諸先輩方へ

 立命館大学体育会ソフトテニス部はまもなく100周年を迎えようとしております。
 そして、今、現役部員達は、男女とも大変充実した状態で日々の活動に取り組んでおります。そして、監督を務めながら、私自身が新たな黄金時代が、目の前まで来ていることを実感しております。
 これまでは、我部の歴史の全てを通して、記録されたものはございません。
 わたしは、この機会に可能な限り歴史の紐を解き、来るべき100周年に備えたいと考え、原案を作成いたしました。まだ、昭和50年代以降の内容は、未完成でございますが、それまでのものは、様々な文献を参考に書き並べることが出来ました。実際には、文献によって内容が異なっていたり、ある程度私の独断で歴史を繋ぎ合わせたりしているところがございます。
 この記録の大きな目的は、OBの皆さん方に学生時代の熱い思い出を、もう一度振り返っていただき、混迷する時代を生き抜く糧としていただきますことと、今まさに頑張っております現役への御声援に結びつけばありがたいとのことでございます。
 従って、文学的格調の高さより、時代時代の整合性より、その時々の皆さんが、立命館大学時代の思いを大切に胸にしまって頂けるものとして完成させたいと考えております。
 まだまだいくらでも、原稿を足しこみますので「自分たちの時代のこのエピソードを記録して欲しい」とか、「この時の記録はこれだ」とか、なんでも結構ですのでお知らせ下さい。
 私も、結構忙しい仕事をしておりますので、即、修正が出来、完成すると言うわけにはまいりませんが、皆さんとともに、「立命館大学体育会ソフトテニス(軟式庭球)部史」を作りましょう。
 よろしくお願いいたします。

        監督 水田雅博


立命館大学体育会ソフトテニス(軟式庭球)部の歩み

 「立命館」の草創

 明治時代は,西欧文化・文明を急速に吸収し、近代国家への道を歩み始める一方で、戦争体験を通じて、平和の大切さを実感した時代でもあった。
 日本社会が、急激な変化を示したころ、本学園も産声を上げた。1869年(明治2年)、西園寺公望が開いた私塾「立命館」は、翌年に短い生命を閉じたのだが、勉学の気概に燃える若者が無為に過ごす姿に心を痛めた中川小十郎は、意を決し、西園寺の意思を引き継ぎ、1900年(明治33年)夜学校「京都法政学校」を開校した。そして、自由清新な学園の礎を築かれていった。
(立命館創始130年・学園創立100周年記念写真集より)

 軟式庭球の発祥とソフトテニス

 ヨーロッパで生まれたテニスが、日本に伝来したのは、明治12年(1879年)、体操専門教師養成を目的に設立された政府公立の体操伝習所において、アメリカから指導者として招聘されたG.Aリーランド氏が、様々な運動器具を持ち込み、新しい運動を導入していった中に「ローンテニス」があったと言われる。明治17年(1884年)、この体操伝習所においてG.Aリーランド氏の通訳を務めた坪井玄道氏(後に、我が国の学校体育の基礎を築く。)が、ゴム球を使用し「ローンテニス」の手ほどきをしたのが、「日本テニス」の発祥と伝えられる。
 明治21年(1888年)、東京高等師範学校(現筑波大学)に庭球部が創設され、明治30年(1897年)、三田土ゴム会社が創製したゴムボールによるテニスがその学生に伝えられた。
 彼等は卒業後,中等学校、高等専門学校に赴任し、仲間同志のプレイや生徒に指導する中で軟式庭球は、全国的に急速に普及することとなった。
 発祥から107年後、軟式庭球を広く世界に発信し、英語圏をはじめあらゆる国で親しまれる国際的スポーツとして普及促進させるため、平成4年(1992年)、名称を「ソフトテニス」に改称した。平成6年(1994年)には、新国際ルールが導入されなど大きな改革が遂げられ、同年、アジア競技大会広島大会において正式種目となった。

 軟式庭球部の創設期から第一期黄金時代へ

 前衛と後衛のチームにより、選手の協調性と綿密な計画性、そして、機敏な動作が高度に要求される頭脳的な競技として、大正時代初期に急発展した軟式庭球。
我大学においても、校名を「立命館大学」と改称し、全国校友会が結成された大正8年(1919年)、他大学に遅れをとることなく、軟式庭球部の創設に至った。
 昭和に入り、部としての活動も活発になり、戦績も上昇してきた。昭和10年(1935年)には、第7回全関西学生選手権(現在の西日本学生)において、稲本・花房組が初優勝を果たすとともに、明治及び伊勢神宮大会(国体の前身)の出場権を得るなど、着実に全国的な実績を積み重ねていった。
我部のOB会「命友クラブ」の初代会長を務められた清水(旧姓薮内)九助氏等のこの頃の努力が実り、第一期黄金時代の基礎が培われた。
 昭和14(1939年)年には、日本軟式庭球界の歴史に名を刻む強豪八木・呉組が、第4回全日本学生軟式庭球大会で優勝,翌昭和15(1940)年には、第12回全関西学生選手権で優勝,第5回全日本大学高専軟式庭球大会でも優勝,伊勢神宮奉納軟式庭球大会で準優勝,第5回全日本学生軟式庭球大会で準優勝するなど数々の輝かしい戦績を挙げ、この年,八木・呉組は全日本学生ランキングで1位となった。こうして「関西に立命館あり」とその名を全国に轟かせる第一期黄金時代を築くこととなった。
 しかし、昭和16年(1941年)、第二次世界大戦の勃発により学生の全国レベルの大会が縮小され、戦局が悪化する中で、テニスコートは農園にと姿を変えていった。そのさなかの昭和17年(1942年)、全日本学生大会において渡辺・呉組が準優勝の戦績を残している。そして昭和18年(1943年)以降は、戦争の激化のため、球技は殆ど行われなくなってしまった。

 終戦から古豪復活の第二期黄金時代

  終戦後の昭和21年(1946年)、第一回国民体育大会が京都を中心に開催され,これを契機にスポーツ界、そして、軟式庭球界もその再建に立ち上った。
 我部も、左京区川端通荒神口の関西配電「荒神口コート」において刻苦精励し、戦前に続いて学生界で頭角を表した。
昭和22年(1947年)には、学生東西対抗戦に監督経験もある中川昇一郎氏を始め服部光男選手、野口正雄選手、岩崎正之選手が、西軍を代表して出場した。
 昭和24年(1949年)以降の学生東西対抗戦には、現在、命友クラブの顧問である柴田種次氏や永年監督として尽力をされた岩崎太美夫氏とともに、池田昭三選手、寺井慶三選手等が歴年出場。ここに、戦前の古豪復活、第二期黄金時代が到来した。愛媛県の中條利行氏もこの時代の立役者である。

 怒涛の第三期黄金時代

 全日本大学対抗に文部大臣杯が下付され、従来の7回ゲームから9回ゲームに改められた昭和27年(1952年)頃から、立命館の怒涛の活躍が始まった。現在、命友クラブ顧問の東京・高橋勉氏、そして岡山・伊東徹氏の時代である。昭和29年(1954年)には、全日本大学対抗選手権大会でベスト8(天野・加藤組、伊藤・落合組、桜井・星野組),以後3年間続けて全日本大学対抗でベスト8に進出している。昭和30年(1955年)には、関西六大学春季リーグ戦優勝に続き、天野・加藤組による西日本学生選手権大会、関西学生選抜選手権大会の優勝。関西学生選手権大会は、伊東・星野組の優勝等々、大小合わせて年間18に及ぶ優勝杯を獲得した。昭和32年(1957年)には、現在総監督の川崎哲郎氏の同年、阿久津・縄田組の西日本学生選手権優勝、全日本選手権3位。昭和33年(1958年)は、全日本大学対抗選手権での準優勝を始め、高橋・沖組が関西学生選手権に優勝、西日本学生選手権3位。高橋選手は、関西、西日本ともシングルスを制覇した。
 昭和34年(1959年)、現在、命友クラブ副会長の東京・梅垣時男氏が主将の時代にも、全日本大学対抗選手権大会で3位,西日本大学対抗選手権大会で3位に入賞。西日本学生選手権では、高橋・沖組が準優勝し、同シングルスも高橋選手の優勝、梅垣主将が3位と上位を占めた。団体戦・個人戦を通じて、正に史上最強の第三期黄金時代を築いた。そして、この年、永年慣れ親しんだ関西電力の「荒神口コート」に別れを告げ、加茂川や比叡山・大文字を望む広小路体育館の東側に待望のホームコート「鴨川東コート」が整備され、ここを拠点に練習に励むこととなる。
 平成13年(2001年)関西・東京六大学王座決定戦において、史上初の男・女アベック優勝を果たした際、応援に駆けつけていただいた梅垣時男先輩が、当時を振り返り「平成13年、びわこキャンパスのテニスコートがオムニコートに整備された年に西日本学生大学対抗戦で準優勝を果たしたが、我々が全日本大学対抗選手権で準優勝、そして翌年3位に入賞した時も、ちょうどテニスコートが新しくなった時だった。」と熱く語っておられたのが印象的だった。
 なお、第二期及び第三期黄金時代に忘れてはならないのは、昭和26年卒業、昭和36年(1961年)から監督を務められた「嵐山の中川昇一郎先輩」の選手に対する物心両面にわたる援助である。

 個性派選手が揃う「安定の時代」へ

 昭和35年(1960年)以降も黄金時代の戦績に及ぶほどではなかったものの、関西学生リーグ戦では、1部校として常に上位に位置するなど引き続き安定した戦績を積み重ねていった。
昭和36年(1961年)の黄倉主将時代は、黄倉・稲垣組を大将として、西日本大学対抗選手権大会3位。翌昭和37年(1962年)の寺田主将時代には、大将の寺田・林組に新進気鋭の小田・川畑組が加わり、西日本大学対抗選手権大会3位と、とりわけ団体戦においては、立命館大学らしさを発揮し、上位入賞を続けた。
こうした中、昭和39年(1964年)秋、監督に就任した岩崎太美夫氏の的確な指導が効を奏し、昭和40年(1965年)の小田主将時代では、大将である小田・福田組の踏ん張りにより、西日本大学対抗選手権大会3位。昭和42年(1967年)の若林主将時代には、充実した3回生に、この年入学した吉岡滋三郎選手が加わるなど選手層も厚くなり、関西学生新進大会を堀切・吉岡組が制するとともに、同大会に坂根・川端組が3位に入賞。関西学生選手権シングルスの部では、安永選手が3位入賞を果たすとともに、全関西選手権大会でも、坂根・川端組が優勝。西日本大学対抗選手権大会においては、坂根・若林組を大将に3位という戦績を挙げ、「立命館は団体戦になると力以上のものを発揮する。」との定評どおりの活躍であった。
 この時期、昭和51年(1976年)から監督就任の昭和41年(1966年)卒業の小田茂氏、現在、命友クラブ副会長で昭和44年(1969年)卒業の坂根章氏を始め、堀切(現在葺石)陽一氏、昭和46年(1971年)卒業の吉岡滋三郎氏等の東西対抗出場選手を輩出した。他にも、昭和41年(1966年)主将の九嶋選手に加えて、福田選手、水野選手、丸山選手、山下選手と数々の名選手・名物選手を輩出した。また、昭和41年(1966年)の池田邦彦氏、昭和42年(1967年)の松見富夫氏という「名主務」の活躍や個性派筆頭とも言える鈴東律男氏の存在もこうした時代の立役者であろう。

 初めて味わう「忍耐の時代」

 42〜46年頃は「忍耐の時代」となった。この時期から立命館大学はスポーツ推薦制度(一部の体育会は実施)をなくしたのである。断塊の世代は受験戦争が厳しくなり、各大学ともスポーツ推薦制度枠を縮小する傾向にあったが、同志社、関大、関学等の関西六大学並びに東京六大学の私立各校は従来通り継続していた。加えて、スポーツ推薦制度を拡大した天理大をはじめとする新興勢力が大量に選手補強を行い、立命館、京都大、神戸大の関西六大学の三つの大学は、上記大学との実力の格差が大きくついてしまうことになってしまった。
 そして、レギュラー8人を送り出した後の昭和44年(1969年)の関西学生春季リーグ戦においては、永年培った伝統を支えることが出来ず2部リーグへ、そして、昭和45年(1970年)秋には、2部リーグでも最下位となり、3部リーグへ転落するなど事態は徐々に深刻さを増し、立命館大学体育会軟式庭球部も「忍耐の時代」が始まることとなった。
 そのような中において、昭和46年(1971年)卒業は、高田選手・長井選手・吉岡選手の3名であるが、中でも名手・吉岡滋三郎選手の奮闘が、立命館大学の歴史の中に光る。昭和45年西日本学生選手権大会においては、個人戦で竹島・吉岡組としてベスト8、この年、西日本学生ランキングは5位であった。また、シングルスでも上位に食い込む活躍ぶりであった。
 この時、吉岡選手とのパートナーであった竹島選手は、中央大学出身で天皇杯覇者である竹島・小林組の竹島選手の実弟である。
 また、一つのエピソードとしては、昭和41年(1966年)ちょうど竹島選手の大学入学試験の際、京都に来て加茂川沿いを歩いていた時、堤防のグランドにて中学1年生数人が、軟式庭球の練習をしていた。竹島選手は、暫くラケットを握っていなかったが、その中に入り、中学生を指導しながら、楽しいひと時を過ごして帰っていたのだが、その時の中学生3人は、後にインターハイに出場、大学までラケットを持ち続けた。現在監督の水田雅博選手と同年の早瀬晋也選手、可知信也選手である。
 また、現在、命友クラブ理事で、昭和47年(1972年)卒業の吉川博選手が、1回生の時に1部リーグでレギュラーとしての出場。これが、「最後の1部選手」と言われていた。吉川選手は、今も太秦地域の体育振興会において、ソフトテニス指導者として、ラケットを離してはいない。

 全国的な大学進学率向上も相俟って、選手確保が予断を許さない状況となる中、昭和45年(1970年)卒業の金光俊昌主将は、立命館大学のあるべき姿に向け、古豪復活への熱い想いを、当時、京都府において全国制覇を重ねる平安高等学校に次ぐレベルまで到達してきた立命館高等学校からの内部進学による部員確保に着目し、藤本主務とともに行動を開始した。
 その結果、昭和45年(1970年)以来9年間連続で立命館高等学校からの入部が実現し、その軍団が中心となり、少なくとも一定の歯止め役を務めた。
 昭和45年(1970年)には、立命館高等学校から井上・谷出組がペアで入学。同年、当時3回生で大将後衛でもある加藤清人選手の実弟、加藤素也選手を始め、加藤選手と同じ愛知県一宮市出身で昭和47年(部1972年)主将を務めた野村幸司選手。加えて、千葉幸徳選手と揃って運動能力の高い選手が入してきた。この時、技術面だけの向上を目指すのではなく、野村主将のリーダーシップにより、理論的な攻撃力の追求にも力を入れる中で、2部リーグ復帰に向けた気運が高まってきた。この忍耐の時代に、命友クラブとの連携に大きな力を発揮した主務の流した汗も貴重である。昭和44年(1969年)の九嶋主務、社会人経験を持つ昭和46年(1971年)の近田主務、次の年の吉武主務と続く野村主務の影の力にも感謝して止まない。
 そして、現監督の水田雅博選手が2回生で主将となった昭和48年(1973年)の秋季リーグ戦では、卒業前の野村・谷出組、加藤・千葉組が、2回生の早瀬・可知組と共に安定した戦いぶりを発揮し、同じく2回生の大河内・前田組の奮闘もあって、3部リーグを5戦全勝で勝ち、龍谷大学との入替え戦に臨んだ。結果、3年6シーズンぶりに2部リーグへの復帰を果たした。
 この頃、一度は、テニスコートから離れていた村上英祉選手が4回生から復帰し、大きな戦力となる。数年間、関西・西日本・全日本学生の大会で、2日目に残ることも少なかった立命館大学であったが、昭和49年(1974年)に水田選手及び早瀬選手の両後衛と組んで、ベスト16・32・64との戦積を残した。

 明るさを取り戻した「充実の時代」

 昭和51年(1976年)3月に早瀬選手、水田選手、大河内選手の3後衛と前衛の前田選手、可知選手の主力5人を送り出したことによって、チームの中には、再び緊張感が走ったが、永石勝巳主将と次年度主将の西村一之選手の地力発揮と現在命友クラブ会計の松田幸治選手、初心者で始めた三浦(現在兼弘)真治選手等の粘りにより、大きな危機を脱出した。とりわけ、秋季リーグ戦においては、2部リーグ最下位を決定する最終戦で、2対2の天秤で回ってきた三浦・永石組。4回生の最後を締めくくる試合に、ゲームカウント0−4の劣勢から、4−4のファイナルジュースまで縺れ込み、2部残留を決めた精神力は、「団体戦に強い」と言われた立命館大学の歴史を物語るものであった。
 試合終了直後に、ベンチへ戻り、そーっとラケットを置いて三浦選手が発した山口弁「もう、二度とラケットは持つま・・・。」の言葉に、笑いと感動の涙が、一つになったチーム全員に広がった(なおこの三浦選手は、昭和45年卒の名選手竹島氏の遠縁にあたる)。
 この時期、立命館高校出身でインターハイ選手である大杉選手・水田(弟)選手・広田選手・北川選手や、スポーツ推薦がない中で、一般入試を突破して入学してきたインターハイや地方大会に出場した選手が次々と入部、選手層も厚くなっていった。
 そして、昭和52(1977)年秋の関西六大学で、スポーツ推薦で有名選手を集め続けていた同志社大学を久しぶりに破ったのである。3−3の天秤で最後のファイナルゲームをものにしたのは、立命館高校出身の深見選手と1浪で理工学部に入学した当時1回生の上島選手である。
 そして昭和53年(1978年)春季リーグ戦では、小川澄人主将のもと、2部リーグ優勝を果たして入替え戦にまで臨み、京都産業大学に3−1で破れたが、「一部復帰」が夢ではないとを旗頭に56年秋までの8年間、2部リーグでの健闘が続いた。
 個人戦でも、水田(弟)・小川組、和田・池原組、大胡・渡部組、杉野・上島組、金田・槌谷組等が、西日本・全日本の学生選手権大会で5位・6位という成績を残していった。
 また、48年、京都の高校界女子NO1の小林妙子氏が入部。プレイングマネージャーとして、その能力を如何なく発揮し、女性初の卒業生となった。長年コーチを務めていた大杉辰男氏とともにこの時代を支えたのは「二人の名主務」と言っても過言ではない。

 「苦難の時代」から再建・復興へ

 昭和56年、立命館大学衣笠一拠点計画の完了に伴い、練習場も21年間の思い出を残し、「鴨川東コート」に別れを告げ、衣笠西コートに移った。
 この頃、部員が一丸となって懸命に食下がるも56年秋季リーグ戦では、2部の最下位、入替戦も大阪教育大に敗れ3部に転落。続く57年春、3部でも最下位となり、神戸学院大との入替戦に敗れ4部へ、同年秋には、4部でも最下位となり、3シーズン連続の入替戦に臨むこととなった。
対戦相手は仏教大、3対2でようやく4部に残留した。58年春、意欲的な新入生に恵まれ、ムードも上向きとなったが、春季リーグの結果は、最下位。入替戦の相手は、同じく仏教大でやはり3対2で残留。最終戦は、一回生長山選手。彼の「闘志丸出し」の戦いが、忘れかけていた「立命館魂」を甦らせる契機となった。
(この直後、私が小田先輩の後の監督を拝命)
 58年の秋季リーグ戦には、新幹部の仰木主将、藤田主務が、ムード一掃のため、部員全員髪を切って臨み、結果は、4位。5シーズンぶりの最下位脱出であった。以来63年春まで、4部に停滞はしていたが、この時期の宮地・柳田組、藤田・一谷組、西岡・清住組、井上・谷組等が、繰り広げた汗と涙に濡れ尽くした熱い血の通った死闘が、我が部の再建・復興の基礎を築くこととなった。  
 62年には、立命館大学にスポーツ推薦制度が導入され、第1号に愛知県一位の近藤(現在上原。京都市役所チームの主将)選手(瑞陵高)を獲得。この年の主将が、技術面、精神面ともに関西学生界のトップレベルの常信勝之氏であり、「苦難の時代」脱出の機運も高まった。63年春には、京都高校界の両雄といわれる中村選手(北嵯峨高)、松村選手(立命館高)を迎え入れてのリーグ戦。5戦全勝で入替戦に臨み、大阪府立大を下し、久々の3部昇格。続く秋季リーグ戦は、長手主将の強気の作戦が見事的中。3部においても一気に優勝し、入替戦で近畿大学にも勝ち、56年秋季リーグ戦以来の2部復帰となった。
 この入替戦に、何よりも現役部員の励みになったのは、4部リーグという最も苦しい時代を経験してきた過去6年間の数多くの卒業生が応援に駆けつけてくれたことであった。
 それ以降、スポーツ推薦制度に加え、指定校推薦により入学してくる選手のレベルも向上し、一般入試の学生と有機的な連携を図ることのできる大学スポーツとしては、理想的なチームに成長していった。一方で、平成3年秋には、牧野・森組、松村・工藤組、吉田・増井組、中村・中村組という過去20年にはなかったほどの万全の体制で一部復帰を目指したが、宿敵同志社大との入替戦で6本のマッチポイントを取りながら敗れ、改めて「一部リーグ」への目に見えない壁の大きさを実感する苦い経験もあった。

 第四期黄金時代への布石

 平成4年より、国際化を図るため、軟式庭球が、ソフトテニスへと改称され、それに伴いクラブ名も「ソフトテニス部」と変更した。
 スポーツ推薦制度により、4年には、インターハイ団体準優勝の三重高西村選手、近畿団体優勝の西城陽高武田選手、橿原高清宮選手、5年に、インターハイ団体優勝の三重高茂木選手、6年は、インターハイ個人優勝の鳥羽高峯田選手と全国のトップレベルの選手を獲得、「一部復帰」も現実の課題と実感できる状態となった。
 国際競技規則により、ルールが大幅に変わった6年、東根主将のもと、西日本大学対抗で27年ぶりにベスト8に入るが、リーグ戦においては、2部から脱出が出来ない状況が続く。8年春、茂木主将を先頭に2部リーグで優勝するが、大阪経済大の前に3−1。しかし、この時の中軸の後衛2人は、主務を務めた豊田選手(兵庫高)と田中選手(姫路東高)で、共に兵庫県出身の一般入試で入学した選手である。
 そして、9年秋季リーグ戦は、岡村主将のリーダーシップのもと岡村・広瀬組(共に明石西高)を大将に田中・堀(立命館高)組、豊田・峯田組、岩本(高田商)・辻本組、青木・山本(共に高田商)組のメンバーで2部優勝。入替戦は、再び大阪経済大で、5番勝負となり、チームで最も安定感のある田中・堀組が、実に、28年ぶりの1部昇格を決めた。この秋は、関西六大学リーグ戦においても、秋季リーグとしては、初めて、春を入れても39年ぶりに優勝を果たすことが出来た。
 10年春季リーグ戦は、初戦の天理大には敗戦したものの、他の大学(同志社、桃山学、近畿、大阪商)全てを撃破し、準優勝を遂げる。 
 「一部校としての自覚を持たなければ。」と努力を積み重ねている最中、11年の秋季リーグ戦は、
鈴木主将(桜宮高)率いる積極性あるチームで、1番 奥田(中京商)・山下(鳥羽高)組…全勝
2番 森 (高田商)・曽奈(高田商)組…1勝
3番 岩本(高田商)・桝谷(西城陽高)組…1勝
4番 鈴木(桜宮高)・山口(桜宮高)組…4勝
5番 青木(高田商)・山本(高田商)組…全勝
と5戦全勝で、初めて関西の大学の頂点に立った。
 この年は、我が部の創部80周年を記念する年である。
 11年は、他にも関西学生選手権でベスト8に青木・山下組、奥田・桝谷組。西日本大学対抗もベスト8。西日本シングルスに森選手が準優勝。全日本学生選手権でも、青木・山下組ベスト8。
 青木・山下組は、全日本学生選抜インドア選手権に出場。関西学生選抜インドア選手権にも、青木・山下組、岩本・山本組、奥田・桝谷組が出場した。12年は、インターハイ個人準優勝の奥田選手(高田商)、13年には、インターハイ個人優勝の橋本選手(高田商)、準優勝の増田・野崎組(姫路飾西高)をペアで、第3位・団体準優勝の菰下選手(尽誠高)が、入部してくることとなる。
 まだ、第4期黄金時代到来とは、言いたくない。必ず、全国に胸を張って「古豪立命館に黄金時代到来」と言えるチームになります。そのためには、今、目の前にある試練の時を力強く乗り越えていかなければなりません。諸先輩方の築いてこられた伝統を大きな糧としつつ、一歩一歩前進してまいりますので、引き続きご指導・御支援の程よろしくお願い申し上げます。

  パワー溢れる女子部の創設

  女子部員は、昭和51年度卒業の小林妙子選手を第1号に、続いて52年度卒業の姫島(白銀)緑選手、土田(柳屋)恵美子選手、54年度に多田(山本)仁恵選手を送り出したのみで、女子部として組織的な活動にまで至らなかった。63年、和歌山県からインターハイ出場経験のある中井(山本)直美選手が入部、続いて田宮選手、平成元年に中本選手、伊藤選手、大江選手、そして、3回生の森本(山城)選手と一つの組織としての活動は始まった。2年に中井(山本)選手が、初代女子部主将に就任。その年、山口県からインターハイに出場した加藤選手が、2回生になった3年「どうせなら、ソフトテニス経験者の勧誘を!」とこの年指定校推薦で入学のソフトテニス経験者にダイレクトメール作戦を展開。これが、見事に的中し、北海道から九州まで、各県でもかなりの活躍をした9人の選手が一気に入部することとなった。これを契機に女子部として関西学生リーグ戦に登録した。まず、3年春、7部からスタートし、苦労なく6部へ。秋には、6部優勝で入替戦を経て、5部昇格。4年の春は、一度で秋に5部に留まったものの、加藤主将の下は、5部優勝で4部昇格とスポーツ推薦制度を頼らず、全く負けを知らないパワー溢れる、明るいチームに成長していった。
 立命館に女子部が誕生したことにより、女子も関西六大学が揃い、2年から個人戦として行っていた大会も4年には、秋をリーグ戦として開催することとなり、第1回を見事に制覇した。

女子部第一期黄金時代を求めて

 女子部の勢いは止まらず、平成5年の春も4部優勝で入替戦を経て3部へ、秋も鳥羽(現在安藤)主将を先頭に、田川(現在小原)選手、平林選手、大島選手、桜井選手、大塚選手、丸山選手、上坂姉妹と結束力の強い軍団を抱え、ムードも最高の状態に達し、3部優勝で2部へ昇格していった。6年春には、女子もスポーツ推薦制度による選手が入学した。第1号は、山口文(鹿西高)選手。これで、一層勢いに乗り、2部リーグでも優勝し、1部との入替戦にまで駒を進めた。結果は、樟蔭女子大に2−0で敗れ、1部とのレベルの違いを実感することとなる。
 平成6年の大谷(小村)主将、李主務のパワー、そして、平成7年の田中主将の統率力は、部員全体の団結力を一層確かなものとしていった。
 平成8年、スポーツ推薦第2号は、森(今治北高)、池上(就実高)
の個性派強力選手。平成8年の主将山口選手、平成9年の主将中村選手、さらに、スポーツ推薦第3号田中(奈良育英高)選手のパンチ力も加わり、2部リーグにおいても、常時上位に位置するチームとなった。
 平成9年秋も2部リーグで優勝するも、入替戦では、樟蔭女子大に2−0。
 しかし、そのゲーム内容は、まさに1部リーグ昇格が身近になっていることを予感させた。
  平成10年、岩永選手(淀之水高)の入部により、前衛・後衛のバランスもとれ、直原主将の下での秋のリーグ戦、2部で優勝し、入替戦の相手は、再度樟蔭女子大。
 森・岩永組、田中・中村組、小田・小野組で臨み、2−0。前年秋、男子の悲願達成に続き、女子部初の1部昇格を実現した。

 まだまだ、男子の「第四期黄金時代」、女子の「第一期黄金時代」到来とは、言いたくない。必ず全国に胸を張って「古豪立命館に黄金時代到来」と言えるチームになります。そのためには、今、目の前にある試練の時を力強く乗り越えていかなければなりません。
 平成11年には、主な練習場も「びわこ・くさつキャンパス」に移転。13年度からは、オムニコートも整備され、施設的にも万全の状態で臨むことができるようになりました。
 諸先輩方の築いてこられた伝統を大きな糧としつつ、一歩一歩前進してまいりますので、引き続きご指導・御支援の程よろしくお願い申し上げます。