2002.4.8-

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 5月1日(水) 「趣味って」

 5月1日、メーデー。
 メーデーっていうくらいだから人々が何か助けを求める日に違いない、と小さい頃の私は思っていた。働く人たちがみんなで集まって、誰かに何か助けを求めているのだと。
 メーデー、メーデー。
 実はそうではなかったということに気づいたのはいつだったか。
 波浪警報がハロー警報ーー外国から来る何かの警報で貿易風と関係があるとにらんでいたーーではないと知ったのと同じくらいの時期だっただろうか。
 真犯人がドラマの後半から出てくる新犯人のことではないことを知ったのはもう少し後だったか。
 鷹狩りを鉄砲で鷹を撃ち落とす遊びだと言って笑われたのは去年だった。
 世の中いろんなことがあって侮れん。
 というか、私の頭が侮れん。
 それこそ、メーデー、メーデーと誰かに助けを求めたいくらいだ。

 ゴールデンウィークは私にしてみたら台風の通過を待つようなものだ。この期間は毎年動きが止まってしまう。5月という時期もあるのか、今ひとつやる気が起こらない。春でもなく、夏でもなく。
 語源となった映画へももちろん行く気にはなれない。
 遠出する気にもなれず、あまり誰かと遊ぶ気分でもなく、何かを始めようとも思えず、ただ通り過ぎた後のことばかり考えている。それが私のゴールデンウィークだ。ちっともゴールデンじゃない。
 そんなわけでゴールデンウィーク真っ最中の今日もごくごく普通に過ごしたのだった。

 あまり書くことがない。書かなくてはいられないようなことがないと言った方がいいか。
 これはある意味心が平和で幸せだからなのかもしれない。
 書くという行為は精神のバランスを保とうとする一種の自己防衛だから、何かを書かなくてはいられないというのはあまり良い状態ではない。
 便りがないのが良い便り、みたいに。

 もう一つ、書けない理由としては刺激が足りないからというのもある。
 毎日ちゃんと持ち時間いっぱいに使っているし、いろんなものを詰め込んでいるのに、それでも書きたいことがない。
 昨日、今日にしたって、ふとワープロを買ってみてそれが届いたんであれこれいじったりして、ビデオ(Victor HR-V1)をまたまた買ってしまいそれを整備したり、熱帯魚の水換えをしたり、出掛けたり、買い物したり、ビデオを観たり、ドラマを観たり、PCゲーム「信長の野望・将星録」を始めたり、筋トレしたり、石川ミーと遊んだり、本を読んだり、あれこれしていた。そうやって色々一日の中にすき間なく詰め込んでいるにもかかわらず書くべきことが見つからないというのは、それはもう完全に刺激不足だ。新しい刺激が決定的に足りない。脳が酸欠を起こしてものを考えられないのだ。

 別に書かなくてもいいっていえばいい。書く義務なんてないんだから。けど、書くという行為はここ15年ずっとやってきた行為で完全に習慣になってるから、書かないと気持ち悪いのだ。歯磨きを一回抜かしたように。
 だから書かなくてはいけないと思ってしまう。
 一番いいのは、自然に気持ちよく書くことだ。無理せず楽しんで。
 そのためにはやっぱり刺激を求めて今まで行ったことのないところへ行ったり、したことのないことをする必要があるだろう。
 たとえば一番簡単なのは外国旅行をすることだ。そうすればいくらでも書ける。
 ただ、それはそうなんだけど、もう一方で、何か新しい趣味のようなものを見つけたいという思いがずっとあって、それが去年から見つからなくて困っている。
 本、映画、ゲーム、ビデオ、ドライブ、写真、ネット、HP、それらに代わる新しい何かがないか。
 以前やったことのあるテニス、ゴルフ、野球、釣り、川遊び、車いじりなどでもなく。
 ここは思い切ってタンゴでも習ってみるか。
 ……。
 それはいくらなんでも唐突すぎるか。習い事苦手だし。
 みんなは一体どんな趣味に夢中になってるんだろう?
 なんかいい趣味ってないだろうか。金があんまりかからなくて、実益を兼ねるような趣味。ある程度自分ひとりで楽しめて、毎日の生活の中でできるもので。
 趣味ってこの世にあふれているようで実はそれほど多くないのかもしれない。考えても思いつかない。
 女装趣味とかそんなんじゃ駄目だし。

 さて、どうやら今日も新しい趣味は思いつきそうにない。今日はもう寝るとするか。
 何か夢の中でいい趣味が思い浮かぶといいんだけど。

 4月27日(土) 「人がいるから」

 人を元気にしたければ、元気を出していこうって口で言うよりも、元気な自分の姿を見せた方が手っ取り早い。
 それは文章でも同じこと。書いた人の元気は伝わるものだ。
 人は、他人に教わるよりも自分で学ぶ方が好きなものだし。
 
                   *
 
 プライドの問題なんかじゃない、乞われないことが問題なのだ。プライドなんてありはしない。
 ただ営業より小売りの方が私の性に合っているというだけのことだ。
 乞われてもいないのに押し売りはできない。
 恋愛でもそう。好かれないと自信を持って好きになれない。それは時々致命傷になるのだけれど。
 このまま乞われなければ私はこのままかもしれない。そうじゃないことを願うけど、これはこれでいいとも思う。

                   *
 
 気がつけば4月25日を何事もなく通り過ぎていた。
 十年一昔というけれど、確かに十年というのは短い年月じゃない。十年も経てば多くの悲しみも苦しみも薄れてしまう。
 忘れようとしてもしなくても。
 でもそれでいい。過去の記憶を思い出にかえて人は生きていけばいい。昔は昔、今は今。あの時はあの場所に確かに存在していたのだから。それが消えたわけじゃない。
 
 十年後の今、私が思うこと。
 36歳の尾崎豊が歌う曲が聴きたかった。
 
                   *
 
 天国は天国を信じる人間にとって必要なだけで、全員にとって必要なわけではない。
 東大に入れる人間が必ず入らなくてはいけないわけではないように。
 美人が必ず芸能人やモデルにならなくてはいけないわけじゃないように。
 
                   *
 
 かつて感心し、感動した宗教的教えは一体何だったんだろう、と今は思う。
 なんであんな程度の低い教えに感心してたのか、今となっては不思議で仕方がない。
 初恋の相手に10年後に会ったら一気に夢から覚めてしまったように。
 宗教は駄目なんじゃない。ただ、教えが手前すぎるのだ。目標はもっと先に設定しなくてはいけないのに。
 宗教的教えによる目標設定は、マラソンでいうと折り返し地点のようなものだ。大事なのはそこから折り返した後の後半から終盤にかけてなのに、そのことについては教えはおろか発想さえない。
 成長して天国へ行けば「あがり」だと言う。
 そんな馬鹿なと私は思う。
 宗教的ハッピーエンディングは、まるでハリウッド映画のハッピーエンディングみたいだ。でもこの世界はめでたしめでたしで終わるわけじゃない。その後もずっと続いていくのだ。悟りを開けばそれで終わりじゃない。
 私が知りたいのは天国の向こう側のことなのに。
 でもそのことは誰も教えてくれない。
 
 それにしても、まさか21世紀に入ってまだ宗教が幅を利かせ、自動車がでこぼこのアスファルトの上を走ってるとは思ってもみなかった。
 真の近代化への道はまだまだ遠そうだ。こんな調子じゃまだしばらく長生きするしかない。
 
                   *
 
 一つの選択を後悔して、もしそこに戻って別の選択をできたとしたら、私たちは今以上に幸せになれるだろうか?
 また別の後悔を生むだけじゃないのか?
 整形に終わりがないように。
 いずれにしても、もし別の選択をして生き直したとしたら、今自分の中にある多くの幸福の思い出も消えてしまうことになる。
 間違った選択が生んだ良い結果や幸せもあったのではないのか?
 過去の一点と今現在をダイレクトに結んで考えると大事なことを見逃してしまう。人生というのは連続なんだということを忘れないようにしないと。
 完全に正しい選択もないし完全に間違った選択もない。
 生まれてから今に続くすべての選択が結果的には正しいのだ。
 過去の選択を悔やんでもしょうがない。
 大切なのはこの先の選択を間違えないことだ。
 
                   *
 
 ネットをやっていろんなことを学んだり知ったりしたけど、その中でも一番よかったのは、30代、40代の人が本当はみんな10代、20代の延長を生きていることを知ったことだ。
 そんなことは当たり前なんだけど、社会生活の中では30代、40代は大人に分類されて、誰もが大人の役割を演じようとしている。みんな、もう子供は卒業したとでもいうように。
 でも、ネットの中で人は年齢から解放され、本来の自分を見せ、人と接する。その姿や言動は、私が10代、20代に関わってきた人たちと何ら変わるところはない。
 もちろん人は年齢と共に何かを見つけたり失ったりしながら変わってゆく。でも、その人が本来持ってる人間としての本質は30になっても40になっても、あるいはそれ以上になってもそんなに変わらない気がする。
 少なくとも、私が子供の頃大人に対して抱いていたイメージに比べて実際の大人はいい意味で子供だ。
 実際の社会の中では、人は子供の悪い部分を見せてしまいがちだけど、ネットの中では子供のいい部分を見せてくれる。
 みんな大人になってもそんなに変わっちゃいない。
 そのことが私を安心させるし、嬉しくもある。
 子供から見た大人は、なんだかつまらなそうで生きることを楽しんでないように見えたけど、決してそんなことはない。
 
 ネットには膨大な情報があって、便利な道具だと人は言うかもしれない。
 確かにそれはその通りだ。私も大いにその恩恵にあずかっている。
 けど、ネットの本質は情報などではないと私は思う。ネットは人間そのものなのだと。
 ネットにあるのは情報や知識だけじゃない。人がもっとも多くを学ぶのは人からに他ならず、ネットには人がいる。自分が学ぶべきものを持った大勢の人たちが。
 それこそがネットの本質だろう。

 いい時代に生まれあわせたものだと最近よく思う。ネットの誕生に立ち会えたのだから。
 この一点だけでも、この時代に生まれあわせた自分の幸運に感謝したい。
 もっと前に生まれていたら私は、もっと孤独で、もっと貧しい人間で終わっていただろう。

 4月26日(金) 「偶然頼み」

 楽しいだけの物事は人を幸せにはしてくれない。
 美人だけの女を愛せないように。
 人は苦しみや苦痛から逃れたいと願いながら苦しみから多くの恩恵を受けている。
 苦しみを感じなければ喜びも感じることはできないだろう。
 苦痛を伴わない楽しみは疑ってかかった方がいい。
 それは偽物だ。
 
                   *
 
 偶然を多用するラブストーリーは安っぽくていただけないけど、現実の世界で恋愛関係が成立するためにはドラマ以上に偶然の要素がなくてはならなかったりする。嘘っぽくて自分にとって都合のいい偶然が。
 偶然の助けなしには恋愛関係は成立しないのではないだろうか。
 人を好きになるのは簡単だけど、お互いを好きになることは小さな奇跡のようなもの。
 奇跡が成立するためには確かに偶然が必要だ。
 人が自力だけで実現できることはそんなに多くないように思う。
 
                   *
 自分だけがここから抜けたいわけではない。ひとりだけいい思いをしたいわけじゃない。
 せめて自分だけでも抜けたいと思っているだけだ。誰も抜けられないのなら。
 抜けられる可能性が確かに存在することを証明するために。
 今まで誰もできなかったことを誰か一人でもできたなら、その後は可能性が飛躍的に上がる。
 
                   *

 生きることがどんなに悲しくても、つらいことがあっても、それでも生きることはいいことだ。
 それはもうすごくいいことなのだ。誰がなんと言おうと。
 私は自分がどんなふうになっても最後まで人生を否定する気にはなれないだろう。
 たとえ99パーセント否定に傾いても、最後の1パーセントだけは否定できないものが残る。だから、その1パーセントを信じたい。
 生きることはいいことだ。たくさんの死を知れば知るほどそう思う。
 
                   *

 幸せになることがゴールだと思えるなら人生はシンプルだ。
 幸せがゴールじゃないことを知ったとたん、人生は複雑で難しいものになる。
 あるいは途方に暮れる。
 幸せの向こう側には日常があって、そいつはそこらの不幸とは比べ物にならないくらいやっかいだ。実体があやふやで戦おうにも戦えないから。

 幸福以上のものを知っていてそれを求めることができる人は幸せだ。でもそんな人間がどれくらいいるだろう?
 人は幸福の手前で絶望するんじゃない。幸福の向こう側で絶望するのだ。
 そして、最も絶望的な人間は、幸福になる前にそのことに気づいてしまった人間だろう。
 幸福の向こう側のそのまた果てには一体何があるんだろう?
 幸福以上のものが本当にあるんだろうか?
 
                   *

 自分が今抱えている虚しさが本物だとは思えない。
 これはとても確かな幻みたいなものだ。
 しっかり見えるけど手で触れることはできず、実体でもない。
 私に今見えている虚しさは、霊能者が見る霊のようなもので、本当は見えてはいけないたぐいのものかもしれない。
 けど、今更見えてないことにはできない。しっかり見えてしまっているんだから。
 この先は、この虚しさと対話しながら上手くやっていくしかないのだろう。
 虚しさと仲良しになれるだろうか。
 
                   *
 
 人生には常に崩壊の危険がすぐ横にある。
 おそらく、実際に崩壊してしまった人生のほとんどがその予感さえないまま突然やってきた崩壊につぶされてしまう。
 明日病気になると思って今日を生きている人は多くないだろうし、今日交通事故で死ぬかもしれないと思いながら家を出る人はほとんどいないだろう。
 事故、殺人、天災、その他、思いがけない不幸や不運で人の人生は簡単に崩壊する。
 時にほんの小さな亀裂から。
 だから、もし、今日を何事もなく無事に過ごすことができなら、それはもうものすごく幸運なことなのだ。大げさではなく。
 毎日まいにち、交通事故で20人か30人死に、毎日90人もの人間が自殺してるのだ。その他の事故や病死を入れたら一体どれくらいになることか。
 決して他人事じゃない。明日、自分の番が回ってきてもおかしくない。
 
 しかし、それでもなお、私は生きよう。強い気持ちで。
 決して死なないように。
 たとえ自分が最後の人間になったとしても。
 
                   *
 
 沈むために重く、浮くために軽く。
 その両方をできるようにならなくてはいけない。
 深く潜ってこの世界や人間について深く理解しなければいけない。
 でも重いだけでは溺れてしまう。水面に浮上するためには同時に軽くなければ。
 できれば高く舞うために羽も欲しい。
 水陸空、そのすべてを支配してこそ、本当の理解者になれる。
 軽いだけの人間では駄目だけど、重いだけの人間はもっと駄目だ。
 そして、速くなければ。
 
                   *
 
 人は歳を重ねるごとに自分を純化させていかなくてはいけない。
 いろんなものを飲み込んで濁っていくのだけど、それらを沈潜させていく必要がある。
 底に様々なものが沈んでいてもいい。表面だけはいつも澄んでなければ。
 純粋になるというのはそういうことだ。
 心に投げ込まれたガラクタを放り出して濁らないようにするのではなく、一切を飲み込んで底に沈めなくては。
 そうやって獲得した純粋だけが価値がある。
 濁った瞳の老人に決してならないように。
 
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 まだ書けないでいる言葉がたくさんある。
 書こうと思えば書けるんだけど、それはあくまでも想像で書けるだけで実際に基づいて書くわけじゃないから書けない。
 それらはまだ私の中にあって、出番を待っている。
 でも、その中の多くの言葉は一生陽の目を見ることなく私と一緒に消えていくことになるのだろう。そういう宿命の言葉もある。
 
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 映画もロングドライブも流れを変えることはできなかった。
 淀んだ流れのままゴールデンウィークに入っていくことになった。ここでまた動きが止まってしまう。
 春の深まりとともに気分は上昇したものの、毎日の流れは相変わらずよくない。すごく悪いわけじゃないけど、そこはかとなくどんよりしている。
 窓際の席で春の日差しを受けながら午後の授業を聞くとはなしに聞いている時みたいに。
 周りで起こっていることも自分以外の人たちも、どこか他人事で、退屈で、逃げ出したいけど逃げ出せないようなあの感じに似ている。
 今日の授業をなんとかやり過ごしても、また明日も同じ繰り返し。やりきれない。
 
 詰まらない学校へ行くのが楽しくなるには二つの特効薬がある。
 一つは好きな部活に入ること。
 もう一つは恋。
 その法則は学校を出てからでも変わらない。
 本末が転倒してもいい。まったくかまわない。
 結果的にすべてが楽しくなればそれでいいんだから。
 
 新しい趣味と、新しい恋。二つの宿題。

 4月22日(月) 「月へ行く夢」

 季節の気配を背後に感じて振り向いた時、季節はもうすぐそこまで迫っていて、次の瞬間並ぶ間も与えず、追い越してゆく。追いかけようとしてももはや追いつけない。手を伸ばしても届かない。
 それでも、季節が通った後に吹く風が背中を少しだけ押してくれる。ふっと、二、三歩よろめくように踏み出した足を止めず、そのまま駆け出したい。
 季節は見えなくなってしまっていても、息の続く限り、先へ。
 次の季節に追いつかれるまでにはまだ少し間がある。
 
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 大事なのはスタイルじゃない、立ち居姿だ。
 この言葉とこの言葉の意味が私は好きだ。
 立ち居姿の正しい人は正面から見てもいいし、後ろ姿もいい。
 逆に言えば、立ち居姿に感じるものがない人に惚れることはない気がする。
 
 それから手も感じる手と感じない手がある。
 細くて長い指は一種の才能だ。努力では文字通り手に入らない。
 きれいな手をした人を私は尊敬する。
 それに、手には意外と性格が表れるものだ。
 顔がきれいでも手がごつい人はそういう部分がある。

 人の好き嫌いというのは不思議だけど面白い。
 自分の好きなものをもっと大事にして愛すべきだと私は思う。
 
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 私は愚か者の存在しない世界で生きてゆく自信がない。
 全員が清く正しく美しいかったとしたら私はきっと狂ってしまうだろう。笑うことさえできず。
 正しさなんてものはほんのわずかでいい。塩胡椒少々程度で。多すぎるとむせかえってしまうだろう。
 
 私がこの世界の絶妙のバランス感覚に感心するのは、正しさや美しさが常に少数派であるといった部分だ。
 悪の栄えたためしはなくても悪がなくなったこともなかった。正義は常にわずかで弱かったし、ヒーローはいつも数人しかいない。美人も天才もそうだ。
 数パーセントの特別とその他、というこの構図がもっとも競争、進歩に適したバランス感覚なんだろうと思う。
 天才が存在しなければ目標や理想をイメージできないし、それが多すぎれば不公平感が広まって上下の格差が広がり二つの層に割れてしまう。
 
 こういう世界のバランス感覚が究極的に正しいとは思わないけど、現時点でもっとも健全なスタイルではあるのだろう。今の人間にとって。
 
 もしかしたら、ある時を境に、突然大量の明らかに優秀な人間が生まれてくることがあるかもしれない。天才的に賢くて見た目も美しくて運動能力も優れているような。
 その集団がやがて大きくなり、少数派から多数派へ転じた時、人類は新たな段階へ移行することになるだろう。
 ネアンデルタール人が消え、クロマニョン人になり、クロマニョン人にホモサピエンスが取って代わったように。
 
 いずれにせよ、この世界から愚かさが消えることはないだろう。どれだけ時代が進み、人類が賢く進化したとしても。
 愛という概念が存在する限り。
 
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『ビューティフル・マインド』を観に行ってきた。
 なかなかいい作品だった。悪くない。
 ただ、アカデミー賞受賞作を意識して観てしまった分、物足りないものを感じたのは確かだ。
 なんというか、ひどくとりとめがない。
 最初、『グッドウィル・ハンティング』や『シャイン』のようないわゆる「天才もの」かと思わせたのだが、途中からテーマがあっちこっちに飛んでしまって、一体この作品の基本テーマは何なんだろうと不安になる。
 時に『X-ファイル』のようになったかと思えば『カッコーの巣の上で』になり、また『グッドウィル・ハンティング』に戻ったりして。
 最後まで観終わった時初めて、ああ、なるほど、言いたかったのはそういうことだったんだな、と納得できたんだけど、それにしても途中のとりとめのなさはちょっとどうかと思う。
 駄目じゃないんだけどもったいない。演出も良かったし、ラッセル・クロウは上手かったし、もう少し脚本を上手くすればもっといい作品になったろうに。
 
 それともアカデミー賞受賞作だからというんで多くを求めすぎたのか。その前に観ていたらもっと素直に感動できた気もする。
 ただ、この作品がこの年最も優れたアメリカ作品として世界に誇れるほどの出来だろうか、と考えた時、やっぱり納得できないものが残る。単純に『グッドウィル・ハンティング』と比較しても、あっちの方が数段優れた作品だと思うし。
 まあしかし、面白いことは面白いし、引き込まれる部分も多いし、刺激的でもある。だから観て損はない作品である。
 ただし、ビデオで充分かな、というのが私の感想だ。
 
 ちなみに、この日の「春日井コロナワールド」の観客動員数は私を含めて7人。そのうち、エンドロールの最後まで席を立たなかったのは2人だけだった。
 
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 アポロ13号は実は月には行っていなかった。
 それは昔からささやかれていることだ。近年、それがささやきから噂になり、一部では動かない事実となりつつある。キワモノ雑誌だけでなく、イギリスのテレビが特集してちょっとしたブームになっているという。
 これがもし本当だとしたら、これは大きな問題だ。UFOの実在よりも大きな問題かもしれない。いや、あるいはこの事実が異星人の存在の間接的な証明になるかもしれない。
 
 問題は、例の月の映像が嘘か本当かではない。問題は、「何故行けなかったか」ということだ。その理由が重要な意味を持ってくる。
 一歩引いて、もしあの月着陸が事実だったとして、それなら今度は「何故あれ以降人類は月へ行こうとしないのか」ということが当然問題になってくる。
 月は一回行けばそれで終わりなはずがない。数時間、数人の人間が表面を調べたくらいで月のすべてが分かるはずもない。どう考えても不自然だ。
 人類が宇宙へ本格的に進出しようした時、宇宙に中継ステーションが絶対に必要になる。それには月以上に適した場所はないではないか。
 それに月には地球上には存在しない様々な資源や物質もあるだろう。それを研究せずにどうするのか。
 
「人類は何故月へ行けないのか?」
「人類が月へ行きたくても行けない理由があるのではないか?」
 
 月へ行けない理由を考えてみる。
 技術的な問題だろうか? たとえば、人間の体が耐えられないとか、ロケットが耐えられないとか?
 ロケットが人間を乗せて月へ行き着くことが不可能なのか、それとも帰ってくることが無理だとても言うのか?
 しかし、月へ行ったとされるあの年からすでに30年以上の月日が流れている。あれから宇宙技術は途方もないほど進化したはずだ。それなのにあれ以来一度も人類は月へ行こうとしなかった。少なくとも表立って計画が発表されたことはなかった。
 もし、本気で月へ行くための研究がなされているなら、今頃はとっくに行けていないとおかしい。定期便で一般人が観光旅行できていてもいいくらいだ。
 あるいは計画くらいはあって当然だろう。
 でも、できていない。これはしようとしてないからではないのか?
 では、何故月へ行こうとしないのか?
 日本人の宇宙研究者や宇宙飛行士は何故月へ行きたいとか、行くための研究をしてると口にしないのか?
 やはり、行きたくても行けないのではないのか?
 一番自然な考えはこうだ。
 
 月は他人のものだから。
 
 もし月にすでに誰かが住んでいたとしたら?
 そうなら地球人が勝手に乗り込んでいったり、そこを我が物顔で調べ回ったり、自分たちのものにしたりはできないだろう。
 もしそうだとするなら、そういう平和不可侵条約がひそかに成り立っているのか、それとも脅されたのか?
 異星人との密約などと言うとなにやら胡散臭くなってきてしまうけど、人類が月へ行きたくても行けない理由を考えていくとどうしてもそこに行き着いてしまうし、そこを避けては通れない。
 人類には確かに月へ行けない理由がある。それだけは間違いない。
 
 月は不自然な点が多い。
 まず衛星としては大きすぎる。惑星に対して4分の1の大きさの衛星など普通では考えられない。
 あと、自転と公転が同じ24時間周期というのも偶然にしてはできすぎている。おかげで地球からは月の裏側は絶対に見えない。
 そして、宇宙から撮影した月の裏側は表とはまったく違って表面がでこぼこなのだ。表の顔とは似ても似つかない。
 裏で何をしてても分からない。
 
 月は中身が空洞な宇宙船だ、と言ったら突飛すぎて笑うだろうか?
 しかし、実際そういう説がある。裏面がでこぼこなのはそちらを前にして飛んできたからだというのだ。
 更に月は150億歳くらいだという説がある。地球が約50億年だとして。
 ということはつまり、地球が誕生してから、月はどこか他から飛んできて地球の引力に引き込まれて衛星になったということになる。
 しかし、あれだけ大きな星が太陽ではなく地球の引力に捕まって安定するかどうか。地球にぶつかりもせず。
 
 人類はまだ月には降り立ってない、それが事実だったらどうだろう?
 という最初の問いに戻る。
 アメリカが嘘をついた理由は分かる。冷戦当時、ソ連とのロケット競争に遅れを取っていたアメリカが大バクチを打って嘘をついた、そういうことだろう。意味もなく嘘をついて自慢したかったからではないだろう。
 そんなアメリカの嘘はともかくとして、人類レベルの話でいまだに月へさえ人間が行ってないとしたら、それはかなり由々しき問題と言えないだろうか。なんとなく月へ行ったんだという安心感があってちょっと宇宙を征服したような気分になっているけど、まったくそんな事実はなかったとしたらどうだろう? とたんになんだか心細くなってしまわないだろうか?
 だまされていたことよりもまだ月へ行ったことがないという事実の方がこたえないか?
 
 まあいずにしても私が言いたいことはただひとつ。
 どうでもいいからもう一回行こうよ、ということだ。
 そう、もう一回行けばいい。そうすればみんなの疑惑も消えるし、納得もする。
 下らない戦争なんかに大金を使うよりもこっちに金を使う方がよっぽどましだ。その方がみんなも多少は気持ちよく税金を払うだろう。
 アメリカがやらないなら日本がやればいい。
 小泉の純ちゃん、どうですか? 多少は支持率も持ち直すかもしれないですよ。

 できることなら私が生きている間に実現して欲しい。月が駄目なら火星でもいい。
 宇宙人なんかいなくてもいい。我々が宇宙人になればいいのだ。
 
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 最近の毎日は、たちの悪い羊と、その羊飼いの気分を同時に味わっているような感じの毎日だ。
 ままならない。
 自分は言うことを聞かないし、自分は自分の言うことを聞きたくない。しなくてはいけないことを頑なに拒む自分がいて、その自分を持て余してしまう自分がいる。
 もっと自分の言うことを聞く自分に調教しなくてはと思うのだけど。

 はてさて、この羊はいつか賢くなるのだろうか。それとも死ぬまで愚かなままなのか。
 それはもう少し先までいってみないと分からない。
 羊だって、いつか空を飛べるようになるかもしれない。空を飛ぶ夢を見続けたならば。

 4月21日(日) 「ときめきの音」

 ときめきが始まる音は聞こえる。
 たとえば鼓動の高鳴りが。
 けど、ときめきが終わる音は聞こえない。
 ある日、気づいたら終わっている。音もなく。
 
 終わったときめきの前で、人は何ができるだろう?
 ときめきを引き戻そうとする努力か。
 それとも、思い出そうとする試みだろうか?
 私には分からない。ここのところそのことをずっと考えているんだけど、どうしても分からない。
 終わったときめきの前で私は無力だ。言葉もない。
 
 一番恐ろしい怪物は、絶望や不幸ではなく、退屈でさえなく、日常というやつかもしれない。
 日常が人から多くのものを奪っていく。ときめきや、感動や、幸福や、夢や、恋さえも。
 そして人は非日常に逃げようとする。大切なものを思い出すために。でもそれは一時的な避難でしかなく、また日常に捕まり、飲み込まれてしまう。
 もはや人に残されたのは思い出だけだ。
 
 人の感覚が鈍くなっていくということがどういうことなのか、まだ今の私にははっきり分かっていない。今はまだその途中だから。けど、確かにその予感はある。感覚的に鈍くなっていっているし、今まで楽しめていたことが段々楽しめなくなってきている。これはやはり年齢から来る鈍化なのだろう。
 このまま進行するのか、それともどこかで止まるのか。
 いずれにしても、ときめくことが難しくなっていることに寂しさを感じずにはいられない。
 
 何故こんなことを書いたかというと、おととい行った若狭湾ドライブに感じるものがあまりなかったからだ。
 行く途中も帰り道でも何かが足りないように思えて仕方がなかった。海を見ても、潮風に吹かれても、運転に疲れても、ついに心が大きく動くことはなかった。ご飯が美味しく食べられない時のように。
 それはきっと、ロングドライブというものが特別なことではなくなったからなんだろう。非日常ではあるけど、予想不能なものではなく、予定調和なものになってしまったのだ。
「まだ行ったことのない街や土地に、まだ走ったことのない道で行く」というのがロングドライブのテーマだったけど、もはやこれが同じことの繰り返しになってしまった。距離感や時間の感覚も分かってしまったし、走ったことのない道もほとんどなくなってしまった。八方へ向かう主要な道はほぼ。
 映画館が非日常へ私を連れてくれなくなったように、もうロングドライブや海までもが特別なものではなくなった。
 そして、思った。これで一般道で行くロングドライブはひとまず完結した、と。
 
 けど、これは悲しむことではまったくない。何かが終わるということは何か別のことが始まるということだから。またロングドライブに代わる何かを見つければいい。ときめかせてくれる何かを。非日常へ連れていってくれる何かを。
 
                   *
 
 ああ、そうそう、天橋立だけど、とりあえずあそこまでは行った。確かに辿り着いた。
 がしかし、結局天橋立には何があって、どんなものなのかということはまったく分からないまま帰ってきてしまった。今もって分かってない。天橋立って、橋かなんかあるの? ってな具合だ。
 どうしてそんなことになったかといえば……。
 天橋立の寸前まで行ったところで細い道に入り込んでしまい、そこでオヤジ二人組に有料駐車場に導き入れられそうになった私は慌ててオヤジの魔の手から逃れ、大急ぎでその場から走り去ったら何やら道が分からなくなってしまい、でもいいや、そのへんにこっそり路上駐車して歩けばいいだろう、などと甘いことを考えていたら敵もやる、そんな場所は付近にはまるでない、うー、弱ったなぁと思いつつ停められるところを探しながら車を走らせていたらどんどん天橋立から遠ざかってしまい、ついには歩き不能な地点まで行ってしまった、というわけだ。なんてこった。
 というわけで結局天橋立の寸前まで行ってついに天橋立を拝むことは叶わなかったのだった。
 私が甘かったようだ。さすが日本三景の内の一つ。平日にフラッと立ち寄ってそこらに車を停めて、ほうほうこれが天橋立か、なるほどね、などと一人ゆっくりぼんやり眺められるほど安易なものじゃなかった。
 付近には観光客のおばちゃんおっちゃんが盛りだくさんに溢れ返っていて、そんな雰囲気でもなかった。。
 日本三景、侮り難し。負けた……。
 
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 世の中には何かを探す人も必要なのだ。自分の人生を生きる人だけじゃなく。
 別にそれが偉いわけでも愚かなことでも特別なことでもなく、そういう役割も必要だというだけのこと。学級委員や保健委員や体育委員などがそれぞれ必要なように。
 才能というのも割り振りであって、才能が多いほど正しいわけでもない。
 人は一人で何もかもできるわけではないから役割を分担するしかない。それで才能を振り分けてるだけだ。

 人はもっと他人の役割を尊重しなければいけない。
 人と同じことができることが偉いんじゃない。自分にしかできないことがあることが偉いんだ。
 だから教育というのは差別化や専門化であるはずなのに、どうしてみんな同じような人間にしようとするのか? 馬鹿げている。
 ただし、必要なのは個性ではなく特別な能力だとうことを忘れないようにしなくてはいけない。人と違っていることが正しいのではなく、人と違うことができることが正しいのだ。
 そのためには自覚と訓練が必要になる。生まれつきの変わり者がいいわけじゃない。

 人は誰でも、自分が一番得意だと思うことをやるべきだと私は思う。現実はそんな理想通りいかないさなどと言い訳せずに。
 
                   *
 
 絶望の闇は暗くて深いけど、それを打ち消すのはほんの小さな明かりでいい。闇が深ければ深いほど明かりでも役に立つように。
 私はあなたの小さな明かりになれてるだろうか?
 あなたはきっと誰かの明かりになっている。そのことがあなたを救いはしないだろうか?
 
 人生は、どんなに悲しくても苦しくても退屈でも、生きるに値する。
 死よりも悪い生は存在しないから。死んだ方がましという言葉はあってもそんなことは決してない。
 だから死なないように。
 人は確かに死ぬ。けど、なるべく死なないように生きる必要がある。
 死以上の絶望はない。
 
                   *
 
 私は、この世に存在するあやゆるものを否定する確かな理由を一切持ち得ない。
 人も、物も、生き物も、悪も、犯罪も、時代も、時間も、神も、宇宙も、歴史も、愚かさや、戦争や、愛や、希望や、理想や、絶望や、不幸さえも。
 たとえ意味など何もなかったとしても、すべての存在は連鎖し、互いに関連し合い、変化しながら確かに今目の前で成立している。この世界のどこを否定できるというのか? どこか一ヶ所を否定することはこの世界全体を否定することになる。
 
 何も否定せず、裁かず、すべてを受け入れ、物事をあるがままに見て、自分の生を生きること。
 そして、愛すること。
 
                   *
 
 私が受けたあらゆる教えは、日々私の中で更新されてゆく。
 そのことに戸惑いながら嬉しくもある。もはやすべてのことが未知だから。
 この先、私は自分で教師と生徒を兼ねていくしかないようだ。
 かつての彼等がそうであったように。

 4月15日(月) 「どこもかしこも変わりたいわけじゃない」

 時間に取り残され、季節にも追いつけず、私は動けない。
 風景だけが自分の横を流れていくようだ。
 人も背景の中に溶け込んでしまって。
 あなたの悩みはなんですか?
 ーー動けないことです。
 そんな答えが許されるのかどうか。
 でも本当に今の私にとって一番の悩みは、動かそうとする足が動かないことなのだ。

                   *
 
 たくさん書いた言葉のすべては嘘じゃなけど、もう今それはここにない。
 あの頃の私が今ここにいないように。
 過去はすべて過去に属すもの。
 今こうして書いている言葉も、書かれた瞬間から急速に風化して過去の方に飛びすぎていって、もはや私のものではない。
 書かれなかった言葉だけが私の中に今なお存在している。
 伝えられなかった本当の言葉も。

                   *
 
 忘れてしまったことを思いだそうとする努力のような無駄な努力がこの世にはたくさんあって、そこで引っかかって前へ進めなくなっている人をよく見かける。
 私もその一人だ。
 あなたはそれを愚かなことだと嘲笑して終わりにしてしまうだろうか?
 それとも、愛すべき間抜けと笑って許すだろうか?
 私はそんな愚かな私を叱りたい。
 無駄な努力など、自己満足と自己憐憫と言い訳に過ぎないのだから。

                   *
 
 夢を見るのは正しい。
 夢を見させるのはもっと正しい。
 より正しくなりたければ、あなたは誰かに夢を与えられる人にならなくてはいけない。
 誰かがあなたに夢を見させてくれたことに対して報いるためにも。
 
                   *
 
 僕は僕を救う。君は君を救え。
 それが基本だ。
 けど、この世界を上手に生きるためには基本に忠実なだけでは充分ではない。時に基本を外れることも必要だ。
 君が私を救い、私が君を救う、その方が上手くいくことだってある。
 
 あるいは、何人もの人から救われなければ生きられない人がいて、大勢の人間を救える人がいる。
 君はどちらがいいだろうか?
 救う方?
 救われる方?
 それだけははっきり自覚しておいた方がいい。
 自分は救う側の人間になりたいのか、それとも救われる側の人間になるのか。
 それによって生き方の基本姿勢が変わってくるだろうから。
 
 私は、誰かを救うことで自分を救いたいとずっと願っている。
 
                   *
 
 本当に丈夫な体というのは、一回も病気にかかったことがない体ではなくて、あらゆる病気にかかってそれを克服して免疫を作った体なんじゃないかと思う。
 心や精神にも同じことが言える。本当に強い心というのは、悲しみや苦しみを寄せ付けない心ではなく、あらゆるネガティブな感情ーー悲しみ、苦しみ、絶望、虚しさ、怒りなどを自分の意志で克服した心だ。
 強くなりたければ、苦悩から逃れようとしてはいけない。そいつらをやっつけなくては。
 もしくは、仲良くするか。
 
                   *
 
 人は色々なものから成り立っている。脳や心や精神や体や魂や遺伝子などから。
 それらは必ずしも仲良く共存してるわけではなく、それぞれが別々の思惑を持って闘ったり時には共犯関係を持ったりしてギリギリのバランス感覚で成立している。
 もし、自分は自分の意志が全面的にコントロールしている存在だと思っているとしたら、それは非常に危うい。いつかどこかに裏切られ、復讐されるかもしれない。
 自分という存在は単一のものじゃない。複合体だということを忘れないように。
 あなたはあなたであってあなたじゃないのかもしれない。
 
                   *
 
 変わりたい部分が変われずに、変わりたくないところばかりが勝手に変わっていってしまう。
 体でも都合良くあそこを出したてここを引っ込めるってわけにはいかないように。
 その中でもやはり一番悲しいのは、今まで自分が好きだったものがいつの間にか好きではなくなってしまっていることに気づいた時だ。
 好物だった食べ物があまり美味しく感じられなかったり、好きだった作家の本が面白くなかったり、大好きだった映画をもう一度観てみたらまるで面白くなかったり、そんなことがある。特に30を超えてから増えてきた。
 好きだったものが嫌いになってそれをもう一度好きになることは、大嫌いだったものを好きになるよりも難しい。気持ちの揺り返しがあったとしても、二度と100パーセントまで戻ることはないだろう。ごく一部の例外を除いて。
 
 毎日、変わろう、変わらなくちゃ、と思いながら変われず、その一方で目に見えない変化がひそかに進行している。
 せめて自分が変わりたい部分が思い通りに変えられるといいんだけど。
 
 これまですべての変化を受け入れてきた。これからもそうするだろう。
 それにしても最近の変化はどこかがおかしい。納得できないというか釈然としない。単なる衰えではない、違和感があるのだ。
 この先、この変化は更に加速していくのか。それとも一時的な変化にとどまるのか。
 ただ、どちらにしても変わろうとする意識だけはいつでも持ち続けていないといけないということだけは確かだ。
 まだまだ変われる余地はたくさんあるのだから。
 
                   *
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 今週は月曜から飛ばしていくはずだった。
 が、いきなりけつまづいた。起きたらやけに頭と体がフラフラしてバランスが取れない感じだったのだ。船から陸に上がってすぐの時のように。ちょっとびっくりした。あれはなんだったのか。
 酒は飲んでない。ここ10年くらいほとんど。
 少し風邪気味なのかもしれない。だるさと熱っぽさがあったから。
 
 さい先の悪いスタートになってしまい、おまけに明日から週末まで天気が崩れるらしい。これでまた動きが鈍くなる。
 せめて金曜のロングドライブだけは実現したいところだけど金曜の天気も少し怪しいようだ。
 
 映画はまた延期。本当は今日『ビューティフルマインド』を観に行くはずだったのに。
 来週のメンズデーに行けるかどうか。
 
 今日始まったドラマ「空から降る一億の星」はみんなどう思ったんだろう?
 私からすると、「ダメな方の北川悦吏子が書いてしまった」ように見えたんだけど。
 北川悦吏子は素晴らしく出来のいい作品を書く一方、同じ人とは思えないほどの失敗作も書く。今回はその悪い方が出てしまった気がする。少なくとも出だしとしては良くない。
 ダメな時は配役の致命的な失敗をするんだけど、今回はまさにそのパターンだ。
 明石家さんまと木村くんのコンビは、ハンバーグ定食とカレーライスみたいなもので一度に出されてしまっても困ってしまう。そこにもってきて井川遙という珍しいデザートまで同時に出されてしまっては一気に食欲まで失せてしまうというのだ。
 食べ物でも俳優でも合う組み合わせと合わない組み合わせがある。美味しいものを集めて出せば喜ぶと思ったら大間違いだ。
 北川悦吏子のせいだけではないんだろうけど、ちょっと観ていてイライラしてしまった。
 
 このドラマを観た後ということもあってか、「天国への階段」はかなり出来のいいドラマだ。面白い。読んでないけど原作がいいのかもしれない(白川道の同名タイトル)。
 今回はこれと「ビッグマネー」がお気に入りになりそうだ。
 
 あと、もう一つオススメがある。
「九龍で会いましょう」だ。
 これ、ヘン……。
 かなりのドラマ通でも一回目は見逃してしまったんじゃないだろうか。なにしろ放送時間が土曜の朝11時15分〜12時10分という訳の分からない時間帯だから。
 ヘンなのは時間帯だけではもちろんない。いや、時間帯がヘンだから内容もヘンになってしまったのか。とにかくヘンなのだ。そこはかとなく。
 キャストは、主役に河村隆一(この時点ですでに怪しい)、相手役が石田ゆり子で、脇は東幹久、伊原剛志などなど。
 うーん、いい。なんというか、昼メロのようであり、夜10時のドラマのようであり、そのどちらでもない。そう、言うなれば土曜の午前中的だ。ズレ具合が。
 それにしてもあまりのくだらなさに最初の30分くらい力尽きそうになったんだけど、いや待て、もしかしたら何年かしたらこれは知る人ぞ知る幻のカルト・ドラマになるかもしれない、と思い直して頑張って観てみたのだった。
 いやぁ、でもやっぱり面白くなかった。
 でも、ある意味これは今回のドラマの中で私の一押しかもしれない。みんなにもぜひこのヘンさを味わって欲しいから。来週から観てくださいねー。土曜の朝11時15分からですから忘れずにー。
 一体視聴率何パーセントだったんだろう?
 
                   *
 
 また夢の内容が少しおかしい。なんとなく自分の夢じゃない感じなのだ。
 今日は自分らしい夢を見たい。

 4月14日(日) 「たくさんのもっとを」

 心の中にたくさんの「もっと」を持っている人でありたいと思う。
 もっと、もっと、といつも今以上の何かを求めていたい。
 自分の中に「もっと」の数が減ってしまう時があるけど、そういう時は不調な状態だ。
 逆に言えば「もっと」が多い時は調子がいい。
「もっと」という気持ちがなくなってしまうとそれ以上先へ進めなくなってしまう。

 私は欲を否定したくない。だから欲を捨てろという宗教的な発想は好きじゃない。
 欲は確かに人を間違った道に導きやすい。けれどその反面、欲こそが人の進歩や成長の原動力になる。欲を否定することは人の向上を否定することだ。
 大事なのは欲を捨てることじゃなくて欲をコントロールすることだろう。
 金が必ずしも悪や罪を生むものではなく使いようによっては人を幸福にするのと同じように。
 
 欲を捨ててきれいになって成長を止めて、そこで何ができるというのか?
 人間はこの世界で時間に運ばれながら常に変化している。状況も自分自身も。その状況の中できれいになるだけでは充分ではないはずだ。
 きれいになって身軽になるのは大切なことだけど、それはより早く走るためだろう。
 そう、肝心なのは身軽になることじゃくて走る行為の方なのだ。

 人は欲なしには走れない。
 それなら欲を捨てちゃいけない。欲に振り回されない強い心を持って走るべきだ。
 欲を捨てろなどという詰まらない考えの方を捨ててしまって。
 
                   *
 
 もっとすべての瞬間を大切にしなくてはいけないよなぁ、と最近つくづく思う。たとえばトイレでしゃがんでいる時とか、車をぼんやり走らせている時とか、眠りにつく前とかに。
 もっと前からそうしなくちゃいけなかったんだけど昔はそのことに気づかなかった。全然そんなこと思いもしなかった。今思うと昔は本当に時間を無駄遣いして、毎日をあまりにも無自覚に過ごしすぎていた。
 けど、時間は戻らないし、今気づいたんだからこれでいい。今からそうすればいい。手遅れでも何もしないよりはましだから。
 
 毎日の一つひとつの行為や、特別な時間の一瞬いっしゅんや、言葉の一言ひとことを、正確に感じて、現実以上の感覚で捉えなくては。
 これから先、無駄な瞬間など一瞬もないくらいの心意気で。
 
                   *
 
 涙で前が見えなくても大したことじゃない。
 それで前へ進めないなんてそんなものは言い訳だ。前が見えなくても進める。
 悲しみは過大評価も過小評価もしてはいけない。
 下を向いて泣かないことだ。前を向いて泣けばいつでも前に進める。
 
                   *
 
 私にとって他人の不幸は私の不幸じゃないけど、他人の幸福は私の幸福だ。
 心が広いんだか狭いんだか、自分でもよく分からない。
 ただ、昔から人をうらやんだりねたんだりという精神回路は私の中に見あたらなかった。
 人の不幸に心が痛むことはないけど、人の幸福をねたましいとも思わなかった。
 他人の恋を邪魔しようと思ったこともないし、恋人達を見て腹が立つなんてこともなかった。
 別に自分ひとりで満ち足りているわけじゃないし、他人に対して関心がないわけでもないけど、たまたまそういう精神回路が備わっていないようなのだ。
 ごくごく当たり前の感覚として、この世界に生きるすべての人と生き物が幸福になればいいと思っている。
 要するにおめでたいんだろう。
 
                   *
 
 当たりクジしかないクジなんてちっとも面白くないだろう。アイスを食べたら棒に「アタリ」と書いてあって喜んでもう一本もらって食べたらそれもまた「アタリ」で、更にまた「アタリ」でそれがずっと続いたらしまいにももうアイスなんて一生食べたくないくらいになってしまうに違いない。
 人生もそうだ。幸運ばっかりの人生なんてきっとちっとも面白くない。一つも不運や不幸のない人生なんて退屈で嫌になってしまうはずだ。
 だから、人生は時々アタリがあるくらいでちょうどいい。
 まあ確かに、おい、これホントにアタリ入ってるのかよ、っていうようなクジや人生もあるにはあるけど、それもまた人生。アタリがないくらいでクヨクヨしちゃいけない。ちょっとした手違いくらい笑って許してあげないと。
 
                   *
                   *
                   *
 
 この週末は必要以上にのんびりしてしまったから来週は頭から飛ばしていかないと。
 明日メンズデーで映画を観に行って、金曜日遠出、という予定。
 さて、ちゃんと予定通りいくかどうか。
 確率は70パーセントを切るくらいかな。
 
 F1サンマリノ・グランプリをちらっと観る。
 セナがこのサーキットで事故死してから8年。
 あれ以来私の中で何かが死んでしまって、何かが決定的に変わってしまったけど、でもセナ・ショックからはようやく抜け出せたようだ。
 時間の経過と共に記憶は少しずつ風化していき、いろんなことを受け入れられるようになったから。
 生きていないと分からないことがたくさんあって死んでしまったら詰まらない、というのが今まで見てきた多くの死から私が学んだことだ。
 生に執着することで得られるものから私は多くを学びたいと今は思っている。
 
 yahoo!オークションが今日から有料化第二段を始めやがった。
 出品ごとに10円取られる。たかが10円とはいえ、やり方が納得できないからどうも気に入らない。
 しかし、長い目でみればこれは受け入れざるを得ないのだろうとは思う。私が始めた2年前に比べてあまりにも巨大になりすぎてしまって、今のままじゃyahoo!も支えきれなくなってきているのが分かっていたから。
 第一段の有料化でかなり安全になったし、結果的に今回のシステム利用料でその傾向は強まるだろう。
 基本的にyahoo!は好きじゃない。けど、今オークションができないとなるとビデオ生活に多大な影響が出てしまうので離れるわけにはいかない。他のオークションサイトでは規模が小さすぎて話にならないし。
 というわけで、とりあえずは出品を控えつつ落札中心でいくことになるだろう。問題は出品数が減ってその結果競争率が上がって落札金額が高くなってしまうであろうことだ。実際どの程度になるのか予想できないけど、今回のシステム利用料は出品者にとっての災難というよりむしろ落札者にとっての災難なのかもしれない。
 利用者の反発がおさまった後どうなるかだ。元に戻るのか、それともみんな離れていってしまうのか。
 しかし、yahoo!もこんな好き勝手なことしてたんじゃいつか転落してしまう日が来るだろう。そんなyahoo!にはこの言葉を贈ろう。
 
「驕れる平家久しからず」
 
 それはそうと、次はどのビデオを買おうかな?
 などと悩みつつ、今日も一日は平和のうちに終わってゆくのだった。
 めでたし、めでたし。

 4月12日(金) 「自分彫刻」

 楽しいけど虚しい、その感覚につきまとわれて振り切れない。
 
 10代には10代の、20代には20代の、30代には30代の虚しさがあり、それぞれまったく別のもので、似てさえもいない。
 20代で完全にやっつけたと思った虚しさが、形を変えてまたもややってきた。こういう形の虚しさは想像してなかった。

 いつでも共通してるのは、最大の敵は世界でも他人でもなく自分の内にある虚しさだということだ。
 こいつに打ち勝たなければどうしようもない。逆に言えば、こいつに勝ちさえすれば後はどうにでもなる。
 虚しさはとても手強い。けれど、飲み込まれたらおしまいなんだから、負けるわけにはいかない。

                   *

 女はいくつになっても女だし、男はいくら年を取っても男の子なのは、自分の中で時間が連続しているからだ。記憶が連続してるからといってもいい。
 ちょうど陸続きと島々の関係にたとえると分かりやすいかもしれない。たまにしか会わない他人から見れば島から島への距離のように見えるけど、本人からすれば陸続きになっている。同じ距離でも島と島では遠く思えるけど、陸続きならそれほど距離を感じない。それに似ている。
 女も男も自分を見る時は、過去の自分の残像を見ている。

 たとえば思いやりというのは他人に同情して情けをかけるようなことを言うんじゃなくて、自分の感覚を相手にも同じようにあてはめてその人の内面を理解することだ。
 相手のわがままをすべて叶えてやるとかそういうことでもなくて。
 本当の思いやりとか親切などというのもは、非常に高度なテクニックを必要とする心のコントロールが生み出すものだと私は思う。
 そんなことを最初から自然にできる人間なんてほとんどいないはずだ。だから訓練してそのテクニックを身につけるしかない。
 偽善を恐れずに偽善を乗り越えた先にこそ、本当の優しさがある。
 
                   *
 
 他人から自分を駄目だと言われると腹も立つし納得もできないけど、自分が自分を駄目だと思う分には全然嫌じゃないし素直に肯定もできる。
 生きるほどに自分の悪いところも色々見えてくるようになるんだけど、それは悪いことじゃない。むしろ気持ちがいいくらいだ。
 自分に対する過大評価は逆に自分を苦しめたりするもんだし。
 
 生きるというのは、自分の外側をどんどん削っていって内側に眠っている自分の本体を掘り出す彫刻のようなものなのかもしれない。
 削っても削っても本体は見えなくて自分がどんどん小さくなっていって不安になってしまうものだけど、実際の自分なんてものは元々自分が思っていた大きさの10分の1程度なんじゃないだろうか。
 本体を掘り出して、もうこれ以上は削れないってところまでいって初めて、そこから自分を磨く作業に移ればいい。それまでは潔く自分を削ることだ。
 削りもせず自分の外側だけピカピカに磨いてもちょっとした攻撃で削れて傷がついてしまうだろう。でも、本体なら他からのどんな攻撃にも傷はつかない。
 
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 新ドラマが始まって出揃ってきた。もちろん私はほぼ全部観ている。
 今回は春ということでどの局もかなり気合いが入っているようだ。出演者も脚本家も。
 出だしはかなりいいんじゃないだろうか。どの作品もレベルが高いと思う。
 その中で私が気に入りそうなのが、「ビッグマネー!」、「眠れぬ夜を抱いて」、「夢のカリフォルニア」あたりだ。一回目としては期待以上に面白かった。
 その他、「天国への階段」、「整形美人」、「ウェディングプランナー」も悪くない。
 ちょっと乗れなかったのが「春ランマン」と「しあわせのシッポ」といったところか。
 まあ何しても今回は全体的に期待できそうなので楽しみだ。野島伸司もちょっと久しぶりだし。
 
                   *
 
 さて、今日はこれくらいにしておこう。
 週末はのんびりできるけど、のんびりしないように。なるべく自分で用事を作って少しでも忙しくすること。

 では寝るとするか。
 今日はどんな夢になるんだろう。最近ちょっと夢の内容が変わってきている。
 とっくにやめているタバコを吸う夢とか、15年もやってない草野球をしてる夢とか、なんだか今までほとんど見たこともないようなタイプの夢が続いてるから、今日もちょっと楽しみだ。
 それにしても、夢の質の変化はいい傾向なのか、それとも何か悪いことの前触れだったりするんだろうか?

 4月11日(木) 「感謝すべき小さな幸福たち」

 この旅は謙虚さを見つけるための旅じゃない。
 謙虚さは確かに必要なものの一つだ。人としての基本でもある。けど、それが目的ではないし、謙虚な人間が偉くて正しいわけでもない。
 謙虚さは見せびらかすものじゃなく、こっそり内側に持っておくものだ。
 そして、傲慢と謙虚さを両方同じだけ抱えてやるべきことをやる、それが大事なこと。
 謙虚さだけでは自分をどこへも連れていってはくれないだろう。
 
                   *
 
 誰もが本当は何も分からないまま、毎日を手探りで生きている。
 大人も子供も、年を取った老人も。
 毎日は今までまったく経験したことのない新しい一日だから。
 分からないことは恐ろしいこと。だけど、みんなそうなんだから自分ひとりが怯えることはない。
 そして、忘れてはいけない、他人や親もそうなんだということを。
 だから、自分に優しく、人にも同じくらい優しく。
 
                   *
 
 争いのない平和な世界が一番だと人は言う。
 でも、勝負のない世界で生きて本当に楽しいだろうか?
 勝負がないということは争いがない反面、競争もないということだ。
 学校の成績もなく、受験もなく、金の概念もなく、メーカーもブランドなく、スポーツもコンテストもレースも賞もないような世界の一体どこが面白いというのか?
 この世から戦争だけなくすなんてのは無理な話だ。現実的にも論理的にも。
 少なくとも今の人間や世界観では現実感を欠いた妄想に違いない。
 争い事は不完全な人間が成長するためにはなくてはならないものだ。争いを否定できるほどまだ人間は立派なもんじゃない。
 人間にはもっとたくさんの勝負が必要だろう。だから争いも否定はできない。
 
                   *
 
 人生はサバイバル、私たちはサバイバー。
 そう、生きることは生存を賭けた戦いだ。すべての面において。
 食べることは死との戦いだし、自然や動物との戦いもそう、寝ることや遊ぶことだって精神が狂ってしまうわないための戦いだし、体だってたえず病原菌と戦っている。
 毎日何気なく過ごしているようだけど、実は人間というのは日々戦っている。そのことをもっと意識してもいい。もっと意識的に戦うことでより良く生きられるようになるはずだから。
 一番大切なのは生き延びること。死は悪であり罪だ。死んだらすべてがおしまいになってしまう。
 どんなに悪いことをしても罪を犯しても生きる意志を持って生き延びることが正しい。それが唯一の正義と言ってもいい。
 この世的な罪なんて大局的に見ればなんてことないものばかりだ。もっと大きな見地で見れば生き残ることの絶対的な正しさが分かるだろう。
 汚くても格好悪くても生きること。全力で戦って。
 とにもかくにも死んでる場合じゃない。それだけは確かだ。
 
                   *
 
 一日はそこはかとなく幸福だったり、意外と長い気がして少し嬉しかったり、そういう小さな喜びに気づけるのはいいことだ。
 不満や不安や悩みなんかはたくさんあるけど、そういう小さな幸福が一所懸命悩みや不安と戦って打ち消してくれているのだろう。
 誰にでも分かる大きな幸福に感謝するのは簡単だ。でも私たちがきちんと感謝しなくてはいけないのは、もしかしたらそういう見逃しがちな小さな幸福なのかもしれない。
 
                   *
                   *
                   *
 
 ビデオは今、6台体制で落ち着いている。とりあえず不満はない。いや、もう1台あってもいいけど。
 だいぶ自分に合ったスタイルが分かってきて、基本形は完成に近づいた気がする。
 常時録画できる体制のビデオを3台用意しておいて、3番組同時録画をしてる時でも、2台で再生しつつ、もう1台は巻き戻し専用に空けておくと無駄がなくていい。
 何故再生に2台必要かというと、1台には字幕系のきっちりテレビに向かって観ないといけないビデオを入れておいて、もう1台にはナガラで観られるようにドラマやバラエティーや吹き替えなんかを入れて、両方をその都度切り替えながら観るためだ。
 というわけで、どうしても最低6台は必要なのだ。必要ったら必要なのだ。
 
 前からずっと欲しかったビクターのHR-VX1をようやく買えた。チューナーが時々映らなくなるという故障があったためにリモコン、マニュアル付きで3,300円と格安で。
 で、使ってみた感想はというと、トータルバランスの取れたいいビデオだ、というのがこれまでのところの結論だ。欠点の少ないビデオという言い方もできる。
 画質に関してはさすがにデジタル処理が効いていてかなりきれい、、動作もまずまず速い、メカの動作音も静か、テープの出し入れも高級感がある。うん、悪くない。さすがにバブルの影がすっかり消えた1995年で定価15万円だけのことはある。
 タイムスキャン(再生しながら早送りした時、ノイズバーが出ずに音声も聞ける)もなるほど気持ちいいもんだ。
 これはかなり気に入った。デザインも好きだし、大事に使っていこう。
 
 しかし、HR-VX1の画質を見て、HITACHIの7B-BS87の実力の高さをあらためて思い知ったのだった。
 HR-VX1も画質にはかなり定評のあるビデオだけど、画質だけなら7B-BS87の方が一段か二段上だと思う。再生だけじゃなくチューナーも。
 まあもちろんその他の部分ではすべてにおいてHR-VX1の上なんだろうけど、それにしても7B-BS87はもっと評価されてもいいし、ビデオ好きにはオススメしたいビデオだ。評価があまりにも低すぎる。
 なんでこんなに人気がないのか不思議だ。

 最近ちょっとデジタル化粧のビデオを見直している。ごく最近のビデオは持ってないからなんとも言えないんだけど、少なくとも1995年あたりのものは悪くない。
 メカのちゃちさや、ボディーの薄っぺらさや、音質の悪さを差し引いても、やはりノイズの少ないくっきりとした画質は見ていて気持ちがいい。
 特にDVDの登場でデジタル画面に見慣れた今、ビデオの画質もデジタルっぽくて悪いとは言えない。
 更に気持ちよく観るためには、たとえば録画性能の高いビデオで録画する、というのがいいのかもしれない。MITSUBISHIのHV-V700あたりで。そうすれば画質はもちろん、音質もある程度納得いくレベルになるんじゃないか。

 あるいは、HV-V700の映像出力を東芝ビデオでスルーさせてデジタルノイズリダクションをかける、というのも一つの手だろう。これはまだやったことがないから実際のところは分からないのだけど、けっこう効果がありそうな気がする。
 
 それでもまだまだ買いたいビデオはなくならない。
 次は録画用のV700かV900あたりと、今まで避けてきたSONYの二本立てで狙いを絞っていくことにしよう。
 あと、ハイビジョンが観られるM/Nコンバータ内蔵ビデオもちょっと欲しい。
 
                   *
 
 外があまりにもうるさくていつもより3時間も早く起きてしまった。というか起こされた。
 けど、3時間早く起きても3時間分よけいに充実することはないんだなということがあらためて分かった。一日は長けりゃいいってもんじゃない。
 眠くて物事に集中できないし。
 私は空腹には強くて、腹が減っても機嫌が悪くなったりイライラしたりってことはまったくなくて普通でいわれるんだけど、寝不足だけは駄目だ、許せない。
 寝不足には本当に弱くて困ってしまう。
 寝付きも悪いし、いったん目が覚めるとなかなか寝付けないし、これはやっかいだ。
 眠る時間や起きる時間を自由にコントロールできたらどんなにいいだろうと思う。それができる人がうらやましい。
 
 さて、それじゃあ、今日もそろそろ寝るとしよう。
 眠ることの幸せを思いながら。
 
 4月8日(月) 「始まりの言葉でありますように」

 苦痛の少ない毎日を人は幸福と呼び、自分を欺いているだけなのかもしれない。
 平和というのは戦争がないことを表す言葉じゃないように、苦しみが少ないことと幸せはイコールではない。
 幸福というのはなんというかこう、歓喜を伴うものであって欲しい。
 いや、もちろん静かな幸福もあるし、苦痛からの解放も一つの幸福ではあるんだけど、でも何もない平和な毎日を最上の幸福とするのはちょっと寂しいではないか。そういう平和を幸福と呼ぶのはある種の敗北ではないか。
 人は自分を幸福にするめにもっと努力すべきだと私は思う。意識して幸福を求めて、努力して幸福を掴む。そうすることでこそ、本当の意味での幸福を手に入れられるんじゃないだろうか。
 もっとひとりひとりが幸福になるための努力をすれば、自然にこの世界も幸福の方向に向かうだろう。
 多くの人が幸福になりたいと願うだけで自分を幸福にする努力が不足している。
 みんながもっと幸せになることを私は願う。私自身がもっと安心して幸福になるために。
 
                   *
 
 苦しみというのは何もないことよりも悪いことなのか?
 近い将来別れることが決まっているから今のうちに恋を捨てる、なんて論理は嫌いだ。なんで明日の不幸を恐れて今日の幸福を捨てる必要があるのか?
 人は何故将来の苦しみに怯えてしまうのだろう。苦しみというものを過大評価しすぎではないか。
 どんな生き方をしても将来に苦しみは待っている。だったら今目の前に楽しいことや幸福があれば迷うことなくそれに手を伸ばすべきだろう。
 何もしないことで苦しみから逃れようなんてのは馬鹿げている。それでは交通事故が恐いから家に閉じこもるのと同じだ。
 苦しみの貯金や分割払いなんてできるはずもない。
 苦しむことを恐れない強い心を持たなくては。そしてそれを持てば何も恐れることはない。
 
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 美や愛には、独占の欲望と共有の欲求という二つの方向性があって、その二つの思いはおそらく相容れないものだ。
 たとえば、友達に自慢したい恋人と、誰にも紹介したくない恋人がいるように。
 独占と共有。どちらの気持ちに正当性があるというわけじゃなく、その両方が人の中にはあるということ。
 
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 人間には育ちによる品と、本来その人が持っている品がある。
 下品な人間は見ればすぐに分かる。
 たとえば、ちょっとしたしぐさや、笑い声や、ひとつの表情から次の表情に移る間の表情や、歩くときの足の運びによって。
 別に上品が正しくて下品が間違っているわけじゃない。けど、上品な場に下品な人間が紛れ込んでしまうとちょっとした悲劇になる。憎まれる必要もないのに憎まれてしまったり。
  下品は仮面を被れば隠せるものではなく、たとえ全身を覆ってもどこからか滲みだしてしまうものだ。
 幸か不幸か、私には高性能下品探知レーダーが備わっていて、下品な人間性は見逃さない。

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 私の言葉はすべて始まりの言葉だ。終わりの言葉じゃない。
 結論ではなく、受け手の中で何かは始まる言葉でなければいけないと思ってるし、それだけでいいとも思っている、
 結論はそれぞれが出せばいいことだ。
 そういう意味で私は、あまり自分の言葉の正しさを信じていない。ただきっかけであればいいのだから、内容が間違っていてもいっこうにかまわない。
 
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 昨日はストーブをつけなくてはいけないくらい寒かったのに、今日は長袖を着てるだけでいらいらしてしまうほど暑かった。昨日の最高が16度で、今日の最高が26度だったらしい。
 そのせいもあったのか、あまり体調が良くない。まだ風邪が抜けきっていないようだ。
 
 法事というのはそれ自体大して意味があるものじゃない。墓参りにしても墓なんかに魂がうろうろしてるとも思えない。
 意味があるのは、日頃会えない親戚がたくさん集まることだ。そうして、みんなで死んだ人間のことを思い出すことに意味があるのだろう。
 死者も生者の役に立っている。
 
 年に一度墓に行くと、確実に墓石の数が増えている。そこはちょうど新しく場所を広げたところで、昨日行ったら去年から20くらい増えていた。
 こちらを見れば親戚の女の子に子供が産まれ、一人人数が増えていた。
 そうやって人は消えまたやって来て、どんどん入れ替わっていくのだ。
 
 残念ながら桜はすっかり散っていた。今年は松阪も名古屋同様一週間くらい桜が早かったようだ。
 墓地に桜が満開なのもちょっと物悲しいから桜はない方がかえっていいような気もしたのだけれど。
 
 最近は様々な形や種類の墓石がある。大きさや色や形にそれぞれ特徴があって、中には珍しいものもある。
 真っ黒の豪華な墓石があったのでなんだこれはと思って見てみたら、墓石に「Hermes」と彫り込まれていた。墓石にもエルメスがあるとは知らなかった。相当高いのだろう。
 もしかしてフランスから輸入したのだろうか? それとも日本の墓石会社がライセンスを持っているのだろうか?
 まあ私はどう頑張っても買えそうにないからそれを知ってどうなるもんでもないんだけど。
 本当は写真を撮りたかったけど罰があたりそうなんでやめておいた。
 
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 トライ・アン・ユン監督の『夏至』を観る。
 相変わらず素晴らしい色彩感覚で、映像は文句なしに美しい。しかもオリジナルの美しさだ。
 主役のトラン・スー・イエン・ケーも魅力的で見入ってしまった。
 がしかし……。
 作品としてはどうなんだろう? 三姉妹それぞれの結婚や恋愛模様を描いているんだけど、どうもまとまりがないし視点があっちこっちに飛んでブツブツ切れてしまうので緊張感が続かないのだ。そう感じたのはきっと私だけじゃないだろう。
 映画館で観てればもっと入り込めて楽しめたのかもしれないけど、ビデオで観る限り、あまり面白い作品とは思えなかった。
 もう少し観客本位の作品に仕上げた方がよかったんじゃないだろうか。映像に凝るばっかりじゃなく。
『シクロ』ではそれに成功してたのだからできないはずはない。
 寡作な監督だから次はいつになるか分からないけど、次に期待しよう。
 
『エリザベス』を観る。
 まずまず、か。悪くないし楽しめたけど、すごく楽しめたとは言えない。
 ケイト・ブランシェットに思い入れがないせいかもしれない。
 けどやっぱり『ジャンヌ』なんかを観た後では物足りない思いの方が強かった。
 
 ビデオで『メールレジェンド 宿命』を観る(全2巻)。
『銀河鉄道999』が始まる前のメーテルとエメラルダスの物語で、なかなか面白かった。
 少女時代、まだ白い服を着ていたメーテルが何故「999」では黒い服を着てるのかの謎も解けたし。
 あと、最後に松本零士のインタビューというかモノローグがすごく良かった。色々な考えや思いを知ることができて感慨深いものがあった。
 私だけなく、メーテルという存在は多くの男の子にとって何か大切な象徴なんじゃないだろうか。好きなキャラクターとか憧れや理想の女性像とかそんな単純なものじゃなくて、なんというか、この世界や女の人を信じるための拠り所となる存在として。
 
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 そろそろ新ドラマが始まるけど、その前に二つ、毎日15分の連ドラを観始めている。
 一つは、朝ドラの「さくら」で、もう一つは深夜の「真夜中は別の顔」だ。
 どちらもなかなか濃くて笑えて楽しい。内容よりもキャストが懐かしい面々でいいのだ。
 朝は野口五郎に小林亜星、深夜は吉川晃司ときた。うーん、いいなぁ。
 どちらもまだ始まって間もないんで今からでもオススメしておきます。
 
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 法事を終えて、今日から新しい春を始めることにした。今までの悪い流れはきっぱり終わらせて、新しい流れを作る。
 基本は、一日にできるだけ多くのことを詰め込んでスピードを上げることと、休みの日を作らないこと。あと、面倒なことやなるべく避けたいことをあえて積極的にやるようにすること。
 そうやって前のめりになってスピードをつけていって、自分や状況を変えていかないと、何も変えられない。
 現状は現状として、この中でもまだまだやれることはあるはずだ。
 とりあえず焦らず急ごう。


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