2001.8.26-

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 9月12日(水) 「正義はあちらこちらに」

 昨日から今日にかけて、起きている間中ほとんどずっとアメリカ関連のニュース番組を観て過ごした。
 多くのことを感じ、色々なことを考えたけど、言葉になる感情や思考は意外に少ない。いや、ほとんどないと言った方がいいかもしれない。それは別にショックを受けたとか、腹が立ったとかそんなことでは全然なくて、なんというか、言葉がむしろ自分の中であふれてしまってどれを取ってどれを捨てたらいいのかの判断がつかなくなっているからだろう。もう少ししたら自分の中で言葉が整理されて上手く表現できるかもしれない。
 
 たぶん、私が今感じていることは他の誰ともあまり似てないんじゃないかと思う。似た人がいたとしてもそんなに多くはないだろう。
 ひとことで言うなら、この世界に対する根深い失望感が少し薄れた、ということだ。失望したのではなく、この事件によって逆に世界に対する信頼感というか期待感が増えたのだった。
 と言ってもよく分からないだろう……。
 このへんの心理というか心情を説明するのはちょっと難しい。分かってもらおうとすれば、さかのぼっていろんなことを全部説明しなくてはいけなくなるから。
 
 簡単に言えば、遅れてきた世紀末なのだ。
 20代の私は、1999年をひとつのターニングポイントと思って、それを目標に生きていた。1999年に私が望んでいたのは人類の滅亡でも世界の破滅でもなく、誰も見たことも想像もしなかった出来事の実現であり目撃だった。そして、その後に訪れる新しい価値観による新しい世界に対して大いなる期待と希望を抱いていた。別の言い方をすれば、人知を超えた力の証明といったものを確認したかったのだ。私がこの世界を信じるために。
 この世界が私の想像の範囲内であって欲しくなかった。想像を絶して欲しかったのだ。どんな形でもいいから。
 でも、世紀末、世界では何も起こらなかった。何も変わらず、新しい世界は実現しなかった。そして私は失望し、途方に暮れた。
 
 そんな中、昨日の出来事だ。まったく想像できなかったことが起こり、歴史が動いた。
 誤解を恐れずに書くと、私の中で正直少しほっとしたのだった。世界の可能性を感じ、世界に対して絶望するのはまだ早いということが分かったことで。
 起こり得ないと思っていたことが現実として起こったということは、世界にはまだいろんな可能性があるということだ。別にアメリカがやられたことがどうこうではないし、テロの善悪もまったく別の問題だ。それらの問題は問題として色々感じることや考えることもあるけど、それとは別に私の中にあった世界に対する失望感が少しやわらいだ部分が確かにあった。
 
 アメリカとテロ集団、その他もろもろのことに関しては、どちらの事情や心情もある程度理解できる。どちらかが一方的な正義ではない。善悪の正確な判断は不可能だと私は思う。どちらにも論理があって、歴史があって、信奉があって、正義がある。アメリカは今回こそ被害者になったものの、過去の歴史においてさんざん加害者になっているし、アラブにしてもやり方は正しくない。どちらが悪いかと言えば両方悪いということになるだろう。
 たとえすべての事情を知ってそれを理解できたとしても、この問題を完全にクリアにするのは無理だ。現実問題として。
 今回のことに関しては、唯一解決方法があるとしたら、国連が間に入って両方を抑えることくらいだろう。アメリカがもし単独で直接報復したら、もはやそこに正義はなく、第四次世界大戦になるだろう。それはないだろうと思う人がほとんどだろうけど、今回ばかりはあり得ると私は思う。何故なら、戦争というのはいつも同じことの繰り返しであるようでありながら、実はいつも新しいものだから。スタイルにせよ、理由にせよ、論理にせよ、目的にせよ。
 今回はまったく新しい始まり方だった。だから、終わり方もまた新しいものになる可能性は高い。
 アメリカ以外の国が全力でアメリカを抑えないと危ない。アメリカに協力、支援してる場合じゃない。
 
 ミクロの世界があり、マクロの世界があり、等身大の世界がある。すべては同じ重さの現実だ。同時に存在し、同時に影響を与え合い、同時に変化している。だから、すべてを同時に考える必要がある。目の前で起こった現実だけですべてを判断するのは危険だ。物事の本質を見失ってしまう。
 最大限、時間軸と空間軸を広げて、疑似四次元空間を認識しなくては。
 1000億×2000億個あると言われる星の数から素粒子まで一気にカメラを移動し、なおかつすべての歴史が記録されたフィルムを宇宙の始まりから終わりまで光を超える高速で観るような作業が必要になる。私たちが可能な範囲内で正確に物事を判断しようとするならば。
 もちろんそんなことは物理的に不可能なのだけど、でも人間には物理を超える想像力というものがある。最大限の想像力でなされた判断だけがかろうじて正しさの一端に触れているということになるだろう。
 
 今回の出来事は、いろんな意味で多くの影響を与えたし、この先ずっと与えることになる。でも私は一面的な悲劇だとは思わない。人はここから多くを学べるだろうから。
 悲劇からしか大切なことは学べないということもある。日本人が原爆の被害者になって原爆を捨てたように。
 
 ベルリンの壁の崩壊も、サリン事件も、天安門事件も、湾岸戦争も、私にとってどこか他人事で、あまり心動かされることがなかったけど、今回初めて世界の歴史を自分の目で目撃したような気がして、心が動いた。
 私の中で何かが変わった。良い方向へか悪い方向へかはまだ分からないけれど。
 
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 今日のための言葉
 
「汝の敵を許してやれ。ただしそいつの名前は決して忘れるな」
 
 ジョン・F・ケネディ

 9月10日(月) 「内的要因」

 結婚して、いったんは幸せの絶頂を体験し、その後安定した生活を送っている人たち、そういう人たちは、一体どんな希望や願いを抱えて毎日を生きているのだろう、と時々想像してみるのだけど、私には上手く想像できない。行ったことがない外国の人々の暮らしを想像することができないように。
 私も当たり前の幸せに憧れる。けど、憧れるということ自体が無縁であることの証拠だろう。たぶんみんなは普通の幸せに憧れたりはしない。
 たとえ私の人生で普通の幸せが実現したとしても、私はそこではきっと心安らぐことはないだろう。悲しいことに。
 だから私は仕方なく違う形の幸福を探している。既製の服がどうやっても合わない体型の人みたいだ。
 規格から外れた人間の行く末は二つしかない。特別な存在になるか、ジャンクになるか。
 
                   *
 
 すべての関係性は休むことなく別れが進行している。会っていても会っていなくても、起きている時も寝ている時も休みなく。
 100パーセントの別れに向けてメーターは進み続ける。決して戻ることなく。
 いつも別れは突然に思えるけれど、本当はそうじゃない。メーターを見て見ぬ振りをしてるだけだ。
 人と人との関係性において、完璧も永遠もあり得ない。それを忘れてはいけない。
 だから、変わり続ける関係性の中で、その時その時で最善を目指すしかないのだ。どう頑張っても、いくら嘆いても、過ぎ去った関係性が二度と再び戻ることはない。
 
                   *
 
 自分が最高に優しい顔になれる相手を探した方がいい。反射的に目に力が入るような相手じゃなく。
 一番油断できる相手が自分のための相手に違いない。取り繕っていいところを見せてもやがてお互いに疲れてしまうだけだ。
 
                   *
 
 高揚感や興奮や歓喜といった非日常的な感情や感覚からここのところ遠ざかっている。すごく悪い状態だ。毎日がそこはかとなく詰まらない。
 けど、これは外的な要因ではなくむしろ内面的な問題なのかもしれない。外部からの刺激が足りないのではなく、内部でドラマを作り出せないことが原因だろう。感受性や想像力が少しずつ失われているのだ。頭も心も硬くなっていっている。だから、ある一定以上に感情の針が振れないのだ。
 身を非日常に置けば感情も非日常的になるのは当たり前。だけど、日常の中でもそれに近い状態を作り出さなければいけない。毎日非日常にいるわけにはいかないのだから。
 小さな刺激を最大限に拡大しなければ。以前はそれができていた。頭の中はいつでもドラマチックだった。でも今はそれができていない。そこが問題だ。
 いろんなことが悪くなったり変わったりしていくけれど、それは仕方のないことだ。変化を止めることはできない。だから変化に順応しなくちゃいけない。上手に歳を取るということは変化に適応することだから。

 それにしても、もっと毎日に高揚感が必要だ。
 
                   *
 
 私は自分自身に向かって一日に何度もこう命令しなければならない。
 ーー懐かしがるな、懐かしがるんじゃない、と。
 今は思い出に生きる時ではない。遠くを見て、わずかずつでも足を前に運ぶ時だ。
 振り返るな。記憶を殺してもいい。思い出も消してしまっていい。後ろには何もない。あるのは影だけだ。
 見るのは遙か彼方の幻にしておけ。
 
                   *

 生きることは、素敵だけどつらいんじゃない、つらいけど素敵なのだ。間違えちゃいけない。それは全然違うから。
 満腹が常態じゃない、空腹が人間の基本なんだということを忘れてはいけない。人間の基本は幸福ではなくて不幸だ。人は不幸から出発している。そして、どうしたら幸せになれるかを考え、幸せを求め、生きている。
 幸せは決して当たり前なんかじゃない。すごく特別なことなのだ。そのことも決して忘れないように。
 
                   *
 
 何か一つのことに絶望すると、連鎖反応を起こして何もかもが嫌になってやる気を失うけれど、絶望に捕まった時ほどやれることはなんでもやった方がいい。無理矢理自分を叱ってでも。
 やりたくないことを無理にやることで自分の中の淀んだ空気が少しは動く。その空気の揺れが風になり、心の中の絶望という雲を流してくれる。
 絶望を感じた時は止まっちゃいけない、動き続けないと。動いていれば心は死なない。
 絶望が悪なんじゃない、絶望に負けることが罪なのだ。
 
                   *
 
 チャンスは何度も訪れる。小さなチャンス、大きなチャンス。けど、すべてのチャンスは一度きり。逃したらおしまい。巻き戻しもやり直しもできない。
 だから、いつ訪れるか分からないチャンスのために毎日備えてなくちゃいけない。チャンスはフラッシュの光のように一瞬だから。前触れはない。
 
                   *
 
 世界の隅々まで知らなくてもいいけど、世界の辺境と中心くらいは知っておいた方がいい。世界には両方があることを。
 どちらが正しいかどうかは別にして。
 
                   *
 
 今日が終わるから明日が始まる。
 一日のゴールまでたどり着けたことを素直に喜ぼう。
 また明日、新しいスタート地点に立てる。それもまた大いなる喜び。

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 今日のための言葉
 
「僕はまだ、自分のすべてを改革しなくてはいけない。上手くなることに限界はないのだから」
 
 中田英寿

 9月9日(日) 「笑顔の途中」

 生きている以上、絶望は人の中で自然発生する。それは誰にも止められない。
 だから人は希望を持つ。絶望を打ち消すために。
 絶望と希望はいつもセットになっていて、ふたつを合わせてプラスが多ければ幸せ、マイナスが大きければ不幸を感じる。それぞれの大きさではなく、トータルが問題になる。
 希望が大きければ絶望に負けずに済むけれど、希望が小さければ小さな絶望感にさえ負けてしまう。

 希望を持てない人間は脆い。だから希望を持たなくてはいけない。でも、それは考えるよりも難しいことかもしれない。希望はいつだって儚いものだから。
 
 私は最近、ふたつの大きな希望を見失った。そしたら、眠っていた絶望が突然目覚めた。今は我が物顔で私の中心に居座っている。しばらくは動きそうにない。
 こいつを追い払うためには、新しい希望を見つけるしかないのだろう。それも小物ではなく大物を。物でも、人でも、出来事でも、なんでもいい。どんな形でもいいから。
 けれど、また種植えから始めなければいけないとしたら、ちょっと気が遠くなりそうだ。半年や一年かかってしまうかもしれない。私にそんなにのんびりしてる余裕はあるのだろうか?
 それとも、希望など持たず、不幸に甘んじて生きるべきなのか?
 希望、絶望、希望、絶望、希望……。
 希望と絶望が絡まりながら落ちていく。

                   *
 
 今日の私には何も分からない。正しさも間違いも。
 分かっているのは、このままでは絶対にいけないということだけ。
 今の暮らしの中で、何を足して何を引けばいいのか、その足し算引き算もままならない。もう一度小学生からやり直した方がいいかもしれない。
 
                   *
 
 小さな悲劇は、誰にも知られることなく、そこかしこに転がっている。
 それらの中でごく一部を一瞬目にすることがあるけれど、私にはどうすることもできない。がんばれ……と微かな声援を心の中でつぶやいて見送るだけだ。
 私には霊の姿もUFOも見えないけれど、人の悲しみだけは誰にも負けないくらいよく見える。それが良いことなのか悪いことなのかよく分からないけど、でもそんなに嫌な感じはしていない。人の中の目に見えないような悲しみを見つけるたびに、もっともっと優しくならなくてはと思えるから。
 
 この世界から悲しみが消えることはないし、消える必要もない。悲しみは消したり忘れたりするものではなく、闘って打ち勝つべきものだから。
 すべてのネガティブに勝った時、初めて人は心からの笑顔を見せることができるだろう。
 人はまだ、笑顔の途中。
 
                   *
 
 私の最大の絶望感は、歴史上、正しいと言われる人々のすべてが私から見て正しく見えない、というところにある。すべての偉人が全然駄目に思えてしまう。
 それは、単に私の思い違いなのだろうか?
 そうかもしれない。でも、確かな目標が見えないからどうしても迷ってしまうというのは事実で、少なくとも私は彼等のような正しさを目指すつもりはない。
 たぶん、普遍的な正しさというのは存在しないということなのだろう。あるのはオリジナルの正しさだけで。
 
 私の目指すもの、それは、地上にあるすべての形容詞を超えること。言葉も、概念さえない先へ突き抜けたい。あらゆる価値観の向こう側へ。
 
 妄想を実現させれば偉人と呼ばれ、実現させられなければただの狂人。
 
                   *
 
 人の体が外部から絶え間なく入り込んでくる病原菌と闘いそれに打ち勝って健康体を保っているように、心もまた、いつも悲しみや苦しみや絶望のウイルスと闘っている。
 時には風邪を引き、時にはどうしようもなく暗い気持ちになってしまうこともある。
 けど、人にはウイルスと闘い、それを打ち負かすだけの力が備わっている。だから、何度でも勝てばいい。
 人生は真剣勝負の連続だ。勝つか負けるか、二つに一つ。
 
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 今日のための言葉
 
「希望を失った人間は、悲しみの螺旋へと落ちてゆく……」
 
 ゲーム「ファイナルファンタジー10」より
 
 9月6日(木) 「喜怒哀楽すべてが揃ってこそ」

 毎日笑って過ごせればそれに勝る幸せはない、などと言う人がいるが私はそうは思わない。
 人間には喜怒哀楽、その他様々な感情や感情表現がある。本当の幸せというのは、それらすべてを目一杯味わい、表現することではないだろうか?
 毎日、喜び、悲しみ、笑い、時には怒ったり、泣いたりできたら、それこそが幸せな暮らしではないか? 毎日馬鹿みたいにヘラヘラ笑って過ごすことが幸せだなんて思えない。
 それに、悲しんだり、悩んだり、泣いたり、そういう負の感情を味わうからこそ、喜びや楽しさが2倍にも3倍にも感じられるのではないか。
 おなかが減らなければいくら美味しいものを食べても嬉しくないのと同じだ。
 過不足のない喜怒哀楽、それこそが人として目指すべき正しい生き方だと私は思う。
 
                   *
 
 自分の間抜けさを笑ったり、自分の愚かさを楽しんだりする人間でなければ、真に人生は楽しめない。
 逆に言えば、そういう部分を他人事のように楽しむことさえできれば、どんなに不幸な人生でも楽しくて仕方がなくなるだろう。
 人の不幸より自分の不幸を楽しんだ方がいい。
 
                   *
 
 人間には疲れというものが必要だ。毎日疲れない生活は、楽ではあるけれど、どこか物足りない思いが残ってしまうから。たくさん食べたのになんとなく満腹感が得られない時のように。
 疲れない生活よりも疲れる生活が人間としては正しいに違いない。
 
                   *
 
 日本はこの先、駄目になるかもしれないし駄目にならないかもしれない。誰にも本当のところは分からない。私はどちらでもいいと思っている。
 いずれにしても間違えていけないのは、駄目になることが必ずしもいけないことではないということだ。
 過去、栄華を極めた国はほぼ例外なく没落した。日本だけが例外というわけではないだろう。
 でもそれが悪というわけではないし、嘆いたり絶望したりするには値しないと私は思う。
 駄目になったら駄目なりに楽しめばいい。二流国でも三流国でもいいではないか。日本なんて元々は冴えない田舎の小さな島にすぎなかったわけだし。
 もし没落したとしても、没落した先で何かが見つかるだろう。今まで知らなかったことや見落としていたことが。
 落ちるのは歴史の必然。
 一番詰まらないのは、まだ来てもない暗い未来を思い描いて今を楽しめないことだ。まだ日本は大丈夫。今を楽しみ、喜び、享受することが先決だ。
 
                   *
 
 馬鹿みたいに前向きであることはとても大切なこと。
 でも前向きも度を超すとただの馬鹿だ。
 それでも馬鹿を貫けば、きっとどこかに突き抜ける。自分の望んだ場所ではないかもしれないけれど、そこはほとんど誰も辿り着くことができなかった場所だ。
 行けるものなら行った方がいい。
 くれぐれも半端馬鹿で終わらないように。
 
                   *
                   *
                   *
 
 9月ももう一週間が過ぎて、残り3週間しかない。ぼんやりしてるとすぐに10月になってしまって、気分の中で年末も近づいてきてしまう。こりゃあのんびりしてられない。
 
 本当は今日洗車を済ませて、明日内海の海に行こうと思ってたのに、今日、明日と雨模様で一気に流れが止まった。ここのところずっと流れが悪いままだ。
 予定を変更して、今日は熱帯魚水槽の全換えをすることにして、水槽と砂を全部洗って、水もすべて新しくした。
 おかげで水槽は見違えるようにきれいになった。私としては気分がいい。ただ、魚の方はどうだろう。いきなり全部新しい水で大丈夫だろうか。脱落者が出ないといいけど。
 明日も雨らしいのでドライブ関係は無理だろう。買い物でもまとめてしてしまうか。余裕があればレンタルビデオでも借りてこよう。でも路上駐車はやめよう。婦警に喧嘩を売るのも慎まねば。
 
 2万円の新しいおもちゃはいまだアイディアが浮かばず。
 オークションのS-VHSビデオの戦いにも破れ、適当なサブPCも見つからず、探しているスウェードのスリッポンも出てこない。
 とにかく動きがないのが問題だ。一日も早く新しい空気を生活に送り込まなくては。このままでは日常生活が窒息してしまう。
 
 ゲームはここのところずっと「ファイナルファンタジー10」だけ。そろそろ3分の2くらいだろうか。相変わらず安定した面白さというか安定した退屈さというか、印象は最初と変わらない。
 
 変わらないといえば体重と体脂肪も変わらない。ちゃんと毎日せっせと偽ボディブレードを震わせまくってるのにいっこうに効果が表れない。いまだ体重は61キロ前後、体脂肪率は16パーセントのままだ。せめて1キロ、1パーセントでも減ってくれれば張り合いも出てくるだろうに、気の利かない偽ボディブレードめ。
 まあでもとりあえず3ヶ月はやってみないといけないだろう。それでも効果が出なければ、やっぱり偽は売り飛ばして本物を買うしかないか?
 
 そういえば映画も行かなくてはいけないんだった。歯医者やらなんやらで忘れてた。
 来週の月曜のメンズデーはどうしようか。天気がよければ海へ行きたいところなんだけど、週間天気予想では雨。
 じゃあ、雨だったら『大河の一滴』に行くか。ちょっと遠い方の映画館でしかやってないのがやっかいだけど。
 
 ビデオ、テレビ関連ではベット・ミドラー、サラ・ジェシカ・パーカーたちの魔女コメディ『ホーカス・ポーカス』がそこそこ面白かった。
 それくらいか。最近映画のペースもガクッと落ちたな。
 
 そういえば近所の「Book off」が消えてなくなっていて驚いたのだった。
 そこはうちの近くで最初にできた店で、一時期は毎週のように通ってた店だったのに。
「Book off」がつぶれるのは初めて見たので、ちょっとした衝撃だった。久しぶりに行ったら、いきなり店が消えてなくなって更地になってたから余計。
 しかし、溜めた500円近いポイントは一体……?
 
 そういえば本も最近はまったく読めてない。最後の読了本は何だったかさえ思い出せないくらいだ。
 ただ、ここへきて少し気持ちが戻りかけているから、もしかしたらまた読み出せるようになるかもしれない。
 本も読める時と読めない時が両極端だから。
 
 ここのところ夜11時から毎日やっている「イタリア通」という特番がとても面白い。
 案内役に江守徹、教わり役に堤真一、という配役でローマ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ミラノとイタリアを回り、面白おかしくイタリアについて勉強して、イタリア通になろう、という番組だ。
 制作者のセンスが抜群で、すごく面白くて勉強になった。私も少しはイタリア通に近づけたかもしれない。マンマ・ミーア、マンジャーレ、カンターレ、アモーレ。
 ……。
 ほんのちょっとだったみたいだ。
 
                   *
 
 退屈病は少しおさまった感じだ。心の隙間は小さくなりつつある。
 退屈病に一番よく効く薬は何か?
 ーーそれは、恋。
 
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 今日のための言葉
 
「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」
 
 ヴェルディ「歌劇ナブッコ」(テレビ「イタリア通」)より

 9月5日(水) 「歩調の問題」

 毎日やることはある。やるべきこともある。楽しくないこともない。
 でも、多くのものを犠牲にして求めたのはこんなことじゃないんだ。こんなものじゃない……。
 
 もう一度犠牲にしてきたものをよく思い出して、それを噛みしめて、求めるべきものをきちんと求めなくては。
 犠牲は大きく、時間はどんどん減っていっているのだから。
 
 まずは、なくしたものを忘れることから始めよう。
 
                   *
 
 幸せは金魚掬いのようなものだ。
 誰の前にも平等にチャンスはある。上手にたくさん掬える人がいて、下手でまったく掬えない人がいる。その違いだけだ。
 幸せになれないとしたらそれは世の中のせいじゃない、自分に実力がないだけのこと。
 幸せになりたければ、まずは学ぶことだ。そして、経験を積むこと。そうすれば金魚も掬えるようになるし、幸せにもなれる。
 つまり、金魚掬いも幸せになることもコツがあるということだ。ただ闇雲に求めても何も得られない。逆に言えばコツさえ掴めばいくらでも手に入る。金魚掬いのチャンピオンにもなれるし幸福のチャンピオンにもなれる。
 
                   *
 
 とても厳しいことを言ってしまえば、才能や運が行方を左右するのは超一流や一流での話であって、二流、三流の世界では才能や運なんてものはほとんど関係がないのだ。
 一流以外の世界で勝てないのは、単純に努力と実力が足りないだけの話。才能や運の問題じゃない。
 大切なのは日々の練習と経験の積み重ねだ。それ抜きに一流になどなれるはずもない。
 
                   *
 
 当たり障りのない正論よりも、間違った暴論の方が人に多くのものを与えることを私は知っている。
 言葉や文章や話というのは他者への働きかけだ。刺激と言ってもいい。より多くの刺激を与えたものが正しい。論理としての正しさなど大して問題じゃない。宗教家や道徳家でもあるまいし。
 親も教師も、与えるべきものは正しさじゃない、刺激だ。大きく揺らさなければ小さなものしか生まれない。
 
                   *
 
 最近どうも言葉と上手く戯れられない。言葉との関係が少しぎくしゃくしている。こちらが楽しんでないから、言葉の方もこちらへ寄ってこない。距離感も良くない。
 それでも言葉を無理矢理手なずけるようなやり方は好きじゃないから、しばらく静観するしかないだろう。
 そのうち前より良くなるかもしれない。
 
                   *
 
 自分と他人の歩調が同じではないということに人はあまり思いを巡らせない。他人も自分も同じ速さで生きていると思いがちだ。親しい間柄ならよけいにそう思い込む。
 でも実際問題、そんなことはあり得ない。知り合って1年もすればずいぶんずれているのが普通だ。一年後も同じスピードですぐ横を歩いてるなんてことはめったにあるもんじゃない。
 よく、ズレとかすれ違いとかいう言葉を使うけど、あれはまさに生きるスピードの違いから生まれるものに他ならない。
 いや、だからこそ人はそのことを本能的に感じて、自分と似た歩調の他人を求めるものなのかもしれない。友達や恋人や結婚相手として。
 
                   *
 
 毎日に退屈してるわけではないけど、この頃一日の中の隙間で少し退屈を感じてしまうことがあって、それがなんだかすごく気になる。
 といってもぼんやりしてるわけではなくて、何かしらアクションはしてるのだけど、でも感情の部分で確かに退屈を意識するのだ。
 退屈が大嫌いで、ひとりで過ごす時は絶対に退屈を感じない自信があったのに、ここへきてそれが崩れようとしている。
 人からしたらなんでもないことかもしれないけど私にとっては大問題。ちょっと自分を許せないくらいだ。
 原因はいくつかあってそれは分かっている。要するに隙間ができてしまったということだ。心の中に。
 それを何かで埋めようとあれこれ試してはみた。この前から書いてる2万円で買える新しいおもちゃというのもその一つだ。けど、駄目だ。どうにも上手くいかない。隙間が埋まらない。
 もしかしたら、生活も思考も感情も根本的に組み替えないといけない時期に来ているのかもしれない。このままでは退屈の隙間がどんどん広がって、やがて心に空洞ができてしまうだろう。
 なんとかしなくては。動くことで、ではなく、考えることで。いつも考えることで突破口を見つけてきた私なのだから。
 
                   *
 
 優しくて柔らかくて暖かいもの。それは確かに大切だし、なくてはならないものだし、欲しいとも思う。でも同時に、厳しくて固くて冷たいものも同じくらい必要なものだ。
 何もかもを求めることは欲張りと思うかもしれないけどそうじゃない。プラスとマイナスの両方をバランス良く持つことで初めて人は正しく在ることができるのだから。
 幸福なだけの人生はどこかで絶対に破綻する。
 賢ければ賢いほど、同じくらい愚かでなくてはならない。
 自分が善に近づけば近づくほど悪を知る必要がある。
 完璧というのは、プラス100パーセントを言うのではない。プラス100パーセントであると同時にマイナス100パーセントであることだ。
 だから当然、神と悪魔は同一人物だろう。
 
                   *
 
 詩の魂を持った言葉は、深夜の闇の中、空中に漂っているものを、壊れないようにそっと両手で包むように捕まえなくてはいけない。
 乱暴な人や、深夜を生きていない人は、決して本物の詩を捕まえることはできない。
 
                   *
 
 たとえば宇宙へ行ってみたいとか、別の惑星に降り立ってみたい、などという夢というかぼんやりとした願望がある。
 2、3年後は無理だろう。けど、30年後、40年後ならもしかしたら実現するかもしれない。
 今から向こう30年で、どれだけたくさんの映画が自分に感動を与えてくれるだろう、と想像してみる。
 長生きするのに多くの理由はいらない。ささやかな夢や希望や願望があれば長生きしてみる価値がある。
 もちろん長生きすれば嫌な目にもたくさん合うだろう。けど、長生きしなければ味わえない感動や喜びも確かにあって、それは今考えているよりもずっと多いと思うのだ。
 
 早死に憧れた20代の私はもうここにはいない。ここまで生き延びることができて本当に良かったと思うし、あちこちに感謝したいとも思う。
 できることなら、寿命など無視して一日でも長くこの世に居座り続けたいものだ。生命線が誰よりも短い私だけど。

 でも私が本当に長生きしたい理由は、すべてを愛するようになりたいから。少しずつできるようになってきたけど、まだまだ時間はかかる。あと10年やそこらではきっと無理だ。
 この世界のすべてを愛するために私はあと何十年生きなければならないのだろう?
 
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 今日のための言葉
 
「他人にインパクトを与えなければ、私の人生はつまらないものだった」
 
 ジャッキー・ロビンソン(メジャーリーグ初の黒人プレイヤー)

 9月3日(月) 「残暑のない夏の終わりに」

 分かっている。分かっているけど、分かっていることの先が分からない。
 分かった先で何をすればいいのかが。
 テストの目的が100点満点を取ることだと分かっていながら100点を取ったら次にどうすればいいのかが分からないように。
 
                   *
 
 もしあなたがたくさんの人の笑顔を見たとしたら、それはあなたが作ったあなたのための笑顔だ。威張っていい。
 幸せというのはそういうものだ。自分がいて、他人がいて、他人の中に作り、他人からもらう。
 幸福は水のようなもの。雲から降った水は山に集まり、川になり、海へ流れ、また空に戻っていく。
 幸福もまた、人から人に伝わり、世界を回っている。
 不幸の原理も同じだ。
 
                   *
 
 戦争はどこかコミカルなものだ、などと言ったら叱られるだろうけど、戦争に関係ない世代と国に生きる私から見るとそう見える部分がある。
 たとえば第二次大戦末期の日本国内。今になってみると冗談としか思えないようなことがたくさんあった。
 戦争に使う弾が足りないってんで国民からナベやヤカンなんかを徴収してみたり、それでも足りなくて次に国が目を付けたのが小学校にあった二宮金次郎の銅像だ。軍人がリヤカーを引っ張って小学校にやってきて、二宮金次郎をリヤカーに乗せて持っていってしまったのだ。そしてその銅像の首には、「二宮金次郎さん、出征おめでとう!」と書かれたたすきがかかっていたのだった。笑える。
 他にも飛行機が足りないからベニヤ板で零戦の模型を作って、それに色を塗って飛行場に並べたり、「本土決戦! 一億玉砕!」の旗印の下、「鬼畜英米何するものぞ」と叫びながらやってたことは、国に残った女の人と老人が頭にハチマキを巻いて、先を尖らせたヤリを振りくり回すというものだった。
 すごく一所懸命なのは分かるし、熱意も伝わるけど、やっぱりどこかコミカルだ。
 市民が自家用車を乗り回し、週末にはホームパーティーを開き、オーブンレンジでチンしてフライドチキンなんかを食べ、映画館で新作の『風と共に去りぬ』を観たりなんかしていたアメリカには、それは勝てないって……。
 
 人間は愚かで愛すべき存在だ。許される価値がある。けど、それはコミカルだからだ。笑いを知っているからだ。
 逆に言えば、愚かでもコミカルでもなくなった時、人間はついに許されざる存在になってしまうのかもしれない。そんな気がする。
 
 それにしても戦争はもう終わりにした方がいい。第二次大戦が最後のコミックな戦争だっただろうから。次の戦争にもはや笑いの余地はほとんどない。洒落にならない。
 
                   *
                   *
                   *
 
 今日ドブに落ちた。
 足を踏み外して、右足が。
 前回ドブに落ちたのはいつだったか? まったく記憶がないところをみると、10年以上か、もっと前かもしれない。
 ドブに落ちる30男。
 ……。
 思い出すだけで恥ずかしい。犬のフンを踏んづけたに等しい。しかし、傷口は痛々しく、今もまだ右足のすねの3分の1くらいすりむけて血が滲んでいている。シャワーでも猛烈にしみた。
 
 歯医者へ行く時、雨が降っていて、少し焦ったのが一番の敗因だろう。しかも、濡れるのを嫌がったのが更に悪い結果を招いた。少々遅れようが濡れようが大したことじゃない。ドブに落ちることに比べたら。
 アイタタタ……。傷がしみる。

 ドブから素早く足を引き揚げ、何事もなかったように、速やかにその場を立ち去った私だったが、あるいは目撃者がいたかもしれない。近所で噂になってないとよいが……。
 雨の日のドブにはくれぐれも気を付けなければ。もう二度とドブに落ちるのはごめんだ。
 
 歯医者はまあなんとか無事行くことができた。今日削って型を取ったから、一応来週で終わりだろう。もしくはあと一回くらい掃除に行かないといけないかもしれないけど。
 とりあえず大事にならなくて良かった。歯医者だけは一生馴染めそうにないから、なるべく行かずに済ませたい。
 しかし歯が気になると食事がまずいし楽しくない。歯はやっぱり大切なのであった。
 悪くなったら新しいのが生えてくればいいのに。
 
 今週はどうやら天気があまり良くないらしい。洗車とワックス掛けもしなくちゃいけないし、ロングドライブも行きたいのだけど、ちょっと難しいか。
 天気がはっきりしないようなら先に近場の海へ行くことにしよう。夏の終わりの海を見に。まだ人がいるだろうか?
 
                   *
 
 PS2の「ファイナルファンタジー10」を毎日コンスタントにやっている。面白い。けど少し退屈。
 このゲームを一言で表現するなら「少々退屈な一流」というところだろうか。
 プレイヤーに見せる映像はPS2でものすごく進化した。ある意味では映画を越えたと言ってもいいかもしれない。
 けど、肝心のゲーム部分はどうだ。ほとんど進歩してないどころか退化しているようにさえ思える。特に「8」から「9」へと確実に進歩してきたシステムが「10」になってリセットされて別物になってしまっている。たぶん制作班が違うからなんだろうけど、それにしてもこのゲームシステムは納得がいかない。「9」のほとんど究極的とも言えるユーザーフレンドリーさを知った後では特にそう感じる。
 まだ全体の半分ちょっとしかプレイしてないからこの時点で結論を出すのは早いだろうけど、ここまでの満足度は80点といったところだ。どうしても「9」と比べてしまって、明らかに「9」の方が面白かった。
 とはいえ、色々いい部分もあるから、駄目なゲームだとは決して思わない。映像だけでなくトータルの評価としても一流だろう。これだけのゲームを作れるのは今スクエアだけだし。
 文句を言う前に目一杯楽しもう。それが基本。
 
                   *
 
 2万円で買える新しいおもちゃは、今日も思いつかなかった。
 とりあえずPCのサブ機とS-VHSビデオだけは買うことになるだろうけど、探してるのはそういうものじゃない。新鮮な感動や喜びや興奮なのだ。2万円では無理ということはないはず。
 なんとか今月中には見つけたい。
 
                   *
 
 PCの接続をD-sub15ピンからBNC接続に変えてみた。
 が、あまり変わったような気がしない。人によったら劇的に変わると言う人もいるんだけど。
 まあiiyamaのMT-8617Eというのは文字の表示がくっきりしていて発色もいいモニタなので、これ以上良くなるというのは想像しづらいといえばしづらいのだけど。
 それでも多少は変わってるんだろう。そのうち気づくかもしれない。
 
 しかし、iiyamaがこれだけいいと分かった今、私の中のSONY神話が崩れつつある。
 もちろんブランドとしてのSONYは相変わらず好きだけど、性能という点で絶対的なアドバンテージがあるわけではないということが分かってきた。いや、それは当たり前だし分かっていることだ。言い方が違う。
 つまり、ブランドイメージ+性能で他のメーカーの機種と比べた場合、私の中ではいつでもSONYが勝ってきたのだけど、それが崩れつつあるということだ。特に実用性第一の製品に関しては、SONYは他と横並びになった。ちょっと寂しいけど、別にSONYに義理があるわけでもない。
 
 モニタに関しては、次こそナナオを買いたい。ナナオの絶対性というものを見てみたい。どれくらい違うものなんだろうか。
 
                   *
 
 だいぶ涼しくなった。というか、夏用のぬるま湯シャワーでは寒いくらいになった。いつもなら今頃はまだ残暑が厳しい時のはずなのに。夏の前半で暑さを使い切ったとでもいうのか?
 もう少し暑くてもいい。まだしばらく暑さを味わっていたい。私の中でまだ2001年の夏は完結してないから。
 せめて9月いっぱいだけでも暑さを取り戻して欲しいのだけどどうなんだろう。もしかしてこのまますんなり夏は去ってしまうのだろうか。こんなに涼しくてはひぐらしも出てくることを忘れてしまうかもしれない。
 まだ冷凍庫には食べ残しのシャービックも残っている。
 
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 今日のための言葉
 
「自分が本当になりたい者になれるのは、そうなりたいと願った者だけ」
 
 ゲーム「ファイナルファンタジー10」より

 9月2日(日) 「2万円で買える新しいおもちゃ」

 人生をやり直す必要なんてまったくないし、やり直せるはずもないではないか。ただそのまま前へ進めばいいだけだ。引き返せないのに引き返そうとしてどうする。
 過去の失敗は未来で取り戻せばいいだけのこと。失敗や間違いを活かして成功につなげればいい。そうすれば過去の失敗や間違いも意味を持つ。
「人間いくつになってもやり直せる」なんて、そんなものは寝言以下だ。

                   *

 タイムマシンは、過去に戻るための道具じゃなく、未来へ向かうための道具だ。
 つまり、便利だけど、なくて困るものではない。

                   *
 
 人は点と点をつないで生きている。
 幸せという星から別の幸せな星へと旅する宇宙の旅人のように。
 人生は線ではあるけれど、それは点と点をつなぐ線だ。
 もし運命というものがあるとするならば、それは線ではなく点だろう。
 
                   *

 部屋の中で何気なく反射的に私に命を奪われる名も知らない虫に命の儚さを教えられる。
 やつは一瞬前まで自分が死ぬなんて思ってもみなかっただろう。でも現実として、次の瞬間命が消えている。明日は我が身だ。
 死はいつも瞬間的なものだということを忘れないようにして毎日を生きなければと思う。
 それと、たくさんの命の犠牲の上に成り立っているいるんだということも覚えておかないと。
 
                   *
                   *
                   *
 
 サムシング・ニュー、というのがここ最近の私のテーマになっている。何か新しいものはないか。何か新しいことを始めたい。いつもそんなことを考えている。
 けど、これがなかなか……。

 たとえば新しいおもちゃは何かないだろうか、と考えてみる。予算は、そう、2万円くらいで。
 今まで遊んだことがなかったり、持ったりしたことがなくて、2万で買えるおもちゃはないだろうか。
 うーん、すぐには思いつかない。イメージが浮かばない。
 じゃあ、今持ってるおもちゃで2万で買えるものは何だろうと考えてみると、たとえばゲーム機がある。プレイステーション、ドリキャス、プレステ2、N64……。
 うっ、全部持ってるではないか。
 ビデオもあるし、DVDもあるし、オーディオもMDやCD-Rもあるしとりあえず足りないものはない。PCもVAIOで満足してるし、パワーアップも一応完成している。
 デジカメもDSC-SX150は今のところすごく気に入ってるし、テレビもSONYの21インチで充分だ。
 そう、とりあえず今まで欲しいと思ってきたものが気づけば全部揃ってしまってるのだ。いつの間にか。
 いや、もちろんすべてを持っているわけではない。ビデオカメラとか、スカパーとか、DVD-RAMとか、そういったものは持っていないし、買おうと思っても高くて買えない。
 けど、それらは今どうしても欲しいおもちゃではない。

 買える範囲内のもので欲しい大物が見あたらないなんてことは今までなかったかもしれない。いつでも欲しくても手に入れられないものがあったはずだ。これは思わぬ危機状態になったものだ。
 主な原因はネットオークション。オークションでなんでも安く買えるし、同時にいらなくなった昔のものが意外に高値で売れるので資金も増えたというのもある。
 オークションは文句なしに便利だし、楽しいけど、実はオークションが喜びを奪っているという見方もできる。

 さて、ここでもう一度考えてみよう。2万円で買える新しいおもちゃが何かないか、と。
 2万を使うことは簡単だ。大阪や東京に高速道路で行ってちょっと買い物や食事をしたらすぐになくなる。無印で欲しいものをあれこれ買って、ゲームも買って、ビデオを借りたり、本を買ったりしてればいつの間にか2万くらいなくなっている。
 けど、それとは別の部分で何か2万で新しいおもちゃを買って、それに熱中したい気分がある。新鮮な感動や興奮に飢えているから。
 何かないだろうか。デジカメやPCやDVDが与えてくれたような新鮮な感動を与えてくれるものが。
 今一応候補に挙がっているのはPC自作への道だ。まず手始めにオークションで安い1万くらいのPCを手に入れて、それをあれこれいじったりしてみようかと思っている。
 ただ、純文系の私にどこまでできるかやや疑問なのと、本格的にやろうとするととても2万じゃ足りないことが引っかかって一歩踏み出せないでいる。
 
 駄目だ、見つからない。どうにもイメージがわかない。ここひと月くらいずっと考えているのに。
 今日もまた、サムシング・ニューを見つけることはできなかった。早く見つけたい。
 
                   *
 
 偽ボディーブレードと体脂肪の話を書くのを忘れてた。これがまた笑ってしまうくらい効果がないのだ。いや、それどころか逆効果だった……。
 確かそろそろ2週間くらいになると思うけど、最初のスタートは60.8キロの16パーセントくらいだっただろう。それが今ではなんと、61.4キロになっているではないか。体脂肪は変わらないけど何故体重が増えるー? 毎日ちゃんと怠けず15分か20分はやってるのにー。
 実は筋肉がついてそれで終わりなのか? ううっ、そうかもしれない……。
 それともやり方があまりにも我流すぎるのか? いやいや、やっぱり偽だからだろうか?
 うーむ、なんにしても納得いかん。
 けどまあ、多少なりとも体が鍛えられてることは確かだろう。腕や胸の筋肉も少し付いてきた来もするし。
 このまま一気に中年ボディビルダーへと華麗なる転身を遂げてみるか?
 ……。
 ヤだ。
 私は体を鍛えたいわけじゃなくてちょこっとダイエットがしたかっただけなのだぁー。ええーい、素直に体重を減らしやがれ、偽ボディーブレードめ。
 こうなったら明日からは、偽ボディーブレードを親の敵と思ってブルブル震わせてやる。真ん中からポッキリと折れよとばかりに。
 ……やっぱり逆効果だろうか?
 
                   *

 ここのところすっかり映画から気持ちが離れてしまっている。テレビでやった映画をちょこちょこ観るくらいで、レンタルもほとんどしてないし、映画館へもまったく行っていない。そろそろ復活させたい気分はあるんだけど。
 今更だけど、まずは『千と千尋』へ行こうかと思ってる。もう夏休みも終わって、子供たちもこの作品のことは忘れてるだろう。今ならひとりで行っても恥ずかしくないはず。……と信じたい。
 メンズデーならたぶん大丈夫だろう。
 
 それと迷ってるのが『大河の一滴』だ。作品としてはなかなか面白そうだし、日本映画ファンとしては映画館で観なくちゃいけないんだけど、主演の安田成美がちょっとなぁ。
 昔はけっこう彼女のことは好きだったのに(トヨエツと出てたドラマとか)、とんねるずの木梨と結婚してあまりにもいい奥さん、いいお母さんになってしまって急に興味をなくしてしまったのだ(同じパターンでは今井美樹もそう)。
 安田成美じゃなきゃ迷うことなく行ったのに、どうしようか。他に観たいものがないからとりあえず行っておいてもいいのだけど。
 
 ビデオは、ハン・ソッキュの新作『グリーンフィッシュ』がすごく観たい。それと、ウッチャンナンチャン絶賛の『初恋が来た道』も。
 日本映画では『風花』が気になってる。
 
 それにしても最近これっていう作品に当たらない。生涯ベストテンクラスの作品をたまには観たいな。観終わった後、魂の抜け殻のようになってしまう作品を。
 
                   *
 
 9月に入り、季節も新しくなりつつある。そこで9月からのテーマは、「新しい自分」だ。
 今年に入ってずっと調子が悪いのは、去年とのギャップに悩んでしまっていたから。去年はあんなに楽しくて調子が良かったのに今年は何故、といつも考えてしまっていた。でももうその考え方はやめる。思い出も記憶も捨てる。新しい自分を始めるために。
 とにかく過去との決別がしばらくは最大のテーマになる。そして、新しいものをまた探して見つけていきたい。
 2001年もまだ4ヶ月残ってる。この間にきっと見つけよう。新しい何かを。
 
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 今日のための言葉
 
「どうやってするかって? 手探りでやるだけさ」
 アルベルト・アインシュタイン

 8月31日(金) 「去りゆく2001年夏」

 エンドレスという幻想から逃れられない。
 愚かなことだ。
 今日が終わっても明日があるさと気軽に考えて油断して努力をしない。
 でも、毎日確実に人は死に、今日を生きている人間の何千人、何万人かは明日という日を持てない人間なのだ。
 明日、自分にその順番が回ってきたとしてもなんの不思議もない。
 人生は決して永遠には続かない。そんなことは誰もが知っている。でも、本当は誰も知らない。死んでみないと死ぬということがどういうことなのかは分からないから。
 それでも覚悟と心構えをしておくことは無駄じゃない。明日で人生が終わってしまうかもしれないと毎日思いながら生きていたら、今日の中に思い残すことをなるべく作らないようにするだろうから。やりたいことは今日やってしまった方がいい。
 エンドレスの幻想を蹴飛ばしてやらないと。
 
                   *
 
 悲しみの果てには何もない。悟りなどあるはずがない。
 悲しみは心の旅路の寄り道であって、目的地では決してないから。
 悲しみを知ることが生きることを知ることではない。
 人生の結論は喜びであるはずだ。
 悲しみを知ることで人生を知ったような気になる中途半端な愚か者と一緒にならないで。
                   *
 
 どれだけ失望しても尚、希望する心と期待する心を持ち続けること。
 愚かであることの大切さはそのあたりにある。
 小賢しさを超えた大愚こそが本当に大切なものに辿り着く道なのだから。

                   *
 
 思い出は、甘い言葉を巧みに操るセールスマンに似ている。
 信用しすぎると痛い目に合う。
 
                   *
 
 夢には二種類ある。
 自分ひとりで叶えられる夢と、自分だけでは叶えられない夢と。
 どちらを選ぶかは本人の自由だけど、でもやっぱり、叶った時誰かと共有できた方が嬉しいに違いない。
 
                   *
 
 心というのは、基本的には自律神経を持たないものなのかもしれない。
 外部からの何等かの刺激を受けた時、初めて動き出すんじゃないだろうか。
 少なくとも、人はひとりでは決して自分以上の者になれないことは確かで、自分を超えたければ他人が絶対に必要だということを忘れないようにしなければ。
 
                   *
 
 人を愛することがいかに難しいかを知るのは簡単だ。道行く人を順番に全部見て自分にこう問えばいい。「彼女を心底愛すことができるか? あの子はどうだ? あっちの彼女は?」
 おそらく、ひと目で9割は愛せないと思うだろう。あるいは99パーセントは。
 その中で愛せるかもしれないという人ともっとよく知り合い、それでも愛せると思える人は更に減るに違いなく、愛し続けられる人はほとんどゼロになるだろう。
 しかも、その相手から自分が愛され続ける可能性は? と考えてみると、それはもう絶望的な確率だ。
 もちろん、愛は可能性や確率の問題ではない。でも、数字で言えば愛の成立する可能性はものすごく低い。そこらにころがっているわけではない。
 もし愛を見つけて、それを手に入れたなら、最大限の努力で守り、育てなければならい。愛にはそれだけの価値がある。

 ところで、きみの持っているそれは本物かい?
 
                   *
 
 自分の幸せのために自分の好きな顔を求めるのは当然のこと。
 食べ物の好みがあるように、顔にも好みがあって当たり前だし、美人やハンサムが好きだからといって別に責められるいわれはない。
 誰も自分が嫌いな顔は愛せない。
 
                   *
 
 笑いのない文章は、ニンニクの入ってないギョーザのようなもの。
 不味くなくても物足りない。
 多ければいいってもんでもないけれど。
 
                   *
 
 あきらめることを覚えることはそんなに悪いことじゃない。それは、自分ができることを見極めることだから。
 なんでもできるなどというのは錯覚だし、それは若さの特権にすぎなくて、プラス思考と楽観は別物だということを知る必要がある。
 大切なのは、自分の能力の限界を超えようとする試みだ。限界を知るのを恐れて、限界の内側を走り回ることではなく。
 できる範囲内で幸せを見つけること。そして、それを超えること。まずは限界を知らなければ限界を超えることなどできないのだから。

                   *
 
 人は、不満を持つことで自分を正当化して、日々の暮らしを支えているところがある。不満は向上心の裏返しであり、向上心を持つことで罪悪感から少しでも遠ざかろうとしている。
 その心のメカニズムは間違ってない。不満がなければ向上もないわけだし。
 でも、やっぱり不満を持つだけでは充分じゃない。それだけは何も解決しない。不満と正面から戦わなければ仕方がない。勝てないまでも、まずは戦うこと。戦うことで大いなる支えにもなる。

                   *
 
 人は他人との関係性の中でいくつもの価値観を持つ。
 他人に対して親切な人間でも、ある特定の人に対してはひどい人間になったりもする。
 強者になったり弱者になったり、目上になったり目下になったり。親であり、子供でもある。
 善人でも犯罪者になることがある。
 被害者になり、加害者になる。
 人の価値はすべて他人との関係性の中で決まり、そして価値は決して一種類ではない。すべての人間は、善人の部分と悪人の部分で成り立っている。完全な善人や完璧な悪人など存在しない。
 自分から見えている部分だけでその人間を判断しないように。

                   *
                   *
                   *
 
 8月31日。夏休み最終日。
 夏の勢いが急に失速し、その存在感を失いつつある。そろそろ秋に場所を空けるための準備を始めたようだ。
 今年の夏は特にあきらめがいい。前半飛ばしすぎたようだ。

 夏の終わりはいつも少し物悲しくなるけれど、夏が終わればまた来年の夏を楽しみに待つことができる。それに、次は私が一番好きな季節の秋だ。秋は一番自分が自分らしくあれる季節だから。トーンが合う。
 ひとつ終われば次が始まる。
 寂しさと楽しみ、悲しみと喜びが交錯する一瞬に何かを感じたい。感じることができれば、それは幸福なこと。
 
 2001年の夏を思い出すことがあったら私は何を思い出すだろう?
 それは実在感を伴った空白かもしれない。
 あるいは思い出との静かな戦いの日々だろうか。
 
 次の秋は違う自分になろう。今日、密かにそう心に誓ったのだった。
 
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 今日のための言葉
 
「思わないようにすることは思うことと同じなわけで……。」
 
 ゲーム「ファイナルファンタジー10」より

 8月29日(水) 「昼と夜と人間」

 いくら寂しくても死にはしない。ウサギじゃないんだから。
 でも、時々とんでもなく寂しい感じがすることがある。耐え難いほど。
 そういう夜を重ねていくと、やがて心が少しずつ死んでしまうのかもしれない。
 命に寿命があるように、心にもきっと寿命がある。耐久力がなくなれば、心は動きを止めてしまうだろう。壊れた機械のように。
 寂しい時は寂しいと言った方がいい。頑張りすぎると前触れもなく、ポキリと折れてしまうこともあるから。
 
 けれど、寂しさも人恋しさも、夜明けの朝日の中に溶けてゆく。憂鬱も陽の光には弱い。
 昼と夜を人間が持ったことは偶然なのか必然なのか何者かの作為なのかは分からないけれど、幸運であったことは間違いない。
 人間は昼を生き、夜を生きることで相反する二面性を認識し、物事の良い部分と悪い部分を理解し、その両方を楽しみ、そして愛することができる。
 もし、地球に昼と夜が存在しなかったなら、人間は今とはまるで違う生き物になっていただろう。
 私は今の方がいい。
 
                   *
 
 人は不幸を自分の正当化のための小道具にしようとする。
 でも、その小道具の使い方は正しくない。他人から見たら全然駄目だということが分かる。
 不幸を盾にしても自分を守ることはできない。
 自分を守りたければ、全身に幸福をまとって不幸や敵意を全部飲み込まなくては。弾くのではなく。
 
                   *
 
 今しかできないことをやる、それが人生の基本であることに間違いはない。
 すべては流れていて、同じ場所には二度と戻れないものだから。
 絶対に戻れない、という認識が人間は弱すぎる。そして、いつまでも毎日が同じようにやってくると思い込む。
 人生は、最高の一点を目指す旅ではない。瞬間の一点いってんを感じる旅だ。
 今日を感じること。目の前のささやかな喜びと幸福を余すことなく。
 
                   *
 
 根深い問題ほど解決方法はごく単純なものだったりする。
 そういう場合は、一番深い場所まで潜っていって、その原因を取り除けば、たちまちすべての問題が解決してしまうだろう。
 必要なのは、捨て身の勇気みたいなものだ。
 
                   *
 
 今はあらゆる意味で駄目な時期だけど、ここを通過しないと先へは進めないからしょうがない。この断想日記も今は全然駄目。
 でも、先へ行けば必ず良くなる。そう信じているし期待もしている。なんとなく根拠はないけどそういう確信めいたものがあるのだ。
 焦らず、確実にここを突き抜けよう。
 
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 今日のための言葉
 
「人間は、時の流れや優しさに、悲しみや苦しみの傷を癒されながら人生の旅路を漂って行く。だが、この時という名医すらも、癒しそこなう傷もある」

 西木正明


 8月28日(火) 「変化と永遠」

 一切合切の中で、何を捨て、何を取るか。一瞬いっしゅんのその選択の連続の中で一番大切なのは、勘だ。
 直感こそが自分の一番の味方なのだ。
 経験や知識など、いざという時には何の役にも立たない。
 
                   *
 
 才能というのは翼だ。
 才能があれば高く飛ぶことができる。
 けど、人間には足がある。歩いたり、走ったり、ジャンプしたりできる足が。
 全速力で走り続けたら、翼で飛ぶよりも遠いところまで行けるだろう。
 翼なんかいらないし、翼がないことが言い訳にはならない。
 
                   *
 
 何かをなくなさなければ新しいものは得られない。
 得たものを10なくして、1つの新しいものを得る。
 そうして得たもの10をなくして、また新しい1つを得る。
 人生はその繰り返しだ。
 一方的になくしているわけではない。得るためになくしているのだ。
 一番最後の、一番大切な1つを得るために。
 
                   *
 
 生きることは変化すること。
 変化こそが正義であり、救いでもある。逆に言えば、変化しない人間は存在理由がない。
 とにかく変化し続けること。たとえ絶対的な正しさを実現したとしても、それでも尚、変化し続けなくてはならない。止まったら終わりだ。
 
                   *
 
 誉められないと分からないこともある。
 自信というのは、いつでも脆く崩れやすいもので、誉められることによってなんとか固まるものなのだ。
 好きな人のことはなるべく誉めた方がいい。物を買ってあげるよりも言葉で誉める方がずっとその人の役に立つ。
 女も男も子供も大人も。
 
                   *
 
 最近人の後ろ姿が好きだ。後ろ姿にはドラマがあるから。
 人は背中で多くを語っている。正面では語りきれないことを。
 人の後ろ姿から多くを感じられるようになったということは、私も少しは成長してるらしい。昔はそんなこと考えたこともなかったから。
 あなたは、自分の後ろ姿に自信を持てるだろうか?
 
                   *
 
 自分の中にある好きという感情と嫌いという感情は混ざり合うのか?
 混ざらないような気もするし、混ざるような気もする。あるいは、入れ替わってるだけなのか。
 ある人を嫌いだったのにふとしたことで好きになることがある。特にこれといったきっかけもしなしに。
 あれは好きと嫌いが混じって好きという感情が勝ったのか、それとも単純に気持ちが入れ替わったのか、あるいは嫌いが消えたから好きになったのか。
 好きと嫌いか……。
 根拠のないあの感情は一体どこから来るのか。
 たぶん、一生掴めないのだろう。
 
                   *
 
 誰もが永遠に触れている。
 けど、永遠を感じている人間は少ない。
 だから、私たちは永遠の一部なのだということを、時間をかけて学ばなくてはならない。
 
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 今日のための言葉
 
「目標はあり、道はない」
 
 フランツ・カフカ

 8月27日(月) 「楽しさ以上の何か」

 もっと可能性を信じる心を育てなくちゃいけない。人や世界の可能性を。
 賢さは人を幸せにはしないから。
 自らの意志で愚かになって、人を信じることを学ぶ必要がある。
 賢さの先には大いなる愚かさがあるのだ。行ってみれば分かるけど。
 
                   *
 
 親不孝はしょうがない。これは親にとっても子にとっても宿命のようなものだ。
 でも、それ以前の問題として、親の恩に報いるんだという強い意志を持つことが大切だろう。結果は別にして。
 親孝行は格好悪いか? そんなことはない。むしろ親孝行はすごく格好良いことだと私は思う。
 私も、一生に一度でいいから、会心の親孝行というものをしてみたいものだ。
 
                   *
 
 人は心に闇を作り、そこでひとり彷徨う。
 けれど、闇の外に光は必ずある。闇の存在は光の存在を証明するものだ。
 闇を消すことはできなくても、闇を抜けることはできるだろう。
 光を求める気持ちさえ失わなければ。
 
                   *
 
 本当に好きな人の前では自分の本当の実力を出せないことを巡る謎。
 それは自分を実際以上に見せようとするから、という理屈は分かるのだけど、それ以外にも何者かの意志みたいなものが働いているような気がしてしょうがない。何かが人の恋を妨害する。
 人を好きになる気持ちは間違っていない。けど、その相手が正しいかどうかは本人にも分からない。客観的に見ても絶対的な判断はできない。
 恋の正解不正解は誰が決めるのか? 本人とその相手だけなのか? それとも他の何者かなのか?
 地上では、錯綜する恋心が見えない電波のように駆け巡り、そして地球を複雑に絡め取っている。
 もし、恋心に色があって目に見えるとしたら、それはどんな色でどんな光景なのだろう? きれいなのか、汚いのか?
 たぶん、見えなくて幸せなのだろう。
 
                   *
 
 幸福な自分も不幸な自分も同じ自分。差別せずに、不幸な自分も大事にしてやらないと。
 鏡に映った最悪の顔も自分の顔なのだ。
 
                   *
 
 言葉の雨が降らない時は、夜露を集めてしのぐしかない。
 そのためには知恵と経験が必要だ。
 
                   *
 
 悲しみは心の汚れ。悲しめば悲しむほど心が汚れる。
 ほとんどの汚れは洗い流せるけれど、落ちない汚れもある。
 悲しみで心を汚さないように。
 
                   *
 
 薬では治らない病気がたくさんあるけど、その病気の多くは薬以外のもので治ったりする。
 悩みの解決方法は一種類じゃない。
 昔、三島由紀夫が「太宰の苦悩などラジオ体操でもすりゃあ治る」ってなことを言ったけど、案外冗談ではなく本当かもしれない。
 悩みが行き詰まったら、発想を転換して何かまったく別のことや新しいことをしてみるといい。それこそ初心に返ってラジオ体操も悪くない。小学生に混じって。
 
                   *
 
 それでも、みっともなくも汚れた床の上を這いずり回り、あるいは路地裏のゴミ箱を漁ってでも、そこからきれいな言葉を見つけなくてはいけないという思いもある。
 小洒落た店で交わされる洒落た言葉は私が探しているものじゃない。
 
                   *
 
 自分に自信が持てなくなった時は、駄目な作品を観たり駄目な人間を見たりするといい。腹が立って自分を取り戻せるから。
 正確な物差しなどないけど、自分と他人との比較というのは自分を知る上で参考になる。
 いや、というよりも、鏡を見ることでしか自分の顔を知ることができないように、自分と他人の比較でしか自分を知ることができないのだろう。
 人にはいつでも他人が必要だ。
 
                   *
 
 高く、遠くまで飛ぶには、長い助走をしなくてはいけない。
 でも長すぎると飛ぶ前に疲れてしまう。
 踏切板のところまで走ったら、あとは力一杯ジャンプするだけ。ひるんだらもう飛べない。
 
                   *
 
 楽しいことならいくらでもあるし、事実生きることは楽しい。
 けど、楽しいだけじゃ駄目なのだ。ただ楽しいだけでは満足できない。
 それは贅沢ではないと思う。心が楽しさ以上のものを求めるのなら、楽しさ以上のものが必要ということだ。
 もっと貪欲に生きなければ。満足したら、そこで止まってしまう。止まったら、もう死んだも同じ。
 
                   *
 
 毎日微かに前進していることが救いだ。今日も前へ進んだ。小さな終わりによって。
 失うことは悲しいことだけど、それで前へ進めるのなら歓迎しなくちゃいけない。
 痛みは生きている証。

 やがて、すべての悲しみの意味が説き明かされる時が来るだろう。
 痛みにも、退屈さにも負けず、生き延びること。
 生き続けることだけが正義なのだから。
 
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 今日のための言葉
 
「私は矢張”表現の絶望”から出発したいと思ふのです」
 
 三島由紀夫書簡より

 8月26日(日) 「幸福の限界を探して」

 悟ったところで止まってしまうから馬鹿のままなのだ。
 馬鹿を経由して賢さに至らなければならないのに。
 馬鹿を経由しない賢さは薄い。本当の賢さではない。

 今までは気づくだけで良かった。物事や人間の本質について。
 でも、もうそれだけでは充分じゃない。それだけじゃ足りなくなってしまった。
 進歩、成長すればするほど他人から要求されるものは高くなっていくし、自分が自分に要求することも厳しくなる。
 だから、成長しても、賢くなっても油断してはいけないのだ。世界一になることさえゴールではない。
 
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 もう、苦悩で酔っぱらえるほど、無邪気でもないし若くもない。
 酒で酔っぱらってる暇もない。
 いつも素面で先を急がなくては。
 悲しんで見せても誰も許してはくれない。
 
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 ガラクタだって修理すれば生き返ることがある。壊れたら終わりではない。
 人間だって同じだ。一度駄目になっても修理すればまた生き返ることがある。
 だから、誰かがそのための技術者を育てなくてはいけない。
 医者ではなく、もっと専門的で高度な技術者が必要だ。
 
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 人間に一番足りないものは何か?
 それは単純に知識なんだと思う。
 英語をしゃべれないことの原因のほとんどが、知っている単語の絶対量が足りないからであるように、この世界を正確に知るための知識が私たちには決定的に不足している。今の知識量では世界を理解することは不可能だ。もう少しどうにかしなくては。
 もっと知識が欲しい。
 
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 不幸に限界はあるけれど、幸福に限界はない。だから生きることは難しい。
 もし幸福の上限があったなら、人はそこまでいけば満足する。でも、天井がないからどこまで行っても満足できない。もっともっとと求めずにはいられない。
 ただ、それが進歩の原動力になっているから、満足できないことは必ずしも悲しむべきことではないのだけれど。
 満足したければ、自分の求める幸福の形をきちんと捉えること。そして、上限を自分で決めることだ。
 幸福太りもあんまり恰好いいものじゃない。
 
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 恋愛感情は決して一種類じゃない。
 人の中にはいくつものセンサーや回路があって、いろんなセンサーにいろんな恋心が反応し、いくつもの回路で別の恋愛感覚が生まれる。
 最高の愛も必ずしもひとつではない。自分では気づかなくてもいくつもある。
 だからもし最高の恋をなくしたとしても絶望することはない。きっと別の最高の恋があるはずだから。
 恋愛に順位はない。
 
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 無意識の内に不幸な恋愛を選んでしまう人間がいる。確かにいる。
 そういう人を見てると、イライラしたり、気の毒に思ったり、腹が立ったりするけれど、そういう人は不幸な恋愛が心底好きなのだ。幸福な恋を愛せない人種なのだ。
 だから、他人がどうこう言っても無駄なこと。好きにさせるしかない。
 そのうち気づく人もいるし、気づかない人もいる。
 でも私はやっぱり思う、恋は幸福に越したことはないと。
 
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 子供も恋も可愛い盛りを過ぎればあとはだんだん憎たらしくなる。
 子供は3歳までに一生分の親孝行をするって言うけれど、恋にも同じことが言えるのかもしれない。
 けど、やっぱり人も恋も成長しなくちゃいけないのだ。いくら可愛くなくなったとしても。
 
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 ずっと続く微熱のような低調からようやく抜け出しつつある。
 いくつかの小さな不幸と、大きな不幸の予感で心が押しつぶされそうになっていたけど、なんとか今回も持ちこたえた。
 こうやって人は好むと好まざるとに関わらず強くなっていく。
 けど、鈍感さを身につけることが大人になるということなのか?
 歳を取るごとに肌の皮膚が硬くなるように、心の表面も少しずつ水気を失い、硬くなっていく。それを嘆いても仕方のないことなのだけど。
 
 この断想日記もまた少しずつ書けるようになっていくだろう。
 何よりもまず、私は私のために書く必要がある。そして、休まず書き続けることでしかこの迷宮を抜け出すことができないことも知っている。
 言葉、言葉、言葉……。
 図書館の本でも読み続ければやがてすべての本を読めるように、言葉を探し続けていればいつかすべての言葉を見つけることができるかもしれない。
 世界から言葉が消えてしまう前に……。
 
 気持ちの淀みがなくなったら次は行動だ。しばらく動きが止まっていたから充分充電はできているはず。エネルギーは充分だ。
 週間天気予想では週末の手前ずっと曇りがちというようなことを言っていたけど、もちろんそんなことは信じてない。木曜か金曜のどちらかは晴れてくれるだろう。
 延びのびになっていた富士山を遠巻きに眺めようドライブを実行しなければ。
 夏もそろそろ終わりに近づき、海も少しずつ常態に戻りつつあるだろう。富士山の次は海だ。夏の終わりの汚れた海を見て、その後は福井の三方五湖の予定。
 とにかく動くことで何かを見出したい。止まっていては何も動かないから。
 
 途方に暮れつつも、なんとか前に道があるうちはよろめきながらでも進むしかない。
 だらだらと続く上り坂の向こうには、絶叫するほどの歓喜が待っているに違いないと夢見ながら。
 
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 今日のための言葉
 
「ビルの隙間にふたり座って
 道行く人をただ眺めていた
 時が過ぎるのが悲しくて
 あなたの肩に寄り添った……」
 
 坂井泉水「心を開いて」より


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