2001.9.30-
10月23日(火) 「不完全復活」 |
まだまだ本調子にはほど遠いものの、グタグタと怠けるのにも飽きてきたので、今日から生活を平常のパターンに戻すことにした。ちょっとしんどいけど、まあこの状態に慣れるしかない。そうこうしてるうちに治るだろう。 今日はまず、部屋の片づけとたまっていたビデオの整理をした。 夜はオークションの出品作業。売れるものがかなりあったので、まとめて出す。7割売れて2万くらいか。 風邪もかなり本格的なんだけど、ビデオデッキ欲しい病の方がもっと深刻かもしれない。すでに4台体制になっているにもかかわらず、もっと欲しくて買ってしまいそうなのだ。 今狙っているのが壊れた三菱のV700と半分壊れた三菱のBS65の2台で、どうやら明日買ってしまいそうな予感が……。 V700は高性能チューナーと三次元Y/C分離のため、BS65は少し所有して転売するために。 やはりこれは病気だろうか? 更にもし今金に余裕があったら、絶対三菱のV6000を買ってしまうだろう。これにはすごく惹かれている。欲しい……。 もうかれこれ10年近く前の機種で、オークションでも3万もするのに。 それにしてもバブル期とそのすぐ後あたりのビデオを使っていると、最近のビデオが安っぽいおもちゃのように思えてならない。もちろん性能は今のものの方がいいんだけど、昔のビデオにはなんというか貫禄というか存在感みたいなものがあった。所有する歓びみたいなものが。 実際でかいし、重い。今10キロを超えるビデオなんてそうはないだろう。12キロなんて、体調が悪い時に持ったらよろけてしまうほどだ。 別に懐古主義ではないつもりだけど、ビデオデッキに関しては昔のものの方が断然良い。 無駄な贅沢が心地いいってこともある。 「真・三國無双2」もそろそろ飽きてきて力尽きる寸前。もう終わりにしよう。 「1」から大きな変更点がなかった分、飽きるのが早かった。まあそれだけ「1」の時から完成度の高いゲームだったということだけど。 明日は熱帯魚の水換えをしないといけない。なんとかそれくらいはできるだろう。 外出はとりあえずなしの予定。あ、そうか、郵便口座に入金してこないといけないか。 なんにしても今週いっぱいはなるべくおとなしくしていよう。それで完全に治して、来週からはまた動きたい。いきなり遠出は無理にしても映画くらいは行きたいところだ。キアヌのいい作品もあるみたいだし。 それとビデオを買ったらシステムの完全な組み直しをする。 今は継ぎ足し継ぎ足しでかなりバラバラになっているから、これをメインのビデオデッキにまとめることにする。ビデオ4台、DVD、ゲーム機4台、ステレオ、スピーカー、と。 そのために金メッキの高級S端子AVコードをオークションでまとめ買いした。5セットで2,500円。 ついでにアンテナにブースターを組み込んですべてのビデオやテレビのチューナーを使えるようにもしよう。そうすれば、テレビを観て、ゲームをしつつ、3つの番組が同時録画可能になる。 それからWOWOWも入るんだった。 やることはたくさんある。のんびりはしてられない。 今回の風邪ひきで思い出したこと。 一つは、咳は疲れるということ。 もう一つは、咳は腹筋を鍛えられるということだ。 咳のしすぎで腹筋が痛い〜。中学のテニス部時代を思い出したのだった。 この調子で咳をし続けていたら、いい腹筋が獲得できそうだ。 ……。 そんなものはいらないから、早く咳が止まって欲しい。 今日は上手く眠れるだろうか? ================ 今日のための言葉 「僕らはのどかな時間をこころおきなく楽しむために、あくせく暮らしているのさ」 宗夜苳治 |
10月22日(月) 「結末はまだ書かれてはいない」 |
重い風邪から少しずつ回復してきて、今日になってようやくぎりぎり日常生活を送れるようになった。やれやれ。 とはいえ、まだ咳がひどくて肺が痛い。だるさはほとんど消えたものの、まだ熱があって、暑いのか寒いのかよく分からないまま冬の恰好をして汗をかいている。
完全復活まではまだしばらくかかりそうだけど、もういいかげん風邪にも飽きてきたからそろそろ治りたいところだ。
それにしても今回の風邪は長引いた。調子が悪くなったのが先週の火曜日の夜だったから、そろそろ一週間になる。風邪はいつも3日くらいで治っていたんだけど、これも老化現象なのかか?
というか、これはただの風邪じゃない気がする。インフルエンザだろうか。
昨晩はあまりにも咳がひどくてもしかしたら肺炎にでもなったかと思ったくらいだ。
まあ、たぶんそこまでは悪くなってないだろうけど、入院だけはなんとしてでも避けたい。病院も行きたくない。だから肺炎にだけはならないようにしなければ。もちろん結核にも。 病気の時の夢はたいがい良くないものだけど今回のもひどかった。
平面の単純なパズルを解かされているんだけど何故か私はそれを立体のパズルだと思い込んでしまって、あまりにも複雑でどうやっても解けなくて困っている、というものだった。1から10までの数字に白いボールがいくつか並んでいて、それが立体方向にもずっと伸びていて、そのボールをどこかに運ぶんだかなんだか、そんな感じの。
それがどうやっても解けなくて何時間も考えてしまって、最後へとへとになったところでようやく意識を失って助かったのだった。あれは嫌な夢だった。
病気の間何をしてたかというと、ほとんどPS2の「真・三國無双2」をやっていた。
今更だけどゲームってのは頭を使わないものだということに気づいた。かなり意識がぼんやりしてても普通に楽しめたから。
おかげでやり込むことができて楽しかったのだけど。
あと少しやって売りに出そう。今ならまだ値崩れもしてない。 風邪になって良いことはほとんどないけど、でも普段は考えなかったり感じなかったりすることを考えたり感じたりできることは良いことだ。
健康であることのありがたさを思い出したり、死についても考えたりできる。
20年の無駄な人生というのは有りだけど、30年の無駄な人生はあってはいけない。
20歳で死ぬことは間違いじゃない。まだ人生が本当には始まってないから。なかったことにできなくもない。けど、30年生きて何もできず何も残せなかったとしたら、それは許されないと私は思う。30年はなかったことにできる年月ではない。
だからまだ私は死ねない。こんなところでくたばるわけにはいかないのだ。
ここまで積み上げてきた無駄に意味を付けられるのは、死ではなく未来でしかない。
何らかの結論を出さなくては終われない。
死はエンディングでもエピローグでもない。死は裏表紙だ。結末は自分の手で書かなくては意味がない。
これは他の誰のでもない、私の物語なのだから。
*
明日から少しずつ回復させていこう。生活もこの断想日記も。
完全に治ったら、行ったことがない街の見たことない海を見に行こう。
長生きしたい理由なんて、死ぬまでなくなりはしない。
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今日のための言葉
「ラストはハッピーエンドでなければならない? 終わることができりゃなんでもハッピーエンドさ」
押井守監督
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10月15日(月) 「行方不明の足りない部品」 |
毎日の楽しみはある。退屈じゃないってことは本当に感謝すべきことだと思う。楽しいか楽しくないかどちらだなんと問われればそれは楽しい。 けど、こういうことじゃない。私がいろんなことを犠牲にしてずっと探し求めてきたのはこんなことじゃないのだ。たとえ贅沢な悩みだと言われても、これじゃあどうにも納得がいかない。
私が探しているのは何なのか? それは感動だったり、歓喜だったり、達成感だったり、充実感だったりするんだけど、そういう非日常的なものだけじゃなくて、日常レベルでの興奮みたいなものなのだ。ある種の不安感を伴う高揚感と言ってもいい。
感情の大きな揺れが欲しい。 少し前までは、映画館へ行ったり、ロングドライブをしたりすることでそれは得られていた。日常のパターンを破ることで嬉しい気持ちを味わうことができていた。
でもそれらがもはや非日常的なことではなく単なる日常の延長になった今、それらのことはもう以前のような歓びを私に与えてはくれなくなってしまった。悲しいことに。 やはり、この状況を一気に打開するには、新しい恋しかないのかな……。 *
ただ不満を並べてるだけじゃあ何も解決しないのだけど、誰もが毎日の暮らしの中で何等かの不満を抱えているに違いないこの現実の中で、やっぱり不満をそのまま放置していては何も事態は改善されないと思うのだ。だから、不満をまず自覚することから始めよう。それから不満を退治する方法を考える、これが正当な順序だろう。
私自身、もっとちゃんと考えて、解決策が見つからないまでも、何か少しでもヒントを差し出さないといけない。今の私にはそれくらいしかできないけど、それならできるはずだから。
*
時々出会ったり見かけたりする絶対的に正しい人の前で自分はなんて無力な人間なんだろうと自信を失ってしまうけど、それは違う。
誰の正しさも真似する必要はないのだ。否定する必要も肯定する必要もない。
自分にしかできないやり方で正しく在ればいい。 人それぞれ顔が違っているように、体現できる正しさの姿形もそれぞれ違うものなのだから。
*
私は時に、正しさよりも賢さを優先させなければいけない。
善良さに打ちのめされてしまうこともあるけれど、それでも絶対的な賢さの追求もやらなければならないことの一つだ。
もちろん賢さがすべてではないし、答えでもないし、賢さは幸せにもしてくれない。でもあえてやらなければいけない。 それはある意味、誰もやりたがらない汚れ仕事のようなものだから。 *
すべてが見えるだけじゃ充分じゃない。手が届かない場所からすべてが見渡せても意味がない。自らも参加できる場所に立たなくては。
けど、参加しながらも同時にすべてが見えている必要もある。 すべてが見えるようになることが目的じゃない。そんなものは前提だ。
すべてを見極めるには人生は短すぎる。
では、どうすればいいか? 簡単な話だ。物事の本質を見極め、感じ、見えない部分を想像すればいい。その上で行動し、そして更に見極めるのだ。 見ること、感じること、想像すること、触れること、行動すること。そのどれかひとつでも欠けたら充分じゃない。 *
痛みを知れば心の中の言葉も変わるし、顔も変わる。目も変わる。
顔つきが変わっていかない人間は、あまりいい生き方をしてるとは言えないだろう。
*
誰かに何かを教えて欲しいと思ってるわけじゃない。でも、考えても考えても分からないことがどうにももどかしくて悔しい。時々本当に腹が立つ。
虚しい一人きりの闘いで、きっと報われることもないんだろうけど、それでも何等かの答えを出すまでは心安らかに生きることも死ぬこともできない以上、自分でなんとかするしかない。どの本にも答えは出てないから自分で見つけるしかない。時間はまだまだかかるのだろうけど。
あああ、それにしても一体なんなんだ、これは。
*
人は決してひとつの真実では生きていけない。たくさんの真実が必要だ。何種類もの食べ物からいくつもの栄養素を取り込まないと生きていけないように。
そして、いつの時代も、誰の心も栄養が足りていない。
いつか自給自足できるようになるのだろうか?
*
偉大な人間ほど自分の見えている面を信じすぎるところがある。自分は人には見えない部分が見えるから、その部分が物事の本質であり、すべてだと思い込んでしまう。
間抜けな話だ。
人間、偉くなりすぎると大切なものを失ってしまう。想像力を。
*
心の栄養のためには断然良いものを取り込んだ方いいに決まってるけど、自分を刺激して向上させてくれるものは案外駄目なものかもしれない。
駄目なものの実例をはっきり見せてもらった方が、自分を修正して向上させる時参考になるから。
逆に立派なお手本は真似ようと思ってもなかなかできるものじゃない。
下手な文章から名文が生まれ、駄目な親を見て立派な人間に育ち、貧しい食事から優れた料理人が出て、失恋からラブソングの傑作が生み出される。
そんなものだ。
*
時間をかけてもできないことは確かにあるけど、でも時間をかければできることもたくさんある。
人が自分にはできないとあきらめてしまうことの少なくとも半分は時間をかければできることなんじゃないだろうか。長い時間、たとえば10年とか20年とか。
できないことの理由は時間をかけてないからだ、という発想をいつでも忘れずに持っておいた方がいい。
目一杯時間をかけたなら、たとえ駄目ったとしてもあきらめがつくだろうし。
*
時々自分の不幸がすごく単純なものに思えることがある。逆にものすごく複雑なものに感じられることもある。
複雑な幸福というのはないけど、不幸には単純な不幸と複雑な不幸がある。
いずれにしても、解決策はいつでも単純なんだろう。足りない部品を一つ、正しい場所にはめてやるだけで正常に動き出すことが多い。
私のその部品は今頃どこで何をしてるんだろう?
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今日のための言葉
「一度とにかく顔を合わせて、ある程度まで心を触れ合った同志が、一旦別れたが最後、同じこの地球の上に呼吸しながら、未来永劫またとめぐり会わない…それは何という不思議な、淋しい、恐ろしい事だ。人とは云うまい、犬とでも、花とでも、塵とでもだ」
有島武郎
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10月13日(土) 「そこに可能性があるならば」 |
幸せになることは難しいけど簡単で、簡単だけど難しい。 それは、幸せと不幸は必ず折り重なるものだからだ。
たとえば、最初は好きな人と一緒にいるだけで幸せな気分になれる。けど、だんだんそれだけでは満足できなくなってきて、やがて不満から不幸を感じるようになる。だから、次の段階へ進むことで幸せになろうとする。
つき合う、幸せになる、刺激が足りなくて退屈になる、不幸になる、結婚する、幸せになる、また飽きる、不幸になる、子供が産まれる、幸せになる、子供が育つ、不幸になる……。
そういうことだ。
幸せを手に入れると不幸ももれなく付いてくる。読者全員プレゼントのように。
けど、不幸を恐れていては幸福は手に入れられない。でも、幸福の後には不幸がやってくる。
幸せになることは簡単で難しい。難しいけど簡単だ。
だから人生は退屈じゃないのだけど。
*
まやかしの幸せでも日常生活を楽しく過ごすためにはないよりましなのか、それともまやかしの幸せならいっそない方がましなのか?
その判断がつかない。
あまり好きじゃない相手でも恋人がいないよりはましなのか、それとも本当に好きじゃなきゃ一緒にいても意味がないのか?
それは個人の問題なのか、それとも普遍的な正解があるものなのか?
時々、個人として求めるものの正当性と普遍的正当性が、私の中でどうしようもなく混乱してしまってどうにも分からなくなってしまう。
主観的判断に従えばいいのか、客観的判断に従うべきなのかが。
いや、そもそも幸せというものがまやかしなのかそうじゃないのかさえも本当はよく分かってないのだ。
これだけ考えても分からない幸せって、一体何なんだろう?
*
私は言葉を上手く操ることができない。ずっとそう自覚してきたし、それは今でも変わってない。
少なくとも私が望むほど私は言葉使いが上手じゃない。
でもだからこそ、こうして今までずっと言葉、言葉といって言葉にこだわり、追求してきたのだと思う。
もし、私が最初から自由自在に言葉を操ることができたら、きっととっくに言葉を追いかけることなんかやめて他のことをしてるだろう。
努力しなくてもできてしまうことなんて、すぐに飽きてしまうものだから。
それにしてもいつになったら私はもっと思い通りに言葉を操れるようになるんだろう?
死ぬまでにはなんとかしたいけど。
*
良い文章は絶対に簡単でなくてはいけない。難解で良い文章なんてものはない。
どんなに難しい内容でも簡単に書くことは可能だし、簡単に書くことはテクニックでもあり、思いやりでもあり、当たり前のことでもある。
たとえば中学生が一度読んですっと頭に入ってこないような文章は駄目な文章だ。中学生が理解できないとしたらそれは致命的に下手だということだ。
難しい語句が入っていても正しい文章なら必ず理解できる。もしくは分かったような気になるはずだ。
文章は極限まで簡単にしなくてはいけない。
*
人類はもしかしたらこのままでいいのかもしれない。流れに身を任せ、自然の法則に従うことが結局のところベストなのかもしれない。
けど、たとえそうだったとしても、私はそれでは納得がいかない。人間にはもっと良くなろうとする意志があり、良くなりたいという願望があり、何よりもっと良くなる可能性があるのだから。 可能性がある限り限界まで追求すべきだと私は思う。自然の意志を超えてまでも。
それが人間としてこの世に生まれてきたことに対する礼儀であり、義務でもあるんじゃないだろうか。
今この世界では人間だけが生きるための努力を怠っている。他のどの生き物も生き残るために最善を尽くし、ぎりぎりのところで戦っているのに。
でも人間にはそれ以上の意志というものがある。向上心と言ってもいい。それがある以上、もっともっと可能性を追求してより良くなる必要があるはずだ。
目の前に可能性があり、自分の中に意志があるなら、あと残るは行為だけだ。もっともっと良くならなければいけない。他の生き物に対して恥ずかしくないように。
*
人間を知れば知るほど、人間というのは許し信じるに値する存在だと思えるようになる。
もしそう思えないとしたら、それは人間の悪い面をよく知っているからではなく、人間の良い面をよく知らないからだ。
人間はもちろん正しくない。この先も永遠に正しくはなれないだろう。
けど、人間には許されるに値する魅力と可能性がある。他のどんな生き物も持っていない可能性と魅力が。
何しろこれほど笑える生き物は他にいないのだ。人間は本当に面白い。それだけでも存在価値がある。
*
今の私は何者でもないけど、たとえ名前を奪われ、見知らぬ外国に裸で放り出されたとしても、私が感じる私自身の価値にほとんど変わりはないだろう。
何者でもないということは時に強味にもなる。
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今日もそれなりに満足にできる一日だった。
でも、そこそこの満足と引き替えに、私は日々何を失ってるんだろう?
私はもっと不満を過大評価する必要があるのかもしれない。
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今日のための言葉
「希望を持って生きねばならぬ、という価値観は捨てた方がいいし本当はこの世は生きるに値しない。でも子供に向かってそんなことは言えないので『とりあえず生きてみて下さい』と言うのが私の本音です」
宮崎駿監督
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10月11日(木) 「言い訳万歳」 |
天才になりたければ天才を目指さないとなれない。 そう、天才は自然になるものではない。目指してなるものだ。
どんなものでも同じだろう。何者かを意識して目指さなければ本当の意味で何者にもなれない。
人は誰でも名前を持っているけど、それが何者かの証明にはならない。 何者かであれば、たとえ名前を失って、裸になっても何者かであることができる。 逆に言えば、名前や肩書きを失ったら何者でもなくなってしまうようでは、本当の意味では何者でもないということだ。 *
完全なる絶望の予感はいつでもある。
けど、絶望は猫のように足音を立てずに迫ってくるから、捕まる瞬間まで分からない。
気づいた時には手遅れだ。
*
若い頃は難しいだろうけど、少し歳を取ったら、信じる心みたいなものを育てていけないような気がする。
若い時は弱いくて心も柔らかいから傷つきやすく、傷つくと痛いからどうしても自分の心を守ろうとする。たとえばいろんなことを信じないことで。
信じなければ裏切られることもなく、期待しなければ失望することもない。
でも心は生きていれば自然に少しずつ強くなっていくものだ。少々の傷では痛みを感じなくなる。
そうなったらもう、自分を必要以上に守るのはやめないといけない。傷を覚悟で積極的に信じなければ。
この世界は、信じることでしか始まらないこともたくさんある。
人間に対しても、世界の理想も。
そして究極は、すべてを信じることだ。
信じる者は救われる? そうじゃない。
何故信じる必要があるのか? それは、自分を自分で救うために他ならない。
目を閉じて、この世界のすべてを信じられるようになった自分を想像してみるといい。
もう何も恐れるものないだろう。そしてこうも思うだろう。
もう、神に救われる必要もないではないか、と。
信じるということはそういうことだ。
自分を救いたければ信じるしかない。自分を、他人を、世界を。それ以外に道はない。
*
何かを批判する時は、慎重の上に慎重を重ねてしないといけない。そして、批判はやむにやまれぬ必然性がなくてはしてはいけない。
無邪気な批判は無駄に人を傷つけるだけだから。
何も考えない批判は、道を歩いていたら前から歩いてきたやつがなんか気に入らなかったからぶん殴ってみた、というのと変わりないことを知っておくべきだろう。
そう、批判というのは暴力なのだ。
* ビデオで角川映画の『仮面学園』と『死者の学園祭』を続けて観てみた。
たぶん、ほとんどの人がこの作品を観て安いと感じ、詰まらなかったと言って切り捨ててしまうだろう。だから日本映画は駄目なんだとまで決めつけてしまうかもしれない。
確かにこの2本は間違いなくチープな作品だ。でも、チープなことイコール無意味で駄目なもの、では決してない。何も得るものがないと感じたとしたら、それは作品のせいではなく自分に感じる能力がないだけの話だ。人のせいにしちゃいけない。
たとえワンシーンでも、一行のセリフでも、何か感じるところがあれば、その作品には意味があるということだ。99パーセント駄目でも1パーセント良ければ、それは良い作品だということになる。
何故人は物事を駄目な部分で判断したがるのだろう? 良い部分で判断すればいいのに。
私はこれらの作品を観ながら、高校生だった時の気分や、無力さや、切なさや、恋心が何度も甦ってきて、ちょっと懐かしくて嬉しい気持ちになれた。それで充分だ。だから、この2本は私にとって良い作品だった。
たとえ評価は50点でもこの作品を観たことで私の中に何かが残ったし、それは今後何等かの形で役に立つだろう。この作品を観なければそれは得られることはなかった。
学ぶべきことは優れた作品や優秀な人や高度な社会の中だけにあるわけではない。下らないものやチープなものや駄目な人間からも多くのことを学ぶことはできる。
いや、良いものだけを見ていては永遠に物事の反面しか理解できないままだろう。
角川映画を馬鹿にする者は角川映画に泣く。
……。
泣かないって?
*
絶対的に正しい物事の見方などというのはないのかもしれない。
けど、楽に生きるための正しい物事の見方というのはあると思う。
この日記に書いているようなことはすべてそういうことだ。私自身のため、そして誰かのため。
私は常に言い訳を考えながら生きている。
言い訳というのはほとんどの人がマイナスのイメージで捉えているだろうけど、私の中ではそうじゃない。言い訳というのは必要なことであり、大切であり、なくてはならないものであり、そして誠意だとも思っている。
つまり、言い訳というのは私を理解してもらうための手掛かりであり、人が互いを理解し合うための道具でもあるからだ。
遅刻の言い訳なんか聞きたくない、などと言う人がいるが私は言い訳したいし聞きたい。聞けば納得できることだってたくさんあるから。
恋人同士、何かがきっかけで誤解し合ってしまった時は、お互いに言い訳をし合って聞き合えばいいではないか、と私は思う。
人と人がそれぞれ別の考えを持って別の生き方をしているのだから、何も言わなければ理解などできるはずもない。
何より大切なのは、人と人が理解し合うことだ。そのためには大いに言い訳をすべきではないだろうか。
言い訳万歳。 「ホントにゴメン。今日こっちの方角は鬼門だったから、方違えをしてたら遅くなっちゃったよ。はは」
などという言い訳にも一所懸命耳を傾けて、「なんだー、そうだったんだぁ。じゃあしょうがないね」くらいは言って欲しいものである。
最近一番笑った言い訳は、
「ねえ、明日デートしようよ」と男。
「あ、明日はダメ。犬の散歩があるから」
「……。」
いや、もちろん、私ではない。 死ぬ間際は、なんとしてでも会心の言い訳をしたいものだ、とずっと思っていてあれこれ考えている。
もし究極の言い訳を思いついてそれを言うことができたら、最高にいい気分で死ねるだろうな。 =================== 今日のための言葉
「人は仮面をつけることで初めて自由になれる」
映画『仮面学園』より
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10月10日(水) 「夢で思い出した長年のテーマ」 |
いろんなことが分からないから頑張らなくちゃいけないというよりも、分からないから頑張れるのかもしれない。 不幸が絶望を生み、同時に絶望と闘う力を与えるように。振り向いてくれない相手だからこそ強く恋することができるように。
前に進み、高く飛ぶためには、強い向かい風が必要だ。 *
もしこの世界がどこまでも永遠に続くとしたら、私たちの未来はぼんやりと鈍い光しか放たないだろう。
どこまで行っても終わりがないとしたら、希望は永遠に近づいてこないし、追いかけても追いつけない。
終わりがあるからこそ、私たちの未来は一瞬輝くことができるんじゃないだろうか。 *
不幸と幸福は同じものだ。どちらから見るかで違って見えるだけで。
神と悪魔が同一人物の両面であるように。
*
どんな出来事もすべて一過性のものなんだということを、どんなに納得できなくても常に理解しておかないといけない。
良い時期もいつかは必ず去る。 それは悪い時期も去っていくこととの交換条件だから、仕方のないことだ。 良いことが去らなければ、悪いことも去らないということになる。 永遠は、一瞬の連続で成り立っている。遠くから見ると模様に見えるものも、近くで見れば点の集合であるように。
私たちは一瞬から一瞬へ、点から点へあやうく飛び移りながら移動し、そして時に足を踏み外す。断絶に気づかず。
幸福も不幸も、繁栄も没落も、栄華も盛衰も、恋愛も孤独も、喜びも悲しみも、生も死も、すべてはその場限りの一瞬の幻。次の瞬間には消えて跡形もない。
だからこそ、一瞬いっしゅんを大切にして、全力で感じなければいけないのだ。今この瞬間はもう絶対に戻ることはないのだから。
鼓動の一つひとつさえも。
*
どんなに詰まらなくて下らない一日もゼロではない。一日を通過すれば必ず何かを得ることができる。何もないように思えたとしても、そんなことはない。絶対に何かがある。
だから必要以上に後悔したり絶望したり反省したりする必要はない。
大切なのは、日々を感じることだ。
*
*
*
久々に印象的な夢を見た。
何故か知らないけど、私が知らない女の子と何かの芝居を演じることになって、ずっと稽古をして、実際に演じて、最後はとても仲良くなる、というようなストーリーだった。
何が印象的だったかというと、私のその女の子への感情だ。
その子はとてもいい子で、外見も悪くなくて、気も合って、好きか嫌いかといえば間違いなく好きで、私の方から近づけばきっと上手くいくと思えるんだけど、どうしても踏み切れないものがあって、どうしたものかと悩んでいる、という感覚が目が覚めてもはっきりと残っていた。
まあ夢の話はそれはそれとして、問題はこの感情だ。 これまでに何度か抱いたことのある感情なのでずっと、起きてからもずっと気になって一日中考えることなく考えていた。 好きだし、上手くいきそうなんだけど、我を忘れるほど夢中になれない恋に似た感情の前でどうすべきか、という問題だ。
とりあえずいっとけって人もいるだろうし、それは恋じゃないから引き返してしまうという人もいるだろう。
だが私の場合、そこで立ち止まってしまう。行くことも戻ることもできず、しかもかなり長い間。
実際、今考えてもその答えは出そうもない。行くべきか速やかに引き返すかという二者択一の選択肢しかないとしたらどっちも選べない気がする。 別にそんなものどっちでもいいじゃないかとか、ケースによって色々だ、っていう考えもあるだろうし、それは正論なんだけど、でもこれはけっこう昔から私の中にずっと居座っているテーマなので、私としてはそろそろ結論を出したい気持ちもあるのだ。だから今日ずっと考えてしまったのだった。
少し引いて考えてみる。これに似たテーマがもう一つある。
それは、友達としてそのままの関係を続ける限りいい関係が続くだろうけど、もう一歩踏み込んだら壊れてしまうに違いない関係性の時、自分から進むべきかとどまるべきか、という問題だ。
これも私の中に長年あるテーマでいまだに答えは出ていない。
この二つのテーマに共通するのは、要するに恋愛は絶対的なものか相対的なものか、ということだろう。どちらだろう? 普遍としてではなく、個人的な問題として。
私は、基本的には絶対恋愛論者だ。間違いなく。けど、それを何の疑いもなく信じられるほど若くはない今、そろそろ姿勢を変えるべき時に来ているのかもしれないという気もしている。
恋愛や結婚なんて妥協だ、などと言うほど冷めたくはないけれど。
何らかの出来事や事件が私の取るべき態度を決めてくれるのか、それともこのまま幻想を抱いて朽ちるのか。
あるいは、ある日突然、天啓のように閃いたりするのだろうか?
それにしても夢の彼女は誰だったんだろう? まるで見たこともないし、知り合いをイメージさせる人でもなかった。これはけっこう珍しい気がする。夢の登場人物は知らない人にしても誰かがモデルになってることがほとんどなのに。 顔も悪くなかったという印象以外まったく思い出せない。
*
さよならも言わない別れは、一生心に引っかかり続ける。
最終回を観逃した連ドラのように。 でもそれは、もしかしたら幸福なことかもしれない。
それとも、甘い不幸と呼ぶべきか?
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今日のための言葉
「なんとなく好きで、その時は好きだとも言わなかった人のほうがいつまでもなつかしいのね」
川端康成『雪国』より |
10月9日(火) 「怠けるよりも悪いこと」 |
今日も表紙のデザインをあれこれ考えて試していたんだけど、これがどうにも決まらない。いくつかアイディアが浮かんで、完成型が見えたような気がして作ってみるんだけど、どうも良くない。今までのスタイルから脱してないし、完成度から見ても今の表紙に負けている。まだしばらくかかるかもしれない。 ここは発想の転換が必要だ。 ホームページビルダー6の「どこでも配置モード」は使えない。なんだこれは。この機能が欲しくて高い金出してわざわざ5から6にしたのに、これが使えないのでは意味がないではないか。やられた。
何がどう使えないかといえば、要するにレイヤーの機能が中途半端なのだ。というか、レイヤーの知識がないままこれは使いこなせってのは無理だと思うぞ。下手なことをするとものすごく変なページになってしまうのだから。
ブラウザによってだけではなく、個人の環境ーーモニタの大きさや解像度やウィンドウの大きさによって全然違う表示になってしまって、それをコントロールし切れないのだ。
たとえば、ページの初期設定のサイズは750×900ピクセルになっているのだが、これに合わせてページを作って全体をセンタリングしても、他の解像度(たとえば800×600)で見てみるとまったくセンタリングされてないっ。なんてこった。
いくら自由に画像や文字を配置できるからといっても、センタリング一つままならないようでは、どうにもこうにも使えない。 もしかしたら、ちゃんとレイヤーの知識があれがコントロールできるのかもしれないけど、そうだとしてもあの機能が「初心者にも簡単にページが作れる」とはどうしても思えない。
ちゃんと使いこなしてる人はいるんだろうか?
もし、使えれば画像や文字を自由に重ねて配置できるのはすごく便利だし、可能性もぐっと広がるからぜひ使ってみたいとは思うのだけど。
というわけで、しばらく「どこでも配置モード」は封印する。
表紙のデザイン変更ももう少し先になりそうだ。 *
たまにはノーマルな日記を書いてみよう。たまにならそれも悪くないかもしれない。
今日まずしたのはオークション関連のあれこれ。メール連絡、発送、確認、金の引き出しと預け入れなど。これがけっこう手間と時間がかかる。
それをなんとか終えて、次はBSの配線。
ようやくBS付きのビデオを買ったので、ビデオでもBSを観られるようにするためにケーブルを買ってきて、自分でコネクタを付けて配線した。
と書くと簡単な話なんだけど、実際はそう簡単な話でもないのだ。
テレビケーブルのF型コネクタは今まで何度も付けたことがあるから知っていたんだけど、BSのコネクタは初めてだったので付け方が分からない。ネットでさんざん調べてようやく解説図を見つけたのだった。うーむ。
出来上がりは思い切り素人仕事丸出しだけど、とりあえずつながって映ればそれでよしとする。 BS2台に分配したので若干画質が落ちたような気もするけど、気のせいかもしれない。そのうち気が向いたらブースターでも買おう。
BSが付いたところで一気にWOWOWもいってしまうことにした。デコーダは今無料らしいし、月に2,000円ならレンタルビデオ10本分だ。WOWOWにしたらまた録画したビデオがどんどんたまってしまってレンタルしてる余裕がなくだろうから、ちょうどいい。
スカパーも欲しいところだけど、そうなるとまたアンテナを換えたり、チューナーを買ったりしなくてはいけないから大ごとになる。まあスカパーは次のお楽しみということにしておこう。
それに、デジタル放送の動向もまだはっきりしてないし、ここは少し様子を見た方がいいだろう。
*
ビデオだけど、懲りずにまたオークションで落札してしまった。ああ、病気がぁ。
今度は三菱のHV-BS800というやつだ。6,250円。
1994年の定価12万円、重さ約6キロだからバブルが弾けてコストダウンの影響がかなりはっきりと表れつつも、まだバブル期の名残を残すビデオ、というのがこのデッキだろう。
機能としてはツインFEに、デジタル3ラインY/C分離くらいしかないから画質としては最高とは言えないにしても、それでも作りは今の薄っぺらいデッキとはまるで違うはずで、かなりいんじゃないかと期待している。特に録画性能とチューナーは期待大だ。
しかし、この時代のデッキはとても豪華な作りになっている。フタを開けてみれば一目瞭然で、今のデッキとこの時代のデッキでは同じ機能を持った機械だとはとても思えないほど違う。昔のはなんだか知らないけどやたら部品がぎっしり詰まっているのだ。 もし昔のビデオを持っていたら一度フタを開けてみるといい。笑うほど違うから。
明後日あたり着くはずだから、これは楽しみ。
この前買ったパナソニックのデッキについても少し。
NV-SB50。1993年、定価15万円。
この方が、上の三菱よりややバブルの名残が強いかもしれない。
やはりこれも基本性能はなかなか高いものがある。デジタル処理はしてないものの、画質はかなり素直で気持ちがいい。ややノイズが多い気もするけど、でも悪い感じではなくて、輪郭や文字はシャープで心地よい。
メカ部分も昔のものの割にはかなりキビキビしててストレスは感じない。
と、まあ概ね気に入って使っている。
ただし、二つ気に入らないことがある。
一つは音声。高級デッキとは思えないほど音が悪い。基本的に音が小さいというのもあるんだけど、どうも音がこもる感じがある。これはちょっといただけない。私は基本的に小さい音でテレビやビデオを観る方なので、もっとクリアな音の方が好きだ。
あと一つはリモコンだ。これの使い勝手が悪い。いや、ビデオ部分は取り出しボタンがない以外は特に不満もないのだけど、問題はテレビ部分。チャンネルの割り当てボタンがなくて、送りと戻しボタンしかないのだ。これはもう致命的に使いづらい。なんでこんな設計をしてしまったんだ?
私はいつでもビデオを観られるように、テレビは必ずビデオのチューナーを通して観ているから、ビデオのリモコンでテレビのチャンネルを変えたいのだ。なのに、割り当てボタンがないのはつらすぎる。
ビデオ、テレビ汎用リモコンを買うという手もあるんだけど、そうなると今度は残量時間の表示や頭出しなんかができない。
これは困った。ビデオの使い勝手を決めるのは本体だけではなく、リモコンの役割も大きいということをあらためて思い知ったのだった。
ということがあって、三菱のデッキをまた買ったというわけだ。リモコンに関しては三菱以上のメーカーはない。昔持ってたビデオのリモコンは本当に使いやすかった。
これでビデオは4台体制になる。うっ、そんなにいるのかぁ? まあダビングするから2台は最低いるし、それとは独立した接続でもう1台欲しいから3台は必要なんだけど、4台はさすがにいらないかもしれない。そのうち1台売ることにしよう。
それにしても欲しいのは三菱のHV-V700だ。他にももっと高級なビデオはたくさんあるけど、現実的な値段で高性能デッキとなるとこれにすごく惹かれるものがある。ああ、欲しい。この前リモコンなしで1万ちょっとで落札できたのに、あの時ちょっと頑張って落札しておくべきだったなぁ。惜しいことをした。
ま、そのうちきっと買うことになるだろうけど。
*
秋の新ドラマが始まった。
その中でなんといってもベストは「Antique〜西洋骨董洋菓子店」で決まりだろう。あまりの面白さに2回続けて観てしまったくらいだ。久々に出来のいい作品に当たった。
それもそのはず、監督があの本広克行で、脚本家が岡田惠和なんだから、面白くないはずがない。
本広克行は『踊る大捜査線』の時はまだまだ信じてなかったけど、『スペーストラベラーズ』で、おっ、やっぱりやるかもしれないと思わせ、『サトラレ』で完全にノックアウトされてしまったのだった。
大技も小技も上手い。これからまだまだいい作品を作っていくことになるだろう。
岡田惠和は実はこれまであまり意識してなかったんだけど、過去の作品一覧を観たら、私がいいと思った作品だらけだったんでちょっと驚いた。『ビーチボーイズ』、『君の手がささやいている』、『可愛いだけじゃ駄目かしら?』、『彼女たちの時代』、『天気予報の恋人』など。
なんで今までノーマークだったんだろう? これはいかん。これからは野島伸司、北川悦吏子と同列に考えなくては。
それにしても椎名桔平はいい役者になったなぁ。昔はなんだこいつ、中途半端だな、どうせすぐ消えるだろう、などと失礼なことを思っていたものだが、最近すごくいい。『彼女たちの時代』あたりから特に。最近観た映画『溺れる魚』でも抜群だった。
明日以降始まるドラマも楽しみだ。今回はなかなか期待させるものが多い。
*
あー、ノーマル日記は楽でいい。何も考えなくていいから。
でもなぁ、こんなんじゃ、いくら書いても意味がないんだよなぁ。
明日からはまた、もう少しまともなことを書こう。
意味のあることを書かなくちゃいけないのではない、意味のないことを書いてはいけないのだ。
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今日のための言葉
「日記は自分の内部に起こりつつある事を、はっきり当人に知らせてくれる」
ジャン=ポール・サルトル
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10月8日(月) 「痛みと戦うための力」 |
決して悲しみが消えることがないこの街で、言葉を持たずに毎日を生きている人たちに私ができることがあるとするならば、それは言葉を見つけ、差し出すことくらいのものだ。 でもその言葉は、悲しみを一時的にやわらげたり、心の痛みを散らすためのものではない。それぞれがそれぞれの痛みと戦うための力になる言葉でなくてはいけない。 慰めでも、癒しでも、励ましでもない。私の心の一番深い場所から発せられた悲鳴でなくては。
そのためには、私は誰よりも悲しい人でなくてはならないのだろう。
*
私は半分の絶対的自信と半分の絶対的自己不信で成り立っている。その中間はない。
絶対に負けないという思いと、誰にも勝てないのかもしれないという悲しい予感の間でいつも揺れてしまう。正反対の性格をした父親と母親の間で揺れる幼い子供のように。
でも本当は、不信でも過信でもない彼岸にこそ、立つべき場所があるに違いない。
いつか、自信と不信を同時に捨てられる日が来るのだろうか?
*
泣いている人を気の利いた言葉で慰めてあげるより、ただ一緒に泣いてあげることの方がその人のためになるってこともある。
誰もが優しさという言葉を使い、優しさを求める。でも本当の優しさとはなんなのか、それを知る人間は少ない。多くの人は、自分が求める優しさの形さえ分かっていない。
私もまた。 最近になってようやくその正体に少し気づきつつあるといったところだ。 絶対的な優しさの形なんてものは存在しないのかもしれない。でも、私は知りたい、本当の優しさというのはなんなのかということを。
*
人は失うことそのものが恐いんじゃない。失ってしまうかもしれないと想像することで恐怖を感じてしまうだけだ。実際に失ってしまえば、もうはや恐怖心はなくなる。
ただし、悲しみと痛みがそれに代わるのだけど。 失うことを恐れて失うことを先延ばしにしてもいいことはない。むしろ失う可能性のあるものは自ら捨てていく方がいいのかもしれない。
人はきっと、失えば失うほど多くのもを得られるはずだから。
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今日のための言葉
「言いたい事と、言わなければならない事とは厳に区別すべきである」
桐生悠々 |
10月7日(日) 「見えない足りないものの正体」 |
幸福を夢見てるんじゃない。 幸福の夢を見ているだけだ。 幸せの形は見えている。おぼろげではあるけど確かに見えている。でも手が届かない。 それはとても切ないことだ。喉が渇いてどうしようもないのに目の前にある水に手が届かないのに似て。 *
神は人間の味方などではない。ある意味ではライバルのようなものだ。いつか打ち負かすべき巨大な存在、それが神なのではないだろうか。
*
この世のすべての死は平等であって、死に点数をつけるのは人間の感傷でしかない。どの死も結論としての死に変わりはなく、死の重さ、あるいは軽さに差はない。
人間にできるのは、すべての死を受け入れることだけだ。 *
生きるほどに自分の言葉も増えていくけど、同時に言葉にならない想いも増えていく。
言葉を扱うことがどんなに上手になっても、語れない言葉もある。 *
年と共にだんだん自分が強くなっていくのを感じる。
でもそれはただ単に鈍くなっていってるだけなのかもしれない。 もっと若い頃は自分の中の繊細さを憎み、大急ぎで捨てようとしてきたけれど、もっと大事に取っておくべきだったのかもしれない。今更仕方がないけど。 強くなっていいことは、傷つきにくくなったことくらいのものだ。それ以外にいいことなんてあまりない。 自分を守りすぎることで失ってしまうこともある。 *
すべてが足りない。でも、本当に足りないのは何なんだろう?
どこをどう埋めれば私は満たされ、先へ進むことができるんだろう? 誰に問いかけても、その答えは得られなかった。自分自身もこのことに関してはよく分かっていない。 いつか答えが分かってみれば、それはごくごく当たり前で単純なことなんだろうけど。 *
映画の趣味くらい個人差がはっきり表れるものは他にないような気がする。
本やドラマやゲームや歌なんかももちろん個人の趣味というはあるけど、好きな傾向が似た人間はほとんど同じ系列のものが好きだったりするのに対して映画はまるで違う。他のものの趣味はなんでも一緒だという人間同士でも映画の趣味だけは全然違ったりすることが多い。かなりの部分で合う人でも、相手の大好きな作品が自分にしたら大嫌いな作品だったりすることもある。 映画の趣味が完全に一致する二人なんてものは、もしかしたら存在しないのかもしれない。 そこに映画の不思議があり、魅力の秘密があるんだろう。 映画というのは面白い。そして、他の何にも似ていない特別なものだ。 *
誰かが誰かの人生を肯定する。あなたの人生もきっと誰かが肯定してくれるだろう。
誰からも肯定されない人生というのは、たぶん存在しない。 この世界はそこまで絶望的な場所ではない。 *
今年の私のていたらくは実際相当ひどいものなんだけど、そうならざるを得ない理由が確かにあって、そのことがあるから私は自分に対してどうしても同情的になって自分を許してしまう。
人生にはたぶん、そういう年が何回かあるのだろう。プロ野球にどうやっても勝てない負け試合があるように。 まだ3ヶ月あるけど、この流れは変わらないだろう。今年はこういう年だったのだ。 残り3ヶ月、なんとか生き延びて来年に辿り着こう。 今年は本当にひどい年だった。 もちろん、すべて自分のせいで。 *
きっとこの先はもっと良くなる。いつもそう信じてきたし、これからもそれは変わらないだろう。
そう信じる心があるうちは大丈夫だ。きっともっと良くなる。自然にそうならなければ無理矢理そうするだけだ。もっと良くしてみせる。 =================
今日のための言葉
「良い映画には二種類しかない。内容が素晴らしいか、撮り方が素晴らしいかだ」
スタンリー・キューブリック
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10月5日(金) 「リアルタイムの快感だけを」 |
あなたに神の祝福をだって? 私に? ノー・サンキューだ。 間に合ってる。 *
人は他人といろんな関係性を作っているものだけど、中にはとても健全な関係性がある一方、ものすごく不健全な関係性もある。
たとえば互いに弱さを許し合うことで落ちていく関係や、奪い合うことでバランスを保っているような関係性とか。
逆に、相手を励ますことで自分も励まされるような健全な関係もある。
人と人との関係は、その方向性と距離感で決まる。理想的なのは、つかず離れず同じ方向へ向かう関係性だけど、それはなかなかあるものじゃない。
そうなると道は二つに一つだ。妥協して誰かと結びつくか、理想にこだわって一人でいるか。
正解があるわけではないから、自分が好きな方を選べばいい。 *
夕暮れ時、信号機の青色が実はものすごくきれいな色だということに突然気が付いた。
鮮やかなブルーのようでいて、見方によってはグリーンに見えなくもなくて、でもどちらでもない色だ。よくよく見ると本当にきれいな色をしている。
普段目にしてるのに気づいていないことが世の中にはまだまだたくさんあるに違いない。そう思うと、生きるのが少し楽しみになる。
*
過去の快感は過去の自分を喜ばせたものだ。今の自分を喜ばすものではない。
だから、記憶の中にある過去の快感を探り、再現させても意味がない。たとえできても、それは気の抜けた炭酸飲料のように味気ないものに違いない。
快感は常に新しいものではんくてはいけない。だから、日々新しい快感を求めなくては。
*
長く生きるほどにだんだん肯定する力がついてきた。自分も他人も世界も、今なら肯定できる。
それはとても嬉しいことだ。
自信を持って世界を肯定することができたなら、生きることも死ぬことも楽になる。
もっと生きればもっといろんなことを許せるようになるだろう。
*
毎日を虚しくないように生きることはできるだろう。そんなに難しいことでもない。
でも、虚しさを知ってしまった今、虚しさから目をそらしてそれをなかったことにはできない。
虚しさの正体を見極め、戦い、勝たなければならない。
誰の人生も虚しい。でも、虚しさが答えであるはずがない。
人はいつか、虚しさに打ち勝つことができるだろう。私はそう信じる。
*
*
*
今日もなんとか最後まで辿り着くことができた。
色々不満もあるのだけれど、とりあえずはよしとしよう。
いつでも明日には希望と可能性がある。
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今日のための言葉
「僕らの過去も映画を観るのと同じ。映画は同じなのに観る自分が変わって違う映画に思える違うものに気づく」
映画『12モンキーズ』より
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10月4日(木) 「絶望しないための絶望の仕方」 |
自分が今本当に生きているかどうか、もう一度よく確かめた方がいい。 興奮も感動も疲れも感じないような毎日なら生きてるとは言えない。死んでいるのと同じだ。
生きることは、息をすることじゃない。命を感じることだ。
*
世の中には良い偽善と悪い偽善があって、生まれながらの偽善者の私にはその区別がはっきり分かる。
善の悪の区別はつかなくても、良い偽善と悪い偽善の区別だけは見分けがつく。ヒヨコのオスメス見分け名人が一目でオスとメスを見分けるように。
*
無風地帯を一人で行くのは、逆風の中で競争相手と競いながら行くよりもずっと難しい。
人間はたいていの場合、絶対的な感覚よりも相対的な感覚を頼りに生きているからだ。あいつには負けたくないとか、友達よりも幸せになりたいとか、人より金持ちになりたいとか、そういうふうに。
他を全く無視した絶対的な向上心というものを人は持ち得るのだろうか?
それは限りなく不可能に近いような気がする。真っ暗闇の中を一人で正常な感覚を保ちながら永遠に走り続けるのが無理なように。
だから、他人をうらやんだり、人に負けたくないという気持ちは間違いじゃないと私は思う。ねたみも向上するためのエネルギーになる。
自分を向上させたければ大いに他人を利用すればいい。そうする以外に方法はないのだから。 *
空が夕暮れ色に染まり始め、人々が自分の家へと向かう中、私は車に乗り込み、街に出る。そうして、私の一日がゆるゆると一日が始まる。
一日は小さな絶望に始まり、大きな絶望で終わる。眠りに絶望を溶かし込むことでなんとか正気を保っているけど、すべての絶望が眠りとともに消えるわけではない。 車の窓から見える風景や人々は私に何かのメッセージを送ろうとしているように見える。はっきりそう思えるわけではない。でもなんとなくそんな気がするのだ。だから私は焦って、何度もなんども自分にこう言い聞かせる。感じろ、この光景を見てもっと感じるんだ、お前は何も感じないのか、感じなければおまえは無だぞ、と。 時々ふっと何かが掴めそうになる。あっ、と思って手を伸ばして掴んでみる。そっと手のひらを開いてみるとそこには……何もない。
多くの場合、見えるのは幻だけだ。 更に車を走らせる。やがて夕陽も見えなくなり、街が夜に覆われると、魔法が解けたように白々とした気分が私の中に満ちてきて、もうそれ以上何処へも行けなくなってしまう。 街はどこまでも続いているのに、私は向かうべき場所を見失ってしまうのだ。決定的に、絶対的に。 部屋に戻った私は、小さな楽しみや喜びで絶望を打ち消しながら深夜を待つ。 真夜中の空気を感じながら、私は確かに生きている。思い、考え、言葉を探し、絶望と闘いながら。
たくさんの言葉が見つかることがあり、まったく見つからないこともある。言葉が見つかればとりあえずそれで満足するけど、それがすべてではない。それだけではまったく足りない。
朝日が窓から射し込み、人々の朝の物音が一日の終わりを私に告げる。そして、毎日決まったようにつぶやく。 こういうことじゃないんだ、と。
でも、最近ようやく分かったことがある。絶望は願っても祈っても夢見ても決して消えることはなく、絶望を打ち消せるのは自分だけだということが。 絶望は20代の私の友達だった。絶望することで自分を支えていた。でも今はもう違う。絶望は敵だ。なんとしてでも打ち負かせなくてはならない敵になった。
そして、もう一つ分かったのは、絶望を知る者だけが絶望に勝つことができるということだ。
絶望の果てーーそんなものがあるとしたら、私は自分の目で見てみたい。そこはきっと、今まで見たこともないほどきれいな場所に違いない。 *
苦味を知る舌だからこそ甘みを知ることができる。そういうこともある。
*
滅茶苦茶な悲しみと絶望感から生まれた甘い言葉だけを私は信じる。
甘いだけの言葉と、苦味の隠し味を持った甘さはまったく違う。
甘いだけのお菓子は子供は騙せても大人を満足させることはできない。
*
絶望と希望は振り子の両端で、希望が大きいほど絶望も大きくなる。
でも忘れてはいないだろうか。絶望が大きければそれだけ希望も大きいんだということを。
絶望する能力が優れている人間ほど希望する能力も優れているのだ。
暗闇を知る人間こそ、光の大切さやありがたみを知ることができる。
*
絶望の天敵は何か?
それは、愛……かもしれない。
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今日のための言葉
「だが私は絶望はせん。この若者たちとヤマトのある限り。」
沖田十三『宇宙戦艦ヤマト完結編』より |
10月2日(火) 「1000年後の未来のためにできること」 |
中秋を過ぎ、これから冬に向かう中、日本国中で人恋しい病が静かに蔓延していくことだろう。それは昔も今も変わらない風物詩であり、もちろん、私も例外ではない。 けどこれは悪いことじゃないと思うのだ。人恋しくなれば人に対して普段より少し優しくなれるんだから。
*
たぶん、世の中に無駄な恋はひとつもない。正しい恋と間違った恋はあるかもしれないけど、たとえ間違いの恋でも、それは決して無駄ではない。
恋はその始まりから終わりまで、すべてに意味がある。途中のどこを切り取っても。
そのことだけは忘れないように。恋の途中の人も、恋が終わった人も、まだ恋が始まらない人も。
*
人間にとって一番の敵は、自然でも、運命でも、不幸でも、時でも、神でも、人間でもな。それは、無だ。
無意味、無駄、無為、虚無……。
何もないことが一番恐い。
人間の歴史は、無との戦いの歴史でもある。無に飲み込まれないように、人は多くの物を作り、伝え、残し、名前を付け、意味を求めた。
そして、ここまではなんとか危うく勝ち続けてきた。でもこの先のことは誰にも分からない。
いつか無に負けて、無に飲まれてしまうのかもしれない。
*
自分の中にあるものを、毎日出し切っていくことでしか自分の中から新しいものは生まれてこない気がする。
一日のエネルギーの上限は決まっているから、次の日にそのエネルギーは持ち越せない。だから出し惜しみしても意味がない。
限界は限界を超えることでしか上限を伸ばすことはできない。逆に言えば、毎日限界まで行けば限界は自分から少しずつ遠ざかっていくということだ。
今日限界を超えれば、明日は今日の限界を超えた自分で始められる。
*
この世の人間は全員間抜けだ。賢い人間なんて一人もいない。ただ間抜けさの度合いに少し差があるだけで。
他人の間抜けを笑う自分も間抜けだということを忘れないようにしなければ。
*
幸福感というのは、不幸からの解放でしかないのかもしれない。
マイナスがゼロに戻ることを人は幸福と呼ぶだけで。
幸福な状態が続けば幸福感もなくなってしまう。ゼロはどこまでいってもゼロだから。
*
待つだけじゃ駄目だけど、時には待つことも必要だ。
自分の気持ちがゴーサインを出すまで。何年でも、何十年でも。
見切り発車はいい結果を招かないことが多い。
*
地球の片隅で、誰にも何も与えられず、誰にも誉められず、正しい形容詞だけを探し続けた人間がかつて存在したことを、おそらく1000年後の地球で知る者は誰もいないだろう。
それでも、小さな証をどこかに残し、伝えたいと思う。 1000年後の未来のために、一体私に何ができるだろう? *
*
*
今日も「あいのり」はなかなか良かった。
絶対に届かないと思われた恋が届くこともある、ということを知ることができて。
でもそれは奇跡でもなんでもなくて、時に想いは届く、というひとつの実例にすぎない。
「あいのり」には感謝してる。私にいろんなことを教え、気づかせてくれ、感じさせてくれるから。
*
竹内まりやの『Bon Appetit!』がかなりヒットしてるということで、ここ何日か、車の中で竹内まりやの古いアルバムをずっと聴いていた。そして思った、竹内まりやはみんなが思っているよりずっと偉大なアーティストかもしれない、と。
ユーミンやサザンや中島みゆきほど大メジャーじゃないけど、それに匹敵するくらいの実力がある。少なくとも、ずっと前に一時もてはやされてその後消えてしまったポップス歌手、というのではないし、地味な実力派というのとも違う。
竹内まりやは偉大と形容すべき歌手だ。私はそう思う。 彼女が優れているところは、女友達の同士の細かい感情の揺れや、OLの気分を過不足なく描けるところにある。恋愛感情一辺倒に陥ることなく。
実はこのあたりの部分を歌う歌手というのは意外に少ない。女性アーティストは特に恋愛がメインになって、女同士の友情のことなどは描くにしても恋愛のついでに過ぎないことが多い。もしくは人生論になってしまう。
しかし、彼女はそこを自然な感情で歌うことができる。計算などではなく。そこがいい。 これは大学生の気分をきちんと描けるのが浜田省吾くらいしかいないというのに少し似ている。
「シングルアゲイン」、「告白」、「純愛ラプソディ」、「元気を出して」……。
久しぶりに聴いてもきっと感じるところはあるはず。
一枚アルバムを聴くとしたら、『IMPRESSIONS』がおすすめ。
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高橋尚子は世界新記録を出してなお、「まだ自分の限界はここにはない」と言った。
私もいつか自分の限界を知りたいし、見てみたい。
できることなら、自分の限界を知ってから死にたいものだ。
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今日のための言葉
「最近気づいたんだが、全部他人のせいに思える時は、たいがい自分のせいなんだよな」
映画『キングピン』より
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9月30日(日) 「重なる時代」 |
去年は幸せで意味のある一年だった。
今年は不幸せで意味のある一年だった。 どちらも大切な自分の一年。大切さに差はない。 それに、今年はまだ3ヶ月も残っているではないか。3ヶ月あれば充分何かをできる。ひとつでもいいから、意味のあることをしよう。きっとできるだろう。 * ようやく去年の残像が自分の中から消え、古い幸せの記憶を振り払うことができたようだ。 時間がかかったけど、これはしょうがない。 迷ったり、分からなくなったり、嫌になった時の私のキーワードは「Next」だ。そんな時はいつも、自分に向かって何度も言い聞かせる。「Next!
Next! Next!」と。
次だ、次へ行こう。終わったことはいいことも悪いことも忘れて次を考えること。それが自分を守る一番いい方法なんじゃないだろうか。 迷った時ほどシンプルに。
そのためにも自分の中の基本姿勢だけはいつも見失わないようにしなければ。 大丈夫、まだ終わってない。いつだって大切なのは、これからだ。 幸せの鍵は記憶が握っている。 楽しかったことや嬉しかったことを覚えていられるから幸せになれる。と同時に、つらかったことや悲しかったことを忘れることによって人は幸せになれるのだから。
幸せは毎日の暮らしの中にはそんないたくさんはない。けど、記憶を探れば実はたくさんある。たとえば、子供の頃感動して泣いたアニメの最終回を思い出してみる。そうするとまた感動が甦る。そういうこともやっぱり幸せの一つだと思うのだ。
あるいはこれから先実現するかもしれない甘い未来を思い描いてみる。それもまたささやかだけど幸せなことに違いない。
幸福は頭の中で探し、育てるものだ。
けど、忘れてはいけない。幸せの種は生きることでしか作れないということを。
*
時代はいつも動いている。とどまることなく。
ある瞬間にパチンっと切り替わるのだけど、それは決して突然の出来事などではなく、時間をかけて準備されたものだ。原因も理由も意味も伏線も必ずある。無意味に時代が変わることは絶対にない。
時代が変わることは確かに寂しいことではあるけれど、でも楽しみなことでもある。新しい時代では新しい人が現れ、新しい出来事が起こるのだから。
それに古い時代は消えるわけじゃない。新しい時代の下にある。時代は変わるんじゃない、重なるのだ。
*
私は確かに変わった。この10年で。もしかしたら、全部が変わったのかもしれない。良くも悪くも。
でもこれは私にとっていい変化なんだと思う。だって、10年前の自分よりも今の自分の方がずっと好きだから。まだ充分好きになれたとは言えないけれど、あの頃よりはずいぶん良くなった。
みんなも、もっともっと自分のことが好きになればこの世界はもっと良くなると思うんだけど。
この世にあるすべての憎しみは、自分自身に対する憎しみの変形なのだから。
*
*
*
今日のマラソンの高橋尚子は見事だった。世界記録を狙って世界記録を出したのだから。
彼女はあらゆる意味で常識を越えている。日本人の女子としてもマラソンランナーとしても。
小出監督は「モノが違う」という言い方をしたけど、本当にその通りだろう。
そう、彼女は伝説の名馬のようなものだ。
ずっと後になってから評価は固まるのだろうけど、もはや彼女は生きた伝説と言っていい。
時々生まれる、こういうとんでもない人間の存在が、絶望へと傾きがちな私を理想主義へと引き戻してくれる。
そしてこう思うのだ、人間の可能性はまだまだこんなものじゃない、と。 私も自分のできることをやろう。限界を見つけられるまで。 =================
今日のための言葉
「もう……、お前たちの時代だ」
ゲーム「ファイナルファンタジー10」より
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