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悪妻クサンチッペの涙
   〜古代ギリシア・アテネより〜

ソクラテスの死刑

「もう終わりにしましょう。時刻ですからね。もう行かなければならないのです。わたしはこれから死ぬために、諸君はこれから生きるために…」
 紀元前399年、ソクラテスは死刑判決を受けた法廷で最後にこのように語りました。ソクラテスはその約1か月後に死刑になりました。その間、逃亡できるチャンスもあったのですが「悪法も法なり」といって逃亡しませんでした。死刑の前夜、牢番の許可のもとで獄中のソクラテスは、あの悪妻で名高いクサンチッペと末っ子の赤ん坊とともに過ごしました。しかし、翌朝ソクラテスは、取り乱して泣くクサンチッペを赤ん坊とともに家に帰しました。そして、友人たちと最後の対話を交わした後、日没の頃に自ら毒人参の杯を一気に飲んで死刑に服したのです。こうして、西洋哲学の原点に位置づけられる大哲学者は、妻クサンチッペと三人の息子を残して潔く死んでいったのです。

ソクラテス裁判の真相

 ソクラテスが告発された理由は「国家の認める神々を認めず、新しい鬼神(ダイモーン)の祭りを導入し、かつ青年に害悪を及ぼす」ということでした。しかし、これが死刑に値する罪でしょうか。実は、アテネはスパルタとの戦い(=ペロポネソス戦争)に敗れて大混乱に陥ったのですが、ソクラテスはその敗戦と大混乱の責任をこの裁判で問われたのでした。敗戦や戦後の大混乱の原因をつくった男たちは皆、ソクラテスの弟子だったのです。
 ソクラテスの弟子アルキビアデスは、アテネの将軍として敵国スパルタへの攻撃を指導して失敗してしまいました。アテネに帰りにくくなったアルキビアデスは、そのままスパルタに逃げ込んで敵国スパルタにアテネを攻略する秘策を与えてしまったのです。その結果、アテネは包囲されて大苦戦、疫病にもみまわれて敗れてしまうのです。ソクラテスは、ペロポネソス戦争でアテネを裏切った弟子アルキビアデスを教育した責任を問われたのです。
 戦いに敗れたアテネはスパルタの占領下に入りました。その占領軍の武力を背景に、アテネの反民主派が占領軍の武力を背景に戦争の責任追及を始めたのです。反民主派で責任追及の中心になったのはソクラテスの弟子たちでした。彼らは、敗戦の責任はアルキビアデスにあるのではなく民主派にあるとして、民主派を捕えて次々と処刑をするという恐怖政治を始めたのです。それに対し、民主派が隣国に逃れて抗戦しました。この内乱を「三十人政権の乱」といいますが、ペロポネソス戦争とほぼ同数の市民が死亡しました。結局スパルタの調停で和解しましたが、和解の条件はアテネが民主政体にもどること、両派とも過去の責任を一切追及し合わないということでした。
 ソクラテスに対する告発が行われたのはこの頃でした。ソクラテスはペロポネソス戦争敗戦の責任者アルキビアデス、そしてその後の恐怖政治の指導者たちを教育した責任を問われたのです。しかし、過去の責任を追及し合わないという申し合わせがあったので、告発理由が先述したような曖昧なものになったのでした。そして、ソクラテスは死刑判決を受けたのです。

ソクラテスという男

 ソクラテスは、前470頃に彫刻師の父と助産婦の母との間に生まれました。若い頃は自然哲学に興味を持っていました。ある時、友人から「ソクラテスよりも賢い者はいない」というデルフォイの神託を聞きました。それまでソクラテスは自分のことを無知である思っていました。しかし、自分が「その無知を自覚して真の知を求めている」ということこそが、神託で賢者といわれた意味であることに気づきます。それ以降、ペロポネソス戦争で苦戦してアテネの民主政治が混乱しつつある中、「善とは何か」「正義とは何か」などについて、街をうろつきながら人々に問いかけ続けました。彼は独特の皮肉で相手の「無知」を徹底的にあばく問答を繰り返しましたので、大人たちの多くは反感を持ったようです。しかし、一方で彼の魅力的な問答は、若者を惹きつけてプラトンをはじめ多くの弟子を持つことになりました。

悪妻?クサンチッペ

 ソクラテスの妻クサンチッペについて言及されている史料はわずかです。その中で、彼女を悪妻ということで有名にしてしまったのは『ギリシア英雄列伝』(ディオゲネス・ラエルティオス著)です。そこでは「ソクラテスに水をぶっかけた」「広場でソクラテスの上衣を剥ぎ取ろうとした」などと書かれています。ソクラテスは「クサンチッペとつき合っていれば、他の人々とはうまくやれるだろう」と言ったそうです。この『ギリシア英雄列伝』の記述内容の信憑性には疑問の余地が十分にありますが、ソクラテスの弟子クセノフォンも著書のいくつかのところでクサンチッペの悪妻ぶりに言及しているところをみれば、あながちすべて作り話だともいえません。いずれにしてもかなり激しい気性の女性であったことが想像されます。
 しかし、ソクラテスが街で多くの若者と哲学論議に明け暮れる日々、妻クサンチッペは家庭を守り続けました。古代ギリシア社会は男女がはっきりと役割を分けた社会でした。アテネでは、家までも男部屋と女部屋に区別されていました。アテネの女性は結婚すると家の中の女部屋に入れられ、外出は夫の許可を必要としたと伝えられています。しかし、主婦は家庭内では大きな力を持っていました。ソクラテスは本業(石工)そっちのけで街をうろついてばかりいましたので、クサンチッペの家庭での力は大きかったに違いありません。街では多くの弟子を持つ大先生ソクラテスも、家に帰ると妻クサンチッペには頭が上がらなかったはずです。クサンチッペは夫の稼ぎが悪い中で家庭を守り続けました。がみがみ言われながらも、家庭を守ってくれる妻クサンチッペに対して、ソクラテスはいつも心の中で感謝していたことと思います。
 また、クセノフォンの『ソクラテスの思い出』によると、ソクラテスの長男が「母親のひどい性格に我慢できない」と言うのに対し、ソクラテスは「お母さんは、お前が病気になれば早く直るようにとあらんかぎりの世話をし、何一つ不自由させまいとつとめ…、もしこんな母親が我慢できないとしたら、お前は善いことが我慢できないのだ」とたしなめたとあります。クサンチッペには、我が子を純粋に愛する母親という面もあったのです。

喜劇作家アリストファネスの作品に登場する女性たち

 ソクラテスを喜劇『雲』で風刺したアリストファネスという作家がいます。彼はアテネの混乱した時代に、喜劇を通じて人々に戦争反対と政治正常化を訴え続けていました。
 アテネでは毎年春に「大ディオニュシア」という祭りが行われていました。祀られるのは豊穣とぶどう酒の神ディオニュソスです。祭りのメインは、3日間の合唱舞曲と悲劇の競演、そして最終日の喜劇の競演でした。参政権のない女性や奴隷も観劇したそうです。ソクラテスも妻クサンチッペと一緒に、自分を風刺する喜劇を観たかも知れません。多くの喜劇が上演されましたが、残念ながらその中で作品全体が現存するのはアリストファネスの11篇だけです。彼の喜劇は、奇抜な発想のストーリーのもと、エログロ下ネタ何でもありのかなり下品な笑いを誘うものです。
 ペロポネソス戦争の混乱の時代にも祭りは続けられました。普通なら笑うことさえ忌避されがちな国家の危機的状況下、笑いと風刺を自由に許して喜劇を上演し続けたアテネの懐の深さには驚嘆します。アリストファネスの作品『女の平和』は、妻たちが性的ストライキをして男たちに戦争を止めさせようとする物語です。『女の議会』では、妻たちが夫の寝ている間に着物を借用して男装して議会を乗っ取ります。平和主義者アリストファネスは、政治批判の中心によく女性を登場させました。彼は、女性こそが戦争を止めさせる力になると考えていました。それは、先述したように、当時の女性が家庭で大きな力を持っていたこと、そしてその女性の力が軍事に根ざすものではなかったからであると思います。
 喜劇はアテネの民主政治にとって重要な意味を持っていました。毎年春の祭りで、人々は、政治を自由に風刺する喜劇を鑑賞しながら政治について考える機会を与えられていたのです。喜劇は軍事と無縁の世界です。アリストファネスは、演劇や女性という軍事に根ざさない力を通じて平和を訴え続けたのです。しかし、彼の訴えも空しく戦いは続きました。そしてアテネは敗れ、混乱の中、ソクラテスは死刑になったのです。
 ソクラテスが死刑になったのは70才ですが、その年齢で赤ん坊の息子がいました。老人ソクラテスの精力もさることながら、クサンチッペは『女の平和』の女性のような性的ストライキはしなかったようです。ソクラテス最期の一日、妻クサンチッペは3人の息子たちと家にいました。その日の彼女の思いを想像すると胸が痛くなります。

アテネの裁判制度

 ソクラテスに対して、死刑判決を下した裁判はどのような裁判だったのでしょうか。実は、史上まれにみる民主的な裁判だったのです。
 アテネの裁判は、一般市民から選出された501人の陪審員が、原告と被告との論争を聴き多数決で審判を下すというものでした。まず任期1年で定員6000人の陪審員をアテネ市民全体から志願者を募って抽選で決めておきます。そして裁判の朝に、その中からさらに抽選で当日の陪審員を決めるのです。抽選は極めて公正に行われていました。
 刑事裁判の場合、まず有罪か無罪かを審判します。ソクラテスの場合、有罪281票、無罪220票で有罪と審判されました。有罪の場合は刑罰を決めますが、原告の求刑に対し被告も自分の刑罰を申告します。そして、そのどちらにするかを陪審員が多数決で決めるのです。ソクラテスは、死刑の求刑に対して最低の罰金刑を申告しました。結果は死刑361票、罰金刑140票で死刑が確定したのです。ソクラテスは多数決により死刑に処せられることになったのでした。民主的とはいえ、多数決で死刑を決するというのは怖いことです。

「軍事に根ざした力」と「軍事に根ざさない力」

 このようなアテネの発達した民主政治はどのようにして成立したのでしょうか。
 アテネでも、もともとは少数の貴族が国(ポリス)を支配していました。貴族は重装騎兵隊を編成してアテネを軍事的に守っていました。貴族の政治権力は、「国(ポリス)を守る者が権力を握る」という考えに根ざしていたのです。
 ところが戦術の変化もあり、国防の中心が貴族の騎兵隊から平民の重装歩兵隊に移っていきました。重装歩兵の武具(槍や盾)は各自で購入しなければならなかったのですが、商業が活発になるにつれて富裕な人々が増え、武具を自弁で揃えて重装歩兵の一員になる者が多く出てきたのです。やがて、重装歩兵たちにも「国(ポリス)を守る者が権力を握る」という考えにもとづいて参政権が認められていくことになります。しかし、まだ武具を買えない貧しい平民には参政権が与えられませんでした。政治権力の源泉は国防、つまり軍事力にもとづくものだったからです。
 紀元前500年、ギリシア世界と東の大帝国ペルシアとの戦争が始まりました。断続的に続くペルシアの攻撃に対し、アテネやスパルタを中心とするギリシア連合軍はよく戦って防衛し続けました。中でもサラミスの海戦(前480年)におけるアテネ海軍の勝利は大きな戦果となりました。この海軍の軍船を三段櫂船といいますが、その船の漕ぎ手として、それまでお金がないために武具を買うことができず重装歩兵にもなれなかった貧しい平民(=無産市民)たちが起用されました。無産市民の海軍が国防上重要な位置を占めるようになったのです。「国を守る者が権力を握る」という考えに従い、アテネでは三段櫂船の漕ぎ手である無産市民にも参政権が与えられたのです。こうして男性市民全員が参政権を持つ民主政治が成立したのです。しかし、軍に参加しない女性と奴隷には参政権は与えられませんでした。いくら気性の激しいクサンチッペといえども参政権は与えられません。参政権は常に軍事力を担うものに限られていたのです。
 政治を動かす力には二通りあります。一つは、常に軍事を担うものたちが握り続けてきた政治権力です。もう一つの力は軍事に根ざさない力、つまりアリストファネスの喜劇のような芸術や文学の力です。戦いが止むことのない歴史が、数千年間続いてきたのは、政治が常に軍事を背景にして動かされてきたからではないでしょうか。芸術や文学の力で平和を訴えたアリストファネス、そしてその喜劇に登場する女性たちの中に、私たちが今、学ばなければならないものがあると思います。

クサンチッペの涙

 ソクラテスはとても勇敢な兵士でした。ソクラテスにつらくあたっていた妻クサンチッペは、彼が戦うこと自体を否定していたのではないでしょうか。彼女がソクラテスにぶっかけた水は、戦いに明け暮れる男たちにぶっかけた水だったのかも知れません。
 ソクラテスは潔く毒杯をあおりました。実はソクラテスは徹底した心身二元論者だったのです。死んで肉体から離れた魂がはじめて真理に到達するのだ、と考えていたのです。死を怖れない勇気はここに根ざしていました。妻クサンチッペは、死刑の日のソクラテスの潔さに耐えられずに取り乱して泣きました。彼女には、ソクラテスの心身二元論的な理論、そこに根ざす死を恐れない勇気を受け入れることができません。「夫ソクラテスの死」という現実の別れそのものが悲しくて悲しくて仕方ないのです。しかし、そのクサンチッペの耐えられなさや悲しさの中にこそ、真に平和を愛する者の心があるように思えてなりません。ソクラテス最期の日に泣いたクサンチッペの涙の中に、今、私たちが求めるべき力の源泉があると思うのです。


(参考文献)

プラトン著『ソクラテスの弁明』『パイドン』他(中央公論社 世界の名著6『プラトンT』 1978年 田中美知太郎 編)
アリストファネス著『女の平和』『女の議会』『雲』(ちくま文庫『ギリシア喜劇T・U』 1986年 高津春繁 訳)
クセノフォーン著『ソークラテースの思い出』(岩波文庫 1953年 佐々木理 訳)
ディオゲネス・ラエルティオス著『ギリシア哲学者列伝』(岩波文庫 1984年 加来彰俊 訳)

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