「現代インドのサティー」を通じて「近代」を問い直す
| 参考文献等 | 『暴力の文化人類学』田中雅一編著(京都大学学術出版会)より 「女神と共同体の祝福に抗して 現代インドのサティー(寡婦殉死)論争」 (田中雅一) 『全訳世界の教科書シリーズ4イギリスW』(帝国書院1981) 『全訳世界の教科書シリーズ6インド』(帝国書院1981) 朝日新聞1987年10月13日(火)朝刊(国際) |
| サティーとは | ヒンドゥー教との寡婦が夫の遺体とともに焼かれたり、埋められたりする風習。19世紀初頭にイギリスが禁止。 |
1987年9月4日のサティー(インドのラージャスターン州デーオラーラ村)
| サティーを行った女性 | ループ・カンワル、18才(運搬業者の裕福な家庭で育つ)であった。サティーの8ヶ月前に結婚した。夫はマン・シン(24才)で医大受験浪人生であった。彼の死因には諸説があり、胃腸炎・急性盲腸炎・自殺(受験の失敗)ともいわれる。 |
| 村の状況 | 人口13000人で、支配カースト(=ラージプート)が300戸の村である |
| サティーの状況(インドの新聞より | 夫の遺体を見て、サティーを行う意思表明をした。すぐに赤い結婚式の衣装に身を包み、葬列を組んで火葬の場に向かった。村人が見守る中、遺体を焼くために積み上げられていた薪の上に座った。夫シンの弟が喪主となって火をつけた。観客は4,000〜5,000人あった。彼女の実家が知ったのは翌朝の新聞からであった。 |
| サティー後 | 毎日数千人の参拝者が訪れた。 9/16の朝の喪明けの儀礼には31人のバラモン・30万人の参拝者が参加した。多くの出店が並び、夫婦が炎で包まれた合成写真が飛ぶように売れた。その後も、毎日2,000〜3,000人の参拝者が訪れた。彼女(ループ・カンワル)の実家にも多くの人が参拝した。喪明けの儀礼だけで2,000〜3,000万円のお金が集まり、寺院建立に当てられる。 |
| 逮捕者 | 自殺幇助で、初期に5人、その後22人(のちに保釈金なしで釈放されている) |
| 反対派 | 9月14日にジャイプールで13の女性団体、350人が沈黙の抗議デモ(動かない政府に対する批判)を行った。 高等裁判所への働きかけも行われ、高等裁判所は、州政府に喪明けの儀礼の禁止命令を発令した。しかし、喪明けの儀礼は実行され、州の議員の参加もあった。 9月22日には、ラジーヴ・ガンジー首相が真相究明のため州へ大臣を派遣をした。 |
| 擁護派 | 500人のラージプート男性のデモ(政府の宗教への干渉に対する批判) 憲法判断を求める訴訟(信教の自由)を起こす。その後、ジャイプールで50000人のサティーを擁護するデモが行われた。 |
| 州政府 | 10月1日にサティー禁止法制定(サティーの実施と美化を禁止)した。 サティーを手助けしたもの→死刑or終身刑 サティーの美化→1年〜7年禁固・5万円以下の罰金 |
反対派と擁護派の意見
| 反対派 | サティーは野蛮な風習である。 サティーは女性問題である。インド女性の地位の低さを象徴する風習である。 自発的なサティーなどありえない。 サティーは宗教ではない。女性の犠牲に乗じた金儲けである。 |
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| 擁護派 | サティーは宗教である。 ラージプートやヒンドゥー教徒固有の名誉ある伝統である。
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サティー反対者のジレンマ
→<国家権力による少数集団の管理・処罰という図式を支持しかねない。>
| 女性の自発性をめぐって | 自発的なサティーの存在を全面的に否定すると →無力な女性・犠牲者としての女性という女性観を認めることになる。 →行為決定者としての女性という性格を最初から否定することになる。 <擁護者の言説の方が女性の行為主体性を認めていることになる> 自発性を認めると →サティーの決意は「夫に従属したい」「すべてを捧げたい」という女性が下すものということになってしまう。 |
| 国家権力との関係をめぐって | サティーの賛美を禁じる法改正の要求 →国家の介入の要請を意味する。ここから、19世紀の帝国のまなざしがみえる(植民地支配の正当化ということになりかねない。 サティー反対者は、伝統を解しない西洋思想にかぶれた人間ということになってしまう。 地域共同体を解体する国家の手先ということにもなってしまう。 |
サティーに関する教科書の記述(イギリスとインド)
| イギリス | 「イギリス人はまもなく、インド人の生活様式に影響を与えはじめた。たとえば、彼らは、「サティー」(…略…)のような残酷な風習を根絶しようとした。」 イギリスの近代化政策に対するインドの反応(反対)について 「改革が急速すぎたこと、東洋の風習や宗教上の慣行を無視したことが、「結果として」イギリスの干渉に対する反対を強めた。」 |
| インド | 「初期においては、インドにいた一部のイギリス人行政官は当時ヨーロッパでもてはやされた自由主義的思想の影響を受け、それらをインドに導入せんと試みた。…中略(社会関係の立法・近代教育の導入)…。一つの重要な決定はサティーの廃止であった。…中略(教育制度の再編・新聞の創刊)…近代思想を多数の人々の間に少しずつ伝播させていくことを助けた。 |
問題点の整理
| イギリス支配下のもとでのサティー廃止をどう評価するか?という問題。 |
| 主体性の問題→死・暴力をめぐって、行為者の主体性をどうとらえるか? |
意見
| 西欧近代文明が、人類の歴史にさまざまな良き影響をもたらした。私も日々、その恩恵に浴して生活している。しかし、一方、西欧近代が歴史の過程で引き起こしてきた暴力的な出来事を忘れてはならない。イギリスのインド支配も暴力的に行われた。 さて、この20世紀末に行われたインドでのサティーと、それをめぐる一連の出来事はいったい何を物語っているのだろうか。もちろんサティーは、女性差別という視点で考えるとき、批判すべきものである。しかし、単純に割り切れない問題がその中にははらまれている。それは、サティーが西欧近代思想の視線から批判される時に起こる矛盾なのである。暴力や差別を批判する時、西欧近代思想の観点からの批判は、上にあるような矛盾を抱えてしまうのである。 21世紀に積み残された暴力・差別の問題を考えるとき、私たちは西洋近代ではない視線、しかし単なる過去への回帰ではない「新たな発想」が求められているのである。 |