中世ヨーロッパでは、一般的に農民は封建領主とカトリック教会の双方から二重の支配
を受けていました。逆にいえば、権力が世俗(国王や領主)と聖(カトリック教会)の二
重になっていたのです。
さて、十分の一税ですが、旧約聖書に「土地に植えたある種穀と樹木の果実とを問わず、
その十分の一は神のものなり」と書かれてあり、これが根拠とされていました。ただロー
マ法にはその規定はなく、ローマ時代やビザンツ帝国では十分の一税が徴収されることは
ありませんでした。
ところが、西ヨーロッパでは、キリスト教徒が収入の十分の一を教会におさめる習慣が
8世紀半ばまでに各地でおこなわれていました。フランク王国のピピン3世が十分の一税
を命じる勅令を出します。そして779年にカール大帝のヘルスタル勅令によって、十分
の一税はフランク王国のすべてのキリスト教徒が教会にしはらうべき一般的な租税とさだ
められました。
十分の一税は、カロリング朝時代にキリスト教徒が教区教会に対して支払う一般的な税
として定着し、各地の司教がその徴収の最終的な権限をもったのです。しかしその徴収に
ついて、教区教会だけでなく修道院や世俗有力者も参入するようになり、かならずしも教
区教会の収入ではなくなりました。また、その徴収の権利は封の一種として世俗貴族に授
封されたり、賃貸借や売買の対象ともなったり、徴税請負人による請負にだされることも
多かったのです。
こうして十分の一税は、封建領主の所領に付随する貢租と同種のものとなっていきま
した。
このように十分の一税は、本来の徴税の宗教的意味から離れてしまうのです。
しかし、教会は、支配階層・被支配階層を問わず、冠婚葬祭やまた日常的生活において
も、人々の中に入り込んでいましたので、人々はカトリック教会の一員であることが社会
生活を営む上での条件となっていました。