2001.9.13-
9月27日(土) 「あの日の3つの約束」 |
あらゆる出来事は、すべての条件が揃った時、初めて実現するものだ。一つでも何かが欠けたら実現しない。 新しいことを初めてやった後や、難しいと思っていたことがあっけなくできてしまった時などはいつもこう思う、こんなことならもっと早くやっておけばよかった、と。 けど、それはたぶん違うのだ。過去では何かの条件が足りなかったから実現しなかったのであって、そのことを悔やんでも意味がない。
今日起こった出来事は今日しか起こり得なかった出来事であり、昨日の出来事は昨日しか起こらず、明日の出来事は明日だけのものに違いない。 すべての出来事はその場限定のもの。 明日はどんな出来事が起こるんだろう?
*
夏が去り、秋が近づく深夜、一人部屋の中で、果たせなかったいくつもの約束のことを思い出していた。
大事な人との大切な約束や、自分自身に対する約束を。
もう今となっては、それらの多くは思い出せないけれど、思い出せないほど多くの約束をし、いくつかの約束を守り、たくさんの約束を守ることができなかった。
それはやっぱり寂しいことだ。いくら仕方がなかったにしても。
でも、あの時、自分と交わした約束はまだちゃんと覚えている。果たせてはいないけれど、忘れてはいない。3つの約束だけは。
あの約束を果たすまでは、私はなんとしてでも死なずに生き延びなくてはならない。そして、必ず約束を守るのだ。何よりも自分自身のために。あの日の自分のために。
約束、か……。
*
*
*
昨日のナゴヤドーム行きから今日にかけて、なんだかバタバタとして落ち着かない。だからまとまった考え事ができずに、思考がかなり散漫になっている。考えることは現実的なあれやこれや細々としたことばかりで。
オークションの売り買い関係がまずある。売るための準備をしたり、買ったものが届いたり、買わなければならないものが二転三転したり。
そんな中、一番の問題がビデオだ。
部屋にはすでにビデオが3台あるというのにまだ懲りずにもう1台買いたくなってずっと探してて、それが今日ようやく気に入ったのが落札できた。それで喜んでいたら、直後に今までメインで使っていたビデオが突然壊れてしまったのだ。なんということ。自分がお払い箱になってしまうと察していじけてしまったかのように。
機械というのも時々こういうことがある。やはりなんらかの意志や命のようなものを持っているのかもしれない。 再生も巻き戻しも早送りもできなくなってしまったからもうこれはお手上げだ。クリーニングしてどうこうなる問題じゃない。どうやら走行系がいかれてしまったらしい。いつもはローディングが先におかしくなってきて、テープが絡んだりするパターンなんだけど、今回のようなのは初めてだ。まだまだヘッドも大丈夫だし、ローディングも壊れてないだけにちょっと悔しい。かといって分解して直すほどの知識もないからもうあきらめるしかないだろう。
オークションにジャンクとして出して1,000円で売れるかどうか。
というわけでここからかなり混乱してしまったのだった。チューナーも当然このデッキで使ってるから録画もできない。再生は他のデッキですればいいにしても、何かと不便だ。
こいつはやっかいなことになってしまったものだ。 とりあえずの応急処置として、アンテナを3分配にして、それぞれのビデオデッキとテレビにつなぐ。が、あと2つのデッキはリモコンが壊れていたり、他の機種のリモコンだったりで、予約などができない。ああ、ややこしい。
落札したビデオデッキが届くのは早くても明後日の火曜日。2日間、なんとか乗り切らないと。
ビデオくらいなくても平気じゃないか、と思うかもしれないけど、私はビデオへの依存が普通じゃないので、これが大いに困るのだ。部屋にいる時の8割以上は何等かの形でビデオが稼働している状態なのだから。
こうなったら、ビデオの予備の予備が必要かもしれない。
それはそうと今度買ったビデオはBS内蔵なので、これはちょっと楽しみ。今までBSはテレビだけだったから。
せっかくだからこれを機にWOWOWでも入ろうか。本当はスカパーの方がいいに決まってるけど、またチューナーセットを買ったりアンテナを設置したりするのは面倒だし、金もかかる。プログラムにしてもあんなにもたくさん観られるわけもない。
WOWOWのデコーダはオークションで1,000円くらいで買えるし、月々の2,000円はレンタルビデオの本数を減らせば同じくらいになる。うん、そうしよう。今更だけどWOWOWだ。おおおー、そうだ、これでアカデミー賞をリアルタイムで観られるではないか。って、ずいぶん先の話だけど。
サブPCの方は、ここへきてなんとなく気持ちがしぼんでしまったので今回は見送ることにする。特にこれといった用途も思いつかないし。
あとはWindows98にしなければと思うんだけど、どうも踏ん切れない。せっかく今安定してるのに下手なことをしてまた大事になってしまう予感がして。
けど、Windows98にしないとUSB関連のものが使えないし。 うーん、どうしようかな。いざとなったらフォーマットすればいい、って分かってはいるものの、今までのデータやプログラムを全部入れ直すことを考えるとうんざりしてしまう。
迷う。Windows98のアップグレードが安く買えたら少しはやる気も出ると思うんだけど。
他には、そうそう、ホームページビルダーの新しいバーションを買ったんだ。今でのバージョン5に特に不満がったわけではないけど、バージョン6では画像を好きな位置に配置できるって機能と、掲示板をホームページビルダーで管理できるところに惹かれた。
ということで、届き次第、表紙などの模様替えをすることになるだろう。
ゲームは、「SSX」と「みんなのGOLF3」が前座で、メインは「デビル メイ クライ」をやっている。
あとここに今日から「ゼノギアス」が加わった。
が、これ、どうも出だしは乗れない。操作性が悪いし、それより何よりPS2のきれいな画像を見慣れた目で見ると、PSのグラフィックはあまりにもしょぼく映るのだ。「FF9」あたりはさほどギャップを感じなかったけど、それは「FF10」をやる前だったからだ。そう思うと、あたらめて「FF10」のグラフィックのすさまじさを思い知るのだった。
あんまり乗れないようならすぐに切り捨てて、他のPS2ゲームに切り替えよう。
「デビル メイ クライ」ももう一つ。面白くなくはないものの、「鬼武者」ほどの爽快感は感じられない。「バイオ」に戻ってしまった感じだ。
やっぱり早く「真・三國無双2」がやりたいところだ。
明日はどうするか。深夜はオークションに出品してたものが一斉に締め切りになるからそれに追われることだろう。
昼間はビデオ関連のアンテナや配線の切り替え作業がある。
あとはそれに伴ってテレビ周りの模様替えもしてしまおう。けっこうややこしいことになりそうなのだけど。
とりあえすどうしてもしないといけないのはこれくらいか。その間をルーズにしないように。
あ、そうだ、夕方から夜にかけて高橋尚子のベルリン・マラソンがあるんだった。絶対世界新が出るはずだから最初から最後まで逃がさないようにしなければ。
2時間18分台が出るかどうか。
*
プロ野球に消化試合はあっても、実人生にそれはない。
ただ過ごすだけの日は決して作らないように。毎日にテーマを持って臨まなくては。
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今日のための言葉 「決して忘れない 信じあうことを それがあなたとの 遠い約束……」 笠原弘子「約束」(『マクロス2』エンディング)より
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9月27日(木) 「ロング・ストーリー」 |
これは遙か昔から続く物語。 世界の始まりから今まで、一度も途切れることなく続いている。
無数の死の上に更に死を重ね、命をつなぎ、物語は続く。
意味を問い、意味はあると答え、意味はないとつぶやく。
確かなのは意味があろうとなかろうと物語は続くということ。
死の上を歩き、やがて自らも倒れ、死の上に重なる。
そうやって無数に重なった死が天に届いた時、もしかしたらこの物語は終わるのかもしれない。終わらないのかもしれない。
この物語は未来へと向かう物語。
物語はいつも読み手を探している。
*
一度起こったことは決して消えない。
たとえ、忘れてしまったとしても。 一番良かった時を忘れないで。
それは確かに起こったことなのだから。
*
恋は楕円軌道を描く。
近づいたり、遠ざかったり。
恋は人生を単純にする。
逆に言えば、恋の不在は人生を複雑にする。余計なことを考えてしまうから。
人生に恋は必要か? 即答できるほど単純な問題ではないけど、恋のない人生はモノクロフィルムのようだ。やっぱりモノクロよりカラーの方がいい。カラーの色合いや彩度の好みは人それぞれだけど。
恋は暗闇を照らす明かりのようなものでもある。遠くは照らさないけど、足元は照らしてくれるロウソクの火のようだ。恋の明かりがあれば、暗闇でも走ることができる。
生きることは食べること。恋などデザートでしかない。
けど、必要最低限の主食だけではあまりにも味気ない。
豊かな人生には豊かな食事が必要であり、豊かな食事には豊かなデザートが付き物だ。
恋以上に美味しいデザートを、私は知らない。
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人が求めるものの基本は幸福を欲する心だとずっと思ってきたけど、そのもっと根っこには感動を求める心があることに最近気づいた。人が求めているのは幸福よりもその根本にある感動なのだろう。
もっと言えば、感情の揺れ、と言ってもいい。更に言えば、感情に対する刺激を求めていて、それさえあればいいのかもしれない。
喜怒哀楽、その他様々な感情によって人の心は揺れ、刺激を受ける。不快な刺激や激しい刺激、心地よい刺激や嬉しい刺激、色々な刺激があるけど、人が求めているのはおそらく刺激そのものだ。刺激さえあれば、どんな刺激でもいいに違いない。
何故刺激が必要なのかは分からないけれど、それは生理的欲求に近いもののような気がする。意志の問題ではなくて。
そして、人は同じ刺激には飽きる。それがどんなに心地よい刺激であっても。
つまり、人が求めているのは幸せなどではない。ただ単に新しい刺激を求めているだけなのだろう。
ここまで分かればこのメカニズムを逆に利用すればいい。幸せそのものを求めるのではなく、常に新しい刺激を求めればいい。その刺激が新しければ新しいほど、結果的に幸せな気持ちになれるはずだから。
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この10年、自分なりに求め、それなりに頑張ってきて、ある程度のところまでは来たような気がするけど、それでも10年ではまだまだ全然足りないみたいだ。
求めているものを考えれば、10年やそこらで簡単に辿り着けることではないか。
悔しくもあり、情けなくもなり、泣きそうでもあるけれど、しょうがない、あともう10年頑張ってみよう。
20年やって何も見つけられず、何者にもなれなかったら、それはもうあきらめるしかない。可能性はなかったのだと。
10年後、私はどこまで行けるのだろう?
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*
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夏中続いた低調の波からはどうやら抜け出したようだ。気づいたらいつの間にかそれほど不調ではなくなっていた。
今回も時間だけが解決してくれた。自分の力ではどうしようもなかった。
時間は厳しくもあり、優しくもあり、いつも助けてくれる。
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2万円で買える新しい刺激を与えてくれるおもちゃは結局見つからないまま今に至っている。これだけ探して見つからないということは、今の私には必要ないということかもしれない。不調からの脱出のカギにしようと思っていたけど不調から出られたからもういらないといえばいらないし。
それにしてもまさかここまで見つからないとは思ってもみなかった。欲しいおもちゃが思いつかないなんて、人生で初めての経験だ。
オークションで狙っているS-VHSビデオもサブPCも、結局まだ買えていない。候補はいくつもあったんだけど、これだっ! ってのがどうしても目の前に現れないのだ。絶対に買わずにはいられない、というものが見つからない。
これもちょっとした異常事態かもしれない。今買い物をしてはいけない理由でもあるのだろうか。 売りの方はまずまず順調で、ゲーム関連がかなり整理できた。
ゲームは、「ファイナルファンタジー10」が終わった後、ちょっとメイン不在になっている。一応、「みんなのGOLF3」、「SSX」、「デビルメイクライ」などのPS2ソフトはあるんだけど、どれも他ごとすべてを投げ出してもやりたい、と思わせるほどの力はない。
ただ、昨日終わったPSの「クロス探偵物語」はなかなか面白かった。
前半はそれほどとは思わなかったけど、中盤以降ぐぐぐっと盛り上がってなかなか楽しませてくれた。推理アドベンチャーとしてはかなりいい出来と言っていい(個人的には「御神楽少女探偵団」の方が好きだけど)。
「FF8」、「FF9」、「FF10」と続けてやってきて、RPGに対する気持ちがかなり戻ってきたから、また他のRPGもやりたいところだ。「FF」がやれないのは残念だけど他にもいい作品はある。
次は「クロノクロス」か「ゼノギアス」あたりをやってみよう。
明日は名古屋ドームだ。
明日の試合は、雨で流れたゲームの振り替えということで内野席は自由になるから、ちょっとどんな状況になるのか読みづらいのだけど、まあそれほど混むことはないだろう。ゲーム開始10分前くらいに行けばかなりいい席に座れるんじゃないだろうか。甘いかな。
ぼんやりしていてファールボールが当たって頭がかち割れて救急車で運ばれる、なんてことのないようにせいぜい気を付けなくては。格好つけてファールボールを素手でキャッチしてプチ・ヒーローになろうなどという色気は出さないように。
……でも念のためグローブ持ってこうかな。
もし、明日、3塁側の内野席でグローブを構えた30男がいたら、それは私かもしれない。
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人はもっと、自分の心を揺らしてくれるものに対して感謝しないといけない。
それは、自分にとって、とてもとても大切なものなのだから。
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今日のための言葉
「誰も知らない海の上に、誰も知らない小さな島が浮かんでいる。
その誰も知らない小さな島で、小さな小さな恋の物語がありました」
ゲーム「リップルアイランド」より
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9月26日(水) 「幸福な世代」 |
その日向かうべき一点が見えない毎日の暮らしは、何をしても何もしなくてもどんよりとした疲れが残る。達成感や充実感が足りないから自分の中で上手く完結しない。 それは人生に拡大しても同じことが言える。目標と達成のない人生は徒労で終わってしまうだろう。
その日の目標、今年の目標、一生の目標、人生には大小様々な目標が必要だ。
そして、達成感だけが心と体の疲れを取ってくれる。
これまでに消えていったいくつもの目標は、今頃どこをさまよっているのだろう。主をなくした目標たちは。
*
迷ったり、分からなくなったりする時、いつも私は自分に言い聞かせる。
Do feel! and Do guess!
と。
全力で感じること。そして考え、推測すること。
正解は頭の中にはない。感覚だけが正解を知っている。
*
私も、人並みに愛や幸せを求めているつもりだ。
けど、愛や幸せには必ずと言っていいほどありがたくない付録が付いてくるから、どうしても100パーセントの気持ちで求めることができない。
愛には嫉妬が、幸せには退屈が、それぞれ付いてくる。
更にもれなく、失うかもしれないという恐怖感も。
もちろん、愛や幸せはそれらを補って余りある良いものだとは分かっているのだけど、でもどこかで躊躇してしまう。
あるいは、求めるべきものを求めることができないというのは大きな人間的欠陥なのかもしれない。
*
「何々だけど何々だ」という言い回しを私はいつも使ってしまうけど、それは私がいつも逆説を探しているからだ。
私の中にある論理はいつも、「何々だから何々」ではなく、「何々だけど何々」というスタイルをしている。
更に言えば、一回転させた正論が好きだ。
たとえば、「生きることは素晴らしい」、という第一の正論があって、その逆説として「生きることは素晴らしいなどと言う人間は人生のことを何も知らない。生きることなんて下らない」となり、その逆説として「生きることは素晴らしくもあり、下らなくもあるけど、でもやっぱりいいもんだ」という第二の正論に辿り着く。そういうことだ。
それに反論する人間がいれば、更なる逆説による正論も展開可能だけど、そこまでいくと単なる論理ゲームになってしまうからあまり意味がない。
「シンプル・イズ・ベスト」という言葉も第二の正論であることを知っておかないといけない。
つまり、正論だけでも駄目だし反論だけでも足りなくて、正論と反論を両方認識した上で正論を言う必要があるということだ。
現実主義でもなく、理想論でもなく、超現実的理想論が私の探しているものであり、正当な論理だと私は思う。
*
アメリカ対テロ組織の構図は実にシンプルなものだ。
あれは善対悪などではなく、不正義対不正義の戦いなのだ。暴力団同士の抗争と同じようなものと言えば分かりやすいだろう。
どちらにも自分たちの主張や論理があるけど、客観的に見ればどちらの主張も馬鹿げている。
人殺しのどこに正義があるというのか?
アメリカはとても魅力的な国だ。
けど、気の毒なことに不治の病にかかっている。
勘違い、という病気に。
ま、不感症の日本よりはいくらかましかもしれないけど。
*
私は自分の世代がとても気に入っている。
他の世代を生きてないから実際のところは分からないにしても、どこか別の世代を生きたいならそっちに変えてやってもいいぞ、と言われてもきっとことわるだろう。いや、ここでいいです、と。
あらゆることに恵まれていて、でも恵まれすぎてなくて、今はもう消えてしまった自然の最後の姿を子供時代に見ることができて、戦争に巻き込まれてなくて、勉強も受験もほどほどにルーズで、ゲーム機の登場は高校生以降で小学生からゲームをすることなく表で遊んで、20代でパソコンを覚えることができて、アナログからデジタルへの過渡期を体験できて、この先駄目になるであろうこの国の一番いい時を知ることができたし、駄目になる頃には年老いるかくたばるかするだろうし、ここまでは本当に悪いことよりも良いことの方が圧倒的に多い世代なんじゃないかと思う。
旧い世代と新しい世代のいいところを両方味わうことができたという意味でも。
前の世代の人々が種を蒔き、世話をして育てた果物の一番美味しいところだけいただいたと言えるだろう。私たちの次の世代はもう美味しいところはほとんど残っていなかった。私たちが意地汚く食べ散らかしたおかげで。
この先しばらくは私たちの世代以上にいい目を見ることができる世代は出てこないだろう。たぶん、向こう100年くらいは。
私たちの世代が消える時、歴史は私たちの世代をきっとうらやみ、懐かしがるだろう。おいしかった最後の世代として。
*
生きるほどに思い出が増えていくというのはとてもいいことだ。思い出は失ったものの亡霊であり、失うことはつらいことだけど、でも思い出はやっぱり嬉しいもの。
もっと若い頃の私は思い出などまったく必要ないと思っていた。だから前の日よりも昔のことは意識的に思い出さないようにしていた。頭にふっと浮かぶと急いで打ち消すほど徹底的に。
それでも思い出はいつも私を追ってきてわずかの隙間から私の中に入り込んだ。今はそれらを受け入れ、大切にしようと思っている。
何もかもが変わっていき、元には戻らない。街並みも、人も、世界も。
何もかもが移ろっていく。愛も、夢も、幸福も、平和も、永遠の誓いも。
でもそれは仕方のないことだし、それでいい。
変わることは許すことだから。
私はこの先、もっといろんなことが許せるようになるのだろう。いつか何もかもを許せるようになればいい。その時初めて、私も許されるのだろう。
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今日のための言葉
「Don't think, feel !」
ブルース・リー『燃えよドラゴン』より
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9月24日(月) 「旅の終わりで」 |
この命が終わって、魂が粉々に砕け散ったとしても、それがこの世界の一部になるのなら、それもいい。 自分も記憶も、何もかも一緒に消えてもいい。
私は確かにこの世界に存在した。そのことを今の私は知っている。それでもう充分だ。
何も残す必要なんてない。
*
時々何もかもがまったく分からない。
すべてが分かった気になる時もあるけれど、分かったり、分からなかったりの繰り返しだ。終わることのない。
生きることは迷うこと。
迷いが消えたら、その先にもはや道はない。
*
いつも忘れてはいけないのは、分かることが目的ではないということだ。
大事なのは分かることではなく、分かった上で何をするかなのだから。
後に残るものがあるとするならば、それは分かったことではなくやったことだけだ。
*
正しいことを言うだけでは充分ではない。上手に語らなければ。
上手に語るということを多くの人は何故か軽く見ている。内容さえ良ければそれでいいと思っている。
でもそうじゃない。言葉は料理と同じで、素材と調理の両方上手にバランスを保たなければ良いものにはならない。
良い素材を選ぶこと。そして上手に調理すること。できなければ努力しなければいけない。できるようになるまで。
上手に語れないということは恥なのだから。
*
大切なのは感動すること。
そして感動を与えられる人になること。
人が求めるすべてのものの根っこには必ず感動がある。
人の命は感動する心そのものだから。
忘れてしまいがちだけど、何度も思い出さなくちゃいけない。自分が求めているのは感動なのだということを。本物の。
もっともっと大きな感動を求めなくては。
*
少しずつ人が見えるようになってきた。
今まで人を透かしてその向こう側の世界ばかりを見てきたけど、だんだん手前に焦点が合うようになってきて、目に映る人間が確かな実体を伴い始めた。
きっとその頃からだろう、私がこの世界を愛せるようになったのは。
*
まさかこんな生き方になろうとは思ってもみなかった。
でもそれ以上に、自分がこんな人間になるとはまるで思ってなかった。
今の自分をどう呼べばいいのか分からない。なんだかとんでもないところまで来てしまった気もする。
周りには誰の姿も見えない。
*
この世界に対して、父のように怒り、母のように許すことができたなら、もはやその視点は人間を超えているのかもしれない。
やがて、すべての人間が自分の子供のように愛おしく思える日が来るだろう。
人間は、いつか神と呼ばれる者になる。
*
私は何処へ行こう?
一番大きな目標の向こう側に、一番単純で、一番ささやかな願いがある。
優しい人になって、そこに行けたらいい。
たぶん、そこがこの旅の終わり。
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今日のための言葉
「ここが私の旅の終わりだろうか? こんなに世界は美しいのに。こんなに世界は輝いているのに」
映画『風の谷のナウシカ』より
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9月23日(日) 「妄想、全開」 |
暖かくあること……か。 暖かいだけでは駄目だと思ってはいるのだけど、でも時々暖かさの重要性をものすごく強く思うことがある。
暖かいことはいいことだなぁ、としみじみ感じることが。
でも、それでも私は暖かさとは違うものを求めている。そういったぼんやりとした明かりよりも、もっと眩しい光を。絶叫するほどの圧倒的な正しさみたいなものを。
優しい暖かさに包まれるより、目も眩む光に倒れたい。
*
完全さを求めるのはもうやめた。
今は不完全さを引きずりながら前へ進みたいだけ。
できるだけ遠くへ。
*
反動を利用するのはいい方法だ。
たとえば自分に迷って自信がなくなった時は、駄目な人を見たりそういう人が書いたりしたものを読んだりするといい。
それは違うだろう、と思うことで自分に対する自信が戻るから。
自分以外の人間はすべて反面教師として利用すればいい。
*
自分自身に限界を感じることは悪いことじゃない。
駄目なのは限界を感じることではなくてそこであきらめてしまうことだから。
限界の前で人には二つの道がある。限界を知ってあきらめて引き返すか、限界を乗り越えようとするか。 一つ確かなことは、自分の限界を知る人間しか自分の限界を超えられないということだ。
*
必死になることは恥ずかしいことじゃない。素敵なことだ。
大人になって無意識の内に何かに必死になれることなんてめったにあるものじゃない。とても貴重なことだ。 子供と大人の決定的な違いは、何かに必死になれるかなれないかかもしれない。
必死に頑張ることは決して恥ずかしいことじゃない。むしろ、必死になれないことが恥ずかしいことだろう。 白けて生きて何を掴めるというのか? 冷めたままどこに辿り着けるというのか?
*
昨日の自分はもういない。どこにもいないし、二度と会うこともできない。
少し寂しい気もするけど、でもそれでいい。それはやっぱり救いなのだと思うから。 *
愛と幽霊は似ている。
感じる人は感じるし、見える人は見える。見えない人は見えなくて、見えない人に説明することはできない。 それは能力の問題だ。持って生まれた。
でも強く思えば可能になるかもしれない。
*
願っても叶わないことがほとんどだけど、願わなければ何も叶わないし、願いを持たない人間は幸福と幸運の区別がつかない。
この世で、自分の本当の願いをきちんと思い描いて、それをしっかりと持ったまま毎日を生きている人間がどれだけいるだろう?
人はまだまだ全然願いが足りない。もっともっと多くを願わなくては。
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人間は何故時間を持っているか?
それは時間なしには生きていけないからだ。
老いて死ぬから努力し、痛みや悲しみを忘れるために時間を必要とする。
つまり、人間というのはそれだけ不完全な存在ということだ。
すべての時間はすでに存在している。完全な形で。 時間というのは本質的に動かないものだ。動いて見えてるのは人間が移動してるからだ。列車の窓に見える流れる景色が実際は動いてないように。
時間は動かない。
人間の次の段階は時間というものを必要としない存在になることだろう。人間がより完全な形に進化すればそれは当たり前のことになるに違いない。
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過去の偉人と同じように生きても同じ場所にしか辿り着けないし、悪くするとその手前で終わってしまう。
それじゃあ駄目なんだ。どれだけ正しい生き方でも真似しては意味がない。
過去の偉人が辿り着いたところから出発しなくては。そこから違うやり方で生き方や正しさを求めること、それが私たちのやるべきことだ。
それはたとえるなら空白の地図の空白の部分を地道に埋めていく作業に似ている。すでに分かっている部分を旅しても地図は完成に近づかない。そういうことだ。
言い方を変えれば、私たちの仕事は、過去の人々とは違う過ちを犯すことだ、と言ってもいい。次に続く人たちのために。
半歩でも先へ、それが私たちの義務。
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私が今いるここはどんな場所なんだろう?
気づけばここ数年、人を見上げることがすっかりなくなった。誰のどんな説教も教えも新鮮には感じないし、ありがたいとも思えない。
拒否反応を起こすとか、気に入らないとか、正しいとか間違ってるとはではなく、彼等の展開する論理が自分より先行したものだとはどうしても思えないのだ。どんな宗教家の教えも、偉人の語る論理も。
もちろん横の関係性の中で、日々多くのことを感じ、学んではいる。自分だけが正しいなんて幻想も抱いてはいない。そういうことじゃなくて、一番上とか偉大とか最も正しいと言われてるものがどうしても最高だとは思えないということだ。自分の方がもっと広い範囲にライトを当てられるしもっと多くのことが見えるような気がしてならない。誰のどんな論理も大きな穴が見えてしまう。
にもかかわらず、私は自分に対してどうしても自信が持てない。自信というか、確信が持てないと言った方がいいかもしれない。
私の抱える問題の根深さはここにある。誰も尊敬できず、自分も尊敬できないから、どこを目標にしていいのかが分からないのだ。自分の目の前が全部暗闇だから、おそるおそる手探りで進まなければならない。
これはただの傲慢で、勘違いな幻想なのだろうか、と何度もなんども自問自答してみた。けど、そんな単純な問題でもないと思うのだ。もしただの傲慢なら自分に対してもっと揺るぎない自信を持てるだろうから。 実際はどうなのかは別として、現実問題として、見上げて目標にできる人間や明らかに自分より先行している論理を探しながら、それらをどうやっても見つけることができないということはやっぱりけっこうつらい。
打ちのめされたい、といつも望んでいる。圧倒的な賢さや正しさにノックアウトされたいと。
それはやはり傲岸でしかないのか?
たとえば私はこんな夢を持っている。
世界中のありとあらゆる知性を一ヶ所に集めて、それぞれが見つけた知識や論理や知恵を全員が出し合って、一つの知性ーー地球の知性として一つの大系としてまとめてみたい、という夢を。
あらゆる分野から超一流の専門家を世界のどこかに呼び集めて、議論するのではなく、競うのでもなく、ただ単純に知性を持ち寄って、ひとつの大きな知性としてまとめるのだ。
実はこういうことはたぶん今まで歴史上行われたことはないはずだ。専門家の世界大会はあっても、専門の枠を超えたものはないだろう。
けど、実現は可能だし、実現させる価値はある。いや、いつかは実現させなければならないことだと私は思う。
その際、最も大事なのは、すべての代表的な分野のトップを集め、なおかつ分野によって差別しないことだ。要するに学者とキワモノを同じ席に着かせ、同じ重さで扱うということだ。
数学、哲学、科学、天文学、歴史学、文学、美術などの学者連中と、UFO研究家、霊能力者、オカルト研究家、予言者、超能力者、自称宇宙人などを同じ舞台に上げること。プロとアマチュアとを問わず、第一人者を。
他にも、政治家、医者、弁護士、教師、経営者、作家、詩人、農家、漁師、宗教家、僧侶、など、この地球や宇宙に対する専門的な知識を持っている人間がそれぞれの知識を持ち寄り、共有することで、知識が有機的につながり、一つの大きな地球の知識になる。そう、大切なのは共有することだ。個人がそれぞれ真実の切れ端を大事に抱え込むのではなく、それぞれのピースを持ち寄って一つの巨大なジグソーパズルを完成させること。
やってやれないことはないはずだ。 知性の世界大会、そんなものがいつか開かれる日を私は夢見ている。
そして、そこに集まった人間たちに説教を食らわせること、それが私が思い描く一番大きな妄想だ。
「君たち、それじゃあダメだぜ」ってね。
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今日のための言葉
「多くの人間がベストを尽くし、限界まで努力する。でも、本当に大事なのはその極限からどこまで行けるかってことなんだ。極限までの努力なら誰でもできる。けど、それでは他の者と変わらない。勝負はそこから始まる。極限をどれだけ超えられるか、そこにすべてがかかってる」
アイルトン・セナ
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9月20日(木) 「『FF10』---圧倒的な死の物語」 |
時が解決してくれるいくつものことに私たちは感謝し、同時に時が奪っていく大切なことを思い、時を憎む。 憎を伴わない愛はなく、愛を伴わない憎もない。
私たちは、物心ついてから意識を失うまで、愛と憎に翻弄され、何かを得ながら失い、やがて本当に大切なことに気づく。
愛とは許すことであり、憎を許した時、それが愛になるということに。
*
健康な体を保つためには何よりもまず基礎体力が必要であるように、健康な精神を維持するためには根本的な部分での陽気や明るさが必要不可欠だ。
精神の土台は日頃から鍛えなくてはいけないのだと思う。持って生まれた状態以上に。悲しみや苦しみや絶望に負けないために。
常に自分の心というものを意識して、強くあろうとすること。そして、決して負けないという強い気持ちを持ち続けること。
誰よりも強くあろうとすれば、誰よりも日頃から鍛える必要があるのは当然のことだ。
*
幸福も不幸も愛も、確かにすべて幻想なのかもしれない。目にも見えず、手に触れることもできないのだから。
けど、幽霊が見える人にとって幽霊の存在は紛れもない事実であるように、幸福も不幸も愛もそれを感じる人にとっては間違いなくそこに在るものなのだ。決してただの幻などではない。 単純に言ってしまえば、それは能力の問題だ。能力がある人間にとってみれば、幽霊も愛も幸福も見えるし、能力のない人には見えないし感じることもできない。それだけのことだ。
幽霊や愛を笑う人間は自分の無能を自慢している愚か者でしかない。
*
物事も人間も、一面的ではありえないし、表面に見えている部分がすべてであるはずもない。
対象を見極め判断しようとすれば、前から後ろから、縦から横から斜めから、上から下から、中から外から、離れて近づいて、そうやって様々な角度、距離から検討する必要がある。
更に言えば、その対象と周りの関係性や、時間軸をも合わせて捉えなくてはいけないだろう。
自分の立っている場所から見える角度と部分だけで人や物事を判断するのはとても危険なことだ。
私たちは無限大の向こう側も、無限小のこちら側も分かってないし、永遠の始まりと終わりも知らない。
つまり、出口も入り口も、全体の大きさも分からない。そういう肝心なことは何一つ分かっていない状態なのだ。こんな調子で世界のすべてを理解できるはずもない。
今私たちにできることは、自分たちが分からないことをまずはきちんと認識することだろう。分かることと分からないことをきちんと区別することと言ってもいい。
一番駄目なのは、分かってもいないことを、自分勝手な論理や理屈で分かったような気になってしまうことだ。分からないことは分からない、それでいい。
*
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今日「ファイナルファンタジー10」(以下「FF10」)が終わった。
不覚にも感動して、じわっときてしまった。まったくそんなつもりも予定もなかったのに。
エンディングの曲が流れ、スタッフロールが終わるまでの数分間、まったく動けなかった。ゲームでここまでずしんときたのは本当に久しぶりだ。
何がそんなに良かったのか?
いや、良かったということではないと思う。どすんっと胸に何か大きな塊がぶつかった、という感じと言った方が正しいだろう。
最後の敵を倒して、エンディングムービーを見ている時、ふいにこの物語の底に流れる真の意味に気づいて、ハッとして、それにがつんとやられてしまったのだ。
それまで気づかなかったというのもうかつな話なのだけど。 「FF10」のテーマは何か? それは、死だ。たくさんの、そして圧倒的な死。
このゲームの中にはあまりにも多くの死が溢れている。 それは単純に登場人物や敵がたくさん死ぬということではない。そうではなくて、死が生と同じくらいの重さで存在していて、死が常に生と共にあるのだ。
その深くて強い生と死が私の心の深い場所に触れた。だから心が揺れたのだ。そういう世界の中で、誰もが死ぬ意味と生きる意味を探している。そして、登場人物たちは圧倒的な死に押しつぶされそうになってもがいている。 だから強く生を求める。生きることの意味を。 彼等は、いくつもの死を乗り越え、本当の生を見つための旅をしている。そして最後には当然ながらそれを見つけることになるのだけれど、にもかかわらず、圧倒的で絶対的な死が横たわっているのだ。 かつてゲームでここまで死を描いたものがあっただろうか? 私の知る限りない。
私はエンディングのところで、実際に死ぬということがどういうことなのかが感覚的に分かったような気さえした。そうか、死ぬってのはこういうことなのだ、と感じたのだ。
まさかゲームで死ぬことの実感を教わることになるとは思ってもみなかった。
「FF10」はゲームとしての出来は正直あまり良くない。システムが「FF9」に比べて後退してるし、ストーリー展開にしてもあまりワクワクドキドキするようなこともなく、ゲームバランスとしてはちょっと簡単すぎる。
たぶん、多くの人は失望の中でこのゲームをプレイし、詰まらなかったという感想を持ってこのゲームをクリアするだろう。
けど、私のように、このゲームの底に流れる物語の意味に触れた人間にとって、このゲームは忘れがたいものになるに違いない。
もしこのゲームをこれからやろうとしている人がいるなら、ゆっくり物語をなぞりながらプレイして、あまり本筋から離れすぎないようにして、途中で放り出さず、エンディングまで辿り着いてみてください。
私のように何かがあなたの心に触れるかもしれない。保証はないけれど。
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今日はやるべき用事もやらず、オークションのサブPC勝負にも負け、偽ボディーブレードも怠けてしまったけど、でも「FF10」が終わったのですべてよしとする。
一日の中で何か一つでもトピックがあれば、それでいい。
明日は今日の分と合わせて色々動かなくては。
また新しいトピックを求めて。
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今日のための言葉
「一つだけ、お願いがあります。
いなくなってしまった人の事……、
ときどきでいいから……、
……思い出してください」
ゲーム「ファイナルファンタジー10」
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9月19日(水) 「届かないということ」 |
届かない、ということ。それは、とても悲しいこと。届かないということは人から言葉を奪う。 世の中には、届かないことが色々ある。 高くて手が届かないもの、届かなかった手紙、届かない想い、届くことのない願いや祈り、どれだけ手を伸ばしても届かなかった夢……。 届かないということは、この世で最も悲しい物語かもしれない。 *
結果的に人の役に立つ自分勝手さ、みたいなものを私はずっと探している。
人のために自分を犠牲にするのはただの自己満足だし、自分の欲望を満たすだけでは虚しくてやりきれない。 だから、自分を満足させながら同時に人の役にも立ちたいと思う。 それはそんなに難しいことじゃない。たとえばプロのスポーツ選手などはその典型だ。自分のためにやっていることが結果的に人のためになっている。 だから私もそういう道を探そう。 自分が一番得意で、一番やりたいことをやる。それが幸せ。 *
幸福、というか幸福感というものは人に与えてもらうのではなく自分の中で作り出すものだ。
たとえば、一部の例外を除いてたいていの人は美人やハンサムが好きだ。自分の美意識の中で自分の好きな顔が自分を幸せな気持ちにさせてくれるから。 そういうことだ。 いや、そんなことはない、と言う人もいるだろうけど、でもやっぱり人はどこかでそういう部分がある。自分のために色々としてくれる人よりも自分で幸福を求める道を追ってしまうようなところが。 意識、無意識にかかわらず、人は本能的に知っているのだろう、与えてもらった幸せよりも自分で見つけて掴んだ幸せの方が自分を満足させてくれることを。 *
夏には夏の幸福と不幸があって、冬には冬の不幸と幸福がある。
あるいは、夏の間しか思い出せない幸福な記憶や、冬になると必ず思い出してしまう不幸な記憶というものもある。 螺旋を描く変化の中で人は、様々な感情を通過して、多くのことを得て、そして失う。 移り変わっていくことはなんとなく寂しいものだけど、でもやっぱり変化というのは素敵なことだ。まだ見ぬ幸福があるのを想像するとなんだか楽しくなるし、不幸だってどうしようもない悪者ってわけじゃない。不幸は人生に彩りを添えてくれるし、時が経つごとにいい思い出になっていくものだから。 いくつもの思い出や記憶が重なり、人は少しずつ確かな実体を持つようになる。 生きることは決して無駄なことではない。たとえ自分が消えてしまっても、地球がすべてを記憶してくれるだろう。 *
間違えることを恐れちゃいけない。
恐れるべきなのは、黙ってしまうことだ。何も言わなければ何も始まらないし、終わらない。
最悪なのは、この世界や他人に対して、何の影響も刺激も与えられないことだ。
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昨日の内海行きで流れがまた少しだけ良くなった。
物事は止まってしまうとどうやっても動かないし、いったん動き出すとあとは惰性で動いていくもの。最初のひと転がりが一番エネルギーが必要だ。
今日はオークションで買った水草を植えていた。
アマゾンソードやその他6種類くらいで400円だから相当安い。
これで水槽が一気に賑やかに華やいだ。ま、魚にしてみたら泳げる場所が激減していい迷惑だろうけど。
熱帯魚もここしばらく放りっぱなしにしてたけど、また少しいじろうか。魚も増やして、水草もちゃんと育成したい。コケ用のエビも買って、フィルターもできればもう少し強力なのが欲しいところだ。
流れが良くなればオークションの調子も良くなる。
名古屋ドームの「中日ーヤクルト」の内野席が500円落札できた。これまた安い。
来週の金曜だから、もしかたらヤクルトの優勝試合の可能性もある。
それにしてもプロ野球観戦は何年ぶりだろう? 下手したら20年ぶりくらいかもしれない。名古屋ドームに入るのも初めてだし、楽しみだ。
ここはひとつ、グランドに乱入して警備員に取り押さえられてみるのもいいかもしれない。
調子に乗って、インテグちゃんのフロント・スポイラーまで落札した。
これは前からずっと探してたものだったんだけど、それが4,000円だから文句なしだろう。これだけでもずいぶん印象が変わるはずだ。 これで明日のサブPC勝負に勝てればほぼ完璧と言っていい。流れが完全に戻るだろう。
勢いがつけば、映画のメンズデー、富士山行き、とつながっていくはずだ。夏の不調を初秋で一気に取り戻せるかもしれない。
悪い流れの時もあり、良い流れの時もある。悪い時は良い時の準備期間のようなもの。悲観したり絶望したりする必要はない。
そうだ、洗車があったんだ。忘れてた。面倒なので無意識の内に忘れようとしてただけかもしれない。
いいかげんワックス掛けしなくちゃいけないんだけど、最近はシャンプーワックスで済ませてしまうことが多くてちゃんとしたワックス掛けをしてないから、どうもやる気になれない。
でもそんなことも言ってられない。明日か明後日、やろう(やれたら)。
日常の流れが戻れば次はもう少し大きな部分を考えなくてはいけないのだけど、とにかく今は調子を取り戻すことを最優先にしよう。ひとつずつやらないと、また混乱してしまう。
頭の中に一度にたくさんのものを放り込むのはやめよう。頭の中は物置じゃないんだから。
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今日のための言葉
「Never up,never in.
(カップまで届かないパットは絶対に入らない)」
トム・モリス(ゴルフの父)
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9月17日(月) 「地球を感じたら」 |
いつも不正解の周りをぐるぐると何周も回ってしまって、なかなか先へ進めない。 ありもしない可能性と希望にすがってしまって。 最後に正解に辿り着けばいいけど、命が枯れる前に着けるのか?
でもきっと、この間抜けは一生治らない。治す意志がない病気は治らない。
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人の基本は悲しみだ。悲しみから始まっている。喜びからは始まっていない。
そして、本当の喜びは、悲しみの底を突き抜けた先でしか見つからないのだと私は思う。
だから私は、もっともっと悲しくならなければならない。喜びのために。
悲しみに決して負けないように。
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人は、ただ抱きしめることや、抱きしめられたりすることが必要なことがある。ただ単純に。
それが足りないと、心が乾いてボロボロと崩れてしまう。
人は、どこまでいっても他人が必要だ。自分以外の人が。
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自分しか分からないことや、自分だけが気づいていることを人に伝えることはすごく大切なことだ。
それは大発見だったり大発明だったりする必要はまったくなくて、ささやかで単純なちょっとしたことでいい。
大切なのは共有することだ。知識にしても情報にしても知恵にしても。
ひとりでいくら抱えていても何の意味もない。
金も愛も才能も。
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人生は最初に旅立った場所に帰る旅だと、若い私はずっと思っていた。
けど、今は違う。この旅は帰るためのものではなく、一方通行の行く旅だということを知った。
辿り着くべき場所は家だろう。でも家というのは、辿り着いた先で自分で作るものだ。
すべては新しいことの連で、同じ日も、同じ出来事もない。いつも前に進んでいる。
もう戻る必要なんて、まったくないのだ。
くたばるのは旅先でいい。
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あの頃分からなかったことが少しずつ分かるようになってきた。固くて厚い壁を根気よく削っていったら、だんだん中身が姿を現し始めた。
真実は救い出されるのを待っている。
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耳をすませば今まで聞こえなかった音が聞こえてくる。地球の音が。
音だけじゃない。地球には様々な色があり、匂いがあり、味があり、感触がある。
空の青や夕焼けの赤、木々の匂いや獣の匂い、空気の味や海の味、顔に触れる風や土の感触が。
五感を研ぎ澄ませ、地球を感じられたら、それはとても幸せなこと。
自然に囲まれたり触れたりするだけじゃ足りない。全力で感じなければ。
感じることができれば気づくだろう、人間が地球の一部なのだということに。
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アインシュタイン先生は、何よりも大事なのは知識ではなく想像力だと言ったけど、私は想像力よりもっと大事なものを見つけた。それは感じる能力だ。適当な言葉がないから無理矢理作るとしたら、感覚力、とでも言おうか。
想像力と似てるようで全然違う。想像力は頭の中だけなのに対して、感覚力は五感の能力だからだ。
第六感や直感や勘、などといった反射神経的な感覚ではなく、もっと連続するもので、意識的に導き出した感覚、それが感覚力。 静かに目を閉じて、頭と心と全身でたくさんのことを感じられる人間が感覚力の優れた人間ということになる。
考えることや、想像することももちろん大事なこと。でも感じることが何よりも優先する。そして、すべてを感じることができたなら、もはや考えることも想像することも必要ではなくなるだろう。すべてをダイレクトに感じればいいのだから。
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私が宗教を否定するのは、宗教の目指す場所があまりにも手前すぎるからだ。イージーすぎる。
悟ることがゴールのはずがない。目的地はまだまだずっと先にある。天国なんかが行き止まりであるはずもない。 悟ることは言うなれば大学を卒業するようなものだ。そこでようやく準備が終わったにすぎない。
大切なのは、悟った後にどうやって生きるかだ。しかも人間として、世間の中で。
まずは全員が宗教を卒業しない限り人類は先へは進めない。
神の存在もまた、途中のチェックポイントの一つにすぎない。
もっともっと先があるのだ。
*
辿り着くことを夢見て、夢見て、夢見て……。
でも、もし辿り着いてしまったらどうなってしまうのだろう? 想像できるすべての幸せを手に入れてしまったら?
幸福を食べ尽くしてしまったら、その後、人は何を食べればいいのか?
今はそんな心配はするだけ無駄なのだけど。
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風向きは確かに変わった。心に風が吹き込むのを感じたから。
開いていたはずの窓がいつの間にか閉められてしまって、気づくと窓そのものがなくなってしまっている。
だから、窓を探し、あるいは新たに窓を作らなければならない。その繰り返し。
心には少なくとも二つの窓が必要だ。風が入ってくるための窓と、風が出ていくための窓が。
私はこれからもう一つの窓を作らないといけない。
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今日のための言葉
「彰さんも早く自分のお家を見つけてください。
道は夕陽が教えてくれるでしょ?」 ドラマ「ウソコイ」より |
9月15日(土) 「風に乗って遠くへ」 |
遠くまで行くには二通りの方法がある。 飛んでいくか、走っていくか。 才能があれば飛べる。
でも才能がなくても走れる。 結局、飛び続けた人間と、走り続けた人間が最後に辿り着く場所は一緒なのかもしれない。だからどちらでも好きな方法で行けばいい。 ただし、飛ばなくては見えない風景はある。確かにある。
そして、もう一つ、遠くまで行くための条件がある。
それは、風だ。風に乗らなくては、決して遠くまでは行けない。風は誰にでも吹くわけではない。それが現実。
*
忙しさや退屈を感じるのは、やるべき仕事やしたい遊びの量ではなく、感情の起伏の大小なのだ。
仕事が多ければ忙しいというわけじゃない。仕事がいくらあっても感情の起伏がなければ退屈を感じてしまうだろう。
逆に、毎日大してやることがなくても、泣いたり笑ったり怒ったり悲しんだり喜んだりしてたら退屈など感じないはずだ。
感情の起伏は多いほどいい。 退屈を感じたくなければ常に新しいものが必要だ。新鮮な刺激が。
人はどんな感情にも慣れてしまうから、絶えず自分に新しい刺激を与えなければならない。新しいものを観て、取り込んで、新しいことをして、新しい人に会い、新しい場所に行く。それらができれば退屈しないし、できなければ毎日が退屈なものになってしまう。
退屈はとても手強い敵だ。そう簡単にやっつけられるものではない。全力で戦わなければ負けてしまう。
退屈に負けるということは人生に負けるということ。敗者になりたくなければ自分でなんとかするしかない。誰も退屈さから救ってはくれないのだから。
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最近、健全な食べ物を求める気持ちがとても強くなってきたのを感じる。昔は不健康な食べ物がとにかく美味しく感じられて、そんなものばっかり食べたり飲んだりしてたけど、ここへきてそれが急変した。美味しいものに対して軽い拒否反応を起こすのだ。あまり食べたいと思わないし、目の前にあるとちょっと苦痛でさえある。
これは好みの味が変わったというよりも、体が健康な食べ物を求めているということなのだろう、きっと。それは喜ぶべきなのか? 体の成長(もしくは老衰)によって欲する食べ物が変わっていくというのはなかなか面白い。人間の体というのはこういうところを見てもつくづく良くできているなと思う。 人間の体や脳は、間違いなく傑作だ。
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リセット効果、という言葉がある。
たとえば舌のリセット効果に一番最適なのはウーロン茶だそうだ。何かを食べた後、舌がその味を覚えていて、次の食べ物の味を正確に判断できない状態をウーロン茶が正常な状態に戻すという。
色々なものを味見したした後など、ウーロン茶を飲むといいらしい。
あと、喉のリセット効果もいくつかあるようだけど、面白いと思ったのはビールの一杯目ののど越しを復活させるには吟醸酒が効くというやつだ。
私はほとんど酒類を飲まないからあまり分からないのだけど、ビールの最初の一杯のあの心地よいのど越しくらいならちょっとは分かる。普通、二杯目以降はあの感覚が戻ることはないが、何故か吟醸酒をお猪口に一杯程度飲むと、あののど越しが復活するらしいのだ。原因はよく分かってないらしいけど。
ビール好きの人は一度試してみるといいかもしれない。
リセット効果で一番のものは、なんといっても睡眠だろう。睡眠というのは実に多くのことをリセットしてくれる。人間がもし睡眠を持たない生き物だったら、文明の発達と共に滅んでいたに違いない。賢くなったところで気が狂ってしまって。
でも睡眠の中に多くの記憶や悲しみ、苦しみを置いていくことによって人間は正気を保つことができる。睡眠というのはすごい機能だ。
人間というのは、知れば知るほどに上手く出来ていて、面白い。笑えるほどに。
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偽ボディーブレードによる筋力増強及びダイエット計画のその後だけど、結論から言うと、まるで効果がないっ!
いや、私のやり方が中途半端なんだろうけど、それにしても毎日微妙な上下動はあるものの、ひと月経った今と始める前とでまったく変わらないというのは、いくらなんでもそりゃないぜ、ってなものである。
現在、体重60.8キロ、体脂肪16パーセント。変動は最低60.4キロの15パーセント、最高61.4キロの17パーセントだった。
二の腕に若干筋肉が付いたような気もするけど、せいぜいその程度だ。なんてこった。
やっぱり本物を買わないと駄目だということか。
というか、腕立てと腹筋した方が早いかも?
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オークションの調子が悪い。
ここ数週間ずっと、S-VHSビデオとサブPCを狙っているのにどうしても買えない。欲しいものは全部高値になってしまって。
流れが悪い時は何故かこうなる。流れがよくなるとポンポンっとあっけなく続けて安値で買えたりするのに。
ま、すぐに必要なものではないから気長にいくか。 二万円で買える新しい刺激を与えてくれるおもちゃもさっぱり見つからない。ずっと探しているのにイメージがわかない。どうしたことか。目を向ける方向を間違えているのか?
*
今週は結局またロングドライブができなかった。台風や悪天候やアメリカ関連で。
相変わらず流れが淀んでいる。風向きが変わらない。
どこか一ヶ所でも動き始めれば、連動していろんな部分が動いていくような気がするんだけど。
来週こそ動かさないと。まずはロングドライブで突破口を見出したい。
*
今日の自己診断は、小4といったところか。それほど悪くはなかったから何か一つでも普段とは違うことができていれば小6になったのに。
いつになったら中学に上がれるんだろう?
今ふと思いついたことがある。
いきなり学生服を着て近所を歩き回ったら、間違いなく頭がおかしくなったと噂されるだろうけど、更にその上を行くための方法があることに。
それはランドセルを背負って近所をうろつくことだ。ランドセルを背負った30男。これはいいぞ。ここまでいくと近所の人は恐れをなして見て見ぬ振りをして、噂にさえならないだろう。
いや、もちろん私はやらないけど、チャレンジャーな方、ぜひやってみてください。都会バージョンと田舎バージョンの両方やってみるとまた違った面白さがあるだろう。うーん、誰かやってくれないかなぁ。
こういうプラクティカル・ジョークというのを考えるのが昔からけっこう好きで、よく考えたものだ。
色々思いついたんだけど、現実味があってぜひやりたかったのは、馬に乗って登校する、というものだ。一番登校する人間が多い時に馬でその横を駆け抜けるのもいいし、わざと遅刻して悠々と運動場に乗り込むのも悪くない。誰にも気づかれず教室まで行くのも面白い。
やりたかったなぁ。やったら退学かなぁ。洒落で許してくれるといいけど。
あ、そうそう、もう一つあった。それは鎧兜を身にまとって何食わぬ顔で車を運転する、というやつだ。
これもいいぞぉ。信号待ちで横に止まった車を見たら、そのドライバーが鎧兜を身にまとっていたら相当びっくりするに違いない。しかも真面目な顔で。
西洋式もいいし、武士姿もいいな。けど、兜は天井に引っかからないかなぁ。
などと、こんな下らないことばっかり考えている私であった……。
明日からはもっとましなこと考えよっと。
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今日のための言葉
「ジョークだけでは生きられないが、ジョークなしでは生きたくないね、俺は」
田中芳樹「銀河英雄伝説」より
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9月13日(木) 「怠惰全開」 |
変化はいつでも少し恐くて、でも同時にとても憧れもする。いつも変化を求める心が恐怖心を少しでも上回れば変わっていけるのだけど、そう上手くはいかない。
繰り返す日常に不満を抱きながら、人はそれをなかなか変えることができない。いくらでも変えられるというのに。
足りないのは勇気だけだろうか?
たぶん、そうじゃない。もっと他にも足りないものがある。それは何か? 日常を変えたいと思いながら変えられない理由……。
変えることによってもっと悪くなるかもしれないという恐怖心だろうか? それとも、もっと根本的な何かが不足してるからなのだろうか?
よく分からない。変えたいと確かに思っているはずなのに、毎日何もできず、変化を先延ばしにしてしまう。
あるいは、過去の失望の記憶が臆病にしてしまうのかもしれない。何かを変えても結局は同じことじゃないか、という。
一体、いつになったら私は自分が納得できるほど自分を変えることができるのだろう? まだ先になるのだろうか……。
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誠実な一日と不誠実な一日があって、一番裏切ってはいけない自分さえも裏切ってしまう日がある。
そんな日は、深夜の部屋で、誰にともなく頭を下げて謝ったり……。
すみません。
でも反省が活かされることはついにないのであった。
今日も一日、景気良く怠けた。でも今はそれがなんとも言えず気持ちがいい。少し前まではルーズになるのが大嫌いで我慢できなかったのに、今はそうじゃない。ルーズが心地よい。人間性というのも知らない間に変わっていくものだ。
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それにしても今日は怠け放題怠けた一日だった。
予定では、あれこれ買い物をして、洗車をして、レンタル屋に行って、早寝をする、ということになっていたのに、結局全部飛ばして何一つやらなかったのだ。なんてこった。
一日、アメリカ関連の番組を中心にだらだらとテレビを観て、「FF10」をうだうだとやって、あとはオークションであれやこれやをふらふら物色して回って、そして今、一日がよろよろと終わろうとしている。
これでいいのか、私?
うーん、まあいいだろう。そういうこともある。
今日すべて予定通りにいったら、明日は内海の海を見に行くはずだった。けど、予定はまたもや大きく狂った。今日の分がそっくり明日にずれ込むことになったから。まあどっちみち明日は天気が悪そうなんだけど。
ということで、明日はもうちょっとしっかりしよう。今日が小2だとすると、明日はせめて小5くらいには。
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今日のための言葉
「怠けて暮らそうと思ったら、とてつもない努力がいるのだよ」
K・クワトロ神父
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