2002.5.3-

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 6月17日(月) 「夢の中で」

 人生は、長いまばたきの間に見る数瞬の夢だ。
 すべては一瞬に起こり、一瞬の内に終わる。
 目を閉じて、次に目を開けるまでのまばたきの間に。

 だから私たちは、この儚い出来事のすべてを感じよう。
 閉じた目を開けた瞬間、私たちは夢から覚め、目から一筋の涙が流れ、そして何もかもが終わり、何もかもが消えてしまうだろう。
 だってこれは夢なんだから……。
 
                   *
 
 言葉は、心の中に吊られた感情の鐘が揺れた時に鳴り響く心の音なのだ……。
 感情が揺れなければ心の音は響かず、言葉は生まれない。
 感情の鐘を揺らすのだ。心の音を響かせ、それを伝えるために。
 
                   *
                   *
                   *  
 
 アメリカがメキシコに勝った。しかも2-0の完勝。
 いい勝負をしてもしかしたらPKくらいで勝つかもしれないとは思ったけど、まさかあれほどきっちり勝てるとは思わなかった。
 けど、実際アメリカは強い。守備もきっちりしてるし、攻撃は速攻の形を持っている。更に選手がみんな一所懸命プレーしてるのだ。ちょっとアメリカらしくない。
 FIFAランキングでも13位なんだから強くても不思議はないのだけど(日本は32位、韓国は40位)。

 こんなに選手は頑張っているのにアメリカ国内ではほとんど盛り上がってないらしい。一体何してるんだろう?
 テレビ局に言わせると、メジャーもあるしゴルフもあるし、その他色々忙しくてサッカーなんて中継してる枠がない、ということだが、所詮アメリカにおけるサッカーの扱いとはそんなもんかもしれない。
 と思えば、サッカーの競技人口は世界一多いってんだからアメリカってのもよく分からない国だ。

 何故アメリカ人はサッカー観ることにもうひとつ関心が低いのか、今日たまたまアメリカのプロレス中継を観ててふと分かった。
 つまり、サッカーは「ショー」じゃないからアメリカ人は好きになれないに違いない、と。
 彼等が好きなものは、どれもショーもしくは演出の入り込む余地があるものに限られている。
 プロレス、アメリカンフットボール、ベースボール、バスケットボール、ボクシング、どれもショービジネスばかりだ。
 チアガールやラウンドガールがいるスポーツと言ってもいいかもしれない。
 だから、アメフトは好きでもラグビーには興味がなく、陸上はやってもマラソンは好きじゃない。テニスはしても卓球に人生を賭けたりもしない。
 そういうショービジネスになり得ないものは根っから興味がないのだ。
 オリンピックは好きでもワールドカップは関心がないというのもそういうことなんだろう。
 あるいは自分たちが世界一になる可能性のないものには興味がないフリをしているだけなのか?

 でも私はアメリカこそサッカーにもっと興味を持って、国を挙げて力を入れるべきだと思うのだ。
 サッカーくらい金持ちも貧乏人も白人も黒人も関係なくみんが平等にやれるものは他にないし、そういう点でもすごくアメリカ向きのスポーツだろう。
 スラム育ちの若者にもちゃんとコースを作ってやりさえすれば、夢も持てるし成功もできる。
 それに、もしアメリカがサッカーに本腰を入れたら、今のように世界の嫌われ者にならずに済むに違いない。
 サッカーは世界中の人がやってて、ワールドカップは世界中の人が観てるのだ。ここでアメリカ人選手が必死にプレーしたり、負けて悔し涙を流したり、アメリカ国内でも国民が夢中になって応援してる姿を世界の人たちが観たら、きっとこう思うだろう。
 ああ、アメリカ人もそんなに悪い連中じゃないんだな、と。
 
 ぜひ、近い内にサッカー好きの大統領が誕生するといい。そうすればアメリカ国内におけるサッカーの扱いも少しは上がるだろうから。

                   *

 ワールドカップは決勝リーグが始まり、強いチームが順調に勝ち進んでいる。
 明日は日本vs.トルコ戦。ぜひ勝って欲しい。
 その話は明日するとして、今日はアイルランドのことを少し書きたい。

 今大会で日本代表以外に私の胸を一番強く打ったのはアイルランドだった。
 彼等の戦いぶりを見て心が揺れた。

 ワールドカップがオリンピックと決定的に違うのは、オリンピックが国の代表であるのに対してワールドカップは民族の代表だという点だ。今回はイングランドとアイルランドが本大会に進出してきたけれど、予選ではウェールズも北アイルランドも民族代表として戦っていた。イギリス代表ではなく。
 イングランドはイングランドとして戦い、アイルランドはアイルランドとして戦った。そのそれぞれの姿に何かを感じた人は多かっただろう。
 
 アイルランドのサポーターは日本や韓国をのぞいて一番多かったというのも彼等の意気込みを感じさせる。
 だが、なんといっても、彼等の戦いぶりが心に響いた。
 どんなに強い相手にもひるまず、劣性になっても最後の最後まで決してあきらめなかった。誰も試合中怠けてなかったし、どのチームにも気持ちで負けてなかった。
 そして、もう駄目かと思ったところから粘りで追いつき、決勝リーグに進んだのだった。その一回戦、スペイン戦は結果的にはPK負けだったが、試合内容ではスペインに勝っていたと言っていいほど見事なものだった。
 きっと選手もサポーターも誇り高く戦ったことを記憶に刻み、自分たちの国に帰っていったことだろう。イギリス大英帝国へと。
 
 すべてのチームが非公開練習で戦術練習を隠す中、唯一、アイルランドだけは非公開練習を行わずすべての練習を公開したという。
 監督は言った。
「われわれには隠すことなど何もない」と。
 
 アイリッシュ魂、しかと見せてもらった。
 彼等が見せてくれたものはずっと忘れないだろう。
 ナショナリズムや愛国心などといったものは好きじゃないし、国なんてものはいずれなくなってもいいとも思ってくらいの私けど、ああいう姿を見せられるとそういうものでもないのかもしれないと思う。
 たぶん、人が他と競い合い、輝き、成長するためにはそういう境界線や属性などといったものも必要なのだろう。
 いつか、世界中から戦争がなくなり、すべての国がワールドカップに参加できる日が来るといい。
 サッカーは真に世界共通のものなのだから。

 6月14日(金) 「平和ゆえ」

 ワールドカップが始まってからというもの、どうも他のことに手も頭も回らない感じで非建設的な毎日が続いている。例外的なことやプラスアルファがない。よくない傾向だ。
 ワールドカップそのものは楽しめてるからそれは嬉しいのだけど、一日の最後に今日という日を振り返ってみた時、そこはかとない虚しさと罪悪感に襲われるのだ。
 でもまあ、なんといってもワールドカップは4年に1回のことなんだし、特に今回は日本での開催ということで勘弁してもらおうか。ひと月は短くないけど、ここはワールドカップ・マンスということでプラスアルファは来月まとめてしよう。
 もう私が生きている間二度と日本では開催されないのだから。次に日本で単独開催されるのは何十年後なんだろう?
 
 それにしても今回の予選は言うことなしの結果と内容だった。どこに出しても恥ずかしくないし、まぐれや運とも言わせない。
 H組はどこも決め手に欠いていてくじ運が良かったと言えなくもないけど、逆にいえばそれだけどこが上がれても不思議でない混戦の難しさがあった。現に一番強いと思われたロシアが予選で敗退してしまったのだ。その中の負けなしの一位だったのは胸を張っていい。思えば本当に見事な戦いっぷりだった。
 まさかここまで上手くいくとは思わなかったけど実際に上手くいったということは素直に日本代表チームを褒め称えて、私も素直に喜んでおこう。
 嬉しい。ありがとうと言いたい。
 こういう形で大勢の人を幸せな気持ちにさせることができるというのは素敵なことだ。
 
 ゴールシーンを再現したアニメのサイトがあるけど、これがけっこうよくできていて面白い。
 
 
 4年後はおそらくインターネットでワールドカップの試合やダイジェストをリアルタイム配信して、普通にそれを観てると思うけど、今はまだこれで楽しんでおこう。
 4年後のワールドカップを取り巻く環境ってどうなってるんだろう。
 果たして自分は平和の中で観られるのだろうか?
 
                   *
 
 ワールドカップが盛り上がる中、世間では当然のことながらいつもと変わりなくいろんな出来事が起こっている。
 来週にもムネオは逮捕されるのではないかとか、東山紀之がテレ朝の武内アナとつき合ってるとか、川原亜矢子と室伏広治のカップルはどうなんだとか、とよた真帆が青山真治監督と結婚するとか。
 あと、笑ったのがウルトラマンコスモ逮捕、という記事だ。
 実際はウルトラマンコスモの主演男優が恐喝と暴行で逮捕された過去が発覚して番組が打ち切りになったということなのだけど、正義の味方が恐喝しちゃいけないだろう。
 まあしかし、世間は概ね平和と言える。平和じゃなきゃワールドカップなんてものはやってられないわけだし。
 こういう世界的なイベントがあると、平和のありがたさを思い出す。
 戦争なんかしててもいいことは何もない。

                   *

 ワールドカップについて書いてたら、ふと、何かの小説の中の母親と息子のこんなやりとりを思い出した。
「母さん、僕もそろそろ引退なんだからたまには試合を観にきてよ。息子の活躍してる姿を見たくないの?」
「私はイヤだよ。30すぎた息子が半ズボンはいて球蹴りしてるなんて、恥ずかしくて人に言えやしない!」
 なんの小説だったか忘れてしまったけど、確か外国のミステリだったんじゃないだろうか。あれは笑った。
 そういえば稲本のじいさんもなかなか面白い。
「あんな頭して。昔じゃ恥ずかしくて世間に顔向けできねえぞ」とかなんとか言っていた。
 前回はゴン中山のオヤジ儀助さんが思わず人気者になったが、今回は稲本のじいちゃんがニュー・ヒーローになるかもしれない。
「おじいちゃん、稲本選手に似てますね!」
「ばかやろう。オレがあいつに似てるんじゃねえ。あいつがオレに似てるんだ。オレの方が先だ」
 
 なんだか芸能ネタから話が大きくそれてしまった。
 ま、いいか。
 
                   *
 
 ドラマ「夢のカリフォルニア」は、どうも私の好きじゃない展開に流れつつある。なんだかありふれた青春ドラマの様相を呈してきて面白くない。新鮮な驚きがない。最初の出だしはかなり期待させたのに、残り2回ではもう新たな展開は期待できそうにない。
 岡田恵和、失速か?
 
「しあわせのシッポ」はとうとう最後まで面白くないまま終わりを迎えそうだ。これはちょっといただけなかった。脚本にも面白みがないし、キャストも弱すぎた。
 いいのはEvery Little Thingの主題歌くらいだ。
 
「眠れぬ夜を抱いて」は、前回やや停滞気味だったけど、これはラストにかけて期待できる。どんな結末にもっていくのか。脚本家の腕の見せ所だ。期待しよう。
 
「ビッグマネー」は少し重たくなりすぎだ。面白くて好きだけど、長瀬くんがどんどん暗くなってしまっていけない。植木等まで。
 ただ基本にある勧善懲悪パターンは気持ちいい。最後はスカッとさせてくれそうだ。
 あと、上手いと思ったのは、八千草薫のキャラ設定と植木等の関係性だ。あの部分を描くことで株というマネーゲームに人間性を絡めることに成功している。あそこをもし切り捨ててしまっていたらこのドラマはもっと薄っぺらなものになっていたに違いない。
 
                   *
 
 オークションでまとめ買いしたビデオテープの中に「セーラームーン」が入っていたので、せっかくだからちょっと観てみたらこれが侮れない面白さなのだ。いや、ホントに。
 主題歌が何故か短調なのもいい。そんな内容じゃないのに。
 一番のお気に入りがセーラー・ヴィーナスだ。
 何かいいことを言おうとしてことわざを引用するのだけど、これが必ず間違っているのだ。
「春眠、赤土を耕す」とか、「急がば踊れ」とか、「待てばカイロもあったまる」とか、「明日は明日の風邪をひく」など。
 他にも「河童の腹下し」や、「福すけがお盆に帰ってくるとか来ないとか……」、「猫に今晩お邪魔します」、「あんずより梅が安い」、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬戸物もあれ」など、そのキャラと相まって笑わせてくれる。
「腐ってもマイク・タイソン」とも言っていた。
 もしテレビの再放送をしてるのを見かけたら、セーラー・ヴィーナスをよろしくお願いします(誰に頼んでるんだ)。
 
                   *

 よく眠れて、ご飯が美味しくて、気分の調子が良くて、毎日に楽しみがあれば、まずはそれで納得しないといけないだろう。
 確かに足りないものはたくさん。大事なものもいくつか決定的に不足している。でも、それはそれ、毎日は毎日と、分けて考えていいんだと思う。楽しめているのに足りないものを思い出して楽しめなくなってしまうのもばかばかしい。
 明日も楽しい一日になるだろう。

 6月13日(木) 「思考と言葉の距離」

 幻想がこの世界の半分を支え、現実がもう半分を支えている。
 どちらか一方ではこの世界を支えることはできない。どちらも同じくらい重要なのだ。
 
 世界は光と影から成り立っている。
 半分は昼で、半分は夜だ。
 人間にとっても他の生き物にとっても昼と夜は両方必要だから。
 
 相反する二つの要素でこの世界は成り立っていて、人もまた例外ではない。存在そのものが矛盾を抱え、相反する要素を必要としている。
 
 二元論ですべてが説明できるほど世界は単純ではないけど、二元論抜きにこの世界は語れない。
 光と闇、表と裏、内と外、静と動、聖と俗、清と濁、愛と増、勝と負、明と暗、真と偽、有と無……。
 すべての要素は対になる要素を必ず持っている。単独では成立しないから。
 どちらか片方だけを否定するのは不可能だし、馬鹿げている。
 幻想を否定することはできない。
 
                   *
 
 最近この断想日記が飛びとびになっている。だいぶ怠け癖がついてしまったようだ。
 でもそれだけじゃない気がしている。
 書くことがないのだ。
 何故なら、去年、一昨年と比べて、思考と言葉の距離が段々近づいてるから、わざわざ文章にして思考や感情を自分に説明してやる必要がなくなったから。
 頭の中ですでに整理されてしまっている思考を文章にするのは面倒なのだ。清書のように。だから最近あまり書けない。書く気がしない。
 自分用の覚え書きはノートに毎日書いているけど、この断想日記は行動記録ではないから。
 まあ、もっと自由に頭に浮かんだことを書けばいいんだけど、それにしても最近書くことが見つからない。
 あるいは、ただ単に生きることを怠けているからなのか?
 たぶんそうなのかもしれない。だとしたら問題だ。
 便りがないのが良い便りと言うけれど、日記に書くことがないのは決していい傾向ではないから。それじゃあまるで会話のない夫婦みたいだ。
 やっぱり明日からもっとちゃんと怠けずに書こう。何もなければ芸能ネタでもテレビの話題でもいい。無言よりはましだから。
 
                   *
 
 ということでさっそく芸能ネタ、テレビネタから(早くもか!?)。
 
 ナンシー関、死亡。39歳。
 人のことをあまり悪く言うのはやめよう、とあらためて思った。
 悪口を言い過ぎると死んだあとも悪口言われそうだから。
 
 村田英雄も死んでしまった。
 最後かなり粘ったようだけどついに力尽きたか。
 73歳というのは今の時代ならまだ若い。
 うちのばあちゃんは大丈夫だろうか。
 
 松たか子主演で『東京物語』がドラマになるらしい。
 どうやってもオリジナルを超えられるわけはないけど、さて、どんなドラマになるのか。
 まだ原節子は鎌倉でひっそり暮らしているんだろうか。
 サリンジャーもまだ生きているのか?
 
 幻覚キノコを持っていた男が逮捕。
「キノコ狩り同盟」に暗雲か!?
 
 うん、これはいいかもしれない。書くネタに困った時は芸能ニュースから適当に話題を拾ってお茶を濁すというのはなかなかいい手だぞ。前にやってた「今日は何の日だっけ?」に続いてこれは使える。
 明日からちょっと実験的にやってみよう。
「ワタシ的芸能ニュース」とでも名付けようか。
 
                   *
 
 ドラマもそろそろ終盤に向かっているけど、内容以外で気に入っているオープニングとエンディングの映像がある。
 ひとつは、「ウェディングプランナー」のオープニング。
 あれはいい。主題歌もいいけど、映像の中の出演者みんなの表情がとてもいい。みんながそれぞれ魅力的に見える。わずかにスローにすることでドラマチックな効果を持たせることに成功してる。思い出のワンシーンのように。
 もうひとつが、「ビッグマネー」のラストだ。これも悪くない。
 あのポラロイド写真がいい。上手い手法だ。それぞれの日常のヒトコマを切り取ることで愛しくて切なくて懐かしい感じを与える。卒業アルバムのように。
 それにしても松田聖子の娘の声や歌い方はお母さんにそっくりだ。最初びっくりした。母娘ってあんなにも似るもんだろうか。
 あと、「眠れぬ夜を抱いて」のオープニングも好きだ。変化していく風景を超高速で連続的に重ねることで時間の変化や多くの要素を短い時間の中で表現している。センスがいい。
 
 ドラマとは関係ないけど、もうひとつ良かったものを思い出した。
 PS2のゲームで「ラブストーリー」というとってもへなちょこなゲームがあるんだけど、それのエンディングの写真が抜群に良かった。ゲームの内容はちょっと悲しいほどポンコツなんだけど、あのラストを見るためだけにクリアする価値はある。
 出演者のポートレイトがどれもみんなすごくいい表情をしてるのだ。テクニックではなくて、きっとカメラマンの人柄や被写体とカメラマンとの相性がよかったんだと思うけど。
 これ上手いなぁと、とっても感心したのだった。
 ホント、どれもいい写真なんで機会があればぜひ。
 
                   *

 清水義範の『大名古屋辞書』を読んで、自分のしゃべりがいかに深刻に名古屋弁化してしまっているかをあらためて思い知った。
 
 たとえば「たわけ」。
 そういえばこれは使うことがある。それほど頻繁ではないけど確かに使う。
 東京の「ばか」とも大阪弁の「アホ」とも微妙に違うニュアンスの言葉で、ほとんど愛情はこもっていない。
 最上級は「クソたわけ」で、これがたぶん名古屋弁の最大のののしり言葉だろう。
「アホ」に近いとなると「トロい」だろうか。誰かを見て「トロ〜」と言ったりするが刺身のトロとは関係ない。
 
「あらすか」、「いかすか」も普通に使うけどこれも他の県の人には通用しない言葉かもしれない。
「ないに決まってる」、「ダメに決まってる」という意味なのだけど。
 
「なぶる」というのが名古屋弁という自覚もなかった。
 何かを手で触ったり手に取ったりすることを「なぶる」という。
 車の助手席であちこち触ったりするやつには「ちょお、あんまりなぶるなて」などという使い方をする。
 
「く」と「ければ」を名古屋人は完全に省略する、というのもまったく気づいていなかった。言われてみれば私も話し言葉の中で「く」は言わない。
「短くなる」→「短なる」
「早くなる」→「早なる」
「遅くなる」→「遅なる」
 といったように。
 同じように「ければ」も省略されてしまうというのだ。
「見なければわからない」→「見んとわからん」
「行かなくて話にならない」→「行かな話にならん」
 うーむ、本当だ。確かに「ければ」は言ってないや。
「忙しければいいよ」は「忙しかったらいいよ」になるものなぁ。
 
 行動としてちょっと驚いたのが「名古屋人は開店の花や葬式の花をタダだからというんでもらっていく」というやつだ。
 これって普通のことじゃないのかぁ? 誰もがする当たり前の行為だと思ってた……。
 
 コーヒーチケットも名古屋の文化というのは知らなかった。
 名古屋では行きつけの喫茶店では、コーヒー10杯分の値段で11枚つづりのチケットをみんな買って、それをレジのとなりのボードなどに貼り付けておき、それでコーヒーを飲むのだ。
 コーヒーを頼むと小皿にピーナッツが出てくることがおかしなことだというのはごく最近知ったのだけど、チケットまで名古屋文化だったとは。
 けど、コーヒーにピーナッツは当然だろう(うん、間違いない)。
 
 名古屋の「御三家」は何か?
「名鉄」、「東海銀行」、「中日新聞」というのは笑った。確かにそうだ。この3つは名古屋では王様状態で、この3つに逆らったら名古屋では生きていけない。
 
 まだまだ名古屋も知らないことが多いなぁ。
 というか、やっぱり名古屋ってどこかヘン。どことは指摘できないんだけど、どこかがヘンなのだ。
 面白いからいいけど。
 
                   *
 
 さて、明日はワールドカップ予選、日本vs.チュニジアだ。
 内容はどうでもいいからとにかく勝つことが大事。代表選手にとってもだけど、日本全体にとっても、私にとっても。
 勝って決勝リーグまで進んでくれればとりあえず言うことはない。明日からしばらくは気持ちよく過ごせるだろう。

 6月8日(土) 「恋心不足の平和な日々」

 最近、書くことが必要ない毎日を過ごしている。平和だ。
 書くという行為は酒を飲む行為に似ている。人は好きで飲んでると言い、好きで書いているんだと言う。でも、酒を飲むことも書くことも、生きていく上で絶対に必要な行為ではない。食事をしたり息をしたりといった行為とは違う。書いたり飲んだりするにはそれなりの理由と必然性があるはずだ。
 では何故人は酒を飲み、書くのか?
 それは、心の中に何らかの負の要素を抱えてるからだ。その負の要素と闘ったり、あるいは逃げたりするために人は酒を飲み、ものを書くように私には思える。そう言い切ってしまうのは乱暴だろうか?
 でも、私に限って言えば、書かなくてはいられなかった時よりも書かなくてもいい今の方が心が平和なことは確かだ。
 そういう意味では、今の私は酒を絶った人間に少し似ている。少なくとも書くことに依存してはいない。
 書かないですめばそれに越したことはない。
 
 などと書いてはみたものの、それよりも刺激不足の方が大きいような気もする。どこか知らない街へ行ったり、新しい出会いがあったり、新しい何かを始めたなら、当たり前にようにそのことについて書きたいと思うだろう。それは別に心の中の負の要素が書かせるものでもない。
 やはり刺激不足、イメージ不足、充実感不足が私に書かせないのだろう。
 今はあれこれ足りないものが多すぎる。時間が足りるようになったら楽しさが足りなくなってしまった。時間さえもっとあればもっと楽しいはずと思っていたのに。
 しかし何が足りないって、一番足りないのは恋心だ。決定的に不足してしまっている。
 
                   *
 
 ひたすらたまったビデオを消化しつつ、同時に最近ふとした気の迷いで買ったゲームボーイアドバンスで「スーパーロボット大戦A」をやっている。なんと自堕落な。けど、始めたら止まらなくなる。体に悪いと知りながらジャンクフードをひたすら食べ続けてしまうように。
 
 携帯ゲーム機というのは、中学生の大昔、当時大流行したゲームウォッチをやって以来だ。あれは子供がやるもの、と思い込んでいて今までまったくやろうとも思わなかった。けど、やってみるとこれが思いもよらず楽しいのだ。テレビゲームともPCゲームとも違う独特の面白さがある。どうりで子供たちが夢中になるはずだ。
 何よりも準備なしにパッとスイッチを入れてすぐに始められて、いつでもセーブしてすぐにやめられるのがいい。これはテレビのモニターに向かってやるのと決定的に違っている。しかも、思っている以上に差がある。別の行為と言ってもいいくらい。
 携帯ゲーム機は外で遊ぶためだけのものではなく、家の中でやっても充分面白いものだ。
 いやはや、こんな楽しめるものだとは知らなかった。
 大人でも自分で買ってやってみる価値はあるし、子供がいる人なら子供から奪い取ってやってみるといい。
 ただし、大の大人が小さな携帯ゲーム機を両手に抱えて夢中になってやってる姿はちょっと恥ずかしいものがあるので注意が必要だ。大人としての威厳を失いかねない。
 
 携帯ゲーム機についてもう少し。
 ゲームボーイアドバンスを買う前にワンダースワンカラーを買ってみたのだけど、これはかなりつらいものがあった。何しろ液晶画面がものすごく暗いのだ。あまりにも暗いので最初故障してるのかと思ったほどだった。暗い、暗いとは噂に聞いてたけど、これは聞きしにまさる暗さだ。
 何しろ液晶画面は、バックライトのない反射型FSTN液晶(TFT液晶でさえない)で、光のないところではゲームはできないときてる。暗いところでプレイするのは、暗闇でサンコンさん相手にだるまさんがころんだで勝つよりも難しい。
 じゃあ光さえあれば快適かといえばそんなことはなく、部屋の中の蛍光灯くらいではかなり見づらい。白色光の下でやってなんとか我慢できるという程度だ。
 まあ慣れてくればこんなもんだと馴染んでしまうんだろうけど、それにしてもこれは暗すぎると思う。
 そんなユーザーの文句を受けてだろう、今度7月にTFT液晶にグレードアップしたスワンクリスタルというのが出るらしいが、バックライトじゃない以上それほど期待はできないだろう。
 ではバックライトにすればいいではないかと思うだろうけど、そうすると今度は電池の問題が出てきてしまうのだ。デジカメがそうであるように、バックライトの液晶で電池式となると単3電池2本程度ではあっという間に電池切れになってしまう。
 バックライトに挑戦したゲームギアという携帯ゲーム機がかつて発売されたことがあったが、あれなど単3電池6本で2時間しか持たないという地獄のようなことになってしまったらしい。
 単3電池2本100円としても、毎日4時間遊んだら、電池代だけで毎日600円もかかってしまうではないか。なんてこった。さすが、セガ。
 というわけで、ワンダースワンカラーでは不満いっぱいだった私はすぐさまゲームボーイアドバンスに乗り換えたのだった。
 ゲームボーイアドバンスも液晶は暗い。これもTFTとはいえ、反射式なので光がないとゲームはできない。ただ、同時発色数がワンダースワンカラーよりも多いこともあって、割と見やすい。明るいところなら部屋の中でもなんとかゲームに集中できる程度の画面ではある。
 ライトボーイアドバンスという本体に取り付けて画面を照らすライトも買ってみたのだが、これはあまり役には立たない。とりあえず画面は照らすものの、光がまだらだし、画面の上の方に致命的な影を作ってしまうのでかえって見づらくなってしまうのだ。これは使えない。
 
 そんなわけで、今ゲームボーイアドバンスを気に入ってこれで遊んでいる。生活の中のすき間時間を埋めてくれる道具としてなかなか役に立ってくれている。
「逆転裁判」、「トルネコ」、「ファイアーエムブレム」など、面白そうなソフトもあるし、しばらくは楽しませてくれそうだ。
 
                   *
 
 本や映画のこともまとめて書いてしまおう。
 
 本はここ数年、ずっと読めない時期が続いていたのだけど、今年に入って少しずつまた読めるようになってきた。時間よりも気分の問題として。
 昔のように一日200ページというわけにはいかないけど、一日の中で決まった時間を作って少しずつでも読んでいこう。
 
 隆慶一郎『影武者徳川家康』
 関ヶ原の合戦で家康は討ち死にして、その後影武者が徳川家康に成り代わって江戸幕府を開いた、といった内容なのだが、これが抜群に面白い。説得力もある。
 確かに徳川家康には何か違和感というか、謎めいたところがあって、とらえ所がないのだけど、ある時期から影武者に入れ替わったとなると納得できる部分も多い。
 小説の中でも色々資料などを持ち出して説明したり、仮説を立てたりしてるけど、読んでいくとこれは充分あり得る話だと思えてくる。
 小説としても、歴史の勉強としても楽しめる作品になってておすすめしたい。
 
 原田宗典『こんなもの買った』、『すんごくスバラ式世界』
 ムネムネのエッセイはいつでも笑える。時々大笑いする。人がいるところで読むのは危険だ。
 少し疲れた時に読むと肩の力がふっと抜けていい。
 しかし、すごく記憶力がいい。子供の頃のことをこんなにもはっきり覚えてるなんて。
 
 樋口有介『八月の舟』
 面白くない。どうしたことか。私の趣味が変わってしまったのか、樋口有介の力が落ちたのか。
 大好きな作家の作品が詰まらないとなんだか不安になる。自分が駄目になってしまった気がして。
 でも実際はどうなんだろう? 自分が変わって面白くなくなってしまったのだとしたら、それは成長したと喜ぶべきなのだろうか?
 もし今『ぼくとぼくらの夏』を読んだら面白く感じられないのだろうか? だとしたらなんだかちょっと寂しいな。
 
 宮部みゆき『震える岩』
 安定した面白さがある。ミステリだけじゃなく時代小説も上手い。
 面白さ、上手さ、テーマ性、ほどよい軽さ、文章……今小説家で宮部みゆきが一番トータルバランスの取れた作家なのかもしれない。
 
 山田風太郎『秀吉妖話帖』
 山田風太郎は決してキワモノ作家ではない。ある意味正統派と言ってもいい。
 歴史小説のパロディと思われがちだけど、実際読んでみるとすごくしっかり書かれていて、しかも面白い。文章も上手い。
 
 清水義範『笑説 大名古屋語辞典』
 名古屋人必読の名古屋語辞典。
 名古屋人ならほぼすべてのページでうなずいてしまうだろう。
 当たり前だと思ってたことが実は当たり前ではないということも知るだろう。
 
                   *
 
 映画のことも書こうと思ったけど、時間切れになったのでまた今度にしよう。
 映画館はここのところ休んでいるけど、ビデオとテレビはけっこう観てる。ドラマとワールドカップのすき間に時間を見つけて。
 
 明日は日本対ロシア戦だ。まずはいい試合を観たい。勝てば言うことなし。でも実際は引き分けがいいところかな。

 6月3日(月) 「空白を探して」

 最近、心の中の不調が成熟してきてしまって、視界がとても悪い。進むべき道が見えない。
 たちの悪い雑草がぼうぼうに生えて身動きが取れないみたいだ。
 その中をかき分けかき分け進むのだけど、いっこうに視界が開けない。それどころか、ますます不調の深い森に迷い込んでしまっている気がする。本当にこの道でいいのか? 方向は間違ってないのか?
 人生のコンパスをなくしてしまった今、勘と感覚だけを頼りに、このままとりあえず進むしかない。まだ行き止まりではなく、明日という日をなくしてはいないのだから。
 
                   *
 
 幸福は必ず終わるものだ。もしくは形を変える。
 でも、終わったことを悲しむのは違う気がする。
 たとえば、幸福はコップに入ったジュースのようなものだ。飲み干したらお終いだけど、なくなるのを恐れて飲まなければ味わうことができない。
 幸福が終わったことを悲しむのはやめて、幸福だったことを喜びたい。
 喉が渇いたらまたもう一杯コップに注げばいい。別の味のジュースを。
 
                   *
 
 神を信じないことと感謝しないことはイコールでは決してない。
 神は信じなくてもいいから感謝する心だけはなくさないようにしないと、人としての道を見失ってしまう。
 神というのは分かりやすくするための象徴にすぎない。大切なのは、信仰ではなく、心の在り方だ。
 神がいてもいなくても、神に媚びを売ればなんとかなるってもんじゃない。
 身近な人から見えない人まで、思いつく限りの人に感謝しても罰は当たらない。

                   *

 次の世界はある、と私は思う。いや、なければおかしい。当然あるべきだ。
 人生で学んだことを活かせないなんてことがあっていいはずがないから。
 学校で学ぶのは社会に出てから勉強したことを役立てるためだろう。だったら社会で学んだことを活かせる次の場があってしかるべきだ。学ぶだけでは意味がない。
 もしないのなら今からでも作るべきだ。人生で学んだことを活かせる次の世界を。
 私が死んで、次に何もなければ私は怒るだろう。そんな馬鹿なと思う。何のために苦労して、つらい思いをして生きてきたのか分からないではないか、と関係者に訴える。死んでしまって自分の存在が消滅してしまえば訴えるも何もないんだけど、それでも一瞬で天の関係者に文句を言わずにはいられない。
 私は天国でのんびり休みたいわけじゃない。もっと自分を高めて、世界の役に立ちたいだけだ。そのためには場が必要だ。次に生まれ変わるための準備として地獄行きを命じられたら、喜んで行こう。
 とにかくここまで育ててきた自分の存在を消してしまいたくない。だから次の世界がどうしてもいるのだ。
 あるいは、この世界は、落第者をふるい落とすための試験だというのか? それならそれで納得はできるのだけど。
 せいぜい落第しないように頑張らないと。

                   *

 地球の主張にもう少し耳を傾けてもいい。地球は確かに生きていて、私たち生き物を生かし、そして自らの意志を持っている。時には大きな声で主張もする。
 波の音や、川のせせらぎ、雨音や、街路樹の葉音や、風のざわめきや、雷鳴などに思いを乗せているのだろう。
 時に叫び、歌い、語りかけ、ささやいている。休むことなく。
 色を変え、形を変え、匂いを発し、温度を変化させ、季節を巡らす。
 私たちは、地球の命をもっと強く五感で感じないといけないんじゃないか。自然から遠い場所で生きている今だからこそ、もっと毎日の暮らしの中で意識的に。
 もし、もっと地球を感じながら生きることができたなら、人はこの進んだ人工社会の中でも、人間性の良い部分で生きていけるだろう。大切なことを自然から学びながら。
 やがて、もっと自然が破壊され、地球の声が聞こえなくなった時、人は嫌でもそのことに気づくだろう。けど、それより早く今この時に感じたい。失ってしまってから気づいては遅すぎるのだから。

                   *

 人は、自らのエゴと幸福感を満足させるために、より賢くならなければならない。小賢しさではなく、大いなる知恵を獲得しなければ。
 もはや善良なだけでは幸福は得られない。平和な社会では人は満足できない。
 より進化した世界で、私たち自身が進化を遂げて、その上で、より高度な幸福感を得る道を探す必要がある。
 この先の世界では、過去の偉人程度の人間性では幸福になれないだろう。
 
 人々を成長、進歩させるためには、それはもう教育以外にない。しかもそれは与える教育ではなく、実践してみせる教育だ。本人を覚醒させて、自らが高める必要がある。押しつけの教育では進歩速度が遅すぎるから。
 たとえば、一人の偉人の生き様が世界中の人々の人間性を大きく引き上げる。そういうことだ。あるいは、新発見や新発明でもいい。
 重要なのは、共有することだ。知識や知恵や体験や情報や人生や偉大さを。
 
 この地球における人類が、自ら満足できるほど賢くなるまでにはどれくらいの年月が必要だろう? 50年か、100年か、1,000年か、もっとか?
 いや、実はそれほど遠い未来でもないような気もしている。キーは情報の共有だ。
 テレビの映像も画期的だったがインターネットというのはそれ以上のものになるだろう。すべての情報が同時に地球上の各地に流れ、あるいはすべての情報が一ヶ所に集まる。これはある意味では絶対に必要なことだ。地球人が賢くなるための最低条件と言ってもいい。
 インターネット網が世界中に張り巡らされた、全員が同じリアルタイムを生きるようになった時、人類は次の段階へ向けて大きな第一歩を踏み出すことになるだろう。そうなれば後は一気に加速する。
 一人の偉人の偉大さを他の全員がリアルタイムに共有することさえできるようになるだろうから。かつて人類が歴史の中から学んだことを、同時代に生きながら学ぶことができるのだ。これは思っている以上に決定的なことに違いない。
 
 私は未来に決して絶望していない。世界が悪くなってるとも思わないし、人間が凶悪になってるとも感じていない。人類はいつでも野蛮で愚かで美しくて、そして大いなる可能性を持っていた。それは昔も今も変わってない。
 人間は一方的にどんどん良くなっていっていると私は思っている。可能性をつぶしながら、時に引き返しながらだけど、それでも着実に前に進んでいる。失敗も無駄ではない。
 世界と人類の結末がどうなるのかは分からないけど、今現在、人は正しい方向に向かっていることだけは確かだと思う。過去のすべては必然だった。人は進むべき方に進んでいる。
 私が人間を絶対的に肯定するのは、一にも二にも大いなる可能性を持っているからに他ならない。そう、この可能性が鍵なのだ。可能性だけが人間を罪から救い、その存在を否定できないものにしている。
 人間は、好むと好まざるとにかかわらずその可能性の限界まで進むことになるだろう。そして、限界はまだまだ先だ。もっともっと良くなるし、賢くもなるし、幸福にもなれる。
 可能性があるうちは可能性を追求するのが私たちにかせられた役割だろう。
 私もまた、その中の一人として、自分の可能性を探していくことになる。
 願わくば、人類の可能性の空白をほんの一部でも埋められたらいいなと思う。まだ地図に描かれてない場所を歩きたい。

 5月29日(水) 「長い夜の向こうの晴れた空」

 過去があって、今があって、未来があるんじゃない。それは考え方が違う。
 正しくは、過去があって、未来があって、今があるのだ。
 私たちは未来があることを前提に今を生きてるのだから。
 自分の人生のことだけじゃなく、この世界に生きる命として。
 こちら側から未来を見るだけではなく、未来の側から今を見ないと、今も未来も見失ってしまうことになる。
 こっちから見て、向こうから見て、もう一度こっちに帰ってこないといけない。
 時間は後ろから前に向かって一方通行で進むものだけど、人の意識まで一方通行である必要はない。
 より良い未来のための今日を生きなければ。
 
                   *
 
 懐かしい、という感覚がこれほど麻薬的に心地よいものだとは思わなかった。
 思い出に浸る大人を少年の私は憐れんでいたけれど、思い出がこんなにいいもんなら当然のことだ。
 それに、思い出に浸ることと後ろ向きなことは同じではない。いい思い出があるから、もっといい思い出を作るために前向きになれるということもある。
 思い出は敗者を慰めるためのものじゃない。
 明日を生きるためのエネルギーになるものだ。

                   *

 ありがとう、という言葉は、時に残酷だ。
 ありがとうとしか言えない場面があり、それに対して何も言えないことがある。
 そんな残酷なありがとうをあなたは聞いたことがあるだろうか?
 それとも、言ったことがあるだろうか?
 ありがとうという言葉は美しく。美しいものは例外なく残酷だ。
 
                   *

 今の自分が行ける場所を探して見つけるしかない。
 この道はあの日から続いている道ではないのかもしれない。
 途切れた道でも、この先があるなら、進むしかない。
 すべての道は曲がっていて、すべての道は行き止まりだ。
 私たちの旅は、もしかしたら、行き止まりを見つけるための旅なのかもしれない。
 私たちを惑わせ、苦しめる希望から逃れるために。

                   *

 この頃心の動きが本当におかしい。鈍くなったというよりも動作がおかしい感じだ。どこかが壊れてしまったのか。
 とにかく心が動かない。悪い意味で。
 故障の原因や故障個所の特定を急がないといけないのだけど、金属疲労のようなものというよりもむしろ、単純なメカニカルトラブルのような感じだ。どこかのネジが飛んでしまったのか。

                   *

 当然と当然じゃないことの区別が最近どうも分からない。
 当たり前の基準なんて、これまではいつでも自分の中にあってその判断で迷ったことなんてなかったのに、今それが分からない。
 当然しなくてはいけないこと、当然してはいけないこと、当然やるべきこと。そんなことを考えると判断停止になってしまう。
 もちろん、当然の絶対的な基準なんてものはないのだけれど、感覚的な麻痺感自体が大いに問題だ。
 絶対音感を持っていた人間がある時を境にそれを失ってしまったような不安感に今の私は陥ってしまっている。
 バランス感覚も何かおかしい。

                   *

 今は人生の大事な時じゃない、たぶん。
 だから今やるべきことは、投げやりにならないで、この時を未来につなげることだ。
 とにかく生き延びること。そうすれば今の状況の理由や意味も分かるだろうし、今を未来にいかすこともできるだろう。
 悩みとか間違いとか失敗とかスランプなどのネガティブな体験は、将来必ず役に立つものだ。生きてさえいれば。

                   *

 いくつもの長い夜を超えて、この先で待つものは何なのだろう。
 なんだかだんだん望みが小さくなっていくようだけど、いつか、からりと晴れた空の下で心の底から笑えるといいなと思う。
 
 5月26日(日) 「覚え書き的断片日記」

 伊藤俊人、40歳、くも膜下出血で死亡。
 こういう死は疲れてしまうから嫌だ。
 死はありふれたものだけど、この死は思いの外私にダメージを与えた。
 つい最近まで元気な姿を見ていたからよけいにそう感じたのだろう。
 40歳といえば満更他人事でもない。

                   *

 F1モナコグランプリは予想通り盛り上がらなかった。
 今のF1には私の心を熱くするものが何もない。
 ドラマもなく、感動もなく、悲劇さえない。

 在りし日のアイルトン・セナの映像を見てふいに泣きそうになった。もう遠い過去になったのに。
 私のF1はセナの死と共に終わってしまったのか?

                   *

 K-1のレ・バンナvs.ハントはK-1の歴史に残る名勝負だった。
 k-1が続く限り、ファンの間で語り継がれることになるだろう。
 ただ、私がK-1に対してボクシングほど思い入れられないのは、K-1には悲劇性がほとんどないからだろう。K-1ファイターはボクサーほど失うものが大きくない。ボクサーは負ければ終わりだけど、K-1ファイターが負けて失うのは自分のプライドや周りの評価くらいのものだ。
 ゲスト解説でアイドルタレントが騒いでいるのもK-1から悲劇性を奪い、ショーにしてしまっている気がする。
 別にスポーツが必ずしも悲劇的ある必要はないのだけれど。

                   *

 ダービーのタニノギムレット/武豊の勝利は、なんだかちょっと嬉しかった。一番人気だったし、当然といえば当然の結果だったんだけど、なんかよかった。
 レースの直後、突然激しく降り始めた雨は、誰かの涙雨だったのか、それともうれし涙だったのか?

                   *

 猫ページをようやく作り始める。作ると言ってからどれくらい経っただろう。
 けど、全然できてない。ようやく作り始めたというだけだ。スペイン人の工事並みに作業が遅い。
 なんとか夏までには仕上げよう。
 まだレイアウトと配色のイメージが浮かばない。今後の拡張を考えて作らないといけないし、表紙とあまりにもかけ離れたものはよくない。ページ構成もどうしようか。
 せっかく作るからには石川ミーの魅力を余すところなく伝える決定版にしたいとも思う。あちこちで断片的に書いたものを全部まとめて書いて、写真も使えるものは全部使う。その上で、この先の記録としても使えるページにしないと。
 写真を中心にしたアルバム形式がやっぱりいいだろうか。
 それとも、文章中心にして写真をそれに添える形がいいか。
 まあ、ぼちぼちやろう。

                   *

 この週末は案の定イメージ不足で動きが鈍かった。
 ただ、思ったのだけど、今はまだリハビリの途中なのかもしれない。
 去年、大きな目標を二つなくしてしまって、いまだにその後遺症から抜け出せないでいるのだ。今日そのことに気づいた。
 そう考えると今の自分の姿や状態はある程度仕方ないかなと思う。なくしたものはそれだけ大きかった。

 新しい目標を見つけるまではもう少し時間がかかるかもしれない。
 それとも、明日あたりふいに見つかったりするのだろうか?
 物語の始まりはいつも突然だから。
 だったら嬉しいな。

 5月25日(土) 「ルールの範囲内で」

 表現を試みているだけ。
 泣き言を言ったり嘆いたりしてみせて誰かに何かを訴えたいわけじゃない。
 正体不明のものに名前を付けるように、ぼんやりした感情や思考をはっきり形にすることが私のしようとしていることだ。
 日記を書くという行為は、ラブレターを書くのに少し似ているかもしれない。

                   *

 どうしようもなく白けていってしまう自分の心を押しとどめるのがだんだん難しくなる。
 白け心がどんどん加速していってブレーキが効かない。
 このままどこかにぶつかるまでスピードを上げていってしまうのだろうか。
 少々痛い目に合わないと駄目なような気もするから、それならそれでいいのかもしれない。

 怠け心と投げやりな気持ちってのはちょっと違う。
 部分放棄の怠け心に対して、投げやりな気持ちってのは全放棄だから。今の私は何もかも放り出したい衝動と毎日闘っている。とても投げやりな感じに支配されてしまって、自分ではどうしようもない。かといって誰かにどうにかしてもらえるものでもなく、まったくもって困ってしまう。解決方法を考えるのも邪魔くさい。
 
 昔の私は、自分のことを過大評価も過小評価もしてなかった。駄目な部分は駄目だと分かっていたし、自分で認めているところはちゃんと認めていた。
 でも、今は完全に自分に対する評価を見失ってしまっている。客観的判断も、主観的判断も。
 これまで生きてきた中で、今、一番自分のことが分からない。
 基準となる自分が判断できないのだから、当然世界についても分からなくなってしまった。
 今世界で起こっている出来事の意味がまるで分からないのだ。良いことも悪いことも、美しいことも間抜けなことも、人々の行為や生き様の意味も。。
 みんな何してるんだろう、などと思ってしまう。 
 
 単純に楽しいことに身を委ねてしまえばいいのか? それが正解なのか?
 幸せになることが正しい人生で、幸福になった人間が勝者なのか?
 月並みな問いの答えが見えなくなっている。二度、三度と見つけたはずのものをまた見失ってしまった。
 人は人生で何度も見失うものだけれど、それにしても私はちょっと見失いすぎのような気がする。
 ただ、見失うというのは必ずしも悪いことではない。i見つけたから見失うことができるわけで、何も見つけなければ何も見失わないのだから。恋をしたことがない人間が失恋することがないように。
 だから、見失ってしまった中身も、見失ってしまったという現実も、それほど嘆くべきことではないだろう。また見つければいい。
 けど、今現在私が何もかも見失ってしまっていることだけは確かだ。

 あるいは、人は役割を演じることに精一杯努力すればいいのか?
 精一杯生きればそれが正しさへつながるのか?
 みんなのように私も生きればいいんだろうか? 

 ただ、一つ言えるとは、この世界のルールに従い、この世界の制約の中で答えを見つけなくてはいけないということだ。
 俳句を作るなら、五七五の制約の中で優れたものを作らなければ意味がないように。
 となると、「この世界は無意味だ」とか「人生は虚しい」といったものが答えになることは絶対にない。それは100パーセント間違っている。それは「0点」の解答だ。
 期末試験を受けながら、学校教育の在り方に抗議して解答を書かなければ0点になってしまうのと同じように。
  
 何にしても私は、この問いの答えを探し続けて、いつか見つけなくてはいけない。それが私の道だから。
 たくさん生きて、多くを感じて、あれこれ考えて。
 解答を見つけること。自分にとっての正解を。
 今はまだ道の途中だから見つからなくてもいい。明日人生が終わってしまうわけじゃない。ただ、いつか、必ず見つけなくてはいけない。
 もし死ぬまでに見つけられなければ、それこそ人生の敗者になってしまうのだから。
 明日を持たない敗者にはなりたくない。 
 
                   *
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 朝焼け空を見るというのは人生におけるささやかな贅沢と言っていい。
 夕焼け空は誰にとってもありふれたものだけど、朝焼け空というのはみんなあまり見たことがないはずだ。特別な機会をのぞいて。
 けど、日々夜明けはあり、時々きれいな朝焼け空もある。
 一年で一番朝焼け空がきれいなのは初夏だってことを知ってるだろうか? これから夏にかけて、朝焼け空は時にあかね色に染まり、時に桃色と水色を混ぜたような色になり、時に鮮やかなオレンジになったりする。夕焼け空に負けないくらい。
 観客が少ない分、きれいな朝焼け空はたまにしかないけど、でも確かにある。
 朝方、目が覚めるようなことがあったら起きて空を見てみるといい。運がいいときれいな朝焼け空が見えるだろう。
 そして、もしそんな空を見ることができたなら、その光景は一枚の記憶となって自分の中に残るだろう。特別美味しかった食べ物の記憶が消えないように。
 いくつかのきれいな朝焼け空の記憶を持つこと、それもまた一つの幸福の財産に違いない。
                   *

 楽しみと誤魔化しは似ているけど、違う。
 美味しい酒を飲むことと酔っぱらうために飲むことが違うように。
 毎日を誤魔化してはいけない。楽しまなくては。
 楽しまなければ罪になる。
 生きることを心底楽しんでいる人間を一体誰が裁けるだろう?

 5月23日(木) 「イメージ不足という問題」

 五月の晴れた一日、交差点で信号待ちをしていると、車のシートに座った私の目の前をいくつかの人生が交差して通りすぎていった。
 真っ直ぐ背筋を伸ばして交差点を大股で渡るスーツの女の人、携帯メールを打ちながらうつむいて歩く女の子、自転車にまたがって携帯電話で話しながら信号待ちをしてる大学生、何か楽しそうにしゃべりながら自転車で走り去る女子高生二人組、老婦人が乗った車椅子を押してにこやかに歩くおじいさん、ハイキングの恰好をして軽やかに歩く中年夫婦、そして目の前を2台のパトカーが通り過ぎた。
 信号待ちの2分間、それらの人生の断片を眺めながら、私は少し幸せな気分を味わっていた。何がどう幸せなのかはよく分からなかったけど、でもいい気分だった。この世もまだまだ捨てたもんじゃないと思えたからかもしれない。
 名も知らぬ他人から小さな幸せをもらうこともある。

                   * 

 人はそれぞれの時間の中で、それぞれの役割を演じながら、楽しいことを探して毎日を過ごしている。自分は世界の風景の一部を担っていることに無自覚なまま。
 無自覚であることは別に悪いことではない。けど、そのことに気づいたなら毎日がもう少し楽しくなる。思わぬところで誰かに楽しさや喜びを与えることもあるだろう。

 たとえちょい役でも、エキストラでも、自分はこの世界の住人を演じている役者なんだという自覚とプライドが必要なんじゃないか。みんながその気持ちを持てば世界は今よりもっと美しくもなるだろうし、正しくもなる。
 この世界の住人は、全員が受け手であると同時に全員が与え手になることも可能だ。だから、与え手としての自覚をもっと持った方がいい。有名人だけが人に何かを与えられるわけじゃないだろう。
 演じることはだますことではない。思いやりや親切に近いものだ。 

                   *
 
 捨てられるものがたくさんあるということはそれだけで幸せなことだ。本当に不幸なら捨てられるものさえ一つもないはずだから。
 言い換えれば、捨てたくないものの数が幸せの数と言ってもいい。
 今自分が捨てたくないものって何があるだろう、と自問自答してみるといい。思いもよらずたくさんあることに気づくだろう。
 家族や、友達や、仕事や、恋人や、多くの持ち物や、毎日帰る家や、田舎の親戚や、洋服や、ペットまで。
 丸裸で何も持たずに生まれてきたことを思えばずいぶんたくさんの幸福を手に入れたものだ。それなのに幸福じゃないだなんて。
 本当に不幸を嘆きたいなら、何もかも捨てて失ってからにした方がいい。それでも、かつての幸せの記憶は消えないし、思い出も残るだろう。
 
 私が捨てられないもの。
 まずビデオデッキが7台に、テレビが3台、ゲーム機が6台、PCと……(以下略)。
 
                   *
 
 自分の気持ちが電池切れのような状態だというなら、充電すればいい。海を見に行ったり、温泉につかったり、友達と遊んだり。そうすればまたエネルギーがたまって明日から元気に生きていける。簡単な話だ。
 でも、問題がエネルギー不足とかではなくもっと根本部分での重大な故障だとしたらどうだ。そうなると充電なんかしても意味がない。故障部分を修理しないと。
 今の私は心がどこか故障してしまったらしい。どうりで海へ行こうがロングドライブをしようが調子が戻らなかったはずだ。
 でもその自覚はなかった。いや、多少はあったけど、時間が経てば自然に直るものだと思っていた。そう思いたかった。

 問題は故障個所がどこで、どうすれば直せるかということだ。これが分かるようで分からない。単純に恋をすれば直るとかそういうことでもない気がする。
 まだしばらく不調は続きそうだ。それでも完全に故障してるわけでもないから、なんとか誤魔化しながらやっていくしかないのだろう。
 
                   *
 
 健やかなるときも、病めるときも、止めるときも、辞めるときも……。
 今の神父はそう念を押した方がいいんじゃないかと思うけど、それはともかくとして、あの健やかなるときも病めるときも、という文句はちゃんと聞くとけっこういい文句だ。
「その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」
 敬い、慰め、助け、命ある限り、真心を尽くす……。
 もしこの言葉を日々新たに心に誓い、毎日を過ごすことができたなら、それはとても素敵なことだ。
 日々いろんな問題が起こったり、日によって機嫌や体調が悪かったり、嫌なことがあったり、相手に腹が立ったりすることはあるだろうけど、そんな時こそ誓いの言葉を思い出してみるといい。
 神がいようがいまいが誓いは誓いで、約束は約束なのだから。
 理屈よりも現実よりも誓いの方が重いはずだ。
 大事な約束は守らないと。
 守れない約束は初めからしなようにした方がいい。

                   *
 
 いつも思っている。まだ別の段階がある、ここが季節の行き止まりじゃないんだ、と。
 いくつもの段階を超えてここまで来た。
 ここが最終章ではない。
 どんな物語も、途中は上手くいかないことがあったり、不幸になったり、停滞したりするもの。
 最後に大団円を迎えればそれでいい。
 私は小説でも映画でもハッピーエンディングが好きだ。嘘っぽくてもいい。
 だから、自分の物語もハッピーエンディングしか考えられない。
 途中で絶望して物語を放り出してしまうことだけはやめよう。
 
                   *
 
 言葉はすべてじゃないし、一番大切でもないし、完全なものでもない。
 けど、この世界のすべては、言葉抜きでは不完全なものになってしまうのだ。
 人の生も、芸術も、恋愛も、スポーツも。
 
 たとえば、実況や解説のないスポーツ番組が楽しいだろうか?
 勝利者インタビューがなければ充分な感動が得られないだろうし、敗者の弁だって聞いてみたいし、独白だって聞きたい。スポーツ新聞だって読みたい。
 言葉がいらないと言われるスポーツでさえ、言葉抜きには感動が不完全なものになってしまう。
 音楽だってそうだ。歌詞のない音楽ばかりでは退屈してしまうだろう。
 映画だって、今更無声映画には戻れない。
 
 恋愛だって同じだ。充分な言葉を尽くさなければ完全に理解し合うことはできないだろう。
 想いは言葉にして伝えなくてはいけない。どんなに困難だったとしても。
 
 人間が何故言葉を発明したか?
 それはこの不完全な世界や不完全な存在である自分たちの存在を、より完全にするためだったに違いない。言葉なしでも完全なら言葉は必要なかったのだから。
 
 言葉はすべてじゃないし、完全なものでもない。けど、言葉抜きには決して完全にはなれない。
 だから私たちはもっと言葉を大切にしなくては。
                   *
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                   *
 
 最近またイメージ不足に陥っている。
 人はどういう基準で日々動いているのか分からないのだけど、私の場合、イメージに従って動いているから、具体的なイメージがないとまったく動けなくなってしまうのだ。
 たとえば次の休みの日、何も予定がなくて、でも何かしたいと思った時、みんなはどうやってその日の行動を決めてるんだろう? なんか、ものすごく基本的で馬鹿ばかしい問いのような気もするけど考えてみるとよく分からない。
 とりあえず友達に相談してみたり、人に訊いてみたり、雑誌か何かで調べたりするんだろうか?
 それともそんな予定や考えなら日頃からいくつもあって、迷うことなく行動を決められるんだろうか?
 私の場合はイメージだけが頼りで、イメージが浮かばないと動けない。自然にわき上がってくるイメージや想像がないと動きが止まってしまう。イメージだけを頼りに絵を描いている画家がイメージを失ってしまった時のように。
 
 最近どうもイメージ喚起力が弱くなったのか、イメージが貧弱になっている。一時的なものなのか、衰えなのか。
 たとえば、「1万円で買えて、日常生活を変えてくれて、時間を忘れて熱中できるような新しいおもちゃは何かないか」と思ったのはもうかれこれ半年くらい前だ。けどいまだにそれは見つかってない。
 やはりこういうのも一種の老化現象なのか。
 
 まあそれはともかくとして、当面問題なのは、毎日のイメージ不足だ。これは水不足の農家くらい深刻な問題だ。私にとって。
 となると、雨乞いをするようにイメージが降ってくるのを天に祈るしかないのか?

 とりあえず明日のイメージがない。今日寝るまでに明日のイメージを思いつかなければ明日は動きのない一日になってしまう。それだけはなんとか避けたい。
 イメージ、イメージ……。
 どこかにイメージ余ってないかな?

 5月17日(金) 「疑う能力」

 優しさというのは、心の在り方ではなく、単純に表現の問題なのかもしれない。素質ではなく、技術だ。
 自然にできる人もいるし、できない人もいるけど、その気になれば誰でも優しくなれるんだと思う。訓練次第で。
 少なくとも、優しさは能力だけの問題じゃないし、生まれつきですべてが決まるわけでもないだろう。
 優しくなりたければ技術を磨くことだ。
 
                   *
 
 美しさというのは誰が何と言おうと正しい。
 けど、美しいだけのものは決して正しくない。
 顔がいいだけの人間がロクなもんじゃないように。
 甘いだけの菓子が体に悪いように。
 
                   *
 
 私を支配している緩やかな危機感は、なくした代用品のその代用品が見つからないことが要因になっている。つまり本筋から外れている。
 にもかかわらずこの無力感はどうしたことか。
 借りてきた猫を返してしまった後の空白感、といったところか。
 自分のものでもなく、最初から所有してないのに勝手に失ったといって沈み込んでいるだけだ。
 代用品ではなく、本物を探して見つけなければ。 

                   *
 
 自分を信じていないと誰に誉められてもその言葉を信じることができない。
 自分を信じてさえいれば、人が何と言おうと関係ない。
 だから、人のためにも自分を信じなくてはいけない。自分を信じてくれる人たちのためにも。
 それにしても、生きるほどに自分を信じるのが難しくなる。知りたくないこともたくさん知ってしまうから。
 
                   *

 書きたいことと、伝えたいことは別のもの。
 大事なのは、伝えたい人がいること。
 
 考えないことは悪であり罪だと若い頃の私は思っていた。
 でも今はそうは思ってない。考えないことで自分で守るやり方もあるし、考えることで自分を正当化するのも間違っている。
 考えたい時に考え、考えたくない時には考えない、これがごく当たり前の論理であり態度だろう。
 思考がいつも正義であるわけではないし、考えることと生きることはイコールではない。時にはあえて考えないようにすることも必要だ。
 最近になってようやくそのことが分かった私であった。
 
 今日はあんまり考えたくない日だった。
 
 書けない時も同じようなもんだ。
 書けない時は書けないということを書けばいい。
 これは日記であってコラムやエッセイじゃないんだから。
 書き直しのない、書き捨て御免のものなんだし。
 今日しか書けないことが確かにあって、そのほとんどが無駄だったとしても、ここで書き逃すと永遠にすれ違ってしまう言葉もある。
 一方通行の文章にはそれなりの書き方と意義がある。とぎれとぎれの思考を正確に辿ればいい。
 そう、これは断想日記なんだから。
 
                   *
 
 黙ることで解決する問題があり、黙ることでは解決しない問題がある。
 たとえば恋愛の問題は黙ることでは解決しない。想いというのは言葉で伝えないと本当には伝わらないものだから。相手の想いを想像するのも限界がある。
 黙ることで解決する問題もある。けど、それは大したことのない問題だ。放っておけばいい。
 
                   *
 
 忘れっぽさが私を救っている部分は多いにある。
 根が楽観的というのもあるんだけど、20代のつらかった時期を乗り越えることができたのは、私の忘れっぽさが役立っていたことは確かだ。もし、私の記憶力が今の倍くらいあったら、私はここまで無事でいられなかったかもしれない。
 それを思えば、記憶力が悪くて暗記もののテストの点が悪かったことくらい何でもない。
 人は自分の欠点に救われることもあるということだ。
 逆に、自分の長所が致命傷になることもある。
 
                   *
 
 自分の判断を信じすぎないこと。
 人は何の根拠もなく、自分の判断を信じすぎる。そこに争い事や問題の原因の大部分がある。
 戦争、恋愛のトラブル、人生の失敗、すべては判断ミスというより自分の判断に盲目的でありすぎるから起こることだ。
 自分の中にある、正義や正論や価値観や絶対などを時々全部取りだして大掃除した方がいい。そして、別の可能性を探ってみるべきだろう。他の発想はないか、違う角度から見たらどう見えるか、時系列で捉えて現在の絶対は本当に不変の絶対なのかどうか。
 
 確かに自分を信じたり、自信を持ったりすることは大切なこと。けど、それには確かな根拠が必要だ。ただ闇雲に自分を信じればいいってもんじゃない。
 信じるにしても、いったん疑ってみて、その上で信じることだ。
 
 人間に一番足りないのは自分を疑う能力かもしれない。
 自分を疑うことさえ覚えればきっと他人も許せるようになって、やがては大きな戦争もなくなるだろう。
 
                   *
 
 世の中の役に立つ人間になりたい、と人は言う。私もそうなりたい。
 でも、世の中をどうしたいのかという明確なビジョンがなければいくら世のため人のために役立ってもあまり意味がない。
 世の中をどういうふうに変えたいのかということをしっかり思い描いた上で、さてそのために自分に何ができるだろうと考えるのが筋道ってもんだ。
 極論を言えば、世の中を変える意志がなければ世の中の役に立つ必要はない。自分の幸福を追求すればいい。
 
 みんながもっと当たり前の幸せを手に入れるためにはどうすればいいか。
 それはもう、地道な個人教育しかないのではないか。みんなが目覚めれば世の中は自然と良くなる。世の中を作っているのは人間の集団なのだから。
 チームワーク以前に個人の実力を上げることをまずしなければ話にならない。
 
 みんなこの程度の世の中で本当に満足してるんだろうか?
 もっといい世界を想像できるんじゃないのか?
 私は悔しい。人間はもっと実力があるのにこんな程度の世の中しか作れないことが。
 私にはどういう世の中にすればいいか、かなりの部分まで私なりに見えているつもりだ。
 だが、残念ながら自分の役割がさっぱり分からない。一体私は何をすればいいんだろう? その問いの答えをずっと探しているけど、いまだに見つからないでいる。とてももどかしい。
 今の私にできるのは、いつ訪れるか分からない自分の出番を待って心の準備をしておくくらいのものだ。出番が来てから手のひらに「人」と書いて飲み込んでいるようじゃ遅すぎる。最初からトップギアに入れて全力疾走できるくらいに心を暖めておかないと。

 5月15日(水) 「平和な時代に必要な強さ」

 人間もまた動物だとするならば、一番大事なのは生き抜くことだろう。それが動物としての最大の目標だから。なにがなんでも生き抜くこと、それが正義だ。理屈など関係ない。
 
 昔は人間の本能というものを軽蔑していた私だけど、最近はそうじゃないと思い始めている。本能っていうのは案外上等なものなのかもしれない。
 少なくとも、汚い部分として頭ごなしに否定したり、見て見ないフリをすべきものなんかではない。

 人類の歴史は本能を克服する方向でここまで進んできて、それはそれで間違いではないのだけど、それにしても何もかもまとめて捨てようとしすぎた面があるように思う。いい本能も悪い本能も一緒にゴミのように放り出してしまった。
 おかげで本来誰もが持っていたであろう第六感のようなものまでほとんどなくしてしまった。惜しいことをしたもんだ。
 もう今更古代のように本能のままに生きることはできないし、そんなことをする必要もないのだけど、今後はもう少し本能と理性の共存という方向で道を探していった方がいいんじゃないか。
 本能を捨てることが必ずしも人間の進歩や進化ではないはずだ。
 
 もっと強い気持ちで生きなくてはいけないと思うし、教育としてもそのことを子供たちに教えるべきだろう。
 子供たちよ、こんな時代だからこそ、もっと強く生きるんだ、と。
 今はあまりにもサバイバル感が弱くなってしまった。戦うべき場所もなくなり、戦う対象も見失ってしまった。
 強くなくても生きていけるからこそ、もっと強くなるべきだと思うのだ。

 20世紀は繁栄から滅びへと向かう世紀だった。けど、崩壊をどうやら逃れたらしい21世紀は、人工の平和の中でいかに個人として強く生き抜くかがテーマになるだろう。
 世の中が個人の生き方を強要しない世界で、強い意志を持たなない人間はただ流されて死んでいく。そうなりたくなければ、強くなくてはいけない。
 平和を生きるということは思っているほど安易なものじゃない。非常時よりもむしろ強い意志が必要になる。
 平和な時代こそ、人間としての本能を自ら呼び覚まさなければ生き残れないだろう。
 
                   *
 
 自分の間抜けさを呪うより、その間抜けな自分が生きていることを許してくれている天と地の関係者に感謝しておこう。
 とりあえずこういして生きていられるってことはお許しが出てるってことで、何故許されてるのか理解できなかったとしても、こうしてここに存在してることは確かなのだ。もっと自信を持ってもいい。
 生と死を司る法則性というのは、ある意味絶対的なものだから。
 
                   *
 
 人は何故歴史を知ろうとするのか?
 それは、もちろん興味があるからということが第一だろうし、過去を学ぶことで未来を生きるためのヒントを得ようとする試みでもあるんだけど、もうひとつ深いところにもっと優しくなるためというのがあるような気がする。無意識の内に。

 歴史を知ると人は優しくなれる。日本の歴史、世界の歴史、親の歴史。それらの歴史を理解することで物事の多面性に気づき、抜き差しならない必然に同情し、人間の無力さを思い知り、そして謙虚になる。
 歴史を学ぶということはそういうことだ。
 
 歴史は面白い。歴史は人そのものだから、面白くないはずがない。
 もしかしたら、最も人を優しくさせる勉強は、国語でも音楽でも美術でも家庭科でもなく、歴史かもしれない。
 
                   *
 
 幸福の大小はそんなに重要なことじゃないってことが最近ようやく実感として分かってきた。
 もっと高い位置から広い視野で見たなら、幸福の大きさなんてものはあってないようなものだ。
 大切なのは自分が幸福と感じるかどうかで、客観的な幸福の量や大きさじゃない。
 だから小さな幸福で満足する人間を侮るのは間違いだ。手に入りもしない大きな幸福を追いかけて自分を誤魔化している人間よりもずっといい。
 今身の回りにあるすべての幸福を感じて、自覚して、満足することが結局は一番なんじゃないだろうか。

 こんなことを書くと若い頃の私に馬鹿にされそうだけど、ここまで生きてきてだんだんそんな風に思えるようになってきた。
 でもやっぱりこれは堕落なのかな。
 
                   *
 
---最近ちょっと気になっているいいこと。
 
 三菱モータースのCMはとってもセンスがいい。
 最初に気づいたのは、女の子が3人で車に乗って海に行って海岸で、「こんどはオトコと来るぞー」向と叫ぶ、というやつだった。
 おっ、どうした、三菱、いいCM作ったじゃないか、と思ったらやはり評判はよかったらしく、その後シリーズ化されたので知ってる人も多いはず。
 
「耳たぶまで冷えきった彼女のセーター から、雪のにおいがした」
「クルマは、あなたを、ときめかせていますか」
 
 というやつも好きだ。
 その後の「初デート編」と「ミニカー編」は個人的にもう一つだったけど、最近始まった「花嫁編」がまたいい。
 あの曲もCMの内容と合っている。
 今後もこのシリーズには期待しよう。
 面白CMはたくさんあるけど、こういう正統派でいいCMっていうのはそんなにないんじゃないか。
 
 過去の作品を観たい方はこちら
 
---
 
 もう一つちょっと最近いいと思ってるは、中谷美紀のアルバム「ABSOLUTE VALUE」だ。
 初のベストアルバムで、発売は1999年、私が初めて聴いたのは去年だったか。最初、ヒット曲である「砂の果実」を久しぶりに聴いてみようと思って借りて、しばらく車の中で聴いて忘れていたんだけど、最近ふと聴いてみてその良さを再認識したのだった。
「砂の果実」もいいけど、「水族館の夜」(作詞:松本隆、作曲:坂本龍一)はもっといい。これは後までずっと私の中に残るかもしれない。
 深夜、一人でしんみりとしてしまった時なんかに聴くといいかもしれない。

 坂本龍一が彼女の歌に惚れてプロデュースしてるだけのことはあって、曲としてもアルバムとしてもできはいいので、聴いたことがない人はぜひ一度聴いてみることをオススメします。
 
                   *
 
 ここのところ雨模様の日が続いていて、気分ももう一つ冴えない。いいかげんカラッとした五月の晴れ間を見たいのだけど、どうやら今週一杯はこんな調子らしい。せっかく気持ちのいい五月だというのにもったいない話だ。
 それでも来週になれば晴れた空が戻ってくるようなので、そしたらどこかへ出掛けよう。春と夏をつなぐこの季節を感じられるところがいい。久々に山方面でも行ってみるか。
 そして、大声で叫んでやるのだ。
 ヤッホォーーー! と。
 ……。
 んなヤツ、今どきいねえって。
 いや、もしかして、いる?

 求む、ヤッホー仲間。

 5月12日(日) 「新しいページに書かれていること」

 私は私自身の歴史の中で自分を許しているだけだ。決して無条件で許してるわけじゃない。
 もはや許されないところまで来てしまっているという自覚はあるし、もし明日自分とそっくりの人間に出会ったら私はきっとその人間を許すことができないだろう。
 それでも私は、この歴史の延長線上の先で許すべき自分を見つけるしかない。過去の自分は、どの瞬間を切り取っても正しくないのだから。
 それはきっと、誰でも同じなんだと思う。
 だから人は許し合える可能性を持っている。自分を許せるなら他人だって許せるはずだ。
 
                   *
 
 考え終わった思考は、読み終えた本のようなもので、もはや興味はない。
 だから昨日の考えと今日の考えが違うのは当然のことだ。昨日とは違うことを考えているのだから。まったく反対の考えを持っていても、自分の中では決して矛盾しない。考えを入れ替えてるのではなく考えを重ねているだけなのだから。

 私はすべてにおいて一貫性というのは必要ないと思っている。人の考えや行動というのは変わっていくのが当然で、むしろ変わらない方が不自然だから。
 馬鹿の一つ覚え、という言葉もある。オスカー・ワイルドも言っている。「一貫性というのは想像力を欠いた人間の最後の拠り所である」と。
 昨日まで嫌いだった食べ物が今日好きになったり、昨日まで好きだった人が今日嫌いになったりするのも自然な心の動きだ。誰にも止められないし、止める必要もない。
 常に好き嫌いが一定しなくてはいけないわけはないだろう。
 性格にしたって、昨日まで親切な人間だったけどもう飽きたから今日からは不親切な人間になったってかまわない。冷淡な人間を卒業して感傷的な人間になるのもいい。
 生きるというのは、自分の持っている可能性の地図を塗りつぶしていく行為だ。
 自分の中にあるいろんな面を見たり経験したりして知ることが大切なことで、そのためには一貫性というのは邪魔になる。だからそんなものは捨ててしまっていい。
 もっと自由にならなくてはいけない。変化を恐れず受け入れていくことが成長につながっていくだろう。
 宗旨替えだって全然かまわない。一年ごとに宗教を変えていったっていい。
 主義主張だってどんどん曲げればいい。
 結婚だって一回きりなのが一番とは限らない。何度もすればそれだけ新しい自分に出会える。
 仕事だって、生活様式だって、住む場所や国だって、同じことを続ける必要はない。
 常に自然な変化に身を任せていればいい。変わろうとする心を打ち消してしまうのが一番いけないことだ。
 
 誰もが分厚い本のようなもの。
 でも、自分のすべてを読み切れる人は少ない。ほんの一部を読んだだけで分かったような気になったり、途中で死んでしまったりする。
 あるいは、自分の気に入る箇所だけ繰り返し読んだり。
 最初から一行ずつ読む必要はない。そんなに時間の余裕もない。
 大胆に飛ばしたり、時には前後の順番を変えたりしながら、いろんな部分を読んでみるといい。
 自分の知らない自分を発見することは、とても嬉しいことだから。
 
 あらゆる変化を止めず、受け入れ、身を委ねること。
 そして、新しい自分を発見するために新しい試みをすること。
 誰の中にも、まだまだ多くの可能性が眠っていて、本気で探せばきっと新しい発見がある。
 
 もし自分のすべての部分を読み終えてしまったとしたらどうすればいいか?
 簡単だ。自分で新しい物語を書けばいい。
 すべての物語を読み終えた時初めて、新しい物語が生まれるように、自分の中にあるすべての可能性を知った時初めて、人は自分以上の自分を見つけることになるだろう。
 だから、長生きするほどに可能性がどんどんなくなっていくように感じてもそれは悪いことじゃない。可能性が少なくなることは逆に喜ぶべきことなのだ。
 限界に到達しなければ限界を超えることはできないように、今ある可能性がなくならなければ新しい可能性は生まれないのだから。
 
 明日はまた新しい一日。
 それでも、何もしなければ新しいことは何も起こらないだろう。いつもと同じ一日になる。
 でも、何かができる。何でもできると言ってもいい。
 その可能性を感じながら、何か一つでも新しいことを試みれば、きっと何かが起こる。
 新しいページをめくろう。
 そこには、まったく知らない自分が書かれているかもしれない。
 何が書かれているかは、ページをめくってみるまで分からない。

 5月10日(金) 「世界との静かな関係」

 画家が常に正しい線と正しい色を探すように、私はいつも正しい思考と正しい感情を探している。探さずにはいられないから。
 人はそれぞれ自分なりの正しさを探しているのだろう。誰に教えられることもなく、誰かから強制されるわけでもないのに。心が自分に命じるから。
 あなたは日々どんな正しさを探しているのだろうか?
 正しさの共有は難しいけど、私もあなたもそれぞれの正しさが見つかりますように……。
 
                   *
 
 何も変わっていないように見えて実は何もかもが変わってしまった。
 変化というのは非情で感傷さえも寄せ付けない。
 こうしている間にも確実に命の残り時間は減っていっていき、それを手で受け止めることはできやしない。
 ただ、変化というのは何かがなくなって何かが生まれるのではない。重なりであり、上積みなんだということを忘れないようにしなければ変化の本質を見失ってしまうだろう。
 時間もまた、移動してるのではなく重なっていっているのだ。自分の中に。
 街が生まれ、土に埋もれ、その上にまた新しい街が生まれるように。
 
                   *
 
 私は何かを見失っているのではなく、何も見えなくなってしまったのだ。もはや心の目が失明してしまった。
 今はそのことさえ受け入れることができる。
 物が見えるようになりたいと熱烈に願った時期もあり、何も見えなくなってもなんとも思わない今があり、この先また物の見え方も変わっていくだろう。
 でもすべては終わってみなければ判断できない。今を切り取って一喜一憂しても始まらない。
 見えなくなってしまったことを絶望すまい。
 
                   *
 
 私は全地球人分の1人に過ぎないということに気づいてから、もはや責任感というものを放棄してしまった。私がどう生きようと何をしようと何の問題もない。正しく生きる必要もまったくない。
 どう生きるかは本人の趣味の問題でしかない。

 私は世界の役に立ちたい。私にしかできないこともあると思う。
 乞われれば世界に対して自分のできることを全力でやるし、必要とされなければ自分の好きなように勝手に生きるだけだ。
 私はどちらでもかまわない。選択権は私にはない。
 ただ、世界を侮ったまま死にたくないことだけは確かだ。
 
                   *
 
 すべての瞬間の自分は私であり、本意であろうと不本意であろうと、かりそめではなくまぎれもない自分の一面なのだ。どこかを否定してどこか一部だけを肯定するなんてことはできない。鏡に映った最高に不細工な顔の自分も自分の顔であるように。
 私はすべての段階を受け入れよう。過去は過去、今は今、未来は未来。全部本当ですべて本物だ。
 現在過去未来を比較で捉えることはもうやめる。
 
                   *
 
 心の一番奥にある、ドライアイスよりも冷たい絶望感には私でさえ手を触れることができない。そんなもの誰にも見せられない。
 それでも毎日眠りにつく瞬間に感じる小さな幸福感が捨てがたかったり、テレビを観てケラケラ笑ったり、部屋に並んだたくさんのビデオデッキを眺めて嬉しくなってしまったりする自分も確かにいる。
 まったく人間ってのは面白い。そして愛すべきものだ。
 
 時間が来た。
 少し本を読んで、もう寝よう。
 おやすみなさい。

 5月9日(木) 「手品の種明かしのような終わり」

 私の中で日々繰り広げられている地味な闘いは、まだ当分終わりそうにない。
 もういい加減飽きてきてそろそろスカッと終わらせたいのだけど、解決の糸口は見えず、光も射してこない。
 私は自らの救世主にはついになれず、最後は百年戦争に突如現れたジャンヌ=ダルクのような救世主を待つしかないのだろうか?
 あるいは、私はこの闘いの半ばで倒れて消えてゆくことになるのだろうか。
 どうせなら派手な闘いでパッと散りたい気もするけど。

                   * 

 私はいつも幸福のことを考えたり書いたりしてるのだけど、自分の幸福に関してはあまり興味がない。熱烈に幸福になりたいと思ったことがない。
 などと書くと非常に嘘っぽいのだけど、実際そうなのだ。料理を作るのは好きだけど食べることにはあまり興味がない料理人のように。
 単純に幸福というものの正体を知りたいだけだ。幸福になりたくて幸福のことをいつも考えてるわけじゃない。幸福の実体さえ知ることができたら、きっと幸福への興味はまったくなくなってしまうだろう。
 私の人生の目標は幸福になることではない。
 
 じゃあ何が楽しくて生きているのかといえば、それはもう感動したいから生きているに決まっている。私の人生の基本は感動だ。
 だからいろんなところへ出掛けたり、映画を観たり、スポーツを観たり、恋したりしてるのだ。
 私は感動と次の感動の点をつなぎ合わせて生きている。それ以外はあまり重要なことではない。
 精神性にも農耕民族的精神と狩猟民族的精神があるとするならば、私は間違いなく狩猟民族的と言えるだろう。常に新鮮な感動を求めてさまよっている。
 実生活においては農耕民族的なのだけど。
 
 だんだんと生きることに対する思いや考えや感覚が変わっていっている。
 昔は、こうあるべきだ、こうしなくてはいけない、あんなふうに生きてはいけない、などと自分を規定することに必死だったけど、今はもうそうじゃない。ルーズになったことはなったけど、それは退歩だとは思ってない。すべての変化は、流れの中における必然的な変化だ。
 思考を突き詰めていけば最終的にはすべてが解決すると思い込んでいた時期もあった。少なくとも思考は絶対的なもので、思考による解決を目指すべきだと信じていた。思考しないことは堕落だと決めつけてさえいた。
 けど、そういうことではない。そういうことではないのだ。
 思考というのは他と比べて上でもないし下でもなく、生きていく手助けになる一つの方法にすぎないということが分かった。むしろ思考というのは積極的に捨て去っていってもいいものなのかもしれない。
 何も考えないで生きていくことも罪ではない。
 
 4つの重要な要素がある。
 哲学のための思考、芸術のための感覚、宗教的悟りのための無心、人間関係を成立させるための言葉。
 いや、もう1つある。生活、が。
 この5つの要素をバランス良く自分の中に取り込んで成立させ、それら渾然一体となったものを表現すること、それが極意のようなものだ。
 思考、感覚、無心、言葉、生活。どれか1つでも欠けてしまえば不完全でいびつな人間になってしまうだろう。
 
 少しずつだけどいろんなことが分かるようになってきた。本当に嫌になるほど進歩の速度は鈍いけど、それでもわずかずつ前進してるのを感じる。
 もし、当初の人生設計通り30までにくたばっていたら、こんな感覚を味わうことはなかった。そんなことにならなくてよかった。前進感というのはとても嬉しいものだ。
 それにしてもこんなノロノロ・ペースでは一体いつになったら満足できるほど成長できるだろう。それを思うと気が遠くなりそうだ。
 けど、せっかくここまで来たし、今更先を急いでも仕方がない。先へ行ってしまったみんなのことはこの際考えずに、自分のペースで着実に行こう。
 そして最後には、何も考えないでいつもニコニコしてる極楽ジジイになってやるのだ。
 
                   *
                   *
                   *
 
 死は生のすぐ横にある。横だけじゃなく、前後左右に。
 とたえば、日本でスズメバチに刺されて死ぬ人が毎年30人くらいいることを知っているだろうか?
 正月にノドにモチを詰まらせて死ぬ人がいたり、風邪をこじらせて死ぬ人もたくさんいることはけっこうみんな知ってると思うけど、スズメバチに刺されて死ぬ人が毎年30人もいるってことはあまり知らないのではないだろうか。でもここ10年くらい毎年いるらしいのだ。信じられないけど。
 毒ヘビに噛まれて死ぬ人も年間10〜20人いるんだそうだ。
 熊に襲われて死ぬ人はどうかといえば、これは毎年1人か2人らしい。これは思ったより少ない。
 凶暴なものに対する恐怖心は多くの人が持っていて注意もするだろうけど、やや危険って程度ので意外と多くの人が死んでいるのだ。
 
 では、今年のゴールデンウィーク中に事故で死んだ人はどれくらいいたか、知っているだろうか?
 今年は224人だったそうだ。
 なんかちょっと信じられない。旅行とか遊びとか帰省とかで、まさか自分が死んでしまうとはほとんどの人が思ってなかったに違いない。けど、確かにそれだけの人が死んでいる。これはもう、自分の番がいつ来てもおかしくない。
 
 さて、この話の教訓は何か?
 ……。
 うーん、特にない。いや、ホントに。
 思わぬところで死ぬことがあるもんだなぁ、ってことくらいで。
 他にも、パン食い競争で死んだり、風呂で転んで頭を打ったり、人生にはいろんなことが起こる。
 ゆめゆめ油断しないようにしなくちゃ、ということを自分に言って聞かせる私であった。
 
                   *
 
 この世界の終わりを人々はどんな表情としぐさで迎えるのだろう?
 涙か、絶叫か、無言か、無表情か、放心か、それとも笑いか、笑顔か、微笑みか、唖然か、怒りと怒号か、喜びか?
 世界の終わりに種明かしはあるんだろうか?
 宇宙を描いた書き割りがバタンと向こうに倒れて、その向こうで神が嬉しそうに笑って手を振ってたら最高なんだけどな。女神の腰に手を回したりなんかして。
 実際どうなるかはまったく見当もつかないし、その瞬間を人間が意識を保ったまま迎えられるかどうかも怪しいところだけど、私の希望としては、「なーんだ、そういうことだったんだ! やられた! お見事!」と、笑いながら作者に敬意を表する拍手を送れるような最後がいい。しめっぽいのはよくない。
 いずれにしても、この世界は深刻なものじゃないと私は思っている。恐ろしげな魔法に似た手品のようなものだと。
 いつか誰かが種明かしをしてくれるだろう。
 もし誰もしてくれなかったら、その時は私がするしかない。舞台の裏で仕掛けを作って喜んで見てるやつの首根っこを引っ張って、舞台に引きずり出してやるのだ。みなさん、裏でイジワルしてたのはこいつですよ、って。
 まあなんにしても、世界は愉快なものに違いない。

 5月5日(日) 「感傷という贅沢」

 きみにかける言葉があるならば、
 私はどれだけ絶望しても、
 どんなに退屈しても、
 私は死なずに生きていよう。
 きみがこの世界に生きている限り。
 
                   *
 
 人生は、愛を学ぶ旅だ。
 愛した人やものを失いながら。
 
 失わなければ分からない愛の意味があり、
 求めても得られない愛に大事なことを見つけることもある。
 
 愛がすべてではないし、
 愛が唯一でもない。
 けど、愛がこの世界の根本に違いない。

 愛に答えはある、私はそう信じている。
 もし、この世界に終わりがあるならば。
 
                   *
 
 私が20代で役立たずのまま死んでいたら、私の一生は悪い冗談で笑えなかった。それはないぜ、と文句も言いたくなっただろう。
 けど、30を超えた今、もう私の人生は悪い冗談じゃなくなった。この先いつ死んでも良い冗談だったと笑える。人がどう思うかは関係なく、少なくとも私は笑って自分の人生を振り返ることができるだろう。
 こういう一生も可能性としてはあり得るから。
 ま、とりあえず、今のところ死ぬ予定はまったくないけれど。
 
 
                   *
 
 人を好きになることは断然いいことだ。
 好きという感情は単純で、力強くて、確かで、なおかつ四季のように多様で。
 春夏秋冬のように様々な感情の面を見せてくれる。
 それぞれに想いがあり、シーンがあり、大小の揺れがある。
 最後は終わってしまうのだけど、お土産として思い出が残る。
 世の中にこんないいものはない。

 好きにならなければ何も始まらず、何も残らない。
 だから、好きになろう。もっと、もっと。
 恋は決して幻なんかじゃない。
 好きという感情以上に確かなものがこの世界のどこにあるだろう?
 自分の中にある好きという感情だけはいつでも信じていい。
 小さな好きも、大きな好きも、全部大事にしなくてはと思う。
 
                   *
 
 深夜、外に出て、冷たい春風に吹かれて車に乗り込んだら、大学生の時のいくつかのシーンがふいによみがえってきた。
 深夜のバイトの行き帰りにカーステレオから流れてきた歌のメロディーや、告白できなかった彼女との1メートルの距離感や、居酒屋で飲んだ後みんなで行った真っ暗な海の匂いや、当てもなく走らせた車の窓から見えた深夜の街の明かりなんかが。
 いや、別にあの頃がなつかしいわけじゃないし、あの頃に戻りたいわけでもない。ただあの頃を愛おしく思うだけだ。
 あの時は何も考えずに毎日を過ごしていたけど、今こうして大切な記憶となった。それが嬉しいのだ。
 
                   *
 
 感傷が贅沢なものだと知っている。
 だから私は時々贅沢を味わっている。
 たとえば、今日のように。

 5月3日(金) 「1,000億×2,000億分の1の幸福」

 自分の満足感に確信が持てなくなった。
 それがここ最近の大いなる迷いの始まりだった。

 少し前の私は、正しいか正しくないかを判断の基準にしていて、自分の中で感覚的に正しければそれですべて問題はなかった。その基準に迷いもなかった。
 けど、正しさという発想そのものに興味をなくしてしまった今、昔よりももっと感覚的な基準ーー気持ちいいかどうか、楽しいかどうか、満足できているかどうか、納得できているかどうか、そういったあやふやなものに頼るしかなくなってしまい、更にその基準そのものにも確信が持てなくなってしまったのだ。
 無重力でどっちが天井でどっちが地面か分からなくなってしまったみたいな感じとはこんなふうだろうか。

 今日一日、完璧に過ごせたとしても、私はきっと満足できないだろう。
 自分の生き方だけじゃなく誰の人生も誰の一日も正解に思えないのだから。
 
 別に悩んでいるわけじゃないし、深刻になってるわけでもない。それに生きる上で何らかの確信が必要なわけでもない。
 だけど、これはたとえば、目の前にあるなぞなぞの答えが思いつかなくて気持ちが悪い時の感覚のようなものだ。なぞなぞの答えが分かったからといって何か物事が解決するわけでもないけど、でも答えが分からないとどうにも落ち着かない、ちょうどあんな感じだ。
 
 設計図通りに建物が建たないことによる戸惑いじゃない。
 建築の途中で設計図そのものの致命的な欠陥が見えたというのか、もしくは設計図が高度すぎて建築の技術が追いつかないと言った方がいいだろうか。
 画期的なアイディアや新技術が見つかれば設計図通りに建つような気もするんだけど、悪いことにだんだん設計図そのものが気に入らなくなってきてしまったのだ。
 今その段階で行程が止まってしまっている。
 このまま建て続けるべきか、それとも思い切って設計図から描き直すべきなのか。
 あるいは何もかも放り出してしまった方がいいのか。
 
 確かなのは、昨日の完璧も今日になれば不完全になり、今日の絶対も明日になれば揺らいでしまう、ということだ。
 時間の計算違い、それが大いなる誤算となって今私に決算を求めてきている。
 無い袖は振れない、それで済むのだろうか?
 
                   *
 
 それにしても一つ、また一つと私の中から大事なものがはがれ落ちていく。大切なものだと思い込んでいたものたちが。
 自己満足や、自己完結や、正しさや、賢さや、美意識や、哲学や、言葉や、そういった、私の心を支えていたものたちが次々と私から離れていってしまった。
 今はもうほとんど何も残っていない。今の私はただ生き延びることだけを正義として生きている戦場の兵士みたいだ。意味を探すことなどとっくにやめてしまっている。
 でもこれは、もしかしたら退化でも老化でも堕落でもなく、むしろ進歩、成長を意味しているのかもしれない、と最近思うようになった。
 自分ひとりが幸せになってもそこが終わりじゃないし満足もできないことに気づいたから、そういう自分を支えたり満足させてくれたりするものを必要としなくなった、という見方もできるだからだ。
 自分の中が空っぽになったけど、同時にとても単純になった。余計なものを削ぎ落としたシンプルさは悪いものじゃない。最初から単純だったわけじゃないから。
 
 この先もきっといろんなものを失っていく一方なんだろう。でも、それでも残るものがいくつかはあるはずだ。それを大事にすればいい。
 この身がこの世界から消えた後、小さな心の結晶が残りさえすればそれでいい。
 
                   *
 
 私が探しているのは、完璧な幸福の向こう側だ。そこに何があって、そこで私たちは何をすべきなんだろう?
 それが知りたい。
 
 たとえば、この世から悪いことがすべてなくなったとする。
 戦争も、犯罪も、病気も、老いも、人の悪意さえも消え、人々は好きな仕事をし、平和な恋愛をし、勉強をし、芸術に親しみ、スポーツで健全に競い、美味しいものを食べ、そうやってこの世のすべての人がその人なりの幸せな暮らしを実現したとする。
 もし、こういう完璧に幸福な世界が実現したとして、人はそこで何をするのだろう? 欲しい幸福がすべて手に入ってしまったとしたら、次に何を求めるのだろう?
 そして、更に私はこう訊ねたい。
 この世界の完璧な幸福が私たちの本当に求めているものなのだろうか? と。
 
 人は誰でも何らかの幸福を求めて生きている。そして一つの幸福を手に入れると、もっともっとと欲を出す。欲望は果てしなく続く……ように思える。けど、もし欲しいものがすべて手に入ってしまったらどうするのだろう? そこで「あがり」だから、もう生きるのをやめてしまうのか?
 
 世界は、本当は幸福を求めているんじゃなくて、ただただ不幸から逃れたいと思っているだけではないのか?
 誰一人として、本当の意味での幸福の形を知らずに生きているように私には思えてならない。
 中にはそんなことはない、ちゃんと自分の幸せの形くらい見えていると自信を持って言える人もいるだろう。
 でも、そういう人にはこんな問いをぶつけてみたい。
 あなたの完璧な幸福のその先には何があるのだろう? という問いを。
 いや、嫌みを言いたいわけじゃない、ただ単にみんなはどう考えているのかを知りたいだけなのだ。
 完璧な幸福の向こう側のことに思いを巡らせたりしてるんだろうか?
 完璧な幸福のあとには完全な天国が続き、そこでハッピーエンドになって完結するのか?
 本当に心底それで満足なんだろうか?
 
 あるいは、完璧な一生というものを思い描いてみる。
 生まれついての天才で、顔も良く、家柄も良く、スポーツも万能で、性格も良くて、頭も良くて、学歴も最高で、その他非の打ち所のない人間が、幸せな恋愛をして、愛する人と結婚をして、子供にも恵まれて、仕事は成功して、地位も名誉も手に入れて、何かの勲章をもらって、大勢の友達に囲まれていて、歴史に名を残すようなことをして、大きな病気もすることなく、静かに年老いて、最後は苦しまずに眠るように死んだとしよう。
 こういう一生を私たちは目指し、こういう一生ならそれ以上もその先もないと私たちは思うべきなのだろうか? こういう幸福が完璧な幸福で、この先には何もないのだろうか?
 私にはどうしてもそうとは思えないのだ。その先にも何かが必ずあるはずで、そのことについても考えるべきではないかと思ってしまう。 
 完全な幸福の向こう側の存在に気づいてしまってから、私の人生は完全な迷路に迷い込んでしまった。
 それは、地の果てを目指して旅立ったら、その旅の途中でそこは地の果てでもなんでもないことに気づいてしまったようなものだ。
 
 私たちはまだ、海の向こうに何があるのか分からず、海の向こうを夢見るだけで船出することもできない小さな島の住人のようなものなのかもしれない。
 そう、私たちはまだ宇宙へ旅立つことさえできない地球の住人だ。
 地球の外には、広大な宇宙空間が広がり、1,000億×2,000億の星があり(私たちが住んでいる太陽系を含むこの銀河系には約1,000億の星があり、このクラスの銀河系が宇宙に2,000億個くらいあるだろうと言われている)、それぞれに生命があり、生命の数だけドラマがあり、そして、それぞれの幸福がある。
 宇宙は絶望ではない、希望だ。
 小さな星で小さな絶望に私たちは心を痛めなることはない。
 この地球の幸福が幸福のすべてでもない。
 大きな世界には大いなる希望があって、私たちはまだ、1,000億×2,000億分の1の幸福しか味わっていないのだから。
 宇宙には、まだ知らない無数の喜びがある。
 まだまだ行き止まりじゃない。


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