2002.2.3-

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 3月9日(土) 「あらたなる不調の始まり」

 無力感を楽しむ贅沢というものを最近覚えた。
 今までは無力感から逃れるために、起きているすべての瞬間を意識して暮らしていただけど、今はもうそういうことはしてない。一日の中で、あえてぼんやりしてみたり、無力感に浸ったりしている。その心地よさに気づいたから。
 昔ほどぼんやりすることが不快じゃなくなった。
 これを堕落とは思っていない。もちろん成長でもないけど、必然的な変化であり、正当な方向性だと考えている。
 今までの自分に飽きて、自分の新しい面を楽しんでいるのだろう。
 
 
 日々の意味は、その後ろ姿を見るまで分からない。
 
 
 泣きたいのに上手く泣けない感じ。
 落ち込みたいのに落ち込めず、悲しみたいのに悲しめない。
 病名不明の半病人みたいだ。
 あるいは、元気な入院患者のよう。
 
 
 自分を誤魔化すための幻が足りない。
 白と黒の絵の具だけでは虹は描けない。
 日々に彩りが決定的に足りない。
 
 
 自分の楽しみのためだけに日々をすり減らしてゆくのは、なんともたまらない気分だ。
 勘違いでもいいから、世のため人のために自分の存在が役立っているという実感が欲しい。
 そうじゃないと自分を許せる気がしない。
 
 誰に責められても嘲笑されても憐れまれてもいい。
 それは大きな問題じゃない。
 問題は自分の自分に対する評価だ。
 今はそれが史上最低になっている。
 
 
 去年の秋からずっと悪い流れが続いていると思っていたけど、実は最近になってまた別の悪い流れが始まっていることに気づいた。
 去年の不調と今の不調では原因も違うし、本質的に異質のものだ。
 原因が違えば対策も解決方法も違ってくる。そのへんの勘違いをまずあらためないといけないだろう。
 とりあえず去年のことは忘れよう。そして、今後どうすればこの不調から脱することができるかだけを考えよう。
 
 泣き言はほどほどに。
 
 
 今は雨期だ。どしゃ降りには勝てない。
 でもいつか雨期も終わり、やがて乾期になる。そう信じる。
 長く続いた氷河期だって終わったんだ。
 まだ絶望したわけじゃない。希望も消えてはいない。
 必要なものの不足と不要なものの過剰に少し悩まされているだけ。
 確かにイメージできる幸福の形をまだ私はいくつも知らない。この先にそれを知る楽しみが残っている。
 
 自分の中にあった古いもののほとんどが意味を失い、今新しいものを取り込む準備をしている。
 古いものを捨てることはいいことだ。その空いた場所に新しいものを置けるのだから。
 
 
 人は賢くなることでも孤独になり、愚かになることでも孤独になる。
 その振り子が途中で止まらない。
 自分を孤独から救ったものが自分にあらたな孤独を与える。
 
 
 今日の点数ーー25点。
 赤点。
 明日、補習。

 3月7日(木) 「感傷で荒野に花は咲くか」

 自信を根こそぎ失い、
 今ほど自分を認められない時はかつてなかった。
 自分から目をそむけたくなる。
 嫌いというより苦手な感じ。
 あまり関わり合いになりたくない。
 

 誰もが欲しいものと、与えたいものを持っている。
 一番いいのは、それぞれの欲しいものと与えたいものが一致することで、論理としては非常に単純だ。現実問題としては難しいにしても。
 いつでも自分が欲しいものだけじゃなくて自分が一番与えたいものが何なのかを意識しておくことは大切なことだ。そしてその時は惜しみなく与えること。
 与えることもまた間違いなく幸福の一つなのだから。
 
 
 たとえ行く道を見失っても、何もかも分からなくなっても、すべてに嫌気がさしてしまっても、どんなに絶望しても、この旅の始まりは忘れちゃいない。あの時の思いも、あの時の気持ちも、あの時の決意も。
 いい時も悪い時も、いつでも旅の途中。
 
 
 永遠に変わらないものはない。あるとした永遠に変わり続けるものだけだ。
 永遠の変化、そんな永遠ならあり得る。
 
 
 
 助けて欲しいと思っても、何がどうなれば自分が助かるのかが分からないからどうしようもない。
 たとえば、海を見に行ったり、温泉旅行に行ったり、泣いたり、そうやって忘れてしまえば済むことならどんなにいいだろう。
 でも私の抱えている問題は、忘れてしまえばいいようなたぐいのものじゃない。解決しなければいけない問題だ。
 けれどその解決方法が分からない。いや、解決の形そのものが見えない。
  だから、助けての一言が出かかって出ない。
 
 
 過去が自分の中でだんだん古くなるのは当たり前なんだけど、今私の中では古いものが急激に色褪せていっていてそのスピードが尋常じゃなくて戸惑う。昨日まで真っ黒だった髪の毛が一晩で白髪になってしまったように。
 つい最近まで私を楽しませてくれていたものや興味の対象だったものが急に力を失ってしまって、今はそれらのほとんどが私の心を動かさない。
 私は何を失ってしまったのだろう。
 ただ何もかもが変わってしまっただけなのだろうか。
 過去の快感や幸福の記憶を追いかけないようにすべきなのだろうけど。
 
 
 庭園で美しく華麗に咲き誇る花々の中の一本になるよりも、荒野に咲く野草になりたい、などという感傷で花は咲くのか?
 誰も見ていないところでひっそり咲く花にどれだけの価値と意味がるんだろう。
 
 
 私はこの世界のために生きているつもりだし、そうでありたいと願っている。
 世界のために答えを出したいんだ。
 自分個人の幸福のためなら、こんなにも思い煩ったり考えたりしないさ。
 
 
 木漏れ日が一瞬見えた気がして、またすぐに太陽は雲に隠れてしまう。
 自分の欲しいものや、必要とするものや、幸福感がそんなふうに見え隠れしている。
 
 
 私は、私にまつわるすべてを引き受けて、その上で生きていかないといけない。
 悪や不幸を否定したり排除したりしようとせず、それさえも丸ごと自分のものとして受け止めないと。
 幸福も不幸も、我が子のように分け隔てすることなく公平に扱うこと。
 自分の中の良い部分も駄目な部分も。
 自分にとっての敵も味方も。
 はじかずに飲み込むこと。
 不純物は一番底に沈めればいい。海のように。
 海の底には宝もガラクタも眠っている。
 
 人生は、不幸や不遇を楽しめてこそ、本当に楽しいものになる。
 
 
 駄目になったから、私はもっと先へ行かないといけない。
 元には戻れないし、ここに留まるわけにもいかないんだから、先へ進むより他にしょうがない。

 3月6日(水) 「不確かな絶望感」

 足りないものが分かれば、求めるものも分かる。
 どうしたらいいのか分からないのは、足りないものが本当には分かってないからだ。
 私は一体、何がどれくらい足りないのか? 

 具体的な絶望なら具体的な解決策もある。
 けど、正体不明の絶望感に具体的な解決方法は見つからない。
 答えのない問いはあっても、問いのない答えはないのだから。

 絶望や不幸が大きければ大きいほど苦しいと思うのは間違ってる。
 本当は、絶望や不幸が具体性を欠けば欠くほど苦しいものなのだ。

 一番不幸なのは、戦うべき対象を持たない人間だろう。
 
                   *

 私は、いつからか称えるべき人間を見失った。
 憧れも、目標の人物も、尊敬も消えた。
 そうなってしまったらもう、世界を愛すことはできないし、生きることを楽しむこともできない。
 少し前に辿り着いた場所もまた、定住の地ではなかったらしい。
 今度こそと思ったのに。

 お手本がないから正しさが見えない。
 正しさの基準を見失った。
 この世の誰一人正しく思えない。
 過去の偉人も天才も。
 もっと偉大で正しい人間を見せて欲しい。
 何も考えず、その人の真似をしてれば間違いないような人物を。
 
                   *
 
 思考の調子がものすごく悪い。
 
                   *
 
 今の私を一言で表すと、「投げやりな気分」というやつだ。
 何事に対しても一所懸命になれない。
 努力もできないし、頑張ろうという気持ちにもなれない。
 
 今、私は、かつてない新しい危機を迎えている。
 病原菌が進化するように、私の絶望も間違いなく進化を続けている。
 こういうことは習わなかったし、自分で生きてみないと分からないことだ。
 
                   *
 
 こんな私はもう見捨ててくれ、と言うのが正しいのか、
 こんな私だけど見捨てないでくれ、と言うべきなのか、
 どっちが正解なんだ?
 そんなことさえ今の私には分からない。
 
 長く生きれば生きるほどいろんなことが分かるようになると思ってたのに、生きれば生きるほど分からないことが増えていく。
 やれやれ。

 3月4日(月) 「人生最大のコケ」

 今日、派手にコケた。
 完全な自爆。それはもう、今までの私の人生の中で最大のコケだった。その様子を見ていたおばちゃん二人組が悲鳴を上げたほどだったから相当なものだったのだろう。
 両手に重い荷物を持っていたのに加えてよそ見をしてたのがいけなかった。
 駐車場に入る高い段のところで、いつものように上ろうとしたら、その出した足が段に引っかかってしまい、前のめりによろめきながら5、6歩走って踏みとどまりきれず、そのままの勢いで左肩と左頬から落ちて、砂利の浮いたアスファルトの上をヘッドスライディングしてしまったのだ。
 信じられん……。
 あまりの痛さと恥ずかしさでその場を急いで立ち去ろうとした私だったが、左肩と右膝の激痛と、左手首から手の甲にかけて血まみれになってるのを見てしばらく動けなかった。左頬も打ったようでヒリヒリしてるし。
 それでもなんとか逃げ出すように足を引きずりながら車までどうにか辿り着いたのだった。
 なんてこった。
 まさか自滅コケで自分がここまで大ケガするとは思ってもみなかった。車にぶつかったとかならともかく、普通に道を歩いていて大きくコケるなんていうのは私のイメージの中に存在していなかった。
 けど、逆に考えれば運動神経と反射神経でこの程度で済んだとも言えるかもしれない。とっさに左肩で受け身を取ったのが良かった。顔から落ちていたら頬骨を骨折してたかもしれない。
 うーん、なんて前向きな私。
 それにしても肩と膝が痛い。打撲だけだとは思うけど後遺症が残らないことを願おう。
 
                   *
 
 最近オークションで中古のビデオテープをまとめ買いしている。大量に。
 それはもちろん安いからということもあるんだけど、それよりも録画されてる内容によってはテープそのものよりも中身の価値が高いからだ。
 最初にたまたま買ったビデオテープの中身がアニメ満載だったことで味をしめた。「銀河英雄伝説」やら「ターンAガンダム」やら「逮捕しちゃうぞ」なんかが入っていて、レンタルでそれだけ借りようと思ったら1万円以上になるものがテープ代入れて1本100円以下だからこれはとてもお得だった。
 次に買ったテープには最近の映画が入っていた。すでに観たものも多かったけど、それまで観ようと思って逃したままになっていた『ハーモニイベイの夜明け』や『トゥルークライム』や『アメリカンヒストリーX』が入ってて、これまたありがたかった。
 しかも更にいいことには、このテープを売ってしまえるということだ。そうするとほとんど1,000円くらいで何十本もの映画やアニメが観られることになる。うーん、これはいい。おかげで最近まったくレンタルしなくてすんでいる。
 それに、自分の趣味とはまるで違う基準で選ばれてるから、普通では一生観ることはなかったであろう作品をたくさん知ることができるというのもいい点だ。
 それで今喜んで観てるアニメが2つある。「コメットさん」と「ジャングルはいつもハレのちグウ」という作品だ。思いっきり子供向けアニメなんだけど、これがまた面白いのだ。
「コメットさん」は心優しいアニメで気持ちがなごむし、「ジャングル〜」はグウというかわいげのない女の子の冷徹なセリフに笑いつつもうなってしまったりする。
 いや、いいものを教えてもらったと、ビデオを売ってくれた人に感謝したい。
 またじゃんじゃん買ってしまおう。押し入れがあふれてくるまで。
 
                   *
 
 買ったテープの中に『ラヂオの時間』が入っていたのでもう一回観てみた。
 今回もまた面白くて大いに笑ったんだけど、今回の収穫は奥貫薫だ。前からけっこういいなとぼんやり思ってたけど、今回見て、完全に私の好みのタイプだということに気づいたのだった。なんで気づかなかったんだろう。せめてドラマ「彼女たちの時代」の時に気づくべきだった。
 自分の好みのタイプをはっきり自覚できたことは私としてはけっこう大きな収穫だった。
 更に横並びのタイプを確認するなら、ガーネットクロウのAzuki 七もそうだろう。同じタイプに属している。あとは、井川遙。
 でも本当に好きなのは、ZARDの坂井泉水だったりする。
 こうして並べてみると、あらためて自分のストライクゾーンの狭さを思い知る。でもこれじゃあいけない。私も今年からは新ストライクゾーンも採用したい。もっと高めにも低めにも飛びつかなくちゃ。今のままじゃ、いつまでたってもフォアボールか三振だから。
 
                   *
 
 今日は人生最大の大コケによってすべての予定が飛んでしまったけど、でも気分は逆に上昇した。コケて血を流して目が覚めた感じだ。
 深夜になってもまだ体のあちこちが痛いけど、今日は悪い一日じゃなかった。何よりも退屈を感じなかったのが良かった。
 今日の分は明日取り戻せばいい。

 また行き詰まったらもう一度コケけてみるのも一つの方法かもしれない。
 あー、でもそれがエスカレートしていったらあらぬ方に迷い込んでしまうのはちょっと恐いか。最後は走っている車に自分からぶつかっていくようになっては洒落ではすまない。
 やっぱり自爆はなるべく避けるべきだろう。

 それにしても気がかりなのは、悲鳴を上げた目撃者のおばちゃん二人組だ。きっと夕食の席で話題に上ってしまったことだろう。それを思うとちょっと憂鬱になる。噂が広まらないことを願うばかりだ。自分でコケて顔から落ちた30男なんて、どう考えても恥ずかしい。
 
 明日からは足を高く上げて歩こう。特に段差のある場所では。
 それから荷物はなるべく片手で持つこと。
 もうコケるのは実際の話、コリゴリだ。
 今日の大コケを人生最後のコケにしたい。

 3月2日(土) 「20年後の永遠」

 永遠の未完成建築と言われたガウディ設計のサグラダファミリアが、あと20年で完成するめどがついたという。今まで謎だった部分がようやく解明されて、コンピューターで解析した結果、あと20年で完成するという結論が出たらしい。
 やはりこの世に永遠というものは存在しないのかもしれない。永遠の夢も、永遠の悪夢も。
 終わりが見えないことの恐怖と、終わりが見えてしまったことの絶望。たぶん、終わりというのはいつも何かしらの残酷さを伴う。終わらない夢に人は希望や可能性を見るものだから。
 
 あと20年、か。それは私にとっても非現実的な年月ではない。もしかしたら生きてサグラダファミリアの完成を目にすることができるのかもしれない。
 もし完成したらその時は自分の目で見に行こう。永遠の終わりを。
 少し生きる希望が出てきた。
 
                   *
 
 儚さを感じ、一瞬の儚さを愛さなければ、人は決して永遠とはつながれない。
 対極を感じなければ目の前のものさえ見えず、死を知ることで生が分かり、別れを思うことで出会いの大切さを知るのだから。
 永遠は一瞬の連続で成り立っている。その一粒ひとつぶを感じなければと思う。
 
                   *
 
 私たちは、今日という日をつないで生きているんじゃない。
 明日という日をつなげて生きている。
 今日という日は昨日に属しているものじゃない、明日に属するものだ。
 大切なのは今日までの過去じゃなくて、今日からの未来だということを忘れないように。
 
                   *
 
 過去を懐かしむように未来を想おう。
 そうすれはこの世界を愛することができるだろう。
 現在、過去、未来、すべては夢幻の出来事。
 でもだから儚いんじゃない、だから愛すべきことなんだ。
 別れた人を想うように、終わることがあらかじめ決まっているこの世界を私たちは愛そう。

 
                   *
 
 自分の人生はままならないことが多いけど、それでもこの世の中は本当によく出来ていると思う。
 捨てる神あれば拾う神あり、という言葉に象徴されるように。
 割れ鍋に綴じ蓋、という言葉もある。
 自分の人生が上手くいかないのも、それはどこか別の場所で上手くいくための調整なんだろう。無意味に上手くいかないわけじゃないはず。
 自分が不幸になってる分だけ誰かが幸せになっている。
 逆に言えば自分が幸せな分、誰かがどこかで不幸になっている。
 そうやってすべては丸く収まっている。めでたし、めでたし、だ。
 
                   *
                   *
                   *
 
 ここ数日、花粉症がひどい。特に深夜。鼻水ダーダー、クシャミ連発、目はショボショボ、しまいには頭まで痛くなってきた。
 なんだこれは。ここまでひどいのは初めてかもしれない。毎年全盛期にはこれくらいになるんだけどいきなり3月の頭からここまでひどいことはなかったんじゃないだろうか。
 今年は特別花粉がたくさん飛び交っているのか、それとも私が花粉に弱くなってしまったのか。
 どっちにしても根性なしの自分の体が腹立たしい。正常な反応ならまだしも、無害なものに対して無駄に過剰反応してしまうとはなんとも情けないではないか。いいかげんにしろ、バカ、と自分を叱りたくなる。まったくどうにかならないものか。
 ああー、それにしても頭がボォーっとする。こんな調子が二ヶ月も続くなんて、やってられねえ。
 薬以外にどうにか退治する方法はないものだろうか。思い切ってスギを部屋の中で栽培するというのはどうだろう。毒を盛って毒を制す方式で。
 しかし、ホントに犯人はスギ花粉だけなんだろうか? どうも濡れ衣のような気が私はしてるんだけど。
 
                   *
 
 オリンピック以降、いまだ調子が上がらない。オリンピックで空いた分、ビデオは消化できてるんだけどそれだけ。何も新しいことを始められず、スピードも上がらない。一日の中に小さな空白がいくつもできてしまう。密度が低い。
 一応予定は立てて、それなりに実行できてはいるんだけど、どうも納得がいかない。満足感や達成感からはほど遠い。どうしようもない感じだ。
 今はちょうど過去のものがことごとく古びてきていて入れ替わっている最中にしても、もう少し加速していかないと。もう3月だし。
 
 とりあえず古いものはどんどん整理していこう。物理的な部分でも精神的な部分でも。
 この10年の総決算の時期だ。ツケの精算と言ってもいい。
 捨てられるものは思い切って捨ててしまおう。
 今持っているもので捨てちゃいけないものなんて、たぶん何もないはずだから。

 2月28日(木) 「いつもの場所じゃないところで」

 どこへ行っても思い出はできる。近くでも遠くでも。それが非日常的な場所ならば。
 日常の範囲内ならどこへ行っても思い出はできない。
 写真に撮るべき風景もなく、日記に書くべき言葉もなく、遠くに住む友達に送る手紙の文句も浮かばない。
 だから出掛けよう。いつも行かないところへ。
 そして、いつもしないことをしよう。

                   *
 
 たぶん、私にしか感じられない感覚というのがあって、それについては独占権があるんだけど、でも誰かに伝えたくて伝えられないのがもどかしい。
 それは、この世界に対する感覚だったり、自分についてだったり、誰かに関してだったり。
 感覚の共有も幸せの一つに違いないのだけど。

                   *

 深夜になって日付が変わり、今日から3月。
 油断してるうちに冬も終わり、春になった。
 焦る気持ちをなだめつつ、今やれることからやっていくしかない。
 焦らず急いで。
 言葉にならない多くの思いを抱えつつ、何かをして、何かを感じて、最後の言葉を探そう。

 今日はここで時間切れ。
 もう寝なくては。
 また明日。
 眠って夢を見て明日起きれば、また手つかずの新しい一日が待っている。

 2月27日(水) 「今まで、そして、これから」

 堕落への緩やかな下り坂を着実に下っている。
 だらだらと続く坂道を。
 この下り坂はどこまで続くのか?
 最後までなのか?
 まあ、いいさ。せっかくだからこのまま底まで行ってみよう。いい土産話になるかもしれない。

                   *
 
 悲しい雨が降っている。
 この雨がすべての悲しい記憶を流し去ってくれたなら、私の心は悲しくなくなるのだろうか。
 それとも、記憶をなしくた私はもっと悲しくなってしまうのか。
 記憶は悲しみの味方なのか敵なのか。
 夜中から降り始めた悲しい雨は、朝になったもまだやまない。

                   *
 
 季節は夏から秋へ、冬を過ぎ、春間近。
 失ったのは時間だけなのか。
 それとももっと大きなものなのか。
 時の経過とともに深まるものがあり、月日が流れる中で薄まり遠ざかるものもある。
 友情や、恋心や、愛情や、尊敬や。
 悲しみながら喜び、喜びながら悲しむ、それが人。どちらが欠けても本当じゃない。
 私たちはまだしばらく、時に支配されていよう。
 今はまだ……。
 
                   *
 
 幸福の限界と、不幸の限界と、そのどちらもまだ見極められない。
 幸福や不幸に限界はあるのか。
 もしあるなら見てみたいものだけど。
 
                   *
 
 落ち込んでいるわけじゃないし、憂鬱に飲み込まれてるわけでもない。不幸を恨んでるわけでもない。
 沈んでいるように見えるのは、このトーンが心地いいだけのこと。暗くて重い歌を好んで聴くように。
 悩んでいるポーズも自分を守るためにしてるだけ。何かを解決しようとして悩んでいるわけじゃない。
 概ね私はネガティブな感情全般が好きなのだと思う。趣味みたいなものだ。
 
                   *
 
 明日自分に幸福が訪れるのか、それとも不幸に捕まるか、今日の私には分からない。手掛かりはないし、過去は当てにならないから。
 でも、いつでも私は幸福がやって来る方に賭けたいと思ってる。
 強い馬に賭けるよりも好きな馬に夢を見るように。
 人生は夢を見るためのものだ。

 明日は、今までとは違うこれから。

 2月26日(火) 「スカスカの弁当箱みたいな一日」

 顔がほころぶ、という言葉がある。いい言葉だ。
 好きな人といれば自然と顔がほころぶ。だから人を好きになることはいいことなんだ。
 自分の顔がほころんでる感じもいいし、人のそういう顔を見るのも好きだ。

                   *

 これでいいんだ、と思えるはっきりした理由があれば問題はない。
 結婚しないのは過去に婚約者を事故でなくしてるからだとか、親の遺産があるから働かなくていいんだとか、何よりも音楽が好きだから売れなくてもいいんだとか、そういう自分を納得させられる確かな理由があればいい。それなら非行為的な状態も許されるだろう。
 でも今の私はそうじゃない。だから、私は許されないのだし、自分でも自分を許すことができないでいる。
 私には何かをしない理由が欠けている。

                   *

 オリンピックも終わってみれば昨晩見た夢のように儚いものだ。もう半分以上思い出せない。
 無責任なものだ。こんなふうでは文句を言う資格なんてない。楽しませてもらったことを感謝するだけにしておこう。
 彼等はテレビ観戦する人々の無責任な期待に応えるために4年間毎日練習してるわけじゃないんだ。

                   *

 今、私が使っている絵の具は、紙の上に塗ったとたんに色褪せてしまう。
 やっと絞り出した言葉は、自分の中から出たとたんに力を失い、白々しく響く。自分自身に対してさえも。
 描き方や描く絵の内容以前に、まずこの絵の具をなんとかしなくてはいけない。こんな絵の具じゃまともな絵は描けない。
 
                   *

 スカスカの弁当箱のような一日。
 フタを開けたら、小さなおにぎり一個と、卵焼きと、昨日の残りの唐揚げと、生のウインナー一本、そんな感じの今日一日だった。密度が低い。致命的な内容不足。
 私の今日一日を手に持って振ってみたら、カラカラと悲しい音が鳴るだろう。
 これじゃあいけない。少々傾けようが、逆さまにひっくり返そうがビクともしない弁当のような毎日にしないと。
 フタで隠さなければいけないようなのは嫌だ。
 
                   *
 
 一つの方法はスピードを上げることだけど、それでは根本的な解決にはならない。それは単なる誤魔化しだ。
 やはり、確かな目的地が必要だろう。そして、できることなら制限時間もあった方がいい。
 目的地も終わりもない旅を続けるのはとてもつらいものだから。
 
                   *
 
 今の私は人生を明らかに侮り始めている。これはすごく悪い傾向だ。
 でもこのまま何も起こらなければこの思いはどんどん深まって、やがて心が死んだようになってしまうだろう。すべてに対してあきらめてしまって、何も期待しなくなってしまうかもしれない。
 これまでの人生の中で、今ほど奇跡を必要とする時は他になかった。どんな形でもいいから奇跡に類するものが欲しい。奇跡で毎日を劇的に変えて欲しい。
 それとも、それは間違った願いなのだろうか?
 
                   *
 
 気持ちのつっかえ棒がなくなってしまって、今は杖なしでよろめきながら歩いている。フラフラして自分でも危ない感じだ。
 少し前ふいに、知性や認識能力で自分を支えようとする気持ちがなくなってしまった。自分でそうしようと思ったわけでもないのに。
 その前から、賢さなんてそれ自体何の意味も持たないことだとは気づいていたけど、今は賢さそのものに興味がなくなってしまったのだ。
 そして私は心の支えを失った。同時に言葉も。
 書くことで何かできると思い、言葉に収斂させることが一番の目的だった頃の私はもういない。今では思考さえもわずらわしいものになってしまった。
 燃え尽きたのか、それとも、次の段階に進んだのか。
 その答えはまだ先になってみないと分からないけど、いずれにしても今はすごく自分が頼りなく感じる。生まれて初めて坊主頭になった時のように。
 
                   *
                   *
                   *
 
 名古屋はいよいよ春が近い。
 この冬初めて上着を着ないでセーター1枚で出かけた。
 表に出たとたん、暖かい空気に包まれて、ふっと気分が軽くなった。
 なんだか歩くスピードがもどかしくなってきて、車まで走った。春の風を顔に感じながら。
 走りながらいろんな景色や光景が切れ切れに浮かんで消えた。
 去年行ったあちこちの景色や、古い友達のことや、途切れてしまったメール相手のことや、これから起こる楽しいことなんかが。

 生きることは感じること。目を開けて、目を閉じて。
 すべての悲しみと喜びを抱きしめたならそれはきっと暖かい。涙がいつも暖かいように。
 
 春になれば思い出す。忘れていた嬉しかったことや悲しかったことを。
 そして、自分が幸福であるということを。

 2月24日(日) 「ドラマ不足、イメージ不足」

 手の中に握っているつもりだった世界の秘密が、手を開いてみたらいつの間にか消えてなくなっていた。
 どうしたことだ。苦労してようやくそのカケラを手にしたはずだったのに。
 思えばここ半年くらいで私はたくさんのものを失ってしまった。目には見えないいくつかの大切な何かを。
 自分では望まない変化のスピードに気持ちがついていけず、足がもつれて前へ進めない。
 そしてただ、日が過ぎるのを眺めているだけになっている。何かを待ちながら。
 待っているだけでは何も解決しないことを知りながら。
 
 時の意味は過ぎてみなければ分からない。
 今できることは生きること。
 いや、生きようとすることだ。
 何も見えず、何も分からず、何も持たなくても。
 たとえ魔法が消えてしまったとしても……。
 
                   *
                   *
                   *
 
 今日は本棚の大整理をやった。
 少し前に一度やった時もかなり本を減らしたけど、今回も100冊くらい売りに回すことにしたから、これでしばらくは大掛かりな整理はしなくていいだろう。最近の本読みのペースでは大きく増えそうもないし。
 しかし問題は未読本の山だ。これが500冊くらいある。読む予定のまったくない500冊以上の本。けど、売れない。読んだ本はようやく売れるようになったけど、未読の本を売るほどまだ吹っ切れてない。もったいないと思ってしまう。引っ越しでもしない限りこれはたぶん売れないだろう。
 
 本棚の整理でビデオデッキ2台分のスペースができた。というか、実はこれが目的だったんだけど。
 まだまだ買いたいビデオデッキはたくさんある。ビクターのHR-X1とか、HR-VX1とか、パナソニックのNV-SB800Wとか、三菱のHV-S11とか、HV-V900とか、シャープのVC-BS500とか、あれこれあれこれ。
 近い内に少なくとも1台は買ってしまうことだろう。スペースがもったいないもの。
 
                   *

 最近車を走らせている時の音楽が決まらない。誰の曲を聴いても心にピタッと来ないのだ。少し前までずっと聴いていたミスチルも、竹内まりやも、ユーミンも、スガシカオも、心に響かない。
 しょうがないから昔のカセットを引っぱり出してきて選んだのが中島みゆきだ。
 染みた。
 そう、今の気分はこれだ。はまった。
 中島みゆきは何年かに一度くらいしか聴かないし、普段は気持ち的に受け付けないんだけど、でもごく稀にピタッと気分にはまることがある。今がその時だ。
 相当心が弱ってるらしい。
「時代」なんて泣けてきそうだったもの。
 ああ、早く中島みゆきが受け付けない体に戻りたい。

                   *

 オリンピックも気がつけば残すはアイスホッケーの決勝と閉会式だけになってしまった。
 いくらしょぼいオリンピックだったとはいえ、やっぱり終わってしまうのは寂しい。この2週間オリンピック中心の生活パターンを組んでいて、それがようやく馴染んできたところだったから、明日から大きな穴が開いてしまう。さて、どうしたものか。何かしないといけないけど。

 それにしても今回のオリンピックは思い出に残るものがほとんどなかった。4年後までどれだけ覚えていられるだろう。なんか、ほとんど忘れてしまいそうな気がする。思い出すとしたら、そういえばアメリカでしょぼいオリンピックがあったなあという程度だろう。
 とにかくドラマがなさすぎた。日本人のメダルが少なかったとかいうことよりもドラマ不足が私には致命的だった。せっかくリアルタイムでほとんど観たのにあれではいくらなんでもちょっと寂しすぎた。
 泣けないオリンピックなんてオリンピックじゃない。
 しょうがない、ワールドカップに期待するか。

                   *

 最近の私は何かにつけてイメージが足りない。追いかけるイメージが決定的に欠けてるもんだから毎日にスピード感が生まれない。
 どうも一日の中で流れが悪くて途中でぶつぶつ流れが途切れてしまって乗り切れない。
 スピード感のなさが達成感を生まない。
 毎日の暮らしの中でクライマックスがないのがどうにも致命的だ。
 メリハリの足りない退屈な連ドラのようにやりきれない。
 
 徹底的な入れ替えができるといいんだけど、これがなかなか難しい。どうしても昨日までの自分や生活パターンに縛られてしまって変えられない。真似する必要などまったくないのについ昨日の自分の真似をしてしまう。
 たとえば寝る時間と起きる時間を変えてやることも全部変えてしまったりしてみるのもいいんだろうけど、そうは思っても実行まではいかない。
 生活パターンを意識的に変えるのってとても難しいものだ。
 
 まあいい、反省はほどほどにしよう。今は考えることでじゃなく感じることで何かを見つけることがテーマなんだし。
 すべての部分で行き詰まってるけど、ここで終わりじゃないし、この状態がずっと続くわけでもない。今は準備期間と思えばいい。走らなくてはいけなくなった時すぐに駆け出せるように。
 
                   *
 
 名古屋はもう春のようだ。今日、本棚整理をしてたら半袖でも汗ばむほどだった。
 そしてまたやってきた花粉症。今年もきっちり忘れずに来やがった。早くも完璧に捕まってしまった私。ああ、邪魔くさい。
 けど、花粉症がやって来たらもう春はすぐそこだ。春か……。
 春は新しいことを始めるには一番いい季節だ。できることなら古い自分を脱ぎ捨てて、新しい自分で生きたいと思う。
 この春は、あらたな別れと出会いがあるのだろうか?

 2月21日(木) 「古びた楽しみを捨てて」

 多忙は私を未来から引き剥がしていくようだ。
 忙しく過ごせば過ごすほど、夢見た未来に手が届かなくなるような気がする。
 それは気のせいなのだろうか?
 いや、たぶん気のせいじゃない。
 何故なら多忙は加速じゃなくて回転だからだ。忙しいほど前へは進まない。

 忙しくすることと努力することは違う。
 きちんと前進するための努力しなければ。
 多忙で誤魔化してはいけない。
 
                   *
 
 それまで楽しく感じていたことの多くが、ここ数ヶ月で加速度的に詰まらなくなってしまって、自分でも戸惑っていた。これは気のせいだ、一時的なことだ、と思い込もうとしてきた。
 でも、どうやらそうではないらしい。この変化は一時的なものじゃない。
 けど、ひるがえって考えてみるに、これは正当な前進なのかもしれないと思うようになってきた。今まで面白いと思ったことが詰まらなく感じるというのは明らかに自分が変わったということであり、それは紛れもない前進ではないか。当たり前のことと言ってもいい。
 そう、考えてみれば単純な話だったのだ。
 面白くなくなったことはもうしなくていい。楽しいと思うことをやりつつ、新しい楽しみを見つけていけばいい。
 こういう部分のわがままには耳を傾けてもいいだろう。怠け心とは違うのだから。
 
                   *
 
 精神的な緩みを自覚しつつ、今はあまり思考を追求したくない。
 キリキリと締め付けるような思考をこの2年くらいしてきたけど、ここで一区切りつけよう。
 きつい思考の中で見つかったこともたくさんあったけど、今度はその中で見失ってしまったことを拾うことにする。
 今は考えるより感じたい。
 
                   *
 
 ビデオはだいぶ売って整理できてきたので、またつい買ってしまった。
 今度はパナソニックのNV-SB60W。
 1994年の定価11万という中途半端な位置づけのデッキで、特に欲しいというわけではなかったんだけど、あまりの安さに買わずにはいられなかった。きちんと動いて、マニュアル、リモコン、コード付きで1,500円は安い。
 しかし、これが思ったよりいい感じで気に入った。ビクターのHR-V2なんかに比べたらノイズが多くて画質はもう一歩だけど、トータルで満足できるレベルだ。安定感もあるし、これはしばらく使ってみよう。
 
 これでちゃんと動くビデオ5台体制ができた。ビクターHR-V10、東芝A-BS1、パナソニックNV-SB50、NV-SB60W、シャープVC-BS30(あと、押し入れに壊れたVC-BS50と、A-BS76)。
 今までで一番充実してる。これで4番組同時に録画しつつビデオを観ることもできるようになった(いや、実際そういうことがあるんですよ)。
 ちょっとここで買うのは休もう。とりあえず2、3日は。
 ……。
 などと言いつつ、明日あたりまた買ってしまうかもしれない自分が恐い。
 
                   *
 
 オリンピックもそろそろ終わりが見えてきた。寂しい。この後のイメージがまだできてないし。
 週末は家でやらないといけないことがあるからそれをやって、その間に来週のイメージを作らないといけない。
 遠出は気分が乗らないけどどうしよう。何をするか。
 
 反省心は穴を掘って埋めてしまって、迷ったら明日のことを考えよう。
 また明日だ。

 2月20日(水) 「終わりなきトンネルの終点」

 世界は単純だ。
 世界は複雑だ。
 どちらも正しい。
 世界は単純さと複雑さが折り重なっている。そして人々は一所懸命その断面を切り取ろうとする。
 でもそれは断面にすぎない。断面が真相のすべてを表すことはない。
 人間が世界の内側に存在する以上、世界を外側から丸ごと捉えることはできないだろう。
 私たちにできるのは、限られた小さなステージで踊り続けることだけだ。
 最大の抵抗は楽しむこと。
 果たすべき義務は幸福になること。
 
                   *
 
 少し前まで私は幸福を探していた。
 今の私は幸福の形を探している。
 そこまで見失ってしまった。
 でもみんなは本当に自分の求める幸福の形が分かっているのだろうか?
 私は他の人のどの幸福の形も自分のための形だと思えない。
 私の苦しさはそこにある。誰一人うらやましくないから、お手本がないのだ。
 いつか探している幸福の形を見つけることができるのだろうか。
 
                   *
 
 今日は時間不足というより気力不足。
 
 
 すべての部分でひとりの限界を感じる。
 街で出会う微笑みさえも私の心を浮き立たせない。
 
 この長いトンネルの最後には何が待つのか。
 光か、壁か。
 それとも思いもよらないものなのか?
 何にしてもこのトンネルは長い。
 もうトンネルは飽きた。
 光が見たい。

 2月18日(月) 「悩みの量はいつも変わらない」

 どうも熱っぽい。頭も痛い。風邪の諸症状を示している。どうやら今日行った映画館でウィルスを拾ってしまったようだ。犯人はあの13人の中の誰かだ。誰だ、一体。こんなものいらん〜。
 なんとか初期段階で撃退できるといいのだけど。
 
 予定通り『化粧師』を観てきた。
 結論から言うと70点。
 惜しいというか、もったいないというか、背骨が弱いというか、格がないというか、もう少しなんとかすれば80点になったのに70点止まりで終わっているのがなんとも惜しまれた。
 悪い作品ではない。失敗でもないと思う。でももうひとつ弾けなかったというか突き抜けないもんだから、観ている間中もどかしくて仕方なかった。
 監督の力不足、脚本の失敗、配役のミス、音楽の不足……。
 もったいない。
 どうせならもっと娯楽作品寄りにして、「ブラックジャック」の化粧師版みたいにすればもっと面白くなったのに。高い金を取って最高の化粧をしてその人の人生を劇的に変える、みたいに。その部分をもっと強調してもよかった。余計なドラマに時間を割いて散漫な印象を与えるよりも。
 椎名詰平が良かっただけにとっても残念だ。やはり監督の力不足ということなのだろう。
 この程度じゃ自信を持って人にオススメはできない。特に1,800円払ってまで、というのは苦しい。
 ただし、女の人なら私よりもっといろんな面でインスパイアされる部分があると思う。化粧をするという行為にまつわる個人的、普遍的な部分で。
 そういう意味では観て損はない。出来の良し悪し以外で感じさせるところのある作品だから。
 ビデオが出たらぜひ。
 
                   *
 
 悩みはとどまることなく変容していき、分からないという思いの内容も変化する。
 昔分からなかったことの多くは今分かるようになったけど、また新たな部分が分からなくなって、結局のところエネルギー保存の法則のように分からない量は常に一定のような気がする。
 悩みの種は目の前で行列を作っていて、その列の最後尾は決して見えない。
 この行列がいつか途切れることはあるのだろうか?
 自分の親やその親を見てると、どうも終わりそうにないのだけど。
 
                   *
 
 まだ旅の途中。長いながい旅の。
 ここは無限の中の一点で、永遠の中の一瞬だ。
 幸福も不幸も、喜びも悲しみも、すべてはこの場限りのこと。
 そのことを自らの戒めにして、同時に支えにもして、この道が続く限り先へ進もうと思う。
 たとえ今が最悪だとしても、ここが終わりじゃないんだから。

 2月17日(日) 「日記と寝付きの関係」

 この頃また寝付きが悪くなっている。どうしたんだろうと考えてみると、どうもこの日記をちゃんと書かなくなってからのような気がする。
 書くという行為は、頭の中を整理することだ。書けば思考は外に出ていって頭の中はすっきりするし、逆に言えば書かないと思考が未整理のまま頭の中に残ってしまう。その状態で寝ようとすると必要以上に考え事をしてしまうから、それで寝付きが悪くなっているのだろう。
 悩みも人に話せばすっきりするというのもそういうことだ。
 やはり私は書かないといけない。まずは何よりも自分のために。安眠のために。
 
 寝るといえば、今日「特命リサーチ200X」で夢の内容を自分でコントロールして見たい夢を見る方法というのをやっていた。
 けど、自分の見たい夢を見ることは本当にいいことだろうか? 私は、夢ってのはコントロール不能で、自分の意志とはまったく無関係の内容だから面白いと思うのだけど。
 自分の見たい夢なら起きている時にいくらでも空想すればいい。
 それより思いがけない夢の方がずっと面白い。夢でしか見られない光景や体験できないこともたくさんある。
 夢は誰かからのプレゼントだ。プレゼントにあれこれ注文つけちゃいけないんじゃないのか。
 私は自分の意志に反したヘンテコリンな夢をもっと見たい。
 
                   *
 
 気分をどこまで行動に反映させるのが正しいのだろう。
 そんなことをよく考える。
 気分が乗らないから今日はあそこに行くのはやめようとか、今日は気分がいいから誰かに何かを買ってあげようとか、誰でも気分に左右される部分はあるんだろうけど、どこまで気分の言うことを聞いてやっていいものか、時々その加減が分からなくなる。
 ただ少なくとも気分の奴隷になったりしないように気をつけないと。時には気分をねじ伏せることも必要だ。
 
                   *
 
 名言を必要とする精神性と名言を必要としない精神性の間には何があるのか?
 少し前まで、私にとって名言や冴えた言い回しは夕飯のメインのおかずのように必要なものであり好物でもあった。けど今はまったく必要と感じなくなっている。それどころか邪魔なもの、見たくないものにまでなってしまった。
 少し前までの私と今の私にはどんな違いがあるのか? どんな精神的な変化が起こったのか?
 それほど何かが劇的に変わったような気はしてないのだけど。
 あるいは、英雄を必要とする時代が不幸な時代であるように、名言を必要とする精神性はある種の危機を示しているのかもしれない。
 名言に対する好き嫌いはある。元々好きな人は好きだし、嫌いな人は嫌いだ。
 でも単に好き嫌いの問題だけではないような気もする。
 名言を必要とする人間と必要としない人間の違いはどこにあるのか。
 もうしばらく自分を観察しつつ見極めていくことにしよう。
 今は誰のどんな名言も心に響かない。自分の言葉さえ。
 
                   *
 
 論理を極めればあとは感覚しかない。科学を極めれば次は魔法しかないように。
 論理で分からなかったことも感覚が教えてくれる。論理を突き抜けた感覚の方が頼りになることに気づく。
 けれど間違えていけないのは、感覚というのはいつでも論理に支えられてなくてはいけないということだ。論理を伴わない感覚はただの思い込みに過ぎない。
 そして感覚や魔法もまた、より大きな論理に支配されている。
 
                   *
 
 よし、とりあえずこれくらい書いておけば今日はすんなり寝付けるだろう。頭の中はスカスカに近い。残った思考と記憶は夢の中に溶かし込んでしまえば、また明日は空っぽの頭で新しい一日を始めることができる。
 おやすみなさい。

 2月16日(土) 「穏やかすぎる大海に浮かぶ小舟に」

 人生は大切なことに気づくまでの長くて短い旅だ。
 そう、人は気づくために生きている。それが「上がり」だ。
 けど、逆の言い方をすれば、気づいてしまえばそこで人生は終わりになる、ということだ。
 そのことに気づいてしまった私は、本当はもう大切なことにほとんど気づいているのに終わることを恐れてわざと気づかないフリをしている。
 恋人に好きな人ができたことに気づかないフリをするように。
 ものが見えるようになればなるほど、人は危うい。
 
                   *
 
 言葉が私を見放したのか、私が言葉を裏切ったのか?
 今、私と言葉の関係は上手くいっていない。お互いによそよそしい感じになっている。倦怠期の夫婦のように。
 私と言葉は最後まで寄り添うことができるだろうか?
 あるいは高齢離婚のようなことになってしまうのかもしれない。
 どっちにしても、今は少し言葉と距離を置こう。
 そして、しばらくしたら、前の関係性に戻るのではなく、新しい関係性を探すことにしよう。
 
                   *
 
 緩い毎日。
 穏やかな海に浮かぶ小舟にひとり。
 鈍く輝く太陽と、生ぬるい空気、静かな波。
 見渡す限り島影はなく、他の船もまるで見かけない。
 
 海の向こうを目指してひとり小舟で漕ぎ出した私だったが、やがて目的も意味も情熱も夢も見失い、今オールを漕ぐ手も止まりかけている。
 私は一体何がしたいのだ?
 夢見た国に着きたいのか、元の場所に戻りたいのか、新しい大陸を発見したいのか、それとも他の船に救出されるのを待っているのか?
 それさえも分からない。
 
 ただぼんやりと小舟の上に寝そべり、太陽が昇り、陽が沈み、月明かりに照らされて、そうやって毎日が過ぎてゆく。
 そして、一日の最後に、とにかく今日も生き延びた、と負け惜しみのようにつぶやくのだった。
 
 また明日。また明日……。

 2月13日(水) 「人生初の退屈」

 人は時の経過と共に変化してゆく。良い方向にも、悪い方向にも。
 すべての変化は必然だ。そして変化いつでも正しいと私は思う。間違った変化はない、と。
 でも、自分の中で起こるすべての変化を好きになることは難しい。嫌な変化や、許せない変化もある。
 今まで好きだったことや好きだった人のことがいつの間にか好きじゃなくなってしまう。そのことに気づいたとしても素直に認められない。なんとかして誤魔化そうとしたり、時間を稼いで気持ちを元に戻そうとしたりする。
 けど悪い方向への変化はもう戻らない。一度虫歯になった歯が元には戻らないように。
 
 私はここ数年の中で、それまで好きじゃなかったいくつものことを好きになった。暑い夏や魚が好きになり、映画館や海に行くようになり、好きなタイプも変わった。
 でも、好きなものが増えた反動もまた確かにある。夏が好きになったことで冬が苦手になってしまったり、映画を観るようになって本をまったく読めなくなってしまったりした。
 そうした中、今私の中で一番大きな問題になっているのは、書くという行為に対する興味が急激に薄れてしまってきていることだ。いや、書くことだけではなくて読むことや、文章そのものに心惹かれなくなっている自分に気づいてしまった。そんなはずはない、これは一時的なことに違いないと自分に言い聞かせてきたけど、どうやらそうではなさそうだ。去年の暮れから今年にかけてずっとそうだから。
 書くことも読むことも単純に面白くない。楽しめない。
 私の中で何かが変わってしまった。終わってしまったと言うべきか。
 今、大きな転換期を迎えているようだ。もう元には戻せそうにない。
 
 大義名分を失った私は、どこで何をすればいいんだろう?
 何も分からなくなって途方に暮れてしまう。夕暮れ時、自分の家を忘れて道端に立ち尽くしているみたいだ。
 この15年書いてきた無数の言葉がどんどんかすれていって、すべてが白紙に戻っていくような気がしている。
 ついに人生は私が望むほどドラマチックなものではなく、期待外れで終わってしまうのだろうか?
 今私は人生の中で初めて、退屈を感じている。表面ではなく、心の深い部分で。
 絶対に退屈だけは感じないという自信があったのに……。
 
 退屈と戦うべきか、逃げるべきか。
 何をどうすれば退屈じゃなくなるのか。
 忙しくすることが根本的な解決になるのか。
 自分の好きなことしかやらなくても退屈を感じてしまうのはどうすればいいのか。
 恋が私を退屈から救ってくれるのか。

 いずれにしても人生は分からない。分かったと思った瞬間にその感覚がするりと逃げていく。穴の開いたタモ網で魚をすくったと思ったらすぐに逃げられてしまった時のように。
 これから先、自分はどう変質していくのか、まるで予想がつかない。変化は不規則で、いつも自分の意志に反してきたから。
 何を好きになって何を嫌いになるのかを自分でコントロールすることもできないだろう。
 変化と戦うべきなのか、受け入れるべきなのか。
 
 今の私にできること、それは生き延びることだ。それがただ一つ確信が持てること。
 無数に存在する自分の影の中で、いつか唯一の実体を捉えることができると信じて。
 もし、すべてが影ならそれはそれでいい。この世界も自分も人生も、すべてが幻でも実在でも、私にとってはどちらも同じことなのだから。
 
 もう意味は探さない。
 感じることだけがすべてだ。

 2月10日(日) 「オリンピックだから」

 オリンピックが始まって何やら忙しい。なんとなく気持ちが落ち着かず、時間も足りない感じで。
 ソルトレイクと日本の時差が私の生活パターンにジャストフィットなのがいけない。ちょうど全部リアルタイムで観られてしまうものだからついついだらだらと最初から最後まで観てしまうではないか。嬉しいんだけどちょっとやっかいだ。
 ということで時間が足りない。テレビを観ながらやれることもあるんだけど、メールなんかは私の場合何かをしながらでは書けないから滞る。まずいっ。
 他にもあれこれ一日の中に収まらないものが出てくるし、この断想日記だって、今オリンピックの合間を縫ってテキトウ……あ、いや、手早く書いている次第なのです。
 ううっ、マズイ、そろそろ女子の3,000メートルのスケートが始まってしまうではないか。急がなくては。
 
 とにかくナガラでできることを探してやっていかないとどうしようもない。時間は足りないんだけど、ある意味では手持ち無沙汰でもある。テレビに張り付いてずっとオリンピックを観てるわけじゃないから。
 今日は本棚の整理やら部屋の片づけやらをやってみた。オークションに出せるものを出して写真を撮ったりもした。でもまだペースが掴めない。明日からもう少しどうにかしよう。

 10年以上前に買ったアホように大きなコンポ(パイオニアのプライベートA5という当時20万くらいしたやつ)を売ったのでかなり部屋がすっきりした。とにかくスピーカーだけでも60×30センチくらいあって邪魔でしょうがなかったのだ。昔のものだから音は相当よかったんだけど近所の迷惑になるから実力の30分の1も出せないし、こんな大げさなシステムコンポはもういらない。最近はほとんど部屋の中で音楽を聴くこともないんだし。
 それでも一応代わりにSONYのCD/カセット・ミニコンポを買っておいた。これは今までのスピーカー1個分より小さいから場所を取らなくていい。音はそれなりだけどこれで充分だ。デザインも気に入った。
 
 最近は昔大事にしてたものでも潔く売ったり捨てたりできるようになった。前はもっと自分の持ち物に強いこだわりがあって捨てたりするのはものすごく苦手だったのに、人間変われば変わるものだ。昔に比べたら今や別人のようになってしまった。
 でもまあこれはいい傾向だと思う。持ち物に対する執着心はきっと小さければ小さいほどいいのだろうから。
 これからもどんどん売ったり捨てたりしていこう。本もかなり売り払って少なくなったけどまだまだ売れる。未読本だって、もう読まないものは一生読まないんだから、読まずに手放したってかまわない。この先取っておいて必要になる本なんてせいぜい数十冊に違いないんだし。
 愛着心と執着心は違う。
 
 と書くと私の部屋はどんどん物が少なくなってすっきりしていっているんだろうと思うかもしれないが、実際はそんなことはない。
 だって、売ったり捨てたりした分と同じだけ他のものを買ってしまうんだもの。あーれー。
 だからいっこうに持ち物は減っていかないのだった。
 次は何買おうかな。
 
                   *
 
 ビデオで『リトル・ダンサー』を観る。
 周りの評判はかなり良かったんだけど、どうも私には引っかかるものがなかった。ストーリーにも主役の少年にも感じるものがなくて、私の横を素通りしてしまった。
 まあこういうこともある。好きでも嫌いでもない女の子がいるのと同じだ。
 
 ナインティナインの岡村主演の『無問題』は思ったよりおふざけ映画じゃなくてけっこう楽しめたんけど、もう少しドタバタしてもよかったかもしれない。少しマジメに作りすぎた。
 という反省を踏まえて『2』ではもっと弾けた感じになっているみたいだ。予告編を観る限り。
 
                   *
 
 今回のオリンピックの日本代表はお馴染みさんが多い。原田やら船木やら里谷やら清水やら。100人ちょっとの中の50人以上が前回長野から連続らしい。どうりで見た顔が多いわけだ。
 それにしても、冬のオリンピック競技は選手寿命が長い。3回目、4回目の選手もかなりいるし、5回とか6回なんて選手もどこかの国にいた。夏のオリンピックは3回でも珍しいのに。
 やっぱり競技人口が少ないからか。スキージャンプなんて、北海道で生まれ育たなければなかなかやろうって気にもならないものなあ。第一環境がない。
 あともう一つ気づくのが、黒人選手がほとんどいないということだ。いや、アフリカとか南米なんかは気候が暖かいから当然なんだけど、アメリカやヨーロッパなんかでも黒人選手はほとんどいない。これがちょっと不思議だったりする。
 黒人はウインタースポーツはしないものだっていう暗黙の了解みたいなものがあるのだろうか。筋肉の質が違うにしてもウインタースポーツだってスピードを競うものやいろんな競技があるんだからどれかには出てきてもよさそうなものだ。となると一種の差別みたいなものがあるのかなあとか思ったりもする。
 スキーもいない、ジャンプもいない、スケートでも見ないし、フィギュアでもいない。うーん、いるとしたらボブスレーくらいか。
 
 オリンピックとメダルというのも本当に面白いなあとあらためて思った。里谷と上村を見て。
 メダルを獲れる選手は獲れるし、縁がない選手はあくまでも縁がない。あれは一体なんなんだろう?
 ずっと調子を落としていてほとんど引退寸前までいってた里谷が銅を獲って、今や日本のエースとなって本番でもほぼ完璧の出来だった上村が6位。皮肉というか、実力というか、スター性というか。
 ワールドカップで何度メダルを獲ってもオリンピックで獲れない人間は最後まで獲れない。たとえ実力世界一であっても。
 オリンピックでメダルと獲れる人間と獲れない人間の間には何があるのか、という永遠の謎の答えを探しながら、私は今回もオリンピックを観る。
 おそらく堀井学は今回もメダルを獲れないだろう。ジャンプの葛西が転倒して予選落ちしてしまったみたいに。
 彼等は、メダル1個でその後の人生がどれだけ大きな差ができてくるかを知っているだろうか? 色なんてどれでも一緒のようなものだ。とにかくメダルを獲らないと。
 
                   *
 
 とりあえずオリンピックがある間はどうやっても落ち着きそうにない。だからオリンピックに合わせた生活をするしかない。パターンを変えて、変則を上手く利用することを考えた方がいいだろう。色々おろそかになることも出てくるけど、だからこそ日頃できずに後回しになってることをやるのもいい。押し入れの整理や、塗り残した部分の壁塗りや、ゲームの整理や、HPの模様替えもしたい。
 来週は遠出はできない。しょうがない、またビデオデッキでも買うか。
 ……。
 
 さてと、ぼちぼち女子3,000メートル・スケートを観なくちゃ。田畑はメダルに手が届くのか。
 下手したら日本人のメダルは最初の里谷だけかも!?

                   *

 今日のやっつけ日記はこれでおしまい。

 2月8日(金) 「胸騒ぎという言い訳」

 今日の知多半島の海は私を呼んでいなかったらしい。
 ついに海には辿り着けなかったのはそういうことだったのだろう。私のせいじゃない。海が悪いんだー。そうだー、そうだー、まったくだあー。
 ……。
 
 予定通り早寝早起きはした。時間に家も出た。ここまでは何の問題もなかった。
 ただ後から思い返してみると、すでにこの時からもう一つ気分が乗らなかったことは確かだった。いつものように浮き立つ感じがなくて、なんとなく気分がどんより重かった。
 でも、とりあえず車を走らせて海に向かってしまえばその気になるだろうとは思って出発する。助手席にはドライブのお供キットカット、音楽はミスチル、レーダーもセットして抜かりはない。

 車を走らせ始めて30分。どうにも嫌な感じがする。まだ名古屋市内。胸騒ぎというほど大げさなものじゃないんだけど、なんとなく行きたくない気持ちが徐々に強くなる。こんなことは初めてだった。
 更に腹の調子のにわかに悪くなり、太陽は雲に隠れ空もどんよりと曇り始めた。
 こりゃいけねえ、と思う。
 そういえば昔、こんな気分をどこかで味わったことがある。そうだ、会社の面接だ。あの時のいやぁな感じがこんなふうだった。もしくはどうにも学校に行きたくない時の気分と言ってもいい。あれだ。
 しかし、登校拒否や出社拒否ってのはよく聞くけど、海行き拒否なんてのは聞いたことないぞ。新米の漁師じゃあるまいし。
 でもどうにも行けるような気がなかったのだ。
 
 それでもなんとかだましだまし車を走らせてみた。もっと海に近づけば気持ちも変わるかもしれないと思って。
 けどやっぱり駄目だ。行く気がしない。腹痛も本格化してきて海どころじゃなくなってきた。
 今日はやめておこう、そう決めたのは家から1時間近く走った時だった。
 ついに海行きは断念。日を改めることにした。
 ああ、知多半島よ、おまえは私を待っていてくれなかったのかあ〜?
 
 まさかこんなことになるとは思ってもみなかったけど、嫌な予感には何等かの原因があったのかもしれないとも思ったりする。虫の知らせみたいなものかも、と。
 あのまま行ってたら事故にあうとか、海でたちの悪いカップルにカツアゲされるとか、運転しながらデジカメで写真を撮ってたらそのまま海に突っ込んでしまったとか、道に迷って車中一泊になってしまってそのまま凍死とか、海岸で犬を散歩させていた女の子と仲良くなったら実は暴力関係の人の女で小指を失うことになったとか、海を見ながら黄昏ていたら地元民に自殺者らしき男がいると警察に通報されて警官に職務質問されそうになってあわてて逃げたら警官を轢いてしまって公務執行妨害で逮捕されてしまい保釈金も払えないからそのまま何週間も留置所に入れられてしまったとか、きっとあのまま海に行っていたらそんなような悪い出来事が私の身に降りかかってきたに違いない。そうに決まってる(と、無理矢理自分を納得させたのだった)。
 
 まあ今日海に行けなかったからといって一大事というわけでもない。また別の日に行けばいいだけのことだ。知多半島はまだ当分沈む予定はなさそうだし。
 ただこれでまた動きも生み出せず、流れも作れなかったのは痛い。明日から世間では3連休で私の動きは止まってしまうし。月曜は祝日で映画のメンズデーにも行けない。
 はてさて、去年の後半からの悪い流れはいつになったら終わることやら。

 とりあえずこの3連休は家の中でやるべきことをきっちり終わらせよう。本棚の大整理と、ビデオの修理と、オークションの出品作業と、新しく買ったコンポ(SONYのミニコンポ2,000円)の設置と、たまったビデオをやっつけることと、ゲームを少々。来週のことは来週になってからだ。
 
                   *
 
 ビデオとゲームと映画のことを少し書いておこう。
 
 まずビデオデッキ。
 お気に入りだったHR-V2が壊れてしまって新しいビデオデッキを探していたんだけど、ようやく買うことができた。
 東芝のA-BS1。1994年の最高機種で、定価は15万くらい。かなりデジタル色が強いデッキで、一度この系統のビデオデッキを使ってみたかったので買ってみた。本体のみで4,100円。まあまあ安い。
 それが今日届いたので早速フタを開けて中を見てみる。いきなりテレビにつないだりビデオを再生したりしてはいけない。ビデオデッキは買ったらまずフタを開けて中身を確認するのが作法というものだ(ホントかよ)。
 中を見てびっくり。なんだこりゃ? スカスカやん!
 1994年というのは確かにどのメーカーも本格的にデジタル傾向を強めると同時にコストダウンが色濃く表れ始める時期ではあるのだけど、それにしても同じ時期のパナソニックや三菱やビクターのビデオデッキはもうもっと中身が詰まっている。なんてこった、東芝め、他のメーカーに先駆けてコストダウンしやがったな。
 メカもまたヘナチョコで力が抜ける。見た目も動作音もいかにも安っぽくてヘナヘナ。動作音もプラスチックがカチャカチャ鳴って情けない。
 実力のない若手芸人のくだらないネタを聞かされた時のような気分に陥る。
 こりゃいかん。こいつには心というか魂がない。ビデオ職人のスピリッツが感じられない。これじゃあ愛せない。
 それにしても94年の15万でこれはないと思う。一体どこにそんなに金がかかってるというんだろう。謎だ。
 
 気を取り直してビデオを再生してみる。
 むむ? なんかヘンだ。デジタル3次元効果で画質はなかなかいいという評判なんだけど全然大したことない。ノイズも思ったより多いし、色もなんとなく不自然だし、画面も少し揺れているような気がする。正直画質に関してもこれは期待外れだ。悪くはないけど、びっくりするほどいいわけでもない。逆に言えばいかにビクターのHR-V2やHR-V10の画質が良かったかということだ。
 ただし、このビデオが決定的に優れている点が一つある。それは、外部入力でスルーさせるとデジタル回路のおかげでノイズが減って画質がかなり良くなるのだ。これにはちょっと感動した。元々素顔の画質がきれいなパナソニックNV-SB50で再生したものをこのA-BS1にいったん通してテレビで観るとびっくりするくらいきれな画質になる。この点に関しては使える。
 ということでこいつは画質改善セレクター・ビデオに決定。
 ってことはまた素顔のきれいなビデオデッキをもう一台買わないといけないってことではないか。うーん、まいるなあ(実は嬉しい)。
 今度はパナソニックのNV-BS900かBX25あたりを狙ってる。
 
 映画はここのところビデオもあまり観ていない。なんとなく時間がなくて。
 観た中では、『サン・ピエールの未亡人』と『ざわざわ下北沢』について少し。
『サン・ピエールの未亡人』はどうも面白みに欠ける作品だった。
 ル・コント監督はもう終わったのか?
 少し前に観た『橋の上の娘』もどうも感じるものがなかったし、思い返せばルコント作品で面白いと思ったのは『イヴォンヌの香り』が最後だったかもしれない。
 作風がどうこうというよりも画面から伝わってくる緊張感が薄れてしまったのが残念でならない。昔のルコント作品には絶妙の緊張感が漂っていたのに。
 また『髪結いの亭主』や『タンゴ』の様な作品を作ってくれないかな。
 
『ざわざわ下北沢』は市川準作品で初めて詰まらないと思った作品だ。
『東京兄妹』、『トキワ荘の青春』、『たどんとちくわ』、『大阪物語』など、今までに一本もハズレがなかったのに。
 これは脚本が良くなかった。唯一良かったのは、ピアノ弾きのおばちゃんの弾くピアノだ。あれは良かった。最後はじんときた。
 
 ゲームはここのところ少し休み気味。
 唯一やったのがPS2の「ICO」だ。
 お城に閉じこめられた少年と同じように城に囚われの身になっていた少女が手をつないで城から脱出するゲーム、と書くとありがちなアクションみたいけど、これは今までになかったスタイルとグラフィックのすごくオリジナルなゲームだ。
 宮崎駿の世界にアニメ「lain」を混ぜた感じ、とでも言おうか(分かりづらいたとえだけど)。
 ゲーム画面を見て何か感じるものがあればやって損はない。実は私にはあんまり合わないゲームだったんだけど、それでも人にオススメしたい。たぶん好きな人はすごく好きなゲームだと思うから。
 
                   *
 
 明日からオリンピックだ。楽しみ。またほとんど観てしまうのだろう。
 長野からもう4年なんだ。信じられないな。
 原田は大丈夫なんだろうか。清水はどうなんだ。岡崎の時代は終わったのか。フィギュアは村主に頑張って欲しいな。
 それにしても今回いいのは、私の生活パターンとアメリカの時差の相性がいいこと。メイン時間が日本時間の深夜から朝にかけてだからほとんどのものをリアルタイムで観ることができる。しばらくたっぷり楽しませてもらえそうだ。
 今回はどんなドラマがあるのか。最近ほとんど泣いてないからちょっと泣きたい気分ではある。
 
                   *
 
 さてと、そろそろ寝るとしよう。
 明日もなんとか頑張っていきましょう。

 2月6日(水) 「脱モノトーン・ファッション大作戦」

 脱モノトーン・ファッション大作戦、というのを思いついた。
 きっかけは、三輪明宏の「自然界で黒色をしてて生きいきとした生き物はいない」というテレビでの発言だ。
 言われてみればなるほどと思う。黒色の花ってないし、黒い生き物といえばゴキブリとかで、元気のいい生き物はそれぞれ独自の色を持っていて明るい感じがする。さすが三輪さん、いいこと言うわあ。
 けど待てよ、ウナギやナマズやカブトムシや黒トンボや黒アゲハやタヌキやアライグマやシャチやペンギンやゴリラなんかは黒いけど生きいきしてはいないか?
 ……。
 けっこういますよ、三輪さん、黒くて活きのいい生き物!

 まあそれはいいとして、問題は私の黒や白を基調としたモノトーン・ファッションだ。確かにこれはどうもよくない。黒っぽい服を着てるとなんとなく気取った感じになるというか、構えてしまうというか、不要な気合いが入ってしまうところがある。少なくとも黒を着て元気ハツラツになるようなことはない。全身黒色で海辺を夕陽に向かって走ろうとは思わないものな。
 これは少し考え直す必要があるだろう。私はもっと元気を出していかなくちゃいけない。
 最近は黒に変わって茶色系統や白系統のものが増えてきてるとはいえ、依然としてモノトーンを基調としてることに変わりはない。決定的に色が足りない。だから元気が足りないという面も少なからずあるような気がする。
 その時の気分と選ぶ洋服というのは大いに関連がある。気持ちが内に向かってる時は暗くて地味な服を選びがちだし、陽気な気分の時は自然と明るい色のものを選ぶものだ。
 気分が服を選び、服が気分を支配する。
 だからそれを逆手に取ればいいんだ。意識的に明るい服を着ることで気分も明るく持っていけば。
 沈んだ気分の時でも思い切って派手な服を着ることでシャキッとしなきゃいけないと思って気分が半ば強引に上昇することは充分あり得る。うん、そうだ、試してみる価値はある。
 ということで明日から私の脱モノトーン・ファッション大作戦が決行されることになったのだった。
 
 しかしながらここ数年、ほとんど明るい色使いの服を着ていない。というか、買ってないから持ってない。うーむ、いかんです。何か色の付いた服を買わねば。
 はて、何色の服を買えばいいのか、私?
 あれこれ想像しようとするんだけど、どうもイメージが浮かばない。唯一黄緑色の上下は持ってるからそのイメージはわくものの、それを今着こなすのはかなりキツい。想像してください、上下黄緑色ですよ、黄緑色。なかなかシラフの三十男が名古屋の郊外で着られる恰好ではないですよ。特に下はフィッチェの昔のダボダボ・パンツだし。近所で「カマキリ男」とあだ名を付けられてはたまりません。これは却下です。
 うーん、しかし実際のところ私は何色の服を着ればいいのだろうなあ。思いつくのは青とか、からし色とか、深緑とか、まあそんなところかなあ。いやあ、以外と思いつかないものだな。
 三輪さんによるとグレーもよくないらしいし、かといって赤は照れくさいし、黄色や紫は無理だし、林家ペー・パーじゃあるまいしピンクは不可能だし、オレンジも厳しいなあ。なんかいい色ないかな。派手すぎず無難すぎず、他の色とも併せやすい色。
 今のところとりあえず思い浮かんでるのは、パステルカラーのくすんだ感じの色だ。スーラの絵の色彩のような。あの色調なら何色でもそれなりに合う気がするんだけどな。
 
 何にしても、これからしばらく黒と白と茶色とグレーの服は買わないようにしよう。買う時は色を意識することを忘れないように。
 そうやって着る服の色合いが少しずつ明るくなっていくのに合わせて私の気分も明るくなっていくといいな。
「目指せ林家ペーパー、追い越せルパン三世」を合い言葉に私の脱モノトーン・ファッション大作戦はこうして密やかに開始されたのだった。
(つづく)
 
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 Internet Explorer(IE)の異常だけど、ようやく今日になってその原因と対策が分かった。やれやれ。思わぬところで時間を取られてしまった。
 それはこういうことだった。
 
 ブラウザの「戻る」や「進む」ボタンでページを移動しようとすると普通ならキャッシュで瞬間的に移動できるはずだ。なのに急にいちいちサーバにつないで再度読み込むようになって、ページの表示にものすごく時間がかかるようになってしまったのだ。何もしてないのに。
 最初、ADSLかLANに問題があるのかと思って色々設定を見たり変えたりしたけど、変わらない。それにADSLの速度を計ってみるとちゃんと1.2M以上出てる。ということは回線の問題ではない。
 しかもネスケ(ネットスケープ)だと何の問題もない。というか、IEでは考えられないくらい速い。異常なほど。
 むむむ? なんで?
 ということはやっぱりIEがどこかおかしくなってしまったらしい。
 念のためIE5.5をもう一度ダウンロードしてインストールし直してみた。が、変化なし。依然として遅いままだ。あまりの遅さに気が遠くなりそうなほど。
 その後色々サイトで調べたり本を読んだりした結果、どうやらキャッシュの問題らしいことが分かってきた。
 で、それから更にあれこれいじったり設定を変えたりしてて、最後、ようやく分かったのだった……。
 
 要するに「インターネットの一時ファイル」というフォルダが一杯いっぱいになって、それ以上新しいデータをそのフォルダに入れられなくなってしまったもんだから、いちいちページを読み込むようになってしまっていたのだ。
 気づいてしまえば簡単なことだけど気づかないと気づかないもの。それが間違い探しとPC。
 
 IEの上のバーにある「ツール」をクリックしてその中の「インターネットオプション」をクリック。
 そこの「全般」に「インターネットの一時ファイル」というのがあって、そこに「ファイルの削除」を「OK」で実行すると、今までHPで見た文章や画像が削除される(普通はそのファイルに今まで見たページの情報が保存されてるからそれで一度見たページを瞬時に表示させることができるんだけど、それが一杯になると私と同じ症状になる)。
「すべてのオフラインコンテンツを削除する」にも「チェックマーク」を入れていいはず。
 完了までかなり時間がかかると思う。私は30分以上かかった。
 あと、「設定」は「自動に確認する」がいいと思う。
「使用するディスク領域」は目盛り1つか2つ(全体の1パーセントか2パーセント)。
 
 この結果、ページの表示スピードが異常なほど速くなったのだった。おおお! 速ええ。
 もしかして私、今まで遅すぎたのかもしれない。これがADSL本来のスピードだったのだ。しまった。なんてこった。
 でもまあ、何はともあれ元に戻ってよかった。もしかしたらIEは捨ててネスケ野郎にならなきゃいけないかと思っていたのだ。

 というわけで、なんとなく最近表示速度が遅くなったなあと感じてる人は実行してみてください。もしかしたらそれで本来のスピードが戻るかもしれません。
 
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 今回のドラマの中で一番好きな「ロングラブレター漂流教室」を今日観逃してしまった。あああ。いかん、しまった、やってもうた。
 ビデオを録画したつもりがしてなかったのだ。なんたる初歩的なミス。ビデオが4台も5台もつながって電源が入ってるっていうのに。
 しかし痛かったなあ。かなり盛り上がってきたところなのに。今回はどうなったんだろう。うー、気になるー。
 なんか、私ってこういうことがよくある。そんなに好きじゃないドラマはきっちり忘れず逃さず全部観るのにすごく好きなドラマに限ってどこか部分的に観逃してしまうのだ。
「WITH LOVE」の最終回の一回前の前半半分とか、「星の金貨」の第一回とか、「ビーチボーイズ」の第二回とか。いまだにあの時の絶望的な気分をよく覚えてる。
 しかもそういうドラマに限って再放送でやった時まで逃してしまうのだ。
 それで、いつかビデオで観ようと思ってて結局そのまま、というパターンになる。
 来週こそ、絶対に忘れないように。
 
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 最近、自分にとって少し苦痛なことを毎日やろうと決めて、いくつかのことを実行している。かつてやっていてその後イヤになってやめてしまったいくつかのことを。
 ボディーブレードと筋トレ少々、ペン字の練習、NHKの外国語講座、など。
 ここのところ少しでも苦痛なことはまったくやらずにいた。そのことにふと気づいて、それではいけないと思って。毎日があまりにも安易に流れすぎていた。
 別に筋トレや字の練習が毎日の生活やこの先の未来にものすごく役に立つというわけじゃないけど、苦痛なことを毎日必ずやることに意味があると思うのだ。
 意識的に苦しいことってなかなか普通の生活をしてるとできない。仕事が忙しかったり、用事が色々あったり、時間が足りなかったりすることはあるけど、たとえばプロ・スポーツ選手の練習に当たるものが私たちの生活には決定的に不足してる。そこに何か精神的な部分でも人間的な部分でも差ができてくるような気がするのだ。自分に対する自信とか、自分を支えていく上での拠り所とか。
 とにかくそういうわけで、私もこれからは苦痛に感じることを意識的にやっていくようにしようと思う。
 何かをしないという禁止の形ではなく、もっと積極的な苦痛を実行するという形で。
 勉強に類するものでもいい。どうせなら建設的なものの方がいいから。
 
                   *
 
 あさっての金曜日、一応ロングドライブの予定をしてる。
 がしかし、ちょっと気分的には乗れない。当日次第だけど、よくても近場の海でお茶を濁すことになりそうだ。
 でももう春がそこまで来ている今、今後につながる流れをこの冬のうちに作っておきたい。
 積極性は連鎖するものだから。
 まずは早起きして、とりあえず家を出てしまうといい。車を走らせ始めさえすれば遠くへ行きたいと思う気持ちが呼び覚まされるはずだ。
 
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 さてと、今日はこれくらいにしよう。
 また明日。

 2月3日(日) 「非サービス精神日記」

 今ひとつ調子の上がらない普通の一日。日曜らしい一日とも言える。
 ラグビーの日本一決定戦を観て、長いメールを2通書いて、PS2の「ICO」をやって、とここまでは順調だった。可もなく不可もなく。だがここで思わぬアクシデントが発生。
 メインで使ってる一番のお気入りビデオ、HR-V2が突然仮死状態に。テープを入れたら中でウィィィーーンとうなりを上げてそのまままったく動かなくなってしまったのだ。保護回路が働いて電源も切れてしまう。なんてこった。
 しばし呆然としてしまったのだけど、何度電源を入れても駄目だったのでとりあえず中を見てみることにする。
 たくさん付いてる線を全部外して、ラックから降ろして、フタを開けて見た。うーむ、なんだろう? どこがどう壊れているのかよく分からない。
 とりあえずイジェクト用のギアを手で回してテープは取り出したものの、メカ部分がおかしくなってしまったようで電源を入れてもすぐに切れてしまう。
 どうもガイドローラーがおかしい。ローディングの途中で止まってしまうのだ。
 と思ったらピンチローラーの軸が外れてる。なんだそりゃ? こんなもん勝手に外れるものなんだろうか?
 その下のギアも外れてしまってギアの噛み合わせも狂ってしまった上にピンチローラーの軸をはめようにも全然はまらない。むむむ。なんだ、なんだ?
 あれこれ1時間くらいいじってたけどとうとう分からなくて力尽きた。
 このHR-V2は裏のフタを外してもメカが顔を出さないから部品交換するにはメカ部分を上から丸ごと取り外さないといけない。それは今の私にちとキツイ。しょうがない、あきらめるか。ギブアップだ。
 このままジャンクとして売り払おう。誰かが再生してくれるだろう。
 
 ということがあって夜から深夜にかけての予定がヨレヨレになってしまったのだった。一度崩れたペースはもう戻らない。
 結局その後はビデオやテレビをダラダラ観たり、ネットをウロウロしたりして過ごしてしまった。
 更にこれは明日以降にも微妙な影を落とすことになりそうだ。メインのビデオデッキを買うとなると5,000円は見ておかないといけないし、来週中に買いたいところだからそうなると来週の後半に予定してるロングドライブにも影響が出てくる。
 やれやれ。小さなつまづきだけど、これでまたペースに乗れないのが痛い。せっかく2月になったところで加速しようと思ってたのに。
 でもまあ、悪いことも前向きに考えよう。ビデオが壊れたことでまた別のものを買う楽しみができたわけだし、こういう故障があるってことが分かって勉強になったことが今後生きてくることだってあるだろう。
 悪い出来事だって有効利用できる。良い出来事よりもむしろエネルギーになるのかもしれない。
 
                   *
 
 ここのところ自分の思考を少し持て余している。
 というか、思考の正しい加減が分からないのだ。
 少し前までは限界まで思考することが正しいことなんだと無条件に信じることができた。でも今は違う。なるべく思考しないことを試みている。
 なんだけど、でもやっぱり少しは思考した方がいいんじゃないかと思う自分もいて、その間での妥協点が見いだせずにいるのだ。思考しようとする自分と思考をしたくない自分との折り合いが付かない。
 今の私は、嫁と姑の間でオロオロするばかりのダメ亭主のようだ。

 それにしても、どれだけの分量考えることが正しいんだろう、なんていう自問自答する人はそうはいないだろう。
 あ、でもこれは禅ではありがちな問いかけなのかもしれない。
 いや、違う。それはそうなんだけど、でも禅の初期段階なんかではもうないはずだ。思考するより感じることが大事だってことはずっと前に気づいてたはずだし、ブルース・リーだって言ってた。考えるな、感じろ、って。
 思考を捨てる勇気がないだけなのかもしれない。
 思考の加減か……。
 実際のところ、今はそれがまったく分からないでいる私なのだった。
 
                   *
 
 私の願いは、自分の人生を見くびりたくない、ということ。
 生が終わった瞬間、なんだ、この程度のことだったんだ、と拍子抜けしてしまうのが嫌なのだ。
 人生というのは、私の想像を超えて、劇的であって欲しい。
 素敵な驚きじゃなくて悪い意味での衝撃でもいいから。
 
                   *
 
 頭の中に詰まったガラクタをそろそろ海に捨てに行く時のようだ。
 私の頭の中のゴミなんて全部捨てても海にはちっとも影響しない。
 海には人間の詰まらない思考を食べてくれる生き物が棲んでいるから。
 
                   *
 
 今日は非サービス的な日記になった。
 面白い独り言を言うのは難しいな。


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