記事タイトル:私達の時代 |
ありがとう。本当に貴重な体験でしたね。辛かった時代だったのは確かですが、 私も含めて、あの時の経験があるから、今があり、そして、誰もが今に満足して いないのだと思います。あの時のメンバーと共に、本当の勝利の味を味わうこと を目的に、現役と一緒になって、頑張ります。 鈴木選手の「想い出」を参考として、部の歴史に書き加えさせていただきます。 ただ、当時、私もまだ20歳台のコーチでしたが、仕事の方が忙しく(これは、 今もそうなのですが)、京都市役所での練習にも時間を割いていただけに、小田 監督に任せっきりでした。 が、私の持つ鈴木選手の印象は、「態度が悪かった。」と言うものではなく、 むしろ、「少しでも強くしたいとの気持ちが強く、真面目に、少し頑固に、自分 の意見をしっかりと通していた選手」で、当時、私は、「少し昔の匂いを持つ、 頼もしい奴」と思っていたんですよ。 まぁ、これからも持ち味の「真面目、少しだけ頑固」ぶりを発揮して、中学生 の指導に頑張ってください。・・・ただ、鈴木選手の持ち味、奥さんは大変かな?[2002年2月23日 8時6分21秒]
「ソフトテニス部のあゆみ」拝見致しました。伝統ある部に在籍できた事を誇りに思う と共に、ここまでまとめて頂いた事に心から御礼申し上げます。私は昭和54年入学、 そして昭和58年卒業です。「あゆみ」の中では『苦難の時代』と称された時代に 在籍致しました。1回生の時は渡部主将、2回生時は上島主将、3回生時は金田主将、 そして私達の時代は日大時代に杉本/杉野で天皇杯3位になられた杉野選手の弟、杉野 主将と共に過ごしました。私達は7人の同級生と共に4年間を過ごしました。今と違い、 インターハイに出場した人間は一人もいませんでした。特に私などは才能も無く、 大学テニスとのレベルの違いに戸惑いながらも、何とかぶらさがっているような状況 でした。私達が幹部になった昭和56年の秋期リーグ戦で最下位になり衣笠西コート で行われた大阪教育大学との入替戦では1-3で敗れ、3部に転落。(4番に出た私が 負けて転落決定)続く57年春のリーグ戦では3部全敗の最下位。(最終戦の甲南大との 最下位決定戦で私が出て負け、最下位決定。当時、1年生だった宮地君が負けた瞬間、 コートに四つん這いになって泣いていた周りを甲南大の選手がはやしたてている姿に 私は自分の情けなさと宮地君に対する申し訳なさで、怒鳴り散らしたのを覚えていま す。)服部で行われた4部との入替戦にも負け4部転落でした。(私は1番で杉野君 と出たにもかかわらずまたも敗退)西日本もインカレも最悪でした。そして、中央大学 との定期戦も実力差から中止。そんな時代でした。私達の一つ下の学年は確か、部員は 3人だったと思います。寺口君と鶴田君と大野君だったと思います。彼等にも本当に 辛い思いをさせてしまいました。卒業時の追いコンは本当に寂しいものでした。 ただ、最後の近畿大学との定期戦の一こまだけ覚えています。鶴田/武本組の大活躍 で勝利し、挨拶のために整列した時の事でした。気がつくと横に並んでいた当時、主務 だった谷が泣いていました。いつも裏方で、遠征時には弱小故、諸先輩方から厳しい 激励を頂戴していたにもかかわらず、それを私達に愚痴るでもなく、必死で支えてきて くれていた、両足を痙攣させながら「ファイト、ファイト」と叫んでいた谷の涙を見た時 の事は一生忘れる事が出来ません。こんな私達をいつも励ましてくださった小田監督、 五十嵐コーチ、水田コーチ、そして私達の時に指導して下さった京都市役所の山元コーチ には今でも深く感謝しております。輝かしい戦績とこれから更に飛躍する立命館大学 ソフトテニス部の歴史の中に、こんな時代もありました。(原因は態度の悪かった 私にありますが)この時代を御存知の方、私の勝手な意見を書いてしまい申し訳ござい ません。ただ、あの辛い時代を支えてくれた、諸先輩、同級生、そして後輩達の事は 決して忘れません。勝手な意見で申し訳ございませんでした。でも色々な経験をさせて 頂いたお陰で、コーチをしている中学生には経験を話してやる事もできます。 もうすぐ、シーズンインです。陰ながら応援しています。頑張ろう!![2002年2月22日 21時20分59秒]