「デカルト様、どうかお教え下さい」
〜17世紀・オランダ亡命中、エリーザベト王女の手紙より〜
1643年5月16日、デカルト様へ
「人間の精神は、いかにして身体の精気が意志的な運動をするよう決定しうるのか、どうかお教え下さい。」
この手紙を書いたエリーザベト王女は当時24歳、哲学者デカルトは47歳でした。この手紙以来、数年間に二人の間では何十通もの手紙が交わされました。1649年12月4日の王女からデカルトへの手紙が最後です。デカルトはその翌年2月に亡くなっています。残っている手紙は60通ですが、王女は時々自分の手紙を破棄するように書いているので、実際はもっと多くの手紙が交わされたのではないかと考えられます。
上記の王女の質問は、簡単にいうと「人間の心は、なぜからだを動かすことができるのですか。」という質問です。デカルトは心身二元論(心とからだは別のもの)の元祖といえる哲学者です。心身二元論の元祖デカルトはこの質問にどのように答えたのでしょうか。
その前に、エリーザベト王女とその時代状況を簡単に紹介しましょう。
エリーザベト王女とその家系
エリーザベト王女は1618年12月26日、ドイツのファルツ選帝侯の王女として、ハイデルベルクで生まれました。エリーザベトの名前は、高校の世界史の教科書には出てきませんが、彼女の家系には、教科書に出てくる人が多くいます。王女の父は、オランダ独立の指導者であるオラニエ公ウィレムの孫、母はイギリス国王ジェームズ1世の娘です。ピューリタン革命で処刑されたチャールズ1世は王女の叔父にあたります。妹の子どもが、イギリスのハノーヴァー朝初代のジョージ1世で、今のイギリス女王エリザベス2世はその直系の子孫になります。
王女の両親の結婚は、旧教(カトリック)国に対抗して、新教(プロテスタント)国が結束を固めるという意味がありました。当時、両宗派は厳しく対立していたので、この結婚は新教徒たちに大歓迎されました。中世末期、ヨーロッパでは、まだ宗教(宗派)上の対立が政治上の根本的な問題だった時代です。
エリーザベト王女とドイツ三十年戦争
エリーザベト王女の生まれた1618年は、ドイツ三十年戦争という宗教戦争が始まった年です。彼女の人生はこのドイツ三十年戦争に翻弄されていくことになります。ドイツでは、その約百年前頃からルターの宗教改革が始まっていました。この戦争の背景は、旧教徒(カトリック)と新教徒(プロテスタント)の対立です。
戦争はボヘミア(現在のチェコ)から起こりました。きっかけは、新教徒住民が旧教徒派の王に対して起こした反乱でした。旧教徒派の王に対抗して、ボヘミアの新教徒たちはエリーザベト王女の父をボヘミア王に擁立しました。1619年、1歳に満たない王女も、父とともにプラハに入ったのです。
その後、戦争は諸外国がさまざまな思惑のもとに介入して、単なる宗教戦争とはいえない状況になります。戦争末期には旧教(カトリック)のフランスが、同じ旧教のオーストリアに対抗するために新教(プロテスタント)側で参戦します。戦争は、宗教的な対立から国家間の利害をめぐる力の対立へと変化していくのです。時代が中世から近代へと変わっていく時期の戦争だったのです。
デカルトとドイツ三十年戦争
デカルトはこのドイツ三十年戦争に、旧教派のバイエルン公の軍(王女一家の敵)に入隊して従軍しています。彼は「1619年11月10日、学問の驚くべき基礎を発見した」と書き残していますが、それはこの従軍中の出来事でした。この時以後、デカルトは科学者から哲学者への道を歩み始めることになるのです。中世から近代への転換期、デカルトはここに近代哲学の原点となる発見をしたのです。
「われ思う、ゆえにわれあり」
デカルトは、絶対確実な真理を発見するために、まずすべてを疑ってみることから始めました。そして疑っている「自分の精神」の存在こそが絶対確実なものであることを発見したのです。「われ思う、ゆえにわれあり」──つまり近代的自我の発見です。そして、この「精神」とともに、「物体」をもう一つの実体(それが存在するために他の何ものも必要としないもの)と考えました。精神の本質は「思い考えること」、物体の本質は「空間的広がり」です。世界は、この全く性質を異にする「精神」と「物体」の二つによって成立していると考えたのです。デカルトは徹底した物心二元論を主張したのです。
デカルト哲学と近代
このデカルトの「思い考える精神」の発見は、近代的自我の原点となり、西洋近代思想の出発点となりました。
また、物体の本質を均質な空間的広がりとする見方は、世界を数量化することによって成立した近代科学の基礎となりました。それまで地上とは別世界と考えられていた月上(宇宙空間)の世界も、地上と同じように、空間的広がりを本質とする世界であるということになったのです。ニュートンの万有引力の発見も、デカルトの世界観なしには考えられないのです。デカルトによって近代科学の大発展が準備されたともいえます。
デカルトとエリーザベト王女の出会い
デカルトが所属したバイエルン公の軍隊は、1620年11月8日にエリーザベト王女の父をプラハ近郊のヴァイセ・ベルゲの戦いで破りました。戦いに敗れた王女の父は、王位を剥奪されるとともに故郷ファルツの全領土も旧教側に占領されてしまいます。そして、王女一家はドイツ各地を経たあと、翌年オランダのハーグに亡命しました。幼い王女は、しばらくドイツの祖母に預けられたのち、9歳の時(1627年)、母のいるハーグに入りました。
王女はとても美しかったのですが、それには全く無頓着で学問の世界に没頭しました。そんな中で、デカルトの著書『省察』を読んだのです。そして感想をデカルトの友人に話します。さらに「デカルトに会いたい」ということを、その友人に伝えてもらうのです。こうして、デカルトはエリーザベト王女と出会うことになります。それは1642年のことでした。フランスがドイツ三十年戦争に介入してすでに7年が過ぎていました。時代は近代へと移り変わりつつありました。
1643年6月28日、エリーザベト王女様へ
さて、エリーザベト王女の「心とからだの関係」に関する質問に対して、心身二元論の元祖デカルトはどのように答えたのでしょうか。
「精神と身体との合一を理解するようになるのは、生と日常の交わりだけを用い、省察したり想像力をはたらかせるものを研究したりすることをさし控えることにおいてです」(1643年6月28日)。つまり、デカルトは、「心とからだが別なもの(心身二元論)と自分がいっているのは学問上の理論の世界のことであって、日常生活の場面においては心とからだはひとつのものなんだよ」といっているのです。
また同じ手紙の中で、デカルトは自分自身のこととして次のように書いています。
「想像力を占める思考については一日のうちごくわずかの時間しか用いず、知性のみを占める思考については一年のうちごくわずかの時間しか用いなかったこと、他の残りの時間をすべて、感覚の弛緩と精神の休息に当てた…」
デカルトでさえ、実は人生のほとんどの時間は「心身が合一している日常生活の営み」だったのです。
デカルトは知っていた
デカルトは、徹底的に考え抜いた男でした。そして、考え抜いた末に導き出された答えは、日常生活を超越した世界についての理論でした。したがって、それは日常生活を営む人間の世界を説明する理論ではありません。そのことは、デカルト自身が最もよく知っていたのです。
デカルトは、王女からの病気や健康の相談に対して、何度も親切にアドバイスをしています。「節食と運動という治療法は、私の見るところ、すべての治療法で最良のものです。しかし、もっと良いのは精神の療法です」(1644年7月10日)。「微熱のもっとも通常の原因は悲しみです」(1645年5月18日)。「精神が喜びに満たされているときには、それは、身体の調子がいっそうよく、現前のものがいっそう快く見えるようにするのに、大いに役立ちます」(1646年11月?日)。すべてデカルトが王女にあてて書いたものです。デカルトは、学問上は心身二元論を主張していましたが、日常的な生において「心とからだはひとつのもの」であるということを、明確に認識していたのです。
「われ思う、そのまえにわれあり」
デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」といいました。しかし、それはあくまでも学問上のことであって、日常生活においてはいわば「われ思う、そのまえにわれあり」だったのです。思い考えるまえに、私のからだはこの日常世界にすでに投げ出されているのです。
デカルト哲学に始まる壮大な近代ヨーロッパの知は、人類の歴史を大きく変えました。そして、私たちはその恩恵に浴しながら今の時代を生きています。その一方で近年、環境破壊、民族紛争、核兵器や生物化学兵器、南北問題等々、近代がもたらしたといえるさまざまな問題が露呈してきています。
そのような時代だからこそ、近代科学や近代思想の原点に位置づけられるデカルト自身が、日常的なレベルでエリーザベト王女に語っていたことを、今一度思い出さなければならないと思います。
人間は、人生の多くの時間を日常的に生きています。その日常が歴史を編み出していくのです。日常の人間たちは、か弱くそしてやさしい存在です。「われ思う、ゆえにわれあり」は一つの真理です。しかし「われ思う、そのまえにわれあり」という日常の人間のあり方があったことを忘れてはなりません。もう一度「日常」から、そして「私のからだ」から出発しようではありませんか。
(参考文献)
『デカルト=エリザベト往復書簡』(講談社学術文庫) 2001年 山田弘明 訳
デカルト著『省察』・『方法序説』(中央公論社 世界の名著27『デカルト』 1978年 野田又夫 編)