいなのか、見当も付かない。
 ここから生まれた無数の文字は、日本中を駆けめぐり、世界を周り、何人かの上を通過し、そして大部分はどこへともなく消えていった。あとにかすかな記憶だけを残して。
 それらすべてをこのキーボードは知っているわけだ。私に関して誰よりもよく知ってると言ってもいいかもしれない。私が発したすべての言葉と感情を知っているのだから。
 私のことをどう思ってるんだろう。もしかしたら、あまりにも働かされすぎるんで怒ってるかもしれない。どれだけ打てば気が済むんだ、と。
 けど、まだまだ休ませない。もっともっと働いてもらわないと。何しろこのVAIOのキーボードは今まで私が知る中で一番打ちやすくて気に入ってるやつだから。キーが効かなくなるまでは休息の時は来ない。
 働け〜、働け〜。

 あるいは将来、キーボードは今よりももっと人間に近いものになって、人のパートナーにさえなるかもしれない。
 感情を持ち、言葉を持ち、高度な学習機能を備え、人間が打った文字や文章から学習してどんどん賢くなっていって、人が打った文字で笑ったり、喜んだり、怒ったり、たしなめたり、誉めたり、時にはツッコミを入れたり。
 ……。
 想像してみたらやっぱり邪魔くさそうだ。いちいち「おいおい、それを言っちゃいけないだろう」とか「誤字!」とか「打ち間違えすぎ!」とかあれこれ指図されたりしたら打つことに集中できない。「チッ」とか舌打ちされた日には怒り爆発してたたき壊してしまいかねない。
 やっぱりキーボードはいつまでも黙って打たれるがままになっているのが一番なんだろうか。
 というよりもその前にキーボード自体、いつかなくなってしまうのかもしれない。音声入力なり、次は思念で打てるようになったりして。
 私たちが生きてる間にもキーボードは前時代的なものになり、ノスタルジックな趣味としての道具になってしまう日がおそらく来るだろう。そう遠くない将来。
 そう考えると、今のうちにしっかりキーボードで文字を打つことを楽しんでおかないと、と思う。
 このキーボードを打つという行為はけっこう快感だし。

 
 10月25日(金) 「ココニイルコト、と」
秋の夕暮れ空に、飛行機雲が長く尾を引いていた。
どうやら明日は雨らしい。


 ミーの喪が明けて何か変わるかと思ったらこれといって何も変わらなかった。心がパッと晴れたわけでもなく、何かが始まったわけでも終わったわけでもなく、昨日までと比べて変わったことは何もなかった。表面上は。
 けど、変化というのはいつでも目に見えない部分で密かに進んでいるものだ。地震を起こす地核プレートのように。変わらないものなど何もないと言ってもいい。
 だからきっと、これからまたいろんなことが変わってゆくことだろう。それが自分の望む変化か望まない変化かは分からないけれど。

 いよいよ涼しくなってきたので長袖Tシャツを何枚か出してみた。
 が、すでに季節は長袖Tシャツでは間に合わないくらいになっていた。寒っ。
 それはそうだ、もう10月も終わろうとしてるのだから。
 この週末はなんとしても衣替えをしなくてはいけない。外に着ていく服がない。

 前々から挑戦してるビデオ修理は一進一退を繰り返し、今ひとつ前進しない。多少知識は増えたものの、基本的な工業や電子の知識がないから分からないことが多い。ハンダゴテを使うのも中学生以来だし。
 そんな中、経験的に分かったことは、ビデオの一番簡単な修理は電源が入らなくなったやつだということだ。これは素人的に考えるともっとも絶望的な故障に思えるものだけど、実は電源基盤のコンデンサがいかれてる場合が多くて、これを一つか二つ交換すると簡単に直ってしまうことが多いのだ。メカニカルなトラブルの方が色々分解したりしなければならない分かえって難しい。だから、とりあえず電源が壊れたビデオは直せるようになった(気がする)。それ以外のものは直せない。
 そんなわけで、あれこれいじってかえって壊してしまったりしてる内に押し入れの中はいよいよ修理途中のビデオで満員御礼になってしまうのであった。

 WOWOWは少し失速気味。どうやらペースを掴んで追いつけるようになったら、今度はやはり物足りなさを感じるようになってきた。月に2,000円だからレンタルの代わりになれば安上がりでと思ったけど、そう上手い具合にはいかない。WOWOWだけで主立った作品を網羅していくのは全然無理。そこそこいいものもやってくれるけど肝心のものはやってくれない。
 やぱり、レンタルをメインにその取りこぼしをWOWOWでフォローしていくっていうスタイルにしないとどうしようもないようだ。なんだかかえって金がかかってしまうではないか。なんてこった。
 となるとスカパーにした方がかえって安上がりなんじゃと思ったりもするけど、いずれは110度CS放送に統合されていくだろうから、今はちょっとスカパーには手を出さない方がよさそうだ。

 巨人が西武に負ける夢を見た。
 今回は勝ち負け抜きに日本シリーズを楽しみたいと思ってたけど、近づいてくるにつれてやっぱり勝って欲しいという気持ち強くなってきた。勝てば嬉しいというよりも負けると悔しいから。
 最後はしっかり勝って今年を締めくくって欲しいところ。今年の巨人には負けなくてはならない必然性が見あたらないし。

                   *

 スガシカオの曲で「ココニイルコト」というタイトルのものがある。スガシカオが一番最初に書いた曲で、SMAPが歌い、真中瞳主演で映画にもなった。
 ココニイルコト。
 今地上でこうして生きていること。そのことがいかに重要なことか。
 そして、この言葉から連想したのがHPのことだ。HOME PAGE、つまりホーム、家。私はココにいる。HPに。いつでも。
 儚いネットの関係性の中で、動かない場所、いつでもいる場所としてのホームを持つことは、思っている以上にとてもいいことなんじゃないか。メールなら途切れてしまえばそこで関係性は終わってしまって、相手が今何をしてるのかを知る手掛かりもなくなってしまうけど、HPがあればいつでもそこに行けば会うことができる。たとえ一方的な関係性であったとしても。
 そう考えた時、私はHPのココニイルコトの大切さを思った。

 途切れてしまったメール友達のことを思い出しながら、もう届かない言葉を心の中でつぶやく。
 私はいつでもココニイル、と。

 10月24日(木) 「49日」

 悲しみに暮れてるわけでは決してないけど、なんとなく49日までは喪に服すような気分があって今日まで静かに暮らしてきた。あまり楽しく過ごしてはいけないような気がして。
 でももう明日からは少し気分を入れ替えよう。窓を開いて新しい空気と入れ替えるように。

 死者の魂は49日間この世界をさまよって、そして天に帰っていくという。本当か嘘かは知らない。人によって色々なのかもしれないし、そもそも魂など存在しないのかもしれない。けど、そういうことがあってもいいと私は思ってる。あの世があっても困らないし、魂が何度も生まれ変わるなら、それはとても楽しそうだから。違う生を生きられれば面白いし、生きていればいいこともたくさんある。
 ただ確かなことは、同じ場所に長い時間留まっていることはできないとういうことだ。ひとつの季節が終われば次の季節に席を譲らなくてはいけないし、ひとつの段階が終われば次の段階に進まなくてはいけない。時は留まることなく前へ転がり続けていて、私たちはその上に乗っているのだから。

 49日経って、いよいよミーも次の段階へ進むためにあっちへ向かったことだろう。
 だから私も次へ進もう。

 ミー、どうもありがとう。楽しい7年間だった。
 また必ず、どこかで会おう。
 じゃあ、その時まで。

 10月23日(水) 「秋らしい気分、おかえり」

 昨日から行方不明になっている私のやる気は、今日になってもついに戻ってくることはなかった。どこまでいってしまったことやら。
 やはり待っているだけでは帰ってこないか。自分から迎えに行かないと。
 当てはないけど、とにかく探しに行こう。行けるところから順番に。

 それにしてもここしばらく変化がなさすぎる。失うばかりで大きな変化は何もないと言っていいくらいだ。これはやはり良くない。どんな小さくてもでもいいから何か変化がないと。それも一時的なものじゃなく、完全な変化が必要だ。非日常を日常に挟み込むような誤魔化しじゃなく、日常そのものを変えないといけない。
 そのためには、何かを始めるとか、何か今までにない要素が増えるとか、そういうのがあると簡単なんだけど、今のところこれといったイメージがない。そう、変化不足はイメージ不足なのだ。

                   *

 相変わらずドラマはほとんど全部観てるけど、一回目痛恨の見逃しをしてしまった「天才柳沢教授の生活」はやっぱり面白い。前回の見逃しはあらためて痛かった。
 内容も好きなんだけど、松本幸四郎がまたいい。前は嫌いだったけど「王様のレストラン」でいっぺんに好きになった。今回もあの感じに近い。
 柳沢教授が自分の父親だったら困るけど、結婚した奥さんのお父さんがああいう人だったら私は最高だ。すごく相性がいいはずだから、いい友達になれるだろう。ヘンテコリンな会話が弾む様子が目に浮かぶようだ。

 あまりみんな観てないと思うけど、「相棒」もなかなか面白いドラマだ。
 水谷豊も久々だし、寺脇康文とのコンビも笑わせてくれる。
 けど視聴率は低そうだな。

 竹野内くんの「サイコドクター」は失速しないまま面白さを保っていて嬉しい。どこかが抜群にいいってわけでもないけど、いいドラマには違いない。

 映画は、WOWOWで観た『天使のくれた時間』が良かった。
 もしあっちの選択をしてたらどんな人生になっていたか、というありがちなストーリーだけど脚本が上手い。ひねりすぎない程度のひねりが効いていて。
 使い古されたテーマでも脚本と演出が良ければいいものができるという見本のような作品だ。ちょっとオススメ
 それと、やっぱりニコラス・ケイジは魅力的な俳優だなとあらためて思った。どう見ても二枚目じゃないのに観る者を惹きつける力がある。演技力だけでないプラス・アルファが。

                   *

 少しずつ秋らしい重たい気分が戻ってきたようだ。遅れてきた花粉症のように。秋はこうでなくちゃいけない。重たくならないと秋らしくなくてかえって落ち着かないから。
 秋は少し湿っていて重たい心と共に長い夜を過ごすのが心地いい。過去と未来の両方を想いながら。

                   *

 明日はミーの49日。静かに過ごそう。明日までは。

 10月21日(月) 「一番小さな満月」

 ピカピカに冴えて光る満月が低いところに浮かんでいて、とてもきれいだった。白い姿が秋らしい。
 とても大きく見えたのだけど、今日の満月は一年で一番小さな満月なんだとか。一番大きいものと比べると77パーセントくらいしかないらしい。ちょうと100円玉と1円玉の違いくらいなんだそうだ。地球との距離で言うと5万キロの差があるとか。
 月なんて石を投げたらあたりそうだけど、実際はすごく遠い。どう頑張っても縁がない憧れの女の子のように。
 まあ、石を投げてあたるくらい近ければそれはそれでありがたみがないけど。

 今日の雨は午前中にはやんでしまったようで午後からはすっかりいい天気になってしまった。天気予報屋のばかぁ。雨に濡れて物思いにふける私の計画がぁ。
 夕方の街は雨の気配さえ残ってなかった。何も感じることのないいつもの街だった。

 メンズデーの映画、ロングドライブ、海、車の作業、いくつかやりたいことが頭の中でぐるぐる回ってるだけで何も出てこない。壊れた福引きのガラガラみたいだ。
 何もできないまま時が過ぎていく。冬になってしまうとやっかいなこともあるから、気候がいい今しておかないといけないこともあるんだけど。でもどうしても気持ちが一線を越えない。目の前に見えない川が横たわっていて足を踏み出せない。
 明日はとりあえず洗車だけはしてガソリンを満タンにしておこう。今後のステップのためにも。

 ビデオとオーディオ関連だけは相変わらず好調。というか行き過ぎ。注意報から警報にうつる寸前。
 今日も「Hard off」にフラっと立ち寄ったら日立の7B-S80が2,000円で売ってたのでつい買ってしまった。使う当てもないのに。
 これでとうとう手持ちのビデオが14台だ。BSとWOWOWを入れても14チャンネルもないのに。
 またそろそろ整理していかないと。
(7B-S80と同じメカとヘッドに3DY/C分離とTBSが付いた7B-BS87を比べてみたらやはりまるで別物だった。あらためて3DY/C分離とTBSの威力を思い知った)。
 しかし、半分は修理途中で直せないまま押し入れに押し込めてあるんだよなぁ。いったん手に入れると情が移ってしまってなかなか手放せないものなのだ。

 オーディオ方はバラバラになってるCDとMDとDVDをなんとかひとつにまとめたい。
 と思って買ったサラウンドアンプが不調で、まずはこれの修理をしないと話が前に進まない。なんてこった。スピーカも先走って買ってしまったというのに。
 本当はCD-Rが再生できるDVDプレーヤーを買えば一気に問題解決なのだけど、高いっ。そんな金があるならビデオ3台買った方がいい(そういう問題なのか?)。

 ドラマは今回全部面白いと言ってもいいかもしれない。最初これはダメだろうと思った「ホーム&アウェイ」さえ、回を重ねるごとに面白くなってきたし、全然期待してなかった「ナイトホスピタル」も楽しめている。一番最初の脱落候補だった「ママの遺伝子」でさえ2回目は面白くて捨てられなかった。なんだかんだいって今回は切るものがない。嬉しいような邪魔くさいような。

 今日から新しくなった「あいのり」の主題歌がいきなり気に入った。なんだかストレートに胸に染みて。最近そういう感じは珍しい。
 で、誰が歌ってるんだろうと調べたら、まだデビュー前の新人「I WiSH」? タイトルは『明日への扉』。
 何者かまったく分からないけど、これはまず間違いなく出てくるだろう。ちょっと気をつけておこう。

 さて、今日が終わればまた明日。今日の反省は今日に置いて、明日はまた最初からやり直しだ。
 少しも絶望することなんてない。

                   *

 恋愛という幻想を成立させるための決定的な要素は、
 理屈ではなく感覚的な部分で、
 自分はこいつがいないとダメなんだという思い込みか、
 もしくは、こいつは自分がいないとダメなんだという勘違いか、
 そのどちらかだ。
 その幻想が、一体どこから来てどこへ去ってゆくのか、
 それを知る人間は、きっといないだろろうけど、
 でも確かにその幻想にとりつかれてしまうことがある。
 魔法使いがどこかで笑ってるのかな?


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