2001.11.20-
12月15日(土) 「理想のカテゴリー」 |
人は確かに、限りある生命の中で、永遠を感じることがある。それはほんの一瞬、目の前に現れてすぐに消えてしまう儚い瞬間だ。本物の永遠ではないのだろう。 けど、それでも人はその一瞬を永遠だと思う。確かにそう思う。 この世界に本当の永遠が存在するのかどうかは分からない。それでも、人は永遠を感じ、感じるからこそ永遠を信じることができるのだ。
永遠の愛を誓うことさえも愚かな行為などではない……。
*
恋愛や結婚において大事な要素の一つとして、人は「価値観」という言葉をよく使う。価値観が似ている方がいいとか、価値観が違ったから別れたとか。
価値観の一番本質的なものは何か? それはたぶん、生きていく上での自分の理想だろう。
理想にはいくつかのカテゴリーがある。人の生き方の種類はそれほど多くない。
同じカテゴリーの理想を持った人間同士は互いを理解しやすいから相性がいいということになり、逆に違うカテゴリーを持った人間同士はどれだけ自分のことを語っても最後のところで互いに理解できないものだ。 育ちや家庭環境の違い、学歴や食べ物の好みの違い、趣味の違い、そういうものなら時間をかければ克服できる。あるいは克服しなくてもなんとか上手くやっていける。でも、理想の種類が違う人間同士は、やがてどこかで関係が破綻してしまうものだ。努力だけではどうにもならない。
理解し合えなくても良い関係性は保てる、と言う人もいるだろう。でも、関係が壊れた原因の多くは、理想がすれ違ってしまったからなのだと思う。
相手との相性を知りたければ、相性占いなんかするより相手に理想を訊ねればいい。
相手が語る理想に共感できれば間違いなく相性はいい。きっと上手くいくだろう。
もし、その理想に少しでも違和感を感じたとしたら、残念ながら相性が悪いからやめておいた方がいい。 理想は好きとか嫌いとかで克服できるものではなく、理想を変えることは宗教を変えることよりもきっと難しいものだから。
*
流されない強さと、流されても飲み込まれない強さと。
昔の私は誰にも何ものにも流されないことが強さだと思っていた。
けど、今は違う。時にはあえて流されることも必要なことを知った。飲み込まれなければいい。
絶望することが悪いことではなく、絶望に負けてしまうことが駄目なこと。
*
大人を夢見る子供は幸福だ。そして、そんな子供時代を持っている大人はもっと幸福だ。
子供の頃の記憶を持つことで人は幸せになれる。振り返えると見える記憶は切なくて甘い。とてもいいものだ。 いきなり大人として生まれてこなくてよかった。
*
私は自分の幸福にあまり興味が持てない人間なのだ、などと言うと非常に嘘臭くて偽善者っぽいけど、でも実際、私が今の自分に納得できなかったり悔しかったり自分を認めることができないのは、自分が幸福じゃないことなんかではなくて、自分以外の人やこの世界に対して役に立っているという自覚が持てないことなのだ。 もちろん、自分自身幸福になりたいという思いは少なからずある。けど、もし自分を幸せにできたとしてもそれだけでは絶対に納得できないことがはっきり分かる。それだけじゃ充分じゃないのだ。
人の役に立つこと。私の場合それは、ボランティアをすることでも、人のための仕事をすることでも、教師になることでも、政治家になって日本を変えることでもなく、やっぱり思考と言葉なんだろうなと思う。
そういう部分で役に立てなければ、私の人生は限りなく無に近いものになってしまうだろう。
*
許せない、と思うことが時にある。
でも本当に許せないのは、相手じゃなくて、相手を許せない自分なんだ。
過去のすべては忘れながら許すことができるのに、今は許せない。そのことが悔しい。
*
よかれと思ってしたことや言ったことはたいがい、時間が経つとちょっと恥ずかしかったり、後悔しがちだったりするものだけど、でもそれをした時点での自分の判断や気持ちを大切にしようと思う。その時の自分にとってその言動は間違ってなかったのだから。
*
戻れない昨日を夢見ても、決して手を触れることはできない。
夢を見るなら明日にしなければ。 今日の自分は信じるに値しなくても、明日の自分はいつだって信じるに値する。
明日は、新しい一日で、新しい自分だから。
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今日のための言葉
「物音も絶え、氷のような夜気が部屋を浸す頃、
寝付かれないまま布団を抱いていると、 突然、あいつがやってくる。 泣きたくなるような、胸が締め付けられるような、 切ない、やるせない寂しさ。 そう、心の闇の奥底から 孤独感と呼ぶべきものがやって来る……」 アニメ「BOYS BE…」より
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12月13日(木) 「たちのいい甘さ」 |
幸せは、誰かからもらうものでも、どこかにあるものを見つけるものでもなく、自分でゼロから作るものだ。せっせと材料を集めて、長い時間をかけて。 私たちは裸で何も持たずに生まれてきた。赤ん坊の時は不幸でも幸福でもなかった。
幸福は、無から生み出す錬金術だ。 *
何もかも変わると人は言い、何一つ変わらないと他の人は言う。
どちらかを選ぶとすれば私は変わる方を選びたい。
たとえ楽しいことがすべて終わってしまったとしても、悲しいことが終わらないよりいいに決まってるから。
誰も彼も変わってゆく。姿も、思いも、言葉も、本質さえも。
*
友達でも恋人でも家族でも、誉められる部分がたくさんある人は嬉しい、というかありがたい。
特に私は人を誉めるのが好きだから。 でも、自分が誉められるのは苦手だったりする。矛盾してるけど。
*
言葉は絶対に思いを超えない。
心にもないことを言う、と言うけど、それは正しくない。心にもないことは言えるはずないのだから。 嘘をつくことはできる。でも人は心にもないことを言うことはできない。 より良い言葉を生み出したければ、思いを向上させるのが一番早い。言葉を思いに近づけようと試みるよりも。
上質の思いを持っていれば自然と言葉も上質になる。思いが進化すれば言葉も進化する。
思いと言葉の関係性とはそういうことだ。思いが兄貴で言葉はいつまで建っても弟のまま。
*
私はおそらく、自分の一番上等な部分と、一番駄目な部分の両端が好きなんだと思う。その部分を楽しんでいると言った方がいいか。
それ以外の中間の部分を私は憎んでいる。
*
甘さを正当化できれば勝ちになる。
たとえば、甘いだけのケーキを人は誉めない。子供向けのものだと馬鹿にする。
でも、上質な甘さを持った美味しいケーキなら、人はそれを誉める。大人でも美味しい上質な甘さだと言って。
人は基本的に甘いものが好きだ。美味しいと本能的に感じるようにできている。でも甘いだけじゃ駄目だ。納得する甘さじゃないと。
甘さを正当化すれば勝ちになるというのはそういうことだ。人間も、言葉も、作品も、恋も。
*
私たちは、確かに、この宇宙の何百億年という歴史の一部を担っている存在なのだということを自覚しなくてはいけない。想像力を限界まで働かせて、その事実を感じなければ。
多くのものが滅び、今も滅び続け、私たちもやがて滅ぶ。
でも、すべては上に積み重なる。何も消えない。全部下に埋まっている。
私たちが所属してるのは、会社や学校や社会や国などという小さな組織だけではない。世界の永遠と無限を結ぶ一点にこの瞬間、確かに存在しているのだ。
*
神と人間は、ある一部でリンクしながらも、まったく別の目的を持った別の存在なんじゃないかと私は思っている。
だから、神の存在を大声で主張しようとも思わないし、むきになって否定しようとも思わない。
神が世界のすべてを支配する、という発想はどう考えても正しくない。神と人間と世界は、そういう関係性じゃない。もし神がそんなふうに思ってるとしたら、それは神の勘違いだ。
たとえば人間と地球が別の思惑を持ちながら共存しているが、それに人間と神の関係は似ているかもしれない。
地球が人間のために存在しているわけじゃないように、神もまた人間のために存在しているわけではないだろう。
神を敬愛するのはいいことだ。でも神に祈るというのは的外れな行為だ。
*
*
*
御前崎は遠かった。
3時間もあれば着くだろう、という考えは甘かった。
いきなり高速に乗って3分の1くらい距離を稼いだにもかかわらず、結局4時間以上かかってしまったのだった。
とにかく名古屋から東に向かう道は、まるでなっちゃいない。国道1号は交通量が多すぎて常に渋滞してしまうし、それを避けて153号だったか150号だったかで行ったら、道が片側一車線で車も多くてまいってしまった。
ロングドライブの場合は、実際の距離よりも道路の走りやすさで印象が違ってくるものだ。流れがいいと近く思えるし、走りづらいと遠く感じる。
今回はとても遠く感じたのだった。 御前崎の印象はといえば、うーん、あまりこれといった印象は残らなかったというのが正直なところだ。海や海岸はきれいだったし、景色もよかったし、灯台に登ったり、お土産屋のおばちゃんと話をしたり、と小さなドラマはあったものの、それ以上のものはなかった。非日常を感じさせてくれる何かが足りなかった。
ドライブの部分で順調すぎたということもあったかもしれない。今回は珍しくまったく迷ったりもしなかったのだ。
もう少し時間が経つと風景や景色の断片がイメージとして切り取られ、自分の中に定着して時折甦ってきたりするので、そうなったらまた少し印象も変わってくるかもしれない。記憶が思い出に変質するには多少の時間が必要だ。
2001年のロングドライブはこれで終了。
前半は、吉良ワイキキビーチ、金沢、諏訪湖、三重の海、とかなり調子が良かったんだけど、夏を堺に完全に失速してしまったのが残念だった。
秋以降は、結局、近場の内海と御前崎しか行けなかった。秋に体調を崩したのも大きかった。
とはいえ、東海三県のドライブ地図を見ると、高速を使わずに日帰りできる主要な街や海はほとんど行き尽くしたことに気づく。西は京都、奈良、琵琶湖。東は岐阜、長野、諏訪湖、浜名湖、御前崎。北は福井、金沢の日本海。南は内海、蒲郡、知多半島、渥美半島、三重の海。
あとは地図を見てもここだ、というポイントが見つからない。あるとすれば福井から西の若狭湾と、富士山くらいだ。
これはいよいよ高速道路時代に突入せざるを得ないかもしれない。早く高速道路を民営化して無料にしてくれー。
高速さえ使えれば、西は広島、和歌山、東は鎌倉あたりまで一気に伸ばせるだろう。日帰りでも12時間までは大丈夫だということを経験的に知ったから。
さて、来年はどうなることか。来年は、車以外での遠出というのもいい。各駅停車の列車や、船なんか。
もはや車でのロングドライブが私に非日常感を与えなくなってきている今、車以外での旅というのは良い考えかもしれない。
一発目は思い切って「ひとり金鯱号」にチャレンジしてみようか。
……。
たぶん、自殺するよりはいくから簡単だろう。
自殺するほど追い込まれたら、やってみよう。
今年はあと一つ、クリスマスが近い名古屋の夜の風景を撮る、というのを考えている。
みんなが寝静まった深夜の2時か3時に名古屋の栄と名駅周辺を巡ってみよう。名古屋も少しは垢抜けてきているだろうか。
そうそう、「元旦ひとり寒中水泳」の刑だけど、見事御前崎行きを実現したので免れることができた。
めでたい。
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今日のための言葉
「旅行には帰ってくるという甘さが附随している」
稲垣足穂『男性における道徳』より
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12月9日(日) 「恋抜きでも生活に支障はない、けど……」 |
頭の中で言葉がバラバラに拡散して、手につかない。雑多な思考の中に言葉が埋もれてしまってる。その中から言葉を見つけていかなければならないかと思うと面倒で逃げ出したくなる。 散らかった部屋を前にしてどこから手をつければいいか途方に暮れてしまっている気分だ。
一つひとつ拾い集めて片づけていくしかない。
*
誰もが半分の悩みを悩んでいる。
両方の悩みを抱えることは誰にもできない。 たとえば、持つことの悩みと持たざることの悩みを両方同時に持つことはできないように。
自分は半分の悩みを悩んでいるだけだということを忘れないように。 もう半分の悩みは他の誰かが悩んでくれている。
そして、どちらの側にいっても、悩みの量はさほど変わらないものだ。
*
多くのものを捨てる覚悟があればいろんなことができる。蒸発や不倫や冒険や。
でも捨てる勇気がいつも正しいとは限らない。 臆病なのも人間の本質で、それがあるから人は多くの罪から逃れることができるのだし。 何でもかんでも捨てればいいってもんじゃない。
捨てるべきものと、時と場所を考えなくては。
*
恋のない日々を充実させることも、正当化することも、私にとっては難しい。
結婚生活で一番想像できないのは、恋のない毎日にどうやったら耐えていけるのかということだ。何十年もの間。
結婚生活で恋を持つことの正当性と罪悪感とのせめぎ合いというのはどんなものなんだろう? あるいはそれが結婚生活の醍醐味でもあるのか? やがては恋抜きでも何事もなく普通に毎日を過ごせるようになるのだろうか。いつの間にかお菓子を食べなくても全然かまわなくなってしまったように。 恋がなくても寂しいし、恋を必要としなくなるのももっと寂しいことだ。
*
過去の人たちが多くの正しさを体現し、無数の間違いを犯してき、この上、私たちは何をなすべきなのだろう?
まだ新しい正しさと間違いの余地はたくさんあるのか?
生き様において、芸術や文学において、人間関係や恋愛関係において。
同じことを繰り返してるだけではないのか? でも一つ確かなことは、過去の人々の人生を無駄にしてはいけないということだ。彼等の正しさを見本とし、間違いから学ばなくては。
*
一人で車を運転してる時の私の意識はどうなんだろう、と考えてみた。
人はどうなのか聞いたことないから分からないのだけど、私の場合、運転に4割、音楽に3割、運転席からの風景や道行く人を眺めるのに3割、といったところだろうか。
音楽はとても大事。基本的に車の中でしか音楽は聴かないから、音楽のないドライブは考えられない。
それと、人や風景を車から眺めるも好きだ。運転席から見る風景や人は、ブラウン管やスクリーンの中みたいなところがあって、見飽きないし、いろんなことを感じさせてくれる。
時々、流れる風景と、その中の人と、音楽が絶妙にマッチすることがある。それは上質な映画のような快感を私にもたらしてくれる。とても幸運な偶然で、その場限りの幸福感なのだけど、泣きそうになったりもする。
車を運転するのは楽しくて気持ちよくて、私はやめられそうにない。
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このところ車でずっとミスチルのベスト(前期1992-1995版)を聴いているのだけど、ちょっと見直しつつある。
正直、ミスチルは私の中でもう終わったと思っていた。でも、そうじゃないかもしれない。きっかけはドラマ「アンティーク」だ。このドラマで流れる曲がすべてミスチルということで何曲も聴いているうちに懐かしさを感じつつあらたな発見もあって、もう一度ベスト版でじっくり聴き直してみたというわけだ。
意外と初期の曲が悪くない。頂点を極めた頃の「CROSS ROAD」や「innocent
world」よりも、「君がいた夏」や「抱きしめたい」、「星になれたら」あたりの方が今聴くと心に染みる。単純で幼いけど素直に曲を作った感じが伝わってきて。
これは後期版も聴いてみないといけない。アルバム「深海」以降はほとんど聴いてないから。
それと、今回気づいた。ミスチルが偉大なのは、誰もミスチルに似てないからだということに。 ミスチルはすごく個性的というわけではないからオリジナリティーということを見逃しがちなのだけど、実はとてもオリジナルなバンドだ。ミスチルの前にミスチルは存在しなかったし、今もまだ模倣バンドを生み出してない。それはけっこうすごいことなのだ。 思えば1990年代に登場したアーティストの中には優れた詩人がたくさんいた。
ミスチルの桜井くんや、ZARDの坂井さんや、スピッツのマサムネくんや、小松未歩などが。
でも2000年以降はどうだろう? 残念ながらこの2年の間に、こいつは本物だ、と思わせてくれる詩人はいなかった。少なくとも私の心を震わせてくれるような存在との出会いはなかった。寂しいことだ。
懐メロに浸るにはまだ早い。もっと新しくて優れた詩人の歌が聴いてみたい。そんなアーティストの登場を期待して待っている。 誰か尾崎豊を超えてくれないだろうか?
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怠惰な週末が終わり、明日からまた新しい週が始まる。今年も残り3週間。ぼんやり過ごすのもたがいにしておかないと。
来週こそなんとか延びのびになってるロングドライブを実現しなくちゃいけない。来週が今年ラストチャンスくらいだろう。
それと、オークションで売るものは来週で売り切ってしまおう。クリスマスくらいから郵便事故が増えたり、取引相手が忙しくて取引が滞ったりしがちになるから。
ボーナス時期ということもあって、この時期は売りには最適だし。
オークションといえば、落札したビデオVICTORのHR-V10が今日届いた。
再生、録画にノイズが入るからヘッドの寿命かも、ってことで2,000円で落札したものだからほとんど期待してなかったんだけど、クリーニングテープでヘッドをクリーニングしたらきれいに直ってしまった。なんだ、そりゃ!? 嬉しいには違いないけど、売ってくれた人は今まで一度もヘッドクリーニングしたことなかったんだろうか? うーむ、信じられないけどたぶんそうなのだろう。
まあなんにしても欲しかったHR-V10のリモコン、マニュアル付きの完全動作品が2,000円で買えたんだから万々歳だ。このまま転売しても6,000円〜8,000円くらいにはなるだろうに。いや、しばらくは売らないけど。
画質の方はまだちょっとテストしただけだからはっきり分からないけど、すでに持っている同時期のHR-V2の兄貴分ということで第一印象ではほとんど変わらない感じだ。HR-V2にはない「ディテール補正」という機能と、0.5キロ重たいのと、定価が1万高い16万円ということで、いくらかは違うんだろうけど。
近々セットして詳しく調べてみなくては。それで動作と画質が安定してることが分かればメインのビデオになるかもしれない。
それにしても気づけば部屋にはビデオが7台……。
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今日拾い集めることができた言葉はこれだけ。
それでも手ぶらで一日を終わるよりはずっとましだ。満足はしてないけど納得はした。
明日はもっとたくさんの言葉が拾えるように、しっかり生きること。
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今日のための言葉
「また夏が終わる もうさよならだね
時は二人を 引き離して行く 言葉にできずに そっと離れても いつか この胸に Oh I will miss you...」 Mr.Children(桜井和寿)「君がいた夏」より
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12月7日(金) 「アンハッピー経由ハッピー行き」 |
今日は、アンハッピーな話はノーサンキュー、という気分。シリアスな話は勘弁してもらって、陽気にいきましょう。 そうしないと、馬鹿ばかしさとの闘いに負けて、何もかも馬鹿らしく思えてしまいそう。
なんでこんなことを最初に書いたかというと、ネットでビデオのことを検索してる途中、たまたま個人の日記を読んだら「手首を切ることが習慣になってしまってまた今日も切ってしまった云々」って内容で、一気に気分がトーンダウンしてしまったのだ。いやはや嫌なものを読んでしまった。
私は高いところも狭いところも乗り物も苦手ではないけど、血と刃物がものすごく苦手だ。手首を切るなんていったら、思いっきり苦手なものがダブルパンチで、考えただけでもKO負けを食らってしまいそうになる。手首を切るくらいなら死んだ方がまし、と訳の分からないことを思ってしまうくらい駄目。
生きているうちは金輪際100パーセントやらないであろうことがいくつかあるけど、手首を切るというのは間違いなくその内の一つだ。
だから私は、手首を切る人がヤクザよりも恐かったりする。
いかん……。アンハッピーな話はノーサンキューと言いながら自分でアンハッピーな話をしてるではないか。なんてこった。もっとハッピーな話をしよう。そうだな、怪談とか。
……。
ハッピーな怪談ってあまり聞かないなぁ。
ちなみに私が一番恐い怪談は、雪の降り積もる中、線路の上に倒れた人が電車にひかれ、体が真っ二つになったんだけど、それで意識を取り戻して、上半身だけで列車を追いかけてくる、という話だ。
あれれ? こんな話だったかなぁ。なんか微妙に、いや決定的に違う気がするぞ。これじゃあ今ひとつ恐くないもんなぁ。どこでどう話が違ってしまったんだろう?
やっぱり一番恐いのは口裂け女だな。あれは本気で恐かった。だってスクーターより走るのが速いっていうんだから、自転車じゃどうやったって逃げ切れないもの。
マスクを取って、「私、キレイ?」って訊かれた時どうやって答えれば許してもらえるんだろう、って本気で悩んだものだ。ギャーっと叫んでも駄目、キレイと言っても駄目ってことは、うんなかなかいいんじゃないかな、とか答えればいいのかな、とか。
それにしても口裂け女なんて、一体誰が考えついたんだろう? もしかして五輪真弓がモデル?(失礼な)
口が大きいといえば、昔ティファニーとかいう女の子の歌手がいたけど、彼女の口はでかかった。 なんだか全然話がハッピーな方向に向かわないぞ。
うーん、ハッピーな話、ハッピーな話……。
時期的にクリスマスの話がいいだろう。
えーと、去年のクリスマスは……。あ! そうだ! 去年のクリスマスは生涯最悪のクリスマスだったんだ! 思い出した。ううっ……。そうそう、あれはひどかった。あんなに悲しい気分のクリスマスは初めてだったんだよなぁ。世界クリスマス悲しい選手権が開催されてたらおそらく世界のベスト100には入ってただろう。 それ以外にも数々のアンハッピーなクリスマスの思い出が浮かんでは消え、消えては浮かび……。
いかん、ますます気分が滅入ってきた。
ハッピーな話はなんかないか? 最近で一番ハッピーだったことはなんだろう?
……。
ない。
お、思いつかん!
いやー、まいった。考えてみると私、21世紀に入ってからまだ決定的なハッピーを味わってない気がするぞ。こりゃあまずいなぁ。
もしかしてハッピーが寄りつかない体質になってしまったとでもいうのか?
ここはちょっと真面目に対策を立てねばなるまい。風水でも勉強しようっかな。ドクター・コパの本でも読んで。
確か黄色がいいんだよな。って、あれは金運だったか?
いや、しかし、考えてみると私の部屋には黄色というのは皆無に近い。本の表紙で黄色いものが何冊かあるくらいで、それ以外は本当に黄色というものが存在してない。どうりで金がないわけだ。
こうなったら全身黄色の服に身を包んで年末ジャンボ宝くじでも買いに行くか?
……。 近所で悪いウワサを立てられそうだから、それはやめとこう。 でも昔って、黄色はきちがい色とか言われていいイメージはまるでなかったよなぁ。黄色い服なんか着てようものならみんなからボロクソにけなされたし。
そうだ、ここは思い切って壁を黄色に塗り替えてみようか?
……。
落ち着かない部屋になるだろうなぁ。黄色い部屋って、ガストン・ルルーじゃあるまいし。
でもとにかく黄色の導入はなかなか悪くないアイディアだ。実験としては面白い試みに違いない。今までまったく試したことがないだけに。
なんにしても新しいことをすることはいいことだ。黄色いパンツって売ってるかな? いや、前だけ黄色くなった白いブリーフとかじゃなくて。
ハッピーな話というのは意外に難しいものだ。ここまで書いてきてまだハッピーに辿り着かない。アンハッピーな話ならいくらでも書けるのに。
あるいはそれは、私がハッピーよりも物事のアンハッピーな部分に反応してしまう性格だからだろうか。
たとえば雅子さんが子供を産んだというのは文句なしにハッピーな話だ。けど、私はそのニュースを聞いて、素直によかったね雅子さん、おめでとう、などとは思わずに、子供ができなかった7年間はさぞかし辛い日々だったろうなぁ、と考えてしんみりしてしまうのだ。
ああ、「素直でいい子」と言われた少年時代の私はどこへ行ってしまったのだぁー!?
ハッピーな話をしようとするほどにアンハッピーな気分に近づいているような気がするけど気のせいだろうか。
いや、もしかすると、アンハッピーを笑うことがハッピーな話になるのかもしれない。
たとえば私の友達は大学の時、「ハッピーにしき」という中古車屋で「全部あわせて10万円ポッキリ」という車を大喜びで買ったら、乗る前に修理代が30万円もかかってものすごいアンハッピー野郎だった、みたいな。はは。思い出したら笑えた。間抜けめ。
車話は他にも色々ある。
知り合いから5万で車を売ってもらって東京の大学に行ったら月極駐車場が10万円だったんで維持できずに捨てたとか、無茶な運転をする車に向かって「バカヤロー!」と叫んだらその車が暴力関係の人の車で、そのまま事務所に連れて行かれて20万円取られて、みんなから「バ」「カ」「ヤ」「ロ」「ー」で20万だから、一文字4万だなとかかわかわれてたやつがいたとか。
なるほど、分かった。ハッピーな話を書こうと思えば他人のアンハッピー話を書けばいいんだ。そうかそうか、なるほどな(と、納得していいのか?)。
昔、大竹しのぶ主演のドラマで「他人の不幸は密の味」というのもあったし。
これでちょっとハッピーな気分に近づいた気がするぞ。よかった。 しめくくりとしてハッピーな人生とはどういう人生だろう、と考えてみる。
それは、死んだ後、人に笑われる人生かもしれない。あいつ、ホントに笑わせたよなぁ、とみんなから思い出してもらって笑われる人生。うん、悪くない。 最高の人生は笑えるドタバタ悲劇の人生なのだと私は思う。たとえば横山やすしのような。
最悪なのは、死んだ後、人から同情される人生だ。そういう人生だけにはしたくない。
アンハッピーを笑いに変えられるような生き様をしよう。 手首を切って死ぬよりモチをのどに詰まらせて死ぬ方がずっといい死に方だ。正月から茶の間に笑いを提供できるのだから。
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今日のための言葉
「ボクがホームランを打ったから打てなかったからで、彼女がハッピーだったりアンハッピーだったりはしないよ。いつもお互い愛していられることがハッピーなことなんだ」
ペタジーニ(ヤクルト・スワローズ)
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12月6日(木) 「書きたくない日」 |
日記を書こうとして書けないということがあり得るか? それはあり得る。字を書こうとして書けないことはないけど絵を描こうとして描けないことがあるように。
実際は、書けないというより書きたくないだけなのだけど。
やりたくないことはたくさんある。そういうものはなるべく先送りにしようとしたり、できれば避けようとしたりする。
やるべきではあるけどやらなくてもいいことと、どうしてもやらなくてはいけないことがある。ご飯は食べなくてはいけないけど、歯は磨かなくてもいい、というように。でも、やっぱり歯は磨かないといけない。
やらなくてもいいんだけどやりたくないやるべきことに囲まれて、どの程度まで自分を甘やかしていいのか、時々よく分からない。
今日の断想日記を書くか怠けるか、ここまで書きながらまだどうしようか迷っている。正直今日は休みたい。特に書きたいこともないし。
でも反面、休んだら駄目だと思う。怠け癖はどこまでもうエスカレートするから。
ここにも一つ日記を書く上での問題点がある。書きたい時だけ書けばいいのか、それとも書きたいことがなくても毎日書くべきか、という問題が。
内容のない日記を書くことにどれだけの意味があるというのか。
でも毎日休まず続けることにこそ意味があるようにも思う。
字数をある程度稼いで体裁を整えればそれでいいのか?
そんなことよりも一番問題なのは、日常が充実してないことだ。毎日がもっと盛りだくさんなら書くことに困ることはないのだから。
日記はそういう意味では毎日の充実度のバロメーターになる。
*
転調して他のことを書こう。とりあえずなんでもいいから。
そういう時は映画の話がいい。
「趣味はなんですか?」 「映画とか好きです」 「おっ、映画ですか、私も好きなんですよ。どんな作品が好きですか?」 「『プリティ・ウーマン』とか」 「(うへっ、あんなもん好きなんか!?)あー、あれね、なかなか面白かったですよね。リチャード・ギアの顔が犬みたいで」 「……」 このように会話のとっかかりとして映画というのはなかなか役に立つ。盛り上がること請け合い。いや、話す内容を間違えなければ、だけど。 ってことで、日記もこの手でいこう。 最近ビデオをまずまず観ている。この前、ビデオ屋が100円セールだったんで5本借りてきた。
『アンジェラの灰』
アラン・パーカー監督もやや衰えたものの、それでも毎回テーマ性のある力強い作品を見せてくれる。この作品もなかなか悪くなかった。
世界大恐慌時代のアイルランドの厳しさが伝わってきて。これを思えば今の日本の不況なんてささやかなものだ。
それにしてもロバート・カーライルはダメオヤジをやらせたら抜群に上手い。
『ザ・ディレクター 「市民ケーン」の真実』
テレビ映画っぽいけど、けっこう面白かった。オーソン・ウェルズが『市民ケーン』を撮った時こんなにも苦労したとは全然知らなかった。
ただ、『市民ケーン』はそれほど好きな作品じゃない。ウェルズ作品では『オーソン・ウェルズのオセロ』が好きだ。あれは面白かった。シェイクスピアを題材にした映画の中ではあれがマイベスト。
ゲームの話。
少しゲームは休もうと思ったんだけど、つい「ベイグラントストーリー」を始めてしまった。
かなり評価の高い作品だけあって、序盤からプレーヤーを引き込む力はかなりのものだ。期待しよう。
ビデオはしばらく動きがなかったけど、今日、また一台オークションで落札したのだった。VICTORのHR-V10を2,100円で。
ヘッドがかなりへばっているらしいけど、とりあえず少しいじってみて使えそうならキープして、使えそうもなければ転売ということになる。
このHR-V10は前から欲しかったものなので、届くのが楽しみだ。
ビデオのシステムはAVアンプ(TA-AV500)で一つにまとめたら、とても操作しやすくなって便利になった。配線もすっきりしたし。
これで後からビデオを買い足したり買い換えたりしても大仕事にならずにすむ。
ビデオはそのうち3台体制にする。今は中途半端な故障持ちのものがあるから4台体制になってるけど、ちゃんとしたものなら3台でいい。もしくは3台プラス予備1台体制か。
ただし、3台は絶対に必要だ。2台はダビング用に、もう1台は別の配線に。
*
と、ここまで書いてきて、やっぱり気持ちが乗らない。書きたいのはこういうことじゃない。
不誠実な日記の内容は、不誠実な一日の象徴。
ここは素直に謝って、明日に向かった方がよさそうだ。
ゴメンよ、メンフラハップ。
……。
ふ、古っ……。
それじゃ、また明日!
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今日のための言葉
「でもね、すべてがうまくいかなくなったら、
俺、世界一のラーメン屋になるんだ」 尾崎豊が辻仁成に語った言葉 (『僕のヒコーキ雲』辻仁成著より) |
12月5日(水) 「騒々しい不幸を」 |
時々、自分への信頼感を決定的に失ってしまうことがある。 あなたはそういうことがないだろうか? 私の場合、元々自分への信頼にはっきりした根拠があるわけではないから、信頼が揺らぐのは当然と言えば当然なのだけど、そういう時は失語症の子供の様に言おうとしてる言葉が口から出てこなくなってしまう。何かを書こうとしても書けなくなる。
それは私にとってけっこうつらいことだ。 感情や思考と言葉の距離は10年前に比べたら信じられないくらい近づいた。思いを言葉にできずにもどかしくて仕方がなかったあの頃とは違う。もうほとんど距離がないところまできた。 けど、どれだけ上手に思いを言葉にできるようになっても、決して思いと言葉は重ならない。言葉は絶対に思いを超えられないのだ。
沈黙以外の表現方法を持たない思いというものもある。 *
将来、現在、過去。
どこか一つに重きを置いて生きられれば楽になる。
でも、全部を均等に大切にしようとすると、生きることがとても難しくなる。
過去に悔恨や汚点がなく、将来に希望や目標をしっかり見据えて、現在を充実して過ごしている人なんているのだろうか?
いや、それはいるだろう。世の中にはいろんな人がいて、完璧に近い人間もいる。
でも問題は私自身がそういう万全で隙がなくて過不足のない人生を本当に望んでいるのかどうかということだ。
人は現在だけを生きることができないのだろうか?
分からない……。
いつか、もう少しはっきりする時が来るのかもしれないけど。
今分かっているのは、どんなことがあっても生き延びることだけが正解につながる、ということだ。どんな恥にも屈辱にも罪にも罰にも嘲笑にも耐えなくてはいけない。
今はもう、20代とは状況が違う。
*
絶望には二種類ある。
騒がしい絶望と、静かな絶望が。
あるいは、具体的な不幸と、曖昧な不幸がある、と言い換えてもいい。
私の不幸はいつだって、静かで曖昧だ。人はそれを不幸とは呼ばないのかもしれないけど、私にとっては間違いなく不幸に間違いない。幸福や不幸というのはあくまでも主観の問題でしかないのだから。 静かな不幸ばかり続くと、たまには騒々しい不幸が恋しくなる。小舟で漂流してしまった人間が嵐を待つように。
私の一番の不幸は、全力で闘うべき対象を持たないことだ。
それは、現在を生きる人間共通の不幸かもしれない。
*
私は悲しい人間で、悲しみに耐えられる人間でもあるから、知り合いの中で一番最後まで生きていよう。
それが悲しみに強い人間の役割だと思うから。 人間に与えられる最大の罰は、死でも消滅でもなく、永遠の命だということを知っているだろうか?
*
私は幸福になりたいわけじゃない。この世界が私に与える役割を知りたいのだ。
参加することは許されていても、何のポジションも与えられないのでは何をどうすればいいのかさっぱり分からない。
猫じゃあるまいし、ただ存在してるだけでいいってことはないだろうに。
それとも、この世界には監督など存在しないというのか?
*
どこまで行けばいいかって?
そんなの決まってる 行けるところまでだ。 私たちは、帰る家を失った旅人だから、行くしかない。どこかに向かって。
新しい家は、行き着いた先で造ればいい。 行き止まりなんて、ない。 行き着いた先が、この旅の目的地だ。
*
愛は特別なもの。 特別なものが永遠に続くなんて考える方がどうかしてる。 永遠に輝くものなど何一つありはしない。
そして人間は永遠を愛せない生き物だ。
変化こそが人間、いや生命の本質だから。
*
*
*
12月が着実に減っていく中、まだ動き出せないでいる。気持ちがどうしても上昇しないのだ。
足が前へ出ない。吊り橋を恐れて渡れない人のように立ちすくんでいる。 このままでは元旦のひとり海中水泳の刑が現実のものとなりかねない。まずい。それだけは避けなくては。
なんとか最後までに帳尻を合わせよう。
昨日は妙に眠たかった。あまりの眠たさにいつもより2時間も早く寝たにもかかわらず、起きたらいつもより1時間遅かった。なんてこった。アインシュタイン先生と同じ10時間睡眠になってしまった。こりゃいけない。
今日はまた7時間睡眠に戻さないと。
その長時間睡眠の影響からか、夢にパパイヤ鈴木が出てきた。
よりによってパパイヤって……。
何故かパパイヤ鈴木の家にお邪魔していてもう帰るってところから夢は始まったのだけど、パパイヤ鈴木が空港まで車で送ってあげるよというのでパパイヤ運転するグレーの地味な自家用車で送ってもらった、という実に内容のない夢だった。
しかも、車の中では共通の話題がまったく見つからず気まずい雰囲気で、ああ、なんか話さなきゃー、と思って焦っているという。
最近どうも自分の夢の内容に納得がいかない。なんというか、日頃考えてることや想像してることと夢の内容がまったくかけ離れていて接点が見いだせないから。
前はもっと日常の影響が強くて、内容もああなるほどあんなことがあったからこんな夢になったんだなと納得できたのに。
もしかして、牛肉食べ過ぎだろうか? *
ゲームは「リリーのアトリエ」がとうとう終わってしまった。
エンディングも何種類か見たし、作り出せるものも全部作ってしまった。もうこれ以上やっても繰り返しの部分が多くなるからやめる。すごく楽しいゲームだったから終わるのが惜しいのだけど。
それにしてもこれはいいゲームだった。アイディア、オリジナリティ、キャラクター、ストーリー、ゲーム時間、バランス、すべて申し分ない。傑作と言っていいだろう。
PS2のマイベストテン作品に間違いなく入る(他は、「ファイナルファンタジー10」、「はじめの一歩」、「鬼武者」、「ガングリファン・ブレイズ」、「三國無双」、「エクストリームレーシングSSX」といったところか)。
ここでちょっとゲームは減らす。「リリー」にかなりかかりきりだったから、少しの間休憩だ。
次は「ベイグラントストーリー」が後ろに控えてる。 *
なんにしても自分の中のネガティブな部分を過大評価しないようにしようと思う。
脳天気が正しいとは思わないけど、のんきに陽気にいきたい。
そして、何度でも自分でこう言い聞かせなくてはいけない。
悩むな、考えろ、と。
そう、悩むだけでは何も問題は解決しない。問題の解決策を考えるのだ。
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今日のための言葉
「黄金を創るより始まりを創る方が大切」
ゲーム「リリーのアトリエ」より
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12月2日(日) 「善+悪=人」 |
絶望の言葉を発しなくなったからといって絶望が消えたわけじゃない。 絶望は様々に形を変え、見え隠れしながらどこまでもついてくる。 絶望に捕まりそうになった時は、決して立ち止まってはいけない。止まったら捕まる。動き続けなくちゃいけない。
絶望は動き回ることで振り落とし、振り切るしかないのだ。
でも、絶望が追いかけてくるスピードはそんなに速くはない。だから、止まりさせしなければ捕まることはないだろう。
もし絶望のスピードが人間の歩く速さより速かったら、もうとうの昔に人間は滅んでいる。
*
人や物事を見透かすのはたやすいことだ。ある程度生きて、意識的に思考する訓練をすれば誰にでもできる。 でもそこで止まったら何にもならない。見透かしていい気になってる場合じゃない。そこから一歩踏み出さなければ、たとえすべてを見透かしたとしても何の意味もないだろう。
一歩前へ進むために必要なものは何か? それは愛だ。対象に対する愛だけがもう一歩のための力になる。
愛を持って言葉をかけ、行為すること、それが見透かした次にやるべきことだ。 愛は恋愛だけじゃない。人はもっといろんなものを強く深く愛すべきだろう。照れたりせずに。
愛がすべてだとも一番大事だとも思わないけど、それにしても愛が足りない。この世界に対しても、人に対しても、生きるということに対しても。
親や学校の教育というのは、子供に愛すること教えることだと私は思う。
*
善と悪と両方の要素を持たない人間はこの世に一人もいない。皆、善の部分と悪の部分でできている。
その中で大事なのは、自分の中の悪をきちんと自覚した上で善を行うことだ。悪を知らない善行はほとんど意味を持たない。 人間は善を表現することもできるし悪を表現することもでる。誰もが皆そうだ。 善人や善行が偉いのは、悪を行えるのにあえて善を行うからだ。不自然なことだからだ。 人間が最初から善しか行えないのなら善行は当たり前の行為ということになり、誰もそれを誉めたりはしないだろう。 完璧な善人も完璧な悪人も存在しない。善の部分を表現する人間と悪の部分を表現する人間がいるだけだ。 性善説と性悪説の議論も意味がない。
*
一番よくないのは、イメージが足りていないということだ。
だから、目標と達成があやふやになって達成感や満足感が得られないのだろう。そうやって毎日が滑っていってしまう。 もっときちんとしたイメージを確立する必要がある。毎日のイメージ、今年のイメージ、人生のイメージ、と。
たとえば、字が上手に書けないのは二種類の原因があるという。一つは正しい字のイメージを頭の中に持っていないことで、もう一つはそのイメージを正確に手で再現できないことだそうだ。
なるほどと思う。これはその他いろんなことにも当てはまるだろう。
まずは正しいイメージを持つこと。そうすればあとはそのイメージを正しく再現するだけだ。
イメージに自信が持てなければ書き出すのもいい。やるべきことを箇条書きにして、それを実行したら消していくのだ。書き出す内容さえ正しければ正しい過ごし方ができるに違いない。
* *
*
12月も油断してるとこのままなし崩し的に終わってしまいそうだ。それは避けたい。
なんとか、自分への期待感がなくなってしまわない程度にはやるべきことをやらないと。
基本姿勢としてなるべく動くこと。必要以上に。
12月は他の月と一緒の過ごし方をしてはいけない月だ。
もし、何もしないまま12月を終えてしまったとしたら、元旦の日に内海海岸で「一人寒中水泳の刑」に自らを処そう。
……。
考えただけでも気絶しそうだ。
張り切っていきましょう。
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今日のための言葉
「いろんなことがあるけれど、私はまだ人間は心の底では善良なのだと信じています」
アンネ・フランク
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12月1日(土) 「12月は物憂い始まり」 |
夜中、ふと月を見ようとベランダに出てみると、12月とは思えないほど頬に触れる夜風はぬるかった。 しかし、夕方雲の間から顔を見せていたおぼろ月はどこかに隠れてしまったようだ。
家々の明かりもほとんど消えた金曜日の深夜2時、公園にも道路にも人の姿も声もなく、犬の鳴き声も聞こえない。時より遠くを車が走り去る音が微かに聞こえるくらいだ。
月を見るのはあきらめて部屋に戻ることにした。 部屋の中では私がキーボードを叩く音と、VAIOのファンの音と、熱帯魚のポンプの音が、深夜の静寂を揺らしている。 蛍光ランプの近くを名もない小さな虫が音もなく円を描くようにくるくると飛び回っている。私の殺意を誘うように。
静寂と物音と闇と光が絡み合い、深夜は夜明けに向かって少しずつ深まってゆくのだった……。
* 12月は物憂い始まりだった。 大きな感情の起伏も揺れもなく、予定していたことが淡々と片づいていき、良くも悪くもない一日が今終わろうとしている。幸福でも不幸でもなく。
今日は何かを考えたい気分じゃない。考えるべきことはたくさんあるけど、今日は何を考えても上手く考えられそうな気がしない。そういう日がある。1年の中で100日くらい。
それでも無理矢理考え事をできる日もある。100日の中の90日くらいは。
でも今日は残りの10日に分類される一日だ。何も考えられない。思考が固まった水飴のようだ。
少し寝不足かもしれない。できればこのまま眠ってしまいたい。
秋の遠出はついに実現しないまま季節は冬に入れ替わってしまった。私の秋はどこへ行ってしまったのか。
2001年の秋は個人年表に書かれる出来事が一行もない秋だった。
2000年の秋はたくさんいいことがあったのに。
この冬はどうやって過ごそうか。
そういえば正月は帰郷しないことになりそうだ。少し気が楽になったけど、でもやっぱり寂しい。正月は故郷で過ごさないと正月気分に浸れないから。家でいくらお節料理や雑煮を食べても、それは正月のまねごとに過ぎず、本物の正月ではない。
2002年の冬を私は記憶に刻めるだろうか?
*
深夜を一人で耐えきれないほどの寂しさに耐えながらじっと生きている人のところを世界中一軒ずつ回ってしばらくの間そっと抱きしめる、という職業がこの世にあってもいい。男と女それぞれに。
大人のためのサンタクロース。
そんな存在をあなたは信じられるだろうか?
私は信じてもいい。
あるいは、なれるものなら自分がなりたいくらいだ。
でも、それはもしかしたら世界で一番忙しい職業かもしれない。
*
人は何かを一つあきらめるたびに大人になり、強くなり、優しくなり、そしてくたびれる。
強く優しくなることはいいことだ。でも、若さや元気を失ってまでも優しくなる必要があるんだろうか?
時々よく分からなくなる。
今までたくさんのことをあきらめてきた。そうやって前へ進んできた。いや、そうしなければ前へ進めなかったと言った方がいい。
それは正しいことだったのか? もし、あきらめなければどうなっていたんだろう?
今となってはその答えが出るはずもなく、問い自体虚しいけれど。
ここまできたら最後まで見極めるだけだ。あきらめ切った先に何があるのかを。
*
そろそろ電池切れだ。頭の動きが鈍くなってきた。昨日は充電が足りなかった。
明日は少しゆっくり眠ろう。大きな予定もないし。
ただし、もっと張り切っていこう。憂鬱なんか蹴っ飛ばして。
12月はまだ始まったばかりだ。
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今日のための言葉
「冬が来れば夏を待ち、夏が来れば冬を恐れる」
映画『海の上のピアニスト』より
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11月29日(木) 「可能性という救い」 |
夕方から降り始めた雨は深夜になっても降り止まず、静かに紅葉した木々や秋の街並みを濡らし続ける。 秋の雨……。それは何の意志も持たず、ただ淡々と降りしきる。強すぎず、弱すぎず。
人々の記憶も、ドラマも、過去も未来も、想いも言葉も、すべてを封じ込めてしまおうとでもするかのように。
見上げれば夜空には月も星もなく、ただ天から雨が降ってくる。不幸でも幸福でもなく。
秋の夜の雨は、何を考えているか分からない無口な女みたいだ。
*
破滅の足音を聞こうと、耳を澄ましてみる。目を閉じて、意識を集中して、周囲をうかがう。。
でも、どうやっても聞こえない確かに破滅は近づいているはずなのに。
きっと、破滅というやつは足音も立てず、そっと背後から忍び寄るのだろう。死角から。 頼りは反射神経だけだ。一瞬でかわせれば勝ちだし、かわし損なえば負けになる。私はかわしきれるだろうか。
けれど、忘れてはいけない、最大のピンチこそが最大のチャンスだということを。破滅を利用すればいい。
*
人生は多忙さを競うゲームじゃない。
忙しいとなんとなく優越感があって、暇だと罪悪感を持ってしまうものだけど、判断の基準はそんなところにはない。
忙しいことは良いことだし、悪いことでもある。あるいは、忙しいことは良くないことだし、悪くないことだと言った方がいいか。
いずれにしても、忙しかろうが暇だろうが、大切なのは自分自身の充実感と、他人にどれだけのものを与えているかということだ。
それだけはいつも意識して忘れないようにしないといけない。忙しかろうが暇だろうが。
多忙はやるべきことをやらない言い訳にはならないということも。 *
人は後悔したい生き物なんだと思う。後悔したくないと思いながら、後悔しないと納得できない部分もあって、だから、あえて後悔する選択をしてしまいがちだ。
結局、人は後悔が好きなのだろう。実は不幸も嫌いじゃないように。
恋愛に関しては特にそうだ。
後悔こそが記憶になり、思い出になるからかもしれない。
*
人は、この世界や生きることが自分に与えてくれる可能性を最後まで信じたいと願う。
可能性がなくなって行き止まりになることが恐いから。
だから、決定を先延ばしにしたり、結論から逃れようとしてしまう。
そして、一つの結論が出てしまったと気づいた時、より大きなものや無限のものに可能性を求める。逃げ道として。
神や宗教や宇宙や死後の世界なんかもそういう意味合いがかなり強い。
つまり、終わりがないものやキリがないものにすがって安心したいのだ。誤魔化しだと分かっていても信じずにはいられない。
私も多分にそういう傾向がある。
そのことが悪いことなのかどうかは今の私には判断がつかないけど、そういう心理だけは理解して自覚しておくべきだろう。
人間はいろんな種類や大きさの檻に閉じこめられている。でもその多くは目に見えない。だからさほど不安にも恐怖にも感じずにすんでいる。
けど、目に見える檻に閉じこめられたとたん、不安になり、恐怖を感じる。家の外に出られなくなった時や、刑務所に入れられた時や、外国から出られなくなった時などに。
人が正気を保つためには、空間的な広がりが必要だということだ。それがつまり可能性ということでもある。
たとえ閉じこめられたようになっていてもいつでも出ていけると思えば恐れずにすむし、たとえ今つらい日々を送っていても未来に可能性があると思えば不安を感じずにすむ。
そういうことだ。 *
20代の始め、自問自答した一つの問いがあった。
「先が見えないことの不安と、先が見えてしまったことの恐怖と、自分はどちらを選択するか」という問いが。
その時は反射的に、自分は先が見えてしまうことの方が恐いから先が見えないことの不安の方がましだ、と思った。
そして今、私はここにいる。未だに何も見えてないままの場所に。
あれからずっとこの問いを意識して生きてきたわけじゃないし、ほとんど思い出すことさえなかった。でも、今になって思い返してみると、やっぱり私はその選択のままここまできてしまったんだということがよく分かる。
要するに結論を先送りにしてきたのだ。逃げたと言ってもいい。
あの選択が間違っていたのか正しかったのかは分からない。でも、必然的な結果として今の場所にいることは確かで、そのことだけは自覚しておくべきだろう。
なんにしても、私の場合、この先がますます大事になってくる。今までは今までとして、ここからどうにかしていくしかない。
33でまだ人生が決まっていないということは恥ずかしいことだけど、でもそれほど不幸なことではないはずだ。
*
人は、男も女も、男の部分と女の部分で成り立っているのだけど、たとえば風景写真をカメラで撮るという行為は男の部分なんじゃないだろうかと私は思っている。
女ももちろん写真は撮るけど、その対象はあくまでも人物がメインだ。
何故男が風景写真を撮って、女が人物写真を撮るのか?
それは、女がリアルタイムの現実を生きるのに対して、男は過去や思い出の中に生きようとする精神構造によるところが大きいのだと思う。
男は過去を美化しようとする。女よりもずっと強く、意識的に。風景写真というのはおそらくその象徴なのだ。いつかこの風景は思い出になる、そう思って男は風景写真を撮る。未来において、過去を振り返るために。
風景写真を撮る女、それは精神的に男の部分が強い人だろう。
*
私は少し、肯定するのを焦りすぎたのかもしれない。
何もかもを否定していた20代の反動で、何もかもを一気に肯定しようとしすぎた。 猛スピードで肯定して、ふと気づけば他人を置き去りにしてしまっていることに気づいた。独りよがりすぎた。
そして今、自分に対しても説得力を失いつつある。 これはよくない。もう少し肯定のスピードを緩めよう。もっとゆっくりと見極めてから肯定すべきものを肯定しなければ。
否定することを否定してしまっては肯定の押しつけになってしまうから。 *
昔は、もっといろんな人にいろんなことを謝りたい気分だった。親だとか、過去の自分だとか。
でも今はもう、誰にも謝りたいとも思わなくなったし、実際ほとんど謝らなくなっている。
傲慢になったというよりも、謝るということが二重三重の裏切りや否定になることが分かったから。 自分の言動一つひとつに自覚と責任を持っていれば謝る必要もなくなる。 死んだ後、たとえ神様に説教食らったって謝るものか。
今の私が本気で謝る可能性があるとしたらそれは、暴力関係の人の車に後ろから突っ込んでしまった時くらいだろう。いや、もちろんその時は死ぬほど謝ってしまうぞ、私は。
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今日のための言葉
「何一つ確かなものなんてなくなる時は、全てのことが可能性の中にある」
アリス・ジェイムズ
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11月27日(火) 「恋と恋を結ぶ細い吊り橋」 |
生きることは快感の連続だ。毎日の生活もまた。 朝目覚めてから夜眠りにつくまでいろんな快感がある。ほとんどが小さくて、ささやかで、目に見えないものだけど。 生活のシーンのひとつひとつを自覚することで、毎日を生きることがもっと嬉しくなる。全力でそれら一粒ひとつぶを感じなくては。 詩を書かなくても歌を歌わなくてもいい。けど、詩人の心を持たなくてはいけない。 詩人の目を通して見たこの世界は、美しい。人間も、風景も、生き様も。 *
正しいことよりも、人が聞いたり読んだりして気持ちいいことをしゃべったり書いたりするべきだ。絶対的な基本姿勢として。
正しさなんて、自分だけしか幸せにしない。 それと、自分の不快を過大評価しないこと。それをわざわざ表明する必要もない。 確かに不快なことや詰まらないことはたくさんある。でもそれを口にして何かが解決するわけでもないだろう。 もし言いたいのなら当事者に直接言うべきだ。第三者に言って不快を広げるのではなく。 言いたいことを言わないとストレスが溜まると言うけど、その程度のストレスには耐えないほど人の心は弱くない。なんでもかんでもストレスに結びつけちゃいけない。 何か文句を言いたくなっても、その内の3回に1回は我慢してみる。もし全員がそうできれば、この世界もずいぶん住み易い場所になるに違いない。 *
映画の制作費と人の幸福感についてふと考えた。
たとえば制作費100億円の映画が1,000万人の人に感動を与え、多少なりとも幸福な気持ちにさせたとする。 100億円を1,000万人で山分けしたらいくらになるか? 1,000円だ。そう、1,000円にしかならない。今時1,000円もらって幸せになれる人はそうはいないだろう。しかも、金を払って映画を観るような人となればなおさらのこと。 そう考えれば映画の制作費なんて安いものだ。 国会議員が本当に国民の幸せのためだというなら、せめてボーナスの半分は映画会社に渡したらどうだろう。その方がよっぽど世のため人のためになる。 特に日本はもっと映画に金をかけないと。金をかければいい映画になるわけでもないけど、貧乏な映画では人に夢や希望を与えることはできないのだから。 *
恋と恋を結ぶ、細くて危うい吊り橋をひとりで渡っていると、時々もう駄目だと思ってしまうことがある。もうこれ以上歩けない、と。
でも、次の恋に辿り着くためにはどうやってもその吊り橋を渡りきるしかないわけで、ここまでどうにかこうにかやって来た。この先どこまで行けるか分からない。でも行けるところまで行くしかないだろう。 あんまり渡るのが上手くなりすぎるのもどうかと思うけど。 *
私は自分の記憶力の悪さを呪ったことはない。やっかいだと思うことはあるけど、もっと記憶力が良かったらとは思わない。
今よりもっと記憶力が良かったら、生きることがもっと難しかっただろうから。 嫌なことも悪いことも痛みも、全部忘れてしまった。だから今、こうして正気を保って生きていられてる。 それにしても一昨日だったか、風呂上がり、パンツをはこうと思ったらタンスから出しておいた服一式のところにパンツが見あたらなくて、あれれ、ちゃんとパンツも出したはずなのにないではないか、一体どこに行ってしまったのだと、1分ほど探し回った後、すでに自分がパンツをはいているのに気づいた時はさすがの私も驚いた。 そろそろ外出の時は胸に住所と電話番号を書いた名札を付けておかないといけないかもしれない。 *
*
*
今日は楽すぎて拍子抜けしてしまって、最後までスピードが上がらなかった。ギアの調子の悪い車を運転してるような感じ。
でも、やっぱり北陸は雪だったり凍結だったりだったらしいから、のこのこ出掛けていかなくて正解だった。インテグちゃんもろとも日本海の藻屑と消えるのだけは勘弁して欲しい。
もしかして、このまま本格的な冬に突入してしまうのだろうか? 木曜日だけ運良く暖かいといいのだけど。
ただ、今回の遠出はだんだん気持ちがしぼみつつあるから、行けないかもしれない。体調がやっぱりちょっとおかしくて、12時間ドライブをする自信が持てないのだ。もう少し近場にしておいた方がいい気がする。
ま、明日の気分次第で決めよう。
*
ビデオで『ヤンヤン夏の思い出』を観る。
どうも私はエドワード・ヤン監督とは相性が悪いようだ。今まで4本くらい観てるけど、どれもさっぱり分からない。どこがどう良いのか。
今回も例外にはなれなかった。 視点が移動しすぎて、なんともとりとめがない。もう少しヤンヤン少年の視点を中心した方がまとまったんじゃないか。
部分的に良いところもあったので惜しい。
やっぱり私はホウ・シャオシェン監督の方が好きだ。
*
ゲームは「リリーのアトリエ」が一応終わった。納得のいくエンディングだったから本来ならここで終わらせるところだけど、まだやりたい気持ちが強いのでもう一度最初から始めた。今度はもっと丁寧にプレイしよう。今回ですっきり終われるように。
もう一本やってるゲームはPS2「Jリーグウイニングイレブン5」だ。
これは絶賛する人も多いのだけど、私はどうも納得がいかない。確かにかなり現実のサッカーに近づいてはいるけどまだ甘い。
ドリブル突破がそう簡単にできないのは正しい方向だと思う。それはいい。でも、ボールのない場所での選手の動きーーボールへの寄せやスペースへの走り込みなどーーがあまりにも現実離れしていてイライラしてしまうのだ。自分でコントロールできない部分だから、どうにももどかしい。
これはプログラムの技術の問題ではない。制作者が実際のサッカーをよく知らないからだ。プロデューサーに問題があるのか、プログラマの問題なのか、その両方なのか。
プロ選手かそれに近い人間が制作の時にアドバイスしてると思うんだけど、何故こんなふうになってしまうんだろう。不思議だ。
このシリーズをプレイするたびに、ああ、私が制作者チームに入ればもっと完成度が上がるのにー、といつも思う。
入れてくれないかなぁ、ホント。
*
昨日の夢も楽しくなかった。母親が頭のおかしい乱暴者に命を狙われている、と誰かが私に知らせに来て、大慌てで母親のいるところに向かいながら、そいつをなだめて説得すればいいのか、闘わないといけないのか、その時の武器は何にしようか、もし殺してしまったらどんな罪になるんだろうか、などとずっと思い悩んでいる、という夢だったから。
どうも最近夢の質が極端に落ちている。もう少しまともな夢が見たいものだ。
夢の係りの人がいるなら、今日こそ、もうちょっと色っぽい夢をリクエストします。 =================
今日のための言葉
「映画が発明されて人生は3倍になった」
映画『ヤンヤン夏の思い出』より
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11月26日(月) 「そう、切なさ、だ」 |
こうして早朝に日記を書いているということは、明日(火曜日)のロングドライブは中止になったということだ。 早寝に失敗したから、ではない。
北陸は雪、だそうだ。 今回のロングドライブのタイトルは、「福井リベンジ、西へ」で、敦賀から西へ行けるところまで行ってみようというものだった。できれば天橋立まで。
でも雪と言われてしまった日にはもうお手上げだ。太刀打ちできない。
ということで延期に。
次は木曜日の予定。
日記といえば、さっき途中まで書いて、ちょっとサイト巡りでもしようかと思ってブラウザを開いたとたんにマシンが勝手にすべてをシャットダウンして、日記はきれいさっぱり消えてしまったのだった。1時間かけて書いたのに……。
失うことと得ることの定めと生きる道について、本読みについて、ダウンタウンの松っちゃんと一緒の布団で寝て東京見物した夢について、などなど書いたのだけど。
それらは焼けた金閣寺の様に消えてなくなってしまった。再建には時間がかかる。
ということで、この二度目の日記は簡単に短く。
今日、一つ大きな収穫があった。
それは、私がいつも探し求めているのは「切なさ」だということがはっきりと分かったことだ。
そう、私は切なさが好きで、いつも切なさを探していたのだ。気づいてみればその通りなのだけど、今までなんとなくもやもやしてはっきりせず、切なさという言葉を自覚できないでいた。でもこれで目的地と目的がはっきりした。明日からはもっとすんなり探しているものを見つけられるだろう。いろんな場所で。
切なさというキーワードを見つけたこと、それが今日最大の収穫。
明日は普通の一日になるだろうけど、木曜日のロングドライブを実現させるためにしっかりやるべきことをやっておくこと。
毎日怠けようと思えばいくらでも怠けられるけど、何かをしようと思えばやるべきことに事欠くことはない。
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今日のための言葉
「せつなさの扉を開けて
知らない街を歩こう
これから始まるのは
あの日の続きじゃない
次の物語」
Sentimental Graffiti Tears「雲の向こう」より
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11月25日(日) 「過去の自分は今の自分の偽物」 |
生きるほどに嫌いなものが少しずつ減っていくのを感じている。 自分についても、今住んでいる名古屋についても、生きることに関しても、食べ物にしても、嫌いなものや苦手な部分がだんだんなくなっていく。悪い病原菌が駆逐されるように。
病気が目に見えて治っていく時のように嬉しい。
この調子でいけばそのうち嫌いなものなど一つもなくなって、いつか心は完全な健康体になるかもしれない。 1,000年くらい長生きすれば。 *
この世界を住み易い場所にする一番手っ取り早い方法は、とりあえず無理矢理にでも全員の知的レベルを底上げすることだ。理屈抜きに。
人間は愚かな方に流されやすいし、愚かな人間の影響を受けやすい。それが自然な姿だ。
でも、愚かさは強引な手段を使ってでも否定し、打ち負かさないといけない。
賢くなれば幸せになれるわけでもないし、この世界の問題が解決するわけでもないけど、とりあえず今の知的レベルは低すぎる。
最低でも、戦争は愚かな行為だからやめておこう、と全員が当たり前に思える程度まで知性を引き上げないと、このままではろくな未来にはならない。
今一番やるべきことは、教育に金と時間と労力と人員をつぎ込むことだ。経済の問題なんて本当はそれほど優先順の高いものじゃない。みんなが明日の金に困っているわけでもあるまいし。
教育こそが遠回りに見えて実は一番の近道なのだ。
*
固定観念というのはとても硬いものだから、根気よく壊していかないといけない。ちょっとやそっとでは壊れない。
ひとつずつ、確実に。ノミとカナヅチで少しずつ削るように。
固まった観念は絶対に正しい姿をしていない。思考は自由自在に姿形を変えられるくらい柔らかくないと。
*
*
*
北村薫の『ターン』読了。
北村薫の作品の中で初めて詰まらないと思った。10冊くらい読んだ作品はどれも面白いと思ったのに。
どうもこの作品の主人公に共感できなかったのが一番の原因だろう。性格も思考回路も好きになれなかった。
でもこれで北村薫作品が嫌いになったわけではないはずだと思うけどどうだろう。 少しズレが出てきたのは感じる。文章も以前感心したほどには感心できなくいなってしまった。
レトリックがあざといというか、くどいというか、幼い。それが持ち味ではあるんだけど、ちょっとやりすぎに思える。 とりあえず北村薫作品はここでいったん中断しよう。また他の作家を開拓していかないと。
*
ミスター・チルドレンのベストアルバム「1992-1995」を借りて聴いてみた。ドラマ「アンティーク」に刺激されたこともって。
でも駄目だ。もう乗れない。ミスチルはあの頃の私のための音楽だったけど、今の私のための音楽ではない。
懐かしさはあるものの、それ以上に古めかしい感じがしてしまう。かといって懐メロでもない。味がなくなったチューインガムみたいだ。
やはり私の中でミスチルは、アルバム「ATOMIC HEART」で頂点を迎え、そしてそこで終わったのだろう。
それにしてもまさかここまで自分の中でミスチルが急激に色褪せてしまうとは思わなかった。
*
ゲームは「リリーのアトリエ」をやっている。これがもうとっても楽しくて止まらない。自分にストップをかけないと何時間でもやり続けてしまう。
PSで第1作「マリーのアトリエ」をやった時も楽しかったけど、この3作目のPS2版「リリーのアトリエ」はそれ以上だ。とにかく面白い。
内容は、錬金術師の女の子が先生や弟子と一緒に新しい街にやって来て、そこで錬金術の研究をしていろんなものを実験で作ったり、街の人と交流したり、街の外で実験のための材料を収穫したり、そこで敵との戦闘があったり、その合間に様々なイベントがあったりと盛りだくさんで、しかも複雑すぎず簡単すぎないバランスがまた絶妙なのだ。
どのジャンルにも属さないゲームだからちょっと手が伸びない人もいるかもしれないけど、一度やればその楽しさがきっと分かるはず。
ゲームが上手じゃない女の人も、どの年齢層も遊べるゲームなので、強くおすすめしたい。いや、ホント、いいゲーム。
思えばずいぶんたくさんのゲームをやってきて、延べ時間もすごいことになっているだろう。ほとんどゲームで人生の5分の1は棒に振ってるかもしれない。
でもいい。ゲームからたくさんのことを得られたから。
そのうち、ゲームコーナーのページも作ろう。自分が遊んできたゲームの記憶を整理するためにも。
マイ・ベストはセガ・サターン版の「サクラ大戦」で動かない。
*
ゲームの整理もしなければいけないことの一つだけど、もう一つ、ドラマの整理もしたいとずっと思ってきた。
ドラマ、特に日本の連ドラは私にとってとても重要なものの一つで、映画より好きなのだから、当然何等かの形でまとめないといけないだろう。
それで、とりあえずドラマ関係のML(メーリングリスト)に入ろうと思って探してみたんだけど、これがどうにも見つからない。何かのドラマ限定MLだったり、それらしいのがあってもネタが続かないのか停止状態のものばかりだ。
こうなったら自分でMLをやるしかないか。面倒だからあまりやりたくはないんだけど、ひとりでまとめるには記憶力に問題がありすぎるから。
まあ、そのうち気が向いたらだけど。
でもなんでドラマMLはあんなに少ないんだろう。映画MLに比べて圧倒的に少なすぎる。
もちろん世界規模のものじゃないし、作品数も少ないんだけど、それにしてもまともな連ドラMLが一つもないなんて、納得できない。
みんなドラマ観てるし、ドラマについて色々しゃべりたいと思ってるはずなのに。
*
行動強化週間だったはずの今週だけど、終わってみれば後半の失速ぶりははなはだしかった。なんてこった。
やっぱり普段一週間で一番活発な金曜日が祝日で動きが止まってしまったのが痛かった。しょうがない。この借りは来週返そう。
気づけば来週は11月最終週だ。12月になってしまえばあれこれ不測の事態も起こってきて、自分の意志ですべての時間をコントロールするのも難しくなる。自由に動けるのは来週いっぱいだと思っておいた方がいいだろう。 できればロングドライブを実現したい。ちょっと体力的にも精神的にも自信が持ちきれないのだけど、でも行くなら来週だ。
ということで、明日は早めの展開と早寝がテーマになる。明日限定のこと以外は思い切って切り捨てていかないと。
けど、私がこの世で最も苦手なのは早寝だから、そう簡単にはいかないだろうな。自由に寝る時間や起きる時間を決められたらどんなにいいだろうと思う。
もし睡眠を自分の意志でコントロールできたなら、私の人生は今とはずいぶん違った形になっただろうに。
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今日のための言葉
「また何処かで会えるといいな
その時は笑って 虹の彼方へ放つのさ
イノセントワールド……」
Mr.Children「innocent world」(桜井和寿)より
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11月24日(土) 「午前3時に見る夢」 |
午前3時に眠りながら夢を見る人間と、午前3時に目覚めて夢を見る人間とでは、どこかが違っている。 そう、たとえば引きずる影の濃さみたいなものが。
静寂を持つのと持たないのとでは、瞳の深さも違ってくる。 深夜の中では悲しみがゆっくり深まるから。
真夜中には宇宙があり、真夜中を生きる人間は宇宙を知る。
太陽の下よりも闇の中の方がよく見えるものもある。
午前3時、それは眠ってしまうにはもったいないほど贅沢な時間。
*
何かが起こるのも巡り合わせならば、何かが起こらないのも一つの巡り合わせ。
たぶん、人生の半分は目に見えない。 *
思い出は、生きることによって得られる褒美だ。生きなければ絶対に手に入らない。
そして、生き抜くことでそれを楽しむことができる。 思い出がいかに大切なものなのかということが、最近ようやく分かった。 「人は思い出を作るために生きているわけじゃないだろう」と若い私は日記に書いた。 でも今はこう思っている、思い出が多い人間の勝ちかもしれない、と。 * 自由は意識しないと自分のものにはならない。
自由はいつでもどこでも、目の前にすでに存在しているものだから。
あとはそれを意識して自分のものにできるかどうかだけだ。気づかなければ永遠に気づかない。
自由は黙っていても懐に飛び込んでくるようなものじゃない。
そして、手に掴めるものでもない。
目を閉じて想像するものだ。
*
本読みは歩きで、映画は電車、ゲームは車だ。
それがそれぞれのスピード感。 本は自分の意志で追いかけるしかない。それが歩きに似ている。
映画はとりあえず2時間だまっていてもじっとしていても終点まで自分を運んでくれる電車と同じ。
ゲームは自分の意志でスピードと目的地を決めて自由にコントロールできる車のようなもの。
最近の私は、めっきり歩くことと本読みができなくなっていた。両方とても苦痛に感じてしまって。
それはやはり映画とゲームの楽さとスピード感に慣れてしまったからだろう。歩きも本読みもまだるっこすぎる。
けど、ここに来て、少し風向きが変わってきたのを感じる。また少し本が読めそうな気がしてきたのだ。まだはっきりと感覚が戻ったわけではないのだけど、その予感はある。
きっかけになったのは、映画『冷静と情熱のあいだ』だ。
この作品があまりにも良かったので、原作を読んでみようと思ったのだ。それが一つ、本読みに気持ちが向かうきっかけになった。
もう一つは、ネットの知り合いが本を送ってくれたのだ。別にお願いしたわけでも、そういう話をしていたわけでもなく、古本屋に持っていったら買い取り価格が10円だったんでそれなら私に読んでもらおうと思いついて送ってくれたのだった。
こういうふうに小さな支流がふいに一つの大きな流れになることがある。 送ってもらったのは、宮部みゆき「平成お徒歩日記」という文庫本で、今日届いたので早速読み始めた。 そしたらこれが滅法面白くて、3時間くらいかけて一気に最後まで読んでしまったのだった。 この2年、ほとんどまとまった本読みをしてなかったにもかかわらずここまで読ませる宮部みゆきも大したものだけど、それだけはなく、やっぱり本読みに気持ちが戻っていることが大きいのだと思う。
この勢いを消さないように、続けて宮部みゆきの「東京下町殺人暮色」を読み始めた。
もう2年くらいかかっている北村薫の「ターン」も再開した。 本を読むことの意味ってなんだろう?
もちろん、自分を豊かにするためとか、面白いからとか、ただ単に読みたいからとか、色々理由付けはできる。過去の私はそんな理由さえ意識しないまま読みまくっていた。
けど、ある時、ふいに読めなくなってしまったのだ。今まで好物だったものが急に食べられなくなってしまうことがあるように。
ある時はっきりと、あっ、読めない、と分かった。
それから完全に私は本を読まない人間になった。いつかまた読めるようになるかもしれないし、このままずっと読めないかもしれないと思ってここまできた。
あれから2年。そろそろ読み始めてもいいだろう。禁煙してるのとは違うんだから。
本を読むべきか読む必要はないか、という問いの答えは昔も今も変わってない。
本は無理に読む必要はないけど読めるものなら読むに越したことはない、それが私の結論だ。
本を読んで賢くなることはなくても、本を読んで愚かになることはないのだから。
宮部みゆきの「平成お徒歩日記」を読んでまた東京を歩きたくなった。江戸の名残を探しながら。
一昨年、朝の6時に新橋から銀座を通って東京駅まで歩いたことがある。その時の景色の断片がいくつも甦った。
あの時は風邪でフラフラだったけど、10月の朝風が気持ちよかった。それもよく覚えている。 またいつか、東京を歩こう。本を読むように、自分の足でゆっくりと。
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今日のための言葉
「よく耳を澄ませると、そこにはいつも、蕭々と孤独の風が吹いているのが聞こえるのです。
その孤独の風は、人けのない山中の森の奥深くで、梢を鳴らし、夜空に月を凍りつかせてしまう. ――というタイプの風ではありません。それは、常に人のあいだを吹き抜けている風です。書類を抱えてビルの谷間を歩くとき。早朝のプラットホームで通勤快速を待っているとき。出掛けるあてもない休日、一人きりでぽつりとしていて、部屋の空気を入れ替えようと、なんとなく窓を開けたとき。そんなとき、貴方の、貴女の、君や僕の肩の上を吹き抜けてゆく風なのです」 宮部みゆき
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11月22日(木) 「思い出が、ひろ転がり」 |
誰にでも罪滅ぼしの方法がある。 罪からは逃れられなくても、罪と闘う術はある。
人それぞれ、合った闘い方が。
私の場合、それは書くことでしかない。
罪を言葉に換えるのだ。
*
強いだけの人間はいないし、弱いだけの人間もいない。
誰もが強さと弱さの両方で成り立っている。
大切なのは、強くあるべきところを強く、弱くあるべきところを弱くあることだ。
逆であってはならないし、弱さや強さに甘えてもいけない。全面的に強くなるのも間違いだ。
*
人間を超えたいと夢想したこともあったけど、今は人間を極めたいと思うようになった。
ここではないどこか、みたいなものをずっと探してきたけど、ここでできる精一杯をやってみようと今は思っている。
きっと、昔よりも人間や生きることを愛せるようになったからだろう。
*
*
*
今日は今週の中で一番大事な一日、という位置づけだったけど、終わってみれば可もなく不可もない一日だった。予定のことはこなしたけどそれ以上は何もできなかった。
そして今、眠くて思考が止まりそう。もう寝よう。
*
今日は、思い出がひと転がりした日。
淡い期待は無言によって打ち消され、一つの思い出が完結した。
そうやって人生は、何度も幕を下ろしながら次の章へと移ってゆく。
笑いと涙を交互に繰り返しながら……。
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今日のための言葉
「大切なのは、弱さ故の向上心」
高屋奈月『フルーツバスケット』より
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11月21日(水) 「生活という作品」 |
目の前が末広がりの時は、たとえ何も持っていなくても恐くはない。 けど、目の前に広がる可能性が平行になり、やがて先細りに転じた時、人は何を持っていても不安になり、恐くなる。 人は可能性や希望がなくなることを何よりも恐れるものだ。
恐いのは今日の不幸じゃなく明日の不幸だ。
だから、逆に考えればいい。可能性さえあれば恐くないのだから、常に可能性を広げることを考えればいい。
時には、決めないことや選ばないことで恐怖を先送りにすることも必要かもしれない。自分の心を守るために。
積極的にいくなら、常に新しいものを求めることだろう。新鮮でありさえすればいい。
両側から迫ってくる壁を両手で無理矢理押し広げないと、いつか挟まれて前へ進むことさえできなくなってしまう。
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一度やると決めたことは、最後まで、毎日やらなければいけない。
不調の時もあるだろうし、できない日もある。でも、やりたくないからやらないというのはいけない。そういう日を作ってはいけない。
できなくてもやること。
やらなければゼロだけど、やろうとすればゼロではなくなる。それが大事なこと。
一流と二流の違いもこのへんにあるのかもしれない。
二流は感情に負けて時々休んでしまうけど一流は感情を殺して休まない。そのわずかの差がやがて埋められないほどの溝になる。
昔、田村亮子が言ったことがある。
「一番になるためには一番練習しなくちゃいけない」と。
いい言葉だ。
アイルトン・セナは誰よりも遅くまでサーキットを自分の足で歩いていたし、イチローは試合の後毎日深夜2時まで練習してるし、タイガー・ウッズはトーナメント当日でも朝の5時からコースをランニングしている。
偶然の天才というものは存在しない。
*
今日を生きる意味は、昨日よりも良い一日を生きるためだ。
毎日新しい作品を作っているんだということを自覚しなければいけない。毎日一から作り直している。だから、当然、昨日よりも出来の良いものにならなければおかしいはずだ。理屈では。
それができていないとしたら、より良くしようとする意志が欠けているからだろう。毎日同じ料理を何も考えず同じ手順で作っていたら、いつまでたってもその料理は進歩しないのと同じことだ。
より良くする工夫をしなければ。いくらでも改善の余地はあるのだし。
生活は流れ作業ではない。自分の持っている誇りと才能と情熱のすべてを注ぎ込んで作る作品だ。作品作りは芸術家や職人だけのものじゃない。
そういう気概を持って毎日を過ごしていれば、いつの日か、完璧な一日を持つこともできるだろう。
*
慰めは必要だ。でも慰めはいらない。
この先で人間にとって必要なのは、宗教のような慰めではなく正確な現実の情報だ。
ただ、本当に厳しいこの宇宙の事実を受け止めるためには、人間はもっともっと強くて賢くならなければならないだろう。今のままではまだ受け止めきれないだろうから。
本当の現実というのは、それはもう滅茶苦茶に厳しいに違いない。人間が想像することなど不可能なほど。
一体どうすれば人間は、1000億×2000億の星の前に対峙することができるようになるのだろう? この150億年かそれ以上の時の歴史の中で。
まだ気が遠くなるほど先の話を私はしてるのかもしれない……。
*
私という存在がひとかけらの正しさも持たない存在である可能性は大いにある。
でも、実質的にその可能性はないのだ。
つまり、世界にとって私が無意味なら、私にとってもそんな世界は無意味であるから。
私にとってこの世界は大いに意味のあるものだ。ということは、世界にとっても私というのは同じだけ意味があるということになる。世界と自分は鏡の関係だから。
できるものなら、もっと具体的に世界の役に立ちたいと思うし、意味も持ちたい。
私がこの世界に対してできることって何なんだろう?
*
あなたは今年、どれくらいの涙を流しただろう?
涙の量がいつもの年より多かったなら、それは起伏の多い良い年だったということになる。
涙の量がいつもの年より少なかったら、それは退屈で駄目な年だったということだ。
たくさん泣いてたくさん笑った年、それが充実した年。
だと、私は思う。
今年の私は、あんまり泣けなかったなぁ。
*
*
*
今日はやや停滞した。ある程度は最初から仕方ないとは思ってたけど、ちょっとルーズになったかもしれない。流れを切るほどではないけど。
大事なのは明日だ。明日で今週の良し悪しが決まる。早めに展開していって、どこまでプラス・アルファを実行できるか。
できるだけ動きたい。
ここ数日ゲームを休んでたら、夜時間ができていい感じだったんだけど、ついうっかりPS2の「リリーのアトリエ」を始めてしまったら、予定を超えて時間を使ってしまった。まずい。
更に「A列車で行こう6」も控えてるし、その上、オークションで安かったら「ベイグラントストーリー」と「バイオハザード3」と「ペルソナ罪」の3本セットを落札してしまったのだった(3,000円)。しかも、それに加えて「Jリーグウイニングイレブン5」まで買ってしまったのだ。うわー、こりゃいかんかも。もうちょっと手加減しないと。
でもまあ、最近はゲームに対する耐性がすっかり弱まってきてるから、これらもちょっとかじって力尽きてしまうことだろう。これだけあってもひと月持たないかもしれない。
ビデオ熱はややおさまってるものの、あれから更に勉強を重ね、詳しくなると同時に欲しい機種も増えてきた。
パナソニックのNV-SB88Wとか、シャープのVC-BS600とか、東芝のA-BS3とか。
まだまだ楽しめそうだ。
システム拡張というか、今の組み方では問題があることに気づいてAVアンプを買うことにした。
色々考えてたんだけど、とりあえず仮システムということで、半分故障持ちの安いAVアンプを落札してみた。
SONYのTA-AV500という古いけどそこそこ良いやつを。
片側のスピーカーからの音が小さくなってしまったらしい。でも、私が欲しい機能は入出力端子のところだから、そこなら問題ないと思う。上手く使えれば1,200円という格安で済むことになる。
*
昨日の夢も詰まらなかった。よく覚えてないんだけど、起きてすぐ、ああー、詰まらなかったなぁと思ったのは覚えてる。残念無念だ。
昔はもっと面白おかしい夢をよく見たんだけど、最近どうも不調が続いている。前は自分の笑い声で目が覚めるなんてこともあったのに。
今日こそはもっといい夢を見てやろう。鷹の背中に乗って富士山の山頂に登り、そこでナスをかじっているような夢を。
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今日のための言葉
「もし僕が練習していなければ、僕は天才でしょう」
イチロー
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11月20日(火) 「秋の夢の終わり」 |
絶望というのは、事業に失敗して何もかもなくすとか、ひとりぼっちで何も持っていないなんてことじゃなく、たとえば、好きな人がいつもそばにいるのに、それでもどこか満たされない気持ちのまま毎日を過ごすようなことを言うのだ。 何かをなくしたとか持っていないことが絶望なんじゃない。欲しいものを持っているのにそれでも満たされないことが絶望なのだ。 私の毎日もまた、絶望に値しない。何も失っていないし、何も得てないのだから。
*
去年の秋に見た夢をまだ覚えている。
正しい夢と間違った夢があるのかどうか。
それは分からない。
でも、醒めた後その夢が正しかったか間違っていたか考えても仕方がない。 確かなのは、夢の中を生きていた間はとても楽しく嬉しかったということだけ。
そして、もう一つ分かっていることは、終わった夢をいつまでも見ていてもしょうがないということ。
また新しい夢を見ればいい。
*
もっと幸福のために。
自分にとって、人にとって、それ以上や以外のものにとって。
追求すべきものは幸福というものの概念などではない。幸福感だ。
どうすれば人は過不足のない幸福感を持つことができるか、それがテーマになる。必ずしも実体を伴う必要はない。幻の幸福感でもかまわない。
幸福感……。要するに、満腹感のようなものだ。そう考えればそれほど難しいことではないと思うがどうだろう。
いつか、その精神的メカニズムが解明される日も来るだろう。
では、幸福感の先に何が待っているか?
それはまた別の物語だ。
*
たとえば世界的ベストセラー本を書くことは正しい。世界的ベストセラー本を書かないより書いた方がましという理由で。
世界的ベストセラー本を書くことで人生が「あがり」になるなら話は簡単でいいのだけど、実際はそんな簡単なものではない。だから生きるのは難しい。
究極的に正しい生き様とはどんなものか、と考えてみる。 簡単に言えば、自分を限界まで満足させ、多くの人を幸せにして、世界をより良く変える、といったところだろう。
でもそんな人間はほとんど存在しない。 どうやっても自分は究極的な正しさを体現できないと知った時、人はどう生きればいいのか?
あきらめるべき部分と追求すべき部分の区別がよく分からない。
正しい人間の見本は、未だ完成していない。
*
論理は骨で、思想は肉で、感情は血。
どれか一つでも欠けたら生きていけない。
感情という血が流れていない論理や思想は死んでるのと同じだ。
人間は偉大だ。けど、感情によって暮らしているんだということを忘れないようにしなければいけない。
脳と心臓の両方がなくてはならないということを。
*
自分に対する他人の評価と自己評価は、近い場所でリンクしつつ、別のものだと思っている人が多いけど、実は最後はひとつになるものだということを知らなければならない。
自分もいつか自分の人生から離れることになる。そうなれば自分の人生と自分は、他人の関係になるわけで、つまり他人の評価は自分の評価でもあるということになる。
他人からどう評価されても関係ない、などという無責任は許されない。
自分に対して誠実であろうとするならば、他人からの評価は大事にすべきだし、他人からいい評価を得られるように努力する必要がある。
他人の評価は自分の評価であり、自分の評価は他人の評価だ。
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誰も満足してないのだから自分も満足できないのは当たり前、という考え方は間違っている。誰も100点取れないから自分も取れなくて当たり前って発想が間違っているように。
満足のイメージがあるなら、それは絶対に実現可能なのだ。人間は実現不可能なものをイメージすることはできないから。
可能なことを最初からあきらめてしまってはいけない。自分だけでも満足できる、そう強く信じなければ。
まずは満足のイメージを完璧にすること。それができれば満足はかなり近い。
けど、完璧な満足のイメージを持つことは難しい。お手本はないし、流動的でもあるから。
それでも最後まで追いかけなくてはならない。あきらめずに。
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*
*
今日も昨日の流れを引き継いで、まずまずの一日になった。
オークションの梱包から発送まで時間内に終わらせ、車のワックス掛け、その他までだいたいできた。
まあいくつかこぼしたものはあったものの、流れを切ることはなかったのでよしとする。
この調子でいけば今週はいい週になるだろう、と思ったら、計算外のことが。金曜は勤労感謝の日で祝日ではないか。なんてこった。あわよくば金曜はロングドライブでも、と思ってたのにこれでできなくなってしまった。平日好きの私が休みの日に遠出なんて考えられないから。
金曜に祝日で動きを止められるのは痛いところだ。これで週末の過ごし方も難しくなってしまった。
ということは、前倒しにしていって、木曜までに今週の予定は全部終わらせないといけないということだ。明日はちょっと動けない理由があるから、木曜がかなり苦しくなる。全部詰め込んだとして、どこまでこなせるか。
まあ、仕方がない。こぼれた分は土曜に回すしかないだろう。
なんにしても、これから年末までは一日もゆるめないこと。少しでも夏、秋の分を取り戻さないといけない。
ワックス掛けその他で体力を使ったからだろうか。また少し体調がおかしい。熱も出てきたし、咳もまた出始めた。まだ完調ではなかったか。
今日は早めに寝てしまおう。
寝るといえば、昨日の夢は、親戚のおばちゃん、おじちゃんと文房具をちょろまかしたのが見つかってどうしようとおろおろしているという、なんともお間抜けな夢だったのを今ふと思い出した。なんだそりゃ?
しょうがないから店に返しにいこうってことになって、車で向かう途中、車をぶつけてしまったり、プールを見つけてちょっと寄っていこうって話になって行ったら何故かそこに知り合いがたくさんいたり、なんだかハチャメチャでとりとめのない夢だった。
最近どうも夢の内容がチープでいけない。もっと高尚な夢が見たいものだ。
そういえば最近、空を飛ぶ夢もまったく見なくなったなぁ。
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今日のための言葉
「時間は夢を裏切らない。そのかわり夢もまた時間を裏切ってはならない」
『銀河鉄道999』より
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