御陵巡り

天武・持統天皇陵


 天武天皇は名前を大海人皇子と言い、天智天皇(中大兄皇子)の弟に当たる。弟であるからには天智天皇よりは年下でなければならないが、天武のほうが年上だったという説もあり、しょうがないので、天皇になったわりには生年不詳とされていることが多い(一応は631年生とされることも多い)。ここらへん古代史でも謎の部分である。

 天智天皇が息子の大友皇子を皇位に就けようとしたあたりから大海人皇子の形成が悪くなり、避難する意味で出家して吉野に籠もることになる。しかし天智天皇が死んで朝廷が吉野を攻めてくるとの報に接し、大海人皇子は挙兵するため自分の領地である美濃へ向かう。その途中に三重県の桑名に立ち寄っており、これが「桑名」の名が史書に登場する最初である。私の実家のすぐ近くには天武天皇が宿泊していた地に明治天皇の意を受けて建てられたという「天武天皇社」があり、別の場所には天武天皇が手を洗った跡というのも残っている。

 それはさておき、弘文天皇の近江朝廷軍をうち破り、大海人皇子が皇位につき天武天皇となる。これが西暦672年で壬申(みずのえさる)の年ということで「壬申の乱」と呼ばれている。干支を使った日本史上の呼び名というのはあまり例が無い(戊辰戦争ぐらいか)が、これは年号がまだ無かったからだろう。尚、「大化改新」も昔はその干支から「乙巳の変」と呼ばれていたが、戦後めっきり聞かれなくなってしまった。

 ところで、これって前の天皇の弟とは言っても、現天皇への謀反には違いない。いわば「逆賊」が「皇位を簒奪」した訳で、所詮は昔から勝てば官軍ということなんですね。そもそも日本の正史とされる『日本書紀』はこの天武天皇の時代にその子息の舎人親王により編纂が開始されていることも念頭に置いて考えてみる必要がある。つまり、自分に都合のいいように歴史を書いたということは十分に有り得るということだ。本当に天智と天武は兄弟だったのか、ということも怪しいかも知れない。

 一応、簡単に天武天皇の業績に触れておくと、「八色の姓」を制定したり、「天皇」という名を初めて使ったりしていることが挙げられ、大化改新以来の天皇を中心とした中央集権体制がこの時期に固まったと言える。日本書紀の編纂も天皇家の権威付けという側面が大きい。

 一方の持統天皇は、今話題(?)の女性の天皇だ。彼女は天智天皇の娘なので、天武天皇の姪っ子にあたる(ということに取りあえずしておく)。古代ではこういう結婚は別に珍しくはないが、系図を書く場合にめんどくさい。名前は「う野讃良」と書いて「うののさらら」と読む(「う」の字は本稿の下方を参照)。タレントの「神田うの」(本名同じ)はこの持統天皇の名前に因んで名付けられたということだか、両親がどういう思いで付けたのかまでは分からない。因みに父親は経済産業省の官僚らしい。

 持統天皇は、本来天武天皇の次はその息子の草壁皇子が跡を継ぐ筈のところ、急死してしまい、その息子の軽皇子もまだ若年のため、つなぎとして即位した(しばらくは即位せず称制)。よって皇子が成長するとすぐ退位して皇位を譲っている。また持統天皇は、歴代天皇で初めて火葬された天皇ということで有名で、そのことは御陵の解説板(上の画像)にも書かれている。

 ここで、ようやく御陵の話に入る。この御陵には天武・持統と夫婦仲良く合葬されている。これは持統天皇の遺言によるものとされている。御陵を巡る方にしてみれば、一度に二人分参拝できるので有り難い(些細な話だが)。形としては八角形をしており珍しい。この御陵は、その後しばしば盗掘にあっており、藤原定家の『明月記』にもその記述がある。場所としては、一連の明日香関係の遺跡(高松塚古墳とか)の界隈にあり、訪れる人も結構多い。前述の解説板は御陵へ登っていく為の階段付近に設置されているが、観光地ならではのもの。その下には、写っていないが英語で"Mausoleum of Emperor Tenmu and Empress Jitoh"(天武天皇と持統天皇の陵墓の意)と書かれている。

 これを見て、ふと思う。"Empress"って皇后の意味だけど、持統天皇は女帝だからこの場合は天皇の意味になってしまうが、こういうのって区別付かないんだろうかと。そして、男の天皇の嫁さんが皇后ならば、女性の天皇の旦那さんは何と呼べばいいのか、という疑問が当然に沸き起こる。

 歴史上、日本には今までのところ、推古、皇極・斉明、持統、元明、元正、孝謙・称徳、明正、後桜町の8人10代の女性の天皇がいる。このうち配偶者が居たのは、推古(敏達天皇)、皇極・斉明(舒明天皇)、持統(天武天皇)、元明(草壁皇子)と半数にとどまり、残りの4天皇には配偶者が元から居なかった。また、配偶者を持った4天皇にしても、その配偶者は彼女達の即位の前に全員が死亡している、と言うよりそれが彼女達の即位の遠因となったと言った方がより正確かも知れない。

 これはどういうことかと言うと、日本史上の女帝は全て在位中は独身だった、ということである。しかるに、今後皇室典範が改正されて女帝が認められるとすれば、当然に皇太子となり、結婚もするだろうから、日本史上初めて配偶者付きの女帝が誕生することになる。そのときに、その配偶者たる夫をどう呼ぶかということも分かるだろう。

 因みに、英国ではエリザベス女王という女性の君主を戴いている。その夫はエジンバラ公フィリップ殿下という方であるが、"Queen"の夫は"King"かと言うと、これがさにあらずで、エジンバラ公は"Prince"なのである。 でも"King"の奥さんは"Queen"なので、やはりそこまで突き詰めていくと男女平等という訳ではないようだ。尚、オックスフォード英英辞典で引くと、王妃は正式には"Queen Consort"と言い、王位にある女王" Queen"とは区別されている。因みに、エリザベス女王の母親を"Queen Mother"と呼ぶが、これは女王の母だからではなく、先代の王の配偶者だからQueenが付いているわけで、例え男子の王の母親であっても"Queen Mother"である。日本で言えば単なる「皇太后」という意味。ああややこしい。

<天武天皇豆データ>
名前:大海人
生没:631?〜686年9月9日(享年56?歳)
在位:673年2月27日〜686年9月9日(在位14年)

<持統天皇豆データ>
名前:う野讃良
生没:645年〜702年12月22日(享年58歳)
在位:690年1月1日〜697年8月1日(在位11年(称制期間を含む))
※「う」=

<御陵豆データ>
名前:檜隈大内陵
場所:奈良県高市郡明日香村大字野口


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