2002.10.9-

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 10月20日(日) 「秋満喫フルコースの怪しい空想」
 いただきもののシュークリーム。
 少しパリッとした生地と、
 中のカスタードクリームがマッチして、
 ギンギラギンにさりげなく美味しかったです。
 ……。

 私は村上春樹を失ってしまったかもしれない。
『スプートニクの恋人』を読んでいるとそう思えて仕方がない。何かが決定的に違ってしまった。これまでとは明らかに。
 内容がどうこうという以前にあの文章がどうにも合わないのだ。だから読み進めるのが苦痛で仕方がない。以前あれほど心地よくて好きだった文章なのに。
 トーンと今の気分が合わなくなってしまったのと同時に、あのレトリック過剰な文章がいちいち引っかかる。好きじゃない漫才師の漫才を聞いてる時のように笑えない。
 一体どうしてしまったことか。私の中で何か変化が起こってしまったのか、それとも『スプートニクの恋人』が合わないだけなのか。
 それにしても村上春樹はレトリックが上手になりすぎた。一行ごとに何かにたとえないと気が済まないかのようにレトリックを多用する。レトリックにとりつかれているようだ。昔はここまで多くなかった。
 いや、でもやっぱり乗れなくなった原因の大部分は私の中で起こった変化が原因なのだろう。村上春樹だけじゃなく沢木耕太郎さえも面白いと感じなくなってしまったのだから。
 それで今の自分にどの作家が合っているんだろうと色々少しずつ読んでいって見つけたのが山本周五郎だった。時代小説というジャンルは昔から読んでいたしそれなりに好きでもあったけど、今その世界観が一番心地いい。
 どうやら食事の嗜好が洋食から和食好みに変わったように、作家の趣味もより日本的なものに傾きつつあるようだ。ある種の老化と言ってもいいのかもしれない。
 でもまあ、本の趣味も歳と共に変わっていくもんだし、だからこそいろんな作家のものをその時々で面白く読めるわけだから、今回の変化も素直に受け入れればいいのだろう。村上春樹が一時期の私にとって一番大切だった事実は変わらないし、あの作品群を通過して今があるのだし。
 またそのうち戻ることもあるだろう。

                   *

 今年の秋はなんだか秋の気分になれないまま日々が過ぎている。自分がまだ夏の恰好をしてるからっていうのとは関係なく、秋特有の気分が襲ってこないのだ。人恋しくもないし、寂しい感じも全然しないし、気持ちが冴えていく感じもない。
 かつては秋が一番好きな季節で秋が深まっていくごとに嬉しかったものだけど。
 これはやはり夏をきちんと夏らしく過ごさなかったからかもしれない。ミーのことで心を奪われていて季節をちゃんと感じてなかったから。
 それに季節ごとのイベントやら出来事が極端に少なかったこともある。夏に何もなさすぎた。
 このままでは秋も秋を感じることもなく終わってしまいそうだ。それはまずい。なんとかしなくては。
 秋らしいこと……。
 秋といえばシャケ。シャケといえばヒグマ? ヒグマといえば北海道? 北海道といえばジャガイモ。ジャガイモといえば食糧配給?
 ううっ、いかん、連想する方向を間違えた。スタートが違ったんだ。
 秋といえばサンマ。サンマといえばサンマ焼いても家焼くな? 火の用心?
 うーん、これも連想が続かない。
 秋といえばマツタケだ。マツタケといえば北朝鮮!?
 はっ! そっちへいっちゃいけない、いけない。
 うーん、どうすれば秋を感じられるか思いつかん。
 やはり秋といえば素直に紅葉か。京都か奈良あたりに紅葉でも見に行くか。
 よし、こうなったら秋満喫フルコースだ。
 奈良の山奥へ分け入って、民家の畑でジャガイモを盗んで、小屋の火事を消し止めて、裏の川でシャケを釣って(釣れるか!?)、そこでヒグマと一戦交えて、ほうほうの体で逃げ出した先の山でマツタケを掘り起こしていると北朝鮮人に拉致されそうになって、ボートから海に飛び込んで、サンマを捕まえつつ家に逃げ帰る、という秋を感じるフルコースでもやってみよっかな。
 ……。
 最後はキャッチボールもしなくちゃ。

                   *

 相変わらずWOWOWやら新ドラマやらに追われる毎日だけど、たまたま観たアニメの「エリア88」がとても面白かった。原作は読んだことないのだけど、OVAとしての出来はかなり良いと思う。
 主人公のパイロット青年が親友に裏切られて外人部隊に送り込まれてしまって、そこをなんとか抜けだそうとするのだけどだんだん戦闘機に乗って戦うことにとりつかれていって、ようやく帰れるとなった時にはもはや平和な暮らしには戻れなくなっていた、というような話なんだけど、その親友と元恋人も絡んで、これがなかなかいいのだ。
 OVA3巻なので、オススメ。

 映画もたくさん観てるけどこれといったものには当たってない。
『タイタンズを忘れない』、『パラサイト』、『キッド』、『ショコラ』、『リプレイスメント』、『ノッティングヒルの恋人』あたりは悪くなかったけど。

 映画館もいいかげん行かないとと思いつつもう一つ気力不足と観たい作品がないことで行けずにいる。
 北野武監督の『ドールズ』はどうしようか。窪塚くんの『狂気の桜』とかも迷いどころ。

 そういえば、DVD『ロード・オブ・ザ・リング』を買わないと。

                   *

 明日は雨か。少し雨に濡れてみようか。そしたら何か思い出すかもしれない。忘れている大切なことを。
 色々なことが分からなくなって、思い出せないのか、それとも最初から分かってなかったのか、その区別さえつかない今、非日常へと踏み込まないといろんなことを見失ったままになってしまう気がする。
 もし雨が上がったら、少し遠くまで車を走らせよう。雨に濡れた街を見て思い出すことがあるかもしれない。

 10月19日(土) 「小さな思い出」
 今はもう、すっかり縁遠くなった、
 スポーツ用品店の「アルペン」。

 車の信号待ちでふと窓の外を見ると「アルペン」があった。中学のテニス部時代から大学まで、何かというとよく行ってたなつかしい店だ。ラケットやボールや靴を買ったり、ガットを貼り替えたり。
 でももう今はまったく入ることはない。気付けばもう10年以上店内に足を踏み入れてないだろう。ゴルフもスキーもやらないから。
 入ってもきっと、今の私の心躍らせるものは何もないだろう。時が流れるってのはそういうこともでもある。

「アルペン」を見ると中学のテニス部でペアを組んでた圭一のことを思い出す。
 中学の時はいつも一緒にいて仲良くいいこともしたし悪いこともした。テニスでは二人とも自分たちはけっこういけるつもりだったけど、実際は今ひとついけてなかった。私のダブルフォルトが多すぎたせいかもしれない。時々サーブで圭一の頭を直撃したりして怒らせたこともあった。二連続では温厚な圭一もさすがにムッとしてた。けど、楽しかった。部活では嫌なこともつらいことも多かったけど、やつとのペアも、やつと遊ぶことも、いつも面白かった。
 そういえば、「アルペン」でやつと同じテニスシューズを買って履いてたんだった。今思い出したけど。

 その後やつは、推薦で進学校に進み、大学も推薦で早稲田に行った。私とは違って勉強もスポーツも才能以上に努力をする人間だったから、今頃はずいぶん出世もしてるのだろう。
 などと書くと何か嫌みなエリートみたいに聞こえるかもしれないけどそんなことはまったくなくて、やつは私以上にいいやつで爽やかな男だったから、みんなにとても好かれていた。何でも出来て性格までいいなんてそんなの出来過ぎだろうって思うけど、実際不思議なほど嫌みのない人間だった。ちょっと抜けてるところがあったから、それで中和されてたのかもしれない。
 私がこれまで生きてきた中で、気持ちよく負けを認められる数少ない人間の一人だった。
 美人の奥さんと可愛い子供に囲まれて幸せな生活を送ってるんじゃないだろうか。そういうのが似合う男でもあるから。

 大学生の時、一度だけテニスの試合をしたことがある。試合は私の負けだった。割といい勝負だったけど、最後は実力負けだった。
 こっちは遊びのテニス、向こうは大学のサークルテニスだから、当然といえば当然だったのだけど、でもなんだか爽やかな気持ちだったことを今でも覚えている。
 私の我流で勝手気ままなテニスに対してやつの正統派テニスが勝ったということで、気持ちがすっきりしたのだった。全然悔しくなくて楽しかった。
 あれ以来今日までの10年以上、やつとは一度も会ってない。年賀状さえ送ってないからどこでどうしてるかも知らない。実は知りたいとも思わない。もしかしたら、今一番会いたくない人間かもしれない。
 それは嫌いになったからとか忘れたいからとかではなく、恥ずかしいからといったような気持ちがあるから。
 向こうは私のことをどう思ってるのか知らないけど、私は会うなら胸を張って会いたい。今はまだ胸を張れない。まだ。
 いつかまたやつと再会するために私はこの先を生きていこうと思う。もっとしっかりしないと。
 最終的にはやっぱり勝ちたい相手だから。

 中学卒業の前、どちらが言い出したか忘れてしまったけど、お互いに好きな子を言い合おうということになった。今となっては照れくさくもばかばかしいような話だけど、当時の恋愛沙汰はそんなもんだった。
 お互いに色々質問したりさぐりあったりりしていくうちに、二人ともどうやらこいつ、自分と同じ子が好きらしいぞということになって、じゃあ、せーので言おうと言った子の名前は……。
 まあ、それは二人の秘密の思い出ということで。
 でも、あの時のやつのびっくりした顔は忘れられない。かくいう私もやつに言わせると相当びっくり仰天した顔をしてたらしい。それはお互いにとってまったく意外な名前だったから。

「アルペン」の前で信号待ちになったことで甦った小さな思い出の話。

 10月17日(木) 「驚き不足」
 少しだけ未来を感じた
 工事中の高速道路下。

 子供の頃思い描いていた21世紀と実際の21世紀はものすごく違ったけど、その中でも道路の進化の遅れというのは一番がっかりしたことだ。
 車が空を飛んでもいないし、透明のチューブの中を走ってもいないどころか、いまだにデコボコのアスファルトなどという前時代的な道路の上を走っている。
 携帯電話やPCがこれだけの進化を見せている中、車やその他地面を走る交通関連の進化はとても遅い。多少速く走れるようになったけど、基本的には20世紀の初めからほとんど変わってない。しかも、燃料はガソリンだ。一体この100年何をしていたのかと思う。
 こんな調子では私が生きている間に車が空を飛ぶことはないのかもしれない。イメージは誰の中にもあるものの、具体的な方法が分かってないから。
 重力コントロールというのは今どの程度までできるようになってるんだろう。その理論さえ解明されればエネルギーの問題というのはそれほど大きな問題ではないはずなのだが。
 高速道路だってあんなものは金を取れるようなシロモノではない。ベルトコンベアのように乗ってるだけで高速移動するならともかく。

 何にしても、私はもっと21世紀的な街を見てみたい。車や移動手段だけでなく、建物や、明かりや、電化製品や、あっと驚く新発明などを。
 タイムマシンはまだずっと先なんだろうか?
 夢を録画する機械は?
 背中にジェットを積んで自由に空を飛ぶのはまだまだ実用段階じゃないのか?

 私が物心ついてから今に至るまで、想像したことさえなかったものの出現というものを見たことがない気がする。
 たとえば、初めて映画を観た人の驚きとか、電話で遠くの人の声が聞こえた時の信じられない思いとか、飛行機の発明とか、人類が宇宙へ行ったとか、そのレベルの驚きというものはなかったんじゃないだろうか。
 PCが唯一それに近いかもしれないけど、でももっともっと驚きたい。どんなものでもいいから私を驚かせて欲しい。
 21世紀ってこんなものだったんだと侮ってしまわないためにも。

 最近、一番驚いたことって何だろう?
 いろんな大きな事件や事故はあったけど、自分に直接関係するようなものとなると思いつかない。寂しいことだ。
 驚き不足、そんな言葉はないけど、確かに驚きが不足している。決定的に。
 ここらでぼちぼち雷に打たれたような驚きが欲しいところ。いや、実際雷に打たれるのは嫌だけど。

 10月16日(水) 「逃げるビデオに追いつけない」
 ビデオやテレビがいくつあっても、
 私の目と耳は二つで、頭は一つ。

 ビデオに追われ追われて時間切れ。
 けっこう急いだつもりだけど、中盤が少しルーズになったか。
 しかし、今日は観るもの録画するものが多かった。ドラマにWOWOWに衛星にサッカーにバラエティに深夜のアニメまで、休む暇もなく続いた。
 溜まってゆくビデオテープが林立する床を眺めつつ、今日はここまで。
 また明日。
 おやすみなさい。

 10月15日(火) 「泣く時と泣かない時」
 青空に白い月。
 見えても見えなくても、
 いつもそこにあるもの。

 夕方、空で稲光が光る中、車を走らせながらミスチルのアルバムを聴いていたら、「抱きしめたい」の出だしで胸にガツンと来た。

「人並みで溢れた 街のショウウインドウ
 見とれた君が ふいに
 つまずいたその時 受け止めた両手の
 ぬくもりが今でも

 抱きしめたい 溢れるほどの 想いが 
 こぼれてしまう前に……」

 予告なしに涙があふれそうになって、空を見上げて、大きく深呼吸をした。今は泣く時じゃないと思ったから。

 私にとってのいい歌とはどんなものだろうと考えてみると、そこにはいつも鮮やかに切り取られたシーンがあることに気付く。想いや感情をいくら上手に並べ立てて言葉で飾り立てても感動はしない。感動するのはドラマだ。

 いい曲を聴くと、また少し言葉というものを信じようという気になる。言葉にはやっぱり確かな力があるんだ、と自分に言い聞かせる。
 けど、そいう曲はそんなに多くはない。

                   *

 青空に白い月が浮かんでいるのを見るとなんか得した気がして少し嬉しくなる。別に昼間月を見たからといって何かいいことがあるわけでもないけど。
 でも、必ずと言っていいほど、心の中で小さく叫んでしまう。「あ、月だ」と。乗り物に乗っている最中海が見えると、「あ、海だ」と思うように。新幹線から富士山が見えると、「あ、富士山だ」と口にしてしまうように。

 夕方から突然雨になった。雹が降るかもしれないと天気予想屋は言ってたけど、名古屋にも雹は降ったんだろうか。それともあの男、また嘘をついたか。
 昼間は秋晴れの暖かいいい天気だった。

 今日、街で道行く人々を観察して分かったのだけど、今名古屋で半袖を着てる人間は、私とちびっ子しかない。見事なまでに道行く人々はみんな長袖を着ていた。知らない間に私は季節に追い越されてしまっていたらしい。
 それにしても今日はさすがにちょっと恥ずかしかった。明日からは私も長袖にしよう。街の中であまり浮きたくないから。というよりその前に衣替えしないと着ていく長袖が出てない。昨日しておくべきだった。
 けどみんな寒がりだなぁ。まだ半袖でちょうどいいと思うんだけどな。

                   *

 そろそろロングドライブにはいい季節になってきた。夕陽をメインにすると夏は日が長すぎて時間の調整が難しいのだ。あんまり早く家を出ると夕陽まで時間がありすぎるし、夕陽に合わせて遅く出ると帰りが夜中になってしまう。
 ということで5時から5時半くらいに夕陽から夕暮れを迎える今がちょうどいい。
 あんまりここだっていうイメージが浮かんでこないんだけど、とりあえず海へ向かおう。最後に海を見たのはいつだったか。そろそろ海から力を分けてもらわないとエネルギー不足になっている。
 とりあえず近場の知多半島方面でもいい。もう海岸もすっかり静かになった頃だろう。夕陽を浴びたギター青年は元気にギターをかき鳴らしてるだろうか。

                   *

 この世界では確かに正しい行いは貴重なものではあるけれど、だからといってそれだけ価値が高いとは限らない。正しいことをした人間だけが偉くて正しいという論理では何の解決にもならないだろう。
 正しさも、間違いも、愚かさも、すべてひっくるめてすくい取らなければ、本当の意味での正しい在り方にはつながらない。
 相反する在り方や方向性がある。多様性こそがこの世界の本質だから。それは当たり前のことで、相反するものを一つにまとめるという方法では決して解決しない。どちらかを肯定してどちからを否定してしまっては、立場が逆転するだけで永遠にその繰り返しになってしまうから。
 すべてをありのままに受け入れて、その上で新しい形の正しさを探していくことが大切なことなんじゃないか。
 正しいとか間違ってるとかの議論にはもういい加減飽きたし、正しさで裁かれるのもうんざりだ。
 人間にとってこの先必要なのは賢さよりもむしろ心の成熟だろう。まだしばらく時間がかかるけど、でも大丈夫。時間さえかければなんとかなる。

                   *

 自分の外側に世界が広がっているという感覚から、
 世界の中に自分が存在しているという認識に変わった時、
 人は初めて世界と自分との関係性に気付く。
 いや、そのための第一歩と言った方がいいか。
 この世界を考える時、自分は一番最後なのだということを
 忘れないようにしなければいけない。
 決して自分は最初ではない。
 自分のことを最後に考えられるようになった時、
 人は多くのことが見えるようになる。
 自分のスケール感や自分の価値が。

 10月14日(月) 「本当にハッピーなマンデーなのか?」
 橋を渡る夕暮れ時、
 それは何かを越える時。

 今日は朝っぱらから公園で子供たちが大騒ぎしてる声で目が覚めた。一体何事が起こったかとよく考えたら、そうだ、今日は体育の日だった。すっかり忘れてた。体育の日はもうこの前の10月10日で終わった気になってたけどそうじゃなかったんだ。
 だから何か子供会で運動会みたいなことをやってたのだった。
 それにしてもこのハッピーマンデーというやつ、何十年かしたら慣れる時が来るんだろうか? 
 なんかあんまり自信がない。というか、そもそも総理大臣ごときが国民の祝日を自分の思いつきだけで動かしていいものなのか? どうも納得できない。新たに増やすならいいけど、移動してもらっちゃ困る。成人の日だって、体育の日だって、元々適当にあの日に決めたわけじゃなかったんだろうし。
 そもそも、みんな本当にこの日をハッピーに感じてるんだろうか? 確かに3連休になった人は嬉しいだろうけど、世の中には土日休みじゃない人だってたくさんいるわけで、その人たちにとってはいろんな意味でアンハッピーなんじゃないか。
 まあどうでもいいっていえばいいんだけど、なんだか気に入らないハッピーマンデーの一日だった。

                   *

 こっそり行われていた韓国のアジア大会も今日で終わった。でもホントにこっそりだったな。衛星を付けてない人にしたらやってたことさえ知らなかったくらいかもしれない。オリンピックが大好きな私をもってしても、このクラスでは気合いが入らなかった。結局しっかり観たのは女子マラソンとサッカーくらいだった。
 サッカーは準優勝でよく頑張ったというけど、谷間の世代と言われても仕方がないほどタレントがいない。あんなに誰一人輝いてないチームも珍しい。誰か一人くらいは抜けたスターがいるもんだけど。
 あの中から今の代表に食い込むのは相当難しいだろう。特に中盤は空席がまったくないし。
 女子マラソンももはや2時間20分時代ではなくなり、16分を出さないと勝てない時代になってしまった。驚く。
 男子は高岡がまさかの頑張りを見せたけど、こちらももう2時間4分はすぐだ。
 スポーツにおける人間の身体能力の全体的な進歩というのはすごく面白い。マラソンにしても100メートルにしても、その時代の世界最高記録が人間の限界なんだけど、時代が進むにつれて競技者全体が進歩する。20年前は誰も100メートル10秒を切れなかったのに誰か一人が壁を破ると何人もの人間がすぐ後に続く。
 マラソンだって、水泳だって、何だってそうだ。スポーツだけは退歩しない。
 それは人間の身体的な進歩というよりも頭の中のイメージの問題なのかもしれない。イメージが具体化することで人間はそれを実現できるようになる。
 記録の伸びは、単にトレーニング方法の改善や食事の問題や用具の進歩だけでは説明が付かない。
 少し話は違うかもしれないけど、アインシュタインが相対性理論を発表した当時、その理論をおぼろげながら理解できる人間は世界中でアインシュタインを入れて4人か5人だったという。それが今では小学生や中学生でもぼんやりと分かっている。それもまたイメージの共有ということなのだろう。
 人間の能力というはまだまだ限界が見えない。頭脳も身体も。

 アジア大会も終わり、次の大きなスポーツイベントは何だろう。アテネオリンピックか。その前に何かあったかな。
 個人的には今月末から始まる日本シリーズが楽しみだ。今回は遺恨というか見返してやらないといけないとかいう気持ちが全然ないから、巨人が勝っても負けても楽しめそうな気がする。むしろ原くんをいきなり日本一の監督にするのはちょっとどうかという気もする。
 ただし、今年の巨人は確かに強い。私が知る限り最強かもしれない。
 Jリーグのグランパスの方は第2ステージこそ初優勝、と意気込んで応援してたのにまさかの4連敗で優勝の望みが早々になくなってしまった。なんてこった。脱力がぁ。

                   *

 新ドラマはほぼ出揃った。あとは「天才柳沢教授の生活」と「逮捕しちゃうぞ」くらいで。
 今日から始まった「ナイトホスピタル」はキャストが弱い割には面白かった。これは今回の穴になるかもしれない。
「ホーム&アウェイ」は出だしがかなりひどかったんだけど、2回目の今日は持ち直してすごく面白かった。私だけか? でも今回はホント笑えた。あのお気楽3人組だけじゃなく、ミポリンの場面も良かったし。設定やストーリー展開にそれほど無理がなかったし、これは次回からも楽しめそうな気がしてきた。
「ダブルスコア」はまあまあ。
「アルジャーノンに花束を」は今後の展開次第だけど一回目の感触は良かった。
「サイコドクター」は個人的に好きだ。竹野内くんのドラマにハズレはない
「やんパパ」はハズレかもしれない。役者長瀬智也をすごく買ってるけど、作品の良し悪しに落差が大きい。
「HR」は合わない。どうも舞台ノリというのが好きになれないから。あのわざとらしい演技と観客の必要以上の笑い声に白ける。
「真夜中の雨」は面白そうだけど前にどこかで観たようなタイプのドラマではある。「振り返ればヤツがいる」と「きらきらひかる」みたいな。
「薔薇の十字架」は今までにあまりないタイプのドラマで今後が楽しみだ。
「ママの遺伝子」は今回一番最初に脱落してしまいそう。最後まで持つかどうか自信がない。
「リモート」は期待してなかったのに思わず良かった。これは拾い物だ。深キョンらしさがよく出てて珍しく普通にいいと思えた。今回のベスト3に入る予感。
「おとうさん」は微妙なところ。田村正和は文句なしだけど、4人姉妹がやや不愉快な感じ。でも気の弱い役の広末は最近ちょっと珍しくて新鮮だった。

 というわけで、今回もまたほとんどのドラマを観ている私であった。
 この他にも朝の連ドラ「まんてん」やNHKの「結婚泥棒」なんかも好きだ。
 WOWOWもあるし、しばらくは観るものに事欠くことはないだろう。

                   *

 ここのところ外が騒がしいのと夢見があんまり良くないのとで寝不足が続いている。寝付きは最近はすっかりいいからそれは助かるんだけど、途中で起こされるとその後なかなか寝付けないから嫌だ。勘弁して欲しい。
 昔、イヤーウイスパーを買って付けて寝てみたことがあったけど、あれは効かない。というか邪魔くさい。
 夢はまたインテグラが盗まれる夢をよく見る。それと、大学へまったく通ってなくて単位が全然足りずに卒業できなくてどうしようって考えてる夢も。
 なんとも中途半端な悪夢だ。
 せっかく今は一年で一番眠りやすい季節なんだからこの時くらい眠りを満喫させて欲しい。
 今日は早寝しよう。
 今日こそ誰にも起こされませんように。

                   *

 この世界は、いたるところで燃えさかっている火事現場のようなもの。
 正しいことをするのは悪いことではない。
 火を消したり、人を助けたり、片づけたり。
 でもそれは個人的な趣味や美意識でやるべきものだ。
 善行は義務ではないし、ましてや他人に強要するものでもない。
 人は、この世界の残虐さや醜さの認識が足りない一方で、
 善行を過大評価しすぎている。
 現実問題として、善良に清く正しく生きることは無理だ。
 この世界を救えるなんて思い上がっちゃいけない。
 私たちにできることは、燃えているところを避けて、
 生き延びるために全力で逃げることくらいのものだ。
 それで間違ってはいない。

 10月13日(日) 「地球学の夜明け前」
 インテグちゃんのバックミラーに映る景色。

 インテグラのバックミラーに映る景色は狭い。
 それはもう、ものすごく狭い。それに追い打ちをかけるように大きなウイングをつけているものだから、更に見づらい。ほとんど半分くらいしか見えない。今でも時々あまりの見にくさに時々笑えてくる。なんだ、こりゃ、と。
 外観の設計を優先してしてしまった結果なんだろうけど、これはいくらなんでも狭くて見づらいと思う。設計者たちはどう思ったんだろう。
 世界中の車の中でもこれは見づらさトップクラスなんじゃないだろうか。買って最初に運転席に座ってバックミラーを見た時、冗談かと思った。これはちょっと間違ってるんじゃないかと。その前に乗ってた2台が3ドアのハッチバックでリアウインドウが垂直で見やすかったということもあったんだけど。

 大きなウイングもいけない。ホンダ専門パーツ屋の「無限」のやつだからいい加減なものじゃないんだけど、この半端な位置はちょっといけない。ちょうど後ろの車のドライバーの目線のところなので、顔が見えないのだ。顔が分からないように写真に黒い線が入ってる人みたいだ。
 見るためには伸び上がるかかがむかしないといけない。いや、別に後ろのドライバーの顔をどうしても見たいってわけではないけど、それにしても一応どんな人間か確認しておかないと落ち着かない。恐ろしげな人ならモタモタ走ってられないし、下手そうなドライバーならよけないといけないし、美人ならよく見ないといけない。

 まあ今ではすっかり慣れて不便ということはないものの、やっぱりこれはちょっと設計ミスだと思う。気に入ってる車だけどここは大いなる欠点だ。

                   *

 ここのところずっと気分の上昇が見られないまま低い位置で安定飛行を続けている。悪くはない。けど、良くもない。中途半端な感じが嫌だ。
 映画も行きたいしロングドライブも海も行きたい気持ちはあるんだけど、どうにも気持ちが臨界点を超えない。夢想するだけで終わってしまう。そして日常の習慣に運ばれる。
 時間の使い方も上手くいってないから一日にメリハリとスピード感がない。走るでもなく、止まって休むでもなく、なんとなくダラダラと歩いている感じ。これは休んでいるより悪い状態なのかもしれない。なんとかペースを変えたいのだけど。

 日記に何を書けばいいのかも見失ってしまった。書かずにはいられない時期は終わって、何か意味のあることを書こうとして行き詰まって、なんでもいいから気ままに書こうと思うんだけど、そうすると何を書けばいいのかよく分からない。一日の出来事を書けばいいのか、心に思ったことを書けばいいのか。
 書く気になればダラダラとあれこれ書ける気はする。でもなんかよく分からない。目的が見えないというのか。
 とはいえ、3ヶ月以上日記を休んで何かが見えるようになったかといえばそんなこともなく、ただ休めば怠け癖がついただけだったから、やっぱり無理矢理にでも書いていくことで目的を探していくしかないんだろう。

 すべての迷いの一番の要因は、自分を決定的に信じられなくなってしまったからだ。去年から今年にかけて、ことごとく私は私の期待を裏切ってきた。
 現実の自分と、自分の中にある理想の自分というのがあるわけだけど、その理想の自分がまるで駄目になった。理想をなくしてしまって、現実の私が本来あるべきだと信じていた自分の姿を見失ってしまったのだ。そして、目標も、進む方向さえも分からなくって今途方に暮れている。
 それは思いもよらないまさかの裏切りだった。

 苦しい20代をなんとか突き抜けて、30を越して軽くなって、この先はもう良くなる一方だと思ったのに、それほど簡単なものではなかった。ちょっとうんざりするけど大きな山はまだいくつもあるのだろう。やれやれ。
 しかしながら、人間が考え得る思想や思考の多くの部分は通過したような気はしている。分からないまま現実に生きること、現実の外で悟ること、悟りを現実の生活の中で生かすこと、悟りを捨てること、あえて悟らないこと、など。
 実際に自分で経験してなくても、それぞれの境地を想像できるようになったことは前進と言っていいだろう。これでも一応前へは進んでいるようだ。

                   *

 私が未来に向けて思い描いていることは、地球学の確立といったものだ。
 この地球に住む人類が、過去から現在にかけて分かったことや知識や空想したことなどをすべて一ヶ所に集めて、それぞれを関連づけ、ひとつの巨大で立体的な知識体系として確立すること。それが地球学だ。
 哲学、科学、化学、芸術、美術、心理学、精神学、脳、遺伝子、宇宙、天文学、歴史、文学、産業、言語、農業、動物学、人体、物理、医療、宗教、時間、こういった一般的に認知されてるものだけではなく、UFO、宇宙人、UMA、催眠術、超能力、奇跡、霊界、魂、針灸、ツボ、超古代文明、予言、まじない、魔術、といったキワモノと思われていることまで、すべてを分け隔てなくひとつのものにする作業をしなくてはいけない。それを知識体系とすることで、地球人類全体の共通認識になり、共用することができるようになる。
 それにはものすごい労力と人員と時間が必要なのだけど、やらないと地球学校を卒業できないのだからやるしかない。私たちはまだ、この広大な宇宙の中では、小学校の低学年のようなもので、まだまだこの先いくつもの学校へ行って学ぶ必要がある。そのためにはまず地球学という卒業試験にパスしてみせなければ。

 本格的にやるとするなら、まずは組織委員会を世界規模で作って、常任委員と客員委員を選抜して、どこかの国に場所を確保しないと始まらない。国連がどんな活動をしてるのかよく知らないけど、あれの学問版みたいな感じだろうか。
 それぞれの国からそれぞれの分野の専門家を呼び集めて、とりあえず知識をすべて寄せ集める。そしてそれを専門分野の橋渡しができる人間が横に関連づけ、更に総合的な認識と判断ができる人間が縦に体系とする。という一連の流れになるだろう。ごくごく簡単に言うと。
 個人の価値観や専門や人種や国籍や身分や宗教や偏見などを超えて、地球学というひとつの知識体系作りこそが、この先の人類がなすべきことだ。とりあえず。

 地球学の精神、それは、「一切を否定しないこと」だ。
 これまで起こったことや、起こりうること、想像可能なことすべてを区別、差別、選択せず、放り込んで体系化すること。
 それは地球の模型を作るようなものだ。ものすごく複雑な。そのためには何かひとつでも要素が欠けてしまえば完全なものではなくなる。
 だから何ひとつ否定してはいけないのだ。

 今はまだ私の空想にすぎないけれど、何年後か、何十年後か、何百年後か、世界でこういう動きが出て、必ず実現するだろう。
 そのためには、人類はもう少し成熟するための時間が必要かもしれない。
 けど、そのための下地ができつつある。
 人類はまず立ち上がって手を使えるようになり、次に言葉を持ち、文明が生まれ、文化が生まれ、産業が興り、速い乗り物を手に入れ、電波や映像を遠くの場所に送れるようになり、そして今、インターネットが世界を結んだ。この中のどれか一つでも欠ければ地球学は成立し得ない。知識は同時に全世界で共有する必要があるから。
 こうして考えてくると進化や発明というものがいかに必然かということがよく分かる。たとえば不幸の象徴のような戦争さえも速い乗り物を短期間で作り出すためには必要なことだったと言えるし、国と国に分かれて違う文化や精神性を持ったことによって互いに競争意識が生まれ、短い時間で互いを高め合うことができたという面もある。

 こういった時間の流れを捉えることも、地球学でのテーマのひとつになる。
 横の空間の広がり、縦の空間の広がり、時間軸、次元、無限の精神性、それらを丸ごと捉えなくては私たちが今置かれているこの現状を理解することはできない。

 途方に暮れている場合じゃない。私たちは宇宙における小学生低学年なのだから。小学校をなんとか卒業できたとしても、その先には、中学、高校、大学、大学院、そこを卒業してやっと宇宙における社会人になることができるのだ。
 まだまだ先は長い。気が遠くなるほど。でも一歩ずつ行くしかない。楽しみながら。

                   *

 空想には限界がない、なんてことはない。
 空想にも確かに限界はある。
 でも限界は突破することができる。
 空想もまた、行き詰まって突破して、
 また行き詰まっての連続だ。
 けど、限界まで達しなければ決して限界を超えることはできない。
 だから限界を感じたらそれは喜ぶべきだ。
 そこを超えればまた未知の世界を知ることができるのだから。
 空想の限界がその人間の限界だ。

 10月11日(金) 「印象の薄い生徒のような一日」
 もらいもののケーキたち。

「ラトリア」というところのケーキをもらったので早速食べてみた。こりゃ美味しい。最近のケーキにしては大きくてボリューム満点だ。一個でおなかいっぱいになってしまい、もう食べられません状態。ケーキバイキングには向かない軟弱な体質の私であった。
 毎日でもケーキを食べられるという人もきっといるだろうけど、私は月に一回くらいが限界だろう。甘いものが好きでもケーキの甘さは後に残るから、そうそう頻繁に食べたいとは思わない。。これじゃあパティシエにもなれないし、ケーキ屋けんちゃんにもなれない。

                   *

 パソコンラックの上のスペースが空いていてもったいないのでスチール台を買ってきて置いてみた。黒色の3段タイプで980円。安い。
 天上まで届きそうだ。この東海大震災が警告される今、かなり無謀な試みではある。もはや部屋の中に逃げ場はない。どこへ逃げても天上近くから何かが降ってくる。大量の本か、ビデオテープか、ビデオデッキか、棚そのものか、何かが。
 東海大震災早期警告係に任命したミーもいないし、こうなったら自分の中の虫の知らせだけが頼りだ。でももし寝てる間に来たらそのまま気付かずにいってしまいまそうだ。くわばらくわばら。

 スチール台追加によって更にビデオデッキを置く場所ができたのは嬉しいところ。あと3台は置ける。また何か買ってしまおう。というか、すでに買ってしまった。

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 今日は悪い一日ではなかったけど、なんとなく印象が薄い日だった。卒業したとたん忘れてしまうクラスメイトのように。きっと明後日には今日のことはもう何も思い出せないような気がする。もう今の時点で夕食に何を食べたのかさえも思い出せないくらいだ(なんだったっけ?)。逆に言えば悪いことが何もなかったとも言える。
 そう、悪い一日ではなかった。彼って悪い人じゃないのよね、などと言われそうな。

 どうもこれ以上起きていてもいいことはなさそうなんでもう寝てしまおう。せめて一日の最後にいい夢でも見られるといいな。

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 見慣れた街の中で多くのものを見失った。
 けれど見慣れたことで見えるようになったことが少しだけある。
 それが大事なもの。
 それを見つけるために生きている。
 止まらないと見えない光景もあるのだ。
 いつもいつも走っていればいいってもんじゃない。

 10月10日(木) 「季節のうつろいはキンモクセイとともに」
 どこからともなく匂ってきたキンモクセイの
 香りの正体はこの木だった。

 家から駐車場までの間のどこかにキンモクセイがあるに違いないと思いつつ、なかなか発見できなかったのだが、今日ようやくそれを見つけることができた。民家と民家の間の狭い庭にそれはあった。おおお、こんなところに。せっかく見つけたんだから写真を一枚、と勝手に入り込んでパチリと一枚、念のためもう一枚パチリと撮って、そそくさと逃げ出す。キンモクセイをスクープ撮影してる人間も珍しい。けっこう不審だ。

 秋の始まりを意識するのはここ数年いつもキンモクセイの香りに最初に気付いた時だ。
 そしてその香りが強くなるごとに秋が深まっていき、いつの間にかその匂いが消えるともう季節は冬だ。
 あの木の花も満開を過ぎ、地面にはたくさんのオレンジ色の花びらが落ちていた。そろそろ冬なんだな。
 それにしても自然のキンモクセイはいい香りだ。かなり強いんだけど嫌みがない。

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 ところでゆうべ寝る前に考えた。新・断想日記ではあまりにも芸がなさすぎるんじゃないかと。
 そこで今日から続・断想日記とすることにした。この方がなんとなくおさまりも響きもいい。
 更にこれならまた長期休養したとしてもその後、続々・断想日記として出直せる。
 うん、これでいこう。

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 頭の思考回路がまだ日記モードになってない。だから何をどう書けばいいのか今ひとつ掴めない。大しておなかが減ってないのに突然弁当の時間になってしまった感じだ。
 とりあえず書き始めればなんとかなると思ったけどなんとかならなかった。やはり見切り発車はいけない。「だろう運転」はやめましょう、と自動車教習所でも言っていた(あの車は止まるだろう、きっと譲ってくれるだろう、などと自分勝手な判断で運転してはいけないという戒め)。

 ところで自動車教習所で思い出した。名古屋では自動車教習所のことを「しゃこう」と言うんだけど、これが全国共通語ではないことを最近知ったのだ。「しゃこう」つまり、車の学校ということで「車校」と名古屋の人間はそう呼ぶ。いや、ホントに。私が勝手に言ってるわけではない。みんな普通に当たり前にそう言ってたから間違いないと思う。
 名古屋人がバスの中で、
「今日、しゃこうどうする?」
「オレ、今日エラいでサボるわ」
 などという会話を耳にして、「社交」とか「偉い」といった漢字を頭に思い浮かべたとしたら、それは大きな間違いなので気をつけなくてはいけない。

 えーと何の話だっけ? ああ、そうそう、まだ頭が日記モードではないという話だった。
 でも考えてみたら日記を怠けてる間、一緒に思考まで怠けてたのかもしれない、と今ふと思った。日記を書かなくてはいけないと思うと曲がりなりにも何かしら考えるものだけど、書かなくていいとなったら考えなくてもいいから考えない。考えなければ当然書けない。書くことと考えることは一対になっていて、何も考えずに書けるのは自動書記ができる霊能者くらいのもので、私は幸か不幸かそういう能力はないから。
 やっぱり日記は書かないよりは書いた方がいいということだ。よし、これからはもっとしっかり書こう。今日はもう疲れたからまた明日以降。
 少しずつ日記勘も戻ってくるだろう。

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 昔好きだった子の顔さえもう思い出せないけど、
 好きな人を持つということはとてもいいことだ。
 もう二度と会うことはないとしても、
 今もまだ、この空の下、地上のどこかで生きている、
 そう想像すると少し嬉しい気持ちになるから。
 それぞれの家族の中で、静かな眠りについているだろうか。
 自分が幸せになることも大事だけど、
 自分が好きな人たちが幸せでいてくれるといいなと思う。


 10月9日(水) 「断想日記、ゆるやかに復活……か?」
 久しぶりに秋の夕焼け空を見た気がした。

 久々に断想日記を書こう。
 6月29日で止まったまま動かなかったこの日記だが、ようやくゆるやかに再開することになった。
 気がつけば夏を過ぎ、もう秋から冬へ向かおうとしている。
 その間いくつかの出来事があって、その多くは後方へ流れ去り、思い出せることはほとんどない。
 もし、ミーが死んだ時この日記を書き続けていたら私は何を書き、何を書かなかったのだろうと思ったりもするけれど、それも今となってはもう過ぎ去ったことだ。考えてみても仕方がない。

 何故突然日記を復活させたか。
 特に心境の変化があったわけでもないし、書かずにはいられない衝動が体の奥から突き上げてきたわけでも、書きたいことができたわけでもない。
 まあ要するに、更新を全部まとめてしまおうということだ。表紙の言葉と、今日の一枚と、そこでのコメントとを。その方が楽だし、自由度も高くなる。つまり楽したいというだけの理由なのだ、断想日記の再開は。
 ……。
 いや、でも人間の進化や発明の歴史はいかにすれば楽になるかということの追求だったわけで、そういう意味ではこれもまた一つの正当進化と言ってもいいかもしれない。
 そうだ、断想日記を改名しよう。新・断想日記と。
 ……。
 ヒネリなし。

 とにかくそういうわけで、今日からまた、写真と共に断片的な想いを気ままに書いていくことにしよう。時々怠けながら。

 さて、最近の私はといえば、有り体に言って可もなく不可もなし、といったところで取り立てて書くようなこともない。実は忘れてしまって思い出せないだけなのかもしれないけど、たぶん、大事件はなかったと思う。ミーのことを除いては。
 やつのことは掲示板でかなり書いたのでもうここでは書かなくていいだろう。とにかく生きて死んだ。やつが生きたことは私も忘れないし、何人かの人もそうだろう。それでいい。
 それにしてもやつの病気から死後一ヶ月の今日まで、なんだか落ち着かなくて気の抜けたような毎日が続いている。なんというか、原因不明の病気で入院して手術をぼんやりと待っているだけの入院患者みたいだ。ただ時間だけがゆっくりと、でも着実に過ぎてゆく。毎日に手応えがない。
 こんなことではいけないと思いつつ、どうにも流れが淀んでしまって動きがない。自らアクションを起こすには気力不足で、リアクションならできそうなんだけどこちらへの働きかけがまるでなくてどうにも動けないでいる。やれやれ、困ったものだ。
 とはいえ、困ったなぁと頭をかいていても話は前に進まないわけで、とにかくわずかな気力をかき集めて自分から動くしかない。とにかく移動することだ。どこでもいいから。少しでも日常からはみ出さないと。

 久しぶりの日記で何をどれくらい書いていいのかよく分からない。ペースが掴めない。勘が鈍った。
 これは明日以降書いていくことで感覚を取り戻すしかないだろう。書くことがなければビデオのことを書けばいい。それならかなり書ける。あれからまた増えて、今手持ちのビデオは12台になってしまったことだし。

 ということで、今日はこれくらいにしておこう。

                   *

 地上に住むすべての人の願いが叶うことは決してない。
 願いは常に一対になっているから、
 最大限叶ったとしても半分しか叶うことはない。
 自分が幸せになれば誰かが不幸になり、
 自分が金持ちになれば誰かがその分貧乏になる。
 自分の恋が叶えば誰かが失恋する。
 この世界が光と影で成立しているように、
 どこかで願いが叶えばその裏では願いが破れている。
 それを忘れないようにしなくてはいけない。
 無闇に自分勝手な願い事をすることは、
 同時に世界の不幸を願うことでもあるということを。


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