2001.10.25-
11月19日(月) 「心が大揺れの一日」 |
今日はあれこれ観た映画やビデオやテレビに大きく心動かされた一日だった。ちょっと疲れた。いい意味でだけど。 映画に出掛ける前に観た『初恋のきた道』でじいんときて、メンズデーで行った『冷静と情熱のあいだ』にノックアウトされ、夜はドラマ『アンティーク』でしんみりして、続いて『あいのり』がどーんと心に重く響いたのだった。
ここまで心が大揺れに揺れた一日も最近では珍しい。最後はちょっとぐったりしてしまったけど、それは心地よい疲れだった。
たまにはこんな日もいい。 ようやく停滞していた心がまた動きだしたようだ。いったん動き始めればあとは少しずつ加速していくだろう。背中にくっついて離れようとしないそれほど遠くない過去の記憶も振り払えるかもしれない。もっとスピードを上げることができたら。
心が動きだしたのは、ふと新しい服が欲しいなと思ったことでも感じた。
考えたら、ビデオやゲームに気持ちが向いている時は心が内面に向かっている時だ。それは家の中のものであり、ひとりのものだから。でも気持ちが服や靴に向かっているということは、心も外側へ向かっている証拠。いい傾向だ。
思えば今年の夏はほとんど新しい服を買わなかった。そんな気がまったく起きなかった。
その分、この冬は色々買おう。できれば、黒や茶色や白ではなく、もう少し色のあるものがいい。この冬の気分はモノトーンじゃない。 たまには紫色の服でも買ってみようか。
……。
それはやめておこう。もう少し無難なものにした方がいい。たとえば、そう、緑色とか。
*
すべては移ろい、変わっていく。
でも、何もなくしていないのだと私は思う。人は何かをなくすんじゃない、古いものの代わりに新しいものを手に入れるのだ。
人は止まることなく進み続ける。でも過去のすべては、過去に存在している。消えることなく、変わることなく。
私たちは、何一つ失ってはいないのだ。
だから、悲しむことはない。
*
誤魔化したり、無条件で許したり、言葉で慰めたるだけでは人は救えないし救われない。
感情を伴った圧倒的に正しい論理によって、叱り、励まさなくては。
もし、人が人を救えるとしたらそれは、自分の足で立ち、自分の力で走る勇気と力を与えることしかないのだと私は思う。
それは言葉だけでは足りないし、行動だけでも充分ではない。行動を伴った言葉でなければならないだろう。
*
恋愛が人生の答えではないことを知っている人は不幸だ。
恋愛に人生の答えを求めてそれを得られずにいる人よりも。
恋愛が人生のすべてではない。でも恋愛の中には未だ解明されてない謎が残されている。その謎の一番深い場所にあるものは一体何なのか? あるいはそこに人生の謎を解く大いなるヒントが隠されているかもしれない、と私は思っている。
私は幸せな人間だろうか。
*
私はできる限り多くの物語やエピソードを自分の中に取り込みたいと思っている。それらを自分の中で消化して、より純粋なエッセンスとして抽出するために。
人間とは物語である。歴史が物語であるように。
私は一つでも多くの物語を自分のものにしなくてはならない。
もしこの世界で最後の人間になった時、この世界のすべてを物語れるように。
あなたの物語は私の物語であり、世界の物語でもあるのだ。
*
あなたは、世界のどの街角に立ってもあなたたり得るだろうか?
地位も肩書きも持ち金も過去も名前も人種も国籍も関係なく、あなたは誰に対してもあなたであれるだろうか? 天国でも地獄でも?
過去でも未来でも?
自分とは何者か、という問いの答えがそこにある。
自分はどこに行っても誰に対しても自分でしかない、そう自信を持って答えられるとしたら、それはもう自分を見つけているということだ。
*
*
*
今週は行動強化週間にすることに決めた。
月曜日はメンズデーその他でいいスタートができたからこの流れに乗ろう。
明日は洗車とワックスと車関係の諸々をやっつける。
もし流れが加速して、金曜にロングドライブができたら文句なしだけど、そこまでいくかどうか。でも一応その方向でイメージしておこう。
とにかくルーズな一日を作らないこと。
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今日のための言葉
「自分の居場所は、誰かの胸の中にしかないのよ」
映画『冷静と情熱のあいだ』より
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11月18日(日) 「自分を許すように」 |
一日の中でやれる量の限界はだいたい決まっているのだから、毎日やることの優先順位を変えていかないと、いつもやれることはやれるけどやれないことはやれないままで終わってしまう。 いつも好きなものから食べていったら、いつも同じことでお腹いっぱいになって嫌いなものを食べなくなってしまうように。 優先順位を変えることはとても難しいことだけど、でも意識的にやっていくしかない。時には一番嫌いなものから食べてみたり。 *
すべての普遍は、個人から出発している。最初からの普遍など存在しない。
個人的なものも普遍になることを知り、普遍も個人から始まったことを知っておく必要がある。
個人を個人として終わらせず、普遍を信じすぎないように。
そうすれば、普遍を生み出すこともできるだろう。 *
目を閉じて人間を信じるのではなく、目をしっかりと見開いて人間を信じること。
愚かで残虐でみっともないけど、それを超えて人間は美しくて愛すべき存在であることを知ること。
人間がこの世から消えてなくなってからそのことに気づいていては遅い。死んだ人間を褒め称えても遅いように。
生きて存在している今、そのことに気づかなければ。 視点を限界まで上げれば、それはそんなに難しいことではない。
この世界は、映画よりもずっと美しくて面白くて愛すべきものだと知るだろう。 *
私の発見した正しさが絶対的に正しいわけではないけれど、ある種の絶対性は不特定多数の共感を得ることができるはずなのだ。
たとえば、人ぞれぞれ味覚や味の好みに大きな差があるのに、一流の料理人が作った料理は皆が一様に美味しいと認めるように。
ということはつまり、誰もが正しいと認めることができる正しさを求めるより、自分の中にある正しさを追求していく方がより多くの強い共感を得ることができるということだろう。
まずは自分自身に反論を許さないくらいの絶対性を確立しなければ。
*
人間は五感から絶えず入り込んでくる大量の情報の中から、自分にとって必要なものだけを取っておいてそれ以外は捨てる、という行為を猛スピードでやっているわけだけど、その能力はここ100年くらいで飛躍的に向上したに違いない。
ラジオ、テレビ、街並み、交通、コンピューターなどによって。
ただ、能力の向上にともなって失われてしまった部分もある。失ったというよりも鈍感になったと言った方がいいかもしれない。
昔は情報力が慢性的に不足していた。人間が欲求するよりもおそらく少なかっただろう。だから、積極的に情報を求めようとする姿勢があっただろうし、あまり意味のない情報でもそれに意味を見出そうとしたはずだ。そうやって想像力や思考する力を身につけていった。
でも今は大量の情報をさばくだけで精一杯で、今以上の情報を求める余裕がなくなってしまった。と同時に、多くの大事な情報を取りこぼしてしまっている。情報に対して鈍くなってしまったことによって。
人間の情報処理能力というのは、進歩しているようでいて実は退化していっているのかもしれない。
この傾向はこの先どんどん進んでいくだろうけど、限界はあるのだろうか?
おそらく限界というのはないだろう。そのへんが人間のすごいところでもある。だから、変化していくと思うのだ。ではどんな変化か?
あるいは、鈍化こそがある種の進化なのかもしれない。人間はこの先、鈍くなることでしか自分を守れなくなってしまうような気がする。繊細すぎると生き残れない。
人間は、自分たちが向かうべき方向を知っているのだろうか?
*
*
*
この秋の病弱ぶりは自分でも信じられないほどなんだけど、なんとなく作為めいたものを感じないでもない。どう考えても不自然だ。私の動きを止めようとしているのか。
まあそれは被害妄想だとしても、数々の体調不良でこの秋の動きが止まってしまったことは確かで、そのことがとても残念だ。
不調の夏を乗り切り、なんとか秋で挽回しようと思ってたのに。
でも過ぎてしまったことはしょうがない。まだ今年も冬が残っている。ここで何とかしたい。
まずは気分転換の意味も込めて、髪をカットした。今回も無難に。
でもだいぶ伸びてたんですっきりして気持ちいい。
明日は映画だ。先週は咳き込みで中止になったけど、明日は大丈夫だろう。時間も夕方だから余裕がある。
まずはここまできっちり予定をこなして流れを作りたい。上手く流れれば来週にはロングドライブもできるだろう。車のワックス掛けやその他諸々も待っている。
あまり複雑に考えず、単純にいこう。反省したり悩んだりし始めると物事がややこしくなる。今は考え込む時じゃない。滞っていることを一つずつやっつけていく時だ。今年一杯、その方向で行こう。まだ来年のことは考えないように。
今年はいろんな部分で自分に同情すべき点がたくさんあったから、あんまり自分を責めたくない。甘いけど、今年は自分を許す。
自分を許すように人を許せるようになること、それもまた、一つの大きなテーマだ。
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今日のための言葉
「人間は自然の与えた能力上の制限を越えることは出来ぬ。
そうかといって怠けていれば、その制限の所在さえ知らずにしまう。
だから皆ゲーテになる気で精進することが必要なのだ」
芥川竜之介
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11月16日(金) 「秋の後ろ姿を見ながら思うこと」 |
山好きから海好きに変わり、秋好きから夏好きになり、魚も少しずつ食べるようになり、好みのタイプも変わった。 こうしてとりとめもなく変わっていく私はどこへ向かおうとしてるのだろう?
どこまでいけば満足して変化をやめることができるのか。 それとも、飽きることを恐れて、この先もずっと漂い続けるのだろうか?
まだ果ては見えない。
季節は秋から冬へ。
秋は立ち止まることなく、一直線に駆け抜け、引き返すこともなく、あっさり冬に席を譲る。
少し冷たい気もするけど、人の感傷が深まらないようにしてくれてるのかもしれない。
冬は静かに、そして確実にやってきて、しばらく居座り続ける。当たり前のように大きな顔をして。
昨日、近所の桜並木が紅葉しているのを見た。
そう、桜も秋には紅葉し、冬には葉を落とすのだ。忘れてた。
桜は毎年忘れずに花を咲かすけど、あれは毎年別の花なんだ。同じ花は一つもない。
そうやって、桜は毎年少しずつ大きく成長していっている。
桜の木と出会いと別れを結びつけるのは安易で陳腐だ。
けれど、一年の間、折にふれ桜を見ていると、そんなこともを少し考えたりもする。
花はやがて枯れる。新しい季節に新しい花を咲かせるために。
人もきっと、出会うために別れるのだろう。
また古い年が終わろうとしている。新しい年を始めるために。
けど、最後が一番大切。11月、12月をいい月にできれば、今年一年をいい年にできる。
今年はいいことなかなぁ、などとしょんぼりせずに、まだできることがたくさんあるから、やれるだけのことはやろう。あきらめるには早すぎる。
感傷は秋の中に置き去りにして、冬の寒さに負けないスピードで走らなくちゃいけない。もっとスピードを上げるのだ。限界まで。
*
神がたとえ存在しても、神は人間の味方ではない。
運命というものがあったとしても、それは味方じゃなく敵だ。
どちらも人間から自由を奪うものだから。
人間の目的は、神や運命に打ち勝つことだ。占いやお祈りをしてる場合じゃない。
自分の意志だけが味方であり、拠り所だということを忘れないように。
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閃きとか傑作とか発明なんかが生まれるのは一瞬の出来事だが、そこへ至るまでは長い時間をかけなければならない。時間をかけずにいいものを生み出すのはおそらく無理だ。人間の能力はそれほど優れてはいない。
大切なことには充分時間をかけること。仕事でも作品作りでも恋愛でも。
短時間でできたものは壊れたり腐ったりするのも早いものだ。
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*
*
それにしてもここ数日、かなり気分が低調だ。体調の方は咳き込みも一日数回程度になってほぼ完治したのだけど、どうもいけない。
まだ今年一年を振り返るには早すぎるのに、今年失ってしまったあれこれを思いだしてみたり。
それが不可抗力だったのか、失敗だったのか、実力不足だったのかを考えてみたり。
なんにしてもここまでは得たものより失ったものの方が圧倒的に多い一年だった。
あと1ヶ月半でどこまで挽回できるか。何か一つでも新しいことを始められないだろうか。そうすれば現状打開のきっかけになるような気がするのだけど。
とりあえずは、先送りにしているあれこれを一つずつやっつけていくことはら始めよう。一発逆転だけ狙うんじゃなくて、細かいことから地道にいかないと。
映画、遠出、ワックス掛け、髪カット、WOWOW、電話、押し入れの整理、などなど、まずはこのへんの手頃なところから。
何かを片づければまた新たにあれこれ出てくるものだ。そうやって毎日を動かしていかないと、どうしても日常が淀んでしまう。
人生の借金は借金として、利子くらいは返していかないと、いつか本当に取り返しがつかなくなる。
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今日ふいに思い立って表紙の模様替えをしてみた。
いくつかあったアイディアの中から今回は、モノトーンすぎるくらいモノトーンから何等かの仕掛けで一気に色づく、というものにしてみたんだけど、どうも中途半端な出来になってしまった。
これはアイディア不足というよりもHP作りの制約が障害になっていて、アイディアが上手く結実しなかったのだ。残念。
もっといろんなイメージがあったのに、そのほとんどが実現できなかった。
やはり今以上のページを作ろうとすればJavaScriptは避けて通れないかもしれない。スタイルシートだけでは大きな動きは作り出せない。
ただ、JavaScriptって、どの程度の人の環境で通用するものなんだろう? 普通のPCで、IEやネスケを使ってる人なら大丈夫なんだろうけど、それ以外のモバイル機とかではやっぱり駄目なんだろうか? たぶん、ドリキャスも駄目だろう。となるとやっぱりちょっと使いづらい。自己満足のために見てもらえないページを作っても仕方ないから。
けどなぁ、JavaScriptは一度使ってみたいところではあるなぁ。これを使えばシンプルな構成でも印象的なページが作れるから。
次は一度、JavaScriptで作ってみよう。それで駄目そうならまた元に戻せばいい。
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一昨日のテーマだった早寝早起きだけど、見事に失敗にした。ありゃりゃ。
で、今度こそ、と昨日はいつもより2時間も早く寝たら、2時間もよけいに寝てしまったのだった。なんてこった。
9時間も寝てしまうなんて。自分でも驚いた。
うーむ、やはり私に早寝早起きは無理だったか!
しょうがない、もっと地道に生きよう。
明日はできれば髪カットをしたい。できなければ、あれこれ前倒しにしてできるだけ用事を済ませること。ルーズにならないように。
しかし、ここ数日夢の内容がすごく悪い。何か悪いことの前触れか!?
今日こそ、いい夢を見よう。
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今日のための言葉
「いつ季節が来て いつ去るのだろう
いつ季節が歌い いつ歌いやめるのだろう」
A.ポープ
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11月14日(水) 「絶対否定発 絶対肯定行き」 |
私は、新聞はテレビ欄から見るし、そばはつゆに泳がせてから食べる。サラダだってマヨネーズの海を泳いでいるし、ワイドショーだって好きでよく観るし、週間ポストだって読む。 そういう人間だ。 気取りは大切だし、嫌いじゃない。でも、自分の中の自然な欲求と気取りを天秤にかけたら自分の欲求の方が重たいし優先させたいと思う。
通はこうするとか、教養のある人間はそんなものを観たり読んだりしないとか、そういうことを押しつけようとする人がけっこういるけど、私はそういう人には決して屈したくないと思う。
寿司をしょう油に泳がせて食べてどこが悪いってんだ!? 好きにさせてくれっての。
肉は焼きすぎるなとか、いい大人が電車の中でマンガを読むなとか、うるさいっちゅーねん。そんなもん勝手やろ、と私は言いたい。
もちろん、なんでもかんでも好き勝手やっていいとは思わない。バスや店の中での携帯は迷惑だし、道端にタバコの吸い殻を捨てたり、食べ物を汚く残したりとか、人に迷惑をかける悪いことはいけないだろう。でも、あれをしちゃいけない、これはやめた方がいいといった固定観念を押しつけるのはやめて欲しいのだ。
なんていうか、自分で獲得したわけでもない常識や固定観念や美意識を押しつけるのだけは勘弁してもらいたい。
コーヒーに砂糖とミルクを入れまくったっていいじゃないか。コンデンスミルクをダイレクトに飲んでも、カレーやコロッケにしょう油をかけてもいいじゃないか。私の味覚は私のものなんだぁー。
それから、人の趣味嗜好を馬鹿にする人間も私は嫌いだ。
ワイドショーを観る人間は低脳だとか、いい歳をした男がアイドル好きなのはおかしいとか、人形だらけの部屋にいる女の人は変だとか、自分の価値観だけで人の趣味や生き方を馬鹿にする人間がいるが、それは違うと思う。
たとえその人が間違っていたとしても、その人を非難する権利は誰にもないのだから。
そういう詰まらないことを言ってるのを聞くと本当に嫌な気分になる。
家の中で学生服とセーラー服を着ている中年のカップルがいたとしても私は馬鹿にしたりからかったりしたくない。いいじゃないか。お遊戯服と幼稚園の先生でもいい。いや、私がそういう趣味の人間というわけでは決してない。そうじゃなくて、そういうのをおかしいとか駄目とか決めつけるのは良くないということだ。
私はこの先、意識のある内は決して誰も馬鹿にしないでおこう(笑うだけにしよう)。
*
誰でも犠牲にしているものがある。何も犠牲にせず生きていくことはできないから。
でも犠牲にしているものを直視している人は少ない。それを見るのはつらいから、なるべく目をそらそうとしてしまう。 だけど本当は、犠牲にしているものをいつでも忘れずに見失わないようにしなくちゃいけない。もっと頑張るために。
大切なものを犠牲にしてるんだ、今いる場所で、今できる精一杯のことをやらなくては。 自分の選択の正しさを証明するためにも。
*
人生を不幸の数で判断するか幸福の数で判断するかで、生きることの楽しさや満足度は大きく変わってくる。
人が大人になって学ばなくてはいけいのは、不幸の別解釈の方法と、幸福の拡大解釈の方法かもしれない。
それは自分を誤魔化すとかそういうことではなく、この世界に存在するたくさんの要素や可能性を知り、その中で自分の位置や状態を正確に判断し、自分がどれだけすごい奇跡の上に存在しているのかを知る必要があるということだ。
「知識が増えれば悲しみも増える」と聖書は言う。でもそれは折り返し時点までの話だ。苦しいのは半分までで、そこを過ぎれば楽になる。その先は、知れば知るほど幸せに近づくのだ。それは間違いない。私が保証する。
生きるということは、本当に、本当に、面白おかしくて楽しいことなのだ。面白いことに終わりはない。
それに、なにがどうなろうと最後は死ぬことができるのだ。こんな無責任が許されるいい話はない。
夢の中ではどんな無茶をしてもいいのと同じようなものだ。
何を恐れる必要があるのか? 何もありはしない。生きている間に好きなことを目一杯やって、隅から隅まで駆け回って、暴れて、楽しめばいい。最後は死によって全部チャラなんだから。
死んだ後のことは、また別の話だ。その時になって考えればいい。地獄だって案外エキサイティングで楽しいところかもしれないし。
どんな場所にも楽しみはある。その時々で楽しめばいい。
存在するといことは、本当に楽しいことなんだ。
*
悲しみや不幸や虚しさを人生の結論にはしたくないとずっと思ってきた。
今はもう、いつ死んでもいい。死ぬ間際、私はきっとこう思うだろう。
ああ、楽しかったなぁ、と。
そして、死んだ後、こう思う。
また遊びに行きたいなぁ、と。
だから私は何度でも生まれ変わる。この世界が存在を続ける限り。
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今日のための言葉
「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」
アルベルト・アインシュタイン
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11月13日(火) 「奪い合いながら与え合う」 |
許せなくてもいいから、裁かないこと。人に対しても、物事に対しても、世界に対しても、自分に対しても。そのことはとても大事なことだし必要なことだ。 裁こうとする心が、物事の判断を鈍らせる。
今すぐ許せなければ保留しておけばいい。そして、歳を重ねて成長した先で許せばいい。
今は難しいことでもいずれ簡単になることはたくさんあるから。
裁かないこと。決定的に絶対的に裁かないこと。 裁いたら裁かれる。 *
人を当てにしないということは人を信用しないということだ。
たまに、私は誰も当てにせず自分だけを頼りにここまで生きてきた、などと言って威張る人がいるが、それはとても寂しいことだと私は思う。誰も信じないで上手に生きて何になるというのか? そんな人間よりも、人に借りばかり作って生きている人間の方がよっぽどましだ。人に借りを作るということは見方を変えれば、人助けという良い行いをした人間をたくさん生み出したということでもあるのだから。
第一、誰の力も借りずに生きていくなんてどう考えても不可能だ。無人島に住んでるわけでもあるまいに。
店で食べ物を買うのだって、それを作る人がいて、運ぶ人がいて、売る人がいるから買えるということを忘れてはいけない。
みんないろんな人の世話になって生きている。それは逃れられないし、悪いことでもない。
みんな誰かに支えられて、誰かを支えている。 当てにしたり、頼りにしたり、助けてもらっていいじゃないか。
大事なのは助けてもらわないことではなく、助けてもらったら感謝して忘れずに恩返しすることだろう。直接その人に対してじゃなくていい。他の誰に対してでも。
奪い合いながら与え合う、それがこの世界の健全な姿だと私は思う。
えーと、ということで、誰か私に100万円くらいくれないかなぁ。いやいや、出世したら必ず返しますから。いや、本当ですってばー。私を信じてくれー。
じゃあ、50万なら? 駄目?
私に貸しを作っておくと将来いいことあると思うんだけどなぁ。ないかなぁ。
*
*
*
ビデオで、相米慎二監督の遺作になった『風花』を観る。
正直、少し退屈だった。
テーマが感じられず、状況を描いただけの作品だったから。
これが相米監督の辿り着いた場所なのだろうか?
ただ見つめることがある意味では相米監督の辿り着いた地点なのかもしれないけど、それは観客を置いてけぼりにすることでもある。厳しく言えば映画の私物化だ。
実際どういう考えで相米監督がこの作品を撮ったのかは分からない。
でも少なくとも私から見てこの時の相米監督は全然観客の方に向いてないように思えた。主役の二人だけを終始ずっと目で追いかけていて。
映画は必ずしも観客のためのものではない、という考え方がある。でも私は違うと思う。映画は観客のためのものであるべきだ。 何故なら、映画の完成というのはクランクアップの瞬間でも、編集作業の終了の時でもなく、その作品を観客が観終わった瞬間だから。そこで初めて映画は完成する。言い方を変えれば観客なしに映画は決して完成しない。小説や美術とは違って。
別に観客が王様というわけではないし、そういうことを言いたいわけでもない。そうじゃなくて、少なくとも観客に対する最大限の心配りやサービス精神が必要だということだ。
この作品は、サービス精神が足りなかった。多くの人がそれを感じたのではないかと思う。
これが相米監督の遺作になってしまったのは少し残念な気がする。
私は、こういう作品を観た時いつもこう思う。
せっかく映画なんだからテーマを持とうよ、と。
たとえば、夏休み。きちんと宿題をして、目一杯遊べば確かに満足だろう。けど、せっかくの夏休みなんだから、何かテーマを持って過ごした方がいいではないか。夏休みしかできないこともあるんだし。
同じように映画でしかできないことも確かにあって、それは語ることであり、主張することであり、訴えることだったりすると思うのだ。娯楽だけでなく、教訓や教えだけでもなく。
観客を楽しませながら、自分の伝えたいことを伝えられる、それが映画のいいところだろう。 これだけたくさんの映画がある中で、何もテーマのない作品を新たに作って何の意義があるというのか?
映画は娯楽だ。でもそれだけじゃない。プラス・アルファの何かがなければいくら出来が良くてもその作品に大した意味はない。
良い映画とは何か? それは、観る前と観終わった後では自分が変わっている映画だ。
悪い映画とは何か? それは、観終わった後、画面に向かってこう訊ねたくなる映画だ。
「それで?」
*
オークションで買ったビクターのHR-V2だが、思った以上に良い出来のビデオデッキでちょっと驚いた。
まず画質がかなりクリアでパッと見た瞬間、おっ、きれいだな、とはっきり分かる。さすがに「ビデオはビクター」と言い張っていた頃のビクターのデッキだ。定価15万ということは、金もかけて作ったのだろう。
まあもちろん、デジタル・ノイズ・リダクションなんかがない分、よく見るとノイズがけっこうあったりすることはする。けど、画面が自然な感じな分観ていて気持ちがいい。
あと、びっくりしたのがメカの出来の良さだ。単純な巻き戻しや早送りはさすがに今の機種とは比べものにならないけど、たとえば早送りから再生や、早送り再生から再生への復帰などがべらぼうに早い。リモコンボタンを押した瞬間に切り替わる感じなのだ。このメカ部分が一番感心したところだ。まさかこれほどとは思わなかった。
反応が鈍いパナソニックやシャープとは比べものにならないし、これまでかなり早いと思ってた三菱の高級機種より更に早い。
このへんは感覚的な問題でもあるんだけど、ちょっと感動的だった。最近のビクターはどうなのか知らないけど。
というわけで、HR-V2はかなり気に入った。しばらくはサブとして使っていことになるだろう。
メインはまだパナソニックのNV-SB50でいい。これは非常に頑丈にできているので少々無茶しても大丈夫という安心感があるから使いやすい。まあそれもビデオとしては大事なことだろう。
HR-V2を使っててふと思った。バブルの頃のビデオデッキは素顔美人で、最近のビデオデッキは化粧美人だな、と。
昔のビデオ作りは、いかにしてきれいな素顔を作るかということを一所懸命やってた。今のビデオはいかに上手に化粧するかに夢中になっている。
確かに今のビデオの方が見た目はきれいだ。でもどこか不自然な感じや安っぽさがつきまとう。
そして、化粧を取った時の素顔は……。
まあ、素顔美人と化粧美人のどっちが好きかはそれぞれ好みが別れるところだろうけど、私はやっぱり素顔美人の方が好きだ。
いや、別に化粧が嫌いなわけじゃない。そりゃあ化粧しなくてもきれいで化粧したらもっと美人になるっていうならそっちの方がもちろんいいけど。
*
私は面食いなんじゃない。美人が好きなだけだ。
美人は才能と希望というものの存在を私に思い出させてくれるから。
美人しか恋愛の対象にならないなどと言うほど私はおこがましい人間ではない(と思う)。
というか、私の希望はこの世の全員が美男美女になることなのだ。それが世界平和への一番の近道だと思うんだけど、どうだろう?
もし、この世界の人間すべてに整形手術をして、全員を美男美女に近づけたとしたら、一体どれくらいの犯罪や自殺や戦争や不幸が消えるだろう? もちろんすべての不幸がなくなるはずはないけど、でも一時的にせよそれらは激減するんじゃないだろうか。
容姿のコンプレックスというものが必要以上の不幸をこの世界にもたらしているに違いない、と私は見る。
*
昨日は本当はメンズデーで『冷静と情熱のあいだ』を観に行くつもりだった。でも、またセキがぶり返して断念するしかなかった。劇場で咳き込んでる人間ほど迷惑なものはないから。
来週こそなんとしてでも行かなければ。
体調の方はセキ以外は問題ない。少しずつ積極的に動こうという気持ちが出てきて、けっこう歩いているから、もう階段を7階まで歩いて上ってもしんどくなくなった。
そろそろ偽ボディブレードも復活させないと。
それにしてもこのセキはしつこい。いい加減腹が立つ。早くどっかへ行って欲しい。
誰かいりませんか? *
さて、明日のテーマは何にするか。
うーん、思い浮かばん……。
それじゃあ、一番困難なテーマにしようか。それだと何になる?
そうだ、早寝早起きにしよう!
……。
難しそうだなぁ。
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今日のための言葉
「愛が信じられないなら、愛なしで生きてごらん。
世の中が信じられないなら、世の中を信じないで生きてごらん。
人間が信じられなかったら、人間を信じないで生きてごらん。
生きるということは、恐らく、そうしたこととは別ですよ」
井上靖『城砦』より |
11月11日(日) 「いい大人こそ理想を」 |
人生はいろんなことを考えたりやったりすることで可能性を狭めていく行為だ。悪い意味でも、良い意味でも。 それは、たくさんの容疑者の中から一人ずつ容疑を晴らしていって、徐々に真犯人に迫っていくのに似ている。 答えというのはつまり、最後に残ったものなのだ。 すべての可能性が消えた時、人は本当の自分に辿り着くことができる。それ以上でもそれ以下でもない、等身大の自分に。 知恵と勇気があれば必ず求める答えを見つけることができるだろう。最後まであきらめなければ。 *
いつか人はこの世界のすべてを知るようになると信じて生きている人間と、そんなことは信じられずに生きている人間とでは、生きる目標も理想も意味も全然違う。
信じながら愛すのと、信じずに愛すことが別の愛であるように。 私はいつでも信じていたい。信じることが私をこの世界につなぎ止めているのだから。 自分の理想を信じることができなくなったら、もはや私はこの世界で生きている意味がなくなってしまう。 *
20代は徹底的に負の感情に身を任せ、負を掘り下げられるだけ掘り下げた。
30代は限界まで正の方向に向かうつもりでいる。 できることならすべてを信じ、愛し、肯定し、突き抜けたい。 20代の私にそんなことを言ったら馬鹿にされて笑われるだけだろうけど、今の私は本気でそう思っているし、けっこういいところまでいけるような気さえしている。 まあこのまますんなりとは信じさせてくれないだろうし、私に決定的な不信感を抱かせる出来事が起こるかもしれないけれど、でも今のところはとにかくいけるところまでいってみるつもりでいる。 難しいけど不可能じゃない、今はそう感じている。 *
私の進化は世界の進化でもある。もちろんあなたの進化も。
何故なら私もあなたも世界を形作る一部なのだから。 逆に言えば、自分の退化は世界の退化だということだ。 自分の人生なんだから好き勝手やって、落ちるところまで落ちてもかまわないじゃないか、などという論理は通用しない。 どうやっても世界のつながりから自由になれない以上、すべての人間は世界に対して責任がある。自分ひとりでもテストで悪い点を取ればクラスの平均点が下がるように。 世界は全体であり、世界は一つなんだということを忘れないように。 *
私は自分の理想を人に押しつけようだなどと思ってるわけじゃない。
でも理想を提出する義務があるとは思っている。理想を思い描くことができない人が多いこの世界だから。 私の理想は一つの可能性でしかない。でも言い方を変えれば、一つの可能性でもあるのだ。 誰かの頭の中に今よりもより良い世界の理想があって、それが実現可能だとするならば、その理想には意味があると私は思う。 サッカーや野球でよく「理想的な点の取り方」という表現を使うが、私が言おうとしてるのはそういうことだ。 点の取り方に正解など存在しない。でもいくつかの理想的な形というものがあって、それは確かに手本として真似る価値があるのだ。 みんなが理想を持ち寄ること。まずはそこから始めないと。
理想なんて実現しっこないから考えるだけ無駄さ、などと気取ってみせず、それぞれが理想を提出して、それを踏まえて全体でもっと理想に近づくことが必要だろう。 これは非常に青臭い論理だ。でもこういう部分が足りないから世界はどんどん悪くなっているような気がする。 みんな気づいたら小賢しくなってしまって、大愚であることを馬鹿にするようになってしまった。 愚かさを捨てることで人は何か大切なものを失ってしまったようだ。 理想を描けない大人が作った社会の中で、子供はどうやって理想を描けばいいというのか?
理想を持つのは若い人間だけの役割ではない。 いい大人こそが本当はもっと理想を描き、口にすべきなのだ。中年も老人も政治家も教師も親も。 私は死ぬまで愚かな理想主義者でありたいと願う。
やがて私も理想を持てない人間になってしまう日がくるかもしれない。 でも、だからこそ、今は理想をなくさないようにしたい。 *
私の心の先生、アインシュタインは言った。
「ぼくは全く誰にも期待しない。だから幸せなのさ」と。 でも、私はこれには逆らいたい。 私はすべての人に期待する。だから不幸なんだ。 でも、そういう不幸はそんなに悪い気分じゃない。 強がりじゃなく、本当に私は誰もに期待してるのだ。 ==================
今日のための言葉
「理想は私たちの中にある。と同時に、その達成に対するもろもろの障害もまた、私たち自身の中にあるのだ」
カーライル
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11月8日(木) 「好きということ」 |
この世には二種類の人が生きている。 浮かび上がりたいと願いながら生きている人と、浮かび上がりたいと思うことなく生きている人の二種類が。
浮かび上がりたいということがどういうことなのか分からない人は幸せだ。そういう人にかける言葉を私は持たない。
浮かび上がりたいと思いながら浮かび上がれないまま毎日を生きている人に対して、私はどんな言葉を持ち得るのだろう?
あるいは、浮かび上がりたいと願って浮かび上がることができた人が言う言葉にどれほどの意味と価値があるのだろう?
どちらも私には分からない。分かっているのは、浮かび上がりたいと願ったなら、なんとしてでも浮かび上がらなくてはいけないということだ。
浮かび上がる意志がなくて浮かび上がらないことは罪ではない。でも、浮かび上がりたいと願って浮かび上がれないのは罪だ。
それは自分を裏切ることだから。 人は何故、浮かび上がりたいと願うのか?
それは、見上げればそこに空があるからかもしれない。空はどこまでも続いている。だから、空を見る人は浮かび上がりたいと願わずにはいられないのだろう。
たとえ、空の向こうには何もないことを感じていたとしても。
*
結果が同じでも姿勢が違えば意味も全然違ってくる。
髪を伸ばすのと髪が伸びたのは違うように、結婚しないのと結婚できないのが別なように。
結果だけで物事を判断してはいけないし、結果で自分の姿勢を誤魔化してもいけない。
結果も大切。だけど姿勢も同じくらい大切だということを忘れないように。
*
人を好きになることで一番いいのは、なんといっても自分が変わることだ。より良く。時に自分以上の存在になることもある。
本当に好きな人を前にした時の顔は、普段とは全然別のものになる。それはもうなんとも言えずいい表情に。
世界中の誰もが、誰かをもっと人を好きになったら、この世界はもっともっと良くなるのに。 それは、そんなに難しいことじゃない。テストで100点を取るよりもずっと簡単なことだ。 好きな人見つけたら、好きという気持ちを大事にしなくてはいけない。もっともっと大切に。
愛というのは自分と相手と二人の自己完結的な感情だったり、一方的な感情だったりして、意外と広がりないものだ。それに対して好きという感情は、もっと広がりがある。
たとえば一つの愛に夢中になってしまうとそれ以外のことはどうでもよくなって利己的になってしまいがちだけど、誰かを好きになると幸福感や高揚感から誰に対しても優しい気持ちになったりする。そうやって好きという気持ちが伝染することもある。
それに好きという気持ちは独占的なものではなく他の人たちと共有することもできる。
世間では、好きよりも愛の方が上等なものという思い込みがあるけど、私は好きの方が大切なものだと思う。 結婚生活でも、実は愛よりも好きという感情の方が必要なんじゃないだろうか。恋人でも親子でも。
だから、もっと言葉に出してもいいと思う。
好き、と。
だって、好きなものは好きなんだから。
*
もし異星人が地球にやってきたら、いかに地球人が優れた存在であるかを延々と語って聞かせる自信が私にはある。
いかに優秀で、賢くて、愛すべき存在であり、いかに多くの可能性を持っているかを。
どんな異星人にだって地球人は負けやしない。UFO飛ばしたり、畑に絵を描いたり、牛の血を抜き取って喜んでるような連中に負けるはずがない。
ただ問題は、日本語が通じるかどうかだなぁ……。
いやいや、日本語がいかに表現力が豊かで優れた言語かも語って聞かせねばなるまい。
誰か来ないかな、優秀な異星人。できれば守山区まで。
*
*
*
竹内まりやの新しいアルバム「Bon Appetit!」を借りて、何度か聴いてみた。
どうも面白くない。心に迫ってないというか、言葉が心の奥に届かない。やや軽めの曲が多いということもあるけどそれだけじゃない。
要するにドラマが薄いのだ。ドラマが全然足りない。
かなり期待してただけに残念だ。 でもなんでこの程度のアルバムがチャートで1位になるほど売れてるんだろう? 不思議だ。
竹内まりやを1枚聴くなら断然「Impressions」にした方がいい。ドラマの密度が段違いだから。
「Impressions」は私の中でずっと残るアルバムになるだろう。幼さや陳腐さが見え隠れしつつも、ぐっと心を掴んで離さない魅力があって捨てがたい。
最近のユーミンにも感じることだけど、長く一級の作品を作り続けることは本当に難しいらしい。ほとんど不可能なことなのかもしれない。
それを思うと、サザンの桑田圭祐の息の長さは奇跡に近い。個人的にさほど思い入れはないけれど。
*
ここ数年イギリス映画が元気で良い作品が何本か生まれているけど、また一本見つけた。
『スティル・クレイジー』
これはとてもイギリスらしい作品でもあり、映画らしい作品でもある。
映画らしいというのはちょっと変な表現だけど、映画を観ることの快感があふれてる感じで、観ていてとても楽しくて嬉しくなった。つまりそれがとても映画らしいということだ。
内容は、昔ちょっと売れたロックバンドのメンバーが、解散後数十年経って、おっさん、おばさんになり、またバンドを再結成してドタバタする、というありがちなコメディ・ドラマなんだけど、ビターな味付けがただのコメディで終わらせてなくて、最後はきっちり感動させてくれる。
いや、とにかくこれは良い作品。おすすめ。
私の中では、『ブラス!』、『フルモンティ』とこの『スティル・クレイジー』が、この先しばらくはイギリス映画マイベスト3ということになるだろう。
『ジョン・マルコビッチの穴』も個人的には面白かった。
友達はなんだかチンプンカンプンと言ってたけど、私はあのセンスは好きだ。
もっとコテコテのコメディかと思ってたら意外とシリアスなドラマだったんでやや笑いが足りなかった気もするけど。
*
体調の方は、まだたまに咳き込むことがあったりして100パーセントの回復とは言えないのだけど、気持ちはもう完全に平常に戻った。7階まで階段を上り下りしてもさほど疲れは感じない。
来週からはいいかげん動かないといけないだろう。まずは映画から。もう何ヶ月映画館に行っていだろう? とりあえず今年中にあと2回は行こう。
あとはロングドライブに向けて少しずつ気持ちを高めていかないと。まだ少し自信がない。
さて、今日も終わった。
今日が終わればあとは少しでも早く明日を始めるだけ。
昨日の夢は久々に嬉しい夢だったけど、今日もいい夢が見られるだろうか?
いい夢を見るだけでちょっと幸せな気分になれる。人間はこういう細かい部分でも上手くできてると思う。
あ、そうだ、このことも異星人に自慢してやらなくちゃ。 いいか、異星人、よく聞けよ、人間ってのはな、寝てる時に夢を見るんだぞ。夢って分かるか? 夢ってのはな……(以下、長くなるので省略)。 ==================
今日のための言葉
「見覚えのある レインコート
黄昏の駅で 胸が震えた
はやい足どり まぎれもなく
昔愛してた あの人なのね
懐かしさの一歩手前で
こみあげる苦い思い出に
言葉がとても見つからないわ
あなたがいなくても こうして
元気で暮していることを
さり気なく告げたかったのに……
ニ年の時が 変えたものは
彼のまなざしと 私のこの髪
それぞれに待つ人のもとへ
戻ってゆくのね 気づきもせずに
ひとつ隣の車両に乗り
うつむく横顔 見ていたら
思わず涙 あふれてきそう
今になってあなたの気持
初めてわかるの 痛いほど
私だけ 愛してたことも
ラッシュの人波にのまれて
消えてゆく 後ろ姿が
やけに哀しく 心に残る
改札口を出る頃には
雨もやみかけた この街に
ありふれた夜がやって来る……」
竹内まりや「駅」
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11月6日(火) 「知ることは生きること」 |
知らなくてはいけないことはたくさんあるけど、知らなくてもいいことはたぶん一つもない。 知らない方が幸せでも、幸せであることより知ることの方が大事だから。
知ることを否定することは、人生を否定することだ。
私たちは知るために生きている。
*
生きるほどに悲しみが体の中に降り積もっていき、若さを失ってちょっと油断すると悲しみは体の外に滲みだしてくる。
電車の中で力無く眠っているサラリーマンや、仕事帰りに夕暮れ時の街を家に向かって歩く女の子の後ろ姿に時々それが見える。
でも、悲しみは決して悪いものじゃない。むしろ人間らしくていいものだ。
悲しいということは生きているということなのだから。
大切なのは、悲しみに飲み込まれてしまわないことだ。
*
*
*
今日は体調はまずまずだったんだけど、どうも頭の調子が悪いようだ。言葉が出てこない。
こんな時は普通の日記にしてしまおう。
ビデオは掲示板にもちらっと書いたように、『世にも奇妙な物語 映画の特別編』が思わぬ拾い物で面白かったのでおすすめしたい。
スタイルはテレビ版と一緒だけど、中身の濃さがまるで違う。きちんと映画になっている。
4話とも脚本の出来がかなり良くて、キャストも申し分ない。
これは本当に私の中では久々のヒット作だった。
ドラマはなんといっても「アンティーク」だ。
これは1作目で確信したけど、間違いなく日本連ドラ史上に残る名作ドラマになるだろう。
この20年間に放送された主な連ドラをほとんど観ている私が言うんだから間違いない……と思う。
脚本と演出のコンビがこれほどの上手くいってる作品はそうはない。たいていどちらかが出っ張っていて、どちらかが奥に引っ込んでしまうものだけど、この作品は両方の良さが相乗効果を上げている。珍しい。
演技力に難のあるキャストをあれだけ集めてあれほど上手いと思わせるんだから、やっぱり本広克行監督の才能は大したものだ。
ただこのドラマで一つ残念なのは、主題歌が旬を過ぎたミスチルというところだ。一昔前のミスチルは大好きでよく聴いていたけど、今このドラマにミスチルはないだろうと思う。ドラマの内容ともそれほどジャストフィットしてると思えないし。
それにしてもこのドラマはいい。面白い。ビデオが出たらレンタルして全作品保存版にしよう。
*
この前オークションで買った三菱のビデオHV-BS800が壊れた。
は、早っ!
短期間で酷使したということもあるんだけど、それにしても寿命が短かった。
まあ故障といってもテープの取り出しや送り出しがたまにできなくなるというありがちな故障なんで、消耗品の交換で復活はするはずだ。
するはずだけど、そろそろこのビデオデッキにも飽きてきてたところなので(それも早っ!)、また買い換えることにした。
これくらいの故障なら出品すれば2,000〜3,000円にはなるだろうから、それを元手に。
というか、もう落札してしまった。それまた早っ!
今度は更に年代をさかのぼって1992年のビクターHR-V2というやつだ。1992年といえばまだバルブの最中と言っていい頃のものなので、かなり贅沢な作りになっているに違いない。当時の中堅機種で定価が15万。落札金額は6,000円。
ビクターは15年くらい前、一番最初に買ったビデオがビクターで、それ以来だ。「ビデオはビクター」というキャッチコピーがなつかしい。
さて、デジタル補正のほとんどないバブルデッキの実力はどの程度か。楽しみだ。
HV-BS800と同時期に買ったパナソニックのNV-SB50はまだまだ元気にメイン機として活躍してくれている。
これは特に優れた点はないものの、不満もなくて、なかなか使い心地がいい。堅実な実力派と言える。
パナソニックはちょっと無骨なところがあるけど頑丈さでは一番かもしれない。 あ、いや、壊れないという点ではシャープの方が上かもしれない。たまたまかもしれないけど、私は今までシャープの製品で壊れたものに当たったことがないのだ。
よし、次はシャープの高級ビデオデッキを買うことにしよう。
うーん、半端なビデオ・マニアになりつつあるなぁ。
*
ついでにゲームの話も少し。
今やってるのは「ガンダム ジオニックフロント」と「エースコンバット04」と、あまり大きな声で発表はできないが「逮捕しちゃうぞ」だ。
いや、「逮捕しちゃうぞ」は侮れない面白さなんです、ホントに。
名古屋地方ではこの前まで深夜にアニメが放送されてて、たまたま観てたらすごく面白かったので、ついゲームも買ってしまったというわけだ。うん、なかなかこれも悪くない。
まあそれはいいとして、問題は「エースコンバット04」だ。
どうも面白くない。何故か。もう「エースコンバット3」の時点で個人的には乗れないものを感じていたんだけど、この「04」でますますその思いが強くなった。
単純に言えば緊張感と達成感がないのだ。クリアする必然性みたいなものが見いだせないから、どうも気持ちが盛り上がってこない。
これは私がゲームに飽きてしまったからではないと思う。ついこの前までやってた「三國無双2」は面白くて熱中できたのだから。
「エースコンバット」が失ってしまったのは、痛みと怒りかもしれない。痛みを感じないから敵をやっつけずにはいられないと思うことができなくて、それで夢中になれないのだろう。きっとそういうことだ。
あと少しやって早々に売ってしまおう。
「ジオニックフロント」は今日始めたばかりだからまだ何とも言えない。ただ、けっこう難しそう。
この前の「ガンダム」は程良い難易度で楽しめたんだけど。
*
今日ふと思ったけど、フレッツADSLの安定性は素晴らしい。
使い始めてもう4、5ヶ月になるはずだけど、ここまでただの一度もトラブルがないのだ。つながらなかったこともないし、途中で回線が切断されたこともないし、フリーズしたこともない。まさかここまで安定してるものだとは思ってもみなかった。
速度も1.2M以上コンスタントに出てるから文句はないし、今のところ不満はまったくない。もうモデム回線に戻るなんて考えられないし考えたくもない。
ADSLは自信を持っておすすめできる。かなり安くなったし、まだまだ安くなるだろうし、最初はちょっと面倒だけど、やれる環境にあるならやらない手はない。
*
今日階段で7階まで上り下りしたら太股が筋肉痛になった。
なんてこった。この3週間で相当足腰が弱ってしまったようだ。このままじゃまずい。完全に回復したら、また鍛えないと。家の中を走り回ったりして。
筋肉ってやっぱり使わないと鈍るんだってことを再認識したのだった。
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今日のための言葉
「何も語らない君の瞳も いつか思い出となる
言葉にならない悲しみのトンネルを さぁくぐりぬけよう」 Mr.Children(桜井和寿)「over」より
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11月5日(月) 「絶望と歓喜の振り子」 |
絶望から歓喜へ。その振り幅が大きければ大きいほど人生は面白い。 絶望を伴わない人生など、退屈すぎてやりきれないだろう。 甘いだけの恋が退屈ですぐに飽きてしまうように。 *
何もしないより傷ついた方がずっといい。
人は傷について敏感すぎるし臆病すぎる。何をそんなに恐れることがあるのか? 傷はいつか思い出に変わる可能性があるけど、無はどこまでいっても無だ。 何かできることと、しなくてもいいことの選択肢があったら、絶対に何かした方がいい。絶対に。 *
小さな幸福の思い出が、私を慰め、そして苦しめる。
取り戻したくても取り戻すことができない思い出の記憶が。 *
人は夢を見る。夜寝ている時だけじゃなく、自分の将来にだけでもなく、人の生き様とか行為とか、音楽や芸術や歴史とか、美人や他人の恋や街の風景の中に。
人間は夢を見ることができる優れた生き物だ。だから、物を作り出すことができる。夢を形にするために。
人間という存在がいかに優れたものであるかに気づいている人は意外と少ないような気がする。人間というのは、宇宙のどこに出しても恥ずかしくない真の傑作だというのに。
*
私は全力でこの世界を肯定したいし、そのための絶対的な根拠を見つけなくてはいけないと思っている。誰に対しても説得力のある理由を。
人間がどんなに悲しくて愚かで残虐であったとしても、一方では美しくて優秀で優しくて暖かいのも事実で、私はそれらたくさんの良い部分で人間を定義し、全面的に肯定したいと思う。駄目な部分で否定するのではなく。
私はようやく、人間とこの世界を愛せるようになった。ようやく。
ここまで来るのにずいぶん時間がかかった。 *
道はどこにもないんだということに気づくことが新しい第一歩になる。
誰の道も自分で作るもの。最初からできてる道などない。
もし最初から道があるのなら人生はこれほど難しくはないだろう。
でも逆に言えば、道はないのだから自由なところを行けばいい。自分の進みたい方向へ。それが道になる。
もっと気楽に行けばいい。人生は正解が決まっているテストとは違うのだから。 *
自分を慰める一番良い方法は他人を慰めることだと知っているだろうか。これは本当なのだ。人から慰められても実は慰められた方はあまり効かない。
ためしに誰か悩んでる人を捕まえて慰めてみるといい。相手をを慰めてるつもりがふと気づくといつの間にか自分が慰められてるだろう。
人と人との健全な関係というのはこういうことのような気がする。慰めにしても幸福にしても自分で自分に与えるよりも互いに与え合ったり奪い合ったりする方がより大きなものが得られる。
たとえば2人がそれぞれ1万円を持っていて、それで自分のために何かを買うよりも、互いが相手の好きなものをプレゼントしあった方がより喜びが大きかったりする。そういうことだ。
人間関係というのは、自分のために相手を利用しあった方が上手くいくし、それは決して間違いじゃないと思う。
恋などはその典型的な例だろう。自分の人生をより良くするために恋を利用すればいい。
*
10代には10代の絶望と喜びがあり、20代には20代の絶望と喜びがある。
そして、これはある程度長生きしないと分からないことなのだが、30代には30代の、50代には50代の、80代には80代の絶望と喜びも確かにあるのだ。
人生は途切れなく連続していくものだから、絶望や喜びも次に持ち越すことができて、長く生きればそれらは解決して減っていくものだと思いがちなのだけど、実際はそうではなく、どこかでリセットされてしまう。小6で最上級生になったと思ったら次は中1で下級生になってしまうように、中3から高1になってしまうように、大学4年生から社会人1年生になってしまうように。
絶望や喜びも日々生まれ変わり、入れ替わり、どこまでいっても消えることはない。それが人生だ。だから面白い。
*
分かるようになることが幸福に近づくことだと信じられたあの頃の私はもういない。
でも、分かるようになることに絶望してるわけじゃない。分かるようになることはやっぱり嬉しいことだから。
ただ、幸福の方程式はそれほど単純なものではなかったということだ。
ま、簡単に幸福の方程式が解けたらとっくの昔に誰かが解いてるし、そんなに簡単じゃあ挑戦する価値もない。
この先のどこかで見つければいい。 幸福の本質は、まだ誰にも触れられていない。 *
愛すこと。
愛せば愛すほど、この世界は面白くなり、生きるのが楽しくなる。
もし愛せないとしたら、それは単純に努力が足りないということだ。
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今日のための言葉
「有限な存在でありながら無限の精神を持つ私たちは、ひたすら苦悩し、そして歓喜するために生まれてきたのだ」
ベート―ヴェン
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11月3日(土) 「いくつもの季節を越えて」 |
私は何も分かってない。本当に何一つ分かってない。 それは卑下でも自嘲でも自己防衛でもなく、単純な事実だ。悲しくも滑稽でもなく。 でも、だからこそ、何かが分かるようになりたいといつも思い、何もかもが分かるようになりたいと願うのだ。 もし、時が永遠だとするならば、いつか私のその願いも叶うだろう。この存在が消える前に。 いつか、すべてが分かる。いつか。 すべてを信じよう。この世界の一切合切を。
そして、何よりも自分自身を。 *
夕暮れの街に佇む人々や、深夜の部屋でため息をつく人々、行くあてもなく空を見上げる人々がいる。そういう人たちに私は感謝したい。彼等のおかげで世界はドラマチックになっているだから。
ドラマチックだけが私を退屈から救ってくれる。
世界がドラマチックである限り、永遠の不幸にだって耐えられるだろう。 でももし、世界からドラマチックが消えたら、私はどんなに幸福でも耐えられないに違いない。
おそらくそれは誰にとってもそうなのだろう。不幸が消えた世界では、人はあまりの退屈さに滅亡してしまう気がする。
人間にとって不幸こそが前進や向上へと駆り立てる原動力なのだから。
*
私が辿り着いたこの場所がどこなのか、今の私には分からない。この道が正しいのかどうかも。
たぶん、間違ってるだろう。 それはそうだ。最初から正しい道などないのだから。 せめて、最後は自分の望む場所に辿り着けますように……。 *
どんなに大きな事件もーーニューヨークのあのテロでさえ、大海を前にした砂浜の一粒の砂に過ぎない。
地球上で起きた大きな出来事も、全宇宙の中では取るに足らないささやかな出来事だから。 けど、忘れてはいけない、この世界はそういう一粒の砂のような小さな出来事や存在が大量に集まって形作られているということを。 そして、その砂浜の砂も、一億年前は高い山の山頂にあった大きな岩だったかもしれない、ということも。 *
文章の書き手と読み手は幸福な関係で結ばれていなければならない。
書き手は書くことで自分を幸福にし、読み手は読むことで幸福になる、それが正しい関係性だ。どちらか一方でも不幸なら、その関係は正しくない。
特に書き手には大いなる責任がある。書くことによって自分を幸福できなければ書くことはやめた方がいい。そんな文章では誰も幸福にできないのだから。
*
*
*
体調の方はようやく完全復活に近づいた。完全ではないのは長い期間怠けていたせいで体力と気力が万全ではないから。実際は治ったと思っていいだろう。今度こそ。
やれやれ。今回は自分でも信じられないほど長引いてしまったものだ。次にこんな重い風邪になったら今度こそ病院行きと決めた。もう自分の回復力を過信してはいけない。
今年も残り二ヶ月を切ってしまったけど、これからの二ヶ月はなるべく自覚を持ってきちんと過ごそうと思ってる。もう風邪をひくことはないだろうし。
まずは映画を復活させて、次はロングドライブと海だ。気力も戻ってきているから、なんとかこのあたりまでは実現したい。そして、余力があれば何か新しいこともしてみたいところだ。
買い物やオークションやその他諸々は状況に応じて。
この前の売りで3万ちょっとになったから、これで一息つける。売り残しもまだ少しあるし、買いもまあぼちぼちいこう。 ゲームの調子も今はけっこういい方だから、こういうできる時にやっておくのがいい。できなくなるとまったくできないから。
欲を言えば本読みの気持ちも戻ってくれるといいんだけど、こればっかりはもう数年眠ったままになっている。時間の問題じゃなくてあくまでも気持ちの問題だ。読めない時に義務のように読んでもさっぱり面白くないから、やっぱり気持ちが戻るのを待つしかない。
*
書くのを忘れてたけど、三菱ビデオHV-V700中心のビデオ、オーディオシステムは無事設置と設定が完了した。うん、悪くない。
HV-V700自体は、ちょっとビデオ部分の調子が思った以上に悪かったので使えそうにないものの、地上波、BSチューナー兼AVアンプ兼三次元Y/C分離機としては申し分ない。システムの中心になったから、しばらくはこのまま使うことになるだろう。
それにしてもHV-V700のチューナーは大したものだ。地上波の画質もBSに迫るものがあるし、音がまたいい。同時期に発売された三菱のHV-BS800より更に数段いい感じだし、パナソニックのSB50とはカセットテープとCDくらい違う。
機種によってチューナーの性能はかなり違うとは聞いていたけどここまで違うとは思ってなかった。
チューナーだけでもHV-V700を使う価値はある。
もう一つの目玉、三次元Y/C分離の方はあまり劇的な効果は感じられない。
特に外部入力の場合、S端子ではなくコンポジット入力になるため、粒子自体が荒くなってしまうから結果的にきれいには見えないのだ。
まあLDなんかでアニメを観るためにはいいのかもしれないけど、普通のビデオとつないで効果を期待するのはどうやら違うようだ。
なんにしても今までバラバラだったビデオとゲーム機がHV-V700で統合されて使い勝手はかなりよくなった。もうリモコンを4つ持ってあちこち切り替えをしたりしなくてよくなった。
音に関しても、HV-V700のヘッドホン端子からSONYのアクティブスピーカーにつないで、音声出力でコンポにつないだから、その気になればかなりの音が出せる体制は整った。
ま、実際は近所迷惑になるから大きな音は出せないのだけど。
システムが完成してまた目標を失った。今すぐ欲しい大物がない。うーん、本当にないな。困った。何か見つけないと。
WOWOWは延びのびになってるけど、これは来週あたり申し込む予定。
スカパーとかも考えたのだけど、一からあれこれ揃えるのが面倒なので今回は見送る。
あ、そうそう、少し前にこの日記で書いた、SONYのビデオデッキソSLV-SR7に内蔵されてるアナログCSだが、あれはもう何も受信できないらしい。スカイパーフェクトTVになる前のパーフェクトTV時代のものなのかもしれない。
あやうくそれを目当てに買ってしまいそうだったけど、無駄金使わずにすんでよかった。
SONYったら、たまにこういうトンチンカンなことをするから油断できない。ひとりで頑なにベータ・デッキを作ってた、みたいに。
*
レンタルビデオで、ドラマ「スウィートシーズン」を観た。
実はこれ、一本目を観てすぐ、放送してる時観てたことを思い出したのだけど、一話目が面白かったのとラストを覚えてなかったので、結局最後まで全部借りて一気に観てしまった。
いや、これ、いい。本当に。名作と言ってもいいんじゃないか。
観ているうちに色々なシーンで自分が当時どう感じてたかも思い出したのだけど、その時とは全然違うことを感じたり考えたりすることができてとても面白かった。
父親と娘のそれぞれの不倫を中心に家族の関係性を描いたもので、以前の私はすごく嫌な思いをしながら観てたけど、いろんなことが許せるようになった今観てみるとよく分かる部分が多くて、共感もしたし、面白かったし、幸せな気持ちにもなれた。
人を好きになることが人生の中でいかに大切なことかということをまた思い出したのだった。
それにしても今更松嶋菜々子のよさに気づいた私って、やっぱり遅すぎるのか?
今まで、「変な顔」としか思わなかったんだけどなぁ。
機会があったら「スウィート・シーズン」、ぜひ観てください。30過ぎてから観た方が楽しめるはず。
*
季節は動き続け、入れ替わり、巡りゆく。
同じ季節はひとつもない。同じ歌が一曲もないように。
2001年の秋は2001年の秋にしか存在しない。
だから、今しかできないことがある。
猛スピードで進む季節に置いて行かれないように、全力でこの季節を駆けなくては。
一所懸命やれば幸せになれるわけでもないし勝負に勝てるわけでもない。
でも、一所懸命やらなくても手に入れられるものにどれほどの価値がある?
頑張らずに勝っても嬉しくないのだから、頑張ろう。
すべては感動と歓喜のために。
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今日のための言葉
「おばあちゃんが言ってた。季節は待つものよ、って」
ドラマ「スウィート・シーズン」より
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11月1日(木) 「マイナスイオン逆効果?」 |
いつまで続く、この体調不良。 いい加減飽きあきしてるんだけど、実際治らないし、元気出していこうと思っても、ちょっと動いたり風呂に入ったりするとだるくてちょっとぐったりしてしまうから、もう治ったんだと自分を誤魔化すこともできない。
あと少しだけによけいもどかしい。 まあ、これ以上悪化するような様子はないから、とりあえずこのまま完治するのを待つしかないと思っているのだけど。
*
今日、オークションで買ったマイナスイオン発生空気清浄機「新鮮快缶」(送料込み1,200円)が届いたので早速作動させてみた。
なんでもマイナスイオンとオゾンを発生させて、匂いを取ったり空気をきれいにするんだとか。
で、その使い心地だが……。
もしかして、これ、オゾンの味? それともマイナスイオンの味? 気のせいかもしれないけど、マイナスイオンとオゾンがあふれた部屋の中にいると、口の中が妙な味になる。なんというか、タバコを吸いすぎた時にちょっと似た感じとでも言おうか。 すごく不快とまではいかないけど、でもちょっと気になる。
それともこれは体調不良のせいなのか?
別にこれを使ったから何かが悪くなったということはないし、石川ミーも落ち着いて寝てたから問題はないと思うのだけど。
慣れればなんともなくなるのか、どうなのか。体にいいというならこのまま使うけど、どうなんだろうなぁ。
もしかして、用途が違うとか?
主な使用目的は、冷蔵庫の匂いを取ったり、野菜を新鮮に保ったり、下駄箱に入れたり、車の中で使ったり、と書いてあるし……。
うっ、根本的に使用目的を間違えているのかぁ?
いずれにしてももう少し様子を見よう。あんまり気持ち悪さが続くようなら逆効果だから部屋から出した方がいい。
やれやれ、マイナスイオンならなんでもいいってわけじゃないんだな、やっぱり。
*
今日はこれといって何もない一日だったにもかかわらず、なんとなく慌ただしくてバタバタした一日だった。
オークション取引の後かたづけをあれこれやり、オークションに出すためのビデオデッキを掃除して、明日までに返さないといけないビデオを3本観て、ゲーム「Noel3」を終わらせて、その他あれこれあれこれ……。
そして今、一日の残り時間がほとどんなくなってきて少し焦っている。この日記を書いて、少し更新して、その後もちょっとやらないといけないことがある。
こういう時は一日を1時間延長するんだけど、今日は体調が悪いからそれはやめて早く寝たい。
日記なんかをダラダラ書いてる場合じゃない? 確かにそうかもしれない。今日は短く切り上げよう。
*
もう11月だ。恐ろしいことに。
年賀状も発売されてしまったし。
絶不調の夏をなんとか乗り切り、秋こそは動けるだけ動いて突破口を見出したいと願っていたのに、ここへきて長期の風邪は痛い。目論見が大きく狂ってしまった。
12月に入ってしまったら何かと慌ただしくなってしまってロングドライブどころじゃなくなってしまうから、11月中に少しは動きたいところなのだけど。
この調子では一回どこかに行けるかどうかといったところだ。いや、一回でも行ければいい方かもしれない。
たとえ風邪は治っても体力がかなり落ちてる感じがあるからしばらくリハビリしないと。
まだしばらくは遠出をする自信が持てない。12時間ドライブなんかしたら途中でくたばってしまいそうだ。 行けるものなら福井の三方五湖まで行ってみたいことろではあるけど。
富士山はちょっと気分的に遠くなってしまった。
すべては治ってからの話か。
明日は外での用事があれこれある。早めに出て、なるべくたくさんこなしたい。
少し寒くていい天気になるらしい。
*
もっといろんなことを好きになって、許して、愛して、優しく抱きしめたいと思う。
見返りがなくても、自分のできることをできる限りしたいとも思う。
それがきみの精一杯か?
そう問われた時、そう、これが私の精一杯だ、と強くもなく弱くもなく普通の調子で答えられるように。
今日誰かが私に、それがきみの精一杯なのか、と訊いたら私は……。
力無く首を横に振るだけで何も答えられないだろう。
それじゃあ駄目だ。
すべてを優しく受け止め、愛したい。
それが、始まりで、終わりだから。
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今日のための言葉
「咲くということは、この季節が好きだからだろう。
好きということは素晴らしいこと。 人だって不毛の愛に花を咲かせたりする」 三越左千夫
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10月30日(火) 「消えない時間、目の前の永遠」 |
毎日をスペシャルな一日にしたいと思うし、しなければならないとも思う。 昨日と違う今日にしなければと。
ささやかでもいいから毎日特別なことをしたい。
観たことのない映画を観たり、聴いたことのないアーチストのCDを聴いたり、行ったことのないところに行ったり、乗ったことのないバスに乗ったり、走ったことのない道を車で走ったり、買ったことのないものを買ったり、そんなことでいい。とにかく今日という日が昨日と同じでなければ。
違うことをすれば何かが良くなるわけでもないけれど、特別なことをしなかった一日は何もしなかったような気がして嫌な気持ちになる。 明日も何かしよう。今まで感じたことのない何かを感じられるように。
*
心に響かない言葉が溢れるこの世界の中で、それでも私は言葉を探して漂っている。言葉を信じているから。
心の奥まで届く言葉が確かにある。とても少ないけれど、それはある。
私は幸福だ。自分のための言葉を知ってるから。
*
空と陸がつながった、たかが100キロの距離が果てしなく遠いことがあり、10センチが永遠に届かないこともある。
見えているものに触れられないことはとてもつらいことだ。最初から何もないことよりもずっと。 目の前の永遠、そんなものもある。
*
記憶は消えても経験は消えない。
過去も決してなくなることはない。 すべての時間は積み重なる。入れ替わるわけじゃない。
変化もまた一方通行の積み重ねだ。何もなくならないし、戻らない。
一切は消えない。そのことを忘れないように。
*
人は飛べない?
なんでそんなふうに決めつけてしまうんだろう。
人は今日まで飛べなかっただけじゃないか。明日になったら飛べるかもしれない。千年後か、一万年後かもしれないけど。
でも人はいつか飛べるようになるだろう。飛びたいという気持ちを持ち続ける限り。
*
遠い未来だったはずのことがいつの間にか近い将来になり、気が付けば明日になり、今日になり、あっという間に過去になる。
時間の経過というのは恐ろしいものだ。容赦がないから。
そして、やがて、未来も将来も失う。いつか必ず。
*
幸福というのはもしかしたら思い出の中にしか存在しないのかもしれない。青春時代が記憶の中にしか存在しないように。
でもそれならそれでもかまわない。思い出の中に確かな幸福が存在するなら、そのために生きる価値はある。
いずれにしても生きるということはそれ自体幸福なことだ。本当にそうなのだ。
*
もう若くないないんだから白けたり、すかしたりすることで自分を守る必要はない。
もっと熱くなったり、一所懸命になったり、張り切ったりしたりしてもいい。そんなことは全然恥ずかしいことじゃないんだから。
スポーツでも仕事でも人生でも、頑張って、汗かいてやった方が面白いに決まってるんだから。
私のおすすめは、街を走ることだ。意味もなく街を駆けることは恥ずかしいけど、やってみるとこれがとても気持ちいい。不思議な爽快感や優越感みたいなものを感じる。
息が切れるまで走るなんてことはもうほとんどなくなってしまった今だからこそ、街を全力疾走してみるといい。きっと何かを感じて、何かを思い出すだろう。 *
自分を闇雲に許すんじゃなくて、根拠を持って自分を肯定したいと思う。
好きな作家や映画監督を認めるように。
そのためには確かな根拠が必要だ。感覚だけじゃなく。
そうなるとやっぱり実績とか結果ということになるのだろう。才能や可能性だけは肯定し切れない。
*
ただ生きているだけでも分かるようになることはたくさんある。
でも分かることが目的じゃない。分かったことを活かして生きることが大切なことなのだ。
分かったからといって安心しちゃいけない。学校を卒業したら勉強は終わりじゃないのと同じで。
目的と手段を混同しないようにしなければ。
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風邪は90パーセント回復した。まだ動くと少しだるいのと、たまに咳き込むから、完全復活ではない。
でも入院なんかにならなくて本当に良かった。入院もいい経験にはなるかもしれないけど、いかにも面倒くさいし、時間を失いすぎる。
入院と刑務所入りはしないに越したことはない。
あと10パーセントはゆっくり治そう。ここまで長引いたんだから、今更焦ってもしょうがない。
少しずつ体も動かしていって、体力も戻さないと。体重と腹筋はこのままの方がいいんだけど。
とりあえず今日も早寝する。6時までには寝たい。
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今日のための言葉
「千以上の言葉を並べても
言い尽くせない事もある。 たった一言から 始まるような事もあるのにね……」 GARNET CROW「千以上の言葉を並べても...」より
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10月29日(月) 「生きてるともらえる小さな贈り物」 |
人は死ぬ、ということを思い出し、自覚した昨日、今日だった。 死にかけないとなかなか死を実感するのは難しい。日常の中では死は遠いものだ。
でも、死を思い出すということは生を思い出すことでもある。
まだこうして生きている。鼓動のひとつひとつさえも大事にしなければ、と思った。
ま、2、3日で忘れるだろうけど。
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自殺者の数が日本で年間3万人という事実がこのところずっと頭の中にあって消えない。
昨日も80人が自殺し、今日も80人が自殺し、明日も80人が自殺する。
それを単なる悲劇だと思っているわけではない。そうではなく、そういう事実があることをもっと自覚して毎日を生きる必要があるんじゃないかと思うのだ。
交通事故やその他の事故、病気、殺人、戦争、飢餓、様々な理由で毎日大量の人が死んでいる。
そしてその反動のように、次から次へと赤ん坊が生まれてきて、私は毎日大して代わり映えのしない日々を過ごしている。
なんだか不思議な気分だ。生と死がドラマの中の出来事のように現実味がない。でも間違いなく事実なのだ。
私はもっと生きる必要がある。もっと強く、もっと多くを。
生きていることが本当はとてもドラマチックなことなのだということを思い出せるように。 *
一番の悲劇は自分を幸福にできないことではない。本当の悲劇というのは、誰も幸せにできないことだ。いくら自分を幸福にしても悲劇からは逃れられない。
私が才能にこだわり、才能を愛すのは、才能が大勢の人間を幸福にするだから。
才能がすべてではない。もちろんそんなことは分かっている。でも、才能は確かに人を幸せにする。
たくさんの人を幸せにできることが自分にとっても幸せなことだと私は思う。
才能というのは何も特別なものじゃなくていい。スポーツや芸術の才能が才能のすべてではない。
それぞれ、自分が持っている才能で最大限人を幸せにすればいいし、それは誰にでも可能なことだ。
人に親切にすることだって、人を愛することだって、立派な才能に違いないのだから。
大切なのは才能を自分のためでなく人のために使うことだ。才能というのはそのためにあるのだから。
使い方を間違えると才能に復讐され、つぶされる。
人類の進歩というのは、こういうちょっとしたことにみんなが気づいて実行することだと私は思う。みんなが超能力を持たなくては幸せになれないわけじゃないだろう。
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ふとした瞬間に、静かで暖かい幸福感がふいに自分の中に広がることがある。
どういうきっかけかは決まってないなのだけど、それは前触れもなく突然訪れる。
自分の好きなトーンの文章を読んだ時や、車を運転しながら見た景色に何かを感じた時とか、忘れていた過去の記憶が甦った時などに。 でもそういう瞬間は本当に一瞬で、もう一度思い出そうと思ってもなかなか思い出せない。とても残念で悔しいのだけど。
あれはきっと贈り物なのだろうか。そう、生きていることのご褒美のようなものに違いない。そういう瞬間があるから、人はつらくても生きていたいと思うのだろう。
人は、小さな幸福があればそれだけで生きていける。
* 幸せに関わる場所に自分もいたいと思うし、何等かの形で幸せを生み出し差し出せる人でありたいと願う。
自分で自分を幸せにすることの虚しさに気づいた今、本心からそう思う。 幸福は決して自己完結しない。 *
「あの頃」を持っている私たちは、「あの頃」を持たない若い人たちよりもずっと幸せな存在だと思う。
若い頃は思い出を馬鹿にしてたけど、今は思い出の大切さや良さを知っている。
思い出を抱えることは過去を振り返ることではない。思い出は大切な財産だ。自分で生きなければ決して手に入れることができない財産なのだ。
昔好きだった人のことを懐かしく思い出すこともまた、ひとつの幸せだろう。
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今日のための言葉
「 人生は贈り物。無駄にはしたくない。
どんなカードが配られても、それも人生」
映画『タイタニック』より
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10月26日(金) 「運命以外」 |
生きている間に人生の本質に近づくことができる機会はそれほど多くない。ほとんどないと言った方がいいかもしれない。 だから、その機会が訪れた時は恐れず本質に触れてみるべきだろう。私はそう思う。
たとえそれが悪事だったとしても。
汚れることや罪をおかすこと恐れていては、何も手に入らない。
せっかくこうして生まれてきたのだから、生きることの本質を知りたいと思う。
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運命は確かにあるんだろう。ないとは思えない。けど、運命以外の部分でやれることもたくさんあるに違いない。
その個人的権限の中でできるだけのことをやることはとても大事なことだ。その部分で幸せの形を見つけて実現させることができたら、もう運命など必要ない。
毎日の自由時間で何をやるかまで運命が支配してるわけでもないだろう。ならばその時間は自分の意志で何かをしなければいけない。自分のために、未来のために。
一番いけないのは運命を言い訳にしてしまうことだ。
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人間、好きなことしか本当には頑張れないのだから、好きなことをやった方がいいに決まってる。もっと言えば好きなことだけやっていればいい。それでは人生も生活も成り立たないと言うのなら、それは好きなことをやり足りてないということだ。好きなことを本当に毎日やり続けていたら、それが仕事にならないはずがない。
好きなことをやらなきゃ損だ。やりたくもないことに多くの時間を使えるほど人生の持ち時間は長くない。
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まだまだ、学ぶべきことは無限にある。充分なんてありえない。
今ようやく私は、無限の入り口まで来たところだ。 体力と気力が続く限り、無限の海を泳ぎ、漂うことになるだろう。
無限の向こうには、一体何があるんだろう?
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失った多くのものを嘆くより、ここまで来たからこそ見えるようになったことや分かるようになったことがたくさんあることを喜びたい。
たとえプラスマイナスゼロだったとしても、ここまで生き延びてきて本当に良かった。この先も、死んでいった人たちのためにも生きようと思う。
死ぬことに比べたら、どれだけいい加減に生きても生きる方がずっといい。
明日は、まだ手つかずの新しい一日だ。そう、明日はすべてが新しい。
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体調の方は治りかけの状態で止まったまま、良くも悪くもならない。咳が時々ひどくなったり、少しだるさと熱が残っている感じもある。ここまで風邪が長引くことは珍しいのだけど、この風邪はしつこい。
シュワルツェネガー主演の『シックスデイ』を観た。
作品の出来は、まあそこそこだろう。つまらなくはないけど特別面白いわけでもない。でも、シュワちゃんはやっぱり魅力的な俳優だ。一時病気がかなりひどくなったみたいだけど、治って良かった。なかなか得難い俳優だから、まだまだ元気で活躍して欲しい。
アニメ『青の6号』はまずまず。初のフルデジタルアニメーションということで話題になったけど、作品世界の作り込みはもうひとつか。
もっと魅力的な作品になり得るのに惜しい。続編は作らないのだろうか。
とりあえず、PSとDCのゲームあるので、そっちも近い内にやってみようと思ってる。
ゲームといえば、「真・三國無双2」が終わってしまって、やるものがなくなった。
「エコーナイト2」を始めてみたけどどうにも乗れないので早々に挫折してしまった。
そろそろ次のメインゲームを買わなくては。 思えばPS2の「ファイナルファンタジー10」は私に決定的な変化を与えたゲームだった。あのグラフィックを見てしまってからは、PSやDCのグラフィックではどうやっても物足りなくなってしまったのだ。グラフィックがゲームのすべてではないけれど、あまりにも貧弱なグラフィックではゲームの出来不出来以前にやる気が起こらない。 人間、進化したものにいったん触れてしまうと、もう後戻りはできないものだ。やり残した古い名作ゲームがたくさん残ってしまった。
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明日はV700が届くはずだから、届いたらビデオ関連の大掛かりな模様替えをすることになる。
何しろ配線がかなり複雑になってるから、これを全部やり直すのは大変だ。コードだけでも超タコ足配線の中から見つけ出すのは困難だし、アンテナの分配もテレビとBSをそれぞれ4分配、3分配しなければいけないからかなり複雑なことになる。頭が混乱しそう。いや、実際ノートに配線図を書かないと分からなくなってしまうことさえある。
半日くらいはたっぷりかかってしまいそうだ。
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とにもかくにも早くこの風邪をやっつけないことには話が前に進まない。いいかげん洗車だってしないとインテグちゃんが朽ち果ててしまいそうだし、映画も行きたいし、遠出もしないと。
なんとかこの土日の間に治したい。治ったら来週は動きたい。運動不足もけっこう深刻だ。偽ボディブレードも触ってない。
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今日のための言葉
「”それがどうした!”は僕の大好きな言葉のひとつだ。これを学ぶにはずいぶんかかったけど、一度コツがわかれば、もう二度と忘れることはない」
アンディ・ウォーホール
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10月25日(木) 「遠い空のこちら側」 |
風邪でくたばっている間、思ったほど言葉は溜まらなかった。ほとんど書かなかったから溜まっているのが普通のはずなのに。 やはり言葉というのは、思考と感情の産物ということなのだろう。頭を使わなければ言葉は生まれてこない。言葉が足りないのは、思考と感情が足りないということだ。
もっときちんと言葉のための思考をしなくては。 もう、かれこれ一週間になるからそろそろ治っただろうと思うかもしれなけど、これが治ってないのだ。まだ咳が止まらない。肺病じゃないんだからそろそろ咳は勘弁して欲しい。すごく疲れるし、上手く眠れない。困ったものだ。
咳以外の部分は9割方治った。まだ完全ではないけど、もう風邪を言い訳にして怠けるのは無理がある。
もういいかげん平常に戻さなくてはいけないだろう。少なくとも今週末一杯で完治させないといけない。ぼやぼやしてるとすぐに年末になってしまう。気の早い百貨店ではもうお歳暮セールが始まったようだし。
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欲しい欲しいと書いていた三菱のビデオHV-V700は、すっかりオークションで落札してしまった。やってもうた……。
でも、半分故障しているとはいえ(録画機能が死んでいるらしい)、V700が5,000円で買えたのは運が良かった。セレクタ兼、高性能チューナー兼、三次元Y/C分離としてだけでも5,000円以上の価値はある。7,000円は覚悟してただけに5,000円というのはちょっと嬉しかった。気分の問題として。
同じ日にあった三菱のBS65はなんとかこらえた。直前までかなり迷ったけど、どうにも使い道が思いつかなかったから。
でもまだまだこれくらいじゃ終わらない。次に狙っているのが、SONYのSLV-RS7だ。
SONYではSLV-R7というのがかなり出来のいいビデオデッキらしいのだけど、このSLV-RS7もちょっと捨てがたい。
というのはこのビデオデッキ、アナログCSチューナーを内蔵してる変わり者なのだ。アナログCSチューナーって……。使い道あるんだろうか?
パーフェクトTVがスカパーになってどうなってしまったのか、私は全然分かってないんだけど、アナログのCSチューナーでスカパーは受信できるんだろうか? うーん、どうも違う気がするなぁ。アンテナも別のような……。
それとも元パーフェクトTVのチャンネルだけ受信できるとかなのかぁ? それも違うのか。
うっ、分からん……。
まあなんにしても、ビデオの画像は不完全だけど電源は入るってやつなら2,000円〜4,000円くらいで買えるから、とりあえず買ってみよう。買えば分かるだろう。
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突然話は変わるけど、毎年交通事故で何人くらいの人間が死んでいるか知っているだろうか。約1万人だそうだ。以外と少ないような気もする。 けど、毎年約3万人の日本人が自殺してると知ったら、これはちょっと驚くんじゃないだろうか。毎年、毎年、3万人もの人間が自殺してるのだ。毎日、毎日、日本のどこかで80人以上も。 数字というのはあまり実感のわかないものだけど、時々圧倒的な力を持つことがある。たとえば、ベトナム戦争へ送られたアメリカ人兵士の平均年齢は19歳だった、というように。 この世界は死が満ちみちている世界だ。でも生もまた同じかそれ以上に満ちている。 死の存在を忘れないように、せいぜい生きることだ。生きられるうちは。 * まだまだ病み上がりで思考回路が散文状態のまま元に戻らない。少しずつ戻ってくるとは思うけど、あと何日かかかるかもしれない。 きちんと思考して、感じて、それを言葉にしなければ。取り込んだものを言葉にして、それをどこかに定着させることで初めて取り込んだものが意味を持つのだから。
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遠くの空に憧れる人間は、今いる場所で闘ってない人間だ。毎日必死に闘っていたら空を見上げる余裕さえないだろう。
空は美しく偉大だ。けど、空は所詮空でしかない。
人間が闘うべき場所は今自分が立っているこの地上に違いない。
もう、遠い空には憧れない。
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今日のための言葉
「空を見るのは人生が終わったやつがすることだ」
ドラマ「さよなら小津先生」より
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