2001.12.17-

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 1月8日(火) 「サンドイッチは好きだけどサンドイッチにはなりたくない」

 やあ元気ですか?
 今日ふと気づいたけど、日が長くなってきてますね。ちょっと前まで夕方5時にはもう真っ暗だったのに、今は5時くらいだとまだ少し明るさが残ってるから。
 今は絶好調に寒いけど、遠くからまた春が静かに近づいているんですね。猫のように足音も立てず。
 私は早くも夏が待ち遠しいです。昔は夏よりも冬の方が好きだったのに、今ではすっかり夏男になってしまいました。相変わらず夏のビーチは似合わないんですけどね。
 
 今日はもう8日だし、ぼちぼち正月気分も抜けてきて、今年を本格的に始めないといけませんね。稲垣のゴローちゃんも復帰することだし。
 ゴローちゃん、年末年始は何してたんだろうな。
 って別にそんなこと知ってどうしようってわけでもないけれど。
 それより私は早く2002年のカレンダーを買わないといけません。いかーん。なんてこった。いまだに部屋には2001年12月のカレンダーがかかってるんですよ。なかなか気に入ったカレンダーが見つからなくて。
 でもそろそろ値下がりしてるだろうから今が買い時かも?
 
 思考を意識的に打ち消そうとし始めてからなんだか一日が長くなったような気がします。気のせいかな。
 でもなんとなく手持ちぶさたな感じで、それは煙草をやめた時の感じに少し似ているかもしれません。煙草を吸ったり思考したりするためだけに使う時間って一日の中でそんなにあるわけじゃないのに、一つの習慣がなくなるってことはそれだけ一日の中に空白ができてしまうみたいです。
 
 ただ、思考をやめるといっても、やっぱり相変わらず後ろからは後悔が追いかけてきて、前からは不安と絶望が迫ってきて、その間で私はサンドイッチのハムのような気分であることには変わりありません。
 いや、サンドイッチのハムの気持ちが分かるわけじゃないんですけどね。でもキュウリは大の苦手でほとんど食べたことがないので、キュウリの気持ちよりはハムの気持ちの方が分かる気がすることだけは確かです。
 とはいえ、いくらハムの気持ちが分かっても私はハムではないので、このまま無抵抗に食べられるわけにはいきません。サンドイッチになる前に逃げ出さなくては。
 そこで閃きました。要するに横にステップすればいいわけです。のんびりしてたら後ろからの後悔に捕まってしまうし、真っ直ぐ前に突っ走れば今度は絶望にぶつかってしまいます。それを避けるためには横にズレればいいわけですよね。気づいてみれば簡単なことでした。横へのステップは私、けっこう得意です。体育測定の反復横飛びはいつもクラスでベストスリーに入ってましたから。
 ……関係ないですか?
 その代わり、前屈は私の天敵でいつもマイナス10センチくらいで、「おいおい、冗談はやめろよ」といつも周囲を唖然とさせていたんですが。
 あ、いや、でも背面は得意なんですよ。のけぞりブリッジから一回転できたし。
 えーと、何の話でしたっけ? ああ、そうそう、体育測定の話でしたよね。私、ソフトボール投げも得意でした!
 
 なんか話があらぬ方へ行ってしまったんで、この話はやめて別の話にしましょう。
 そうだ、年末年始のテレビの話をしようと思っていて忘れてました。
 一番良かったのは、大型時代劇の「壬生義士伝」だったってのは書いたけど、その前に「ちゅらさん」の総集編をやってそれを観たらすごく面白かったんですよ。本編を観逃してしまったことが残念無念です。
 脚本がドラマ「アンティーク」の岡田惠和だったんで観てみたんだけど、やっぱり岡田惠和、いいですね。もうキャリアはけっこう長いベテランだけど、ここへきて何かを掴んだようです。これからに大期待。
 
 新ドラマが始まりました。私は当然ほとんどすべて観ることになりそうですが、今回は期待の作品がありません。好きな脚本家のものもないし。
 今回は春までのつなぎなんでしょうね。まあ拾いものに期待しましょう。これまでの中では「ギンザの恋」がなかなかよさそうです。
 あ、そうそう、NHKの大河ドラマ「利家とまつ」も観ることにしました。大河を観るのは中井貴一っちゃんの「武田信玄」以来、実に久しぶりのことです。今回は思いっきり若者向けドラマのようなキャスティングに惹かれました。唐沢寿明、松嶋菜々子、反町隆史、竹野内豊ですからね。まあたまにはこういうのもいいでしょう。
 
 スポーツは毎年高校ラグビーと高校サッカーを楽しみに観てます。
 高校ラグビーは今年啓光が強すぎてあまり盛り上がらなかったけど、サッカーは地元に近い岐阜工業が決勝まで残ったんでなかなか楽しめました。決勝は国見に相手にしてもらえなかったんですけどね。
 
 あと、最近になって好きになったテレビ番組に、フードファイト(もしくはフードバトル)があります。要するに大食い選手権ですね。
 いやいや、でもこれを馬鹿にしちゃいけないですよ。一度観てみれば分かるけど、みんなやせてて、なかなか恰好いいんですよ。太ったやつなんてひとりもいなくて、しかも、上の方になるとみんなプロなんです。年収1,500万くらい稼いでる人もいるんですから。
 なんで太ってるとダメかっていうと、太っていると脂肪に圧迫されて胃が拡張しないからなんですって。痩せてると胃が目一杯まで腹の中で広がってそこに食べ物が限界まで入るんだとか。
 それでなんで痩せてるかっていうと、そういう人は食べたものをすぐに熱エネルギーにして体外に放出して体に吸収されないとかなんとか。
 痩せの大食いってのはホントにいるんですね。
 それにしても一度に10キロとか平気で食べるんですよ。驚きを通り越して爽快でさえあります。
 ホント、面白いから一度観てみてください。スポーツとしても、エンタテインメントとしても楽しめますから。
 
 2002年はどんなことが起こって、どんな年になるんでしょうね。私は、あまり期待し過ぎずに何か思いもよらないことが起きるのを待つことにしましょうかね。
 たとえどんなことが起こっても起こらなくても、私はまた今年もバージョンアップした自分を楽しみたいと思ってます。
 もうほとんど哲学も捨てかけてるし、名言も追ってないし、思考さえ半ば放棄して、魚をよく食べるようになりました。ホント、私って何の理由もなく変わっていってしまうんです。自分で意識しないままに。
 それは成長とかではなくて、なんというか、古い自分に飽きてしまうんですね。そういう気持ちがあるから自然と別の自分に自分を変えていってしまうのでしょう。
 
 もしかしたら、今年の最後にはもうこの日記も書いてないかもしれません。言葉だけがこれまで私を支えてきたけど、言葉さえも捨てられそうな気が今はしてます。さて、そうなったら私は一体どこへ向かうんだろう?
 その答えは、未来で出ることでしょう。今考えなくても。
 
 考えるのはやめてもう寝ます。
 おやすみなさい。
 またメールします。

 1月6日(日) 「ビデオと戯れた週末の話」

 やあ、元気ですか?
 この週末は、ビデオをいじくってました。
 いや、いじくっていたといっても、すりすりさすったり、ほれほれこれはどうだと触ったり、頬ずりしたり、といったヘンタイ行為をビデオ相手におよんでいたわけではありません。ビデオをいじっていたというのは、デッキを修理してたという意味です。えー、間違えないでくださいね。
 分かってるって? うん、念のため。
 
 土曜日に東芝のA-BS76が、今日シャープのVC-BS50が届きました。
 それはいいんだけど、最近、すべての宅配業者の配達員に面が割れてしまって、いつもありがとうございます、などといらん挨拶をされてしまうので弱ってしまいます。近所の郵便局員にも。
 そんな挨拶いらんちゅーねん。もっとさりげなーく私はいきたいのです。交換日記を廊下ですれ違いざまに素早く渡す中学生カップルの様に。分かって欲しいなあ、ボク。
 きっと、コイツこんなに頻繁に物を送ったり受け取ったりして、一体何者だろう、と彼等は不信に思ってることでしょう。
 しかし、私はいつも受取伝票にハンコを押しながら彼等に向かって心の中でこう叫んでいるのです。
「私は決してアヤシイ者ではありません! ただのネットオークション愛好家なのですぅ!」と。
 彼等に私の心の叫びが届いているでしょうか?
 きっと届いてないですね。私は悲しいでありやんす。いや、なんとなく。
 
 まあそれはいいとして、ビデオデッキの方はどうなったんだ、ちゃんと修理に成功して動くようになってのか、と訊ねたいことでしょう。
 聞いて驚いちゃいけませんよ。
 ビデオは2台とも、動きましぇーん! ボクは死にましぇーん(武田鉄也)。
 ……。
 なんてことでしょう。あるまじきことです。2日間もかけていじくってたというのにまるで動かないなんて。
 いやあ、まいりました。何がどうなってどう動かないかを詳しく説明すると長くなるからやめますが、とにかく片一方は電源が入らないのでウンともスンとも言わず、もう1台は挙動不審で勝手な動きをして私の言うことを聞こうとしません。なんてやつらでしょう。私はますます悲しいでごわす。
 ハラダチ紛れに今日押し入れを整理してたら出てきたコテで髪にパーマネントを当ててしまったのでした。風呂上がりに。しかも、外巻きに。
 動かないビデオデッキを前に呆然とたたずむ外ハネ・ヘアーの三十男。うーん、絵になるなあ。
 ……。
 ならないですか?
 いやはや、この2日間はなんだったのでしょうね、おっかさん。ごらん、あれが二条橋だよ。
 ……。
 壊れたのはビデオではなく私の頭か!?
 
 少し冷静になってレンタルしてきたビデオなどを観ていたら、いつの間にか髪は乾き、外ハネも元に戻っていたのですが、ビデオデッキの方は時間を置いて直るはずもなく、頑固一徹に動こうとしません。こりゃお手上げです。
 
 その後、ビデオ修理のサイトを巡って勉強したところ、同じような症状の人がいたり、修理方法が書いてあったりして、ある程度原因は分かったんですが、完全に直そうと思ったらメーカーのサービスセンターで部品を買ってこないといけないようなのです。うーむ、どうしようかな。そうなるとまたあらたに2,000円や3,000円はかかりそうだし。
 まあしばらく押し入れで寝かしておくことにしましょうか。そのうち機嫌を直して動くようになるかもしれないし。
 ならないな……。
 ううー、失った時間と金があ〜。
 
 とまあ、こんな感じの週末でありました。
 明日からはちょっとビデオのことは忘れて、平常の生活に戻すためのリハビリをしなくてはいけません。
 そろそろ大きく動きたいところでもあるし。
 映画も観に行かないと。
 
 今日はあまり時間がありません。もう寝なくちゃいけないのです。
 だから、ビデオ修理の詳しい話はまた今度します(まだする気か?)。
 また明日にでもゆっくりあれこれ書くことにしましょう。
 
 それじゃあ今日はこのへんで。
 またメールします。

 1月4日(金) 「2002年のテーマ--単純」

 やあ、元気ですか?
 少しずつ正月も明けてきて、ぼちぼち世間が動き出したようですね。
 私の方はほとんど区切りもないまま去年を終え、新しい年になだれ込んでしまったので、まだ2002年という年を自覚できないでいます。
 しかしながら、ふいに2002年のテーマが見えました。
 今年のテーマは「単純」です。何事も単純明快に考えること、これでいくことに決めました。
 忘れないように<単●純>と書いたハチマキを作って頭に巻いておこうと思います。
 ……。
 スミマセン。年明け早々にウソをついてしまいました。そんなことはしません。

 そういえば去年のテーマ、「運命論の放棄」も年明け早々に思いついたのでした。やはり年の始めはそんなことを考えたり決めたりしたくなるものなんですね。

 年末から年始にかけて自分でもあまり意識しないまま自分の中で何か目に見えない変化が起こっているようです。
 名言を捨てたことや、偉そうなことを言うのが虚しくなったことや、物事を単純に考えようとする志向性も、自分の中で何等かの変化が起こったからでしょう。特に何があったというわけでもないんですけどね。
 何かを見切ったようなことを言ったり、物事を断言したり、冴えて見せたり、そういうことはこれからはあまりしなくなるでしょう。
 まあある程度そういうことはやり尽くしたという思いが自分の中であって、どうやら飽きてしまったんでしょうね。私は何でもそうなんだけど、初心者から中級者になって上級者になる手前までいくととたんに興味を失ってしまうという悪いクセがあって、今回もきっとそんなところでしょう。

 最終的には哲学を捨てられれば今年の目標はクリアということになります。

 人は何かを得たり身につけたりすることで成長するものなのだろうけど、私の場合は何かを失ったり捨てたりすることで前進してるような気がします。
 究極的には素っ裸で街を闊歩できれば私の勝ちです。
 ……。
 そうなのかなぁ。

 ところで正月特番の「壬生義士伝」は観ましたか?
 良かったっスよねぇ〜(しみじみ)。
 期待してたより100倍くらい面白かったし、心に染みました。これは久々の傑作大型時代劇と言っていいんじゃないでしょうか。というか、断定してもいいでしょう。いいと言ってくださいー。
 3倍で録画してしまったのが惜しまれるところですが、保存版にすることが決定しました。
 渡辺謙さん、うーん、あらためて良い役者だなあと思ったのでした。借金なんか私が肩代わりしてあげたいくらいです。
 あ、いや、気持ちとしてはです、あくまでも。あんな借金、私に返せるかぁー!
 あー、それはともかくとして、いい時代劇でありやんしたなあ。

 ビデオの話を少し。
 8台目を落札予定とお知らせしたのですが、更に嬉しいお知らせです。
 なんと、8台目に続いて9台目も落札してしまいました!
 ……。
 別に嬉しいお知らせじゃないですか? うーむ、確かに嬉しいのは私だけだ。
 8台目が東芝のA-BS76というやつで、9台目がシャープのVC-BS50ってのです。
 まあ詳しい話はものが届いて使ってみてからということで。
 それにしても9台はいかにも抱えすぎです。落ち着いたら3台くらいは売りに出しましょう。だいたいもうラックにも押し入れにも入らないし。このままではビデオデッキを枕にして寝ないといけないようなハメになりかねません。

 明日は調子の悪いCDプレーヤーとDVDプレーヤーを分解整備して、新しく届くビデオのための場所作りです。
 また雪が降るかもしれないとのことだし、明日は家の中でおとなしくしてましょう。

 それじゃあ、またメールします。
 アディオス、アミーゴ。

 1月1日(火) 「やめることも新しい試み」

 やあ、元気ですか?
 2001年もあっけなく終わり、2002年があっさり始まりましたね。何事もなく。えーと、今年はユリウス暦でいうと何年になるんだろう?
 いや、別にそれを知ってどうこうというわけではないし、それを知らないことにはどうにもこうにも心落ち着かなくておちおち初夢も見てられねえ、ってほどじゃないんですけどね。
 いいんです、忘れてください。
 じゃあ、ホビット庄暦だと?
 ……。

 とにかく2002年が無事始まり、少なくとも私の周りでは平和だということを喜びたいと思います。わーい、わーい、ヤッター、ヤッター、ヤッターマン!
 キャラが変わりましたか、私?
 いやいや、でも平和ってのはある日突然何の前触れもなく終わってしまうものですからね、ホント今目の前にある時に大事にしないとね。
 
 それにしても今年は大晦日らしくない大晦日を過ごした後、そのまま元旦らしくない元旦に突入してしまったのでした。
 一応、年越しそばも食べたし、お節料理もいただいて、雑煮もとりあえずいっておいて、モチも外さず、ミニ鏡モチも部屋に飾り、正月番組もあれこれ観て、高校サッカーやら天皇杯やら高校ラグビーやらもテレビ観戦したんですけどね。
 ん? 充分正月っぽい?
 いやいや、気分としてはやっぱり今年は正月らしくなかったのですよ。帰郷しなかったのが一番大きな原因なんですけどね。
 正月ってのは少し退屈なくらいがちょうどいいんですよね。田舎だとテレビをダラダラと観るくらいしかすることなくて、あの緩やかなスピード感覚こそが私にとっての正月だから。
 それが家にいれば普段と変わらず色々することがあって退屈を感じない分、正月気分に浸れないというわけです。
 誰かお年玉くれないかなあ。そうすれば一気に正月気分も盛り上がってくるのにな。
 しょうがない、こうなったら自分で自分にビデオでも買ってあげるかな(まだ買うか?)。
 
 さて、普通なら今日あたりから心機一転、新しい目標を立ててそれを書き初めにして部屋に貼り付け、腰に手を当てて眺めながら、ううむ、やってやるぜ、などと決意を新たにするところなんだけど、今のところそういうものは一切ないです。第一習字セットも持ってないですし。
 新年早々、目標も決意もイメージもまったくない状態で、非常に危うい感じです。なんだか気合いが入ってないなあ。
 ただ、一つあるのは、去年とは違う一年にしようということです。
 何かを変えるということよりも、今まで当たり前だと思っていたことを思い切ってやめてみようと考えたりしてます。

 まず一つは、この断想日記のスタイル変えること。断想を重い調子で書いていたのをやめて、このメール形式でしばらくいってみようと思ってます。
 偉そうなことを書くのに少々疲れてしまったのです。
 メール形式なら、書きたい時に書きたいだけ長さを気にせず自由に書けるますからね。
 そしてもう一つは、名言を捨てます。
 どうも名言の内容もそのスタイルもだんだん私の心に響かなくなってきていて、名言と言われる言葉のほとんどに共感できなくなってしまったのです。もちろん中にはぐぐっとくる言葉もあるのだけど、たとえば「人生とは何々だ」みたいに言い放った形の言葉にはどうも違和感を感じてしまうようになってしまいました。
 単純に言ってしまうと、どうも詰まらない。今まで笑えていた漫才が急に詰まらなくて笑えなくなってしまった時の感じに似ています。こうなったらもういけません。
 ということで、「今日のための言葉」もとりあえず終わりにします。前に書いていた「今日はなんかあったっけ?」が終わったように。
 
 何かをやめることは決して後退することではないと私は思います。やめることも前進だと。
 人は何かを得ることで前に一回転し、何かを失うことで更にもう一回転するものだから。
 何かをやめたり、なくしたりすることは決して後退ではないと私思ってます。
 おっと、偉そうなことは書かないと書いたばっかりでもう偉そうぶってるじゃないか。いかん、いかん。今年はもっと低尚(高尚の反対)にいきますよ私は。下ネタなど絡ませながらね(それはまずいか)。
 
 何にしても自分に対する期待感だけは失わないように、何とか今年も一年、踏ん張っていきましょうね。
 私の場合、22世紀まであと99年生きる予定なんで、そんなに焦らず、ぼちぼちいくことにしましょう。
 早く、いい延命薬、開発されないかなあ。
 
 次のメールではビデオについて書こうと思ってます。SANYOのS500Bっていう8台目のビデオを買ったって話しましたっけ? まだしてなかったかな。
 たぶん明日、9台目のビデオを買ってしまうことになるでしょう。
 お楽しみにー(たぶん、楽しみなのは私ひとりだと思うけど)。
 
 それじゃあ、またメールします。

 12月30日(日) 「途切れたメールの続き」

 やあ、元気ですか?
 私は相変わらず、少し時間に追われながら、でもどこか満たされない感じを抱きながら、毎日を過ごしてます。
 油断してるとどんどん時間が過ぎていってしまってびっくりしますね。中学の入学式がまるで昨日のことのようです。
 ……。
 嘘です。そんなことはないです。言い過ぎました。中学の入学式のことなんて、ヒトカケラも覚えてないです。ついでに言うと、高校の入学式さえよく覚えてないです。
 私って、高校の時、1年何組だったかな?

 まあそれはともかくとして、気がつけばもう12月の終わりですよね。気がつけばってキミ気を失ってたんかいな、などというツッコミはいりませんからね。念のため言っておきますが気は失ってません。
 今年ももう終わりかあ。今年も一年は早かったなあ。21世紀も残すところあと99年ですもんね。
 ……。
 充分残ってるって? うん、まあ確かに99年は長いかな。
 でも私の人生の目標は22世紀まで生きることですからね。油断は禁物です(何が?)。
 
 今年は年末年始に帰郷しないので、いたってのんびりした年末を過ごしてます。ほとんど普段と変わらないくらい。
 あ、そうそう、今日早くも年賀状を書き終わってしまいました。早くない? あ、いや、書き終わるのが早かったってことで、約40分で全部書いてしまったのでした。
 それは手抜きすぎるだろうって? よく分かりましたね。うん、そう、今年は確かにひどく手抜きをしてしまいました。申し訳ないです。来年はきちんと書こうと思ってます。もう今日から来年の年賀状作りの準備に入りました。当面心の準備だけですが。
 
 今年もなんだかんだいろんなことがありましたね。
 えーと、何がありましたっけ? 全部忘れてしまいました。
 晩ご飯は食べたんじゃったかのお。
 
 個人的には、2001年という年は、多くを失った年でした。具体的な部分でも精神的な部分でもいろんなものを失ったような気がしてます。
 なくしたといってもそれは必ずしも必要なものばかりではなかったし、失ったことが自分にとってプラスだったこともあるんですけどね。
 なくしたものは、たとえば、運命論だったり、自分に対する偏見や思い込みだったり、詰まらない倫理観だったり、恋だったり、メール友達だったり、まあそんなものです。
 ただ、そこから新しく得たものもあったわけで、結果的には差し引きゼロかなという気がしないでもないです。
 いや、やっぱりマイナスの方が多いな。収支計算が合わないですもの。といっても脱税はしてません。というか、税金払ってません。テレビとビデオで8台テレビ番組とBSを受信してるけどNHKには1台分しか払ってないし。
 消費税反対!
 
 えーと、何の話でしたっけ?
 ああ、そうそう、2001年に失ったものの話でしたね。
 でもまあ失ったものをいつまでも恨みがましく覚えていてもしょうがないですからね。思い切って全部忘れることにします。こういう時、記憶力が悪いと便利です。
 
 さて、来年はいったいどんな年になるのか、どんな年にしたいのか、そのイメージはまだまったくといっていいほどできてません。
 あちこちから壁が迫ってきていて、閉塞感に息苦しくなってきてるのですが、まだまだ分からないことだらけで、きっと来年もあれこれ思い悩む一年になるのでしょう。
 それとも思いがけなくいい年になったりするのかな? 道端で10億円拾ったり。
 まあ人生いつ何が起こるか分からないからね。期待してみましょう。
 
 それじゃあ、またメールします。
 
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 今日のための言葉
 
「もしも海の水がぜんぶインクなら
 ぼくは何人にさよならの
 手紙を書くことができるだろう」
 
 寺山修司

 12月29日(土) 「2001年の映画を振り返るとヤツがいる」

 今年も残りわずかとなったところで、今年観た映画を振り返ってまとめておこう。だいぶ忘れてる作品もあるだろうから、記憶を整理するためにも。
 
 
『サトラレ』
 
『情熱と冷静のあいだ』
 
『ekiden』
 
『初恋のきた道』
 
『バガー・ヴァンスの伝説』
 
『海の上のピアニスト』
 
『カル』
 
『グリーン・フィッシュ』
 
『フォーエバー・フィーバー』
 
『スリーピー・ホロウ』
 
『アメリカン・ビューティー』
 
『スペース・トラベラーズ』
 
『世にも奇妙な物語 映画の特別編』

『スティル・クレイジー』
 
『オーロラの彼方に』
 
『ザ・ハリケーン』
 
『M:i-2』
 
『彼女は最高』
 
『グリーン・マイル』
 
『顔』
 
『女教師2』
 
『TAXi2』

『タフ・ガイ』
 
『キング・ピン ストライクへの道』
 
『トラブル・ボックス』
 
『サマー・オブ・サム』
 
『ネイキッド・タンゴ』
 
『ポストマン』
 
『エドTv』
 
『シビル・ガン』
 
『インサイダー』
 
『どら平太』
 
『遠い空のむこう』
 
『はつ恋』
 
『マグノリア』
 
『アンドリューNDR114』
 
『溺れる魚』
 
『ハワイの若大将』
 
 
 これが今年私が観た映画のベスト38だ。順位もだいたいこんな感じ。
 本当はマイベスト100にしたかったのだけど、この38本だけが私の中のある一線をクリアして、「すごく面白い」と思えた作品だった。無理に100本にすることもないだろう。
 今年観たのが410本ちょっと。やはり、「面白いと思える作品は10本に1本」という法則は今年も変わらなかった。
 
 それにしても観るペースがここ1、2年ガクリと落ちた。一番観ていた時期は年に1,000本は観ていたから、今ではその半分以下だ。まあ本数を観ればいいってもんでもないけど。
 
 今年の特徴はなんといってもベスト3がすべて日本映画だったということだろう。
 確かに面白い日本映画の本数は外国映画に比べて少ない。けど、それは作られてる本数が絶対的に少ないから当たり前のことだ。むしろ面白い確率は外国作品より高いのではないか。
 私が日本映画好きということがあるにしても、偏見を捨てて日本映画を観てみれば面白いはずなのだ。日本人が日本人のために作っている映画なのだから。
 少なくとも年間に3本は面白い日本映画がある。それだけは観ておいた方がいいだろう。
 
 アジア映画のレベルも全体的に上がっている。特に韓国映画。来年以降も楽しみだ。
 アメリカ映画はまあこんなものか。今年はこれといった大物がいなかったのがちょっと寂しいところ。年に1本くらいは『タイタニック』クラスの作品が欲しい。
 フランス映画がちょっと元気がないのが気がかりだ。私が観てないだけじゃなく話題作もほとんどなかったんじゃないだろうか。
 
 いくつか逃した大事な作品もある。『ハリー・ポッター』や『千と千尋の神隠し』や『ウォーター・ボーイズ』など。
 ま、それは来年の楽しみということにしようか。

 さて、来年はどんな面白い作品で出会えるだろう。それを思うとうかうか死んでる場合じゃないなと思うのだった。
 
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 今日のための言葉
 
「もっと映画を観なさい……」
 
 淀川長治最期の言葉

 12月28日(金) 「絵に描いたような投げやり」

 とても投げやりな気分が私を支配している。何もかもがどうでもいい。まるで何をしても無駄に思えた10代の終わりのようだ。
 ひとりであり過ぎて自己修正がきかなくなっている。
 誠実であるべき対象を見失っている。
 まっとうに生きている人も自分も同じように馬鹿げて見える。
 浮かんでくる様々な言葉さえ、掴む気にもなれず、ただ捨て置いて消えるに任せてしまう。
 書くことにも嫌気がさした。
 いっそのこと退屈で当たり前の毎日に戻ろうか……。

 芽を出す気配のない植木鉢に毎日10年間も水をやっているみたいだ。

 どうやらひどく疲れているらしい。
 こういう部分も間違いなく私の一面だけど、でも私が望む自分ではない。
 駄目な時は、自堕落になることを少しだけ許して、しばらくの間休憩しよう。今日、明日死んでしまうわけでもないだろうから。
 
 誰かのために生きられる人は幸せだ。どんなに苦しくても生きる目的がはっきりしてるから。
 自分のためだけに生きる人生は難しい。時々、どう生きればいいのか心の底から分からなくなってしまう。
 困ったものだ。
 
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 今日のための言葉
 
「ネバー・ギブアップ! ネバー・サレンダー!」
 
 映画『ギャラクシー・クエスト』より

 12月25日(火) 「たとえば千年後の一人のために」

 時間の流れの中で、人は少しずつ変わってゆく。
 意識してもしなくても。何かが起こっても何も起こらなくても。
 時間にしかできないことがこの世にはたくさんある。時間にしか教えられないことがあり、時間しか治せない傷がある。
 時の流れの中で変わっていった自分を私はようやく好きになれた。みんながそうであればいいと思う。
 
                   *
 
 いつまで生きればいいかって?
 正解は一つ。
 死ぬまでだ。
 どんな形の死であれ、死がケリをつけてくれる。私たちは死に身を委ねておけばいい。
 生きられるだけ生きて、死がやってきたらおとなしく捕まって、そうして次に進めばいい。
 何も心配することはない。
 
                   *
 
 誰もがそれぞれ背負わなければならない荷物がある。誰もが世界の一部を背負っている。
 まずはその荷物が何であるかに気づくこと。
 そして、その荷物を最後まで降ろさずに背負い続けること。たとえそれが自分の気に入る荷物でなかったとしても。
 自分が降ろした荷物は他の誰かが背負わなくてはならないのだから。
 
                   *
 
 読み手が1人だろうと10人だろうと100万人だろうと書き手はその時の自分の最善を尽くして書く義務がある。読み手の人数に合わせて文章を書いてはいけない。
 書くということはある意味ではとても恥知らずな行為だ。だからこそ、精一杯誠実でなければならない。
 書くことは祈りに似ている。祈りが本来、自分のためではなく人のための行為でなければならないように、書き手は読み手の幸福のために書く必要がある。
 読み手が自分ひとりしかいない場合もそれは同じだ。
 
                   *
 
 人は人間の駄目な部分を見て人間は悪だと言う。
 私は人間の優れた部分を見て人間は美しいと思う。
 どちらが正解とかではない。どちらも間違っていない。
 大切なのは互いに学ぶことだ。自分が見える部分が世界のすべてではないのだから。
 
                   *
 
 私は自分が日本人に生まれたことを少しずつ思い出している。
 国家などというものはもしかしたら必要ないものかもしれない。いや、未来の世界では必要ないどころか悪とさえ言えるだろう。
 でも過去の歴史から現在に至るまでに国家という概念が生み出したものは少なくない。戦争や争いの元にもなったけれど、独特の文化や美も生み出した。
 人間がまだ充分成熟してない段階では、争いや競争は必要不可欠なものだ。そうすることによって人間は進化し、新しいものを生んできた。
 あるいは自分とは違う考えや感じ方があることを知り、知恵や見識を広めてきた。
 
 そんな中、今私は自分が日本人に生まれてきたことの意味を少しずつ理解し始めている。何故自分が現代の日本人を選んだかということも。
 おそらく、現代の日本人は世界で一番客観的な視点を持った国民だ。世界における国家の位置づけも、歴史も、民族的にも、情報面でも、教育面でも。
 もちろん完璧とはほど遠いし、絶対的なものでさえないけれど、でも相対的にみて日本人の客観性は世界一だ。
 もし、世界の思想を統合できるとしたら、それは日本人以外にいないのではないだろうか。
 西洋を知りながら東洋思想の本質を理解し、それ以外の地域の思想を網羅しながら、なおかつ宗教から自由な日本人だけが、世界の思想をひとつにできるはず。
 
 10年後か、100年後か、あるいは1万年後か、日本から世界を統一する人物が出たとしても私は全然驚かない。
 日本人はもっと自信と誇りを持った方がいい。世界に対して卑屈になる必要はない。
 だたし、同時に、世界に対して大きな責任があるということも忘れてはいけないだろう。
 
                   *
 
 時に勇気を失いまた誰かに勇気をもらい、自信をなくしたりまた自信がわいてきたり、虚しい心を感動で埋めたり、そうやって生きていく中でいつかきっと、私たちは探している答えを手にして、作り物ではない本物の笑顔で見つめ合うことができるだろう。私はそう強く信じている。
 
 生きている途中では、振り返ってみると失敗や間違いばかりが思い出されて絶望的な気分になってしまうものだけど、大丈夫、最後まで生き切れば自分の歩いてきた道が決して間違いではなかったことに気づくから。
 どんな人生も、完結してしまえば失敗ではなくなる。生きる目的は人生を完成させること。人生というひとつの作品こそが、私たちが探している答えそのものなのだ。
 
 私は最後のひとりになっても世界や人間を全面的に肯定したい。強い意志と覚悟を持って。
 だから、この世界も人間も無意味になることは絶対にないだろう。少なくとも私が存在している間は。
 
                   *
 
 私が考えたすべてのことや、書いたことのすべては、どこかにつながっていく。それが人目に触れていようがいまいが、一度は確実にこの世界に存在したものだからだ。いったん存在したものが無になることはない。
 その発想が私をささえている。
 私の思考がたとえ結実しなくても、きっと誰かがこれらを引き継いでくれるだろう。
 すべての言葉や思考は無駄ではない。世界はそれらが無数に集まってできた総体であり、世界は全体でひとつのものだから。
 
                   *
 
 絶望の言葉は、もう言い尽くされた。私はそれを全部聞いた気がする。
 だから私は、希望の言葉を見つけ、伝えたい。
 
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 今日のための言葉
 
「人はだれでもさよならをいうときには希望をいだく。たとえそれが人類最後の病気だとしても、『こんにちは』には無いはかないのぞみについて、ぼくはときどき考えないわけにはゆかないのである」
 
 寺山修司「ふしあわせという名の猫」より
 
 12月23日(日) 「終わりから始まりへ」

 出会いと別れを繰り返す中で、人は何かを思い、何かを感じて、そして何者かになる。
 大人の定義が必要だとするならば、それを大人と呼んでもいいかもしれない。
 つらい別れを知らない人間は、人生の半分しか知らない。
 
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 何にしても私は優しい気持ちになりたいだけなのだ。それ以上多くを望んではいない。
 でも、そのためにはもっともっと強く、優しく、賢く、優秀になる必要がある。今のままでは全然力が足りない。
 誰かを非難したり批判したりする気持ちを抱いてしまうのは、自分の実力が足りないせいだ。力さえあれば誰も非難せずに済む。
 
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 絶望はいつも無能から生まれる。
 たとえば、自分が得意な分野や自分がよく知っている狭い世界で人は絶望を感じたりはしない。自分の思い通りになるから。
 絶望というのは、そういう居心地のいい世界の外のことを考えたり、外に出ていった時に感じるものだ。
 だとするならば、自分がコントロールできる世界を広げていけばいい。もし自分がすべてのことにおいて得意になったとしたら、もう絶望を感じることはなくなるということだ。
 実際そんなことは不可能ではあるけど、方向性としては間違ってない。
 絶望は自分の無能が生み出しているということを知る必要がある。
 
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 人はいつも心のどこかで最高の自分を引き出してくれる相手を探している。それはたぶん、誰もが自分ひとりでは自分の実力を限界まで引き出すことが不可能だということを本能的に知っているからだろう。
 自分がこうと決めた相手にそういうことを要求することは、ある意味ではとてもわがままで自分勝手なことなのだ。けど、人間関係というのは多かれ少なかれ必ずそういう部分がある。与え合うこともあり、奪い合うことや、利用し合うこともある。
 それを人は醜いと言うのだろうか? 私は美しいと思う。
 人が人を求めることは、とても素敵なことだ。
 
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 眠りは人に夢という贈り物を与えてくれる。
 そして時間は、記憶を思い出に変えてそっと差し出す。
 この世界や人間を生み出したのが誰かは知らないけれど、こんな粋な計らいをしてくるんだから、それだけでも悪いやつじゃない。
 
 いくつものシーンが重なり、思い出の風景が記憶の中にストックされていく。私たちはそれらをいつでも好きな時に取りだして眺めることができる。
 あるいは、時に思いがけない嬉しい夢を見ることがある。
 
 人間というのは、他のどんな動物よりも幸福な生き物だ。
 
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 100年後、200年後の人たちはもしかしたら競馬のことを野蛮なスポーツ、あるいはお遊びと言い、顔をしかめたりするかもしれない。ちょうど私たちが闘牛に対して同じような思いを抱くように。
 けど、私たちは知っている、競馬がそれだけのものではないことを。

 かつて沢木耕太郎はこう書いた。
「サラブレッドは走るために生まれ、生きるために走る」と。
 そう、私たちはサラブレッドたちに生きることの本質的な部分を教えてもらっている。短い命を強く生きることを。そして力の限り懸命に走る姿は美しいということを。
 
 今日の有馬記念でテイエムオペラオーを見ながらオグリキャップのことを思い出していた。
 今、真っ白な馬体になったオグリキャップは牧場でのんびりと余生を送っている。彼は日々何を思っているのだろう? 退屈を感じているんだろうか。それともかつて全力で駆けた競馬場に思いを馳せているのだろうか。
 でも、彼が余生を持てたのは、走ったからだ。そして勝ち続けたからだ。走らなかった馬に余生は与えられない。
 それはきっと人間も同じだろう。私たちもまた、走ることでしか生きる権利を得ることができない。
 
 今年もまた、有馬記念でG1レースは終わった。次は来年の春。
 けれど、競馬はこれからも続いていく。来年も再来年もその先も。おそらく、この世に馬がいる限り、世界のどこかで。
 100年後、200年後の人たちは、競馬のことを野蛮なお遊びだと言うかもしれない。けれど、少なくとも私たちにとってはそうではない。
 馬が一番美しい瞬間は、他の馬たちと全力で競いながら駆けてる時だということを私たちは知っている。
 そしておそらく、馬たちもそのことを知っている。私にはそんな気がしてならない。
 
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 ミスチルのベストアルバム「1996-2000」を何度か聴いて、ようやくすっきりした。ミスチルの辿ってきた道や、途中の混乱や揺れや、休養へと至る過程や、そこから再出発した様子などが一本の線として私の中でやっとつながったから。私はアルバム『深海』以降、休養してしまった時点でいったんミスチルを見失い、自分の中で過去の存在として切り捨ててしまっていた。けど、今またこうして私の中でその存在が復活したことを嬉しく思う。彼等は決して死んではいなかったし、終わってもいなかった。
 
 1992年から2000年まで、出したアルバムの順に数曲をピックアップしてそれを順番に並べてベストにすることにどれだけの意味があるのか、と最初は思った。けど、最初から最後まで順番に聴いてみるとこれ以上良い形のベストは他にないのだということに気づく。ミスチルに限っては、だが。
 ミスチルほど変わっていったバンドは他にはいないかもしれない。いや、成長と言い換えた方が分かりやすいだろう。
 もちろんどのバンドもアーティストも変わっていくし、成長もする。けど、ミスチルほど大きく激しく変化したバンドを私は他に知らない。
 
 始まりは平凡で幼稚だった。「君がいた夏」、「星になれたら」、「抱きしめたい」
 この時点ではまだそこそこできのいいポップスを歌うバンドの一つに過ぎなかった。この時彼等が頂点に立つことを予想した人間はそれほど多くなかっただろう。おそらく本人たちも。
 そしてここからはミスチルというよりも桜井和寿の話になるだが、ある時桜井くんは明らかに何かを掴んだ。突然曲作りがどんなものか分かったのではないかと想像する。
「CROSS ROAD」が生まれ、「innocent world」で、曲作りにおいても人気や地位においても彼等は頂点を極めた。セールスも100万枚を超えた。
 おそらくこの頃が曲作りも歌うことも楽しくて、体の内側からエネルギーがあふれ出てきて、一番幸福な時期だったのではないだろうか。
 ふと肩の力を抜いた時、「over」という名曲も生まれた(実はこれが私にとってベスト曲だったりする)。
 しかし、同時にこの頃から彼等の苦悩は始まったのだと思う。頂点を極めたらあとは落ちるしかない。
 
 多忙さと言葉にできない違和感の中で、聴き手が望むミスチル像を押しつけられて息苦しく思いながらもそれに応える形で作ったのが「Tomorrow never knows」だ。名作だった。
 けど、この頃から桜井くんの中で何かが決定的に違ってきてしまったようだ。それまでただいい曲を作りたいと願って、それがやっとできるようになって、曲が支持され絶賛されるところまではよかった。ただ、そこからの先のイメージはおそらくなかったはずだ。誰だってそうだろう、売れた先のことなんて売れてみるまで分かるものではない。
 戸惑いと苛立ちと迷いと怒りと虚しさと、そんないくつもの感情に押しつぶされそうになっていたことに、その時はまだ気づかなかった。私も周りも。
 これから先も人々が望むものを飽きられるまで作り続けなくてはいけないのかもしれない、と思った時、なんとも言えない恐怖に襲われただろう。どうしようもなく虚しくもなったはずだ。
 そんな混乱の中、彼が出した結論は、売れるための曲作りをやめてしまう、というものだったと私は想像する。半ばやけになって、今までのものを全部壊してしまおうと思ったのではないか。
 そしてできたのが、「everybody goes〜秩序のない現代にドロップキック〜」であり、「シーソーゲーム 〜勇敢な恋の歌〜」だった。これはすごくポップスらしくない曲だ。全然耳ざわりもよくないし、作り手の苛立ちを聴き手にぶつけた半分喧嘩腰のような曲だから。
 しかし、皮肉なことにすでに地位を完全に確立してしまった彼等の曲は、その内容に関係なく売れてしまった。出せばミリオンセラー。次もまた当然のようにミリオンセラーを要求される。
 この時、桜井くんの絶望は決定的なものになってしまったことだろう。周りの熱狂とは別に自分の気持ちはどんどん冷めていってしまったのではないか。
 それでも周りは止まることを許してはくれない。自分の思惑と周りの過剰な要求の板挟みになりながらも彼は曲を作り続けた。時に激しくもがきながら、時にあきらめに似た優しい気持ちになりながら。ヒット曲を。
「名もなき詩」はいい曲だったし、「Everything(It's you)」はそれまでの集大成のような名作だった。
 
 しかし、限界はすぐそこまできていた。いくら強い心と才能を持っていたとしても、いつまでも自分を誤魔化せるわけではない。
 彼等は心も気持ちもバラバラに空中分解する寸前で休養を決める。期限を決めない無期限の活動停止。
 私はそれを逃げたと思った。勝手に裏切られたとも感じた。でも今となってみればあの休養は必然だったし、結果的には彼等をいい方向に導いたと思う。
 
 一年半の時が流れた。その間、次々と新しいバンドやアーティストがデビューし、ある者は売れ、ある者は消えていった。ミスチルもだんだん過去のバンドになり、おそらく多くの人たちがもう彼等は必要ないとさえ思っただろう。実際私もそうだった。
 けど、彼等はやめるために休んだのではなく、次へ進むために休んだのだった。まだ多くの人が彼等の復活を心待ちにしていたし、彼等もまた少しずつ曲作りをしたり、バンド活動を再開させていった。
 
「終わりなき旅」で活動再開(その前に「ニシヘヒガシヘ」が休養中にリリースされているけれど)。
 またあらたに走り出す決意や願いや祈りやがいっぱいに込められたいい曲だった。
 ドラマ「殴る女」の主題歌にもなり、ミリオンヒットにもなった。まだみんなは彼等を見捨ててなかった。いや、まだ必要としていたと言った方がいいだろう。
 
 休養で彼等が得たものと失ったものは何なのか? それは彼等にしか分からないことだ。おそらくどちらも大きいものだったに違いない。
 けど、確かなことは、彼等はまだ歌いたいと思い、聴き手はまだ聴きたいと思っているという確かな事実があるということだ。その双方向の関係性が成立し、商品として成り立つ間は、音楽シーンは彼等を必要とし続けるだろう。
 
 30を越して、彼等の音楽は少し穏やかなものになった。持ち味としての刺々しさはまだ失っていないものの、どうしようもない苛立ちからコントロール不能になるようなことはおそらくもうない。それを詰まらなくなったと感じる人はいるだろうし、逆に曲に深みが増したと誉める人もいるだろう。人はいつでも勝手なことを言い、勝手な要求をする。でも今の彼等ならそれさえも苦笑いで受け止めることができるはずだ。そして、自分たちが本当に望むものを作り続けていくことになるだろう。情熱が完全に枯れてしまう時まで。
 ある雑誌記者が今のエリック・クラプトンのことを「ロックが辿り着いた幸福な場所」と呼んだことがある。果たして彼等は幸福な場所に辿り着けるのだろうか?
 できるような気もするし、できないような気もする。何故かと言えば、最初にも書いたように彼等は変わり続けるバンドだからだ。たとえ幸福な場所に辿り着いたとしても、たぶんそこにとどまることを彼等は望まないだろう。
 そう、おそらく彼等が解散してバンド活動を完全に停止することがあるとすれば、それ以上変われなくなってしまった時ではないだろうか。
 ミスチルは成長し続けるバンドだ。だから、成長が止まったら、もはや存在する理由を失ってしまう。それが彼等の終わりの時だ。
 
 今日、ミスチルが私の中で完全に復活した。
 同じ時代を生きたことを幸福に思う。
 
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 今日のための言葉
 
「閉ざされたドアの向こうに 新しい何かが待っていて
 きっと きっとって僕を動かしてる
 いいことばかりではないさ
 でも次の扉をノックしたい
 もっと大きなはずの自分を探す
 終わりなき旅」
 
「終わりなき旅」Mr.Children(桜井和寿)より

 12月21日(金) 「幻想の価値」

 すべての商品にお手ごろ価格の物が必要なように、あらゆるジャンルの作品にもお手頃なものが必要なのだ。高い物から安い物まで。
 みんながいつも高級な物を求めるわけではないように、誰もが才能あふれる作品を欲しているわけではない。
 人は自分の身の丈にあった物を買い、等身大の暮らしを選択し、自分の価値に合った作品を自然に選ぶものなのだろう。誰に押しつけられるでもなく。
 もし天国と地獄というものがあったとしたら、同じことが言える。天国が心地いい人は天国に行くし、地獄の方が自分に向いていると思ったら地獄へ行く。
 すべての人間が天国を望んでいるわけではない。
 天国だけでも高級品だけでもこの世界は成立しない。
 
                   *

 今の時代は腐敗してると人は言う。私は腐敗してないと思う。
 もし現代が腐敗してると定義するなら、この世界は昔から今まで変わらずに腐敗してるということになる。腐敗は今に始まったわけではない。
 どんなに時代が進んでも、この世界も人間も変わらずに美しい。
 
                   *
 
 宇宙は広いと思い込むから宇宙を捉えられないのだ。宇宙は案外狭いと思えばけっこうあっさり捉えられる気がする。
 ただ問題は多様性だ。いくら広くても宇宙が地球を含む太陽系や銀河系の拡大したものだとするなら理解はそう難しくないだろう。でも、もしすべての銀河系がまったく別の形態をしていて、その中に無数の種類の違う生命体が存在してたとしたらどうだろう。それはもう人間の脳や認識力や想像力ではどうやっても捉えきれないに違いない。
 
 そもそも何故人間は宇宙を捉えられないのか? それが最初の疑問だ。人間は確かに宇宙の内側にこうして存在して、人間の周りには間違いなく宇宙が広がっているというのに。
 この捉えられないという感覚が私を落ち着かない気持ちにさせる。すごく不自然なことのような気がして。
 この違和感は何なんだろう?
 超高層ビルの一室に住んでいるんだけど、自分以外の住人がいるのかいないのか、部屋の数がいくつなのか、そういうことがまったく分からないことの恐怖感を何百倍にも拡大した感じ、とでも言おうか。
 隣人に会いたいと思う。たとえそれが凶悪な殺人鬼だとしても。この宇宙で自分が孤独でないことを知るために。
 
                   *
 
 愛が幻想に依存しているように笑いもまた幻想である。どちらも人間が生み出したものであり、生きていく上で欠かせないものでもある。
 幻想を少しでも侮ると、世界も人間も見失う。
 幻想はとても大切なものだということを忘れないように。
 
                   *
 
 賢さというのはそれ自体では大して意味のないものだ。小麦粉のようなものと言ってもいい。
 上質の小麦粉で作ったお好み焼きやケーキは美味しい。でも、小麦粉自体食べて美味しいものじゃない。
 賢さは材料に過ぎない。良い作品を作ったり、良い人生を作るための。
 
 あるいはこういう言い方もできる。
 賢さは自分のため、美しさは他人のため、と。
 使い方を間違えると身の破滅を招く恐れがあるから気を付けないといけない。
 もちろん、両立できればそれに越したことはないのだけど。
 
                   *
 
 賢くない人間は無条件に神を信じてしまう。
 賢い人間は神など信じない。
 でももっと賢い人間は神という言葉を口にせずにはいられない。何故なら、神という言葉を持ち出さなければ説明がつかないことがあまりにもこの世界には多すぎるからだ。
 人は賢くなっていく段階の途中で神を捨てる。ほとんど例外なく。そしてその先でまた神を見つける。賢くなればなるほど人は謙虚になり、より高い存在を信じずにはいられなくなるから。
 更にその先へいくとどうなるか?
 たぶん、神を必要としなくなって、神のことを考えるのはやめてしまう。神を肯定したり否定したりすることの無意味さを知るようになるから。
 神というのは捉えられないから神なのだろう。
 
                   *
 
 一流の人たちと対等につき合いたいと思ったら自分も一流になるしかないのだ。どんな道でも、どんな方法でもいいから。
 そうでなければ、たとえ出会ったとしても、一流と一般人という主従の関係性から逃れることはできない。
 一流を目指すことの意味はきっとそういう部分にあるのだろう。有名になることや地位や名誉や金なんかはおまけにすぎない。
 生きて、会って、対等の視線で言葉を交わしたい一流人がいるならば、自分も一流になってみせるしかない。
 
                   *
 
 この世界で最高の錬金術は、黄金を作り出すことでも、未知の物質を作り出すことでもなく、不幸と不幸を掛け合わせて幸福に変えることだ。
 不幸な男と不幸な女が出会い、互いを幸福にすることができたなら、それに勝る奇跡はない。
 
 今年もまたクリスマスがやってくる。いくつものまやかしの奇跡の中で、いくつかの本物の奇跡が起こるだろう。
 その主役があなたであったとしても何の不思議もない。
 もちろん、私であっても。
 
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 今日のための言葉
 
「人が夢見たことは、それが自分の中にある程度できているものだ。だから、思い描けないものは実現できないし、逆に、思い描くことのできることは実現可能なことに違いない。私は、未来を明るい希望のイメージでいっぱいにしたい」
 
 ウォルト・ディズニー

 12月20日(木) 「100億年後の100億光年離れた世界の現実」

 戦争は愚かで間抜けで悲しい。
 私たちはそのことを知っている。でも何故知っているかといえばそれは、かつて戦争で多くの人間が死に、街や壊され、歴史や思い出が消えたからだ。
 戦争が本当に無意味なものだということを最初から知っていたわけではない。
 当たり前のことを学ぶのにも人間はたくさんの犠牲や失敗や時間を必要とする。
 経験から抽出されるのは、ほんのひとしずくのエッセンスだけだ。経験が丸ごと役に立つことはない。栄養を摂取するために大量の食べ物を食べなくてはならないように。
 それが人間。仕方のないことだ。
 
 現在と過去を比較する必要はない。どちらが上でも下でもないから。
 過去があるからこそ現在があり、現在があるからこそ過去は意味を持つ。人や世界の歴史というのはそういうことだ。
 過去の生が未来の私たちのためにあったように、私たちは未来の生のために生きて命をつなぐ義務と責任がある。
 経験し、そこから学び、また経験して、さらに知る。そうやって積み重ねていくことに意味がある。

 そしていつか、すべての人が大切なことに気づき、すべての人を許せるようになるだろう。いつか……。
 
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 多くの人が運命や神を信じない。たぶんそれは想像力が足りないからだ。
 たとえばこんな想像はどうだろう。
 今のまま人間が加速度的に進化していって、1億年後、時間も空間も支配し、宇宙に出ていた未来の地球人の一人が西暦2001年の地球に戻ってきて、地球に住むすべての生き物をコントロールしている。それは私たちが言うところの神ではないのか?
 あるいは、コンピューターが今よりも100兆倍の演算処理能力を持ったとしたら? もしくはそれ以上の。そうなったら、地球上すべての人間の運命、つまり人間の一生のあらゆる可能性を計算することくらい簡単なんじゃないだろうか? 生まれてから死ぬまで一秒単位で。
 
 つまり何が言いたいかというと、多くの人が計算する単位を間違えているのだ。自分の想像の範囲内の、しかも半径数十キロ、数百キロの地表で、この数百年、数千年単位でものを考えている。だから、この世界の可能性を読み違えることになるのだ。もっと想像の範囲を無茶苦茶に広げなくては。少なくとも億単位まで。
 100億年後の地球から100億光年離れた惑星にも確かに間違いなく一つの現実が存在する。だとしたら、運命が存在する可能性があってもいいし、神が存在する可能性があってもいい。どちらも想像を絶しているという共通点において。

 人間の脳が認識できたり想像できたりするものを信じないのはおかしい。それらは本当に宇宙の中のごくごく一部に過ぎなくて、人間程度が想像し得るものが実在しないと考える方が不自然だろう。
 少なくともそれらが存在する可能性を想像できないとしたら、自分の脳を疑った方がいい。
 非在と不在は違う。今ここにないことが存在しないことの証明にはならない。

 想像を超えて想像すること。そうすれば、すべては実現する可能性を持っていることに気づくだろう。
 
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 私はアインシュタインになる必要はない。だって、すでにアインシュタインは存在するのだから。
 アインシュタインが求めて見つけた答えはアインシュタインに教えてもらえばいい。
 私がやるべきことは、今まで多くの人が考えて行き止まりになったところから引き継いで、その先を考えることだ。
 理論や公式は教科書や百科事典や専門書に書いてある。それらを今更自分でいちいち見つけ出すことはない。漢字はワープロソフトが教えてくれるのと同じように。
 大切なのは覚えることじゃない。考えることだ。想像することだ。誰も思いつかないようなことを。
 いろんなことを知っていることが正しいわけではないし、数学や物理が得意な人間が賢いわけでもない。誰も見つけられなかったことや知らなかったことを見つけ出した人間が偉いのだ。
 
 私たちの人生というのは、大部分、先人の人生の上をなぞっているようなものだ。けど、それだけじゃ詰まらないし意味もない。何か一つでもいいから違ったことをしなくては。
 立派なことはできなくても人と違ったことは誰にでもできるはず。その気になりさえすれば。
 
                   *
 
 空模様の基本が、晴れときどき曇りでところによって一時雨だとすれば、人の心模様の基本は、幸福ときどき退屈ところによって一時絶望といったところだろう。
 時に退屈したり、時に絶望したりするけれど、ほとんどは幸福なんだということを忘れないようにしなくてはいけない。
 晴れてる日は、いつも青空を見上げてみるといい。そうすれば、同じようにほとんどの日は自分が幸福だということに気づくだろう。
 そして、雲の向こうはいつも青空。
 
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 今日のための言葉
 
「若い人たちよ。大切なのは、疑問を持ち続けることだ。神聖な好奇心を失ってはならない。人生を生きる価値のあるものにするために」
 
 アルベルト・アインシュタイン

 12月17日(月) 「連ドラのある人生」

 人はいくつまで恋が必要なのだろう?
 その問いの答えはまだ、今の私には分からない。10年後かもしれないし、死ぬまでかもしれない。
 でも、私が恐れるのは恋が見つからないことよりも恋が必要でなくなってしまうことだ。私にとって老いるということはきっとそういうことだろうから。
 あなたはまだ恋を必要としてるだろうか?
 
                   *
 
 心の中には、恋のための指定席があって、そこは他の何ものも座ることが許されない。そこに座ることが許されるのは恋だけだ。
 もちろんいつも埋まっているわけではない。空席の時もけっこうある。
 面白いというか不思議なのは、そこが埋まっていれば気にならないのに、空いているとすごく気になってしまうというとだ。
 特に周りがどこも埋まっていて、そこだけがポツンと空いていると気になって仕方がない。心がざわめいて落ち着かない気分になる。
 その席に座れるのは人ではない、恋だけだ。
 
                   *
 
 人は不幸によって死ぬことがある一方で、不幸によって生きるようになることもある。
 たとえば大きな事故をしたり病気になったりして助かった時、人は本当に自分から生きるようになる。生きていることのありがたさを思い知って。
 あるいは、生まれてきた自分の子供が生まれつきの障害を持っていた時。
 親として大いなる絶望を抱きつつ、自分の子供を守らなくてはいけないという絶対的な理由で生きるようになる。
 
 絶望的な不幸の意味を訊ねても答えは得られない。宿命なのか運命なのか偶然なのか必然なのか神の意志なのか、本当のところは誰にも分からないから。
 ただ、分かっているつもりだろうと分かるまいと、それが現実ならば受け入れていくしかない。
 もし、不幸に何等かのトリックがあるとするならば、最後に誰かが種明かしをしてくれるだろう。
 それまでは時に不幸と闘い、時に不幸を利用し、時に不幸と協力しながら、生きていかねばならない。
 自分の不幸を呪っていても問題は解決しない。
 
 それに、不幸というのは必ずしも悪の要素ではないし、憎むべきものでもない。人間に必ず汚い要素があるように、この世界に不幸はつきものだ。
 人は不幸を嫌いすぎる。もっと不幸を好きになった方がいい。
 不幸のない人生なんて、きっと死ぬほど退屈に違いないし。
 
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 この前御前崎へ向かう途中、車の中でふと気づいた。都会から田舎の奥へ入っていけばいくほど、着飾って垢抜けた美人が道を歩いている確率は加速度的に減っていく、ということに。
 それはもう見事なほどの急降下カーブを描いて確率が下がる。ある一線を越えたら皆無なのではないかと思うほどだ。
 田舎生活の油断の恐ろしさと、都会生活の緊張感のすごさをあらためて思い知ったのだった。
 
 外見を取り繕うことがいつも正しいとは思わないけど、人はちょっとの努力でもっと美しくなれるのだから、他人のためにも全員がもう少し美しくなるための努力をすべきなんじゃないだろうか。
 人だけではなく、家もビルも道路も街並みも、もっともっと美しくあっていい。
 学校教育でも、政治家なんかでも、もっと美意識ということを口にして教育すべきだと私は思う。
 この世界はこんなにも美しいのに、人間の美意識がまるで足りない。
 
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 ドラマ「アンティーク」がついに最終回を迎えてしまった。残念だ。寂しい。もっと観ていたかった。
 第一話から最終回まで途中一話もゆるむことなく、最後まで楽しませてくれた。ここまでテンションを保つことに成功したドラマはほとんどないんじゃないだろうか。名作といえどもたいてい真ん中あたりではいったんゆるんだりするものだ。もしくは、傑作でも最終回でがっかりということも多い。
 過去日本の連ドラの主立ったところはほとんど観ている私がそのキャリアにかけて断言しよう。「アンティーク」は間違いなく日本連ドラ史上に残る傑作だと。第二話で予感して、最終回で確信した。
 
 ここで自分の記憶を確かなものにするためにも好きなドラマを思い出せるだけ書き出してみよう。
 まずベスト3となるとどうか。いや、ベスト5にしよう。
 
「WITH LOVE」
「アンティーク」
「世紀末の詩」
「オーバータイム」
「愛していると言ってくれ」
 
 うーん、ちょっと微妙だ。ベスト3は問題ないけど、その後に続くものが他にも色々あって、どうもすっきりしない。
 
「ひとつ屋根の下」
「魔女の条件」
「王様のレストラン」
「カバチタレ」
「踊る大捜査線」
「東京ラブストーリー」
「男女7人夏物語」
「ロング・バケーション」
「ビーチボーイズ」
「スィートシーズン」
「あすなろ白書」
「お水の花道」
 
 このへんまでくるととりとめがなくなってくる。ついでだから思い出せるだけ全部思い出してみよう。
 
「星の金貨」
「青い鳥」
「池中玄太80キロ」
「3年B組金八先生」
「ふぞろいの林檎たち」
「高校教師」
「この愛に生きて」
「愛という名のもとに」
「俺たちの旅」
「あぶない刑事」
「101回目のプロポーズ」
「同級生」
「古畑任三郎」
「GTO」
「ロケットボーイ」
 
 とりあえず思い出せるのはこんなところか。何か大事なものが抜けてるような気もするんだけど。
 あと、「北の国から」だけは別格ということでベストテン選びにはいつも入らない。これは私にとって永遠のドラマチャンピオンだから。
 
 しかしこうして見ると意外に少ないものだ。好きなドラマが30本とは。
 でもまあその時楽しめたドラマは他にもいくらでもあったし、30本も大好きなドラマを観ることができただけでも幸せなことかもしれない。
 あなたは映画が好きですか? と訊かれるといつも口ごもってしまうけど、ドラマが好きかと訊かれればすぐに大好きと答えることができる。連ドラに対しては映画に対するような屈折した感情はまったくなくて、いつも単純に楽しめるから。
 
 今回「アンティーク」という傑作ドラマに出会って、これからもまだまだ生きている限り連ドラを観続けようとあらためて思ったのだった。
 
                   *
 
 ドラマにしても映画にしても人間に対しても、けなしたり悪く言ったりするのはなるべくやめた方がいいと私は思う。
 たとえば自分の好きな作品を悪く言われると、寂しいような悲しいような恥ずかしいような、そんな気持ちになる。
 確かに悪い作品や駄目な作品はたくさんあるし、駄目だという感想を抱くのも事実だろう。
 けど、人に悲しい思いまでさせてその作品をけなす必要が果たしてあるのだろうか?
 私はないと思う。
 何か悪口を言いたくなったら口をつぐんで言葉を飲み込むべきだ。
 吐いたツバは飲み込めないけど口の中にあるツバなら飲み込めるだろう。
 それでも何かを言いたくなったらどうすればいいか?
 簡単だ。プロの批評家になるか、作り手の側に回ればいい。そうすれば、自分のプロ生命を賭けてなんでも好きなことを言う権利を持つことができる。
 
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 今日のための言葉
 
「人の人生なんて、終わりなき旅、みたいなもんなんだよね」
 
 ドラマ「アンティーク」より


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