2002.3.11-
4月5日(金) 「探していたのは寛容という言葉だった」 |
桜もすっかり散りきってしまって、春はここからますます加速をつけて走り出すだろう。 けど私は依然として春に追いつけない。
それでも今週はここまでまずまずスピード感のある一週間だった。
日曜日は法事のため松阪行きがあるからその準備もあって。
今日までにオークションの諸々をやっつけて、車関連のあれこれも終えて、あとは明日少し準備をして早寝するだけだ。
年末年始に帰郷しなかったから、松阪行きは久しぶりのような気がする。去年の夏以来か。
それにしてもじいちゃんが死んでもう2年になるんだ。早いな。
あの時は墓に続く桜並木がきれいだったけど、今年はもうあの桜もすっかり散ってしまっているだろう。
いろんなことが過ぎ去って、何もかもが変わっていく。
でもそれでいい。すべての移ろいを受け入れていこう。
松阪から帰ってきたら新しく始めないといけないこともあるけど、まあそれはそれ。そのことは帰ってきてから考えることにしよう。
とりあえず今日明日のことを考えよう。行く前にやり残してることもある。
*
ふと思いついて表紙の模様替えをした。今までの黄色もけっこう気に入ってたんだけど、毎日見てるとどうしても飽きてしまう。
今回はできることなら大胆に変えようと計画してたんだけど、結局はあまり大きな変化は見られなかった。まったく違う発想というのはなかなか思いつかないものだ。
新しい試みは丸抜きくらい。 自分にとって更新しやすくて落ち着くものと考えるとどうしても同じようなスタイルになってしまう。まあもちろんアイディア不足というのもあるんだけど。
もしかしたら少し重たいかもしれない。私はADSLだからいいものの、モデム環境だとややつらいかも。
この表紙の寿命は2ヶ月か3ヶ月といったところだろう。作り終えるとすぐに次のを作りたくなる。
今度は基本カラーに帰って茶色系統メインにしようかと思っている。
表紙のデザインの参考になればと思って買った、「A Better Design*Webページ リ・デザインブック
」(山本容子)は、あまり参考にならなかった。
細かい部分のアイディアでなるほどと思うことはあったものの、私としてはもっといろんなスタイルのデザインを見せて欲しかった。私が別の発想をするためのヒントとして。
どうやら本の選択を間違えたらしい。売って別の本を買おう。
*
今日衛星でやったアカデミー賞授賞式のダイジェストは思った通り面白くなかった。
スピーチは良かったにしても、やっぱりあれはリアルタイムでないと伝わってくるものが少ない。受賞結果も分かっているからその点でも楽しめなかった。
WOWOWが衛星に返してくれないようなら来年こそWOWOWに入らないといけない。
ビデオで『アタック・ナンバー・ハーフ』を観る。
タイで実際にあった話で、ニューハーフのバレーボールチームが国体に出場して優勝してしまうまでを描いたコメディ・ドラマなんだけど、なかなか面白かった。
中盤の中だるみさえなければ傑作になっていたかもしれない。
個人的にはエンドロールの時流れる実際の彼女たちの映像に何故か妙に感動して泣きそうになってしまったのだった。楽しそうに頑張るっていいなあなどと思って。
なので、本編もだけどラストの映像を観るだけでもこの作品は観る価値あり。
『ココニイルコト』はあまり感じるものがなかった。
脚本も演出も大したことがないし、真中瞳も決して悪くないんだけど、何かこうパンチ不足というかツイストが足りなくて平凡な感じで、盛り上がらないまま終わってしまった。
魅力と欠点を両方持った作品は何かしら得るものがあるけど、こういう可もなく不可もなしという作品から何かを得るのは難しい。
映画館に観に行かなくてよかった。 *
古代ローマ皇帝シーザーは、ローマを改革しようとした時に作ったコインに「寛容」という言葉を彫り込んだらしい。この前の「その時歴史は動いた」を観て知った。
なるほど……と深く感じ入った私。
というのも、ここ1、2年、ずっと探していた心の呼び方は、まさにこの寛容だったからだ。許すという言葉を使っててどうもしっくりこなかったけど、寛容という言葉でぴたりと心におさまった。そう、これだ。
寛容……。
ただ無責任に許すのではなく、絶対的な意志と責任のもとで包み込み、許すこと。
海のように、強く、優しく。
今の私はまだ、雨がたまってできた池程度だけど、やがてはもっと広くて深い心を持ちたいし持たなければいけない。
たとえ、寛容が自分の身を滅ぼすことになっても。
*
さてと、今日はここまでにしようか。
眠りでリセットをかけて、また明日、新しい一日を始めよう。
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4月2日(火) 「つながるための言葉」 |
何かに、あるいは誰かにつながりたいと思う気持ちは私の心の調子のバロメーターになる。
人や、世界や、過去や、未来につながりたいと思える時は調子がいい。
気持ちが閉じてしまうと人とのつながりを避けようとしてしまいがちになる。
今はまた、いろんなところにつながりたいという気持ちが戻ってきた。他人だけではなく、未来にも。
人が未来につながるためには三つの方法がある。 行為して記録や記憶を残すこと、書くこと、子供を作ること。
私はもう一度、言葉を信じる気持ちを取り戻したいと思う。書くことを。
ネットで人は、言葉によってつながっている。言葉でしかつながることができないと言った方がいいかもしれない。
だから私は言葉を発し続けよう。つながるために。
自分に失望したり、他人や世界が虚しくなってしまった時も、ぎりぎりのところで絶望感に負けず、言葉を探すのだ。そうすることによってしかつながれない部分もある。 * この世界が完璧な闇に包まれることは決してないように、誰の人生も完全な暗闇になることはない。必ずどこかに光はある。ぼんやりとした光かもしれないけど。 心の最後の光を消すことができるのは、死と自分自身だけだということを忘れないようにしなくてはいけない。
誰にとっても最大の敵は自分自身の絶望感かもしれない。
より良く生きようとすれば必ず絶望感に行く手をはばまれる。何度もなんども。
でも、そのたびに絶望感に打ち勝たなければならない。そうしないと前へ進むことはできないのだから。先へ行くほど絶望感は強大になるけれど。
言い方を変えれば、絶望感は道しるべでもある。絶望感がある道を進めばそれが正しい道だということだ。絶望のない楽な道が正しいはずないのだから。
人は強さという言葉を使う。もっと強くなりたいと。
けど、間違えてはいけないのは、強さというのは他人に勝つために必要なものではなく、自分の弱さに勝つために必要なものなのだということだ。あるいは、すべてを飲み込む力と言ってもいい。
人を傷つけたり、敵をはねつけたりするのが強さなのではない。
必要なのは、絶望に負けないための強さなのだ。
人生の最後の答えが何なのか今の私には分からない。
けど、人生の最初の答えなら見つけた。
それは、人生は虚しくない、ということだ。人生がどんなに虚しく思えたとしても、必ずそれは否定される。そこまでいってみれば分かるだろう。
そしてもう一つ分かっているのは、最後の答えは決して絶望ではないということだ。絶望の向こう側には必ず希望がある。
こちら側とあちら側を隔てる扉には二つの意味と名前がある。
出口と入り口。そして、絶望と希望。
扉にノブが付いてなければぶち破ればいい。
*
毎日同じ風景を見ていると同じようなことしか思い浮かばないものだ。
だから退屈を感じてしまう。退屈から逃れたければ見る風景を変えれがいい。見慣れない風景を見ればその時だけは退屈から逃れることができるだろう。
そのためにはこちらから出向くしかない。向こうから風景はやって来ないから。 映像には限界がある。映像には匂いもないし、光も風もないから。
世界は本当に広くて景色は多様だ。空の色も、風の匂いも、街のトーンもそれぞれ違う。
それらを見たり味わったりすることがどれだけ人生に役立つか、どの程度の意味があるのか、それは分からない。けど、見たことのないきれいな風景を見ることはそれだけで充分幸せで感動的なことではないか。
幸福が私たちを待っているのだから、あとはこちらから迎えにいくだけだ。
*
桜なんて詰まらない、と言い切ってしまうのは簡単なことだし、事実そうなのかもしれないし、私もそう思う。
けど、桜なんか見て何が面白いんだ、と言ってしまったら負けのような気がするのだ。人がどうこうとか日本人がどうこうとかではなくて、もっと自分の個人的な問題として、心を動かしてくれる可能性のあるものに対して簡単に判断してはいけないと思うから。
確かに、桜は日本人なら誰もが感動すべきものだといった風潮には共感できない。だけど、だからといって簡単に否定してしまうというのもちょっと違うと思う。
たとえ自然に心が動かなかったとしても、更にもう一歩踏み込んで自分から心を動かす努力をしてみる必要があるんじゃないか。そうすることによって今まで見えてなかったものも見えてくるだろうし、もっと別の部分で心が動かされるかもしれない。
風物詩に単純にのっかる人もあんまり賢いとは言えないけど、それを軽蔑する人たちも私には同類に見える。
いったん引いて全体を見回して、状況を掴んで、その後一気に中心に近づいて楽しむ、それがなんだかんだ言っても一番いいやり方であり生き方なんじゃないかと私は思うのだ。
賢さと愚かさを同時に持たなければ物事の本質には迫れない。 *
何かを嫌うとそこで思考がストップしてしまうからなるべく誰も何も嫌わないようにしている。
たとえば米倉涼子を見てるだけで気分が悪くなるからといって彼女が登場した瞬間チャンネルを変えてしまってはいけないぞ、私。
ううっ、つらい……。
嫌いなものってのは克服すべきものだ。嫌いという感情に正義も正当性もない。何かや誰かを嫌うのは、自分に問題がある。
そしてそれは、必ず克服できるものに違いないのだ。
嫌いなものを克服すればそれは自分の成長にもなる。
嫌いなものからもたくさん学ぶべきことはあるし、感じるものもある。だから反射的にはねつけてしまうのはもったいない。もっと嫌いなものを直視しなければ。
明日から、キュウリ克服30年計画でも立てようか。
60歳くらいまでにはなんとかキュウリが食べられるようになりたいものだ。
ついでに漬け物克服50年計画も立てた方がいいだろうか。
道は遠いなあ……。
*
人はその弱さよりも強さによって打ち砕かれ、致命傷を負うことが多い。
たとえば、一人でも生きていける強さが孤立を招いたり、半端な才能が人生を狂わせてしまったり、美人であったために悪い男にだまされたり、そういうことがこの世ではたくさんある。
強さが必ずしも自分を幸せにしてはくれないし、強さを過信してはいけないと自分によく言い聞かせておかないと痛い目に合う。
ま、弱さを武器に生きることを潔しとせずに自ら砕けるのも一つの生き方ではあるけれど。
*
たまに、欠点を潔く晒している人を見るとすごく爽やかな感動を覚えて、自分も生きる希望がわいてきたりすることがある。
今日、夕暮れ時の橋の上を、ものすごく足の太い女子高生がミニスカートとルーズソックスをはき、黒縁のメガネをかけ、ポニーテールをなびかせながらオデコ全開で颯爽と自転車で走り抜けた姿を車から見かけた私は、しばらく彼女の姿を目で追いかけた後、心の中でポツリとつぶやくように思った。
……私もガンバロウ、って。
*
*
*
今日の名古屋の最高気温は26度を超えた。長袖シャツ一枚でも暑いくらいだった。
しかし桜が満開になったと思ったらもう夏日か。ちょっと早すぎるだろう。 その桜だけど、朝からの強風でかなり散ってしまった。もうかなり緑の新芽が顔を覗かせている。
結局昨日が今年の桜の満開を見る最後のチャンスになってしまったようだった。昨日のうちに近所を全部回って写真を撮っておいて良かった。
桜はこれから東北、北海道へと舞台を移していくことになる。あちらにも友達が住んでいるから、そう思えばまだ寂しさはない。向かうからもそのうち桜満開の知らせが届くだろう。
今ちょうど窓全開で走るのが気持ちのいい季節で、夕方など特に車内に吹き込んで来る風が心地いい。
夕暮れの優しい光と暖かい風、そしてコンポからは好きな音楽が流れてくる。これもまた、生きているからこそ味わうことができるささやかな幸せだ。おろそかにせず、しっかりを噛みしめて味わいたい。
近い内にまた海に行こう。
波と、音と、潮の香りと、風と、ひとけのない砂浜が……。 |
3月31日(日) 「激変する自分を追いかけて」 |
誤魔化しであろうとなんであろうと、毎日が楽しくなければいけないと思うのだ、やっぱり。 何かの理由でそれまでの楽しさを失ってしまったなら、それに代わる楽しさを見つけなくちゃいけない。 楽しみで人生を誤魔化すのは間違ってると若い頃の私は思っていた。楽しむことは人生の本質ではないと。けど、それは違う。どんな形であれ、生きることを楽しむのが人生だ。 楽をするとか怠けるとかそういうことじゃなくて、もっと自分から求める楽しさが大切なんだと思う。 もし、毎日が楽しくないとしたらそれは、人生を怠けている証拠だ。今日からでも早速楽しさを探して見つけないいけない。 *
ゴールの分からないレースや、ルールの分からないゲームはとても難しい。
たとえば、時間無制限のアメリカンフットボールのゲームに無理矢理参加させられてしまった自分を想像してみる。何をどうすればいいのか、いつになったら終わるのか、自分は何を要求されてるのか、何も分からず途方に暮れてしまうだろう。
だから人は生きる上で自分なりのルールを決め、目標を探す。人生の迷子にならないために。
それでももし、死がなければ人は正気のまま生きていけないかもしれない。絶望のあまり自殺してしまうかもしれない。
人は死があるから一所懸命に生きることができる。 そう、生きることはそんなに難しいものじゃないし、考えてるほど複雑なものでもない。 ゴールやルールが分からなくても楽しめばいい。それが生きることの基本に違いない。
楽しめれば勝ち、楽しめなければ負け。それだけのこと。
人生は単純で奥が深いゲームだ。 *
それにしてもここ最近、毎日を楽しむのがすごく下手になっている。やりたいことはやってるのにどうも楽しくない。何かが決定的に足りない。
一番の要因は恋愛不足だ。それは間違いない。けど、それだけじゃない。もっと根本的で全体的なところに原因がある。
一つには明確な目標を失ってしまったということがあるだろう。気持ちの問題として、自分ではコントロールできない感情の変化があって、今までの目標に感情が向かっていかないのだ。散歩の途中で何を思ったのか突然踏ん張って前へ進まなくなってしまった犬のように。そんな時の犬同様、なだめたりすかしたり叱ったり引きずったりして無理矢理気持ちを前進させようとするんだけど、にっちもさっちもいかない。どうにも困ってしまう。
他にも感動不足、前進感不足、新鮮不足などなど、足りている部分よりも不足してる部分に心が奪われてしまっている。
要するに毎日に張りがないのだ。
それは誰もが多かれ少なかれ感じていることなんだろうけど、私の場合、自己完結的な人間である分、毎日を自分ひとりでも楽しんで充実することが得意だと感じていて実際これまでそうだったから、今のような状況はあんまり想像できなかったし、すごく納得がいかないでいる。一人っ子だし、孤独には強いはずなのに。
単に人恋しいだけなのか?
うーん、でもそれは違う気がする。いつでも友達に会えるし、その気になればどこでも行っていろんな人に会うこともできるはずなのにそうしようと思わないところをみると単純な人恋しさではない。
すべての面で消極的になっている。それが去年のとの一番の違いで、じゃあやっぱり原因は恋愛不足なのかというところに戻ってしまって思考が堂々巡りになってしまう。やれやれ。
なんにしても毎日を無駄に過ごさないこと。そしてなるべく動くこと。自分から動きを付けていかないと身のまわり1メートルの空気を震わすことさえできないのだから。
散歩したくないという犬も無理矢理小屋から引きずり出して連れて行けばそのうち元気に歩き出す……はず。
*
深夜にテレビでやった『(ハル)』を観た。
私には珍しいことだけどこれで3回目だ。 熱狂的に好きな作品、というのではない。静かに好きで、いつでも心の中のどこかにあるような作品だ。 今となってはやや古めかしくて観てて照れくさいところもあるけど、基本的に好きな部分は変わっていなかった。 ネットを知り、メールを始めた頃の自分と、その頃抱えていた気分を思い出した。 とても孤独で、メールを書くことで人とつながれたことがとても嬉しかったあの時の自分を。 忘れてた大切なことを思い出すことができてなんだか嬉しかった。私が探していたことはああいうことだったのだ。 やっぱりこれはいい作品だと思うし、私にとっては大事な作品だ。また何年かしたら観てみよう。 続けてドラマ「WITH LOVE」も観ることにする。 *
閉塞感というか、行き詰まり感はネットやメールにも言える。
ネット歴も3年を超えて新鮮さがなくなったらかある程度は仕方がないにしても、もう少しここでも積極的に自分から動いた方がいい。面倒がらずに。
ちょっと臆病になってる。失ったことの多さと痛さの記憶で。
だから半ば無意識にマイナスの部分に近づかないようにしているところがあるかもしれない。自分にとって心地いいところにこもってしまってる。 思えば儚さをずいぶん味わってきた。たくさんの小さな別れもあった。 それでもネットでは出会い切れない無数の人たちが存在していて、自分から動いて求めさえすれば必ず新しい出会いがある。そして今まで知らなかった世界に触れることもできるだろう。
だから、やっぱりもっと何かを探したり、何かを新しく始めたりすべきなんだ。失うことを恐れずに。 ネットにはまだ出会うべき人がたくさんいるに違いない。
*
適度な変化というのがどの程度なのかは分からないのだけど、私の節操のない変わり様は自分でもちょっとおかしいような気がする。
みんなも2年や3年の間にそれまでの価値基準や趣味嗜好や思考スタイルがすっかり変わってしまったりするもんなんだろうか?
ここ3年くらいの間に私は、運命論を捨て、神中心の世界観を完全に捨て、宇宙に救いを求める気持ちを捨て、宇宙人や古代文明に対する興味も失せ、ずっと抱えてきた必然性というものに対するこだりもなくし、天才至上主義も放り出し、言葉だけが自分にとって大切だという思いも失い、自己完結が究極の目標でもなくなり、好きな季節や食べ物も大きく変わり、趣味も総入れ替えになり、行動パターンも違うものになり、好みのタイプさえも変わってしまったのだった。
ここまで何もかもが大きく変わってしまうともはや別の人間に近い。
悪く言えば飽きっぽい、良く言えば成長を続けているということになるんだろうけど、それにしてもこれだけ自分が流れていってしまうと自分の中の絶対性もなくなる。今絶対だと思っているものでも明日になればもう絶対じゃなくなってしまうのだから自分を信じることさえ難しくなる。
ここまで自分の核や背骨まであっさりと入れ替わってしまうと、迷った時に帰っていく場所を見失って迷子になってしまう。
けど、信念を変えないことが正しいことだという思い込みが間違いであることには気づいた。どんな変化にも正当性はある。
だとしたら、私は自分の変化に全速力で付いていくしかない。どんなに理不尽な変化でも、どんなに急激な変化にも。
3年後の私は、一体どんな人間になっているんだろう? *
プロ野球が始まり、桜も散り始め、明日からは4月だ。
とりあえずやるべきことは、毎日をもっと濃くすることと、自分の中の負の感情に打ち勝つこと。
自分自身との闘いに勝たなければ明日はない。絶望感がどれほど強大で正しく思えたとしても、最後は勝たなければならない。絶望は負けるべき相手ではない。
毎日を過ごすのではなく生きること。
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3月29日(金) 「アタシとワタシの境界線を探して」 |
昨日、今年初めて夏を感じた。冬の間、暑いということがどういうことかイメージできなくなっていたけど、ふいにそのイメージがよみがえった。家から車までの400メートルを重い荷物を持って歩いたら汗をかいたことで。 今日は風呂を沸かさずシャワーだけで済ませた。これも今年になって初めてのこと。
季節はもう、春から夏へ向けて進んでいるようだ。冬の間ずっと夏が恋しかったけど、いざとなるともう少しだけ夏を向こうへ押しやりたくなる。そんなに急いで来なくていいよと言いたくなる。
季節の移り変わるスピードが早すぎて自分のスピードが負けてしまう感じがする。
もっと早く。もっと先へ進まなくては。時の速度に負けてしまわないように。
過去はどんどん後方へ飛び去り、遠い未来だと思ってたことが気がつくとすぐ目の前にある。 とにかく、良く生きることは時間を克服することだから。 *
「アタシ」と「ワタシ」のボーダーラインはどこにあって、ギャップはどれくらい深いんだろう?
と、この前ふと思った。
ザ・ブリリアントグリーンの歌詞が「ワタシ」だったことがきっかけで。
歌詞の内容やテレビ出演で見た彼女は私の中で間違いなく「アタシ」のキャラクターに思えた。けど、実際彼女はすべての歌詞ではっきり「ワタシ」と歌っている。そのことを初めて意識した時、おっ、案外この人はちゃんとしたした人かもしれない、と思ったのだ。
けどよく考えてみると「ワタシ」と言う女の子がちゃんとした子で、「アタシ」というのはちゃんとしてないのかと言えば必ずしもそうじゃない。
じゃあその境界線はどのへんにあるんだろう、と思ったわけだ。
自分を「アタシ」を称する代表的な女の子は、私の中では「aiko」だ。彼女はアタシがよく似合う。
他にはどういう女の子が自分のことをアタシと言ってるだろう? と考えると急には思いつかない。 どういうキャラクターの子がアタシを使い、いつまでアタシと称し、どの程度自分で自分で意識してそう言っているのか? そしてアタシ確率はどの程度なんだろう? そんなことどうでもいいっていえばいいんだけど、いったん気になってしまったものはある程度の傾向や実体を知るまではなんとなく落ち着かない。
ということでもう少し考えてみることにする。
今現在私の周りで自分をアタシと言う女の子もしくは女の人はいるか?
うーん、今まであんまり意識したことがないからよく分からないな。
分からないということは特に気にしてないということだ。 昔はどうか? 私がもっと若かった頃はそこそこいた気がする。クラスにもいただろうし、友達にもいたはずだ。けど、誰がそうだったかをはっきり思い出すことができない。
いかん、こんなところでも記憶力障害がネックに……。
今更いちいち会って聞いて回るわけにもいかないし困った。いきなり行き詰まってしまったではないか。
しょがない、とりあえず検索でもしてみるか、とyahoo!で「アタシ」を検索してみたところ「139000件」も引っかかってしまった。
ううっ、なんだかイヤになってきた。すでに考えるのが面倒になりつつある。もうやめようかな……。
いやいや、気を取り直してもう少し。
ざっと見て気づいたのは、私が思っている以上に「アタシ確率」は高いらしいということだ。
それと、アタシは会話の時だけではなく文章でも登場するということも今回分かった。自分をアタシと言う女の子は書くときも自分のことをアタシと書くらしい。
ということはやはりアタシは意識して使われているということだろう。でもだとしたらどういうつもりで使っているのだろう? ごく普通に当たり前の感覚で使っているのか、それともアタシはアタシだもんね、ワタシなんて気取っててイヤだわ、などと思って使ってるのだろうか?
ワタシを嫌がっているのか、それともアタシをあえて選んでいるのか。
うーむ、謎は深まる。 私が女だったら、たぶんアタシは使わないと思う。
でもアタシと言う女の子を好きにならないかといえばそんなことはなく、かつて好きになった子でアタシと言っていた子もいただろう。
じゃあ私はアタシが嫌いではないのか言えばそうも言い切れない。ちょっとアタシはやめた方がいいんじゃないかという気分も多少はある。
私の中でワタシとアタシの間には何か微妙なギャップというかそれぞれに抱くイメージが確かにあって、アタシのキャラの女の子とワタシとでは別の人種に近いものさえ感じているのだ。
みんなはどうなんだろう? こんなこと気にしたことはないのだろうか? たとえばつき合っている彼女がアタシと言うのを注意したり、逆にそれで好きになったりするようなことはないのか?
もしくは、女の子同士ならどうなんだろう? 友達がアタシと言うことに対して気になるのかならないのか。何か言ったりするのだろうか。
それとも類は友を呼ぶの言葉通り、アタシはアタシを呼んだりするのだろうか?
あと、アタシと言っていた女の子もやがて年を取ってアタシを捨ててワタシになる時が来ると思うのだけど、それはいつくらいで、意識して捨てるのかそれとも自然に変わっているものなのか、そのへんはどうなんだろう?
けど、バアさまで「あたしゃあまだまだ若いよ」などと言うバアさまもいるし、もしかしたらアタシは死ぬまでアタシなのか!?
うー、なんだか半端な考察に終始してしまって実体が掴めない。まずい。なんてこった。
♪アタシ バカよね〜 おバカさんよね〜♪
という細川たかしの歌が頭の中を流れてきたけど、あれはいくらなんでもアタシじゃないだろう。やっぱりワタシだろうなあ。
♪アタシたちこれから〜 いいとこ〜ろ〜♪
いや、これもやっぱりワタシだろうか。
というか、曲が古すぎる? うーん、いかんなあ。結論どころか傾向さえも掴めない。
じゃあここはひとつ「アタシ有名人」を見つけることにしようか。
たとえば椎名林檎はどうだろう? ほとんど曲は聴いたことがないんだけど、彼女はいかにもアタシのキャラクターではないか。
宇多田ヒカルはどうだ?
浜崎あゆみは? ……。
なんか面倒だ……。
もうどうでもよくなってきた。あああ。
まあいいや。これからちょっと気をつけてみることにしよう。今日中に結論を出すのは無理だ。
それで傾向が分かってきたらまたこの日記で書くことにしよう。うん、そうしよう。アタシ問題は宿題だ。 とりあえずの結論。
アタシのキャラクターの女の子がワタシを使うと、あまり賢そうじゃない女の子がとてもきれいな字を書くのを見た時のような軽い驚きがある。
*
今週は気分も上昇して、毎日にスピード感もあって、まずまず納得の一週間だった。
とはいえ、状況はまったく変わってない。気分が浮上したところで現実問題の方ををやらないとな。
まずは週末の使い方を変えていくこと。今のままでは無駄が多すぎる。週末にできることはなるべく平日やらないで、もっと週末に色々詰め込まないといけない。その兼ね合いで平日ももっと他にできることを見つけていかないと。今のままではどうもバランスが悪いし、もったいない。
それからもっと自分を追い込んでいく部分も必要だろう。また意識的な努力を怠っている。安易な方に流れすぎてる。
とにかく積極的に動くこと。持ち時間は有効に使うこと。
と、反省はこくれらいにして、今日はこれでおしまい。
あ、そうだ! アタシと言う人間がいた!
刑事コロンボのピーター・フォーク!
……。
でもあれは吹き替えだし、特殊な例だから参考にはならん。
うーん、いらんこと思い出してしまった……。
もう寝よっと。
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3月27日(水) 「説教くさくなったらもう大丈夫」 |
私はいつもいつも頭の中で何かを探しているのだけど、時々自分が何を探していたのか分からなくなることがある。 部屋の中で捜し物をしている途中で何を探していたのか忘れてしまうことがあるのに似て。
たぶん探しているのは幸福のイメージ記憶なんだと思う。あの感覚を頭の中で甦られせようと常に試みているんだけど、めったに成功しない。幸福のイメージを捕まえられそうで捕まえきれない。すごくもどかしい。 不幸の記憶はいつでも具体的なのに、幸福の記憶はなんでいつもあやふやなんだろう。
幸福の記憶をしっかり捕まえるのは、楽しかった夢を思い出すより難しいかもしれない。 そうして私は、明日も幸福の記憶を探して頭の中をさまようことになるのだろう。 完璧な形は作るものじゃなくて発見するものだ。 彫刻が無から像を形作るものではなく埋まっている完成品を掘り出す行為であるように。
完璧というのは最初から最後まで時系列の上でも完璧でなければならない。
完璧な形の幸福というものは存在するか?
私は存在する方に賭けたい。だから探している。最初から信じてなければ探したりしないだろう。
でももしあるとしても、それは自分で作るものじゃないと思ってる。触れた瞬間に分かるものであるはずだ。あ、これが完璧な幸福だ、と。
ここにはないけどどこかにはあるはずだ。すでに完成した形で。
*
一日の中で忙しい時間と退屈な時間があるように、人生の中でも忙しい時期と退屈な時期がある。
いつも適度に忙しいのが一番なんだけど、なかなかそう自分の思い通りにはならない。
ただ待つことだけしかすることがない時もある。
私がいつも思っているのは、多忙さの加減は自然の成り行きに任せようということだ。否が応でも忙しい時期は急ぐしかなくて、頑張るのはその時でいい。無理に自分から忙しくすることはないだろう。
生きた時間が長くなるごとに人生の偉大さを思い知るけど、それと同時に生きることはそんなに深刻に考えるほどのものでもないということに気づく。
義務を果たすことだけに汲々とする必要はない。楽しむことも大事だし、自分を幸福にすることは罪深いことでもない。
生きることは案外大らかなことなんだと思う。
*
絶望や悲観を追求していくと人は正気ではいられないし、そもそも生きていくことさえできなくなる。
たとえば人類の歴史を直視した時、私たちは今こんなに何食わぬ顔でテレビを観て笑っていていいのだろうか、と思ったりする。
戦争でどれくらいの人間が殺されたか? ナチスの大量虐殺、広島長崎の原爆、戦国時代の親殺し子殺し、民族紛争、その他無数の戦争……。
人類の誕生から今まで、地球上から争いや殺し合いがなくなったことは一瞬もなかった。
あるいは、殺し合いよりももっとひどいことが今この瞬間にも起こっている。
もし、私たちがそれらすべてを目撃したとしたらどうだろう? おそらく誰もが狂ってしまうだろう。
でも、それでも私たちはこうして平和の幻想の中で生きている。美味しいものを食べ、テレビを観て笑い、恋をして、美しい風景に感動し、スポーツを観て泣いたりもする。
これでいいのか?
これでいい。私はこれでいいんだと思う。
今までに起こったすべての出来事の上に、今この世界は成り立っていて、私たちはこの中で生きている。
多くの犠牲があった。でも、それはそれ、これはこれだ。私たちが責任を取るべきことではない。
何故なら、人間はこの世界の一部でしかなく、人間は世界の主役ではないからだ。
世界は人間以前から存在し、今世界は人間を受け入れている。私たちは確かに存在することを許されてこうして生きている。その一点の事実こそが一番大事なことだ。
広大な世界の中、この一瞬、醜さと残虐さと美しさと賢さを備えた人間というものが今ここに存在している。
私たちには定義も意味も必要ない。ただ生きることだけが必要なのだ。自分たちの存在を感じることだけが。
人間が何故許されているのか?
それは、やがてすべてが変わり、すべてが消えていくからだろう……。
*
私たちはイエス・キリストや釈迦の正しさに引きずられる必要はないんだ。
あの人達は自分なりの正しさを求めただけのことであって、私たちが彼等の物真似をすることはないしそんなことしても意味がない。
大事なのは過去の偉人のエッセンスを自分の中に取り込んで、自分なりの正しさを模索することだろう。
偉大さというものも、それぞれオリジナルなもので、しかも自己完結的なものだから真似しようたってできるものじゃない。
どんなに正しくて偉大な教えも、その通り実践してるだけじゃ意味はない。私たちがすべきことは、そこを出発点として前へ進めることだ。
いまだに聖書の教えを盲信して清く正しく生きてどうする。教えは発展、進歩させていかないと。
もし、キリストや釈迦が真の偉人だとしたら、彼等は自分の教えを後世の人間達がそのまま実践するなんてことを望みはしないだろう。もっと自分の人生を自分なりの方法で探して生きていって欲しいと願うはずだ。そのための助けをしたいというのが彼等の本当の願いであったはずだから。
みんな、一体何を勘違いしてるんだろう?
* うーん、久しぶりにエラそうな日記だ。どうやら調子が本格的に戻ってきたらしい。よかった、よかった。 *
今日は最初から最後までルーズになることなく、スピード感のあるいい一日だった。うん、問題ない。
明日もこのスピードを落とさないように。
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3月25日(月) 「春の穏やかな一日のように」 |
名古屋の桜もあちこちで三分から五分咲きになってきたようだ。もうかなり白っぽく見える。桜並木には赤い提灯が吊され、気の早い人たちが桜の下に集まって酒を飲んで騒いでいる。 ただ、咲き始めが早かったわりにはここ2、3日少し寒さが戻った分、一気に咲いてしまわずに咲く速度が鈍っている。
どうやら4月の頭あたりまでは持ちそうだ。いくらなんでも3月中に散ってしまうのは寂しいから、これからはゆっくり咲いてくれるといい。
桜が咲き始める速度に合わせるように、私の気分も少しずつ浮上してきたようだ。もう底からはかなり離れて安定飛行に入ったと見ていいだろう。
去年の秋からずっと続いていた絶不調からいいかげんすっきり抜け出したい。思えばこの半年はこれまでの人生の中でも最悪の部類に入るくらいの不調だった。
積極的な絶望はまだ救いがあるけど、何もする気がしない無気力感だけはたちが悪い。
けど、もうそれも終わりだ。これから春が深まるとともに、心も体も動かしていかないといけない。
ま、焦らずぼちぼちいこう。いや、焦らず急いでいこう。
*
今日アカデミー賞の発表があった。
今年はほとんどの作品をまだ観てないので特に思い入れのある作品も俳優もいないんだけど、それでも毎年の楽しみではある。
しかーし、なんで授賞式の中継がWOWOWの独占になってしまったんだあぁぁ。衛星に返してくれ〜。
総集編が観られるとはいえ、やっぱりリアルタイムで観ないとどうも気分が盛り上がらない。結果を知ってからでは面白さも激減してしまうし。
やっぱり今日までにWOWOWに入っておくべきだったなあ。
まあそれはそれとして、今年は何やら異変が起こったようだ。
まさかの主演男優、女優が両方黒人とは。
一応デンゼル・ワシントンって声はあったようだけど、女優のハル・ベリーは意外だった。今回はニコール・キッドマンで決まりだろうというもっぱらの評判だっただけに。
けど、ハル・ベリーって誰? まるで知らん……。
デンゼル・ワシントンはおめでとう、だろう。というか、ちょっと遅すぎた。もうとっくにとってないとおかしかったのに。
作品賞、監督賞などは、『ロード・オブ・ザ・リング』をおさえて『ビューティフル・マインド』の勝ちだった。まあこれは順当なところだろう。
『ロード・オブ・ザ・リング』はただの当て馬だったか?
しかし、『ハリー・ポッター』ってどんな扱いになってたんだろう? ほとんど主要部門にはノミネートさえされてなかったけど(衣装や美術や音楽だけ)。世界的なヒットになってるんじゃないのか? うーん、よく分からん。
それにしても今年は個人的にはほとんど観たい作品のない寂しい年になった。
『ハリーポッター』も『ロード・オブ・ザ・リング』も『ビューティフル・マインド』も、映画館まで行って観ようとは思えない。ビデオで充分だ。
結局、アカデミー賞の発表があってもまだ次に映画館で観る作品が決まらない。
*
いいビデオ・デッキを見つけた。
おいおい、まだビデオ買ってるのかとお思いでしょうが、そう、まだ買っているのですよ。買い続けてますとも。
それで今回買ったビデオ「日立 7B-BS87(3,100円)」が大当たりだったのだ。その話をしよう。
今まで日立のビデオにはほとんど興味がなかった。日立の電化製品全般に、と言った方がいいだろう。 日立には、このメーカーの製品じゃなきゃオレはいけないんだぁ、と強く思わせる絶対的な魅力が欠けている。実力もイメージも決して二流ではないんだけど、どうも訴えるものがない。
SONYならデザインがいいとか、パナソニックなら丈夫で壊れにくいとか、シャープならアイディアが面白いとか、東芝ならたまに特化した部分があるとか、それぞれそのメーカーなりの特徴や色があるのに、日立にはそれがないのだ。技術はあるのにコンセプトがないというのか、コマーシャルが下手というのか、アピールが足りないというのか、とにかく日立フリークという人種はあまり見たことがないところをみると、みんなも私と同じように感じているのではないだろうか。
ただ、日立ビデオのファンというのはそこそこいるらしい。「テープナビ」というテープの中身を確認する目次機能が使いやすいらしくて、その点に惹かれて買い続けてる人もいるんだとか。
ということで私も今回初めて日立のビデオを買ってみることにした。
そして選んだのが、1995年の最上級機種の7B-BS87だ(定価13万)。
95年というのは、その前の年あたりからバブルの名残もすっかり消え、ビデオがアナログから完全にデジタルになった時期にあたり、この頃から急激にビデオデッキは軽く、中身はスカスカになる。この機種も典型的なデッキだった。
最初はほとんど期待してなかった。日立だし、あんまり人気もないから大したことないだろうと。
だが、画質を一目見て驚いた。これはいいんじゃないか。いや、すごくいいぞ、と。
デジタル三種の神器と言われる、デジタル3次元Y/C分離、デジタル・ノイズリダクション、デジタルTBCに加えダブルアモルファルヘッドということで、これがまたびっくりするくらいノイズが少なくてきめの細かい画面を見せてくれるのだ。まさか、こんなに日立のデッキがやるとは思ってもみなかった。
画質的にはライバルの東芝A-BS1よりずっと上だと思う。
地上波のチューナーもすごく鮮明で抜群だ。だから録画性能も高い。
この画質には惚れた。手持ちのビデオの中ではダントツのナンバーワンで、今まで私の直接知る限り一番だと思ってたVictorのHR-V2を超えた。
しかし、そこは日立。落とし穴はあった。
残念ながら、トータルで見た場合、7B-BS87は手放しで誉められるほどのビデオではない。
まずメカがヘナチョコ。動作も機敏とは言えず、中身もペラペラ。動作音も少し安っぽいし、入出力端子があまりにも少なすぎる。
更に画質のマニュアル調整が一切できない。これも痛い。
あと、音質もかなり悪い。高音も低音も出てなくて、これじゃあ安いテレビ並みだ。
いやあ、実に惜しい。これだけ画質的に実力があるのに、その実力が世間に認められることなく終わってしまうなんて。
せめてもう少しメカ的に頑張って、画質の調整をできるようにして、音にもっと力を入れたなら、おそらくパナソニックのNV-SB800WやNV-SB88W、VictorのHR-VX1やHR-VX11あたりといい勝負になっただろうに。もったいない。
とはいえ、7B-BS87の画質は捨てがたいものがある。これで日立を大いに見直した私であった。
その前の機種、7B-BS3000と7B-BS77もチャンスがあれば手に入れてみよう。
ただし、これ以降の7B-BS95からは定価もがくっと下がって(8万ちょっと)ますますペラペラ傾向が進んでもはや高級ビデオデッキとは呼べないのであまり興味はない。
それにしてもこれまでバブル期のデッキこそがいいデッキで、デジタル厚化粧のものは良くない、という思い込んでいたけど、どうやらそれは少し改めないといけないようだ。
もちろん昔のデッキはいい。メカの作りのすごさや音の深さやいい意味での重厚がある。所有するよろこびも。
けど、画質に関してはやっぱりデジタルの方がいいと言わざるを得ない。少なくとも私はノイズが少いきめ細やかな画質の方が好きだ。最近そのことに気づいた。
ここ最近の厚化粧デッキはさすがに苦しいけど、ちょうどビデオがデジタル化を始めた1994年から1996年くらいのものが私の好みに一番合うような気がする。 少し前にパナソニックのバブル期ビデオである、NV-BX25とNV-BS900を手に入れたのだけど、7B-BS87の画面を見た後では画面がどうしてもザラついた感じに見えてしまってつらいものがある。メカの出来は文句なしに素晴らしいのだけど。
これでこの先少し買うビデオの方向が変わりそうだ。昔のものを買うなら最高級のものに絞って、あとは段々デジタル傾向の強いものに買い換えていくことになるだろう。 まだ買うかって? まだまだいきますとも。
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テレビ「特命リサーチ200X」で「見たい夢を見る方法」というのをやっていたけど、その中の「悪夢を見ないためには頭の中にある不安や心配事や悩みなんかを人に話したり、書いたりして頭の中を整理をするとよい」っていうのはなるほどと思った。
そういう不安要素が未整理のまま頭の中に残っているとそれが悪夢を作り出す要因になるらしいのだ。
それで分かった、私が悪夢というのをこれまでほとんど見たことがない理由が。
ここ15年くらいほぼ毎日日記を書いているから(この断想日記だけじゃなく、個人の日記も)、その中である程度頭の中が整理されているのだろう。だから悪夢を見ないんだ。
いや、それにしても私は悪夢を見なさすぎるかもしれない。その番組でアンケートをとったところ、大部分の人がいい夢よりも悪夢をよく見るという結果が出たのに、私なんて、生まれてこのかた、「ああ今日の夢は悪夢だったなあ」なんて思ったのはたぶん3回くらいしかないもの。
なんというおめでた野郎だ。
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今日は何も思い悩まず、考えず、反省もぜず、このまま心静かに寝てしまおう。そういう気分だ。
もちろん、悪夢も見ないで。
また明日、新しい一日を新しい自分で。
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3月22日(金) 「新しい出会いと新しい自分」 |
昼間、公園から子供達の騒ぎ声がずっと聞こえていて、なんだか今日は騒がしいなと思ったら、どうやら世間では春休みに入っていたらしい。 もしかして、とっくに?
そういえば今日は高校入試の合格発表の日だったみたいだ。
「当選した?」と訊いてきた人がいたが、そういう問題じゃないと思うぞ。
私は思いっきり安全パイの高校を選んだからものすごい楽勝だった。もったいないほどの成績で、余った分の成績を人に分けてあげたら10人くらいは合格させてあげられただろう(しかし、その油断がたたって、入学と同時に成績は急降下して、いつも真ん中付近をゆらゆらとゆらめく感じだったのだけど)。
思えば高校入試の歳から倍以上生きているんだ。なんだかすごいかもしれない。 * 終わりと始まりが交錯する春。 昔は春が嫌いだった。なんだか、何かすることを強要されてるみたいな気がして気に食わなかった。
でも今は春が好きだ。滞った流れを動かしてくれるから。
古いものが終わらなければ新しいものは始まらない。
何かを終わらせてくれる春という季節は、人にやさしい季節だ。
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抑止力と原動力、その二つがとても大事。
自分が落ちていくことを食い止めてくれる力や存在と、自分を上昇させてくれる力や存在。
家族の存在だったり、毎日の努力だったり、夢や理想だったり、ライバルの存在だったり、それは人ぞれぞれなんだけど、そういうものを強く意識することが必要だ。なければ見つけないと。
人は何もしなければ駄目になっていくようにできている。けど、何かすれば向上するようにもなっている。つくづく人間というものはよくできていると思う。
*
政界の茶番劇もそろそろ飽きてきた。
連ドラも今までのが終わって春から新しいのが始まるから、政界もそろそろ顔ぶれを総入れ替えしてはどうだろう。
私が政治家を判断する時、一つの基準がある。
それは「こいつは暗殺するに値するかどうか」というものだ。
いや、もちろん暗殺がいいことだとは思ってないし、暗殺者を夢見てるわけでもない。ただ、政治に暗殺はつきもので、能力のある政治家ほど暗殺の危険にさらされ、小物は暗殺されることはほとんどなかったという歴史がある。
つまり、その政治家が暗殺されることで政界や社会は変わるだろうかと考えてみると、その政治家の実力や存在の重要さが分かるということだ。
今の政界で暗殺するに値する政治家が何人いるだろう? ほとんどいないんじゃないだろうか。
政治家も深刻な人材不足のようだ。
逆に言えば、二流の政治家でも国はなんとかなってるんだからそれはそれでいいのかもしれないけど。
この前観た映画『OL忠臣蔵』で、南果歩が上手いことを言ってた。
「私の経験上、泣き落としが真実を語ったためしはないわ」と。
この言葉をムネオに捧げたい。
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最近またアニメを観るようになった。オークションで買ったビデオテープにたまたまアニメが色々入っていて、それを観てたらけっこう面白いことに気づいて。
「ジャングルはいつでもハレのちグゥ」、「コメットさん」に続いて発見したのが、「テニスの王子様」と「ヒカルの碁」だ。さすがに人気作だけのことはある。このふたつは大人が観ても充分面白い。 しかしテニスはともかく、子供向けアニメで碁をテーマにして、しかも面白い作品にしてみせるとは見事なもんだ。将棋や麻雀ならたくさんあったけど、碁をテーマにしたアニメというのは初めてなんじゃないだろうか。少なくとも私は知らなかった。
今まで私はほとんど碁をしたことがないんだけど、あれを観てたらちょっと自分でもやってみたくなった。ゲームはたくさんあるから何か一つ買ってみようか。
などと考えてるやつはけっこう多いんだろうなあ。学校でもいきなり部活とか増えてるだろう。
けど、ヒカルよ、小学生のくせに前髪金髪はまずいだろう。
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インターネットが一般人レベルまで普及してからそろそろ3、4年になるだろうか。
ネットをテーマにした初めての映画である森田芳光監督の『(ハル)』公開が1995年。今から7年前か。
まだこの頃はインターネットというのはそれほどメジャーなものではなかった。ネットというよりパソコン通信と呼ばれていた時代だ。私もまだネットの存在自体ほとんど知らなかったし、興味もなかった。自分には遠い世界だと思っていたし。
そして、1998年、ドラマ「WITH LOVE」、これが決定的だった。今から4年前。
私もまた、このドラマによってネットというものを始めたのだった。
インターネットによって一番多くの恩恵を受けたのは誰か?
それはきっと、主婦とひとくくりに分類されてしまっていた人たちではないだろうか、と私は思う。ネットは主婦に個というものを取り戻させた。
それまで働いてない主婦の世界は狭かった。家族の中と、友達や近所の人たち、それとテレビくらいしかなく、個人としての自分を主張する場所や機会をほとんど持つことがなかった。
それがネットを知ったことで、様々な人に出会い、知らなかった世界に触れ、それによって自分の世界も広がり、個としての自分を取り戻し、主張する場を得た。
これはすごくいいことだと思うし、劇的なことでもあっただろう。
エンドレスの家事と、「誰々ちゃんのお母さん」から解放されて自分を取り戻すことができる場所、それがネットの世界。
いろんな人がいろんなことを得られるのがネットだけど、一番ネットの恩恵をたくさん受けているのは主婦なんじゃないかと私は思うのだった。
*
変わりたい、変わらなくちゃ、と私はいつでもそう思ってきたような気がする。物心ついてからずっと。
それはいつも自分自身に満足してなかったからということもあるんだけど、もう一つにはもっと別の自分を見てみたいという気持ちがあったからだ。
まだ自分も見たことがない自分がふいに現れる瞬間っていうのはすごくドキッとして、でもなんだか嬉しいものだから。
そして、最近ようやく気づいた、新しい自分を発見したり、見たこともない自分を見たりする一番いい方法は、人と出会うことだということに。
新しい人との出会いは、新しい自分との出会いでもある。
新しいことを始めたり、知らない場所に行ったりすることよりも、新しい出会いの方がより多くの変化をもたらしてくれる。
変化は必ずしも良い方向に向かうわけではないけれど、それでも、どんな変化も私は受け入れたいと思う。
今日が昨日と違う自分ならそれでいい。
更に、出会いのもう一つの良い点は、別れというまた新たな変化をも自分に与えてくれることだ。 人は人と出会うことで新しい自分を発見し、人と別れることで別の自分になることができる。
季節はちょうど春。新しい出会いを探しにいこう。
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3月21日(木) 「数瞬のために」 |
今は少し、正しさから離れたい気分。 正しさを捨てるわけじゃないし、正しさを軽蔑してるわけでもないけど、でも今はちょっと勘弁して欲しい。
他人の正義や正論や正直さからできうるかぎり遠くまで離れていたい。
などと、「金八先生」を観ながら思ったのだった。
いつまでも同じ人間を尊敬したり憧れたりしてるのは、ある意味では進歩が止まっているということだ。
自分が成長していけば、憧れが目標になり、ライバルになり、やがては乗り越えるべき存在になるはずだから。
と、これもまた「金八先生」を観ながら考えたのだった。坂本龍馬の写真を見つめる武田鉄也を見ながら。
高い技術や能力は人に感動を与えるだけじゃなく幸福にさえする。 と、世界フィギュアのヤグディンを見て強く感じた。 あれはすごい。一人だけ異次元にいる。 才能は人の幸福のために存在するということを思い出した。 *
誰の人生にも孤独が必要だとは思わないけど、孤独が与えてくれるものは小さくない。
でもやっぱり孤独を過大評価はしたくない。
優秀さと孤独をイコールで結ぶのは愚かで間違った考え方だ。
確かに有能さは孤独をもたらすけれど、でももっと優秀になれば孤独じゃなくなるのだから。
*
今日もまた、長いような短いような一日が終わり、明日のことを考えて誤魔化してみるけれど、でもやっぱりこんな調子じゃいけないと思う。
予定をこなすだけの毎日では、たとえどんなに忙しくても一所懸命生きているとは言えないだろう。普通にできること以上のことをやらなければ前へは進めない。
人は日々衰えていっている。体力的にも、能力的にも、精神的にも。上を向きながら下りのエスカレーターに乗っている時のように。 下がりたくなければ歩き続けるしかないし、登りたければ走るしかない。何もせずじっとしてたらどんどんとりとめもなく下っていってしまうだろう。
脳細胞だって今この瞬間も恐ろしい速度で大量に死滅していっているのだ。 *
なんにしても悲観は良くない。悲観することによってあらかじめ自分の心を守ろうとするのは人間の本能のようなものなんだろうけど、それでも悲観はいけない。人はちょっと楽観的すぎるくらいでちょうどいい。
悩むことや反省もそうだ。いっそのことそんなものはしない方がいい。
ネガティブな感情で自分を正当化するのはやめないと。
悩んだり迷ったりした時は、自分が一番好きなことをするのがいい。逃避だけど、無駄に悩むよりはよっぽどいい。
悩んじゃいけない。考えないと。この先のことを。
*
今はいろんなことが駄目になっていて、何もかもが分からなくて、思いが言葉にならないけれど、こんな時期もある。今までだってあった。
けど、ここで終わりじゃないし、こういう時期から得ることもたくさんあるから、あきらめたり自分を責めたりはしないでおこう。
この時期のことを未来に役立てればいいんだ。 良くも悪くもまだ先は長い。
この時間は、歓喜へと続いていると信じている。
すべては数瞬の感動のために。
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3月20日(水) 「桜の季節よ、今年もありがとう」 |
上昇気運。 けど、安易に騙されてはいけない。また油断すると急降下してしまいそうだから。 安定飛行も退屈と言えば退屈だけど、それにしてもここ最近はあまりにも低空飛行が続きすぎてちょっとしんどい。また平和が少し恋しくなった。 今日は平凡な一日だった。本当は平凡な一日ではなかったんだけど、わざとそのことを考えないようにして心の平穏を保った。 考えれば解決する問題なら喜んで考える。けど、考えても解決しないことをあれこれ考えても仕方がない。そういう時は思い切って思考を捨てた方がいい。 考えたくなくても本当に考えなければいけない時は嫌でも考えるもんだ。 どんな問題も究極的には考えを突き詰めていけば必ず答えは出る、そう信じていた頃の私はもういない。私の中で多くの時が流れ、時の流れが無邪気さを流し去った。 けど、私はどちらの自分も認めようと思う。無邪気だった自分も、無邪気さを失った自分も。 時の流れの中で移り変わっていくすべての自分は、どれも自分の一部だ。 たとえるなら、昨日の自分は人差し指で、今日の自分は中指で、明日の自分は薬指、みたいなもの。どれかを愛してどれかを嫌うのはおかしい。 人生が完結した時、すべての自分がそれぞれ一部分で、それら全部を合わせて自分の全体像になるということに気づくだろう。 * 名古屋の桜はまだ咲いてこない。咲いているところもあるみたいだけど、うちの近所の桜はまだだ。 一昨年の桜の季節、私は大阪へ行ってネットの友達たちと会う約束をしていた。けれど前日の深夜、じいちゃんが死に、その約束はついに果たされることはなかった。じいちゃんの墓近くにはきれいな桜並木があった。 去年の桜の季節は、その後一年経たずに消えた恋に夢中になっていた。桜の写真をたくさん撮り、桜について色々書いて送った。 今年の桜の季節は私に何をもたらし、何を奪っていくのだろう。 桜が散る頃までには、私は上手く変われているだろうか? それでもまた、私は今こうして今年も桜の季節の上に立つことができた。それは本当に嬉しいことで、ありがたいことで、いろんな人やものに感謝したい。ありがとう。 今年も短い間だけど、よろしく。 |
3月19日(火) 「計算外の平和」 |
状況が差し迫っているのに心が私に命令を出さない。 黙ったまま、何も語らず。
私は、上官の命令を待って立ち尽くす無力な二等兵のよう。
進むこともできず、後退も許されず、身動きが取れない。
これは一体どうしたことかと考えてみるに、今はまだ動かなくていいということかもしれない。状況がもっと差し迫ってくるまでこのままでいいという。
自分にとってどうしてもやらなくてはいけないことは必ず心が自分に命令するものだ。ああしろこうしろ、それは駄目だやめておけ、などと。
そのために私は毎日自分の心に耳を傾けているわけだし、今までずっとその訓練をしてきたのだ。 たとえ心の囁きを聞き逃すことがあったとしても心の叫びまではよもや聞き逃すことはあるまい。
だから動けないことをあまり心配するのはやめよう。もっと気楽に毎日を楽しむことを第一に考えたい。このところ聞こえない心の声に耳を傾けてばかりいて日々を楽しめないでいるから。 大いなる流れの中で心静かに過ごすこと、それが基本姿勢だったはずだ。
流れは常に変化している。時に速く、時に緩やかに。
その流れを読み違えず、流れに飲み込まれないように。
*
求めているのは偉大になることじゃないし、自己満足だけでもない。
私が探しているのは、世界と自分との幸福な関係性だ。
世界が私に与えてくれるもので私が幸福になり、私が世界が与えるもので世界が幸福になること。そのバランスを見出すことこそ、私の求めているものなのだ。
互いに奪い合い、与え合い、どちらが一方的な被害者でも加害者でもない、そんな関係性を実現したいと私は願う。
人も世界も、奪うだけでは幸福になれないし、与えるだけでも満足は得られない。
*
自分にとって絶対的なものは他と比較する必要はない。
たとえそれが初めて触れたものであったとしても、一瞬で分かるはずだ。
あ、これは自分にとって絶対的なものだ、と。
絶対的な価値観は頭が考えるよりも心の方が素早いものだ。
* 運命は時々、皮肉な演出をする。 圧倒的な不運が人を幸福に導いたり。
人より恵まれていることが死をもたらしたり。
運命は頼るものじゃない、最大限に利用するものだ。 * 天の演出家の思惑がどこにあろうと、私たち役者は自分にできる精一杯の演技をするだけだ。演出家の計算を超えて。
だって、なんだかんだいっても、実際に演じてるのは私たち自身なのだから。
*
私の人生設計が決定的に狂ったのは、やはり1999年だろう。あそこであまりにも何も起こらなかったことで私の予定はまったく狂ってしまった。
2002年の今、私はまだ先の見通しを立てられずにいる。 ノストラダムがどうこうじゃない。聖書や天文学やその他の予言が確かに存在していて、多くの人々はそのことに怯えていた。それが引き金になるはずだった。人間の心理が人為的に何かを起こすと。 いや、もちろん世界の崩壊なんてもちろん望んでなかったし、人類の滅亡なんてさらさら信じてもいなかった。けど、あそこで古い価値観が大きく崩れる何かが起こるだろうとは思っていた。
だから、私としては、あそこまでを人生の前半と見て、人生の後半はその価値観崩壊後の世界に対応した生き方をするつもりでいた。自分の本当の生き方はそれから決めればいいと。
しかしながら、実際は何もなかった。それはもう見事なほど何も起こらなかった。 古い価値観は今もそのまま続き、私は途方に暮れている。 何故価値観が崩壊すると思ったかといえば、それはもう今のままの価値観では絶対に駄目だと思っていたからだ。これはおかしいから別のにしようよと思っていた。どんな形が正しいのかは分からなかったけど、それでも新しいものに取り替えた方がいいことだけは確かだと思った。
あれから3年。世界では日々騒がしくいろんなことが起こっているけど、本質的には何も変わっていない。大地震や大災害程度では人間の基本的な価値観は変わるものではない。もっと大きな崩壊が起こらないと。
私は20世紀の終わりとと21世紀の初めが本質的に同じものだということがすごく不自然なことに思えてしょうがない。
何故世界は変わらないのか? 人は変わることを望んでないのか? 私にはよく分からない。本当にどうして世界は変わらないんだろう。不思議だ。
そして私の人生設計図はいまだに描かれていない。馬鹿げた話だけど。
人には平和な時代向きのタイプと、革命時代向きのタイプがいる。両方に対応できる人もいるけど、たいていはどちらかの方がより自分らしく生きることができる。
戦国時代と幕末の歴史にしか興味を持てない私のような人間が平和な時代を生きるのは難しい。
平和はありがたくて楽しいけど、でも燃えられない。だからどんなに楽しくても幸福でもどこか満たされない。
この先世界はどうなっていくのだろう。このまま緩やかな変化をしながら時は流れていくのだろうか。
それでも私は待っている。世界が激変するその時を。
平和はやっぱり退屈だ。 *
自分に対する期待感も、世界に対する期待感も、期待を裏切られ続けることでだんだん目減りしていく。そしてしまいには期待することをやめてしまう。自分の心を守るために。
けれど、生きている間は決して期待が完全に失われてしまうということはない。期待はどんなに小さくなってもどこかにある。
だから期待するのをやめないように。 期待にすがってもいい。格好悪くても。
少なくとも、自分に対する期待感だけは最後まで失わないようにしないといけない。
人は期待されなければ頑張れないものだし、その最後の一人は他ならぬ自分自身なのだから。
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3月17日(日) 「新しいアプローチを探して」 |
あらかじめ約束された未来へと向かって、あなたは喜んで進むことができるだろうか? 私はそんな未来はいらない。それがどんなに幸福な未来でも。
どんなしょぼい未来でも、自分で作る方がいい。 同じ苦労するなら自分たちの苦労の結果がきちんと反映されたものの方がいいだろうから。 だから運命も邪魔なだけだ。 人は何かを好きになりたい愛したいという欲望の一方、何かを嫌いたいとか憎みたいという欲望もある。 人は何かを嫌いたくて嫌っている。嫌いたくないというのは嘘だ。
嫌うという感情は必ずしもマイナスのものじゃない。生きていく上で必要なことでさえある。
何も嫌わないとしたらそれは単に周りに無関心なだけだ。 私たちは、過去の偉人の生き様を真似る必要はまったくない。 誰かがすでにやったことと同じことを下手に真似しても意味がない。
私たちは過去の人たちのエッセンスを取り込んでオリジナルの生き様を模索していかなければならない。
上手な物真似より下手なオリジナルの方がずっといい。
オリジナルだけが次の世代に受け継がれるのだから。 汚れずにきれいな正しさから行く道と、賢さと自己浄化から行く道は、やがて同じ場所に辿り着く。 汚れないことが汚れることより偉いわけじゃない。
自分が汚れてみることで本当のきれいさを初めて知るということもある。 私はずっとある種の救いを求めてここまで来たけど、最近の迷いをみるとどうもそこが違ってきているのかもしれない。 救われたくないというか、救われることで終わりにはならないと思うようになってきている。
悟ることでもなく、賢くなることでもなく、救われることでもなく、真実に辿り着くことでもなく、すべてを知ることでもない。私が探しているのはもっと先にある何かだ。
宗教的アプローチでもなく、科学的アプローチでもなく、文学的アプローチでもない。別の方法で別の新しい何かを見つけなくてはいけない。
そんな誰も見たことも聞いたこともないような概念をどうやって見つければいいのかは分からないけど、何にしても、まだまだ先は長くて、また最初からやり直さないとしょうがないことだけは確かなようだ。
まったくもって、いつでも途方に暮れてしまう。
コンパスをなくした船乗りのように。
欲望を捨てて悟るのではなく、欲望を利用して進歩上昇したい。 完成を目指す方向性に前は憧れたけど今は魅力を感じてない。何かが違う気がする。
もっと人間として毎日の暮らしの中でいろんなことを感じたいし、もっと新しい何かを知りたいと思う。
満足を超えた満足を得るために。
全員がそれぞれの役割を演じながら総体として満足するか納得するかしなければ自分自身が本当に幸福になることはない。そんなことは当たり前のことだと私は思うんだけど、なんでみんなはそうじゃないんだろう。不思議だ。自分ひとりが幸せになってもしょうがないではないか。 自分がある面では幸福で、ある面は不幸だったとしても、それが間接的に他人の幸不幸によって成立してることを知れば納得できるはずだ。全員が幸福になるなんて夢物語を言ってるわけじゃない。
多くの人間が幸福になれないのは、単純に賢さが足りないからだ。世の中や人間に責任があるわけじゃない。
幸福になるための基礎体力としての賢さが足りない。
今の私をいさめるとしたら、それはものすごく正しい人か、人間としてものすごく優秀な人だけかもしれない。 傲慢になってるというんじゃなくて、何に対してもとても投げやりになってしまっているから。
半端な正しさや自分自身では自己修正がきかない。
ちょっと尻を思い切り蹴っ飛ばされる必要がある。
冷めた心を燃えさせて欲しい。 絶望ではない。絶望に似た何かだ。 それがつきまとって離れない。 振り切りたいけど振り切るにはスピードが全然足りない。 こいつは一体何なんだ。何と名付ければいいのか。 偉人と呼ばれる人たちについてもずいぶん考えてきたし思いも巡らしてきた。 けど、彼等の求めてるものや生き様は、どうも私の求めてるものとは違っている。
どうやってもあんなふうにはなれないからというんじゃなくて、たとえ自分が彼等に追いついたとしても満足も納得もできない気がするからだ。
分かっているのはそこまで。その先は何も分からない。
人生はそれほど深刻なものじゃない。 でも、いいかげんに生きていいわけでもない。
感情の起伏の中で、感情に飲み込まれることなく、自分の感情を楽しみながら、ありがたがって生きることが基本なんじゃないだろうか。
深刻ぶらず、侮らず。
過去の自分の感情や思考や感覚と今の自分のそれらを比較するから、どうすればいいのか見失ってしまうのかもしれない。ズレを無意識の内に修正しようとしてしまって。 どんどん新しくなっていく自分の感覚にもっと素早く慣れなくては。
過去の正しさは過去にしかなく、過去の感覚はすべて今はもう正しくないのだから。
それにしてもここまで何もかも見失ってしまうとは。
30を超えてふっと楽になった時、もうこのまま楽になる一方だと思ったのに。
甘かったか。
確かにそんなに簡単なことだったら今までの人たちがあんなにも悩み苦しむはずもなかった。
けれど見失うことは駄目なことじゃない。むしろいいことだ。新しいことが見えるようになるためには今まで見ていたものからいったん目を離す必要がある。
長い航海の途中で立ち寄った島がいくら心地よくてもそこが目的地じゃないならいつかはまた旅立たないといけない。 先へ進めばまた新しい光景とも出会えるだろう。
悲しみも、憂鬱も、苦悩も、それらは今のメインテーマじゃない。言葉さえも。 迷いさえも見えなくなった今、流れる日々に足をすくわれて立っていられない。
刹那の喜びが一瞬の光となって人生全体を明るく照らしてくれると思っていたこともあった。
けれど気づく、一瞬の光はやはりその場限りのものだということに。
一時しのぎの誤魔化しも根本的な解決にはならない。
日常からの逃避や、ストレス発散のためのあれこれも、毎日の現実を改善してくれるものではない。
もっと根本的な解決方法を見つけないと。
なんにしても、自分を見放すのは最後の最後でいい。それまでは自分につき合おう。 |
3月15日(金) 「イメージ記憶のズレ」 |
中途半端に積極的で、中途半端に消極的な一日。 終わってみればこれといった収穫も進展も少なかった。
けど、さほど悲観すべき一日でもない。結果は結果として意志はあった。意志を切らさずつなげていけば明日以降につながるから。
気分もやや上昇傾向にある。
*
最近、やたらケガをする。この前の大コケは象徴的な出来事だったたけど、それ以外にも部屋の中で肩や足をあちこちにぶつけたり、道でつまづいたりすることが多くなった。
老化だな……。
脳の中にある行動のイメージ記憶と、今現在の自分の体の能力がズレてきているんだろう。だから自分では段差を乗り越えたつもりなのに実際には足が思ったほど上がってなくて引っかかったりするのだ。
この先だんだんこの傾向は強くなっていくんだろうけど、でもイメージが実状に追いつく部分もあるだろうから、それほどひどいことにはならないのかもしれない。そうそうつまづいたり転んだりしてたらたまらないし、道行くおじちゃんやおばちゃんが転げ回っている光景もそんなに目にする機会はないから。
*
思考が雑然としていて、あまり上手く物が考えられない。集中力も欠けている。
今日はあまり書けそうにないからそろそろ切り上げて寝てしまおう。
*
映画のことを少しまとめて。
『花様年華』
ウォン・カーウァイへの期待感がどんどん薄れていく。
もう『恋する惑星』のような作品は作ってくれないのか? それとも作れなくなってしまったのか?
この作品も私のための作品じゃなかった。よくも悪くも大人の作品で退屈だ。
『日本の黒い夏』
長野サリン事件で冤罪一歩手前までいった男とその周辺を描いたなかなか出来のいい作品だ。
日本映画もこういう地味でいい作品がたくさんあるのにみんなは知らない。もったいない。
『15ミニッツ』
タイトルがよくない。このタイトルから内容を推測するのは無理だ。もう少し分かりやすい邦題を付けないと。
内容は良かった。面白かったというか、観る者を惹きつける力があった。
デ・ニーロ主演の刑事アクション。
『ザ・ダイバー』
こちらもデ・ニーロ主演。海軍のダイバーを描いた作品。
まあまあか。
どうもグッデン・ジュニアは全然上手くないような気がしてきた。熱演してるだけのようだ。
『遙かなる帰郷』
よかった。第二次大戦中の強制収容所におけるイタリア人を静かに淡々と描いた作品で、個人的には『ライフ・イズ・ビューティフル』より3倍は面白かった。
『東京マリーゴールド』
『ざわざわ下北沢』よりはましだけど、市川準監督も力が落ちたんじゃないか。傑作『東京兄妹』路線だが、あの静かな緊張感はこの作品にはない。自分の作品の模倣に失敗した感じ。
次に期待。このままで終わる監督じゃないだろう。
『ハムナプトラ2』
思ったより楽しめた。『1』より面白いかもしれない。
ただ、もうこういう娯楽作品を観て得る物はほとんどなくなってしまった気がする。
『猿の惑星』
どうも退屈だった。終盤からラストにかけての盛り上がりはよかったけど、そこに行くまでの展開がもうひとつ。
どうしても出来のいいオリジナルと比べて観てしまう。
なんでこんな中途半端なリメイクをティム・バートンがやったのか不思議だ。まあきっと、やりたかったから、という単純理由なんだろうけど。
*
次に劇場で観る作品が決まらない。『ロード・オブ・ザ・リング』はもう一つ心が動かない。3時間は長いし。
*
*
*
一つの物事、一つの出来事、一つの物語、それぞれ幸福の角度というものがある。あるいは不幸の角度が。
ある角度から見れば幸福に思えるし、それ以外の角度から見れば不幸に見える。 だから幸福の角度を見つけないといけないし、見つからなければ自分が動いてみる必要がある。 必ず幸福の角度はある。ほんのわずかかもしれないけれど。 光を見て、影を知ること。こちら側を見ながら向こう側を想像すること。 見ている部分がすべてじゃないし、見えてない部分が真実でもない。
すべてが一つの存在であり、存在は全体だということを忘れないように。
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3月14日(木) 「目標不足」 |
きれいな部分しか知らないということは世界や人間の半分しか知らないことだ。 善良なだけでは人生を本当に楽しんだことにはならないし、悪を知らなければ正しく在ることはできない。 悪いことを知らないことに価値があるわけじゃない、悪いことを知っていてそれでもやらないことに価値があるのだ。 意志を伴った選択だけが正しい。 などということを、アニメ「コメットさん」を観ながら考えてる私は、やっぱりちょっと変かもしれない。
コメットさんの優しくて正しい心は大切なことを思い出させてくれるんだけど、同時に説教したい気分にもなる。コメットさん、そうじゃない、人生は汚さを乗り越えることが大切なんだぜ、とか。 いや、もちろん声に出して言ったりしてないし、私はよいこなのでアニメをみる時はテレビから少しはなれて部屋を明るくしてみてるけど。
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せっかくの浮上しかけた気分が悪い知らせで一気にまた底まで落ち込んでしまった。墜落。
ふー、やれやれだ。ため息しか出ない。 狭い部屋の中にいると自分のため息で息苦しいほどだ。空気が悪い。 今は本当に何もかも楽しめない。そんな自分に腹も立つ。と同時に、誰にともなく謝りたい気分でもある。 いろんな気分が自分の中で勝手に暴れて収拾がつかない状態だ。
思いが言葉にならない。
そんなわけで今できることはとても限られている。頭を使うことをする気になれないんで、でることといえば、映画やテレビを観るか、オークションか、ビデオデッキをいじることくらいしかない。
ゲームしたり考えたり書いたりするのはどうにも気が乗らない。あと、メールも書けない。
しょうがないんで今日もテレビでビデオをながらで観ながらビデオデッキをいじってた。
あれからまた安い値段であれこれ買っていたら、押し入れは押すな押すなの大盛況になってしまった。
一応部屋で稼働しているのが8台、押し入れで出番を待っているのが4台。
うっ、気づいたらいつの間にか12台になっている。こりゃまずい。必要ないものは売っていかないと。
今や質屋よりたくさん中古ビデオ持って状態だ。 最近入手したのは、パナソニックのNV-BX25とNV-BS900という1990年〜1992年くらいのバブル後期のものだ。
さすがにこの時期のパナソニックのメカはものすごくしっかり作り込まれている。動作も速いし、動作音も軽くなくていい。
画質はどうかというと、人が言うほどいいとは思わない。とても素直ではあるんだけど、個人的にビクターの方が好きだ。HR-V2やHR-V10やHR-V3の方がNV-BS900より上だと思う。色々見比べて比較した結果、どうも私はややデジタル傾向の味付けの方が好きらしい。
あるいはパナソニックなら、NV-SB60Wも持っているけど、これ以降の年代のものの方が好きだ。SB88WかSB800Wが欲しい。
この調子ではまだまだビデオ買いは止まりそうにない。
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今日たまたまテレビで愛知県の公立高校の入試問題をやってて観るともなしに観てて、じゃあ軽く答えてやろうかと思ったら……、で、できん……。
ええ? なんだ、なんだ。いや、ちょっと待て、冷静に考えればこんなもの……。
と、今度はちゃんと考えてみたんだけど、本気でできなくて驚いた。高校入試だから中坊が答えてる問題なのに。なんてこった。気づけば私は中学生以下の頭脳になっていた。恐ろしい。
たとえば、「『明日は雨が降りますか?』を英訳しなさい」、という問題があった。これなんか絶対分かりそうなのにいざとなると分からない。 答えは、「Will it rain tomorrow?」だそうだ。
うーむ……。 けど、日常会話で「Will it rain tomorrow?」なんて言い回しをホントに使うのかなあ。普通の会話なら相手に訊ねるから「Do
you think」とかで始まりそうな気がするんだけど。気象庁とかに問い合わせるならともかく。
それにしても今私が高校入試の試験を受けたとしたら、たぶんどこも受からないような気がするぞ。英語や国語はまあそこそこできたとしても、数学なんててんで忘れてしまってるし、社会も記憶力に問題のある私だし、古文なんてお手上げなんじゃないだろうか。いかん、理科もあるうー。
ちなみに、愛知県トップクラスの高校、たとえば旭丘高校なんかだと、100点満点で90点取らないと入れないらしい。
が、わが長久手高校は……と見てみると、69点でいいらしい。ははっ。相変わらずアホやった……。これなら私でももう一度受かるかもしれない。
しかしながらあの高校は、受験に失敗することを恐れた安全パイ狙いの生徒が多かったから、みんな満更アホではなかった。基本的には賢いんだけどやる気のないやつが集まっていた気がする。
入学してからも、校則だけはやたら厳しかったけど勉強に関しては進学校とは思えないほどルーズだったし。
番組の最後にアナウンサーがこんな言葉で締めくくった。
「なにはともあれ、これでみなさんも長い受験戦争から解放されたわけです。しばらくはゆっくり休んでください」と。
受験戦争ねえ……。
その言葉を聞いて私が思ったこと。
「生きることが受験勉強くらい楽ちんだったらどんなにいいだろうなあ」
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孤独感と、とてもひとりな感じとがあって、それは似ているようだけど違う。
孤独感というのは暗くて深い地下にひとりで潜ってしまっている感じで、ひとり感というのはみんなから遠く離れてひとりでさまよっている感じ、とでも言おうか。
今の私は孤独じゃないのにひとりを強く感じてしまっている。知り合いもいなくて言葉も通じない外国を目的もなくさまよっているみたいだ。
自分で解決しなくてはいけない問題と、人に頼るべきことの区別がつかない。
人に頼るのが下手というのは、この先の人生も厳しいことになりそうだ。これまで以上に。
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目標不足、結局はそれに尽きるのかもしれない。
まずそれを見つけないことにはどうしようもない。
どこかにいい目標落ちてないかな。今は1億円拾うよりいい目標を拾うことの方が嬉しい。
……。
考えたらやっぱり1億円の方がいいかな?
あー、いや、いや、やっぱり目標だ。1億円を手に入れたって根本的な解決にはならないから。
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3月12日(火) 「変わり続けるものだけが」 |
自分が変わっていくにつれて今まで好きだったものや嫌いだったものが変わっていくのは当然のことだろう。 遊びにしても、作品にしても、人にしても。
だから、好きという気持ちを取り戻そうと努力するのはやめた方がいいのかもしれない。
すべての変化を受け入れよう。理屈で跳ね返そうとせず。
あの頃好きだったものを今も好きでようとするのはもうやめよう。 そして、変わるものだけを愛そう。
変わらないものなど信じない。
信じられるのは変わり続けるものだけだ。
自分も人も世界も。
* 何をしてても楽しそうじゃない人間がいるけど見てて少し不愉快になる。もっと楽しそうな顔した方がいいんじゃないかと言いたくなる。心の中で、強く。
毎日を生きることを楽しめないことは致命的なことだと思う。楽しめないのは世界や他人や周りのせいじゃなくて、楽しむ能力がない自分のせいに他ならないのだから。
けれどそう言う私自身、今かなり危機的な状況にある。毎日をまるで楽しめてない。きっとそれは顔にも出てるだろう。
これは本当に良くないことだ。もっと楽しまないといけない。少なくとも楽しむ努力をすべきだろう。自分の能力の限界まで。
生きることを楽しめないことは罪だ。生きることを楽しんでいる人間だけが罪から逃れられる。
* 人は誰でも表の好みのタイプと裏の好みのタイプがあるんじゃないだろうか。 最近どうもよく似たタイプの顔ーー自分の基準の中でも美人の範囲からはみ出しているあるパターンの顔ーーに惹かれることが何度かあって、これはと思ったのだ。 同じ長所を好きになる反面、似た短所に何故か惹かれてしまう。今更だけど、それが憧れと現実的な恋愛感情の違いなのだろうか。
そこから飛躍して言えば、結婚というのは相手の長所に惚れてするよりも、相手の短所に惹かれてする方が上手くいくのかもしれない。 そんなこと、みんなは当たり前に気づいているんだろうか。 ただ、それでも私は「美人は3日で飽きる」というのには賛成できない。美人は見ていて嬉しくなるし、自分が本当に好きな顔は3日やそこらで飽きるはずもない。 何かを持っていないことが何かを持っていることについて何かを持っている人よりもよく分かるということもある。
たとえば幸福とか愛とか。
店の中で働かないと分からないことがある反面、お客ではないと気づかないこともある、というのに似て。
それにしても幸福や愛は内側からは見えにくいものだ。 *
気分がちょっと沈みがちな時に聞くと心地よいアーチストを発見した。ブリリアントグリーン(the
brilliant green)だ。ずいぶん前にレンタルしてそのままほとんど聴くことなく放っておいたものを車でたまたま聴いてみたらこれが今の気分にジャストフィットしたのだった。
ドラマ「オーバー・タイム」の主題歌になった「そのスピードで」もいいし、「長いため息のように」が特に気に入った。けだるい感じが今の私にはとても気持ちがいい。
中島みゆきでは重すぎるけどEvery Little Thingでは軽すぎる、なんて時にはぜひブリリアントグリーンを。
ただし、元気がある時に聴くと元気を吸い取られそうなので要注意。
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今日のメルマガ「まぐまぐ」のネタで笑ったのが「モーニング娘。トランプ」のネタだ。
A(エース)からK(キング)までそれぞれにメンバーの顔写真が載っているらしいが、ジョーカーは中澤裕子らしい。
……上手すぎる。 制作者の素晴らしいセンスに乾杯。
少し前のネタの、「営業でペアを組んでいる先輩は、カーラジオから『プロジェクトX』の主題歌が流れてくると決まって、『取引先の要求は身勝手だった』、『現場の怒りは頂点に達した』とつぶやく」というのも爆笑だった。
ついでに書けば、今日放送の「青函トンネル」はとても良かった。 * 楽と快感と幸福感と、そのへんのバランスが今完全に狂っている。 最近の毎日はどこか変だ。調味料の種類と分量を間違えた奇妙な味の料理のように。
でも自分ではどこがどう間違っているのか分からないから直しようがない。
分かっているのは、何かが間違っているということだけだ。
何かが足りないのか、それとも何かが多すぎるのか?
賢くなれば絶望するのは当たり前。 でも絶望を結論とするのは愚かなことだ。 賢さも絶望も突き抜けなければどこへも辿り着けない。 * 世界が私に何も要求しない以上、私も世界に何も要求しようがないし、何も期待できない。 押し売りは趣味じゃない。 奪い合い、与え合う関係だけが健全な関係だと思うから。 世界と人間は共犯者だ。 * 勢いがある時と勢いがない時があって、勢いがない時は何をやっても流れは良くならない。 風も波もないない海では、いくら漕いでも陸へも島へも近づかないように。
長い航海、そんな時は力を温存するために休むことも必要だろう。 * いい映画は何度観ても面白いし、いい小説は何度読んでも面白い。 そんなことは知っている。 そう、知っているんだ。知っていることを何度も確認する必要はない。 だから私は映画も小説も一回きりしか観たり読んだりしない。 ただでさえ時間が足りないのに。 そもそも私は確認作業というものが好きじゃない。同じ作品を観たり読んだりすることだけじゃなくて、勉強の復習とか、基礎の反復とか、自分の文章を読み直して間違いを直す作業も実はかなり苦痛だったりする。校正という仕事も絶対に向いてない。
とにかく常に新鮮じゃないと嫌なのだ。すべてにおいて。
だからなるべく同じことは繰り返さないようにしている。同じ場所へ行くのにも道を変えたりするくらいなのだ。
* 価値観が短期間で劇的に変わることは今までも何度かあった。急に宇宙に目覚めて宇宙論を振り回してみたり、コテコテの運命論者だったのに突然それを捨ててみたり、そういうふうにこちら側と向こう側が入れ替わるようなことはあった。山より海が好きになるように、冬より夏が好きになるように。 でも今回の変化はそういうのとは全然違う。どこかが決定的に違っている。あまりの急激で劇的な変化にまだ戸惑っていてそれを受け入れられないでいる。
とにかく今まで楽しめていたものがことごとく楽しめなくなってしまったのだ。大のお気に入りだった映画がまるで馬鹿らしく思えたり、好きだった人に対する興味がまったくなくなってしまったり、心の拠り所となっていた考えや存在や対象さえも跡形もなく消え去ってしまった。
これは一体どうしたことか。自分でも信じられない。
まるで夢から覚めてしまったようだ。楽しい夢から冷めてみれば刑務所の中だったみたいな感じ。
ボロボロに崩れ去った価値観はもはや修復不能に思える。ここまで崩れてしまうと、直すよりも最初から作り直した方がいいかもしれない。その方が早そうだ。
私はこの先、何を心の拠り所とすればいいんだろう。
神でも、運命論でも、宿命でも、宇宙でも、人間性でも、成功でも、金でも、恋愛でもなく、他に何があるというのか。
たぶん、答えは、新しいもの、だろう。今の私がまだ知らないことの中にしかそれはあり得ない。
そう思えば、今の状況をそれほど悲観することはない。だって、今知っていることよりもまだ知らすにいることの方がずっと多いに違いないんだから。
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3月11日(月) 「ギアチェンジできるスピードを」 |
日本アカデミー賞の視聴率が一体何パーセントだったのか見当がつかないけど、私は観た。ここのところ毎年観ている。けっこう楽しみでさえある。観ていて恥ずかしいという人は多いけど、私はあのどうにも洗練されない感じがけっこう好きだ。日本人らしくていい。アメリカのように芝居がかってなくて。 そこはそれ、さすがに『シベ超』の水野晴郎センセイが作っただけのことはある。 今年は予想通り『GO』の一人勝ちだった。あそこまで独占するとは思わなかったけど。 作品賞には『千と千尋の神隠し』が選ばれたものの、これは一応恰好だけという感じだった。いかにも日本アカデミー賞らしい結果と言える。 あの賞は客が入った作品はほぼ確実に黙殺されるようになっている。『踊る大捜査線』は露骨だったし、『バトルロワイヤル』や『サトラレ』なんかも無視された。選ばれてるのは、『雨あがる』やら、『鉄道員(ぽっぽや)』やら、『愛を乞う人』やら『午後の遺言状』やら、そんな作品ばっかりだ。 けど本当にこの顔ぶれが日本映画を代表してる作品だろうか? もっと面白くていい作品がたくさんあると思うのだけど。 まあ日本アカデミー賞なんてそんなもの。誰も大して気に留めてないだろう。
それにしても『GO』というのはそんなにいい作品なんだろうか? いや、私はまだ観てないからなんとも言えないんだけど、それほど観たくてたまらないとは思えない。
ま、ビデオになったら必ず観るんだけど。
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ところで『GO』について少し検索してたら在日という言葉の絡みで今までまったく知らなかったあれこれを知ることになった。
きっかけは井川遙の本名が趙秀恵で在日韓国人3世だということだった(最初は本名でモデルをやっていた)。
そこからあれこれ検索していったところ、在日の流れを汲む(と言われている)芸能人がものすごく多いことに驚いた(もちろん以下の全員の確証があるわけではない)。
都はるみ(李春美)、和田アキ子(金現子)、安田 成美(鄭成美)、マッハ文朱(李文朱)、岡本夏生(李夏生)、沢田
研二(李研二)、つかこうへい(金峰雄)、力道山(金信洛)など、本名が知られている(らしい)人だけでも驚くけど、小林
旭、五木ひろし、布施明、、西城秀樹、内田裕也、ジョニー大倉、にしきのあきら、井上陽水、、矢沢永吉、ビートたけし、松山千春、フランク永井、河島英吾、坂本九、松田優作、岩城混一、菅原文太、高倉健、美空ひばり、山口百恵、小柳ルミ子、瀬川瑛子、八代亜紀、工藤由貴、松任谷由美、松坂慶子、沢口靖子、中田英寿、星野仙一、中村武志、池山隆弘、江藤、清原、金本、とこれだけの顔ぶれを並べられるとちょっとなにがなんだか判断がつかなくなる。ひょっとしたら私もそうなんじゃないか、とさえ思ってしまうほどだ。
私は周りにそういう人がいなかったこともあって偏見以前に知識がまるでなかった。
在日がどうことかほとんど考えたこともなかった。
まあ確かに子供の頃そういう噂話めいたものはあったし、タブー視されていたことも多少は知っていたけれど。
しかし、いずれにしても芸能界、スポーツ界でこれだけ一線で活躍してるのだ。単純にすごいと思う。
在日だと知ったからといって別にどうこう思ってるわけでもない。ただ、こんなにいるとは知らなかったんで単純に驚いたというだけの話だ。
それにしても人種がどうだとか国家がどうだとかいうのは私の趣味ではない。国なんて一つでいいではないか。同じ地球人なんだから。というか、同じ宇宙人なんだから。
それだから私はアメリカという国がどうにも好きになれない。愛国心なんてものが無駄な争いを引き起こしてるとしか思えないから(オリンピックは別に地域対抗戦でいい)。
こういう境界線もいつかは消えていく方向に向かうんだろうけど、まだまだ時間はかかるのだろう。残念ながら。きっと私が生きている間は変わらないのだろうな。異星人でも攻め込んでこない限り。
韓国、朝鮮のことを言えば、もういいかげん仲直りしたらどうかと思う。最初から無理だなんて言わずに。
あとは第二次大戦の世代と次の世代が完全に入れ替わった時どうなるか。
そろそろアジアの国々も日本人のことを許してくれないかなあ。いや、ホントに。
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ものすごい絶不調からはようやく抜けたかもしれない。少なくとも今日はそんなに悪くなかった。目覚めは最悪だったけど、出掛けてたらなんとなく気分が上昇した。
とにかく、コントロール不能の超低空飛行は疲れる。
何もする気になれないことは忙しいよりもずっとしんどいものだ。
また明日から少しでもスピードを上げていこう。
セカンド・ギアでノッキングしてるような毎日はたまらない。
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